ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● シャリアピン、素敵 映画:『ドン・キホーテ』(ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督)

1933年フランス・イギリス
80分
フランス語
原作 ミゲル・デ・セルバンテス
音楽 ジャック・イベール

 主演のフョードル・シャリアピン(1873-1938)は、ロシア出身の伝説的名バス歌手。
 「歌う俳優」と呼ばれたほど、演技達者であったという。
 その名声を確かめるべく、レンタルした。

シャリアピン
シャリアピン


 なるほど、確かに凄い演技力である。
 まさに、イメージ通りのドン・キホーテがそこにいる。
 高潔で、突飛で、一途で、頭のねじの緩んだ老騎士になりきっている。
 表情から、姿恰好から、物腰から、口調から、仕草動作から、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す。
 むろん、その歌唱は絶品。

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ドゥルシネア姫への愛と忠誠を歌うドン・キホーテ


 そのうえにラストでは、騎士道物語の読み過ぎで頭のおかしくなった呆け老人という以上の、人間としての尊厳をも表現するに至っている。
 すなわち、ドン・キホーテという人物は、世俗を器用に生きようとする周囲の人間たちが失った“純粋さや情熱”の象徴だということを教えてくれる。
 だから、彼の死に際して、それまで彼を馬鹿にしていた周囲の人間たちは一様に頭を垂れ、涙するのである。

 シャリアピンの真価を示すこの記録が残されていることに感謝するほかない。


追記:晩年、来日して帝国ホテルに泊まった際、歯の悪かったシャリアピンのためにシェフが噛みやすいステーキを特別調理した。それがシャリアピン・ステーキとして今も愛されている。


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


  


 
  



●  本 :『かもめ』(チェーホフ作)

1896年初演
2010年岩波文庫(訳:浦雅春)

かもめ


 「演劇史に燦然と輝く名作」と称されるチェーホフ『かもめ』をはじめて読んだ。
 むろん、舞台も見たことない。

 読んでみて、正直、「なんでこれが名作なの?」という思いが湧いてくる。
 登場人物こそ多くて、恋愛模様こそ賑やかであるが、舞台上では事件らしい事件も起こらず、単調で退屈な筋立てである。
 「結局、何が言いたいの!?」と思わず呟きたくなる。
 実際の舞台を見れば、また印象が違うのだろうか?

 ――と思って、はたと気づいた。

 まさにこうやって、非日常的なドラマチックな事件を求める心の習性が、日常を蝕んでいく様を描いているのが、この戯曲なのだ。
 登場人物のだれもが、「今ではないいつか」、「ここではないどこか」、「この自分ではない理想の自分」を求めて葛藤し、現在を否定し、欲求不満に陥っている。
 子どものように「いまここ」に安らいで幸福を味わうことのできる感性をとうの昔に喪失し、不毛な人間関係と中身のないセリフのやり取りだけが舞台上に繰り広げられる。
 つまり、現代人の多くが陥っている状況が描き出されている。

 今回のコロナ禍のポジティヴな面をしいてあげるとすれば、平凡な日常の営みの価値を気づかせてくれたことだろうか。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 

● チャイ子追悼 : 新交響楽団第248回演奏会


日時 2020年1月19日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール
指揮 飯守泰次郎
曲目
  • モーツァルト/歌劇『魔笛』序曲
  • ハイドン/交響曲第104番『ロンドン』
  • チャイコフスキー/交響曲第6番『悲愴』

 余裕を見て開演45分前に会場入りし、指定席で充実のプログラムを読んでいたら、気づくと会場はほぼ満席になっていた。新響と本日の曲目の人気を感じた。ハイドンの『ロンドン』はともかく、『魔笛』と『悲愴』はテッパンだ。

新交響248回


 1940年生まれの飯守泰次郎は今年傘寿を迎える。ソルティの親と同世代だ。そう考えると、ステージで2時間立ちっぱなしで棒を振り続けるスタミナと精神力に感服する。
 その長い音楽人生が極めたのは、「作曲家の、そして曲自体の、根本的美点を追求し引き出す演奏」と感じた。すなわち、流麗で洒脱な『魔笛』、美しさと才知あふれる軽妙な『ロンドン』、哀切極まりない『悲愴』が堪能できた。

 中でも、ハイドン(1732-1809)が面白かった。
 ハイドンの交響曲を聴くのはこれが初めてであった。が、「ああ、この作曲家は自分好みだ」と直観した。明るく、諧謔と巧緻にあふれ、美しく、しかも素朴。この『ロンドン』一曲からだけでも、ハイドンがモーツァルトとベートーヴェンという出来の良すぎる息子を持つ「交響曲の父」であることが納得できる。
 山口百恵の『プレイバック PART2』のように、曲の途中で音楽を一時停止しメリハリを生む技巧が実に楽しく、ハイドンという人の「遊び心」を感じた。
 機会あれば、これからどんどん聴いていきたい。

 チャイコの『悲愴』を、彼のホモセクシュアル人生および曲完成2か月後に訪れた謎の死を思いやることなしに聴くことは、ソルティには難しい。毎回聴くたび、思いはそこに到る。
 死因はコレラであるとか、毒殺であるとか、自殺であるとか、真相ははっきり分かっていないのだけれど、チャイコが死を覚悟していたんじゃないかと思ってしまう最大の要因は、まさに白鳥の歌となった『悲愴』の曲調にある。
 こんなに、苦悩と哀切と自己憐憫と希求と陶酔と狂気と諦念とに満ちた交響曲がほかにあるか?
 ソルティの知る限りでは、唯一匹敵するのはマーラーの交響曲9番および10番くらいではなかろうか。(ただしマーラーはゲイではなかった)

チャイコ
チャイコフスキー


 ゲイの自殺率がそうでない人に比べて高いことはよく知られている。同じセクシュアリティの友人知人を持つゲイの人で、自殺した仲間が一人もいないという人を探すのは難しいのではないかとすら思う。ソルティもまた、過去数十年のうちにゲイの友人知人の自死の報に何度か合っている。この年明け早々にも、地方在住の年下の知人の悲しい知らせがあり、「ああ、また一人・・・」と暗澹たる思いがした。彼とはここ20年以上交流はなかったが、若く元気な頃の姿――チャイコ好きのネエさんだった――しか記憶に残っていないだけに、唐突な思いにかられた。
 
 現在、国際的に同性婚合法化の流れがあるが、同性婚を認めている国でのLGBTの自殺率が減少したという調査結果が報告されている。
 たとえば、デンマークとスウェーデンの共同調査によると、「同性愛者の自殺率が46%と大幅に減少。ストレートの自殺率も28%低下」したそうである。因果関係ははっきりと分からないが、アメリカの同種の研究では、「2015年の同性婚合法化以降、10代の自殺率が14%減少」したという。(国内最大のゲイ向けWEBマガジン「ジェンクシー」記事参照)
 これは結局、その社会の寛容度を示している。「(同性と)結婚したいか否か」「現今の結婚制度を認めるか否か」という個人個人の希望や意見や選択は別として、結婚制度が社会的に(法的に)認められているという事実そのものが、LGBT一人一人にとって、あるいは何らかの意味でのマイノリティ(権力弱者)に属する一人一人にとって、決して小さい指標ではないことが察しられる。

 『悲愴』という名曲を残してくれたチャイコフスキーには大大感謝であるけれど、彼が生きた19世紀ロシア社会の寛容性の欠如あってこの曲が生まれたことを思うと、微妙な気持ちに包まれる。

 チャイコの、そして亡くなったゲイの友人知人たちの冥福を祈りつつ、会場を後にした。











 



 

● Into the Unknown 「新世界へ」 : 読響ニューイヤーコンサート

日時 2020年1月5日(日)14:00~
会場 ウェスタ川越大ホール(埼玉県)
出演
 指揮:原田慶太楼
 ヴァイオリン:前橋汀子
 管弦楽:読売日本交響楽団
プログラム
 J.シュトラウスⅡ:喜歌劇「こうもり」序曲
 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ3番(アンコール)
 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」

 池袋から東武東上線に乗って約30分で川越駅に着く。
 ここは蔵造りの街並みの残る城下町として有名、小江戸という別称を持つ。

 2015年3月に開館したウェスタ川越は、駅から歩いて5分だが、松葉枝のためタクシーを奮発した。
 およそ1700席のうち9割ほど埋まっていた。
 さすが、読響と “ヴァイオリン界のレジェンド” 前橋汀子である。

時の鐘
川越の観光名所の一つ「時の鐘」

 
 指揮の原田慶太楼は1985年東京生まれの若手。すらりとした長身と長い手足がカッコいい。プロフィールによると海外での活躍が目立つ。
 「オペラ指揮者としても実績が多い」という紹介文どおり、非常にメリハリあるドラマチックな音楽づくりが特徴と思った。ヴェルディの後期オペラ(『運命の力』とか『オテロ』とか)を聴いてみたい。
 
 読響の上手さは言うまでもない。「こうもり」序曲では、水の泡がはじけるようなクリアな輝きにスプライトを思った。
 前橋汀子の参入で、一気に高貴な香りとコクが加わり、高級シャンペンに格上げされた。
 ヴァイオリン協奏曲が進むにつれて、心地よい酔いが体中に染みわたり、ついにはネクターとなった。もちろん、不二家のピーチ味ではなく、原義の意味でのネクタル、すなわち「神の酒」である。
 演奏活動55周年の熟成は、さつまいもで有名な埼玉県の一地方都市のホールを、目をつぶれば、ウィーンのフォルクスオーパーに変容させてしまった!
 今日のメインはこの人だった。
 
 むろん、『新世界』はどう転んでも名曲。
 アンコールでは第二楽章(遠き山に日は落ちて)を繰り返してくれた。

 年末に『第九』を聴き、新年最初に『新世界』を聴くというのも、なかなか良いルーティンかもしれない。
 今年は、どんな新しい世界が待っているだろうか。
 『アナと雪の女王2』ではないが、In to the Unknown(未知の旅へ)踏み出そう!
 と掛け声はいいが、松葉杖じゃないか、われ・・・。

※この映画の英語主題歌のサビを最初に聞いたとき、「レズビアン・ラ~ブ♪」と聴こえたのはソルティだけではあるまい。前作のフェミニズムがさらに進化して、ついに「レズビアン讃歌か」とビックリした。











 
 
 
 

● 音痴トラウマ 本:『オーケストラの世界』(近藤憲一著)

2010年ヤマハミュージックメディアより『ようこそ! すばらしきオーケストラの世界へ』のタイトルで刊行
2019年改題し文庫化

 同じ著者による『指揮者の世界』の姉妹編。
 専門的になりすぎず、主観的になりすぎず、一般クラシックファンの目線からオーケストラの魅力を伝えてくれる好著である。

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 さて、ソルティは今でこそ、オーケストラの演奏会やオペラに行ったり、家でクラシックCDを聴いたり、たまに「第九」の合唱に参加したりと、音楽好きを自認しているわけであるが、もともと音楽アレルギーがあった。
 というより、歌アレルギーがあった。
 人前で歌を唄うのが苦手だった。
 理由は単純で、小さい頃から家族に、「お前は音痴だ」「調子っぱずれだ」と言われ続けたからである。
 あまりに言われたものだから、すっかり洗脳されて、「自分は音痴なんだ」と成人するまで思い込んでいた。
 音楽の時間に、学校の先生やクラスメートからたまに褒められることがあったが、それはおそらく声を褒めたのであって、音程の良さでは断じてないと思った。
 友人や職場の同僚とカラオケに行くのも嫌だった。
 なので、他の人が歌うのを聴いても、音程が正確なのかどうか、歌が上手いのかどうか、判定する資格は自分にはないと思っていた。
 基準となる音感が狂っているゆえに。

 さらに、家族がらみの記憶を言えば、小学生の頃、自分は天地真理のファンだった。
 70年代に一世を風靡した国民的アイドル歌手である。
 自分の小遣いで最初に買ったレコードは、彼女のヒット曲『ちいさな恋』、『ひとりじゃないの』、『虹をわたって』と、やはり当時人気のあったチェリッシュの持ち歌をカバーした『ひまわりの小径』の計4曲が入ったアルバム(33回転)だった。
 家族と一緒にお茶の間で歌番組を観ていて、天地真理が出てくると夢中になって応援したものだが、そのとき家族が必ず言うのは、「この人、歌ヘタクソだねえ」という一言だった。
 自分がけなされたような気持になった。

 ソルティ自身は、「天地真理が、歌が下手」とは全然思わなかった。
 たしかに、彼女の発声の仕方は独特で、他の歌手とくに演歌歌手なんかとは全然違っていた――透明感ある美しいソプラノだった――けれど、音程もリズムも別段おかしいとは思わなかったし、とにかく聴いていて気持ちよかった。
 しかるに、なにせ自分自身が音痴である。
 反論できずに、くやしい思いをした。
 
 あれから40年以上たった。
 たま~に、ネットで昔の歌謡番組の動画を見ることがある。
 歌謡曲全盛で、歌番組がいくつもあって、芸能界が輝いていた頃のアイドル歌手やスター歌手の歌唱姿に、懐かしさを覚える。
 当然、「白雪姫」と呼ばれた当時のうら若き天地真理の動画も見る。
 そして、驚くのだ。
 「歌、うまいじゃん!」

 持ち歌も良いが、『あの素晴らしい愛をもう一度』とか『この広い野原いっぱい』とか『虹と雪のバラード』などフォークソングが、情感豊かで心洗われる。
 そうなのだ。
 天地真理は子供の時からピアノを習い、国立音楽大学附属中学校および付属高校に進み、ピアノ科と声楽科に在籍した。
 音楽は素人レベルではないはず。
 あの独特の歌唱法には、クラシック要素が入っていたためだろう。
(ただ、いったん引退して復活してからの歌はひどかったが・・・)


天地真理

 
 すでにお分かりかと思うが、ソルティはきっと音痴ではなかった。
 ソルティ以外の家族が音痴だったのだ。
 
 音痴トラウマがなかったなら、もっと早くクラシックに馴染んでいたかもしれない、オケをやっていたかもしれない。
 コンサートで素晴らしい演奏に出会うと、ときどき口惜しい思いがするのはそのためだ。
 
 
評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 歓喜のイタメシ : 都響スペシャル「第九」

日時  2019年12月23日19時~
会場  東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
出演
 指揮:レオシュ・スワロフスキー
 合唱:二期会合唱団
 ソプラノ:安井陽子
 メゾソプラノ:富岡明子
 テノール:福井敬
 バリトン:甲斐栄次郎

 退院後、松葉杖での初の外出は「第九」であった。
 いや、むしろこの「第九」を聴かんがために、リハビリを頑張り、退院したのであった。

 数日前からコンサートホールのある池袋駅の構内図とにらめっこし、どうやったら駅からホールまで階段やエスカレーターを使わずに到達できるか、検討した。松葉杖でエスカレーターに乗るのは、一見楽そうに見えて、実はとても危険なのである。エレベーターに限る。
 また、開演と終演の時刻、池袋は帰宅ラッシュのピークにあたる。駅構内も列車も混んでいる。乗り降りもたいへんだ。慣れない松葉杖では心もとない。
 当日は劇場近くのホテルに泊まることにした。それなら、早めにチェックインしてホテルで休み、余裕をもって会場入りし、翌日の空いている昼の時間帯に帰宅列車に乗ることができる。ちなみに、自宅の最寄り駅(ここのホームの階段で転落して骨折した)はエレベーターがあるので問題ない。
 ちょっとしたアドベンチャー。
 
 今回初めて知ったのであるが、池袋駅構内から地下道を通って、西口にある東京芸術劇場まで直接行けるルートがある。雨風を避けて劇場入りできるのだ。劇場に入ってしまえば、エレベータを2回乗り換えて、最上階のコンサートホールまでスムーズに行くことができる。
 ただ残念ながら、地下道から劇場に入る箇所(2b出口)に20段ほどの階段があった。その脇に車椅子用のリフトが設置されているが、それを動かすためにはわざわざ警備員を呼ばなければならない。ここだけは頑張ってリハビリで習得した階段昇降テクを披露した(誰に?)。
 
 一か月前に予約した席は、3階席の一番前の通路脇。まるで、ギプスと松葉杖を使うハメになることを予見していたかのような特等席だった。
 普通に歩いて5分もかからない距離にあるホテルから、30分かけて無事客席についた段階で、すでに頭の中に「歓喜の歌」は鳴り響いていた。

池袋駅構内図
複雑さではピカイチの池袋駅構内
 

 今回の指揮者はチェコ出身のスワロフスキー。オケは東京都交響楽団。どちらもはじめて聴く。
 なので、指揮者によるものなのか、それともオケの特徴なのか判別できないのだが、音に丸味があった。
 一つ一つの音が、透明の丸い泡に包まれて空間に放たれる。あたかも、子供の息によって一斉に吹き出される無数のシャボン玉のように。そして、そのシャボン玉には光線の加減で色彩が踊っている。
 前プロも中プロもなしに、いきなり「第九」第一楽章が始まってまず感じたのは、都響の文句つけようのない巧さとともに、鋭角のない温かみある音によって紡ぎだされた、激しくないまろやかなる「第九」であった。
 これはちょっと意外。

 丸い色彩の粒のような音が次々と空間に散りばめられていく様子から連想されたのは、なんと、子供の頃に観たテレビドラマ『気になる嫁さん』であった。愛くるしさいっぱいの榊原るみと、もじゃもじゃ頭の石立鉄男と、「リキ坊ちゃま~」の浦辺粂子が共演した、1970年代初頭の人気ファミリードラマである。
 毎回、オープニングでは爽やかなテーマ曲(大野雄二作曲)をバックに、スタッフや出演者の名前が定石どおりクレジットされる。
 このときの背景映像が点描だった。
 何もない無地の画面に最初の一点が打たれ、そこから次々とさまざまな色合いの点が矢継ぎ早に(早送りで)重ねられていく。最初はなんの絵か分からずに観ていると、テーマ曲が進むにつれて、形を成していき、しまいには花瓶に生けた色とりどりの花であることが判明するのだ。
 子供の頃、このオープニングが面白くてたまらなかった。点描というものがあるのを知ったのも、このドラマのおかげである。
 そう、都響&スワロフスキー&二期会合唱団による「第九」は、第一楽章の出だしの一音から始まって第四楽章のラストの一音で完成する、点描による絵画の創造のように思えたのである。
 では、ソルティの頭の中の画布では、いったいどんな絵が仕上がったのだろうか。


点描


 第一楽章は波打ち際の風景である。どこまでも広がる砂浜、押し寄せては曳いていく波、白く崩れる波頭、遠浅の海の透き通った海底、揺らぐ海草と遊ぶ魚たち、はじける泡、差しいる光。

 第二楽章では潜水艦のように海中に潜り、深海へと分け入っていく。さまざまな海の表情が描かれる。凪の海、時化の海、嵐の海、昼の海、夜の海、無数の生き物を育む母たる海。

 第三楽章の冒頭で、海に沈む夕日が鮮やかに描き出され、視点は海から空へと向かっていく。夕焼けが海水で鎮火されると、空には星々が煌めきはじめる。北極星、天の川、星雲、銀河、ブラックホール、そして広大な宇宙。

 ああ、この先には天があるのだな、この世を離れ、神(Vater)へと向かうのだな、天国への道が描かれるのだな。それでこそ「歓喜の歌」だ。

 と思いきや、第四楽章で4人のソリストと二期会合唱団の圧倒的な歌声で描き出されたのは・・・・
 あの世ではなく、この世であった!
 天界でなく、大地であった! 山であった! 森であった! 畑であった!
 神(Vater)ではなくて、人間(Menschen)であった! 兄弟(Bruder)であった!
 
 もちろんそうだ。
 それでこそ、この絵は完成するのだ。
 海と空と大地が描かれて、地球は完成する。
 人間や生き物が描かれて、世界は完成する。

 歓びはそこにある。
 彼岸ではなく此岸に。
 あの世ではなくこの世に。
 
 歓喜はどこか遠い別の場所、星空の彼方にあるのではない。
 それは「いまここに」あって、あなた自身がそれなのだよ。
 
 完成された絵は、そう伝えているように思われた。

 
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ホテル近くのイタメシ店で退院後初の外食








 

● ほすぴたる記 14 ポケットわいふぁい

 入院2週間経過。

 スマホのあまりの使えなさに業を煮やして、ネットでポケットWi-Fi(ルーター)契約をした。

 UQのWiMAX2+というサービスだ。
 月額約3000円(安心サポート込)で月間7GIGAまで利用できる。端末は、Speed Wi-Fi NEXT W06という機器で、端末代無料である。

 申し込んだ翌日には、手元に届いた。速っ!

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 さっそく設定してみた。
 と言っても、端末に付属のICカードを取り付けて電源を入れたら、スマホの方で自動的に読み込んでくれた。
 なんて簡単! 

 調べてみたら、ポケットWi-Fiの利用できる距離は、アンテナのタイプや障害物の有無にもよるが、だいたい50~100メートルだそう。
 庶民レベルの一軒家なら、どこでも使える。スマホはむろん、自宅のすべてのパソコンは電波範囲内だ。

 性能はいかに❓
 試しにスマホで動画を読み込んでみたら、動く、動く! 

 ベッド横の車椅子特別シートにて、クシシュトフ・エッシェンバッハ指揮、パリ管弦楽団の『マーラー交響曲第3番』第6楽章のライブ演奏(動画)を聴いて、音楽が天から降りて来た喜びを味わった。

 むろん、ブログを書くのも投稿するのも、これでストレスフリー。

 入院の思わぬ副作用、もとい副産物である。




 



 

● ほすぴたる記 11 のだめとカラヤン

 入院生活11日目。

 しきりに音楽が恋しい。
 事前にチケットを買ってとても楽しみにしていた演奏会(12/13東京芸術劇場でのマーラー『復活』)をキャンセルせざるを得なかった無念さもあって、余計に欠乏感が募っている。

 残念ながら、ソルティは軽量ノートパソコンとポケットWi-Fiを持っていないので、ここでは動画も映画も見られない。動画さえ見られれば、クラシック音楽はほぼ聴き放題なのに・・・。

 はい? スマホ?
 昨年の四国遍路のために購入した格安スマホの容量は4G、動画は見られない。どころか、病院の中というせいもあるのか、ネットにつながる時間さえ限られている有様。このブログを書くのにも苦労している。(投稿時刻を見よ!)

 原則「携帯電話や電気機器使用禁止」の院内には、Wi-Fiはない。
 この時代、入院しているからといってスマホやパソコンが使えないのはナンセンスであろう。ここの病院の入院患者は圧倒的に高齢者が多いから、今のところさほどクレームも出ていないようだが、ネット世代が増えるのも時間の問題だ。これからはネット環境で病院や入所施設が選ばれる時代が来よう。
 せめて、ネットが自由に使えるWi-Fiスペースが院内にあるといいのだが・・・。

 そういうわけで、音楽欠乏症にかかっている。
 今日は見舞いに来た八十過ぎの父親をパシリにして、近くの図書館まで、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』を借りに行かせた。
 なんつう息子だ! 8050問題か!

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 クラシック音楽ギャグ漫画といったところか。主人公のだめのキャラの魅力で引っ張る、引っ張る。評判通りの面白さに夢中で読みふけった。
 が、ナマ音が聴きたい思いをますます募らせてしまった。

「そうだ、今日は日曜じゃないか!! もしかして・・・」

 テレビ欄を調べたら、じゃーん! NHK教育テレビで夜9時からクラシック演奏会の放送がある。モーツァルトの交響曲40番とレクイエムだ。オケはもちろんN響、指揮はトン・コープマン。今年10月10日のライブ収録である。
 あって良かったNHK。

 夕食後、タイマーを21時にセットして仮眠。消灯ラッパの鳴り響く中(比喩ね)、おもむろにヘッドホンつけて本番に臨んだ。

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 N響のレベルの高い演奏には十分満足した。レクイエムの歌唱も良かった。
 しかるに、ソルティをまったく驚かせ、ここ数日の音楽欠乏症を完全に払拭したのは、コープマン&N響のモーツァルトではなかった。
 番組の残りの時間で放送された、在りし日のカラヤン&ベルリンフィルのベートーヴェン『運命』であった!
 流されたのは1957年にカラヤンがベルリンフィルを率いて2度目に来日した際の記録映像である。

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 度肝を抜かれた。

 映像はフィルムの劣化激しく見にくい。音声も現代の技術からすれば数段落ちる。その上、放送されたのは、全曲でなく抜粋である。
 しかるに、半世紀の時をタイムボカンのごとく超えて、テレビのモニターを貞子のごとく超えて、伝わってくる、このとてつもない熱量はなんとしたことか! 臨場感のハンパなさはどうだろう!

 音楽が生きている!!

 申し訳ないが、番組前半が吹っ飛んでしまった。

 やっぱり、カラヤンってタダもんじゃなかとね~。(by のだめ)





 





 

● その時、その場で 本:『指揮者の世界』(近藤憲一著)

2006年ヤマハミュージックメディアより発行(タイトル『知ってるようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典』)
2015年現タイトルで文庫化

 著者は音楽之友社で働いていたこともあるフリーランスの音楽記者。

 指揮に関する基礎知識から始まって、ベテラン指揮者の井上道義や若手(当時、いまや中堅か)の下野竜也および都響コンサートマスタ-らへのインタビュー、世界的巨匠との共演豊富な在郷ベテランオケ楽員らによる覆面トーク、世界の名指揮者のエピソード、世界のオザワに対する著者の熱愛吐露など、盛り沢山な内容。
 読んで楽しく、指揮者やオケの本音や苦労を知り、クラシック音楽をより深くより愛情持って聴くことを可能ならしめる一冊である。

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 ときに、いろんな芸術家のいる中で、音楽演奏者ってのはもっとも“一発勝負性”が強いと思う。聴き手のいる「その時、その場」で良い演奏ができなければ、良い評価が得られなければ、成功して世に出ることも、演奏し続けることも難しい。

 これがたとえば画家であれば、生前まったく評価されず絵もまったく売れなかったのに、死後高い評価を得て一枚の絵に何億円という値段がつけられることがある。ゴッホがいい例だ。
 あるいは小説家。マルキ・ド・サドの作品は長いこと変態エロ小説としか思われていなかった(そもそも19世紀は禁書扱いだった)。それが今や、人間性の暗黒面を描いた傑作として古典入りしている。
 映画の分野でも、たとえば小津安二郎監督は生前にあっても国内でそれなりに評価は得ていたけれど、これほど世界的な名声をものするようになったのは没後数十年してである。
 同じ音楽家に目をやれば、作曲家は時代を超越している。マーラーは、いずれ私の時代が来る!」という自らの予言どおり、同時代よりも現代こそ、最高度の評価と関心のもと、世界中で作品が演奏され録音されている。あるいは、生前はまったく無名で貧苦のうちに35歳の若さで亡くなったヴァシリー・カリンニコフの2つの交響曲は、書いた当人は演奏会で自作を聴くことすらできなかったというのに、現在オーケストラのメインプログラムによく取り上げられるナンバーとなっている。

 言うまでもなく、こういった時間差の評価UPが起こるのは、作品が形として残るからである。画家なら絵として、小説家なら原稿や本として、映画監督ならフィルムとして、作曲家なら楽譜として。
 それにくらべると、演奏家は生きている間に評価されなければほとんど意味がない。演奏をCDやDVDに残すということはできるけれど、才能が如何され評価が定まるのはやはり生演奏(ライヴ)の場であって、その成功あってのレコーディングなり映像化なり記録化であろう。その意味でフジコ・ヘミングウェイはよくぞ間に合った。
 昨今では、ジャスティン・ビーバーや米津玄師のようにネット動画から人気を得てデビューする歌手も当たり前になってきているから、クラシック分野の歌手や演奏家でも同様のケースが続出するかもしれない。
 ただ、クラシックの場合は、いくらネットで人気を得て数十万回視聴されようが、実際の生演奏で目の前の聴衆なり評論家なりをうならせることができなければ、やはり駄目であろう。
 クラシック音楽の命はライブにある。「その時、その場」での感動体験こそが重要なのだ。いや、むしろ逆に、「その時、その場」を味わいつくすために音楽芸術というものは生まれ育ったのかもしれない。

オケ


 音楽演奏家のなかで、もっともシビアに“一発勝負”が求められるのが指揮者である。
 指揮者は、自らの評判と成功をまさに生きているうちに勝ち取らなければならない。指揮者自身は音を出さないので、You Tubeを利用して世に出ようと企むこともできない。没後に才能が発見されて、評価UPなんてことも起こりえない。そもそも指揮者は、たとえばピアニストやヴァイオリニストと違って、単独では演奏できない。俳優のように一人芝居できない。オケがいなければ話にならない。その肝心のオケを振るチャンスをつくるのがまずもって大変である。指揮者が自らの芸術を表現する機会は非常に限られているのである。
 だから、やり直しのきかない一回一回のライブに彼らは全存在を賭ける。
 カッコいいのも道理である。

音楽の演奏は、オーケストラの技量が問題なのではなく、指揮者と一体になった“魂の燃焼”があってこそ、人々に深い感動を与え、聴衆も演奏家さえも理解不能な“演奏の秘蹟”を生むものである・・・・(標題書より引用)




評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 水星交響楽団第60回定期演奏会 : マーラー第8番「千人の交響曲」

日時 2019年11月4日(月)14時~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 齋藤栄一

錦糸町のすみだトリフォニーホールに行くたびに気になっていたことがある。
国技館がある総武線両国駅から錦糸町駅に向かう高架の線路沿い、進行方向左手に、一瞬、窓ガラスを色とりどりのカーテンで飾った建物が見えるのだ。
アート系の学校か事務所だろうか?
あっという間に通り過ぎてしまうので、確かめようもない。


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面白いのは、高架を走っている総武線の列車の窓からのみ、この色彩美が楽しめることだ。
当のビルの中にいる人たちにしてみれば、各部屋ごとにカーテンの色が違うというだけの話であって、自分たちが見て楽しむことはできないはずである。
あたかも、列車通勤するストレスフルなお父さんたちへの贈り物のよう。
今回は両国駅出発時からスマホを準備し、カメラに収めることができた。


マーラー交響曲第8番の実演に接するのははじめて。
1910年の初演では出演者1030名を数え、「千人の交響曲」の異名をとった曲である。
今回、(物好きにも)プログラムに載っている出演者を数えたところ、

水星交響楽団     135名
合唱(成人)     297名
合唱(児童)       73名
ソリスト        8名
指揮者         1名
計          514名 

千人には遠く及ばないが、ステージを埋め尽くす黒と白のコスチュームは壮観であった。
むろん、トュッティ(全員演奏、全員合唱)でフォルテの迫力は大ホールを揺るがせんばかり。
終演時の盛大な拍手も当然至極であった。

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この曲の成功は、第二部のゲーテ『ファウスト』の使用にあるとつくづく感じる。
あの人類の至宝たる大傑作の最も感動的な場面すなわちファウスト救済シーンを、文学史上もっとも格調高く美しく深遠な詩文をそのままに、音楽で表現しきった点が、成功の大部を担っていよう。
むろん、大傑作にひるまず挑戦したマーラーの勇気と自信、そして奇跡の詩文に相応の響きを添わせることができたマーラーの天才的音楽性あってのことである。
ドイツが生んだ二人の大天才の協同作業なのだ。

それに比べると、第一部(神への讃歌)は確かに壮麗で荘厳で構成も見事で圧巻の出来栄えではあるけれど、魂の込め具合は第二部に敵わない。
マーラーの神(=父)への讃歌には、なんとなく無理なものを、どことなくぎこちなさを感じてしまう。
それは、近代的知性の抱く神に対する疑念、父権に対する揺らぎと相応しているのかもしれない。

一方、第二部を聴いていると、マーラーあるいは近代的知性が陥った苦しみが、

自然によって慰められ
子供によって贖われ
女性によって救われる

という構図が見えてくる。
近代的知性の苦しみとは、つまるところ、父権社会=男性原理の限界の露呈なのである。

「ファウスト」最後の一節、90分に及ぶ長い交響曲のクライマックスを飾るかの有名な「神秘の合唱」には、あたかも観音信仰のごとき、あるいはフロイトに対するユングの反発のごとき、女性原理への崇敬が顕されている。

すべて移ろい行くものは
永遠なるものの比喩にすぎず
かつて満たされざりしもの
今ここに満たさる
名状すべからざるもの
ここに遂げられたり
永遠にして女性的なるもの
われらを牽きて昇らしむ
(新潮文庫、高橋義孝訳)


マーラーの交響曲の中でも7番と並んで演奏回数の少ない8番を、舞台に乗せてくれただけでも、水星交響楽団には感謝である。


さて、感動も醒めやらぬまま両国駅まで歩くことにした。
くだんの建物の正体をいざ確かめん!

総武線の高架沿いに墨田区を横断していく。
途中で三ツ目通りの中央分離帯の柵に阻まれながらも、なおも進んでいくと、
到着しました!

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やはり、水平の視線を保てるある程度の高さから見ないと、美しさが十全に味わえない。
高架の反対側からはどうか?
回ってみると、マンションが建っていた。
マンションの5階以上の住人ならば、ベランダから、スカイツリーを背景としたカラフルなレイアウトを楽しむことができよう。
しかし、その場合、総武線の架線や電柱が邪魔になる。
やはり、列車の窓からが一番のビューポイントのようだ。

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さて、この建物の正体はなにか?
知ってびっくり。
保育園であった。


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● 香醇なるバタフライ、八千草薫を偲ぶ オペラ映画:『蝶々夫人』(カルミネ・ガッローネ監督)

1955年日本・イタリア合同制作。

音楽 ジャコモ・プッチーニ
指揮 オリヴェエロ・デ・ファブリーティス
演奏 ローマ・オペラ座管弦楽団
脚本 カルミネ・ガッローネ、森岩雄
撮影 クロード・ルノワール
美術 三林亮太郎、マーリオ・ガルブリア
協力 宝塚歌劇団
配役
  • 蝶々さん : 八千草薫(歌:オリエッタ・モスクッチ)
  • ピンカートン : ニコラ・フィラクリーデ(歌:ジュゼッペ・カンポラ)
  • スズキ : 田中路子(歌:アンナ・マリア・カナーリ)
  • シャープレス : フェルナンド・リドンニ(歌:フェルナンド・リドンニ)
  • ヤマドリ : 中村哲
  • ゴロー : 高木清
  • ボンゾ : 小杉義男
  • ケイト : ジョセフィーネ・コリー
  • 芸者 : 淀かほる、寿美花代、鳳八千代ほか
 

 八千草薫の蝶々夫人は、まさにオペラファンが理想に描く蝶々夫人そのものである。
 撮影当時23歳。清純で楚々とした雰囲気は十代の舞妓として十分通用する。立ち居振る舞いは優美で初々しく、表情には初めての恋に身を捧げる武家の娘らしい一途さ、毅然さが宿る。でありながら、これ以上ないほど可愛らしい。ピンカートンやヤマドリでなくとも、たいていの男は彼女を前にしてメロメロになってしまうだろう。

 歌は当然ながらクチパクで、本職のソプラノ歌手であるオリエッタ・モスクッチが歌っている。残念ながら出来はあまり良くない。まあ、歌が良すぎるとそっちに気をとられて映像を見るのが疎かになるから、バランス的にこれくらいがいいのかもしれない。

 外国人の手による『蝶々夫人』の演出は、日本人から見るとゲンナリしてしまうことが多い。中国と日本のごった煮になっていたり、着物の着方や立ち振る舞いが下品であったり、武士と坊主と歌舞伎役者の違いが分かっていなかったり・・・・。必ずしも写実主義がリアリティをもたらすとは限らないものの、あまりに考証が無茶苦茶だと、「この演出家は日本人を馬鹿にしているんじゃないか」と自然思ってしまうのだ。(ジャン・ピエール・ポネル演出の白塗りのミレッラ・フレーニが最たるもの。これを許したカラヤンを憎らしく思うほど)
 日本の伝統的事物や文化を自家薬籠中のものとなるほど消化吸収し、意図的に使うことで新たな効果を生み出すアンソニー・ミンゲラ演出まで行けば文句の言いようもないのだが、そこまでのものはなかなかお目にかかれない。きっと、『アイーダ』を観るエジプト人や『トゥーランドット』を観る中国人も、同じことを思うのだろう。

 この映画の美術・セット・演出は、まったく違和感なく明治時代の日本(長崎)である。日伊合同制作でスタッフに日本人が大勢加わっているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
 まぎれもない日本風景の中の、まぎれもない大和撫子の純情可憐な蝶々さん。
 それを表現したところにこの映画の一番の価値はある。

 往年の宝塚トップスターである淀かほる、寿美花代、鳳八千代が芸者役として出演しているのが思わぬボーナスであるが、八千草薫の初々しさばかりに目が行き、どこに出ているか分からなかった。


 ※香醇・・・・・中国語で、さわやかで混じりけがないの意。







● アケのオケ 慶応ワグネル・ソサエティー・オーケストラ 第228回定期演奏会

日時 2019年10月6日(日) 14時~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 太田弦
曲目:
  • プロコフィエフ/バレエ音楽『ロメオとジュリエット』
  • R.シュトラウス/楽劇『ばらの騎士』
  • シベリウス/交響曲第1番

 久しぶりの慶応ワグネル。
 前回は藤岡幸夫の情熱的な指揮のもと、素晴らしい音楽を紡ぎだし、夢見心地にさせてくれた。
 指揮の太田弦は2回目。
 前回は年齢層の高い手練れたOBオケとの共演で、タンホイザー序曲とマーラー5番という、いとも艶美なプログラムを均整の取れた精密なスタイルに彫琢していた。
 今回は、若い指揮者(94年生まれ)と若いオケのコラボ。
 どんな若さが飛び出すだろうか。

 太田弦は本年4月に大阪交響楽団正指揮者に就任したとか。
 15年間常任指揮者を務め、同オケのレベル&評価アップに貢献した寺岡清高の後任である。
 やはり才能が高く買われているのだ。

 ・・・と期待大で客席に着いたのだけれど、この日のソルティはアケ(夜勤明け)であった。
 仕事を終えた後、サウナに行って汗を流し2時間ほど仮眠をとっただけで、体調は万全とは言えなかった。
 なので、音楽にじゅうぶん対峙できたと確言できない。
 聴き手側に問題があったのかもしれないことを前もって記しておく。

 太田弦の指揮はなんとなく「疲れている、迷っている」かのように思えた。
 視覚的には颯爽とカッコよく指揮台の上で棒を振っているのだが、目を閉じると音楽に“気”が足りていない。
 前回のOBオケとの共演では、舞台から発しられた音波がこちらのチャクラを刺激し、公演中全身の“気”がうごめいた。
 蹂躙され、充填された。
 今回、発しられた音波はチャクラをノックしてはいるが、侵入する強さを持たなかった。

チャクラと冥想


 一つには、選曲によるのかもしれない。
 今回のプログラムの特徴を一言で言えば、「物語性」ということになろう。
 1曲目はヴェローナ(伊)を舞台に展開するシェイクスピアの有名な悲劇であり、2曲目は18世紀ウィーンの貴族社会を舞台とするラブコメである。
 どちらも男女の機微を描いている。
 3曲目のシベリウス交響曲第1番は標題を持たない器楽曲であるが、まぎれもないロマン派で、ひたすら美しく、ひたすら描写し、ひたすら歌う。
 
 1曲目こそ、伝統のワグネルの上手さとそれを操る太田の棒が冴え、迫力あった。
 何たって『ロミオとジュリエット』は十代の恋の物語である。
 彼らの知っている世界だ。
 
 が、2曲目は難物である。
 「若いツバメの幸福な将来のために身を引く、気品ある中年奥方の葛藤と諦念(小柳ルミ子とはベクトルが逆←若い人は知らんよな)」なんてものを、20代のインテリオケ×20代の男性指揮者がよく表現しうるだろうか?
 しかも、18世紀ウィーンのロココな香り――すなわちエロスとコケットリーを帯びた優雅さ、貴族社会の華やぎと気品、タイトル通りに薔薇の花の馥郁たる香り――のうちに大人の恋愛模様が表現されなければ、シュトラウス足りえない。
 ちょっと負担重しの感あった。
 
 3曲目のシベリウス1番は今回はじめて聴いたが、とんでもなく美しく、たいへんドラマチックな曲である。
 ラフマニノフ2番やカリンニコフ1番を思わせる。
 その美しさを十全に引き出し、大映ドラマのごとく劇的になり得る肝心なツボを、どうも取り逃がしているように感じた。
 「ああ、もったいない」と何度もつぶやいた。
 
 「物語性」を主要テーマに据えるには、若い指揮者×若いオケでは「十年早い」という気がしたのである。
 
 もっとも、和田一樹のように若くとも(若いうちから)「物語性」を得意とする指揮者もいる。
 「和田や藤岡が今回のプログラムを振ったら、若いワグネルからでもどれだけの感動を引き出せるだろう?」と思うことたびたびであった。
(和田は過去にリベラル・アンサンブル・オーケストラ共演で「ばらの騎士」を振っている。名演であった)

 「物語」を演奏するには、ある程度の人生経験か、あるいは生まれもっての感性(映画監督ならさしずめ木下惠介のような)が必要ではないかと思われる。
 太田弦の天性の才は、「物語性」に対する感性とは別口なのではあるまいか。
 タンホイザーとマーラー5番という「えらくエロく」語るプログラムを扱った上記のOBオケとの共演では、人生経験豊富なオケが持っている「物語性(世故にたける、とも言う)」が、太田の精密で繊細な指揮とうまい具合に相まって、抑制のきいた美を表出しえたのであろう。
 
 若い指揮者×若いオケで今回のようなプログラムに挑戦するのなら、むしろ難しいことはすべて投げうって、持ち前のパワーと情熱とにまかせてガンガン行くほうが聴衆を圧倒し、感服させるのではないかと思う。
 
 以上、辛口のようだが、ソルティはワグネルも太田も一度聞いて、その真価は確かめている。
 次回に期待。
 (次回はアケに当たりませんように・・・)

薔薇と蝶



評価:★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 

● 烈演! METライブヴューイング オペラ:『ロベルト・デヴェリュー』

作曲 ガエタノ・ドニゼッティ

上演(収録)日 2016年4月16日
会場 メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
指揮 マウリツィオ・ベニーニ
演出 デイヴィッド・マクヴィカー
出演 
  • エリザベス一世 : ソンドラ・ラドヴァノフスキー(ソプラノ)
  • ロベルト・デヴェリュー : マシュー・ポレンザーニ(テノール)
  • ノッティンガム公爵 : マリウシュ・クヴィエチェン(バリトン)
  • 同夫人サラ : エリーナ・ガランチャ(メゾソプラノ)
上映時間 3時間4分(休憩1回)
言語 イタリア語

 エリザベス一世が統治する16世紀イギリス。
 老齢の女王は、若き恋人ロベルト・デヴェリューがほかの女性と通じているのではないか疑念にかられている。その勘はあたり、ロベルトはエリザベスの腹心の友であるノッティンガム公爵夫人サラと秘かに愛し合っていた。
 ロベルトは、アイルランド遠征に際しての不可解な行動で反逆罪に問われる。
 下った判決は死刑。
 命乞いする親友のノッティンガム公爵。彼はよもや親友と妻ができているとは思いもしなかった。
 愛と嫉妬の間で苦悩し、死刑執行の署名をためらうエリザベス。
 だが、ロベルトとサラの深い関係を証拠立てる品が現れ、ノッティンガム公爵とエリザベスは怒り心頭に発する。
 ロベルトの処刑後、もはや虚脱状態のエリザベスは退位を宣言する。


エリザベス一世


 どこまで史実で、どこから創作かわからない。
 が、処女王と呼ばれたエリザベスが生涯何人もの臣下の恋人を持ったのは事実のようだ。
 本作はエリザベス女王の晩年を描いた悲劇なのである。

 MET初演ということが表しているように、ドニゼッティのオペラの中ではそれほど有名でも評判が高いわけでもなく、上演されるのは稀であった。
 百年に一人の名ソプラノであるエディタ・グロベローヴァが90年代に蘇演させて大成功をおさめたことが、本作をMETのラインナップに乗せる大きなきっかけとなったのではあるまいか。
 むろん、難役である主役エリザベス一世を歌い演じることのできるソプラノあってこその話である。

 ソンドラ・ラドヴァノフスキーを聴くのは初めてであった。
 これが凄かった!
 熱演、好演といったレベルを超えて、凄演、烈演、怪演の域に達している。
 気迫、オーラ―、圧倒的存在感、役への没入ぶりは鬼気迫る。
 愛する男を自らの手で処刑に課した絶望と狂気のラストシーンは壮絶の一言。
 これに匹敵するものは、『西鶴一代女』の田中絹代か、『蜘蛛巣城』の山田五十鈴か、『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンか。
 長いMET史上、伝説の名演がまた一つ生まれた。

 ラドヴァノフスキー=エリザベス女王がメインで登場する第1幕と第3幕の緊張感はんぱなく、目が離せない。
 それにくらべると、彼女の出番の少ない第2幕が退屈である。
 他の歌手たちも一流の名に恥じない素晴らしい歌声と演技を披露しているし、演出も美術もオケも悠々合格点に達している。
 が、肝心の音楽がつまらない。
 ドニゼッティ作品は、よく出来ている部分と陳腐な部分との落差が大きいのである。
 というより、そこがスター歌手のテクニック誇示を目的とするアリア部分などに力点が置かれている、ロッシーニやベッリーニも含めたベルカントオペラの特徴というか欠点なのだろう。
 全曲にわたって、交響曲のごとく緻密に設計され、退屈を感じさせないヴェルディ作品(とくに中期以降の)とは造りが異なる。
 致し方ないところであるが、第2幕がもっとよく出来ていたら・・・と思わざるを得ない。
 
 ラドヴァノフスキーは、晩年のエリザベス女王の老醜と肉体の衰えを容赦なくさらけ出す。(もちろん、声は衰えていない)
 老いの苦しみと、身悶えるような嫉妬を、一体となった歌と演技とで表現し尽くす。
 日の沈むことのない大英帝国の権力者と言えども、老いの前には、成らぬ恋の前には、いかんともしがたい。
 残酷なまでの人生の真実がそこにある。
 
 
評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 神ならざる歓喜 豊島区管弦楽団 第89回定期演奏会

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日時 2019年9月16日(月祝)13:30~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 和田一樹
曲目
  • ハンス・プフィッツナー / 付随音楽「ハイルブロンのケートヒェン」序曲
  • フランツ・シュレーカー / 組曲「王女の誕生日」
  • グスタフ・マーラー / 交響曲第7番ホ短調


 すみだトリフォニーホールは錦糸町にある。
 他の場合なら、家から1時間以上かけて行くのは遠慮したいが、和田一樹がマーラー7番を振るとあっては行かなきゃ損だ。
 1800の客席は8割がた埋まった。

 本日の3曲とも上演機会の少ない作品である。
 プフィッツナーとシュレーカーの名前は初めて知った。
 前者はロシア生まれのドイツ人で、大戦中は反ユダヤ主義者としてナチスの愛顧を得た。
 後者はモナコ生まれのユダヤ人で、ナチスの圧力により音楽界から退けられた。
 対照的な二人と、カトリックに改宗したユダヤ人で自らを「ボヘミアン」と称したマーラーを組み合わせるプログラムの妙が面白い。
 ウィキの写真で見る限りにおいてであるが、反ユダヤ主義のプフィッツナーはユダヤ人としか思えない立派なカギ鼻を持っていて、逆にシュレーカーのほうがドイツ人らしい風貌である。
 
 「ハイルブロンのケートヒェン」序曲は、NHK大河ドラマのテーマ曲を思わせる。
 勇ましく風格があり、かつ軽快な出だしは戦国時代の伊達なる武将のイメージ。
 それが中間部で一転し、美しくたおやかで、どこか哀しみを帯びた姫君の風情になる。
 最後はまた初めに戻って、爽快な大団円を迎える。
 独奏も合奏も、豊島区管弦楽団の技量の高さと指揮者との阿吽の呼吸が十分に感じられた。

 組曲「王女の誕生日」は、オスカー・ワイルドの同名童話がもとになっている。
 童話というには、あまりに残酷で悲しい物語で、現代なら障碍者差別としてPC(ポリティカル・コレクトネス)に引っかかりそうな内容である。
 なんとなく能の『恋重荷』に似ている。
 ワイルドの童話と言えば涙なしに読めない『幸福の王子』が有名であるが、一方でこんな残酷な話も書いていたのか。
 
 せむしの小人が野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりに宮廷に連れて行かれる。
 小人は姫君にきれいな衣裳を着せられ、得意になって踊って見せるが、かなしいかな、周りが自分の不恰好さを嗤っていることに気付かない。
 そのうち自分が姫君に愛されているとすら信じ込む始末である。
 だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、自分の真似をする醜い化け物の姿を見つけ出す。
 そしてついにそれが姿見であり、自分の真の姿を映し出しているという現実を悟るや、そのまま悶死してしまう。
 それを見て王女はこう吐き捨てる。
 「今度おもちゃを持ってくるなら、命(心)なんか無いのにしてね。」
(ウィキ「歌劇(こびと)」より抜粋)

 物語をそのまま音楽化しているので、原作を読んでから聴くのがベストだろう。
 美しい王女の誕生祝いの華やかで明るい宴の空気が、おぞましい悲劇へと転じていく成り行きを、濃淡・明暗・緩急つけながらメリハリよく表現していた。 
 
 休憩は、カフェでホットコーヒーを飲む。
 前半で、額と頭頂のチャクラが刺激を受け、ヘルメットでも被っているかのような温圧感が持続する。
 
チャクラの目


 マーラーが完成させた9つの交響曲の中で、第7番は鬼っ子のような存在である。
 演奏される機会が少ないのは、一つの作品としてみた場合、構成に難があるように思えるからであろう。
 演奏する側にとってはこれをどう解釈し表現するかが難しいし、聴く側にとってはこれをどう理解しどこに感動するかが分かりにくい。    
 ほかの8つの交響曲に比べて「物語化しにくい」構成なのだ。

 この7番を語るにベルリオーズの『幻想交響曲』を引いている他のサイトを見かけたが、そう、まるで麻薬中毒患者の幻想か、分裂症患者の妄想と言いたいくらい、支離滅裂な印象を受ける。
 だから、下手な指揮者とオケがやったら、生涯傷として残る失敗になりかねない怖さがある。 
 和田と豊島オケは、よくぞ挑戦したと思う。

 以下は、ソルティ解釈である。

 第1楽章は、苦悩と混乱の世界である。
 マーラーには珍しくない。
 葬送行進曲による「死の予感」もいつも通り。
 マーラーは双極性障害、いわゆる躁鬱病だったんじゃないかな?
 欝のさなかに、第5番で官能の絶頂をともに極め、涅槃の境地に揺蕩うことを許してくれたアルマ(のテーマ)がふたたび忍び寄るが、どういうわけか最早それを素直に受け入れることが叶わない。
 かたくなに抵抗するマーラーであった。 

 第2楽章は、懐旧と自然。
 マーラーが癒しを求める先は、子供時代の懐かしい日々と大自然である。
 とりわけ鉄板は大自然。
 カウベルや鐘の牧歌的な響きは、大自然を謳った第3番を彷彿させる。

 第3楽章はまたしても混乱。
 しかも今度は躁状態に近い混乱である。
 思い出や自然では癒せない苦悩とトラウマが彼にはあるらしい。
 遺伝的なものか。

 第4楽章でアルマ(のテーマ)がよみがえる。
 癒しを求める矛先はやはり官能に向かった。
 存在の深いところでは拒否しているはずの官能に。
 この自己を完全には明け渡すことのできない愛の体験は、第5番第4楽章「アダージョ」ほどにはマーラーを涅槃には連れてってくれない。
 あるいは、再体験は初体験の感動に及ばないってことか・・・。
 (ここでソルティの股間のチャクラがうごめいた)

 第5楽章は、神ならざる歓喜。
 ベートーヴェン第九の最終楽章のような歓喜は、近・現代人にはもはや天啓のようにしか訪れない。
 それは神的、宗教的な歓喜だから。
 マーラーにもたまさかそれが訪れることがあった。
 第2番「復活」や第8番「千人の交響曲」はまさに神がかりである。
 それ以外の歓喜は偽りである。
 官能によるものも!
 神の手によらず、人の手により歓喜を作り出そうとするとき、それはニーチェのような「意志による」歓喜か、病(躁病)による歓喜にならざるをえない。
 この楽章の突発的な、リア充を証明したがっているかのように空々しい、脈絡のない歓喜表現は、それゆえだろう。
 早晩、挫折が訪れることが目に見えている。

 第6番の大破壊と第8番の調和統合の間に位置する7番。
 マーラーのそのときの精神状態がまんま映し出されているのだろう。

 初めて聴く楽曲について、かくも想像力を喚起し語らせてしまう和田&豊島オケの実力は並ではない。
 チャクラマッサージにより気が整って、帰途についた。
 


評価:★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● ロッシーニ・ルネサンス METライブビューイング オペラ:『湖上の美人』

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● 作曲 ジョアキーノ・ロッシーニ
● 上演(収録)日 2015年3月14日
● 会場 メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
● 指揮: ミケーレ・マリオッティ
● 演出: ポール・カラン
● 出演:
  • エレナ: ジョイス・ディドナート(メゾソプラノ)
  • ジャコモ5世(ウベルト): フアン・ディエゴ・フローレス(テノール)
  • マルコム: ダニエラ・バルチェッローナ(メゾソプラノ)
  • ロドリーゴ: ジョン・オズボーン(テノール)
  • ダグラス: オレン・グラドゥス(バス)
● 上映時間 3時間21分(休憩1回10分含む)

 原作は英国作家ウォルター・スコットの『湖上の美人(The Lady of the Lake)』。
 前回観た『ランメルモールのルチア』と同じである。

 
 16世紀スコットランド。
 国王ジャコモ5世の軍隊と、ロドリーゴ率いる反乱軍とが闘っている。
 反乱軍の重鎮ダグラスは、娘のエレナをロドリーゴと結婚させるつもりでいる。
 だが、エレナにはマルコムという相思相愛の恋人がいた。
 ある日、狩人に変装したジャコモ5世は湖のほとりでエレナに出逢い、その美しさと優しさにぞっこんになる。
 ジャコモは正体を隠しウベルトと名乗り、エレナに愛を告白するが拒まれる。
 失恋に苦しむも、友情の証としてエレナに指輪を渡す。
 「困ったことがあったら、この指輪を王様に渡しなさい」と言い残して・・・。
 やがて反乱軍は国王軍に敗れ、ロドリーゴは命を失い、ダグラスとマルコムは捕われの身となる。
 エレナは父と恋人を救うため、指輪を手に王宮へ乗り込む。


 これがMET初演と言う。
 ロッシーニが作曲したのも初演されたのも1819年(ナポリのサン・カルロ劇場)。
 その後の上演歴は不明だが、20世紀の復活上演は1983年のペーザロ・ロッシーニ音楽祭だという。
 おそらく100年以上埋もれていたのだろう。
 むろん、ソルティも初めて聴く。
 
 埋もれていた理由の一つは、ロッシーニの代表作でよく上演される『セヴィリアの理髪師』や『チェネレントラ(シンデレラ)』に比べると、出来がいまいちだからであろう。
 物語のたわいなさは大目に見るとしても、音楽的にも、フィナーレを飾るエレナのアリア『胸の思いは満ち溢れ』をのぞけば、それほど印象に残る名曲(アリア、合唱とも)はない。
 とりわけ、第一幕は単調で工夫にかけ、総じて退屈である。
 聴きながら、「天下のMETが復活上演するほどのものか?」という疑問符が踊った。
 演出も凡庸で、照明が暗く、METらしくない。  
 
 ロッシーニの才が輝きだすのは第二幕からである。
 ウベルト(ジャコモ5世)の美しく切ないアリア「おお甘き炎よ」から始まって、ウベルトとロドリーゴのテノール2人によるスリル満点のハイC合戦、マルコム(男装メゾソプラノ)が歌うアリア「ああ死なせてくれ」の抒情、そしてウベルトの正体が明かされる緊迫と滑稽の瞬間を経て、超絶技巧の駆使される『胸の思いは満ち溢れ』で盛大にハッピーエンドを迎える。
 第一幕の出来がもっと良かったら、100年も埋もれていなかったであろう。
 
 いま一つの理由を挙げるとすれば、どのパートも超難曲ばかりのこの作品を上演するにあたり、歌手を揃えることが叶わなかったのであろう。
 テノール2人には頻繁なハイC(高いド)を繰り出せる強靭な喉が求められ、主役メゾソプラノにはコロラトゥーラの超絶技巧が必要とされ、今一人のメゾソプラノは雄々しい戦士役をこなす演技力が要求される。
 どのパートもベルカントの装飾歌唱技術が必須である。
 
 マリア・カラスやジューン・サザランドによってベッリーニやドニゼッティのベルカントオペラが復活し、その後、マリリン・ホーンやチチェリア・バルトリなど才能あるメゾソプラノの輩出によりロッシーニ・ルネサンスとでも言うべき時代が到来した。
 その流れの中で、今回METが揃えたような素晴らしい布陣が可能となったのであろう。
 
 エレナ役のジョイス・ディドナートは『セヴィリアの理髪師』でも見せた音域の広さと表現力が卓抜。
 絢爛たる技巧とドラマチックな表現に色づけられた最後のアリアなど、これを聴くためだけに退屈な一幕を我慢してもかまわないと思うほど、聴く者を至福の境地に運んでくれる。

 ウベルト役のフアン・ディエゴ・フローレスは、言うまでもなくロッシーニ・テノールの帝王。
 張りのある力強い高音を響かせるだけでなく、アリアの抒情性も完璧。
 二枚目でスタイルもよく、欠点が見つからない(上記ポスターの王子様)。

 マルコム役のダニエラ・バルチェッローナは通好みのメゾソプラノである。
 ロッシーニやベッリーニからヴェルディ(『アイーダ』のアムネリス)まで、どんな役でもこなしてしまう器用さに感心する。
 男の仕草もなかなか堂に入っている。
 2人の美男テノールのライバルたちを退けて、見事エレナの愛をゲットしキスするくだりは、なんだか危険な百合の香りが漂った(笑)

 ロドリーゴ役のジョン・オズボーンははじめて聴いたが、なかなか華のある元気なテノールである。
 フローレスとのハイC合戦も負けていない。
 『トロヴァトーレ』を聴いてみたいものだ。

 METの一流歌手たちの凄さを思い知らされた一夜であった。



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 熱き心に METライブビューイング オペラ:『ランメルモールのルチア』

上演(収録)日 2011年3月19日
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)

作曲:ガエタノ・ドニゼッティ
指揮:パトリック・サマーズ
管弦楽:メトロポリタン歌劇場管弦楽団
出演:
 ルチア(ソプラノ)  :ナタリー・デセイ
 エドガルド(テノール):ジョセフ・カレーヤ
 エンリーコ(バリトン):ルードヴィック・テジエ
上映時間:3時間26分

 もはや語り草となっているナタリー・デセイのルチアを観るために、久しぶりに銀座に出かけた。
 目指すは歌舞伎座のそばの東劇である。過去数年にMET(メトロポリタン歌劇場)で上演され話題となった32演目のオペラのアンコール上映しているのだ。
 観たい(聴きたい)作品はたくさんあれど、一本 3,200円と決してお安くはない。(生の舞台を米国まで見に行くことを考えれば破格の値段ではあるが)
 今回はイタオペばかり3つ選んで観ることにする。
 まずはドニゼッティの最高傑作『ルチア』。

 1965年生まれのナタリー・デセイは上演当時46歳。歌手としては微妙な時期だ。特に美しい高音と超絶技巧を売りとするコロラトゥーラソプラノ歌手としては・・・。
 この舞台の2年後、デセイはオペラ舞台から引退してしまった。自分でも喉の衰えや声の限界を自覚していたのだろう。賢い決断だと思う。
 この舞台のデセイも明らかに喉の不調に悩まされている。全幕通して声のかすれや声量の衰えが目立つし、高音部のレガートも危うげである。もともと声帯が丈夫でなく若いころから何度も故障に悩まされていたようだから、限界が来ていたのかもしれない。
 このオペラ最大の見せ場は、主役ソプラノの独壇場で超絶技巧が堪能できる「狂乱の場」である。高音域の難しいパッセージが続き、クライマックスでは気の触れたルチアがフルートと掛け合いする部分がある。デセイの声は決して安定しているとは言い難く、なんとフルートとの掛け合いを省いている! 楽譜を無視してアカペラで歌っているのだ。こんなの初めて聴いた。
 個人的には、フルートとの掛け合いは必須だと思う。フルートの高くうつろな響きは狂ったルチアの頭の中の声だと思われるので、掛け合いによって次第に狂気の域に入り込んでいくルチアを表現する大切な部分なのだ。そこを省いては作曲者ドニゼッティに対して礼を失する。
 が、もしかしたら、これもデセイの不調ゆえだったのかもしれない。フルートの奏ずる難しいパッセージに合わせて掛け合いするのが困難だったゆえに、あえてアドリブの利くアカペラにしたのかもしれない。

 と、ここまで書いたところからして、残念な舞台だったと思われるかもしれないが、そうではない。
 この声の不調を補ってあまりある名演だった。デセイの入魂の演技、深い解釈と鍛え抜かれたテクニックに支えられた表現力は、やはり語り草となるも道理の素晴らしさである。歌唱と演技が一体となって、残酷な兄によって恋人と引き裂かれ心砕かれた一人の乙女を舞台上にまざまざと現出させた。フィオレンツァ・コソットばりの名女優である。表現力に関して言えば、マリア・カラス爾来最高のルチアと言ってよいのではあるまいか。

 エドガルドを歌ったジョセフ・カレーヤは、生粋のイタリアンテノールとでも言いたいような(マルタ島生まれだが)癖のない輝かしい高音で、その愛嬌ある顔立ちや体格とともにパヴァロッティ御大を想起した。最終幕のアリアなど、涙なしで聴けない絶唱であった。
 エンリーコ役のルードヴィック・テジエも素晴らしかった。朗々たるドラマチックバリトンである。風格ある舞台姿も良い。『ナブッコ』を聴いてみたい。

 生の舞台でなしにここまで臨場感を感じさせるとは、さすが世界一のオペラハウス。(終演後にスクリーンに向かって拍手している人がいた)
 なによりかにより、ドニゼッティの落款(らっかん)とも言うべき「熱き心」をしっかりと「今ここ」に蘇らせて、聴く者をして感応せしめ、その魂を揺さぶった。


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評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










 

● DVD:劇団四季の『鹿鳴館』(三島由紀夫・作)

2009年10月自由劇場にて収録
NHKエンタープライズ発行

作  三島由紀夫
演出 浅利慶太
衣装 森英恵
音楽 林光
キャスト
 朝子   :野村玲子
 影山伯爵 :日下武史
 清原栄之輔:山口嘉三
 清原久雄 :田邊真也
  
 『鹿鳴館』は、『サド侯爵夫人』と並ぶ三島戯曲の傑作であり人気作である。国内での上演回数だけなら後者を上回るであろう。過去には杉村春子、岩下志麻、黒木瞳を主演にテレビドラマ化され、浅丘ルリ子主演で映画化されている。文学性高くテーマのやや難解な『サド侯爵夫人』に比べると、娯楽性高くわかりやすい人情劇なのである。
 ソルティは残念ながら生の舞台に接したことはない。黒木瞳の2008年テレビ版と、浅丘ルリ子の1986年映画版(市川崑監督、東宝)のみ観ている。ウィキ「鹿鳴館」によると、この映画版は、

現在権利上の問題で封印されている。作品そのものの版権と原盤のありかが不明確で、そのためソフト化はもちろん上映も困難だという。

 なんともったいない!
 浅丘ルリ子の朝子は適役で素晴らしく美しいのに!
 共演者も、菅原文太(影山伯爵)、石坂浩二(清水永之輔)、中井貴一(清水久雄)、沢口靖子(大徳寺顕子)、岸田今日子(大徳寺侯爵夫人)と錚々たる顔ぶれが揃っているのに!
 鹿鳴館のセットも豪華で、市川監督の演出もさえているのに!
 まさに幻の鹿鳴館だ。

鹿鳴館


 劇団四季の『鹿鳴館』は初演時から評判が高く、気になっていた。近所の図書館にDVDがあった。
 モニターを通して観る芝居は、ライブの臨場感や迫力、舞台上の役者と観客の織り成す“気”の交感が削がれるという欠点は無視できない。
 が、メリットもある。
 カメラが自由に移動するので、様々な距離と角度から舞台を楽しめる。遠くから舞台全景を見渡し、近寄って役者の細かい演技を見る。上手から、下手から、正面から、見事なセットと森英恵デザインの美しい衣装をつけた役者たち、そして考え抜かれたカメラアングルとがつくるカットを、一幅の絵画のように鑑賞することができる。とりわけ、遠い客席からは見えにくい役者の表情や細かい動きを見ることができるのは、録画鑑賞の大いなる利点である。

 この舞台はDVD化による永久保存もうなづける、たいへん充実した彫りの深い舞台である。実際の舞台に足を運んだ人でも、新たにDVDで観ることで、別の舞台を見るかのように一層楽しむことができよう。
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 劇団四季の役者たちの発声と滑舌の良さを褒めるのは失礼であろう。プロなら当たり前のことだ。セリフ回しの達者ぶりも。
 ただ、三島戯曲のセリフは高踏できらびやかな修辞に富んでいて、実際の会話では使われないような類いなので、下手すると歯が浮くような滑稽なものになりかねない。中世フランス貴族、しかもある意味伝説上の人物を描いた『サド侯爵夫人』ならば、セリフの非現実性はそれほど不自然にうつらないが、近代日本の人情劇ではなかなか適合難しい。そこを不自然を感じさせることなく見事人情劇に定着させているのは、演出と訓練の賜物であろう。
 奥行きを感じさせるセットづくり、ドレスや着物や花飾り(假屋崎省吾がクレジットされていた)といった美術も、貴族の邸や鹿鳴館の豪勢と格調とをうまく醸し出している。
 
 役者はみな安定した演技をみせている。綻びがない。
 朝子役の野村玲子は熱演というにふさわしい。終幕に向けて次第に盛り上がっていき、最後に爆発する感情の流れをしっかりコントロールして、舞台に緊張感を漲らせる。
 影山伯爵役の日下武史は、さすがベテランというほかない飛び抜けた演技力で、魅せてくれる。どことなく昭和天皇を思わせる独特の恬淡とした喋り口調と緩慢な動きにより、個性的で威厳と魅力をそなえた影山伯爵を創造している。影山伯爵は、権謀術数に優れた冷徹な政治家かつフィクサーで、善なる主人公の敵役、悪役の位置づけには相違ない。日下はそこに深みを与え、単なる冷血漢ではない、「愛に不器用な」影山伯爵像を創り出している。彼は、彼なりに朝子を深く愛していたのだと、観客は悟ることができよう。

 この戯曲は男の論理(=政治、理想、計略)と女の論理(=愛、現実、感情)とが拮抗する物語である。あるいは、『サド侯爵夫人』同様、「女」の視点から描く「男」の姿である。むろん、女の典型が朝子、男の典型が影山伯爵や清原永之輔である。
 朝子と清原の息子久雄が、女(母親)の論理と男(父親)の論理との間で揺れ動き、最後には父親の手による銃弾を受けて殺されるというマゾヒスティックな筋書きに、作者三島由紀夫の分身と密やかなる欲望を見ると言ったら、うがち過ぎだろうか。 

 2017年に日下武史が、昨年浅利慶太が相次いで亡くなった。
 このDVDはまさに二人の芸術家の最良の仕事の記録となった。


評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● That’s Verdi !! 真夏のレクイエムこうとう2019

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日時  2019年8月18日(日)15:00~
会場  ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
主催  公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 ティアラこうとう

曲目  ヴェルディ:『レクイエム』
指揮  飯守泰次郎
管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱  ティアラこうとう真夏のレクエム合唱団
独唱  
    ソプラノ:横山恵子
    メゾ・ソプラノ:金子美香
    テノール:望月哲也
    バリトン:大沼徹


 ヴェルディの『レクイエム』ははじめて聴く。もっとも、その一部分――有名な「ディーエス・イレ(怒りの日)」の冒頭――は、映画やテレビなどで頻繁に耳にしていたが。
 むろん、ヴェルディのオペラ以外の曲を聴くのもはじめてである。 

 レクイエム(鎮魂歌)はミサ曲、つまりキリスト教の典礼音楽なので、クリスチャンでないソルティは積極的に聴こうという意欲をこれまで持たなかった。
 今回、たまたま知人からチケットをもらったので、「これも縁」と出かけることになった。そう、3日前に長崎の原爆被害を描いた『この子を残して』を記事に上げたばかりであった。 


フルトヴェングラー 001
ティアラこうとう


 月並みな感想であるが、「やっぱりヴェルディはオペラ作家だなあ~」と思った。
 彼が作ったオペラの名曲の数々——『椿姫』、『イル・トロヴァトーレ』、『アイーダ』、『オテロ』、『仮面舞踏会』ほか——に比べて見劣り、ならぬ聞き劣りすると言いたいわけではない。この『レクイエム』もまた、「しっかりオペラだ!」と言いたいのである。

 つまり、典礼音楽にしてはあまりにドラマティックで、華麗で、面白かった。タイトルを聴かずに耳にしたら、「ノアの箱舟」や「トロイ戦争」あたりを題材にした叙事詩オペラと言われても違和感ない。これがもしラテン語でなくイタリア語で歌われたら、もうイタオペそのものだろう。
 聴く前に持っていた「途中で眠ってしまうかもしれない」という懸念は、まったくの杞憂であった。それくらい迫力満点の、ジェットコースターに乗っているかのようなめくるめく体験であった。

 オケも合唱も言うことない出来栄えであったが、とくに独唱バリトンの大沼徹の声が素晴らしく、聞き惚れた。長身で若々しく清潔感あるルックスも良かった。次は生のオペラで聴いてみたい、見てみたい人である。『トロヴァトーレ』のルーナ伯爵あたりとか。
 
 「死者の安息を願う」というレクイエム本来の役割からすれば、この曲はちと逆ベクトルな感がある。
 現世的で、血の気が多くて、感情に満ち溢れ、気分を昂揚させる。

 That’s Verdi !!

 傑作には間違いない。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


 
 
  

● 映画:『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督)

2018年イギリス、アメリカ
134分

 クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画。日本でも大ヒットとなったのは記憶に新しい。

 見どころ(聴きどころ)は、主演ラミ・マレックのフレディ本人が取り憑いたかのようなソックリさん演技、そして何といってもクイーンの音楽であろう。こうしてあらためて聴いてみると、ほんとうにオリジナリティあふれる名曲揃いである。ロックに興味ないソルティでも知っている曲ばかりなのだから・・・。
 
 フレディの人生を語るに避けて通れないのは、ゲイというセクシュアリティと、死因となったエイズであろう。90年代初頭、フレディは俳優のロックハドソン、画家のキース・へリング、写真家のロバート・メイプルソープらと並ぶ「エイズ=同性愛=死」のイコン(ICON)であった。映画では、フレディが自らのセクシュアリティを認め受け入れるのに葛藤する姿や、HIV感染の事実をバンド仲間らに伝えるシーンが出てくる。(どちらもあまり深刻には描かれていないが)

 また、映画のクライマックスとして、名だたるスター歌手たちと共演した1985年のライヴエイド(アフリカ難民救済チャリティーコンサート)のシーンが登場する。We are the World の曲と共に、当時の先進国のアフリカ支援をめぐる狂騒が懐かしくもよみがえってくるが、結局あれは何だったのだろう? アフリカのために役立ったのだろうか? 
 
 ともあれ、70~90年代の時代の息吹というものを感じさせる映画である。
 つまりそれは、天才アーティストというものは常に、時代と共に、時代を象徴して、生きる存在だということなのである。


評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『 ドナルド・キーンのオペラへようこそ!』

2019年文藝春秋

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 ドナルド・キーンは今年の2月24日に亡くなった。享年96歳。まさに昭和と平成をまるまる生きた。
 18歳の時に読んだ『源氏物語』(アーサー・ウェイリー訳)に感動して日本文学・日本研究を志し、毎年のように来日。一年の半分をニューヨーク、残りを日本で過ごした。川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房ら名だたる文豪と交流を結び、古典現代を問わず日本文学を海外に翻訳・紹介した。サイデン・ステッカー(1921- 2007)とともに日本文学にとって恩人と言っていい存在である。能や文楽や歌舞伎など古典芸能にも詳しかった。ソルティは大学1年のとき、キーンの半生記である『The Blue-Eyed Tarokaja (青い目の太郎冠者)』を英語のテキストとして読んだ記憶がある。

 キーンはまた大変なオペラゴアー(goer)でもあった。
 おそらく、同時代の日本のどんな音楽評論家も、どんな指揮者や演奏家も、どんなクラシックマニアも敵わないくらい本場の生オペラを観ている。本書の巻末には 1961年から2018年までのキーンのオペラ鑑賞記録が掲載されているが、350本近くある。一シーズン6本くらい観ていることになる!
 しかも、同時代の日本人がどう頑張っても敵わないのは、海外への渡航が難しかった時代に、世界のあちこちの劇場で伝説的名歌手による伝説的名演に接している点である。
 たとえば、キルステン・フラグスタートとラウリッツ・メルヒオールによる『トリスタンとイゾルデ』とか、マリア・カラスの『ノルマ』、『トスカ』、『椿姫』、『ランメルモールのルチア』とか、エツィオ・ピンツィアの『ドン・ジョヴァンニ』とか、エリーザベト・シュヴァルツコップフの『ばらの騎士』(元帥夫人)とか・・・。戦後黄金時代のオペラを肌で知っているのだ。
 本書には、キーン少年とオペラとの出会いから始まって、豊富なオペラ体験にまつわる愉快なエピソードや有名オペラの作品論、好きな歌手たちへのオマージュ、とくにアリア・カラスの思い出などが綴られている。

 キーンは、2011年に日本国籍を取得し、日本永住を表明。その後、浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己を養子にとって一緒に暮らしていた。本書「あとがきに代えて」では、キーン誠己が父キーンから受けたオペラ教育の模様が描かれている。 

父の教え方の基本は、日本文学を教えるときと同様、知識を詰め込むのではなく、作品のもつ面白さ、楽しさ、美しさを自分自身が作品の中にはいり込んで伝える、ということだと思う。それはまさに「情熱」という一語に置き換えられる。


 オペラ好きなら読まないという選択肢はない。



評価:★★★

★★★★★ 
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★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 半世紀の品格 :上智大学管弦楽団 第108回定期演奏会

日時 2019年6月15日(土)19:00~
会場 江戸川区総合文化センター 大ホール
曲目
  • ベートーヴェン:序曲「コリオラン」 
  • シューベルト:交響曲第7番「未完成」 
  • ドヴォルザーク:交響曲第8番
指揮:汐澤安彦

 江戸川区総合文化センターは、総武線新小岩駅から歩いて15分の住宅街にある。新小岩の二駅先が市川、千葉県である。埼玉にあるソルティの家から2時間以上かかる。
 篠つく雨の中をこんな遠いところまで足を運んだのは、汐澤安彦の音楽を聴かんがためであった。
 評判は耳にしていたものの、これまで聴く機会がなかった。

 下町イメージの強い江戸川区に、広尾か青山の高級住宅街のような流水と緑に囲まれた閑静でハイソな一角があり、そのど真ん中に真新しく立派な文化センターはあった。
 15年以上前になるが、この裏手にある江戸川保健所までエイズ検査を受けに来たことがある。結果の待ち時間に周辺を散策したが、ずいぶん辺鄙な、潤いに欠けた土地だなあと思った。
 変われば変わるものである。


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 汐澤を聴くのがはじめてなら、上智大学管弦楽団を聴くのもこれがはじめて。
 汐澤はなんと1965年から同楽団の常任指揮者を務めている。すでに半世紀以上。子飼い、いや孫飼いのオケと言っていいだろう。
 その上手さは、一曲目の「コリオラン」で瞬く間に了解された。
 現在、音大系をのぞいて、大学オケでこれほど上手いところはなかなかあるまい。早稲オケ慶応ワグネルも上手いと思ったが、上智オケは大人度が高い。学生の出す音とは思えない。大学オケのみならず、数あるアマオケの中でも五指に入る、少なくとも十指に入るのではなかろうか。
 しかも、全体的に上手いだけでなく、ソロパートも優れていた。汐澤はじめトレーナーによる鍛え上げの成果であろう。

 二曲目の「未完成」こそ、今宵一番の衝撃であった。
 ソルティの中でシューベルト(1797-1828)は、モーツァルト(1756-1791)とベートーヴェン(1770-1827)の間に位置する存在であった。生まれ年では、ベートーヴェンより30年近く遅いのだが、なにせ早死に(31歳!)だったので、その生涯はベートーヴェンの後半生にほぼ重なってしまう。
 なので、ロマン派音楽の幕開けを華々しく飾った感のある後期ベートーヴェン(たとえば『第九』)に比べると、どちらかというと古典派であるモーツァルトに近いような印象があった。歌曲や室内楽のような(宮廷やサロンで演奏される)小品に傑作が多いことも影響しているかもしれない。
 最も有名な『未完成』もまた、流麗でわかりやすく美しいメロディのため、モーツァルトの交響曲40番の系列、つまり “BGMになり得る” 心地よい音楽として聴いていた。
 しかるに、このイメージが打ち破られたのである!

 この曲がこれほど堂々たる交響曲であるとは思わなかった。
 なんとまあ多彩で、深みがあり、風格あることか!
 それぞれの楽器が細やかに歌っていることか!
 汐澤の指揮は、この曲に深さと厚みと品格を与え、ベートーヴェンの交響曲と比してまったく遜色ない、まぎれもないロマン派の傑作であることを教えてくれた。
 とりわけ、唸らされたのは品格である。
 深さと厚みはある程度テクニックで引き出すことができようが、品格は気質である。小手先でどうこうできるものではない。
 これこそは、汐澤と上智オケとの長年の交流が醸造させたエッセンスなのであろう。
 どんなエログロ、どんな暴力的な題材を取り上げようとも下品には決してならない大島渚監督の作品群を想起した。
 
 三曲目のドヴォルザークはもはや言わずもがな。
 牧歌的で心浮き立つ汽車の旅をしているうちに、つい微睡んでしまい、目覚めたらいつのまにか天上へと続く光の軌道を走っていた、といったイメージが浮かぶ第8番。
 品格の輝きは、この曲に神々しさをもたらした。一瞬、ゲーテ『ファウスト』の最終シーンを垣間見たほど。
 汐澤と上智オケによるマーラー『復活』や8番を聴いてみたいものである。

 遠路はるばる来た甲斐あった。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● オペラDVD:ヴェルディ作曲『アイーダ』(リッカルド・シャイー指揮)

2006年12月ミラノスカラ座ライブ(DECCA制作)

指揮:リッカルド・シャイー
演出:フランコ・ゼッフィレッリ
ミラノスカラ座管弦楽団・合唱団・バレエ団
キャスト
 アイーダ : ヴィオレッタ・ウルマーナ
 ラダメス : ロベルト・アラーニャ
 アムネリス : イルディコ・コムロージ
 国王 : マルコ・スポッティ
 ランフィス : ジョルジョ・ジュゼッピーニ

 オペラの殿堂ミラノスカラ座の2006年シーズン幕開けに、なんと20年ぶりの新演出で組まれた『アイーダ』である。
 戦後のオペラ界に帝王のごと(女帝のごと?)君臨し続けた名演出家ゼッフィレッリを持ってくるあたりに、スカラ座の威信と誇りをかけた取り組みが感じられる。たしかに昨今はニューヨークのメトロポリタン歌劇場に押され気味だし・・・。
 
 この上演は、超一流の指揮者とオケと歌手とダンサーを揃え、ゼッフィレッリお得意の豪華絢爛にしてオーソドックスな大衆受けする演出のもと、スカラ座の名に恥じない大舞台に仕上がっている。
 が、何かが足りない。
 観ていて退屈を感じてしまう。
 すべてが高レベルで揃っているのは間違いないが、それが裏目に出て、なんら特色ない最初から及第点を狙っただけの舞台になっているように感じられた。
 終幕後の長々と続くスタンディング・オベイションには納得いかないものがある。
 
 歌手もアムネリスのイルディコ・コムロージの熱演をのぞけば、情熱の感じられない紳士淑女的な歌唱と演技に終わっている。
 アイーダ役のヴィオレッタ・ウルマーナは美声だが、声に芯がなく心に響いてこない。演技も重々しいばかりで、人質となったヒロインの苦悩は感じられるが、ラダメスへの愛は感じられず。そのせいか華やぎがない。
 ラダメス役のロベルト・アラーニャは、さすがにベテランの歌い回しで、聴かせどころを押さえている。が、声に張りがない。(二日目の舞台で客席からブーイングを受け、途中降板したとのこと)
 
 このプロジェクトが行われた2006年と言えば、当時スカラ座の総支配人であったカルロ・フォンタナと音楽監督リッカルド・ムーティの対立に端を発したお家騒動がやっと終息し、新体制で船出したばかりだった。思い切った冒険をするよりも、安全牌を揃えて成功の裡にいいスタートを切りたかったのかもしれない。
 過分に思える客席の拍手喝采も、お家騒動の終息を喜び、新体制を応援していこうという根強いスカラ座サポーターたちの心意気の表れなのであろう。


スカラ座
ミラノ・スカラ座


評価:★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● オーケストラ・マトリョーシカ第11回定期演奏会

とき  2019年3月21日(木・祝)14時~
ところ ルネ小平 大ホール(東京都小平市)
曲目
  • ラヴェル : 道化師の朝の歌
  • ラヴェル : ラ・ヴァルス
  • チャイコフスキー : 交響曲第5番 ホ短調 作品64
  • アンコール チャイコフスキー : 『くるみ割り人形』より「花のワルツ」
指揮  森川 慶

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小平市は昔ながらの赤いポストがご自慢


 ポカポカ陽気で風が強い。花粉症には最悪の天気である。
 しばらく前から、目はショボショボ、頭はボーっとしている。
 「毎日が日曜日」の身には取り立ててそれで困ることもないのだが。

 マトリョーシカの演奏会は2回目である。
 前回は、ヴェルディ『運命の力』序曲とベートーヴェン交響曲第5番『運命』であり、今回はこれまた「運命のモチーフ」を奏でるチャイコの5番である。運命好きのオケなのか、ソルティが運命に呼ばれているのか。
  
 祝日かつ入場無料ということもあって、1229名収容の大ホールは7割がた埋まっていた。
 どういうわけか、独り者のおじさんは前の方にかたまる。ソルティも前半は前から5列目あたりに座っていたが、後半は舞台がよく見えて音が全体として聴こえる2階席に移動した。

 ラヴェルの「ラ・ヴァルス」は素晴らしい曲。
 混沌とした渦の中からラヴェルらしい美しいヴァルス(ワルツ)の調べが立ち上がって、泥中の蓮のごと凛と輝き、馥郁たる香りを放ち、やがてまた混沌に還っていく。一瞬のホログラムのような、幻のような、はかない印象が、かえって美しさを引き立てる。あたかも、夭折した美しき女優のよう(たとえば夏目雅子)。

白い蓮



 チャイコフスキー5番を聴きながら、運命について思索でもしようかと思ったのだが、やはり花粉症の影響か、曲にも思索にも入り込めなかった。残念。

 それにしても、それなりのレベルのクラシック演奏を立派なホールで無料で聴くことができる今の日本の文化環境って、ほんとうに有難い。
 チャイコが知ったら、己の呪わしき運命をきっと肯定する。



評価: ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 100年に1人の名歌手 オペラ: ドニゼッティ作曲 『シャモニーのリンダ』

1996年9月チューリッヒ歌劇場におけるライヴ収録(DVD)
イタリア語

指揮:アダム・フィッシャー
演出:ダニエル・シュミット
チューリッヒ歌劇場管弦楽団&合唱団
キャスト
 リンダ : エディタ・グルベローヴァ
 カルロ : デオン・フォン・デル・ワールト

 『シャモニーのリンダ』は、有名なオペラとは言えないし、ドニゼッティの作品の中でもとくに優れているとは言い難い。主役を歌うのが人気実力兼ね備えたよほどの名歌手でなければ、わざわざ上演するほどの演目ではない。集客も期待できまい。
 この舞台が成った一番の理由、このライヴが収録されDVDとして発売されるに至った一番の理由は、主役リンダをつとめた稀代の名ソプラノ歌手エディタ・グルベローヴァの歌唱にあるのは、誰もが認めるところであろう。
 スイス出身の往年の名監督ダニエル・シュミットの名が演出に上がっていることも、確かに興味を引く一因ではあるが、幕が上がってしまえば、観客のすべての集中は、舞台セットや美術や歌手たちの動きではなく、グルベローヴァの声に絞られる。

 1946年生まれというから、この時ちょうど50歳。
 若々しい容姿にも驚かされるが、衰えを感じさせない声の美しさと威力とテクニックは、「いったい、この人は何を食べているんだろう?」と思わずにはいられない。クレオパトラは美貌を保つために真珠を溶かした酢を飲んでいたと言われるが、グルベローヴァは毎朝赤マムシドリンクかウグイスの糞でも飲んでいるのでは?
 ウンカの如く出現しては消えていった歴代ソプラノの中で、彼女の声だけは絶対に他の歌手のそれとは聞き違えられることはあり得ない。本当に独特の声である。玲瓏な玉のような滑らかさと、清代の陶磁器のような艶を持ち、自在に音階を滑り降りするさまは炎の舞いのよう。それも冷たい青い炎だ。幕切れの変ホ音(2オクターヴ上のミのフラット)も見事に決めている。使い馴れた楽器のように自らの声を完璧にコントロールしているその知性は言わずもがな。


青い炎


 若く才能あるソプラノ歌手が登場するたびに、「100年に1人の逸材」といった文句で持て囃されるのは今も昔も変わりない。が、本当に「100年に1人」なのかどうかは、時の判定を待たなければならない。運よく世界の檜舞台に立てても、その実力と名声を持続し続けるのは難しい。
 グルベローヴァは1970年代に頭角を現し、「コロラトゥーラの女王」として世界の一流劇場で歌い続け、その後は声の変化と共にレパートリーを次第に広げ、いつのまにか「ベルカントの女王」として君臨し、2000年代に入ってついにソプラノ歌手の頂点たるベッリーニの『ノルマ』を歌い成功させた。昨年10月に日本最後のリサイタルをしたらしい(72歳!)。

 もはや、「100年に1人の名歌手」と断言しても間違うことはあるまい。



評価: ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 生きられなかった苦しみ : マーラー交響曲第10番(オーケストラ・イストリア第3回演奏会)

日時: 2019年3月9日(土)14:00 開演
会場: 武蔵野市民文化会館 大ホール
指揮: 齊藤 栄一
曲目: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 (クック版最終稿)


 今回も最初から最後までチャクラが疼きっぱなしであった。胸、みぞおち、股間、眉間、頭頂・・・・楽章が移るごとに、主題が転じるごとに、主要となる楽器が入れ代わるごとに、刺激される部位も目まぐるしく変化し、閉じた瞼の裏側で光が躍った。演奏会が終わって家に帰っても1時間以上、額に温シップしているかのような前頭葉の火照りとマイルドな疼きは続いた。


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 これが起こるのはその日の演奏が良かったことの証明みたいなもので、事実、齊藤栄一率いるオーケストラ・イストリアの演奏は優れていた。
 が、単純に「良かった」とは言えない。なぜなら、演奏が良ければ良いほど、曲のテーマが優れて表現されればされるほど、「つらい」「きつい」と感じざるを得ないのが、このマーラーの遺作たる第10番だからである。つまり、「良かったけれど、つらかった」という矛盾するような感慨で曲を聴き終わった。
 指揮棒が下りても少なくとも3分間、ソルティは椅子に深く沈み込んだまま、拍手に加われなかった。マーラーによって、斎藤とイストリアによって、連れていかれた煉獄巡りからなかなか帰還できなかったのである。よくまあ、他の聴衆はすぐさま気持ちを切り替えて拍手喝采できるなあと思った。中には、指揮棒が下りないうちから拍手を始める手合いもいて、あれはさすがに、マーラーの何たるかも、音楽の何たるかも、人生の何たるかも分かっていないお猿さんなのであろう。
 一橋大学管弦楽団では「マーラー交響曲9番を毎年演奏する」という伝統があったそうで、そのOB・OGを中心に2015年結成されたイストリアがマーラーとの親和性が高いのも頷ける。


兼松講堂
一橋大学国立キャンパスの兼松講堂


 第10番を全曲聴いたのははじめてであった。
 ソルティの持っているバーンスタイン指揮による「マーラー交響曲全集(ソニークラシカル)」は、第10番は第1楽章しか収録されていない。マーラーがまがりなりにもオーケストレーションまで完成させたのは第1楽章だけで、あとは未完のまま、51歳の生涯を終えたからである。
 その後、音楽学者のデリック・クックが、遺された楽譜や関連資料をもとに補筆し、最後まで演奏できる形に仕立て上げた。これがいわゆるクック版である。
 なので、今回聴くにあたって、好奇心逸る一方で、第1楽章とそれ以降の楽章とではギャップがあるのではないか、楽章が進むほどに見劣り(聞き劣り?)するのではないかという懸念があった。
 が、それは杞憂であった。ソルティレベルの耳では、未完成という事実を知らないで聴いたとしたら、そのことに気づかなかったであろう。

 第1楽章の悲痛と愁嘆の色合いは凄まじい。作曲中に最愛の妻アルマの不倫を知ったことによるショックが反映しているのか。
 第2楽章はリズムの刻み方がとてもユニークで面白い。最後の最後まで新しさを追求し工夫する天才マーラーの面目躍如である。
 第3楽章の短さは意外や意外。
 あえて言えば、第4楽章がラフ(粗雑)な印象を受けた。が、最後に入る大太鼓には吃驚させられた。交響曲第6番のハンマー音を凌駕する運命からの容赦ない崩壊の宣告。
 これが最終楽章まで続き、これまでに獲得され積み上げられてきた生の戦利品すべてが、破壊され、奪われ、なし崩しにされてゆく。残るは死を前にした敗残者がすがりつき慰めとする美しき愛の思い出のみ。なんとも痛切な終焉である。
 第10番は未完で良かったのかもしれない。これが完成され演奏されたあかつきには、聴いた後で自殺する人が出ていたのではなかろうか。

 マーラーは自らの人生の喜びと苦悩の両方を音楽として表現し尽くすことで、近代人の喜びと苦悩の極限を描いたのだと思う。それこそ、あと一歩超えたら天界で遊ぶことができるほどの喜び、あと一歩超えたら引き戻せなくなる狂気すれすれの苦悩である。
 第10番には、ふと交響曲第1番『巨人』を思わせるフレーズが散見される。あの青年らしい希望と野心と不安とに満ちた(「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」byヴェルレーヌ)第1番から幾星霜、かつてあった喜びは次第に影を潜め、潜在下に抑えられていた苦悩が頭をもたげ存在を主張し、「おお、マーラーよ、あなたはこんなところまで己れを追い込んでしまったのか!」と慄然とせざるをえない。
 誰よりも高みを目指し、誰よりも美しいものに憧れ、誰よりも多くを求めたがゆえの、すなわち誰よりも強い自意識を持していたゆえの、マーラーの近代人としての典型性がここに成ったのだと思う。

 一方で、マーラーの思い及ばなかったことがある。
 あの大太鼓の不吉な連打に、ソルティは、ユダヤ人マーラー亡き後のヨーロッパを覆いつくした本物の地獄と狂気を連想せざるを得なかった。ナチスドイツとアウシュビッツである。そこでは人生を始める前に摘み取られていく若い命があまりにもたくさんあった。

 生きることの苦しみは、生きられなかった苦しみに比べれば、そう悲惨でも残酷でもないように思われる。少なくともマーラーは、表現する自由と喜びを最後まで保ちえたのであるし、その人生は決して未完ではなかった。



評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● マーラー『復活』 : カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第12回演奏会

復活の光



日時 : 2019年3月3日(日)19:30開演
会場 : 杉並公会堂・大ホール
曲目 : マーラー/交響曲第2番「復活」
指揮 : 金山 隆夫
独唱 : ソプラノ  浪川 佳代 、 アルト はやかわ 紀子
合唱 : 合唱団ACE

 日曜の午後7時半という開演時刻にも関わらず、場内は8割がた埋まっていた。
 さすがマーラー、さすが「復活」。

 カラー・フィルハーモニック・オーケストラは、2014年8月より活動スタートしたアマオケで、後期ロマン派の楽曲を中心に演奏している。初めて聴いたが、息がピッタリ合っていて、安定度が非常に高い。
 「こんなにうまいアマオケがいたのか!」と驚いた。
 金山隆夫の指揮は2度目だが、別オケで聴いた前回は残念ながら真価がわからなかった。今回は、文句なしの名演で、カーテンコールに何度も呼び戻された。
 調べてみたら、第1回演奏会からこのオケの指揮を担当している常任指揮者のような存在らしい。客演の時とまったくレベルが異なったのも道理であった。オケの面々が、金山の思うところをしっかり把握し、表現しているがゆえの完成度なのであった。

 とは言え、指揮者の個性が光る演奏と言うのとはまた違う。奇を衒った仕掛けも、ユニークな解釈も、挑戦的な表現もない。楽譜に忠実に、伝統に逆らわず、丁寧に音をさらった演奏という印象を持った。
 だが、ことこの「復活」に関しては、それが最適だと十分に教えてくれる演奏であった。
 つまり、指揮者の余計な解釈やイメージや下心が入っていないおかげで、作曲者マーラーの意図が素直に伝わってくるように感じられたのである。金山隆夫は、エゴをうまくコントロールできる人なのかもしれない。

 どの楽章も甲乙つけがたく素晴らしい出来で、徹頭徹尾、こちらのチャクラは揉まれっぱなしだった。最終楽章のコーラス入りからは荘厳かつ神秘的な世界を現出し、胸のチャクラが何かを叫んでいるようで、無性に泣けてしようがなかった。
 合唱団ACEは2018年秋に結成された合唱団とのことだが、この質の高さはなんだろう?
 たおやかな澄み切った歌声は教会の聖歌隊もかくやと思うほどであった。

 こんな素晴らしい演奏を無料で聴ける一夜が与えられたことに対して Something Great に感謝した。




評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 整いました!  OB交響楽団 第198回定期演奏会

日時 2019年2月11日(月)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール(杉並区)
演目
  • ベートーヴェン  :  レオノーレ序曲 第3番 作品72b
  • チャイコフスキー : バレエ音楽『眠れる森の美女』組曲 作品66a
  • ラフマニノフ : 交響曲第2番 ホ短調 作品27 
  • 〈アンコール〉 チャイコフスキー : 管弦楽組曲第4番「モーツァルティアーナ」より第3楽章
指揮:喜古 恵里香(きこえりか)

 久しぶりのOBオケは、若い女性指揮者のチャイコにラフマニノフと来た。期待せずにはいられない。
 いざ、荻窪へ!
 OBオケにしては珍しく入りはぼちぼち。5割がた空きがあった。三連休の最終日で、寒さも影響したか。

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 プログラムの前半と後半とでこれだけ質の異なる演奏会も珍しかった。
 OBオケの特徴である統一感とスライムのような粘り気と光沢が、前半2曲ではまったく感じられなかった。音がささくれ立っていたし、全体に粗かった。華やかさと優雅さとロマンチックが求められるチャイコフスキーでは、まったくそのエッセンスを取り逃して、どちらかと言えばハチャトリアンの『仮面舞踏会』みたいであった。(そっちをやったほうが良かったのでは?)
 リハ不足?
 選曲ミス?
 指揮者との相性が良くない?
 寒さで手がかじかんでいる?
 核となるオケメンバーが抜けた?
 それとも、ソルティの体調のせい?

 ところがどっこい、後半のラフマニノフは「さすがOBオケ」といった見事な出来栄え。統一感とスライム感は健在であることを証明した。要はこの一曲に力を注いでしまったのだろう。
 とりわけ、第3楽章の出だしのクラリネットソロが哀感たっぷりの音色と表情で、こちらのハートチャクラを直撃した。実に上手い。それに釣られるように他の楽器も柔らかな音色とラフマ的悲哀を歌いだした。
 開いたハートチャクラから入り込んだ音波は、全身へと伝達され、心身が「整い」、知らぬ間に瞑想状態に入っていた。これぞ生の音楽の威力。
 
 指揮の喜古恵里香は、NHK交響楽団首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィのアシスタントをしているとのこと。将来楽しみな女性指揮者である。



評価: ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ラスベート交響楽団 第37回定期演奏会

日時: 2019年1月20日(日)
会場: タワーホール船堀 大ホール(東京都江戸川区)
曲目: 
  • ボロディン/グラズノフ :歌劇「イーゴリ公」序曲
  • リムキー=コルサコフ: 交響組曲「シェエラザード」 Op.35 
  • カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調
指揮:小久保大輔

 久しぶりのクラシックコンサート。

 ラスベート交響楽団は1999年に結成されたアマオケ。ラスベートとはロシア語で「夜明け」の意。グラズノフはじめロシアの作曲家の作品を中心に演奏活動している。

 はじめて訪れたタワーホール船堀は、その名の通り、船の形をした立派なビルディングだった。ホールもまた立派で、750の座席は7割程度埋まっていた。

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 1曲目の「イーゴリ公」序曲ははじめて聴く。
 作品が未完成のまま、ボロディンは亡くなった。その後、ボロディンが一度だけピアノで弾くのを傍らで聴いていたグラズノフが、記憶をたよりに復元させたという。なので、作曲者に二人の名前が併記されている。
 いわれはともかく、色彩豊かな見事なオーケストレーイションで、音の波動がビンビンこちらの眉間のチャクラを刺激する。この感覚も久しぶり。
 やっぱり、ライブに限る。

 2曲目の「シェエラザード」は、フィギアスケートでよく聴く曲である。たしか村主章枝や浅田真央が使用していたと思う。テーマは「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」である。酷寒のロシアの凍土に暮らす人々にとって、陽炎立つ灼熱のアラブの大地は憧れなのだろうか。そんなことを思わせるロマンティックで幻想的な曲である。

 3曲目のカリンニコフが今日のメイン。
 配布されたプログラムによると、ラスベートは2004年からこの曲を演奏しているという。
 確かにどのパートも迷いのない自信に満ちた響きで、自家薬籠中のものとしている感があった。
 やはり、ドラマチックなメロディラインの光る第1楽章がどうしても耳に残る。

 全体に良い演奏であった。
 次は十八番のグラズノフを聴いてみたい。


評価: ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 はじめて訪れた町なので、そのまま電車に乗って帰るのはもったいない。
 一駅歩くことにした。
 都営新宿線・船堀駅(江戸川区)とお隣の東大島駅(江東区)の境に、中川と荒川が流れている。二つの川は橋の4キロほど下流で合流し、東京湾に注ぐ。
 二つの川にかかっている船堀橋を渡る。


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東京スカイツリーが正面に見える


 このあたりの風景は広々として、胸がせいせいする。
 四万十を思い出した。
 ビルの上に、白い満月がかかっていた。


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荒 川

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中 川
 

 都会のこんな風景も悪くない。





● 寿? 第193回すがも巣ごもり寄席

日時 2018年9月19日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(豊島区巣鴨)
演者&演目
① 柳亭市弥  :『初天神』
② 古今亭志ん松:『笠碁』
③ 柳家小んぶ :『持参金』
④ 三遊亭美るく:『千葉棒鱈』


半年以上ぶりの落語。
一年以上ぶりのイチヤ
入りは30名弱。
あいかわらず高齢者が多い。

① 柳亭市弥:『初天神』
見るたびに大人びて落ち着きを増している。
34才なら当然か。
じょじょに「イケメン」では勝負できなくなりつつある難しい年頃である。
だが、芸そのものはしっかりしている。
マクラを長めに振りながら、会場の客の気を一つにまとめていく手腕も見事。

イチヤの最大の武器は、話が佳境に入った時に身体から発するオーラ―にある。
それが出ると、もう客たちは演者から目が離せなくなる。
ある意味、上手いかどうか、面白いかどうかは、関係ない領域に入る。
今日は、その域に達して、「来た、来た、来たァ~!」と思ったが、長続きしなかった。
なんとなく疲れているような印象を受けた。
どういった心身の状態であっても高座に上がって笑いを取らなければならない落語家ってのも、因果な商売である。
 

② 古今亭志ん松:『笠碁』
こちらもイケメンと言ってよいだろう。
元シブがき隊のモッ君こと本木雅弘の若い頃を思わせる。
芸は正統的、正攻法のスタイルで、地味だが旨味は感じさせる。
話にタメをつくり客を惹きつける技術を持っている。
が、今回はタメが多すぎて、途中で眠くなってしまった。


③ 柳家小んぶ:『持参金』
身長187㎝、体重105キロの巨体がなによりのチャームポイント。(チャームか?)
これで強面(コワモテ)だと客がビビッてしまうところだが、お地蔵さんのような柔和な印象である。

この演目は、女性の容姿についての具体的な悪口で笑いを取ろうとするので、現代では扱いが難しい。
下手やると、客席が引いてしまうだろう。(とくに女性客)
そこを持ち前の柔和な雰囲気で、綱渡り師さながらの微妙なバランス感覚でクリアしていったセンスはたいしたものである。


④ 三遊亭美るく:『千葉棒鱈』
今回は彼女が一番面白かった。
なにより元気がある。
今風‘与太郎’ギャルと、鉄火肌先輩女子との演じ分けも楽しく、柳原可奈子のようなテレビ向けの才を感じた。
若い客席だったら大ウケだったろう。

27才のときに有名IT企業のOLを辞めて、落語の世界に飛び込んだとか。(現在38歳)
その思いっきりの良さが、芸にも表れているようだ。


ときに、ソルティの聞き違いでなければ、三遊亭美るくがマクラの中で、「市弥君の奥さんも(私と同じ)千葉出身・・・」とか言っていた。
イチヤは結婚したのか?

あの落ち着きはそのせいか?
あのやつれ感はソノせいか?


スタジオフォーラム
寄席のあと、客と交流する噺家たち






● ハイC 効果 荒川区民オペラ第19回公演:『イル・トロヴァトーレ』

トロヴァトーレ荒川ポスター


演目 ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』
日時 8月12日(日)14:00~
会場 サンパール荒川(大ホール)(東京都荒川区)
指揮 小崎 雅弘 
演出 澤田 康子 
出演 
 レオノーラ:森 美津子(ソプラノ) 
 マンリーコ:小笠原 一規(テノール) 
 ルーナ伯爵:佐野 正一(バリトン) 
 アズチェーナ:河野 めぐみ(メゾソプラノ)
 フェランド:比嘉 誉(バス)
合唱  荒川オペラ合唱団
管弦楽 荒川区民交響楽団

 昨年の『蝶々夫人』は素晴らしかった。荒川区民オペラの実力を知った。
 今年はソルティの大好きな『トロヴァトーレ』。このオペラのためなら30度越えの外出もなんのその。

 公演は土日の二日間で主要な役はダブルキャストであった。11日は昨年見事な蝶々夫人を歌いかつ演じ、客席の紅涙白涙絞り尽くした西本真子がレオノーラを歌う。食指が動いた。が、主にイタリア中心に海外での活躍目立つ森美津子のレオノーラ(12日)も気にかかる。新進気鋭のテノール小笠原一規のマンリーコも聴いてみたい。なんといってもこのドラマチックなオペラの随一のクライマックスは、3幕2場で母親を敵方に捕らえられ猛り狂ったマンリーコの放つ、決めのハイC(高いド)ロングトーンなのだ。若い声帯がモノをいうのは間違いない。
 そんなわけで、今回は12日(日)を選んだ。ケチケチしないで両日行けばいいんだが、それやってしまうと、ダブルキャスト公演はすべからく両方とも見たくなってしまう。

 指揮は昨年同様、小崎雅弘。
 まず、のっけからオケが鳴らしてくれる。メリハリが効いて、思いっきりが良い。そう、多少の失敗など恐れず果敢に打ち鳴らしてこそ、このドラマに必須の情熱と興奮、そして臨場感をもたらす。時は中世、場所はスペイン、背景は王位継承をめぐる熾烈な戦い。鳴らさんでどうする!
 昨年に続き、小崎はオペラ指揮者としての類まれな力量を見せつけてくれた。

 出だしの男たちの合唱&フェランドの歌唱も素晴しい。比嘉誉は朗々と良く響く低音で、陰惨で薄気味悪い物語へと観客を誘い込むのに成功した。
 ここまでは文句ないスタート。

 が、どうしたことか。
 そこから勢いが失速していく。
 レオノーラ役の森美津子登場。調子が今一つで声が響かない。アリア「穏やかな夜」を無難に歌い終えたが、感動には至らず。もっとも、イタリア語の発音の見事さとドレスを美しく見せる洗練された身のこなしは本場で鍛えられた賜物であろう。優雅そのもの。
 続いてルーナ伯爵の佐野正一。最高音は半音下がり目だったものの、最初から最後まで声と演技を見事にコントロールして、役柄を保ち続けたのは立派。
 舞台外から聞こえてくるテノールの美声は小笠原一規。ソルティの持っている『トロヴァトーレ』CDの比較で言えば、パヴァロッティやディ・ステファノのようなイタリアの突き抜ける青空のごときあっけらかんとした(悪く言えば脳みそがちょっと軽い感じの)テノールではなくて、やや暗めの湿り気のあるテノールである。ユッシ・ビョルリンクのような。『リゴレット』のマントヴァ公爵なら前者だろうが、流浪の民の哀しみと暗さを抱える中世の吟遊詩人(トロヴァトーレ)には小笠原の声はふさわしい。
 1幕終場、一人の女をめぐる二人の男(本人達は知らないが実の兄弟である)の文字通りの鞘当て。三重唱の恋愛バトルが繰り広げられる。
 歌い手の声量の問題か、オケの音が大きすぎるのか、会場の音響効果のせいか、原因は分からないが歌手の声がオケに消されがち。これでは歌を楽しめない。ドラマにも入り込めない。
 歌とオケのバランスが良くない。 

 2場はジプシーのねぐら。槌音まじえた活気ある合唱で始まる。
 アズチェーナ役の河野めぐみは、細い身体で頑張っていたと思う。おそらく数あるオペラの役の中で間違いなく難役トップテンに入るであろうアズチェーナに、体当たりで臨んでいた。この役をリアリティもって歌いかつ演じられるメゾソプラノは世にそういないと思われる。とくに感情を抑えがちで淡泊な日本人には難しい。その意味で敢闘賞ものだった。
 ただ、衣装が良くない。河野の細くて美しい両足を見せてしまう丈の短いスカートをどうして履かせたのか。あのモデルのようにスレンダーな若々しい足が見えては、マンリーコ(小笠原)の母親にも、ジプシーの老婆にもまず見えない。スカートの丈なんかどうにでもできるはずなのに、なぜ隠さなかったのか。
 まさか客席の殿方へのサービス?←セクハラ発言でした。容赦🙇🙇🙇

 演出も昨年同様、澤田康子。
 奇を衒わないオーソドックスな演出だった。合唱の多いこのオペラでは、いきおい集団シーンが多い。合唱団のメンバーは有志の荒川区民だろうから、プロに対するような難しい注文はつけられまい。そこを考慮すれば、妥当な演出だったと言えよう。3幕1場の兵士たちの合唱「兵士のラッパは高鳴り」で合唱隊が足踏み行進しながら横一列に並ぶシーンは、客席にいるであろう出演者の親類縁者へのサービスという意味も含めて、愉快であった。区民オペラならではの味である。

 客席の反応は昨年の『蝶々夫人』に較べると硬かった。『トロヴァトーレ』を観るのははじめてという人が多かったのかもしれない。『蝶々夫人』や『カルメン』に比べれば知名度は低いし、筋も複雑で、あらすじを一回読んだだけでは理解し難い。幕間でも、戸惑いがちな表情や言葉が周囲に見られた。
 こういう場合、開演に先立ち、物語の時代背景やあらすじに関するレクチャーがあっても良いのではないか。舞台衣装を着けた歌手たちを登壇させて、たとえば演出家が登場人物の人間関係や置かれている立場を講談のように面白おかしく説明する。そうすれば、観客は物語に入りやすくなるし、客席と舞台との距離も縮まる。のっけからいい雰囲気が生まれよう。区民オペラなればこそ、そういった庶民的な試みが期待されても良いのではなかろうか。

トロヴァトーレ荒川


 「このまま終わったら、ちょっと残念だなあ」というソルティの思いを見事に吹き飛ばしたのは、やっぱり3幕2場のマンリーコのカバレッタ「見よ、恐ろしい炎を」であった。

 小笠原一規のハイCは満場を圧倒した。

 しかも2度も!
 しかも2度目のアンコールのほうが、カバレッタは自由なエネルギーに満ちて流麗だったし、決めのハイCも力強く長かった。
 一度目は何事が起ったのかよく理解していなかったような客席も、二度目は完全に圧倒され、万雷の拍手と「ブラボー」の叫びでもって小笠原を讃えた。
 客席が湧きたち、場内のボルテージが上がった。

 オペラは面白いものである。
 このハイCが他の歌手を焚きつけたようであった。
 舞台が俄然、熱気を帯び始めた。

 4幕1場のレオノーラの美しいアリア「恋はバラ色の風に乗りて」は絶品だった。今度は声も良く出ていて、テクニックは完璧、悲痛なれどあくまでも叙情豊か。これが国際レベルの歌手の本領と納得の出来栄え。続くミゼレーレの苦悩と怖れの表現も彫りが深く、舞台は悲哀の色で塗りこめられた。嬉しいことに、ソルティの好きなカバレッタ「私より強く愛する者が」も歌ってくれた。
 悲痛から、苦悩と怖れを経て、強い意志と自己犠牲の覚悟に至るこのレオノーラの「娘から母への」変身場面を、森はほとんど声だけで表現しきった。
 つまり、目に見えて大仰な動きや演技は一切なしに、感情の変化を伝えてしまう。むろん、でくの坊のように突っ立ているわけではない。むしろ高度な演技力というべきだ。抜きんでた声と歌の表現技巧あれば、抑えられた動きのほうがかえって豊かに感情を表現し得る、聴き手に伝え得る、という格好の見本。能の演技に通じるような感さえ持った。

 続く、ルーナ伯爵とレオノーラの緊張感走る二重唱も、牢屋内でのマンリーコとアズチェーナのもの悲しくも美しい二重唱も、文句つけようのない出来。ここでようやく、途中まで先走っているかに思えたオケの才気が、歌唱と絡み合った。オケの音量が気にならなくなった。両者は混然と溶け合って、ヴェルディが降臨した。

 主役4人がやっと舞台に出揃ったかと思うと、痛切極まりないレオノーラの死、マンリーコの処刑と続く。
 あとは、固唾をのみ、身を乗り出して、復讐の幕が落とされるのを目撃するのみ。
 終幕後は、「ブラボー」と喝采の嵐。

 今年も荒川区民オペラはやってくれました。
 歯車がかみ合うまで時間がかかったのはどうして?
 いささか気にはなるけれど、まあ、終わりよければすべて良しということで。

 今回は小笠原のハイCに乾杯(完敗)!


















 
   
 


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