2018年 コスモス・ライブラリー

 当ブログで紹介したJ.クリシュナムルティ著『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(Can Humanity Change ? )の訳者の一人による、上記書の“続編”あるいは“補完編”といった趣きの本である。
 上記書はその邦題から、ブッダとクリシュナムルティの教えの相違が探究されている本かと期待して購入したのだが、フタを開けてみるとまったくそんなことはなく、肩透かしを食らった。
 とは言え、邦題をつけた者を単純に責められないのは、上記書の主要部分を成す、クリシュナムルティ(以下Kと記す)およびテーラワーダ仏教僧であるワルポラ・ラーフラをはじめとする複数の著名人の対話において、そもそも目論まれていたのはKの教えと仏教との相違の探究であったと思われるからである。
 対話の口火を切るのに、用意万端、ブッダの教えとKの教えの類似点を要領よく並べ上げて指摘し、Kの返答とそこから始まる両者の比較検討を期待していたであろうラーフラに返ってきたのは、「私とブッダを対比する必要がありますか?」という、Kのなんとも素っ気無い言葉であった。
 そこからは、まったく仏教とは関係ないところで話は展開していく。
 ラーフラおよび対話の企画者の目論み及び意気込みは、開始早々、あっさり棄却されてしまったのである。
 その「十倍返し」というわけでもあるまいが、本書において正田が試みたのが、まさに上記書で叶わなかったブッダとKの教えの比較なのである。

 本稿においては、おこがましくもラーフラ師になりかわって、ブッダとクリシュナムルティの教えを比較検討し、その共通点を提示し確認したく思うのである。簡単に言えば、「ブッダとクリシュナムルティの比較思想論」を試みるわけだ。

 ブッダとクリシュナムルティが同じことを言っているのであれば、それは、真理が一つであることを意味している。真理は一つであり、一つしかない真理を発見したので、言ってることが同じになった、という理解。・・・・(中略)・・・・この前提をもとに、クリシュナムルティの言葉を参照しつつ、ブッダの教えを再構成するのが、本書の進み行きとなる。

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 著者は、「無常、苦、無我、あるがまま、いまここ、からっぽ、貪欲、憤怒、迷妄、条件づけ、快楽、恐怖、二元性、思考、妄想、依存、見解、既知、無執着、気づき、智慧、解脱、遠離独存、涅槃寂静」の24のテーマについて、およびその他10の小テーマについて、両者の言説を引用し、比較検討している。
 引用の出典に選ばれたのは、ブッダの言葉については『阿含経典』の中でも最も古い教典とされている『スッタニパータ』と『ダンマパダ』であり、Kの言葉についてはその著書『四季の瞑想――クリシュナムルティの一日一話』(コスモス・ライブラリーより邦訳刊行)である。
 もちろん、単に両者の教えを比べて共通点を指摘して良しとするのみでなく、読む者にたびたび自己覚知をうながし、真理とは何かを一緒に探求することを呼びかけている。
 野心的な試みと言えよう。
 
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 結論から言うと、ブッダとKの教えはほとんど同じであり、真理は一つであることが証明されている。
 予期していた通りではあるが、このように一つ一つテーマごとに徹底比較されると、両者は用いる言葉や表現さえ異なれど、呼応するように同じポイントをついていることが明らかとなる。
 たとえば、「思考」についての言説をみると、
 
ブッダ : 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、浄美の随観者に、渇愛(の思い)は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。
 しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄(の表象)(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、(貪欲の)終焉を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。(ダンマパダ349~50)
 
K : 悲しみの終焉を理解したい人は、この思考する者と思考、経験する者と経験されるものという二分性を理解し、見出し、乗り超えていかねばなりません。つまり、観察する者と観察されるものの間に分裂があると、時間が起こり、故に悲しみは終わらない、ということです。(中略)観察する者、思考する者とは言うまでもなく、思考の産物であります。思考がまず最初に来るのです。観察する者や思考する者ではありません。思考がまったく存在しなければ、観察する者も思考する者も存在しないことでしょう。そうすると、完璧で全面的な注意だけが存在するのです。(『四季の瞑想』238ページ)

 正田が述べている通り、2500年前のブッダの簡略な言葉――当時は筆記文化がなかったので教えは暗誦できるように簡略化・韻文化せざるをえなかった――が、20世紀の英国で高等教育を受けたKの明晰かつ論理的な文章により、より説得力を持って深いレベルで解釈されつつ再構成される、という現象が起きている。
 あたかもKが、ブッダの教えを現代語に翻訳して解説してくれている、かのような印象を受ける。
 いささか残念なのは、比較に使用された『スッタニパータ』と『ダンマパダ』の和訳がわかりづらい。正田自身による訳のようだが、ここはたとえば岩波文庫の中村元の訳をそのまま使用したほうが良かったと思う。たとえば、上の文の「浄美の随観者」、「不浄想」ってなんぞや?


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 さて、ブッダとKの教えがほとんど同じなのは分かった。
 しかし、やはり気になるのは、むしろ両者の違いであり、その理由である。
 その意味で、本書で一番興味が引かれたのは、両者の違いについて触れている「あとがき」であった。
 正田は、ブッダとKの大きな違いとして、①組織をつくることの是非、②セックスに対するスタンス、の二つを挙げている。これに、③悟りへの道を説くことの是非、を加えれば完璧になると思う。
 
 言うまでもなく、ブッダは出家者の集まりであるサンガを作り、それを重視した。仏・法・僧(ブッダと仏法とサンガ)は仏教の三つの宝である。
 一方、Kは自らを長とする裕福な組織(星の教団)をその手で解散してしまったことからも分かるように、生涯、組織には反対だった。組織は必ず腐敗につながる、個人を真理へ導かないと言ってはばからなかった。
 この両者の違いを、2500年前と現代との「伝達手段」の違いの観点から考察した正田の意見がうがっている。
 オーディオ機器はもちろん筆記文化がなかった2500年前のインドでは教えを伝えるには、口承に頼るしかなかった。ゆえに組織が必要だった。一方、Kの教えは、組織に頼らずとも、本やテープレコーダーやラジオやテレビなどで記録保存され、後世に伝えられる。この違いは大きい。
 たしかに、サンガがなかったならば、仏滅後の結集がなかったならば、われわれが今ブッダの教えを学ぶことは不可能だったろう。組織あってこそ、である。
 
 次にセックスについて。
 ブッダの基本姿勢は「禁欲」であった。出家者はむろんセックスNG、オナニーNG、恋愛NGである。在家に対しても、五戒に見られるように、「みだらな性行為」を戒めた。この「みだらな性行為」の定義が難しいが、基本、結婚(あるいは婚約)している者同士のセックス以外はご法度ってところであろう。不倫などもってのほかである。(ただしブッダは不倫は良くないとしたが、不倫した在家者を責めたり裁いたりすることはなかったと思う)
 一方のKであるが、ソルティの(読書)記憶によれば、若い頃はセックスに対してブッダ同様の厳しい態度を見せていたように思う。途中から、態度が軟化し(?)、逆に禁欲主義を批判する言辞が現れるようになったのではなかったか? セックスすること自体はNGとせず、セックスを“問題”としてしまう「思考のありかた」を問題とみたのである。
 
 僧侶や聖職者の偽善的あり方に厳しかったKは、セックスの問題に関しても、同様の偽善を指摘する。抑圧的禁欲の愚かさとその矛盾。表と裏を使い分けて外見を取り繕うあり方は、たしかに、聖なるものとは言い難い。
 
 ブッダも、Kも、淫欲の害毒については、同じ認識を持っていたと言えるだろう。あくまでも心理的な遠離独存を説いたKにたいし、ブッダの場合、出家修行者に限ってではあるが、肉体的な禁欲を厳命したところが相違点となる。
 
 セックスの問題に対するKの答えは、愛とは非難が全く存在しない状態のこと、セックスがいいとか悪いとか、これはいいけれど他のものは悪いと言わない状態のことです、となる。問題を問題としない、全的なあり方。妄想に起因する矛盾が生じない、葛藤なき状態。情熱と鋭敏さ。そして、気づき。愛とは確かに情熱なのです、と喝破する、Kの言葉をかみしめたい。
 
 正田は、この件に関する両者の違いの様相については十分明らかにしているが、その理由については突っ込んでいない。
 問題が問題だけに――と「問題化」してしまうのが問題、とKなら言うところだろうが――簡単には論じることのできないテーマではある。
 さらに、正田も記している通り、Kには最近になって「不倫スキャンダル」が勃発した。親友で長年の仕事上のパートナーであった男(ラージャゴパル)の妻と、隠れて付き合っていた、しかも自分の子を二度も堕胎させていた――というものである。
 これがどこまで本当なのか、完全にでっち上げなのか、真相はいまのところ藪の中である。
 ソルティは、このニュースを聞いたときに、Kがセックスに対して途中から寛容になった背景はここにあったのかも・・・・・と率直に思った。自分が普段やっていることを、他人に「やるな」とは言えないだろう。
 が、不倫や堕胎はどうなのだろう? もし、この噂が本当なら、Kはまさに「偽善者」であり、「聖なるものとは言い難い」ように思えるが・・・・・。
 
 愚考をさらす。
 ブッダとKのセックスに関するスタンスの違いを作った原因の一つは、それこそ両者の若い時分の性愛体験の差にあるのではなかろうか?
 ブッダは、釈迦国の王子であった青年時代に「好きなだけヤリまくった」はずである。それこそ国中から選ばれし美女たちが宮中至るところに待ち構え、オナニーなんて覚える暇もなかったかもしれない。さまざまな恋も経験済みだったろう。いわば、釈迦国の光源氏。
 三十路で出家したときにはもう、「セックスも恋愛ももう十分です」の域に達していたのではなかろうか。性愛の「快」の底に潜む「苦」を徹底的に味わい尽くしていたのではなかろうか。人を無明の闇に突き落としてしまう愛欲の怖さを十二分に知り尽くしていたのではなかろうか。いや、その達観のさきにある虚しさが、出家を後押しした可能性も考えられなくはない。
 一方のKは、はじめて女性と関係を持ったのは三十路を過ぎてからという話で、そのときにはすでに
「悟りを開いた聖者」として周囲から遇され、その教えを広めていた。
  
 Kが言うところの、飛ぶ鳥が跡を残さないような「問題化」しないセックスならOK、と言えば聞こえはいいが、そんな簡単なものではなかろう。
 セックスにはどうしたって相手が必要だし、相手との関係が生じざるを得ないし、妊娠や性病をもらう可能性だってある。自分一人が悟っていたところで、悟っていない相手と深く関わればどうしたって問題は生じ得る。
 よもやKは「サクッと風俗」を勧めているわけではあるまい。
 
 性と宗教――このテーマは一筋縄ではいかないので、ここまでにしよう。
 
秩父巡礼4~5日 170
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損