ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

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 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
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 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

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 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

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 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

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カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

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表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

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 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『なんでもアリの国イギリス なんでもダメの国ニッポン』(山形優子フットマン著)

2012年講談社より『けっこう笑えるイギリス人』の表題で発行
2013年講談社文庫

 ソルティは比較文化論は面白いと思うのだが、ある一国と日本とをくらべて日本のダメなところをあげつらうような本はあまり好きでない。
 とくに、マークス寿子以来、日本とイギリスをくらべて日本および日本人を批判するようなものが多い。
 本書もタイトルからしてその匂いぷんぷんで、借りるつもりはなかったのだが、イギリス人と結婚した在英生活30年の女性が見たイギリスという国およびイギリス人の生態が興味深く、つい借りてしまった。

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 読んでみたら、単純にイギリスを持ち上げ日本を下げているのではでなく、イギリスの良くないところ(不衛生、テロなど暴動が多い、医療システムがうまく機能していない等)、日本の良いところも、しっかりと指摘している。
 とくに衛生観念や医療制度に関しては、このたびの世界各国のコロナ事情で判明した通り、日本人のそれは素晴らしいものがある。「日本に比べて、我が国は・・・・」と憤っている外国人(イギリス人含む)だって決して少なくないはずだ。
 一方で、コロナに感染した人への風当たりの強さには、やはり日本人独特の陰湿さを感じざるを得ないのも事実である。
 いじめや村八分がかくも問題となる背景には、日本社会の同調圧力の強さがある。
 それを「島国根性」と理由付けできないのは、同じ島国であるイギリスでは事情が異なるからである。

 一言で言えば、英国は「人と違う」ことを評価する国だ。そして日本は「人と同じ」ことを評価する国なのだ。
 両方とも島国なのに、まるで正反対なのが愉快だ。でも、どっちが面白いかと言えば、「人と違う」のがたくさんいるほうが面白いし、飽きが来ない。一方、日本のように「人と同じ」ほうが安心と言う人がいるが、とてもそうは思えない。
 人と同じになるためには常に他人をチェックしなければならないし、常に自分が他人と同じかどうか比べて吟味しなければならない。そんなの、疲れるし飽きてしまう。本音がどうなのかわからなくて疑心暗鬼になりそう。
 基準が他人にあるということは、流されるのを前提として初めて成立する。


 ソルティは、物心ついた頃より「自分が周りの男とは違う」という漠たる意識を持っていた。
 それが思春期を迎え、周囲の男女が色気づく頃から徐々に確たるものとなり、「本当の自分」を隠すようになっていった。
 むしろ、本質的に「人と違う」ところ(ゲイセクシュアリティ)を持つがゆえに、それ以外のところでは積極的に「人と同じ」であろうと無駄に骨折ったようにも思う。
 つまり、同調圧力を推進する側に、異端を排斥する側についてしまうのだ。
 結局、それは自己分裂を招かざるを得ないので、20代の終わり頃に破綻してしまった。


破綻


 そこからは、とにかく同調圧力の強い環境(=「人と同じ」ことを求める場)からはできるだけ逃走しようというのが、生きる上での信条となった。 
 組織(とくに大きな)に属することに対する忌避感はそのあたりから来ている。

 ソルティのイギリス愛にはそれなりの根拠があるのだ。
 (濃かった前世の一つというのが一番の理由だと思っているが)



おすすめ度 : ★★

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● B 神父の力量 テレビドラマ:『ブラウン神父の事件簿』シリーズ

2013年~ BBC(英国放送協会)

 ブラウン神父は、言わずと知れた英国作家G.K.チェスタトンが創造した名探偵。
 日本での知名度では、同じ英国探偵のホームズやポワロやミス・マープルに劣るかもしれないが、直観と観察と洞察力を礎とした探偵能力ではおさおさひけをとらない。
 カトリックの神父ならではの犯罪者に対する慈悲に満ちた態度も読みどころである。
 また、物語の雰囲気づくり、読者を驚かすトリックの斬新さの点では、チェスタトンの作品はクリスティを凌駕するものがある。
 ソルティは高校時代に創元推理文庫から出ているシリーズを読破した。
 家のどこかの押し入れの段ボール箱にあるはずだが、もう一度読み直したい。
 ――と思っていたところにレンタルショップで発見したのが、BBC制作のこのシリーズであった。


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 ブラウン神父役のマーク・ウィリアムズは、映画ハリー・ポッターシリーズでロンの父親アーサー・ウィーズリーを演じている身長186センチの巨漢である。
 それだけでも、小柄のブラウン神父には似つかわしくないのだが、そもそもこのシリーズは原作を忠実にドラマ化したものではなかった。
 推理の得意な田舎臭いブラウン神父というキャラクターだけは生かしているものの、物語は毎回オリジナルなのである。
 時代設定も原作より数十年あとの1950年代の農村である。

 それを最初に知ったときは残念な気がした。
 が、観てみるとこれはこれで面白い。
 マーク・ウィリアムズは原作のイメージとは別の個性的なキャラを創り上げているし、50年代の英国の農村の日常風景や階級社会の様相を見るのも楽しい。

 『科捜研の女』がいま大人気であるが、ソルティは最先端の科学工学技術を駆使した犯罪捜査にはあまり興味がない。
 というのもそこにはアマチュア探偵の頭脳を駆使した推理ゲームが入り込む余地がないからだ。
 犯罪現場に落ちていた一本の毛髪や防犯カメラの映像から犯人が割り出される現代の科学捜査が素晴らしいのは間違いないが、ミステリーとしての面白みは欠ける。
 だいたい警察以外の人間が捜査に関わること自体、いまやあり得ないだろう。ホームズやポワロや金田一耕助や明智小五郎に出番はない。
 ソルティは子どもの頃、「大きくなったらホームズのような探偵になりたい」と思って小遣いでルーペを買って、日々観察に励んでいた。
 が、いまの日本の探偵にできるのは夫の浮気の証拠――今となっては妻の不倫の証拠。時代は変わるものだ――を見つけることくらいと知って、落胆したものである。
 といって刑事になりたいとはまったく思わなかったのだが・・・・・。


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河出書房新社より2010年発行
最先端のリアルな犯罪捜査がわかる

 
 ときに、ブラウン神父はたしかに名探偵だが、本職の神父としての力量は残念ながら???である。
 というのも、神父の担当する教区はしょっちゅう殺人事件が発生するたいへん物騒な地域だからである。
 神父自体が死体の発見者となったり、犯人に襲われたりすることもしばしばである。
 ロンドン市内のほうがよっぽど安全。
 ブラウン神父の聖職者としての影響力には疑問を持たざるを得ない。

 このシリーズ、すでに80話以上制作されていて(現在も放映中)、うち50話ほどがDVD化されている。
 ソルティは20話くらいを観たところである。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 本:『徹底比較 ブッダとクリシュナムルティ そのあるがままの教え』(正田大観著)

2018年 コスモス・ライブラリー

 当ブログで紹介したJ.クリシュナムルティ著『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(Can Humanity Change ? )の訳者の一人による、上記書の“続編”あるいは“補完編”といった趣きの本である。
 上記書はその邦題から、ブッダとクリシュナムルティの教えの相違が探究されている本かと期待して購入したのだが、フタを開けてみるとまったくそんなことはなく、肩透かしを食らった。
 とは言え、邦題をつけた者を単純に責められないのは、上記書の主要部分を成す、クリシュナムルティ(以下Kと記す)およびテーラワーダ仏教僧であるワルポラ・ラーフラをはじめとする複数の著名人の対話において、そもそも目論まれていたのはKの教えと仏教との相違の探究であったと思われるからである。
 対話の口火を切るのに、用意万端、ブッダの教えとKの教えの類似点を要領よく並べ上げて指摘し、Kの返答とそこから始まる両者の比較検討を期待していたであろうラーフラに返ってきたのは、「私とブッダを対比する必要がありますか?」という、Kのなんとも素っ気無い言葉であった。
 そこからは、まったく仏教とは関係ないところで話は展開していく。
 ラーフラおよび対話の企画者の目論み及び意気込みは、開始早々、あっさり棄却されてしまったのである。
 その「十倍返し」というわけでもあるまいが、本書において正田が試みたのが、まさに上記書で叶わなかったブッダとKの教えの比較なのである。

 本稿においては、おこがましくもラーフラ師になりかわって、ブッダとクリシュナムルティの教えを比較検討し、その共通点を提示し確認したく思うのである。簡単に言えば、「ブッダとクリシュナムルティの比較思想論」を試みるわけだ。

 ブッダとクリシュナムルティが同じことを言っているのであれば、それは、真理が一つであることを意味している。真理は一つであり、一つしかない真理を発見したので、言ってることが同じになった、という理解。・・・・(中略)・・・・この前提をもとに、クリシュナムルティの言葉を参照しつつ、ブッダの教えを再構成するのが、本書の進み行きとなる。

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 著者は、「無常、苦、無我、あるがまま、いまここ、からっぽ、貪欲、憤怒、迷妄、条件づけ、快楽、恐怖、二元性、思考、妄想、依存、見解、既知、無執着、気づき、智慧、解脱、遠離独存、涅槃寂静」の24のテーマについて、およびその他10の小テーマについて、両者の言説を引用し、比較検討している。
 引用の出典に選ばれたのは、ブッダの言葉については『阿含経典』の中でも最も古い教典とされている『スッタニパータ』と『ダンマパダ』であり、Kの言葉についてはその著書『四季の瞑想――クリシュナムルティの一日一話』(コスモス・ライブラリーより邦訳刊行)である。
 もちろん、単に両者の教えを比べて共通点を指摘して良しとするのみでなく、読む者にたびたび自己覚知をうながし、真理とは何かを一緒に探求することを呼びかけている。
 野心的な試みと言えよう。
 
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 結論から言うと、ブッダとKの教えはほとんど同じであり、真理は一つであることが証明されている。
 予期していた通りではあるが、このように一つ一つテーマごとに徹底比較されると、両者は用いる言葉や表現さえ異なれど、呼応するように同じポイントをついていることが明らかとなる。
 たとえば、「思考」についての言説をみると、
 
ブッダ : 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、浄美の随観者に、渇愛(の思い)は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。
 しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄(の表象)(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、(貪欲の)終焉を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。(ダンマパダ349~50)
 
K : 悲しみの終焉を理解したい人は、この思考する者と思考、経験する者と経験されるものという二分性を理解し、見出し、乗り超えていかねばなりません。つまり、観察する者と観察されるものの間に分裂があると、時間が起こり、故に悲しみは終わらない、ということです。(中略)観察する者、思考する者とは言うまでもなく、思考の産物であります。思考がまず最初に来るのです。観察する者や思考する者ではありません。思考がまったく存在しなければ、観察する者も思考する者も存在しないことでしょう。そうすると、完璧で全面的な注意だけが存在するのです。(『四季の瞑想』238ページ)

 正田が述べている通り、2500年前のブッダの簡略な言葉――当時は筆記文化がなかったので教えは暗誦できるように簡略化・韻文化せざるをえなかった――が、20世紀の英国で高等教育を受けたKの明晰かつ論理的な文章により、より説得力を持って深いレベルで解釈されつつ再構成される、という現象が起きている。
 あたかもKが、ブッダの教えを現代語に翻訳して解説してくれている、かのような印象を受ける。
 いささか残念なのは、比較に使用された『スッタニパータ』と『ダンマパダ』の和訳がわかりづらい。正田自身による訳のようだが、ここはたとえば岩波文庫の中村元の訳をそのまま使用したほうが良かったと思う。たとえば、上の文の「浄美の随観者」、「不浄想」ってなんぞや?


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 さて、ブッダとKの教えがほとんど同じなのは分かった。
 しかし、やはり気になるのは、むしろ両者の違いであり、その理由である。
 その意味で、本書で一番興味が引かれたのは、両者の違いについて触れている「あとがき」であった。
 正田は、ブッダとKの大きな違いとして、①組織をつくることの是非、②セックスに対するスタンス、の二つを挙げている。これに、③悟りへの道を説くことの是非、を加えれば完璧になると思う。
 
 言うまでもなく、ブッダは出家者の集まりであるサンガを作り、それを重視した。仏・法・僧(ブッダと仏法とサンガ)は仏教の三つの宝である。
 一方、Kは自らを長とする裕福な組織(星の教団)をその手で解散してしまったことからも分かるように、生涯、組織には反対だった。組織は必ず腐敗につながる、個人を真理へ導かないと言ってはばからなかった。
 この両者の違いを、2500年前と現代との「伝達手段」の違いの観点から考察した正田の意見がうがっている。
 オーディオ機器はもちろん筆記文化がなかった2500年前のインドでは教えを伝えるには、口承に頼るしかなかった。ゆえに組織が必要だった。一方、Kの教えは、組織に頼らずとも、本やテープレコーダーやラジオやテレビなどで記録保存され、後世に伝えられる。この違いは大きい。
 たしかに、サンガがなかったならば、仏滅後の結集がなかったならば、われわれが今ブッダの教えを学ぶことは不可能だったろう。組織あってこそ、である。
 
 次にセックスについて。
 ブッダの基本姿勢は「禁欲」であった。出家者はむろんセックスNG、オナニーNG、恋愛NGである。在家に対しても、五戒に見られるように、「みだらな性行為」を戒めた。この「みだらな性行為」の定義が難しいが、基本、結婚(あるいは婚約)している者同士のセックス以外はご法度ってところであろう。不倫などもってのほかである。(ただしブッダは不倫は良くないとしたが、不倫した在家者を責めたり裁いたりすることはなかったと思う)
 一方のKであるが、ソルティの(読書)記憶によれば、若い頃はセックスに対してブッダ同様の厳しい態度を見せていたように思う。途中から、態度が軟化し(?)、逆に禁欲主義を批判する言辞が現れるようになったのではなかったか? セックスすること自体はNGとせず、セックスを“問題”としてしまう「思考のありかた」を問題とみたのである。
 
 僧侶や聖職者の偽善的あり方に厳しかったKは、セックスの問題に関しても、同様の偽善を指摘する。抑圧的禁欲の愚かさとその矛盾。表と裏を使い分けて外見を取り繕うあり方は、たしかに、聖なるものとは言い難い。
 
 ブッダも、Kも、淫欲の害毒については、同じ認識を持っていたと言えるだろう。あくまでも心理的な遠離独存を説いたKにたいし、ブッダの場合、出家修行者に限ってではあるが、肉体的な禁欲を厳命したところが相違点となる。
 
 セックスの問題に対するKの答えは、愛とは非難が全く存在しない状態のこと、セックスがいいとか悪いとか、これはいいけれど他のものは悪いと言わない状態のことです、となる。問題を問題としない、全的なあり方。妄想に起因する矛盾が生じない、葛藤なき状態。情熱と鋭敏さ。そして、気づき。愛とは確かに情熱なのです、と喝破する、Kの言葉をかみしめたい。
 
 正田は、この件に関する両者の違いの様相については十分明らかにしているが、その理由については突っ込んでいない。
 問題が問題だけに――と「問題化」してしまうのが問題、とKなら言うところだろうが――簡単には論じることのできないテーマではある。
 さらに、正田も記している通り、Kには最近になって「不倫スキャンダル」が勃発した。親友で長年の仕事上のパートナーであった男(ラージャゴパル)の妻と、隠れて付き合っていた、しかも自分の子を二度も堕胎させていた――というものである。
 これがどこまで本当なのか、完全にでっち上げなのか、真相はいまのところ藪の中である。
 ソルティは、このニュースを聞いたときに、Kがセックスに対して途中から寛容になった背景はここにあったのかも・・・・・と率直に思った。自分が普段やっていることを、他人に「やるな」とは言えないだろう。
 が、不倫や堕胎はどうなのだろう? もし、この噂が本当なら、Kはまさに「偽善者」であり、「聖なるものとは言い難い」ように思えるが・・・・・。
 
 愚考をさらす。
 ブッダとKのセックスに関するスタンスの違いを作った原因の一つは、それこそ両者の若い時分の性愛体験の差にあるのではなかろうか?
 ブッダは、釈迦国の王子であった青年時代に「好きなだけヤリまくった」はずである。それこそ国中から選ばれし美女たちが宮中至るところに待ち構え、オナニーなんて覚える暇もなかったかもしれない。さまざまな恋も経験済みだったろう。いわば、釈迦国の光源氏。
 三十路で出家したときにはもう、「セックスも恋愛ももう十分です」の域に達していたのではなかろうか。性愛の「快」の底に潜む「苦」を徹底的に味わい尽くしていたのではなかろうか。人を無明の闇に突き落としてしまう愛欲の怖さを十二分に知り尽くしていたのではなかろうか。いや、その達観のさきにある虚しさが、出家を後押しした可能性も考えられなくはない。
 一方のKは、はじめて女性と関係を持ったのは三十路を過ぎてからという話で、そのときにはすでに
「悟りを開いた聖者」として周囲から遇され、その教えを広めていた。
  
 Kが言うところの、飛ぶ鳥が跡を残さないような「問題化」しないセックスならOK、と言えば聞こえはいいが、そんな簡単なものではなかろう。
 セックスにはどうしたって相手が必要だし、相手との関係が生じざるを得ないし、妊娠や性病をもらう可能性だってある。自分一人が悟っていたところで、悟っていない相手と深く関わればどうしたって問題は生じ得る。
 よもやKは「サクッと風俗」を勧めているわけではあるまい。
 
 性と宗教――このテーマは一筋縄ではいかないので、ここまでにしよう。
 
秩父巡礼4~5日 170
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『幽霊はお見通し』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著発行
2016年創元推理文庫

 ウィザースプーン警部補の屋敷で働く使用人たちの活躍を描く「家政婦は名探偵シリーズ」第3弾。 
 今回は、19世紀英国ならではのスピリチュアルな趣向、すなわち交霊会が主要舞台の一つとなり、楽しさアップである。
 隠密探偵チームの個性的な面々の性格や癖を熟知し、各々に役割を与え、自信を持たせ、口論になるところを上手になだめ、前向きな空気を作る、リーダーとしてのジェフリー夫人の見事な手綱さばきも読みどころである。

 

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おすすめ度 : ★★

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● ワープ解脱法? 本 : 『道元の考えたこと』(田上太秀著)

1985年講談社より『道元のいいたかったこと』の題名で刊行
2001年講談社学術文庫

 道元の教え=曹洞宗については気になっていた。
 「只管打坐」、「修証一如」という言葉からは、よけいな夾雑物を排したすっきりした信仰の形が察しられるし、坐禅=瞑想を重視するところはお釈迦様本来の教えと合致する。
 念仏や読経や祈願や苦行や儀式・典礼をもっぱらとする他の大乗仏教宗派とは位相が異なる感があった。

 おそらく、道元の教えを知るには徹底的に坐禅するに如くはあるまい。
 が、道元の達した境地なり真理なりに坐禅によって到達するのは在家では難しそうであるし、たとえ何らかの智慧や真理を会得したとしても、それが道元のそれと同じものなのかどうか分からない。
 となると、道元の主著である『正法眼蔵』を読むのがやはり最善の策であろう。

 ―――と思って図書館で借りてはみたものの、これがなかなか読みこなせる代物ではなかった。
 量の膨大さはともかく、言葉が、文章が、内容が、難しすぎる!
 高度と言いたいところだが、残念ながら、高度かどうか判断できるまで読み進めるのさえ困難である。 
 あきらめて返却し、次善の策によった。
 仏教研究者による解説本である。


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 田上太秀は同じ講談社から『仏陀のいいたかったこと』(1983年)という名著を出している。
 20年くらい前にソルティは、大乗仏教でぐちゃぐちゃにされたものでない、お釈迦様本来の教えを知りたいと思い本屋で見つけたのが、上記の田上の著書および宮本啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫、1998年発行)であった。


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 この2冊によってソルティのそれまで持っていた仏教観は大いに変わった。
 「どうやら生まれてからずっと自分が馴染んできた日本の仏教というものは、日本独特の特異なものらしい」と知ったのである。 
 その後、10年くらい前にテーラワーダ仏教を知って、最も古いお経の集成である『阿含経典』を基盤とするお釈迦様の教えを学ぶようになった。
 そのとき、田上の書いていたことが正確であったことを改めて知った。
 つまり、ソルティにとって信用のおける仏教研究者の一人である。
 そこで、田上の描いた道元を手掛かりとすることにした。

 まず、ソルティの持っていた道元のイメージであるが、「坐禅を極めた人」、「永平寺に見られるように規律に厳しいストイックな人」、「庶民派の親鸞とは真逆で、ブルジョアの人(実際に大臣家の生まれである)」、「映画『ZEN 禅』で道元を演じた中村勘太郎のような清僧」といったところであった。
 本書を読んで、イメージ崩壊というほどのものではないものの、ずいぶん想像していた人物とは違っていた。

 田上は、道元の教えの概要を語るのに、各章を「〇〇への信仰」と題し、道元が信仰していたものを順に並べあげ、『正法眼蔵』を中心とする道元の著作の記述をもとに各テーマについて考察し、解説している。
 坐禅への信仰、礼拝への信仰、滅罪の信仰、本願の信仰、宿善の信仰、出家至上の信仰、輪廻業報の信仰・・・・・というように。
 これらの信仰を持っていた一人の修行者にして導師――としての道元の姿が浮かび上がる構成になっている。
 いわば多角的に見た道元像である。
 「まえがき」でこう述べている。

 いままでの道元観は正面から見たものであったと思う。譬えていえば玄関から道元を訪問して、座敷で面会したといえよう。だが筆者は勝手口から訪ね、居間に邪魔して道元に面会し、本音を聞き出そうとつとめた。


 まず、最初の「坐禅への信仰」については、

 インドからわが国に伝わったのは坐仏が伝わったのであり、これこそ大事な要であり、あるいは命脈であると道元は力説する。坐禅のあるところには必ず仏法があり、仏法があるところには必ず坐禅があり、仏祖から仏祖へと受け継がれたのはただ一つ坐禅の宗旨であると断言した。

 ソルティのイメージ通りの道元であり、「坐禅によって何が得られるのか、何を悟るのか」は置いといて、目新しいことはない。
 が、袈裟や経典や嗣書(師から弟子への仏法の系譜の記録)などに対する礼拝への信仰や、5つの滅罪方法(洗浄、懺悔、袈裟功徳、帰依、霊場巡礼)に対する信仰などは、読んでいて形式的・迷信的という印象しかなく、「やっぱり道元も時代の制約からは逃れられなかったのか」と思わざるを得ない。
 しかも、これらの信仰こそが正伝、すなわち本来の正しい仏法であると明言するに至っては・・・・。

 袈裟を頂戴する作法こそ、礼拝の最高の作法である。道元は仏祖から正伝した仏法の一つに袈裟を挙げた。したがって袈裟に対する礼拝をきびしく弟子たちに教えた。

 (道元は)袈裟をつけないで解脱した人はいないと断言している。たとえ戯れて笑いながら、あるいは御利益があろうと思いながら袈裟を肩に掛けたとしても、かならず悟りを得る因縁となるという。

袈裟来た少女


 また、本願の信仰について、田上はこう指摘する。

 親鸞と道元のそれぞれの本願力信仰の違いは、本尊を阿弥陀仏にするか、釈迦牟尼仏にするかの違いであって、本質的には同じではないかと思う。ただ一つ相違点をあえて挙げると、すがろうとする私が自分自身を愚夫と自覚するか(ソルティ注:親鸞)、宿善根に導かれていると自覚するか(同:道元)の違いであろう。

 坐禅をほかにして仏道はない。坐禅すれば立ち所に仏道が成就するという信仰は、坐禅が釈尊の大本願力に助けられて行われるという信仰に裏付けられていると考えられる。


 ソルティは、道元(曹洞宗)の坐禅は、悟りを感得するための自力による修行だとばかり思っていた。
 別に他力が悪いとか、他力は自力に劣るとかまったく思っていないけれど、勘違いしていたらしい。

 本書を読んで、ソルティの道元像に幅がもたらされた。
 思ったよりも親鸞に近い。
 つまり、「信仰の人」という気がした。
 一方、本書を読んでも、残念ながら、坐禅によって道元の至った境地がわからなかった。
 そこは「不立文字」とするしかないのか。
 「不思量底を思量せよ」とか言われても何のことやら・・・・。

 道元もまた、空海や高丘親王日蓮ら我が国の錚々たる名僧たち同様、真の仏法のなんたるかを終生求め続けたと思われる。
 中国から伝えられたおびただしい数の大乗経典のうち、どれがお釈迦様の教えの核なのか、どうすれば悟りに近づけるのか、あるいは極楽往生できるのか、迷いあぐねたに違いない。
 『西遊記』の三蔵法師に象徴されるように、真の仏法を求める求道者たちの熱望と苦心惨憺たるさまは、ネット時代の我々の想像の及ぶところではない。

 『阿含経典』では、「諸行無常」、「諸法無我」、「一切行苦」という明らかなる真理(=仏法)が明示されている。「不立文字」と言う前に、語られるべき、語ることのできる真理はあると思う。
 また、「修証一如」や「不思量云々」に飛躍する前に、四諦や八正道や瞑想法などの方法論がお釈迦様によって懇切丁寧に説かれている。
 少なくとも本書を読む限りにおいては、これらのお釈迦様本来の教え(=仏法)が触れられていない。
 あたかも、道元は、「袈裟を着て坐禅したら釈迦牟尼仏の助けで自動的に涅槃へ至る」いわば“ワープ解脱”を期待していたかに見える。(それをこそ「本覚思想」というのだろうか?)

 道元の頭のなかは、本当はどれが正しい仏法であり、修行の作法であるかを見極めることに困惑したものと推察される。正伝の正法と力説するあまりに、その「正しい」と選択する基準をなにに求めればよいか、かれ自身、最後までわからなかったのではないか。

 たとえ、釈迦本来の教え(=正法)にぴったり適合しないものであったとしても、道元の教えが素晴らしければ、そして悟る機縁をもたらすのであれば、それはそれで問題ないと思う。
 ただ、『阿含経典』をもっとも古い、仏説に近いお経として知って学ぶことのできる現代日本人は、なんと幸せなのだろうか。

 別の書き手による、「勝手口」からではない「玄関」からの道元像にもあたってみよう。
 

道元
中村勘太郎にはまったく似ず



おすすめ度 : ★★★

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● 本:『消えたメイドと空き家の死体』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第2弾。 
 タイトルのつけ方がうまい。
 原題は、Mrs. Jeffries Dusts for Clues 「ジェフリー夫人は手がかりの塵をはらう」だが、邦題のほうが内容がわかりやすく、いかにも気楽なミステリーっぽい印象で、そそられる。

 カバーイラストは砂原弘治の手によるが、これまたポップでほのぼのして良い。

 退屈しのぎになる、かつ肩の凝らないミステリーって貴重だ。
 入院時にこのシリーズを知っていたらなあ~。

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おすすめ度 :★★ 

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● 英国貴族の斜陽 本:『回想のブライズヘッド』(イーヴリン・ウォー著)

1945年原著刊行
2009年岩波文庫(小野寺健訳)

 第一次大戦前の英国上流階級の一家の物語である。
 美しく広大な荘園ブライズヘッドに建つ、贅を凝らした壮麗なマナーハウス(邸宅)。
 生活のためにあくせくと働くこともなく、社交や旅行や恋愛や趣味道楽にうつつを抜かす貴顕たち。
 名門オクスフォード大学の寮生活でのボーイズラヴ。
 TVドラマ『ダウントン・アビー』やE.M.フォスターの描く世界と同様、ソルティのハートを鷲づかみにする要素のオンパレード。
 上下巻をむさぼるように読んだ。
 イーヴリン・ウォーの本はこれがはじめて。

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 副題に「チャールズ・ライダー大尉の信仰と俗生活と、二つの人生にかかわる思い出」とあるように、中年になったライダーが、第二次大戦中の軍の移動でたまたまブライズヘッドを訪れたことがきっかけとなって、過ぎ去った青春の日々の回想が始まるという構成。
 語り手はライダーである。

 宗教の問題や隠された同性愛テーマやアルコール依存症の問題などはあるが、あまり難しいことは考えずに、英国の古き良き時代の最後の輝きと終焉、それに重奏するように回想される甘く切なくほろ苦い青春の輝きとその終焉の物語を、楽しむのがよかろう。
 落日の美しさは、言葉で語るものではなく、ただ眺めるものである。

 この物語は2008年にマシュー・グッド、ベン・ウィショー共演で映画化され、『情愛と友情』のタイトルでDVD化されているらしい。
 探してみよう。

 それにしても、ここ最近、妙にイギリスづいているなあ~。




おすすめ度 : ★★★★

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● 本:『家政婦は名探偵』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著刊行
2015年創元推理文庫

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 家政婦と言ったって市原悦子とは違う。
 お屋敷の元締め、使用人たちの長であるハウスキーパー。
 男の執事と並ぶ、古き良き英国ヴィクトリア朝の点景の一つである。

 ジェフリーズ夫人は、ロンドン警視庁のウィザースプーン警部補に仕える有能な家政婦。
 50がらみの未亡人である。
 彼女の特技は探偵。
 ウィザースプーンの抱える難事件を、本人に知られぬよう陰に回って捜査し、見事解決に導いてしまう。
 もちろん、ご主人に手柄をもたせるのを忘れない。
 というのも、このご主人、とびきり善人だけれど、捜査能力はほぼ皆無なのであった。
 そのうち、他の使用人たち――ハウスメイド、従僕、料理人、馭者もジェフリーズ夫人の意図を汲んで協力するようになり、“ワンチーム”が出来上がる。

 ―――という、肩の凝らない楽しいミステリー。
 著者はイギリス人かと思えば、そうでなく、1948年生まれのアメリカ人女性。
 個性的なキャラたちの巻き起こす愉快な騒動を描いたこのシリーズ、なんとすでに38巻も刊行されている。
 邦訳は4巻まで出ているようだ。
 しばらくは楽しめる。



おすすめ度 : ★★★

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● メルヴィルと三島 本:『ビリー・バッド』(ハーマン・メルヴィル著)

1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




おすすめ度 : ★★★★★

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● 10の根深き本能 本:『ファクトフルネス』(ハンス・ロリング、オーラ・ロリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著) 

2018年原著刊行
2019年日経BP社より邦訳

 主著者のハンス・ロリング(1948-2017)は、スウェーデンの医師、公衆衛生専門家。
 本書執筆を終えた後にすい臓癌で亡くなった。
 共著者は、息子とその妻である。

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 副題に「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」とある通り、現在ではネットで誰もが閲覧・取得できる、科学的方法により得られた統計データに基づいた、世界のありのままの姿が描き出される。
 たとえば、本書冒頭で著者は世界に関する13のクイズを読者に呈示する。
 ピックアップすると、

● 世界の人口のうち極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
A 2倍になった
B あまり変わっていない
C 半分になった

● 世界の平均寿命は現在およそ何歳でしょう?
A 50歳
B 60歳
C 70歳

● 世界中の一歳の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

● いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

 正解はここでは記さないが、ソルティは4つとも間違った。
 全13問のうち当たったのは3問のみ。
 チンパンジーより悪い成績だ。(三択なので、デタラメに選んでも的中率は33.3%になる)
 いずれの場合も、現実のデータが示すものより悲観的でネガティブな答えを選んでいた。
 つまり、自らの主観的な思い込みで、世界を実際以上に悪いものと捉えていたのである。

 ひとつ安堵したのは、チンパンジーに負けたのはソルティだけではなかった。
 著者ハンス・ロリングは世界中の講演先でこのクイズを様々な対象に実施してきたが、チンパンジーより正答率が高かった者はほとんどいなかったという。

 なぜ、一般市民から高学歴の専門家までが、クイズでチンパンジーに負けるのか。知識不足を解決する方法はあるのか。何年もの間、事実に基づく世界の見方を教え、目の前の事実を誤認する人を観察し、そこから学んだことを一冊にまとめたのがこの本だ。
 あなたは次のような先入観を持っていないだろうか。
「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももう尽きてしまう」
 
 持っている、持っている。
 加えて言えば、「核による人類破滅の脅威は刻々迫っており、新型コロナウイルスのような未知のウイルスや細菌の発生による人口淘汰は容赦なく、富士山は近い将来大爆発して首都圏を灰の海と化し、少子高齢化と不況により年金制度は崩壊し多数の高齢者が路頭に迷うことになり、UFOの目撃多発は宇宙人の地球侵略が近いことを示しており、・・・・・・」

 ひとつ言い訳をさせてもらえば、メディアの流す情報が悪いもの、ネガティヴなものばかりで、幼い頃からテレビやラジオや新聞やネットなどでそれらの砲弾を絶え間なく浴び続けてきたため、洗脳されてしまっているからだ。
「世界は危険に満ちている」
「世界には、日本には、解決しなければならない問題が山ほどある」
「今のうちに何とかしないと、将来大変なことになる」
 こういった見方――著者がいうところの「ドラマチックすぎる世界の見方」を、知らず身につけてしまっているのだ。

 そしてまた、一度身につけた知識がなかなかアップデートされないこともある。
 数十年前に学校で習い覚えたことがいまでも通用すると思ったら、大間違いである。
 たとえば、日本最初の貨幣は「和同開珎」でなく「富本銭」で、大化の改新は「645年」でなく「646年」で、遣唐使は「廃止」でなく「中止」で、鎌倉幕府の成立は「1192年」でなく「1185年」で、冥王星はもはや「惑星」の一つではなく、哺乳類は爬虫類から進化したのではなく、富士山は「休火山」でなく「活火山」である。
 平成以降の教科書を持つ子供と接点のないソルティ、最近まで知らなかった。

 数十年前の印象では、世界は西洋や日本など一握りの先進国と多数の発展途上国に分かれ、途上国では、「水道や電気の引かれていない未開の地が多く、人々は地べたに直接寝て、食べ物がなく予防接種も受けられない幼い子供はバタバタ死んでおり、それゆえ女性は生涯たくさんの子を産まなければならず、貧乏人や女性の教育機会や政治参加機会は奪われ、平均寿命が極端に低い」
 それは決して間違いではなかった。
 が、数十年前の話である。
 むろん、紛争地域や独裁政権国家など一部の国では、外からの支援の手が入らず開発が進まず、数十年前のまま時が止まって、上記のように悲惨な状態のままのところもある。
 しかし、それを全体に当てはめるのは正しくないのである。
 ニュース番組などで流される難民キャンプなどの情景、あるいは街頭でアウトリーチ活動中の国際NGOから手渡される「現地の人」の生活実態が悲惨で、強烈な印象が残るので、なんとなく途上国ではいまだに・・・・というイメージが払拭されていなかった。
 日々接する情報が個人の意識や思考に与える影響は大きい。

 だが、ハンスは言う。

 「ドラマチックすぎる世界の見方」をしてしまうのは、知識のアップデートを怠っているからではない。最新の情報にアクセスできる人たちでさえ同じ罠にはまってしまうのだ。また、悪徳メディア、プロパガンダ、フェイクニュース、低質な情報のせいでもない。
 わたしは何十年も講義やクイズを行い、人々が目の前にある事実を間違って解釈するさまを見聞きしてきた。その経験から言えるのは、「ドラマチックすぎる世界の見方」を変えるのはとても難しいということ。そして、その原因は脳の機能にあるということだ。

 本書の一番の特徴にしてすぐれた点は、どのような脳の機能(=本能)によって、「ドラマチックすぎる世界の見方」を我々がつい行ってしまうのかを明らかにしたところである。

 以下の10の本能を原因として挙げて、ひとつひとつを説明し分析している。

      1. 分断本能   ・・・「世界は分断されている」という思い込み
      2. ネガティヴ本能・・・「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
      3. 直線本能   ・・・「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
      4. 恐怖本能   ・・・危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
      5. 過大視本能  ・・・「目の前の数字が一番重要だ」という思い込み
      6. パターン化本能・・・「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
      7. 宿命本能   ・・・「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
      8. 単純化本能  ・・・「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
      9. 犯人捜し本能 ・・・「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
      10. 焦り本能   ・・・「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 社会全体を見ても、身の回りを見ても、なにより自分自身を振り返っても、「確かにそうだよなあ」、「その傾向(本能)あるよなあ」と思うことしきりである。
 とりわけ、今のコロナ禍における世の人々のありさまに、上記の10の本能のいくつかを見出すことはとても容易である。
 あちこちで起きている感染者バッシングの様を見ていると、日本人はとくに「犯人捜し本能」が強いのではないか、と思われる(――と断定するのはまさに「パターン化本能」のなせるわざか)

 10の本能に毒されずに客観データに基づいて世界をありのままに見たとき、

「世界はあなたが思っているより悪いところでも危険なところでもないし、悪くなってもいない。むしろ、歴史を通じて良くなってきている」

という結論に導かれる。
 不安が軽減され、精神衛生上こんなに良いことはない。
 その結論がなかなか受け入れ難いのならば、その理由を自らにまず問いかけるべきなのだろう。
 訳者の一人(関美和)はあとがきに、こう記している。

 この本が世の中に残る一冊になるだろうと考える理由は、この本の教えが「世界の姿」だけではなく「自分の姿」を見せてくれるからです。知識不足で傲慢な自分、焦って間違った判断をしてしまう自分、他人をステレオタイプにはめてしまう自分、誰かを責めたくなってしまう自分。そんな自分に気づかせてくれ、少しだけ「待てよ、これは例の本能では?」とブレーキをかける役に立ってくれるのが、ファクトフルネスなのでしょう。


 思い込みや主観の囚われから自らを解放したいと願う人におススメしたい本である。


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おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 言いも言ったり! 本:『お寺の収支報告書』(橋本英樹著)

2014年祥伝社

 「歯にきぬ着せぬ」という表現がこれほどピッタリな人も珍しい。
 既存の(伝統的な)お寺制度の問題点や弊害を、何ら忖度なしに赤裸々に暴き出し、鋭く批判している。
 現役の住職だからこそできる内幕暴露の数々に、「ここまで言っちゃって大丈夫? 本山(永平寺)からお咎めない?」と心配になるほどである。
 が、返す刀をおのれに向けることも怠らず、自身の寺の内情も包み隠さず晒け出している。
 タイトルどおり、自院(曹洞宗見性院)の収支報告書、財産目録を紙面に上げ、使途不明金や不正収入の無きことを証明する。
 お坊さんだからというわけでないが、「ブッダに握拳なし」だ。


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 現状把握と分析、問題意識の高さ、世相の読み、理論武装もしっかりしている。
 こんなお坊さんの法話を目の前で聞いたら、説得されてしまいそう。
 たいした論客ぶりである。

 さらに、行動力もある。
 お寺の抱える問題点を分析し、その根っこが江戸時代から続く旧態依然たる寺檀制度にあると認識するや、自らの寺の檀家制度を廃止してしまう。
 なかなかできることではない。
 さらに、葬式をお寺の本堂で執り行い、石材業者と直接取引して中間マージンをなくし墓石代を安くし、宗派にこだわらず受け入れる墓地をつくり・・・・・、次々と新基軸を打ち出す。
 使命感あふれる革命家であり、先見の明ある起業家であり、数字に明るい事業家でもある。

 こんな人がお坊さんしているなんてもったいない。
 ぜひ政治の場で活躍してほしい。地元の熊谷市とは言わず県政あるいは国政の場で――とつい思ってしまうが、いやいや、こんな人こそ今の日本の仏教界には必要なのであろう。
 橋本英樹は1965年埼玉県生れの曹洞宗僧侶。

 葬式仏教の問題点、差別的な戒名制度(被差別部落の故人につけられた「差別戒名」とはまた違う)、墓地や墓石の販売の不透明性、お寺が拝観料を取ることの是非、寺檀制度の弊害、不合理な本末制度、お寺非課税の意味・・・・・。
 既存の制度がもたらす既得権の上にあぐらをかいてきたお寺の腐敗の実態や、お寺離れが急速に進む現在、生き残りをかけてえげつなさをさらに増しているお寺のケツまくりぶりが明かされる。
 たとえば、離檀料。
 こんなものがあるなんて知らなかった。
 檀家をやめる際、つまりお寺にある先祖代々のお墓をよそに移す際に、お寺から請求されるお金(名目はお布施ということになっている)のことである。
 これでは信教の自由もへったくれもない。
 檀家をやめたり、よそに墓を移すことを妨げることから、人質ならぬ「墓質」という言葉もあるそうだ。
 
 橋本の「言いも言ったり」な発言の一部をお目にかけよう。

 宗教にせよ、教職にせよ、行政にせよ、その内情を知らない外部の人からみれば、浮世離れした世界です。知らないからこそ、夢のようなものを感じさせます。
 ところが、こういったところは往々にして、「特権意識が強い人」のふきだまりでもあります。また、社会的に成熟した人が極度に少ないというのが、共通した特徴です。既得の権益、なれあい社会を守るために、外部から乗りこんできた人を異常に警戒します。新参者が、少しでも改革の意識を口にしようものなら、そういった連中がいっせいに妨害してきます。そして、つぶしにかかります。

 いまの仏教界を堕落させているのは、お布施の強要を前提とした寺檀制度と、固定化された本末制度です。この二つの制度がなくなれば、日本の仏教はずいぶん風通しがよくなります。

 世の宗教指導者たちは、純然たる経済行為が非課税であることの意味をかみしめて、その感謝を信徒や社会の幸福に向けて、奉仕すべきではないでしょうか。
 ところが、宗教法人への課税が話題にのぼるだけで、「宗教弾圧だ」と過剰に反応してしまいます。こういったものは、真っ当な主張ではなく、ただの強欲な心のあらわれであるということを自覚しましょう。

 日本人は強いコミュニティ、地縁や血縁といったものを長く守ってきましたので、そこに寺檀制度がすっぽりハマったのでしょう。その瞬間に「葬式仏教」のもとができあがったのですが、表現を変えれば、「葬式仏教」になるしか、ほとんどのお寺には生きる道がなかったのです。これがなければ、日本の大多数の仏教寺院は、廃絶していたにちがいありません。
 よく、「日本人はいつ信仰心や、宗教に対する忠誠心を失ったのか」と大上段から論じる人がいますが、「そんなものは、はじめからなかった」と考えるべきでしょう。ですから、いますぐ自由になって、どういった信仰をするか(あるいは信仰をしないか)を自分の意志で決めなくてはならないということなのです。

 ソルティも著者同様、既存のお寺制度には多々問題があるとは思うものの、お寺そのものがなくなってもかまわないなんて、もちろん思わない。
 いつでも好きなときにふらっと立ち寄れて、香の立ちこめる静かなお堂で仏像を拝み、好きなお経を詠み、気の済むまで瞑想できて、緑水豊かな境内を散歩できて、たまにはありがたい法話も聞けて、スマホやテレビや俗事や厄介な人間関係から逃避できるオアシスが、最寄りにあったらいいのに・・・・・といつも思っている。
 座禅会とかいって日取りを決めなくても、いつ行っても独り座れるのが精舎というものだろう。
 ソルティは純粋な大乗仏教の徒とは言えないかもしれないが、そのような場を維持するためなら、協力を惜しまないものである。

 患者が自分に合った主治医を選ぶように、これからは仏教を愛する一人一人が、自分に合ったお寺とお坊さんを選んでいく時代なのだろう。 
 そのうち見性院には行ってみたい。



秩父長泉院
秩父観音札所第第29番長泉院
秩父札所には心落ち着かせる良いお寺が多い
四国札所には決してひけをとらない



  
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 同行三人 本:『山頭火と四国遍路』(写真と文・横山良一)

2003年平凡社

 松山の道後温泉近くで、種田山頭火(1882-1940)が晩年を過ごした家(一草庵)を見たとき、はじめて山頭火と四国との縁を知った。
 考えてみれば、「分け入っても分け入っても青い山」の句で知られるこの漂泊の俳人が、四国遍路をしていないはずがなかった。

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 本書によれば、山頭火は大正14年(1925年)に曹洞宗で出家得度した翌年から、九州各地、山陰、山陽、四国、東北と、放浪の旅を重ねるようになった。
 雲水として鉢を持って行乞し、米や銭の喜捨を受ける。俳人として自然の中を歩き、句を作り続ける。そんな旅である。
 ストイックな男とも言いづらいのは、旅中はもちろん、一草庵で58歳の生涯を終える最後の最後まで、酒はきれなかった点である。
 女についてはわからない。(27歳で結婚、34歳で離婚している)
 46歳のときに四国88カ所札所を巡礼し、結願している。
 最後の旅もまた四国遍路であった。

 本書は、この最後の四国遍路の模様を、山頭火自身の残した遍路日記をもとに実際に山頭火が歩いた行程をたどりながら、写真と文とで描き出している。
 著者の横山良一は1950年生まれの写真家で、世界各国を旅して写真を撮り続けている。
 昭和14年の山頭火の四国と、平成12年の横山の四国と、そして平成30年のソルティの四国とが、オーバーラップする面白さがあった。

 昭和14年の四国遍路のきびしさはいかほどのものだったろう?
 舗装路がほとんどなく、峠を回避できるトンネルも少なく、道しるべも少なく、遍路小屋も宿も今よりずっと少なかったであろう。
 まして、山頭火のように、路銀を行乞でもとめ、いくつもの宿に断られつつ、野宿を重ねる旅のきびしさは?
 今でこそ山頭火の名前は知られ、その句は教科書にも載り、伝記が書かれTVドラマ化され、生まれ故郷の山口や終焉の地となった松山で「その人あり」ともてはやされているけれど、当時は文字通りの乞食遍路に過ぎなかったのである。
 それと比べると、ソルティの遍路がいかに“大名旅行”であったか。

 だが、そのような自然と添い寝する旅であったればこそ、山頭火の数々の心打つ句が生まれたのは間違いない。

 山頭火が、已むに已まれぬ衝動にかられ、旅と祈りと酒と芸術の人生を送ることになった一番の理由は、おそらく彼が10歳の時の母親の自殺であろう。
 彼はいつも母親の位牌を背負って旅をしていたという。
 同行三人だったのだ。 


日和佐の海


 いちにち物いはず波音(山頭火)
 
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 本:『お寺さん崩壊』(水月昭道著)

2016年新潮社

 四国遍路で100以上のお寺を訪ね歩いて気づいたことの一つに、お寺の貧富格差があった。
 多くの参拝者で賑わい、山門もお堂も立派で、納経所や売店に人が並んでいる、いかにもお金がありそうなお寺もあれば、一方、海辺やさびれた町中にあって訪れる人も少なく、境内のあちこちに修繕が必要な堂宇の見受けられるお寺もあった。
 それでも巡礼札所に数えられている、とくに88札所に入っていることはたいへんな役得である。御朱印代(ソルティが歩いたときは300円~)をはじめとする納経料が、黙っていても入ってくるからだ。
 年間10万人としても3000万円以上。これに遍路に必要な笠や杖や白衣や納経帳などの売り上げも加えれば相当なものになる。
 とくに、多くの遍路がグッズを揃える1番札所霊山寺は、他の札所からすれば羨ましいこと限りないだろう。(それとも、八十八カ所霊場会の会計に入れているのか?)


海岸寺山門
仁王像のかわりに地元出身の力士像が立つ別格18番海岸寺


海岸寺山門4 (2)
誠に正直な説明版


 本書は、現代のお寺とくに地方のお寺の悲惨な現状を赤裸々に描いている。
 「金がない」、「檀家がいない」、「後継者がいない」、「潰れるしかない」のナイナイ尽くし――。
 これを読むと、「坊主丸儲け」とか「お寺さんは税金払わなくていいからいいよね~」なんて、簡単に言ってはいけないことが分かる。
 
 著者は、1967年生まれ。福岡県で浄土真宗本願寺派の住職をしている。日本の博士号取得者の窮乏を自身の経験をもとに綴った『高学歴ワーキングプア』で話題になった。


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 実際、全国的にお寺の統廃合はすごい勢いで進んでいるらしく、この先、寺院数が半減するのではないかとも言われている。明治初期にあった廃仏棄釈レベルの危機なのかもしれない。
 その原因は、地方の過疎化・高齢化や、葬儀や法事の簡略傾向に見られるような伝統的仏教儀礼に対する意識の希薄化、後継者不足、住職たちのずさんな運営、僧侶の権威失墜による信者離れ・・・なんてことが挙げられるのだが、一言でまとめると、「お寺を守ろうとする心が失われている」ってことになるのではなかろうか。

 しかし、お寺の危機=仏教の危機かと言えば、そうとも言えない。
 どこの書店に行っても仏教コーナーは花盛りで、テラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老のようにベストセラーを連発するお坊さんもいる。仏教書が現在ほど広く読まれている時代はあるまい。
 また、都心の寺の座禅会は(コロナ前まで)いずこも満員。四国遍路に行く若者も少なくない。仏教風を装おう新興宗教団体は今もたくさんの人を集めている。
 仏教をもとめる人は決して減っていない。
 要は、いまの日本人の多くが仏教に求めるものと、伝統的なお寺(大乗仏教)が提供してきたものとが、乖離しているのである。

 思うに、人々は生きた仏教を求めているのであって、自分自身の救いにまでなかなか届かないお坊さんの説法や姿勢に対しては、冷めた目で見ているのであろう。
 本来、仏教とは個々人のなかでそれぞれに消化され、その人の生き方や感じ方、ものの見方、他者や他の動植物への接し方、といったところにまで大きな影響をあたえていたはずなのだ。いわば、その人らしさを醸し出す太い背骨のようなもの―――生きる軸としての働き、を担っていたのだと考えられよう。


 本書の最終章では、上記のようなスタンスを持して、既存の仏教界やお寺や僧籍に拘ることなく、あるいは俗社会での栄誉や成功や安定に目を眩まされることなく、独自の仏道を泰然自若として歩んでいる人々が紹介されている。
 これからの時代の個人と仏教とのつき合い方、向き合い方を示唆する記述である。

 仏道を歩むとは、他者には理解できないかもしれないが自分にだけは見えてくる“輝き”を捉え、それを己のものとし、内から自らを光らせるまでに昇華させていく途方もなく丁寧な時間の積み重ねを指すように思えて仕方ない。


 長らくお寺の僧侶や大学の研究者のものであった仏教が、やっと市井の個人のものになってきた、いまはその途上にあるように思われる。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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●  本:『悪意の糸』(マーガレット・ミラー著)

1951年刊行
2014年創元推理文庫 

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 『殺す風』、『狙った獣』に次いで3作目のマーガレット・ミラー。
 
 70年前のミステリーで、やや意外な犯人こそあれど、読者を驚かす奇抜なトリックも名探偵の有無を言わさぬ見事な推理もない。
 心胆寒からしめる残虐描写も派手なアクションシーンもない。
 なのに、読み始めるやぐいぐい引き込まれて、ページをめくる手が止まらなくなる。
 その秘密は、ミラーの人間観察の怖いほどの鋭さ、ある種の意地の悪さを感じさせる描写にある。
 英国ミステリー作家のクリスチアナ・ブランドに似ている。

 ウーマンリブ前の50年代アメリカにおける女性の抑圧と葛藤と気概が描かれているところも特徴の一つ。(過去100年における女性の意識の変化は、人類史的にみたら「進化」に等しい)

 やはり、ストーリーの面白さもさることながら、人間心理のドラマのほうが、時を越えて読まれるのであろう。
 ミステリーの女王クリスティも、『アクロイド殺し』や『オリエント急行殺人事件』などのミステリー史に残る大トリックや、『そして誰もいなくなった』などの凝った設定と強烈なサスペンスに目を奪われがちだけれど、あれだけ多くの作品が図書館や本屋にいまだに並ぶ一番の理由は、彼女の心理描写の巧みさと心理ドラマの説得力、それに雰囲気づくりのうまさにあると思う。
 最近、クリスティのいくつかの非代表的な作品を数十年ぶりに読みかえしてみた。
 なんてことないストーリーなのに、やっぱり面白い。




おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● 本:『武器になる! 世界の時事問題』(池上彰著)

2020年大和書房

 ニュースや天気予報くらいしかテレビを観ることのないソルティであるが、たまに池上彰がキャスターをつとめる報道バラエティ番組(とでも言うのか)は観る。
 時事問題を堅苦しくない切り口で、非常にわかりやすく解説してくれるので、観た後になんとなく賢くなったような気がする。
 本人がどういう思想や立場の人なのかは知らないが、少なくとも番組上では、本人の主義主張を開示しパネラーや視聴者に押し付けるようなところがないのも、つまり本人はあくまでも鳥瞰的立場にとどまっているところも、観ていて疲れない理由であろう。


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 あんな忙しい人がいったい本など書く暇があるのだろうかと思うが、本書は2019年夏に関西学院大学で行った講義録がもとになっているとのこと。
 学生対象の基礎講座なので、これまたわかりやすいことこの上ない。

 ソルティは昔から時事問題とくに政治経済や国際情勢にあまり関心がない。関心が持てない。
 どうせ昔ながらの権力闘争、領土と資源をめぐる争奪戦、宗教や民族問題の絡んだジェノサイドや紛争、単純に言えば、金と女と名声と権威を欲するオヤジたちの陣取り合戦――といったイメージがあるからだ。
 だが、自分もまたその世界の片隅に生きていて、日々少なからぬ影響を受けているので、たまには、「今の世界情勢を抑えておこう」、「その中で日本の小市民たる自分の置かれている立場を確かめて置こう」という気になる。
 で、読んでみて、相も変わらぬ世界にやっぱりうんざりすることになる。(この「うんざり」は、仏道修行のモチベーションにつながるので馬鹿にならないのだが・・・)  
  • トランプ大統領の誕生した背景
  • イギリスのEU離脱
  • 戦後の日米関係の変遷
  • 沖縄基地問題のいま
  • 中東問題とイスラム教
  • 中国共産党の来し方と行く末
  • 朝鮮半島問題      等々
 まさに今の世界情勢を概観し、時事ニュースを理解するための重要なポイントが取り上げられ、わかりやすく解説されている。
 NHKの記者だった池上の該博な知識と、リアリティを感じさせる“現場”のエピソードの数々に感嘆する。
 それにつけても、今の中国くらい、ジョージ・オーウェルの『1984』に酷似している国は無かろう。
 恐ロシア、いや震えチャイナ・・・・・

 読んでみて、ソルティが外野から生半可な知識なりにとらえていた世界の状況や見方が、それほどはずれてはいないことに気づく。
 それはきっと、時事ニュースこそいちいち追っていないけれど、いろいろな国の映画をよく見てきた、よく見ているからなのだと思う。
 各国の映画に映されている風土や市井の人々の生活や物語の枷となる社会的背景を理解することで、知らずその国の歴史や情勢を学んでいるのだ。
 映画の場合、本や新聞やテレビやネットのニュースとは違って、遠い国の生活者の体温や息づかいや声音や表情まで伝わってくるところが特徴であろう。
 教育的効果を期待して映画を観ているのでは決してないが、間違いなく映画は世界とつながる窓である。

 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 「口裂け女」考 本:『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(常光徹著)

2016年河出書房新書

 民俗学というと、「ちょっと昔」の庶民の風俗やしきたりや言い伝えを調査研究する学問というイメージがある。
 大体、江戸時代から太平洋戦争前くらいの「昔」というか。
 勝手にそう思い込んでいたが、別に誰がそう決めた、定義したというわけでもないらしい。

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 本書は、第1部「うわさ」編と第2部「俗信」編に分かれている。
 第2部こそ土地に残る古くからの言い伝えを取り上げ考察するという従来の民俗学の範疇におさまるものだが、第1部は副題に「現代の世間話」とある通り、現代それも70年代くらいから巷で流行った噂話が列挙されている。
 いわゆる「都市伝説」というやつだ。
 これが面白い。
  • 学校のトイレにまつわる怪談 「赤い紙・青い紙」
  • 口裂け女 「わたし、きれい?」
  • 人面犬
  • 首なしライダー
  • ピアスの穴
  • 会社訪問のうわさ 「男は黙ってサッポロビール」
  • とんだヘアー
  • フランスのブティックの試着室
等々
 どこから、何がきっかけで起こったかは知らないけれど、子供や若者を中心に一世を風靡(?)した怪談や滑稽譚に光を当てている。
 10~20代をボーっと、どちらかと言えば非社交的に生きていたソルティも聞いたことがあるものばかり。懐かしい感があった。
 上のタイトルだけ見て、「ああ」とすべて分かる人は、ソルティとほぼ同世代かそれ以上だろう。

 著者の常光徹(つねみつ・とおる)は1948年高知県生まれ。
 学生の頃から民俗学に興味を持ち、中学校の教師をしながら北陸や東北の民話について調査研究をすすめていたが、年を追うごとに語り手がいなくなり、伝承の衰退を感じていた。
 そんなとき、児童文学作家の松谷みよ子に、「目の前の伝承をみつめてみては」と言われたのがきっかけとなり、教え子である都会の子供たちを対象に話を採取したそうだ。
 それが1985年(昭和60年)のことというから、まさに昭和末期あたりからの都市伝説が出揃ったわけである。

 こういった都市伝説は、話自体の奇妙さや怖さや不合理さなどの分析、あるいは伝播経路やバリエーションの調査もさることながら、なんでその噂が当時流行ったのか、その話のどこにその時代の若者たちの意識(無意識)を揺り動かすものがあったのか、を探ることこそが面白いと思う。
 著者がそのへんをもう少し突っ込んでくれたら、という感はする。

 たとえば、口裂け女が流行ったのはソルティが高校生の頃(1979年)だったが、いま自己分析すると、当時は意識していなかったが、両耳まで裂けた女の口の形状におそらく女性器を連想し、それに噛みつかれる=去勢恐怖があったのではないかと思う。
 それがひとり童貞少年の怯えにおさまらず、メディアを騒がし全国区になったのは、やはり、「女が強くなった、女が性を語るようになった」という時代風潮が背景としてあったからではなかろうか。

 一方、口裂け女には、怖いだけでなく、どこか孤独で寂しい匂いも感じていた。
 その匂いは、ソルティの中では、後年(1997年)の東電OL事件につながっている。
 やはり、性に絡んでいる。
 性に絡むことは、一般に人々が抑圧し意識に登らせないことが多いので、逆にこういう単純には説明のつかない噂話の形をとって顕在化しやすいのではなかろうか。

口裂け女
 1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題にまで発展した都市伝説。
 口元を完全に隠すほどのマスクをした若い女性が、学校帰りの子供に 「私、綺麗?」と訊ねてくる。「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す。するとその口は耳元まで大きく裂けていた、というもの。「きれいじゃない」と答えると包丁や鋏で斬り殺される。
 この都市伝説は全国の小・中学生に非常な恐怖を与え、パトカーの出動騒ぎ(福島県郡山市・神奈川県平塚市)や、北海道釧路市・埼玉県新座市で集団下校が行われるなど、市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した。
(ウィキペディア『口裂け女』より抜粋)
 
 コロナ禍のいま、外を歩いているのはマスク女性ばかりなので、口裂け女にとっては良い隠れ蓑になるはず。
 再来するか?
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Ed ZilchによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『老年について』(キケロー著)

B.C.44年執筆
2019年講談社文庫(大西英文訳、『友情について』も収録)

 マルクス・アウレリウス『自省録』につぐ古代ローマ賢人シリーズ。

 よく考えてみたら、2000年以上前に生きたローマ人の声を聴けるとはすごいことだ。
 現代作家のいったい誰が2000年後の人類によって読まれているだろう?
 むろん、キケロー本人も想像だにしなかったであろう。自分の作品が、2000年後の(キケローが存在を知らなかった)極東の小さな島国の異国語を話す人間によって読まれ、いい加減な感想を書かれ、世界を結ぶインターネットによって発信されてしまうとは!


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 キケローの生きた時代を、大方の読者が「ああ!」と即座に理解しイメージできるように言うならば、こうなる。
 カエサルとクレオパトラの時代――。

 カエサルという英雄の登場によって、それまで元老院が牛耳っていた政権(共和政)に揺らぎが生じ、カエサル暗殺後、アントニウスとオクタビウスが対峙し前者が破れた結果、初代ローマ皇帝アウグストゥス誕生とあいなった時代である。(このへんの知識いい加減)
 政治家であったキケローはまさにこの激動の時代を生きた。

マルクス・トゥッリウス・キケロー
ローマの雄弁家、政治家、哲学者。ラテン散文の完成者。共和政末期の混乱の世に、最高の教養と雄弁をもって、不正の弾劾者、自由の擁護者として活躍。第1次三頭政治のもとで、前 58年追放され、翌年帰国後も自由な政治活動ができず、哲学的著作に従事。カエサル暗殺後再び元老院の重鎮として活躍。
主要著書は『弁論家論』、『国家論』、『善と悪の限界について』、『トゥスクルム論叢』、『神々の本性について』など。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より抜粋)

 キケローのもっとも有名でよく読まれている作品が、本文庫に収録されている『老年について』と『友情について』である。
 ソルティも30代までだったら『友情について』は読んでも『老年について』は読まなかったであろう。50代の今は『友情について』は読む気がしない(苦笑)。
 古代の賢者が老いについてどう語っているか、老いの苦しみを緩和しそれと上手くつき合うコツを伝授してくれていないか。それが本書を手にした理由である。
 なんたって2000年のときをこえて読み継がれている古典であり、本書解説によれば、「老年というものをきわめて肯定的に描き出している、古典古代で最初のモノグラフ(論文)」とのこと。
 きっと、現代を生きる我々にも役に立つ知恵があるはず。

 本編の構成は、二人の優秀なるローマの若者スキピオーとラエリウスが、賢人として誉れ高い執政官カトー(84歳の設定)のところに赴き、カトーのように誰からも尊敬される立派な老年を送るためのコツを尋ねるという趣向になっている。カトーは、キケローの生れる前にローマで活躍した実在の政治家である。
 つまり、キケローは当時の読者にあまねく知られていた偉人カトーにたくして、自らの老年に対する考えを披露しているのである。

 大筋は、まず、「老年が惨めなものと映る理由」として、
  1. 仕事や活動から身を引くのを余儀なくさせる
  2. 肉体を衰えさせる
  3. 快楽を奪い去る
  4. 死が間近である
の4つを上げ、その一つ一つについて吟味し、その理由が決して難点とばかり言えないこと、またその難点を十分補いうるだけの老年ならではの役割や利点や楽しみがあることを論じ、あるべき理想の老年の姿を描く。
 水も漏らさぬ論理展開と巧みな話術は、稀代の弁論家として知られたキケローの面目躍如たるものがある。
 
 これで説得されて、「参りました~」とひれ伏したいところであるが、そしてその降伏は老いについて不安を覚えるソルティとしては嬉しい降伏なのであるが、残念ながら説得されなかった。
 老いを肯定的に受けとめるのに役立ったか、老後不安が解消されたかといえば、答えはNOである。
 いや、いまどき、このキケロー節で安心を得られる高齢者が果たしているだろうか?


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 傾聴すべきところはある。
 生涯打ち込める仕事なり趣味なり(ライフワーク)をもつこと、農業・園芸を趣味とすること、あるいは性欲の低下こそはいたずらに悲しむべきことではなく、精神を安定に保ち理性的な仕事をなすのが容易になるので喜ぶべきこと――なんてあたりは至極納得いく言説である。
 一方、次のような記述はどうだろう?

 間違いなく言えるのは、スキピオー、それにラエリウス、老年に対処する最適の武器は諸々の徳の理の習得とその実践である、ということだ。この徳を人生のあらゆる段階で涵養すれば、長く、また大いに生きた暁には驚くほどの稔りをもたらしてくれよう。

 ・・・・・言葉で繕い、弁解しなければならない老年は哀れな老年だ、と。威信というものは、白髪になり、皴ができたからといって、いきなりつかみとれるものではない。それまで立派に送った生涯が最後の果実として受け取るもの、それが威信というものなのだ。

 老年の報酬は、何度も述べたように、それ以前に獲得した善きものの豊かさと、その思い出だ。

 徳の涵養、威信、立派に送った生涯、獲得した豊かさと思い出・・・・・。
 なんという高いハードルだろう。
 老年に至ってこれらを具備できる者がどれだけいるのだろうか。
 多くの人は、煩悩にまみれ、エゴに振り回され、人間関係に悩み、後悔多くして、孤独と不安に苛まれ、苦い思い出を抱えながら、老年に足を踏み入れるのではないだろうか。
 それが、7年間介護の仕事に携わって多くの高齢者に接してきたソルティの実感であり、またソルティ自身の現在でもある。

 もちろん、そうでない人もいよう。
 カトー(=キケロー)が述べるような、徳と威信を備え、現役時代に獲得した有形無形の財と素晴らしい思い出の数々に取り巻かれている人、人生の成功者と言えるような人もいないことはなかった。
 が、やはりそれは一握りであり、持って生まれた資質と環境と運の良さによるところが大きいと思う。(いずれにせよ、最後は家族と離されて施設で過ごさざるを得なくなったわけだが・・・)
 つまり、キケローが描く理想の老年像はエリート的なのだ。
 決して万人向けではない。
 キケロー自身が飛び抜けたエリートだったという点を考慮して本編は読まれるべきであろう。

 また、80~90代の高齢者の介護に関わってきた立場からすると、キケローは現実の老いのしんどさが実感として分かっていないんじゃないかと思われてくる。
 たとえば、本編では、認知症とか、失禁とか、他人の介助を受けなければならない屈辱や恥や申し訳なさとか、老々介護とか、安アパートでの孤独死とか、いわゆる介護問題にまったく触れられていない。
 これには、当時は介護が社会問題となるほどには人が長生きしなかったという理由があろう。戦前までの日本と同様に。(古代ローマの平均年齢は女性27.3歳、男性26.2歳、60歳以上の割合は女性7.4%、男性4.8%というデータもある)
 古代ローマの裕福なエリートの老いと、令和日本の平均的な庶民の老いとでは、抱える問題がずいぶん異なっている。

 さらに、これを書いたとき、キケローは62歳だった。
 当時のローマの年齢区分では、初老を越えて老年に入るか入らないかの頃合いという。現代日本で言えば70歳くらいか。
 これからがまさに老いの本番ということだ。
 キケローは自身、老いの真っただ中にいる引退したご隠居として、これを記したのではない。まだ政界の中枢にいて、決して軽くはない発言力を有していたのだ。発話者として据えたカトー(84歳)とはそもそも20歳以上の開きがある。
 むしろ彼は、身体の変化や政局からの疎外という形で忍び寄ってくる老いの前兆を認識し、これからやって来る老後を見据え、一種の覚悟や心構えとしてこれを書いたのではなかろうか。
 本作が理想論のように思えるのはそのせいではなかろうか。

 現実のキケローがどのような老後を迎えたか、誰もが知りたいところであろう。
 本編のカトーのように、誰からも一目置かれる智慧と威信に満ちた老人になったのだろうか。
 自ら描いた理想の老年を送ったのであろうか。

 キケローはこれを書いた翌年、なんとアントニウスの放った刺客の手にかかって暗殺されたのである。
 そういう時代であった。



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● 本:『卍(まんじ)と卐(ハーケンクロイツ)』(中垣顕實著)

 2013年現代書館

 一昨年の秋に四国遍路していたときのこと。
 ある札所で、同行していた外国人女性が次のようなマークを見つけ、声を上げた。
 お堂の門の扉に刻まれていたものである。


西山興隆寺ハーケンクロイツ


 地図に普通に載っているお寺のまんじマークだから、「何をいまさら?」と思ったら、彼女は言う。
「お寺のマークとは向きが逆よ。これだとナチスのマークになるじゃない」
 なるほど。確かにお寺のまんじは左向き()がふつうだが、これは右向き()になっている。
 いわゆる、ハーケンクロイツ(鉤十字)と同じ向きだ。
 昨今は外国人遍路や観光客もたくさん来るだろうに、なぜ、わざわざ誤解を受けやすいナチスのマークと同じ向きにするのだろう?
 納経所の人に聞いたが、理由は知らなかった。
 遍路が終わって家に帰ったら調べてみようと思い、そのままになっていた。


ミニ水仙


 その数年前のこと。
 やはりある外国人女性とナチスのホロコーストについて(日本語で)話しているときに、彼女が「スワスティカ」という言葉を口にした。
「スワスティカ? なにそれ?」
「えっ? 知らないの? 有名なナチスのマークのことじゃん」
「ハーケンクロイツのこと?」
「英語ではスワスティカって言うのよ」
「へえ~」
 と、それで終わったが、なにか腑に落ちないものがあった。

 確かに、or マークを意味する「スワスティカ(Swastica)」という言葉は英語辞書に載っている。昔から普通に英単語として使われていたのだろう。
 しかし、ハーケンクロイツ(独)はそのまま、「ハーケンクロイツ」と訳すべきじゃなかろうか?
 なにしろ、そのマークに籠められた思想の特殊性、異常性、歴史的・人類史的意味には、測り知れないものがある。マークのデザインも、他の or マークとは混同されることのないほどに固定化・差別化されている。
 つまり、「ハ-ケンクロイツ」は一つの固有名詞である。
 だから、日本の翻訳家がナチスのマークを「ハーケンクロイツ」と、あるいは直訳して「鉤(ハーケン)十字(クロイツ)」と和訳しているように、英語圏の翻訳者も“Hakenkreuz”と、あるいは直訳して“Fooked Cross(鉤十字)”と英訳するのが適当ではないかと思った。
 英語圏の翻訳者が「寿司」をそのまま Sushi と、「禅」をそのまま Zen と英訳しているのを見れば、外来語をそのままの形で英語に取り入れることに抵抗があるわけではなかろう。
 なぜ、ハーケンクロイツは、「スワスティカ」と訳されたのだろう?  
 この疑問が一瞬浮かびはしたものの、そのままになった。

 今回、この二つの謎を解明すべく図書館の蔵書検索していたら、当たったのがこの本であった。


IMG_20200830_134539


 著者の中垣顕實(なかがき・けんじつ)は、1961年生まれ。ニューヨーク在住の浄土宗の僧侶である。
 若かりし頃、海外開教使としてアメリカに赴任した際、お祭りの飾りに普段日本でやっているように菊の花で「」を作ったところ、周囲から「ここでそれを使ったらダメだ」ときつく止められた。それがきっかけとなり、とハーケンクロイツについて研究するようになった。  
 今現在でも、西洋社会で仏教を語る際に、マークを使うのはご法度とされているらしい。
 むろん、アウシュビッツ最大の被害者だったユダヤ民族にとって、マークを目にすることは、平和になった今でも、耐え難い、悪夢のような経験であるだろう。
 たとえ、仏教のマークがナチスのそれとは逆向きで、十字の傾き加減も異なっているとしても・・・。


ハーケンクロイツ
ハーケンクロイツ

善光寺
長野県善光寺の本堂に使われているマーク  


 著者は、仏教における(まんじ)の由来はなにか、どういった意味があるのか、という点から論を開始する。
 『長阿含経』などの古い経典によれば、

 仏の身体に備わっている32種類の特徴で、仏の胸の旋毛がになっている。  

 どうもこれが仏教で or が重要な象徴として使われるようになった端緒のようだ。  
 それが、仏・如来の功徳、吉祥、福徳、幸運、善良を意味するものとなり、「この上ない智慧と慈悲の満たされた真理をさとった仏のシンボル」となった。  
 日本では、左向きのが仏教のマーク、お寺の標識になった。  

 面白いことに、当初は右向きのも使われていた、いや、こちらが正当だったようである。
 諸橋轍次『大漢和辞典』によれば、  

 右旋のは「みぎまんじ」と称し、佛を禮敬するに右旋三匝(さんそう)し、佛の眉間の白毫も右旋婉転(えんてん)す。故にに作り、古来、(ひだりまんじ)に作るは誤なりとなす。  

 それが、639年の則天武后の時代に、中国で(左まんじ)が正式な漢字となり、その後、これが定着した。
 古来、中国の強い影響下にあった日本もそれに準じたのであろう。
 タイムラグを入れても、おそらく8世紀にはもう日本で(左まんじ)が定番となっていたのではないか。
 つまり、8世紀以降に建てられたお寺の建造物や仏像・仏具の装飾に関しては(左まんじ)が普通で、それ以前のものには(みぎまんじ)が残っている可能性がある。
 調べてみると、遍路中に見かけた(右まんじ)を扉に刻んだお寺の開創は642年、はるか昔の飛鳥時代であった。
 建物自体は作り直されていることだろうが、基本的な意匠は引き継がれるのが一般だろう。(右まんじ)の使用は、この創建の古さと関係しているのではなかろうか?
 ついでに想像するに、右利きの人が筆で書くことを考えたとき、(右まんじ)より(左まんじ)のほうが断然書きやすい。そのあたりが中国で(左まんじ)が正式となった理由ではなかろうか。 
 とりあえず、一つめの謎は解明した。

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 ここからは「まんじ」でなく、「スワスティカ」と記す。  
 本書によると、スワスティカの語源はサンスクリット語のスヴァスティカ(svastica)で、「スsu-(良い、健全)」+「アスティasti(存在している)」が合わさったもので、その意味は「幸福、繁栄、福利」だそうである。  
 日本人にとって、スワスティカはなによりも仏教のシンボル、お寺のマークとして認識されているが、実のところ、このマークは仏教以外の宗教でも古くから使われていた。  
 著者の調査によれば、ヒンズー教、ジャイナ教、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター経、アメリカン・インディアンの間でも、そしてなんとユダヤ教!でも、幸運や吉祥や善福をもたらす聖なる印として、スワスティカが(右向き)・(左向き)問わずに使われてきた歴史があり、それを示す建造物や装飾品も残っている。
 そのデザインはそもそも「太陽」を象形しているとの見方が研究者の間で一致している。太陽なら当然、万国共通の恵みである。
 ナチスが登場する直前のアメリカでは、スワスティカそれもナチスと同じ右向きのが幸運のお守りとして流行り、コカ・コーラのデザインやボーイスカウトのバッジや州発行のポストカードに使用されていたというから驚いてしまう。  

 それはいろいろなシンボルの中の一つというものではなく、人類史上において稀なる数千年の歴史を誇り、様々な宗教、様々な国の文化が深く関わる国際的なシンボルなのである。太陽や光を表すシンボルであるから、卍・卐は有史以前の古代から人類に光を与え、人類から尊重され、敬愛されてきたシンボルなのである。  

 さて、スワスティカの歴史的意義を明らかにした著者は、このあとナチスドイツのシンボルであったハーケンクロイツについて探っていく。  
 ここからがむしろ本書の肝であり、ソルティが少なからぬ衝撃を受けたくだりである。  
 著者は、ホロコーストについて調べ、強制収容所を訪問し読経を上げ、ユダヤ教の有名な司教やホロコーストで生き残った被害者にインタビューするなど、頭だけでなく、心と足を使った丹念な取材・研究を重ねていく。被害者の感情に配慮し平和を希求する姿勢は、まさに仏教僧らしい。  

 ヒトラーはナチスの標章を選ぶに際し、党員の間にデザインを公募した。ある歯科医の提出した図案(曲がった鉤をもったスワスティカ)が、ヒトラー自身の腹案と似通っていて、それを訂正し最終決定した。
 ただし、ヒトラー自身はこのマークを「スワスティカ」と呼んだことはなく、もちろん、仏教的含みを持ち込むこともなかった。
 ハーケンクロイツはあくまで、「アーリア人の勝利」と「反ユダヤ人の勝利」を表すシンボルであり、加えて言うならば、それは「クロイツ」、つまりキリスト教徒の闘いを含意していたのである。
 
「鉤の十字架」はキリスト教にとっても古代からの聖なるシンボルであり(ソルティ注:現在の十字架がキリスト教の正式なシンボルとなったのは6世紀以後だそう)、ヒトラーの運動は「鉤の十字架」という新しい十字架のもとでドイツのカトリックとプロテスタントをまとめるものであり、十字架のもとでの聖戦であったという点からも、東洋のスワスティカでは意味をなさないことになる。

 ソルティは不肖ながら、この視点からナチスの運動を考えたことがなかった。
 中世カトリック教会が、神の名のもとに十字軍を結成し、イスラム教徒やカタリ派などの異端カトリックに攻撃を加え殺戮を繰り返したのとまったく同じ論法で、ヒトラー率いるナチスはユダヤ人や共産主義者や同性愛者や障害者を攻撃・殺戮したのである。  
 我々は現在、ヒトラーを人類史上最大の悪人、悪魔の手先としてみなすけれど、ヒトラーの側に立てば、悪いことをしているつもりなど微塵もなく、正義と信仰に裏打ちされた聖戦をしているだけであって、だからこそ、あれだけの「神をも恐れぬ」非人間的行為が可能だったのである。  
 つまり、ナチスの所業をキリスト教文化と切り離して語ることはできない。大東亜戦争時の日本軍の所業を国家神道と切り離して語ることができないのと同様に。


日章旗
旭日旗


 ドイツの宗教家と言えば、何と言ってもプロテスタントを起こしたマルティン・ルターが有名である。
 ヒトラーが音楽家のワグナーに心酔していたことはよく知られているが、ルターのことも熱狂的に信奉していたとのこと。『我が闘争』の中で、「偉大なフリードリッヒ大王と並んで、マルティン・ルターとリチャード・ワグナーが立つ」と述べているそうだ(ソルティ未読)。
 このルターが実は恐るべき反ユダヤ主義者だったのである。
 
 ルターはその著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』の中で、ユダヤ人を扱う七通りの方法を述べている。著者の要約をさらにかいつまんでまとめると、
  1.  ユダヤ人のシナゴーグや学校に火を付けろ
  2.  彼らの家を破壊せよ 
  3.  彼らの祈祷書とタルムードの写本を没収せよ
  4.  ラビに教えを説くことを禁じよ
  5.  街道におけるユダヤ人の保護を廃止せよ 
  6.  高利貸しを営むことを禁止せよ
  7.  斧や鎌をもって働かせよ 
 といった調子である。
 ルターは、これらを復讐心からではなく、慈悲の実践として行うべきと説いている。
 まるで、ルターが説いたことを教科書とし、ヒトラーはそれをそのまま実践したかのようではないか。
 ソルティの中で、改革者ルターのイメージが音を立てて崩れていった。


ルター
マルティン・ルター

 ルターは堅固な反ユダヤ主義を代表しているが、彼もまた新約聖書以来、キリスト教の歴史の産物とも言える。ルターはユダヤ人に対する議論を全く独自に開発したのではなく、随所で聖書からの言葉を引用しているように、新旧聖書やそれまでの解釈などを踏まえた上で、彼の立場を語っている。ヒトラーの反ユダヤ主義も突然、出現したものではなく、ドイツの反ユダヤ主義を説いてきたキリスト教の歴史があり、その上で実践されたものである。ルターやヒトラーは正義の「戦士」ともいうべき、男性タイプの勇敢なるキリスト教の流れを汲んでいる。当時のドイツやキリスト教の歴史の中では、反ユダヤ主義は必ずしも悪いことであるとは捉えられていなかったのである。

 要は、ユダヤ教とキリスト教の何世紀にもわたる根深い対立と憎しみの歴史があり、ナチスの蛮行もまたその文脈上に置くことが可能なのだ。
 もしかすると、ユダヤ人以外の西洋人が今もスワスティカを受け入れられない根本的要因は、うしろめたさや罪悪感にあるのかもしれない。  

 ここで、最初に上げた二つ目の疑問の答えが浮上する。
 なぜ、ハーケンクロイツがそのまま「ハーケンクロイツ」と英訳されなかったのか。あるいは、なぜ直訳して「鉤十字」とされなかったのか。わざわざ「スワルティカ」という当たり障りのない訳語をそこにもってきたのはなぜか。
 著者はこう推測する。

この観点からすると、十字架を守るために、意図的にハーケンクロイツの代わりにスワスティカを用いたという推測もあり得ないことではない。

アメリカやイギリスは敵国であるドイツ軍が十字架をもって戦っているということを国民に知らせたくなかったのだろうか。キリスト教徒の多いアメリカ人にとって、キリスト教徒同士が戦っているとわかれば戦意を削ぐことになると考えたのであろうか。

 わりを食ったのがほかならぬ仏教である。

 翻訳者がスワスティカという言葉をそのまま訳語として使ったため、数千年の歴史を持つシンボルが、ヒトラーによって作られたシンボルであると人々に信じさせることとなり、仏教やヒンズー教の聖なるスワスティカが乗っ取られ、西洋社会で冒瀆されるようになった。ハーケンクロイツの名において執行されたホロコーストが、スワスティカの名において執行されたホロコーストにすり替えられており、未だにそれが是正されていない。

 翻訳者にその意志がなかったとしても、ハーケンロイツがスワスティカと訳されたことで、結果的に被害を被ったのは東洋の卍・卐であり、それによって守られたのは十字架であった。


 著者は現在、スワスティカの復権を目して、海外で講演や対談を行ったり、本書の英訳本を出そうとしたり、精力的に活動している様子である。
 ソルティは仏教徒ではあるけれど、マークには、というより仏足石、仏舎利、仏塔、蓮華、五色の旗など如何なるシンボルにもさしたる思い入れは持っていない。形にこだわるのは仏教ではないと思うからである。
 だが、少なくとも、西洋人と話していて、相手がナチスのマークを「スワスティカ」と呼んだら、すかさず「ハーケンクロイツ」と訂正することは今後やっていきたいと思った。


P.S. この原稿を書くにあたっては Word を使用したが、「」はどうやっても打ち出せなかった。ナチスについて研究し論文を書く人たちは不便を強いられていることだろう。 



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● 原始仏教的!? 本:『自省録』(マルクス・アウレリウス著)

西暦2世紀後半に執筆
2006年講談社学術文庫(鈴木昭雄訳)

 マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は、第16代ローマ皇帝(在位:161-180)で「賢帝」と評される人物。
 おそらく、ローマ皇帝の中では、ネロ、カリギュラ、漫画『テルマエ・ロマエ』に登場するハドリアヌスに次いで、もっとも日本人に知られている人ではなかろうか。
 むろん、『自省録』を残したゆえである。
 
 20代の頃に一度読もうと試みたのであるが、難しくて歯が立たなかった。
 いや、難しいというより面白くなかった。
 12巻(「巻」と言っても実際には「章」と言うのがふさわしいくらいの分量)あるうちの最初の2巻まで読んで挫折した。
 マルクス・アウレリウスは当時流行ったストア派の哲学者であり、その思想が彼の生活信条の根幹を成しており、『自省録』もストア派ならではの言説にあふれている。
 
 ストア派は、ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。
 ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。
 (ウキペディア『ストア派』より抜粋)

 ソルティはストア派の思想など、まったくと言っていいほど知らない。
 「ストイック」という言葉の由来となった、つまり禁欲的なのだろう――くらいのイメージしかない。
 それにどちらかと言えば、ストア派でなくスーパー派だし・・・・・

 20代の頃も50代の今も、ストア派を理解していない、マルクスの書いていることを十全には理解できない、という点ではまったく変わらないのであるが、しかし今回読んだらとても面白かった。
 それはなぜか。
 本書を読んで、マルクス・アウレリウスという人間のあまりの「原始仏教」性に惹きつけられたからである。
 いや、そもそもなぜ30年越しに本書を読もうと思ったかと言えば、たまたま書店の目につくところにおいてあったのを不思議に思い、手に取ってパラパラめくってみたら、気になるフレーズ――20代の時分は引っかからなかった――が散見されたのであった。(NHKの「100分 de 名著」という番組で本書を取り上げたらしく、密かなブームになっているようだ。なんと漫画にもなっていた!)

 毎朝、1巻ずつ音読しながら、「原始仏教」的と思ったところに付箋を付けていったら、この有様である。

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 いくつか引用しよう。

 事物そのものは、いかようにもあれ心に直接触れることはなく、心への侵入をもつこともなく、また心の向きを変えることも心を動かすこともできない。心は、心だけで自身自分の向きを変え自分を動かす。そして、自分が持つに相応しいと見なす判断に合致するようなものへと外からやって来たものを自分のために作り上げる。

 しばしば想いを凝らしてみよ。――在るものも成るものもそれらの通過と退去の迅速さを。すなわち、実体は河のごとく不断の流れのうちにあり、そのもろもろの動きは連続した変化のうちにあり、その諸原因は無数の変転のうちにあって、ほとんど何一つ静止して在るものはなく、時の現在もその近接点もまた然りであり、またすべてはそのなかに消え去って行く過去と未来の無限の深淵(も然りである)。

 万物は変化のなかにある。おまえ自身もまた不断の変更のなかに、そしてある意味ではまた消滅のなかにある。そしてまた宇宙全体も。

 すべてこの世に生起することは、しかるべくして生起するものなること。おまえはこの事実を明確にしかと見張るならば、見落とすことはよもあるまい。すべて生起するものは正当に生起すること。

 おまえの身に起こることは何であれ悠久の昔より事前におまえのために整えられていたものである。また、諸原因の組み合わせがおまえの存在とその出来事の生起とを無限の時の彼方より紡ぎ合わせていたのである。

 万物はどのようにして相互に変化するかそれに観照的方法を用い、不断に注目し、この部門での研修に励め。

 肉体がいかなるものであるかを観察せよ。また年老いたら、病気したら、憔悴し切ったら、と。
 命短きものである。賞賛する者もされる者も、記憶する者もされる者も。

 遠からずしておまえは何人でもなく何処にも存在しなくなるであろう。なお、おまえが見ているものの何一つ、また今生きているものの誰一人存在しなくなるであろう。なぜなら、すべては本性上変化し転換し消滅するのである。そこよりまた別のものが次々生ずるために。


 諸行無常、諸法無我、縁起因縁、観察瞑想(ヴィッパサナ)、あたかも『スッタニパータ』を読んでいるかのような厭世的無常観・・・・。
 ストア哲学に、原始仏教と似通ったところがあるのだろうか?
 よくわからない。
 が、なんとなくマルクス・アウレリウス自身の持って生まれた資質の面が大きい気がする。
 
 こういう人が「俗」の最たる極みである政治に絡み、どころか「俗」の頂点たるローマ帝国の支配者をやっていたのだから、内心どれだけ葛藤や軋轢があったことだろう?

 もうたくさんだ、惨めな生、不平をこぼす生、猿真似の生、なぜに思い悩むのか。それらの何が目新しいというのか。何がおまえの正常心を奪うのか。

 『自省録』はいろいろな意味で心内の軋みの書であり、自己分裂の書であり、矛盾の書である。しかし、そうした軋みや分裂や矛盾の表白も、もしマルクスの人柄がそれらを感動的なものとなしえないようなものならば、あのように『自省録』が人の心を惹き付けることはなかったであろう。(本書解説より)
 

 思うに、マルクスの葛藤・分裂は二段構えになっていたのではなかろうか。
 つまり、「聖」=哲学・思索の世界=ストア派哲学者としての自分が一方にあり、もう一方に、「俗」=宮廷・政治の世界=ローマ皇帝としての自分がいる。
 「聖」の世界こそが本来の資質にかなっているし、できれば哲学者になりたかったにもかかわらず、「俗」の務めを果たさざるを得なかった。
 これが一段目。

 次に、ゼノンの末裔たるストア派哲学者として自負する自分が一方にあり、もう一方にその思想にどうにも収まり切れないものを抱えた「原始仏教」的自分がいる。
 これが二段目である。

 マルクス・アウレリウスは、出家しなかったシッダータ王子のその後の姿――ではないかという気さえするのである。
 また、時を置いて、読み返してみたい。



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● 本:『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(著者:ハニー・エルゼイニ&キャサリン・ディーズ)

2007年原著
2008年学習研究社より邦訳発行(田中真知訳)

 「転生者」で「オンム・セティ」で「古代エジプト」!
 これでもかというくらいにオカルティックなワード炸裂で怪しさフンプン。
 表紙もまた来てる。
 ピラミッドに、オベリスクに、古代ファラオ(アクエンアテン)の像に、ジプシーっぽい風貌の老婆の写真。
 スピリチュアル好きのソルティもさすがに手を出しかねるベタさ。
 図書館のスピリチュアル本コーナーで見かけていたのだが、これまで敬遠していた。


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 先日、酷暑で朦朧としていたためか、あるいはなにかのお告げか、手に取ってよくよく見ると、副題にこうあった。
 「3000年前の記憶をもった考古学者がいた!」
 ただのスピリチュアル本ではなくて、実在したプロのエジプト学者の伝記だったのである!
 彼女の名前がオンム・セティ(1904-1981)
 知らなかった。

 なぜ考古学者の伝記がスピリチュアル本コーナーにあるかと言えば、実際に彼女が3000年前の古代エジプトの記憶をもつ転生者だったからである。
 少なくとも本人はそれを確信していたし、彼女のもっとも親しい友人であり生前の彼女から日記を託されていた著者のハニー・エル・ゼイニも、それを前提に本書を書いている。

 オンム・セティとは誰か?

 おもての顔は、英国に生まれ育ったイギリス人女性であり、しっかりと訓練され知識と技術を身につけた一流の考古学者であり、観光客にすぐれて人気あるエジプト遺跡の案内者であり、エジプト人と結婚し一児の母となるも離婚し、その後は亡くなるまで独身を通した一女性である。
 奇抜で型破りなところはあるものの、生まれついての意志の強さと率直さ、強い正義感と行動力、考古学者に必須な飽くなき好奇心と想像力と熱意とを兼ね備えた類まれなる人物である。

 うらの顔――生前の彼女が著者以外の人間に秘して語らず、この書が出るまで世間に隠されていたもう一つの顔が、古代エジプトの神殿に仕えた巫女の生まれ変わりであり、時のファラオ(王)セティ一世の愛人。しかも、夜ごとに、3000年前からよみがえったセティ一世の霊(?)の訪問を受けていた神秘体験の持ち主だったのである。
 なんと面白い!

 本書の読みどころは三つある。

 一つは、オンム・セティ(本名ドロシー・ルイーズ・イーディー)の波乱に満ちた不思議な生涯、破天荒で純粋で情熱たっぷりな人柄に触れること。
 世間体や常識にとらわれず、自らの信じるところ、感じるところにあくまでも忠実に生きるその姿は、読む者に勇気を与えてくれよう。

 一つは、スピリチュアル的興味。
 ドロシーが自らが古代エジプトの巫女の生まれ変わりと知ることになったいきさつや、彼女の身の回りに起こる神秘体験の数々、夜ごとのセティ一世との官能的な交流の様子、動物(コブラやサソリさえも!)と意志疎通したり、古代エジプトの魔術を用いて病人を癒す異能ぶりなどにワクワクする。

 最後の一つは、オンム・セティの専門領域である古代エジプト文明に関わる様々な謎、とくに彼女の魂の故郷であるセティ一世神殿をめぐる謎に迫ること。
 それも、現代考古学の科学的な手段によるだけでなく、彼女の前世の記憶やセティ一世の霊を通して伝えられた情報という、学会がまともに取り上げるをよしとしないリソースをもとに迫る。
(オンム・セティが生前その存在を予言していた遺跡が、彼女の亡くなった後に発見され、存在が確かめられている)

 あるいはいま一つ、「3000年の時を超えて結ばれた真実の愛」といったハーレクインロマンス的な(『王家の紋章』的な?)読み方もありかもしれない。 
 
 いずれにせよ、この物語は映画になったら絶対に面白かろう。
 古代エジプトと、20世紀の英国とエジプトとの、二つの時代をヒロインがいったり来たりする。
 彼女はもう一人のドロシーなのだ。

エメラルド宮殿
エメラルド宮殿@「オズの魔法使い」



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● ハレルヤ! 本:『大聖堂』(ケン・フォレット著)

1989年原著
1991年新潮社より邦訳発行
2005年ソフトバンク文庫

 分厚い文庫3冊の長編。
 借りたはいいが、なかなか読み始める決心がつかなかった。
 読み始めても物語世界に入り込むまで、時間がかかった。
 2巻目に入ってからは、ぐんぐん進んだ。
 若い頃はすぐに入り込めたのになあ~。

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 邦題どおり12世紀イングランドを舞台にした大聖堂建築をめぐる人間ドラマである。
 原題 The Pillars of the Earth 「地の柱」も大聖堂の意であろう。
 だが、話のスケールは大聖堂周辺にとどまらず、中世イングランドの一時期を描いた滔々たる大河ドラマ、群像ドラマといった趣きがある。
 2010年にリドリー・スコット総指揮により全8話のテレビドラマとして制作され、日本でも『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』のタイトルで2011年に放映された。DVD化されているようだ。

 ストリーテリングの巧みさ、善人か悪人かはっきりした魅力あるキャラクターたち、喜怒哀楽たっぷりの人間ドラマ、勧善懲悪の結末といったあたりが、お国の文豪チャールズ・ディッケンズを彷彿とさせる。
 フォレットはデビュー作『針の眼』以来、ベストセラーを連発しているらしいので、すでにディッケンズ同様の国民的作家と言ってよいのかもしれない。
 ソルティはこれが初フォレットであり、本作だけで判断するのは早計かもしれないが、ディッケンズにあってフォレットにないものは、ユーモアであろう。
 ユーモアがあれば、もっとスムーズに入り込めたと思う。
 逆に、フォレットにあってディッケンズにないものは、エロ描写である。これは時代的制約で仕方ないところであるが。

 著者あとがきによれば、フォレットはこれを書くにあたり、相当入念な勉強と取材をしたらしい。
 その甲斐あって、中世イングランドの様子が、実に生々しく、リアリティ豊かに描き出されている。
 話の核となる大聖堂建築の詳細はむろんのこと、修道院の日常、庶民の生活や労働のありさま、市(いち)を中心とする経済、王位をめぐる混沌とした争い、火器のない時代の戦の模様、教会政治の権謀術数・・・・。
 聖堂の構造について説明されても、残念ながら日本人で建築シロートのソルティにはほとんど理解できないが――聖堂の構造を各部の名称とともに記した図面を載せてくれたらいいのに!――それ以外については興味を持って読むことができた。


大聖堂


 思うに、中世ヨーロッパ社会の顕著な特徴を2語でまとめるなら、「暴力と信仰」ということになるのではなかろうか。
 これは、「俗と聖」、あるいは「政治と宗教」、あるいは「城壁と聖堂」、あるいは「地上と天上」、あるいは「現実と理想」と言い換えてもいい。
 この小説では、前項のダークサイドを代表するキャラとして、代々の国王や野心家のウォールラン司教や悪徳貴族ウィリアムなどが配され、後者の光の勢力を代表するキャラとして、フィリップ修道院長をはじめとする修道士たちが配される。
 敬虔で意志強固で慈悲深く不屈の精神を持つフィリップは、世俗の暴力に幾たびも襲われる。修道院の領する町を焼かれ、町民を虐殺され、市をつぶされ、石材や職人を不当に奪われ、そのたび聖堂建立のピンチにさらされて、いったんは絶望の淵に追いやられる。
 が、信仰と忍耐と粘り強さ、それに持って生まれた知恵によって不死鳥のごとく蘇る。
 このヘラクレスのような、一休さんのような、難題解決エピソードが、この物語の一つの面白さとなっているのは間違いない。読み手は、フィリップが頓智を駆使して難題を解決し、窮地を脱出するたびに、心の中で喝采を送ることになる。
 
 ラストは勧善懲悪で、フィリップは最後にして最大の逆境を、文字通り奇跡のごとく乗り超えて、世俗勢力を圧倒する。
 なんと、フィリップがイングランド国王を鞭打つシーンで終わるのだ!
 信仰の暴力に対する、宗教の政治に対する、理想の現実に対する、聖の俗に対する勝利を表している。
 ハレルヤ!

復活の光
 
 
 しかるに、十字軍のイスラム侵攻や異端カタリ派虐殺の例を挙げるまでもなく、実際のところ、宗教こそは、教会勢力こそは、巨大なる暴力装置だった。政治と宗教は、「俗 v.s. 聖」の形で対立していたのではなく、俗世間の覇権をめぐって対立していたのが実情である。
 フィリップの敵は教会外部にだけでなく、教会内部にこそいた。ウォールラン司教や副修道院長リミジアスが恰好の例である。
 この世では、ダークサイドの力が圧倒的に強く、フィリップの求める正義や慈悲や理想は負け続ける。
 フィリップの闘いは実に孤独なものだったのである。
 
 これはぜひともDVDを観たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 阿含経典を読む10 マヤ=アルディス効果

 3月から読み始めた、ちくま学芸文庫『阿含経典』全3巻(増谷文雄訳)が読み終わって、今は引き続き、岩波文庫『真理のことば(ダンマパダ)』(中村元訳)を読んでいる。
 毎朝、少しずつ音読している。

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 この音読=声に出して読むという行為が、実に良い効果を持っていることに気づかされた。

 脳科学のほうで、音読は黙読にくらべて脳の活性化に役立つと言う説がある。
 「読む(目で追う)」にプラスして、「耳で聞く」と「口で話す」を同時に行っていて、脳の異なる部分を使用するからである。
 読んで=インプット、話して=アウトプット、聞く=インプット、という繰り返しも良い刺激になるらしい。
 夜間の睡眠で脳がリセットされている朝起きがけにやることが、とくに効果的という。
 
 真偽のほどは分からないが、朝の音読が頭をすっきりさせ、気持ちよい一日のスタートを切るのに役立つことは実感できる。
 とくに、新聞記事とかエロ小説とかではなく、お経のような一般に「ありがたい」とされるものを読むのは、精神的に良い。これに線香でも焚こうものなら、リラックス効果倍増である。鬱の人にもおすすめだ。
 子供の頃、隣家の老人が毎朝読経を欠かさなかった理由が、ようやく分かった。
 たとえ、経の意味内容は十分に理解できていなくとも、それなりの効果はあるのだ。
 そう、「読む」とは元来、「一字一字声に出して言う」ことを意味する。
 
 ソルティの場合、増谷文雄による分かりやすい和訳を読んでいたので、内容も理解しながら読むことができた。
 しかも、お釈迦様の直説(に近い)とされる『阿含経典』を音読することには、思いもかけない利得があった。
 お芝居をやる人が脚本に書いてあるセリフを口にすることで、その人物になりきっていくように、お釈迦様の言葉を口にすることで、あたかも自分がお釈迦様になって比丘や在家信者や神々や悪魔を相手に語っているような気分になれるのである。
 
比丘たちよ、人間は、現在世においても、類をもって集まり、類をもって結合する。劣れる好みを抱くものは、劣れる好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合する。すぐれた好みを抱くものは、すぐれた好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合するのである。
 
 芝居好きのソルティは、お釈迦様の声と話し方を自分なりに作り上げ、お釈迦様のセリフを言う時は、普段よりも低く響く声音で、ゆっくりと穏やかに語る。悪魔のセリフを言う時は、シューベルトの『魔王』を想像し、耳に心地よいが下心を秘めた誘惑者の調子で語る。
 そんなふうに音読していると、自分がお釈迦様になって悪魔を折伏したような心地さえしてくる。
 お釈迦様になりきることができれば、自然と行住坐臥がそれらしく整ってくる。
 これを「マヤ=アルディス効果」という(笑)。

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王女アルディスを演じる北島マヤ
(美内すずえ『ガラスの仮面』白泉社より)

 
 これにすっかりはまって、引き続き『真理の言葉』を読んでいるのだが、個人的な嗜好に過ぎないのかもしれないが、中村元の訳より増谷文雄の訳のほうが「マヤ=アルディス効果」を得やすいようだ。
 後者の訳(セリフ回し)が、ソルティの想像するお釈迦様キャラに近いからだろう。
 
 今後も、音読を朝の日課にしよう。
 
 
 

● 阿含経典を読む 9 スバッダの暴言


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増谷文雄 編訳 『阿含経典』(ちくま学芸文庫)


 お釈迦様が亡くなられた。

 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。
 「諸行無常である。生きる者の死なないことがあろうか」と。

 同じ頃、お釈迦様の十大弟子の一人であるマハー・カッサパは、500人の比丘を引き連れて、クシナーラに向かっていた。お釈迦様の後を追って遊行していたのである。
 一行が樹の根方で休んでいると、クシナーラからやって来た一人の男が告げる。
 「お釈迦様は7日前に亡くなられました」
 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。

 ――と、そのときである。
 一人の年老いた比丘が、号泣している比丘たちに向かって、こう言い放った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。われらは、かの大沙門からまったく脱れたのである。<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられたが、いまや、われらは、欲することなし、欲せざることをなさないでよいのである」
 
 この男こそ、スバッダである。
 
 お釈迦様の最期を語る崇高にして美しい物語の中にあって、このスバッダの暴言は悪目立ちしている。あたかも、清らかな流れに一杯の墨を投じたみたいに。
 それゆえ、かえって興味が引かれるのである。
 年老いた比丘なら、悲嘆にくれて正気を失っている若い比丘たちを諭したり、慰めたりしそうなものだが、逆に周囲を不快にし、場を凍り付かせるような、とんでもないことを言う。
 
 一つには、スバッダが長いこと世俗で暮らしてきて、年老いてから出家した男だからである。
 まだ修行も浅く、智慧も浅く、貪瞋痴(欲と怒りと無知)に覆われているのである。お釈迦様に憧れて出家してはみたものの、あまりのサンガの律(規則)の厳しさに、「こんなはずじゃなかった」と後悔している最中だったのかもしれない。とくに、彼のメンター(師)たるカッサパは、教団の中でもっとも厳しく律を守る人であったから、普段からあれこれ細かい注意を受けていた可能性がある。

 あるいは、スバッダは今でいうアスペルガーだったのかもしれない。
 つまり、「空気を読めない」、「他人の気持ちを推測するのが苦手」、「思ったことをすぐに口にしてしまう」、「パニックを起こしやすい」といった特徴があり、集団生活になじまないタイプである。これは脳の構造という先天的なものらしいから、当人を責めるのは酷である。
 
 スバッダの暴言を耳にしたカッサパは、さすがに阿羅漢であった。
 アスペルガー症候群なんてものは当然知らなかったが、スバッダを責めたり叱ったりすることなく(少なくともその場では)、嘆き悲しんでいる比丘たちに向かってこう言った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。友よ、世尊はかつて、こう説かれたではないか。<すべてのいとしみ愛する者といえども、生きて別れ、死して別れ、死してののちはその境界を異にする>と。友よ、かの生じ、生成し、造られ、そして壊するものにして、それが壊することなしなどという道理が、どうしてありえようか」


クロアゲハと彼岸花


 それにしても不思議に思うのは、スバッダの言葉の中味である。
 「<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられた」
 つまり厳しい規則によって、束縛され、抑圧され、管理されてきたことの愚痴を言っている。 
 思わずソルティは突っ込みを入れたくなる。
 「それが嫌なら、なんで出家したの? なんで還俗しないの?」

 別に誰から頼まれて出家したわけでもなかろうに・・・。
 親のあとを継いで檀家寺を守らなければならないとか、現在のタイ国のように一生に一度の出家が義務付けられているというわけではあるまい。
 たとえ、認識が甘く覚悟が足りないまま、いきおいで出家してしまったとしても、やってみて自分に合わないと思ったなら、還俗すればいいだけの話ではないか。我慢してまでサンガに居続ける義務などなかろうに。
 これが会社なら話は別である。給料をもらうため、生活のため、家族を養うため、ちょっとくらい嫌なことがあっても、口うるさい上司や厳しい規則があっても、我慢しなければなるまい。であればこそ、横暴なカリスマ社長が亡くなったら、葬儀の席で“心の中で”呟くことも許される。
 「これで、あの鬼社長から解放された。これからはもっと自由な社風になるだろう」
 
 スバッダの「われら」という言葉から推測するに、どうやら比丘衆の中にスバッダと同じような考えの持ち主が他にもいたんじゃなかろうか。
 カッサパの目の届かないところで、タバコを吸いながら愚痴をこぼし合っている風景が目に浮かぶ。
 「なんだよ、あの規則、意味ねえじゃん」
 「だよなー。便所のあと手を洗おうが洗うまいが、人の勝手だよ」
 「うざいんだよ、あのジジイ。いつも俺たちを見張っていやがる」
 「大方、こっちを支配したいだけなんじゃねえの?」
 (注:「トイレのあと手を洗え」という規則は仏教の「律」にはありません。たぶん・・・・)
 
 このときには、お釈迦様の名声はインドじゅうに広く知れ渡り、各地の領主から篤い尊敬と保護を受け、次々と土地や食べ物や衣類などのお布施が集まり、謁見や出家を願う者が次々と訪れ、組織は巨大化していたであろうことは想像に難くない。
 巨大組織の常で、そこは出家と言えども玉石混交、さまざまなタイプの、さまざまな癖のある、さまざまな機根(悟る潜在力)をもつ、さまざまな思いを抱えた比丘たちがいたであろう。人間関係も複雑になる一方だったに違いない。
 実際、お釈迦様は亡くなる前に侍者のアーナンダに対し、チャンダという名前の比丘の処遇について遺言を残している。チャンダは「暴戻にして非道」で、周りの人間を困らせていたらしい。お釈迦様は彼に梵壇罰を与えた。これは簡単に言うと、「誰も彼とは口をきいてはならない」という罰である。

 各人の出家の理由も、初期のように「悟りや解脱を求めて」、「なにかしら善を求めて」、「どうしようもない苦から逃れるため」といったものだけでなく、より俗っぽいものが混じってきていたのではかなろうか。
 たとえば、「釈尊メンバーとしてのステイタスが得られる」、「お布施をもらいやすいから生活に困らない」、「仲間がいるので孤独が癒される」、「世俗で働くのが嫌」、「結婚を強制するうるさい親族から逃れるため」、「集団の中でパワーゲームに興じられる(人を支配できる)」、「若い比丘たちが老後の面倒を見てくれる」、「罪を犯し村八分になった者の逃げ道として」、「厳しいカースト差別から逃れるため」等々。
 スバッダのような老人は、特に生活と老後不安の点で、出家生活に期するところがあったのかもしれない。
 
 いたずらな想像ついでに。
 あるいは、スバッダは周囲の比丘の苦しみを和らげようと思い、ジョークを言っただけなのかもしれない。悲しみに閉ざされる心を解きほぐそうと試みたのかもしれない。
 ところが、そのジョークは見事はずした。
 だれも笑ってくれなかった。
 まさに親父ギャグ。
 そのうえ悪いことに、冗談やユーモアを解することのまずなさそうな、真面目でお堅いカッサパの耳に入ってしまった。
 この場合、スバッダでなくて、スベッタということになる(――まさに親父ギャグ)。
 
 あれから2500年経った現在からみると、このスバッダの暴言こそが、カッサパをして、「お釈迦様が説かれた法と定められた律をちゃんと形にして残そう」と思わせしめ、その後の五百人結集につながったのである。いま我々が学んでいるお経が口伝として残り、仏教が生まれるきっかけとなったのである。

 そう考えると、スバッダとその暴言にたいして、仏教を愛する者は感謝しなければなるまい。



金閣寺




 
 
 
 

● 晴明と道満 本 : 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(沖浦和光著)

 2004年岩波書店

 コミック『陰陽師』のあまりに現実離れした展開にシラけた反動からか、陰陽師の実像について調べたくなった。
 恰好の本があった。

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 沖浦和光は大阪生まれの研究者で、比較文化論や社会思想史を専門としている。
 三國連太郎との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)や、当ブログでも紹介した『辺界の輝き 日本文化の深層をゆく』(こちらは五木寛之との対談、ちくま文庫)など、日本文化の周縁あるいは底辺に生き、様々な差別を受けてきた賤民について、長年調査研究し深い造詣を有している人である。
 そう、陰陽師もまた賤民の類いであった。

 いや、安倍晴明は朝廷から正四位下をもらっている貴族ではないか。宮中に出入りし帝への拝謁も許されていた官人ではないか。と反論が起こるのも当然。
 陰陽師には、晴明やその師の賀茂忠行・保憲父子のように律令体制下で国に仕え、中国由来の陰陽五行説を基盤とする占いや天文観測を行う官人陰陽師と、おそらくは渡来人を祖とし播磨地方を中心に起こり、次第に各地に広がっていった民間陰陽師と、二系統あるらしい。
 賤民として差別されてきたのは後者の陰陽師であり、晴明の最大のライバルとして知られる蘆屋道満はその代表格なのである。

 近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈禱、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の製作販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった。
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事する者も少なくなかった。祈禱だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術なども併用した。彼らが「巫術」をもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫(やぶ)医者」と呼ばれていたのである。

 ちょっとした雑学であるが、「やぶ医者」の語源は藪医者ではなくて野巫医者、すなわち「在野で巫術(=シャーマニズム)を行う医者」だそうである。
 なんか蘆屋道満のほうが好感持てる。

晴明と道満
晴明と道満(『北斎漫画』より)


 歴史上人物としての安倍晴明は、現在小説やコミックや映画などで描かれる呪術を駆使するスター超能力者とは違っていたらしい。
 
 史料を調べてみると、安倍晴明が式神を使ったり呪詛を行った事実は出てこない。晴明を含めて平安中期の官人陰陽師が、式神を操ったり、呪詛を行ったという史料は見当たらない。そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていたのである。

 晴明の確かな事跡が史料に出てくるのは、当時の朝廷貴族の日誌・記録である。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などで語られる安倍晴明像は、すべてその死後に語り紡がれた説話であって、実際にあった史実ではない。

 巷間に流布されているスーパースター伝説が語られるようになったのは、室町時代初期に晴明自筆(むろんウソ)と言われる『簠簋(ほき)内伝』という書が現れてからという。

 耳目を惹きつける奇想天外な伝説を喜んで受け入れ、聞き、物語ったのは、むろん第一に庶民であったろう。
 が、もともとの道満系の民間陰陽師たちもまた、自らのステイタスを高めるために、商売繁盛のために、「われこそは晴明の末裔なり」といった流儀でスーパースター伝説を利用したようだ。

 ジブリの映画『かぐや姫の物語』や永久保貴一の漫画『カルラ舞う』に登場する木地師の人たち――彼らもまた被差別の民であった――が、「自分たちは惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫」と称し、山中を移住し暮らしていたのは知られるところである。
 身分社会において差別されてきた人々が、自らのルーツをかえって身分社会の高いところに求めようとするのは、なんとも切ないことである。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 本:『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎監修)

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2019年(株)カンゼン

 人類の歴史上、江戸時代の日本くらい男色天国だった場所は、そうそうないだろう。
 比肩できるのは、古代ギリシアと古代ローマくらいか。
 ま、ソルティは同性愛の歴史にはたいして詳しくないのだが・・・。

 「ある時代に、ある国が、同性愛に寛容であった(ある)かどうか」にもっとも強い影響をもつのは、間違いなく宗教である。
 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の影響下にある国々では、同性愛は基本ご法度である。
 仏教は本来、異性間・同性間を問わず、みだらな性行為を戒める。これは思想的・道徳的理由というより、単に修行の邪魔になるからである。大乗仏教の流れで日本にやって来て、なぜか女色一般を禁じるものとなり、寺院では男色がはびこることとなった。
 儒教は宗教というより哲学に近いと思うが、「家」を重んじる教えは、子孫を残さない同性愛行為を喜ばない。
 ヒンズー教についてはよくわからない。イギリス支配下のインドはむろん、キリスト教道徳に洗脳された。
 
 思うに、一神教は同性愛に厳しく、多神教は寛容なのではあるまいか?
 古代ギリシア、古代ローマ、日本の共通点を探すと、多神教=アニミズム文化というあたりに手掛かりがありそうである。
 すべてのものに神を見る感性とは、つまり、「存在するものはなべて喜ばしい」と現世肯定する思想であろう。現実的に一つの現象として同性愛があるのだから、「それはそれでOKじゃん」――ってことなのじゃなかろうか。
 
 本書は、最寄りの図書館で借りたのだが、「まあ、よくこのような本を仕入れて、貸出してくれるなあ~」と感心した。
 江戸時代の少年男娼たる「陰間」について、その生態から分布から仕事ぶりまで事細かに解説しているのはともかく、掲載している図版(浮世絵)が凄い。
 チョンマゲの成人男性が、雁の張った立派なへのこ(ペニス)を少年の菊門(アナル)に挿入しているそのものずばりの図版、いわゆる春画が、カラーグラビアも含めて何十枚と載っている。もちろん、ぼかしも黒塗りもない。
 
 昭和の昔、春画を扱った映画が銀座で上映されるというので、前売りチケットを買って楽しみに待っていたら、事前に司直の手が入り、上映中止になった。
 「なんつー、野暮な!」と憤りを感じたのを覚えている。
 浮世絵人気爆発の昨今であるが、つい最近、大墻敦(おおがきあつし)監督によるドキュメンタリー『春画と日本人』が全国公開された。(ソルティ未見)
 
 日本人のアイデンティティの底にある多神教的感性(別名エロ礼讃)は、そう簡単に塗り替えられるものではないのだろう。


男色春画

 
 

● 阿含経典を読む 8 アーナンダの過失

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)は、ブッダが亡くなる最後の旅の様子を描いたお経である。


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増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)

 
 編者の増谷文雄の研究によると、この経は適切に分断すると、その各部のほとんどを『阿含経典』の他の箇所や律蔵の中に見つけることができるそうだ。
 つまり、ブッダ入滅後の阿羅漢たちによる結集で確認され暗唱されたお経ではなく、その後だいぶ経ってから、編集の趣味ある一比丘なり在家信者なりが、「偉大なるブッダの最後を物語として残そう」と、既存のお経や律などをつぎはぎして、新たに創った作品ということになる。
 おそらく、まったくゼロから作ったわけではなく、ブッダの最後の旅の行程を伝える簡素なお経――結集時から伝えられたもの――はあったのだろう。そこに肉付けして、一つの感動的なストーリーに仕立て上げたのではあるまいか。
 いつの世にも、こういった戯作者まがいはいるものである。
 
 「戯作者まがい」と言うのは、この編集者は結構抜けているのである。
 ブッダより前に亡くなっているはずのサーリプッタ長老を出演させたり(ここからもこれが結集時の作でないことは明らか)、聖人ブッダらしくないエピソードを盛り込んだりしているからだ。
 
 ソルティはとくに、この経の第3章を奇異に感じて仕方ない。
 以下のような筋立てになっている。
 登場人物は、ブッダと侍者のアーナンダと悪魔、それに最後の場面で他の比丘たちである。
  1.  ブッダがアーナンダを相手に、ヴェ―サリーやその他の霊地の楽しさを称える。
  2.  余命を悟ったブッダはアーナンダに向かって、「自分は神通力により、望めばいくらでも長生きすることができる」と言うも、アーナンダはその言葉を無視する。
  3.  アーナンダが去った後、悪魔が現れ、「今こそ涅槃すべき時」とブッダに死をすすめる。ブッダは3か月後の死を決意する。すると、大地震が起こる。
  4.  地震に驚いたアーナンダがブッダのもとに駆け付け、地震の意味を問う。ブッダは「地震の8つの原因」を説く。
  5.  ついでに、「8つの衆」、「8つの勝れた認識(勝処)」、「8つの解脱」について説く。
  6.  ブッダが、最前の悪魔との対話についてアーナンダに伝える。驚いたアーナンダは、ブッダに延命を乞い願う。が、ブッダはアーナンダの願いを却下し、「自分が死を決意したのは、さっきおまえが引き止めなかったせいだ」とアーナンダを非難する。
  7.  一転して、アーナンダに「すべての者は死ぬさだめにある」と諄々と説き、延命があり得ないことを説く。比丘たちを集め、37道品(悟りに至る37の修行法)を説き、自分が3か月後に涅槃することを告げる。

 1~7のそれぞれについて、奇異に感じる点をあげる。
  1.  この世の楽しさを讃えるようなブッダのセリフ。一切行苦ではなかったか?
  2.  神通力でいつまでも長生きできるというセリフ。諸行無常ではなかったか?
  3.  悪魔の存在は、ブッダの心の中の誘惑の声の比喩とみなしてもよかろう。聖者が自ら死ぬ時を知るのもよく聞くところである。地震の発生は、偶然でなければ比喩的表現か。
  4.  地震の8つの原因は非科学的でナンセンスである。
  5.  8つの衆、8つの勝れた認識、8つの解脱の説法は、あまり意義あるものとは思えない。『大般涅槃経』の他の章にある説法――たとえば、有名な「自灯明、法灯明」や「法の鏡」や「サンガの不退法」など――にくらべると、歯が浮くような、とってつけた感がある。戯作者により創作されたものとしても、出来が悪い。
  6.  ここがとくに理解に苦しむ。「お前が望まなかったから、私は死ぬのだ」と、自らの寿命の決定をアーナンダのせいにしている。しかも、「あそこでもそうだった、かしこでもそうだった・・・・」と、過去のことを持ち出して、しつこく何回もアーナンダを責め続ける。一体、なにこれ? パワハラ?
  7.  急にまともに戻る。「すべての生じたものは滅する」と説き、比丘たちに向かう。 

 まるで、死を前にした80歳のブッダが認知症になったか、あるいは精神不安に陥ったかのような聖人らしからぬエピソードである。
 もっとも、世間の尊敬を集めるカリスマ的リーダーが、家族など最も身近な人間に対しては極めて尊大でワガママ、というケースは結構ある。死を前にした人間が、人格障害のような精神不安に陥るケースもよくある(エリザベス・キューブラ・ロスを思い出す)。
 よもや、ここでブッダの人間らしさを表現しているのだろうか?

 続く第4章で、ブッダは鍛冶屋のチュンダの用意した食事を食べたあと体調を悪化させる。
 ブッダは、チュンダがあとから「ブッダの死の因を作ってしまった」と自身を責めなくてすむように、また比丘や信者たちから責められないように、アーナンダに前もって注意を残しておく。
 こんな細やかな慈悲深い配慮のできる人が、延命を乞わなかったことでアーナンダを責め立てるだろうか? 二千年後にも残るような激しい言葉で。
 ソルティにはとても信じられない。信じたくない。

 同じアーナンダを諫めるのであれば、次のような流れこそブッダにふさわしかろう。
  1.  ブッダは自らの死期を悟り、アーナンダに「3か月後」と告げる。
  2.  驚いたアーナンダは号泣しつつ、「神通力を使って、少しでも長生きしてください」と何度も願う。
  3.  ブッダはそれに対し、「一緒に長くいながら何を学んできたのだ。諸行無常、諸法無我と幾たびも教えたではないか!」と叱責する。

 このような過失こそ、愛すべきアーナンダにふさわしかろう。


室戸岬の涅槃像
豪華共演:涅槃するお釈迦さまとそれを守る弘法大師
(高知県室戸岬にて)







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