1941年松竹
111分、白黒

 なんだか某宗教団体の機関紙のようなタイトルだが、「みかへりの塔」は実在する大阪府立の児童自立支援施設・修徳学院(明治41年創設)のシンボルとなっている鐘楼である。


みかへりの塔
現在のみかへりの塔
(全国児童自立支援施設協議会のホームページより)


 非行少年・少女を収容し感化善導をはかる目的で建てられた感化院は、その後、少年教護院(1933年)→教護院(1947年)と名称を変え、1998年の児童福祉法改正により児童自立支援施設と呼ばれるようになって現在に至っている。
 この映画は、少年教護院時代の修徳学院の3代目院長・熊野隆治と小説家・豊島与志雄の共著『みかへりの塔』を原作としたもので、実際の修徳学院をロケ地にしている。

 Googleで見ると、同校はJR関西本線・高井田駅(大阪府柏原市)近くにある。
 映画の中で汽笛を鳴らしながらたびたび登場する蒸気機関車は、関西本線のものだろう。
 やはり映画の中に登場する池も、高台の森の中に見える。
 学園や森の周囲は住宅街のようである。
 今現地に行けば、映画の中に記録された昔の風景とのギャップに驚くことだろう。


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修徳学院の風景(約80年前)


 親のいない子、親の手にあまる素行不良の子200名あまりが、山間の広々した地で共同生活を送っている。
 子供たちは男女別に数班に分けられる。
 各班は独立した家に住み、寝食を共にし、家事など生活の基本を身につける。
 そこに一人の寮母がつき、子供たちは彼女を「おかあさん」と呼んでいる。
 疑似家庭をつくっているのだ。
 子どもたちはそれぞれの「家」から学校に通い勉強し、将来社会に出て自活するため、衣類の縫製や家具づくりや農作業などを身につける。
 
 もちろん、大人しく収容されて規則に従っている子供たちではない。
 喧嘩や盗みや脱走は日常茶飯事。
 先生たちも「おかあさん」たちも並大抵でない苦労で、気の休まる時がない。
 一方、淋しがり屋で感情的に未発達なところのある子供たちの多くは、寝小便がなかなか抜けない。
 毎朝、布団を物干し竿にかけるシーンにはリアリティがある。
 
 こういった環境における様々なエピソードと喜怒哀楽がテンポよく描かれる。
 起伏ある広い敷地を所せましと走り回る子供たちの姿を見るのは楽しく、泣いたり拗ねたりシュンとしたりの子供たちの表情は可愛らしく、『二十四の瞳』不良版といった感じの先生や寮母と子供たちとの交流のさまを見るのも面白い。
 清水宏監督は、実に子供を撮るのがうまい。
 とくに、やんちゃな男の子の演技といったら、演出というより“現行犯”と言いたいような子供の天真爛漫ぶりと活力とをフィルムに焼き付けている。
 こういった無鉄砲で野放図な子供の姿を見なくなって久しい。(コロナの今は特に!)
 
 「おかあさん」役として三宅邦子が、先生役として笠智衆が出ている。
 この二人は小津安二郎作品――とりわけ『東京物語』での名演――の印象が強いのだが、この『みかへりの塔』における演技も素晴らしく、両人と清水監督との相性の良さを感じる。
 どちらも、もともと持っている“人としての地の良さ”が、不運な境涯にある少年少女を見守り育成するという恰好の役どころを得たことで、自然に表出されているのだろう。
 子供たちと水遊びをする笠智衆の水着姿は、笠ファンにとっては必見である!!


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意外と毛深い笠さんに驚き!


 清水監督の素晴らしいところは、作意を感じさせない絵づくり、演出にある。
 『風の中の子供たち』でも見られたように、観る者の情動を揺り動かして、「ここで泣かしてやる」、「ここで感動させてやる」といったわざとらしさ(よく言えば「親切さ」)がないのである。
 心理状況を説明するセリフや「さびしい」「うれしい」といった感情を表すセリフは、ほとんど削がれている。
 凡庸な演出家であったなら、役者たちの表情をアップにし、感動的なセリフを言わせ、涙腺を崩壊させるBGMを差しはさむであろう「ここぞ」と言うところで、それらを却下し、単に絵と音だけで、つまりカットつなぎだけで、人物の心の動きや感情を表現してしまう。
 その節度ある抑制は、観る者の目をして、画面そのものに集中せしめ、人間の生の営みの背景に潜む自然や事物の“途方もない美しさ”に気づかせしめる。
 
 この映画の中でそれが端的に表れているのは、二人の少年が脱走するシーンである。
 日暮れ時に施設から逃げ出し、池の浅瀬を渡った二人は、そこで「みかへりの塔」の鐘の音を耳にする。いつもの晩鐘である。
 すると、二人は向こう岸でそろって立ち止まる。
 無言で立ち尽くす二人。
 響く鐘の音。
 次の瞬間、二人はそろって池を渡って、こちら岸に戻ってくる。
 
 ただそれだけのシーンである。
 あえて解説すれば、脱走しようと思った少年たちは、聴きなれた「みかへりの塔」の晩鐘に夕飯を思いだして、条件反射のように自然と「家」に足を向けた。
 このシーンを清水監督は、カメラ固定のロングショットで長回しで撮っている。
 むろん、少年たちのセリフもなければ、表情のアップもない。
 BGMもない。いや、鐘の音のみBGMだ。

 
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 このシーンの“途方もない美しさ”は、少年たちの“本人自身も気づいていない”心の変化、つまり学院をいつのまにか自らの「家」と感じるようになっているという現象を、セリフでも表情でもBGMでもなく、少年たちの同時的な動きと、跳ね上がる水しぶきと、遠方にかすんで見える森と、深い鐘の音だけで、鮮やかに表現しきっているからである。
 そのとき、少年たちの心はそのまま、水面の照り返しであり、水しぶきであり、こんもりした森であり、鐘の音である。
 音声も含め画面に映るすべてが、表現になっている。
 これぞ映画の醍醐味。
 
 清水監督を知ったのは、最近一番の僥倖である。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損