ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『イザベラ・バードの旅 「日本奥地紀行」を読む』(宮本常一著)

1984年未來社より刊行
2014年講談社学術文庫

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 イザベラ・バード(1831-1904)は、英国の旅行家、探検家、紀行作家。
 1878年(明治11年)の6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側を北上し北海道に至る旅をし、その見聞を『日本奥地紀行』にまとめた。
 
 本書は、著名な民俗学者である宮本常一が、『日本奥地紀行』を題材にして行った講義録をもとに編まれている。
 江戸時代の風俗が色濃く残る北日本の田舎を、一人の西洋人女性がどのように見たか。その見方の背景をなす要因はなにか。日本各地の風俗に詳しい宮本が解説してくれるところが、本書のミソである。

一人の外人が日本を見たその目は、日本人が見たよりわれわれに気付かせてくれることが多く、今われわれの持っている欠点や習俗は、その頃に根を下ろし、知らないうちにわれわれの生活を支配していることもよくわかるのです。(宮本)


 昔の日本および日本人、とくに庶民の生活ぶりを知ることの面白さは、現在われわれが持っている価値観や習俗が、ある特定の時代につくられた仮設のものであることを知るところにある。
 われわれが抱いている「日本人とはこういう民族だ」という自己イメージは、別の時代、別の場所に行けば、まったく適合しないものになる。日本人のDNAに書きこまれた縄文時代から綿々と続く性質――なんてものでは全然ないのだ。

 たとえば、今回のコロナ禍でしきりに言われた「日本人のきれい好き」。
 本書を読むと、まったくそれが当てはまらない事実に直面させられる。
 イザベラ・バードは行く先々で、蚤としらみに悩まされる。着たきり雀で、身体も着衣もめったに洗わない庶民の不潔さに閉口している。そうした不衛生が、さまざまな病気の温床になっていることを指摘している。
 
その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。石鹸がないこと、着物をあまり洗濯しないこと、肌着のリンネルがないことが、いろいろな皮膚病の原因となる。虫に咬まれたり刺されたりして、それがますますひどくなる。この土地の子どもは、半数近くが、しらくも頭になっている。(イザベラ・バード)

 むろん、こうした不衛生の背景にあるのは、貧困と無知である。
 
 ほかにも、「日本人は排他的」なんてイメージも再考する必要がある。
 イザベラ・バードはどこに行っても、あっという間に物見高い群集に取り囲まれ、注目の的にされてしまう。
 湯沢のまちではこんな有様である。
 
何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子をもってきて隣の屋根に上った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された。(イザベラ・バード)

 まるで、かぐや姫を垣間見んとするスケベな男達のよう(笑)。
 外人を見たことのない者ばかりなのだから仕方あるまい――と理屈づけたい向きもあろうが、そうとばかり言えないのは、このあと北海道でアイヌの村に入ったとき、「イザベラ・バードが行っても皆が物見高く集まるということはなく、無関心である」。
 江戸時代に黒船がやってきたときも、幕府は神経をとがらせ警戒したけれど、庶民は「久里浜沖に泊まった船の間を全然警戒なしに漕ぎ回って」いたという。
 日本人は子どものように好奇心むき出しで、見知らぬ相手を「敵」ととらえず、まずは興味と感心をもって受け入れるところがあったのだ。
 
私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。(イザベラ・バード)
 
 この安全神話は、かなり劣化したとはいえ、今でも有効であろう。

 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(石原慎太郎、坂本忠雄著)

2019年新潮新書

 坂本忠雄は1935年生まれ。元『新潮』編集長で、三つ年上の石原とはかつての作家と担当編集者の間柄。
 80をとうに回った二人が、昔話に花を咲かせる対談集である。
 むろん、主役は慎太郎。坂本はそこここで慎太郎を持ち上げ気分良くさせながら、名伯楽さながら、話を引き出している。


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 川端康成、三島由紀夫、小林秀雄、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎といった戦後の文壇を彩った作家たちとの交流、佐藤栄作、田中角栄、美濃部亮吉、アンドレ・マルローら大物政治家の知られざる顔、石原自身による自作の誕生秘話など、興味深いエピソード盛り沢山で一気に読んでしまった。

 押しも押されもせぬベストセラー作家であり、映画スターであり、政治家であり、ヨットやスポーツカーや射撃の達人であり、太平洋戦争を知る最後の世代であり、そのうえ昭和の大スター石原裕次郎の実兄である。話が面白くないわけない。
 石原慎太郎を「好きか嫌いか」と聞かれたら「嫌い」と答えるソルティだけれど、「面白いと思うかどうか」と問われたら「面白い」と言わざるを得ない。(ただし、小説は読んでいない)
 本書を読むと、文学者にありがちな湿った面倒くさい自意識や、政治家にありがちな表裏を使い分ける陰湿さとは程遠い、慎太郎の分かりやすい性格がうかがえる。
 やはり、育ちが良いのだろう。

 ここで披露される数々のエピソードの中でもっとも印象に残ったのは、慎太郎夫婦が平成天皇と美智子妃にお茶に呼ばれたときの話である。
 平成天皇が葉山の別荘にご静養に行かれるときに「何時間も泳ぎ回るので心配」、と口にされた美智子妃に、慎太郎はこう言い放つ。

「あんなところ、海は遠浅で危ないことなんかありませんよ。伊豆の姉崎の別荘下なら僕もダイビングで時々潜りますけど、回遊魚も来るきれいな海ですよ。陛下も素潜りじゃなくてダイビングで深く潜って海の底を眺められると、人生観変わりますよ」

 平成天皇は「はあ、人生観ですか」と言ったきり、うつむいてしばらく黙ってしまわれたという。

 石原慎太郎と言えば「失言の王者」といったイメージがあるが、もしかしたらアスペルガーの気があるのかもしれないな。


尾瀬
尾瀬沼


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 檀家山 本:『修験道という生き方』(宮城泰年、田中利典、内山節共著)

2019年新潮社

 自分の前世の一つは修験者(山伏)であったと思う。
 山歩きが好きで、仏教が好きで、秩父を巡礼し、四国を遍路し、孤独が苦にならない。
 一方で、修験道と言えば、比叡山の千日回峰行に代表される苦行の世界であるが、ソルティは苦行が好きでない。ナンセンスとさえ思っている。
 四国を歩き通したと言うと、「苦行好き」のイメージで見られることもあるが、現代の四国遍路は、フィールドアスレチック+オリエンテーリング+生身の自分が主人公となるロールプレイングゲーム+観光旅行のようなものである。そこに宗教的要素が加わりはするが、苦行とはまったく思わなかった。(苦行にならないレベルで歩いた、というべきか)
 おそらく、前世は軟弱で中途半端な修験者だったのだろう。

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 本書は、修験界を代表する二人の高僧(宮城泰年、田中利典)と、西洋哲学を専門とする内山節による鼎談をメインとしている。序章として、内山が修験道の概要を歴史に沿って解説している。
 仏教用語など専門的な部分もあるが、概して庶民の日常生活に接続する具体的なレベルの話題が多く、本書で修験の世界にはじめて触れる者にとっても、読みやすくわかりやすいものとなっている。
 というより、「庶民の日常生活に接続する具体性」こそが、修験道の肝であることが明らかにされている。

 山伏に象徴される修験者は、現代人の目から見れば、日常から遠く離れた特殊の世界の人というイメージであるが、明治初期に「神仏分離令」に次いで「修験道廃止令」が出されるまでは、すなわち江戸時代までは、修験者は里にあって様々な役割を担いながら庶民の日常生活に溶け込んでいる点景の一つだったのである。(蘆屋道満などの陰陽師もまたその仲間であろう)
 修験道廃止令で失職した修験者は17万人もいたという。(当時の日本の人口は約3千万人台)

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 修験道とはなにか?

 修験道は古来の自然信仰を受け継ぎ、それが道教の「無為自然」(おのずからのままに=自然のままに生きる)思想とも融合しながら、大乗仏教の思想をも取り込んでいくかたちで成立した。

 その開祖は役小角(634~ )というのが通例である。
 が、役小角は書き物を残していないし、親鸞における唯円『歎異抄』のように、師の言葉を書き留めた弟子もいなかったので、役小角の思想なり修験道の理念なりというのは実はよくわからない。あってないようなものである。

 修験道は山での修業がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。知で生きる人間から身体で生きる人間へと自己を変えながら、身体と自然の一体化を得て自然的人間として生まれ変わることをめざした信仰だといってもよい。

 おそらくははるか昔から存在した自然信仰や人々の願いを集約し、仏教を取り込みながらひとつの型を創りだしたのが役小角だったのだろう。あるいはすでに各地で活動していた山岳信仰の行者たちに、ひとつの方向性を示したのが役小角だったと考えたほうがよいのかもしれない。
 
 自然信仰(アニミズム)が基盤となっているという点で、修験道はもっとも古い日本人の宗教と言える。太古から今日まで日本人の心の深層に脈々と流れ、いきづいているエッセンスである。(神道との関係について、本書ではなぜか触れられていない)
 それは、哲学とか思想とかというものではなく、日本という風土に生き、自然とともに暮らす人々の血の中を流れる“性分”のようなものだろう。がゆえの「身体性」である。
 また一方、仏教=大乗仏教を取り込みながら発展したというところにも特徴がある。
 仏教伝来以降、役小角、行基、景戒、空也をはじめとする、いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれ諸国を流浪する行者たちによって、官の仏教とは別のカタチで仏教が庶民に広まっていったわけであるが、それは各地でもとからあった民間信仰と融合していく。
 修験道は、主として山岳信仰と融合した民衆仏教の一形態なのである。
 風土仏教とでも言うべきか。

 『オオカミの護符』で書かれていた武蔵御嶽山や秩父三峰山への信仰(講)はまさにその表れであり、つい最近まで修験道が庶民に根付いていたことを知らしめるものである。
 ある意味、これこそが日本人の多く(=庶民)が古来なじんできた宗教――宗教とは意識しないほどに血肉化した――なのかもしれない。
 昨今、パワースポットブームも手伝ってか、修験道に関心を寄せる人が増えているそうである。

 日本列島に暮らした人たちが、もしかすると縄文時代以来、気の遠くなるような長い歴史の中で帰属してきたのは何かというとそれは風土という言葉に集約されると思うのです。自然とともに人々が、自然との独特な関係をつくりながら、社会システムや文化をつくりだしていった。そうやってできあがっていった風土に人々は長いあいだ帰属してきたのですが、それが明治からのわずか百五十年、あるいは戦後の七十数年のあいだに壊れていった。
 ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。そこから、自分たちは何を忘れてしまったのだろうという空洞感のようなものが広がってきた。ですので、自分は何に帰属して生きていったらよいのかをみつけ直そうという思いが、今日では広がりはじめていると思うのです。企業のような皮相的で幻想でしかない帰属先ではなく、本質的な帰属先です。そういった思いを抱きはじめたとき、自然がつくり出した風土とか、その風土と寄り添っていた人々の側の信仰が視野に入ってきたのではないでしょうか。
 
 確かに、自分が山登りを好むのは、山に包まれて、そこに自分が帰属しているという安心感が得られるからかもしれない。
 檀家寺を持つより、檀家山を持つほうが、自分の性に合っている。
 高尾山こそ、ソルティの檀家山なのかも・・・・。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『だれがコマドリを殺したのか?』(イーデン・フィルポッツ著)

1924年原著刊行
2015年創元推理文庫

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 イーデン・フィルポッツと言えば、『赤毛のレドメイン家』である。
 江戸川乱歩が激賞し、世界本格ミステリーベストテンの上位にランクされてきたこの小説を、創元推理文庫で最初に手にした時、期待と興奮とで胸が躍った。
 高校生の時分である。
 のっけから、美しいコモ湖畔の描写と世にも稀なる美女の登場に心をつかまれた。
 この先、どんな物語が紡ぎ出され、どんな不可思議な殺人事件が発生し、どんな奇抜なトリックが用いられ、どんな個性的な探偵が出てきて名推理を展開するのか、ページをめくるのももどかしい思いであった。
 
 が、読み終えたときの正直な感想は、

 なんでこれがベストテン入りするの???

 拍子抜けした。
 お面白くないことはない。海外ミステリーの古典として読む価値は十分ある。
 しかし、『Yの悲劇』、『アクロイド殺し』、『樽』、『黄色い部屋の謎』、『長いお別れ』、『幻の女』など、他のベストテン常連作品と同レベルのものを想定していた者にとって、『赤毛のレドメイン』は物足りなかった。
 過大評価という気がした。
 国内のベストテン選者たちは、斯界の大御所である乱歩に忖度しているのかな?と思った。

 実際、上記の傑作群は一度しか読んでいないものであっても、数十年経った今でも話の筋やトリックを覚えているけれど、『赤毛のレドメイン』の筋はすっかり忘れている。美しい湖畔風景の中で警部が美女に恋する話、という以外は・・・・。
 その後、フィルポッツのもう一つの代表作と言われる『闇からの声』も読んだが、こちらもまた全然覚えていない。
 その後しばらくして、フィルポッツがミステリー作家として高い評価を得ているのは日本くらいで、海外のベストテンでは名前が挙がることもないと知った。
 
 そのフィルポッツと数十年ぶりに図書館で出会った。
 しかも上記二つの代表作以外のミステリーと知って、「懐かしさ半分、怖いもの見たさ半分」で借りてみた。
 
 タイトルにも惹かれた。
 原題は Who killed Cock Robin ? 
 「だ~れが、殺した、クックロビン?」
 知る人ぞ知る、魔夜峰央のギャグ漫画『パタリロ』のクックロビン音頭である。
 
パタリロ

 
 ソルティは、しかし、パタリロよりも萩尾望都の『ポーの一族』の印象が強い。
 ドイツのギムナジウム(中等学校)を舞台としたエピソード『小鳥の巣』において、この詩というか童謡が、モチーフとして非常に効果的かつ印象的に使われていたからである。
 言うまでもなく、童謡のもとはマザーグースである。
 
 Who killed Cock Robin?
 I, said the Sparrow,
 with my bow and arrow,
 I killed Cock Robin.
 
 クックロビン(駒鳥)を殺したのは誰?
 「わたし」と、スズメが言った。
 「わたしの弓と矢でもって
 クックロビンを殺したの」
 
 ――で始まる長い詩である。
 クリスティの『アクロイド殺し』の新聞連載時の原題 Who Killed Ackroyd? も、この詩の冒頭の一節が下敷きになっているわけで、幼い頃からマザーグースに馴染んでいる英国人ならすぐにピンとくるであろう。

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 萩尾望都『ポーの一族』(小学館)
 

 物語は、英国の美しい田園風景の中で、一人の青年医師が類まれなる美女と出会う場面から始まる。『レドメイン』そっくり。
 美女の名前はダイアナ、愛称がクックロビン(駒鳥)であった。 
 青年とダイアナは互いに一目惚れし、熱烈な恋に落ちて、周囲の反対や懸念をよそに結婚する。
 それが悲劇の始まりであった。

 タイトルがばらしている通り、ダイアナ=クックロビンは何者かの手によって命を奪われることになるのだが、それが起こるのは物語も半分を過ぎてからである。
 しかも、最初のうちは病死と思われていて、それが毒殺であることが明らかになり容疑者が逮捕されるのは、なんと物語も2/3を過ぎてからである。
 なんとまあ悠長な展開か。
 つまり、肝心なミステリー部分は本書の終わり1/3であって、そこまでは主として田園を背景に、中流階級以上の若者たちの織り成す恋愛ドラマなのである。
 その意味で、フィルポッツの小説はジェイン・オースティンに近いところがある。
 自然描写の巧みさ、語りのうまさ、魅力ある性格造型、心理の綾を丁寧にたどっていく手腕、品のある文章・・・・。
 ミステリー小説としてでなくとも十分に面白いし、ぐいぐいと引き込まれる。
 高校時代は、推理小説としての評価ばかりに注意がいって、この小説家の本来の魅力に気づかなかった。そこまでの読書眼がなかった。
 乱歩が推奨したのも、一般の推理小説以上の文学性をそこに見たからなのかもしれない。
 
 終盤1/3はまさに本格ミステリーそのものとなる。
 大胆なトリック、様々な伏線の浮上、名探偵の根気ある調査とひらめき、逃亡劇、カーチェイス、あっと驚く真犯人(ソルティは見抜くことができた)、性格と情念とが絡み合った動機の解明、大団円。
 古典的スタイルの一級のミステリーで、今読んでも十分に楽しめる。
 単純にミステリーとしては『レドメイン』より出来がいいのではないか?
 
 だれがコマドリを殺したのか?
 その答えを知った時、読む者はフィルポッツの老獪さに舌を巻くであろう。
 そして、その英国男らしい女性観に苦笑いするであろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

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 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
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 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

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 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★     読み損、観て損、聴き損




● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

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 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

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カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

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表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

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 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『なんでもアリの国イギリス なんでもダメの国ニッポン』(山形優子フットマン著)

2012年講談社より『けっこう笑えるイギリス人』の表題で発行
2013年講談社文庫

 ソルティは比較文化論は面白いと思うのだが、ある一国と日本とをくらべて日本のダメなところをあげつらうような本はあまり好きでない。
 とくに、マークス寿子以来、日本とイギリスをくらべて日本および日本人を批判するようなものが多い。
 本書もタイトルからしてその匂いぷんぷんで、借りるつもりはなかったのだが、イギリス人と結婚した在英生活30年の女性が見たイギリスという国およびイギリス人の生態が興味深く、つい借りてしまった。

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 読んでみたら、単純にイギリスを持ち上げ日本を下げているのではでなく、イギリスの良くないところ(不衛生、テロなど暴動が多い、医療システムがうまく機能していない等)、日本の良いところも、しっかりと指摘している。
 とくに衛生観念や医療制度に関しては、このたびの世界各国のコロナ事情で判明した通り、日本人のそれは素晴らしいものがある。「日本に比べて、我が国は・・・・」と憤っている外国人(イギリス人含む)だって決して少なくないはずだ。
 一方で、コロナに感染した人への風当たりの強さには、やはり日本人独特の陰湿さを感じざるを得ないのも事実である。
 いじめや村八分がかくも問題となる背景には、日本社会の同調圧力の強さがある。
 それを「島国根性」と理由付けできないのは、同じ島国であるイギリスでは事情が異なるからである。

 一言で言えば、英国は「人と違う」ことを評価する国だ。そして日本は「人と同じ」ことを評価する国なのだ。
 両方とも島国なのに、まるで正反対なのが愉快だ。でも、どっちが面白いかと言えば、「人と違う」のがたくさんいるほうが面白いし、飽きが来ない。一方、日本のように「人と同じ」ほうが安心と言う人がいるが、とてもそうは思えない。
 人と同じになるためには常に他人をチェックしなければならないし、常に自分が他人と同じかどうか比べて吟味しなければならない。そんなの、疲れるし飽きてしまう。本音がどうなのかわからなくて疑心暗鬼になりそう。
 基準が他人にあるということは、流されるのを前提として初めて成立する。


 ソルティは、物心ついた頃より「自分が周りの男とは違う」という漠たる意識を持っていた。
 それが思春期を迎え、周囲の男女が色気づく頃から徐々に確たるものとなり、「本当の自分」を隠すようになっていった。
 むしろ、本質的に「人と違う」ところ(ゲイセクシュアリティ)を持つがゆえに、それ以外のところでは積極的に「人と同じ」であろうと無駄に骨折ったようにも思う。
 つまり、同調圧力を推進する側に、異端を排斥する側についてしまうのだ。
 結局、それは自己分裂を招かざるを得ないので、20代の終わり頃に破綻してしまった。


破綻


 そこからは、とにかく同調圧力の強い環境(=「人と同じ」ことを求める場)からはできるだけ逃走しようというのが、生きる上での信条となった。 
 組織(とくに大きな)に属することに対する忌避感はそのあたりから来ている。

 ソルティのイギリス愛にはそれなりの根拠があるのだ。
 (濃かった前世の一つというのが一番の理由だと思っているが)



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● B 神父の力量 テレビドラマ:『ブラウン神父の事件簿』シリーズ

2013年~ BBC(英国放送協会)

 ブラウン神父は、言わずと知れた英国作家G.K.チェスタトンが創造した名探偵。
 日本での知名度では、同じ英国探偵のホームズやポワロやミス・マープルに劣るかもしれないが、直観と観察と洞察力を礎とした探偵能力ではおさおさひけをとらない。
 カトリックの神父ならではの犯罪者に対する慈悲に満ちた態度も読みどころである。
 また、物語の雰囲気づくり、読者を驚かすトリックの斬新さの点では、チェスタトンの作品はクリスティを凌駕するものがある。
 ソルティは高校時代に創元推理文庫から出ているシリーズを読破した。
 家のどこかの押し入れの段ボール箱にあるはずだが、もう一度読み直したい。
 ――と思っていたところにレンタルショップで発見したのが、BBC制作のこのシリーズであった。


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 ブラウン神父役のマーク・ウィリアムズは、映画ハリー・ポッターシリーズでロンの父親アーサー・ウィーズリーを演じている身長186センチの巨漢である。
 それだけでも、小柄のブラウン神父には似つかわしくないのだが、そもそもこのシリーズは原作を忠実にドラマ化したものではなかった。
 推理の得意な田舎臭いブラウン神父というキャラクターだけは生かしているものの、物語は毎回オリジナルなのである。
 時代設定も原作より数十年あとの1950年代の農村である。

 それを最初に知ったときは残念な気がした。
 が、観てみるとこれはこれで面白い。
 マーク・ウィリアムズは原作のイメージとは別の個性的なキャラを創り上げているし、50年代の英国の農村の日常風景や階級社会の様相を見るのも楽しい。

 『科捜研の女』がいま大人気であるが、ソルティは最先端の科学工学技術を駆使した犯罪捜査にはあまり興味がない。
 というのもそこにはアマチュア探偵の頭脳を駆使した推理ゲームが入り込む余地がないからだ。
 犯罪現場に落ちていた一本の毛髪や防犯カメラの映像から犯人が割り出される現代の科学捜査が素晴らしいのは間違いないが、ミステリーとしての面白みは欠ける。
 だいたい警察以外の人間が捜査に関わること自体、いまやあり得ないだろう。ホームズやポワロや金田一耕助や明智小五郎に出番はない。
 ソルティは子どもの頃、「大きくなったらホームズのような探偵になりたい」と思って小遣いでルーペを買って、日々観察に励んでいた。
 が、いまの日本の探偵にできるのは夫の浮気の証拠――今となっては妻の不倫の証拠。時代は変わるものだ――を見つけることくらいと知って、落胆したものである。
 といって刑事になりたいとはまったく思わなかったのだが・・・・・。


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河出書房新社より2010年発行
最先端のリアルな犯罪捜査がわかる

 
 ときに、ブラウン神父はたしかに名探偵だが、本職の神父としての力量は残念ながら???である。
 というのも、神父の担当する教区はしょっちゅう殺人事件が発生するたいへん物騒な地域だからである。
 神父自体が死体の発見者となったり、犯人に襲われたりすることもしばしばである。
 ロンドン市内のほうがよっぽど安全。
 ブラウン神父の聖職者としての影響力には疑問を持たざるを得ない。

 このシリーズ、すでに80話以上制作されていて(現在も放映中)、うち50話ほどがDVD化されている。
 ソルティは20話くらいを観たところである。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『徹底比較 ブッダとクリシュナムルティ そのあるがままの教え』(正田大観著)

2018年 コスモス・ライブラリー

 当ブログで紹介したJ.クリシュナムルティ著『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(Can Humanity Change ? )の訳者の一人による、上記書の“続編”あるいは“補完編”といった趣きの本である。
 上記書はその邦題から、ブッダとクリシュナムルティの教えの相違が探究されている本かと期待して購入したのだが、フタを開けてみるとまったくそんなことはなく、肩透かしを食らった。
 とは言え、邦題をつけた者を単純に責められないのは、上記書の主要部分を成す、クリシュナムルティ(以下Kと記す)およびテーラワーダ仏教僧であるワルポラ・ラーフラをはじめとする複数の著名人の対話において、そもそも目論まれていたのはKの教えと仏教との相違の探究であったと思われるからである。
 対話の口火を切るのに、用意万端、ブッダの教えとKの教えの類似点を要領よく並べ上げて指摘し、Kの返答とそこから始まる両者の比較検討を期待していたであろうラーフラに返ってきたのは、「私とブッダを対比する必要がありますか?」という、Kのなんとも素っ気無い言葉であった。
 そこからは、まったく仏教とは関係ないところで話は展開していく。
 ラーフラおよび対話の企画者の目論み及び意気込みは、開始早々、あっさり棄却されてしまったのである。
 その「十倍返し」というわけでもあるまいが、本書において正田が試みたのが、まさに上記書で叶わなかったブッダとKの教えの比較なのである。

 本稿においては、おこがましくもラーフラ師になりかわって、ブッダとクリシュナムルティの教えを比較検討し、その共通点を提示し確認したく思うのである。簡単に言えば、「ブッダとクリシュナムルティの比較思想論」を試みるわけだ。

 ブッダとクリシュナムルティが同じことを言っているのであれば、それは、真理が一つであることを意味している。真理は一つであり、一つしかない真理を発見したので、言ってることが同じになった、という理解。・・・・(中略)・・・・この前提をもとに、クリシュナムルティの言葉を参照しつつ、ブッダの教えを再構成するのが、本書の進み行きとなる。

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 著者は、「無常、苦、無我、あるがまま、いまここ、からっぽ、貪欲、憤怒、迷妄、条件づけ、快楽、恐怖、二元性、思考、妄想、依存、見解、既知、無執着、気づき、智慧、解脱、遠離独存、涅槃寂静」の24のテーマについて、およびその他10の小テーマについて、両者の言説を引用し、比較検討している。
 引用の出典に選ばれたのは、ブッダの言葉については『阿含経典』の中でも最も古い教典とされている『スッタニパータ』と『ダンマパダ』であり、Kの言葉についてはその著書『四季の瞑想――クリシュナムルティの一日一話』(コスモス・ライブラリーより邦訳刊行)である。
 もちろん、単に両者の教えを比べて共通点を指摘して良しとするのみでなく、読む者にたびたび自己覚知をうながし、真理とは何かを一緒に探求することを呼びかけている。
 野心的な試みと言えよう。
 
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 結論から言うと、ブッダとKの教えはほとんど同じであり、真理は一つであることが証明されている。
 予期していた通りではあるが、このように一つ一つテーマごとに徹底比較されると、両者は用いる言葉や表現さえ異なれど、呼応するように同じポイントをついていることが明らかとなる。
 たとえば、「思考」についての言説をみると、
 
ブッダ : 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、浄美の随観者に、渇愛(の思い)は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。
 しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄(の表象)(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、(貪欲の)終焉を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。(ダンマパダ349~50)
 
K : 悲しみの終焉を理解したい人は、この思考する者と思考、経験する者と経験されるものという二分性を理解し、見出し、乗り超えていかねばなりません。つまり、観察する者と観察されるものの間に分裂があると、時間が起こり、故に悲しみは終わらない、ということです。(中略)観察する者、思考する者とは言うまでもなく、思考の産物であります。思考がまず最初に来るのです。観察する者や思考する者ではありません。思考がまったく存在しなければ、観察する者も思考する者も存在しないことでしょう。そうすると、完璧で全面的な注意だけが存在するのです。(『四季の瞑想』238ページ)

 正田が述べている通り、2500年前のブッダの簡略な言葉――当時は筆記文化がなかったので教えは暗誦できるように簡略化・韻文化せざるをえなかった――が、20世紀の英国で高等教育を受けたKの明晰かつ論理的な文章により、より説得力を持って深いレベルで解釈されつつ再構成される、という現象が起きている。
 あたかもKが、ブッダの教えを現代語に翻訳して解説してくれている、かのような印象を受ける。
 いささか残念なのは、比較に使用された『スッタニパータ』と『ダンマパダ』の和訳がわかりづらい。正田自身による訳のようだが、ここはたとえば岩波文庫の中村元の訳をそのまま使用したほうが良かったと思う。たとえば、上の文の「浄美の随観者」、「不浄想」ってなんぞや?


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 さて、ブッダとKの教えがほとんど同じなのは分かった。
 しかし、やはり気になるのは、むしろ両者の違いであり、その理由である。
 その意味で、本書で一番興味が引かれたのは、両者の違いについて触れている「あとがき」であった。
 正田は、ブッダとKの大きな違いとして、①組織をつくることの是非、②セックスに対するスタンス、の二つを挙げている。これに、③悟りへの道を説くことの是非、を加えれば完璧になると思う。
 
 言うまでもなく、ブッダは出家者の集まりであるサンガを作り、それを重視した。仏・法・僧(ブッダと仏法とサンガ)は仏教の三つの宝である。
 一方、Kは自らを長とする裕福な組織(星の教団)をその手で解散してしまったことからも分かるように、生涯、組織には反対だった。組織は必ず腐敗につながる、個人を真理へ導かないと言ってはばからなかった。
 この両者の違いを、2500年前と現代との「伝達手段」の違いの観点から考察した正田の意見がうがっている。
 オーディオ機器はもちろん筆記文化がなかった2500年前のインドでは教えを伝えるには、口承に頼るしかなかった。ゆえに組織が必要だった。一方、Kの教えは、組織に頼らずとも、本やテープレコーダーやラジオやテレビなどで記録保存され、後世に伝えられる。この違いは大きい。
 たしかに、サンガがなかったならば、仏滅後の結集がなかったならば、われわれが今ブッダの教えを学ぶことは不可能だったろう。組織あってこそ、である。
 
 次にセックスについて。
 ブッダの基本姿勢は「禁欲」であった。出家者はむろんセックスNG、オナニーNG、恋愛NGである。在家に対しても、五戒に見られるように、「みだらな性行為」を戒めた。この「みだらな性行為」の定義が難しいが、基本、結婚(あるいは婚約)している者同士のセックス以外はご法度ってところであろう。不倫などもってのほかである。(ただしブッダは不倫は良くないとしたが、不倫した在家者を責めたり裁いたりすることはなかったと思う)
 一方のKであるが、ソルティの(読書)記憶によれば、若い頃はセックスに対してブッダ同様の厳しい態度を見せていたように思う。途中から、態度が軟化し(?)、逆に禁欲主義を批判する言辞が現れるようになったのではなかったか? セックスすること自体はNGとせず、セックスを“問題”としてしまう「思考のありかた」を問題とみたのである。
 
 僧侶や聖職者の偽善的あり方に厳しかったKは、セックスの問題に関しても、同様の偽善を指摘する。抑圧的禁欲の愚かさとその矛盾。表と裏を使い分けて外見を取り繕うあり方は、たしかに、聖なるものとは言い難い。
 
 ブッダも、Kも、淫欲の害毒については、同じ認識を持っていたと言えるだろう。あくまでも心理的な遠離独存を説いたKにたいし、ブッダの場合、出家修行者に限ってではあるが、肉体的な禁欲を厳命したところが相違点となる。
 
 セックスの問題に対するKの答えは、愛とは非難が全く存在しない状態のこと、セックスがいいとか悪いとか、これはいいけれど他のものは悪いと言わない状態のことです、となる。問題を問題としない、全的なあり方。妄想に起因する矛盾が生じない、葛藤なき状態。情熱と鋭敏さ。そして、気づき。愛とは確かに情熱なのです、と喝破する、Kの言葉をかみしめたい。
 
 正田は、この件に関する両者の違いの様相については十分明らかにしているが、その理由については突っ込んでいない。
 問題が問題だけに――と「問題化」してしまうのが問題、とKなら言うところだろうが――簡単には論じることのできないテーマではある。
 さらに、正田も記している通り、Kには最近になって「不倫スキャンダル」が勃発した。親友で長年の仕事上のパートナーであった男(ラージャゴパル)の妻と、隠れて付き合っていた、しかも自分の子を二度も堕胎させていた――というものである。
 これがどこまで本当なのか、完全にでっち上げなのか、真相はいまのところ藪の中である。
 ソルティは、このニュースを聞いたときに、Kがセックスに対して途中から寛容になった背景はここにあったのかも・・・・・と率直に思った。自分が普段やっていることを、他人に「やるな」とは言えないだろう。
 が、不倫や堕胎はどうなのだろう? もし、この噂が本当なら、Kはまさに「偽善者」であり、「聖なるものとは言い難い」ように思えるが・・・・・。
 
 愚考をさらす。
 ブッダとKのセックスに関するスタンスの違いを作った原因の一つは、それこそ両者の若い時分の性愛体験の差にあるのではなかろうか?
 ブッダは、釈迦国の王子であった青年時代に「好きなだけヤリまくった」はずである。それこそ国中から選ばれし美女たちが宮中至るところに待ち構え、オナニーなんて覚える暇もなかったかもしれない。さまざまな恋も経験済みだったろう。いわば、釈迦国の光源氏。
 三十路で出家したときにはもう、「セックスも恋愛ももう十分です」の域に達していたのではなかろうか。性愛の「快」の底に潜む「苦」を徹底的に味わい尽くしていたのではなかろうか。人を無明の闇に突き落としてしまう愛欲の怖さを十二分に知り尽くしていたのではなかろうか。いや、その達観のさきにある虚しさが、出家を後押しした可能性も考えられなくはない。
 一方のKは、はじめて女性と関係を持ったのは三十路を過ぎてからという話で、そのときにはすでに
「悟りを開いた聖者」として周囲から遇され、その教えを広めていた。
  
 Kが言うところの、飛ぶ鳥が跡を残さないような「問題化」しないセックスならOK、と言えば聞こえはいいが、そんな簡単なものではなかろう。
 セックスにはどうしたって相手が必要だし、相手との関係が生じざるを得ないし、妊娠や性病をもらう可能性だってある。自分一人が悟っていたところで、悟っていない相手と深く関わればどうしたって問題は生じ得る。
 よもやKは「サクッと風俗」を勧めているわけではあるまい。
 
 性と宗教――このテーマは一筋縄ではいかないので、ここまでにしよう。
 
秩父巡礼4~5日 170
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『幽霊はお見通し』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著発行
2016年創元推理文庫

 ウィザースプーン警部補の屋敷で働く使用人たちの活躍を描く「家政婦は名探偵シリーズ」第3弾。 
 今回は、19世紀英国ならではのスピリチュアルな趣向、すなわち交霊会が主要舞台の一つとなり、楽しさアップである。
 隠密探偵チームの個性的な面々の性格や癖を熟知し、各々に役割を与え、自信を持たせ、口論になるところを上手になだめ、前向きな空気を作る、リーダーとしてのジェフリー夫人の見事な手綱さばきも読みどころである。

 

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おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ワープ解脱法? 本 : 『道元の考えたこと』(田上太秀著)

1985年講談社より『道元のいいたかったこと』の題名で刊行
2001年講談社学術文庫

 道元の教え=曹洞宗については気になっていた。
 「只管打坐」、「修証一如」という言葉からは、よけいな夾雑物を排したすっきりした信仰の形が察しられるし、坐禅=瞑想を重視するところはお釈迦様本来の教えと合致する。
 念仏や読経や祈願や苦行や儀式・典礼をもっぱらとする他の大乗仏教宗派とは位相が異なる感があった。

 おそらく、道元の教えを知るには徹底的に坐禅するに如くはあるまい。
 が、道元の達した境地なり真理なりに坐禅によって到達するのは在家では難しそうであるし、たとえ何らかの智慧や真理を会得したとしても、それが道元のそれと同じものなのかどうか分からない。
 となると、道元の主著である『正法眼蔵』を読むのがやはり最善の策であろう。

 ―――と思って図書館で借りてはみたものの、これがなかなか読みこなせる代物ではなかった。
 量の膨大さはともかく、言葉が、文章が、内容が、難しすぎる!
 高度と言いたいところだが、残念ながら、高度かどうか判断できるまで読み進めるのさえ困難である。 
 あきらめて返却し、次善の策によった。
 仏教研究者による解説本である。


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 田上太秀は同じ講談社から『仏陀のいいたかったこと』(1983年)という名著を出している。
 20年くらい前にソルティは、大乗仏教でぐちゃぐちゃにされたものでない、お釈迦様本来の教えを知りたいと思い本屋で見つけたのが、上記の田上の著書および宮本啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫、1998年発行)であった。


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 この2冊によってソルティのそれまで持っていた仏教観は大いに変わった。
 「どうやら生まれてからずっと自分が馴染んできた日本の仏教というものは、日本独特の特異なものらしい」と知ったのである。 
 その後、10年くらい前にテーラワーダ仏教を知って、最も古いお経の集成である『阿含経典』を基盤とするお釈迦様の教えを学ぶようになった。
 そのとき、田上の書いていたことが正確であったことを改めて知った。
 つまり、ソルティにとって信用のおける仏教研究者の一人である。
 そこで、田上の描いた道元を手掛かりとすることにした。

 まず、ソルティの持っていた道元のイメージであるが、「坐禅を極めた人」、「永平寺に見られるように規律に厳しいストイックな人」、「庶民派の親鸞とは真逆で、ブルジョアの人(実際に大臣家の生まれである)」、「映画『ZEN 禅』で道元を演じた中村勘太郎のような清僧」といったところであった。
 本書を読んで、イメージ崩壊というほどのものではないものの、ずいぶん想像していた人物とは違っていた。

 田上は、道元の教えの概要を語るのに、各章を「〇〇への信仰」と題し、道元が信仰していたものを順に並べあげ、『正法眼蔵』を中心とする道元の著作の記述をもとに各テーマについて考察し、解説している。
 坐禅への信仰、礼拝への信仰、滅罪の信仰、本願の信仰、宿善の信仰、出家至上の信仰、輪廻業報の信仰・・・・・というように。
 これらの信仰を持っていた一人の修行者にして導師――としての道元の姿が浮かび上がる構成になっている。
 いわば多角的に見た道元像である。
 「まえがき」でこう述べている。

 いままでの道元観は正面から見たものであったと思う。譬えていえば玄関から道元を訪問して、座敷で面会したといえよう。だが筆者は勝手口から訪ね、居間に邪魔して道元に面会し、本音を聞き出そうとつとめた。


 まず、最初の「坐禅への信仰」については、

 インドからわが国に伝わったのは坐仏が伝わったのであり、これこそ大事な要であり、あるいは命脈であると道元は力説する。坐禅のあるところには必ず仏法があり、仏法があるところには必ず坐禅があり、仏祖から仏祖へと受け継がれたのはただ一つ坐禅の宗旨であると断言した。

 ソルティのイメージ通りの道元であり、「坐禅によって何が得られるのか、何を悟るのか」は置いといて、目新しいことはない。
 が、袈裟や経典や嗣書(師から弟子への仏法の系譜の記録)などに対する礼拝への信仰や、5つの滅罪方法(洗浄、懺悔、袈裟功徳、帰依、霊場巡礼)に対する信仰などは、読んでいて形式的・迷信的という印象しかなく、「やっぱり道元も時代の制約からは逃れられなかったのか」と思わざるを得ない。
 しかも、これらの信仰こそが正伝、すなわち本来の正しい仏法であると明言するに至っては・・・・。

 袈裟を頂戴する作法こそ、礼拝の最高の作法である。道元は仏祖から正伝した仏法の一つに袈裟を挙げた。したがって袈裟に対する礼拝をきびしく弟子たちに教えた。

 (道元は)袈裟をつけないで解脱した人はいないと断言している。たとえ戯れて笑いながら、あるいは御利益があろうと思いながら袈裟を肩に掛けたとしても、かならず悟りを得る因縁となるという。

袈裟来た少女


 また、本願の信仰について、田上はこう指摘する。

 親鸞と道元のそれぞれの本願力信仰の違いは、本尊を阿弥陀仏にするか、釈迦牟尼仏にするかの違いであって、本質的には同じではないかと思う。ただ一つ相違点をあえて挙げると、すがろうとする私が自分自身を愚夫と自覚するか(ソルティ注:親鸞)、宿善根に導かれていると自覚するか(同:道元)の違いであろう。

 坐禅をほかにして仏道はない。坐禅すれば立ち所に仏道が成就するという信仰は、坐禅が釈尊の大本願力に助けられて行われるという信仰に裏付けられていると考えられる。


 ソルティは、道元(曹洞宗)の坐禅は、悟りを感得するための自力による修行だとばかり思っていた。
 別に他力が悪いとか、他力は自力に劣るとかまったく思っていないけれど、勘違いしていたらしい。

 本書を読んで、ソルティの道元像に幅がもたらされた。
 思ったよりも親鸞に近い。
 つまり、「信仰の人」という気がした。
 一方、本書を読んでも、残念ながら、坐禅によって道元の至った境地がわからなかった。
 そこは「不立文字」とするしかないのか。
 「不思量底を思量せよ」とか言われても何のことやら・・・・。

 道元もまた、空海や高丘親王日蓮ら我が国の錚々たる名僧たち同様、真の仏法のなんたるかを終生求め続けたと思われる。
 中国から伝えられたおびただしい数の大乗経典のうち、どれがお釈迦様の教えの核なのか、どうすれば悟りに近づけるのか、あるいは極楽往生できるのか、迷いあぐねたに違いない。
 『西遊記』の三蔵法師に象徴されるように、真の仏法を求める求道者たちの熱望と苦心惨憺たるさまは、ネット時代の我々の想像の及ぶところではない。

 『阿含経典』では、「諸行無常」、「諸法無我」、「一切行苦」という明らかなる真理(=仏法)が明示されている。「不立文字」と言う前に、語られるべき、語ることのできる真理はあると思う。
 また、「修証一如」や「不思量云々」に飛躍する前に、四諦や八正道や瞑想法などの方法論がお釈迦様によって懇切丁寧に説かれている。
 少なくとも本書を読む限りにおいては、これらのお釈迦様本来の教え(=仏法)が触れられていない。
 あたかも、道元は、「袈裟を着て坐禅したら釈迦牟尼仏の助けで自動的に涅槃へ至る」いわば“ワープ解脱”を期待していたかに見える。(それをこそ「本覚思想」というのだろうか?)

 道元の頭のなかは、本当はどれが正しい仏法であり、修行の作法であるかを見極めることに困惑したものと推察される。正伝の正法と力説するあまりに、その「正しい」と選択する基準をなにに求めればよいか、かれ自身、最後までわからなかったのではないか。

 たとえ、釈迦本来の教え(=正法)にぴったり適合しないものであったとしても、道元の教えが素晴らしければ、そして悟る機縁をもたらすのであれば、それはそれで問題ないと思う。
 ただ、『阿含経典』をもっとも古い、仏説に近いお経として知って学ぶことのできる現代日本人は、なんと幸せなのだろうか。

 別の書き手による、「勝手口」からではない「玄関」からの道元像にもあたってみよう。
 

道元
中村勘太郎にはまったく似ず



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『消えたメイドと空き家の死体』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第2弾。 
 タイトルのつけ方がうまい。
 原題は、Mrs. Jeffries Dusts for Clues 「ジェフリー夫人は手がかりの塵をはらう」だが、邦題のほうが内容がわかりやすく、いかにも気楽なミステリーっぽい印象で、そそられる。

 カバーイラストは砂原弘治の手によるが、これまたポップでほのぼのして良い。

 退屈しのぎになる、かつ肩の凝らないミステリーって貴重だ。
 入院時にこのシリーズを知っていたらなあ~。

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おすすめ度 :★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 英国貴族の斜陽 本:『回想のブライズヘッド』(イーヴリン・ウォー著)

1945年原著刊行
2009年岩波文庫(小野寺健訳)

 第一次大戦前の英国上流階級の一家の物語である。
 美しく広大な荘園ブライズヘッドに建つ、贅を凝らした壮麗なマナーハウス(邸宅)。
 生活のためにあくせくと働くこともなく、社交や旅行や恋愛や趣味道楽にうつつを抜かす貴顕たち。
 名門オクスフォード大学の寮生活でのボーイズラヴ。
 TVドラマ『ダウントン・アビー』やE.M.フォスターの描く世界と同様、ソルティのハートを鷲づかみにする要素のオンパレード。
 上下巻をむさぼるように読んだ。
 イーヴリン・ウォーの本はこれがはじめて。

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 副題に「チャールズ・ライダー大尉の信仰と俗生活と、二つの人生にかかわる思い出」とあるように、中年になったライダーが、第二次大戦中の軍の移動でたまたまブライズヘッドを訪れたことがきっかけとなって、過ぎ去った青春の日々の回想が始まるという構成。
 語り手はライダーである。

 宗教の問題や隠された同性愛テーマやアルコール依存症の問題などはあるが、あまり難しいことは考えずに、英国の古き良き時代の最後の輝きと終焉、それに重奏するように回想される甘く切なくほろ苦い青春の輝きとその終焉の物語を、楽しむのがよかろう。
 落日の美しさは、言葉で語るものではなく、ただ眺めるものである。

 この物語は2008年にマシュー・グッド、ベン・ウィショー共演で映画化され、『情愛と友情』のタイトルでDVD化されているらしい。
 探してみよう。

 それにしても、ここ最近、妙にイギリスづいているなあ~。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『家政婦は名探偵』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著刊行
2015年創元推理文庫

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 家政婦と言ったって市原悦子とは違う。
 お屋敷の元締め、使用人たちの長であるハウスキーパー。
 男の執事と並ぶ、古き良き英国ヴィクトリア朝の点景の一つである。

 ジェフリーズ夫人は、ロンドン警視庁のウィザースプーン警部補に仕える有能な家政婦。
 50がらみの未亡人である。
 彼女の特技は探偵。
 ウィザースプーンの抱える難事件を、本人に知られぬよう陰に回って捜査し、見事解決に導いてしまう。
 もちろん、ご主人に手柄をもたせるのを忘れない。
 というのも、このご主人、とびきり善人だけれど、捜査能力はほぼ皆無なのであった。
 そのうち、他の使用人たち――ハウスメイド、従僕、料理人、馭者もジェフリーズ夫人の意図を汲んで協力するようになり、“ワンチーム”が出来上がる。

 ―――という、肩の凝らない楽しいミステリー。
 著者はイギリス人かと思えば、そうでなく、1948年生まれのアメリカ人女性。
 個性的なキャラたちの巻き起こす愉快な騒動を描いたこのシリーズ、なんとすでに38巻も刊行されている。
 邦訳は4巻まで出ているようだ。
 しばらくは楽しめる。



おすすめ度 : ★★★

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● メルヴィルと三島 本:『ビリー・バッド』(ハーマン・メルヴィル著)

1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




おすすめ度 : ★★★★★

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● 10の根深き本能 本:『ファクトフルネス』(ハンス・ロリング、オーラ・ロリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著) 

2018年原著刊行
2019年日経BP社より邦訳

 主著者のハンス・ロリング(1948-2017)は、スウェーデンの医師、公衆衛生専門家。
 本書執筆を終えた後にすい臓癌で亡くなった。
 共著者は、息子とその妻である。

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 副題に「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」とある通り、現在ではネットで誰もが閲覧・取得できる、科学的方法により得られた統計データに基づいた、世界のありのままの姿が描き出される。
 たとえば、本書冒頭で著者は世界に関する13のクイズを読者に呈示する。
 ピックアップすると、

● 世界の人口のうち極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
A 2倍になった
B あまり変わっていない
C 半分になった

● 世界の平均寿命は現在およそ何歳でしょう?
A 50歳
B 60歳
C 70歳

● 世界中の一歳の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

● いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう?
A 20%
B 50%
C 80%

 正解はここでは記さないが、ソルティは4つとも間違った。
 全13問のうち当たったのは3問のみ。
 チンパンジーより悪い成績だ。(三択なので、デタラメに選んでも的中率は33.3%になる)
 いずれの場合も、現実のデータが示すものより悲観的でネガティブな答えを選んでいた。
 つまり、自らの主観的な思い込みで、世界を実際以上に悪いものと捉えていたのである。

 ひとつ安堵したのは、チンパンジーに負けたのはソルティだけではなかった。
 著者ハンス・ロリングは世界中の講演先でこのクイズを様々な対象に実施してきたが、チンパンジーより正答率が高かった者はほとんどいなかったという。

 なぜ、一般市民から高学歴の専門家までが、クイズでチンパンジーに負けるのか。知識不足を解決する方法はあるのか。何年もの間、事実に基づく世界の見方を教え、目の前の事実を誤認する人を観察し、そこから学んだことを一冊にまとめたのがこの本だ。
 あなたは次のような先入観を持っていないだろうか。
「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももう尽きてしまう」
 
 持っている、持っている。
 加えて言えば、「核による人類破滅の脅威は刻々迫っており、新型コロナウイルスのような未知のウイルスや細菌の発生による人口淘汰は容赦なく、富士山は近い将来大爆発して首都圏を灰の海と化し、少子高齢化と不況により年金制度は崩壊し多数の高齢者が路頭に迷うことになり、UFOの目撃多発は宇宙人の地球侵略が近いことを示しており、・・・・・・」

 ひとつ言い訳をさせてもらえば、メディアの流す情報が悪いもの、ネガティヴなものばかりで、幼い頃からテレビやラジオや新聞やネットなどでそれらの砲弾を絶え間なく浴び続けてきたため、洗脳されてしまっているからだ。
「世界は危険に満ちている」
「世界には、日本には、解決しなければならない問題が山ほどある」
「今のうちに何とかしないと、将来大変なことになる」
 こういった見方――著者がいうところの「ドラマチックすぎる世界の見方」を、知らず身につけてしまっているのだ。

 そしてまた、一度身につけた知識がなかなかアップデートされないこともある。
 数十年前に学校で習い覚えたことがいまでも通用すると思ったら、大間違いである。
 たとえば、日本最初の貨幣は「和同開珎」でなく「富本銭」で、大化の改新は「645年」でなく「646年」で、遣唐使は「廃止」でなく「中止」で、鎌倉幕府の成立は「1192年」でなく「1185年」で、冥王星はもはや「惑星」の一つではなく、哺乳類は爬虫類から進化したのではなく、富士山は「休火山」でなく「活火山」である。
 平成以降の教科書を持つ子供と接点のないソルティ、最近まで知らなかった。

 数十年前の印象では、世界は西洋や日本など一握りの先進国と多数の発展途上国に分かれ、途上国では、「水道や電気の引かれていない未開の地が多く、人々は地べたに直接寝て、食べ物がなく予防接種も受けられない幼い子供はバタバタ死んでおり、それゆえ女性は生涯たくさんの子を産まなければならず、貧乏人や女性の教育機会や政治参加機会は奪われ、平均寿命が極端に低い」
 それは決して間違いではなかった。
 が、数十年前の話である。
 むろん、紛争地域や独裁政権国家など一部の国では、外からの支援の手が入らず開発が進まず、数十年前のまま時が止まって、上記のように悲惨な状態のままのところもある。
 しかし、それを全体に当てはめるのは正しくないのである。
 ニュース番組などで流される難民キャンプなどの情景、あるいは街頭でアウトリーチ活動中の国際NGOから手渡される「現地の人」の生活実態が悲惨で、強烈な印象が残るので、なんとなく途上国ではいまだに・・・・というイメージが払拭されていなかった。
 日々接する情報が個人の意識や思考に与える影響は大きい。

 だが、ハンスは言う。

 「ドラマチックすぎる世界の見方」をしてしまうのは、知識のアップデートを怠っているからではない。最新の情報にアクセスできる人たちでさえ同じ罠にはまってしまうのだ。また、悪徳メディア、プロパガンダ、フェイクニュース、低質な情報のせいでもない。
 わたしは何十年も講義やクイズを行い、人々が目の前にある事実を間違って解釈するさまを見聞きしてきた。その経験から言えるのは、「ドラマチックすぎる世界の見方」を変えるのはとても難しいということ。そして、その原因は脳の機能にあるということだ。

 本書の一番の特徴にしてすぐれた点は、どのような脳の機能(=本能)によって、「ドラマチックすぎる世界の見方」を我々がつい行ってしまうのかを明らかにしたところである。

 以下の10の本能を原因として挙げて、ひとつひとつを説明し分析している。

      1. 分断本能   ・・・「世界は分断されている」という思い込み
      2. ネガティヴ本能・・・「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
      3. 直線本能   ・・・「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
      4. 恐怖本能   ・・・危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
      5. 過大視本能  ・・・「目の前の数字が一番重要だ」という思い込み
      6. パターン化本能・・・「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
      7. 宿命本能   ・・・「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
      8. 単純化本能  ・・・「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
      9. 犯人捜し本能 ・・・「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
      10. 焦り本能   ・・・「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 社会全体を見ても、身の回りを見ても、なにより自分自身を振り返っても、「確かにそうだよなあ」、「その傾向(本能)あるよなあ」と思うことしきりである。
 とりわけ、今のコロナ禍における世の人々のありさまに、上記の10の本能のいくつかを見出すことはとても容易である。
 あちこちで起きている感染者バッシングの様を見ていると、日本人はとくに「犯人捜し本能」が強いのではないか、と思われる(――と断定するのはまさに「パターン化本能」のなせるわざか)

 10の本能に毒されずに客観データに基づいて世界をありのままに見たとき、

「世界はあなたが思っているより悪いところでも危険なところでもないし、悪くなってもいない。むしろ、歴史を通じて良くなってきている」

という結論に導かれる。
 不安が軽減され、精神衛生上こんなに良いことはない。
 その結論がなかなか受け入れ難いのならば、その理由を自らにまず問いかけるべきなのだろう。
 訳者の一人(関美和)はあとがきに、こう記している。

 この本が世の中に残る一冊になるだろうと考える理由は、この本の教えが「世界の姿」だけではなく「自分の姿」を見せてくれるからです。知識不足で傲慢な自分、焦って間違った判断をしてしまう自分、他人をステレオタイプにはめてしまう自分、誰かを責めたくなってしまう自分。そんな自分に気づかせてくれ、少しだけ「待てよ、これは例の本能では?」とブレーキをかける役に立ってくれるのが、ファクトフルネスなのでしょう。


 思い込みや主観の囚われから自らを解放したいと願う人におススメしたい本である。


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おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● 言いも言ったり! 本:『お寺の収支報告書』(橋本英樹著)

2014年祥伝社

 「歯にきぬ着せぬ」という表現がこれほどピッタリな人も珍しい。
 既存の(伝統的な)お寺制度の問題点や弊害を、何ら忖度なしに赤裸々に暴き出し、鋭く批判している。
 現役の住職だからこそできる内幕暴露の数々に、「ここまで言っちゃって大丈夫? 本山(永平寺)からお咎めない?」と心配になるほどである。
 が、返す刀をおのれに向けることも怠らず、自身の寺の内情も包み隠さず晒け出している。
 タイトルどおり、自院(曹洞宗見性院)の収支報告書、財産目録を紙面に上げ、使途不明金や不正収入の無きことを証明する。
 お坊さんだからというわけでないが、「ブッダに握拳なし」だ。


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 現状把握と分析、問題意識の高さ、世相の読み、理論武装もしっかりしている。
 こんなお坊さんの法話を目の前で聞いたら、説得されてしまいそう。
 たいした論客ぶりである。

 さらに、行動力もある。
 お寺の抱える問題点を分析し、その根っこが江戸時代から続く旧態依然たる寺檀制度にあると認識するや、自らの寺の檀家制度を廃止してしまう。
 なかなかできることではない。
 さらに、葬式をお寺の本堂で執り行い、石材業者と直接取引して中間マージンをなくし墓石代を安くし、宗派にこだわらず受け入れる墓地をつくり・・・・・、次々と新基軸を打ち出す。
 使命感あふれる革命家であり、先見の明ある起業家であり、数字に明るい事業家でもある。

 こんな人がお坊さんしているなんてもったいない。
 ぜひ政治の場で活躍してほしい。地元の熊谷市とは言わず県政あるいは国政の場で――とつい思ってしまうが、いやいや、こんな人こそ今の日本の仏教界には必要なのであろう。
 橋本英樹は1965年埼玉県生れの曹洞宗僧侶。

 葬式仏教の問題点、差別的な戒名制度(被差別部落の故人につけられた「差別戒名」とはまた違う)、墓地や墓石の販売の不透明性、お寺が拝観料を取ることの是非、寺檀制度の弊害、不合理な本末制度、お寺非課税の意味・・・・・。
 既存の制度がもたらす既得権の上にあぐらをかいてきたお寺の腐敗の実態や、お寺離れが急速に進む現在、生き残りをかけてえげつなさをさらに増しているお寺のケツまくりぶりが明かされる。
 たとえば、離檀料。
 こんなものがあるなんて知らなかった。
 檀家をやめる際、つまりお寺にある先祖代々のお墓をよそに移す際に、お寺から請求されるお金(名目はお布施ということになっている)のことである。
 これでは信教の自由もへったくれもない。
 檀家をやめたり、よそに墓を移すことを妨げることから、人質ならぬ「墓質」という言葉もあるそうだ。
 
 橋本の「言いも言ったり」な発言の一部をお目にかけよう。

 宗教にせよ、教職にせよ、行政にせよ、その内情を知らない外部の人からみれば、浮世離れした世界です。知らないからこそ、夢のようなものを感じさせます。
 ところが、こういったところは往々にして、「特権意識が強い人」のふきだまりでもあります。また、社会的に成熟した人が極度に少ないというのが、共通した特徴です。既得の権益、なれあい社会を守るために、外部から乗りこんできた人を異常に警戒します。新参者が、少しでも改革の意識を口にしようものなら、そういった連中がいっせいに妨害してきます。そして、つぶしにかかります。

 いまの仏教界を堕落させているのは、お布施の強要を前提とした寺檀制度と、固定化された本末制度です。この二つの制度がなくなれば、日本の仏教はずいぶん風通しがよくなります。

 世の宗教指導者たちは、純然たる経済行為が非課税であることの意味をかみしめて、その感謝を信徒や社会の幸福に向けて、奉仕すべきではないでしょうか。
 ところが、宗教法人への課税が話題にのぼるだけで、「宗教弾圧だ」と過剰に反応してしまいます。こういったものは、真っ当な主張ではなく、ただの強欲な心のあらわれであるということを自覚しましょう。

 日本人は強いコミュニティ、地縁や血縁といったものを長く守ってきましたので、そこに寺檀制度がすっぽりハマったのでしょう。その瞬間に「葬式仏教」のもとができあがったのですが、表現を変えれば、「葬式仏教」になるしか、ほとんどのお寺には生きる道がなかったのです。これがなければ、日本の大多数の仏教寺院は、廃絶していたにちがいありません。
 よく、「日本人はいつ信仰心や、宗教に対する忠誠心を失ったのか」と大上段から論じる人がいますが、「そんなものは、はじめからなかった」と考えるべきでしょう。ですから、いますぐ自由になって、どういった信仰をするか(あるいは信仰をしないか)を自分の意志で決めなくてはならないということなのです。

 ソルティも著者同様、既存のお寺制度には多々問題があるとは思うものの、お寺そのものがなくなってもかまわないなんて、もちろん思わない。
 いつでも好きなときにふらっと立ち寄れて、香の立ちこめる静かなお堂で仏像を拝み、好きなお経を詠み、気の済むまで瞑想できて、緑水豊かな境内を散歩できて、たまにはありがたい法話も聞けて、スマホやテレビや俗事や厄介な人間関係から逃避できるオアシスが、最寄りにあったらいいのに・・・・・といつも思っている。
 座禅会とかいって日取りを決めなくても、いつ行っても独り座れるのが精舎というものだろう。
 ソルティは純粋な大乗仏教の徒とは言えないかもしれないが、そのような場を維持するためなら、協力を惜しまないものである。

 患者が自分に合った主治医を選ぶように、これからは仏教を愛する一人一人が、自分に合ったお寺とお坊さんを選んでいく時代なのだろう。 
 そのうち見性院には行ってみたい。



秩父長泉院
秩父観音札所第第29番長泉院
秩父札所には心落ち着かせる良いお寺が多い
四国札所には決してひけをとらない



  
おすすめ度 : ★★★

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● 同行三人 本:『山頭火と四国遍路』(写真と文・横山良一)

2003年平凡社

 松山の道後温泉近くで、種田山頭火(1882-1940)が晩年を過ごした家(一草庵)を見たとき、はじめて山頭火と四国との縁を知った。
 考えてみれば、「分け入っても分け入っても青い山」の句で知られるこの漂泊の俳人が、四国遍路をしていないはずがなかった。

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 本書によれば、山頭火は大正14年(1925年)に曹洞宗で出家得度した翌年から、九州各地、山陰、山陽、四国、東北と、放浪の旅を重ねるようになった。
 雲水として鉢を持って行乞し、米や銭の喜捨を受ける。俳人として自然の中を歩き、句を作り続ける。そんな旅である。
 ストイックな男とも言いづらいのは、旅中はもちろん、一草庵で58歳の生涯を終える最後の最後まで、酒はきれなかった点である。
 女についてはわからない。(27歳で結婚、34歳で離婚している)
 46歳のときに四国88カ所札所を巡礼し、結願している。
 最後の旅もまた四国遍路であった。

 本書は、この最後の四国遍路の模様を、山頭火自身の残した遍路日記をもとに実際に山頭火が歩いた行程をたどりながら、写真と文とで描き出している。
 著者の横山良一は1950年生まれの写真家で、世界各国を旅して写真を撮り続けている。
 昭和14年の山頭火の四国と、平成12年の横山の四国と、そして平成30年のソルティの四国とが、オーバーラップする面白さがあった。

 昭和14年の四国遍路のきびしさはいかほどのものだったろう?
 舗装路がほとんどなく、峠を回避できるトンネルも少なく、道しるべも少なく、遍路小屋も宿も今よりずっと少なかったであろう。
 まして、山頭火のように、路銀を行乞でもとめ、いくつもの宿に断られつつ、野宿を重ねる旅のきびしさは?
 今でこそ山頭火の名前は知られ、その句は教科書にも載り、伝記が書かれTVドラマ化され、生まれ故郷の山口や終焉の地となった松山で「その人あり」ともてはやされているけれど、当時は文字通りの乞食遍路に過ぎなかったのである。
 それと比べると、ソルティの遍路がいかに“大名旅行”であったか。

 だが、そのような自然と添い寝する旅であったればこそ、山頭火の数々の心打つ句が生まれたのは間違いない。

 山頭火が、已むに已まれぬ衝動にかられ、旅と祈りと酒と芸術の人生を送ることになった一番の理由は、おそらく彼が10歳の時の母親の自殺であろう。
 彼はいつも母親の位牌を背負って旅をしていたという。
 同行三人だったのだ。 


日和佐の海


 いちにち物いはず波音(山頭火)
 
 

おすすめ度 : ★★★

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