ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

映画

● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

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 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『マザー!』(ダーレン・アロノフスキー監督)

2017年アメリカ
115分

 ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』を撮った監督である。
 幻想的で印象に強く刻まれる映像を紡ぎだす才には恵まれているが、表現する世界がマニアック過ぎて、メジャーには収まりきれない人だと思う。
 この映画も批評家の間では賛否が分かれ、一般観客からは酷評を得たという。

 映像は凄い。
 が、ストーリーが意味不明、というか破綻している。
 出演している俳優たちも、最後まで物語が、そして自分の役が、理解できなかったのではなかろうか?
 DVDの特典映像では、主演のジェニファー・ローレンス――『ウィンターズ・ボーン』での名演技が記憶に新しい――をはじめ、参加スタッフたちが一様に本作の独創性を讃え上げ、アロノフスキー監督と共に仕事できたことに感謝の意を表明している。(ほかに言いようもないだろうが)
 本心はどうなのだろう?と思わざるを得ない。
 
 不気味で不可解な現実が一転してサバト(悪魔の宴)と化していくルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』に通じるような破壊性と超越性を、本作にも見てとることもできよう。
 観る者の予想を裏切り、想像をはるかに超えた、あたかも高熱で寝込んだ夜に見る悪夢のような恐ろしくも不条理な展開に、ヒロインともども徹底的に打ちのめされ絶望する、マゾヒスティックな快感に酔う者もいよう。
 だが、次々と襲い来る不条理について悪魔(魔女)という根拠をもつ『サスペリア』に対し、本作では不条理の根拠を欠いている。
 不条理は不条理のまま投げ出され、解明は拒まれる。
 あるいは、観る者に下駄は預けられる。
 無責任なまでに――。
 
 そこをどう取るかで、評価は分かれるだろう。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● シャリアピン、素敵 映画:『ドン・キホーテ』(ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督)

1933年フランス・イギリス
80分
フランス語
原作 ミゲル・デ・セルバンテス
音楽 ジャック・イベール

 主演のフョードル・シャリアピン(1873-1938)は、ロシア出身の伝説的名バス歌手。
 「歌う俳優」と呼ばれたほど、演技達者であったという。
 その名声を確かめるべく、レンタルした。

シャリアピン
シャリアピン


 なるほど、確かに凄い演技力である。
 まさに、イメージ通りのドン・キホーテがそこにいる。
 高潔で、突飛で、一途で、頭のねじの緩んだ老騎士になりきっている。
 表情から、姿恰好から、物腰から、口調から、仕草動作から、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す。
 むろん、その歌唱は絶品。

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ドゥルシネア姫への愛と忠誠を歌うドン・キホーテ


 そのうえにラストでは、騎士道物語の読み過ぎで頭のおかしくなった呆け老人という以上の、人間としての尊厳をも表現するに至っている。
 すなわち、ドン・キホーテという人物は、世俗を器用に生きようとする周囲の人間たちが失った“純粋さや情熱”の象徴だということを教えてくれる。
 だから、彼の死に際して、それまで彼を馬鹿にしていた周囲の人間たちは一様に頭を垂れ、涙するのである。

 シャリアピンの真価を示すこの記録が残されていることに感謝するほかない。


追記:晩年、来日して帝国ホテルに泊まった際、歯の悪かったシャリアピンのためにシェフが噛みやすいステーキを特別調理した。それがシャリアピン・ステーキとして今も愛されている。


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 25歳の扇千景 映画:『暖簾』(川島雄三監督)

1958年東宝
123分

 『幕末太陽傳』(1957)、『女は二度生まれる』(1961)、『しとやかな獣』(1962)の川島雄三監督による浪花人情ドラマ。
 大阪船場の老舗の昆布屋から暖簾分けされた店を守る八田吾平(=森繁久彌)の生涯を描く。
 原作は山崎豊子の同名小説。山崎の処女作で、生家の昆布屋がモデルという。

 川島監督のテンポ良い演出はむろん素晴らしいが、やはり役者陣の達者な演技こそ見物である。
 若い頃(と言っても45歳当時)の森繁の演技を見るのはこれがはじめて。
 やっぱり上手い。父親役と息子役の一人二役を見事にこなして、小気味よい。


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 妻役の山田五十鈴については言わずもがな。とくに結婚初夜の森繁との息の合った小突き合いが最高におかしい。
 ほかに、音羽信子、三代目中村鴈治郎、浪花千栄子が、それぞれの個性を際だたせつつ脇をしっかり固めている。

 チョイ役だが見逃せないのが、お松(=音羽信子)の娘役で出てくる扇千景。
 ソルティの記憶に刻まれているのは、彼女が建設大臣をつとめていた時の「新デザイン防災服お披露目会見」のスリットからの太腿出しである。悩殺された(ウソ)。
 女優時代はついぞ知らなかったが、ここでは25歳の扇千景が拝見できる。
 実に清楚で美しい。
 栗原小巻のよう。

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 全編、大阪商人の商魂たくましさが横溢している。
 このような気概がコロナ禍を乗り越え、ピンチをチャンスに変え、次の時代を切り拓いていくのだろうな~。
 
 


おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● B 神父の力量 テレビドラマ:『ブラウン神父の事件簿』シリーズ

2013年~ BBC(英国放送協会)

 ブラウン神父は、言わずと知れた英国作家G.K.チェスタトンが創造した名探偵。
 日本での知名度では、同じ英国探偵のホームズやポワロやミス・マープルに劣るかもしれないが、直観と観察と洞察力を礎とした探偵能力ではおさおさひけをとらない。
 カトリックの神父ならではの犯罪者に対する慈悲に満ちた態度も読みどころである。
 また、物語の雰囲気づくり、読者を驚かすトリックの斬新さの点では、チェスタトンの作品はクリスティを凌駕するものがある。
 ソルティは高校時代に創元推理文庫から出ているシリーズを読破した。
 家のどこかの押し入れの段ボール箱にあるはずだが、もう一度読み直したい。
 ――と思っていたところにレンタルショップで発見したのが、BBC制作のこのシリーズであった。


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 ブラウン神父役のマーク・ウィリアムズは、映画ハリー・ポッターシリーズでロンの父親アーサー・ウィーズリーを演じている身長186センチの巨漢である。
 それだけでも、小柄のブラウン神父には似つかわしくないのだが、そもそもこのシリーズは原作を忠実にドラマ化したものではなかった。
 推理の得意な田舎臭いブラウン神父というキャラクターだけは生かしているものの、物語は毎回オリジナルなのである。
 時代設定も原作より数十年あとの1950年代の農村である。

 それを最初に知ったときは残念な気がした。
 が、観てみるとこれはこれで面白い。
 マーク・ウィリアムズは原作のイメージとは別の個性的なキャラを創り上げているし、50年代の英国の農村の日常風景や階級社会の様相を見るのも楽しい。

 『科捜研の女』がいま大人気であるが、ソルティは最先端の科学工学技術を駆使した犯罪捜査にはあまり興味がない。
 というのもそこにはアマチュア探偵の頭脳を駆使した推理ゲームが入り込む余地がないからだ。
 犯罪現場に落ちていた一本の毛髪や防犯カメラの映像から犯人が割り出される現代の科学捜査が素晴らしいのは間違いないが、ミステリーとしての面白みは欠ける。
 だいたい警察以外の人間が捜査に関わること自体、いまやあり得ないだろう。ホームズやポワロや金田一耕助や明智小五郎に出番はない。
 ソルティは子どもの頃、「大きくなったらホームズのような探偵になりたい」と思って小遣いでルーペを買って、日々観察に励んでいた。
 が、いまの日本の探偵にできるのは夫の浮気の証拠――今となっては妻の不倫の証拠。時代は変わるものだ――を見つけることくらいと知って、落胆したものである。
 といって刑事になりたいとはまったく思わなかったのだが・・・・・。


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河出書房新社より2010年発行
最先端のリアルな犯罪捜査がわかる

 
 ときに、ブラウン神父はたしかに名探偵だが、本職の神父としての力量は残念ながら???である。
 というのも、神父の担当する教区はしょっちゅう殺人事件が発生するたいへん物騒な地域だからである。
 神父自体が死体の発見者となったり、犯人に襲われたりすることもしばしばである。
 ロンドン市内のほうがよっぽど安全。
 ブラウン神父の聖職者としての影響力には疑問を持たざるを得ない。

 このシリーズ、すでに80話以上制作されていて(現在も放映中)、うち50話ほどがDVD化されている。
 ソルティは20話くらいを観たところである。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『危険なプロット』(フランソワ・オゾン監督)

2012年フランス
105分

 『8人の女たち』、『ぼくを葬る』、『婚約者の友人』のフランソワ・オゾン監督によるサスペンス・コメディ(?)。
 舞台劇が原作。

 物書きの才ある教え子クロードの作文を指導しているうちに、フィクションと現実との区別がつかなくなり、現実が破綻していく国語教師の姿を描く。
 観る者もまた、どこまでが現実で、どこからがクロードの想像(創造)なのか、はっきりしないところに置かれたまま、先の読めない展開に惹きつけられ、最後まで付き合ってしまう。
 脚本が優れている。

 物語の舞台はフランスの高校。
 日本の高校のように制服制が取り入れられているところが面白い。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 19世紀の天安門事件 映画:『ピータールー マンチェスターの悲劇』(マイク・リー監督)

2018年イギリス
155分

 「ピータールーの虐殺」について最初に知ったのは、数年前に豊島管弦楽団のコンサートでマルコム・アーノルド作曲『ピータールー序曲』を聴いたときだった。
 指揮は和田一樹であった。
 
 同曲は、15人の死者と600人以上の負傷者を出したこの惨劇を音によって表現したものであり、遠方からピクニック気分で家族が集うような平和な演説会が、武装した騎兵隊によって蹴散らされ、混乱に陥り、そこかしこで流血が起き、阿鼻叫喚の地獄と化していく様子が、迫力もって描かれている。
 事件を知らない者が聴いても、なにか忌まわしい悲劇があったことを知るだろう。

ピータールーの虐殺
 1819年8月16日、イギリスのマンチェスターのセント・ピーター教会前広場に集まった議会改革を要求する群衆が、当局側の弾圧をうけ、多数の死傷者を出した事件。
 イギリスではナポレオン戦争が終結(1815)し、戦時体制から解放されると、産業革命の矛盾が一挙に表面化し、抑えられていた労働者、職人らの不満が噴出して、政治改革・議会改革を要求する運動が高揚した。
 6万人が参集したこのマンチェスターの大集会は、下層階級による一連の議会改革運動の頂点をなすものであったが、大衆指導者ヘンリー・ハントが議長席に上がってまもなく、市当局が動員した義勇騎兵隊と軽騎兵隊とが群衆に斬り込んでけちらし、死者11名,負傷者400名以上を出した。
(平凡社『世界大百科事典 第2版』より抜粋)

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 死者・負傷者の数は資料によって異なるようだが、フランス革命から30年、19世紀初頭の英国でこのような弾圧事件があったのである。ちなみに、時の国王はジョージ3世であるが、精神疾患により息子のジョージ4世が摂政を務めていた。
 日本で言えば、「板垣死すとも自由は死なず」の自由民権運動に対する弾圧に相当するであろう。
 ソルティはまっさきに秩父事件を思い起こすが、秩父事件は武装した男たちによる実力行使、一種の反乱であった。
 女・子供もいるような武器を持たない民衆の集会を、権力が暴力でもって叩き潰したという点で、1989年の天安門事件がもっとも近いと思う。

 映画は、マンチェスターの田舎に住む貧しい一家が、政治改革を求める地元の活動家のスピーチを聞いて集会への参加を決め、家族そろって上京する姿を中心に置き、事件発生までの経緯を様々な角度から丹念に描いている。
 19世紀初頭の北部イングランドの街や家屋や工場や議会などのセット、人々の衣装、小道具が、しっかりした時代考証のもとに作られており、コスチュームプレイ(時代劇)としても風俗劇としても非常に見応えがある。CG全盛の昨今、ここまで本物らしさにこだわって丁寧に、予算かけて作られた映画は珍しいのではないか。
 しかも、構図や色彩や撮影が見事で、屋内のカットなどはまるでレンブラントかミレーの絵でも見るかのような奥行と深さとあたたかみを感じさせる。
 155分は長いけれど、無駄なシーン、不必要なカットは指摘できない。

 つくづく感じたのは、英国のスピーチ文化の浸透ぶりである。
 題材が題材だからスピーチシーンが多いのは当然なのだが、下層から上流まで階級に関わらず、スピーチが主要な表現手段として国民に受け入れられ尊重されているのが分かる。
 スピーチをする者は、言葉の選び方から論の立て方、古典の引用や比喩の使用、声の出し方や話の緩急、視線の向け方や手の動き、表情などを、考えに考え抜いて、鍛えに鍛え抜いて、自分なりのスタイルを作る。いかにして聴衆の耳目を惹き付け、心をつかみ、説得し、情動を揺り動かし、味方につけるかが勝負である。
 一方、スピーチを聞く方もただ黙って聞いているだけではない。賛意や反意の示し方、冷やかし方、合いの手の入れ方、拍手や締めの文句の唱和など、それなりのマナーを持っている。

 この言葉と論理と身体表現に対する愛着のほどをみれば、英国にシェイクスピアを核とする長い演劇の伝統があるのも、コナン・ドイルやアガサ・クリスティを嚆矢とする推理小説の興隆があるのも、よく分かる気がする。
 『マーガレット・サッチャー』の男議員たちを瞬殺する鋭いスピーチを出すまでもなく、素晴らしいスピーチができることはイギリス人(あるいは欧米人)の武器であり、社会において頭角を現すために若いうちから鍛えておきたい必須な技能なのである。
 口論では、日本の政治家が束になっても英国の政治家にかなうはずがない。もっともその前に英語力の問題があるが・・・・・。

 ピータールーの虐殺により、民衆の要求はことごとく潰された。
 政府はその後、治安六法として知られる弾圧立法を制定し、改革の動きを徹底的に封じ込めた。
 自由と平等を求める民衆への抑圧は、以前より増したと言われる。
 では、セント・ピーター教会前広場の集会は無駄骨だったのだろうか?
 そこで虐殺された民衆の死は、無駄死にだったのだろうか?

 事件から200年後の現在の英国で、普通選挙による議会制民主主義が確立しているのを見れば、既得権益をもつ層による弾圧や専横はあっても、歴史の流れは、個人の自由と平等と権利を保障する方向へ動かざるを得ないことが知られる。
 今となっては、「ピータールーの虐殺」は英国にとっての恥部でしかない。

 中国や北朝鮮が今のままでいられるわけがない。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 北欧ご近所トラブル 映画:『隣の影』(ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン監督)

2017年アイスランド、デンマーク、ポーランド、ドイツ
89分、アイスランド語

 上記4ヶ国による制作というのが珍しい。
 分類としてはブラックコメディだろうが、そんじょそこらのホラー&サスペンス映画よりよっぽど怖い。かつ最初から最後まで目が離せない。
 脚本の巧さと役者の演技に負うところが大きい。
 とくに、息子を亡くした高齢の母親役を演じる女優のサイコパスもどきの演技が、リアルを通り越しておぞましさを感じさせる。

 隣の家の木が茂りすぎてウチの庭に日光が当たらないとか、隣りの家の犬の糞がウチの庭に落ちていたとか、よくある隣近所のもめごとが高じて、スプラッタまがいの凄惨な殺人事件にまで発展してしまった話である。
 どこか遠い国の他人の話ではなく、まさに観る者の身辺で起こり得る日常の出来事だけに怖いのである。

 『三秒間の死角』、『熊と踊れ』のアンデシュ・ルースルンドや『ミレニアム』3部作のスティーグ・ラーソンが人気を得ているように、北欧のミステリーやサスペンスっていま“旬”なのである。
 同じヨーロッパでも、イタリアやフランスやスペインのように陽気にも情熱的にもなりきれないあたりが、どこか日本人(とくに東日本の)に似ている気がする。
 緯度すなわち日照時間と国民性には相関があるのだ。


アイスランド
アイスランドの街



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● Very English ! TVドラマ:『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』

2018年BBC制作(イギリス)
174分(全3話)
原題:A Very English Scandal

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 これ、実話なのである。
 70年代後半にイギリスを騒がせた自由党党首ジェレミー・ソープにまつわるセックススキャンダル。
 大物政治家の下半身にまつわる醜聞なんぞ今さら珍しくもあるまいに・・・・・と思うところだが、これが Very English (まったくイギリス的)なのはソープの相手が男性だったことによる。
 つまり、国家主席の座を狙えるところまで立身出世した男の同性愛スキャンダルである。
 
 ソルティはソープ事件という名は聞いたことがあったが、くわしいことは知らなかった。
 当時はインターネットはむろん衛星放送なんてものはなかったし、日本のメディアでこのニュースが喧伝された記憶がない。(70年代後半といったら、ピンクレディーが旋風を巻き起こし、キャンディーズが引退した頃である←ミーハー)
 同性愛ネタをどう取り扱っていいものか、日本のマスコミもわからなかったのではないか。
 いや、そもそもニュースヴァリューをそこに発見しなかったのかもしれない。
  
自由党党首ジェレミー・ソープは、かつて同性愛関係にあった10歳年下のノーマン・ジョシフの口を封じ込めるため、腹心の部下の手づるから殺し屋を雇って、ノーマンを抹殺しようと諮る。
が、計略は失敗し、危ういところで生き延びたノーマンは、すべてを当局とマスコミに話す。
ソープは逮捕され、世論を巻き込んだ裁判となる。

 
 イギリスでは1967年に同性愛を罰する法律、いわゆるソドミー法が廃止された。
 ソープとノーマンが出会い付き合っていた頃(60年代初頭)こそ同性愛は違法であったものの、裁判が始まった1978年は違法ではなかった。
 だから、裁判で罪が問われたのは二人の同性愛関係の有無ではなくて、ソープがノーマンを殺そうとしたのか否かという点であった。
 結果的には、ソープおよびその一味は無罪を勝ち取った。
 同性愛についてはソープは最後の最後まで否定し、すべてノーマンの悪意あるでっち上げであると主張した。
 
 判決は無罪であったがイメージ失墜は決定的で、ソープは政界を離れざるを得ず、その後の人生もままならなかったようである。
 このドラマでは、ソープとノーマンの出会いから裁判の終焉までの約20年が描かれているが、その中で二人の同性愛関係は既定の事実としてキスシーン含め映像化され、ソープによるノーマン謀殺計画も実際にあったものとしてみなされている。
 ジョン・プレストンによる同名の原作が出版されたのは2016年、その2年前にソープと彼の妻はあいついで亡くなっている。二人が亡くなったので、判決とは別の「いま一つの真実」が公表できたのだろう。
 おそらくは、このドラマに描かれたあたりが本当にあったことなんじゃないかとソルティは思ったし、イギリス国民の多くも当時も今もそう思っていることであろう。
 つまり、同性愛者であることのスティグマは、たとえそれが違法ではないにしても、一人の政治家が人殺しを企てても絶対にその志向を隠し通したいほどに強いものだったのであり、その噂が立つだけで政治生命が失われるほどに致命的なものだったのだ。
 
 主役の二人を演じる役者が素晴らしい。
 野心家ソープを演じるのは、ヒュー・グラント。
 あのジェイムズ・アイボリー監督によるゲイ映画の金字塔『モーリス』で、モーリスの親友クライヴを演じた往年のイケメン男優である。
 『モーリス』では、クライヴは自らのゲイセクシュアリティを受け入れることができず、地位と金のある女性と結婚し、政治家を志す。
 まるで本作のソープは、クライヴの数十年後の姿のよう。
 なんとも痛ましい。
 ヒュー・グラントは瞳で感情を表現するのがうまい。
 
 愛人ノーマンを演じるのは、演技力に定評ある美男子ベン・ウィショー。
 『クラウド・アトラス』でもゲイの音楽家の役だったが、どうやら実際にLGBTの人らしい。『白鯨との闘い』では作家ハーマン・メルヴィルを演じていた。
 不幸な生い立ちのノーマンは精神不安定な青年で、見ようによっては同性愛をネタにソープを強請る、たちの悪い恐喝者である。
 そこを持ち前の感性豊かな表情と繊細な演技とで、“ダメ男だけれど愛されキャラ”に造り上げている。
 彼が裁判中に“愛のカタチ”の自由を訴えるシーンは心を打つ。
 
 ドラマ的には、ソープ=悪役=クローゼット(隠れホモ)親父、ノーマン=正義=ゲイリブの若者、といった位置づけではあるけれど、二人とも差別と抑圧の犠牲者であることに変わりない。
 特にソープの姿に、セクシュアリティの抑圧と自己否定が生みだす人生の歪みと悲しみとを見出すことができよう。
 そして、それを変えていこうとする勇気と希望が、若いノーマンの姿に託される。
 単なる内幕暴露の物語に終わっていないのはさすが Very English のBBCである。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● ハリウッドの申し子 映画:『白鯨との闘い』(ロン・ハワード監督)

2015年アメリカ
122分

 1820年に実際に太平洋上で起きた海難事件を描いたナサニエル・フィルブリックの実録小説、『大洋の奥底:捕鯨船エセックス号の悲劇』“ In the Heart of the Sea : The Tragedy of the Whaleship Essex ” を映画化したものである。(未邦訳、題名はソルティ訳)
 この同じ事件をモデルに、ハーマン・メルヴィルは世界十大小説の一つに数えられる代表作『白鯨』を書いたという。

 『白鯨』は「難しくて読みづらい」小説としても有名で、そのイメージもあって本DVDをレンタルするのを若干ためらった。
 が、さすがに、『コクーン』(1985)、『遥かなる大地へ』(1992)、『アポロ13』(1995)、『ビューティフル・マインド』(2001年)、『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)など多数のヒット作をもつロン・ハワードである。
 一級の娯楽大作に仕上がっている。
 122分を飽きさせないストリーテリングと演出力には賛辞惜しまず。

 映画はおおむね三つの要素からできている。
 一つは、捕鯨船の乗組員たちが立ち向かう海との闘い、鯨との闘い。
 嵐、凪、船酔い、鯨との死闘、とてつもない重労働。
 ハワード監督は、スピーディに、かつ『タイタニック』を想起させる大迫力をもって描いていく。


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全長30mの白鯨

 
 二つ目は、未熟な船長(=ベンジャミン・ウォーカー)と経験豊富な一等航海士(=クリス・ヘムズワース)との男のプライドを賭けた意地の張り合いである。
 共通の想像を絶する辛い体験を通して、二人の関係が変化していく様子が描かれる。
 タイプの異なる二人のイケメン・ウォッチングという楽しみかたもあり。


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クリス・ヘムズワース(左)とベンジャミン・ウォーカー


 最後の一つは、海洋漂流譚である。
 エセックス号は巨大な白鯨によって打ち壊され、生き残った船員たちは大海原をボートで漂流する羽目になる。
 水も糧も尽き果てる。
 飢餓と絶望――。
 ここで、「大洋の奥底」で起きた衝撃の真実が明かされる。
 アン・リー監督の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2012)や大岡昇平の『野火』に共通する、生き延びるための究極の選択である。 
 描きようによっては大変深刻なテーマとなろう。
 
 以上三つの要素をバランス良く配合し、重すぎて観た後に落ち込むことのないよう、あくまでもエンターテインメントに徹してまとめている。
 ロン・ハワードはハリウッドの申し子だ。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


● 映画:『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(フィリダ・ロイド監督)

2012年イギリス
105分

 メリル・ストリープの演技力にまたしても舌を巻くための映画である。
 モデルとなった当人に似ているかどうかはともかく、一人の意志堅固な女性政治家像およびその老いた姿を完璧につくりあげている点が凄い。
 サッチャー(1925-2013)という政治家をまったく知らない人が見ても、そこに一貫した魅力あるキャラクターを見て取ることができよう。
 
 ドラマ自体は政治家としてのサッチャーの生涯を簡潔になぞったものである。
 家族ドラマとしても、社会派ドラマとしても、あるいは認知症でその生を終えた「鉄の女」を描いた人生ドラマとしても、深みには達していない。
 制作時には、サッチャーの子供たちはむろん、本人が存命していたせいもあろう。
 サッチャーとその時代のイギリスを知るには手頃な資料である。

 政治家を引退したサッチャーが、来日して地方の行政主催イベントによばれたときの講演料が1000万円だったことを思い出した。
 ときは90年代半ば、バブル崩壊が始まっていた。
 
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おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『武器になる! 世界の時事問題』(池上彰著)

2020年大和書房

 ニュースや天気予報くらいしかテレビを観ることのないソルティであるが、たまに池上彰がキャスターをつとめる報道バラエティ番組(とでも言うのか)は観る。
 時事問題を堅苦しくない切り口で、非常にわかりやすく解説してくれるので、観た後になんとなく賢くなったような気がする。
 本人がどういう思想や立場の人なのかは知らないが、少なくとも番組上では、本人の主義主張を開示しパネラーや視聴者に押し付けるようなところがないのも、つまり本人はあくまでも鳥瞰的立場にとどまっているところも、観ていて疲れない理由であろう。


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 あんな忙しい人がいったい本など書く暇があるのだろうかと思うが、本書は2019年夏に関西学院大学で行った講義録がもとになっているとのこと。
 学生対象の基礎講座なので、これまたわかりやすいことこの上ない。

 ソルティは昔から時事問題とくに政治経済や国際情勢にあまり関心がない。関心が持てない。
 どうせ昔ながらの権力闘争、領土と資源をめぐる争奪戦、宗教や民族問題の絡んだジェノサイドや紛争、単純に言えば、金と女と名声と権威を欲するオヤジたちの陣取り合戦――といったイメージがあるからだ。
 だが、自分もまたその世界の片隅に生きていて、日々少なからぬ影響を受けているので、たまには、「今の世界情勢を抑えておこう」、「その中で日本の小市民たる自分の置かれている立場を確かめて置こう」という気になる。
 で、読んでみて、相も変わらぬ世界にやっぱりうんざりすることになる。(この「うんざり」は、仏道修行のモチベーションにつながるので馬鹿にならないのだが・・・)  
  • トランプ大統領の誕生した背景
  • イギリスのEU離脱
  • 戦後の日米関係の変遷
  • 沖縄基地問題のいま
  • 中東問題とイスラム教
  • 中国共産党の来し方と行く末
  • 朝鮮半島問題      等々
 まさに今の世界情勢を概観し、時事ニュースを理解するための重要なポイントが取り上げられ、わかりやすく解説されている。
 NHKの記者だった池上の該博な知識と、リアリティを感じさせる“現場”のエピソードの数々に感嘆する。
 それにつけても、今の中国くらい、ジョージ・オーウェルの『1984』に酷似している国は無かろう。
 恐ロシア、いや震えチャイナ・・・・・

 読んでみて、ソルティが外野から生半可な知識なりにとらえていた世界の状況や見方が、それほどはずれてはいないことに気づく。
 それはきっと、時事ニュースこそいちいち追っていないけれど、いろいろな国の映画をよく見てきた、よく見ているからなのだと思う。
 各国の映画に映されている風土や市井の人々の生活や物語の枷となる社会的背景を理解することで、知らずその国の歴史や情勢を学んでいるのだ。
 映画の場合、本や新聞やテレビやネットのニュースとは違って、遠い国の生活者の体温や息づかいや声音や表情まで伝わってくるところが特徴であろう。
 教育的効果を期待して映画を観ているのでは決してないが、間違いなく映画は世界とつながる窓である。

 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 映画:『ボクは坊さん。』(真壁幸紀監督)

2015年
99分

 四国遍路札所第57番永福寺住職・白川密成の書いた同名のエッセイを映画化したもの。
 新人住職の戸惑いや苦悩、奮闘、そして成長がユーモラスなタッチで描かれている。

 監督の真壁幸紀(まかべゆきのり、1984年生)は本作が長編映画デビューとのこと。若干稚拙なところは見受けられるものの、丁寧な心のこもった演出でカバーしている。
 役者では、主演の僧侶役の伊藤淳史、檀家の長老役のイッセー尾形、そして母親役の松田美由紀が好演である。
 
 何と言っても、実際の永福寺とその周辺でロケしたことが、この作品の最大の魅力である。
 四国(愛媛今治)の穏やかな景色や、お遍路さんが立ち寄る札所の風景が、作品のリアリティを底支えし、先祖伝来の素朴な信仰が根付く土地柄を映し出している。
 むろん、ソルティにとっては懐旧の情このうえない。


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永福寺境内

 
栄福寺周囲
お寺の周辺風景


栄福寺池
お寺近くの犬塚池


 本作を見れば、檀家寺というのが、地域の人々にとっての心の拠り所であり、困ったときのサポートセンターであり、生老病死に関わる学びと記録と実践の場であることがわかる。
 さしずめ、住職は村のカウンセラーであり、ソーシャルワーカーであり、魂の主治医なのであろう。
 
 イッセー尾形演じる檀家の長老のセリフが含蓄あった。
 「場を作ればいいというものじゃない。人は場に集まるのではない。人は人に集まるんだ」
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 救世軍とは 映画:『骨までしゃぶる』(加藤泰監督)

1966年東映
88分、白黒

 藤純子主演『緋牡丹博徒 お竜参上』や『江戸川乱歩の陰獣』などの傑作で知られる加藤泰の撮った明治時代の郭もの、ということで興味を持ち、レンタルした。

 まず、白黒とは思わなかった。
 加藤泰の作品は、そのローアングルに徹した奇抜な構図と共に、色彩のシュールなまでの鮮やかさが印象に強いからだ。
 しかし、66年というのは日本ではまだ白黒映画が主流だった頃か。66年キネ順ベストテンを見ると、白黒とカラーの割合は半々である。(『大魔神』の撮られた年だ)
 舞台は遊郭である。カラーだったら魅力倍増、間違いなかったろう。

 出演者がいい意味で地味め。
 主演の桜町弘子は東映の時代劇や任侠映画によく出ていたようだが、はじめて顔を見知った。
 共演の久保菜穂子は大映の眠狂四郎シリーズに何作か出ていて、ソルティは顔なじみであったが、一般には知られていまい。
 渋い重鎮俳優の代名詞たる夏八木勲がこの作品でデビューしている。遊郭はじめての大工の童貞青年役を演じているのが可愛い。
 本作の出演者中、もっともよく知られているのは、おそらく菅井きんだろう。
 遊郭の情け容赦ないやり手ババアを演じて、まさにドンピシャの名演である。こういう役をやらせたら彼女以上の役者はなかなかおるまい。それでも昔は御職(女郎のトップ)だったというから愉快。

 『吉原炎上』、『海は見ていた』、『赤線地帯』など、ソルティは遊郭映画は結構見ているので、本作で描かれる遊郭のしきたりや仕組みや雰囲気にことさら目新しいものは感じない。
 が、腹が立つのはやはり労働搾取である。
 貧しい家の娘を莫大な借金をかたに遊郭に連れてきて、一晩に何人もの客を相手に性的奉仕させる。
 主人公の娘おきぬ(=桜町弘子)がつとめる遊郭の経営者夫婦が、入ったばかりのおきぬが稼いだ金を勘定するシーンがあるが、おきぬの取り分はそのうちの五分(5%)と言う。
 なんつー、不当搾取か。
 その五分でさえ、そこから部屋の貸し賃やら食事代やら着物代などが差っ引かれていき、結局、最初の借金は減らないどころか膨らんでいく仕組みになっている。親元に仕送りするどころか、永遠に足ヌケできない。客から病気をもらうなり、歳とって売れなくなるなりして、お払い箱になる日まで。

 ソルティは性を売り買いすることにはそれほど目くじらを立てるものではないが、この頑張っても稼げないあこぎな仕組みには無性に腹が立つ。

 おきぬは客として来た大工の青年(=夏八木勲)と惚れ合って、夫婦の契りをし、救世軍の助けを借りて足ヌケする。
 郭ものとしては、数少ないハッピーエンドなのではないか。


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公娼廃止を訴える救世軍のシーン


救世軍とは
プロテスタントの伝道,慈善団体。メソジスト派の牧師であったウィリアム・ブースが独立して,1865年ロンドンのスラム街で Christian Missionの名のもとに貧民への伝道を始め,78年軍隊組織を模して救世軍と名を改めた。聖書を唯一の権威とし,制服をまとい音楽を用いて街頭に進出,貧民への伝道,救済活動を行い,全世界 (約 70ヵ国) に広まった。日本には 95年イギリスより渡来し,山室軍平らの努力で普及,東京に本営を構え,機関誌『ときのこえ』を出し,廃娼運動などの社会改革運動を行い,年末の社会鍋などで親しまれている。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用)


 知り合いのカトリックのシスターが、「救世軍」のことをいつも「十字軍」と言い間違えていたことを思い出す。
 プロテスタントの活動だったからなのだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 映画:『心霊ドクターと消された記憶』(マイケル・ペトローニ監督)

2015年オーストラリア
90分

 小粋なタイトルと『デタッチメント 優しい無関心』のエイドリアン・ブロディ主演に惹かれてレンタルした。
 原題 Backtrack は「後戻り」の意。映画の内容からして「過去に戻れ」ということだろう。

 タイトルからして、エイドリアン扮するドクターが、依頼者の霊的トラブルを持ち前の霊能力をもって解決するオカルト・ファンタスティック・コメディみたいなのを期待したのだが、見事裏切られた。
 かなり暗くて重くて陰惨な、純然たる(?)オカルトホラー&ミステリーであった。
 出来は可もなく不可もなく。

 話が暗いのはともかく、画面が終始暗いのが苛立たしい。
 老眼のためか、暗い画面が見づらくて仕方ない。
 夜の森のシーンなど暗くてあたりまえのシーンは仕方ないものの、それ以外のシーンで光を入れてメリハリをつけてほしいものだ。

 オーストラリアのホラー映画って珍しい。
 オーストラリアって言うと、気さくで大らかで楽天的なオージーというイメージを持つが、実際の出来事をもとにした映画『スノータウン』に見るように、結構、残虐非道の猟奇的事件の多い国である。
 振幅の幅の大きさを感じさせる国だ。


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OpenClipart-Vectors
によるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★

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● ヒルビリーとは? 映画:『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク監督)

2010年アメリカ
100分

 その昔、ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985)を観たとき、はじめてアメリカには「アーミッシュ」と呼ばれるドイツ系移民の宗教集団があることを知り、彼らが電気もガスも自動車も使わない前近代的な質素でストイックな生活をいまも送っていることに驚いた。
 アメリカって広いなあ、キリスト教って奥深いなあ、信仰って不思議だなあ、と思ったものである。

 晩年をアメリカで過ごした覚者クリシュナムルティが、アメリカの特徴を人に問われて、「多様性」と一言でまとめていたが、たしかに人種と宗教と民族文化の多様性や複雑さは日本とは比較にならない。
 国を一つにまとめるには、強力な権限を持つ憲法や武力に頼るしかないというお国事情がよくわかる。(逆に言えば、アメリカという国は一枚岩でないので、「一筋縄ではいかない」という特徴にも強みにもなる。)


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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像


 この映画もまた、これまでソルティがよく知らなかったスコットランド系移民(スコッチ・アイリッシュ)の特殊な生活文化を背景としている。

 本作は、アメリカ中西部のミズーリ州オザーク高原を舞台に、「ヒルビリー(丘のスコットランド人)」と呼ばれる人々の生活を背景として展開する。
 彼らは、19世紀に山腹の痩せた土地に定住した移民の子孫で、キリスト教徒の白人だが、いくつかの姓に属する人々が血縁と姻戚関係によって強く結びつき、独特の閉鎖的な因習と「掟(おきて)」が、法律よりも重んじられている。(ウィキペディア「ウィンターズ・ボーン」より抜粋)

 こうした背景を知らないと、「一体これ、いつの時代の話だよ」、「無法地帯かよ」、「なんでこんなおっかない土地にあえて住み続けるんだよ」と、不思議に思わざるを得ないだろう。
 よそ者がドライブ中にうっかり道を間違えて入り込んだら、二度と出てこられないんじゃないかと思うような殺伐とした不穏なムードが漂う地帯である。
 「気性が荒く戦闘的。社会よりも個人を優先。反政府の傾向が強い。」と評する人もいる。
  
 そんな土地に生まれ育った17歳の少女リーは、麻薬の密造で逮捕され保釈されたあと行方不明となった父親、心を病んで家事ができない母親にかわって、家を守り、幼い弟と妹を一人で育てていた。
 ある日、一人の男がやって来てリーに告げる。
 父親が次の裁判に出頭しなければ保釈金はそのまま没収される。
 保釈金を作る際に担保とした家と土地は売りに出されることになる。
 かくして、リーは父親探しを決意する。
 
 スリル満点なストーリー展開も、どんでん返しのような仕掛けも、派手なアクションシーンもない。
 家と土地と家族を守るためにやくざな父親を探す、気骨ある少女の地味な、しかし不屈な闘いの物語である。
 その過程を通じて、彼女もまさしくスコッチ・アイリッシュの血を汲む一族の者であることを、自らに、そして周囲の同族たちに証明してみせる。

 少女リー役のジェニファー・ローレンスの演技は、神が乗り移ったかのよう。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● ナチュラルな演技 映画:『迫り来る嵐』(ドン・ユエ監督)

2017年中国
119分

 中国発の上質で濃厚なフィルム・ノワール(犯罪映画)。
 東京国際映画祭で芸術貢献賞および最優秀男優賞を受賞するなど、評価も高い。
 
 観ていて想起したのは、なんと、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955)であった。
 90年代末の中国の田舎町を舞台にしたフィルム・ノワールと、50年代日本の離島のやさぐれた男女の恋愛物語をつなぐものはなにか?

 雨、である。

 とにかく、最初から最後まで雨が降っている。
 遠雷が鳴り響いている。
 道がぬかるんでいる。
 登場人物たちはぐっしょり濡れている。

 この映画の本当の主役は間違いなく「雨」である。
 画面に、そして物語全体に、陰鬱さと閉塞感と沈滞と救い難さをもたらす「雨」の自然な演技こそ、特筆すべき点である。
 これが、ピーカンの日々のもとに同じ物語が進行したとするなら、ここまで陰影豊かな作品にはならなかったであろう。
 そこが、成瀬の傑作と共通しているのだ。

 連続殺人事件の犯人を追うというテーマゆえ、ミステリーあるいはサスペンスに分類されて然るべき作品ではあるが、本質はアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』同様、上昇志向をもった青年ユイ(=ドアン・イーホン)の挫折と絶望の物語であり、苦い人生のドラマである。

 いや、ユイのみならず、登場人物の誰もが閉塞感と絶望のうちにある。
 これが香港返還に湧く90年代末の中国の真実の姿だったのだろうか?
 つい天安門事件(1987)を思い起こすことになった。


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おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
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アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 奇蹟のトリオ 映画:『白痴』(黒澤明監督)

1951年松竹
166分、白黒

 ドストエフスキーの世界的名作に黒澤が果敢にチャレンジし、残念ながら敗退した――興行的でなく内容的に――作品である。
 
 一番の敗因は思うに、ドストエフスキーあるいはトルストイでもツルゲーネフでもいいが、ロシアの小説を日本の地にそのまま移管できるのか、という点にある。
 チェーホフならできる。
 実際、彼の書いた戯曲は日本でも長い上演の歴史がある。
 だがそれは、日本の役者が赤や金のカツラをかぶって、白粉を塗りたくって、ドレスや狩猟服を着て、アリューシャやミハイロフやイヴァンに成りすまして劇中のロシア人を演じるからである。
 そのとき観客が舞台の上に見ているのは、日本人でなくロシア人なのだ。
 舞台の魔術はそれを可能にする。
 
 黒澤はここで、原作の筋書きはほぼそのままに、舞台を札幌に移し、登場人物の名前をすべて日本名(例:ナスターシャ→那須妙子)に変え、日本で起こった出来事として描いている。
 それが結局、作品からリアリティを奪ってしまった。
 日本人とは相当に異なるであろうロシア人の性格、言動、習慣を、日本人(の役者)がそのまま引き継いでいるので、話が絵空事のようになって、人物たちが浮いてしまっている。
 登場人物がみな異常に激しやすく大仰に見えるのは、ロシア人なら直情径行で短気な国民性(+ウォッカ)ということで納得できるが、日本人が同じことをやると違和感が大きい。
 たとえ、北海道という、日本の伝統的農村文化から最も遠いところにある土地を舞台に設定したとしても。
 
 それを象徴するのが、三船敏郎のガウンである。
 黒澤は、三船演じる乱暴者の赤間伝吉(原作ではロゴージン)の部屋をわざわざロシアっぽい内装にして、暖炉を焚かせ、ロウソクを灯す。三船は、西洋人のようにガウンを着て、グラスに入った洋酒らしきを傾ける。
 そのガウン姿が、どう見ても、これからリングに上がるプロボクサーとしか見えないのである。
 
 赤毛のカツラをつけた日本人が西洋人を演じても通ってしまう舞台とは違って、映画はSFやファンタジーやコメディでない限り、相応のリアリティを要求される。
 とりわけ黒澤作品は、リアリティあってこそ精彩を放つ。
 その読み違いが、この映画の本質的な欠陥と言える。
 
 とは言え、魅力はたくさんある。
 何と言っても、三船敏郎、森雅之、原節子の3大スター競演!
 しかも、知的かつ複雑なキャラを演じることの多い森雅之が、心のきれいな白痴=亀田欽司(ムイシュキン公爵)を演じ、清純かつ優しいキャラを演じることの多い原節子が、暗い過去を持つ魔性の女=那須妙子(ナスターシャ)を演じているのが、興趣をそそる。
 
 名優の誉れ高い森は、さすがに見事に“白痴”を演じてはいる。
 『安城家の舞踏会』で演じたニヒルで皮肉家の没落華族の御曹司とは180度異なる。
 が、どうだろう? 
 作品中で森演じる“白痴”の亀田は、彼と接する周囲の人をその純粋さにより善人に変えてしまうが、ソルティにはそこまでの威力を森の演技からは感じとれなかった。
 もっとも、難しい役には違いないが。

 一方、原の魔性の女は、予想したよりずっとハマっていて素晴らしい。
 雪の白さに映える氷のごとき美貌は、グレタ・ガルボを思わせる孤高さと魔力。
 抑制のうちにも複雑な感情を伝えるその表情や演技も堂に入っている。
 これを観ると、原が「大根女優」と言われたのが信じられない。

 三船はあいかわらず、野郎っぽく、セクシーで、演技もうまい。
 どんな役にもなりきれるカメレオンのようなタイプの俳優である。


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左から、森雅之、三船敏郎、原節子
 

 この主役トリオを他の役者で組むとしたら・・・・・。
 ソルティは次のトリオが面白いと思う。
 
 那須妙子(ナスターシャ)=暗い過去ある魔性の女=小川真由美
 赤間伝吉(ロゴージン)=ナスターシャの男で乱暴者=三國連太郎
 亀田欽司(ムイシュキン公爵)=心のきれいな白痴=河津祐介

 ただし、大野里子(リザヴェータ夫人)役の東山千栄子はそのままで。
 
 いかがだろう?
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)

2019年韓国
132分

 カンヌ映画祭パルム・ドールと米国アカデミー賞作品賞を受賞した話題のブラックコメディ&スリラー。

 カンヌはともかくとして、オスカー作品賞はなぜ?――と思った。
 韓国語作品で制作も韓国だから、外国語映画賞なら分かる。日本映画でもかなり前にモックン主演『おくりびと』(2008年滝田洋二郎監督)が受賞している。
 なぜに作品賞が可能なの?

 調べてみたら、アカデミー作品賞の選考基準は以下の通りであった。

原則として前年の1年間にノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く、など)を満たした映画作品について扱われる。(ウィキペディア『アカデミー賞』より抜粋)
 
 つまり、米国以外の国が制作した英語以外の作品でもOKなのだ。
 『パラサイト』は作品の出来+配給元の力量により、上記の条件を満たし得たのであろう。
 ともあれ、米国アカデミー賞の長い歴史において、英語以外の作品が作品賞を受賞したのは初めてだというから、まぎれもない快挙である。

 この快挙には、やはり社会世相というものが影響しているのは間違いなかろう。
 というのも、本作のテーマは同じ2019年に公開され話題となった『ジョーカー』、『 Us アス』と共通するからであり、はからずも今年になってそれら2作品をミックスして現実化したかのような事件――白人警官の暴力による黒人男性窒息死に端を発しアメリカ全土に広がった暴動――の根っこに潜むひずみを描いているからである。
 すなわち、格差社会である。

 こうした流れを見ていると、映画という表現媒体のもつ先見性というか、嗅覚の鋭さというか、時代を読む力というものに改めて驚かざるを得ない。
 いや、映画に限らず、文学でも絵画でも音楽でも舞踏でも、すぐれた芸術作品は、大衆の無意識や時代の行方を敏感を読んで、先取って表現するものなのだ。

 実際この映画は、コメディとしてもスリラーとしても社会ドラマとしてもよくできている。
 笑って、ハラハラして、ドキドキして、衝撃を受け、最後に重たい気分になり、鑑賞後は深く考えさせられる。
 一級のエンターテインメントでありながら、格差社会の不条理を鋭く打つ力作である。


さいころピラミッド

 
 韓国を代表する名優、ソン・ガンホの演技が素晴らしい。
 格差社会の底辺をしぶとくも楽天的に生きる一家の、愛情深い父親を見事に演じている。
 彼の吐くセリフが深い。

 大雨のため一家の住む貧民街の半地下の家々が水浸しになり、住民たちは近くの体育館に避難し、夜を過ごす。
 製材所に置かれた丸太のように、多くの避難民ととともに体育館の床に並んで横たわりながら、「これからどうするのか?」と聞く息子に対して、父親は語る。

ノープランが一番だ。
計画を立てると必ず、人生そのとおりにいかない。
皆を見てみろ。今日体育館に泊まるって計画したと思うか?
でもどうだ、皆床にころがっている。
だから人は無計画なほうがいい。
計画がなければ間違いもない。最初から計画を持たなければ、何が起きても関係ない。
人を殺そうが、国を裏切ろうが、いっさい関係ない。

 格差社会の底辺から這い上がることもままならず、底が抜けた絶望の果てに生まれた人生哲学。
 アメリカも、韓国も、日本も、国籍に関係ない箴言である。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 奇蹟の一枚 映画 : 『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)

1937年日本、ドイツ
106分、白黒

 制作年の1937年とは、日独伊三国防共協定が締結された年であり、日本が満蒙開拓に力を入れていた頃である。
 そんな時代の日独合作であるから、当然、国策映画である。
 ドイツの観客に対しては、日本という国や文化および日本人について知ってもらい好印象を与えること、日本の満州支配について理解を持ってもらうこと、が狙われている。ドイツとは、ナチスドイツである。
 日本の観客に対しては、日本の風土や文化の素晴らしさ、勤勉や礼節や親孝行や愛国心などの美徳、天皇への忠誠を訴えかけ、やはり満州開拓(植民地化)の必要性を説くものとなっている。日本とは、大日本帝国である。
 時代と制作背景を伝えるシーンがある。


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 協同監督として日本からは伊丹万作(伊丹十三監督の父親)が関わっているのだが、制作上の行き違いから両監督の対立となり、結局、ファンク版と伊丹版の二つのフィルムが作られた。現在、観ることのできるのはファンク版のほうである。
 そのことが、かえってこの映画をたいへん興味深い、愉快なものにしている。
 ドイツ人ファンクがはじめて見た日本という国、日本人という国民が、その驚きと感動のままに誇張して描き出されているのである。
 一昔前の西洋人がイメージした典型的な日本のオンパレード。その徹底した「ザ・日本」ぶりに、国策映画と知りながらも、笑いがこみあげてくる。

富士山、 桜吹雪、 相撲、 芸者、 三味線、 日本舞踊、 お能、 お茶、 虚無僧、 キモノ、 日本髪、 藁ぶき屋根、 水田、 棚田、 長襦袢、 地震、 ひな人形、 なぎなた、 剣道、 厳島神社、 お寺、 仏像、 神道、 書道、 たたみ、 襖、 布団、 囲炉裏、 武士道、 浅間山、 鉦つき行者、 蝶々夫人・・・・。

 こうした日本的表象が、時も場所もいっさい脈絡なく、縦横無尽に(でたらめに)次々と繰り出されるものだから、日本人が見たらツッコミどころ満載のへんてこりんになっている。
 たとえば、厳島神社で鹿と遊んでいる振り袖姿の少女が、女中に呼ばれて池のある日本庭園を通り抜けると、東京にある日本家屋のすまいにつながるという、ゴダールびっくりのモンタージュである。

 ストーリーの奇想天外もすごい。
 ドイツに留学した男・輝雄(=小杉勇)は、個人主義を知ってすっかり西欧かぶれしてしまい、帰国したのち、親が決めた婚約者・光子(=原節子)をふる。
 絶望した光子は自害する決心をする。
 しかし輝雄は日本の風土や文化の良さに目が開かれ、周囲の説得を受け、家や親を守ることの大切さに気づく。
 光子との結婚を決めた輝雄は、光子の家に向かう。
 が、光子は書置きを残し、婚礼衣装を手に、浅間山に向かっていた。

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 クライマックスは、噴火中の浅間山で、靴下だけの輝雄が、死に場所を求めている光子を探し回るシーンである。
 なぜ火山なのか不思議に思うところだが、これはファンク監督が山岳映画を得意としていたからである。
 実際、なかなか迫力あるスぺクタルな登山シーンで、「いや、二人とも山頂に達する前に有毒ガスでやられるでしょ?」というツッコミをものともしない。
 振り袖姿に草履ばきのまま、汚れもせずに頂上付近まで登ったナデシコ・ジャパン光子の強靭さには、ドイツの観客たちは恐れ入ったはずだ。
 火山礫が飛び交い、火山灰が降り注ぎ、溶岩が流れ、地震で民家がぺちゃんこに倒壊する中、無事ふもとまで戻った二人は、結婚して子供もできて、新天地満州で幸福に暮らす。

 伊丹万作をはじめとする日本側スタッフが異議を申し立てたくなったのも無理はないと思う。
 が、この破壊的な面白さは日本人には出せなかっただろう。
 日本を知らないドイツの観客を念頭において、日本をよく知らないドイツの監督が撮ったからこそ、ここまで奇想天外で自由な発想が可能だったのだ。

 そしてまた、当時16歳の原節子の破壊的魅力もしかり。
 とんでもない美少女ぶりである。
 同じ年齢時の吉永小百合や後藤久美子、いわんや橋本環奈も、なにするものぞ。
 生来の造形的な美しさのみならず、原節子が内に秘めていたどこか刹那的な空虚のようなものを、ファンク監督は見抜いて引き出している。
 それは、後年、原が小津安二郎監督と出会って、はじめて十全に引き出されたものである。
 ただの美少女タレント、美人女優には決して終わらないであろうことを、このフィルムは予告してあまりある。

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やまとなでしこ!


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この美貌!


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奇蹟の一枚!


 ほかにも、日本のハリウッドスター第1号たる早川雪洲が原の父親役で出演、音楽を山田耕筰、特撮技術を円谷英二が担当しているのも見逃せない。
 
 いろんな意味で永久保存にふさわしい第一級の珍品映画である。

 

おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画 : 『名探偵ホームズ/黒馬車の影』(ボブ・クラーク監督)

979年イギリス カナダ
124分

 DVDパッケージ解説の「数あるシャーロック・ホームズの映像化作品の中でも屈指の名作」という謳い文句に誘われ借りてみた。
 「だまされた~」とまでは言わないが、「屈指の名作」は言い過ぎ。

 19世紀ロンドンに実在した連続猟奇殺人魔・切り裂きジャックとの対決を呼び物としているように、コナン・ドイルの原作ではない。
 それはいいとしても、肝心のホームズ(=クリストファー・プラマー)の推理がさえず、謎の解き明かしの大部分を霊媒(=ドナルド・サザーランド)に頼るというのがいただけない。
 しかもこのホームズ、勘も鈍く、運動神経もいまいち。大事なところで気絶するは、人前で涙で頬を濡らすは、怒りにまかせて病院内で乱闘騒ぎを起こすは、黒幕たちを前に法廷弁護士のような縷々の大演説をぶつは、原作のホームズとかけ離れている。
 朋友ワトソンへの愛情あらわなまなざしといい、人間らしさを強調したホームズ像と言えなくもない。
 が、シャーロキアンのソルティにしてみれば、「こんなのホームズじゃない!」とぼっそり呟きたくなる。

 19世紀末のロンドンの街の風情を堪能できる映像はよい。
 朴訥として人の好いワトソンを演じるジェームズ・メイソンの名優ぶりも光っている。


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おすすめ度 : ★★

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● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

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カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 映画:『CLIMAX クライマックス』(ギャスパー・ノエ監督)

2018年フランス、ベルギー
96分

 三度の飯よりダンスが好きな22人の若者たちが、公演のリハーサル後のパーティーで知らずにLSDを飲んでしまい、次第に常軌を逸して、地獄の饗宴へと化していく様を描く。
 「覚醒剤やめますか? 人間やめますか?」を地で行く作品である。

 演技未経験の若者を集めたらしいが、ダンスは本当にすごい。
 身体能力とリズム感、それに流れている音楽に自然に身をまかすレイブ感覚は、ソルティのようなオジサン・オバサンにはまったく縁のないものである。
 人体の可動範囲の限界に挑戦するかのような振付けもすごい。ルカ・グァダニーノ監督の『サスペリア』を思い出した。
 そう、まさにサバトの夜である。


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 ギャスパー・ノエ監督の作品を観るのはこれが初めてだが、話題になった『アレックス』(2002)はじめ、暴力と異常なセックスをテーマにした斬新な映像が特徴のようだ。
 こういったものを50歳過ぎても撮り続けるには、幼少期の相当なトラウマを必要とするだろう。
 ノエ監督の先が危ぶまれる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● 映画:『まぼろしの市街戦』(フィリップ・ド・ブロカ監督)

 1966年フランス、イタリア
 102分

 原題 Le Roi de Cœur は「ハートの王様」
 邦題から戦争映画のイメージがあるが――いや実際、第一次大戦時のフランスを舞台とする反戦映画なのだが――、一風変わったシュールなコメディである。
 その「一風変わったシュールさ」は、主要な登場人物が精神病院から抜け出した患者たちで、戦地における彼らの自由で奇矯な振る舞いを描くことが、この映画のツボだからである。
 精神病院の内と外、いったいどっちが狂ってる?
 患者の人権が唱えられる現在では、もはや容易には創れない作品かもしれない。

 フランスの田舎に残る中世の古い街並みと、色とりどり派手に着飾った精神病患者たちの対比が面白い。
 主演のアラン・ベイツは、ロバート・アルトマン監督の『ゴスフォード・パーク』(2001)で執事ジェニングスを演じた英国の名優。
 最後のシーンで、二人の尼さんを前にして全裸の後ろ姿を披露しているが、このシーンを観たとき、「あっ、この映画、子どもの頃に見た!」と思い出した。
 このシチュエーションに強烈な印象を覚えたのだろう(笑)
 1974年に日曜洋画劇場(解説:淀川長治さん)で放映されている。
  
 いまもカルト的な人気を博している作品で、2018年に4Kデジタル修復版が公開された。


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アラン・ベイツ本人じゃないかもね・・・


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 逆打ち伝説 映画 : 『死国』(長崎俊一監督)

1999年
100分

 原作は坂東眞砂子のホラー小説。
 四国と四国遍路のイメージ悪化に寄与した作品である(笑)
 
 四国遍路を札所の順番通り(時計回り)に回ることを順打ち、順番とは逆に回ることを逆打ち(さかうち)と言う。
 一昨年の秋、ソルティが遍路しているときも、逆打ちのお遍路さんとずいぶん擦れ違ったものである。歩きだけでなく、自転車の人も多かった。(自転車だと、「逆打ちのほうが下りが多くてラク」と言っていた)
 大方は、すでに順打ちを何回か済ませているので今回は逆打ちに挑戦してみた、という人が多かった。
 しばしば耳にしたが、「逆打ちは順打ちの2倍のご利益がある」そうである。
 ソルティも、いつの日か逆打ちに挑戦してみたい。(そのためにも足のリハビリ頑張らねば!)

 この映画では、なんとその逆打ちが恐ろしい所業として描かれる。
 「死んだ子の歳の数だけ逆打ちすると、その子が生き返る」という設定で。
 弘法大師も真念上人もビックリである。


前山おへんろ交流サロン
88番札所手前にある前山おへんろサロン
 
 高知の山間の村に古くから住む日浦家は、口寄せを家業とする。呪術を使い、亡くなった人の霊を呼び出して巫女に乗り移らせ、生者にメッセージを伝える。
 呪術者である母親(=根岸季衣)の命で、子供の頃から巫女をやらされてきた莎代里(=栗山千明)は、十六の歳に事故で死んでしまう。
 母親は莎代里を生き返らせようと、白装束に身を固め、編み笠をかぶり、わらじを履き、金剛杖をつき、逆打ちの旅に出る。

 妄執に憑かれた母親を演じる根岸季衣がイイ味を出している。
 実際、こんな女と遍路の山道で会ったら怖いだろうなあ~。
 ソルティは、お四国病にかかって何周もぐるぐるしている、独り言の多い目つきの怪しいオジサン遍路は見かけたが・・・。

 死国からよみがえった莎代里を演じる栗山千明は、本作が本格的な映画デビューだったそうだが、実に役にハマっていて、胸元まで伸びた漆黒のストレートヘアが怖いながらも美しい。
 先輩俳優に伍しながら存在感ピカ一で、目が離せない。
 その後の活躍がうなずける鮮烈なデビューと言えよう。
 (この人が2006年にやったTVドラマ・横溝正史作『女王蜂』の大道寺智子も良かった)


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莎代里を演じる栗山千明


 2020年現在の四国には、このような禍々しい物語が生み出される土俗的雰囲気も、このような映画が撮影できる昔ながらのロケ地も残ってはいまい。
 インターネットのおかげで四国遍路もすっかり国際色豊かになり、外国人遍路を見ない日のほうが少なかった。
 いまや四国遍路は、「大人のオリエンテーリング」と言ってもそうはずしてはいまい。(ただし、所要時間を競うものではないが)


 新型コロナのせいで、現在、遍路する人は激減している。(4月中旬から5月初旬までほとんどの札所の納経所は閉鎖していたようだ)
 少しでも早く、コロナに終息がもたらされ、四国遍路がよみがえるよう、札所の名前を88から逆に唱えてみました。
 ――というのは冗談で、遍路で覚えた光明真言を唱えてみました。
 
 オンアボキャ ベイロシャノウ
 マカボダラ マニ
 ハンドマジンバラ ハラバリタヤウン


 不空真実なる大日如来よ 
 偉大なる光明により
 暗き世を明るく照らしたまえ
 

大日如来



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 必聴映画 : 『ギルティ』(グスタフ・モーラー監督)

2018年デンマーク
85分

 とてつもない映画である。
 創作表現の可能性の限りなさを、観る者に衝撃とともに知らしめる。

 まず、ほぼ一人芝居に終始する。
 登場人物は複数いるものの、ストーリーにからむ主要キャラは、主役で出ずっぱりの警官アスガー(=ヤコブ・セーダーグレン)をのぞけば、電話の向こうの声のみ。あとは、画面には映るけれど背景的人物にすぎない。
 次に、物語の舞台すなわち撮影現場は一カ所のみである。カメラはその部屋から一歩たりとも、一秒たりとも、外に出ない。
 最後に、映画的時間と物語的時間とが完全に一致している。つまり、85分間の上映(=鑑賞)時間はそのまま、アスガー含む登場人物たちが過ごす映画の中の85分の生活時間と重なる。
 これ以上にない見事な三一致。
 その上に、この映画は手に汗握る極上の犯罪サスペンスなのだ。

三一致の法則
演劇用語。「三統一の規則」または「三単一の法則」ともいわれる。戯曲は24時間以内の、一つの場所で起こる、筋が一つの物語を扱わねばならないとするもの。
(小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋)

 なぜこんな離れ業が可能なのかと言えば、物語の舞台が緊急通報指令室、すなわち日本の110番みたいな市民からの緊急通報を集約するオペレーションセンターで、主役の警官アスガーは――どういう理由からかは最後まで明かされないが――そこでボランティアのオペレーターをしているからである。
 物語は、アスガーがたまたま受信した、女性からの緊急通報に端を発する誘拐事件のてんまつを、電話のこちら側とあちら側の人の声と物音のみを拾いながら描いていく。
 聴覚が想像力を刺激し、音が物語を作っていく。
 ここにあるのは、映画を「観る」というより、映画を「聴く」という無類の体験なのである! 

 とは言え、この趣向には先例がある。
 2013年のイギリス映画『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(スティーヴン・ナイト監督)が、やはり三一致の法則に徹した一人芝居で、電話をうまく利用したスリラー&人間ドラマであった。  
 おそらく、有名作曲家に似た名前をもつモーラー監督は、『オン・ザ・ハイウェイ』を観て、この犯罪ドラマの設定を思いついたのだろう。
 その意味では二番煎じなのであるが、「模倣」、「マネっこ」、「二匹目のどじょう」といった悪口はまったく出てこないほどの、緊迫感あふれる見事な作品に仕上がっている。

 アスガー役のヤコブ・セーダーグレンの主演男優賞総なめ確実の演技(芝居に自信がある男優で、この役をやりたがらない者がいるだろうか?)、計算し尽くされた無駄のない脚本、観る者(聴く者)を仰天させる犯罪サスペンスとしての出来の良さ、そして・・・・・映画の本当の主役と言える「音」の絶大なる効果。

 まさに必見、いや必聴の一編である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 三船敏郎のケツと汗 映画:『野良犬』(黒澤明監督)

1949年東宝
122分、白黒

 いまさら評すまでもない黒澤映画の傑作。
 同じ黒澤の『天国と地獄』と並び、その後の日本の刑事ドラマ――『砂の器』、『七人の刑事』、『太陽にほえろ!』、『西部警察』、『踊る大捜査線』等々――の基本型をつくった作品と言えよう。
 全編に漲るリアリティ、庶民性、迫力、抒情性、そして志村喬をはじめとするベテラン役者たちの演技に魅了される。
 主演の三船敏郎の色気にはクラクラさせられる。
 あのケツの肉付きよ!

 舞台は闇市が立ち並び、コケた頬の復員服姿の男がうろうろする戦後の東京。
 新米刑事の村上(=三船敏郎)は、混雑するバスの中でピストルを掏られる。
 そのピストルを使用した強盗や殺人、先輩刑事への襲撃が続く中で、村上は苦悩し、犯人探しに執念を燃やす。

 戦後の日本の貧しさ、汚らしさ、暑苦しさが実によく描かれ、生々しく伝わってくる。
 とくに暑苦しさ!

 物語は夏の盛りで、登場人物たちは誰もみな、吹き出る汗をハンカチでしきりにぬぐい、団扇や扇子で顔や胸をひたすら扇ぎ、扇風機を一人占めにし、「暑い、暑い」と繰り返す。
 一昔前の日本の夏はそんなに暑かったのか?
 ――と一瞬思うが、むろん今のほうが暑い。
 
 気象庁のデータを見ると、この映画が撮られた1949年8月の東京の平均気温は26.6度、前後3年(1946~52年)の平均をとってもそのくらいである。
 一方、2019年8月の東京の平均気温は28.4度だった。過去6年(2013年~)を加味した平均は 27.6度。
 つまり、映画製作当時よりも真夏の平均気温が1度上昇している。
 たった1度と思うなかれ。
 月の平均気温が1度上がるということは、3日に1日は30度近い日(26.6+3.0)があるということだ。最高気温でなく、一日の平均気温が!・・・である。


流氷に乗った白熊

 全編を覆うこの映画の暑苦しさの理由は、もちろんシロクマくん(=エアコン)がなかったからである。
 エアコンが一般家庭に普及したのは昭和40年代に入ってからで、平成に入ってやっと6割を超えた。現在の普及率9割程度である。(参考「ガベージニュース」)
 つまり、昭和時代、会社やホテルや喫茶店や公共施設は別として、一般家庭でエアコンがあるのは4割以下に過ぎず、しかも今のように各部屋に一台ずつ備わっているなんてのは、スネ夫の家のような、よっぽどの金持ちに限られていたのだ。
 外回りして聞き込み捜査する刑事たちは、汗みずくにならざるをえなかった。
 真っ黒に日焼けせざるを得なかった。

 ソルティは、平成以降の刑事ドラマにどうにも興味が湧かないのであるが、たぶんその理由の一つは、登場する刑事たちが汗をかかなくなった、シャツを背中に張り付かせなくなった、清潔に(無機質に)なってきた、というあたりにある。
 だってねえ、三船敏郎の汗の美しさといったら・・・。


三船敏郎の汗



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 映画:『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン監督)

2011年アメリカ
102分

 TUTAYAのサスペンス&ミステリーのコーナーにあったので、「結末は誰にも教えないでください」的なサイコストーリーかと思ったら、案外ちゃんとした心理ドラマであった。

 カルト団体での2年間の集団生活から逃げ出した少女マーサの後遺症を、丁寧に描いたものである。
 映像が見事。

 カルト団体に加入したばかりの新人に対し、古くからの仲間たちは言う。
 「ここでのあなたの役割を見つけなさい」
 集団の中で独自の役割を持たせること。
 それが団体依存させるコツなのだろう。
 
 マーサの姉役のサラ・ポールソンが好演している。
 ニコール・キッドマン似の金髪美女で、2007年にレズビアンをカミングアウトしている。
 カミングアウト後もヘテロ女性の役を普通に演じられるところが、アメリカショービズ界のふところの深さか・・・。
 演技なのだから、演じる俳優のセクシュアリティは演じる役のそれとは本来なら関係ないのだけれど、日本だったらどうだろう・・・?


百合



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 本:『描かれた被差別部落 映画の中の自画像と他者像』(黒川みどり著)

2011年岩波書店

 部落解放同盟による映画『橋のない川』上映阻止事件について調べていたら、この書に行き当たった。
 著者の黒川みどりの講演を聴いたことがある。ドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』の上映会に際してであった。日本近現代史を専門とする大学教授で、部落問題についてくわしい人である。

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 本書は、「戦後における部落問題の変遷を映画作品を通して明らかにしようとする」試みで、題材として取り上げられている映画は以下の通り。
  1.  1947年 木下惠介監督 『破戒』
  2.  1960年 亀井文夫監督 『人間みな兄弟 部落差別の記録
  3.  1962年 市川崑監督 『破戒
  4.  1969年 今井正監督 『 橋のない川 第一部
  5.  1970年 今井正監督 『橋のない川 第二部
  6.  1986年 小池征人監督 『人間の街――大阪・被差別部落』
  7.  1988年 小池征人監督 『家族――部落差別を生きる』
  8.  1992年 東陽一監督 『橋のない川』
 今のところソルティが観ているのはリンクを付けた4作品だけなので、本書での著者の所論についてコメントする立場にはない。
 単なる感想を言えば、たいへん興味深く、面白かった。
 映画評論としても読めるし、部落問題の研究書としても啓発的であるし、マイノリティの解放運動における芸術表現のありようを考えるといった視点からも考えさせられることが多かった。

 3つめの「マイノリティの解放運動における芸術表現のありよう」というのは、たとえば、こういうことである。
 
部落問題の深刻さ、部落外との格差の大きさを強調すればするほど、それは差別の徴表を際だたせることになり、そこからは、被差別部落の作り手と被差別当事者の一致する範囲を超えて、当事者が望まない被差別部落表象が受け手の側に生まれることも十分にありうる。(表題書より引用)
 
 つまり、きびしい差別の現実を深刻に描けば描くほど、当事者に付与されているスティグマ(=マイナスイメージ)を強固にしてしまい、映画を観る非当事者の間に、さらなる差別意識を植えつけてしまうリスクがある、ということだ。
 基本的にはこれが、解放同盟が今井正監督『橋のない川』を批判し、上映阻止行動に走った要因と思われる。

 一方、当事者自身が自ら望むスタイルと内容でもって――たとえば、「ブラック・イズ・ビューティフル!」とか「ゲイプライド!」といったような――自己表現したときに、当事者の自己肯定を高める効果は見逃せないものの、それが果たして社会にどれだけのインパクトを与えられるかというと、いささか心もとない感がある。
 なぜなら、この情報過多&スポンサー重視&刺激追求社会で、少しでも多くの人に視聴してもらい、感情を揺り動かし、マイノリティの置かれている現状に関心を持ってもらい、運動を支援してもらうためには、残念ながら、受け手に「ショックを与える」演出が求められるからである。
 とりわけ、なんらかの政治的成果を短期間で得たいならば、メディアに取り上げられ、世論を動かし、政治家が重い腰を上げたくなるような「悲劇的物語」が望まれる傾向がある。
 
 これはなにも部落問題に限ることなく、障害者、LGBT、在日外国人、アイヌ、HIV感染者、ハンセン病患者などマイノリティ全般に共通する解放運動上のジレンマと言えよう。 
 本書の副題にある「自画像と他者像」とはそういった意味合いと思われる。
 当事者自身が望んで描く「自画像」と、多くの非当事者からなる社会が期待しイメージする「マイノリティ像(=他者像)」との間には、少なからぬギャップがあるのだ。

 そこで、老獪なる運動家であるほど、ぬらりくらりとした戦略をとる。
 ある政治的局面では、社会が望む「他者像」をとりあえず肯定し、自らもそのように振舞い、余人の注意を引きつける。別の局面では、社会から押し付けられる「他者像」を否定し、自ら望む「自画像」を訴え出る。
 よっぽど当事者のスティグマを強化しそうに個人的には思われる1960年『人間みな兄弟 部落差別の記録』が解放同盟のお墨付きを受けたのに、それよりもずっとソフトな内容と思われる1969、70年の今井正版『橋のない川』が同団体から批判の矢を浴びたのは、そういった時代・政治的背景や当事者の権利意識や自己表現力の向上といった点を考慮に入れる必要があるのだろう。
 
 いずれにせよ、芸術作品というものは、作った人間の意図を離れて、時代や地域や文化や大衆の意識の変化などに応じて、様々に評価され、様々に解釈され、様々に翻案・脚色・編集・演出され、新しい命を与えられる。
 それが芸術作品の宿命であり、特権なのだ。



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