2ヶ月かけて巡ったネット上での四国遍路が終わった。
自作の御詠歌と画像で振り返る四国の旅は、実に面白かった。
とくに御詠歌を作る作業が楽しく、お寺の名前や特徴がうまく盛り込めた歌が生まれたときなど、心躍るものがあった。
なんだかこの歌を作るために、前もって用意されたエピソードすらあった気がしたほどに。
おかげで、別格20寺を含め、四国札所108の名前と順番と地図上の位置をすっかり覚えることができた。
実際の遍路中も、また2018年12月初旬に結願してからも、遍路については当ブログでもたびたび書いてきたものの、中味が濃くて、なかなか消化しきれないでいた。
旅はまだ終わっていないという感がずっとあった。
それが、今回の連載を終えて、「やっと、遍路が終わった!」という実感を持てた。
あらためて振り返ってみると、天候に恵まれていたなあ~と実感する。
とくに海辺を歩いているときは快晴の記憶しかない。
全行程にわたり、いい写真がいっぱい撮れたのは何よりであった。
そして、あちこちで本当に土地の方の世話になった。
いろんな形の「お接待」がなかったならば、旅はしんどいものになっていたに違いない。
四国はいまや自分にとって第三の故郷となった。(第二は10年間住んだ仙台である)
遍路をしている間は、ほとんどものを考えていなかった。
過去のことを回想して愉しんだり後悔したりすることもなければ、未来のことを考えて妄想したり不安にかられたりすることもなかった。
旅の先行きのこと、たとえば泊まる宿や取るルートや残り予算について思い迷うことはあったが、それも、香川に入ってからは消え失せた。
そして、そのときそのときの様々なものとの出会いと別れを十分味わうことに心は集中するようになった。
つまり、「いま、ここ」がすべてになった。
遍路から日常生活に戻ると、またしても心は過去や未来にさまようようになった。
あれこれと過去の失敗を思い出しては痛みをほじ繰り返し、もう二度とは訪れない快い追想に浸り、未来のことを想像しては浮かれたり、ブルーな気分に陥ったり・・・・。
遍路から丸一年たった昨年12月に、駅の階段から落ちて骨を折ったのも、そのとき心が「いま、ここ」にいなかった何よりの証拠である。
その後のコロナ騒動は、ご承知のように、未来についての不安をかき立てた。
大体、人間は過去や未来について「考える」から問題を作り出すのであって、思考の入らない「いま、ここ」には問題も生じようがない。
そのときそのときにやるべきことをやるだけだ。
そしてまた、実際に存在するのは過去でも未来でもなく「いま、ここ」だけであり、我々が何とかできるのも「いま、ここ」だけである。
過去や未来について「考え」て、その結果、幸せになるのならどんどん考えればいいと思うが、これまでの経験からも「考えることで幸せが手に入った」とは到底思われない。
日が暮れるのも忘れて遊んでいる子どものように、「いま、ここ」にいる時が、間違いなく幸せである。
遍路で体験した「いま、ここ」感覚を、日常生活で――せわしなく、マンネリにつながる繰り返しが多く、いろいろと結果を出すことが求められるような――日常生活で保持するのは難しい。
大概が、過去や未来にとらわれて「いま、ここ」の価値を忘れ、そのうち煮詰まってくる。
だから、人はまた四国に行きたくなるのであろう。
ソルティも、連載している間に、「ああ、また行きたい!」と何度思ったことか。
四国遍路で味わった「いま、ここ」感覚を、こちらの日常生活でも再現――いや、再現という言葉はふさわしくないな――顕現させることができたなら・・・・・。
つまり、日常から逃避するために旅を求めるのでなく、日常がそのまま旅であるような生。
同行二人はいまも続いている。