ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● リトリート in 秩父 

 昨年末、3日間ほど秩父でリトリートした。
 日常圏を離れた自然の中で、ひとり静かに過ごす時間を持ちたかった。
 実家暮らしではなかなかできない食事コントロールや瞑想三昧をし、働いているとなかなか避けられないテレビや新聞やスマホによる情報の奔流から逃れたかった。
 足のケガのリハビリを兼ねた長距離ウォーキングもしたかった。
 なにより、コロナで騒がしい世間からいったん距離を置きたかった。

 一日のスケジュールは以下の通り。
05:00  起床
    読経と瞑想
07:00 散歩(秩父神社に参詣)
    朝食
09:00 瞑想
12:00 ストレッチヨガ
    昼食
13:00 散歩
16:00 入浴、休息
18:00 瞑想
22:00 就寝

 一日に4時間のウォーキングと最低9時間の瞑想。
 夕食は抜く。
 禁酒、禁欲、禁ネット、原則無言行(買い物時はのぞく)。
 もちろん、テレビ・ラジオ・電話・メール・読書は OFF。
 コロナが来る前までは、もっと長期間の、もっとタイトなスケジュールの瞑想会に年1回は参加していた。
 このくらいは序の口である。
 
 秩父を選んだのは、
  • 県内移動で済む
  • 広々として気持ちよく、山々に囲まれ自然豊かである
  • 神社仏閣がたくさんあってスピリチュアルな気に満ちている
  • この時期は観光客が少ない
  • 秩父34ヵ所札所巡礼で勝手知ったる町である
  • 温泉がある
 秩父鉄道・秩父駅の近くに宿をとった。
 秩父神社にも荒川にもほど近く、買い物にも便利で、静かで、ロケーションは抜群である。

 3日間ともよく晴れて、日中は風もなく暖かかった。
 午後の散歩では汗ばみ、上着を脱いだくらい。
 大方、巡礼路となっている荒川沿いの山辺の道を歩いた。
 マスクを外して歩くだけでストレス解消となった。

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秩父では“巴川”の異名を持つ荒川


 散歩途中に出会った秩父の風景をご紹介。

● 武甲山ポートレート
 秩父の町のどこからでも見えるのが武甲山。
 削られた山肌はなんとも痛々しく哀しいけれど、土地と人々の暮らしを見守る雄々しさは太古の昔から変わらない。

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23番音楽寺のある丘から

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巴橋に重ねて

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25番久昌寺への道中

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秩父公園橋に重ねて


● スピリチュアル秩父
 秩父神社のほか、34札所のうち13番~25番のお寺を巡った。
 参拝するほどに、この土地との縁が強くなっていくのを感じる。
 いっそ移住しようかな・・・・。
 いや、寒さに弱いソルティだった。


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秩父神社

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本殿の東側に左甚五郎作の“つなぎの龍”がある

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先ごろ修復されたばかりで非常に色鮮やか
鎖につながれて、悪戯できないことからこう呼ばれる

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25番久昌寺の池
山蔭になった部分は終日凍結している

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19番龍石寺
水成岩の上に立ち、四国札所14番常楽寺を思い出させる

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14番今宮坊近くの今宮神社
前回来たときは本殿がなかった

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樹齢1000年の大ケヤキ


● 街角小景
 秩父は地盤が固く地震が少ない。
 大震災の被害を受けず、戦災にも遭わなかった。
 昭和レトロな街並み、家並みが今も残っており、懐かしい。

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銭湯・たから湯
昭和11年創業、現在も営業している

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カフェ・パリー
昭和2年建築の店舗兼用住宅
登録有形文化財に指定されている


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地域の病院の入口に置かれた鉄製オブジェ
中世代レトロ

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トリケラトプス

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ブラキオサウルスか?

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巡礼路で見かけた直売所

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スーパーの商品に比べると、見た目は悪いがパワー抜群!


● 蕎麦どころ
 秩父は四方を山々に囲まれた盆地で、土地が痩せているため、稲作には向かなかった
 そこで、古くから養蚕と共に、蕎麦の栽培が盛んであった。
 昼夜の寒暖差が大きいこと、荒川上流のきれいな水に恵まれていることも、蕎麦づくりに適しているのだ。

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1,2を争う人気店「わへいそば」
いつ前を通っても駐車場はいっぱい、店の外に人が並んでいた

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秩父橋のそばにある「ささいち」
一昨年巡礼したときから気になっていた店

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期待通り旨かった!
麺はつるつるして、歯ごたえも喉ごしもGOOD
天ぷらは外はカラッとサクサク、中はジューシーでホクホク


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窓から見た景色も素晴らしい
知る人ぞ知る名店だ


 3日間のリトリートを終え、心身とも大分すっきりした。
 骨折以来、座禅を組むのが難しくなっていたが、1時間までならなんとか組めるようになった。
 とくだん瞑想に進歩があったというわけではないが、心を過去や未来にさまよわせずに「いま、ここ」に落ち着かせていると、コロナ禍のいまでも感謝できることはたくさんあると気づいた。
  • ごはんがあること、自力で食べられること
  • 歩けること
  • まずまず健康なこと
  • リトリートできる時間と金銭的余裕があること
  • 家族が健康でいること
  • 仕事があること
  • ひとりでいられること
  • 自然を楽しめること
  • 仏教と巡り合ったこと
  • 日本が平和なこと
 どれか一つでも欠けていたら、このような時間は持てなかった。
 コロナ禍と心の幸福度はまったく関係ないのだ。

 最終日に宿をチェックアウトしたあと、西武秩父駅にある「祭りの湯」でくつろいだ。

 ビバ、秩父!
 

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● 妖怪大協定 本&絵:『水木しげるのラバウル戦記』

1994年筑摩書房
1997年ちくま文庫
 
 敗戦後ラバウルから帰還した水木しげるが、主として昭和24~26年頃に記憶を頼りに描いた絵に、文章を添えた従軍記である。


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 なによりもまず、水木しげるの映像記憶の凄さに感心する。
 まるで、目の前の光景をその場で素描しているかのような生々しさ、臨場感がある。
 頭のなかにシャッターがついているかのよう。
 やっぱり天性の絵描きなんだなあ~。
 
 次に思うのは、軍隊のキチガイぶりである。
 ビンタをはじめとする上官の日常的暴力、無意味な労働、無駄な行軍
 水木がラバウルに派遣された昭和18年末はすでに日本の敗色濃厚だったので、戦地には自暴自棄の空気が漂っていたとは思う。
 が、それにしても頭の悪い・・・・。

 ソルティの高校時代の部活動(軟式テニス部だった)を振り返ってもそうだが、つい最近まで、日本のスポーツ界というのは疑似軍隊であった。
 先輩・OBの命令は絶対で、意味のないシゴキが付き物で、どんな炎天下であろうが運動中に休憩をとらせず、水も飲ませない。
 そうやって精神を鍛えることが選手の身心を強くし勝利を導く、とマジで考えられていたのである。
 科学的かつ合理的精神にもとづき、エビデンスを元に効率的に選手を育成するという視点に欠けていた。
 「神風特攻精神」に象徴される頭の悪さが、日本の敗戦の主因であろう。

 が、頭の悪いのは日本に限ったことではない。
 日米は、ラバウルほか太平洋の島々で熾烈な殺戮合戦を繰り返すが、はた迷惑なのは現地の住民たちである。
 家や畑を焼かれ、食べ物を盗まれ、強制徴用され、銃撃や空爆の脅威にさらされ・・・・・。
 文明国を気取っている日本やアメリカが、文明は持たなくとも素朴に平和に暮らしている人々(水木しげるは敬愛の意を込めて彼らを“土人”と呼んでいる)を虐げる。

 彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしたりしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。
 まァ優雅な生活というやつだろうが、自然のままの生活というのだろうか。

 土人は“満足をする”ということを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意を払っている。

 我々文明国の人間は、金や土地や資源や栄誉や安全など欲しいものを手に入れ満足するために戦争するわけだが、文明国でない人々は最初から満足を手に入れている
 文明とはいったいなんだろう?

 もう一つ思ったのは、水木しげるのタフさ、大らかさ、運の良さである。
 若かった(当時23、4歳)こともあろうが、上官からの度重なるビンタをものともせず、初めて足を踏み入れた南の島の自然や動植物や昆虫や食べ物に多大なる好奇心を持ち、楽しんでいる。
 兵営近くの部落の土人たちとすぐ仲良くなって、終戦時には「畑をやるからこのまま島に残ってほしい」と彼らに哀願されるほどの関係を築いている。
 一体に先入観を持たない大らかさがある。

 水木が夜の見張りのために小屋を離れた時に、攻撃を受けた部隊は全滅する。
 その後も、一人ジャングルの中を命からがら逃走し、最後は爆撃によって左腕を失う不運に遭ったものの、九死に一生を得る。
 いや、左腕を無くし野戦病院に送られたがゆえに、命ばかりは助かったのだ。
 そのまま最前線に残っていたら、生きて日本に帰れなかった可能性が高い。

 水木しげるがラバウルで死んでたら、鬼太郎や河童の三平は生まれなかった。
 目玉おやじもねずみ男も猫娘も生まれなかった。
 きっと、荒俣宏も京極夏彦も『妖怪ウォッチ』も生まれなかった。

 水木しげるは、日本とラバウルの妖怪たちの協定により守られたに違いない。

ダイダラボッチ


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 本:『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著)

1854年刊行
1998年宝島社文庫(真崎義博訳)

 Bライフ修験道に関する本を読むなど、最近、“森(山)の生活”への憧れが募っているソルティである。 
 と来れば、むろん、この古典を手にするのも時間の問題であった。

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 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)は、1845年に故郷マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送った。その回想録が『ウォールデン 森の生活』である。 
 本書は、自然の中での自給自足のBライフを夢みる人々の、持続可能性ある社会を唱えロハスを実践する人々の、そして騒々しい都会やせわしない日常やメンドクサイ人間関係から離脱したい人々の、バイブルである。
 ただし、ソロー自身は、人生や生活から逃避するつもりで森へ入ったのではなかった。
 こう言っている。

ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。生活といえない人生など生きたくなかった。


 なるべく人工的なものを排した根源的な生活、文字通り“地に足の着いた”生活を送りたかったのである。
 当然、電気はない。水道もない。暖房は薪ストーブ。森の動物を狩り、湖の魚を獲り、小さな畑で豆やトウモロコシやジャガイモをつくり、村人に売って最低限必要な日常品を購入する。
 静寂と孤独とありあまる時間の中に身をおいて、いろいろなことを思索し、文を書く。
 そんな生活を2年以上送ったのである。

ソローの小屋の絵
妹ソフィアが描いたソローの小屋


 森の生活の中から生まれたソローの思想が書き留められている前半が面白い。
 後半は、森の生活の情景描写(自然や動物の観察など)が中心で、読み物としてはやや退屈である。

 心を打ったソローの言葉をいくつか引用する。

 世間の評判というものは、ぼくら自身の個人的な意見にくらべたら、ひ弱な暴君だ。人の運命を決めるもの、いやむしろそれを示すもの、それは自分が自分をどう思っているかということだ。

 自分の生活に敬意を払い、変化の可能性を拒否して生きてゆくことを、ぼくらは徹底的に心の底から強要されているのだ。これが唯一のやり方さ、とぼくらは言う。けれど、じっさいは、ひとつの円の中心から無数の半径がとれるように、無数のやり方があるのだ。あらゆる変化は見る目には奇蹟だけれど、それは刻一刻と起きている奇蹟なのだ。

 ぼくらは、いったい何にいちばん近く住みたいと思っているのだろう? 食料品店とか、ビーコン・ヒルとか、いちばん人が集まるファイヴ・ポインツなどではなく、生命の永遠の源の近くだろう。そこは、ちょうど水のそばにあるヤナギの木がその方向に根をのばすのと同じように、ぼくらの経験から、生命がそこから流れ出すということを知った場所なのだ。

 自分の生活を簡素にするにつれ、宇宙の法則から複雑さが消えてゆき、孤独が孤独でなく、貧しさが貧しさでなく、弱さが弱さでなくなるだろう。

 なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死に企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別のドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんな遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。
 

 2年2か月の森の生活を経て、ソローは社会に帰還する。
 こう言っている。

 ぼくは、森へ入ったのと同じように、それなりの理由があって森をあとにした。たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費やすことができなかったからだと思う。

 
 その後は特に定職に就くこともなく、様々な賃仕事をしながら、執筆や講演や奴隷解放運動に携わった。
 ソローは、世捨て人でも、隠者でも、ひきこもりでもなかった。
 その点は誤解してはなるまい。


森の中の池
注:ウォールデン湖ではありません


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 檀家山 本:『修験道という生き方』(宮城泰年、田中利典、内山節共著)

2019年新潮社

 自分の前世の一つは修験者(山伏)であったと思う。
 山歩きが好きで、仏教が好きで、秩父を巡礼し、四国を遍路し、孤独が苦にならない。
 一方で、修験道と言えば、比叡山の千日回峰行に代表される苦行の世界であるが、ソルティは苦行が好きでない。ナンセンスとさえ思っている。
 四国を歩き通したと言うと、「苦行好き」のイメージで見られることもあるが、現代の四国遍路は、フィールドアスレチック+オリエンテーリング+生身の自分が主人公となるロールプレイングゲーム+観光旅行のようなものである。そこに宗教的要素が加わりはするが、苦行とはまったく思わなかった。(苦行にならないレベルで歩いた、というべきか)
 おそらく、前世は軟弱で中途半端な修験者だったのだろう。

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 本書は、修験界を代表する二人の高僧(宮城泰年、田中利典)と、西洋哲学を専門とする内山節による鼎談をメインとしている。序章として、内山が修験道の概要を歴史に沿って解説している。
 仏教用語など専門的な部分もあるが、概して庶民の日常生活に接続する具体的なレベルの話題が多く、本書で修験の世界にはじめて触れる者にとっても、読みやすくわかりやすいものとなっている。
 というより、「庶民の日常生活に接続する具体性」こそが、修験道の肝であることが明らかにされている。

 山伏に象徴される修験者は、現代人の目から見れば、日常から遠く離れた特殊の世界の人というイメージであるが、明治初期に「神仏分離令」に次いで「修験道廃止令」が出されるまでは、すなわち江戸時代までは、修験者は里にあって様々な役割を担いながら庶民の日常生活に溶け込んでいる点景の一つだったのである。(蘆屋道満などの陰陽師もまたその仲間であろう)
 修験道廃止令で失職した修験者は17万人もいたという。(当時の日本の人口は約3千万人台)

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 修験道とはなにか?

 修験道は古来の自然信仰を受け継ぎ、それが道教の「無為自然」(おのずからのままに=自然のままに生きる)思想とも融合しながら、大乗仏教の思想をも取り込んでいくかたちで成立した。

 その開祖は役小角(634~ )というのが通例である。
 が、役小角は書き物を残していないし、親鸞における唯円『歎異抄』のように、師の言葉を書き留めた弟子もいなかったので、役小角の思想なり修験道の理念なりというのは実はよくわからない。あってないようなものである。

 修験道は山での修業がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。知で生きる人間から身体で生きる人間へと自己を変えながら、身体と自然の一体化を得て自然的人間として生まれ変わることをめざした信仰だといってもよい。

 おそらくははるか昔から存在した自然信仰や人々の願いを集約し、仏教を取り込みながらひとつの型を創りだしたのが役小角だったのだろう。あるいはすでに各地で活動していた山岳信仰の行者たちに、ひとつの方向性を示したのが役小角だったと考えたほうがよいのかもしれない。
 
 自然信仰(アニミズム)が基盤となっているという点で、修験道はもっとも古い日本人の宗教と言える。太古から今日まで日本人の心の深層に脈々と流れ、いきづいているエッセンスである。(神道との関係について、本書ではなぜか触れられていない)
 それは、哲学とか思想とかというものではなく、日本という風土に生き、自然とともに暮らす人々の血の中を流れる“性分”のようなものだろう。がゆえの「身体性」である。
 また一方、仏教=大乗仏教を取り込みながら発展したというところにも特徴がある。
 仏教伝来以降、役小角、行基、景戒、空也をはじめとする、いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれ諸国を流浪する行者たちによって、官の仏教とは別のカタチで仏教が庶民に広まっていったわけであるが、それは各地でもとからあった民間信仰と融合していく。
 修験道は、主として山岳信仰と融合した民衆仏教の一形態なのである。
 風土仏教とでも言うべきか。

 『オオカミの護符』で書かれていた武蔵御嶽山や秩父三峰山への信仰(講)はまさにその表れであり、つい最近まで修験道が庶民に根付いていたことを知らしめるものである。
 ある意味、これこそが日本人の多く(=庶民)が古来なじんできた宗教――宗教とは意識しないほどに血肉化した――なのかもしれない。
 昨今、パワースポットブームも手伝ってか、修験道に関心を寄せる人が増えているそうである。

 日本列島に暮らした人たちが、もしかすると縄文時代以来、気の遠くなるような長い歴史の中で帰属してきたのは何かというとそれは風土という言葉に集約されると思うのです。自然とともに人々が、自然との独特な関係をつくりながら、社会システムや文化をつくりだしていった。そうやってできあがっていった風土に人々は長いあいだ帰属してきたのですが、それが明治からのわずか百五十年、あるいは戦後の七十数年のあいだに壊れていった。
 ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。そこから、自分たちは何を忘れてしまったのだろうという空洞感のようなものが広がってきた。ですので、自分は何に帰属して生きていったらよいのかをみつけ直そうという思いが、今日では広がりはじめていると思うのです。企業のような皮相的で幻想でしかない帰属先ではなく、本質的な帰属先です。そういった思いを抱きはじめたとき、自然がつくり出した風土とか、その風土と寄り添っていた人々の側の信仰が視野に入ってきたのではないでしょうか。
 
 確かに、自分が山登りを好むのは、山に包まれて、そこに自分が帰属しているという安心感が得られるからかもしれない。
 檀家寺を持つより、檀家山を持つほうが、自分の性に合っている。
 高尾山こそ、ソルティの檀家山なのかも・・・・。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 科白が入っていない!    


 舞台の本番を数日後に控えているのに、自分の役の科白を全然覚えていない。
 これからどう頑張っても覚えきれない。
 いったい自分は何をボケっとしていたのだろう?
 
 ―――という夢をたまに見る。
 悪夢というほどではない。
 にっちもさっちもいかない困った状態のまま目が覚めて、「ああ、夢でよかった」とホッと一安心する、というほどのこともない。
 ちょっと、心がざわついて、しばらくすると夢を見たことも忘れてしまう。
 
 似たような夢で、試験が近い夢や試験を受けている夢を見るという人がいる。
 学生時代の延長のようなストレスフルな夢だ。
 ソルティはこちらは見たことがない。
 どういうわけか決まって舞台がかかわっている。
 
 実際、ほんの少しの間だが芝居をやっていたことも過去にあり、そのせいかとも思うのだが、やっていた時は科白を覚えきれないとか、科白を忘れたという経験はなかった。
 トラウマになるほどの悲惨な失敗もしなかった。
 ステージフライト(舞台恐怖)に苦しんだこともなかった。
 
 いつからこの夢を見始めたのか覚えていないのだが、最初のうちは幕が開くのは2~3日後という設定だった。
 がむしゃらに覚えようとすれば間に合わないこともない気がする。
 もっとも、どんな内容の芝居なのか、どんな役を振り当てられているのか、どのくらいの量の科白があるのかまでは、はっきりした設定ができていないのだが。
 ただ夢の中では、「いまから覚えるのは到底無理」と半ば諦めている。
 
 そのうち、だんだんと幕開きまでの期間が短縮されてきて、「明日が本番」という設定がしばらく続いた。
 それがさらに短縮されて、「数時間後に本番」となった。
 だんだん追い詰められていく。
 ついには、「本番直前の楽屋」で扮装も化粧も済んで、幕開きを他の役者たちと待っているところになった。
 ソルティが全然科白を覚えていないことを他の役者たちは知りもせず、それぞれ自分の科白や動きを確認している。
 自分の中では「困ったことになった」と思っているのに、「いまのうち、みんなに告白しておかなければ・・・」とは考えていないあたりが不誠実きわまりない(笑)。
 
 先日、夢の中で気づいたら、ついに舞台上にいた。
 本番最中である。
 数名の役者と一緒に舞台にいて、観客の視線を浴びている。
 戸外のシーンのようで、草や木の大道具に囲まれている。
 周りの役者たちが流れるようなよどみなさで、代わる代わる科白を口にする。
 何を言っているのかはわからないものの、ソルティは「なかなか、上手いものだ」と感心している。
 なんとなくシェークスピアを思わせる科白回しだ。
 と、科白が切れた。
 舞台上を沈黙が支配する。

 ・・・・・

 それは芝居の「間」ではなく、明らかに「途切れ」と分かる不自然な沈黙。
 誰かが科白を忘れているらしい。
 役者間に緊張が走る。

 ・・・・・・・・

 瞬間、「あっ、ここは自分の科白なんだ」と理解する。
 が、むろん何をしゃべっていいのか見当もつかない。
 筋が分からないのでアドリブすらきかない。
 沈黙が続く。

 ・・・・・・・・・・
 
 しばらくすると、舞台袖に控えていた他の役者がその沈黙の理由に気づいたらしく、出番ではないのに舞台に登場して、適当な科白をその場ででっちあげて、事態をうまく回収してくれた。
 そこで夢は終わった。

 これでこの夢は終わるのか、この先があるのか。

 
黒子
 黒子がいれば問題ないのでは?
 

P.S. そうそう、肝心なことを書くのを忘れていた。この芝居の台本を書いたのはソルティ自身なのであった。自分の書いたものを忘れているのだ。






● 本:『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(著者:ハニー・エルゼイニ&キャサリン・ディーズ)

2007年原著
2008年学習研究社より邦訳発行(田中真知訳)

 「転生者」で「オンム・セティ」で「古代エジプト」!
 これでもかというくらいにオカルティックなワード炸裂で怪しさフンプン。
 表紙もまた来てる。
 ピラミッドに、オベリスクに、古代ファラオ(アクエンアテン)の像に、ジプシーっぽい風貌の老婆の写真。
 スピリチュアル好きのソルティもさすがに手を出しかねるベタさ。
 図書館のスピリチュアル本コーナーで見かけていたのだが、これまで敬遠していた。


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 先日、酷暑で朦朧としていたためか、あるいはなにかのお告げか、手に取ってよくよく見ると、副題にこうあった。
 「3000年前の記憶をもった考古学者がいた!」
 ただのスピリチュアル本ではなくて、実在したプロのエジプト学者の伝記だったのである!
 彼女の名前がオンム・セティ(1904-1981)
 知らなかった。

 なぜ考古学者の伝記がスピリチュアル本コーナーにあるかと言えば、実際に彼女が3000年前の古代エジプトの記憶をもつ転生者だったからである。
 少なくとも本人はそれを確信していたし、彼女のもっとも親しい友人であり生前の彼女から日記を託されていた著者のハニー・エル・ゼイニも、それを前提に本書を書いている。

 オンム・セティとは誰か?

 おもての顔は、英国に生まれ育ったイギリス人女性であり、しっかりと訓練され知識と技術を身につけた一流の考古学者であり、観光客にすぐれて人気あるエジプト遺跡の案内者であり、エジプト人と結婚し一児の母となるも離婚し、その後は亡くなるまで独身を通した一女性である。
 奇抜で型破りなところはあるものの、生まれついての意志の強さと率直さ、強い正義感と行動力、考古学者に必須な飽くなき好奇心と想像力と熱意とを兼ね備えた類まれなる人物である。

 うらの顔――生前の彼女が著者以外の人間に秘して語らず、この書が出るまで世間に隠されていたもう一つの顔が、古代エジプトの神殿に仕えた巫女の生まれ変わりであり、時のファラオ(王)セティ一世の愛人。しかも、夜ごとに、3000年前からよみがえったセティ一世の霊(?)の訪問を受けていた神秘体験の持ち主だったのである。
 なんと面白い!

 本書の読みどころは三つある。

 一つは、オンム・セティ(本名ドロシー・ルイーズ・イーディー)の波乱に満ちた不思議な生涯、破天荒で純粋で情熱たっぷりな人柄に触れること。
 世間体や常識にとらわれず、自らの信じるところ、感じるところにあくまでも忠実に生きるその姿は、読む者に勇気を与えてくれよう。

 一つは、スピリチュアル的興味。
 ドロシーが自らが古代エジプトの巫女の生まれ変わりと知ることになったいきさつや、彼女の身の回りに起こる神秘体験の数々、夜ごとのセティ一世との官能的な交流の様子、動物(コブラやサソリさえも!)と意志疎通したり、古代エジプトの魔術を用いて病人を癒す異能ぶりなどにワクワクする。

 最後の一つは、オンム・セティの専門領域である古代エジプト文明に関わる様々な謎、とくに彼女の魂の故郷であるセティ一世神殿をめぐる謎に迫ること。
 それも、現代考古学の科学的な手段によるだけでなく、彼女の前世の記憶やセティ一世の霊を通して伝えられた情報という、学会がまともに取り上げるをよしとしないリソースをもとに迫る。
(オンム・セティが生前その存在を予言していた遺跡が、彼女の亡くなった後に発見され、存在が確かめられている)

 あるいはいま一つ、「3000年の時を超えて結ばれた真実の愛」といったハーレクインロマンス的な(『王家の紋章』的な?)読み方もありかもしれない。 
 
 いずれにせよ、この物語は映画になったら絶対に面白かろう。
 古代エジプトと、20世紀の英国とエジプトとの、二つの時代をヒロインがいったり来たりする。
 彼女はもう一人のドロシーなのだ。

エメラルド宮殿
エメラルド宮殿@「オズの魔法使い」



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ハレルヤ! 本:『大聖堂』(ケン・フォレット著)

1989年原著
1991年新潮社より邦訳発行
2005年ソフトバンク文庫

 分厚い文庫3冊の長編。
 借りたはいいが、なかなか読み始める決心がつかなかった。
 読み始めても物語世界に入り込むまで、時間がかかった。
 2巻目に入ってからは、ぐんぐん進んだ。
 若い頃はすぐに入り込めたのになあ~。

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 邦題どおり12世紀イングランドを舞台にした大聖堂建築をめぐる人間ドラマである。
 原題 The Pillars of the Earth 「地の柱」も大聖堂の意であろう。
 だが、話のスケールは大聖堂周辺にとどまらず、中世イングランドの一時期を描いた滔々たる大河ドラマ、群像ドラマといった趣きがある。
 2010年にリドリー・スコット総指揮により全8話のテレビドラマとして制作され、日本でも『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』のタイトルで2011年に放映された。DVD化されているようだ。

 ストリーテリングの巧みさ、善人か悪人かはっきりした魅力あるキャラクターたち、喜怒哀楽たっぷりの人間ドラマ、勧善懲悪の結末といったあたりが、お国の文豪チャールズ・ディッケンズを彷彿とさせる。
 フォレットはデビュー作『針の眼』以来、ベストセラーを連発しているらしいので、すでにディッケンズ同様の国民的作家と言ってよいのかもしれない。
 ソルティはこれが初フォレットであり、本作だけで判断するのは早計かもしれないが、ディッケンズにあってフォレットにないものは、ユーモアであろう。
 ユーモアがあれば、もっとスムーズに入り込めたと思う。
 逆に、フォレットにあってディッケンズにないものは、エロ描写である。これは時代的制約で仕方ないところであるが。

 著者あとがきによれば、フォレットはこれを書くにあたり、相当入念な勉強と取材をしたらしい。
 その甲斐あって、中世イングランドの様子が、実に生々しく、リアリティ豊かに描き出されている。
 話の核となる大聖堂建築の詳細はむろんのこと、修道院の日常、庶民の生活や労働のありさま、市(いち)を中心とする経済、王位をめぐる混沌とした争い、火器のない時代の戦の模様、教会政治の権謀術数・・・・。
 聖堂の構造について説明されても、残念ながら日本人で建築シロートのソルティにはほとんど理解できないが――聖堂の構造を各部の名称とともに記した図面を載せてくれたらいいのに!――それ以外については興味を持って読むことができた。


大聖堂


 思うに、中世ヨーロッパ社会の顕著な特徴を2語でまとめるなら、「暴力と信仰」ということになるのではなかろうか。
 これは、「俗と聖」、あるいは「政治と宗教」、あるいは「城壁と聖堂」、あるいは「地上と天上」、あるいは「現実と理想」と言い換えてもいい。
 この小説では、前項のダークサイドを代表するキャラとして、代々の国王や野心家のウォールラン司教や悪徳貴族ウィリアムなどが配され、後者の光の勢力を代表するキャラとして、フィリップ修道院長をはじめとする修道士たちが配される。
 敬虔で意志強固で慈悲深く不屈の精神を持つフィリップは、世俗の暴力に幾たびも襲われる。修道院の領する町を焼かれ、町民を虐殺され、市をつぶされ、石材や職人を不当に奪われ、そのたび聖堂建立のピンチにさらされて、いったんは絶望の淵に追いやられる。
 が、信仰と忍耐と粘り強さ、それに持って生まれた知恵によって不死鳥のごとく蘇る。
 このヘラクレスのような、一休さんのような、難題解決エピソードが、この物語の一つの面白さとなっているのは間違いない。読み手は、フィリップが頓智を駆使して難題を解決し、窮地を脱出するたびに、心の中で喝采を送ることになる。
 
 ラストは勧善懲悪で、フィリップは最後にして最大の逆境を、文字通り奇跡のごとく乗り超えて、世俗勢力を圧倒する。
 なんと、フィリップがイングランド国王を鞭打つシーンで終わるのだ!
 信仰の暴力に対する、宗教の政治に対する、理想の現実に対する、聖の俗に対する勝利を表している。
 ハレルヤ!

復活の光
 
 
 しかるに、十字軍のイスラム侵攻や異端カタリ派虐殺の例を挙げるまでもなく、実際のところ、宗教こそは、教会勢力こそは、巨大なる暴力装置だった。政治と宗教は、「俗 v.s. 聖」の形で対立していたのではなく、俗世間の覇権をめぐって対立していたのが実情である。
 フィリップの敵は教会外部にだけでなく、教会内部にこそいた。ウォールラン司教や副修道院長リミジアスが恰好の例である。
 この世では、ダークサイドの力が圧倒的に強く、フィリップの求める正義や慈悲や理想は負け続ける。
 フィリップの闘いは実に孤独なものだったのである。
 
 これはぜひともDVDを観たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 晴明と道満 本 : 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(沖浦和光著)

 2004年岩波書店

 コミック『陰陽師』のあまりに現実離れした展開にシラけた反動からか、陰陽師の実像について調べたくなった。
 恰好の本があった。

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 沖浦和光は大阪生まれの研究者で、比較文化論や社会思想史を専門としている。
 三國連太郎との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)や、当ブログでも紹介した『辺界の輝き 日本文化の深層をゆく』(こちらは五木寛之との対談、ちくま文庫)など、日本文化の周縁あるいは底辺に生き、様々な差別を受けてきた賤民について、長年調査研究し深い造詣を有している人である。
 そう、陰陽師もまた賤民の類いであった。

 いや、安倍晴明は朝廷から正四位下をもらっている貴族ではないか。宮中に出入りし帝への拝謁も許されていた官人ではないか。と反論が起こるのも当然。
 陰陽師には、晴明やその師の賀茂忠行・保憲父子のように律令体制下で国に仕え、中国由来の陰陽五行説を基盤とする占いや天文観測を行う官人陰陽師と、おそらくは渡来人を祖とし播磨地方を中心に起こり、次第に各地に広がっていった民間陰陽師と、二系統あるらしい。
 賤民として差別されてきたのは後者の陰陽師であり、晴明の最大のライバルとして知られる蘆屋道満はその代表格なのである。

 近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈禱、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の製作販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった。
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事する者も少なくなかった。祈禱だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術なども併用した。彼らが「巫術」をもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫(やぶ)医者」と呼ばれていたのである。

 ちょっとした雑学であるが、「やぶ医者」の語源は藪医者ではなくて野巫医者、すなわち「在野で巫術(=シャーマニズム)を行う医者」だそうである。
 なんか蘆屋道満のほうが好感持てる。

晴明と道満
晴明と道満(『北斎漫画』より)


 歴史上人物としての安倍晴明は、現在小説やコミックや映画などで描かれる呪術を駆使するスター超能力者とは違っていたらしい。
 
 史料を調べてみると、安倍晴明が式神を使ったり呪詛を行った事実は出てこない。晴明を含めて平安中期の官人陰陽師が、式神を操ったり、呪詛を行ったという史料は見当たらない。そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていたのである。

 晴明の確かな事跡が史料に出てくるのは、当時の朝廷貴族の日誌・記録である。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などで語られる安倍晴明像は、すべてその死後に語り紡がれた説話であって、実際にあった史実ではない。

 巷間に流布されているスーパースター伝説が語られるようになったのは、室町時代初期に晴明自筆(むろんウソ)と言われる『簠簋(ほき)内伝』という書が現れてからという。

 耳目を惹きつける奇想天外な伝説を喜んで受け入れ、聞き、物語ったのは、むろん第一に庶民であったろう。
 が、もともとの道満系の民間陰陽師たちもまた、自らのステイタスを高めるために、商売繁盛のために、「われこそは晴明の末裔なり」といった流儀でスーパースター伝説を利用したようだ。

 ジブリの映画『かぐや姫の物語』や永久保貴一の漫画『カルラ舞う』に登場する木地師の人たち――彼らもまた被差別の民であった――が、「自分たちは惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫」と称し、山中を移住し暮らしていたのは知られるところである。
 身分社会において差別されてきた人々が、自らのルーツをかえって身分社会の高いところに求めようとするのは、なんとも切ないことである。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

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カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 漫画:『陰陽師1~13巻』(画:岡野玲子、原作:夢枕獏)

2005年白泉社より最終巻発行

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 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を主人公とする歴史オカルトファンタジー。
 幻想的で耽美な世界を構築する岡野の画力と、平安風俗や陰陽道に関する研究熱心さは、賞賛に値する。

 しかるに、これは夢枕獏の原作を読んでいる人が、「原作がどのように劇画化されているか」を楽しむ作品であろう。
 原作を読んでいないソルティのような者にとっては、清明によってしばしば繰り広げられる陰陽五行説の専門的な説明ははなはだ難しく、煩わしく、物語への興味をそがれる。
 巻が進むほどにそれが顕著になり、内容も理解できぬまま字面を追っていることになる。

 しかも後半、清明がどんどん神(あるいは魔?)がかってきて、実在した歴史上の人物らしさを失い、受難を負ったイエス・キリストみたいなカリスマ的存在になっていく。
 なんだかなあ~。
 怪異ミステリーとして純粋に物語的面白さを楽しめる前半が良い。

 実際の安倍晴明は、あの藤原道長の権力固めに協力したようで、本作の清明とも、羽生結弦の清廉高潔なイメージとも異なり、かなり老獪なる狸オヤジだったのではなかろうか。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1965年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1960年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

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思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 牧師の息子 映画 : 『冬の光』(イングマール・ベルイマン監督)

1963 年スウェーデン
82 分、白黒

 『第七の封印』同様、神の沈黙をテーマとする作品。
 ただ、「沈黙がテーマ」と言うと、「神はなぜ黙っているのか?」の追究になる。
 つまり、神の存在を前提としている。
 「天にあって、この世のすべての悲惨を見ているのに、なぜ黙っているのか!?」
 これだと、遠藤周作のテーマと重なる。

 ベルイマンの問いをより正確に表すなら、神の不在がテーマと言うべきだろう。

 神はいるのかいないのか?
 いないのならば、我々の生には何の意味があるのか?
 ただ生まれて、他の生命を食べて、まぐわって子供をつくって、老いて死ぬだけなのか?
 祈ることは無駄な行為なのか?
 
 牧師を主人公とする本作では、信者が集まらずにさびれた教会の様子、信仰を失い懊悩する牧師の姿が、実にリアリティもって細やかに描き出されている。
 牧師の家庭に生まれ育ったベルイマンならではである。
 憶測に過ぎないが、父親との関係がこうした問いかけを生涯発し続ける因となったのかもしれない。

 神なんて、いてもいなくても関係ない。
 生きる意味なんてメンドクサイこと考えないで、欲望に忠実に楽しめばいいじゃん。
 ――と、割り切ってエピキュリアンに生きられないところに、ベルイマンや遠藤周作のジレンマの種(=創作の種)はあるのだろう。

 
パーティー

 
 ストーリーは、ポール・シュナイダー監督の『魂のゆくえ』と酷似している。
 同じ原作をもとにしているか、あるいはシュナイダーが『冬の光』を現代風にリメイクしたのかと思ったのだが、どうも違うらしい。
 結末こそ異なってはいるが、この似方は偶然にしてはちょっと・・・???
 
 神(創造主)などいない。
 我々の生は、そこから脱出するためのジャンピングボード以上の意味はない。
 ――と言い切ってしまう(原始)仏教の、なんと潔く、自立していることか!
 ベルイマンは仏教に出会っていただろうか?
 あるいは、奇跡のコースに。

 ただ、その立場をとった時、もはや芸術創造などできないだろう。
 それはそれで別のジレンマになるやもしれない。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 映画:『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ監督)

2016年アメリカ、ドイツ、メキシコ
97分

 デイヴ・エガーズの同名小説を原作とするトム・ハンクス主演のコメディ。
 『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『グリーンマイル』、『キャスト・アウェイ』、『ターミナル』など、トム・ハンクスの他の主演作同様、運命のサプライズ、人生のハプニング、希望を失わないことの大切さがテーマとなっている。
 トム・ティクヴァは、輪廻転生を描いた『クラウド・アトラス』の監督である。

 サウジアラビアの砂漠のど真ん中に新都市をつくりたいという王様のために、IT 技術をプレゼンし契約を取るべく、人生に疲れた中年の新入社員アラン(=トム・ハンクス)は派遣される。
 勝手の違う異文化での営業に戸惑い、不安と絶望で心身をすり減らすアラン。
 はたして商談は無事成功するのか?
 アランの人生に新たな道は開かれるのか?

サウジアラビア


 イスラム社会の慣習や文化を垣間見るのが面白い。
 イスラム教の信者のことをムスリムと言うが、これは「神にすべてをゆだねた人」という意だそう。
 なんだか阿弥陀信仰に似ている。
 大いなるものを信じて流れに身を任せた時、すなわち「我」を捨てサレンダーした時、運命は思わぬ方向に人を導く。
 その点から、やはりトム・ハンクス主演らしいスピリチュアルな映画である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『廃墟のブッダたち 銀河の果ての原始聖典』(EO著)

1995年まんだらけ出版部より刊行
2019年改訂版発行

 無明庵 EO(エオ)は、知る人ぞ知る、本邦の精神世界のカリスマ導師である。
 著者略歴によると、1958年生まれ、14歳の時に悟りの一瞥を体験。以来、様々なスピリチュアル遍歴をたどる。1992年(34歳)に大悟見性。以後、講話や著述や瞑想指導などを行う。2017年2月入滅。

 ソルティは、15年くらい前に、EO の本を中野サンモールにある古書店「まんだらけ」で見つけて購入し、その“過激な”内容に衝撃を受けた。
 以来、自身のスピリチュアル遍歴において、時折、無性に EO が読みたくなっては、著書を集めてきた。
 5冊くらい読んだだろうか。
 だが、EO の最初の著書であり代表作とも言えるこの『廃墟のブッダたち』だけは、すでに廃刊となっていて、「まんだらけ」でも他の書店でも手に入らなかった。
 著者の入滅――本当か?(笑)――がきっかけとなったのか、2019年より EO シリーズの復刊が始まった。全部で14冊の予定らしい。
 やっと、念願の書を手にした。

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 EO が「知る人ぞ知る」なのは、彼の本の内容(実際の講話をもとにしたものが多い)が、まったくもって一般受けしない態のものだからである。
 ソルティが最初に接した時に受けた「過激」以外の印象をあげると、「暗い、絶望的、虚無的、不吉、禍々しい、歯に物を着せぬ、容赦ない、反逆的、人間の尊厳を奪う、反社会的、敗北主義」といったネガティヴなものばかりで、「こんな本に惹かれてつい買ってしまった自分も、相当病んでいるのかもしれない」と思った。(そのとおりだ)
 黒を基調とし、奇妙な幾何学図形を浮き彫りにした装丁もまた、その近寄りがたいイメージを助長した。

 にもかかわらず、その説かれる内容には一聴すべきものがあった。
 ラジニーシ(OSHO)やクリシュナムルティの本と同様の、覚者ならではの透徹した意識と知性、首尾一貫した論理、有無を言わさぬ気迫をそこに感じ取った。
 あるいはそこに、自分自身が、あるいは人類が、「認めたくない事実、不都合な真実」が赤裸々に説かれているような気がした。
 事実、EO は「伝統や形式にしがみつく禅そして導師を盲信的に信奉する瞑想センターとの絶え間ない摩擦や反感」を経験したという。
 無理もない。

 EO の過激な(突飛な?)言説の例を本書より挙げよう。
 人類の存在意義に関する一節。
 
 すなわち人類はその人類の上位存在にとっては、ただの食用生物である。
 あるいは宇宙という機械の生物燃料であり、誰かの食用の家畜であり、宇宙という畑の肥料であり、また、あるときには宇宙「という」(ソルティ注:「の」の誤植か)医療モルモットであり、あるいは宇宙が今後もただ無目的に生き延びるためだけの穀物である。
 これがまず基本的な宇宙と地球における人間たちの生存理由、つまり、あなたという存在の宇宙での位置についての明確な真実である。 
 それが、あなたにとって不愉快であろうが、なかろうかには一切関係なく・・・。
(本書104ページ)

 これをダグラス・アダムスのSF小説みたいなブラックジョークと取るか、ノストラダムス的な「トンデモ」と取るか、六道を輪廻転生し続ける愚かさを知らしめ「悟り⇒解脱」に聴き手(読者)を導くための方便ととるか。
 ともあれ、EO は徹底した「現世否定論者、存在否定論者」であり、そこが究極のネガティブ・シンキングとも、精神世界の極北とも、反社会的とも、みなされるゆえんでなのである。
 EO の先を行くのは、この世を悪魔の創造物とみなした異端カタリ派しかありえまい。

 だが、UFO 陰謀オタクが喜びそうな上記のような言説を除けば、EO の説いていることは、ブッダやラジニーシやクリシュナムルティら“本物の”覚者のそれとまったく変わりない、「エゴ(自我)の否定」、「思考の否定」、「条件付けされた生への気づき」といったあたりが核なのである。

 というわけで、「ステイホーム週間」の利得をもって、遊び心で下記の表「現世との距離から見たスピリチュアル思想」を作ってみた。
 世界的に知られる代表的なスピリチュアル思想について、現世との距離から――「現世肯定的 or 否定的」の視点から――序列化してみた。


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 上記のスピリチュアル思想の選択は、恣意的なものである。
 序列もまた、ソルティの狭量な知見による、独断かつ偏見でしかない。
 「なんでヒンズー教がないんだ!?」
 「グノーシス思想があって然るべきだろう!?」
 「なんで日蓮の名がないんだ!?」
 「神道が、空海が、なぜこの位置に来る!?」
 「ヒマラヤ聖者ヨグマタ圭子はどこに入るんだ!?」
 ・・・・などなど、種々の意見や異論はあるかと思うが、それは各自で好きなように考えてもらったらよいと思う。
 ちなみに、「解脱主義」の主たる特徴は、輪廻転生からの解脱を最終目的とすること、すなわち、天国や浄土をゴールとしないことである。ここに、読んだばかりのゲイリー・レナード著『神の使者』でその内容を知った「奇跡のコース」も入れさせてもらった。
 
 ブッダを敬愛するソルティは、表の右から4番目に位置する。(輪廻転生を信じているわけではないが・・・)
 こうやって整理してみると、20代、30代、40代と自分が年齢を重ねるにつれて、表の左から右へと次第に移行してきたのを了解する。(生き方指南、本覚思想、浄土主義にはハマらなかったが・・・)
  
 まあ、どうでもいい話。
 ほんのお慰み。
 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 宇宙の消滅 本:『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著)


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2003年原著刊行
2007年河出書房新社より邦訳発行

 アメリカ発のスピリチュアル本。
 著者ゲイリーと二人のアセンデッド・マスターとの17回の対話から成る。

 アセンデッド・マスターとは、天界にいる高尚な魂を持った人たちのことで、一度は肉体を持って地球上で生きた経験があり、亡くなった後、神の視点を以て人々を導いている。
 イエス・キリスト、聖母マリア、ブッダ、ガンジー、マザー・テレサ、サンジェルマン伯爵、大天使ミカエル、サマート・クマラなどの名が上げられることが多い。
 この本に出てくるマスターは、イエス・キリストの使徒であったトマスとタダイ。
 二人は、パーサとアーテンという名の現代風の男女の姿をして現れ、ゲイリーに『奇跡のコース』の学習を勧める。

最後の晩餐
向かってイエスの右隣で人差し指を天に向けているのがトマス
右端から2番めの白い髭のある老人がタダイ
(ダ・ヴィンチ作:最後の晩餐)


 シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』(1983年)以来、アメリカのスピリチュアル本を数多く読み漁ってきたソルティにしてみれば、「もう、こういうの、十分!」というのが偽らざるところである。
 バシャール、ラムサ、ラザリス、プレアデス、聖なる予言、神との対話、ホピ族の予言、古代マヤ暦、ミュータント・メッセージ(笑)、ロバート・モンロー、エドガー・ケイシー、レイモンド・ムーディー、・・・・・。
 我ながらよくもハマったものだ。

 しかしながら、実は一つだけ、その存在は知っていながら、正体がつかめず、距離を置いてきたものがあった。
 分量が多いためか、最近まで邦訳されていなかった『奇跡のコース』(A Course in Miracles)がそれである。

 奇跡のコースとは
 アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である。
 世界は幻影であり自らの外には何も存在せず、己が神と一体であるという、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想が説かれている。
 この作品の最大の前提は、人生で達成できる最大の「奇跡」は「愛の存在を知ること」である、という教えである。神と一体となることで、愛を知るとされる。ニューエイジで広く読まれ、バイブル的存在だった。

 講座は1200ページからなり、テキスト、ワークブック(1日1題で1年分)、指導者向けのマニュアルで構成されている。最初の一連のレッスンは「今のあなたのものの見方を根底から崩す」ためのもので、2番目は「真の知覚の獲得」を目指している。

 1976年に出版されてから、22言語に翻訳されている。本は世界中に広まっており、組織された団体の基盤になっている。英語版は2007年時点で100万部以上の売り上げがあり、ベストセラーになったスピリチュアルな自己啓発本を通しさらに数百万人に影響を与え、学習団体も世界中で増加している。

(ウィキペディア『ACIM』より抜粋)


 ゲイリーは、パーサとアーテンの勧めに応じて、“イエスの真の教えである”ところの『奇跡のコース』の自己学習を始める。
 ゲイリーの学習を見守り励ましながら、その進展に合わせるように、パーサとアーテンは、宇宙やこの世の仕組み、エゴの罠、病の意味、セックスの意味など様々なテーマについて、ゲイリーと対話する。
 つまり、『神の使者』は、『奇跡のコース』の解説書、指南書、宣伝本、勧誘本といった趣きを成しているのである。

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 読み進めて驚いたことに、『奇跡のコース』はイエス・キリストによるメッセージと謳いつつも、まったくキリスト教的でないのである。
 もちろん、「愛とゆるし」の大切さを強調しているのは、聖書の中のイエスそのままである。
 しかるに、ここで説かれる宇宙観、世界観、来世観は、天国や復活や天地創造や最後の審判を説くキリスト教のそれとはまったく異なる。
 
アーテン このことははっきりさせておこう。神はこの世界をひとかけらだって創ってはいない。「コース」に世界はないと書いてあると言っただろう! ないものの一部を神が創るはずがないじゃないか。聖霊の意図は、世界があるという夢からきみたちを覚めさせることだけだよ!

J(イエス)が「世界と世界のあり方を否定しなさい。それをあなたにとって無意味なものとしなさい」と言ったのは、きみが見ているものは存在しない、ってことなんだよ。それはほんとうにはないのだから、無なんだ。無が何かを意味するわけがないだろう? 善にしろ悪にしろ、きみがそれに何らかの意味をもたせたら、きみは無を何ものかに変えようとしていることになる。きみがすべきことはただ一つ、無意味にすることなんだ。

ゲイリー すると、ぼくは心のなかにある罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!

 極めつけは、これだ。

――つまるところ、宇宙そのものが消えるべき症状である。

 まったくの現世否定&来世否定の言説は、反キリスト教的ですらある。(事実、あるキリスト者はコースを、「重大で潜在的に危険なキリスト教神学の歪曲」、「悪魔の誘惑」と批判したとか)
 むろん、現世や来世(別次元)での幸福な生き方を志向し指南する、先に上げたアメリカンスピリチュアリズムの伝統とも性格を異にする。
 いわゆる、解脱思想なのだ。
 そこが、「古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想」とみなされるゆえんであり、また、キリスト教というより、涅槃を目的とする原始仏教に近い気がする。

 このような本(原著タイトルは The Disappearance of the Universe 「宇宙の消滅」)が全米でベストセラーになりうる当世に、驚きを覚える。

オリオン星雲


 最後に、『奇跡のコース』の要点を一言でまとめると、「ゆるし」に尽きる。
 他人も、自分も、責めるのは止めなさい。
 他人だけでなく、自分をも、ゆるしなさい。
 意識上、あるいは意識下を問わず、あらゆる罪悪感から解放されなさい。

 これはとても大切なメッセージだと思う。
 子供の頃の親との関係の中で、そして、これまでに出会った沢山の人との関係の中で、いかに自らが罪悪感を抱き、抱かされ、知らずに自分を責め続けていることか!
 心のどこかで、「こんな罪作りの自分が、幸福になってはいけない」と確信していることか!
 自分の中にある罪悪感を外側に投影し、他人や社会を裁いていることか!

 新型コロナウイルス騒動で、他者を責める言葉が、国内でも国外でもネット上でも飛び交っている現在、「ゆるし」の重要性はどれほど強調してもなおあまりある。


P.S. ツクシさん、本書を教えてくれて、ありがとう。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● コロナとエロス 映画:『魂のゆくえ』(ポール・シュレイダー監督)

2017年アメリカ
113分

 『タクシー・ドライバー』で知られる名匠ポール・シュレイダーよる哲学性の高い人間ドラマ。
 原題 First Reformed は、主人公トラー牧師(=イーサン・ホーク)が勤める教会の名前。
 
 従軍牧師として体験した悲惨な戦場、戦死した息子と崩壊した家庭、孤独、忍び寄る病魔、神意に対する疑い、そして、自らの教会が大規模な環境破壊企業の資金によって成り立っていることを知って生じる懊悩。
 トラー牧師の魂は危機に瀕する。
「このような地球に新しい生命を送り出すことは悪ではないか?」と問いかける信者に対し、トラー牧師は納得ゆく答えを与えることができず、信者は猟銃自殺してしまう。
 絶望し信仰を失ったトラーは、教会の設立式典での自爆テロを企図する。

 「この世は悪魔の支配するところであり、子どもを作ることは悪」というカタリ派的な問いに飲み込まれてしまった誠実な牧師の心の軌跡と、魂の危機からの救出を描いている。


地球


 グレタ・トゥーンベリに叱られるまでもなく、環境破壊の現実をありのままに見たときに、その背後に渦巻く人類の際限ない欲望と無知を見たときに、そしてまた、今まさに地球レベルで進行しつつある比類ない新型コロナウイルスの危機を前にしたときに、人類の未来に希望を見出すのは困難なことである。
 神の存在を信じ、「これもまた神の隠れた意図にほかならなず、最終的にはみな救われる」と楽観視するのは、日本人の好きな神風信仰となにも変わらない。

 トラー牧師は、一人の女性との出会いと愛によって自爆テロをあきらめる。
 結局、魂の危機を救ったのは愛、それもキリスト教のいうアガペー(無償の愛)ではなくて、エロス(性愛)であった。
 それが結論・・・・・???

 本作は、シュナイダー監督の人生の「集大成的な作品」との由。
 エロスこそすべて、というのが落着点だったのか?
 まるで、空海密教のようである。

 飛沫感染でうつる新型コロナウイルスは、人類をして、HIV以上に性愛を拒否させる。
 自粛にはもちろん性行動が含まれるが・・・。
 人類は性愛なしにどこまで持つのだろう?



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 映画:『ガンジスに還る』(シュバシシュ・ブティアニ監督)

2016年インド
102分、ヒンディー語

 死期を悟った父親ダヤのたっての希望で、息子ラジーヴは、ダヤをベナレスのガンジス河ほとりにある「解脱の家」に連れて行く。
 そこでは死を待つ人々が、祈りや沐浴や闘病や交流の日々を送っていた。
 さっそく女性の友人をつくり生活に馴染み、次第に元気になっていくダヤ。
 残してきた仕事のことが気になって常に携帯を離さないラジーヴ。
 半月が過ぎ、ラジーヴは父親を一人残し、妻と娘の待つ自宅に戻る。  


 美しい映画である。
 インド映画ならではのつややかで賑やかな色彩、明るくさわやかな光。
 すべてのショットが映画的輝きに満ちている。
 画面を観ていることが、次第に画面の向こうの事物に直接触れていることに変わっていくような、視覚と触覚が連合していくような生々しい感覚は、映画の至福そのものである。
 
 シュバシシュ・ブティアニ監督は、1991年インドのカルカッタ生まれ。
 これが長編デビューとなるようだが、傑出した才能はまぎれもない。


ガンジス
ガンジス河(ベナレス)
 

 映画に出てくる解脱の家は、実際にベナレスにある同種の施設をモデルとしたらしい。
 ヒンドゥー教徒であるインド人の死生観や葬送の風習がうかがえて興味深い。

 ヒンドゥー教もまた、仏教同様、輪廻転生からの解脱を最終目標とするが、映画の中で「魂」という語がたびたび出てくることが示すように、ヒンドゥー教では魂(アートマン)の存在を規定する。
 登場人物の一人、解脱の家のマネジャーは言う。
 「魂は自分を波だと思っている。でも突然悟るのだ。自分は波でなく海だと」
 これはいわゆる梵我一如(アートマン=ブラフマン)を意味しているのだろう。
 魂が「大いなるもの」と一体となることを解脱としているのだ。
 昨今、スピリチュアル業界で人気を集めている非二元(ノンデュアリティ)もこれに近い。
 仏教の解脱とは異なる。
 
 思想的なことはともかく、この映画を観て、またインドに行きたくなった。

 30数年前、ガンジスで泳いで水を口にしても何ともなかった。
 今やったら無事では済むまい。
 水質汚染がひどいし、こちらも若くない。
 冗談でなく、死出の旅路になりそう。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 魚ッ ‼ 本:『かわら版で読み解く 江戸の大事件』(森田健司著)

2015年彩図社
 
 日本が誇るスピリチュアル冒険野郎、モリケンこと森田健の本でも借りようかと検索したら、この本が出てきた。
 著者の森田健は、1974年神戸生まれの思想史学者。石門心学で知られる(?)石田梅岩の本を書いている。
 面白そうなので、借りてみた。

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 かわら版は、江戸のタブロイド紙であり、ワイドショーでもある。情報の正確さより速報性と面白さ。そこには、現代人が知っている江戸とは一味違う、エキサイティングな世界がある。

 かわら版は、当時の人々がどのようなことに笑い、泣き、興奮したのかを、今に伝えてくれる。名もなき人々の心を知る手掛かりが、そこにはある。

 売れてなんぼの世界なので(一枚4文=40円程度)、とにかく人々の好奇心をかき立てるテーマが取り上げられ、奇抜で大げさな絵とともに、尾ひれ腹びれつけて、吹聴されたわけである。
 各地で妖怪出現の怪異、畑から金の延べ棒発見などの仰天ニュース、大火事や大地震や浅間山噴火などの天災地異、花形歌舞伎役者の動向(さしずめ現代の芸能ニュース)、江戸庶民が喝采落涙した敵討ちストーリー、忠臣蔵・大塩平八郎の乱・黒船来航・倒幕といった歴史的大事件・・・・・等々、今読んでも非常に興味深く、面白いものばかり。

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越中国(今の富山県)に出現した人魚
全長三尺五寸(約10メートル)
アンデルセンが・・・


 著者が述べているように、かわら版に取り上げられるネタの種類や、その取り上げ方、つまり筆致や画風から、江戸の人々のキャラが垣間見られる。
 子どものように単純で喜怒哀楽ゆたか、楽天的でのんき、好奇心旺盛で行動的、商魂たくましく抜け目ない。(なんかモリケンみたい?)
 特筆すべきは、ユーモア感覚と諧謔精神である。
 
 江戸時代には麻疹(はしか)が数十年おきに大流行した。
 むろん、現代のようなワクチンや抗生物質はない。1862年の大流行では江戸だけでなんと24万人が亡くなったという。(当時の江戸の人口は100万と言われる)
 そのときに発行されたのが、以下のかわら版である。


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 これは見立番付と呼ばれるもので、相撲の番付表に見立てて、さまざまな事象を「東西」に分けてランキングする趣向。
 神社仏閣番付、温泉番付、仇討ち番付、茶屋娘番付、バカ番付・・・・・いろいろあったらしい。
 
 ここに紹介するかわら版は、タイトルに「為麻疹」と記された見立番付である。内容は3段に分かれていて、1段目は、右側に「あたりの方」、左側に「はづれの方」と書かれている。主にこの部分が、番付のパロディとなっているわけある。
 「あたりの方」は、麻疹大流行で儲けたり、需要が高まったりしたもののリストだ。そこには、薬屋、医者に籠屋、それに沢庵に黒豆に干瓢(かんぴょう)など。「はづれの方」はそれらの逆で、人気の落ちたものたちである。例えば、女郎屋に芸者、舟宿、加えて天ぷら屋、寿司屋などが書かれている。(ゴチックはソルティ付す)

 コロナウイルス騒動のいま、これをやるマスコミがいたら、炎上&袋叩きはまぬがれまい。
 ちなみに、3段目の絵の右側の編み笠をかぶった男が、「読売」と呼ばれたかわら版売り。笑顔で金を払う客を挟んだ左側の男が、魚や青物を売る「棒手振り」。どちらが「あたりの方」かは言うまでもない。かわら版の作者&販売者は、自分たちをも揶揄しているのだ。

 江戸の人々から見たら、現代日本人は「無粋」の極み、あるいは一億総ノイローゼ患者のように思えるかもしれない。
 この違いを作っている大きな要因の一つは、たぶん、死との距離感であろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● いまここにある地獄 本:『路上の人』(堀田善衛著)

1985年新潮社

 異端カタリ派をテーマにした歴史小説。
 完成度の高い、コクと艶のある、しかしすっきりしたボディに、昭和文学の良心を見る。
 佐藤賢一著『オクシタニア』でしっかり予習できていたので、スムーズに世界に入っていけた。

 主人公は路上の人、ヨナ。定職を持たず、家族を持たず、ヨーロッパ中を歩き回る四十がらみの男。いわばルンペン。
 道化をしたり、詐欺を働いたり、易者になったり、不具者をかたったり、乞食をしたり、カトリック僧侶の従者になったり、偽の聖遺物を教会に売りつけたり、ありとあらゆることをして生き抜いてきた。おかげで、各地の風俗や言葉を覚え、さまざまな階層や職業の人間を知り、世間通となった。
 ヨナは、カタルーニア(いまのスペイン)で、「法王付大秘書官兼ドイツ皇帝代表」という仰々しい肩書を持つ騎士アントンの従者となり、一緒にピレネー山脈を超えてオクシタニアに入る。そこでは、カタリ派が、十字軍による最後の攻撃を受けている最中であった。

 十字軍の横暴とカタリ派消滅の様子を描くのに、社会の最下層にいる浮浪者の目を借りたところが、この作品のミソである。
 ヨナは、どこにも属さない自由な人間。信仰も持たず、主義主張もない。ノンポリで、マージナルな、いわば社会をありのままに映す鏡のような役を担っている。読む者は、ヨナの足と目を通して、中世ヨーロッパの地勢や風土、群雄割拠の政治環境、封建制と階層社会、貧困と迷信にとらわれている庶民の姿などを感得する。とりわけ、ローマ法王を頂点とするカトリック(普遍的という意味がある)教会に支配された窮屈な時代精神を。

 この小説を読んで一番印象に残るのは、当時のカトリック教会の腐敗と横暴である。底知れない欲と見栄、恥を知らない偽善と破戒、恐れ知らずの虐待と暴行の数々。それらすべてを「神の名において」正当化する厚顔無恥。その所業は悪魔的、ナチス的ですらある。
 インノケンティウス3世が法王の座にあったこの時代、カトリック教会は最高の栄華を誇った。と同時に、最大の反キリスト者であった。


バチカン市国
バチカン市国


 作者の立場は明らかに反カトリック、反権力、反権威である。現世を否定し死を幸いとするカタリ派の教義を「よし」とする記述こそないが、言葉の真の意味で「清貧と敬虔と慈愛」のうちに生きたカタリ派の出家者(完徳者と言う)に肩入れしているのは明らかである。
 同時に、法王や司教や国王や領主や裕福な商人たちよりも、ヨナのような社会の底辺にいる寄る辺ない人々に愛情を向けているのも確かである。

 堀田の小説はこれがはじめてで、どういう作家か知らなかったのだが、戦後日本を代表する進歩派知識人との由。ジブリの宮崎駿がもっとも尊敬する作家であり、なんとアガサ・クリスティ『白昼の悪魔』を訳している。それなら、ソルティは高校時代にお世話になっているはずだ。
 「反権力」が堀田善衛のテーマの一つなのだろう。

 この、作者の思想性という点で、佐藤賢一『オクシタニア』との大きな違いがあるように思う。
 『オクシタニア』の結末がぼやけた印象で終わったのは、おそらく、佐藤賢一が作品を貫く明確なテーマを持たなかったからなのだろう。カトリックにもカタリ派にもどちらにも与せず、かといって無神論を唱えるわけでもない。反権力の拳を挙げるでも、貧しい庶民の肩を持つでもない。いろいろな立場の登場人物の内面(=心の葛藤)を描くことこそが、佐藤の最大の関心だったのかもしれない。
 一方、『路上の人』において、登場人物の中でその内面が描かれるのは浮浪者ヨナと騎士アントンのほぼ二人だけである。しかも、心理描写はかなり抑制されている。個々の人間よりも、彼らが置かれている「世界」に焦点を当て、テーマを開陳することに重きが置かれている。
 結果、どちらがより普遍的(カトリック)かと言えば、『路上の人』であろう。
 もちろん、どちらも面白いことに変わりない。

 ソルティは、両作品を続けざまに読みながら、カタリ派が当時の民衆に支持された理由を考えていた。
 「この世を地獄とする」そのニヒリスティックな教義は、そう簡単には大衆の理解が得られるべくもなく、信仰されにくいはずである。なぜ、文明高く豊かなオクシタニアの地に、カタリ派信仰が広まったのだろう?

 一つにはもちろん、カトリック教会の目にあまる横暴と堕落がある。ペルシャから連れてきた愛人を囲うために王宮のような御殿をつくる司教を、だれが尊敬できるだろうか。
 一つにはもちろん、カタリ派の完徳者たちの高潔さゆえである。庶民を苦しめる病気や飢えや家族の死など様々な苦しみに、すすんで手を差し伸べ、身を削って助け、返礼をまったく期待しないのは、彼らであった。
 また、裕福な商人であれば、完徳者を敬い活動を支えることで、決してきれいな手段だけで築き上げたわけではあるまいその財産と地位に伴う罪悪感を、あがなうことができたであろう。
 あるいは、子供をつくることを忌避し、結婚を言祝がないカタリ派の教えが、性の自由(たとえば同性愛や不倫)を享受する後ろ盾として利用されたこともあったのかもしれない。
 しょせん、「この世は地獄で、価値はない」のであってみれば、何をしようが同じこと、やりたいことをやればよい。死ぬ時に完徳者に頼んで救慰礼(カトリックの「終油の秘跡」にあたる罪のゆるしを授ける儀式)を受ければ天国に行けるのだから。享楽主義者、刹那主義者、あるいはずばり悪人にとって、極めて都合の良い解釈を許してしまうことが、カタリ派信仰の広がる背景にあった可能性も否定できない。
 あるいは、キリスト教がやって来るはるか以前、オクシタニアにあった古来の宗教なり信仰形態が、カタリ派の教義を受け入れるにたやすい性質のものだった、という仮説も成り立つ。

 ――といろいろな理由が思いつくのであるが、本小説中に次のような記述があり、「なるほど」と唸った。
 
現世にあること自体が、最大の断罪であり、処刑そのものの状態にあるのであるとすれば、地獄は存在しない。煉獄の火なるものなどもローマの僧たちの創作であり、人々を脅かして免罪符などを売りつけるための、虚偽の道具であるに過ぎない。
 
煉獄や地獄からの解放が、如何に大きなものであったかは、これまた言を俟たない。それは、地そのものが、古き地霊もろともに、安堵の声を挙げたものでさえあったであろう。

 「この世が地獄」であるなら、ほかに地獄はない。カトリックの坊さんたちが言う地獄は作りごとだ。それに脅かされる必要はない。なぜなら、最悪を「いまここ」ですで体験しているのだから。
 それはちょうど、末法の世が訪れて、「自分はもう阿弥陀様に救われることなく、地獄落ちだ、畜生道だ、あるいはまた火宅のこの世に戻ってくるほかないのだ」と嘆いていた本邦の庶民たちが、「南無阿弥陀仏と一言唱えるだけで成仏できますよ」という法然上人や親鸞上人の言葉を聞いて経験したであろうような、とてつもない安堵感、喜び、光明、うつヌケ感――そんなパラダイム変化をもたらす解放に等しかったのかもしれない。
 科学が登場する前の人類の、来世に対する怯えと怖れを、現代人は真に理解できてはいないであろう。

 
47番八坂寺
四国札所47番八坂寺境内
右が地獄、左が極楽の入口

地獄絵図47番八坂寺

地獄絵図蛇47番八坂寺
地獄

極楽絵図47番八坂寺
極楽


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