西暦2世紀後半に執筆
2006年講談社学術文庫(鈴木昭雄訳)

 マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は、第16代ローマ皇帝(在位:161-180)で「賢帝」と評される人物。
 おそらく、ローマ皇帝の中では、ネロ、カリギュラ、漫画『テルマエ・ロマエ』に登場するハドリアヌスに次いで、もっとも日本人に知られている人ではなかろうか。
 むろん、『自省録』を残したゆえである。
 
 20代の頃に一度読もうと試みたのであるが、難しくて歯が立たなかった。
 いや、難しいというより面白くなかった。
 12巻(「巻」と言っても実際には「章」と言うのがふさわしいくらいの分量)あるうちの最初の2巻まで読んで挫折した。
 マルクス・アウレリウスは当時流行ったストア派の哲学者であり、その思想が彼の生活信条の根幹を成しており、『自省録』もストア派ならではの言説にあふれている。
 
 ストア派は、ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。
 ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。
 (ウキペディア『ストア派』より抜粋)

 ソルティはストア派の思想など、まったくと言っていいほど知らない。
 「ストイック」という言葉の由来となった、つまり禁欲的なのだろう――くらいのイメージしかない。
 それにどちらかと言えば、ストア派でなくスーパー派だし・・・・・

 20代の頃も50代の今も、ストア派を理解していない、マルクスの書いていることを十全には理解できない、という点ではまったく変わらないのであるが、しかし今回読んだらとても面白かった。
 それはなぜか。
 本書を読んで、マルクス・アウレリウスという人間のあまりの「原始仏教」性に惹きつけられたからである。
 いや、そもそもなぜ30年越しに本書を読もうと思ったかと言えば、たまたま書店の目につくところにおいてあったのを不思議に思い、手に取ってパラパラめくってみたら、気になるフレーズ――20代の時分は引っかからなかった――が散見されたのであった。(NHKの「100分 de 名著」という番組で本書を取り上げたらしく、密かなブームになっているようだ。なんと漫画にもなっていた!)

 毎朝、1巻ずつ音読しながら、「原始仏教」的と思ったところに付箋を付けていったら、この有様である。

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 いくつか引用しよう。

 事物そのものは、いかようにもあれ心に直接触れることはなく、心への侵入をもつこともなく、また心の向きを変えることも心を動かすこともできない。心は、心だけで自身自分の向きを変え自分を動かす。そして、自分が持つに相応しいと見なす判断に合致するようなものへと外からやって来たものを自分のために作り上げる。

 しばしば想いを凝らしてみよ。――在るものも成るものもそれらの通過と退去の迅速さを。すなわち、実体は河のごとく不断の流れのうちにあり、そのもろもろの動きは連続した変化のうちにあり、その諸原因は無数の変転のうちにあって、ほとんど何一つ静止して在るものはなく、時の現在もその近接点もまた然りであり、またすべてはそのなかに消え去って行く過去と未来の無限の深淵(も然りである)。

 万物は変化のなかにある。おまえ自身もまた不断の変更のなかに、そしてある意味ではまた消滅のなかにある。そしてまた宇宙全体も。

 すべてこの世に生起することは、しかるべくして生起するものなること。おまえはこの事実を明確にしかと見張るならば、見落とすことはよもあるまい。すべて生起するものは正当に生起すること。

 おまえの身に起こることは何であれ悠久の昔より事前におまえのために整えられていたものである。また、諸原因の組み合わせがおまえの存在とその出来事の生起とを無限の時の彼方より紡ぎ合わせていたのである。

 万物はどのようにして相互に変化するかそれに観照的方法を用い、不断に注目し、この部門での研修に励め。

 肉体がいかなるものであるかを観察せよ。また年老いたら、病気したら、憔悴し切ったら、と。
 命短きものである。賞賛する者もされる者も、記憶する者もされる者も。

 遠からずしておまえは何人でもなく何処にも存在しなくなるであろう。なお、おまえが見ているものの何一つ、また今生きているものの誰一人存在しなくなるであろう。なぜなら、すべては本性上変化し転換し消滅するのである。そこよりまた別のものが次々生ずるために。


 諸行無常、諸法無我、縁起因縁、観察瞑想(ヴィッパサナ)、あたかも『スッタニパータ』を読んでいるかのような厭世的無常観・・・・。
 ストア哲学に、原始仏教と似通ったところがあるのだろうか?
 よくわからない。
 が、なんとなくマルクス・アウレリウス自身の持って生まれた資質の面が大きい気がする。
 
 こういう人が「俗」の最たる極みである政治に絡み、どころか「俗」の頂点たるローマ帝国の支配者をやっていたのだから、内心どれだけ葛藤や軋轢があったことだろう?

 もうたくさんだ、惨めな生、不平をこぼす生、猿真似の生、なぜに思い悩むのか。それらの何が目新しいというのか。何がおまえの正常心を奪うのか。

 『自省録』はいろいろな意味で心内の軋みの書であり、自己分裂の書であり、矛盾の書である。しかし、そうした軋みや分裂や矛盾の表白も、もしマルクスの人柄がそれらを感動的なものとなしえないようなものならば、あのように『自省録』が人の心を惹き付けることはなかったであろう。(本書解説より)
 

 思うに、マルクスの葛藤・分裂は二段構えになっていたのではなかろうか。
 つまり、「聖」=哲学・思索の世界=ストア派哲学者としての自分が一方にあり、もう一方に、「俗」=宮廷・政治の世界=ローマ皇帝としての自分がいる。
 「聖」の世界こそが本来の資質にかなっているし、できれば哲学者になりたかったにもかかわらず、「俗」の務めを果たさざるを得なかった。
 これが一段目。

 次に、ゼノンの末裔たるストア派哲学者として自負する自分が一方にあり、もう一方にその思想にどうにも収まり切れないものを抱えた「原始仏教」的自分がいる。
 これが二段目である。

 マルクス・アウレリウスは、出家しなかったシッダータ王子のその後の姿――ではないかという気さえするのである。
 また、時を置いて、読み返してみたい。



おすすめ度 : ★★★★

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★     読み損、観て損、聴き損