1992年新潮社

 住井すゑが30年以上にわたり書き続けてきた大作を、一ヶ月半にわたって読んできて、ようやく完読した。
 住井は第七部を出したばかりの90歳時の講演で、「第八部を書きたい」と言っていたが、ままならず、95歳の生涯を終えた。

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 とは言え、本作は未完というわけでもない。
 部落差別やそれと闘う人々の姿を書き続けるなら、それこそ2021年の今日まで物語は続けることが可能であろうし、希望を描くということなら、水平社創立と解放運動の全国的な広がりを描いたあたりまでで、その目的は達している。
 個人的には、第五部ですんなり終わらせてもよかったのでは?という気がする。
 第六部からはかなり理念的・思想的・政治的に、つまり理屈っぽさを増して、小説としての味わいが若干薄れているように感じるからである。
 今井正監督の映画(1969年)のように、主人公の畑中孝二とその思い人である杉村まちえを再会させて、それぞれの心になんらかの決着をつけさせて「了」としてもよかったかもしれない。
 といっても、第六部も第七部も面白く読んだが。

 全巻をふりかえっての感想を四つばかり。

 第一に、これは部落差別の物語であるだけでなく、戦前の貧しい農家の暮らしを丹念に写し取った農民文学である。
 稲作や裏作の農業の大変さ、季節ごとの自然風景や畑の景観、昔の農機具、天候とのたたかい、土に生きる人々の喜びや苦しみや忍耐や祈り、貧しい中での衣食住、冠婚葬祭、近所づきあい・・・・。
 とくに畑中家の祖母ぬいと嫁ふでが用意する日々の食事の描写(主食は粥である)には、ソルティ自身の贅沢な食生活と腹回りの脂肪を恥じ入らせるに十分なものがあった。
 住井の生家は裕福だったらしいので、おそらく、農家の長男で農民文学者であった夫の犬田卯(しげる)から学ぶところ多かったのではないか。
 全編、稲作とともにある暮らしの尊さを描いてあまりあるけれど、一方、この稲作讃歌こそが日本文化を、ひいては天皇制を、ひいては部落差別を、根底から支えるものであったという事実も見逃すわけにはいくまい。
 その構造的矛盾にまでは住井は迫っていない。
 住井が網野史学を知ったら、どう思っただろう?
 
 第二に、水平社宣言について、日本人はちゃんと習うべきである。
 それも同和教育の一環としてではなく、日本の人権史上のもっとも重要な、もっとも画期的な、フランスやアメリカのそれらと並ぶ、我が国初の人権宣言として。
 いやその前に、学校教育の中に性教育(ジェンダー教育含む)や IT 教育とならんで、人権教育というコマが必要であろう。
 真の国際化を望むならば。

 第三に、本作でたびたび言及されている天皇制の問題
 戦後も GHQ の恩恵(思惑?)により生き延びたわけだが、どうなのだろう?
 今一番天皇制で苦しんでいるのがほかならぬ皇室の人々であることは、火を見るより明らかではなかろうか?
 好きなところに住めず、外出もままならず、職業選択の自由もなく、稼ぐこともできず、好きな人と結婚することもかなわず、四六時中居場所がつきとめられ動向が探られ、思ったことを発言することもかなわず、メディアやツイッターでやり返すすべさえないのに一方的に叩かれる。
 まるで国民の奴隷のようではないか。
 ソルティは、「日本人はそろそろ天皇制から卒業すべき」、「皇室の人々を茨のしとねから解放してあげるべき」と、数十年前から思っているのだが・・・・・。

 第四に、畑中家の重鎮である祖母ぬい。
 どうしても今井正版の北林谷栄しか思い浮かばない。
 ぬいの登場シーンでは、行間をモンペ姿の北林が揺曳し、セリフの響きは北林のそれである。
 ぬいは巻数が進むほどに存在感を増し、小森部落内で若者たちの尊敬を集めるようになり、ある意味“神格化”されていく。
 もしかしたら、最初の映画化(1969年)以降、住井の筆のほうが北林谷栄のぬいを追ってしまったのではなかろうか。知らずコロッケの真似をしてしまう美川憲一のように・・・・。
 一俳優が原作小説の登場人物のイメージをこれほどまでに確定してしまったケースは、ほかに『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リー、金田一耕助シリーズの石坂浩二、『砂の女』の岸田今日子、『黒蜥蜴』の美輪明宏・・・・・それほど多くはないと思う。

 この小説の漫画化を希望する。


畑中ぬい
畑中ぬい役の北林谷栄



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損