ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 漫画:『陰陽師1~13巻』(画:岡野玲子、原作:夢枕獏)

2005年白泉社より最終巻発行

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 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を主人公とする歴史オカルトファンタジー。
 幻想的で耽美な世界を構築する岡野の画力と、平安風俗や陰陽道に関する研究熱心さは、賞賛に値する。

 しかるに、これは夢枕獏の原作を読んでいる人が、「原作がどのように劇画化されているか」を楽しむ作品であろう。
 原作を読んでいないソルティのような者にとっては、清明によってしばしば繰り広げられる陰陽五行説の専門的な説明ははなはだ難しく、煩わしく、物語への興味をそがれる。
 巻が進むほどにそれが顕著になり、内容も理解できぬまま字面を追っていることになる。

 しかも後半、清明がどんどん神(あるいは魔?)がかってきて、実在した歴史上の人物らしさを失い、受難を負ったイエス・キリストみたいなカリスマ的存在になっていく。
 なんだかなあ~。
 怪異ミステリーとして純粋に物語的面白さを楽しめる前半が良い。

 実際の安倍晴明は、あの藤原道長の権力固めに協力したようで、本作の清明とも、羽生結弦の清廉高潔なイメージとも異なり、かなり老獪なる狸オヤジだったのではなかろうか。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 




● 平安宝塚 本:『はなとゆめ』(冲方丁著)

2013年角川書店

 タイトルといい、表紙絵といい、ベタなまでの少女趣味に、図書館のカウンターに持っていくのが、オジサンちょっと恥ずかしかった。
 装画は、北沢平祐というイラストレーターによる。
 カラフルで柔らかいタッチの絵を描く人である。

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 一条天皇の妃であった中宮定子の晩年の数年間を、女房として仕えた清少納言が物語る、半分ノンフィクション、半分フィクションの伝記といったところ。
 別記事『枕草子のたくらみ』に見たように、『枕草子』だけを読んでいては分からない、当時の凄まじい政争や、一時は頂点を極めながらも藤原道長に蹴落とされ転落していく定子一家の受難や、その嵐の中で凛と気高く生きて王朝最高の「華」を咲かせた定子の生きざまが、史実を踏まえながら、そこに『枕草子』の記述や「我こそは中宮の番人」と自負する清少納言のモノローグを編みこむようにして語られていく。
 冲方丁(うぶかたとう)の本はこれがはじめてだが、非常に巧みな、力ある書き手という印象を持った。

 『枕草子』の有名な段である「香炉峰の雪」、「九品蓮台」、「すさまじきもの(除目の話)」などを、ストーリーにうまく組み込んでドラマを盛り立てる手腕が鮮やか。
 平安風俗や宮中行事など煩瑣な注釈が必要となりそうな事柄を、簡潔にわかりやすく、よどむところなく伝える文章力もすばらしい。

 ここでもまた、定子への尽きせぬ愛が『枕草子』誕生の最大のモチベーションとなっている。
 同性からこれほど慕われた女君が、日本の歴史上、ほかにいるだろうか。
 定子サロンって、ある意味、宝塚に近かったのかも。
 そう思うと、一昔前の少女漫画のようなベタなタイトルと表紙絵も腑に落ちる。



おすすめ度 :★★★★ 

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『描かれた被差別部落 映画の中の自画像と他者像』(黒川みどり著)

2011年岩波書店

 部落解放同盟による映画『橋のない川』上映阻止事件について調べていたら、この書に行き当たった。
 著者の黒川みどりの講演を聴いたことがある。ドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』の上映会に際してであった。日本近現代史を専門とする大学教授で、部落問題についてくわしい人である。

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 本書は、「戦後における部落問題の変遷を映画作品を通して明らかにしようとする」試みで、題材として取り上げられている映画は以下の通り。
  1.  1947年 木下惠介監督 『破戒』
  2.  1960年 亀井文夫監督 『人間みな兄弟 部落差別の記録
  3.  1962年 市川崑監督 『破戒
  4.  1969年 今井正監督 『 橋のない川 第一部
  5.  1970年 今井正監督 『橋のない川 第二部
  6.  1986年 小池征人監督 『人間の街――大阪・被差別部落』
  7.  1988年 小池征人監督 『家族――部落差別を生きる』
  8.  1992年 東陽一監督 『橋のない川』
 今のところソルティが観ているのはリンクを付けた4作品だけなので、本書での著者の所論についてコメントする立場にはない。
 単なる感想を言えば、たいへん興味深く、面白かった。
 映画評論としても読めるし、部落問題の研究書としても啓発的であるし、マイノリティの解放運動における芸術表現のありようを考えるといった視点からも考えさせられることが多かった。

 3つめの「マイノリティの解放運動における芸術表現のありよう」というのは、たとえば、こういうことである。
 
部落問題の深刻さ、部落外との格差の大きさを強調すればするほど、それは差別の徴表を際だたせることになり、そこからは、被差別部落の作り手と被差別当事者の一致する範囲を超えて、当事者が望まない被差別部落表象が受け手の側に生まれることも十分にありうる。(表題書より引用)
 
 つまり、きびしい差別の現実を深刻に描けば描くほど、当事者に付与されているスティグマ(=マイナスイメージ)を強固にしてしまい、映画を観る非当事者の間に、さらなる差別意識を植えつけてしまうリスクがある、ということだ。
 基本的にはこれが、解放同盟が今井正監督『橋のない川』を批判し、上映阻止行動に走った要因と思われる。

 一方、当事者自身が自ら望むスタイルと内容でもって――たとえば、「ブラック・イズ・ビューティフル!」とか「ゲイプライド!」といったような――自己表現したときに、当事者の自己肯定を高める効果は見逃せないものの、それが果たして社会にどれだけのインパクトを与えられるかというと、いささか心もとない感がある。
 なぜなら、この情報過多&スポンサー重視&刺激追求社会で、少しでも多くの人に視聴してもらい、感情を揺り動かし、マイノリティの置かれている現状に関心を持ってもらい、運動を支援してもらうためには、残念ながら、受け手に「ショックを与える」演出が求められるからである。
 とりわけ、なんらかの政治的成果を短期間で得たいならば、メディアに取り上げられ、世論を動かし、政治家が重い腰を上げたくなるような「悲劇的物語」が望まれる傾向がある。
 
 これはなにも部落問題に限ることなく、障害者、LGBT、在日外国人、アイヌ、HIV感染者、ハンセン病患者などマイノリティ全般に共通する解放運動上のジレンマと言えよう。 
 本書の副題にある「自画像と他者像」とはそういった意味合いと思われる。
 当事者自身が望んで描く「自画像」と、多くの非当事者からなる社会が期待しイメージする「マイノリティ像(=他者像)」との間には、少なからぬギャップがあるのだ。

 そこで、老獪なる運動家であるほど、ぬらりくらりとした戦略をとる。
 ある政治的局面では、社会が望む「他者像」をとりあえず肯定し、自らもそのように振舞い、余人の注意を引きつける。別の局面では、社会から押し付けられる「他者像」を否定し、自ら望む「自画像」を訴え出る。
 よっぽど当事者のスティグマを強化しそうに個人的には思われる1960年『人間みな兄弟 部落差別の記録』が解放同盟のお墨付きを受けたのに、それよりもずっとソフトな内容と思われる1969、70年の今井正版『橋のない川』が同団体から批判の矢を浴びたのは、そういった時代・政治的背景や当事者の権利意識や自己表現力の向上といった点を考慮に入れる必要があるのだろう。
 
 いずれにせよ、芸術作品というものは、作った人間の意図を離れて、時代や地域や文化や大衆の意識の変化などに応じて、様々に評価され、様々に解釈され、様々に翻案・脚色・編集・演出され、新しい命を与えられる。
 それが芸術作品の宿命であり、特権なのだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 世界十大小説 TVドラマ:『赤と黒』(ジャン=ダニエル・ヴェラーグ監督)

1997年フランス・イタリア・ドイツ合作
200分

 1954年にイギリス作家サマセット・モームは「世界の十大小説」を発表した。
  1. ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、1749年イギリス 
  2. ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、1813年イギリス 
  3. スタンダール『赤と黒』、1830年フランス 
  4. オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』、1835年フランス 
  5. チャールズ・ディッケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、1850年イギリス 
  6. ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、1856年フランス 
  7. ハーマン・メルヴィル『白鯨』、1851年アメリカ 
  8. エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、1847年イギリス 
  9. フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、1879年ロシア 
  10. レフ・トルストイ『戦争と平和』、1869年ロシア
 欧米ものばかりに偏っているのが解せない。
 たとえば、アーサー・ウェイリーによって1933年には英訳されていた『源氏物語』や、1936年に出版されたマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』が入っていないのは、個人的には不可解かつ不愉快である。

 ともあれ、ソルティはこの中で、1と4と7が未読。
 他の作品もおおむね20代までの青臭い頃に読んでいるので、人間関係の機微など汲み取りようもなく、深く理解して読んだとは到底言いかねる。
 今後、古典作品を読み直していきたいと思っている。
 その点で、長くなった老後には意味があろう。

 『赤と黒』のフランス文学における地位は、日本文学における『源氏物語』みたいなものだろうか。
 映画では、美男の貴公子ジェラール・フィリップが主役のジュリアン・ソレルを演じた、1954年版が有名である(ソルティ未見)。
 たしか、「赤」は軍服を意味し、「黒」は僧服を意味するのではなかったか?

 美しい人妻と、若く野心的な青年の道ならぬ恋を描いた話である。
 この種のテーマはフランス文学のお家芸みたいなもので、すぐに思いつくだけでも、『ボヴァリー夫人』、『クレーヴの奥方』、『椿姫』、『アドルフ』、『エマニエル夫人』などが上がる。(最後のはちがう?)
 おそらくそのルーツをたどると、『トリスタンとイゾルデ』に代表されるような中世騎士道における王妃への敬愛の念あたりにあるのだろう。
 さらに、そのまたルーツをたどれば、聖霊の妻たる聖母マリアに対する信仰か?
 
 本作はテレビドラマとして制作されたものだが、映画と言っても通るくらい、野外ロケも屋内ロケもセットも美術も撮影もカメラも演出も、すべてにわたって丁寧かつ贅沢にできていて、見ごたえがある。
 ジュリアン役のキム・ロッシ・スチュアートは、まさにフランス美青年。すらりとした体型と翳りある眼差しが魅力で、恋と野心で身を滅ぼす孤独で生真面目な青年を熱演。
 不倫相手のレーナル夫人役は、シャネルのモデルを務めていたこともあるキャロル・ブーケ。まさにクールビューティという言葉がぴったりの、彫像のような醒めた美貌の持ち主。ダニエル・シュミット監督『デ・ジャ・ヴュ』(1987)で見せた神秘的な美しさが記憶に強い。
 当然、二人のラブシーンがたびたび出てくるのだが、残念ながらそこはテレビドラマのことゆえ、エロチックには欠ける。
 
 ナポレオンが失墜したあとの19世紀初期フランスが舞台で、コスチュームプレイ(時代劇)としても十分楽しめる。
 個人的には、このような大仰で激しい恋愛ドラマには辟易するが・・・。


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キム・ロッシ・スチュアートとキャロル・ブーケ



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 阿含経典を読む 7 悟りの方程式

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)も3巻目に入った。
 前2巻で採録された「相応部経典」から離れて、「中部経典」、「長部経典」、お釈迦様の最期の日々を伝える「大般涅槃経」、お経誕生の経緯を記した「五百人の結集」などが取り上げられている。


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 しょっぱなに登場する「数学者モッガラーナの問い」(中部経典107)が興味深い。

 数学者モッガラーナの問い、「法と律とにおいて、順序をふんで学ぶべきこと、順序をふんでなすべきこと、順序をふんで行くべき道はあるか」に対し、お釈迦様が答えたお経である。
 すなわち、仏教において、悟りあるいは解脱にいたるための段取りが記されている。

 お釈迦様は次のような順序を語る。
  1.  すべからく戒を具する者となれ
  2.  すべからく諸根(6つの感覚器官)の門を守るがよい
  3.  食において量を知るがよい
  4.  行住坐臥のつつしみを修することに専念するがよい
  5.  すべからく正念(ただしい気づき)と正知(ただしい智慧)を身につけるがよい
  6.  ただ一人して住すべき人里はなれた空閑処をえらび、結跏趺坐し、身を正して、正念が目のあたりに現前するがごとくにして坐するがよい
  7.  五蓋(貪欲・瞋恚・惛眠・掉悔・疑惑)を除き、心を清浄にするがよい
  8.  さすれば、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に至る
 相手が数学者だけに、お釈迦様もあたかも方程式を解くように、理路整然と語られたのだろう。
 
 上記7にある五蓋(ごがい)とは、禅定をつくることを妨げる五つの心のはたらきのこと。
 テーラワーダ仏教の比丘であるスマナサーラ長老と、浄土真宗誓教寺住職・藤本晃共著による『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』を参考に、簡潔に定義すると、
  • 貪欲(どんよく) ・・・・色声香味触の刺激を受けたい気持ち
  • 瞋恚(しんに)    ・・・・怒り
  • 惛眠(こんみん) ・・・・心が小さく縮こまること、眠くなること
  • 掉悔(じょうご) ・・・・混乱すること、後悔すること
  • 疑惑(ぎわく)  ・・・・ブッダの教えを試そうともせず、ただ嫌がって拒否すること

 ソルティは五蓋のうち、とくに惛眠につけこまれやすい。
 いや、日本人は意外とその傾向が強いのか、たまに瞑想会などに参加すると、みな瞑想の合間にコーヒーばかり飲んでいて、指導してくれる外国のお坊さまをあきれさせたりする。
 電車の中の居眠りも日本人の得技で、外国ではなかなか見られない光景という。

車内睡眠

 
 また、掉悔(じょうご)について言えば、仏教では後悔はNGである。
 
 仏教では後悔は罪だと思っています。「後悔する人は罪を犯している」と考えます。「悔い改める」という言葉がありますが、天国に行きたければ、「悔やんで改める」のではなく、ただ「改める」だけにした方がいいのです。
 
 瞑想するときも開き直った方がいいのです。今までどんな悪いことをしていても、そんなものはどうでもいい、と開き直って明るい心で始めるしかないのです。後悔すると、過去の失敗や罪を思い出すと、心が暗くなってエネルギーが消えます。それで超越的な知識が生まれなくなります。

(『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』、サンガ文庫)
 
 何十人をも殺害した凶賊アングリマーラでさえ、お釈迦様と出会って改心し、修行して、阿羅漢となれた。
 仏教の楽天性、ここに極まれり。




● 本:『平安人の心で「源氏物語」を読む』(山本淳子著)

2014年朝日新聞出版

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 『枕草子のたくらみ』が面白かったので、同じ著者の今度は『源氏物語』をテーマにしたエッセイを読んでみた。
 『源氏物語』54帖のあらすじを紹介しながら、平安貴族社会の風俗や慣例や人々の価値観を、同時代の様々な古典文学からのエピソードをも引いて、通勤電車内で読めるような軽いタッチで教えてくれる。
 それらを知ることでまた、紫式部と同時代を生き、『源氏』の書写本を手にした読者の心に寄り添い、より深く、より面白く、『源氏』を読むことができる。
 たとえば、「秘密が筒抜けの寝殿造」、「平安京ミステリーゾーン」、「伊勢の斎宮と賀茂の斎院の違い」、「女性を三途の川で待つ“初開の男”とはなんぞや?」、「ヒゲ面はもてなかった」、「平安の医者と病」、「親王という生き方」、「平安の葬儀」、「平安の不動産事情」、「平安貴族の勤怠管理システム」等々、『源氏』ファンのみならず、王朝文学好きにとって、知って得する雑学のオンパレードである。

 また、山本は、紫式部が『源氏物語』を執筆した動機の一つとして、一条天皇の中宮・定子の悲惨な晩年をリアルタイムで目撃したことを上げ、一条天皇と定子との宿命的な恋愛こそが、『源氏』の桐壷帝と桐壺更衣のそれのモデルとなった、という説を掲げている。
 紫式部自身は、同じ一条天皇の后となった藤原道長の娘・彰子の女房であったので、「ライバルのお姫様のことを題材にするかなあ~」と単純に思いそうだが、実は、紫式部が『源氏』の執筆に手を染めたのは、彰子に仕えるよりも前のこと。
 それなら、十分あり得る。


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ポプラ社の古典文学全集


 さて、ソルティと『源氏』との出会いは、小学校高学年のとき。
 親に買ってもらったポプラ社の中学・高校生向け『古典文学全集』(上画像)のシリーズ中の一冊であった。
 編者(訳)は国文学者の塩田良平。
 同じシリーズの『平家物語』が平氏滅亡の話なのに、なんで『源氏物語』には源頼朝や牛若丸こと義経や弁慶、そして北条政子は出てこないんだろう?――と不思議に思った。
 大人の色恋沙汰などわかるはずもなく、ましてや「もののあはれ」など爪の先ほども感じ取れなかったけれど、なぜか面白くて、はまった。
 ロスト・セレブ・コンプレックスはこの頃から発動していたのだ。
 
 その後、高校時代の古典の授業をはさみ、大学生になってから「与謝野源氏」を、社会人になって「谷崎源氏」を読んだ。
 むろん、前者は情熱の歌人・与謝野晶子の、後者は究極の女性崇拝者・谷崎潤一郎による現代語訳である。
 この二人の輝かしい文豪による『源氏』を読んでしまうと、それ以降の現代作家による『源氏』にはなかなか手が出せなかった。
 橋本治の『窯変源氏物語』(1993年中央公論社)には執筆時より惹かれるものがあったが、完結してから読もうと待っていたところ、完結したらあまりにも長いので、怖じて手が出せないでいる。
 
 ここ最近、また『源氏物語』の新訳の刊行が続いている。
 当ブログでその著書『本当はエロかった昔の日本』ほかを紹介した大塚ひかり(2010年ちくま文庫)、リンボウ先生こと林望(2013年祥伝社)、流行作家の角田光代(2020年河出書房新社)などである。
 
 大塚や山本の著作で知られるように、新しい知見や視点からの文学研究の成果が蓄積されている。
 また、20代で読んだ『源氏』と、50代で読む『源氏』は違って然るべきだろう。
 そろそろ新訳に挑戦してみよう。




おすすめ度 :★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 





 

● 本:『悪霊論 異界からのメッセージ』(小松和彦著)

1989年青土社

 『神隠しと日本人』、『日本妖怪異聞録』に続く3冊目の小松ワールド。

 
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 この著者の書くものには、学術志向(専門書)とエンターテインメント志向(娯楽教養本)の中間をねらった、巧みな販売戦略を感じる。
 べつに悪口ではない。
 民俗学というものが、そもそも日常生活に密着した学問ゆえに親しみやすい様相を呈しているところに、この著者の専門領域が、「妖怪、憑依、シャーマニズム、幽霊、異人、神隠しe.t.c.」といった怪異全般と来ている。
 ソルティのようなオカルト好き、スピリチュアル・マニアの読者の気を惹かぬわけない。(副題のつけ方も確信的)
 
 タイトルになっている悪霊論のほかに、「異人殺し伝説、村八分、天皇制、鬼と雷神、稲荷と狐」などに関する論考が並んでいる。
 現代日本人が忘却したフォークロア(伝承)の数々に、昔の人間の迷信深さや信心深さ、非科学的精神をみるのはたやすい。
 が、それとともに、こうしたフォークロアが、共同体を守るための恰好の仕掛け、いわゆる「方便」として働いていたことも考慮すべきである。
 神隠し現象に見るように、あえて身も蓋もない真実を暴き出して共同体崩壊の危機を招くよりは、とりあえず誰もが納得できる共同幻想(=物語)を創作し、成員がそれを信じるふりをして、真実を闇に葬る。
 怪異を伝える伝承にはそういう側面もあったのだ。
 
 いや、現代日本人がそこから脱したとは到底言えない。
 たとえば、天皇制はいまも日本最大の共同幻想であろう。
 
 前近代の民俗のなかには天皇の姿をはっきりと認めることができない。
 ところが、近代に入って、天皇制国家の成立とともに、村落共同体を変容させる新しい都市文化・西欧文化と一体化しつつ天皇が村の中に入り込んでくる。
 そこで、民俗学は、どうして民俗社会はいともたやすく特殊イデオロギーに支えられた明治の天皇制国家観つまり天皇信仰を受け入れたのか、と問うことになった。
(本書第2章、「天皇制以前あるいは支配者の原像」より。以下同)
 
 江戸時代の庶民や百姓は、天皇信仰など持っていなかった。
 ときの将軍様の名前は言えても、ときの天皇が誰かは知らなかったであろう。
 明治になって、天皇信仰は津々浦々に入り込んだのである。
 
 上記の問いに対する、小松の同業者である伊藤幹治(いとうみきはる、1930-2016)の結論を紹介している一節が興味深い。
 
 彼(ソルティ注:伊藤幹治)は、家族国家観という近代天皇制の特殊イデオロギーを「家」の原理から把握しようとする。
 そして、柳田国男や有賀喜左衛門などの「家」研究と神島二郎などの政治思想史や法制史などの研究を重ね合わせることで、家族国家観とは「家」と国家という異質の制度を接合しようとした特殊イデオロギーであったが、このイデオロギーが半世紀近くもこの日本社会に存続し続けたのは、集団の統合原理として人びとの間で機能していた「家」とそれを支えるための民俗的イデオロギーとしての先祖観が存在していたからだ、という結論に達した。
 つまり、国家が「家」に、「家」の先祖が天皇家の神話的先祖に擬制され、それを通じて国家という最大の「家」が創出され、すべての国民がその「家」の「家中」(=子分)にされてしまったというわけである。
 
 木下惠介の映画『陸軍』を想起した。
 
 日本人の天皇観や天皇との距離感は、時代によって、地域によって、身分や職業によって、かなり異なるはずである。
 天皇が「現人神」であった大日本帝国時代はむろんのこと、メディアの発達した現在の我々のほうが、たとえば江戸時代の庶民より、よっぽど統一的・画一的な天皇観を抱かされているのかもしれない。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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●  本 :『かもめ』(チェーホフ作)

1896年初演
2010年岩波文庫(訳:浦雅春)

かもめ


 「演劇史に燦然と輝く名作」と称されるチェーホフ『かもめ』をはじめて読んだ。
 むろん、舞台も見たことない。

 読んでみて、正直、「なんでこれが名作なの?」という思いが湧いてくる。
 登場人物こそ多くて、恋愛模様こそ賑やかであるが、舞台上では事件らしい事件も起こらず、単調で退屈な筋立てである。
 「結局、何が言いたいの!?」と思わず呟きたくなる。
 実際の舞台を見れば、また印象が違うのだろうか?

 ――と思って、はたと気づいた。

 まさにこうやって、非日常的なドラマチックな事件を求める心の習性が、日常を蝕んでいく様を描いているのが、この戯曲なのだ。
 登場人物のだれもが、「今ではないいつか」、「ここではないどこか」、「この自分ではない理想の自分」を求めて葛藤し、現在を否定し、欲求不満に陥っている。
 子どものように「いまここ」に安らいで幸福を味わうことのできる感性をとうの昔に喪失し、不毛な人間関係と中身のないセリフのやり取りだけが舞台上に繰り広げられる。
 つまり、現代人の多くが陥っている状況が描き出されている。

 今回のコロナ禍のポジティヴな面をしいてあげるとすれば、平凡な日常の営みの価値を気づかせてくれたことだろうか。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1965年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1960年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

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思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(ジョージー・ルーク監督)

2018年アメリカ、イギリス
124分
原作 ジョン・ガイ著『Queen of Scots : The True Life of Mary Stuart』

 王位をめぐる2人の女性を主人公とする物語と言えば、美内すずえ『ガラスの仮面』の劇中劇『ふたりの王女』を想起する人は多いだろう。
 春の陽射しのように明るくあたたかい王女アルディス(=北島マヤ)と、冬将軍のように暗く冷徹な王女オリゲルド(=姫川亜弓)の対立を。そして、権謀術数を駆使し晴れて女王となったオリゲルドによって幽閉されたアルディスを。

 美内すずえがあの魅力的な劇中劇を創作する際の元ネタとなったのが、16世紀に実在した2人の女王、エリザベス1世とメアリー・スチュアートの熾烈な対立である。前者はイングランドの、後者はスコットランドの女王。エリザベスの父親(ヘンリー8世)とメアリーの祖母とが、同じヘンリー7世を父とする姉弟という間柄にあった。

 エリザベスとメアリーが対立し続けた一番の原因は、メアリーが「自分こそは正当なイングランドの王位継承者」と名乗り続けていたことにあった。
 エリザベスとしては、むろん、面白くない。
 そのうえに、ヘンリー8世がカトリック教会と袂を分かってイギリス国教会を創設したことに象徴されるように、当時のイングランドもスコットランドも、宗教改革および新旧キリスト教徒の対立の嵐が吹き荒れていた。
 カトリック教徒のメアリーと、イギリス国教会で洗礼を受けたエリザベスは、両派の激しい攻防の矢面に立たされ、宗教戦争に巻き込まれざるを得なかった。(教皇庁はむろんメアリーの正統性を支持した)
 二人は、生まれながらにして対立すべく運命づけられていたのである。


メアリーとエリザベス


 君主としても、女性としても、二人は対照的な生涯を送った。
 スペインの無敵艦隊を破り、絶対君主として40年以上イングランドを統治した歴史の勝者、エリザベス。
 夫の死によってフランス王妃の座を失い、陰謀により故国スコットランドの王座も追われ、エリザベスの庇護を求めてイングランドに亡命するも、そこで19年間幽閉されたあげく処刑されたメアリー。

 処女王と綽名され、結婚もせず子供も持たず、国家に自らを捧げたエリザベス。
 政略結婚を退けて自由恋愛し、生涯3人の夫を持ち、子供(のちのジェームズ1世)を生んだメアリー。

 加えて、30歳のとき天然痘にかかって美貌を失ったエリザベス。
 フランス宮廷仕込みの洗練とエレガンスで生来の美貌をさらに輝かせたメアリー。
 
 ことごとく対照的な女王たちの対立劇を後世の創作者たちが見逃すはずはなく、これまでに舞台や小説や映画やオペラなど数々の作品のモチーフとなってきた。
 ソルティがもっとも感銘を受けたのは、ドニゼッティ作曲のオペラ『マリア・ストゥアルダ』である。(メアリー・スチュアートのイタリア語読み)
 このオペラはまさにエリザベート(エリザベス)とマリア(メアリー)の対決を軸に据えていて、クライマックスでは、文通はしていたものの実際には一度も会ったことがない両者を、マリアの幽閉されているイングランドの城内でまみえさせるという、まさに美内の『ふたりの王女』さながらの名場面が展開される。

 おのれを幽閉している相手に助命を乞わなければならないマリアは、政治的敗者として屈辱を味わう。が、マリアを助けようと陰で骨を折っているのがエリザベートの思い人のレスター伯であってみれば、エリザベートもまた恋の敗者として屈辱を味わせられる。
 案の定、会うや早々、2人は互いを「売女」と罵倒し、会合は決裂する。
 全曲中、もっともスリリングで固唾をのんで視聴するシーンである。
 このオペラが上演された当初、エリザベート役のソプラノ歌手とマリア役のメゾソプラノ歌手が役にのめり込み過ぎて、互いの悪口を本気にとってしまい、舞台上で乱闘騒ぎを起こし、業を煮やしたドニゼッティが「二人とも売女だ!」と口走ったという、楽しいエピソードが残されている。


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ソルティ所有の同オペラの CD ジャケットより
エリザベートがアグネス・バルツァ、マリアがエディタ・グルベローヴァ
という最高の布陣(指揮はジュゼッペ・パターネ)



 この映画でもまた、エリザベスとメアリーの生涯ただ一度の会合を設定し、そのクライマックスに向けて、2人の女王の対照的な生き方が描かれていく。
 原題に Mary Queen of Scots 「スコットランドのメアリー女王」とある通り、主筋はフランスからスコットランドに女王として戻り、結婚および出産、陰謀によって王位を奪われ国外逃亡、イングランドで処刑されるまでのメアリーの苦難の半生である。
 メアリーを演じるシアーシャ・ローナンの気品ある柔らかな美しさは、まさにフランスの貴婦人そのもので魅了される。
 友人でもあり侍女でもある4人の娘たちとの女子会ノリのふざけ合いや、経血の手当てをするシーン、ゲイの家臣に対する寛容な振る舞いなどにフェミニズム的感性を強く感じたが、なるほどジョージー・ルークは女性監督であった。
 メアリーは、最初から最後まで、“精神的には自由な”一人の女として描かれる。

 一方のエリザベスは、イングランドと自己の地位を守るために女としての幸福を投げ捨て、男の論理と非情を身にまとう。
 政治的勝者にはなったものの、一人の生身の女として、メアリーに対する嫉妬と引け目が隠せない。
 譬えれば、男社会の中で孤独に闘い抜き、結婚生活も母たることも諦め、功成り名を遂げた女社長が、恋愛結婚して母となったものの最後は生活保護の「おひとりさま」になった、かつての同級生に対して抱くような思い・・・(よ~、わからんか)。
 ある意味、エリザベスもメアリーも、男社会の犠牲者という点では等しく敗者なのである。

 エリザベスは、在位長くして地位が安定するにつれて、孤独と猜疑心と憂愁の色を深めていく。
 天然痘の後遺症によって永遠に失われた容姿を、ピエロのような白粉の厚塗りと派手な赤毛のカツラで隠したその姿は、まるでホアキン・フェニックスの『ジョーカー』の誕生さながら。
 そう、孤独と絶望とがエリザベスをいつのまにか怪物にしたのである。
 彼女もまた、自由のきかない「囚われ人」に過ぎなかった。
 マーゴット・ロビーは、女優生命をかけたような渾身の演技を披露している。

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マーゴット・ロビー演じるエリザベス1世

 
 脚本、音楽、映像、役者の演技、美術、どれも素晴らしく、見ごたえある時代劇に仕上がっていて、あっという間に16世紀英国に引き込まれた。
 当時の時代背景や2人の女王の関係をざっと予習してから観るのがベター。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 
 

● 本:『殺人者と恐喝者』(カーター・ディクスン著)

1941年原著刊行
2004年原書房

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 黄金期本格推理小説の大御所の40年ぶりの新訳。
 原題は、Seeing Is Believing 「百聞は一見に如かず」。

 今読むと、殺人トリックも名探偵メリヴェール卿の推理もかなり荒唐無稽で、子供だましな感がする。
 真犯人の殺人動機を隠蔽する叙述トリックもまたフェアとは言い難い。
 しかし、巧みなストーリーテリングと会話の上手さ、そして平易な言葉で簡潔に状況を描写する文章力に、巨匠の腕前を見る。

 クリスティやクイーンもしかり。
 奇抜なトリックや明晰な推理で読者を唸らせる以前に、物語作家としての天分がすごいのだ。
 だから、ついつい夜更かししてしまい、他の作品にも手が伸びてしまい、気づいたら書棚の一角を占めることになる。

 カーター・ディクスンはなぜか未読が多い。
 これからの楽しみとする。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 

● さだこ、鎮魂 本:『枕草子のたくらみ』(山本淳子著)

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2017年朝日新聞出版

 時折り思い出したように『枕草子』を本棚から手に取っては、あちらの段こちらの段、抜き読みする。
 『枕草子』全段は、内容からして次の3つに分けられる。
  1.  巻頭の「春はあけぼの・・・」や「すさまじきもの」、「遠くて近きもの」のような、物づくし
  2.  作者・清少納言の鋭敏な感性や個性的視点の光る短いエッセイ
  3.  清少納言が女官として仕えた定子皇后サロンをめぐる実録
 ソルティが心惹かれ、抜き読みするのは、このうち3の実録である。
 ここには、藤原北家による摂関政治最盛期の後宮の様子がありありと描き出されている。
 そこが、英国上流階級の内輪を描いた『ダウントン・アビー』や、鎌倉期の宮廷の色恋沙汰を暴露した『とはずがたり』にも似て、ソルティのロスト・セレブ・コンプレックス(失われた上流階級の暮らしを追慕する何のメリットも意義もない道楽)を刺激するのである。
 
 稀代のミーハーおばさんだった清少納言の手によって紙上に再現される定子皇后サロンの華やかさ、明るさ、豪奢で風雅なさまは、庶民にとって文字通り「雲の上」の話である。
 これに匹敵する後宮サロンは、マリー・アントワネットのプチ・トリアノンだろうか。
 ホステスたる定子は、アントワネットの数倍も教養高く、賢く、ユーモア精神あふれ、后としての気高さも器も十分備え、女官たちを取りまとめるリーダーシップも合わせ持っていた。美貌については言うまでもなく。
 であればこそ、有名な歌人を祖先に持ち、頭脳明晰で男勝りのところある清少納言は、自分より10歳も年下の定子にぞっこんになったのである。
 結婚した時はまだ11歳だった一条天皇は、4つ年上の定子に夢中になったのである。
 
 この定子皇后サロンを舞台に、一条天皇はじめ、定子の親兄弟や親族、位の高い貴族連中、清少納言の元亭主や同僚の女官たち、それに下位の役人や洛内の下郎の者にいたるまで、さまざまな実在の人物が登場し、機知に富んだ会話をしたり、ふざけ合ったり、思わせぶりな和歌を交換したり、楽器演奏したり、ゲームに興じたり、賭けごとしたり、羽目を外したり、儀式に参列したり、昔話や噂話をしたり、花鳥風月を愛でたり、お洒落したり、裁縫したり、ナンパしたりされたり・・・・。
 そんな楽しくにぎやかな日常が描き出される。
 それはまさに、同時代の紫式部の『源氏物語』の「あはれ」の対極に位置する「おかし(=興趣をそそる)」の文学であり、あたたかい春の日差しのような陽のイメージである。

 実際、読んでいて思わず口元が緩んでしまうエピソードが多い。
 たとえば、「これまでに誰も見たことのないような、素晴らしい扇の骨を手に入れた」と自慢する定子の兄(藤原隆家)の言葉に、すかさず清少納言は突っ込む。
「それなら、きっとそれは扇のではなくてクラゲの骨でしょう」
 ぎゃふん!

クラゲ


 ところが、『枕草子』に書かれていることだけでなく、書かれていないこと、すなわち当時の政治状況を頭に入れて読み直したとき、『枕草子』の持つ陽のイメージは極めて不思議、というか不可解に映る。
 というのも、この実録の主役たる定子皇后の人生は、それこそマリー・アントワネットや楊貴妃のそれに比べ得るような、栄華からどん底への凋落が運命づけられていたのであり、定子の傍らにいた清少納言は、転落劇の一部始終をその目で見ていたはずだからである。

 そう、清少納言は西暦993年の冬から、定子の亡くなる1000年の冬までの約7年間を女房として仕えていたのだが、栄華の頂点にいる幸福な定子を目撃できたのは、そのうちの1年半ばかりに過ぎなかった。
 995年の春に、定子の父にして時の権力者であった藤原道隆が、43歳にして糖尿病で亡くなったからである。
 残りの5年半は、坂道を転がり落ちるような凋落に次ぐ凋落、失意に次ぐ失意、およそ皇后という地位にはふさわしからぬ惨めな境遇を強いられた定子を見続けていたのであった。

● 定子皇后の悲劇の遍歴
995年春
 父、摂政・藤原道隆が糖尿病により死亡
同年5月
 叔父・藤原道長が天皇を後見する地位につく
 兄・藤原伊周と隆家が花山法王に矢を放つ愚挙を起こし逮捕され、流罪となる。
 定子、出家する
996年6月
 洛内の自宅が焼失し、親戚の家に身を寄せる
同年10月

 母、高階貴子死亡
同年12月

 一条天皇の第一皇女を出産
999年11月

 藤原道長、娘・彰子を一条天皇後宮に入れる
 定子、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産 
1000年2月

 道長、娘・彰子を強引に皇后に据える(二后冊立)
同年12月
 定子、一条天皇の第二皇女を出産。難産により死亡。

 父の死、二人の兄の失脚、出家、自宅の焼失、母の死、出産、ライバル后の出現、自らの死。
 これらがわずか5年ばかりのうちに立て続けに起こった。

 もし、父である藤原道隆がもう5年長生きしていれば・・・
 道隆が生きている間に定子が第一皇子を生んでいれば・・・
 二人の兄がもっとしっかりしていたら・・・
 一条天皇にここまで寵愛されることがなかったならば・・・
 出家した身で皇子を生むような恥をかかせられることがなかったならば・・・
 叔父の道長がもう少し寛容な人間だったならば・・・
 彼女の運命はここまで悲惨なものにはならなかったであろう。
 一条天皇の寵愛を一人占めしたがゆえに、天皇の世継ぎたる資格を持つ第一皇子を生んでしまったがゆえに、一家の政敵である道長に執拗にいじめられることになったのである。

 かつてサロンに足繁く通った賛美者たちは、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの道長の圧力を怖れて、一人また一人と定子のもとを離れていく。
 最初に入内した正式の皇后であり、第一皇子を生んで国母となってもおかしくないほどの人が、頼りになる親戚ももはやなく、地位にふさわしく住まう家もなく、一条天皇や道長の要求するままに内裏の内外を放浪するハメになる。

 『枕草子』の実録部分を抜き読みしていると、父・道隆亡き後の定子があちらこちらの屋敷で暮らす場面が出てくる。
 「なんでこんな不便なところに住むんだろう?」と首をひねりつつも、読む者は清少納言の闊達な筆致と笑い声が聞こえてくるような定子サロンの明るい雰囲気に、その奥に隠されている事実を見逃してしまう。
 だが、年代的にランダムに配置されているこれらの段を時系列に並べ直し、『枕草子』以外の史書や同時代の貴族の日記、宮中の慣習などにもあたり、リアルタイムの政治状況および人間関係を踏まえて読み込んだとき、定子の境遇は唖然とするほど悲惨である。

●定子皇后の住まいの変遷

995年6月
 内裏の外にある太政官朝所で喪を過ごす
  • 建物がとても古く、天井からムカデが落ちてくる
  • 大きな蜂の巣があり蜂がいっぱい飛び回っている
  • 雨戸がなく御簾しかない
  • すぐそばに時を告げる鐘楼があり、鼓や鐘の音が間近に聴こえる
996年2月
 内裏の外にある職の御曹司(中宮職の事務所)で過ごす
  • 母屋には鬼がいて使えないので、南側の廂で起居する
  • 塀のすぐ向こうは通勤路で、貴族たちが通る際の先払いの声が聞こえる
同年3月
 自宅の二条北宮に移る。ここで兄二人が逮捕され、出家
同年6月

 二条北宮が焼失 → 母方の叔父・高階明順の家に避難
997年6月
 
一条天皇の命により職の御曹司に移る
999年8月
 出産のため、下位の中宮職役人である平生昌(たいらのなりまさ)宅に移る
  • 生昌は道長に通じている人間
  • 正式の門が皇后を迎えるための造りになっていない
  • 通用門が狭く牛車が入らず、女房達は衆人環視の中、地面に敷いた蓆の上を歩いて屋敷に入った
  • 生昌が女房たちに夜這いをしかけてくる
 以後、出産のたびごと、定子は生昌宅に身を寄せ、最後はこの家で息を引き取った。


廃屋


 『枕草子』には、清少納言が書かなかったこと、書けなかったことがたくさんあった。
 もし、それをすべてありのままに書いていたら、『枕草子』はおそらく、『平家物語』や『伴大納言絵詞』のような「悲劇と没落の皇后哀史」、あるいは「権力者・道長、横暴の証言」になっていたであろう。
 清少納言は、あえてそれをしなかった。
 みじめなエピソード、惨い仕打ちには目をつぶり、明るく楽しいエピソードばかりを綴った。気高く微笑んでいる定子皇后の姿だけを描写した。
 そこに、本書の言う「枕草子のたくらみ」はある。
 
『枕草子』は、定子亡き後、道長権力のもとで生き延びなければならなかった。強固な後ろ盾のない清少納言が個人で書き、世にリリースして、広まるのを待つ。その細々した営みは作者にとって、事によっては容易に途絶えるものと感じられただろう。だからこそ『枕草子』の中には、道長への直接の恨み言は一言も書かれていない。

『枕草子』は、世との折り合いをつけても生き延びるために、いま現在権力の側にいる者たちには、ことさらに矛先を向けなかったのだ。権謀術数の渦巻く中にありながら『枕草子』の視界が清少納言周辺にとどまり、日常の些細な事柄ばかりを描いているように見えるのは、清少納言の関心が日常にあったからという理由によるだけではない。政治でなく些事を描く。それこそが、寄る辺なき『枕草子』の取ったサバイバル戦術だったのである。

 そういった戦術を駆使してまで清少納言がなんとしても守り抜きたかったもの、それは敬愛する定子皇后のイメージであった。

悲劇の皇后から理想の皇后へと、世が内心で欲しているように、定子の記憶を塗り替える。定子は不幸などではなく、もちろん誰からも迫害されてなどおらず、いつも雅びを忘れず幸福に笑っていたと。その目的は、清少納言自身にとっては、もちろん定子の鎮魂である。だが世にしてみれば、これこそが彼ら自身に対する救いとなった。


 「おかし」の文学と言われる『枕草子』の裏に隠された真実を、同時代のさまざまな文献や他の研究者の発見したトリビアな事実、当時の政局や風俗や慣習の調査、貴族なら誰もが知っていた有名な和歌や漢詩の背景知識などをもとに解き明かしていく本書は、推理小説のような面白さがある。
 そして、文学研究の醍醐味と今も昔も変わらない人間性の妙を、十二分に教えてくれる。
 むろん、著者山本の古典に対する愛情も。

 定子が亡くなった夜、藤原道長は怨霊に襲われたという。
 自らが虐げ引きずり落とした兄・道隆一家の恨みを怖れる心、すなわち罪悪感が引き金となって、怨霊は出現したのだろう。
 平将門、菅原道真、崇徳上皇・・・いにしえから恨みと未練を残して亡くなった敗者の霊は、物の怪となり怨霊となり、勝者を苦しめ祟る。
 それがわが日本の伝統的信仰形式の一つである。

 清少納言は定子皇后を怨霊にだけはしたくなかったのだと思う。


観音さま


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 阿含経典を読む 5 ガータクイズ

 お経の中の韻文、すなわち詩のような部分を偈(げ、 ガータ)と言う。

 お経には、全編が散文でできているものもあれば、全編が韻文(偈)でできているものもある。
 両者が混じっているものもある。

 おおむね、十二縁起五蘊六処四諦といった、お釈迦様の思想体系(=仏教の中核テーマ)に関わるものは散文形式のものが多く、お釈迦様の伝記に関することやエピソード風のものは「散文+韻文」形式のものが多いようだ。
 なので、純粋に読み物として面白いのは、後者である。

 ちくま学芸文庫『阿含経典』(増谷文雄編訳)第2巻では、「詩のある経典群」を取り上げている。


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 お釈迦様 v.s. 様々な相手(神々、悪魔、一般庶民、弟子たち、他の宗派の論敵など)のエピソードも面白いが、そこで応酬され、披露される詩の数々が、格調高く、含蓄あって、比喩や表現が豊かで、感心させられる。
 増谷の訳も簡潔にしてリズミカルで、すばらしい。

 一つ、クイズ形式で紹介したい。

 ある天神とお釈迦様(世尊)との対話である。

 その時、一人の天神があり、夜もすでにふけたころ、その素晴らしい光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐したその天神は、世尊の御許にあって、このような偈を説いた。

  子にもひとしき可愛きものなく
  牛にもひとしき財宝はなく
  太陽にもひとしき光明はなく
  海はもっとも大いなる湖なり

 これに対して、世尊はこう仰せられた。

 (   ①   ) にもひとしき可愛きものなく
 (   ②   ) にもひとしき財宝はなく
 (   ③   ) にもひとしき光明はなく
 (   ④   ) こそは最高の湖なり
 

 さて、①~④にはどんな言葉が入るであろう?
 
 正解を考えるというよりは、「自分の場合はこれだ!」と当てはめてみるのも一興。

 お釈迦様の答えは、阿含経典を読む 6で。


太陽



● 本:『厭魅の如き憑くもの』(三津田信三著)

2006年原書房

 厭魅(まじもの)と読ませる。

まじもの
① まじないをして呪うこと。また、その術。
② 人を惑わすもの。魔性のもの。
(小学館『大辞泉』)

 村社会ホラーミステリーといったところか。
 オカルトと民俗学と呪術がミックスされた因習的世界で、怪奇幻想作家が連続殺人の解明に当たる。
 横溝正史+柳田国男+永久保貴一+ディクスン・カー、といった感じ。

 こういった世界は好きなので、かなりの期待をもって読み始めた。
 が、残念ながら入り込めなかった。

 本作には複数の語り手がいて、章ごとに視点が変わる。
 この趣向、実は本作に仕掛けられている叙述トリックの種となっている。
 それを思いつき、それに挑戦した志は買う。

 だが、そのトリックを用いたことが、物語自体の勢いを殺いでしまった。
 次々と語り手が変わることで、そこまでせっかく盛り上がってきたスピードやサスペンスがブツ切られ、話そのものが沈滞している。
 どんなに素晴らしいトリックだろうが、それが物語の面白さを減退させては・・・。

 最初の殺人が起こるまで紙数の約3分の1を使っているのもいただけない。
 キャラクターもいまひとつ奥行を欠き、魅力が伝わってこない。
 終盤展開される推理もかなり杜撰。

 表紙絵が一番良かった。

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装画:村田修


おすすめ度 : ★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 


● 香りが決め手 本:『平安京の検屍官』(川田弥一郎著)

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1998年祥伝社

 副題は「検非違使・坂上元嗣の謎解き帖」
 10世紀の平安京を舞台に、宮中や貴族の邸や京の町中で起こる数々の殺人事件を、当時の警察たる検非違使・坂上元嗣(けびいし・さかのうえのもとつぐ)が、愛人である貴族の娘・顕子(あきこ)の助けを借りて解決していく姿を描く、平安朝医学ミステリー。

 著者の川田弥一郎は、平成4年、『白く長い廊下』で江戸川乱歩賞を受賞している。
 コミック化されている『江戸の検屍官』が代表作。
 死体鑑定の知識は、医師という前歴によるものであろう。

 とはいえ、科捜研のマリコが駆使するような科学技術は当然ない。
 DNA 鑑定やルミノール反応はもちろん、指紋や血液型にすら頼れない時代の話である。
 捜査に利用できるのは、目撃証言を別とすれば、現場に残された犯人の遺留品と足跡くらいが関の山。
 あとは、黒澤明の映画『羅生門』で見るように、亡くなった者の霊を祈祷で呼び出して霊媒――憑坐(よりまし)という――に乗り移らせ、殺された経緯を当人に証言させるという、科学信奉者マリコびっくりのアクロバティック捜査である。
 いくらなんでも、これでは推理小説の態をなさない。
 
 そこで、有能なる検非違使・元嗣が犯人捜しのツールとして活用するのが、香りである。
 この時代はまさに香りの文化が隆盛を極めていた。
 貴族や後宮につとめる女房たちは、こぞって自分ブランドのオリジナルな香りを開発し、自らの着物に薫きしめるのが日常だったのである。
 遺体につけられた香りを手掛かりに、元嗣は推理し、犯罪を再構成していく。
 つまり、指紋ならぬ香紋である。
 このときに元嗣の強力な助っ人となるのが、嗅覚が異常に発達し京中の香料を嗅ぎ分けられると豪語する愛人顕子である。
 
 香りを手掛かりに事件を解決するというアイデアが秀逸である。
 寝殿造りの構造とか、貴族の衣装の説明とか、男が女のもとに通ってくる婿取り婚システムとか、宮中用語や家具の名前といった平安貴族の生活風景や独特の風習は、古典文学に馴染みない読者にはすんなり理解できず、わずらわしく感じるかもしれない。
(ソルティはこの時代が好きで、周期的にこの時代に関するものを読みたくなる。前世の一つ?)
 
 一方、権力者が一枚かんでいそうなメンドクサイ事件は「もののけ」のせいにしてしまいたがる上司とか、「穢れ」ご法度の宮中での死体発見はあってもなきこととされ、「いま死にかかっている」と言わなくてはならないとか、元嗣と顕子との中国古来の房中術の限りを尽くしたセックス描写とか、現代の我々にもすんなり理解できるエピソードもあり、楽しめる。
 諸田玲子の『王朝まやかし草紙』がそうであったが、どうも王朝ミステリーには派手なエロ描写は
欠かせないらしい。
 これも『源氏物語』の影響か・・・。

 ちなみに10世紀の宮廷と言えば、「この世をば・・・」で絶大な権力を誇った藤原道長の祖父にあたる藤原師輔(もろすけ)や、その息子で『蜻蛉日記』の主要キャラたる藤原兼家が、自らの娘を天皇に嫁がせ外戚となることで藤原北家の黄金時代を築いていたときである。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● オン・エア  本 : 『差別と弾圧の事件史』 (筒井功著)


2019年河出書房新社

 在野の民俗研究者である筒井功の新著。
 筒井の本を読むのは、これで10冊目になる。
 もはや立派なツツイスト?
 
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 今回は、日本の近現代史の隅に隠れた12の差別事件のデッサンである。
 うち半分ほどは被差別部落に関わり、残りはアイヌ民族、東北の隠れキリシタン、台湾の原住民であるタイヤル族、貧民集落などである。
  • 皇族来県にあたって、通り道にある貧民集落を警察が焼き払った大分県の的ヶ浜事件(大正11年)
  • 部落解放の手段として行われる糾弾闘争の模範として語り継がれる京都市のオール・ロマンス事件(昭和26年)
 以上2つは以前どこかで読んだことがあり、知っていた。
 それ以外ははじめて知ることばかりで、非常に興味深く、「事実は小説より奇なり」の思いを新たにした。
 とりわけ、
  • 一個人に対する苛烈な糾弾に憤った“一般民”が、近所の部落を集団で襲い報復した群馬県の世良田村事件(大正14年)
  • 関東大震災直後、香川県から来た行商たちが“朝鮮人”と間違われて地域民に虐殺された千葉県の福田村事件(大正12年)
  • 日本の植民地下にあった台湾で、苛酷な支配と侮蔑に憤った原住民タイヤル族が起こした霧社事件(昭和5年)
 以上3つは、その暴力の凄まじさや残虐さや被害の甚大さで衝撃的であった。
 
 これらの事件を描写する著者のスタンスは、必ずしも当事者(=被差別者)べったりではない。
 差別や弾圧に声高に怒りの声を上げるでもなし、差別する側を非難するでもなし、差別される側に同情し肩入れするでもない。
 あくまで中庸なのである。
 残された資料や証言によって分かった事実を、淡々と客観的に、だが事務的にも能面的にも学究的にもならず、描き出している。
 一番最近の事件でもすでに半世紀以上前のことで、ある程度風化され、事件当時の熱や生々しさを失っているということもあろうが、他の著書でも見られるこの“一歩引いたまなざし”こそが、筒井民俗学の特徴であろう。
 
 たとえば、本書の巻末を飾るオール・ロマンス事件。
 これは昭和26年当時、京都市の臨時職員であった杉山清一(ペンネーム)が、雑誌『オール・ロマンス』に発表した『特殊部落』という短編小説がもとで起こった事件である。
 部落解放京都府委員会は、杉山本人や出版社だけでなく、京都市をも糾弾対象にして闘争を繰り広げた。
 結果として、次年度(昭和27年)の京都市の同和対策予算は大幅に増額し、闘争は成功裡に終わる。
 この事件が、その後全国に広がる行政闘争の端緒にして模範と言われるゆえんである。
 
 事件の顛末を淡々と記し、解放運動史における意義を評価する一方、筒井の目は当の『特殊部落』という短編そのものと、著者の杉山清一のその後に向けられる。
 インターネットのおかげで誰でも簡単に読めるようになった『特殊部落』全文を読んで、筒井はその小説の登場人物のほとんどが日本人部落民ではなく朝鮮人であることに奇異な感を抱き、かつ、はたして差別小説と言える次元のものかどうか疑義を呈している。
 そして、事件後市役所を辞職した杉山のその後の失意の人生を、彼の発した呟きによって暗喩しつつ一篇を閉じる。
 「私のことは忘れて下さい、何もかも失ってしまいました」
 
 これまでサンカ猿回し犬神人エタ・非人など差別された人々を調査し描いてきた筒井のスタンスの基を成しているのは、様々な差別事象をめぐってえぐり出される、歴史や風土文化に条件づけられた個人や集団や日本社会の姿への関心であり、差別する側・される側問わず、加害者側・被害者側問わず、そのような不自由な人間存在にたいする哀感なのではなかろうか。
 


四国遍路2 141
四国札所77番道隆寺境内


 筒井は本書「おわりに」でこう記している。
 
書きおわってみて、これらを引き起こしたのは、単なる差別意識というより群集心理ではなかったかとの思いが強く残った。差別が存在する社会であっても、ふだんはそう露骨な形で表面化することは少ない。ところが、何かの拍子に衆をたのんで行動する状態に置かれると、重し蓋がとっぱらわれて、ごく善良な地域住民が残虐な殺人者に一変してしまう。その距離は、どうやらさして遠くはない。ひょっとしたら、それはだれもが簡単に飛び越えられる小さな溝のようなものでありえる。この辺に差別と、それを生みだした人間社会の怖さがあるのではないか。
 
 言うまでもなく、本書の数々の事件を、過去の、人権意識の低かった時代の日本人の過ちと嗤うことはできない。
 各地で見られる新型コロナウイルス感染者や彼らをケアする医療従事者への差別、自粛要請に応じない個人や商店などに対する正義感を振りかざす「自粛警察」の横行ぶり。
 差別と弾圧の事件史は、いまもオンエアである。




おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 

● 花の名前

 足の負傷と新型コロナ騒動のために山歩きなどの遠出ができなくなったおかげで、散歩の楽しさに目覚めた。
 家を中心に半径1キロくらいの円の中を、2~3時間かけて歩く。
 途中の公園や林の中で、1時間ほど瞑想する。
 杖を突きながらのゆっくり歩きこそが散歩を楽しくする秘訣なのだと、つくづく実感している。
 
 今の季節はやはり、道々見かける花が目を引く。
 庭や花壇の、いかにも外国産のカラフルで自己主張の強い花を見るのも楽しい。
 花屋の店先の、はじめて名前を聞くような珍しい花を見るのも面白い。

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 ソルティが一番心惹かれるのは、空き地や路肩や塀の下にひっそり咲いている、子供の頃から目にしているありふれた花である。
 シロツメグサ、ヒメジオン、スミレ、ドクダミ・・・・・。
 名前を知っているものもあるが、ほとんどが知らない。


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 この機会に調べてみようと思い、立ち寄ったコンビニにちょうど売っていたポケット図鑑を買った。

 
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岩槻秀明著(大和書房)

 
 道中見かけた気になる花の名前を、ポケット図鑑にあたる。
 が、花の種類は気の遠くなるほど多くて、また、実物と図鑑の写真との照合も容易でなく、一発で「これだ!」とヒットすることはむしろ少ない。
 
 山歩きが趣味のソルティは、他に4~5冊ポケット草花図鑑を持っている。
 道々スマホで撮影した花の画像を、家に帰ってから複数の図鑑に当たる。
 「あれでもない、これでもない」と首をひねる。
 中で、意外に役立つ一冊がこれである。

 
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宮内庁協力(扶桑社)

 
 皇居の庭に咲く300種類ほどの花が、季節ごとに、素晴らしい写真入り説明入りで掲載されている。
 美智子上皇后に捧げられた特製のバラや蘭などを除けば、東京近辺の野や山で普通に目にすることのできる花が多く、まさに探しているものが、「ああ、これだ!」とヒットすることが多い。
 ただ、この本はポケットサイズではないので、持ち歩くのには向かない。
 (それにしても、御所の庭は素晴らしい!)
 
 家に帰ってから調べるのなら、ネットという手もある。
 ソルティが良く利用しているのは、「花図鑑」というサイトである。
 花の色、開花時期、成育環境などを条件入力して検索すると、候補の花の画像が何十枚と出てくる。
 とても便利。
 
 以前から山歩きしていて、途中で見かけた花をその場でスマホ撮影したら、すぐに花の名前を教えてくれようなアプリがあればいいなあ~、と思っていた。
 あったのである!

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Green Snap

 
 まだ登録したばかりで使い慣れていないが、これで散歩の愉しみが増えた。
 もっとも、名前を知ったからといって、花の美しさや愛らしさが増すわけではないけれど。
 
 
 What's in a name?
   that which we call a rose.
 By any other name would smell as sweet.

 
 名前っていったいなにかしら?
 薔薇という名前の花を
 別の名前で呼んだとしても、甘い香りはそのままよ
 
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』より)


 
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ソルティ家の薔薇です







● 阿含経典を読む 4 デカルト V.S. ブッダ

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)第2巻は、相応部経典の中の「人間の感官(六処)に関する経典群」、「実践の方法(道)に関する経典群」、「詩(偈)のある経典群」が収録されている。


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 仏教では、人間の感官すなわち感覚器官を次の6つとしている。
  1.  眼(視覚)
  2.  耳(聴覚)
  3.  鼻(嗅覚)
  4.  舌(味覚)
  5.  身(触覚)
  6.  意

 それぞれの器官は、体の外部あるいは内部からの刺激(=情報)を次の形で認識し取り入れる。
  1.  色(物体)・・・眼は物体を識る
  2.  声(音) ・・・耳は音を識る
  3.  香    ・・・鼻は香を識る
  4.  味    ・・・舌は味を識る
  5.  触    ・・・身体は接触を識る
  6.  法    ・・・意は法を識る

 6つの器官は、人が「世界」を認識するための窓口であり、同時に――ここが重要なところなのだが――世界を造り上げるための道具でもある。
 というのも、我々は、客観的に正確な、ありのままの「世界」を見て知っているのではない。
 上記の6つの感覚器官の働きによって人間仕様に(あるいは個人仕様に)編集された「世界」を見て知っているのである。
 なぜなら、備わっている感覚器官の種類と働きは、生命体によって異なるからである。
 トカゲにはトカゲ仕様の、イルカにはイルカ仕様の、蟻には蟻仕様の、エイリアンにはエイリアン仕様の、盲人には盲人仕様の「世界」がある。
 我々は、「世界に存在している物を認識している」のではなく、「認識した通りに世界を存在させている」のだ。
 お釈迦様はこう言っている。
 
六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみを愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第一章「雪山に住む者」より)
 
 お釈迦様が六処について説いたのは、まさにこの六つの感覚器官こそが人を悩ますものであり、「苦」を生みだす産地だからである。
 もちろん、「楽」を生みだす産地でもあるわけだが、どちらの産出量が多いかは言うまでもないだろう。
 お釈迦様は、六処のいずれについてもまた、五蘊同様、「無常であり、無我であり、苦である」と繰り返し説いている。 
 
つまり、この師は、「無常・無我・苦」の説得と、「厭離・離貪・解脱」の成就のために、時には五蘊について語り、時には六処をあげて語ったのである。すなわち、ある時には、人間そのものを指して、その肉体的要素と精神的要素のあるがままの相(すがた)を省察せしめ、またある時には、人間の内なる感官が、外なる対象に接触して、さまざまな苦楽を感受する、その真相を洞察せよと語っているのである。
(ちくま学芸文庫『阿含経典2』18ページ、増谷文雄の解説より)


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 さて、我々の実感からしてもっとも理解し難いのは、6番目の感覚としてあげられている「意」であり、それが対象とする「法」であろう。
 それ以外の5つの感覚(五感)についてはすんなり納得できよう。
 「第六感」といった場合に我々(年配者)が思いつくのは、フランキー堺司会の『霊感ヤマカン第六感~♪』(古い・・・)であり、「胸騒ぎして搭乗しなかった飛行機が墜落した」といったたぐいのスピリチュアルミステリーであろう。
 ここで言う「意」とは、もちろん、そんなものとは違う。

 「意」とは「心」のことである。
 お釈迦様は「心」を感覚器官の一つとしたのである。
 ソルティは、ここがお釈迦様の、そして仏教の最も革新的で凄いところだと思っている。

 「心」は、他の5つの感覚器官のように、その実体を「これ」と指し示すことができない。
 どこにあるのか、分からない。
 解剖しても見つからない。
 だが、「心」があることは誰もが知っている。
 ソルティはそこで、現代科学に慣らされた我々が少しでも納得しやすいよう、これを「脳」とみなしてもよいのではないかと思う。
 「意」とは、「心あるいは脳」である。

 では、「意=心あるいは脳」が情報として取り入れる対象であるところの「法」とはなんだろうか?

 仏教でいう「法(ダンマ)」とは、一般に、お釈迦様の教えのことであり、すなわち「真実」のことを指す。
 たとえば、仏教の三宝にあたる「仏・法・僧」と言ったら、「お釈迦様・お釈迦様の教え・出家者の集まり」である。
 が、六処における「法」は別の意味である。
 増谷文雄は、これを「観念」と訳しているが、文字通り観念的でわかんねん。

 (_´Д`) アイーン

 
「心あるいは脳」に触れ、「心あるいは脳」が取り入れる情報といったら、なんであろう?
 それは、「心あるいは脳」に浮かぶすべて、すなわち一切の精神内容である。
 具体的に言えば、「思考、感情、意志、記憶、想念など」である。
 眼に色(物体)が触れ、耳に声(音)が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身体に何かが触れ、それぞれ情報が取り入れられるように、心あるいは脳に「思考、感情、意志、記憶、想念など」が触れ、情報が取り入れられる。
 お釈迦様は、人間の思考や感情や意志や記憶や想念すらも、音や香や味同様の、外部情報もしくは外的刺激とみなしたわけである。

 この「意」と「法」を六処に数える意味が、ソルティには長いこと理解できなかった。
 仏教書や経典を読んでも文意はわかるが、実質何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
 ヴィパッサナー瞑想をはじめても、しばらくは理解できなかった。

 それがある時、はっと腑に落ちた。
 なかなか理解できなかった理由がわかった。
 それは、思考や感情や意志や記憶や想念などとあまりにも自己一体化していて、少しでも離れた視点から客観的にそれらを観るということが、できなかったからである。
 思考や感情や意志や記憶や想念こそが、「私」の核となっていたのだ。
 曰く、我思う、ゆえに我あり

 
ヴィパッサナー瞑想に習熟し、外部から入ってくる音や香や体の感触などの刺激を、何の解釈も評価も好き嫌いの判断も伴わずに、「音は音」として、「香は香」として、「体の感触は感触」として、客観的に観られるようになるにしたがい、瞑想中に心や脳に勝手に浮かんでくる思考や感情や記憶や想念もまた、距離を置いて客観的に観られるようになった。
 すると、思考や感情や記憶や想念が、あたかも、どこからともなくボウフラのように湧いてきて、心や脳に取り憑いて、人を乗っ取ろうと企んでいる、よこしまな霊団か何かのように思われてきた。
 同時に、思考や感情や記憶や想念によって条件づけられた「私」の正体が見えてきた。

 それは、実際にはプログラミングされた通りに動いているに過ぎないのに、主体的意志で生きていると勘違いしている可哀そうなレプリカントさながらであった。


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 デカルトの言葉が近代的思考のはじまりとみなされるように、近代以降の世界に生きる我々は、思考し、感情を抱え表現し、意志を持ち、一貫した記憶を有する個別主体として、「私」を定義し認識している。
 いわゆる、近代的自己である。
 お釈迦様は、2000年以上も前に、「そうではない」と言ってのけた。
 
師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第四章「迅速」より)

 つくづく凄い。


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瞑想の池


 
さて、「意」や「法」を含めた六処は、無常であり無我であり苦であり、生まれては消える現象に過ぎず、そのどこにも「私」が立てる場所はないと瞑想者が悟ったとき、次に出てくる問いはおそらく次のようなものであろう。

六処において刺激を純粋に認識する機能、つまり識(=認識力)こそが、本当の「私」ではなかろうか?
 
 
これを突き詰めると、きっと唯識論梵我一如の非二元の教えになるのだろうなあ~、となんとなく想像する。
 だが、これも、お釈迦様は五蘊の教えで明確に否定している。
 識もまた、無常であり、無我であり、苦であると。
 そこに「私」は存しないし、それは「私」でないと。




 

● 本:『新世界より』(貴志祐介著)


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2008年講談社

 遠未来SF。
 舞台は1000年先の日本。人類がとてつもない念力を持ち、神のごとく君臨する世界で、一見平和な共同体に襲いかかった悪夢のような惨劇を描く。

 上下巻で1000ページを超える大作であり、独特な世界の説明に費やされる最初の200ページは、「やや退屈」というネット上のコメントもあった。
 が、読み始めたらたちまち引き込まれ、時を忘れる面白さ。
 寝不足にならないよう、巻の変わり目や章の終わりで、ページをめくる手に強制停止かける必要があった。

 『悪の教典』、『硝子のハンマー』、『雀蜂』などで、貴志のスリルとサスペンスを盛り上げるストリーテリングの卓抜さ、幅広い知識と取材力、リアリティ生みだす描写力、冴えたブラックユーモア、読者へのサービス精神(ほどよいエロシーン挿入)などは存分に知っていた。
 虚構世界を描いたこのSFでは、上記に加え、さらに貴志の天才的な想像力と創造力に瞠目させられた。

 未来世界を生きる風変わりな動物や昆虫たちの生態描写が、とにかく面白い。
 蟻のように女王を中心とした社会をつくり人間に対してはひたすら従順なバケネズミとか、偽の巣と偽の卵をつくってそこに托卵するカッコウなどの卵を狙うカヤノスヅクリ(傑作!)とか、ウミウシから進化したミノシロという生き物を擬態しつつ野外生活し国立国会図書館つくば館の4000万冊という図書データを保存しているミノシロモドキとか、「どこからこんな発想が出てくるのか」と感心してしまった。
 このマニアックなまでの想像&創造力で連想されたのは、天下の奇書たる沼正三作『家畜人ヤプー』であった。(これは最大の賛辞であろう)

 この小説は、漫画やテレビアニメになっているらしいので、これらの生き物をヴィジュアルで確認してみたい。
 自分が小説家だったら、嫉妬で呼吸困難に陥りそうなエンターテインメントの傑作である。
 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『廃墟のブッダたち 銀河の果ての原始聖典』(EO著)

1995年まんだらけ出版部より刊行
2019年改訂版発行

 無明庵 EO(エオ)は、知る人ぞ知る、本邦の精神世界のカリスマ導師である。
 著者略歴によると、1958年生まれ、14歳の時に悟りの一瞥を体験。以来、様々なスピリチュアル遍歴をたどる。1992年(34歳)に大悟見性。以後、講話や著述や瞑想指導などを行う。2017年2月入滅。

 ソルティは、15年くらい前に、EO の本を中野サンモールにある古書店「まんだらけ」で見つけて購入し、その“過激な”内容に衝撃を受けた。
 以来、自身のスピリチュアル遍歴において、時折、無性に EO が読みたくなっては、著書を集めてきた。
 5冊くらい読んだだろうか。
 だが、EO の最初の著書であり代表作とも言えるこの『廃墟のブッダたち』だけは、すでに廃刊となっていて、「まんだらけ」でも他の書店でも手に入らなかった。
 著者の入滅――本当か?(笑)――がきっかけとなったのか、2019年より EO シリーズの復刊が始まった。全部で14冊の予定らしい。
 やっと、念願の書を手にした。

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 EO が「知る人ぞ知る」なのは、彼の本の内容(実際の講話をもとにしたものが多い)が、まったくもって一般受けしない態のものだからである。
 ソルティが最初に接した時に受けた「過激」以外の印象をあげると、「暗い、絶望的、虚無的、不吉、禍々しい、歯に物を着せぬ、容赦ない、反逆的、人間の尊厳を奪う、反社会的、敗北主義」といったネガティヴなものばかりで、「こんな本に惹かれてつい買ってしまった自分も、相当病んでいるのかもしれない」と思った。(そのとおりだ)
 黒を基調とし、奇妙な幾何学図形を浮き彫りにした装丁もまた、その近寄りがたいイメージを助長した。

 にもかかわらず、その説かれる内容には一聴すべきものがあった。
 ラジニーシ(OSHO)やクリシュナムルティの本と同様の、覚者ならではの透徹した意識と知性、首尾一貫した論理、有無を言わさぬ気迫をそこに感じ取った。
 あるいはそこに、自分自身が、あるいは人類が、「認めたくない事実、不都合な真実」が赤裸々に説かれているような気がした。
 事実、EO は「伝統や形式にしがみつく禅そして導師を盲信的に信奉する瞑想センターとの絶え間ない摩擦や反感」を経験したという。
 無理もない。

 EO の過激な(突飛な?)言説の例を本書より挙げよう。
 人類の存在意義に関する一節。
 
 すなわち人類はその人類の上位存在にとっては、ただの食用生物である。
 あるいは宇宙という機械の生物燃料であり、誰かの食用の家畜であり、宇宙という畑の肥料であり、また、あるときには宇宙「という」(ソルティ注:「の」の誤植か)医療モルモットであり、あるいは宇宙が今後もただ無目的に生き延びるためだけの穀物である。
 これがまず基本的な宇宙と地球における人間たちの生存理由、つまり、あなたという存在の宇宙での位置についての明確な真実である。 
 それが、あなたにとって不愉快であろうが、なかろうかには一切関係なく・・・。
(本書104ページ)

 これをダグラス・アダムスのSF小説みたいなブラックジョークと取るか、ノストラダムス的な「トンデモ」と取るか、六道を輪廻転生し続ける愚かさを知らしめ「悟り⇒解脱」に聴き手(読者)を導くための方便ととるか。
 ともあれ、EO は徹底した「現世否定論者、存在否定論者」であり、そこが究極のネガティブ・シンキングとも、精神世界の極北とも、反社会的とも、みなされるゆえんでなのである。
 EO の先を行くのは、この世を悪魔の創造物とみなした異端カタリ派しかありえまい。

 だが、UFO 陰謀オタクが喜びそうな上記のような言説を除けば、EO の説いていることは、ブッダやラジニーシやクリシュナムルティら“本物の”覚者のそれとまったく変わりない、「エゴ(自我)の否定」、「思考の否定」、「条件付けされた生への気づき」といったあたりが核なのである。

 というわけで、「ステイホーム週間」の利得をもって、遊び心で下記の表「現世との距離から見たスピリチュアル思想」を作ってみた。
 世界的に知られる代表的なスピリチュアル思想について、現世との距離から――「現世肯定的 or 否定的」の視点から――序列化してみた。


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 上記のスピリチュアル思想の選択は、恣意的なものである。
 序列もまた、ソルティの狭量な知見による、独断かつ偏見でしかない。
 「なんでヒンズー教がないんだ!?」
 「グノーシス思想があって然るべきだろう!?」
 「なんで日蓮の名がないんだ!?」
 「神道が、空海が、なぜこの位置に来る!?」
 「ヒマラヤ聖者ヨグマタ圭子はどこに入るんだ!?」
 ・・・・などなど、種々の意見や異論はあるかと思うが、それは各自で好きなように考えてもらったらよいと思う。
 ちなみに、「解脱主義」の主たる特徴は、輪廻転生からの解脱を最終目的とすること、すなわち、天国や浄土をゴールとしないことである。ここに、読んだばかりのゲイリー・レナード著『神の使者』でその内容を知った「奇跡のコース」も入れさせてもらった。
 
 ブッダを敬愛するソルティは、表の右から4番目に位置する。(輪廻転生を信じているわけではないが・・・)
 こうやって整理してみると、20代、30代、40代と自分が年齢を重ねるにつれて、表の左から右へと次第に移行してきたのを了解する。(生き方指南、本覚思想、浄土主義にはハマらなかったが・・・)
  
 まあ、どうでもいい話。
 ほんのお慰み。
 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 宇宙の消滅 本:『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著)


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2003年原著刊行
2007年河出書房新社より邦訳発行

 アメリカ発のスピリチュアル本。
 著者ゲイリーと二人のアセンデッド・マスターとの17回の対話から成る。

 アセンデッド・マスターとは、天界にいる高尚な魂を持った人たちのことで、一度は肉体を持って地球上で生きた経験があり、亡くなった後、神の視点を以て人々を導いている。
 イエス・キリスト、聖母マリア、ブッダ、ガンジー、マザー・テレサ、サンジェルマン伯爵、大天使ミカエル、サマート・クマラなどの名が上げられることが多い。
 この本に出てくるマスターは、イエス・キリストの使徒であったトマスとタダイ。
 二人は、パーサとアーテンという名の現代風の男女の姿をして現れ、ゲイリーに『奇跡のコース』の学習を勧める。

最後の晩餐
向かってイエスの右隣で人差し指を天に向けているのがトマス
右端から2番めの白い髭のある老人がタダイ
(ダ・ヴィンチ作:最後の晩餐)


 シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』(1983年)以来、アメリカのスピリチュアル本を数多く読み漁ってきたソルティにしてみれば、「もう、こういうの、十分!」というのが偽らざるところである。
 バシャール、ラムサ、ラザリス、プレアデス、聖なる予言、神との対話、ホピ族の予言、古代マヤ暦、ミュータント・メッセージ(笑)、ロバート・モンロー、エドガー・ケイシー、レイモンド・ムーディー、・・・・・。
 我ながらよくもハマったものだ。

 しかしながら、実は一つだけ、その存在は知っていながら、正体がつかめず、距離を置いてきたものがあった。
 分量が多いためか、最近まで邦訳されていなかった『奇跡のコース』(A Course in Miracles)がそれである。

 奇跡のコースとは
 アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である。
 世界は幻影であり自らの外には何も存在せず、己が神と一体であるという、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想が説かれている。
 この作品の最大の前提は、人生で達成できる最大の「奇跡」は「愛の存在を知ること」である、という教えである。神と一体となることで、愛を知るとされる。ニューエイジで広く読まれ、バイブル的存在だった。

 講座は1200ページからなり、テキスト、ワークブック(1日1題で1年分)、指導者向けのマニュアルで構成されている。最初の一連のレッスンは「今のあなたのものの見方を根底から崩す」ためのもので、2番目は「真の知覚の獲得」を目指している。

 1976年に出版されてから、22言語に翻訳されている。本は世界中に広まっており、組織された団体の基盤になっている。英語版は2007年時点で100万部以上の売り上げがあり、ベストセラーになったスピリチュアルな自己啓発本を通しさらに数百万人に影響を与え、学習団体も世界中で増加している。

(ウィキペディア『ACIM』より抜粋)


 ゲイリーは、パーサとアーテンの勧めに応じて、“イエスの真の教えである”ところの『奇跡のコース』の自己学習を始める。
 ゲイリーの学習を見守り励ましながら、その進展に合わせるように、パーサとアーテンは、宇宙やこの世の仕組み、エゴの罠、病の意味、セックスの意味など様々なテーマについて、ゲイリーと対話する。
 つまり、『神の使者』は、『奇跡のコース』の解説書、指南書、宣伝本、勧誘本といった趣きを成しているのである。

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 読み進めて驚いたことに、『奇跡のコース』はイエス・キリストによるメッセージと謳いつつも、まったくキリスト教的でないのである。
 もちろん、「愛とゆるし」の大切さを強調しているのは、聖書の中のイエスそのままである。
 しかるに、ここで説かれる宇宙観、世界観、来世観は、天国や復活や天地創造や最後の審判を説くキリスト教のそれとはまったく異なる。
 
アーテン このことははっきりさせておこう。神はこの世界をひとかけらだって創ってはいない。「コース」に世界はないと書いてあると言っただろう! ないものの一部を神が創るはずがないじゃないか。聖霊の意図は、世界があるという夢からきみたちを覚めさせることだけだよ!

J(イエス)が「世界と世界のあり方を否定しなさい。それをあなたにとって無意味なものとしなさい」と言ったのは、きみが見ているものは存在しない、ってことなんだよ。それはほんとうにはないのだから、無なんだ。無が何かを意味するわけがないだろう? 善にしろ悪にしろ、きみがそれに何らかの意味をもたせたら、きみは無を何ものかに変えようとしていることになる。きみがすべきことはただ一つ、無意味にすることなんだ。

ゲイリー すると、ぼくは心のなかにある罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!

 極めつけは、これだ。

――つまるところ、宇宙そのものが消えるべき症状である。

 まったくの現世否定&来世否定の言説は、反キリスト教的ですらある。(事実、あるキリスト者はコースを、「重大で潜在的に危険なキリスト教神学の歪曲」、「悪魔の誘惑」と批判したとか)
 むろん、現世や来世(別次元)での幸福な生き方を志向し指南する、先に上げたアメリカンスピリチュアリズムの伝統とも性格を異にする。
 いわゆる、解脱思想なのだ。
 そこが、「古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想」とみなされるゆえんであり、また、キリスト教というより、涅槃を目的とする原始仏教に近い気がする。

 このような本(原著タイトルは The Disappearance of the Universe 「宇宙の消滅」)が全米でベストセラーになりうる当世に、驚きを覚える。

オリオン星雲


 最後に、『奇跡のコース』の要点を一言でまとめると、「ゆるし」に尽きる。
 他人も、自分も、責めるのは止めなさい。
 他人だけでなく、自分をも、ゆるしなさい。
 意識上、あるいは意識下を問わず、あらゆる罪悪感から解放されなさい。

 これはとても大切なメッセージだと思う。
 子供の頃の親との関係の中で、そして、これまでに出会った沢山の人との関係の中で、いかに自らが罪悪感を抱き、抱かされ、知らずに自分を責め続けていることか!
 心のどこかで、「こんな罪作りの自分が、幸福になってはいけない」と確信していることか!
 自分の中にある罪悪感を外側に投影し、他人や社会を裁いていることか!

 新型コロナウイルス騒動で、他者を責める言葉が、国内でも国外でもネット上でも飛び交っている現在、「ゆるし」の重要性はどれほど強調してもなおあまりある。


P.S. ツクシさん、本書を教えてくれて、ありがとう。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 『阿含経典』を読む 3 まぼろしの映画


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お釈迦様は人間を分析し、5つの構成要素に分けた。
五蘊(ごうん)と言う。

 色(ルーパ)
 受(ヴェーダナ)
 想(サンニャ)
 行(サンカーラ)
 識(ヴィンニャーナ)

お釈迦様はそれらをどう定義しているか。
  • ・・・・四つの元素(地・水・火・風)と、四つの元素によって造られたる物
  • ・・・・六つの感受する器官の働き。いわく、目の触れて生ずる感覚、耳の触れて生ずる感覚、鼻の触れて生ずる感覚、舌の触れて生ずる感覚、身の触れて生ずる感覚、意の触れて生ずる感覚。
  • ・・・・六つの表象する作用。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、観念の表象。
  • ・・・・六つの意志するいとなみ。いわく、色への意志、声への意志、香への意志、味への意志、感触への意志、観念への意志。
  • ・・・・六つの意識するいとなみ。いわく、眼の意識、耳の意識、鼻の意識、舌の意識、身の意識、意の意識。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』蘊相応44「五取蘊の四転」より)


 正直、かなりわかりづらい。
 訳者の増谷文雄は、次のように解説している。
  • ・・・・物質的要素。すなわち、肉体。
  • ・・・・感覚。
  • ・・・・表象。与えられたる感覚によって表象を構成する過程。
  • ・・・・意志(will)もしくは意思(intention)。人間の精神はここから対象に対して能動に転じる。
  • ・・・・対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所。
(同上書の380~381ページ)


 まだ、わかりづらい。
 肉体(色)、感覚(受)はともかく、表象(想)ってなんだ?
 行に与えられた定義の「意志」と「意思」はどう違うんだ?
 識の定義も難解である。
 
 とりあえず、「意志」と「意思」の違いについて解決しておこう。  
 「意志」は「意志を貫く」「意志の強い人」「意志薄弱」など、何かをしよう、したいという気持ちを表す場合に用いられる。
 「意思」は、「双方の意思を汲む」「家族の意思を尊重する」など、思い・考えの意味に重点を置いた場合に用いられる。
(小学館『大辞林』)


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 人間を分析するときに、誰もがすぐ思いつく、もっとも手っ取り早い、万人の了解の得られやすいやり方は、心(精神的要素)と肉体(身体的要素)とに分けることであろう。
 仏教ではこれを、名(ナーマ)色(ルーパ)と呼ぶ。 
 お釈迦様は、精神的要素である「名」をさらに分析して、「受」「想」「行」「識」の四つに分けたのである。
 
 今回もまた、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で再定義を試みたい。
  • ・・・・身体的要素(六つの感覚器官――目・耳・鼻・舌・皮膚・心あるいは脳――を有す)
  • ・・・・視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が生じる
  • ・・・・「受」によって自然と湧きおこる観念やイメージの連想作用
  • ・・・・「受」と「想」によって造られ、新たな行為につながる様々な感情や思考や意志
  • ・・・・認識力(意識)

 たとえば今、「色」の一部である眼が、外界からの光の情報を視覚によって受けて、「赤く丸い物体」を認識する。(色・受)
 たちまち、記憶の中にある様々な観念やイメージが立ち上がる。(想)
 
食べ物、果物、リンゴ、本物、新しい、大きい、きれい、美味しそう、甘い、酸っぱい、青森、紅玉、ふじ、ジョナゴールド、所有者、空腹、歯ごたえ、歯茎から出血、白雪姫、毒、アダムとイヴ、ウイリアム・テル、ニューヨーク、ビートルズ、椎名林檎・・・・

 その結果として、目の前のリンゴに対する何らかの能動的な感情や思考や意志が生じる。(行)
 
食べたい、香りを確かめたい、かぶりつきたい、触ってみよう、踏んづけたい、盗みたい、関心ない、無視しよう、誰のものか聞いてみよう・・・・

 「行」の一歩先は、実際の肉体を伴った行為となり、ここでまた「色」の出番となる。

 問題は最後の「識」である。
 これは十二縁起でも「名色」に先んじて登場するが、「識」と「名色」の関係は、どっちが先で、どっちが後というものではなく、たとえば「受があるゆえに渇愛が生じる」といった順列の因果関係にはあたらないと思われる。
 というのも、お釈迦様はこう言っている。

 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈識があるゆえに名色があるのである。識によって名色があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはこのように考えた。〈いったい、なにがあるがゆえに識があるのであろうか。なにによって識があるのであろうか〉と。
 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈名色があるゆえに識があるのである。名色によって識があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはまたこのように考えた。〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、老いてはまた生れ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。つまるところ、この名色によりて識があるのであり、識によって名色があるのである。さらに、名色によって六処があるのである。六処によって触があるのである。・・・・これがすべての苦の集積のよりてなる所以である〉と。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』、因縁相応43「城邑」より)

 別のお経(因縁相応「葦束」)では、お釈迦様の十大弟子の一人で智慧随一のサーリプッタが、名色と識との関係を人に問われて、「相依って立つ二つの葦の束」にたとえている。
 そこで、ソルティは、機能面から見たときの生命現象を「識=認識力」と定義し、構成面から見たときの生命現象を「名色=心と体」と定義したわけである。
 つまり、生命とは、「身体的要素(色)と精神的要素(名)を有し、外界および内界を認識するもの」である。
 
 なので、「名」の4つの要素(受・想・行・識)のうち、「識」だけはちょっと他の3つと位相が異なる。
 「識」は、受・想・行が働く足場のようなものである。
 「識」がないとき、たとえば深い睡眠状態にある時や気絶している時は、受も想も行も働くことができない。
 逆に、受・想・行がないとき、すなわち外界からも内界からも流入する情報がまったくないとき、凪の海に浮かぶ舟のように「識」は止むほかない。
 適切な譬えかどうか自信はないが、人間を映画と考えたとき、「色」が映写機とスクリーン、「受・想・行」がフィルムとそれによって映し出される映像やストーリー、「識」は光線という感じか。


映画館

 
 お釈迦様は、かくも見事に人間を分析し五蘊を唱えたが、大切なのは分析そのものではない。
 五つの要素のどれをとっても、常なるものはなく(無常)、単独で成り立つものもなく(無我)、「私」がコントロールできるものもなく、「私のもの」と言えるものもない。
 すなわち、五蘊の分析を通して「無常・無我・苦」を知り、「私」の虚構性を見抜くことが肝要なのである。
 仏教科学は、科学のための科学ではなく、あくまで修行に役立てることを目的とする。
  
要するに、五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)


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 映画とは、スクリーンと映写機ではない。
 撮影されたフィルムでもない。
 フィルムに固定された役者の姿や演技、ストーリーでもない。
 もちろん、映画館でもなければ、暗闇でも光線でもない。
 また、観る者が一人もいなければ、作品は存在しない。

 さて、映画とは何だろう?






● 『阿含経典』を読む 2  科学的な、あまりに科学的な

 増谷文雄編訳の『阿含経典』(ちくま学芸文庫)の第1巻は、7762経に及ぶ膨大な『相応部経典』のうち、「存在の法則(縁起)に関する経典群」と「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を中心に編まれている。
 ちなみに、「相応」とは「同じようなテーマの教えを集めた」という意である。

 縁起と五蘊――どちらもブッダの教えの核心にあたる。


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 改めて認識し、かつ驚くべきは、仏教は宗教は宗教でも、実に科学的ということだ。
 存在の法則、人間の分析が、語られるべき「いの一番」なのである。
 そこには、神秘的・神話的・土俗的・幻覚的・空想的なところがまったくない。
 神がこの世界と生き物を創造したとか、土をこねて神の姿に似せて人間を作ったとか、アダムの骨からイヴを作ったとか、神が降臨して人間の祖となったとか・・・・そんなお伽噺とはかけ離れている。
 ブッダは何より科学者――客観的にありのままの事実を見つめ、システムの構造と働きを見抜き、誰もが検証できる形で理論化・言語化した人――なのである。

 さて、存在の法則とは縁起である。

縁起の公式1  これあるときに、これあり。 これ生じるが故に、これ生ず。

縁起の公式2  これなきときに、これなし。 これ滅するが故に、これ滅す。

 上記はわかりやすい。
 存在するものは、原因や条件があって存在している。
 その原因や条件がなければ、あるいはそれらを滅してしまったら、存在は成り立たない。
 ごく当たり前の事実である。

 公式1をもとに、人間の存在の法則、すなわち十二縁起が説かれる。

縁起の公式3 
  1.  無明あるときに、が生じる
  2.  あるときに、が生じる
  3.  あるときに、名色が生じる
  4.  名色あるときに、六処が生じる
  5.  六処あるときに、が生じる
  6.  あるときに、が生じる
  7.  あるときに、渇愛が生じる
  8.  渇愛あるときに、が生じる
  9.  あるときに、が生じる
  10.  あるときに、が生じる
  11.  あるときに、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩が生じる
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩あるときに、無明が生じる

 公式2をもとに、以下の公式もまた成り立つ。

縁起の公式4
  1.  無明なければ、は生ぜず
  2.  なければ、は生ぜず
  3.  なければ、名色は生ぜず
  4.  名色なければ、六処は生ぜず
  5.  六処なければ、は生ぜず
  6.  なければ、は生ぜず
  7.  なければ、渇愛は生ぜず
  8.  渇愛なければ、は生ぜず
  9.  なければ、は生ぜず
  10.  なければ、は生ぜず
  11.  なければ、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩は生ぜず
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩なければ、無明は生ぜず


 十二縁起を構成する各要素(項目)をどう定義するかが問題である。
 タイ仏教界の最高学僧であるポー・オー・パユットー著の『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で定義を試みたい。

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無明 =ありのままの真実を見ないこと、愚かなこと
  =心に思うこと、言うこと、行うことのすべて。およびそれによって蓄えられる業(カルマ)
  =認識力   ・・・機能面から見たときの生命現象
名色 =精神と身体 ・・・構成面から見たときの生命現象
六処 =目、耳、鼻、舌、皮膚、心あるいは脳
  =六処になんらかの情報が触れること。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が浮かぶ
  =快感 or 不快感 or どちらでもない
渇愛 =欲望 or 嫌悪
  =執着
  =自我に囚われた存在、それよって生じるカルマ(業)
  =人間として生まれること
老死 =老いと死
愁・悲・苦・憂・悩 =愁い・悲しみ・苦しみ・憂鬱・悩み


 さて、注意すべきは、一般的に十二縁起が意味しているのは、人間の一つの生における縁起ではなくて、前世・現世・来世の3つの生にまたがる縁起だという点である。
 つまり、公式3と4における1番(青色)は前世の、2~9番まで(黒色)は現世の、10~12番(赤色)は来世の事象を意味する。

 前世において、無明のため様々な間違ったを為したがゆえに業(カルマ)をつくり、名色を有する生命として現世に誕生した。
 現世で、六処から流入する様々な情報にれ、そこでけた快感・不快感にしたがって渇愛に溺れ、を肥大化させた結果、に囚われて、解脱の道を逃してしまい、輪廻転生を許してしまう。
 結果として、来世にを受けて、またもや老死愁・悲・苦・憂・悩を味わうハメになる。
 これが永遠に回る。

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 正直のところ、前世と現世とをつなぐ項目である、あるいは現世と来世とをつなぐ項目である、つまり業(カルマ)の存在と働きについては、ソルティは分からない。
 そこのところは、非科学的とは断じないまでも、仏教の「お伽噺」性の最たる部分とみなされるのかもしれない。(昨今のニュースで、「量子力学が輪廻転生を証明できる可能性がある」というのを見たが・・・)
 それ以外の縁起の部分、特に六処からに至る、現世において人間の欲望や嫌悪が生まれ育っていく過程の分析については、実に精緻で科学的で見事というほかない。
 
 輪廻転生を阻み解脱することを最終目的とする仏道修行において重要なのは、公式4である。
 現世にある修行者が介入し得るのは、流れのうちの6番「なければ、は生ぜず」、7番「なければ、渇愛は生ぜず」、8番「渇愛なければ、は生ぜず」の部分だけである。
 前世についてはすでに手遅れであり、来世については現世の行い次第である。
 現世における2番から5番、すなわちの生起からの生起までも、自動的に(自らが預かり知らぬところで)起こってしまっている。
 現世のを生む瞬間、渇愛に変わる瞬間、渇愛に育つ瞬間に対してのみ、人は介入して、流れをストップすることができる。

 そのために欠かせないのが、念(気づき)なのである。
 念が欠けていると、ほとんど自動的・盲目的に、触→受→渇愛→取の流れが圧倒的な勢いで進んでしまう。
 そのとき人は、機械的な生を送るマリオネットとなる。

 念(気づき)を育てる修行が、ヴィパッサナ瞑想である。

 う~ん、科学的だ。

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追記:日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が、「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて」のメッセージを同会ホームページに寄せている。ソルティは、過剰なマスコミ報道などに接し、心が落ち着きを失った時などに読み返している。ご参考までに。






● 本:『過激な隠遁 高島野十郎評伝』(川崎浹著)


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 2018年求龍堂 

 高島野十郎(1890-1975)の名は、『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』(宮下規久朗・著)で知った。
 日本美術史において、光と闇をモチーフに描いた代表的な画家の一人として触れられていたのである。
 彼が晩年、好んで描いた『月』や『蝋燭』の連作を見ると、確かに、一面の闇の中にぽっかり空いた覗き穴のような満月であるとか、闇を赤錆に染める一本の蝋燭の炎のゆらぎであるとか、これ以上にないシンプルな光と闇の表現が特徴的である。
 
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月(1963年)

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蝋燭(1912-26)


 上述の本の中でこれらの絵の図版を見たとき、そして、高島野十郎が生涯独身を貫き、画壇とも一切関わりを持たず、隠者のような孤高の人生を送ったと知ったとき、さらには、野十郎が非常に仏教に造詣深かったと知ったとき、俄然興味が湧いた。
 
 著者は、1930年生まれのロシア文学研究者。
 大学院生(24歳)の時に40歳年上の野十郎と運命的な出会いを果たし、以後20年以上にわたる交流を続けた。
 ちなみに、野十郎は「やじゅうろう」、著者の名の「浹」は「わたる」と読む。

 『月』や『蝋燭』といった作品に見られるシンプルで静謐な印象から、ソルティはてっきり、仏教は仏教でも、「禅の人」と思ったのである。
 曹洞宗や臨済宗が、野十郎の画風の依拠するところ、彼の精神の礎となるところなのでは?・・・と思った。

 しかるに、この評伝を読み、野十郎の言動や人となりに触れ、また『月』や『蝋燭』以外の若い頃からの彼の作品の図版を見ると、「禅的」とはちょっと違うと思った。

 野十郎は、ゴッホがそうであったように、生前ほとんど無名で、没後に脚光を浴びるようになった。
 ブレイクのきっかけとなったのが、『すいれんの池』という作品であった。


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すいれんの池(1949年)


 この絵は、写実の極みである一方、風景画を超えたなにか過剰なものを観る者に感じさせる。
 なんだろう?
 ソルティは、「曼荼羅だ」と思ったのである。
 池の白蓮一つ一つの中に、周囲の木々の葉一枚一枚の中に、生命の形を借りた仏が宿っている。
 それを画家は見ている。
 実物の絵を見ていないので確言はできないけれど、野十郎の絵は「禅的」というよりも「密教的」なのではないか。
 その視点から見直してみると、『月』を取り巻く深い闇は「無」ではなく、多数の生命が彼方の光(=大日如来)に吸収されていくあの世の光景に思えるし、『蝋燭』のゆらぎはラヴェルの『ボレロ』に合わせて命の輝きを表現するダンサーの舞いのように見えてくる。 
 
 評伝に描かれる野十郎は、まさに明治生まれの頑固一徹で、さらに、世俗に背を向けすべてを芸術に捧げた男の凄みと、脱俗者ならではの飄々とした恬淡さとが、共生する。
 国土開発の60年代後半、野十郎は、団地造営を計画する大手建設会社から、住みなれたアトリエの立ち退きを迫られる。
 建設業者との激しい攻防のくだりは、この本につけられた『過激な隠遁』という、一見矛盾するようなタイトルの意味を、納得せしめるに十分である。
 こういう過激な爺さん、最早日本中のどこを探しても見つかるまい。

 いつか、高島野十郎展に足を運ぶ機会の来たらんことを!



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 宮廷恋愛スキャンダル 本:『とはずがたり』(後深草院二条・著)

14世紀初頭成立
2019年光文社文庫(現代語訳・佐々木和歌子)
 
 映画『あさき夢みし』を観て原作を読みたいと思い、図書館で検索したところ、昨年10月に新訳が出たばかりだった。
 なんつー、いいタイミングだ!

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 面白いッ!!

 こんな面白い古典文学の存在を知らなかった幾十年が口惜しい。
 実相寺の映画よりも格段に面白い。

 それも当たり前、この日記はいわば、『実録・中世宮廷恋愛スキャンダル』なのである。
 実在の人物、それも天皇や皇后や大臣や高僧や伊勢の斎宮といった、いとやんごとなき方々の、赤裸々な恋愛模様や下半身事情が、実名そのままにすっぱ抜かれている。
 華やかなりしも、奇異にして波乱含みの生涯を送った一人の女性の、色懺悔にも似た暴露本といった感すらある。
 この書が何百年もの間、陽の目を見ずに宮中(宮内庁)の奥に眠らされてきた理由も頷ける。

 主人公・二条は、美貌と教養を兼ね備えた名門の娘。
 幼い時より後深草院(第89代天皇)の手元におかれ、蝶よ花よと育てられた。そこには、二条の母親が後深草院の乳母であり、筆おろしの相手&初恋の人だった事情があった。
 『源氏物語』の若紫よろしく、14歳の時にそれまで父のように慕っていた後深草院(=御所様)に犯されて、男を知る。
 そこからは、紫の上(=若紫)とは真逆の、激しくも目まぐるしい愛欲の修羅道まっしぐら。

●二条の恋愛遍歴
  1. 御所様の子を懐妊。生まれた男児は一年余りで亡くなる。
  2. 初恋の人・西園寺実兼と密会して懐妊。生まれた女児は、御所様には「月足らずで死産」と偽って、実兼のもとに。
  3. 御所様の弟で高名な阿闍梨である「有明の月」の異常な執念に負けて、関係を結ぶ。二人の男児を生む。関係は御所様にばれるも、許しを得る。
  4. 御所様のさしがねで、関白である近衛の大殿に抱かれてしまう。(その様子を御所様は障子の向こうで聞いている)
  5. 御所様の弟で第90代天皇の亀山院に差し出される。(その間、御所様は屏風の向こうで酔っぱらって寝ている)
  6. 28歳にして宮中追放、30歳過ぎて出家。諸国流浪の旅に出る。 
 すなわち、天皇家の三兄弟と関係を持ち、時の関白に身を許し、初恋の男とも切れずにいる。分かっているだけで、一人の女児と三人の男児を生む。うち一人も育てられなかった。

 男たちは、二条が妊娠中だろうが、法要中だろうが、宮中を離れてお寺に籠っていようが、いっさい構わずやって来ては体を迫り、その都度、彼女は流されるままに許してしまう。
 その様子は、現代人の感覚からすれば、魔性の女、淫乱、セックス依存症であり、意地悪に言うなら、都合の良いダッチワイフ、皇室御用達の公衆便所、高級娼婦である。
 凄い古典でしょう?

 奔放な女性の恋愛手記という点では『和泉式部日記』に通じ、宮中の貴族たちの華麗なる生活と風俗を描いたという点では『枕草子』に通じ、おのれを観察する目を持つプライド高い才女のモノローグという点では『蜻蛉日記』に通じる。

 一方、これら平安王朝絵巻と一線を画すのは、背景に漂うデカダンスと虚無感の色合いである。
 ときは鎌倉時代後期。
 武士の世であり、執権北条氏の天下である。
 源頼朝に始まる源氏三代が絶えた後の鎌倉殿(=征夷大将軍)はもとより、京都に住む天皇や関白・摂政も北条氏の監視下に置かれ、実質的な政治権力は持たなかった。

 貴族たちは、有職故実にのっとった決まりきった儀式、詩歌管弦や蹴鞠や贅を凝らした法要などの遊び、正体を失うまでの飲酒とバカ騒ぎ、といった日々を繰り返していた。恋愛や出産もまた、無為と退屈を紛らわすゲームの一つに過ぎなかったのであろう。
 失われた過去の栄華の記憶に生きる中世の皇族や貴族たちの姿がうかがえるのも、この作品の大きな魅力である。

着物ガール


 光文社版には、日本の伝統色を並べたカラーページ、当時の貴族たちの装束イラスト、話の舞台となる京都の図面、登場人物たちの系図や相関図、尼となった二条の旅の足跡を示す日本地図が、付録としてついている。
 内容理解の助けとなり、とても有難い。
 「タイミング、トラブル、ストレス、チャンス」といったカタカナ語を怖れずに使った現代感覚の訳も、たいへん分かりやすく、また親しみやすい。

 映画『あさき夢みし』では、出家後の二条(映画では四条)の姿は、かなり清らかに描かれていた。愛欲と迷いの俗世間を離れ、ひたすらみほとけの道を歩んでいるように見えた。その理想の境地が、二条が出会う一遍上人である。
 原作の二条は、出家してもなお迷い続け、過去の栄華に引きずられ、御所様の面影が片時も離れず、涙を流してばかりいる。さすがに男との関係は書かれていないが、原本には紛失部分があるようなので、もしかしたら出家後もなんらかの色事があったのかもしれない。一遍上人も登場しない。
  
 尼姿になって贅沢を捨て、各地の有名な神社仏閣を参詣する旅に出たところで、煩悩はなかなか消えない。御所様の訃報に駆けつけ、その葬送の車を追って、都大路をどこまでも裸足でかける墨染の姿は、目に浮かぶよう。
 愛に捕らわれた女の姿は、昔も今も変わりない。



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 
 
 
 

● 本:『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』(宮下規久朗・著)  

2016年岩波書店

 美術史において、光と闇がどのように描かれてきたかに焦点を当てた研究書。
 日本美術についても、また彫刻についても、それぞれ一章当てられているが、主として西洋の絵画史が概観されている。
 著者は1963年名古屋生まれの美術史家で、カラヴァッジョ研究の第一人者。

 副題にある通り、カラヴァッジョ(1571-1610)こそは、西洋美術において光と闇の表現に革新をもたらした芸術家であった。
 彼の実質的デビュー作である『聖マタイの召命』(本書表紙)は、公開されるや賛否両論を巻き起こし、カラヴァッジョの名は一夜にしてローマじゅうに知れ渡り、その画風はまたたく間に画壇を風靡したという。

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奇跡というものは、客観的な復活や治癒などではなく、すべて内面的な現象にすぎず、神も信仰もつまるところすべて個人的な内面や心理の問題に帰着する。こうした考えは、プロテスタントだけでなく、イエズス会やオラトリオ会など、個人と神との対峙を重視する当時のカトリック改革の宗教思想に通じるものである。
 しかし、それを説得力のある様式で初めて視覚的に提示したのはカラヴァッジョであった。彼は宗教画を、遠い昔の出来事ではなく、観者の目の前に立ち現れるヴィジョンとして表現した。劇的な明暗、質感豊かな細部描写、画面からモチーフが突き出るような表現などすべては、観者のいる現実空間にリアルな幻視をもたらすための仕掛けであった。 


 カラヴァッジョの尽きせぬ魅力は、その臨場感あふれるドラマチックな数々の絵とともに、その波乱万丈の生涯にあろう。
 この人は、天才画家であると同時に、ゲイであり、殺人者であり、死刑宣告を受けた逃亡者であり、脱獄者であった。名声の絶頂にいる最中、ローマの街のチンピラと決闘して一人を刺殺したのである。血気盛んな無頼漢だったようだ。
 
 殺人者でゲイの天才芸術家――というと自然連想されるのが、本邦の平賀源内(1728-1780)である。
 源内もまた、酔っぱらって大工の棟梁2人を殺傷し、破傷風で獄死した。
 カラヴァッジョの生まれ変わりだったのか・・・?

源内の墓
台東区橋場にある平賀源内の墓


 たぶん、カラヴァッジョが闇に惹かれ、闇の中の人物を執拗に描き続けたのは、自らの心の中の闇を見ていたからなのだろう。
 というのも、彼の作品においては、普通の宗教画で観られるように光(=神)を浮き立たせるために闇が描かれるのではなく、闇(=悪)の深さを描くために光が使われている――そんな印象を受けるからである。

 逃亡先で熱病に倒れ最期を迎えたとき、カラヴァッジョは光(=救い)を見たのだろうか?
 それとも闇に囚われたまま逝ったのだろうか?



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『千羽鶴』(川端康成著)

1956年新潮社
 (『千羽鶴』は1952年刊行、続編である『波千鳥』と合本で1956年刊行)
1989年新潮文庫

 大人の男女の愛欲模様を描いた小説である。
 が、そこは世界の川端。ドロドロした下世話感はなく、陶器の世界の奥深さや繊細な自然描写をまぶしながら、『源氏物語』を思わせる風雅な一篇に仕立てている。

 『源氏』を思わせるのは、主人公菊治がモテ男で、何もしなくとも女が寄ってきて、かまってくれるキャラだからである。くわしい説明はないが、イケメンで金持ちで母性本能をくすぐるのだろう。

 菊治の周囲を、年代を異にする数人の女たちが、衛星のようにそれぞれの軌道を交差しながら近づいては離れ、経巡る。
 多くの男の読者にしてみれば、うらやましい限りであろう。

 『みずうみ』や『眠れる美女』や『片腕』にみる魔界こそ、川端の真骨頂と思っているソルティにとって、正直恬淡とし過ぎて、あまり面白くはなかった。
 とりわけ、続編の『波千鳥』は無きにしもがな。


折り鶴


 登場人物のうち、二人の女性の造詣が秀逸である。

 男がいなければ生きられない手弱女(たおやめ)のような太田夫人。
 その太田夫人のコケットリー(媚態)を同性ならではの辛辣な目で見抜き、菊治を守ろうとしつつ、かえって菊治に疎まれる栗本ちか子。
 男としての菊治の魅力は、このどちらの女も最終的には拒絶しないところにあるのだろう。
 あるいは、拒絶できるほどの執着を持たないところか。

 この小説は大映によって二度映画化されている。 

 最初は1953年。監督は『安城家の舞踏会』の吉村公三郎。
  太田夫人 =木暮実千代
  栗本ちか子=杉村春子
  菊治   =森雅之

 二度目は1969年。監督は『妻は告白する』の増村保造。
  太田夫人 =若尾文子
  栗本ちか子=京マチ子
  菊治   =平幹二朗

 どちらもこれ以上にない魅力的な配役。
 機会あれば観てみたい。



おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 弁証法的権力とウイルス禍 本:『オイディプス症候群』(笠井潔著)

2002年光文社
2006年カッパ・ノベルズ

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 『8・15と3・11 戦後史の死角』、『サマー・アポリカプス』に次いで、3度目の笠井ワールド探訪。

 小口の厚さ40ミリ、二段組で700ページを超える大作ミステリー、といったことを差し引いても、この本を読むのはちょっと覚悟がいる。
 ギリシア神話、監獄論、性愛論、現象学・・・・等々、ミステリーの解決とはさほど関係のない学術的な話が無駄に多い、つまり衒学的なのである。
 同じ衒学ミステリー作家であるヴァン・ダインや京極夏彦と比べても、笠井のミステリーは、より難解で饒舌で哲学的である。
 そこが読者を選ぶゆえんであり、また、熱狂的な読者を持つゆえんでもあろう。

 たとえば、この小説の登場人物たちがひけらかす煩わしい蘊蓄をすべてとっぱらって推理小説の骨子のみ残すとしたら、ミステリーとしてはかなりつらいものであることが明らかになるだろう。
 プロットや推理には杜撰な点が多く、突っ込みどころ満載なのである。

 一例を挙げよう。

 この小説(連続殺人事件)の舞台となるのは、ギリシアのクレタ島付近に浮かぶミノタウロス島という架空の島である。
 ミノタウロスと言えば、古代ミノアの王妃パシパエと牡牛の間にできた牛頭人身の怪物である。
 ギリシア神話では、父王ミノスにより迷宮に閉じ込められ、年ごとに少年少女7人ずつの生贄を要求する。

 その伝説が色濃く残る島をアメリカの製薬会社の大富豪が購入し、古代ミノアの王宮を模した豪壮な別荘を建てた。
 この孤島の館に招かれた10人の男女が次々と謎の死を遂げていく。
 要はクリスティ『そして誰もいなくなった』のパロディである。
 登場人物たちは、「次の犠牲者は自分かもしれない」と脅えながら、犯人と犯行方法について推理合戦を繰り広げる。生き残っている者の中に真犯人がいる前提で、互いが互いを疑いながら・・・・・。
 殺害の一つは館内の密室で行われており、そこから遺体が消失するという謎も含まれる。
 四方を海に囲まれた離れ小島の中の閉ざされた部屋、という二重の密室である。
 
 この状況設定から、本格推理小説の定石として、読者が当然有りうべきことと考え、登場する素人探偵たちに最初に検討してほしいと願うのは、館に仕込まれている迷宮の存在であろう。
 迷宮が存在するのなら、なにも容疑者を館に招かれた10人だけに絞る必要はない。
 もとから島内にいて迷宮に潜んでいる者がいてもおかしくはない。
 密室殺人も、「実は部屋の中に迷宮への隠し扉があった」で簡単に解決してしまう。
 迷宮の有無の検討と調査は、合理的な推理を展開しようと思うならば、探偵たちにとって必須の手続きとなるはずである。
 ところが、登場人物たちの誰一人も、迷宮の存在について思いつく様子もなく、口にもしない。
 これはあまりにも不自然である。
 最終的には、館に迷宮が存在することが明らかとなり、真犯人はまさに迷宮に潜んでいた招待客以外の人物なのであるから、「なんて頭の回らぬ探偵たちだ・・・」と、読み手はあきれざるをえない。
 プロット自体に不自然を感じる。
 『サマー・アポリカス』でも思ったが、笠井は推理小説としての整合性やリアリティにさほど拘っていないように思われる。

ミノタウロス
ミノタウロス


 しかしながら、この推理小説としての杜撰さが欠点と思えないところに、まさに笠井ミステリーの真骨頂がある。
 その秘密がつまり、衒学による目くらましなのである。
 読み手は、幅広い分野における圧倒的な量の知識と、それを支える著者の深い教養、そして哲学性に降伏してしまう。
 それも、ヴァン・ダインのように、ただ単に知識をひけらかしてページを稼いでいるのとは違う。
 評論家でもある笠井の、自らの人生経験に裏打ちされ、思考によって鍛え抜かれた社会哲学が、作品の基調となっているのである。
 その意味で、衒学による目くらましという表現は当たっていない。
 むしろ、ミステリーの体裁を借りた哲学書というべきかもしれない。
 
 そしてまた、「杜撰=つまらない」でないことを、笠井ミステリーは教えてくれる。
 単純に、すごく面白いのだ。
 天才的着想、卓抜な構成力、興味をそそる謎の提供、素人探偵と一緒に推理ゲームに参加する愉しみ、姿恰好が目に浮かぶようなキャラクター描写、巧みな伏線の配置と意外な結末、重厚感・・・・・。
 多少のアラは大目に見てしまわざるを得ない魅力にあふれている。
 
 着想の天才性という点でソルティが唸らされた点を挙げる。

 ここで言うオイディプス症候群とは、ずばり後天性免疫症候群(エイズ)のことである。
 この小説は、エイズ=HIVが「謎の奇病」として世界に出現して間もない時代を背景としている。

 HIVの感染経路は3つ――血液感染、性行為感染、母子感染である。
 当時、血液感染の中で特に問題となったのは、輸血に用いられる血液製剤の中にHIVが混入し、それにより多くの血友病患者がHIV感染し、エイズを発症して亡くなった事件であった。
 日本では薬害エイズ事件として知られるが、世界各地で製薬企業や厚生行政や血友病専門医の無作為責任が問われる裁判が起きた。
 一方、性行為感染では、男性同性愛者間でのHIV感染が顕著であり、70年代を通じて高まる一方だったゲイリブの気運の中で、性の自由を謳歌していたゲイコミュニティを直撃した。
 この『オイディプス症候群』では、初期のエイズ事情を語るに欠かせない、まさに二つのトピック――血液製剤とゲイセックス――を、一連の殺人事件の動機を構成する要素として取り上げ、見事に融合させている。
 しかも、息子を殺された一家族の復讐劇と、HIVを社会転覆の武器として利用するテロリストの陰謀、というレベルの異なる二つの事象を、齟齬することなく並べて物語ることに成功している。
 この着想と構成力、そして筆力には脱帽するほかない。

 読んでいて思わず手が止まった箇所がある。
 カッパ・ノベルズ版の624ページ。
 
 『弁証法的権力と死』を読んだきみには説明するまでもないことだと思うけど、世界の未来は暗澹としている。反対者や批判者の存在までも否定的契機として内部化し、際限なく膨張し続ける弁証法的権力に世界は遠からず完全に呑みこまれてしまうんだから。
 弁証法的権力とは闘うことができない。批判すれば批判するほど、闘えば闘うほど、歴史の終点である完璧な権力の膨張と普遍化を助けてしまうんだから。屈服しても闘争しても結果は同じなんだ。しかしIVは、自己運動する完璧な権力がはじめて直面する異様きわまりない敵だ。IVは闘わない。システムの内部に潜入しシステムが自滅するように仕向けるだけだ。社会にたいしてIVの流行が果たす役割と、生体においてIVが果たす役割には並行性がある。IVに感染してはじめて僕は、弁証法的権力を内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう素晴らしい武器を手にすることができたんだ。

 IVとあるのは、オイディプス症候群を引き起こすウイルスにつけられた名前であり、つまりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に当たる。
 このセリフの主は、自身IV感染者であり、オイディプス症候群の蔓延による社会混乱と国家権力崩壊を企図するテロリストである。
 彼はそのために、相手選ばずの無軌道なセックスを繰り返す。ミノタウロス島で起こる一連の殺人事件の真犯人(の一人)でもある。 
 
 「弁証法的権力」の説明から読み手が連想するのは、まさに現在の安倍自民党政権であり、その権力の徹底された先に登場しうる中国のような独裁政権による管理社会であろう。右も左も関係ない。
 あたかも笠井は、この小説が書かれた2002年の段階(時の首相は小泉純一郎)で、今の日本の政治状況を予言していたかのようである。
 
 ただし、このテロリストが企図したように、HIVが弁証法的権力を「内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう」武器として働いたかと言えば、HIV登場約40年後の現在の世界状況からして、「そんなことはなかった」と結論せざるを得ない。
 幸か不幸か、HIVは既存の権力構造に致命的な打撃を与えなかった。(少なくとも、今のところ)
 一つには、HIVが先進国では薬によって抑えられて、エイズが慢性病の一種となったがゆえに。
 一つには、HIVが先進国ではほぼ性行為でしか感染せず、それは様々な手段で予防できるがゆえに。
 一つには、途上国でのHIV流行はメガ・ファーマーと呼ばれる巨大製薬企業の莫大な利益を生むチャンスをつくり、グローバル資本主義に拍車をかける結果となったがゆえに。
 また、我が国に限って言えば、HIV拡大防止というもっともな名目で、純潔教育のような特定の倫理を標榜する保守団体と結びつく形で、国家権力による個人の性行動への介入と統制を許してしまったがゆえに。 
 自由を求める大衆の力の源泉となる性のエネルギーを、国家が管理統制する道を開いてしまったのではないか――というのが、過去20年以上HIVに関する市民活動に携わってきたソルティの偽らざる実感である。
 わかりやすい例で言えば、学校現場における性教育の後退やジャンダーフリー・バッシング、それに浮気した家庭持ちのタレントに対するいじめまがいの制裁である。


迷路


 そしていま、新型コロナウイルス登場である。
 現段階で予想して、新型コロナウイルスの社会的影響の大きさは、HIVのそれを凌駕していくのではないかと思われる。
 ソルティは安倍政権の終焉をこそ望むけれど、むろんテロには反対である。
 このコロナウイルス騒ぎが一刻も早く終息することを望んでいる。
 ただ、誰もが当事者とならざるをえないこのウイルスの流行が、どんな社会構造の変化を地球レベルでもたらすことになるのか、人々の意識や行動にどのような影響を及ぼすのか、気になるところではある。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 『阿含経典』を読む 1

1979年筑摩書房
2012年ちくま学芸文庫
増谷文雄 編訳

 しばらく前から、毎朝、『阿含経典』を読んでいる。
 ちくま学芸文庫から出ている増谷文雄(1902-1987)編訳の3巻本である。


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 ソルティは学者でも僧侶でもないし、仏教経典をめぐる様々な議論にも興味ないので、無知な素人ならではの無責任とガサツさで括ってしまおう。
 『阿含経典』とは、最も古い経典=お釈迦様の教えに近い経典、である。
 加えて、大乗仏教の日本では長いこと、有難がられることなく、ほとんど無視されてきた、いわゆる小乗仏教の主要経典である。(日本で現在、阿含経典を奉じている宗派は、有名どころでは、テーラワーダ仏教協会をのぞけば、阿含宗である。)

 よく知られるように、お釈迦様が亡くなったあとしばらくして、多くの高弟たちが集まって会を開いた。第一結集と言われる。
 目的は、お釈迦様の教えを正しい形で後世に伝えるため、覚えやすい形式にして全員で記憶するためである。筆記という手段はこの頃なかったようだ。
 何十年とお釈迦様のおそばに仕え、飛び抜けた記憶力をもつアーナンダ――思うに今でいう「アスペルガー症候群」だったのかも――がまず、「お釈迦様は、どこそこの地で、誰それ相手に、こんなことを説きました」と語り、全員でその内容を吟味し、確定し、暗唱した。
 集まった弟子たちは、アーナンダも含め全員が阿羅漢、つまりお釈迦様と同じレベルの悟りに達した者ばかりであったから、その内容はお釈迦様の教えそのものと言っても間違いなかろう。
 これがお経の始まりである。
 
 『阿含経典』は、この結集のときに採択されたお経を、後の僧侶たちが5部に分けて編纂したものと言われる。(パーリ語経典の場合。漢訳では4部)
  1. 長部経典     34経
  2. 中部経典    152経
  3. 相応部経典  7762経
  4. 増支部経典  9557経
  5. 小部経典     15分
 上記5部の経典に収録されている経の数は、じつに17000経以上に及ぶ。
 いくらなんでも、こんなにたくさんの経を、第一結集のみでまとめ上げられるわけがない。(伝えによれば、第一結集は約7ヶ月を要したとか)
 その後の再三にわたる結集、および活字化され編集される過程で、新たな逸話が追加され、創作され、肥大化したのは間違いあるまい。
 少なくとも西暦前、つまり大乗仏教が成立する前には、いまある5部の形に整っていたらしい。

 編訳者の増谷文雄によると、5部の経典を成立順にならべると、次のようになる。
  1. 相応部経典
  2. 中部経典
  3. 長部経典
  4. 増支部経典
  5. 小部経典 
 ただし、小部経典の中のいくつか、たとえば岩波文庫に入っている中村元訳『ブッダのことば(スッタニパータ)』、『真理のことば(ダンマパダ)』などは、韻文でできており、最初期の教えに入るようだ。

 
 このちくま学芸文庫には、増谷が抽出した400経が訳せられている。
 全3巻のうち、第1巻と第2巻は相応部経典から、第3巻はそれ以外の経典から採られている。
 つまり、阿含経典の中でも最も古い教え=より仏説に近い、ということになろう。
 
 ソルティは、経典の翻訳の中では、この増谷文雄訳がもっとも好きである。
 平易で、読みやすく、言葉の選択もリズムもよく、品格がある。
 岩波文庫の中村訳のお釈迦様は、厳めしく近寄りがたい孤高の人というイメージだが、増谷訳のお釈迦様は、慈愛に満ち、来る人を拒まない雅量を感じさせる。(両文庫で使用される活字の大きさや種類の違いも大きい)
 
 毎朝、3つか4つのお経を声を出して読んで、内容について思いをめぐらす。
 それだけのことが、心の安定と落ち着きをもたらすから、不思議である。
 昨今の世相は、そのまま飲まれてしまうと、不安と混乱と気鬱をもたらしかねない。
 お経を読んで、2500年の時を超えてお釈迦様とつながることが、良い精神安定剤となっている。


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● イヤミス NO.1 本:『悲しみのイレーヌ』(ピエール・ルメートル著)

2006年原著刊行
2015年文藝春秋

 『その女アレックス』、『天国でまた会おう』などで、いまや現代フランスを代表する作家となったピエール・ルメートルのデビュー作。
 原題 Travail soigné は「丁寧な仕事」といった意。

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  もし本国フランスでの発表順どおりに、最初に読んだのがこの『悲しみのイレーヌ』だったならば、ソルティはこの作家の他の作品は読まなかったであろう。
 それくらいイヤミスだった。
 『死刑囚』、『ボックス21』、『三秒間の死角』、『熊と踊れ』のスウェーデン作家アンデシュ・ルースルンド+1 も見事なまでのイヤミス系だが、これにくらべれば天使のウンコだ。
 ピエール・ルメートルのイヤミスぶりは、どうやらお国の怪物作家サド侯爵の流れを汲むような、悪魔主義といった趣さえ感じられる。
 
 映画にもなった『その女アレックス』の残虐ぶりは読んでいて身が痛くなるほどであった。
 が、デビュー作はもっと悪魔的で陰惨、嘔吐を催させる。
 酸鼻極める残虐、容赦ない鬼畜の所業、悪魔が凱歌を上げる結末。
 まったく救いがない。
 ルメートルがおのれの嗜虐趣向(サディズム)を、創作することで昇華していると聞いても、少しも驚かない。(そう言えば、フランス人ってなんとなくSM好きのイメージがある。サドとミッシェル・フーコーのせい?)

 テレビや映画などの映像や、漫画や絵画などの二次元にくらべれば、活字である小説は、画像が直接視覚に映るわけではないので、残虐性は緩和されるのが一般である。
 羅列されている言葉が、読み手の想像力に合わせて脳内でイメージ化され、はじめて画像が結ばれる。衝撃は間接的なものだ。
 しかるに、この『悲しみのイレーヌ』に関しては、すでに活字の段階で結末に進むことを拒否したくなるほどの残酷さ、生理的不快感に満ちている。
 これは映画化してほしくない。(構成上、映画化は不可能と思われるが)

 イヤミスぶりは残虐性だけにあるのではない。
 トリックにもある。
 この小説に使われているメイントリックは、アゴタ・クリストフ著『ふたりの証拠』を思わせるような叙述トリックの一種、言ってみればメタフィクション・トリックである。

メタフィクション(Metafiction)とは、フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体に言及・批評するような小説のこと。

メタフィクションは、それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。メタフィクションの自己言及の方法には、例えば小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある。
(ウィキペディア『メタフィクション』より抜粋)

 ネタばらしになるので詳細は記さないが、『悲しみのイレーヌ』は、小説の中に別の小説(しかも複数)が登場する非常に凝った構成が特徴である。
 芸術至上主義の純文学の作家やSF作家がこれをやるぶんにはかまわない。が、ミステリーでやられるのは腹が立つ。
 トリックが見抜けなかったから腹が立つのではない。作者にうまいことだまされたから腹が立つのではない。それならむしろ、「天晴!」と素直に称賛もしよう。
 書かれていることをそのまま信じることができなくなるから、作者を根本的に信用できなくなるから、腹が立つのだ。
 アンフェアだ!

 ミステリーの愉しみはやはり、紙面に書かれていることをたよりに、読者が自分なりに頭を働かせて、犯人なりトリックなりを推理し解明していくところにある。
 加えて、紙面に書かれている描写をもとに、主役はじめ登場人物たちを自分なりにイメージ化し、そのキャラクターを楽しむことにある。
 書き手を信じられてこそ、それは可能なのだ。
 その前提を裏切るメタフィクション・トリックは、ソルティには許しがたい暴挙と思える。

 ルメートルの小説を読むことはこの先ないであろう。
 少なくともミステリーは。



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