2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは求めているからそれを得ている。
 不幸を求めているからこそ、私たちは不幸なのです。
 しかし、私たちはそれを否認している。
 ただ幸せを求めているのだ、と私たちは言う。
 しかし、「幸せ」という言葉によって、言われているものは何でしょう?
 欲望を満たすこと?
 もし本当にそれを求めていなければ、私たちは自由なのです!
 (標題書P.417)

 不幸を求めているから不幸?
 そんな馬鹿な!

 ――と思う人も多いかもしれない。
 誰だって幸せを求めて生きているはずだ。
 マゾでもない限り、誰が好きこのんで自らの不幸を求めるだろうか?

 ウ・ジョーティカ師の言葉には重層的な意味合いがあるように思う。
 一つには、私たちが普通に考えかつ求めている幸せとは、「欲望の満足」であるという点である。
 お金がほしい、友だちがほしい、恋人がほしい、子供がほしい、仕事がほしい、持ち家がほしい、別荘がほしい、洋服がほしい、車がほしい、宝石がほしい、地位がほしい、名誉がほしい、権力がほしい、健康がほしい、美貌がほしい、若さがほしい、永遠の命がほしい・・・・。
 欲望の達成を「幸せ」と考えるならば、それを求めている間は当然「不幸せ」になる。
 達成したあかつきに得た「幸せ」は、一瞬の満足ののち、目減りし魅力を失っていく。
 獲得した物は変化し、いつかは壊れ、失われていく。
 そのうえ、「欲望を達成する」という行為自体が生き癖となってしまっているので、次の新たな獲物を作り出さないことには虚しさに襲われるばかり。
 すると、「幸せ」は永遠に先送りされる。
 欲望を満たすことは「幸せ」にはつながらない。

 今一つには、私たちは、表面的でわかりやすい上のような欲望とは別に、自らが無意識に欲しているもの(状況)というのがあって、いつか必ずそれを具現化してしまうというほどの意味合いである。
 これはなかなかわかりにくいところである。特に、欲望に向かってまっしぐらの、イケイケバンバンの若い頃は・・・・。
 たとえば、覚醒剤を隠れてやっていた有名人がついに警察に捕まったときに、「ホッとした」とか「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」と本音を漏らすことがある。
 そういうときに彼らの内面で働いているのは、一見不幸の極みに見えるようなそういう状況――逮捕され衆目にみじめな姿をさらし、家族や友人や仕事や名声や信用や財産やらを失うというような状況――を、心のどこかで望んでいたことに対する“気づき”ではないかと思うのである。
 つまり、覚醒剤に手を染めなければならないくらいまで無理のある生活、虚飾にみちた日常、上げ底の自分が、逮捕によってやっと破綻し“ありのまま”の自分に戻れたという思いが、「ホッとした」というセリフになるんじゃなかろうか。
 意識の上では華やかなスターの「自分」を目指して我武者羅に生きてきたけれど、無意識が望んでいたものはもっと別の「自分」であった。

 あるいは、何らかの事情で自分を卑下しているとき、人は手に入れた幸運や成功を素直に受け取れず、自分がそれにふさわしいと思えなくなる。
 「こんな自分が幸福であってよいはずがない」という罪悪感は、それにふさわしい状況をおのずから身の回りに作り出してしまう。
 スピリチュアルでよく言われるところの「思いは現実化する」。
 
 言いたいのはつまり、多くの人は本当に自分が望んでいるものを知らないで生きているのではないか――ということである。
 そこに気づかせてくれるきっかけが「不幸」や「逆境」であるとしたら、人は心のどこかでそれらの訪れを待っているとさえ言えるのではなかろうか。

 三島由紀夫がやはり天才だなと思うのは、彼が40歳のときに発表した『サド侯爵夫人』の中にこんなセリフがある。

いいえ、私が自分で望んでいたものが、この年になってだんだんわかってきました。ずっと若いころには、私もあなたと同じように、そんな二種類の思い出を望んでいるような気がしていました。・・・・ヴェニスと、仕合せと。・・・・でも私の思い出に残ったものは、私の琥珀の中に残った虫は、ヴェニスでもなければ仕合せでもない。ずっと怖ろしいもの、言うに言われないものでした。若い私が望むどころか、夢にさえ見なかったもの。でも、今では少しずつわかってきました。この世で一番自分の望まなかったものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず一番望んでいたものなのです。
(新潮文庫『サド侯爵夫人』) 

 この戯曲を20代で読んだ時、ソルティはこの三島特有の典雅で才気に富んだ逆説に非常に感銘を受けた。
 が、その真に意味するところはまったく分かっていなかった。
 三島がこれを書いた年齢も、三島が自決した年齢もとうに越えた今、このセリフを非常にリアルなものに感じるのである。

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