ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

映画

● 奇蹟のトリオ 映画:『白痴』(黒澤明監督)

1951年松竹
166分、白黒

 ドストエフスキーの世界的名作に黒澤が果敢にチャレンジし、残念ながら敗退した――興行的でなく内容的に――作品である。
 
 一番の敗因は思うに、ドストエフスキーあるいはトルストイでもツルゲーネフでもいいが、ロシアの小説を日本の地にそのまま移管できるのか、という点にある。
 チェーホフならできる。
 実際、彼の書いた戯曲は日本でも長い上演の歴史がある。
 だがそれは、日本の役者が赤や金のカツラをかぶって、白粉を塗りたくって、ドレスや狩猟服を着て、アリューシャやミハイロフやイヴァンに成りすまして劇中のロシア人を演じるからである。
 そのとき観客が舞台の上に見ているのは、日本人でなくロシア人なのだ。
 舞台の魔術はそれを可能にする。
 
 黒澤はここで、原作の筋書きはほぼそのままに、舞台を札幌に移し、登場人物の名前をすべて日本名(例:ナスターシャ→那須妙子)に変え、日本で起こった出来事として描いている。
 それが結局、作品からリアリティを奪ってしまった。
 日本人とは相当に異なるであろうロシア人の性格、言動、習慣を、日本人(の役者)がそのまま引き継いでいるので、話が絵空事のようになって、人物たちが浮いてしまっている。
 登場人物がみな異常に激しやすく大仰に見えるのは、ロシア人なら直情径行で短気な国民性(+ウォッカ)ということで納得できるが、日本人が同じことをやると違和感が大きい。
 たとえ、北海道という、日本の伝統的農村文化から最も遠いところにある土地を舞台に設定したとしても。
 
 それを象徴するのが、三船敏郎のガウンである。
 黒澤は、三船演じる乱暴者の赤間伝吉(原作ではロゴージン)の部屋をわざわざロシアっぽい内装にして、暖炉を焚かせ、ロウソクを灯す。三船は、西洋人のようにガウンを着て、グラスに入った洋酒らしきを傾ける。
 そのガウン姿が、どう見ても、これからリングに上がるプロボクサーとしか見えないのである。
 
 赤毛のカツラをつけた日本人が西洋人を演じても通ってしまう舞台とは違って、映画はSFやファンタジーやコメディでない限り、相応のリアリティを要求される。
 とりわけ黒澤作品は、リアリティあってこそ精彩を放つ。
 その読み違いが、この映画の本質的な欠陥と言える。
 
 とは言え、魅力はたくさんある。
 何と言っても、三船敏郎、森雅之、原節子の3大スター競演!
 しかも、知的かつ複雑なキャラを演じることの多い森雅之が、心のきれいな白痴=亀田欽司(ムイシュキン公爵)を演じ、清純かつ優しいキャラを演じることの多い原節子が、暗い過去を持つ魔性の女=那須妙子(ナスターシャ)を演じているのが、興趣をそそる。
 
 名優の誉れ高い森は、さすがに見事に“白痴”を演じてはいる。
 『安城家の舞踏会』で演じたニヒルで皮肉家の没落華族の御曹司とは180度異なる。
 が、どうだろう? 
 作品中で森演じる“白痴”の亀田は、彼と接する周囲の人をその純粋さにより善人に変えてしまうが、ソルティにはそこまでの威力を森の演技からは感じとれなかった。
 もっとも、難しい役には違いないが。

 一方、原の魔性の女は、予想したよりずっとハマっていて素晴らしい。
 雪の白さに映える氷のごとき美貌は、グレタ・ガルボを思わせる孤高さと魔力。
 抑制のうちにも複雑な感情を伝えるその表情や演技も堂に入っている。
 これを観ると、原が「大根女優」と言われたのが信じられない。

 三船はあいかわらず、野郎っぽく、セクシーで、演技もうまい。
 どんな役にもなりきれるカメレオンのようなタイプの俳優である。


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左から、森雅之、三船敏郎、原節子
 

 この主役トリオを他の役者で組むとしたら・・・・・。
 ソルティは次のトリオが面白いと思う。
 
 那須妙子(ナスターシャ)=暗い過去ある魔性の女=小川真由美
 赤間伝吉(ロゴージン)=ナスターシャの男で乱暴者=三國連太郎
 亀田欽司(ムイシュキン公爵)=心のきれいな白痴=河津祐介

 ただし、大野里子(リザヴェータ夫人)役の東山千栄子はそのままで。
 
 いかがだろう?
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 映画:『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)

2019年韓国
132分

 カンヌ映画祭パルム・ドールと米国アカデミー賞作品賞を受賞した話題のブラックコメディ&スリラー。

 カンヌはともかくとして、オスカー作品賞はなぜ?――と思った。
 韓国語作品で制作も韓国だから、外国語映画賞なら分かる。日本映画でもかなり前にモックン主演『おくりびと』(2008年滝田洋二郎監督)が受賞している。
 なぜに作品賞が可能なの?

 調べてみたら、アカデミー作品賞の選考基準は以下の通りであった。

原則として前年の1年間にノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く、など)を満たした映画作品について扱われる。(ウィキペディア『アカデミー賞』より抜粋)
 
 つまり、米国以外の国が制作した英語以外の作品でもOKなのだ。
 『パラサイト』は作品の出来+配給元の力量により、上記の条件を満たし得たのであろう。
 ともあれ、米国アカデミー賞の長い歴史において、英語以外の作品が作品賞を受賞したのは初めてだというから、まぎれもない快挙である。

 この快挙には、やはり社会世相というものが影響しているのは間違いなかろう。
 というのも、本作のテーマは同じ2019年に公開され話題となった『ジョーカー』、『 Us アス』と共通するからであり、はからずも今年になってそれら2作品をミックスして現実化したかのような事件――白人警官の暴力による黒人男性窒息死に端を発しアメリカ全土に広がった暴動――の根っこに潜むひずみを描いているからである。
 すなわち、格差社会である。

 こうした流れを見ていると、映画という表現媒体のもつ先見性というか、嗅覚の鋭さというか、時代を読む力というものに改めて驚かざるを得ない。
 いや、映画に限らず、文学でも絵画でも音楽でも舞踏でも、すぐれた芸術作品は、大衆の無意識や時代の行方を敏感を読んで、先取って表現するものなのだ。

 実際この映画は、コメディとしてもスリラーとしても社会ドラマとしてもよくできている。
 笑って、ハラハラして、ドキドキして、衝撃を受け、最後に重たい気分になり、鑑賞後は深く考えさせられる。
 一級のエンターテインメントでありながら、格差社会の不条理を鋭く打つ力作である。


さいころピラミッド

 
 韓国を代表する名優、ソン・ガンホの演技が素晴らしい。
 格差社会の底辺をしぶとくも楽天的に生きる一家の、愛情深い父親を見事に演じている。
 彼の吐くセリフが深い。

 大雨のため一家の住む貧民街の半地下の家々が水浸しになり、住民たちは近くの体育館に避難し、夜を過ごす。
 製材所に置かれた丸太のように、多くの避難民ととともに体育館の床に並んで横たわりながら、「これからどうするのか?」と聞く息子に対して、父親は語る。

ノープランが一番だ。
計画を立てると必ず、人生そのとおりにいかない。
皆を見てみろ。今日体育館に泊まるって計画したと思うか?
でもどうだ、皆床にころがっている。
だから人は無計画なほうがいい。
計画がなければ間違いもない。最初から計画を持たなければ、何が起きても関係ない。
人を殺そうが、国を裏切ろうが、いっさい関係ない。

 格差社会の底辺から這い上がることもままならず、底が抜けた絶望の果てに生まれた人生哲学。
 アメリカも、韓国も、日本も、国籍に関係ない箴言である。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 奇蹟の一枚 映画 : 『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)

1937年日本、ドイツ
106分、白黒

 制作年の1937年とは、日独伊三国防共協定が締結された年であり、日本が満蒙開拓に力を入れていた頃である。
 そんな時代の日独合作であるから、当然、国策映画である。
 ドイツの観客に対しては、日本という国や文化および日本人について知ってもらい好印象を与えること、日本の満州支配について理解を持ってもらうこと、が狙われている。ドイツとは、ナチスドイツである。
 日本の観客に対しては、日本の風土や文化の素晴らしさ、勤勉や礼節や親孝行や愛国心などの美徳、天皇への忠誠を訴えかけ、やはり満州開拓(植民地化)の必要性を説くものとなっている。日本とは、大日本帝国である。
 時代と制作背景を伝えるシーンがある。


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 協同監督として日本からは伊丹万作(伊丹十三監督の父親)が関わっているのだが、制作上の行き違いから両監督の対立となり、結局、ファンク版と伊丹版の二つのフィルムが作られた。現在、観ることのできるのはファンク版のほうである。
 そのことが、かえってこの映画をたいへん興味深い、愉快なものにしている。
 ドイツ人ファンクがはじめて見た日本という国、日本人という国民が、その驚きと感動のままに誇張して描き出されているのである。
 一昔前の西洋人がイメージした典型的な日本のオンパレード。その徹底した「ザ・日本」ぶりに、国策映画と知りながらも、笑いがこみあげてくる。

富士山、 桜吹雪、 相撲、 芸者、 三味線、 日本舞踊、 お能、 お茶、 虚無僧、 キモノ、 日本髪、 藁ぶき屋根、 水田、 棚田、 長襦袢、 地震、 ひな人形、 なぎなた、 剣道、 厳島神社、 お寺、 仏像、 神道、 書道、 たたみ、 襖、 布団、 囲炉裏、 武士道、 浅間山、 鉦つき行者、 蝶々夫人・・・・。

 こうした日本的表象が、時も場所もいっさい脈絡なく、縦横無尽に(でたらめに)次々と繰り出されるものだから、日本人が見たらツッコミどころ満載のへんてこりんになっている。
 たとえば、厳島神社で鹿と遊んでいる振り袖姿の少女が、女中に呼ばれて池のある日本庭園を通り抜けると、東京にある日本家屋のすまいにつながるという、ゴダールびっくりのモンタージュである。

 ストーリーの奇想天外もすごい。
 ドイツに留学した男・輝雄(=小杉勇)は、個人主義を知ってすっかり西欧かぶれしてしまい、帰国したのち、親が決めた婚約者・光子(=原節子)をふる。
 絶望した光子は自害する決心をする。
 しかし輝雄は日本の風土や文化の良さに目が開かれ、周囲の説得を受け、家や親を守ることの大切さに気づく。
 光子との結婚を決めた輝雄は、光子の家に向かう。
 が、光子は書置きを残し、婚礼衣装を手に、浅間山に向かっていた。

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 クライマックスは、噴火中の浅間山で、靴下だけの輝雄が、死に場所を求めている光子を探し回るシーンである。
 なぜ火山なのか不思議に思うところだが、これはファンク監督が山岳映画を得意としていたからである。
 実際、なかなか迫力あるスぺクタルな登山シーンで、「いや、二人とも山頂に達する前に有毒ガスでやられるでしょ?」というツッコミをものともしない。
 振り袖姿に草履ばきのまま、汚れもせずに頂上付近まで登ったナデシコ・ジャパン光子の強靭さには、ドイツの観客たちは恐れ入ったはずだ。
 火山礫が飛び交い、火山灰が降り注ぎ、溶岩が流れ、地震で民家がぺちゃんこに倒壊する中、無事ふもとまで戻った二人は、結婚して子供もできて、新天地満州で幸福に暮らす。

 伊丹万作をはじめとする日本側スタッフが異議を申し立てたくなったのも無理はないと思う。
 が、この破壊的な面白さは日本人には出せなかっただろう。
 日本を知らないドイツの観客を念頭において、日本をよく知らないドイツの監督が撮ったからこそ、ここまで奇想天外で自由な発想が可能だったのだ。

 そしてまた、当時16歳の原節子の破壊的魅力もしかり。
 とんでもない美少女ぶりである。
 同じ年齢時の吉永小百合や後藤久美子、いわんや橋本環奈も、なにするものぞ。
 生来の造形的な美しさのみならず、原節子が内に秘めていたどこか刹那的な空虚のようなものを、ファンク監督は見抜いて引き出している。
 それは、後年、原が小津安二郎監督と出会って、はじめて十全に引き出されたものである。
 ただの美少女タレント、美人女優には決して終わらないであろうことを、このフィルムは予告してあまりある。

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やまとなでしこ!


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この美貌!


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奇蹟の一枚!


 ほかにも、日本のハリウッドスター第1号たる早川雪洲が原の父親役で出演、音楽を山田耕筰、特撮技術を円谷英二が担当しているのも見逃せない。
 
 いろんな意味で永久保存にふさわしい第一級の珍品映画である。

 

おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画 : 『名探偵ホームズ/黒馬車の影』(ボブ・クラーク監督)

979年イギリス カナダ
124分

 DVDパッケージ解説の「数あるシャーロック・ホームズの映像化作品の中でも屈指の名作」という謳い文句に誘われ借りてみた。
 「だまされた~」とまでは言わないが、「屈指の名作」は言い過ぎ。

 19世紀ロンドンに実在した連続猟奇殺人魔・切り裂きジャックとの対決を呼び物としているように、コナン・ドイルの原作ではない。
 それはいいとしても、肝心のホームズ(=クリストファー・プラマー)の推理がさえず、謎の解き明かしの大部分を霊媒(=ドナルド・サザーランド)に頼るというのがいただけない。
 しかもこのホームズ、勘も鈍く、運動神経もいまいち。大事なところで気絶するは、人前で涙で頬を濡らすは、怒りにまかせて病院内で乱闘騒ぎを起こすは、黒幕たちを前に法廷弁護士のような縷々の大演説をぶつは、原作のホームズとかけ離れている。
 朋友ワトソンへの愛情あらわなまなざしといい、人間らしさを強調したホームズ像と言えなくもない。
 が、シャーロキアンのソルティにしてみれば、「こんなのホームズじゃない!」とぼっそり呟きたくなる。

 19世紀末のロンドンの街の風情を堪能できる映像はよい。
 朴訥として人の好いワトソンを演じるジェームズ・メイソンの名優ぶりも光っている。


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おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

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カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 映画:『CLIMAX クライマックス』(ギャスパー・ノエ監督)

2018年フランス、ベルギー
96分

 三度の飯よりダンスが好きな22人の若者たちが、公演のリハーサル後のパーティーで知らずにLSDを飲んでしまい、次第に常軌を逸して、地獄の饗宴へと化していく様を描く。
 「覚醒剤やめますか? 人間やめますか?」を地で行く作品である。

 演技未経験の若者を集めたらしいが、ダンスは本当にすごい。
 身体能力とリズム感、それに流れている音楽に自然に身をまかすレイブ感覚は、ソルティのようなオジサン・オバサンにはまったく縁のないものである。
 人体の可動範囲の限界に挑戦するかのような振付けもすごい。ルカ・グァダニーノ監督の『サスペリア』を思い出した。
 そう、まさにサバトの夜である。


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 ギャスパー・ノエ監督の作品を観るのはこれが初めてだが、話題になった『アレックス』(2002)はじめ、暴力と異常なセックスをテーマにした斬新な映像が特徴のようだ。
 こういったものを50歳過ぎても撮り続けるには、幼少期の相当なトラウマを必要とするだろう。
 ノエ監督の先が危ぶまれる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● 映画:『まぼろしの市街戦』(フィリップ・ド・ブロカ監督)

 1966年フランス、イタリア
 102分

 原題 Le Roi de Cœur は「ハートの王様」
 邦題から戦争映画のイメージがあるが――いや実際、第一次大戦時のフランスを舞台とする反戦映画なのだが――、一風変わったシュールなコメディである。
 その「一風変わったシュールさ」は、主要な登場人物が精神病院から抜け出した患者たちで、戦地における彼らの自由で奇矯な振る舞いを描くことが、この映画のツボだからである。
 精神病院の内と外、いったいどっちが狂ってる?
 患者の人権が唱えられる現在では、もはや容易には創れない作品かもしれない。

 フランスの田舎に残る中世の古い街並みと、色とりどり派手に着飾った精神病患者たちの対比が面白い。
 主演のアラン・ベイツは、ロバート・アルトマン監督の『ゴスフォード・パーク』(2001)で執事ジェニングスを演じた英国の名優。
 最後のシーンで、二人の尼さんを前にして全裸の後ろ姿を披露しているが、このシーンを観たとき、「あっ、この映画、子どもの頃に見た!」と思い出した。
 このシチュエーションに強烈な印象を覚えたのだろう(笑)
 1974年に日曜洋画劇場(解説:淀川長治さん)で放映されている。
  
 いまもカルト的な人気を博している作品で、2018年に4Kデジタル修復版が公開された。


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アラン・ベイツ本人じゃないかもね・・・


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 逆打ち伝説 映画 : 『死国』(長崎俊一監督)

1999年
100分

 原作は坂東眞砂子のホラー小説。
 四国と四国遍路のイメージ悪化に寄与した作品である(笑)
 
 四国遍路を札所の順番通り(時計回り)に回ることを順打ち、順番とは逆に回ることを逆打ち(さかうち)と言う。
 一昨年の秋、ソルティが遍路しているときも、逆打ちのお遍路さんとずいぶん擦れ違ったものである。歩きだけでなく、自転車の人も多かった。(自転車だと、「逆打ちのほうが下りが多くてラク」と言っていた)
 大方は、すでに順打ちを何回か済ませているので今回は逆打ちに挑戦してみた、という人が多かった。
 しばしば耳にしたが、「逆打ちは順打ちの2倍のご利益がある」そうである。
 ソルティも、いつの日か逆打ちに挑戦してみたい。(そのためにも足のリハビリ頑張らねば!)

 この映画では、なんとその逆打ちが恐ろしい所業として描かれる。
 「死んだ子の歳の数だけ逆打ちすると、その子が生き返る」という設定で。
 弘法大師も真念上人もビックリである。


前山おへんろ交流サロン
88番札所手前にある前山おへんろサロン
 
 高知の山間の村に古くから住む日浦家は、口寄せを家業とする。呪術を使い、亡くなった人の霊を呼び出して巫女に乗り移らせ、生者にメッセージを伝える。
 呪術者である母親(=根岸季衣)の命で、子供の頃から巫女をやらされてきた莎代里(=栗山千明)は、十六の歳に事故で死んでしまう。
 母親は莎代里を生き返らせようと、白装束に身を固め、編み笠をかぶり、わらじを履き、金剛杖をつき、逆打ちの旅に出る。

 妄執に憑かれた母親を演じる根岸季衣がイイ味を出している。
 実際、こんな女と遍路の山道で会ったら怖いだろうなあ~。
 ソルティは、お四国病にかかって何周もぐるぐるしている、独り言の多い目つきの怪しいオジサン遍路は見かけたが・・・。

 死国からよみがえった莎代里を演じる栗山千明は、本作が本格的な映画デビューだったそうだが、実に役にハマっていて、胸元まで伸びた漆黒のストレートヘアが怖いながらも美しい。
 先輩俳優に伍しながら存在感ピカ一で、目が離せない。
 その後の活躍がうなずける鮮烈なデビューと言えよう。
 (この人が2006年にやったTVドラマ・横溝正史作『女王蜂』の大道寺智子も良かった)


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莎代里を演じる栗山千明


 2020年現在の四国には、このような禍々しい物語が生み出される土俗的雰囲気も、このような映画が撮影できる昔ながらのロケ地も残ってはいまい。
 インターネットのおかげで四国遍路もすっかり国際色豊かになり、外国人遍路を見ない日のほうが少なかった。
 いまや四国遍路は、「大人のオリエンテーリング」と言ってもそうはずしてはいまい。(ただし、所要時間を競うものではないが)


 新型コロナのせいで、現在、遍路する人は激減している。(4月中旬から5月初旬までほとんどの札所の納経所は閉鎖していたようだ)
 少しでも早く、コロナに終息がもたらされ、四国遍路がよみがえるよう、札所の名前を88から逆に唱えてみました。
 ――というのは冗談で、遍路で覚えた光明真言を唱えてみました。
 
 オンアボキャ ベイロシャノウ
 マカボダラ マニ
 ハンドマジンバラ ハラバリタヤウン


 不空真実なる大日如来よ 
 偉大なる光明により
 暗き世を明るく照らしたまえ
 

大日如来



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 必聴映画 : 『ギルティ』(グスタフ・モーラー監督)

2018年デンマーク
85分

 とてつもない映画である。
 創作表現の可能性の限りなさを、観る者に衝撃とともに知らしめる。

 まず、ほぼ一人芝居に終始する。
 登場人物は複数いるものの、ストーリーにからむ主要キャラは、主役で出ずっぱりの警官アスガー(=ヤコブ・セーダーグレン)をのぞけば、電話の向こうの声のみ。あとは、画面には映るけれど背景的人物にすぎない。
 次に、物語の舞台すなわち撮影現場は一カ所のみである。カメラはその部屋から一歩たりとも、一秒たりとも、外に出ない。
 最後に、映画的時間と物語的時間とが完全に一致している。つまり、85分間の上映(=鑑賞)時間はそのまま、アスガー含む登場人物たちが過ごす映画の中の85分の生活時間と重なる。
 これ以上にない見事な三一致。
 その上に、この映画は手に汗握る極上の犯罪サスペンスなのだ。

三一致の法則
演劇用語。「三統一の規則」または「三単一の法則」ともいわれる。戯曲は24時間以内の、一つの場所で起こる、筋が一つの物語を扱わねばならないとするもの。
(小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋)

 なぜこんな離れ業が可能なのかと言えば、物語の舞台が緊急通報指令室、すなわち日本の110番みたいな市民からの緊急通報を集約するオペレーションセンターで、主役の警官アスガーは――どういう理由からかは最後まで明かされないが――そこでボランティアのオペレーターをしているからである。
 物語は、アスガーがたまたま受信した、女性からの緊急通報に端を発する誘拐事件のてんまつを、電話のこちら側とあちら側の人の声と物音のみを拾いながら描いていく。
 聴覚が想像力を刺激し、音が物語を作っていく。
 ここにあるのは、映画を「観る」というより、映画を「聴く」という無類の体験なのである! 

 とは言え、この趣向には先例がある。
 2013年のイギリス映画『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(スティーヴン・ナイト監督)が、やはり三一致の法則に徹した一人芝居で、電話をうまく利用したスリラー&人間ドラマであった。  
 おそらく、有名作曲家に似た名前をもつモーラー監督は、『オン・ザ・ハイウェイ』を観て、この犯罪ドラマの設定を思いついたのだろう。
 その意味では二番煎じなのであるが、「模倣」、「マネっこ」、「二匹目のどじょう」といった悪口はまったく出てこないほどの、緊迫感あふれる見事な作品に仕上がっている。

 アスガー役のヤコブ・セーダーグレンの主演男優賞総なめ確実の演技(芝居に自信がある男優で、この役をやりたがらない者がいるだろうか?)、計算し尽くされた無駄のない脚本、観る者(聴く者)を仰天させる犯罪サスペンスとしての出来の良さ、そして・・・・・映画の本当の主役と言える「音」の絶大なる効果。

 まさに必見、いや必聴の一編である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 三船敏郎のケツと汗 映画:『野良犬』(黒澤明監督)

1949年東宝
122分、白黒

 いまさら評すまでもない黒澤映画の傑作。
 同じ黒澤の『天国と地獄』と並び、その後の日本の刑事ドラマ――『砂の器』、『七人の刑事』、『太陽にほえろ!』、『西部警察』、『踊る大捜査線』等々――の基本型をつくった作品と言えよう。
 全編に漲るリアリティ、庶民性、迫力、抒情性、そして志村喬をはじめとするベテラン役者たちの演技に魅了される。
 主演の三船敏郎の色気にはクラクラさせられる。
 あのケツの肉付きよ!

 舞台は闇市が立ち並び、コケた頬の復員服姿の男がうろうろする戦後の東京。
 新米刑事の村上(=三船敏郎)は、混雑するバスの中でピストルを掏られる。
 そのピストルを使用した強盗や殺人、先輩刑事への襲撃が続く中で、村上は苦悩し、犯人探しに執念を燃やす。

 戦後の日本の貧しさ、汚らしさ、暑苦しさが実によく描かれ、生々しく伝わってくる。
 とくに暑苦しさ!

 物語は夏の盛りで、登場人物たちは誰もみな、吹き出る汗をハンカチでしきりにぬぐい、団扇や扇子で顔や胸をひたすら扇ぎ、扇風機を一人占めにし、「暑い、暑い」と繰り返す。
 一昔前の日本の夏はそんなに暑かったのか?
 ――と一瞬思うが、むろん今のほうが暑い。
 
 気象庁のデータを見ると、この映画が撮られた1949年8月の東京の平均気温は26.6度、前後3年(1946~52年)の平均をとってもそのくらいである。
 一方、2019年8月の東京の平均気温は28.4度だった。過去6年(2013年~)を加味した平均は 27.6度。
 つまり、映画製作当時よりも真夏の平均気温が1度上昇している。
 たった1度と思うなかれ。
 月の平均気温が1度上がるということは、3日に1日は30度近い日(26.6+3.0)があるということだ。最高気温でなく、一日の平均気温が!・・・である。


流氷に乗った白熊

 全編を覆うこの映画の暑苦しさの理由は、もちろんシロクマくん(=エアコン)がなかったからである。
 エアコンが一般家庭に普及したのは昭和40年代に入ってからで、平成に入ってやっと6割を超えた。現在の普及率9割程度である。(参考「ガベージニュース」)
 つまり、昭和時代、会社やホテルや喫茶店や公共施設は別として、一般家庭でエアコンがあるのは4割以下に過ぎず、しかも今のように各部屋に一台ずつ備わっているなんてのは、スネ夫の家のような、よっぽどの金持ちに限られていたのだ。
 外回りして聞き込み捜査する刑事たちは、汗みずくにならざるをえなかった。
 真っ黒に日焼けせざるを得なかった。

 ソルティは、平成以降の刑事ドラマにどうにも興味が湧かないのであるが、たぶんその理由の一つは、登場する刑事たちが汗をかかなくなった、シャツを背中に張り付かせなくなった、清潔に(無機質に)なってきた、というあたりにある。
 だってねえ、三船敏郎の汗の美しさといったら・・・。


三船敏郎の汗



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン監督)

2011年アメリカ
102分

 TUTAYAのサスペンス&ミステリーのコーナーにあったので、「結末は誰にも教えないでください」的なサイコストーリーかと思ったら、案外ちゃんとした心理ドラマであった。

 カルト団体での2年間の集団生活から逃げ出した少女マーサの後遺症を、丁寧に描いたものである。
 映像が見事。

 カルト団体に加入したばかりの新人に対し、古くからの仲間たちは言う。
 「ここでのあなたの役割を見つけなさい」
 集団の中で独自の役割を持たせること。
 それが団体依存させるコツなのだろう。
 
 マーサの姉役のサラ・ポールソンが好演している。
 ニコール・キッドマン似の金髪美女で、2007年にレズビアンをカミングアウトしている。
 カミングアウト後もヘテロ女性の役を普通に演じられるところが、アメリカショービズ界のふところの深さか・・・。
 演技なのだから、演じる俳優のセクシュアリティは演じる役のそれとは本来なら関係ないのだけれど、日本だったらどうだろう・・・?


百合



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 本:『描かれた被差別部落 映画の中の自画像と他者像』(黒川みどり著)

2011年岩波書店

 部落解放同盟による映画『橋のない川』上映阻止事件について調べていたら、この書に行き当たった。
 著者の黒川みどりの講演を聴いたことがある。ドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』の上映会に際してであった。日本近現代史を専門とする大学教授で、部落問題についてくわしい人である。

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 本書は、「戦後における部落問題の変遷を映画作品を通して明らかにしようとする」試みで、題材として取り上げられている映画は以下の通り。
  1.  1947年 木下惠介監督 『破戒』
  2.  1960年 亀井文夫監督 『人間みな兄弟 部落差別の記録
  3.  1962年 市川崑監督 『破戒
  4.  1969年 今井正監督 『 橋のない川 第一部
  5.  1970年 今井正監督 『橋のない川 第二部
  6.  1986年 小池征人監督 『人間の街――大阪・被差別部落』
  7.  1988年 小池征人監督 『家族――部落差別を生きる』
  8.  1992年 東陽一監督 『橋のない川』
 今のところソルティが観ているのはリンクを付けた4作品だけなので、本書での著者の所論についてコメントする立場にはない。
 単なる感想を言えば、たいへん興味深く、面白かった。
 映画評論としても読めるし、部落問題の研究書としても啓発的であるし、マイノリティの解放運動における芸術表現のありようを考えるといった視点からも考えさせられることが多かった。

 3つめの「マイノリティの解放運動における芸術表現のありよう」というのは、たとえば、こういうことである。
 
部落問題の深刻さ、部落外との格差の大きさを強調すればするほど、それは差別の徴表を際だたせることになり、そこからは、被差別部落の作り手と被差別当事者の一致する範囲を超えて、当事者が望まない被差別部落表象が受け手の側に生まれることも十分にありうる。(表題書より引用)
 
 つまり、きびしい差別の現実を深刻に描けば描くほど、当事者に付与されているスティグマ(=マイナスイメージ)を強固にしてしまい、映画を観る非当事者の間に、さらなる差別意識を植えつけてしまうリスクがある、ということだ。
 基本的にはこれが、解放同盟が今井正監督『橋のない川』を批判し、上映阻止行動に走った要因と思われる。

 一方、当事者自身が自ら望むスタイルと内容でもって――たとえば、「ブラック・イズ・ビューティフル!」とか「ゲイプライド!」といったような――自己表現したときに、当事者の自己肯定を高める効果は見逃せないものの、それが果たして社会にどれだけのインパクトを与えられるかというと、いささか心もとない感がある。
 なぜなら、この情報過多&スポンサー重視&刺激追求社会で、少しでも多くの人に視聴してもらい、感情を揺り動かし、マイノリティの置かれている現状に関心を持ってもらい、運動を支援してもらうためには、残念ながら、受け手に「ショックを与える」演出が求められるからである。
 とりわけ、なんらかの政治的成果を短期間で得たいならば、メディアに取り上げられ、世論を動かし、政治家が重い腰を上げたくなるような「悲劇的物語」が望まれる傾向がある。
 
 これはなにも部落問題に限ることなく、障害者、LGBT、在日外国人、アイヌ、HIV感染者、ハンセン病患者などマイノリティ全般に共通する解放運動上のジレンマと言えよう。 
 本書の副題にある「自画像と他者像」とはそういった意味合いと思われる。
 当事者自身が望んで描く「自画像」と、多くの非当事者からなる社会が期待しイメージする「マイノリティ像(=他者像)」との間には、少なからぬギャップがあるのだ。

 そこで、老獪なる運動家であるほど、ぬらりくらりとした戦略をとる。
 ある政治的局面では、社会が望む「他者像」をとりあえず肯定し、自らもそのように振舞い、余人の注意を引きつける。別の局面では、社会から押し付けられる「他者像」を否定し、自ら望む「自画像」を訴え出る。
 よっぽど当事者のスティグマを強化しそうに個人的には思われる1960年『人間みな兄弟 部落差別の記録』が解放同盟のお墨付きを受けたのに、それよりもずっとソフトな内容と思われる1969、70年の今井正版『橋のない川』が同団体から批判の矢を浴びたのは、そういった時代・政治的背景や当事者の権利意識や自己表現力の向上といった点を考慮に入れる必要があるのだろう。
 
 いずれにせよ、芸術作品というものは、作った人間の意図を離れて、時代や地域や文化や大衆の意識の変化などに応じて、様々に評価され、様々に解釈され、様々に翻案・脚色・編集・演出され、新しい命を与えられる。
 それが芸術作品の宿命であり、特権なのだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 世界十大小説 TVドラマ:『赤と黒』(ジャン=ダニエル・ヴェラーグ監督)

1997年フランス・イタリア・ドイツ合作
200分

 1954年にイギリス作家サマセット・モームは「世界の十大小説」を発表した。
  1. ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、1749年イギリス 
  2. ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、1813年イギリス 
  3. スタンダール『赤と黒』、1830年フランス 
  4. オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』、1835年フランス 
  5. チャールズ・ディッケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、1850年イギリス 
  6. ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、1856年フランス 
  7. ハーマン・メルヴィル『白鯨』、1851年アメリカ 
  8. エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、1847年イギリス 
  9. フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、1879年ロシア 
  10. レフ・トルストイ『戦争と平和』、1869年ロシア
 欧米ものばかりに偏っているのが解せない。
 たとえば、アーサー・ウェイリーによって1933年には英訳されていた『源氏物語』や、1936年に出版されたマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』が入っていないのは、個人的には不可解かつ不愉快である。

 ともあれ、ソルティはこの中で、1と4と7が未読。
 他の作品もおおむね20代までの青臭い頃に読んでいるので、人間関係の機微など汲み取りようもなく、深く理解して読んだとは到底言いかねる。
 今後、古典作品を読み直していきたいと思っている。
 その点で、長くなった老後には意味があろう。

 『赤と黒』のフランス文学における地位は、日本文学における『源氏物語』みたいなものだろうか。
 映画では、美男の貴公子ジェラール・フィリップが主役のジュリアン・ソレルを演じた、1954年版が有名である(ソルティ未見)。
 たしか、「赤」は軍服を意味し、「黒」は僧服を意味するのではなかったか?

 美しい人妻と、若く野心的な青年の道ならぬ恋を描いた話である。
 この種のテーマはフランス文学のお家芸みたいなもので、すぐに思いつくだけでも、『ボヴァリー夫人』、『クレーヴの奥方』、『椿姫』、『アドルフ』、『エマニエル夫人』などが上がる。(最後のはちがう?)
 おそらくそのルーツをたどると、『トリスタンとイゾルデ』に代表されるような中世騎士道における王妃への敬愛の念あたりにあるのだろう。
 さらに、そのまたルーツをたどれば、聖霊の妻たる聖母マリアに対する信仰か?
 
 本作はテレビドラマとして制作されたものだが、映画と言っても通るくらい、野外ロケも屋内ロケもセットも美術も撮影もカメラも演出も、すべてにわたって丁寧かつ贅沢にできていて、見ごたえがある。
 ジュリアン役のキム・ロッシ・スチュアートは、まさにフランス美青年。すらりとした体型と翳りある眼差しが魅力で、恋と野心で身を滅ぼす孤独で生真面目な青年を熱演。
 不倫相手のレーナル夫人役は、シャネルのモデルを務めていたこともあるキャロル・ブーケ。まさにクールビューティという言葉がぴったりの、彫像のような醒めた美貌の持ち主。ダニエル・シュミット監督『デ・ジャ・ヴュ』(1987)で見せた神秘的な美しさが記憶に強い。
 当然、二人のラブシーンがたびたび出てくるのだが、残念ながらそこはテレビドラマのことゆえ、エロチックには欠ける。
 
 ナポレオンが失墜したあとの19世紀初期フランスが舞台で、コスチュームプレイ(時代劇)としても十分楽しめる。
 個人的には、このような大仰で激しい恋愛ドラマには辟易するが・・・。


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キム・ロッシ・スチュアートとキャロル・ブーケ



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 映画:『夏の夜は三たび微笑む』(イングマール・ベルイマン監督)

 1955年スウェーデン
 108分

 タイトルがいいねえ~。
 原題は Sommarnattens leende 「夏の夜の笑み」

 シェークスピアあるいはオスカー・ワイルド風の、機知とアイロニーに富んだロマンチックコメディ。
 複数の男女の錯綜する恋愛模様が、北欧の美しい風景と上流階級の瀟洒な屋敷を舞台に描かれる。
 重厚なイメージのあるベルイマンだが、こういう大人の恋愛喜劇も滅法うまい。

 我々日本人にとって味わうべきは、北欧の夏の名物の風情である。
 登場人物たちが、とある郊外の屋敷で一晩を過ごすのだが、戸外はいつまでたっても明るいままで、曇りの日の昼間のよう。
 「なんだ、ベルイマン、撮影をミスったか?」と一瞬思い、「ああ、白夜か!」と気がついた。
 そこではじめて、映画の最初のほうに出てくるシーンに得心がいった。
 
 主人公の中年弁護士が、その日の仕事を終えてから、年若い妻と観劇に行くエピソードがある。
 帰宅して妻や息子と夕食を終える。
 「これからおめかしして外出か?」と思いながら観ていると、弁護士は妻に言う。
 「出かける前に、昼寝しておこう」

 えっ? これから寝るの?
 開演に間に合うの?
 それも昼寝?
 ああ、出かける前の一戦(エッチ)という意味か・・・。
 さすが若妻をもらうとお盛ん。
 
 が、次のシーンでは、夫婦は本当にパジャマを着てナイトキャップをかぶって、寝台に仲良く横になっている。
 「本当に寝るのか。ずいぶん遅い開演時刻なんだなあ~」
 次のシーンは劇場。
 観劇の途中で妻は気分を害し、二人は途中退席し、帰宅する。
 妻が寝たのを見届けるやいなや、夫はまたもやマントを羽織って、一人外出する。
 「えっ! こんな真夜中にまた出かけるの? 元気なオッサンだなあ」

 ちょっと予想外の展開に戸惑ったのだが、答えは“白夜”であった。
 夜がないので、催し物の開演時刻は遅い。
 その前にゆっくり夕食と仮眠がとれるわけである。
 長い長いたそがれは、戸外で恋を語り、愛し合うに最高のマジカルタイムである。
 それゆえ、「三たび微笑む」のだ。
 
 ソルティは北欧に行ったことがない。
 体験したことがないと、なかなかそれと気づかないものである。


 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● 集団免疫戦略 映画:『ディストピア パンドラの少女』(コーム・マッカーシー監督)

 2016年イギリス
 111分
 原題 : The Girl with All the Gifts 「万能少女」

 何を期待してレンタルしたのか思い出せないが、よもやこういう話だとは思わなかった。
 牢獄のようなところで、武装した兵士たちに厳しく監禁されている子供たちのシーンから始まるので、ちょっと前に見た『レベル16 服従の少女たち』同様、子供虐待ストーリーかと思っていた。
 
 ところが、施錠されたまま暗い牢獄から連れ出された主役の少女メラニーの前に、明るい戸外の光景が広がったとたん、「えっ、これはそういう話だったの!」という驚きが走った。
 そこからは、完全にお馴染みのモンスターパニックの世界である。

 このモンスターの正体こそは、ある未知の細菌に感染し、脳を侵され、食人病にかかった人間たち、すなわちゾンビである。
 この映画は、ゾンビものの新機軸だったのである!
 
 ゾンビに覆いつくされたロンドンで、人類の生存をかけた死闘が繰り広げられる。
 ゾンビは人の匂いや物音に反応するので、匂い消しのジェルを身体に塗って静かに歩けば、ゾンビの大群の中も通り抜けられるという設定が面白い。(ゾンビは目が利かないらしい)
 ゾンビの母親から生まれた第2世代は、第1世代より進化して、知能を獲得できるという設定も画期的。(どうやって胎児が生まれたかはグロテスク過ぎて書けない・・・)

 上記の監禁された子供たちこそ、第2世代だったのである。

 
ゾンビ少女


 
 これがアメリカ映画ならば、激闘の果てに人類の生き残りの道(=希望)が示されるのだろうが、イギリス映画はやはりブラック&シニカルである。
 人類と心を通わせる能力をもつ第2世代の天才少女メラニーは、人類からゾンビへの覇権交替の道をあえて選ぶ。
 つまり、集団免疫獲得の選択をする。

 なるほど、ゾンビは細菌感染した病者であってみれば、かれらもまた“人類”には違いない。
 “人類”は生き残った・・・。  
 本作のユニークかつ目新しいところは、“ゾンビ V.S. 人類”という往年の対立構造が問われている点かもしれない。

 それにしても、タイムリー。




おすすめ度 : ★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 伊藤雄之助、絶賛 !! 映画:『橋のない川 第2部』(今井正監督)

1970年
140分、白黒

 第1部に登場した被差別部落・小森の子供たちも青年となり、社会に出て働くようになっている。
 ここで彼らは様々な現実の壁にぶつかる。
 恋愛、結婚、就職、職場での差別、抜け出せない貧困の構造・・・・。
 青年たちそれぞれの人生に降りかかる差別のエピソードとともに、第2部では1918年の米騒動を契機に、部落の人々の間で社会闘争の気運が高まっていく様子が描かれる。
 それが、1922年の京都での『水平社宣言』につながるところで、全編は終了する。

 第1部以上に、飲んだくれの厄介者・永井藤作を演じる伊藤雄之助の熱演が目立つ。
 いつのまにか荷車引きをやめて靴みがきになっている。
 女郎屋に売った実の娘のところに酔っぱらって出向いては小遣いをせがむ。
 本当にどうしようもないやくざ者である。
 しかし、滑稽なところや無頼な一面も合わせ持っていて、本作における道化役、狂言回しとなっている。
 俳優・伊藤雄之助の「生涯の一本」と言っていいのではないか。

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米問屋に入り込んで米俵を群集に投げる藤作(=伊藤雄之助)

 
 藤作らによる米問屋の打ち壊しや官警相手の乱闘、その報復としての資本家の手先による小森部落襲撃といった迫力あるアクションシーン。
 第1部では無残に破れた孝二の初恋のほの甘い続き。一方、愛し合いながらも無理やり周囲に別れさせられる誠太郎と主家の娘の悲恋。
 加藤嘉、南美江、大滝秀治といった実力ある役者の投入、華のある大型新人・原田大二郎の起用、そして小森の腕白小僧の可愛らしさ。
 第1部よりも明らかにエンターテインメント性が高まっている。
 140分を長く感じることはなかった。
 
 ただし、完成度から見れば第1部にかなわない。
 肝心かなめの水平社創立にこぎつけるまでの“熱い”ドラマが見事にすっ飛ばされて、終盤は取ってつけたような、尻すぼみのラストになっている。
 監督自身の言によれば、もともと3部構成だったところ、解放同盟の妨害が厳しくなって、2部と3部を合体させて製作せざるをえなかったという。
 たしかに、第2部のクレジットには部落解放同盟の名前はない。
 
 ソルティの実感では、第2部も第1部同様、差別を助長する映画とはまったく思えなかった。
 上記のような欠陥はあるものの、それは構成的なものであり、内容的には差別の理不尽さ、惨さを訴えながらも、小森部落の人々を(永井藤作をも含め)愛情もって生き生きと描いており、観る者は自然、彼らに共感し、不正に立ち上がらんとする彼らを応援したくなるはずだ。
 
 そのうちに住井すゑの原作を読んでみよう。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 北林谷栄、絶賛 ‼ 映画 :『橋のない川 第1部』(今井正監督)

1969年
127分、白黒(一部カラー)

 この映画、ずっと気になっていた。
 というのも、おそらくは島崎藤村『破戒』と並んで、部落差別をテーマにした小説としてはもっとも知られていて800万部を超えるベストセラーになった住井すゑの大作『橋のない川』の最初の映画化(2度目は1992年東陽一監督による)である本作が、当の部落解放同盟によって「差別助長映画」と批判されたことを聞いていたからである。
 原作に対するそうした批判は聞いていない――でなければ2度目の映画化などありえなかったろう――ので、今井正監督による本作に、どこか当事者を苛立たせるような、原作と離れたセリフなり演出なり脚色なりがあるのだろうと思った。
 
 ところが、冒頭のクレジットでいきなり驚いた。
 「部落解放同盟中央本部」協力と大きく出ているではないか。
 解放同盟は自ら制作協力したものについて、あとから後悔し、自己批判したのだろうか?
 脚本の段階で、あるいは撮影を終えたラッシュ試写の段階で、「これは差別映画だ」と気づかなかったのだろうか?
 クレジット掲載を取りやめるに間に合わなかったのか?
 ――と、いろいろ考えながら観始めた。
 
 結論から言えば、これは差別を助長する映画ではない。
 どころか、差別の酷さ、理不尽さ、愚昧さを、見世物的にも教条的にもならず人間ドラマとして観る者に伝え得る、質の高い作品に仕上がっている。
 部落出身の主人公・丑松が、出自を隠していたことを周囲にカミングアウトして土下座する、藤村の『破戒』の救い無さにくらぶれば、同じ明治時代を背景とする作品としては、当事者の尊厳と希望とがきちんと描かれている。
 奈良盆地の四季を映したロケや撮影、リアリズムに徹した脚本や演出、役者たちの演技、ひとつの映画芸術として見た場合でも及第点に達し、完成度は高い。
 
 とりわけ、主役一家の祖母・畑中ぬいを演じる北林谷栄と、飲んだくれの荷車引き・永井藤作を演じる伊藤雄之助の演技が、記録に残したいほど素晴らしい!(記録に残って良かった)
 
若い頃から老け役が多く、30代後半で、既に老女役は北林という名称を獲得し、日本を代表するおばあちゃん役者として広く知られた。特に、映画・テレビ共に、田舎の農村・漁村・山村で生活するおばあさんを演ずることが多い。衣装は自前である。盛岡の朝市のおばさんの着物や朝鮮人のおばあさんの古着など、「生活の苦汁」がしみ込み「生活の垢」がついたキモノを集めて愛蔵し、さまざまな役に応じて着なしていた。(ウィキペディア「北林谷栄」より抜粋)


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北林谷栄と伊藤雄之助(間に顔を覗かせるは若き日の長山藍子)

 
 時代は明治の終わりから大正にかけて。
 奈良盆地にある被差別部落・小森に暮らす人々の生活が描き出される。
 明治4年の解放令から40年近くが立つが、まったく旧態依然とした部落差別が続いている。
 地主が田畑を貸してくれない、火事になってもポンプ車が来ない、奉公先が見つからない、子供が学校でいじめを受ける、警察から犯罪の疑いをかけられる・・・等々、さまざまな差別が描かれる。
 
 「なるほどなあ~」と思わされたのは、昔から連綿と続いてきた習慣から、村の人々の間で差別がもはや「空気化」していて、「えった(エタ)は差別されてあたりまえの存在」ということが常識となっている点である。
 少なくとも令和の現在、たとえ差別はなかなか解消せずと言えども、少なくとも、「差別は良くない」、「差別はおかしい」という意識を持たない一般人は少ないだろう。
 つまり、いまの人々は、「差別は良くない」と知っていながら差別する。
 ところが、映画に出てくる村人たちは、そもそも「差別がおかしい」とすら思っていない。
 
 学校で同級生に「えった」となじられた主人公一家の長男・誠太郎は、相手の少年に殴りかかって怪我させる。
 殴った理由を問う男性教師に、誠太郎はなかなか訳を言わず、罰としてバケツを持って廊下に立たされる。
 事情を知った祖母(=北林谷栄)が職員室に駆け付けて、校長相手に涙ながらに談判する。
 「わいが理由を教えます。相手が誠太郎のことを“えった”と言ったからや!」
 すると、男性教師は悪びれもせず不思議そうな顔で問い返す。
 「それだけですか?」 
 
 第一部では、主人公一家の子供たちが通う小学校が舞台となるシーンが多く、部落と“一般地区”の子供たちのやりとりが頻繁に描かれる。
 言うまでもなく、子供は残酷で率直である。
 家庭内での大人たちの差別的言辞を、なんら躊躇することなく、表に出す。
 
 次男・孝二は、同級生の“一般地区”の可愛い少女に恋をする。
 相手も自分にまんざらでもない様子がうかがえる。
 明治天皇が亡くなった折りの夜間の学校集会で、少女は孝二の手を握ってきた。
 有頂天になる孝二。
 しかし後日、少女はこう告げるのだ。
 「部落の人は夜になると蛇みたいに手が冷たくなるというから、確かめてみようと思ったの」
 
 時代が変わって、法律が変わったところで、人々の意識はそう簡単には変わらない。
 ここから長く険しい当事者の闘いが始まる。
 そのスタート地点を描いた一つの作品として、この映画は解放運動史の観点からも、解放同盟がお墨付きを与えた亀井文夫監督のドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』同様、価値は高いと思う。
 「協力」のクレジットは解放同盟にとって恥でも過ちでもあるまい。 
 



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 映画:『マーシュランド』(アルベルト・ロドリゲス監督)

2014年スペイン
105分

 良質の刑事物サスペンスミステリー。
 連続少女猟奇殺人の犯人を追う、ベテランと若手の刑事コンビ(ゴリさんとジーパンのよう)の奮闘を描く。

 英語タイトルのマーシュランド Marshland とは「湿地帯」の意。
 スペイン語の原題 La isla minima とは「最も小さい島」の意。
 スペイン南部アンダルシア地方にある広大な湿地帯近くの田舎町が舞台である。

 フランコ独裁体制(1939~1975年)の爪痕が残る1980年代の物語なのだが、まさに80年代の良質なクライムサスペンスの匂いがふんぷんとしてくる。
 『ブラッド・シンプル』(1984)、『フール・フォア・ラブ』 (1985)、『ブルー・ベルベット』(1986)、『モナリザ』(1986)・・・・。
 懐かしい感があった。

 映像が素晴らしい。
 人の脳細胞のアップのような、田圃と畦道と水路の複雑に入り組む湿地帯の俯瞰から始まり、アンダルシアの田舎町の物憂くけだるい、未来永劫変わることのないような景観が重ねられる。
 音声が素晴らしい。
 蠅の飛び回る音、騒ぎ立てる鳥の声、暑苦しい虫の羽音、湿地を打つ雨音、フラメンコギターの物悲しくも心騒がす響き、これらが風土を知らしめるとともに、観る者の神経を苛立たせ、緊張を高める効果を生んでいる。

 スペイン風ゴリ&ジーパンの体を張った捜査のおかげで、犯人は判明し事件は解決した。
 が、ここからがスペイン映画らしいところ。
 スッキリとした円満ラストは用意しない。
 下手に深追いすればそれこそ湿地にはまり込むような過去の因縁が、観る者を暗澹たる気分にさせる。

湿地


おすすめ度 :
★★★


★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(ジョージー・ルーク監督)

2018年アメリカ、イギリス
124分
原作 ジョン・ガイ著『Queen of Scots : The True Life of Mary Stuart』

 王位をめぐる2人の女性を主人公とする物語と言えば、美内すずえ『ガラスの仮面』の劇中劇『ふたりの王女』を想起する人は多いだろう。
 春の陽射しのように明るくあたたかい王女アルディス(=北島マヤ)と、冬将軍のように暗く冷徹な王女オリゲルド(=姫川亜弓)の対立を。そして、権謀術数を駆使し晴れて女王となったオリゲルドによって幽閉されたアルディスを。

 美内すずえがあの魅力的な劇中劇を創作する際の元ネタとなったのが、16世紀に実在した2人の女王、エリザベス1世とメアリー・スチュアートの熾烈な対立である。前者はイングランドの、後者はスコットランドの女王。エリザベスの父親(ヘンリー8世)とメアリーの祖母とが、同じヘンリー7世を父とする姉弟という間柄にあった。

 エリザベスとメアリーが対立し続けた一番の原因は、メアリーが「自分こそは正当なイングランドの王位継承者」と名乗り続けていたことにあった。
 エリザベスとしては、むろん、面白くない。
 そのうえに、ヘンリー8世がカトリック教会と袂を分かってイギリス国教会を創設したことに象徴されるように、当時のイングランドもスコットランドも、宗教改革および新旧キリスト教徒の対立の嵐が吹き荒れていた。
 カトリック教徒のメアリーと、イギリス国教会で洗礼を受けたエリザベスは、両派の激しい攻防の矢面に立たされ、宗教戦争に巻き込まれざるを得なかった。(教皇庁はむろんメアリーの正統性を支持した)
 二人は、生まれながらにして対立すべく運命づけられていたのである。


メアリーとエリザベス


 君主としても、女性としても、二人は対照的な生涯を送った。
 スペインの無敵艦隊を破り、絶対君主として40年以上イングランドを統治した歴史の勝者、エリザベス。
 夫の死によってフランス王妃の座を失い、陰謀により故国スコットランドの王座も追われ、エリザベスの庇護を求めてイングランドに亡命するも、そこで19年間幽閉されたあげく処刑されたメアリー。

 処女王と綽名され、結婚もせず子供も持たず、国家に自らを捧げたエリザベス。
 政略結婚を退けて自由恋愛し、生涯3人の夫を持ち、子供(のちのジェームズ1世)を生んだメアリー。

 加えて、30歳のとき天然痘にかかって美貌を失ったエリザベス。
 フランス宮廷仕込みの洗練とエレガンスで生来の美貌をさらに輝かせたメアリー。
 
 ことごとく対照的な女王たちの対立劇を後世の創作者たちが見逃すはずはなく、これまでに舞台や小説や映画やオペラなど数々の作品のモチーフとなってきた。
 ソルティがもっとも感銘を受けたのは、ドニゼッティ作曲のオペラ『マリア・ストゥアルダ』である。(メアリー・スチュアートのイタリア語読み)
 このオペラはまさにエリザベート(エリザベス)とマリア(メアリー)の対決を軸に据えていて、クライマックスでは、文通はしていたものの実際には一度も会ったことがない両者を、マリアの幽閉されているイングランドの城内でまみえさせるという、まさに美内の『ふたりの王女』さながらの名場面が展開される。

 おのれを幽閉している相手に助命を乞わなければならないマリアは、政治的敗者として屈辱を味わう。が、マリアを助けようと陰で骨を折っているのがエリザベートの思い人のレスター伯であってみれば、エリザベートもまた恋の敗者として屈辱を味わせられる。
 案の定、会うや早々、2人は互いを「売女」と罵倒し、会合は決裂する。
 全曲中、もっともスリリングで固唾をのんで視聴するシーンである。
 このオペラが上演された当初、エリザベート役のソプラノ歌手とマリア役のメゾソプラノ歌手が役にのめり込み過ぎて、互いの悪口を本気にとってしまい、舞台上で乱闘騒ぎを起こし、業を煮やしたドニゼッティが「二人とも売女だ!」と口走ったという、楽しいエピソードが残されている。


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ソルティ所有の同オペラの CD ジャケットより
エリザベートがアグネス・バルツァ、マリアがエディタ・グルベローヴァ
という最高の布陣(指揮はジュゼッペ・パターネ)



 この映画でもまた、エリザベスとメアリーの生涯ただ一度の会合を設定し、そのクライマックスに向けて、2人の女王の対照的な生き方が描かれていく。
 原題に Mary Queen of Scots 「スコットランドのメアリー女王」とある通り、主筋はフランスからスコットランドに女王として戻り、結婚および出産、陰謀によって王位を奪われ国外逃亡、イングランドで処刑されるまでのメアリーの苦難の半生である。
 メアリーを演じるシアーシャ・ローナンの気品ある柔らかな美しさは、まさにフランスの貴婦人そのもので魅了される。
 友人でもあり侍女でもある4人の娘たちとの女子会ノリのふざけ合いや、経血の手当てをするシーン、ゲイの家臣に対する寛容な振る舞いなどにフェミニズム的感性を強く感じたが、なるほどジョージー・ルークは女性監督であった。
 メアリーは、最初から最後まで、“精神的には自由な”一人の女として描かれる。

 一方のエリザベスは、イングランドと自己の地位を守るために女としての幸福を投げ捨て、男の論理と非情を身にまとう。
 政治的勝者にはなったものの、一人の生身の女として、メアリーに対する嫉妬と引け目が隠せない。
 譬えれば、男社会の中で孤独に闘い抜き、結婚生活も母たることも諦め、功成り名を遂げた女社長が、恋愛結婚して母となったものの最後は生活保護の「おひとりさま」になった、かつての同級生に対して抱くような思い・・・(よ~、わからんか)。
 ある意味、エリザベスもメアリーも、男社会の犠牲者という点では等しく敗者なのである。

 エリザベスは、在位長くして地位が安定するにつれて、孤独と猜疑心と憂愁の色を深めていく。
 天然痘の後遺症によって永遠に失われた容姿を、ピエロのような白粉の厚塗りと派手な赤毛のカツラで隠したその姿は、まるでホアキン・フェニックスの『ジョーカー』の誕生さながら。
 そう、孤独と絶望とがエリザベスをいつのまにか怪物にしたのである。
 彼女もまた、自由のきかない「囚われ人」に過ぎなかった。
 マーゴット・ロビーは、女優生命をかけたような渾身の演技を披露している。

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マーゴット・ロビー演じるエリザベス1世

 
 脚本、音楽、映像、役者の演技、美術、どれも素晴らしく、見ごたえある時代劇に仕上がっていて、あっという間に16世紀英国に引き込まれた。
 当時の時代背景や2人の女王の関係をざっと予習してから観るのがベター。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 牧師の息子 映画 : 『冬の光』(イングマール・ベルイマン監督)

1963 年スウェーデン
82 分、白黒

 『第七の封印』同様、神の沈黙をテーマとする作品。
 ただ、「沈黙がテーマ」と言うと、「神はなぜ黙っているのか?」の追究になる。
 つまり、神の存在を前提としている。
 「天にあって、この世のすべての悲惨を見ているのに、なぜ黙っているのか!?」
 これだと、遠藤周作のテーマと重なる。

 ベルイマンの問いをより正確に表すなら、神の不在がテーマと言うべきだろう。

 神はいるのかいないのか?
 いないのならば、我々の生には何の意味があるのか?
 ただ生まれて、他の生命を食べて、まぐわって子供をつくって、老いて死ぬだけなのか?
 祈ることは無駄な行為なのか?
 
 牧師を主人公とする本作では、信者が集まらずにさびれた教会の様子、信仰を失い懊悩する牧師の姿が、実にリアリティもって細やかに描き出されている。
 牧師の家庭に生まれ育ったベルイマンならではである。
 憶測に過ぎないが、父親との関係がこうした問いかけを生涯発し続ける因となったのかもしれない。

 神なんて、いてもいなくても関係ない。
 生きる意味なんてメンドクサイこと考えないで、欲望に忠実に楽しめばいいじゃん。
 ――と、割り切ってエピキュリアンに生きられないところに、ベルイマンや遠藤周作のジレンマの種(=創作の種)はあるのだろう。

 
パーティー

 
 ストーリーは、ポール・シュナイダー監督の『魂のゆくえ』と酷似している。
 同じ原作をもとにしているか、あるいはシュナイダーが『冬の光』を現代風にリメイクしたのかと思ったのだが、どうも違うらしい。
 結末こそ異なってはいるが、この似方は偶然にしてはちょっと・・・???
 
 神(創造主)などいない。
 我々の生は、そこから脱出するためのジャンピングボード以上の意味はない。
 ――と言い切ってしまう(原始)仏教の、なんと潔く、自立していることか!
 ベルイマンは仏教に出会っていただろうか?
 あるいは、奇跡のコースに。

 ただ、その立場をとった時、もはや芸術創造などできないだろう。
 それはそれで別のジレンマになるやもしれない。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● イケパパ 映画:『LOVE, サイモン17歳の告白』(グレッグ・バーランティ監督)

2018年アメリカ
110分

 高校生のサイモンは、明るい裕福な家庭に育ち、カッコいい父親と美人で知的な母親、料理好きの可愛い妹に囲まれ、気の合うクールな友人もいる。
 顔もスタイルも良く、通学はいつもマイカー、女の子にもてる。
 はたから見たら、平凡だけれどなんら不足ない青春。
 が、彼には家族や友人に隠していることがあった。
 サイモンはゲイだったのである。
 
 SNSを使いこなす当世のゲイ少年のカミングアウトがテーマ。
 一昔前に比べれば、LGBTに対する社会の理解が進み、必要な情報に俄然アクセスしやすくなった。
 同じ仲間や相談相手、恋人やセックスフレンドも簡単に見つけられる。
 ソルティが高校生の頃は、情報と言ったら月刊誌の『薔薇族』がせいぜい。
 自己肯定を促してくれるような言説は、(同誌をも含め)社会にほとんど見当たらなかった。
 まったく、今の若ゲイがうらやましい。

 とはいえ、カミングアウトをめぐる問題だけは昔も今も変わりないということを、この映画は教えてくれる。
 子供というものが、一般にヘテロのカップルを親として生まれてくる以上、ゲイの子供はどうしても親との相違にぶち当たらざるを得ない。
 ヘテロシステムの流通する家庭の中で自己肯定し、自らのモデルとなる大人像を見つけるのは、容易なことではない。
 自然と、親や周囲が期待するジェンダーやセクシュアリティを忖度しながら演じていく過程で、自らの感情や嗜好を押し殺していく。
 そのうちに、ほんとうに自分が好きなもの、やりたいこと、子供の頃夢見ていたことが分からなくなってくる。 
 ゲイの人が鬱になりやすいのも無理からぬことである。
 
 だが、自分に対する抑圧や欺瞞は、結局、周囲の身近な人々に対する抑圧や欺瞞につながる。
 カミングアウトした結果被る不利益より、人間関係をいびつにする“不誠実”の害のほうが破壊的で、長い目で見れば、自分をも他人をも傷つけることになるかもしれない。
 それが、自身ゲイをカミングアウトしているバーランティ監督が、本作で伝えたいメッセージなのだろう。
 胸がうずくような切なさのあと、爽やかなハッピーエンドが待っている。

 ただし、サイモンのように恵まれた環境にいるゲイはむしろ少なかろう。
 国によって、社会によって、宗教によって、あるいは家庭によっては、カミングアウトが生死にかかわることだってあるのだから。(だから、日本が、仏教が好きさ!)
 
 主人公サイモンの父親役のジョシュ・デュアメル、渋くて滅茶カッコいい。
 何と言っても、美青年しか演じることの許されない――“ヴィスコンティ夫人”たるヘルムート・バーガーがかつて演じた――オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の主役の座を射止めて、映画デビュー(1999年)果たしている(下記ポスター)。
 ウィキによると、東日本大震災の際にはチャリティーマラソンを開催、支援金全額を日本赤十字社に寄付したそうである。
 いい歳の取り方をしているわけだ。


ドリアン・グレイの肖像ポスター (2)
日本では上映されず、DVDレンタルもない


ジョシュ・デアメル
現在のデュアメル




● 映画:『レベル16 服従の少女たち』(ダニシュカ・エスターハジー監督)

2018カナダ
102分

 ミステリーサスペンス。
 物心ついてから施設に監禁され、「清潔であること」&「従順であること」をモットーに、厳格な集団生活を強いられる少女たち。
 いつの日か素敵な家庭の養女となって外に出られる日を夢見つつ・・・。
 自らの置かれた現状に疑問を抱いた二人の少女は、脱走を試み、そこで驚愕の真実を知る。

 フランク・ヴェデキントの小説『ミネハハ』を原作とする映画『エコール』(2004)、および『ミネハハ 秘密の森の少女たち』(2005)、それとやはり映画化されたカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』を想起する内容である。
 前者二つの映画では、少女たちは美しき踊り子として丹念に養成されたあげく、劇場でのお披露目会の夜に貴顕たちに買われていく。後者では、生徒たちは臓器提供のために特別に飼育されているクローン人間であることが明かされる。
 つまり、どちらも身勝手な大人のエゴの犠牲となる子供たちの悲劇を描いた作品なのである。

 『レベル16』で明かされる真実もまた、残酷かつグロテスクである。
 (もう一つ連想したのは、川端康成の変態小説『眠れる美女』だった)
 
 脚本と撮影がよい。
 明らかに低予算とわかる作りながら、最後まで気の抜けない、完成度の高い作品に仕上がっている。


少女と学校





おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● 映画 : 『魔術師』 (イングマール・ベルイマン監督)

1958年スウェーデン
100分、白黒
スウェーデン語

 町から町へと巡業するいかがわしい魔術師ご一行が、とある町の領事館で引き起こすてんやわんやを描く喜劇。

 「この世に魔術なんてものはない。霊や予言や奇跡なんて、科学万能の時代に逆行する世迷言に過ぎない」
 と豪語し、魔術師の化けの皮をはがそうと意気込む医学博士の姿が、某大槻教授にダブって見える。
 この博士が、後半、見世物中の事故で死んだはずの魔術師に脅かされるシーンが秀逸。
 ヒッチコックばりの演出手腕と撮影技術は、こ難しい神学的テーマを追究したベルイマンのエンターテイナーとしての一面を実感させる。

 ベルイマン映画のどれにも言えることだが、役者たちの存在感が素晴らしい。
 架空のキャラクターを演じる役者たちにこれほどの存在感と生命力を与え、印象に残るシーンを紡ぐことのできた監督をほかに上げるなら、黒澤明を措いてなかろう。

 ハッピーエンドに終わる喜劇には違いないのだが、やはり、底に響いているのは神学的テーマである。
 「この世に科学で証明できないことはない」
 と言う博士(=大槻教授)は、つまるところ、神の存在を否定する立場に立たざるを得ないからだ。
 やっきになって魔術師の嘘を暴こうとする博士の執念は、「神が存在しない」ことを証明しようとする唯物論者の倨傲にほかならない。

 さて、魔術師はただの奇術師、道化、ペテン師に過ぎなかったのか?
 それとも・・・・・。

 その判断は観る者にまかされている。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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●  “小悪魔”の証明 映画 : 『乾いた花』 (篠田正浩監督)

1964年文芸プロダクションにんじんくらぶ制作、松竹配給
白黒、96分

 加賀まりこと言えば“小悪魔”――と相場が決まっているが、その栄えある称号を確かなものにしたのは、この映画の冴子役ではなかろうか。
 それくらい本作での加賀は、美しく蠱惑的、かつ刹那的である。
 満たされることのない虚ろな心を抱え、極道たちの集う賭場に出没する正体不明の金持ちの令嬢を、はまり役と言ってよい抜群の感度で演じている。
 この役だけは、篠田監督の公私にわたるパートナーたる大女優・岩下志麻サマでも無理であろう。
 女優と作品との幸運な出会いがここにはある。

小悪魔

 相手役の池部良のニヒルな風情も良い。
 この男優にはこれまで注目したことがなかった。
 演技がうまい。
 高倉健や石原裕次郎のような華こそないものの、直観なのか計算づくなのかは知らず、役の理解が優れている。
 やさぐれた哲学者のような極道男、というキャラを見事に造形している。
 
 原作は石原慎太郎。
 生きることの価値と情熱を見いだせずに、虚無と退屈のうちに無軌道な生活を送る現代人の姿が描かれる。
 彼らが、生きている実感をその身に味わえるのは、仕事でも趣味でも恋愛でもセックスでもない。
 賭博やカーチェイスやクスリ、そして血で血を洗う抗争。
 全人生あるいは生命がかかった「丁か半か」ギリギリの一瞬だけが、その生に強度と濃度を与えてくれる。
 彼らはそれに酔う。
 賭けマージャンで職を失った黒川弘務検事長を想起した。

 闇社会を舞台とする映画、いわゆるフィルム・ノワールは、やはり白黒が映える。
 画面の陰影が、登場人物の心の陰影をあぶり出す。
 これは、篠田監督の最良の一本であろう。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● 人生最高のドラマ体験 TVドラマ&映画:『ダウントン・アビー』(マイケル・エングラー監督)

2019年イギリス、アメリカ
122分
脚本 ジュリアン・フェロウズ

 文字通りの骨(折)休めとコロナ自粛によってあり余った時間、テレビドラマ『ダウントン・アビー』シリーズ1~6(2010~2015年イギリス ITV 放映)を、最初から最後までぶっ通しで観た。
 DVD なんと30枚分である。
 見事にハマった。
 シリーズが終了するまで観るのを待っていた甲斐あった。

 まあ、ハマるのは予期していた。
 ソルティは英国の一昔前の上流階級を描いた物語が好きなのである。
 ジェイン・オースティン、ヘンリー・ジェイムズ、P.G.ウッドハウス、E.M.フォースターなどの小説に出てくる、いわゆる貴族や大地主など有閑階級の優雅な暮らしぶりに憧憬に近いものを抱く。

 どこまでも広がる緑なす田園風景の中にそびえる、豪壮で堅牢な屋敷(いったい何部屋あるのやら?)
 庭師によってこまめに手入れされた、散策や逢引きに恰好な庭園。
 由緒ある調度や工芸品やアートに囲まれた、広々として美しく落ち着いた邸内。
 謹厳実直で頼りになる執事。
 長いテーブルを囲み、下僕の給仕を受けながら、コース料理に舌鼓を打つ紳士淑女たち。
 そこで交わされる洒脱な(ときには緊張に満ちた)会話。
 美しい陶磁器と凝ったお菓子が並ぶ午後のお茶。
 貴族のたしなみたる乗馬や狩りやカードゲーム。
 ベッドメイキングや銀器磨きや主人一家の衣装の手入れやゴシップに精出す階下の使用人たち。
 使用人に用があるとき使われる、館内にめぐらされた呼び鈴の紐。
 e.t.c.
 
 こういったすべてに魅了される。
 きっと前世の一つは、ヴィクトリア女王時代の英国のどこかの田舎屋敷のメイド(笑)で、階上で暮らす人々への強い憧れと嫉妬のうちに亡くなったのだろう。


エッジカム家


午後のお茶



 こうした好みの道具立てが揃っているうえに、さすがシェークスピアのお膝元、演劇大国のイギリスである。
 役者が揃っている。
 元クローリー伯爵夫人を演じる今世紀最高の名女優マギー・スミスの孤高な存在感は言うも愚か。
 彼女の親友であると同時に恰好の論敵たるイザベルを演じるペネロープ・ウィルトンのいぶし銀。
 美しく賢い現伯爵夫人コーラを演じるエリザベス・マクガヴァンの茶目っ気(こんなに魅力的な女優になっていたとは!)。
 未来のダウントン・アビーをその細い肩に背負う長女メアリー役のミシェル・ドッカリーの傲岸なまなざし。
 男運が悪く可哀そうな次女イーディス役のローラ・カーマイケルのモデルのようにエレガントなファッション。
 そしてそして、普段はアメリカにいて「特別出演で」ダウントン・アビーを訪れ、そのたびに嵐を巻き起こすコーラの母親マーサを演じるは、やはり今世紀最高の名女優の一人たるシャーリー・マクレーンである(映画版には登場しない)。
 女優たちの火花を散らす演技合戦と華麗なる衣装対決が全編を通じての見物である。
 
 一方男優では、現クローリー伯爵を演じるヒュー・ボネヴィルの貫禄と人の良さ。
 執事カーソン(=ジム・カーター)のどことなく滑稽な匂いを宿した重厚感。
 伯爵付き従者ベイツ(=ブレンダン・コイル)の一癖も二癖もある複雑なキャラクター。
 そして、ゲイの従僕トーマス・バロー(=ロブ・ジェームズ=コリアー)の屈折した心の表現。
 それぞれ突出した個性が楽しい。

 とりわけ、当時(20世紀初頭)の英国では犯罪者として逮捕された同性愛者を、主要キャラクターの一人として最初から最後まで登場させ描ききったのは、賛辞に値しよう。
 テレビシリーズでは、孤独で陰険なひねくれ者で幸福には程遠いように見えたバローが、このたびの映画では、どうやら恋人らしき(国王の使用人!)を得て、嬉しそうにはにかむ笑顔で終わる。
 “組合”仲間として応援していたので何よりである。

 
レインボウとゲイカップル

 
 これだけたくさんの登場人物を一人一人個性的に描き分け、それぞれの人生に語るべき(視聴者が共感できるような)ドラマを持たせ、登場人物間の愛憎や反目や誤解や支え合いもわかりやすく整理して伝え、その上に、タイタニック号沈没や第一次世界大戦やスペイン風邪流行や貴族階級の没落といった歴史的事件を巧みに盛り込んで物語にメリハリをつけていく。
 脚本の見事さは脱帽のほかない。
 
 ソルティにとって、人生最高のドラマ体験の一つであった。
 骨折った甲斐がある。



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
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● ロードムーヴィーの傑作 映画:『野いちご』(イングマール・ベルイマン)

1957年スウェーデン
91分、白黒

 『第七の封印』、『処女の泉』と共にベルイマンの三大傑作と言われる本作である。

 ソルティはこれまでなぜかベルイマンは観る気がしなくて、20代に『処女の泉』と『ファニーとアレクサンデル』を観たのみ。
 (ちなみに、「昨日、『処女の泉』という映画を観たよ」と同期の女性社員に話したとき、思いっきり軽蔑の眼差しを向けられたのを覚えている。勘違いされたらしい)

 両作とも面白かったのに、なぜあとが続かなかったのだろう?
 「重い、難しい」だけではあるまい。
 それなら、タルコフスキーとかロッセリーニとかアラン・レネだって、どっこいどっこいだ。
 おそらく、ベルイマン作品に通底する「(キリスト教の)神の不在」というテーマに拒否感を持った、というより関心が向かなかったからなのだろう。
 遠藤周作の小説に興味を持たなかったのと同じ理由である。
 
 「神の不在」が個人的に重要なテーマとなるためには、前提として「神への信仰」がなければなるまい。
 信じていたもの、信じたいと思っていたものが「ない!?」からこそ、個人は不安になり、疑心暗鬼にかられ、自暴自棄になり、刹那的にもなるのだから。
 あのマザー・テレサにして然りである。
 一神教の神というものを信じず、その信仰を単なる「共同幻想」と思っていた若いソルティにしてみれば、ベルイマンのようなヨーロッパの近代以後の知識人が抱く苦悩や虚無感に共感のしようもなかったのだろう。
 といって、ソルティが無神論者として達観して生きていたわけではなく、別の「共同幻想」に依っていただけなのだが・・・。

 
野いちご

 
 この『野いちご』、可愛いタイトルや老人と少女が野原に遊ぶシーンを使った宣伝用スチールの印象から、ベルイマンには珍しい、牧歌的な明るい話と想像していた。
 純粋で開けっぴろげな少女との出会いによって心ほぐされる偏屈な老人といった「ハイジ」的ストーリーを。
 全然違っていた(笑)。
 偏屈でエゴイスティックな老教授が、名誉博士号を授与されるためにストックホルムからルンドへ向かう旅の道中で起こる事件を描いたもの、すなわちロードムーヴィーなのであった。
 
 旅の途上で出会う様々な人々とのエピソードはまた、教授がこれまでの人生を振り返るきっかけとなる。
 実際の車の旅をしながら、教授は自らの孤独な人生を追体験する旅をする。
 その二重構成が見事である。
 映像については、もはや論ずべくまでもない。
 教授の見る悪夢を描いたシーンなどは、いかなる CG 技術もかなわないレベルで観る者の潜在意識の深みに達し、不安を揺り動かす。
 
 教授役のヴィクトル・シェストレムは、自身「スウェーデン映画の父」と呼ばれる大監督であり、彼を師と仰ぐベルイマンたっての希望で体調不良をおして出演、公開後に亡くなっている。
 映画史に残る名演である。

 老いを描いたこの傑作を撮ったとき、ベルイマンはまだ40歳に届いていなかった。
 それを思うと、やはり天才だなあ~。
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
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● ジュリエットの独り遊び 映画:『ハイ・ライフ』(クレール・ドニ監督)

2018年フランス、ドイツ、イギリス、ポーランド、アメリカ共同制作
113分

 宇宙船を舞台とするSFスリラー。
 クレール・ドニは、『ショコラ』、『パリ、18区、夜。』、『ネネットとボニ』などで知られる国際評価の高いフランスの女流監督であるが、ソルティはこれが初見。

ブラックホールを調査するために宇宙を旅する船員たち。
彼らはみな終身刑や死刑を宣告された犯罪者で、無事地球に戻った暁には自由の身となる契約を交わしていた。
その中の一人、女性科学者ディブス(=ジュリエット・ビノシュ)は、宇宙空間で子供をつくり育てることができるかどうか、船員をモルモットにして実験していた。

 宇宙船の中で、大の男(=ロバート・パティンソン)が赤ん坊をあやす何とも奇抜なシーンから始まる。
 映像は、女性的感性を超え、独特のシュールなセンスが光る。
 ストーリー自体は面白さに欠け、テーマも曖昧でよくわからない。
 
 おそらくドニ監督が何より撮りたかったのは、大女優ジュリエット・ビノシュの魔女の如きマッドサイエンティストぶりであり、その迸るような熟女のエロチシズムなのだろう。
 この作品のクライマックスは、ビノシュのポルノ女優顔負けの本気オナニーシーンである。
 役の上のこととは言え、ここまでやってしまう役者魂にたまげる。
 
裸の女
 
 
 ジュリエット・ビノシュと言えば、『汚れた血』、『存在の耐えられない軽さ』、『トリコロール/青の愛』、そして『イングリッシュ・ペイシェント』などで世界的スターの座をほしいままにした、80年代後半から90年代が“旬”の清純派女優、というイメージを個人的には持っていた。
 いや、ヨーロッパの女優のたぶんにもれず、必然性あればヌードもセックスシーンも辞さない芸術家としての矜持はデビュー当初からみせていたが、その色白で清潔で可愛らしい容姿や、ジュリエットという可憐な名前のためか、何の役をやっても清廉なイメージが抜けきらない、いわば「フランスの吉永小百合」といった印象を持っていた。
 それがこの作品では、まるでダリオ・アルジェント監督のホラー映画に出てくるアリダ・ヴァリみたいな、一線を越えてケツまくったモーレツ熟女を演じている。
 怪演といっていい。

 オナニーマシーンにまたがって、下から突き上げる電動コ×シのピストン運動によがり声を上げ、長い髪を振り乱し、汗を飛び散らし、荒馬を乗りこなすように身をくねらすジュリエットの姿は、SFスリラーという装いを破壊してあまりある。
 フランスの仁支川峰子だ。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 映画:『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ監督)

2016年アメリカ、ドイツ、メキシコ
97分

 デイヴ・エガーズの同名小説を原作とするトム・ハンクス主演のコメディ。
 『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『グリーンマイル』、『キャスト・アウェイ』、『ターミナル』など、トム・ハンクスの他の主演作同様、運命のサプライズ、人生のハプニング、希望を失わないことの大切さがテーマとなっている。
 トム・ティクヴァは、輪廻転生を描いた『クラウド・アトラス』の監督である。

 サウジアラビアの砂漠のど真ん中に新都市をつくりたいという王様のために、IT 技術をプレゼンし契約を取るべく、人生に疲れた中年の新入社員アラン(=トム・ハンクス)は派遣される。
 勝手の違う異文化での営業に戸惑い、不安と絶望で心身をすり減らすアラン。
 はたして商談は無事成功するのか?
 アランの人生に新たな道は開かれるのか?

サウジアラビア


 イスラム社会の慣習や文化を垣間見るのが面白い。
 イスラム教の信者のことをムスリムと言うが、これは「神にすべてをゆだねた人」という意だそう。
 なんだか阿弥陀信仰に似ている。
 大いなるものを信じて流れに身を任せた時、すなわち「我」を捨てサレンダーした時、運命は思わぬ方向に人を導く。
 その点から、やはりトム・ハンクス主演らしいスピリチュアルな映画である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『王将』(伊藤大輔監督)

1948年大映
94分、白黒
原作 北条秀司

 実在の棋士坂田三吉(1870-1946)の半生を描いた作品。
 バンツマこと阪東妻三郎の演技が見たくてレンタルした。
 
 一つの生き生きした魅力的キャラクターを完全に造り上げているバンツマの演技は、「さすが」というほかない。
 実際の坂田三吉とは、性格も語られているエピソードも異なるところが多いようだが、このバンツマの演技、および1962年リメイク時(主演:三國連太郎)の主題歌となった村田英雄歌唱の『王将』こそが、日本人の中の坂田三吉像を創り上げてしまったのではないか。
 フィクションが現実を凌駕してしまった典型例であろう。
 
 坂田三吉の宿命のライバルであった十三世名人関根金次郎を、芝居出身の名優滝沢修が演じている。
 これもまた見物である。
 物語の中だけでなく、撮影現場においても、伝説の名勝負が果たされている。
 
 三吉の妻小春役の水戸光子も素晴らしい。
 この人は、木下惠介監督『』(1948)で気を吐いていた。
 
 伊藤大輔の演出は、メリハリあって格調高く、映画の教科書のよう。
 坂田三吉が小春や子供たちと暮らしていた浪花の貧乏長屋の風情が、非常にリアルに描き出されている。
 長屋の立ち並ぶ崖の下を蒸気機関車が汽笛を鳴らして通過すると、白い煙がもうもうと立ち上る。
 その煙が長屋一帯を生活もままならぬほど覆い隠していく。
 本来なら、人が住むような場所じゃない。

 草履づくりから身を起こし名人位へ。
 坂田三吉は被差別部落のヒーローでもあったのだ。
 そこを踏まえて本作を見ると、より深い含蓄が味わえる。


王将





おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
  

● YOU は何しにこの星に? 映画:『ポスト・アポカリプス』(ステファニー・ジョアランド監督)

2014年イギリス・アイルランド合作
85分

 SFサスペンス。
 原題は The Quiet Hour 「静かな時間」
 アポカリプスは「黙示録」の意だから、ポスト・アポカリプスとは「黙示録以後」、すなわち「人類文明崩壊後の世界」という意味になろう。
 
 突如として上空に出現した正体不明の異星人の襲撃を受け、人類は滅亡寸前。
 残り少ない食べ物と安全を奪い合う壮絶な争いの最中にある。
 郊外の家に住む若い姉弟は、生き残りをかけて、異星人や凶悪な強盗から身を守ろうと奮闘する。
 多くのいのちが無駄に失われ、なんとか生きのびた姉弟は、異星人の宇宙船が地球から去るのを目撃する。
 
 愛らしい姉弟を中心としたサスペンス&アクションドラマは、じっくり丁寧に描けていて、なかなか面白いのだが、問題の異星人が意味不明である。
 
 いったい彼らは何者なのか?
 何しに地球にやって来たのか?
 なぜ突然去ったのか?
 どんな姿をしているのか?
 
 いっさい説明も種明かしもされることなく、物語は終わる。
 (地殻にある何らかのエネルギーを補給していったのでは?——と推測される)
 彼らにとって、人類の存在など、我々にとっての蟻や虫けらも同然で、わざわざ殲滅する労をとるまでもないらしい。
 地球もまたエネルギー補給ポイント以上の価値のない、つまらない場所らしい。
 めでたし、めでたし。

 
宇宙人と地球
 
 
 構成の観点からすれば、異星人の役割は、姉弟をめぐるドラマに枷を設ける点にあろう。
 つまり、本格推理小説でクローズドサークルを成立させるために、嵐の山荘や離れ小島が使われるように、上空からの異星人の監視と襲撃リスクが、姉弟が家から逃げ出せないでいる必然をつくる。(おまけに弟は目が見えないと来ている)
 それによって、一つきりの閉ざされたロケーションと少ない登場人物(8人にも満たない)での低予算ドラマが可能になる。
 
 異星人こそが利用されているのである。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 
 
 
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