1951年松竹
166分、白黒

 ドストエフスキーの世界的名作に黒澤が果敢にチャレンジし、残念ながら敗退した――興行的でなく内容的に――作品である。
 
 一番の敗因は思うに、ドストエフスキーあるいはトルストイでもツルゲーネフでもいいが、ロシアの小説を日本の地にそのまま移管できるのか、という点にある。
 チェーホフならできる。
 実際、彼の書いた戯曲は日本でも長い上演の歴史がある。
 だがそれは、日本の役者が赤や金のカツラをかぶって、白粉を塗りたくって、ドレスや狩猟服を着て、アリューシャやミハイロフやイヴァンに成りすまして劇中のロシア人を演じるからである。
 そのとき観客が舞台の上に見ているのは、日本人でなくロシア人なのだ。
 舞台の魔術はそれを可能にする。
 
 黒澤はここで、原作の筋書きはほぼそのままに、舞台を札幌に移し、登場人物の名前をすべて日本名(例:ナスターシャ→那須妙子)に変え、日本で起こった出来事として描いている。
 それが結局、作品からリアリティを奪ってしまった。
 日本人とは相当に異なるであろうロシア人の性格、言動、習慣を、日本人(の役者)がそのまま引き継いでいるので、話が絵空事のようになって、人物たちが浮いてしまっている。
 登場人物がみな異常に激しやすく大仰に見えるのは、ロシア人なら直情径行で短気な国民性(+ウォッカ)ということで納得できるが、日本人が同じことをやると違和感が大きい。
 たとえ、北海道という、日本の伝統的農村文化から最も遠いところにある土地を舞台に設定したとしても。
 
 それを象徴するのが、三船敏郎のガウンである。
 黒澤は、三船演じる乱暴者の赤間伝吉(原作ではロゴージン)の部屋をわざわざロシアっぽい内装にして、暖炉を焚かせ、ロウソクを灯す。三船は、西洋人のようにガウンを着て、グラスに入った洋酒らしきを傾ける。
 そのガウン姿が、どう見ても、これからリングに上がるプロボクサーとしか見えないのである。
 
 赤毛のカツラをつけた日本人が西洋人を演じても通ってしまう舞台とは違って、映画はSFやファンタジーやコメディでない限り、相応のリアリティを要求される。
 とりわけ黒澤作品は、リアリティあってこそ精彩を放つ。
 その読み違いが、この映画の本質的な欠陥と言える。
 
 とは言え、魅力はたくさんある。
 何と言っても、三船敏郎、森雅之、原節子の3大スター競演!
 しかも、知的かつ複雑なキャラを演じることの多い森雅之が、心のきれいな白痴=亀田欽司(ムイシュキン公爵)を演じ、清純かつ優しいキャラを演じることの多い原節子が、暗い過去を持つ魔性の女=那須妙子(ナスターシャ)を演じているのが、興趣をそそる。
 
 名優の誉れ高い森は、さすがに見事に“白痴”を演じてはいる。
 『安城家の舞踏会』で演じたニヒルで皮肉家の没落華族の御曹司とは180度異なる。
 が、どうだろう? 
 作品中で森演じる“白痴”の亀田は、彼と接する周囲の人をその純粋さにより善人に変えてしまうが、ソルティにはそこまでの威力を森の演技からは感じとれなかった。
 もっとも、難しい役には違いないが。

 一方、原の魔性の女は、予想したよりずっとハマっていて素晴らしい。
 雪の白さに映える氷のごとき美貌は、グレタ・ガルボを思わせる孤高さと魔力。
 抑制のうちにも複雑な感情を伝えるその表情や演技も堂に入っている。
 これを観ると、原が「大根女優」と言われたのが信じられない。

 三船はあいかわらず、野郎っぽく、セクシーで、演技もうまい。
 どんな役にもなりきれるカメレオンのようなタイプの俳優である。


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左から、森雅之、三船敏郎、原節子
 

 この主役トリオを他の役者で組むとしたら・・・・・。
 ソルティは次のトリオが面白いと思う。
 
 那須妙子(ナスターシャ)=暗い過去ある魔性の女=小川真由美
 赤間伝吉(ロゴージン)=ナスターシャの男で乱暴者=三國連太郎
 亀田欽司(ムイシュキン公爵)=心のきれいな白痴=河津祐介

 ただし、大野里子(リザヴェータ夫人)役の東山千栄子はそのままで。
 
 いかがだろう?
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損