ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『橋のない川 第二部』(住井すゑ著)

1961年新潮社より刊行

 第二部は、思春期に入った畑中家の次男・孝二を中心に描かれる。
 友情、初恋、失恋、勉学、社会や政治への関心の芽生えと疑問、将来への不安、一人旅、修学旅行、教師との関係、家族との関係、親類との交流・・・・等々、社会への入り口に立つ思春期の少年の初々しくも重苦しい心情が描かれていく。
 むろん、重苦しさの理由は部落差別にある。

 これまでは学校仲間や近隣の人たちから受けていた身の回りの差別が、「社会」という、より大きな正体の分からないものの中に強靭に覆しがたいものとして仕組まれていて、職業や恋愛や結婚や交友関係など今後の人生の様々なことにわたって暗い影を落としていくことが、だんだんと分かってくる。
 見聞を広めるほどに、過酷な現実に気づかされていく。
 “一般”の少年が抱く将来への希望や期待を、孝二はじめ部落の少年たちは共有することが叶わない。
 少年だけではない。
 少女もまた怯えている。自分が将来産み落とす子が「エタ」となることに。
 なんと痛ましいことだろう!

 夜の学校集会の最中、クラス一の美少女まちえに手を握られた孝二。
 「まちえは自分に気があるのか?」、それとも「ほかの誰かと間違えたのか?」
 恋を知った孝二はひとり煩悶とする。
 まちえの気持ちをたしかめたいけれど、その勇気のなかなか持てないのは、思春期や真面目な性格だけが理由ではない。
 同じ部落の親友である貞夫は、孝二に変わって真相を探る。
 すると、
 「エタは夜になると蛇のように肌が冷たくなるって大人が言うから、確かめようと思った」
というまちえの意図が明らかになる。
 最初は自分の胸の内に真相を秘めておこうと思っていた貞夫だったが、まちえに甘い幻想を抱き続ける孝二の姿にたまらなくなり、ついにすべてを打ち明ける。

貞夫 「まちえはあの夜、たしかに孝やんの手を握ったと里村にも言うとる。せやけどそれは畑中の手や無うて・・・・・。」
孝二 「エッタの手やってンな?」

 まちえが握ったのは「孝二の手」でなくて、「エタの手」だった。
 恋愛対象どころか、同じ人間と見られていなかったのである。

 差別の理不尽は、ひとりひとりの人間よりもカテゴリーが重視されてしまうところにある。
 小森孝二という一つの自由な精神が、「エタ」というカテゴリーに括られ埋没してしまう。
 「部落に生まれたこと」は小森孝二という人間の属性の一つに過ぎないはずなのに、逆に、「部落出身であること」によって小森孝二が類型化され、縛られ、社会の約束通りに扱われてしまう。
 しかも、「部落に生まれたこと」は人為的につくられた属性であって、たとえば、「黒人であること」、「新型コロナウイルスの感染者であること」、「LGBTであること」といったような、他のマジョリティと区別できるほどに明確な“違い”は存在しない。
 いわば、差別のためにつくられた差別である。 

 失恋ですら甘酸っぱい思い出になりうる思春期の恋が、こんな残酷な終わり方をするとは!
 ソルティが孝二の立場なら、「二度と人を好きになんかなるもんか!」と決意するのではなかろうか。

 孝二はこれからどうなるのだろう・・・・・?
 

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 2

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは生きるために、生活するために、健康でいるために、たくさんのことを必要とします。
 しかし、満たされたと感じるために、出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください。外的な事物は何も、あなたを満たされたと感じさせてはくれません。
 唯一、あなたを満たされたと感じさせてくれるのは、自身のスピリチュアルな本性に深くふれること。とても高貴で、とても美しい本性にふれることです。(標題書P.150)

 こういった言説は、スピリチュアル業界ではよく耳にするところである。
 我々が真に望んでいるものは、外の世界のどこか遠いところにはなく、身近なところにある。
 メーテルリンク『青い鳥』やジュディ・ガーランド主演『オズの魔法使』(1939)において象徴的に描かれているテーマである。
 ウ・ジョーティカ師は、「瞑想によってその内側の宝を見出しなさい」と言っているのである。

 とは言え、頭では分かっていてもなかなかできない。
 我々の外に広がる世界は、一見、あまりに豊かで、あまりに刺激的で、あまりに面白いからである。
 衣食住および安全といった、人が生きる上での不可欠な欲求が満たされるや否や、我々の関心と欲求は外の世界に向いてしまい、孤独と退屈を避けるべく、また、より多くの快楽と満足を得るべく、世界にかかりっきりになってしまう。
 ひねもすスマホをいじり続けている若者の姿は、まさにその象徴であろう。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908-1970)は、自己実現理論を唱え、人間の欲求を5段階の階層で説明した。
 以下のようなものである。

マズローの欲求段階説
『社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用


 ウィキペディア「自己実現理論」の記述をもとに、下段から順に簡単に説明すると、
  • 生理的欲求 (Physiological needs)・・・生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。
  • 安全欲求 (Safety needs)・・・安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。
  • 社会的欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)・・・自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。
  • 承認欲求 (Esteem)・・・自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。
  • 自己実現欲求 (Self-actualization)・・・自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。
 マズローの説が妥当かどうかは検討の余地があろう――ソルティは「安全欲求」と「社会的欲求と愛の欲求」との間に「遊びと知識への欲求」というのがあると思う――けれど、とりあえずそのまま受け入れるとして、人が生きる上で最低限満たされるべき欲求は下の二つ、すなわち「生理的欲求」と「安全欲求」までではなかろうか。
 その上位に位置する二つ、「社会的欲求と愛の欲求」および「承認欲求」は、対人的・対社会的な文脈において生じるものであり、無人島や深山幽谷で独りきりで生きている人間が存在することを思えば、必しもすべての人間に不可欠とは言えまい。
 むろん、これは心理的な意味合いで言っている。
 食べ物や衣服や日用品を手に入れたり、交通機関やインフラを利用したりするために、誰しも他人や社会との関りは避けられないし、相互扶助は必要である。
 病気になったり介護が必要になったりすれば、他人の世話にならざるを得ないし、社会による共助や公助を求めざるを得ない。
 物質的には、他者や社会との関係はなくてはならないものである。
 
 ウ・ジョーティカ師が、「出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください」という時に意味しているのは、マズローの説で言えば、下から3段目の「社会的欲求と愛の欲求」およびその“上位”に位置する欲求にのめりこむな、ということなのだろう。
 あるいは、2段目の「安全欲求」のうちでも、安全に健康的に生きるのに必要とされるぶん以上の金品を得ることにかまけるな、ということなのだろう。
 
 年を取って体が弱ると、仕事を始め、いろいろな活動から引退することを余儀なくされる。
 パートナーに先立たれ、活動範囲が狭まり、友人・知人が少なくなる。
 すると、「社会的欲求と愛の欲求」の危機がやってくる。
 地位や名声だけを誇りとも生きがいともして生きてきた人は、「承認の欲求」も最早得られない。
 老人ホームの食堂で、かつて有名企業の社長であったことを自慢しても空しい限りである。
 ソルティは、衣食住と安全が保障されている老人ホームで、多くの高齢者(とくに男たち)が“上位”の欲求を充足するすべを失い、抜け殻のようになって自分が保てなくなる様を見てきた。
 これが自分の行く末か・・・・と思わされた。

 それ以来、あまり仕事や組織や技能や人間関係に固執するのは得策ではないと思いつつ、瞑想実践するようになった。
 
 心がマインドフルな状態でない時、それは家のない人のように感じられる。
 とても不安で、とても不幸なのです。
 マインドフルでいる時、あなたは本当に在宅していると感じられる。
 ですから、「マインドフルネス(気づき)こそ我が家」なのです。 

青い鳥




● スカーレット・オハラは美人ではなかった 本:『橋のない川 第一部』(住井すゑ著)

1961年新潮社より刊行

 石川啄木『破戒』と並び、部落差別を描いた小説として名高い。
 第七部まである大長編なので、今までなかなか手が出せなかった。
 これもコロナ自粛の効用である。

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 明治後期の奈良県の被差別部落(小森部落)を舞台とし、父親を日露戦争で亡くした貧しい一家(畑中家)の歴史が描かれる。
 二度映画化されていて、ソルティは最初の今井正監督版(1969年)を観ている。
 なので、映画との比較という点でも興味深かった。
 なによりも、畑中家の最年長である姑・ぬいと嫁・ふでのやりとりを読んでいると、どうしたって映画の中の北林谷栄と長山藍子の姿が彷彿とせざるをえない。
 とくに北林谷栄以外のぬいの顔や姿や話し声や挙措を思い描くことができない。
 そのくらい北林の演技は完璧であった。
 一方、長山藍子もまた素晴らしく役にはまって、姑思いの優しく忍耐強い嫁像をつくっていたと思うが、原作のふでは「美人ではない」と書いてある。
 長山藍子はどう見たって雛には稀な美人である。 
 泉ピン子とは言わないが、大竹しのぶあたりが原作に近いかもしれない。

 ちなみに、『風と共に去りぬ』のヒロインであるスカーレット・オハラもまた、それこそ原作の冒頭で「美人ではなかった」と書かれている。
 映画の影響で、スカーレット=ヴィヴィアン・リーはもはや動かせないハマリ役とされてしまったが、ヴィヴィアン・リーは誰がどう見たって絶世の美女である。
 原作に従うならば、もっと××な女優がふさわしかったはず。
 もちろん、ヴィヴィアン・リーの起用は(クラーク・ゲーブルやオリヴィア・デ・ハヴィランドの起用と共に)大正解だったわけであるが。
 こういった原作と映画のキャラの変容は面白い。


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スカーレット・オハラを演じるヴィヴィアン・リー

 
 さて、第一部では畑中家の子供たち・長男誠太郎と次男孝二の成長を軸に、小森部落における一家の暮らしぶりが丁寧に描かれる。
 厳しい差別と貧しさの中で、優しい祖母と母親に見守られ、良い友人に恵まれ、自らの置かれた不当な環境に目覚めていく少年たちの姿が、切なくも頼もしい。
 思えば、子供を主人公とする小説を読むのは久しぶりなので、新鮮な感動があった。
 子供というものは、大人以上に感じやすく、小さなことにも傷つきやすく、周囲のいろいろなことに疑問を持つものなのだと、自らの子供の頃を思い出したものである。
 そう、ソルティは下村湖人の『次郎物語』が好きだった。
 そうした子供の繊細な心を掬いとり、四季折々の自然描写と詩的に重ね合わせていく作者の筆に、「優れた小説とはこのようなものだ」とあらためて思った。
 
 部落差別と天皇制の関係についてよく言われているのは知っていたが、これまで深く調べたことも考えたこともなかった。
 天皇=神、天皇=総帥であった明治時代の話であり、本書には天皇に関する記述が多い。 
 たしかに天皇は日本の身分制度の頂点であり要であるので、部落差別を考えるうえで天皇制は避けて通れないものである。
 このへんはおいおい調べていきたい。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『医療現場は地獄の戦場だった!』(大内啓著)

2020年ビジネス社

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 読売新聞の書評欄を見て本書を知った。
 コロナ先進国(!)アメリカの救急医療(いわゆるER)で働く40代医師のリポートである。
 購読の決め手となったのは、著者の大内が実はノンフィクションライター井上理津子の甥であり、本書は、日本にいる井上が電話やズームを活用して著者に取材し文章にまとめた、という経緯が記されていたからである。
 『さいごの色街 飛田』や『親を送る その日は必ずやってくる』を読んで井上の力量を知っていたので、俄然興味が湧いたのである。
 言われてみれば、大内啓は、井上のアメリカ在住の甥っ子として『親を送る』に登場していた記憶がある。

 構成は4章に分かれている。
 第1、2章は、大内が勤めるマサチューセッツ州ブリガム・アンド・ウィメンズ病院ERにおけるコロナ患者治療の模様が描かれる。
 タイトル通り、「地獄の戦場」というのも頷ける凄まじい現場風景に身も凍る思い。
 日本でもすでにいくつかの病院では似たような状況になっていよう。
 
 ピーク時は、夢にゾンビがよく出てきた。私は『ウォーキング・デッド』などのドラマが好きで、ゾンビに怖い印象は持っていないが、夢では夥しい数のゾンビが空を飛び回った。そのゾンビたちが一つの建物の中に吸い込まれていく。あ、見覚えのある建物だ、と思ったら、ブリガム・アンド・ウィメンズ病院だった――。何度もそんな感じの夢を見た。

 第3章では、内科と救急科の専門医、かつ世界一と言われるハーバード・メディカル・スクールで助教授をつとめるようになるまでの大内の履歴が語られる。
 高い倍率をくぐって一流の切符を手にするための猛勉強ぶりは、分野は違えど、眞子内親王のフィアンセである小室某の近況報道を連想させる。
 アメリカで医師を目指した者が、一人前の医師になるまでに必要とされる訓練や経験がうかがえて興味深い。
 中でも、南アフリカでのエイズ患者治療をめぐる話や、ヒスパニック系移民の多いニューヨークのクイーンズ区での研修の話が、世界における、あるいは同じ一つの国でも地域における“格差”をまざまざとえぐり出し、ある意味、「コロナ禍は先進国(地域)だけの贅沢病」といった感慨さえ抱かせる。
 たとえば、平均寿命50歳以下の国ではコロナは問題視されまい。

 第4章では、アメリカの医療の仕組みが、日本との比較において語られる。
 国民皆保険の日本と違って民間保険がメインのアメリカ、多様な人種構成で英語も話せない人も多く“格差”の激しいアメリカ、「白い巨塔」の日本の医学界とは違って努力と実力により出世の階段を上っていけるアメリカ、尊厳死など延命治療に関する本人の権利が重視されるアメリカ・・・・彼我の違いもまた興味が尽きない。

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David MarkによるPixabayからの画像

 
 24時間絶え間なく運び込まれる何百人というコロナ患者を診てきた大内が実感した「新型コロナウイルスの特徴」とは・・・・・。
 
 一つは、自覚症状がまったくなかった人すら、急激に悪化すること。
 その日の朝まで少しの発熱程度だったという人が、昼に非常に息をしづらくなり、家族の車で救急へ来る。昼まで倦怠感程度だったという人が、夕方には息も絶え絶えとなって救急車で搬送されてくる。コロナほど「徐々に」の三文字がない、他とは違う呼吸器疾患を、私は知らない。
 
 もう一つは、酸素飽和度が上がりにくいことだ。酸素マスクを使った場合でも、気管挿管をした場合でも、期待する数値には上がらない。 

 つまり、急激に悪化し、いったん悪くなったら容易には回復しにくい。
 さらに、大内は次のようにも述べている。
 
 死んでいく人一人ひとりに、死に際してそれぞれの思いがあるだろう。また、間近に見送る近しい人たちにもいろいろな思いがあるだろう。ところが、新型コロナ感染症で亡くなるときには、誰もがたった一人だ。
 家族も友人も立ち会えない。誰にも看取られず、急激な病状変化の末に、たった一人で息を引き取る。
 ICUには家族も入れない。そればかりか、病院そのものが立ち入り禁止の時期も短くなかった。感染拡大を防ぐためには致し方ない。分かっている。しかし、なんと残酷な疾病だろうと、私は何度も何度も頭を抱えた。 

 一気に読み上げずにはいられない迫力と興味深さはともかくとして、ソルティは、格差社会の一面を切り取った『さいごの色街 飛田』、肉親のターミナルケアの模様を描いた『親を送る』、両ノンフィクションを書いた井上の甥っ子が、このような体験に遭遇するということに、何か不思議な因縁を覚えた。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 1

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値あるものと感じられなければ、どうなると思いますか? もし何かやったとしても、自分がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまうのですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。彼らは自分が何かをやっているふりをするだけで、本当は違うのだと感じてしまう。何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」。このことはとても重要です。(標題書P.26、ゴチックはソルティ付与)

 この書を読むのは3回目である。
 前2回はウェブ上に『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』のタイトルで無料公開されているものを、プリントアウトして読んだ。
 その後、思いがけずも新潮社から出版されて、ハードカバー500ページを超える大著3200円(税別)にもかかわらず、思いがけずも読まれているようである。
 タイトルの一部を「ウィパッサナー瞑想」から、流行りの「マインドフルネス瞑想」に変えたことが理由の一つであろう。

 コロナ禍の今は、ソルティのような瞑想実践者にとって得難き好機である。
 瞑想は、家で一人でできる金も手間もかからない暇つぶしで、体にも心にも良い。
 とくに、コロナに関する報道で不安を煽られたり、生活上の変化でストレスがたまったり、先の見えない状況に鬱っぽくなったりという昨今、心を落ち着かせる瞑想のありがたさは高まるばかりである。
 これが自由に外出できるとなると、ほかの娯楽や交流に惹かれて、家でじっと座ることが難しくなる。
 自粛生活を強いられる今こそ、瞑想が進むチャンスなのだ。
 マインドフルネス瞑想=ウィパッサナー瞑想を知り実践する人が少しでも増えるとしたら、それで人が仏教に触れるきっかけが生まれるとしたら、コロナ禍も決して悪いことばかりではない。
 
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 前回この書を紹介したとき、この書は「ウィパッサナー瞑想をやっている人にしか役に立たない」と書いた。
 それは決して嘘でも大げさでも極論でもない。
 本書の(著者ウ・ジョーティカ師の)目的は、ウィパッサナー瞑想を実践している人に対して、ウィパッサナー瞑想の概要を語り、瞑想をする上での具体的な注意点を伝え、瞑想が進むにつれ生じてくる智慧やスランプに関する見取り図を提供するところにある。 
 実際、本書のもとになったのは、オーストラリアのどこか静かな森の中で行われた瞑想合宿における講義録なのである。
 俗っぽく言えば、マニュアル本である。
 なので、将棋をやらない人にとって将棋のマニュアル本が役に立たないのと同様、ウィパッサナー瞑想をやらない人にとって本書は役に立たない。
 
 しかしながら、ウ・ジョーティカ師の語りには、瞑想実践者や仏教徒でなくとも通用し、生きるうえで役に立つであろう箴言がたくさんある。
 それは師が、瞑想と人生を深いところでリンクさせているからであり、その結びつきのありようを、指導を受ける者たちに包み隠さず呈示しているからである。
 そういうことができるくらいの哲学性と洞察力と人生経験と言語力と博学と、もちろん瞑想体験と指導力とを兼ね備えているのが、ウ・ジョーティカ師なのである。
 
 そういうわけで、3回目の通読となる今回は、本書を読んでソルティが感銘を受けた師の言葉の数々を紹介していきたいと思う。
 
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 冒頭の引用は、瞑想実践に入る前に必要な心の準備について、師が語っているくだり。
 瞑想にそれなりの成果を望むなら、自尊心を持つことが大切だという趣旨である。
 これはしかし、師も触れているように、人生のあらゆる面について言えることである。
 自尊心の低い人は、何ごとにも満足いく結果を生み出すことができない。
 「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」という文句はソルティの胸に強く響いた。

 ソルティは、ボランティアやNGOや介護の仕事などを通して、数十年来、対人支援の仕事に関わってきたが、つまるところ見えてきたのは、「人は自分を救えるレベルでしか他人を救えない」、「自分を癒せるレベルでしか他人を癒せない」、「自分を大切にするレベルでしか他人を大切にできない」という峻厳たる事実であった。
 自己に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)の裏返しが、他人に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)であり、それはまた社会に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)につながる。
 他人や社会のために尽くすのは素晴らしいことだが、そこには自己に対する評価という壁(限界)が立ちはだかっていて、それを無理に超えて自己犠牲を払うことは、必ずしも良い結果を生まない。
 一時的にはうまくいったように見えて、助けた相手から感謝されることがあったとしても、長いスパンで見たとき、必ずしも援助された当人のためにならなかった、というケースを結構目撃してきた。(GOTOキャンペーンのよう?)

 それはおそらく、自分の壁を超えて無理をした分が、あとから揺り戻されるからだと思う。
 他人や社会のために何か良いことをしたいと思ったときに、その動機の中に自己否定的なもの(たとえばトラウマやコンプレックスや怒りや憎しみや欲求不満といった)が含まれていると、知らずその否定的なものは外側(他人や社会)に投影され、転写されてしまう。
 闘うべき相手を外側に作り出してしまう。
 それは自分が作り出した幻なので、永遠に打ち倒せない敵となる。(キリスト教における悪魔のよう?)
 また、自己否定がもとにある自己犠牲的支援は、その恩恵を受けた人の中に知らず罪悪感や負担や依存を生み出してしまうことになりかねない。
 わかりやすい例を挙げる。介護保険のいいところは、介助者に給料が払われる仕組みが、介護される高齢者の心理的負担を減らすことにある。
 家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?

 自分の問題を棚上げにして、自分の問題から逃避して、他人や社会のことにかまけても、うまくいかない。
 まず隗より始めよ。
 幸福は自分から。
 ソルティは、それが、その昔インドで小乗仏教(とけなされた人たち)が発見した真理の一面だったのではないかと思うのである。

P.S. 補足するまでもないことだが、これは「人助けや社会運動はやるだけ無駄」という意味ではまったくない。




● カウチポテトでミステリー 本:『カササギ殺人事件』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2017年原著刊行
2018年創元推理文庫

 外は雨、静かな室内、心地よい座椅子。
 熱い紅茶とポテトチップス。
 ティッシュペーパー(指についた油分を拭う)。
 そして、買ったばかりの(借りたばかりの)ミステリー。
 これって、最高の組み合わせじゃない?
 
 ――と、本書『カササギ殺人事件』の出だしをパロってみた。

 が、マジで、小学生の時に図書室で借りるポプラ社の明智小五郎やシャーロック・ホームズや怪盗ルパンのシリーズにはまって以来、ソルティの人生における至福の瞬間は、上記の通りであった。
 これが中学生になると金田一耕助やエラリー・クイーン、高校生になるとエルキュール・ポワロやファイロ・ヴァンス、大学生になるとブラウン神父やミス・マープル・・・・・と熱中対象がどんどん増えていき、紅茶&ポテトチップスの組み合わせが、ビール&柿ピーや赤ワイン&チーズクラッカーに変わっていくのであるが、半世紀以上生きてきた今でも、結局、手軽に入るテッパンの至福の瞬間は、カウチポテトでミステリーを読んでいる時である。
 次点で、映画を観ている時か。
 ひとり上手なのだ。

 とりわけ、同じミステリーでもいわゆる本格物に目がない。
 奇想天外なトリック、名探偵による推理、意外な結末の3点セットが揃っているタイプだ。
 アンソニー・ホロヴィッツは『絹の家』、『メインテーマは殺人』でも見せてくれたように、本格物の王道を歩んでいる。
 しかも、高いレベルで。

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 本作と来た日には、名探偵アティカス・ピュントが活躍する本格ミステリー「カササギ殺人事件」の作者アラン・コンウェイの墜落死の謎をめぐる本格ミステリーという、入れ子構造の劇中劇。
 上巻は編集者スーザンの序文をのぞいた丸々一冊が、コンウェイの遺作となったフィクション「カササギ殺人事件」の未完原稿に当てられ、下巻はそのコンウェイの突然死の謎と失われた原稿の行方を探る“現実世界”における素人探偵スーザンの活躍が描かれる。
 劇中劇(フィクション)の中に殺人があり謎があり真犯人がいて、劇(現実世界)の中にも殺人があり謎があり真犯人がいる。
 つまり、本格の二乗。
 薬師丸ひろ子主演の映画『Wの悲劇』を思い出した。
 
 しかも、アティカス・ピュントはエルキュール・ポワロを彷彿とするチビの外国人(非英国出身)で、コンウェイの小説にはアガサ・クリスティからの引用やパロディがあちこちに散りばめられている。
 コンウェイの死の謎解きをめぐってスーザンが出会う証人の一人は、なんとアガサ・クリスティの孫マシュー・プリチャード(実在人物である)という手の込みよう。
 ここでも、『メインテーマは殺人』同様、現実と虚構を入り混じらせるホロヴィッツの遊び心が垣間見られる。
 この小説自体が、アガサ・クリスティへのオマージュであり、本格ミステリーを愛する全世界の人々に対する著者からの挑戦状兼ラブレターのようなものなのだ。

 最後には、スーザンは奇抜なトリックを見抜き意外な犯人をつきとめ、身の危険を賭して事件を解決に導く。
 と同時に、コンウェイ作「カササギ殺人事件」の解決部分の原稿も見つかって真犯人が明らかにされ、名探偵アティカスは『カーテン』のポワロのごとく、恰好よくこの世を去る。
 “現実世界”も劇中劇も無事、大団円にいたる。
 
 こうした構成の卓抜さ、プロットの面白さ、遊び心、読者に対する公明正大さ。
 本格ミステリー好きなら誰もが驚嘆し、喝采し、愛好するところであろう。
 今回は紅茶&グリコ PRETZ とともに至福の時をもらった。

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 ソルティはホロヴィッツが仕掛けた2つの謎(“現実世界”と劇中劇)のうち、“現実世界”の謎、すなわちアラン・コンウェイ殺人事件の真犯人とトリックは途中で見抜くことができた。さすがに動機までは推測つかなかったが。
 一方、劇中劇である「カササギ殺人事件」の真犯人は最後まで分からなかった。
 負け惜しみのようだが、こちらのほうは手掛かりが少なくて推理しようがなかった。
 最終場面でアティカスの披露する推理は、なるほど筋は通っているが、当てずっぽうという感は否めない。意外性も少ない。
 いっそのこと、人生に幕(=カーテン)を閉じるアティカスを真犯人にしてしまえば、クリスティへのオマージュとしてはさらに完璧になったであろう・・・・。
 


 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ゼロ時間型ミステリー 本:『ささやかで大きな嘘』(リーアン・モリアーティ著)

2014年原著刊行
2016年創元推理文庫

 オーストラリアの女性作家によるユーモラスなミステリー。
 文庫で上下巻を元日一日で読み切った。

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 読みやすさの秘密は、幼稚園のママ友たちのいざこざといった極卑俗な日常がメインとなっているから。
 誰それの子供が誰それの子供をいじめたとか、誰それの子供の誕生パーティの招待状が1人の子供にだけ配られなかったとか、誰それグループと誰それグループの派閥争いとか、ちょっと前にあった観月ありさ主演のTVドラマ『斉藤さん』の世界である。
 そこに各家庭のママたちの抱えるトラブル――家庭内暴力、レイプトラウマ、思春期の娘の反抗、夫の浮気など――が加わって、事態は混迷の態をなしてくる。
 それぞれのストレスがはちきれんばかりに高まった保護者懇親会の日に、ついに事件は起こる。

 ユニークなのは、殺人事件が起こる懇親会当日の記述を物語の最後に持ってきて、半年前からそこに至る過程を時系列でたどっていく構成になっているところ。
 懇親会当日に殺人事件が発生したことだけは冒頭で明らかにされるが、具体的にそこで何が起こったのか、だれが殺されたのか、犯人はだれなのか、動機はなにかといったことが、最後の最後まで伏せられる。
 殺人が起こる一点に向かって、複数のエピソードがまじりあいながら全体としてユーモラスに語られ、あちこちで伏線が張られ、謎とサスペンスを高めていくさまは、クリスティの傑作『ゼロ時間へ』を思わせる。
 登場するキャラクター(とくにママたち)もよく書けている。
 とくに、主人公ママ、陽気でおしゃべりで喧嘩っぱやくて姉御肌のマデリーンが魅力的。

 この小説(原題 Big Little Lies )を気に入ったニコール・キッドマンとリース・ウィザースプーンは映像権を獲得し、2017年に自らW主演してドラマ化した。(邦題『ビッグ・リトル・ライズ セレブママたちの憂うつ』)
 全米で大絶賛、エミー賞はじめたくさんの賞を獲得している。
 日本ではまだDVD化されてはいないようだ。 
 シーズン2ではあの大女優メリル・ストリープも出演しているとか・・・。
 早く見たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 締切病 本:『幸福のモト 人生のモト』(水木しげる著)

2016年PHP研究所

 漫画家・水木しげるのエッセイ。
 ガキ大将で不思議な体験の多かった子供時代、九死に一生を得た戦争体験、戦後の混乱期のドサクサ、つげ義春や荒俣宏といった周囲の奇人変人・・・・・とにかく面白いネタの宝庫である。
 エッセイストとしても一流なのであった。

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 ときに、今年一年を振り返って思うことの一つは、「働かなかったなァ~」ということである。
 合計すると、365日のうち働いた日(=賃金を得た日)は65日しかない。
 週5日働く人の1/4しか働かなかった。

 1~3月は骨折のため労働保険の療養補償給付をもらい、家で養生していた。
 4月から職場復帰したが、結局、「この足で介護の仕事はもう無理」と判断し、6月いっぱいで退職。
 今の仕事が決まる10月半ばまで完全無職であった。
 失業保険はもらえなかった。
 というのも、失業保険の受給資格(最低、過去一年間納付が前提)は、労災をもらっている期間は組み入れられないため、該当しなかったからである。
 現在はパートタイムで、週3~4日の勤務である。
 
 こんな働き方でなんとかやっていけるのは、実家住まいだからである。
 無職の3か月間などは、ほとんど8050状態だった。
 これが独身でなくて結婚していて子供がいたら、こんな悠長なことは言ってられまい。
 独身バンザイ!
 
 しかし、働かなかったのはこの一年だけでなく、昨年も、一昨年も、実はそんなに働いていない。
 昨年は失業保険で始まり労災保険で終わるという“福祉ゴロ”のような一年だった。
 働いたのは都合120日ばかり。
 一昨年は8月まで働いて、その後は秩父巡礼や四国遍路に費やした。
 働いたのは都合130日ばかり。
 年々働く日数が減っている。
 それでなんとかやっていけるのだから、いい世の中である。

 子供の養育費や教育費はともかく、親の介護費用とか自分の老後資金のことを考えれば、今のうちにしっかり稼いで、ある程度まとまったお金を蓄えておくべきなのだろう。
 それは分かっているのだが、どうにもバリバリ働けない自分がいる。
 ほかの人と同じように週5日みっちり働くことが、しばらく前から億劫になってしまった。
 億劫というか、負担というか、意義を感じないのだ。
 週5日みっちり働いて心身を壊すよりも、給料は低くとも週4日パートで働いて自分の時間をより多く持ったほうがいい、という選択を自然としている。
 たとえば、一日多く働いて稼いだ分を何に一番使いたいかと問われたら、間違いなくこう答える。
 「そのお金で自分の自由になる時間を買います!」
 ならば、はじめから時間を買っておくことである。
 というわけで、ここ数年、週4日勤務に甘んじてきた。

 そうやって得た自由時間を何に使ってきたかといえば、読書や映画鑑賞や瞑想やボランティアやブログ作成や山歩きなどである。
 ボランティアを除けば社会的にはまったく意義がない活動で、もっぱら自己満足の世界である。
 ほんと贅沢な話で、独身貴族とはよく言ったものである。
(――と思ったのだが、コロナ禍の今、上記の活動は社会的意義ありありではないか!)

 昨今は「ワークライフ・バランス」という便利な言葉があるので、こうした働き方もある程度理解してもらえるようになった。
 非正規雇用の人が正社員になるため苦労している記事などを読むと申し訳ない気もするのだが、ソルティには正社員になりたいという強い思いは不思議とない。 

原住民



 水木しげるは戦時中にラバウルで出会った現地の人々(水木言うところの“土人”)の暮らしに終生憧れた。
 
 僕にとって土人の生活は天国だった。働かずとも自然はバナナとかパイナップルとかいうめぐみをあたえ、人は一日に二時間ばかり畑に行って芋を植えるくらいで、一生のんびりすごす。 

 しかしながら、売れっ子漫画家となった水木の実際の生活は、365日休みなしの昼から明け方までの働きずくめであった。
 いくつもの締切に追われ、しまいには“体がなんでも早く解決(締切)しないと、おさまらなく”なってしまう「締切病」になってしまう。
 墓場を買ってあの世行きの準備をして、早く人生を締切ってしまいたいという衝動にかられる。

 いや、マンガ家だけでなく、日本人は大なり小なり、この締切病みたいなものにとりつかれているのではないだろうか。
 だいたい、歩き方にしても、みな締切に追われているような歩き方だし、日常生活だって自由なんかない、みな何らかの締切に追われた生活だ。
 一つの締切が終わると、次の締切が待っているのだ。

 この感じ、よくわかる。
 ソルティも、たとえば休みの日に部屋を掃除しているときに考えるのは、「早く掃除を終えて、ゆっくりお茶でも飲もう」ということだ。
 で、掃除が終わってお茶を飲む。
 飲みながら考えているのは、「これから買い物に行って、あれを買おう、これを買おう」といったことである。
 お茶の味も香りももはや楽しまず、買い物リストなど作成している。
 で、買い物に行く。
 買い物しながら考えているのは、「早く家に帰って、ゆっくりお茶でも飲もう」といったことである。
 常に、先のことを考えている。
 これではいつになっても「ゆっくり楽しむ」時は訪れない。

 最近、働き方改革が叫ばれている。
 それは結構なことだが、ただ単に暇な時間を増やせばいいというだけではなかろう。
 「いま、ここ」にいられる感性を育みたいものだ。

 この灰色の文明社会、幼稚園からシケンに追われ、一生安らぎのない文明社会、はげしい競争して勝ったって幸福になれるわけでもない文明は、さまざまなものを作るが、それは人間にとって、必ずしも必要でないものなのだ。ただ生活を複雑にするだけのものだ。便利になったからって人間は幸福になれるものではない。僕はなにか世界の大半を占める文明というものが、知らず知らずのあいだに世界を地獄にしているのではないかと思う。

 小さい頃に見ていた『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌は、水木しげるの本心からの願いだったのだ。

 来年も、なるべく仕事に追われない一年でありますように。



おすすめ度 : ★★

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● 本:『オスカー・ワイルド書簡集 獄中記』(宮崎かすみ編訳)

2020年中央公論社

 1895年、オスカー・ワイルドは同性愛の罪で投獄された。
 そのときに娑婆にいる16歳年下の愛人アルフレッド・ダグラスに宛てて綴った手紙が『獄中記』である。
 
 ソルティは大学時代に岩波文庫の『獄中記』(阿部知二訳)を読んだが、内容は全く覚えておらず、読後の印象も残っていない。なにも残らなかったのだろう。
 今回、英文学者宮崎かすみによる新たな訳で読み直してみたら、これがなんと滅茶、面白かった! 
 ワクワク、ドキドキの人間ドラマがそこにあった。
 こんなに面白いものをなんで忘れることができたのだろう? 
 
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 答えは、本書の編訳者まえがきに記されていた。
 日本でこれまでに訳されて単行本として売られていた『獄中記』は、ワイルドの死後、友人であり著作権管理人でもあったロバート・ロスが編集し発表した『深淵より』(1905年)を底本とする「簡約版」だったのである。
 それは、ワイルドが獄中で書いた大量の手紙のうち、「ダグラスに対する誹謗中傷にあたる部分を大幅に削除し、その他の文章も改変した」ものという。
 いきおい残された部分は、獄中生活の苦難や悲惨、贅沢や不道徳を身上とする過去の生活に対する反省や悔悟、自らの受難をダブらせたイエス・キリスト論、ワイルドならではの芸術論が中心となる。
 ワイルド研究者にとっては興味深く重要なものには違いなかろうが、一般読者にしてみれば、さして面白くはない。
 とくに、『ドリアン・グレイの肖像』や『サロメ』や『ウィンダミア夫人の扇』といった、機知にあふれスキャンダラスかつ退廃美に輝くワイルドの作品を愛する者にとっては・・・・。
 
 本書には、単行本としては初めて、ワイルドがダグラスに宛てた手紙の全文が訳し出されている。
 ワイルドとダグラスの恋愛ドラマ、二人の“すったもんだ”の一部始終が描かれている。
 そのうえに、裁判・逮捕・投獄の憂き目を見る以前のワイルドの輝かしき半生、二人の関係を巡る互いの家族の反発や非難、ダグラスの父クィーンズベリー侯爵との訴訟合戦、ロスを始めとするワイルドの友人たちの厚い友情、妻コンスタンスとの複雑な関係、そして刑期を終えたワイルドの辿ったその後の苦難の生と壮絶な死・・・・まさに「悲哀の道化師の物語」というサブタイトル通り、世紀末を生きた一人の芸術家のドラマチックでスキャンダラスな人生がいきいきと描き出されている。
 あたかも、オスカー・ワイルドという巨大な重力と輝きを持つ恒星を中心に、彼の人生に関わった人間たちが衛星のごとく近づいては遠ざかる軌道を描き、互いに影響を及ぼし合いながら銀河を旅しているようである。
 力作評伝にして、無類のエンターテインメントである。
 
 一等の面白さは、「簡約版」ではほとんど触れられていないワイルドとダグラスの“すったもんだ”、「簡約版」からは読み取ることのできない二人の“奇態な関係”である。
 と言っても、ホモセクシュアルといった点ではない。
 イギリスにソドミー法があった19世紀は遠い昔、同性愛がばれるとスキャンダルとなった20世紀もすでに過去。現代はもはや、ホモセクシュアルを特別視するような時代ではない。
 性別や性的志向とはまったく関係なしに、二人の人間の恋愛模様、というか依存関係、というか桎梏、というか因縁――あたりが興味の中心となる。


ワイルドとダグラス
ワイルドとダグラス


 アルフレッド・ダグラスは貴族の子弟であった。
 それだけでも十分特別で、多少のワガママや浪費癖や常識の無さはむしろあって当然だろう。
 が、それだけでは済まなかった。
 ダグラスの祖父と兄は自殺しており、父親のクィーンズベリー侯爵は頑固な癇癪もちでダグラスとは終生憎み合った。
 ワイルド亡き後に結婚してできたダグラスの息子は、統合失調症で生涯を病院で過ごしたという。
 遺伝によるものか環境によるものかその両方なのかはともかく、ダグラスには精神上の負因があった。
 ワイルドと出会った十代の時分から、すでに性格異常の一面をのぞかせていたのである。
 ダグラスの性格を評するワイルドの言葉は、非常にきつい。

 君の卑劣きわまりない動機、下卑た嗜欲、非常に俗っぽい情熱は、君の掟となった。それにより他人の人生をも常に従わせ、必要とあらばためらいもなく他人をその犠牲にすることを厭わぬ掟となったのだ。癇癪を起して醜態を演じれば自分の思い通りにできることを知ってから、ほとんど無意識だろうと思いたいが、君の狂気じみた激情の発作が激しさを増してゆくのは自然のなりゆきだった。
 
 君の性格のじつに致命的な欠点であるところの、想像力の完全なる欠如
 
 君の人生についての考え、君の哲学――君に哲学などというものを思考する頭があればの話だが――とは、君自身がしたことはすべて誰か他のものに支払わせるべき、というものだった。ぼくは金のことだけを言っているのではない。君の哲学を日々の生活に実際に適用したのは、責任の転嫁が及びうる全領域で、その言葉の真の意味においてであった。
 
 感情をコントロールする力が君に根本的に欠落しているのは、不機嫌に黙りこんで怒りを仄めかすような態度と同様、癲癇のように突然怒り狂いだす発作からも明らかだった。
 
 しかしながらぼくの過ちは、ぼくが君と別れなかったことではなく、あまりにも頻繁に別れたことである。ぼくの数えるところによれば、ぼくは、いつもきっかり三ヶ月ごとに君との交友に終止符を打っていたが、ぼくが別れを切り出すたびに君は、懇願やら電報やら手紙やら、君の友人による仲裁からぼくの友人の仲裁に至るその他様々な手段を使って、何とかぼくが君を許す気になるよう全身全力で努力した。

(以上、ワイルドの手紙より抜粋) 

 上記の文章から、ダグラスという人間をどう見るだろうか?
 ソルティは、境界性パーソナリティ障害の典型と見た。
 二人の“奇態な関係”は、あたかも症例報告を読んでいるかのようで、ワイルドはダグラスの“ターゲット”となって完全に振り回されている。
 そもそもワイルドが男色の罪で投獄されることになったのも、元はと言えば、父クィーンズベリー侯爵を憎むダグラスがワイルドをそそのかし、侯爵を名誉棄損で訴えるよう強く求めたからであった。
 ワイルドはいつものようにダグラスに根負けし、侯爵を提訴する。
 が、逆に侯爵から男色の罪で訴えられる羽目となる。
 証拠はいともたやすく集められ、ワイルドは有罪となった。
 つまるところ、クィーンズベリー父子の近親憎悪のとばっちりを受けたのである。

 ひとたび境界性パーソナリティ障害の“ターゲット”にされると、気力と精力を完膚なきまで奪われ生活を破壊されることが多い。(ある芸能人一家の次男に起きたケースが思い出されよう。彼は相手の女性と別れられるなら「引退してもいい」とまで言った)
 境界性パーソナリティ障害の相手とのいびつにして不毛な関係を終わらせたいのであれば、関係を“立ち切る”しかない。
 友人同士なら一定の距離を置いてつき合うことも可能だろうが、恋人同士なら完全に別れて居場所も連絡先も教えないことである。
 中途半端はNGだ。
 情けは禁物である。
 相手ととことん付き合う覚悟と度量がない限り、お互いに傷つけあうだけになりかねない。
  
 獄中で冷静に二人の関係を見つめ直し、自らの愚かなまでのお人よしに気づいたワイルドは、もう二度とダグラスに近づくまいと決心する。
 獄中生活を物心ともに支えてくれる忠実な友ロスへの手紙の中で、ダグラスについてこう書き記す。
 
 彼のことを悪しき影響を及ぼす存在のように感じる。あわれな奴だ。彼と一緒にいると、ぼくがようやく解放されていると思っている地獄へとまた舞い戻ることになるだろう。彼とは二度と会いたくない。 

 二人が関係を断つことが最善と知っているロスをはじめとするワイルドの友人たちも、ワイルドとの間にできた子供の将来を心配するワイルドの妻も、息子の常軌を逸した振る舞いの矯正をとうにあきらめているダグラスの母親も、ワイルドの決心を喜び、安堵する。
 ところが、2年の刑期を終え出所したワイルドは、性懲りもなく、ダグラスのもとに戻ってゆく。
 「なんでまた・・・・!」
 ロスら一同が怒り、あきれ返り、疲弊するのも無理はない。
 ワイルドはロスへの手紙にこう記す。
 
 ぼくがボウジー(ソルティ注:ダグラスの愛称)のもとに戻るのは心理的な必然なのだ。自己実現を求める情熱を伴った魂の内面云々については棚上げするにしても、世界がぼくにそうするように仕向けたのだ。
 ぼくは愛の気配のないところで生きてゆくことはできない。ぼくは愛し、愛されなくてはいられない。そのためにいかなる代価を払おうとも、だ。君と共に一生を過ごすこともできただろう。だが君には君でやるべきことがある。とても心の優しい君のことだからそうしたことをおざなりにもできないだろう。結局、君が僕に与えることのできたのは一週間の友人関係がせいぜいだった。 

 この手紙を読んだ時のロスの心情はいかばかりだったろうか?
 想像するだに哀れだ。

 つまるところ、ワイルドもまたダグラスに劣らぬほど、恩知らずで自己中心的な男なのである。
 ダグラスに負けぬほどの逸脱者なのである。
 ダグラスに対してと同様に、ワイルドに対しても、「普通の市民的人生」や「常識的ふるまい」を求めるほうがどだい無理な話なのであった。
 一般に流布しているオスカー・ワイルドのイメージ――公の場での派手な衣装、奇抜なふるまい――を鑑みるに、現代精神医学の見地からすれば彼もまたパーソナリティ障害(=演技性パーソナリティ障害)と診断されるかもしれない。
 だとしたら、二人はお神酒どっくりのようにお似合いだ。
 運命の相手というべきか。

お神酒徳利

 
 出所後、ワイルドは世間や妻や友人たちの目を逃れ、遠いナポリの地でダグラスと暮らし始める。
 が、結局、金の切れ目が縁の切れ目、生活力のない二人はとたんに行き詰まってしまう。
 元の木阿弥。
 またしても決裂する二人。
 ダグラスはイギリスに帰り、フランスに渡ったワイルドは梅毒にかかって安ホテルの一室で息を引き取った。
(ロスと来た日には、死の床にいるワイルドのもとを毎日のように訪れ、なにくれとなく世話を焼き、看取った。彼もまた“お人よし”というほかない。あるいは、それこそワイルドの芸術の魅力なのか?)

  
 孤独な獄中における深い洞察の瞬間に、ワイルドは次のように書いている。
 
 ぼくにとっては、君(ソルティ注:ダグラス)さえもが、恐ろしい出来事に恐ろしい帰結をもたらすよう、何か目に見えない秘密の力によって動かされている操り人形にすぎないと思う時がある、だが操り人形にも感情がある。自分たちが今演じているものに新しいプロットを持ち込み、定められた有為転変の結末を、自分の気まぐれや欲求に沿うよう捻じ曲げてしまうのだ。全き自由な状態にあること、と同時に法に完全に支配されてもいるというのは、我々がいついかなる時にも思い知る、人生における永遠のパラドックスである。 

 この文章は、栄光の頂点にいてダグラスと出会ったばかりのワイルドが書いた、最も有名な戯曲の中のセリフと不思議と響き合っている。
 
恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。
恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。
(福田恆存訳『サロメ』、岩波文庫) 

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おすすめ度 : ★★★★

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● 日本軍の稀に見る美談 漫画:『敗走記』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

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 表題作他、『ダンピール海峡』、『レーモン河畔』、『KANDERE』、『ごきぶり』、『幽霊艦長』を掲載。
 『白い旗』同様、水木しげる自身の体験はじめ、友人・知人などから聞いた話をもとにしている。
 多少の脚色は施してあろうが、根本的にはノンフィクションと言っていいのだろう。

 なかで、ラバウルがあるニューブリテン島で出会った現地の美女姉妹をめぐる逸話『レーモン河畔』が興味深い。
 明日死ぬかもしれない第一線にひょっと現れた現地の美女たちが、無傷で後方まで下がり、無事戦後まで生きのびたという。

 姉妹の父親であるホセは食べるものに困り、日本軍に食糧を求めてきた。
 その見返りとして中隊長が求めたのが、姉妹たちが200名の兵隊のための性処理係になること、つまり従軍慰安婦になることであった。
 日本語は解せないものの趣意を察し、声を上げて泣き出す姉妹の母親。
 爆発寸前の欲望を抑えながらも、一家を可愛そうに思った兵隊たちの意見で、結局、ホセ一家は後方に送られることになった。
 若い女が目に見えるところにいることが、男の心をかき乱すからである。 

 戦後、姉妹の一人は日本人と結婚し、日本に移住した。
 ホッとする話であるが、これが日本軍の“稀に見る美談”として語られたというのだから、通常ならばどうであったか推して知るべし。



おすすめ度 : ★★★

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● 本:『高峰秀子と12人の女たち』(高峰秀子対談)


2018年河出書房新社

 昭和の大女優高峰秀子(1924-2010)が、やはり同時代を中心に活躍した12人の女性有名人と、丁丁発止に語り合う。
 高峰の晩年に養女となった、元文春編集者の斎藤明美が企画に関わっている。

 まずは対談相手の錚々たる顔ぶれに唸る。
 越路吹雪、ミヤコ蝶々(+南都雄二)、佐多稲子(+ぬまやひろし)、安達瞳子、岸恵子、原由美子、佐藤愛子、大宅昌・映子親娘・・・・。
 自伝エッセイ『わたしの渡世日記』で見られた、高峰秀子の広い交友関係、誰からも慕われる気取りのなさ、各界の大物に対するものおじしない態度が、ここでも存分発揮されている。


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 ソルティにとって一番の読みどころは、日本映画史上最高の女優競演が実現した幸田文原作・成瀬巳喜男監督『流れる』キャスト面々との対談である。
 表紙を飾っている山田五十鈴、田中絹代とのスリーショットは、日本映画に詳しい人なら眩暈するようなゴージャスさであるし、高峰の役者人生に決定的な影響を及ぼした先輩・杉村春子との顔合わせでは、気の強い杉村が、気の置けない後輩女優との対談において、夫を亡くした淋しさを語る気弱な姿が見られ、珍しい。
 年齢で言えば、杉村(1906年)、田中(1909年)、山田(1917年)、そして高峰(1924年)の順であるが、高峰は田中や山田と共に並んで容姿はもちろん、風格においても見劣りすることない。
 杉村に対しても何ら臆することなく、身内の叔母さんとでも話しているような気安さで接し、しまいには本気で高峰の夫・松山善三と三人でのハワイ旅行を誘っている。
 山田五十鈴、杉村春子、田中絹代のビッグ3とここまでフランクに付き合える後輩女優は、高峰秀子をおいて他にいなかったのではあるまいか。
 
 高峰がこれだけの風格を持ち得たのは、生まれ持っての気質もあろうが、やはり、子役から始まった芸歴の長さと、木下惠介や成瀬巳喜男らに重用されて磨かれた演技力への自負、数々の現場で身につけた自信あってのことだろう。
 映画界における芸歴の長さで言うと、高峰のデビューは1929年(当時5歳)なので、田中(1924年)、杉村(1927年)、山田(1930年)とほぼ互角である。
 
 山田、田中との対談では、同業の男優である森繁久彌森雅之に対する評価が聞けて興味深い。
 ただ、これは3女優の膝つき合わせた鼎談ではなくて、朝日新聞記者にして映画評論家の津村秀夫(1907-1985)による3女優への共同インタビューみたいな形なので、一番年かさの津村の偉そうな態度と強引な仕切りが目立ち、3女優の関係性が見えず、ちょっと残念である。
 
 全体に、高峰はどこでも“大女優”らしく自分の話ばかりして、相手の話を聞かない。
 相手が岸恵子(1932年生)のような同年輩の女優だと、会話の主導権争いのような態をなしている。

 都合11の対談から見えてくるのは、高峰秀子の非凡な半生である。
 子役時代はあっても子供時代がなかった、学校にも動物園にも行けず撮影所の大人たちの中で育った、強烈なステージママによる支配と依存関係、めまぐるしい撮影スケジュール、女優としての華々しい成功、育ての親との壮絶な確執・・・・。
 彼女は自分から女優になりたくてなったのではなかった。
 気づいたら、システムの中にいて、大人数の家族・親戚の暮らしを支える大黒柱(人柱?)になっていたのである。
 そこが、自ら女優を志した杉村や田中や山田とは違う。
 本書のあちこちに見られる、「女優になりたくなかった」、「女優をしているのが嫌だった」という高峰のセリフが興味深い。



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● 強烈無比のサスペンス 本:『遮断地区』(ミネット・ウォルターズ著)

2001年原著刊行
2013年東京創元文庫

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 現代英国ミステリーの女王と言われるミネット・ウォルターズの野心的な異色作。
 ミステリーというより、群集パニック&犯罪サスペンスの感が強い。

 原題 ACID ROW は「LSDの街」の意。(ROWには「騒動」という意味もある)
 「教育程度が低く、ドラッグが蔓延し、争いが日常茶飯事の場所」であるバシンデール団地に、二人の男が引っ越してきた。
 愚かな保健師の失言から、どちらかの男に小児性愛の前科があることが広まってしまう。
 小さな子供を持ち不安におびえる母親たちは、彼らを追い出すべくデモ行進を企画する。

 少し離れた別の団地では、離婚した母親に連れられて、母親の新たな同棲相手の一家と暮らす10歳の少女エイミーが行方不明になっていた。
 その陰にはどうやら大人の男の影がちらつく。
 警察は、エイミーがなんらかの事件に巻き込まれたものと推定し、少女の実父や母親の元愛人など関係者への尋問を開始する。

 前科者排斥運動と少女失踪――この二つの事件が結びついたとき、すなわち、エイミーがバシンデールに住む小児性愛者の毒牙にかかったという根拠なき噂が生まれたとき、平和裡に行うはずのデモが、死者数名、負傷者多数の暴動に発展する。
 LSDやアルコールで常軌を逸した不良少年たちは、鬱積したエネルギーのはけ口を見つけ、火炎瓶を住宅に投げつけ、車をひっくり返し、スーパーの商品を奪い、小児性愛者の住む家を打ち壊して押し入り、ついには間違った相手をリンチ死に至らしめる。

 二つの事件を結びつけるキーワードが「小児性愛」である。
 この言葉一つで、登場人物たちは色めき立ち、反感と嫌悪を露わにし、それと疑われた男を攻撃・成敗する正当性を身にまとう。
 読者もまた、この言葉の持つスキャンダラスで背徳的で残忍な匂いに惹きつけられつつ、少女の行方を案じ、暴動の一部始終を固唾をのんで見守ることになる。
 物語の冒頭にこれから語られる異常な事件への予告があり、期待感とともに本章に入るや、高いテンションと凄まじい潮流とでぐいぐい核心へ引きずり込まれてしまう。
 その構成と語り口の上手さ、それに多彩なキャラクターの描写力は、さすが「女王」と冠されるだけある。

 実際には、少女エイミーをさらったのはバシンデールの小児性愛者ではなかった。(彼は羊のように大人しい少年愛好者だった)
 誘拐の真犯人もまたロリコンではなく、恐喝が目的だった。
 二つの事件に関わった人々は、「小児性愛」という言葉に踊らされたのであった。
 
 この小説には、イギリスはじめ先進国の抱える様々な社会問題が織り込まれている。
 小児性愛犯罪の増加、LSDなど薬物問題、移民による人種問題、少年の凶悪犯罪、貧困、高齢化、もちろん家庭崩壊。
 といって、ウォルターズには「一石投じたい」、「新たな視点から問題提起したい」といったような“社会派”の気負いは感じられない。
 そこが、『三秒間の死角』、『死刑囚』、『熊は踊れ』、『ボックス21』などで人気のスウェーデンの作家アンデシュ・ルースルンド+1とは違う。
 暴動の中で子どもが亡くなったり、小児性愛者と間違えられた老人が悲惨な姿で窓から吊り下げられたり、といった残酷なシーンがあるにもかかわらず、読んでいる間も読後も、重さや暗さはない。
 ただただ、強烈なサスペンスに酔い、寝不足な日中に弱るばかり。



おすすめ度 : ★★★★

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● ワンチームの是非 本:『扉を開けて』(共同通信ひきこもり取材班著)

2019年かもがわ出版

 副題は「ひきこもり、その声が聞こえますか」

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 共同通信の記者たちによるルポルタージュ。
 ひきこもり当事者(と言っても“元ひきこもり”になるのはやむをえまい)、その家族、行政や民間の支援者、精神科医の斎藤環らにインタビューし、この問題を多角的視点でとらえている。
  • 多額の費用を受け取り、ひきこもりを強制的に家から引っ張り出し、刑務所のような収容施設に閉じ込め、何ら自立支援らしいことは行わない悪徳自立支援ビジネス。
  • 社会復帰を目指すひきこもりに就労の場を提供し、あたたかく見守る地域の経営者。
  • 女性のひきこもり当事者の抱える男性当事者とは異なる問題(たとえば、男性恐怖の人が多いので男性がいる会合には参加しづらい、母親との関係に悩む人が多いなど)
  • 親の高齢化や認知などの要介護化あるいは死によって、ひきこもりを可能ならしめてきた経済的基盤が失われ、生命の危機に直面する当事者。
 ひきこもり人口が全国で60万人を超え、年齢も10~70代と広い層におよび、ひきこもりが絡んだ悲惨な事件報道が増え、また当事者の中から声を上げる人が出てくるにつれて、この問題の複雑で多様な相が一挙にあぶり出されてきた感を持つ。
 
 問題が家庭内で隠されてきたこと、あるいは問題が社会に認識されない状態が長くあったことを思えば、ひきこもりが社会問題として陽の目を見た今の状況は、前進というべきなのだろう。
 とりわけ、政治的な支援の必要が認識され、厚労省肝いりで各県に「ひきこもり地域支援センター」が設置(平成21年~)されたのは大きい。
 やはり、2019年6月に東京練馬で起きた元農林水産事務次官によるひきこもりの息子殺害事件が、官僚や政治家たちにショックを与えたのだろうか。
 KHJ 全国ひきこもり家族連絡会のような当事者家族による互助&政策提言活動も全国に広がっている。(KHJ は Kazoku Hikikomori Japan の略)
 ひきこもり新聞といった紙媒体やネットを利用した情報発信や交流など、当事者自身の活動も盛んになってきた。
 地殻変動につながるような巨大で静かなうねりが起こっている気がする。
 日本社会のパラダイムを変えうるような・・・・。

渓谷

 
 ソルティがひきこもり問題を最初に知ったのは、90年代中頃であった。
 当時は、人間関係をつくるのが不得手で社会に出て働くのが困難、といった軽度の精神障害者などの居場所づくりが各地で盛んだった。
 80年代に不登校が大きな社会問題となっていたので、なんとなく「その延長かな?」、つまり「80年代に不登校だった子供たちが成人して、今度は社会に出られず、日中を過ごす“居場所”を必要としているのかな?」と思った。
 が、そうした居場所に出てこられる人はまだいいほうで、家から一歩も外に出てこられない若者たちがいる、という話であった。
 そのころ住んでいた地方都市で、ひきこもり(という命名があったかどうか覚えていない)に関するシンポジウムが初めて開かれて、知人に誘われて参加した。
 登壇していたのは、地元の精神科医やフリースクール運営者やアルコール依存症の自助グループの代表などであった。
 元当事者や家族の姿は、少なくとも壇上にはなかったと思う。
 話の内容はほとんど覚えていないのだが、一つ気になったのは、壇上にいる演者がみな、「ひきこもりが家から出て社会参加することが一番」というモードで語っていた点であった。
 当時も今も天邪鬼のソルティは、「なんでひきこもっていたらいけないんだろう?」、「なんで社会参加しないといけないんだろう?」と思った。
 質疑応答の場で思い切って手を上げて、こう問うた。
 「本人が暴力をふるって家族が困っているとか、家計が苦しいといった場合は別として、そうでない場合、そもそもなんでひきこもっていたらいけないのですか?」
 会場が凍りついた。

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Siggy NowakによるPixabayからの画像
 

 福祉の現場ではしばらく前から社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)という用語がブームとなっている。
 
 社会的包摂(しゃかいてきほうせつ)あるいはソーシャル・インクルージョン(英: social inclusion)とは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。 社会的排除の反対の概念である。
(ウィキペディア「社会的包摂」より抜粋) 

 ソルティも一人のマイノリティ(LGBT)として、また介護分野において福祉にたずさわる者として、このコンセプトには全面的に賛成であり、今回のコロナ感染者差別にみるような社会的排除は「もってのほか」と思っている。
 が一方、心のどこかで、「個人が社会というものに(半ば強制的に)取り込まれなければならない」ということに息苦しさを覚えてしまう。
 それが、行政が主導して用意する枠組みにしたがってのことなら、なおさらに。
 “ワンチーム”とか“一岩となって”という晴れがましい掛け声にちょっと引いてしまうところがある。

 単なるワガママ(自我の強さ)なのかもしれない。
 近代個人主義の弊害なのかもしれない。
 ただ、この国は同調圧力が強く、「右へならえ」の傾向が多分にあるので、あんまり“ワンチーム化”しないほうがいいのではないかという思いがあるのだ。
 たとえば、だれもが「一員として取り込まれる」先の“社会”がもし良からぬものであったら、一体だれがその“社会”の暴走に歯止めをかけるのであろう?
 お隣り中国における個人の自由の制約のさまを見るがいい。
 民主化への社会変革がどれだけ困難になってしまったかを見るがいい。
 つまり、ひきこもりの社会参加を語るのであれば、その“社会”の質こそがまず問われなければならないと思うのである。

 本書の中で、ソルティの琴線に触れた一節をちょっと長くなるが紹介したい。
 神奈川県でひきこもり当事者や家族支援を行っている丸山康彦氏へのインタビューである。
 1964年生まれの丸山氏は、28歳から7年間ひきこもっていた。

【なぜ人はひきこもるのでしょうか】
 当事者に直接会ったり、親御さんの相談を受けたりして感じるのは、ひきこもりは異常でも悪行でもなく、特有の心理状態による生きざまだといいうことです。一般の人は自宅と社会がセットで行ったり来たりできるのですが、ひきこもりの人の場合は自宅と社会の間が裂けていて、そこに生まれた「第三の世界」に心がある状態です。本人もどうしてそうなるのか分からないので、私は「無意識の指令」と呼んでいます。
 
【無意識の指令とは】
このままだと潰れてしまう、行き詰ってしまうということを予知して、本能的に自らを防御するということです。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがありましたが、あれは絶品なタイトルですね。まさに、自分を守るために逃避したというのがひきこもり状態なのかなと思います。

【もう少し詳しく説明していただけますか】
 当事者がよく口にするのは「普通でありたい」という言葉です。何が普通かというのは時代によって違いますが、現代であれば学校や仕事に行くのが当たり前で、仕事というのは企業などに雇われて、歯車として働くということでしょう。しかし、昔は町に1人や2人はぶらぶらしている人がいて、居候という言葉も珍しくなかった。
 今はそういう人がはじかれやすい世の中です。大気汚染から公害病が生まれるように、時代の空気に苦しくなった人たちが、心が折れて、ひきこもり状態になるのではないでしょうか。 

 この言葉を読んでソルティの心にすぐさま浮かんだのは、一つは渥美清演じる寅さん、こと車寅次郎の姿であり、今一つは戦後日本から消えてしまったサンカと呼ばれた人々のことである。
 日本には長いこと、国家の身分制度の外にいて一般庶民には蔑視されながらも、自然とともにたくましく生きる“化外の民”がいた。
 いわゆるマージナル・マン
 彼らは百姓を代表とする常民(=定住の民)の周縁にあって、村から村、山から山、川から川、浜から浜へと漂泊する民であった。
 ジブリ映画の『かぐや姫の物語』に出てくる竹取の翁や木地師の一家は、まさにそうした人々である。
 このような制度の外にいて日本中を漂泊する人々の存在が、「既存の日常性を破る異化効果をもたらした」と文化人類学者の沖浦和光は述べている。
 
 ひきこもりの存在を、こういった視点から見てみることも有意義なのではなかろうか。
 


 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 妖怪大協定 本&絵:『水木しげるのラバウル戦記』

1994年筑摩書房
1997年ちくま文庫
 
 敗戦後ラバウルから帰還した水木しげるが、主として昭和24~26年頃に記憶を頼りに描いた絵に、文章を添えた従軍記である。


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 なによりもまず、水木しげるの映像記憶の凄さに感心する。
 まるで、目の前の光景をその場で素描しているかのような生々しさ、臨場感がある。
 頭のなかにシャッターがついているかのよう。
 やっぱり天性の絵描きなんだなあ~。
 
 次に思うのは、軍隊のキチガイぶりである。
 ビンタをはじめとする上官の日常的暴力、無意味な労働、無駄な行軍
 水木がラバウルに派遣された昭和18年末はすでに日本の敗色濃厚だったので、戦地には自暴自棄の空気が漂っていたとは思う。
 が、それにしても頭の悪い・・・・。

 ソルティの高校時代の部活動(軟式テニス部だった)を振り返ってもそうだが、つい最近まで、日本のスポーツ界というのは疑似軍隊であった。
 先輩・OBの命令は絶対で、意味のないシゴキが付き物で、どんな炎天下であろうが運動中に休憩をとらせず、水も飲ませない。
 そうやって精神を鍛えることが選手の身心を強くし勝利を導く、とマジで考えられていたのである。
 科学的かつ合理的精神にもとづき、エビデンスを元に効率的に選手を育成するという視点に欠けていた。
 「神風特攻精神」に象徴される頭の悪さが、日本の敗戦の主因であろう。

 が、頭の悪いのは日本に限ったことではない。
 日米は、ラバウルほか太平洋の島々で熾烈な殺戮合戦を繰り返すが、はた迷惑なのは現地の住民たちである。
 家や畑を焼かれ、食べ物を盗まれ、強制徴用され、銃撃や空爆の脅威にさらされ・・・・・。
 文明国を気取っている日本やアメリカが、文明は持たなくとも素朴に平和に暮らしている人々(水木しげるは敬愛の意を込めて彼らを“土人”と呼んでいる)を虐げる。

 彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしたりしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。
 まァ優雅な生活というやつだろうが、自然のままの生活というのだろうか。

 土人は“満足をする”ということを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意を払っている。

 我々文明国の人間は、金や土地や資源や栄誉や安全など欲しいものを手に入れ満足するために戦争するわけだが、文明国でない人々は最初から満足を手に入れている
 文明とはいったいなんだろう?

 もう一つ思ったのは、水木しげるのタフさ、大らかさ、運の良さである。
 若かった(当時23、4歳)こともあろうが、上官からの度重なるビンタをものともせず、初めて足を踏み入れた南の島の自然や動植物や昆虫や食べ物に多大なる好奇心を持ち、楽しんでいる。
 兵営近くの部落の土人たちとすぐ仲良くなって、終戦時には「畑をやるからこのまま島に残ってほしい」と彼らに哀願されるほどの関係を築いている。
 一体に先入観を持たない大らかさがある。

 水木が夜の見張りのために小屋を離れた時に、攻撃を受けた部隊は全滅する。
 その後も、一人ジャングルの中を命からがら逃走し、最後は爆撃によって左腕を失う不運に遭ったものの、九死に一生を得る。
 いや、左腕を無くし野戦病院に送られたがゆえに、命ばかりは助かったのだ。
 そのまま最前線に残っていたら、生きて日本に帰れなかった可能性が高い。

 水木しげるがラバウルで死んでたら、鬼太郎や河童の三平は生まれなかった。
 目玉おやじもねずみ男も猫娘も生まれなかった。
 きっと、荒俣宏も京極夏彦も『妖怪ウォッチ』も生まれなかった。

 水木しげるは、日本とラバウルの妖怪たちの協定により守られたに違いない。

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おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 本:『箕作り弥平商伝記』(熊谷達也著)

2007年講談社

 「みつくり やへい しょうでんき」と読む。

 大正末期の秋田の片田舎の平和な村で、日本古来の農具の一つである箕を作っては売り歩いている、愛すべき熱血青年・田辺弥平の青春物語である。
 熊谷達也ははじめて読んだ。

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 同じ熱血青年の青春記(ビルディングストーリー)であっても、漱石の『坊ちゃん』とは味わいが異なるのは、この小説が差別問題を扱っているからである。
 長い間、箕作りは、関東以南の地では「サンカの仕事」として忌み嫌われ、厳しい蔑視と差別を受けてきたのである。

 箕作りの村の箕作りの家に生まれ育った弥平は、長じるとともに素晴らしい腕を身につけ、また失敗を重ねながらも次第に行商のコツを覚え、一人前の職人になっていく。
 ある時、販路拡張のために親友と共に意気揚々と南下し、利根川を渡り関東平野に入ったものの、弥平たちの箕は全然売れない。
 どころか、あちこちの家や店先から毛虫のように追い払われ、あげくのはてに不審者として警察に捕まり留置されてしまう。
 そこではじめて弥平は、箕作り職人が謂れのない差別を受けている現実を知る。
 当地の被差別部落に住む箕作りの一家とひょんなことから知り合った弥平は、一家の娘で口のきけないキヌに一目惚れし、結婚を考えるようになる。
 が、全国で高まりつつある部落解放運動の気運を面白く思わない周辺住民たちは、ある晩、キヌ一家の住む部落を集団で襲い、焼き討ちにかける。

 どこかで聞いた話と思ったら、最後の部落襲撃エピソードは、大正14年に群馬県で実際にあった世良田村事件をモデルとしているようだ。関東大震災時に千葉県福田村で起きた行商殺害事件――香川県から来た行商グループが“朝鮮人”と間違われて村人に虐殺された――についても触れられている。
 どちらの事件も、筒井功の『差別と弾圧の事件史』(河出書房新社)に取り上げられていた。

 事件後にキヌの一家は村と家を捨ててしまう。
 弥平の初恋は実を結ばず、結末はハッピーエンドとはいかない。
 絵物語を許さぬ厳しい現実があった。

 頑固で短気で涙もろい主人公・弥平が魅力的。
 生まれつき片ちんばの足をヒョコヒョコ引きずりながら、箕作り職人としての誇りを胸に歩く姿が目に見えるようだ。
 職業に貴賤はない。
 大切なのは、自分のやっている仕事に誇りを持つことだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 名探偵ホーソーン登場 本:『メインテーマは殺人』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2017年原著刊行
2019年創元推理文庫

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 昨年、シャーロック・ホームズもののパスティーシュ『絹の家』(2013年邦訳)を読んで、はじめて知った英国作家である。
 実は、『絹の家』の後に翻訳された『カササギ殺人事件』、本作、そして今秋刊行されたばかりの『その裁きは、死』の3作が、3年連続で「別冊宝島このミステリーがすごい!」と「週刊文春ミステリーベスト10」の外国作品ベスト1に輝いている。
 まさに今、世界のミステリー界を牽引し、日本でも話題沸騰の人気作家なのであった。
 
 『絹の家』ですでに証明されていたが、この作家はプロットづくりがたいへん上手い。
 読者のツボを心得て飽きさせない語り口、卓抜な構成力、さりげない伏線の配置と回収、ほど良い息抜きシーン挿入、ここぞと言うところで冒険小説風のスリルとサスペンス。
 いったん読み始めたら、ページをめくる手が止まらなくなった。
 スティーヴン・キングを思わせる一級のエンターテイナーである。
 
 それもそのはず、この作家は英国の人気TVドラマ『名探偵ポワロ』、『バーナビー警部』、『刑事フォイル』の脚本家として知られた人なのであった。
 それ以前にも、ヤングアダルト向けの「女王陛下の少年スパイ! アレックス」シリーズで英国では子供たちの幅広い人気を得ていたようだ。
 物書きとして十分な実力と名声を身につけた上での大人向けミステリーデビューが、『絹の家』だったのである。
 
 と、作者の履歴を記したのはほかでもない。
 実はこの作品、ホロヴィッツ自身を語り手とする、一見ノンフィクションの形を取っているフィクションだからである。
 映画・TV業界で活躍するホロヴィッツの脚本家としての日常がそのまま描き出され、彼のこれまでの経歴が語られ、『絹の家』を含めこれまで制作に関わった作品名が次々と出てくる。
 スピルバーグ監督や『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督が実名で登場し、ホロヴィッツと新企画の映画について検討するシーンが出てくる。
 ホロヴィッツの家族も顔を出す。(妻と二人の息子がいるらしい)
 こういった作者の周囲の現実世界を舞台に設定した上に、殺人事件と推理ドラマいうフィクションを載せている。
 虚実入り乱れの面白さ!
 そして、「虚」の部分では、ホームズばりの観察眼と推理力そして偏屈ぶりを発揮する元警部ホーソーンという“一匹狼型”名探偵を創造し、ホロヴィッツ自身は頭の鈍いワトスン役に甘んじる。
 相性がいいのか悪いのか(今のところ)分からない二人の関係性が面白い。
 ホーソーンは激しいホモフォビア(同性愛嫌悪)の持ち主なのだが、その理由が気になるところだ。
 「実」の部分では、なんといっても映画・TV業界のことなら何でも知っている海千山千のベテラン脚本家である。業界の内輪ネタが読者の好奇心をそそらないわけがない。
 どこまでが事実で、どこからが創作か。
 それを探るのも一興である。
 
探偵

 
 推理小説としてもよく出来ている。
 犯人探しに必要な情報をしっかり読者に与えつつ、読者を誤った推理におちいらせる撒きエサ、いわゆるレッドへリング(red herring、赤いニシン)もたくみに仕掛け、一方、犯人には動機と機会をしっかり用意している。
 ホーソーンの推理も納得ゆくもので、すべてが解き明かされていくラストの気持ち良さはクリスティやクイーンといったミステリー黄金期の古典を彷彿とする。
 重厚で悲惨で残酷なものが多い昨今人気の北欧ミステリーに比べ、全体に明るく軽やかな雰囲気なのも読みやすさの秘訣だ。
 個人的な嗜好だが、英国が舞台なのもポイント高い。
 現代の英国社会の世相が垣間見えるのが興味深い。
 物語の中のホロヴィッツは、ホーソーンの元同僚であるメドウズ警部――ホームズものに出てくるレストレード警部にあたる役どころを担う――に、ホーソーンのゲイ嫌いの理由を尋ねる。
 メドウズ警部は「知らない」と言った後、次のように付け加える。

「きょうび、警察じゃ誰も自分の意見なんか口にしない。ゲイや黒人についてなにかうっかりしたことを言おうもんなら、その場で首になりかねんからな。このごろじゃもう、“マンパワー(労働力)”なんて言葉も、男女平等に配慮して言いかえなきゃならん。十年前なら、何かまずいことを口走っちまっても、ぴしりと引っぱたかれるくらいですんだ。それだけで、後を引くことはなかったんだ。だが、きょうび、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)は一介の警察官より重要ってわけさ」
 

 ソルティは、半分くらいで犯人が分かった。
 動機も推測できた。
 「損傷の子に会った、怖い」という、最初の被害者が残したダイイングメッセージの意味も見当ついた。(ソルティは英文学が好きなので)
 物語の最後の最後に明かされる、ホーソーンがホロヴィッツを自分のワトスン役として巻き込むために仕掛けた姑息なトリックも、早い段階で見抜けた。
 すなわち、途中から謎はなくなった。
 それでも、まったく飽きることなく楽しく読み続けられたというところに、かえってこの作家の筆力のほどを感じたのである。
 
 次は、『カササギ殺人事件』を借りよう。
 

 
おすすめ度 :★★★★ 

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● 本:『介護殺人 追いつめられた家族の告白』(毎日新聞大阪社会部取材班)

2019年新潮社より刊行
2016年新潮文庫

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 8年前介護施設に就職して、先輩職員に付いてはじめて認知症フロアに足を踏み入れたとき、
「自分はこんな人たちの世話ができるのだろうか?」
 とずいぶん不安になった。
 そのときは10人あまりの高齢者が、鍵や暗証番号で閉じ込められたフロアにいた。
  • 今がいつでここがどこだか分からない。
  • 訪れてくる息子や娘を他人と間違える。
  • ちょっと前に食事をとったことを忘れ、再度要求する。
  • 自分の部屋が分からず、他人の部屋に入ってそこで寝てしまう。
  • 歯磨きの仕方を忘れ、歯ブラシをポケットに入れて持ち運ぶ。
 ・・・・といったような、いわゆる認知症の“中核症状”は多かれ少なかれ誰にも見られた。
 そのこと自体は驚かなかったし、対応に困ることもなかった。
 がんぜない子供の相手をしていると思えば、可愛らしくもあった。
 だが、それだけですむ利用者ばかりでなかった。
  • 出口を探してフロアを一日中歩き回る。
  • 来訪者が来たタイミングにエレベータに乗り、外に出てしまう。
  • 他人の部屋に入って衣類をいじり、物を持っていってしまう。
  • 入浴や服薬や着替えを拒否する。
  • 失禁した自分の便をいじる。
  • 食べられない物品を口に入れる。
  • 大声や奇声を上げ続け、周囲を怯えさせる。
  • 他の利用者や職員に暴力を振るう。
  • 昼夜逆転して、夜間に動き回る。
 認知症の“周辺症状”と言われるこうした行動が手にあまった。
 それもフロアに一人だけでなく複数同時にいたときは、介護するこちらがパニックになり、ストレスで鬱になり、仕事を辞めたくなった。
 
 しかるに、ソルティは先輩職員の指導を離れ一人立ちしたあとは、どういうわけか認知症フロアに回されることが多かった。
 若い子より修羅場になれていると思われたのか、あるいは若い子に辞められたら困るのでツブシが効かないオヤジが貧乏くじを引かされたのか。
 三度の食事および就寝介助の時以外は、基本たった一人で10人から14人(満床時)の認知症患者を見なければならなかった。
 ずいぶん鍛えられたものである。

 上記の中核症状は認知症患者の脳の障害によるものなので、今の医学では薬などによって進行を遅らせることはできても、改善して治すことはできない。
 一方、周辺症状は患者の身体状態、周囲の環境、介護者の関わり方などに影響されるところが大きい。
 たとえば、徘徊の原因は便秘が4日続いていたことにあり、ナースが座薬を挿入し排便をうながしたら、すっかり落ち着いた――なんてこともよくあった。
 観察と推理、適切な医療介入、そして何より介護者の対応の仕方が大切なのだ。
 仕事を始めて一年くらいしてそのあたりが分かってくると、今度は“問題行動”の多い認知症の利用者をいかにして落ち着かせ、介護拒否をなくし、フロアを平和にしていくかに、やりがいや面白みを感じるようになった。
 「ソルティさんが入っているときはフロアが落ち着いているね」
 「この利用者は他の職員の言うことは聞かないけれど、ソルティさんの言うことなら聞くんだよね」
 なんて、他のスタッフに言われるのはまんざらでもなかった。
 入社時は動物園か精神科の入院病棟のように思えたフロアが、いつの間にか長閑な田園地帯のように思われ、「1年持てば御の字」と思っていた職場に6年以上も在籍していた。
 
 とは言うものの、ベテラン介護士やナースでもどうしても手におえない認知症患者はいる。
 家族やケアマネからの懇願を受けいったん施設で受け入れたものの、数晩あるいは一週間以内に「お引き取り」願うケースもままあった。
 お引き取り先は、主として精神科病院のことが多かった。
 
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 女性利用者P子さんを思い出す。
 入所手続きを済ませた家族が帰った直後から、P子さんは出口を探してフロアを歩き回り、介護者の声掛けをいっさい受け付けなかった。
 どんどん表情が険しくなっていく。
 夕食を終えても、トイレ介助を許さず、パジャマに着替えることもなく、ずっと歩き回る。
 他の人の部屋に押し入り、驚いた部屋の主と喧嘩を始める。
 二人いる職員が他の利用者の就寝介助をしている隙に、ステーション(職員詰所)にある内線電話を見つけて110番してしまう。
 「私は悪者に誘拐されて閉じ込められている。助けて!」
 内線の110番は、施設の事務所につながっている。
 事情を知っている施設の事務員が出て、適当に話を合わせ、彼女をなだめてくれた。
 歩き回って疲れたのか大人しくなったP子さんは、気難しい顔をしたまま自分の部屋に行き、ベッドに横になった。
 安心した昼間の職員は帰った。

 真夜中、ふと目を醒ましたP子さん、暗闇で状況がかいもく分からず、パニックになった。
 またしてもフロアを歩き回る。
 一人シフトの夜勤職員はずっとついているわけにもいかず、しばらく放っておいた。 
 と、P子さんの目に入ったのが、フロアの目立たぬ壁にあった非常ベル(自動火災報知機)。
 中央のガラスを強く押した。

警報器
 
 全館に鳴り響く警報。
 驚き、慌てふためく各階の夜勤職員と入居者たち。
 施設の非常ベルは消防署と連動している。
 またたく間に施設は何台もの消防車に取り巻かれてしまった。
 混乱する施設の内と外。
 集まってきた不安そうな近所の人々。
 対応に追われる職員。
 そんななか、P子さんはいっこうに落ち着くことなく、ベルの音に起こされ部屋から出てきた他の入居者に襲いかかり、転倒させ、ケガさせてしまった。
 消防車が引くのと入れ違いに、救急車とパトカーがやって来た。
 事情を確かめにフロアまで上がってきた警官に、P子さんは一言。
 「今頃来ても遅いのよ!」

 ここまで来ると、施設で見るのは無理である。
 翌日、勝ち誇った顔のP子さんは、憔悴しきった夜勤職員らに見送られ、呼び出された家族とともに車で精神科病院へ向かった。
 ソルティは、あとから夜勤職員に一部始終を聞いたのだが、
 「もう自分が殺すしかないな・・・・」
 と去り際に家族は言っていたそうだ。


泣く天使

 
 本書では、副題通り、家族の介護に追いつめられた結果、殺害に走ってしまった人々の事例が掲載されている。
 介護保険施行後、おおむね2010~2015年に起こった事件を取り上げている。
 警察庁の統計によれば、2007~2014年の8年間に全国で起きた未遂を含む介護殺人は、371件にのぼるという。
 年平均46件、8日に1件のペースで起きている。
 加害者となった介護人と被害者となった要介護者との関係、要介護者の病状や必要な介護の程度、各家庭の生活事情、周囲のサポートの有無、殺害に至るまでの経緯などは、ケースごとに異なるので一概には言えないのであるが、ある程度の共通項は見ることができる。
  • 被害者は、認知症や精神・知的障害が多い。(身体的介護の軽重は関係ない)
  • 加害者は、犯行時、介護疲れで「うつ」や「不眠」が続いている。
  • 加害者は、責任感が強く、愛情深い人が多く、周囲に助けを求めるのが苦手。
  • 加害者となるのは、娘より息子、妻より夫が多い。つまり、女性より男性(7割)が多い。
 本書では、刑事事件となった様々なケースの経緯を、刑を終えた加害者本人へのインタビューや周囲で心配しながら二人を見守っていた人々(ご近所さん、民生委員、ケアマネ、ヘルパー、遠方に住む家族)の証言を中心にたどり、事件の背景となった要因を探っている。
 介護保険制度の不備や行政の杓子定規な対応、核家族化や地域コミュニティの希薄化、貧困問題や福祉の欠如など、いろいろな要因があるのは間違いない。
 が、本書を読んで意外に思ったのは、テレビの同種の事件報道から自然と持たされていた「周囲から見捨てられた老々介護の夫婦が絶望して心中」といった世の冷たさを知らしむるケースよりも、むしろ、加害者を含めた周囲の人々が「善意」で関わっていながらも、否応なしに事件が起こってしまったケースが多い点である。
 
 作家の重松清が解説でこう記している。
 
 本書のサブタイトルは〈追いつめられた家族の告白〉である。
 では、なにが家族を追いつめたのだろう?
 行政の冷たさか? 社会の無関心か? 医療の進歩によって「生きてしまう」超高齢化社会のジレンマなのか?
 どれも少しずつ正しい。けれど、やはり、最も大きなものは、家族愛なのではないか。まわりに迷惑をかけてはいけないという責任感なのではないか。
 
 家族を愛していなければ、もっと割り切って、自分一人で介護を背負い込まなくてもすむ。もっと身勝手に、逃げ出してしまうこともできる。そうすれば、家族を殺めてしまうという最悪の選択だけはしないでもすんだのかもしれない。
 
 ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』(2012)に残酷なまでに描かれているように、加害者となった介護者と被害者となった要介護者(たとえば、夫と妻)には、他の家族の成員をふくめ余人には決して知ることも侵すこともできない、長年積み上げてきた特別の(依存)関係がある。
 そこに他人が踏み込むことは、たとえ何らかのリスクを感じ取っていても、なかなか難しいところであろう。
 
 多くの経験者が口を酸っぱくして言うことがある。介護が始まったら、とにかく一人で抱え込まず、時には手を抜くことが大切だ、ということだ。

 他人の介護に仕事で関わる者として、また、そのうち始まるかもしれない実親の介護に息子として関わる者として、銘記しておきたい言葉である。
 と同時に、自分と親との関係のあり方を今のうちに見直しておかなければ・・・・。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ヘルパーの鏡 本:『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』(宇田川敬介著)

2020年飛鳥新社

 東日本大震災および津波による福島原発事故にまつわる〈怪談〉を集めたもの。
 震災前の不思議な予知現象の数々、震災後の被災地で頻発した心霊現象など、体験した本人に著者がじかに会って聞いた話や知人を介して聞いた証言などが掲載されている。


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 死者15,897名、行方不明者2,533名という大惨事。
 しかもそれが一瞬にして起こり、いくつもの町が海の藻屑と消え、それまでの平和な生活が断たれた。
 「こういった霊的現象はたくさんあっただろうなあ、あるだろうなあ」と当時から思ってはいたが、オカルティックなことだけに、直接被害に遭ったわけではない外部の人間があれこれ穿鑿するのははばかれる。
 あれから10年近い歳月を経て、ようやく表立って語られ始めたわけである。

 「作り話だから」とか「非科学的だから」と排除してもいいものではないように思います。幽霊譚が語られる背景や、話の中に込められた被災地の方々の心に思いをはせるべきではないでしょうか。

 と、「あとがき」で著者が述べているように、霊的現象に遭遇せざるを得ない精神的状況に追いやられている被災者や救援者の心をこそ想像すべきである。
 愛する者の突然の死を受け入れることの大変さ、住みなれた郷土やコミュニティの喪失からくる空虚や絶望や孤独、想像を絶する悲惨な現場で救援活動する人々が抱える心的外傷・・・・・。
 非日常にさらされ続けた人々が、日常世界を超えたところにある世界を垣間見たところで、なんら不思議なことはない。
 本書を読んでいると、「この世とあの世は地続きだ」という丹波哲郎の言葉が、まさに証明されている感を持つ。
 生きている者と死んでいる者との違いは、まんま、“生きているか死んでいるか”だけであって、人が抱く思いの様相はまったく変わらないのである。 

 震災前の日常生活の中であったら、現地のほとんどの大人たちに無視され、鼻で笑われ、あるいは怖れられ、忌避されたであろう幽霊譚が、震災後の非日常空間では、あたかも「あたりまえ」のことのように語られ、受け取られ、幽霊の存在を誰も疑っても怖がってもいないように見えるのが、非常に印象的である。
 亡くなったあとも死者は生者のそばにいて何ごとかを伝えたがっている、あるいは見守ってくれている――という、日本の庶民の中に昔からある「あの世観」は、今も決して無くなってはいないのだろう。
 それをもっとも教えてくれるエピソードをかいつまんで紹介する。

星空の飾り線


 震災後に問題となったことの一つに、仮設住宅での高齢者の孤独死があった。
 生まれ故郷からも地域のつながりからも隔離された土地に移転させられ、生きる気力を失う高齢者は少なくなかった。
 ある町の仮設住宅でおばあちゃんが亡くなった。
 誰も住んでいないはずの部屋から夜な夜な声や物音が聞こえる。
 町役場の職員が、おばあちゃんの介護をしていたおばちゃんヘルパーと連れ立って、確かめに行った。
 と、やはり部屋から声がする。
 見ると、布団を一枚敷いた上におばあちゃんが座っている。
 恐怖で腰を抜かし声も出せない職員をよそに、おばちゃんヘルパーはいつもの訪問どおりに、おばあちゃんに語りかける。
 「おばあちゃん、どうしたの?」

 おばあちゃんは、いつも身につけていた孫の作ってくれた膝掛けを探していたのであった。それが、他の遺品と一緒に倉庫に保管されなかったのが気になって、毎夜探しに出てきたのである。
 「膝掛けを探して持ってくるよ」というおばちゃんヘルパーの約束で、おばあちゃんは落ち着いて、消えていった。
 行政職員は、ヘルパーに問う。

「どうしてあんなことができたのですか」 
「仕方ないじゃない、相手は死んじゃってても、私の担当だったんだから。今まであれだけしてきたんだもの、仲良かったんだもの、何か言いたいことがあるから出てきているだけで、私たちに何か悪いことをしようとすることもないから」
「でも、お婆さんはもう死んでいるんですよ」
「生きているのよ。津波で死んだ人も、ここで死んだ人も、みんな、心の中だけじゃなくて、町のことが心配でここにいるんだよ。あんたみたいな若い役場の人が、早く街を元に戻してくれないと、お婆さんも他の人も心配であの世に行けないから、がんばんなさいよ」

 おばちゃんヘルパー、凄い。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● トロイの木馬 マンガ:『白い旗』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

 表題作ほか『ブーゲンビル上空涙あり』、『田中頼三』、『特攻』を含む戦記マンガ。
 ラバウルで戦った水木自身の体験や戦死した知人の話、伝聞などがもとになっている。

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 コロナ渦でいろいろと不自由や不安を強いられる現在であるが、齢80を超えるソルティの母親がよく口にするのは、「戦争のときにくらべれば全然マシ」
 食べ物も着る物もなく、いつ何時やって来るか分からないB29による爆撃の恐怖にさらされた子供時代(母は横浜に住んでいた)を思えば、「どうってことない」
 そりゃ、そうだ。
 おまけに、今回のコロナ戦争は、どこか特定の国だけが被害を受けているわけでなしに、全世界が平等に戦渦に巻き込まれている。
 日本だけが、日本人だけが苦しんでいるわけではない。

 あまり大っぴらに言うと不謹慎のそしりを免れないが、「もしコロナがなかったら、日本は今どうなっていただろう?」と想像することがある。
 2020 TOKYOオリンピックが大々的に開催され、(熱中症による死者を多数出しながらも)それなりに成功し、インバウンド効果で経済は活性化し、安倍政権は乗りに乗っていたことだろう。
 「ニッポン、チャ・チャ・チャ」のファッショな空気に乗じて国民投票法は成立し、憲法9条改正は既定路線に入っていたであろう。
 安倍政権の存続を願う世論が形成され、自民党の党則が改正されて党首の任期が現行の3期9年から無期限となり、首相の任期制限がないこの国において安倍政権は10年目に入り、ますます巨大な権力を獲得していたことだろう。
 あたかも中国の習近平国家主席さながらに。
 日本は、日本会議の理想とするところの「戦争ができる美しい国」に向かって、どんどん変えられていったことであろう。
 
 それを思うと、「美しい国」に反対のソルティは、今回のコロナを「100%悪い奴」とは受け取れないのである。(もっとも、今後どうなるかわからないが)

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 それにしても、今回のコロナ戦争においては、強大な軍事力を有し対外的に強い国家ほど状況をうまくコントロールできている、とは言えないところが皮肉である。
 対外戦争に一度も敗けたことのないアメリカは、26万人をも超える死者を出している。(11/28現在)
 すでにベトナム戦争時の死者数5万8千人を上回り、太平洋戦争時の29万人を超えるのも時間の問題であろう。(一番死者数が多いのは南北戦争時の49万人)
 外敵への攻撃には無類の強さを誇る全米だが、内部に侵入した20 nm (ナノミクロン=0.000 000 02 mm)のウイルスにかくもコテンパンにやっつけられるとは!
 ウイルスってのはまさにトロイの木馬だ。
 国民を守りたいのなら、何が本当に必要かつ大切なのかをコロナは教えてくれる。

 しばらく、水木しげるを読んでいきたい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



 


● 最後の一撃 本:『まるで天使のような』(マーガレット・ミラー著)

1962年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『悪意の糸』、『狙った獣』、『殺す風』に続く、4冊目のマーガレット・ミラー。
 もうファンと言ってもいいかもしれない。 

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 タイトルは『ハムレット』に出てくる in action how like an angel 「天使のごとき振る舞い」というセリフから取られている。
 悩める男ハムレットが、「人間」を讃美するモノローグの中の一句である。
 人間の振る舞いを天使のそれに譬えているのだ。
 だから、これはミラーらしい皮肉、ブラックジョークなのだろう。
 本書の登場人物のなかには、殺人者も共犯者も探偵も含め、「天使のごとく」振舞っている人物など見当たらないからだ。
 もっとも、天使が実際どのように振舞うのか、クリスチャンでないソルティは知るところでなかった。

天使


 ミラーの作品の一番の特徴は、いったんページを開いたら、読み終えるまで落ち着かない、ってところにある。
 落ちつかないから、どうしても読み進めてしまう。
 途中で手を止めて、しおりを挟んで「また明日」とするのが難しい。
 文庫で400ページを超える本作も、「速くて二日」くらいのつもりで読み始めたのだが、あっという間に物語に引き込まれてしまい、食事とトイレ時以外は読み続け、結局、数時間で読み上げてしまった。

 『狙った獣』にとりわけ顕著だが、ミラー作品には読む者の精神を不安にさせる要素がある。
 読む者の意識 or 無意識にあるトラウマ、抑圧された欲望や怒り、コンプレックス、狂気、孤独感などの絃を弾き、共振させ、引っ張り出してしまう。
 だから、落ち着かなくなる。
 だから、半世紀以上前に書かれていて、使われているトリックはすでに古びていて、真犯人を見抜くのにたいした苦労や慧眼もいらず、どんでん返しや意外な犯人に驚かされることもなく(ソルティ探偵はトリックも犯人も途中で分かった)、推理小説としては「並」であるにもかかわらず、書店の棚にその名を見れば手に取ってしまうし、寝るのも忘れて読みふけってしまうのだ。

 本作ではしょっぱな、山奥で自給自足の共同生活を送る〈塔〉と呼ばれる新興宗教団体が登場する。
 社会を離れ過去を捨てた信者たちは、〈大師〉と呼ばれるカリスマリーダーのもと独特の教義とルールを守って、ストイックに信仰篤く暮らしている。
 もうこのあたりで、ソルティはミラーの手に捕まってしまった。
 いや、日本人なら誰でも、オウム真理教や統一教会や幸福の科学といった新興宗教団体を思い浮かべざるを得ないだろうし、農業や牧畜を基盤とする人里離れた活動体という点でヤマギシ会を連想する人も少なくないだろう。
 いまの社会のありように疑問や反発を抱きユートピアの創造を夢みる人々、あるいは社会の中で器用に生きることができず居場所を見つけられない人々、あるいは社会や人間関係に絶望し「悟り」や来世に望みをつなぐ人々・・・・そういった人々はこうした宗教団体に引き寄せられて信者となる。あるいはまた、徹底的に人間関係から退いて、“ひきこもり”となる。

 半世紀以上前のミラーの小説がきわめて“今日的”であるのは、現代人および現代社会に関する洞察の鋭さにある。
 ミラーの小説に出てくる人々は、どこか不器用で病んでいる。
 いや、ミラーが人間というものを「どこか不器用で病んでいる」ものと捉えている。
 自らを「どこか不器用で病んでいる」と思っている(たいがいの)読者は、そうした自分をミラーに見抜かれたような気になって落ち着かなくなり、徹夜の罠にはまってしまうのだろう。 

堕天使


 さて、本作には、解説を書いている我孫子武丸言うところの「最後の一撃」が仕掛けられている。
 小説のそれこそ最後の数行でどんでん返しがあって、物語の意味が大きく変わってしまうというものだ。
 安孫子は「最後の一撃」トリックの傑作として、いくつかの洋物ミステリーの名を上げてくれている。クイーン『フランス白粉の謎』、フレッド・カサック『殺人交叉点』、バリンジャー『赤毛の男の妻』など。
 ミステリーと言っていいものかどうか難しいところだが、ソルティは「最後の一撃」トリックの白眉は、本邦の女性作家・乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だと思う。


P.S. 本作にはちょっとした作者(あるいは訳者?)のミスがあるのではないか。犯人のある特徴に関する記述について矛盾が見られる。



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