2016年新潮社

 四国遍路で100以上のお寺を訪ね歩いて気づいたことの一つに、お寺の貧富格差があった。
 多くの参拝者で賑わい、山門もお堂も立派で、納経所や売店に人が並んでいる、いかにもお金がありそうなお寺もあれば、一方、海辺やさびれた町中にあって訪れる人も少なく、境内のあちこちに修繕が必要な堂宇の見受けられるお寺もあった。
 それでも巡礼札所に数えられている、とくに88札所に入っていることはたいへんな役得である。御朱印代(ソルティが歩いたときは300円~)をはじめとする納経料が、黙っていても入ってくるからだ。
 年間10万人としても3000万円以上。これに遍路に必要な笠や杖や白衣や納経帳などの売り上げも加えれば相当なものになる。
 とくに、多くの遍路がグッズを揃える1番札所霊山寺は、他の札所からすれば羨ましいこと限りないだろう。(それとも、八十八カ所霊場会の会計に入れているのか?)


海岸寺山門
仁王像のかわりに地元出身の力士像が立つ別格18番海岸寺


海岸寺山門4 (2)
誠に正直な説明版


 本書は、現代のお寺とくに地方のお寺の悲惨な現状を赤裸々に描いている。
 「金がない」、「檀家がいない」、「後継者がいない」、「潰れるしかない」のナイナイ尽くし――。
 これを読むと、「坊主丸儲け」とか「お寺さんは税金払わなくていいからいいよね~」なんて、簡単に言ってはいけないことが分かる。
 
 著者は、1967年生まれ。福岡県で浄土真宗本願寺派の住職をしている。日本の博士号取得者の窮乏を自身の経験をもとに綴った『高学歴ワーキングプア』で話題になった。


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 実際、全国的にお寺の統廃合はすごい勢いで進んでいるらしく、この先、寺院数が半減するのではないかとも言われている。明治初期にあった廃仏棄釈レベルの危機なのかもしれない。
 その原因は、地方の過疎化・高齢化や、葬儀や法事の簡略傾向に見られるような伝統的仏教儀礼に対する意識の希薄化、後継者不足、住職たちのずさんな運営、僧侶の権威失墜による信者離れ・・・なんてことが挙げられるのだが、一言でまとめると、「お寺を守ろうとする心が失われている」ってことになるのではなかろうか。

 しかし、お寺の危機=仏教の危機かと言えば、そうとも言えない。
 どこの書店に行っても仏教コーナーは花盛りで、テラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老のようにベストセラーを連発するお坊さんもいる。仏教書が現在ほど広く読まれている時代はあるまい。
 また、都心の寺の座禅会は(コロナ前まで)いずこも満員。四国遍路に行く若者も少なくない。仏教風を装おう新興宗教団体は今もたくさんの人を集めている。
 仏教をもとめる人は決して減っていない。
 要は、いまの日本人の多くが仏教に求めるものと、伝統的なお寺(大乗仏教)が提供してきたものとが、乖離しているのである。

 思うに、人々は生きた仏教を求めているのであって、自分自身の救いにまでなかなか届かないお坊さんの説法や姿勢に対しては、冷めた目で見ているのであろう。
 本来、仏教とは個々人のなかでそれぞれに消化され、その人の生き方や感じ方、ものの見方、他者や他の動植物への接し方、といったところにまで大きな影響をあたえていたはずなのだ。いわば、その人らしさを醸し出す太い背骨のようなもの―――生きる軸としての働き、を担っていたのだと考えられよう。


 本書の最終章では、上記のようなスタンスを持して、既存の仏教界やお寺や僧籍に拘ることなく、あるいは俗社会での栄誉や成功や安定に目を眩まされることなく、独自の仏道を泰然自若として歩んでいる人々が紹介されている。
 これからの時代の個人と仏教とのつき合い方、向き合い方を示唆する記述である。

 仏道を歩むとは、他者には理解できないかもしれないが自分にだけは見えてくる“輝き”を捉え、それを己のものとし、内から自らを光らせるまでに昇華させていく途方もなく丁寧な時間の積み重ねを指すように思えて仕方ない。


 長らくお寺の僧侶や大学の研究者のものであった仏教が、やっと市井の個人のものになってきた、いまはその途上にあるように思われる。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損