ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

banner-s

 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

IMG_20201018_120352


 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 科白が入っていない!    


 舞台の本番を数日後に控えているのに、自分の役の科白を全然覚えていない。
 これからどう頑張っても覚えきれない。
 いったい自分は何をボケっとしていたのだろう?
 
 ―――という夢をたまに見る。
 悪夢というほどではない。
 にっちもさっちもいかない困った状態のまま目が覚めて、「ああ、夢でよかった」とホッと一安心する、というほどのこともない。
 ちょっと、心がざわついて、しばらくすると夢を見たことも忘れてしまう。
 
 似たような夢で、試験が近い夢や試験を受けている夢を見るという人がいる。
 学生時代の延長のようなストレスフルな夢だ。
 ソルティはこちらは見たことがない。
 どういうわけか決まって舞台がかかわっている。
 
 実際、ほんの少しの間だが芝居をやっていたことも過去にあり、そのせいかとも思うのだが、やっていた時は科白を覚えきれないとか、科白を忘れたという経験はなかった。
 トラウマになるほどの悲惨な失敗もしなかった。
 ステージフライト(舞台恐怖)に苦しんだこともなかった。
 
 いつからこの夢を見始めたのか覚えていないのだが、最初のうちは幕が開くのは2~3日後という設定だった。
 がむしゃらに覚えようとすれば間に合わないこともない気がする。
 もっとも、どんな内容の芝居なのか、どんな役を振り当てられているのか、どのくらいの量の科白があるのかまでは、はっきりした設定ができていないのだが。
 ただ夢の中では、「いまから覚えるのは到底無理」と半ば諦めている。
 
 そのうち、だんだんと幕開きまでの期間が短縮されてきて、「明日が本番」という設定がしばらく続いた。
 それがさらに短縮されて、「数時間後に本番」となった。
 だんだん追い詰められていく。
 ついには、「本番直前の楽屋」で扮装も化粧も済んで、幕開きを他の役者たちと待っているところになった。
 ソルティが全然科白を覚えていないことを他の役者たちは知りもせず、それぞれ自分の科白や動きを確認している。
 自分の中では「困ったことになった」と思っているのに、「いまのうち、みんなに告白しておかなければ・・・」とは考えていないあたりが不誠実きわまりない(笑)。
 
 先日、夢の中で気づいたら、ついに舞台上にいた。
 本番最中である。
 数名の役者と一緒に舞台にいて、観客の視線を浴びている。
 戸外のシーンのようで、草や木の大道具に囲まれている。
 周りの役者たちが流れるようなよどみなさで、代わる代わる科白を口にする。
 何を言っているのかはわからないものの、ソルティは「なかなか、上手いものだ」と感心している。
 なんとなくシェークスピアを思わせる科白回しだ。
 と、科白が切れた。
 舞台上を沈黙が支配する。

 ・・・・・

 それは芝居の「間」ではなく、明らかに「途切れ」と分かる不自然な沈黙。
 誰かが科白を忘れているらしい。
 役者間に緊張が走る。

 ・・・・・・・・

 瞬間、「あっ、ここは自分の科白なんだ」と理解する。
 が、むろん何をしゃべっていいのか見当もつかない。
 筋が分からないのでアドリブすらきかない。
 沈黙が続く。

 ・・・・・・・・・・
 
 しばらくすると、舞台袖に控えていた他の役者がその沈黙の理由に気づいたらしく、出番ではないのに舞台に登場して、適当な科白をその場ででっちあげて、事態をうまく回収してくれた。
 そこで夢は終わった。

 これでこの夢は終わるのか、この先があるのか。

 
黒子
 黒子がいれば問題ないのでは?
 

P.S. そうそう、肝心なことを書くのを忘れていた。この芝居の台本を書いたのはソルティ自身なのであった。自分の書いたものを忘れているのだ。






● 本:『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(著者:ハニー・エルゼイニ&キャサリン・ディーズ)

2007年原著
2008年学習研究社より邦訳発行(田中真知訳)

 「転生者」で「オンム・セティ」で「古代エジプト」!
 これでもかというくらいにオカルティックなワード炸裂で怪しさフンプン。
 表紙もまた来てる。
 ピラミッドに、オベリスクに、古代ファラオ(アクエンアテン)の像に、ジプシーっぽい風貌の老婆の写真。
 スピリチュアル好きのソルティもさすがに手を出しかねるベタさ。
 図書館のスピリチュアル本コーナーで見かけていたのだが、これまで敬遠していた。


IMG_20200819_000520


 先日、酷暑で朦朧としていたためか、あるいはなにかのお告げか、手に取ってよくよく見ると、副題にこうあった。
 「3000年前の記憶をもった考古学者がいた!」
 ただのスピリチュアル本ではなくて、実在したプロのエジプト学者の伝記だったのである!
 彼女の名前がオンム・セティ(1904-1981)
 知らなかった。

 なぜ考古学者の伝記がスピリチュアル本コーナーにあるかと言えば、実際に彼女が3000年前の古代エジプトの記憶をもつ転生者だったからである。
 少なくとも本人はそれを確信していたし、彼女のもっとも親しい友人であり生前の彼女から日記を託されていた著者のハニー・エル・ゼイニも、それを前提に本書を書いている。

 オンム・セティとは誰か?

 おもての顔は、英国に生まれ育ったイギリス人女性であり、しっかりと訓練され知識と技術を身につけた一流の考古学者であり、観光客にすぐれて人気あるエジプト遺跡の案内者であり、エジプト人と結婚し一児の母となるも離婚し、その後は亡くなるまで独身を通した一女性である。
 奇抜で型破りなところはあるものの、生まれついての意志の強さと率直さ、強い正義感と行動力、考古学者に必須な飽くなき好奇心と想像力と熱意とを兼ね備えた類まれなる人物である。

 うらの顔――生前の彼女が著者以外の人間に秘して語らず、この書が出るまで世間に隠されていたもう一つの顔が、古代エジプトの神殿に仕えた巫女の生まれ変わりであり、時のファラオ(王)セティ一世の愛人。しかも、夜ごとに、3000年前からよみがえったセティ一世の霊(?)の訪問を受けていた神秘体験の持ち主だったのである。
 なんと面白い!

 本書の読みどころは三つある。

 一つは、オンム・セティ(本名ドロシー・ルイーズ・イーディー)の波乱に満ちた不思議な生涯、破天荒で純粋で情熱たっぷりな人柄に触れること。
 世間体や常識にとらわれず、自らの信じるところ、感じるところにあくまでも忠実に生きるその姿は、読む者に勇気を与えてくれよう。

 一つは、スピリチュアル的興味。
 ドロシーが自らが古代エジプトの巫女の生まれ変わりと知ることになったいきさつや、彼女の身の回りに起こる神秘体験の数々、夜ごとのセティ一世との官能的な交流の様子、動物(コブラやサソリさえも!)と意志疎通したり、古代エジプトの魔術を用いて病人を癒す異能ぶりなどにワクワクする。

 最後の一つは、オンム・セティの専門領域である古代エジプト文明に関わる様々な謎、とくに彼女の魂の故郷であるセティ一世神殿をめぐる謎に迫ること。
 それも、現代考古学の科学的な手段によるだけでなく、彼女の前世の記憶やセティ一世の霊を通して伝えられた情報という、学会がまともに取り上げるをよしとしないリソースをもとに迫る。
(オンム・セティが生前その存在を予言していた遺跡が、彼女の亡くなった後に発見され、存在が確かめられている)

 あるいはいま一つ、「3000年の時を超えて結ばれた真実の愛」といったハーレクインロマンス的な(『王家の紋章』的な?)読み方もありかもしれない。 
 
 いずれにせよ、この物語は映画になったら絶対に面白かろう。
 古代エジプトと、20世紀の英国とエジプトとの、二つの時代をヒロインがいったり来たりする。
 彼女はもう一人のドロシーなのだ。

エメラルド宮殿
エメラルド宮殿@「オズの魔法使い」



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ハレルヤ! 本:『大聖堂』(ケン・フォレット著)

1989年原著
1991年新潮社より邦訳発行
2005年ソフトバンク文庫

 分厚い文庫3冊の長編。
 借りたはいいが、なかなか読み始める決心がつかなかった。
 読み始めても物語世界に入り込むまで、時間がかかった。
 2巻目に入ってからは、ぐんぐん進んだ。
 若い頃はすぐに入り込めたのになあ~。

IMG_20200729_173008


 邦題どおり12世紀イングランドを舞台にした大聖堂建築をめぐる人間ドラマである。
 原題 The Pillars of the Earth 「地の柱」も大聖堂の意であろう。
 だが、話のスケールは大聖堂周辺にとどまらず、中世イングランドの一時期を描いた滔々たる大河ドラマ、群像ドラマといった趣きがある。
 2010年にリドリー・スコット総指揮により全8話のテレビドラマとして制作され、日本でも『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』のタイトルで2011年に放映された。DVD化されているようだ。

 ストリーテリングの巧みさ、善人か悪人かはっきりした魅力あるキャラクターたち、喜怒哀楽たっぷりの人間ドラマ、勧善懲悪の結末といったあたりが、お国の文豪チャールズ・ディッケンズを彷彿とさせる。
 フォレットはデビュー作『針の眼』以来、ベストセラーを連発しているらしいので、すでにディッケンズ同様の国民的作家と言ってよいのかもしれない。
 ソルティはこれが初フォレットであり、本作だけで判断するのは早計かもしれないが、ディッケンズにあってフォレットにないものは、ユーモアであろう。
 ユーモアがあれば、もっとスムーズに入り込めたと思う。
 逆に、フォレットにあってディッケンズにないものは、エロ描写である。これは時代的制約で仕方ないところであるが。

 著者あとがきによれば、フォレットはこれを書くにあたり、相当入念な勉強と取材をしたらしい。
 その甲斐あって、中世イングランドの様子が、実に生々しく、リアリティ豊かに描き出されている。
 話の核となる大聖堂建築の詳細はむろんのこと、修道院の日常、庶民の生活や労働のありさま、市(いち)を中心とする経済、王位をめぐる混沌とした争い、火器のない時代の戦の模様、教会政治の権謀術数・・・・。
 聖堂の構造について説明されても、残念ながら日本人で建築シロートのソルティにはほとんど理解できないが――聖堂の構造を各部の名称とともに記した図面を載せてくれたらいいのに!――それ以外については興味を持って読むことができた。


大聖堂


 思うに、中世ヨーロッパ社会の顕著な特徴を2語でまとめるなら、「暴力と信仰」ということになるのではなかろうか。
 これは、「俗と聖」、あるいは「政治と宗教」、あるいは「城壁と聖堂」、あるいは「地上と天上」、あるいは「現実と理想」と言い換えてもいい。
 この小説では、前項のダークサイドを代表するキャラとして、代々の国王や野心家のウォールラン司教や悪徳貴族ウィリアムなどが配され、後者の光の勢力を代表するキャラとして、フィリップ修道院長をはじめとする修道士たちが配される。
 敬虔で意志強固で慈悲深く不屈の精神を持つフィリップは、世俗の暴力に幾たびも襲われる。修道院の領する町を焼かれ、町民を虐殺され、市をつぶされ、石材や職人を不当に奪われ、そのたび聖堂建立のピンチにさらされて、いったんは絶望の淵に追いやられる。
 が、信仰と忍耐と粘り強さ、それに持って生まれた知恵によって不死鳥のごとく蘇る。
 このヘラクレスのような、一休さんのような、難題解決エピソードが、この物語の一つの面白さとなっているのは間違いない。読み手は、フィリップが頓智を駆使して難題を解決し、窮地を脱出するたびに、心の中で喝采を送ることになる。
 
 ラストは勧善懲悪で、フィリップは最後にして最大の逆境を、文字通り奇跡のごとく乗り超えて、世俗勢力を圧倒する。
 なんと、フィリップがイングランド国王を鞭打つシーンで終わるのだ!
 信仰の暴力に対する、宗教の政治に対する、理想の現実に対する、聖の俗に対する勝利を表している。
 ハレルヤ!

復活の光
 
 
 しかるに、十字軍のイスラム侵攻や異端カタリ派虐殺の例を挙げるまでもなく、実際のところ、宗教こそは、教会勢力こそは、巨大なる暴力装置だった。政治と宗教は、「俗 v.s. 聖」の形で対立していたのではなく、俗世間の覇権をめぐって対立していたのが実情である。
 フィリップの敵は教会外部にだけでなく、教会内部にこそいた。ウォールラン司教や副修道院長リミジアスが恰好の例である。
 この世では、ダークサイドの力が圧倒的に強く、フィリップの求める正義や慈悲や理想は負け続ける。
 フィリップの闘いは実に孤独なものだったのである。
 
 これはぜひともDVDを観たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 晴明と道満 本 : 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(沖浦和光著)

 2004年岩波書店

 コミック『陰陽師』のあまりに現実離れした展開にシラけた反動からか、陰陽師の実像について調べたくなった。
 恰好の本があった。

IMG_20200725_150147


 沖浦和光は大阪生まれの研究者で、比較文化論や社会思想史を専門としている。
 三國連太郎との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)や、当ブログでも紹介した『辺界の輝き 日本文化の深層をゆく』(こちらは五木寛之との対談、ちくま文庫)など、日本文化の周縁あるいは底辺に生き、様々な差別を受けてきた賤民について、長年調査研究し深い造詣を有している人である。
 そう、陰陽師もまた賤民の類いであった。

 いや、安倍晴明は朝廷から正四位下をもらっている貴族ではないか。宮中に出入りし帝への拝謁も許されていた官人ではないか。と反論が起こるのも当然。
 陰陽師には、晴明やその師の賀茂忠行・保憲父子のように律令体制下で国に仕え、中国由来の陰陽五行説を基盤とする占いや天文観測を行う官人陰陽師と、おそらくは渡来人を祖とし播磨地方を中心に起こり、次第に各地に広がっていった民間陰陽師と、二系統あるらしい。
 賤民として差別されてきたのは後者の陰陽師であり、晴明の最大のライバルとして知られる蘆屋道満はその代表格なのである。

 近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈禱、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の製作販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった。
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事する者も少なくなかった。祈禱だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術なども併用した。彼らが「巫術」をもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫(やぶ)医者」と呼ばれていたのである。

 ちょっとした雑学であるが、「やぶ医者」の語源は藪医者ではなくて野巫医者、すなわち「在野で巫術(=シャーマニズム)を行う医者」だそうである。
 なんか蘆屋道満のほうが好感持てる。

晴明と道満
晴明と道満(『北斎漫画』より)


 歴史上人物としての安倍晴明は、現在小説やコミックや映画などで描かれる呪術を駆使するスター超能力者とは違っていたらしい。
 
 史料を調べてみると、安倍晴明が式神を使ったり呪詛を行った事実は出てこない。晴明を含めて平安中期の官人陰陽師が、式神を操ったり、呪詛を行ったという史料は見当たらない。そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていたのである。

 晴明の確かな事跡が史料に出てくるのは、当時の朝廷貴族の日誌・記録である。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などで語られる安倍晴明像は、すべてその死後に語り紡がれた説話であって、実際にあった史実ではない。

 巷間に流布されているスーパースター伝説が語られるようになったのは、室町時代初期に晴明自筆(むろんウソ)と言われる『簠簋(ほき)内伝』という書が現れてからという。

 耳目を惹きつける奇想天外な伝説を喜んで受け入れ、聞き、物語ったのは、むろん第一に庶民であったろう。
 が、もともとの道満系の民間陰陽師たちもまた、自らのステイタスを高めるために、商売繁盛のために、「われこそは晴明の末裔なり」といった流儀でスーパースター伝説を利用したようだ。

 ジブリの映画『かぐや姫の物語』や永久保貴一の漫画『カルラ舞う』に登場する木地師の人たち――彼らもまた被差別の民であった――が、「自分たちは惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫」と称し、山中を移住し暮らしていたのは知られるところである。
 身分社会において差別されてきた人々が、自らのルーツをかえって身分社会の高いところに求めようとするのは、なんとも切ないことである。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

Kaspar_hauser
カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


● 漫画:『陰陽師1~13巻』(画:岡野玲子、原作:夢枕獏)

2005年白泉社より最終巻発行

IMG_20200715_100727


 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を主人公とする歴史オカルトファンタジー。
 幻想的で耽美な世界を構築する岡野の画力と、平安風俗や陰陽道に関する研究熱心さは、賞賛に値する。

 しかるに、これは夢枕獏の原作を読んでいる人が、「原作がどのように劇画化されているか」を楽しむ作品であろう。
 原作を読んでいないソルティのような者にとっては、清明によってしばしば繰り広げられる陰陽五行説の専門的な説明ははなはだ難しく、煩わしく、物語への興味をそがれる。
 巻が進むほどにそれが顕著になり、内容も理解できぬまま字面を追っていることになる。

 しかも後半、清明がどんどん神(あるいは魔?)がかってきて、実在した歴史上の人物らしさを失い、受難を負ったイエス・キリストみたいなカリスマ的存在になっていく。
 なんだかなあ~。
 怪異ミステリーとして純粋に物語的面白さを楽しめる前半が良い。

 実際の安倍晴明は、あの藤原道長の権力固めに協力したようで、本作の清明とも、羽生結弦の清廉高潔なイメージとも異なり、かなり老獪なる狸オヤジだったのではなかろうか。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 




● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1965年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1960年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

IMG_20200622_065325


思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 牧師の息子 映画 : 『冬の光』(イングマール・ベルイマン監督)

1963 年スウェーデン
82 分、白黒

 『第七の封印』同様、神の沈黙をテーマとする作品。
 ただ、「沈黙がテーマ」と言うと、「神はなぜ黙っているのか?」の追究になる。
 つまり、神の存在を前提としている。
 「天にあって、この世のすべての悲惨を見ているのに、なぜ黙っているのか!?」
 これだと、遠藤周作のテーマと重なる。

 ベルイマンの問いをより正確に表すなら、神の不在がテーマと言うべきだろう。

 神はいるのかいないのか?
 いないのならば、我々の生には何の意味があるのか?
 ただ生まれて、他の生命を食べて、まぐわって子供をつくって、老いて死ぬだけなのか?
 祈ることは無駄な行為なのか?
 
 牧師を主人公とする本作では、信者が集まらずにさびれた教会の様子、信仰を失い懊悩する牧師の姿が、実にリアリティもって細やかに描き出されている。
 牧師の家庭に生まれ育ったベルイマンならではである。
 憶測に過ぎないが、父親との関係がこうした問いかけを生涯発し続ける因となったのかもしれない。

 神なんて、いてもいなくても関係ない。
 生きる意味なんてメンドクサイこと考えないで、欲望に忠実に楽しめばいいじゃん。
 ――と、割り切ってエピキュリアンに生きられないところに、ベルイマンや遠藤周作のジレンマの種(=創作の種)はあるのだろう。

 
パーティー

 
 ストーリーは、ポール・シュナイダー監督の『魂のゆくえ』と酷似している。
 同じ原作をもとにしているか、あるいはシュナイダーが『冬の光』を現代風にリメイクしたのかと思ったのだが、どうも違うらしい。
 結末こそ異なってはいるが、この似方は偶然にしてはちょっと・・・???
 
 神(創造主)などいない。
 我々の生は、そこから脱出するためのジャンピングボード以上の意味はない。
 ――と言い切ってしまう(原始)仏教の、なんと潔く、自立していることか!
 ベルイマンは仏教に出会っていただろうか?
 あるいは、奇跡のコースに。

 ただ、その立場をとった時、もはや芸術創造などできないだろう。
 それはそれで別のジレンマになるやもしれない。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 映画:『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ監督)

2016年アメリカ、ドイツ、メキシコ
97分

 デイヴ・エガーズの同名小説を原作とするトム・ハンクス主演のコメディ。
 『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『グリーンマイル』、『キャスト・アウェイ』、『ターミナル』など、トム・ハンクスの他の主演作同様、運命のサプライズ、人生のハプニング、希望を失わないことの大切さがテーマとなっている。
 トム・ティクヴァは、輪廻転生を描いた『クラウド・アトラス』の監督である。

 サウジアラビアの砂漠のど真ん中に新都市をつくりたいという王様のために、IT 技術をプレゼンし契約を取るべく、人生に疲れた中年の新入社員アラン(=トム・ハンクス)は派遣される。
 勝手の違う異文化での営業に戸惑い、不安と絶望で心身をすり減らすアラン。
 はたして商談は無事成功するのか?
 アランの人生に新たな道は開かれるのか?

サウジアラビア


 イスラム社会の慣習や文化を垣間見るのが面白い。
 イスラム教の信者のことをムスリムと言うが、これは「神にすべてをゆだねた人」という意だそう。
 なんだか阿弥陀信仰に似ている。
 大いなるものを信じて流れに身を任せた時、すなわち「我」を捨てサレンダーした時、運命は思わぬ方向に人を導く。
 その点から、やはりトム・ハンクス主演らしいスピリチュアルな映画である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『廃墟のブッダたち 銀河の果ての原始聖典』(EO著)

1995年まんだらけ出版部より刊行
2019年改訂版発行

 無明庵 EO(エオ)は、知る人ぞ知る、本邦の精神世界のカリスマ導師である。
 著者略歴によると、1958年生まれ、14歳の時に悟りの一瞥を体験。以来、様々なスピリチュアル遍歴をたどる。1992年(34歳)に大悟見性。以後、講話や著述や瞑想指導などを行う。2017年2月入滅。

 ソルティは、15年くらい前に、EO の本を中野サンモールにある古書店「まんだらけ」で見つけて購入し、その“過激な”内容に衝撃を受けた。
 以来、自身のスピリチュアル遍歴において、時折、無性に EO が読みたくなっては、著書を集めてきた。
 5冊くらい読んだだろうか。
 だが、EO の最初の著書であり代表作とも言えるこの『廃墟のブッダたち』だけは、すでに廃刊となっていて、「まんだらけ」でも他の書店でも手に入らなかった。
 著者の入滅――本当か?(笑)――がきっかけとなったのか、2019年より EO シリーズの復刊が始まった。全部で14冊の予定らしい。
 やっと、念願の書を手にした。

IMG_20200504_192515


 EO が「知る人ぞ知る」なのは、彼の本の内容(実際の講話をもとにしたものが多い)が、まったくもって一般受けしない態のものだからである。
 ソルティが最初に接した時に受けた「過激」以外の印象をあげると、「暗い、絶望的、虚無的、不吉、禍々しい、歯に物を着せぬ、容赦ない、反逆的、人間の尊厳を奪う、反社会的、敗北主義」といったネガティヴなものばかりで、「こんな本に惹かれてつい買ってしまった自分も、相当病んでいるのかもしれない」と思った。(そのとおりだ)
 黒を基調とし、奇妙な幾何学図形を浮き彫りにした装丁もまた、その近寄りがたいイメージを助長した。

 にもかかわらず、その説かれる内容には一聴すべきものがあった。
 ラジニーシ(OSHO)やクリシュナムルティの本と同様の、覚者ならではの透徹した意識と知性、首尾一貫した論理、有無を言わさぬ気迫をそこに感じ取った。
 あるいはそこに、自分自身が、あるいは人類が、「認めたくない事実、不都合な真実」が赤裸々に説かれているような気がした。
 事実、EO は「伝統や形式にしがみつく禅そして導師を盲信的に信奉する瞑想センターとの絶え間ない摩擦や反感」を経験したという。
 無理もない。

 EO の過激な(突飛な?)言説の例を本書より挙げよう。
 人類の存在意義に関する一節。
 
 すなわち人類はその人類の上位存在にとっては、ただの食用生物である。
 あるいは宇宙という機械の生物燃料であり、誰かの食用の家畜であり、宇宙という畑の肥料であり、また、あるときには宇宙「という」(ソルティ注:「の」の誤植か)医療モルモットであり、あるいは宇宙が今後もただ無目的に生き延びるためだけの穀物である。
 これがまず基本的な宇宙と地球における人間たちの生存理由、つまり、あなたという存在の宇宙での位置についての明確な真実である。 
 それが、あなたにとって不愉快であろうが、なかろうかには一切関係なく・・・。
(本書104ページ)

 これをダグラス・アダムスのSF小説みたいなブラックジョークと取るか、ノストラダムス的な「トンデモ」と取るか、六道を輪廻転生し続ける愚かさを知らしめ「悟り⇒解脱」に聴き手(読者)を導くための方便ととるか。
 ともあれ、EO は徹底した「現世否定論者、存在否定論者」であり、そこが究極のネガティブ・シンキングとも、精神世界の極北とも、反社会的とも、みなされるゆえんでなのである。
 EO の先を行くのは、この世を悪魔の創造物とみなした異端カタリ派しかありえまい。

 だが、UFO 陰謀オタクが喜びそうな上記のような言説を除けば、EO の説いていることは、ブッダやラジニーシやクリシュナムルティら“本物の”覚者のそれとまったく変わりない、「エゴ(自我)の否定」、「思考の否定」、「条件付けされた生への気づき」といったあたりが核なのである。

 というわけで、「ステイホーム週間」の利得をもって、遊び心で下記の表「現世との距離から見たスピリチュアル思想」を作ってみた。
 世界的に知られる代表的なスピリチュアル思想について、現世との距離から――「現世肯定的 or 否定的」の視点から――序列化してみた。


IMG_20200504_133059



 上記のスピリチュアル思想の選択は、恣意的なものである。
 序列もまた、ソルティの狭量な知見による、独断かつ偏見でしかない。
 「なんでヒンズー教がないんだ!?」
 「グノーシス思想があって然るべきだろう!?」
 「なんで日蓮の名がないんだ!?」
 「神道が、空海が、なぜこの位置に来る!?」
 「ヒマラヤ聖者ヨグマタ圭子はどこに入るんだ!?」
 ・・・・などなど、種々の意見や異論はあるかと思うが、それは各自で好きなように考えてもらったらよいと思う。
 ちなみに、「解脱主義」の主たる特徴は、輪廻転生からの解脱を最終目的とすること、すなわち、天国や浄土をゴールとしないことである。ここに、読んだばかりのゲイリー・レナード著『神の使者』でその内容を知った「奇跡のコース」も入れさせてもらった。
 
 ブッダを敬愛するソルティは、表の右から4番目に位置する。(輪廻転生を信じているわけではないが・・・)
 こうやって整理してみると、20代、30代、40代と自分が年齢を重ねるにつれて、表の左から右へと次第に移行してきたのを了解する。(生き方指南、本覚思想、浄土主義にはハマらなかったが・・・)
  
 まあ、どうでもいい話。
 ほんのお慰み。
 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 宇宙の消滅 本:『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著)


IMG_20200502_142242

2003年原著刊行
2007年河出書房新社より邦訳発行

 アメリカ発のスピリチュアル本。
 著者ゲイリーと二人のアセンデッド・マスターとの17回の対話から成る。

 アセンデッド・マスターとは、天界にいる高尚な魂を持った人たちのことで、一度は肉体を持って地球上で生きた経験があり、亡くなった後、神の視点を以て人々を導いている。
 イエス・キリスト、聖母マリア、ブッダ、ガンジー、マザー・テレサ、サンジェルマン伯爵、大天使ミカエル、サマート・クマラなどの名が上げられることが多い。
 この本に出てくるマスターは、イエス・キリストの使徒であったトマスとタダイ。
 二人は、パーサとアーテンという名の現代風の男女の姿をして現れ、ゲイリーに『奇跡のコース』の学習を勧める。

最後の晩餐
向かってイエスの右隣で人差し指を天に向けているのがトマス
右端から2番めの白い髭のある老人がタダイ
(ダ・ヴィンチ作:最後の晩餐)


 シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』(1983年)以来、アメリカのスピリチュアル本を数多く読み漁ってきたソルティにしてみれば、「もう、こういうの、十分!」というのが偽らざるところである。
 バシャール、ラムサ、ラザリス、プレアデス、聖なる予言、神との対話、ホピ族の予言、古代マヤ暦、ミュータント・メッセージ(笑)、ロバート・モンロー、エドガー・ケイシー、レイモンド・ムーディー、・・・・・。
 我ながらよくもハマったものだ。

 しかしながら、実は一つだけ、その存在は知っていながら、正体がつかめず、距離を置いてきたものがあった。
 分量が多いためか、最近まで邦訳されていなかった『奇跡のコース』(A Course in Miracles)がそれである。

 奇跡のコースとは
 アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である。
 世界は幻影であり自らの外には何も存在せず、己が神と一体であるという、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想が説かれている。
 この作品の最大の前提は、人生で達成できる最大の「奇跡」は「愛の存在を知ること」である、という教えである。神と一体となることで、愛を知るとされる。ニューエイジで広く読まれ、バイブル的存在だった。

 講座は1200ページからなり、テキスト、ワークブック(1日1題で1年分)、指導者向けのマニュアルで構成されている。最初の一連のレッスンは「今のあなたのものの見方を根底から崩す」ためのもので、2番目は「真の知覚の獲得」を目指している。

 1976年に出版されてから、22言語に翻訳されている。本は世界中に広まっており、組織された団体の基盤になっている。英語版は2007年時点で100万部以上の売り上げがあり、ベストセラーになったスピリチュアルな自己啓発本を通しさらに数百万人に影響を与え、学習団体も世界中で増加している。

(ウィキペディア『ACIM』より抜粋)


 ゲイリーは、パーサとアーテンの勧めに応じて、“イエスの真の教えである”ところの『奇跡のコース』の自己学習を始める。
 ゲイリーの学習を見守り励ましながら、その進展に合わせるように、パーサとアーテンは、宇宙やこの世の仕組み、エゴの罠、病の意味、セックスの意味など様々なテーマについて、ゲイリーと対話する。
 つまり、『神の使者』は、『奇跡のコース』の解説書、指南書、宣伝本、勧誘本といった趣きを成しているのである。

IMG_20200501_183156

 
 読み進めて驚いたことに、『奇跡のコース』はイエス・キリストによるメッセージと謳いつつも、まったくキリスト教的でないのである。
 もちろん、「愛とゆるし」の大切さを強調しているのは、聖書の中のイエスそのままである。
 しかるに、ここで説かれる宇宙観、世界観、来世観は、天国や復活や天地創造や最後の審判を説くキリスト教のそれとはまったく異なる。
 
アーテン このことははっきりさせておこう。神はこの世界をひとかけらだって創ってはいない。「コース」に世界はないと書いてあると言っただろう! ないものの一部を神が創るはずがないじゃないか。聖霊の意図は、世界があるという夢からきみたちを覚めさせることだけだよ!

J(イエス)が「世界と世界のあり方を否定しなさい。それをあなたにとって無意味なものとしなさい」と言ったのは、きみが見ているものは存在しない、ってことなんだよ。それはほんとうにはないのだから、無なんだ。無が何かを意味するわけがないだろう? 善にしろ悪にしろ、きみがそれに何らかの意味をもたせたら、きみは無を何ものかに変えようとしていることになる。きみがすべきことはただ一つ、無意味にすることなんだ。

ゲイリー すると、ぼくは心のなかにある罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!

 極めつけは、これだ。

――つまるところ、宇宙そのものが消えるべき症状である。

 まったくの現世否定&来世否定の言説は、反キリスト教的ですらある。(事実、あるキリスト者はコースを、「重大で潜在的に危険なキリスト教神学の歪曲」、「悪魔の誘惑」と批判したとか)
 むろん、現世や来世(別次元)での幸福な生き方を志向し指南する、先に上げたアメリカンスピリチュアリズムの伝統とも性格を異にする。
 いわゆる、解脱思想なのだ。
 そこが、「古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想」とみなされるゆえんであり、また、キリスト教というより、涅槃を目的とする原始仏教に近い気がする。

 このような本(原著タイトルは The Disappearance of the Universe 「宇宙の消滅」)が全米でベストセラーになりうる当世に、驚きを覚える。

オリオン星雲


 最後に、『奇跡のコース』の要点を一言でまとめると、「ゆるし」に尽きる。
 他人も、自分も、責めるのは止めなさい。
 他人だけでなく、自分をも、ゆるしなさい。
 意識上、あるいは意識下を問わず、あらゆる罪悪感から解放されなさい。

 これはとても大切なメッセージだと思う。
 子供の頃の親との関係の中で、そして、これまでに出会った沢山の人との関係の中で、いかに自らが罪悪感を抱き、抱かされ、知らずに自分を責め続けていることか!
 心のどこかで、「こんな罪作りの自分が、幸福になってはいけない」と確信していることか!
 自分の中にある罪悪感を外側に投影し、他人や社会を裁いていることか!

 新型コロナウイルス騒動で、他者を責める言葉が、国内でも国外でもネット上でも飛び交っている現在、「ゆるし」の重要性はどれほど強調してもなおあまりある。


P.S. ツクシさん、本書を教えてくれて、ありがとう。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● コロナとエロス 映画:『魂のゆくえ』(ポール・シュレイダー監督)

2017年アメリカ
113分

 『タクシー・ドライバー』で知られる名匠ポール・シュレイダーよる哲学性の高い人間ドラマ。
 原題 First Reformed は、主人公トラー牧師(=イーサン・ホーク)が勤める教会の名前。
 
 従軍牧師として体験した悲惨な戦場、戦死した息子と崩壊した家庭、孤独、忍び寄る病魔、神意に対する疑い、そして、自らの教会が大規模な環境破壊企業の資金によって成り立っていることを知って生じる懊悩。
 トラー牧師の魂は危機に瀕する。
「このような地球に新しい生命を送り出すことは悪ではないか?」と問いかける信者に対し、トラー牧師は納得ゆく答えを与えることができず、信者は猟銃自殺してしまう。
 絶望し信仰を失ったトラーは、教会の設立式典での自爆テロを企図する。

 「この世は悪魔の支配するところであり、子どもを作ることは悪」というカタリ派的な問いに飲み込まれてしまった誠実な牧師の心の軌跡と、魂の危機からの救出を描いている。


地球


 グレタ・トゥーンベリに叱られるまでもなく、環境破壊の現実をありのままに見たときに、その背後に渦巻く人類の際限ない欲望と無知を見たときに、そしてまた、今まさに地球レベルで進行しつつある比類ない新型コロナウイルスの危機を前にしたときに、人類の未来に希望を見出すのは困難なことである。
 神の存在を信じ、「これもまた神の隠れた意図にほかならなず、最終的にはみな救われる」と楽観視するのは、日本人の好きな神風信仰となにも変わらない。

 トラー牧師は、一人の女性との出会いと愛によって自爆テロをあきらめる。
 結局、魂の危機を救ったのは愛、それもキリスト教のいうアガペー(無償の愛)ではなくて、エロス(性愛)であった。
 それが結論・・・・・???

 本作は、シュナイダー監督の人生の「集大成的な作品」との由。
 エロスこそすべて、というのが落着点だったのか?
 まるで、空海密教のようである。

 飛沫感染でうつる新型コロナウイルスは、人類をして、HIV以上に性愛を拒否させる。
 自粛にはもちろん性行動が含まれるが・・・。
 人類は性愛なしにどこまで持つのだろう?



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画:『ガンジスに還る』(シュバシシュ・ブティアニ監督)

2016年インド
102分、ヒンディー語

 死期を悟った父親ダヤのたっての希望で、息子ラジーヴは、ダヤをベナレスのガンジス河ほとりにある「解脱の家」に連れて行く。
 そこでは死を待つ人々が、祈りや沐浴や闘病や交流の日々を送っていた。
 さっそく女性の友人をつくり生活に馴染み、次第に元気になっていくダヤ。
 残してきた仕事のことが気になって常に携帯を離さないラジーヴ。
 半月が過ぎ、ラジーヴは父親を一人残し、妻と娘の待つ自宅に戻る。  


 美しい映画である。
 インド映画ならではのつややかで賑やかな色彩、明るくさわやかな光。
 すべてのショットが映画的輝きに満ちている。
 画面を観ていることが、次第に画面の向こうの事物に直接触れていることに変わっていくような、視覚と触覚が連合していくような生々しい感覚は、映画の至福そのものである。
 
 シュバシシュ・ブティアニ監督は、1991年インドのカルカッタ生まれ。
 これが長編デビューとなるようだが、傑出した才能はまぎれもない。


ガンジス
ガンジス河(ベナレス)
 

 映画に出てくる解脱の家は、実際にベナレスにある同種の施設をモデルとしたらしい。
 ヒンドゥー教徒であるインド人の死生観や葬送の風習がうかがえて興味深い。

 ヒンドゥー教もまた、仏教同様、輪廻転生からの解脱を最終目標とするが、映画の中で「魂」という語がたびたび出てくることが示すように、ヒンドゥー教では魂(アートマン)の存在を規定する。
 登場人物の一人、解脱の家のマネジャーは言う。
 「魂は自分を波だと思っている。でも突然悟るのだ。自分は波でなく海だと」
 これはいわゆる梵我一如(アートマン=ブラフマン)を意味しているのだろう。
 魂が「大いなるもの」と一体となることを解脱としているのだ。
 昨今、スピリチュアル業界で人気を集めている非二元(ノンデュアリティ)もこれに近い。
 仏教の解脱とは異なる。
 
 思想的なことはともかく、この映画を観て、またインドに行きたくなった。

 30数年前、ガンジスで泳いで水を口にしても何ともなかった。
 今やったら無事では済むまい。
 水質汚染がひどいし、こちらも若くない。
 冗談でなく、死出の旅路になりそう。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損










● 魚ッ ‼ 本:『かわら版で読み解く 江戸の大事件』(森田健司著)

2015年彩図社
 
 日本が誇るスピリチュアル冒険野郎、モリケンこと森田健の本でも借りようかと検索したら、この本が出てきた。
 著者の森田健は、1974年神戸生まれの思想史学者。石門心学で知られる(?)石田梅岩の本を書いている。
 面白そうなので、借りてみた。

IMG_20200310_133009

 かわら版は、江戸のタブロイド紙であり、ワイドショーでもある。情報の正確さより速報性と面白さ。そこには、現代人が知っている江戸とは一味違う、エキサイティングな世界がある。

 かわら版は、当時の人々がどのようなことに笑い、泣き、興奮したのかを、今に伝えてくれる。名もなき人々の心を知る手掛かりが、そこにはある。

 売れてなんぼの世界なので(一枚4文=40円程度)、とにかく人々の好奇心をかき立てるテーマが取り上げられ、奇抜で大げさな絵とともに、尾ひれ腹びれつけて、吹聴されたわけである。
 各地で妖怪出現の怪異、畑から金の延べ棒発見などの仰天ニュース、大火事や大地震や浅間山噴火などの天災地異、花形歌舞伎役者の動向(さしずめ現代の芸能ニュース)、江戸庶民が喝采落涙した敵討ちストーリー、忠臣蔵・大塩平八郎の乱・黒船来航・倒幕といった歴史的大事件・・・・・等々、今読んでも非常に興味深く、面白いものばかり。

IMG_20200307_161744
越中国(今の富山県)に出現した人魚
全長三尺五寸(約10メートル)
アンデルセンが・・・


 著者が述べているように、かわら版に取り上げられるネタの種類や、その取り上げ方、つまり筆致や画風から、江戸の人々のキャラが垣間見られる。
 子どものように単純で喜怒哀楽ゆたか、楽天的でのんき、好奇心旺盛で行動的、商魂たくましく抜け目ない。(なんかモリケンみたい?)
 特筆すべきは、ユーモア感覚と諧謔精神である。
 
 江戸時代には麻疹(はしか)が数十年おきに大流行した。
 むろん、現代のようなワクチンや抗生物質はない。1862年の大流行では江戸だけでなんと24万人が亡くなったという。(当時の江戸の人口は100万と言われる)
 そのときに発行されたのが、以下のかわら版である。


IMG_20200310_133248 
 

 これは見立番付と呼ばれるもので、相撲の番付表に見立てて、さまざまな事象を「東西」に分けてランキングする趣向。
 神社仏閣番付、温泉番付、仇討ち番付、茶屋娘番付、バカ番付・・・・・いろいろあったらしい。
 
 ここに紹介するかわら版は、タイトルに「為麻疹」と記された見立番付である。内容は3段に分かれていて、1段目は、右側に「あたりの方」、左側に「はづれの方」と書かれている。主にこの部分が、番付のパロディとなっているわけある。
 「あたりの方」は、麻疹大流行で儲けたり、需要が高まったりしたもののリストだ。そこには、薬屋、医者に籠屋、それに沢庵に黒豆に干瓢(かんぴょう)など。「はづれの方」はそれらの逆で、人気の落ちたものたちである。例えば、女郎屋に芸者、舟宿、加えて天ぷら屋、寿司屋などが書かれている。(ゴチックはソルティ付す)

 コロナウイルス騒動のいま、これをやるマスコミがいたら、炎上&袋叩きはまぬがれまい。
 ちなみに、3段目の絵の右側の編み笠をかぶった男が、「読売」と呼ばれたかわら版売り。笑顔で金を払う客を挟んだ左側の男が、魚や青物を売る「棒手振り」。どちらが「あたりの方」かは言うまでもない。かわら版の作者&販売者は、自分たちをも揶揄しているのだ。

 江戸の人々から見たら、現代日本人は「無粋」の極み、あるいは一億総ノイローゼ患者のように思えるかもしれない。
 この違いを作っている大きな要因の一つは、たぶん、死との距離感であろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● いまここにある地獄 本:『路上の人』(堀田善衛著)

1985年新潮社

 異端カタリ派をテーマにした歴史小説。
 完成度の高い、コクと艶のある、しかしすっきりしたボディに、昭和文学の良心を見る。
 佐藤賢一著『オクシタニア』でしっかり予習できていたので、スムーズに世界に入っていけた。

 主人公は路上の人、ヨナ。定職を持たず、家族を持たず、ヨーロッパ中を歩き回る四十がらみの男。いわばルンペン。
 道化をしたり、詐欺を働いたり、易者になったり、不具者をかたったり、乞食をしたり、カトリック僧侶の従者になったり、偽の聖遺物を教会に売りつけたり、ありとあらゆることをして生き抜いてきた。おかげで、各地の風俗や言葉を覚え、さまざまな階層や職業の人間を知り、世間通となった。
 ヨナは、カタルーニア(いまのスペイン)で、「法王付大秘書官兼ドイツ皇帝代表」という仰々しい肩書を持つ騎士アントンの従者となり、一緒にピレネー山脈を超えてオクシタニアに入る。そこでは、カタリ派が、十字軍による最後の攻撃を受けている最中であった。

 十字軍の横暴とカタリ派消滅の様子を描くのに、社会の最下層にいる浮浪者の目を借りたところが、この作品のミソである。
 ヨナは、どこにも属さない自由な人間。信仰も持たず、主義主張もない。ノンポリで、マージナルな、いわば社会をありのままに映す鏡のような役を担っている。読む者は、ヨナの足と目を通して、中世ヨーロッパの地勢や風土、群雄割拠の政治環境、封建制と階層社会、貧困と迷信にとらわれている庶民の姿などを感得する。とりわけ、ローマ法王を頂点とするカトリック(普遍的という意味がある)教会に支配された窮屈な時代精神を。

 この小説を読んで一番印象に残るのは、当時のカトリック教会の腐敗と横暴である。底知れない欲と見栄、恥を知らない偽善と破戒、恐れ知らずの虐待と暴行の数々。それらすべてを「神の名において」正当化する厚顔無恥。その所業は悪魔的、ナチス的ですらある。
 インノケンティウス3世が法王の座にあったこの時代、カトリック教会は最高の栄華を誇った。と同時に、最大の反キリスト者であった。


バチカン市国
バチカン市国


 作者の立場は明らかに反カトリック、反権力、反権威である。現世を否定し死を幸いとするカタリ派の教義を「よし」とする記述こそないが、言葉の真の意味で「清貧と敬虔と慈愛」のうちに生きたカタリ派の出家者(完徳者と言う)に肩入れしているのは明らかである。
 同時に、法王や司教や国王や領主や裕福な商人たちよりも、ヨナのような社会の底辺にいる寄る辺ない人々に愛情を向けているのも確かである。

 堀田の小説はこれがはじめてで、どういう作家か知らなかったのだが、戦後日本を代表する進歩派知識人との由。ジブリの宮崎駿がもっとも尊敬する作家であり、なんとアガサ・クリスティ『白昼の悪魔』を訳している。それなら、ソルティは高校時代にお世話になっているはずだ。
 「反権力」が堀田善衛のテーマの一つなのだろう。

 この、作者の思想性という点で、佐藤賢一『オクシタニア』との大きな違いがあるように思う。
 『オクシタニア』の結末がぼやけた印象で終わったのは、おそらく、佐藤賢一が作品を貫く明確なテーマを持たなかったからなのだろう。カトリックにもカタリ派にもどちらにも与せず、かといって無神論を唱えるわけでもない。反権力の拳を挙げるでも、貧しい庶民の肩を持つでもない。いろいろな立場の登場人物の内面(=心の葛藤)を描くことこそが、佐藤の最大の関心だったのかもしれない。
 一方、『路上の人』において、登場人物の中でその内面が描かれるのは浮浪者ヨナと騎士アントンのほぼ二人だけである。しかも、心理描写はかなり抑制されている。個々の人間よりも、彼らが置かれている「世界」に焦点を当て、テーマを開陳することに重きが置かれている。
 結果、どちらがより普遍的(カトリック)かと言えば、『路上の人』であろう。
 もちろん、どちらも面白いことに変わりない。

 ソルティは、両作品を続けざまに読みながら、カタリ派が当時の民衆に支持された理由を考えていた。
 「この世を地獄とする」そのニヒリスティックな教義は、そう簡単には大衆の理解が得られるべくもなく、信仰されにくいはずである。なぜ、文明高く豊かなオクシタニアの地に、カタリ派信仰が広まったのだろう?

 一つにはもちろん、カトリック教会の目にあまる横暴と堕落がある。ペルシャから連れてきた愛人を囲うために王宮のような御殿をつくる司教を、だれが尊敬できるだろうか。
 一つにはもちろん、カタリ派の完徳者たちの高潔さゆえである。庶民を苦しめる病気や飢えや家族の死など様々な苦しみに、すすんで手を差し伸べ、身を削って助け、返礼をまったく期待しないのは、彼らであった。
 また、裕福な商人であれば、完徳者を敬い活動を支えることで、決してきれいな手段だけで築き上げたわけではあるまいその財産と地位に伴う罪悪感を、あがなうことができたであろう。
 あるいは、子供をつくることを忌避し、結婚を言祝がないカタリ派の教えが、性の自由(たとえば同性愛や不倫)を享受する後ろ盾として利用されたこともあったのかもしれない。
 しょせん、「この世は地獄で、価値はない」のであってみれば、何をしようが同じこと、やりたいことをやればよい。死ぬ時に完徳者に頼んで救慰礼(カトリックの「終油の秘跡」にあたる罪のゆるしを授ける儀式)を受ければ天国に行けるのだから。享楽主義者、刹那主義者、あるいはずばり悪人にとって、極めて都合の良い解釈を許してしまうことが、カタリ派信仰の広がる背景にあった可能性も否定できない。
 あるいは、キリスト教がやって来るはるか以前、オクシタニアにあった古来の宗教なり信仰形態が、カタリ派の教義を受け入れるにたやすい性質のものだった、という仮説も成り立つ。

 ――といろいろな理由が思いつくのであるが、本小説中に次のような記述があり、「なるほど」と唸った。
 
現世にあること自体が、最大の断罪であり、処刑そのものの状態にあるのであるとすれば、地獄は存在しない。煉獄の火なるものなどもローマの僧たちの創作であり、人々を脅かして免罪符などを売りつけるための、虚偽の道具であるに過ぎない。
 
煉獄や地獄からの解放が、如何に大きなものであったかは、これまた言を俟たない。それは、地そのものが、古き地霊もろともに、安堵の声を挙げたものでさえあったであろう。

 「この世が地獄」であるなら、ほかに地獄はない。カトリックの坊さんたちが言う地獄は作りごとだ。それに脅かされる必要はない。なぜなら、最悪を「いまここ」ですで体験しているのだから。
 それはちょうど、末法の世が訪れて、「自分はもう阿弥陀様に救われることなく、地獄落ちだ、畜生道だ、あるいはまた火宅のこの世に戻ってくるほかないのだ」と嘆いていた本邦の庶民たちが、「南無阿弥陀仏と一言唱えるだけで成仏できますよ」という法然上人や親鸞上人の言葉を聞いて経験したであろうような、とてつもない安堵感、喜び、光明、うつヌケ感――そんなパラダイム変化をもたらす解放に等しかったのかもしれない。
 科学が登場する前の人類の、来世に対する怯えと怖れを、現代人は真に理解できてはいないであろう。

 
47番八坂寺
四国札所47番八坂寺境内
右が地獄、左が極楽の入口

地獄絵図47番八坂寺

地獄絵図蛇47番八坂寺
地獄

極楽絵図47番八坂寺
極楽


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 








 
 
 

● 漫画:『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(田中圭一作画)

2017年角川書店

 『ペンと箸』の作者によるドキュメンタリーコミック。
 うつ病を脱出した18人(田中自身を含む)を取材し、その体験をまとめている。

 18人には、ロックミュージシャン大槻ケンヂ、AV監督代々木忠、エッセイストまついなつき、小説家熊谷達也、脚本家一色伸幸、フランス哲学研究者内田樹など、その名を知られた人たちもいる。
 ほどよくポップな絵柄、ちょっと贅沢なカラーページ、あざやかな桜色の表紙、うつの人が手に取りやすいことを考慮した作り。18人の中に本コミックの編集を担当した折晴子が入っている意義を感じる。
 うつで苦しんでいる当事者はもちろん、うつ病患者と接する家族や友人や同僚にも、うつヌケはしたけれど「突然リターン」におびえる人にも、役に立ち、支えとなる(「励みとなる」はNGワードだ)読み物である。

IMG_20200301_115201


 例によってソルティもうつ傾向を持っている。
 思えば、ソルティの半生はウッちゃんとの同行二人だったような気さえする。
 真面目で責任感が強くナイーブな完全主義者(マジ?) + 自己肯定の難しいセクシュアルマイノリティ + 周囲に助けをもとめられない見栄っ張り + 寒さに弱い――という、まさにウッちゃんにしてみれば最高に居心地良い温床の主である。
 心療内科に行ったり精神安定剤のたぐいを飲んだりしたことはないが、かなり重い一時期は、休日まるまるコタツにもぐって台所にある包丁のことを考えている、という時もあった。
 
 ウッちゃんとの同行二人は、台所の包丁の声に誘われることなく、ウッちゃんとどう付き合っていくかという試行錯誤の旅でもある。ウッちゃんの出番をなるべく少なくしながら、いかに精神の安定を保ち、穏やかな気持ちで日々を過ごすかという工夫である。
 この場合、「明るく活発で社交的」というのは目指さない。極端な元気、いわゆる躁状態は、後からのぶり返しが予想されるので、警戒しなければならないのである。
 
 おかげで、現在はかなり心のコントロールが巧みになった。ウッちゃんが胸の奥の楽屋から登場しそうな気配をいち早く感じ取り、適切な対応によって舞台袖に控えてもらい、おもてなしすることができるようになった。
 “うつヌケ”という言葉が意味するのは、おそらく、うつの克服ではない。打ち勝つのではなく、適当に“いなす”のである。
 
 長年のソルティの実感では、うつの原因は体内の“気”のゆがみ、滞りである。
 だから、“気”の通りを良くし、体に害をもたらす悪い“気”を良い“気”に変え、整えることが大切である。そのためには、そのときどきの自分の“気”の状態を、自分で感じ取れるようになるのが一番である。
 ソルティが“気”を整えるのに役立つと実感するのは、次のようなことだ。  
  1. 山登り ・・・体内の悪い“気”を排出し、大自然の良い“気”を取りこむ
  2. 水泳  ・・・“気”は水と親和性がある
  3. 畑仕事 ・・・“気”は土と親和性がある、いわゆるアーシング効果
  4. 睡眠  ・・・寝不足は“気”を枯らす
  5. 温泉  ・・・とくに秘湯と呼ばれるパワーある温泉の威力は目覚ましい!
  6. ヨガ  ・・・身体的テクニックで“気”のつまりをほぐす
  7. 瞑想  ・・・精神的&身体的テクニックで“気”のつまりをほぐす
 とくにおすすめしたいのは、瞑想である。
 いつでもどこでも簡単にできるということもあるが、山登りからヨガまでの6つはどうしても一時的な効果に限られる。そのときは改善しても、日常に戻れば元の木阿弥になってしまう。それに対し、瞑想は“気”の状態を恒常的かつ不退転に引き上げていくからである。
 やればやるほど、良くなっていく。

 で、瞑想は瞑想でもヴィパッサナ瞑想が効く。昨今マインドフルネス瞑想とも呼ばれ、欧米中心にブームとなっているやつである。
 
 ヴィパッサナ瞑想は、はるか2000年以上前にブッダが唱え、悟りに至る瞑想とも観察瞑想とも言われ、テーラワーダ仏教の信者たちの間で実践されているものである。
 もっとも、瞑想するのに、仏教徒になる必要も、経典を読む必要も、悟りを目指す必要もない。市販されているマニュアル本を読めば、誰でもその日からすぐ始められる。必ずしも座禅を組む必要もなく、長時間やる必要もない。(ただ、効果が出るまで、ある程度の期間は続けたほうがよい)
 
 ソルティがヴィパッサナ瞑想に出会ったのはかれこれ10年以上前。そのときから今日まで、真剣さに波はあるものの、ほぼ毎日実践している。
 爾来、ウッちゃんに主役の座をとられることがなくなった。大人しく楽屋でゲームでもしているようである。落ち込むこと、心が疲れること、気分が滅入ることはあるが、その状態を長く保つことがなぜか生理的にできなくなった
 身体の観察により自らの“気”の状態に敏感になった。退屈したウッちゃんが楽屋から出てくるのを察したら、さっさとお茶菓子を用意して、舞台袖でしばらく愚痴につき合ってあげる。しばらくすると、気が済んだウッちゃんは、大人しく楽屋に戻っていく。
 
 実は、ヴィパッサナ瞑想に出会う前も、瞑想はやっていた。
 何か一つのものに集中する瞑想や、呼吸の数を数える瞑想や、心をカラにし雑念が浮かんだらそれが自然に去るまで見つめている瞑想とか、いろいろと試したものである。
 どの瞑想にもそれなりの効果はあり、身体を休息させ、心を落ち着けるのに役立った。
 が、瞑想している間は、あるいは瞑想後の数十分間は平常心を保てても、時間が経つと効果が切れてしまうのである。聖人のように晴れやかな気分になったかと思うと、しばらくすると、古い常連客のようにウッちゃんがどこからともなく舞い戻ってくる。
 
 ヴィパッサナ瞑想は、「瞬時瞬時、実況中継するだけ」という地道な作業である。心が一気に天界に突入する、体が宙に浮かび上がる、神や菩薩が目の前に現れる、前世の自分が見えてくる、超能力や霊能力が芽生える――みたいな劇的経験や神秘体験は期待できない。
 が、うつ症状を徐々にではあるが、確実に、軽減させる。
 それだけでも十分、この瞑想と出会って良かったと思っている。


瞑想カエル




おすすめ度:★★★

★★★★★
  もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★   面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★   いい退屈しのぎになった
    読み損、観て損、聴き損







 

● 異端カタリ派と子孫繁栄レース 本:『オクシタニア』(佐藤賢一著)

2003年集英社

 ここ3日ばかり、南フランスを旅していた。
 それも13世紀の――。
 トゥールーズ、アヴィニョン、カルカソンヌ、モンセギュール・・・。
 頭の中は地名であふれ、心の中では激動の時代を生きた十字軍の騎士やら、ドミニコ会の異端審問官やら、寡黙にして敬虔なカタリ派信者やら、名もない領民たちやらの影が揺曳していた。
 オクシタニアとは「オック語が話される地域」のことで、南フランスを中心とした複数の国(イタリア、スペイン、モナコ)にまたがる豊穣の地である。

IMG_20200223_182341


 キリスト教の異端カタリ派に材を取った小説には他に、帚木蓬生『聖灰の暗号』、笠井潔『サマー・アポカリプス』、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』などがある。未読であるが、堀田善衛『路上の人』という純文学もある。
 おそらく、カタリ派とその悲劇的終焉を描いた小説で、もっとも中身が濃く充実しているのはこの『オクシタニア』であろう。
 「前世で信者だったことがあるのでは?」と思うほど妙にカタリ派に惹かれるソルティ。満を持して、書下ろし1800枚の歴史大作に挑んだ。

カタリ派(Cathari)
12~13世紀の西欧に広がったキリスト教異端の一派。バルカン地方に起り、その呼称は清浄を意味するギリシア語に由来、マニ教的な善悪二元論の影響を受け、禁欲的・使徒的生活を追求。南フランスではアルビジョワ派と呼ばれた。(広辞苑)

彼らはまず結婚はおろか、あらゆる種類の性的な行為を忌避する。生殖行為で生まれる動物の肉は口にせず、ひんぱんな食断ちを行なう。福音書が禁じている以上、たとえ自衛のためであろうとどんな殺人も許されず、動物を殺してもならなかった。所有を避けて、福音書の命じる清貧に徹し、裁かず、誓わず、嘘をつくこともなかった。彼らがもっとも賞賛した美徳は勇気であって、苦しみと死に毅然と耐えることこそ、彼らの望むところであった。

正統教会から目のかたきにされただけあって、これら新しい信仰者たちの奉じる教えは、一見して正統カトリックとはなはだしく異なっている。この世が神の創造になることさえ彼らの教理にはない。人間の肉体を含めた物質世界は、すべて悪魔(あるいは「悪の原理」)の手で作られたものだとするのがこの教えの基本的な前提なのである。もともと天使として光輝く天にあった人間は、悪魔の奸計によって地上に拉致されたのである。現世にあること自体が受難なのであって、私たちは本来こんな地上に住むべきではない。人間につきまとう物質的要素を可能な限り断ち切り、真の祖国への復帰にそなえることこそ、人間の務めなのだ。
(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)


 オクシタニアを中心に多くの信者を持ったカタリ派は、正統カトリックの脅威となり、異端とみなされ、教皇インノケンティウス3世の号令のもと十字軍による征伐を受けることになった。世にいうアルビジョワ十字軍である。
 この小説は、アルビジョア十字軍が誕生する1209年から、カタリ派信者たちが立て籠ったピレネー山脈ふもとのモンセギュールと呼ばれる山城がついに陥落した1244年までの、36年間を描いている。
 
 主要となるのは次の4人。
① 十字軍の総大将シモン・ドゥ・モンフォール
 北フランスの小心翼々たる田舎領主に過ぎなかったシモンは、嫌々ながら大役を引き受けるが、戦闘中に神の奇跡を目のあたりにすることで迷いが吹っ切れ、「キリストの騎士」として名を馳せるほどの英雄に生まれ変わる。
② カタリ派尼僧ジラルタ
 オクシタニア一の都トゥールーズの名家に育ち、愛するエドモンと結ばれ、何不自由ない幸福な結婚生活を送るも、すべてを捨ててカタリ派に入信。厳しい戒律を守り、女性信者のリーダー的存在となる。
③ ドミニコ会修道士にして異端審問官エドモン
 愛する妻ジラルタのカタリ派入信がきっかけで自暴自棄となった挙句、ドミニコ会修道士となり、カタリ派信者を見つけ出して拷問し棄教させる冷酷な異端審問官になる。
④ オクシタニアの「無冠の帝王」トゥールーズ伯レイモン
 ローマ教皇の不当な圧力やフランス国王の武力から、自らの領地と権威を守るため、神でも何でも「使えるものは使う」マキャベリズムな知略をめぐらすが、根底には信仰に対する迷いがある。ジラルタに惹かれ、エドモンに嫉妬する。

 以上のように、①無条件にカトリックの神を信じる者、②カタリ派に惹かれ世を捨てる者、③カタリ派を憎み排斥する者、④神の存在に確信を抱けない者――というように、神や信仰や生きる意味について異なった考えや立場をもつ4人を登場させ、描き分け、関係を入り組ませ、ぶつけ合う。趣向を凝らした設定が、いやがおうにも興趣をかき立てる。
 
 構成もまた堅牢で重層的で緻密である。
 中世フランスの一時期を活写した骨太の歴史小説(軍記物)としても楽しめるし、『薔薇の名前』を彷彿させる深遠な哲学小説(宗教物)としても興味深いし、敵と味方に分かれてもなお惹かれ合う男と女のラブストーリーとしても読めるし、輪廻転生を隠し味としたスピリチュアルファンタジーの色彩もある。
 佐藤賢一の本を読むのは初めてであるが、たいへん力量ある作家であるのは間違いない。取材や研究で得た膨大な情報をこれだけ上手にまとめあげて、読者にわかりやすく提供する手腕、さすが直木賞作家(受賞作『王妃の離婚』)である。
 
 一方、テーマの掘り下げ方に残念な感も持った。
 物語前半より提示され深い水流のごとく響いてきた哲学的テーマ、つまり、「神とは何か」、「宗教とは何か」、「この世は肯定すべきものか、否定すべきものか」、「カタリ派の誤謬はどこにあるか」、「生きる意味は何か」といった命題が、後半で十分に展開され深められることなく、腰砕けの様相になってしまった。
 ソルティは、たとえば最終章で、カトリックを代表するドミニコ会修道士エドモンと、火あぶりの刑を覚悟したカタリ派の長老たちとの宗教問答のようなものを期待していたのである。が、描写されるカタリ派の長老たちは総じてだらしなく、生や富や組織存続に最後まで未練たらたらといった塩梅で、中には籠城に力を貸してくれた兵士の娘をレイプする腐れ坊主まで登場する。これでは、なぜオクシタニアの人々がカタリ派を信仰したか、なぜジラルダが愛する男と何不自由ない生活を捨ててまで入信したのか、そもそもなぜカタリ派という風変わりな思想を持つ異端が発生する必然があったのか、よく飲み込めない。もうちょっと骨のあるカタリ派にして欲しかった。
 『薔薇の名前』のごとき余韻ある重厚な結末を期待して読み進めていたのが、「幾度生まれ変わっても結ばれる一対の男女(ソウルメイト)の永遠のラブストーリー」みたいなところに落着してしまった。スピリチュアル・ラブストーリーは決して嫌いではないが、それならそれで最初からそのセンをねらって物語を紡いでいけば、もっと感動的で、もっとヒットする小説になったろうと思う。作品前半で一石一石積み上げてきた歴史小説の堂々たる風格が、モンセギュールの砦のようにもろく瓦解してしまった印象を受けた。
 もったいないなあ。

モンセギュール_thumb
カタリ派終焉の地、モンセギュール


 
ときに、カタリ派と正統カトリックの思想上の相違を読んでいると、どうしても小乗仏教と大乗仏教の相違を連想する。
 カタリ派と小乗仏教(テーラワーダ仏教)にはよく似たところがある。
  • この世(現世)の価値に重きを置かず、そこからの解脱を求める。
  • 解脱できなければ、輪廻転生により生まれ変わって、また苦しむことになる。
  • 解脱を阻む欲望を悪いものととらえ、禁欲をすすめる。
 もっとも、唯一絶対神の存在を認めるか否か、魂(=アイデンティティ)の存在を認めるか否か、という点で両者はまったく異なるのであるが、「現世否定」「欲望否定」という点では共通していると思う。(「否定」という言葉が強すぎるなら「嫌悪」でもよいが)
 その思想傾向が、他者の救済よりもまず、「自己の救済、自己の悟り」に向かうのは当然の成り行きであろう。「小乗」と蔑まれたゆえんである。
 
 キリスト教も大乗仏教も、元来は「現世否定、欲望否定」の色を持っていたはずである。が、歴史を経るにしたがって、「現世肯定、欲望肯定」の色を濃くしていき、ついには、片や資本主義のバックボーンとなったプロテスタンティズムを生み、片や現世肯定、性愛賛美の空海密教や修行による悟りを必要としない本覚思想を生んだ。
 洋の東西問わず、人類の本能というか本然というものは、このような“安易な(前向きな?)”方向に流されるものなのだろう。

 なんだかんだ言って、人間はつまるところ動物なので、この世に生きている以上、「種の保存(=性欲)」からは逃れられず、利己的遺伝子による子孫繁栄レースに引きずり込まれてしまう。
 「生きる目的は遺伝形質を後世に伝えることだ」
 「生きる目的はヤルことだ」
 「生きる目的は勝つことだ」
 人間の場合、動物とは違って「自我」という面倒なものがあるので、ただまぐわうだけではすまない。ヤルのにも体裁の立つ言い訳(=物語)が必要だ。性愛を推奨する様々な物語を創り出し、人はそれに進んで洗脳されてしまう。
 「生きる目的は愛することだ」
 「生きる目的は家族を守ることだ」
 「生きる目的はソウルメイトを見つけ、来世でまた会う約束をすることだ」
 その褒美として、自然は人間にほんのいっとき快楽を与えてくれる。
 すると、今度は快楽そのものが目的になる。
 「生きる目的はより多くの快楽を追求することだ」
 だが、快楽は決して持続しないので、結局、苦(=仏教用語でドゥッカ)に引き戻されて、意気消沈する。

 知らないうちに個体に埋め込まれて作動しているこの自動ドゥッカ生産システムから、智慧を育てることによって脱出しよう――というのが仏教であろう。(カタリ派の場合、「悪魔によって、人の魂は苦しみの地上に閉じ込められている。そこから逃れるには禁欲しかない」と説く。そこに智慧が入る隙間はなさそうだ・・・)

 本書の結末では、エドモンとジラルダは宗派を超えた愛を確認し合い、来世での再会を約束する。ジラルダは棄教せず、進んで火あぶりの刑を受ける。性愛の前に宗教は敗北したけれど、輪廻転生の前に現世の快楽は否定された――みたいな、正直よくわからない結末である。




評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 漫画:『ウチの母が宗教にハマりまして。』(藤野美奈子作画)

2013年KKベストセラーズ

 藤野美奈子と言えば、『友子の場合』(小学館)である。
 『ビッグコミックスピリッツ』に連載され、1996年ともさかりえ主演で映画化されたあの青春ギャグマンガには、ずいぶん笑かしてもらった。
 軽妙な絵のタッチ、破天荒なストーリー展開、絶妙なボケ、リアルタイムな「あるある」ネタなど、ソルティの笑いのツボに見事ハマった。
 その後、名前を見かけなかったが、こんなコミックを出していた。

IMG_20200213_165644

 出版社からの依頼を受けて書いたとのことだが、何の因果か、まさに藤野の母親が数十年来、ある宗教にハマっていたのであった。
 本の前半は、熱心な取材をもとに構成した、新宗教のありがちなトラブルエピソードがコミカルに描かれている。勧誘、洗脳、マインドコントロール、莫大な献金、奇天烈な儀式、いかがわしい教祖、独特な会則、怪しげな霊感商法、信者でない家族との摩擦・・・といったたぐいである。
 後半は、藤野の母親が夫の病気をきっかけにある女性霊能者をたずね、彼女の影響を受けて神仏にハマっていった経緯が描かれている。
 やはり、著者の身近な話でノンフィクションの後半が面白い。

 前半だけ読むと、藤野は新宗教を含め宗教全般に否定的なように思われるが、固い信仰に支えられ祈りと感謝のうちに生きてきた母親のことを書いた後半を読むと、宗教の価値をそれなりに認めていることが知られる。
 宗教学者の島田祐巳の監修を得て、バランスの良い楽しい読み物になっている。家族愛の物語としても読めるし、藤野のギャグセンスはいっこうに錆びついていないことがわかって嬉しかった。

 「おわりに」で、藤野はこう記している。
 
世の中には病気や災害以外にも、犯罪の被害で亡くなるなど、とうてい耐えられないような不条理があります。運命や宿命などの言葉では、決して納得できない悲劇に見舞われたとき、多くの人はやっぱり母の言うように、最後の最後には祈るのかもしれません。祈りは、何もかも失い、なす術がなくなった人に、唯一残された「自分でできること」ですから。

 正確に言うなら、こうだろう。
 祈るか、悟るか、自暴自棄になるか――が唯一残された「自分でできること」だ。


評価:★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ほすぴたる記 その後10(事故後70日)

 骨折した左足のむくみがなかなか取れない。
 リハビリスタッフに言われたように、寝るとき足を高くしたり、足を締めつける弾性ストッキングをはいたり、自分でマッサージしたりしているのだが、ケガしていない右足と比べると豚足のよう。

 むくみが引かないと可動域が広がらない。歩行訓練もままならない。松葉杖とお別れできない。社会復帰が遅くなる。遊びにも行けない。
 焦っても仕方ないけれど、なにか良い手立てはないものか?

 そんなとき、当ブログをお読みいただいたツクシさんから、「アーシングしてみては?」というメッセージをいただいた。

  アーシング

 アーシング(Erathing)とは、地面とつながる健康法である。

 多くの電化製品にはアース線が取り付けられている。
 漏電による感電事故を防ぐため、静電気を逃がすため、雷等による高圧がかかるのをセーブして製品の故障を防ぐため、有害な電磁波から身を守るため・・・。
 こうした理由からアース線を地面につないで、電気を逃がすわけである。

 同じ原理で、人の体内に溜まった有害な、あるいは過剰な電磁波を大地に逃がし、代わりに大地のエネルギーを取り入れて、体を整える。

 やり方は簡単。素足を地面につけるだけ。
 (くわしく知りたい人はこちらを)

 考えてみたら、ソルティは月に一度は山登りに行き、森林浴している。週一回は温泉(健康ランド含む)につかる。週2~3回はプールで泳いで汗を流す。
 “気”の良くない場所に行くことの多い都会生活で、身体が命じるままに適度にアーシングし、デトックスしている。
 もちろん、ケガする前の話である。

 昨年12月初旬にケガしてからは、まったくこれらができていない。
 加えて、部屋に引きこもりがちの生活のため、家電やスマホの電磁波浴び放題である。
 相当に帯電している。
 毒素が溜まっているような気がする。
 それがむくみが一向に引かない一因ではなかろうか?


IMG_20200212_163911
 

 そういうわけで、家の近くの、むき出しの土のある公園に出かけた。(これがなかなか少ない)
 陽当たりのいいベンチに座って、包帯とギプスをはずし、素足を地面に乗せた。
 足裏に触れる湿った土の感触が気持ちいい。
 
 タイマーを1時間後にセットして、目を閉じて瞑想する。
 普通なら2月の吹きさらしの戸外で1時間もナマ足さらして座っていられないだろう。
 が、ご承知の通り、異常気象である。
 気温15度超えのぽかぽか陽気は、日向ぼっこにちょうど良い。

 中学生がサッカーボールを蹴る音
 子どもたちのはしゃぎ声
 お母さんたちのお喋り
 春をよろこぶ鳥の声
 遠くの車のクラクション
 小学生の下校を知らせる市内放送
 常緑樹を騒がす風の音

 心が、過去でも未来でもなく、「いま、ここ」に憩う。


IMG_20200212_164554
アーシング開始前

IMG_20200212_164106
一時間後

 上記の写真の通り、むくみは軽減し、両足とも白魚のようにきれいになった。
 アーシングの効果なのか、足が冷えたせいなのか、はっきりとは分からないが。
 数時間後には元に戻ってしまったけれど、実に70日ぶりに身体が整って、その夜はよく眠れた。

 今後も続けていこう。





● 歓喜のイタメシ : 都響スペシャル「第九」

日時  2019年12月23日19時~
会場  東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
出演
 指揮:レオシュ・スワロフスキー
 合唱:二期会合唱団
 ソプラノ:安井陽子
 メゾソプラノ:富岡明子
 テノール:福井敬
 バリトン:甲斐栄次郎

 退院後、松葉杖での初の外出は「第九」であった。
 いや、むしろこの「第九」を聴かんがために、リハビリを頑張り、退院したのであった。

 数日前からコンサートホールのある池袋駅の構内図とにらめっこし、どうやったら駅からホールまで階段やエスカレーターを使わずに到達できるか、検討した。松葉杖でエスカレーターに乗るのは、一見楽そうに見えて、実はとても危険なのである。エレベーターに限る。
 また、開演と終演の時刻、池袋は帰宅ラッシュのピークにあたる。駅構内も列車も混んでいる。乗り降りもたいへんだ。慣れない松葉杖では心もとない。
 当日は劇場近くのホテルに泊まることにした。それなら、早めにチェックインしてホテルで休み、余裕をもって会場入りし、翌日の空いている昼の時間帯に帰宅列車に乗ることができる。ちなみに、自宅の最寄り駅(ここのホームの階段で転落して骨折した)はエレベーターがあるので問題ない。
 ちょっとしたアドベンチャー。
 
 今回初めて知ったのであるが、池袋駅構内から地下道を通って、西口にある東京芸術劇場まで直接行けるルートがある。雨風を避けて劇場入りできるのだ。劇場に入ってしまえば、エレベータを2回乗り換えて、最上階のコンサートホールまでスムーズに行くことができる。
 ただ残念ながら、地下道から劇場に入る箇所(2b出口)に20段ほどの階段があった。その脇に車椅子用のリフトが設置されているが、それを動かすためにはわざわざ警備員を呼ばなければならない。ここだけは頑張ってリハビリで習得した階段昇降テクを披露した(誰に?)。
 
 一か月前に予約した席は、3階席の一番前の通路脇。まるで、ギプスと松葉杖を使うハメになることを予見していたかのような特等席だった。
 普通に歩いて5分もかからない距離にあるホテルから、30分かけて無事客席についた段階で、すでに頭の中に「歓喜の歌」は鳴り響いていた。

池袋駅構内図
複雑さではピカイチの池袋駅構内
 

 今回の指揮者はチェコ出身のスワロフスキー。オケは東京都交響楽団。どちらもはじめて聴く。
 なので、指揮者によるものなのか、それともオケの特徴なのか判別できないのだが、音に丸味があった。
 一つ一つの音が、透明の丸い泡に包まれて空間に放たれる。あたかも、子供の息によって一斉に吹き出される無数のシャボン玉のように。そして、そのシャボン玉には光線の加減で色彩が踊っている。
 前プロも中プロもなしに、いきなり「第九」第一楽章が始まってまず感じたのは、都響の文句つけようのない巧さとともに、鋭角のない温かみある音によって紡ぎだされた、激しくないまろやかなる「第九」であった。
 これはちょっと意外。

 丸い色彩の粒のような音が次々と空間に散りばめられていく様子から連想されたのは、なんと、子供の頃に観たテレビドラマ『気になる嫁さん』であった。愛くるしさいっぱいの榊原るみと、もじゃもじゃ頭の石立鉄男と、「リキ坊ちゃま~」の浦辺粂子が共演した、1970年代初頭の人気ファミリードラマである。
 毎回、オープニングでは爽やかなテーマ曲(大野雄二作曲)をバックに、スタッフや出演者の名前が定石どおりクレジットされる。
 このときの背景映像が点描だった。
 何もない無地の画面に最初の一点が打たれ、そこから次々とさまざまな色合いの点が矢継ぎ早に(早送りで)重ねられていく。最初はなんの絵か分からずに観ていると、テーマ曲が進むにつれて、形を成していき、しまいには花瓶に生けた色とりどりの花であることが判明するのだ。
 子供の頃、このオープニングが面白くてたまらなかった。点描というものがあるのを知ったのも、このドラマのおかげである。
 そう、都響&スワロフスキー&二期会合唱団による「第九」は、第一楽章の出だしの一音から始まって第四楽章のラストの一音で完成する、点描による絵画の創造のように思えたのである。
 では、ソルティの頭の中の画布では、いったいどんな絵が仕上がったのだろうか。


点描


 第一楽章は波打ち際の風景である。どこまでも広がる砂浜、押し寄せては曳いていく波、白く崩れる波頭、遠浅の海の透き通った海底、揺らぐ海草と遊ぶ魚たち、はじける泡、差しいる光。

 第二楽章では潜水艦のように海中に潜り、深海へと分け入っていく。さまざまな海の表情が描かれる。凪の海、時化の海、嵐の海、昼の海、夜の海、無数の生き物を育む母たる海。

 第三楽章の冒頭で、海に沈む夕日が鮮やかに描き出され、視点は海から空へと向かっていく。夕焼けが海水で鎮火されると、空には星々が煌めきはじめる。北極星、天の川、星雲、銀河、ブラックホール、そして広大な宇宙。

 ああ、この先には天があるのだな、この世を離れ、神(Vater)へと向かうのだな、天国への道が描かれるのだな。それでこそ「歓喜の歌」だ。

 と思いきや、第四楽章で4人のソリストと二期会合唱団の圧倒的な歌声で描き出されたのは・・・・
 あの世ではなく、この世であった!
 天界でなく、大地であった! 山であった! 森であった! 畑であった!
 神(Vater)ではなくて、人間(Menschen)であった! 兄弟(Bruder)であった!
 
 もちろんそうだ。
 それでこそ、この絵は完成するのだ。
 海と空と大地が描かれて、地球は完成する。
 人間や生き物が描かれて、世界は完成する。

 歓びはそこにある。
 彼岸ではなく此岸に。
 あの世ではなくこの世に。
 
 歓喜はどこか遠い別の場所、星空の彼方にあるのではない。
 それは「いまここに」あって、あなた自身がそれなのだよ。
 
 完成された絵は、そう伝えているように思われた。

 
IMG_20191223_215748
ホテル近くのイタメシ店で退院後初の外食








 

● 空を飛ぶ夢 映画:『ジュピターズ・ムーン』(コルネル・ムンドルッツォ監督)

2017年ハンガリー、ドイツ
128分

たまに空を飛ぶ夢を見る。
正確には「飛ぶ」というより「浮遊する」に近い。
自分で自分を操縦して好きなように飛べるわけではなく、地面から浮かんだあとは、タンポポの綿毛のように他力によって上下左右に運ばれるのだ。

夢の中で、自己コントロールして鳥のように好き勝手に飛び回りたいと意気込むのだが、そう意識したとたん、体が重くなり落下してしまう。
飛ぶことを意識しないで体の力を抜き、「なにものか」に身をあずけると、また体は浮かび上がる。
最近はそれが分かってきて、その夢が始まると「来たな」と思い、身をあずけるようにする。
空中浮遊の時間が長くなり、高度も高くなってきている。
どこに行くのか、自分?

無重力


SFスピリチュアル社会派映画とでも評すべきこの映画は、まさにその夢の再現である。
主人公のシリア難民の少年は、決死の思いで国境を超える際、警察に撃たれたことをきっかけに、空中浮遊する力を手に入れる。
どうやらそれがタイトルである「ジュピターズ・ムーン」つまり「木星の月」の仕業らしいが、そのあたりは曖昧にぼかされている。

重力を操り空中浮遊する少年と、彼を助けながらも金儲けに利用する男の逃避行を、移民やテロリズムといった社会問題を背景に描いている。

極東の島国にいるとつい「遠い話」に思えてしまうが、英国のEU離脱騒ぎに見るように、移民問題はヨーロッパ各国にとって深刻な政治経済的イシューなのだ。

空中浮遊する少年の姿は、国境を超越する力や希望といったことを象徴しているのかもしれない。


評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『バリの賢者からの教え』(ローラン・グネル著)

2008年原著刊行
2009年二見書房より邦訳発行
2015年文庫化

小池アミイゴのイラスト、ヤマシタツトムのデザインによるウキウキするような楽しい表紙に惹かれて手に取った。

IMG_20191102_211305


フランスでベストセラーになったスピリチュアル本。
著者のローラン・グネルは自己啓発の専門家である。

人生に不全感をかかえる青年教師が、休暇旅行先のバリ島で一人の老治療師と出会い、何度かにわたる対話によって自らを束縛していたいろいろな思い込みに気づき、自由と勇気を手に入れていく過程を描いている。
呪術師ドン・ファンの教えによって新たな世界観に触れて盲を開いていくカルロス・カスタネダの古典的著作を挙げるまでもなく、老賢者との邂逅と再生という物語装置はスピリチュアル業界(あるいは求道業界)の定番である。

中心テーマは、人がいかに「思い込み」に支配されて生きているか、それによっていかに自分自身に制限を設けてしまっているか。
「思い込み」とはすなわち自我である。
賢者の話は、非常にわかりやすく、様々な身の回りの事例や、人を対象にした心理実験(たとえばプラシーボ効果)のエビデンスなども取り上げられているので、説得力がある。
通勤途中にさっと読める手頃さだが、内容はそれなりに深い。

いいですか、あなたは今晩死んでしまうとしましょう。そしてそのことをあなたは一週間前に知ったとします。この一週間にやったことのなかで、もうすぐ死ぬとわかっていてもやっただろうと思うことは何ですか。

賢者の問いかけに、ソルティも思わず、この一週間を振り返った。
少なくとも、3つはあった。
仕事と、家族と過ごす時間と、瞑想と。



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 蒼い時 

「ある朝、蒼を感じた」

――というのは、1980年刊行の山口百恵著『蒼い時』の出だしである。
 三浦友和との結婚が決まり、芸能界引退を間近に控えた頃の心象風景である。
(ソルティは百恵ファンだった)

 最近、家の近くのスポーツクラブに入会した。
 週3回ほど通って、筋トレしたり泳いだりしている。

 昨年末に四国遍路から戻った時から、5キロ太ってしまった。
 いまやってる介護の仕事は、遍路前に勤めていた老人ホームの仕事に比べると肉体的にはまったく楽なので、運動量が全然足りない。
 ほうっておくとブタになる。
 一年間悩まされた五十肩もやっと治癒したので、たるみきった体にカツを入れることにした。

 水の中にいると気分がよい。
 体に蓄積された有害な電磁波が水の中に溶け出していくような気さえする。
 小一時間泳いで、広いお風呂に入ったあとは、心身ともにさっぱりする。
 もっともお手軽な心と体のデトックスである。

 日中どの時間帯でも利用できるのだが、やはりベストは夜である。
 昼は地域の高齢者で混んでいる。
 とりわけ有閑シニアマダムたちの社交場と化している。
 ウォーキング専用の1コースをお喋りしながら何往復もする彼女たちが作るビッグウェイブは、お隣の2コースで泳いでいる人の進路を捻じ曲げてしまう。
 人力の凄さを体感する。

 さすがに夜7時を過ぎると高齢者の姿は減って、一日の仕事を終えた会社員たちが多くなる。
 ソルティはもっと遅く、夜9時頃を狙って行く。
 プールは空いている。
 コースを独り占めできるときもある。
 
 遅くいくもう一つの理由がある。
 ここの施設は夜11時に閉館で、泳げるのは10時半までとなっている。
 その最後の30分間がプレミアムタイム!
 10時になるとプールのメイン照明が消えるのだ。
 残るのは、プール周囲の真綿色の小さな灯りと、プールの水中から照らすライトだけ。
 むろん、ガラス窓の外は闇。
 すると、神秘的なブルーの光が水中から水面、水上に満ちる。
 
 蒼い時———
 
 あのとき百恵ちゃんが感じたのはこんな「蒼」だろうか?
 そんなことを思いながら泳いでいる。


IMG_20190924_192210






 
 
 
   

● 深い・・・ 映画:『運命は踊る』(サミュエル・マオズ監督)

2017年イスラエル、ドイツ、フランス、スイス
112分
ヘブライ語

 サミュエル・マオズ(1962年 - )はイスラエルの映画監督。
 2009年のデビュー作『レバノン』でいきなり第66回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した天才である。本作は長編2作目。

 じっくり丁寧に撮られた映画である。おそらく8割の人は途中で退屈に襲われて眠くなることだろう。イスラエル国防軍の若い兵士4人が、国境近くの寂しい検問所で無為の時を過ごす、間延びした、しかし美しいシーンで。
 しかるに、この“間延び感”があとから効いてくる。
 
 突然の息子の戦死の知らせに慟哭する夫婦。
 だが、それは誤報で同姓同名の別人であった。
 軍の対応に怒り狂った夫は、家人の止めるのも聞かず、息子を家に戻すようごり押しする。
 だが、それが裏目に出てしまう。
 検問所での任を解かれて一時帰宅を命じられた息子は、その帰り道で事故に遭う。

 原題「フォックストロット」は、1910年代はじめにアメリカで流行した社交ダンス。前に2歩、右へ1歩、後ろに2歩、左へ1歩――というステップを踏んでスタート地点に戻って来る。
 この映画の最初に呈示されるフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(1621-1695)の次の格言同様、人があらがうことのできない運命の力の比喩である。
 
 人は運命を避けようとしてとった道で
 しばしば運命に出会う

 
 ちなみに、「すべての道はローマへ通ず」はフォンテーヌのもっとも有名な格言である。
 
 運命とは何なのか?
 それは残酷なのか。
 それとも優しいのか。
 人は自らの運命を知り得るのか。
 そして、それを変えられるのか。
 
 神の真意は測り知れない
 この映画は一種のスピリチュアルミステリーである。
 深い・・・・
 
 
許し


評価:★★★ 

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 最も暗きところ 本:『インフェルノ』(ダン・ブラウン著)

2013年原著刊行
2013年角川書店

 世界的ベストセラー作家の6作目。
 ソルティは、2作目『天使と悪魔』と社会現象になった4作目『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいる。
 「時間を忘れるほど面白いミステリーが読みたい」と思ったときに、かなりの確率で期待に応えてくれる作家である。

IMG_20190903_145904

 
 陰謀、秘密結社、暗号解読、宗教、芸術、科学、隠された財宝、世界的観光名所・・・といった素材が縦横無尽に織り込まれたアドヴェンチャーミステリー。
 ――といったところがダン・ブラウンの世界である。
 ウンベルト・エコーの『薔薇の名前』ほど重厚かつ難解ではないけれど、読み手にそこそこの教養は求められる。スピーディーな展開、ペダントリー(衒学趣味)、どんでん返し、スリルとサスペンス、魅力ある登場人物、ユーモア、意外な結末といった本格ミステリ-要素もしっかり装備し、まさに究極のエンターテインメント小説の感がある。(その代わり、読み終わって半年たてばストーリーをほぼ忘れている)
 
 『インフェルノ』も既読の上記2作に勝るとも劣らない面白さで、上下巻600ページ強を一気に読み上げた。
 物語の舞台が、フィレンツェ、ヴェネツィアというソルティが生涯忘れ得ぬ感動と共に歩いたイタリアの都市であること、謎を解くための暗号がダンテ『神曲』に関わっていること、ウイルスによる感染脅威が物語の根幹を成していること、などもソルティの個人的関心とリンクし、すっかりはまった。
 
 ダンテ『神曲』は高踏で難解と敬遠されがちなのだけれど、なんのことはない、「あの世」の風景を描いた詩なのである。丹波哲郎の諸作と変わらない。
 難しく感じるのは、一つにはこれが日本人には馴染みのないキリスト教世界(西洋)の来世観であること、今一つにはダンテが作品中に当時の社会的事件の犯罪者やダンテ自身の仇敵を多数登場させて地獄に落としたりしている(ダンテもなかなか陰険な御仁である)ので、その事情が分からない読者にしてみれば、「何を言っているのかよく分からない」のである。
 ソルティは、昔『神曲』を読んだとき、これを『神曲・日本版』にアレンジして、キリスト教来世観を仏教来世観(地獄・畜生道・餓鬼道・阿修羅・天界)に変換し、日本で誰もが知っている有名事件の犯罪者を地獄の亡者や畜生や餓鬼の姿にして、それなりの罰と共に登場させれば、絶対に「ウケる」と企んだものである。

ボティチェッリの地獄
『神曲』を題材に描かれたボッティチェッリ「地獄の見取り図」


 ブラウンの他の著作同様、『インフェルノ』もまた荒唐無稽の物語には違いない。だが、真犯人の天才科学者が事件を起こすことになったそもそもの動機の深刻さは決して荒唐無稽ではない。
 それは世界の人口爆発に関わるものなのである。  

 西暦1年頃に約1億人(推定)だった人口は1000年後に約2億人(推定)となり、1900年には約16億5000万人にまで増えた。その後の20世紀、特に第二次世界大戦後における人口の増加は著しく、1950年に25億人を突破すると、50年後の2000年には2倍以上の約61億人にまで爆発的に増えている。
 西暦2038年には90億人を突破、さらに2056年に世界の人口は100億人に達することが見込まれている。(ウィキペディア『人口爆発』より抜粋)

 日本では少子化が社会問題となって久しいけれど、巨視的に見れば、少子化は歓迎すべきものなのだ。
  

 地獄の最も暗きところは、倫理の危機にあっても中立を標榜する者たちのために用意されている。(ダンテ『神曲』より)



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 

● That’s Verdi !! 真夏のレクイエムこうとう2019

IMG_20190820_030202


日時  2019年8月18日(日)15:00~
会場  ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
主催  公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 ティアラこうとう

曲目  ヴェルディ:『レクイエム』
指揮  飯守泰次郎
管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱  ティアラこうとう真夏のレクエム合唱団
独唱  
    ソプラノ:横山恵子
    メゾ・ソプラノ:金子美香
    テノール:望月哲也
    バリトン:大沼徹


 ヴェルディの『レクイエム』ははじめて聴く。もっとも、その一部分――有名な「ディーエス・イレ(怒りの日)」の冒頭――は、映画やテレビなどで頻繁に耳にしていたが。
 むろん、ヴェルディのオペラ以外の曲を聴くのもはじめてである。 

 レクイエム(鎮魂歌)はミサ曲、つまりキリスト教の典礼音楽なので、クリスチャンでないソルティは積極的に聴こうという意欲をこれまで持たなかった。
 今回、たまたま知人からチケットをもらったので、「これも縁」と出かけることになった。そう、3日前に長崎の原爆被害を描いた『この子を残して』を記事に上げたばかりであった。 


フルトヴェングラー 001
ティアラこうとう


 月並みな感想であるが、「やっぱりヴェルディはオペラ作家だなあ~」と思った。
 彼が作ったオペラの名曲の数々——『椿姫』、『イル・トロヴァトーレ』、『アイーダ』、『オテロ』、『仮面舞踏会』ほか——に比べて見劣り、ならぬ聞き劣りすると言いたいわけではない。この『レクイエム』もまた、「しっかりオペラだ!」と言いたいのである。

 つまり、典礼音楽にしてはあまりにドラマティックで、華麗で、面白かった。タイトルを聴かずに耳にしたら、「ノアの箱舟」や「トロイ戦争」あたりを題材にした叙事詩オペラと言われても違和感ない。これがもしラテン語でなくイタリア語で歌われたら、もうイタオペそのものだろう。
 聴く前に持っていた「途中で眠ってしまうかもしれない」という懸念は、まったくの杞憂であった。それくらい迫力満点の、ジェットコースターに乗っているかのようなめくるめく体験であった。

 オケも合唱も言うことない出来栄えであったが、とくに独唱バリトンの大沼徹の声が素晴らしく、聞き惚れた。長身で若々しく清潔感あるルックスも良かった。次は生のオペラで聴いてみたい、見てみたい人である。『トロヴァトーレ』のルーナ伯爵あたりとか。
 
 「死者の安息を願う」というレクイエム本来の役割からすれば、この曲はちと逆ベクトルな感がある。
 現世的で、血の気が多くて、感情に満ち溢れ、気分を昂揚させる。

 That’s Verdi !!

 傑作には間違いない。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


 
 
  

● 本:『続・氷点』(三浦綾子著)

1971年朝日新聞社より刊行
1978年同文庫


 前回の『氷点』同様、夜勤中に読み上げた。

 眠気を吹き飛ばしてくれる抜群の面白さは、物語性に富んでいるゆえである。展開の読めないじれったさと好奇心、大映ドラマ風の錯綜する人間関係と強引なプロット。三浦綾子はなにより物語作家なのだと思う。
 舞台となる北海道の大自然の描写――本州のそれとは画然と違う――も素晴らしい。

流氷


 山口百恵主演「赤いシリーズ」のような大映ドラマにしろ、橋田寿賀子『渡る世間は鬼ばかり』にしろ、人間ドラマを面白くするポイントは次の3つだと思う。

  1. ご都合主義 ・・・ベタな設定、偶然の多発、安直な展開
  2. 衝動的言動 ・・・直情径行な人物、酒や一時的感情(性欲含む)による過ち、若さ
  3. おせっかい ・・・良かれと思って介入し、かえって状況をややこしくする人物(『渡る世間』の京唄子のようなキャラ)

 もともと複雑な人間関係のあるところに、登場人物の衝動的言動や要らぬおせっかいなどで話がこじれていき、感情のもつれが大きくなって、いずれ来る破綻に向かってサスペンスが高まっていく。物語を生み育てていくキーパーソンは、主人公(たとえば泉ピン子)よりもむしろ周囲のトラブルメーカー(東てる美や沢田雅美)である。彼 or 彼女たちがいてくれるから、平凡で退屈な日常に波風立ち、ドラマが生まれる。
 『氷点』、『続・氷点』でも、主人公の辻口陽子は品行方正のヒロインで、その美しさゆえに周囲の男たちの心(と下半身)を騒がしはするけれども、そのままでは面白いドラマにはなり得ない。陽子の母親で自己中心的で思慮の浅い夏江や、陽子の父親違いの弟で短気で妄執的性質をもつ達哉がいるからこそ、物語は動き出す。好人物ぞろいのところにドラマは生まれない。

 一般に人は、大人になると衝動的な言動を抑制することができるようになる。自らの短所や行動のクセを知って、それをコントロールできるようになる。人との関係においても、余計なお世話になることを恐れて、おせっかいや過剰な接近を控えるようになる。相手と適当な距離を置いて付き合うすべを覚える。
 それは確かにトラブルに巻き込まれないコツに違いないのだけれど、「物語」からの退却でもある。大人になると誰しも、日常生活の味気無さや退屈と向き合うことになる。
 そこで人は外に「物語」を求める。他人のドラマを見て、叶えられない欲望を慰め、うっぷんを晴らし、退屈を紛らわす。映画やテレビドラマや芸能界のゴシップなどがもてはやされるゆえんである。


 『続・氷点』は、前作以上に「罪とゆるし」のテーマが色濃く打ち出されている。クリスチャン作家の面目躍如である。
 しかし、物語性の強さが肝心のテーマを後ろに追いやってしまった感を持った。ストーリーが面白すぎて、内省や高尚な思想に浸るモードに入れない。
 大映ドラマに哲学性を求めるのは無理な話であろう。

許し


 さらに言えば、「罪とゆるし」もまた、一つの大きな「物語」には相違ない。その物語に没入することで、人は平凡で退屈な日常から逃避し「リア充」に生きることができる。むなしい人生に意義(たとえ辛いものであっても)を与えることができる。なんたって、バックボーンは聖書である。
 クリスチャンでないソルティにしてみれば、大上段に構えられた「罪とゆるし」テーマよりも、次のような登場人物の何てことない会話に心動かされた。


「陽子くん、生きているって、むなしいわねえ」
 しみじみと辰子がいった。思いがけない言葉に、陽子は体ごと辰子のほうを見た。
「小母さんがむなしいの? 踊りがあって、お友だちがたくさんあって、楽しそうなのに」
「わたしがむなしいなんていったら、おかしい? むろん踊りが生き甲斐のこともあった。だけどね、陽子くん。踊りなんて、花火みたいなものじゃない? どんなに自分ではよく踊れたつもりでも、それは一生に一度っきりで、二度と同じようには踊れないからねえ。そりゃあ、それ以上に踊れることもあるけれど、全然不様になることもあるものよ。こんな、一回一回が花火みたいな踊りだからこそ、その一瞬にかけるということもあるけどさ。でも、やはり、やがては何もかも消えてしまうような、むなしいものじゃないかしら」 


 真の「氷点」は、物語を喪失した無味乾燥の原野にあるんじゃなかろうか。




評価:★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 
  

 

● 映画:『修道士は沈黙する』(ロベルト・アンドー監督)

2016年イタリア、フランス
108分

 原題 LE CONFESSIONI「告解」は、言うまでもなく、罪を告白するキリスト教の儀式。

 風光明媚なドイツの高級リゾートホテルで、G8の財務大臣会議が開催されている。呼びかけ人は、国際通貨基金(IMF)の専務理事で世界経済に君臨するダニエル・ロシェ(=ダニエル・オートゥイユ)。富と権力のみを生き甲斐とする冷徹なエコノミストだ。会議では、ダニエルの主導のもと、国際情勢を大きく左右する、先進国に有利な非人道的経済計画が決議される予定だった。
 事情を知らずゲストの一人として招かれていたロベルト・サルス修道士(=トニ・セルヴィッロ) は、会議前夜にダニエルの自室に呼ばれ、ダニエルから告解の儀式を乞われる。が、正直な罪の告白を拒むダニエルに告解は不可能だった。サルス修道士が退室した後で、ダニエルは自殺する。
 ダニエルの死に驚き、あわてふためき、自国と世界経済への影響に心奪われる各国の要人やエコノミストたち。船頭を失った会議の行く先を危ぶむ彼らは、サルス修道士に前夜の告解の内容を問い詰める。

 ハイブロウな伝統的ヨーロッパ映画の粋が集められた映画である。
 美しい映像、洒落た会話、小難しく哲学的なプロット、クラシックBGM、重厚な役者の演技、見事な建築や庭園や家具調度、地中海の明るい陽射し、淡々と流れる時間・・・。ヴィスコンティやダニエル・シュミットやエリック・ロメールやアンジェイ・ワイダやルイス・ブニュエルといった往年の巨匠達に連ねるような芸術の香気を感じる。
 社会派ミステリーと名は打ってあるが、実際には宗教的風刺映画とでもいった内容である。清貧と祈りに生きるサルス修道士と、富と権力に振り回される政治家やエコノミストたちとの対立を描き、後者を風刺する。

 修道士を演じるトニ・セルヴィッロの存在感たっぷりの滋味深い演技がはんぱない。この演技を味わうために、また一度ではよく分からなかったプロットを再確認するために、早送りなしに2度観てしまった。その甲斐はある。

 エクソシストの流行といい、ヨーロッパは神に回帰し始めているのだろうか。


評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● アルプス一千尺 宝登山(497m)

 丹沢(神奈川県)の山に行く予定で家を出たのだが、山手線池袋駅で人があふれかえっている。転落事故があって列車がストップした模様。
 間もなく動き出したが、新宿方面の列車は何本見送ってもすし詰め状態が続いている。毎回、乗り切れなかった通勤客がホームに残される。とてもとても、大きなリュックを背負って参入する気がしない。
 予定を変更し、西武池袋線で秩父に行くことにした。
 一度お詣りしたかった寶登山神社のある宝登山へ。

● 登山日 2019年6月18日(火)  
● 天気 晴れ、時々曇り
● 行程
12:00 秩父鉄道野上駅
      歩行開始
12:15 萬福寺(長瀞アルプス登山口)
13:15 ナラ沢峠(林道入り)
13:45 山頂
      昼食休憩(60分)      
14:50 寶登山神社奥宮
15:30 寶登山神社
16:15 長瀞駅
      歩行終了
● 標高差  360m
● 所要時間 4時間15分(歩行2時間45分+休憩1時間30分)

DSCN3938
窓の大きな西武鉄道新型車両「特急ラヴュー」

DSCN3937
車窓から望む武甲山

 寶登山神社は宝登山のふもとにあり、最寄りは秩父鉄道長瀞駅である。
 神社の先から山頂へ行くロープウェイが出ていて、如月の頃は山頂近くにあるロウバイ林を見に行く客で賑わっている。むろん、歩いてもいける。
 今回は、一つ隣りの野上駅で降りて、長瀞アルプスと呼ばれる丘陵をたどって宝登山に至るコースを取った。

DSCN3939
野上駅

DSCN3940
長瀞アルプス入口あたりの風景


 秩父巡礼で馴染んだ心休まる里山風景に別れを告げ、萬福寺そばの登山道入口から森に踏み入る。
 雑木林に囲まれたなだらかな上りが続く。
 静かで、歩きやすく、直射日光を木々が遮ってくれる。
 山頂までの道で出会ったのは5人だけだった。
  
DSCN3942
この山は私有地

DSCN3944
ヒノキチオールの薫りが心身を浄化する

DSCN3945
広葉樹と針葉樹が入り混じる


 誰がつけたネーミングなのか知らないが、長瀞アルプスとは随分しょってる。
 俗にアルプス一万尺というが、一尺は 0.3 mなので一万尺は 3,000 mである。実際のアルプスの最大標高はモンブラン 4,810 mだが主要峰の中には 2,000 m級の山もいくつかあるので、平均を取れば一万尺は妥当であろう。ちなみに、アルプスの語源はケルト語の「山(albまたはalp)」、ラテン語の「白(alb)」と言われ、「氷雪に覆われた白い山」という意味だそうである。
 長瀞アルプスの最高峰はむろん宝登山で 497 m。計算すると、1,657尺になる。丘陵全体では平均1,000尺くらいだろうか。本物の10分の1である。


DSCN3947
ナラ沢峠(林道に入る)

DSCN3948
山頂への入口

DSCN3949


 歩き始めて2時間弱で山頂到着。
 最後の上り階段はやや息が切れた。が、それ以外は鼻歌まじりに歩けるような山道、というより森の道であった。予定していた丹沢の山(700m台)に比べたら、ちょっと楽し過ぎたかな。
 まあ出発が遅れたので、ちょうど良かった。
 駅から駅へのルートなので、時間に追われず、ゆっくりと自然との気の交感ができたし、なにより山頂からの眺めがこれほど素晴らしいとは思わなかった。

DSCN3950
広々した山頂

DSCN3952


IMG_20190619_054259


DSCN3951


DSCN3953
武甲山と秩父市街

DSCN3956
寶登山神社奥宮


 寶登山神社は、社伝によれば景行天皇41年(111年)、日本武尊により創祀されたと言われている。秩父神社三峯神社とともに秩父三社の一社である。ソルティは、これで3つとも制覇したことになる。
 本殿は明治初期に建てられたもので、平成22年に改修工事が行われた。中国の有名な故事を描いた壮麗で色あざやかな彫刻が見事である。日光東照宮や熊谷の妻沼聖天を連想した。 
 緑濃い清らかな境内で、しばし瞑想。

DSCN3957


DSCN3959


DSCN3960
長瀞駅と社を結ぶ参道。振り返れば宝登山


 帰りは秩父鉄道で寄居駅に出て、東武東上線に乗り換える。
 小川駅で途中下車し、温泉と生ビールで疲れを癒した。


DSCN3965
おがわ温泉 花和楽の湯

DSCN3966


 やっぱり秩父はいいなあ~。
 

  
 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文