ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● 笠智衆の貞操がまもられた理由 映画:『簪 かんざし』(清水宏監督)

1941年松竹
70分、白黒

 これは珍作中の珍作。
 笠智衆を主人公とする恋愛ドラマがあるとはよもや思わなかった!
 しかも、お相手は日本が世界に誇る往年の名女優、田中絹代!
 しかも、田中絹代が、足をケガした笠智衆をおんぶするという驚きのジェンダーフリー・シーンがある!
 しかも、二人は何ら障害なさそうなのに、接吻一つ交わさず、結ばれないまま別れてしまう。
 
 監督の清水宏が田中絹代と付き合っていた因縁はあるようだが、それは過去の話で今さら嫉妬もあるまいに。
 三十過ぎた独身同士で、互いにまんざらでもなさそうな美男美女が、なぜに結ばれぬ?
 たしかに“愛を語る”笠智衆はちと想像しがたいが・・・・・。


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笠智衆をおんぶする田中絹代


 原作は井伏鱒二原作『四つの湯槽』(ソルティ未読)
 『按摩と女』同様、山中の平和な温泉宿を舞台に、一組の男女の運命的な出会いと別れを中心に、同宿の者たちの交流を、ときに詩情豊かに、ときにギャグタッチに、ときにサスペンスフル(笑)に、全般ユーモラスに描く。
 簪(かんざし)というタイトルは、芸者(=田中絹代)がお湯の中に落とした簪を、あとから入った青年(=笠智衆)が知らずに踏んで足をケガしたことが、二人の出会いのきっかけになったところから来る。 
 しかるに、「ほんのかすり傷」のはずだのに、包帯をぐるぐる巻き、松葉杖をついて片足を引きずりながら過酷なりリハビリする青年・笠智衆の姿が、不思議千万、かつ滑稽である。
 同宿者の熱い声援を受けながら、川に渡した狭い木橋を渡ろうと試みる笠のアクロバティックな姿は、笠ファンなら見逃せない珍シーンである。
 なぜリハビリするのにこんな危ない芸当をする必要がある?――という疑問はご法度である。
 観る者は、『カサンドラクロス』や『戦場にかける橋』ばりに、あるいはキグレサーカスの綱渡りばりに、音楽と周囲の応援とで盛り上げられたこの稀に見るサスペンスシーンを、固唾をのんで(失笑をこらえ)見守るよりない。
 しかも、笠青年が途中で挫折し田中絹代におんぶされつつ橋を渡り終えた直後に、温泉宿の按摩たちが杖ですたすた渡っていくというオチがつく。
 清水宏の落語のようなボケが実に冴えている。


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おっと、危ない!

 
 笠智衆扮する青年と絹代扮する芸者が森の中で語らい合うシーンで、セリフが一部飛んでいる。
 軍部によって検閲を受けたのではなかろうか?
 この映画の公開は太平洋戦争直前。
 それを思えば、男女が結ばれなかった理由も頷ける。
 これから戦地に赴く青年が、色恋なんかにうつつを抜かしている暇があるか!!

 笠智衆の貞操はかくして守られた。

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失恋した女
『按摩と女』の名シーンがここでも繰り返される



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 
 

● 本:『オスカー・ワイルド書簡集 獄中記』(宮崎かすみ編訳)

2020年中央公論社

 1895年、オスカー・ワイルドは同性愛の罪で投獄された。
 そのときに娑婆にいる16歳年下の愛人アルフレッド・ダグラスに宛てて綴った手紙が『獄中記』である。
 
 ソルティは大学時代に岩波文庫の『獄中記』(阿部知二訳)を読んだが、内容は全く覚えておらず、読後の印象も残っていない。なにも残らなかったのだろう。
 今回、英文学者宮崎かすみによる新たな訳で読み直してみたら、これがなんと滅茶、面白かった! 
 ワクワク、ドキドキの人間ドラマがそこにあった。
 こんなに面白いものをなんで忘れることができたのだろう? 
 
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 答えは、本書の編訳者まえがきに記されていた。
 日本でこれまでに訳されて単行本として売られていた『獄中記』は、ワイルドの死後、友人であり著作権管理人でもあったロバート・ロスが編集し発表した『深淵より』(1905年)を底本とする「簡約版」だったのである。
 それは、ワイルドが獄中で書いた大量の手紙のうち、「ダグラスに対する誹謗中傷にあたる部分を大幅に削除し、その他の文章も改変した」ものという。
 いきおい残された部分は、獄中生活の苦難や悲惨、贅沢や不道徳を身上とする過去の生活に対する反省や悔悟、自らの受難をダブらせたイエス・キリスト論、ワイルドならではの芸術論が中心となる。
 ワイルド研究者にとっては興味深く重要なものには違いなかろうが、一般読者にしてみれば、さして面白くはない。
 とくに、『ドリアン・グレイの肖像』や『サロメ』や『ウィンダミア夫人の扇』といった、機知にあふれスキャンダラスかつ退廃美に輝くワイルドの作品を愛する者にとっては・・・・。
 
 本書には、単行本としては初めて、ワイルドがダグラスに宛てた手紙の全文が訳し出されている。
 ワイルドとダグラスの恋愛ドラマ、二人の“すったもんだ”の一部始終が描かれている。
 そのうえに、裁判・逮捕・投獄の憂き目を見る以前のワイルドの輝かしき半生、二人の関係を巡る互いの家族の反発や非難、ダグラスの父クィーンズベリー侯爵との訴訟合戦、ロスを始めとするワイルドの友人たちの厚い友情、妻コンスタンスとの複雑な関係、そして刑期を終えたワイルドの辿ったその後の苦難の生と壮絶な死・・・・まさに「悲哀の道化師の物語」というサブタイトル通り、世紀末を生きた一人の芸術家のドラマチックでスキャンダラスな人生がいきいきと描き出されている。
 あたかも、オスカー・ワイルドという巨大な重力と輝きを持つ恒星を中心に、彼の人生に関わった人間たちが衛星のごとく近づいては遠ざかる軌道を描き、互いに影響を及ぼし合いながら銀河を旅しているようである。
 力作評伝にして、無類のエンターテインメントである。
 
 一等の面白さは、「簡約版」ではほとんど触れられていないワイルドとダグラスの“すったもんだ”、「簡約版」からは読み取ることのできない二人の“奇態な関係”である。
 と言っても、ホモセクシュアルといった点ではない。
 イギリスにソドミー法があった19世紀は遠い昔、同性愛がばれるとスキャンダルとなった20世紀もすでに過去。現代はもはや、ホモセクシュアルを特別視するような時代ではない。
 性別や性的志向とはまったく関係なしに、二人の人間の恋愛模様、というか依存関係、というか桎梏、というか因縁――あたりが興味の中心となる。


ワイルドとダグラス
ワイルドとダグラス


 アルフレッド・ダグラスは貴族の子弟であった。
 それだけでも十分特別で、多少のワガママや浪費癖や常識の無さはむしろあって当然だろう。
 が、それだけでは済まなかった。
 ダグラスの祖父と兄は自殺しており、父親のクィーンズベリー侯爵は頑固な癇癪もちでダグラスとは終生憎み合った。
 ワイルド亡き後に結婚してできたダグラスの息子は、統合失調症で生涯を病院で過ごしたという。
 遺伝によるものか環境によるものかその両方なのかはともかく、ダグラスには精神上の負因があった。
 ワイルドと出会った十代の時分から、すでに性格異常の一面をのぞかせていたのである。
 ダグラスの性格を評するワイルドの言葉は、非常にきつい。

 君の卑劣きわまりない動機、下卑た嗜欲、非常に俗っぽい情熱は、君の掟となった。それにより他人の人生をも常に従わせ、必要とあらばためらいもなく他人をその犠牲にすることを厭わぬ掟となったのだ。癇癪を起して醜態を演じれば自分の思い通りにできることを知ってから、ほとんど無意識だろうと思いたいが、君の狂気じみた激情の発作が激しさを増してゆくのは自然のなりゆきだった。
 
 君の性格のじつに致命的な欠点であるところの、想像力の完全なる欠如
 
 君の人生についての考え、君の哲学――君に哲学などというものを思考する頭があればの話だが――とは、君自身がしたことはすべて誰か他のものに支払わせるべき、というものだった。ぼくは金のことだけを言っているのではない。君の哲学を日々の生活に実際に適用したのは、責任の転嫁が及びうる全領域で、その言葉の真の意味においてであった。
 
 感情をコントロールする力が君に根本的に欠落しているのは、不機嫌に黙りこんで怒りを仄めかすような態度と同様、癲癇のように突然怒り狂いだす発作からも明らかだった。
 
 しかしながらぼくの過ちは、ぼくが君と別れなかったことではなく、あまりにも頻繁に別れたことである。ぼくの数えるところによれば、ぼくは、いつもきっかり三ヶ月ごとに君との交友に終止符を打っていたが、ぼくが別れを切り出すたびに君は、懇願やら電報やら手紙やら、君の友人による仲裁からぼくの友人の仲裁に至るその他様々な手段を使って、何とかぼくが君を許す気になるよう全身全力で努力した。

(以上、ワイルドの手紙より抜粋) 

 上記の文章から、ダグラスという人間をどう見るだろうか?
 ソルティは、境界性パーソナリティ障害の典型と見た。
 二人の“奇態な関係”は、あたかも症例報告を読んでいるかのようで、ワイルドはダグラスの“ターゲット”となって完全に振り回されている。
 そもそもワイルドが男色の罪で投獄されることになったのも、元はと言えば、父クィーンズベリー侯爵を憎むダグラスがワイルドをそそのかし、侯爵を名誉棄損で訴えるよう強く求めたからであった。
 ワイルドはいつものようにダグラスに根負けし、侯爵を提訴する。
 が、逆に侯爵から男色の罪で訴えられる羽目となる。
 証拠はいともたやすく集められ、ワイルドは有罪となった。
 つまるところ、クィーンズベリー父子の近親憎悪のとばっちりを受けたのである。

 ひとたび境界性パーソナリティ障害の“ターゲット”にされると、気力と精力を完膚なきまで奪われ生活を破壊されることが多い。(ある芸能人一家の次男に起きたケースが思い出されよう。彼は相手の女性と別れられるなら「引退してもいい」とまで言った)
 境界性パーソナリティ障害の相手とのいびつにして不毛な関係を終わらせたいのであれば、関係を“立ち切る”しかない。
 友人同士なら一定の距離を置いてつき合うことも可能だろうが、恋人同士なら完全に別れて居場所も連絡先も教えないことである。
 中途半端はNGだ。
 情けは禁物である。
 相手ととことん付き合う覚悟と度量がない限り、お互いに傷つけあうだけになりかねない。
  
 獄中で冷静に二人の関係を見つめ直し、自らの愚かなまでのお人よしに気づいたワイルドは、もう二度とダグラスに近づくまいと決心する。
 獄中生活を物心ともに支えてくれる忠実な友ロスへの手紙の中で、ダグラスについてこう書き記す。
 
 彼のことを悪しき影響を及ぼす存在のように感じる。あわれな奴だ。彼と一緒にいると、ぼくがようやく解放されていると思っている地獄へとまた舞い戻ることになるだろう。彼とは二度と会いたくない。 

 二人が関係を断つことが最善と知っているロスをはじめとするワイルドの友人たちも、ワイルドとの間にできた子供の将来を心配するワイルドの妻も、息子の常軌を逸した振る舞いの矯正をとうにあきらめているダグラスの母親も、ワイルドの決心を喜び、安堵する。
 ところが、2年の刑期を終え出所したワイルドは、性懲りもなく、ダグラスのもとに戻ってゆく。
 「なんでまた・・・・!」
 ロスら一同が怒り、あきれ返り、疲弊するのも無理はない。
 ワイルドはロスへの手紙にこう記す。
 
 ぼくがボウジー(ソルティ注:ダグラスの愛称)のもとに戻るのは心理的な必然なのだ。自己実現を求める情熱を伴った魂の内面云々については棚上げするにしても、世界がぼくにそうするように仕向けたのだ。
 ぼくは愛の気配のないところで生きてゆくことはできない。ぼくは愛し、愛されなくてはいられない。そのためにいかなる代価を払おうとも、だ。君と共に一生を過ごすこともできただろう。だが君には君でやるべきことがある。とても心の優しい君のことだからそうしたことをおざなりにもできないだろう。結局、君が僕に与えることのできたのは一週間の友人関係がせいぜいだった。 

 この手紙を読んだ時のロスの心情はいかばかりだったろうか?
 想像するだに哀れだ。

 つまるところ、ワイルドもまたダグラスに劣らぬほど、恩知らずで自己中心的な男なのである。
 ダグラスに負けぬほどの逸脱者なのである。
 ダグラスに対してと同様に、ワイルドに対しても、「普通の市民的人生」や「常識的ふるまい」を求めるほうがどだい無理な話なのであった。
 一般に流布しているオスカー・ワイルドのイメージ――公の場での派手な衣装、奇抜なふるまい――を鑑みるに、現代精神医学の見地からすれば彼もまたパーソナリティ障害(=演技性パーソナリティ障害)と診断されるかもしれない。
 だとしたら、二人はお神酒どっくりのようにお似合いだ。
 運命の相手というべきか。

お神酒徳利

 
 出所後、ワイルドは世間や妻や友人たちの目を逃れ、遠いナポリの地でダグラスと暮らし始める。
 が、結局、金の切れ目が縁の切れ目、生活力のない二人はとたんに行き詰まってしまう。
 元の木阿弥。
 またしても決裂する二人。
 ダグラスはイギリスに帰り、フランスに渡ったワイルドは梅毒にかかって安ホテルの一室で息を引き取った。
(ロスと来た日には、死の床にいるワイルドのもとを毎日のように訪れ、なにくれとなく世話を焼き、看取った。彼もまた“お人よし”というほかない。あるいは、それこそワイルドの芸術の魅力なのか?)

  
 孤独な獄中における深い洞察の瞬間に、ワイルドは次のように書いている。
 
 ぼくにとっては、君(ソルティ注:ダグラス)さえもが、恐ろしい出来事に恐ろしい帰結をもたらすよう、何か目に見えない秘密の力によって動かされている操り人形にすぎないと思う時がある、だが操り人形にも感情がある。自分たちが今演じているものに新しいプロットを持ち込み、定められた有為転変の結末を、自分の気まぐれや欲求に沿うよう捻じ曲げてしまうのだ。全き自由な状態にあること、と同時に法に完全に支配されてもいるというのは、我々がいついかなる時にも思い知る、人生における永遠のパラドックスである。 

 この文章は、栄光の頂点にいてダグラスと出会ったばかりのワイルドが書いた、最も有名な戯曲の中のセリフと不思議と響き合っている。
 
恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。
恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。
(福田恆存訳『サロメ』、岩波文庫) 

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おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 日本軍の稀に見る美談 漫画:『敗走記』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

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 表題作他、『ダンピール海峡』、『レーモン河畔』、『KANDERE』、『ごきぶり』、『幽霊艦長』を掲載。
 『白い旗』同様、水木しげる自身の体験はじめ、友人・知人などから聞いた話をもとにしている。
 多少の脚色は施してあろうが、根本的にはノンフィクションと言っていいのだろう。

 なかで、ラバウルがあるニューブリテン島で出会った現地の美女姉妹をめぐる逸話『レーモン河畔』が興味深い。
 明日死ぬかもしれない第一線にひょっと現れた現地の美女たちが、無傷で後方まで下がり、無事戦後まで生きのびたという。

 姉妹の父親であるホセは食べるものに困り、日本軍に食糧を求めてきた。
 その見返りとして中隊長が求めたのが、姉妹たちが200名の兵隊のための性処理係になること、つまり従軍慰安婦になることであった。
 日本語は解せないものの趣意を察し、声を上げて泣き出す姉妹の母親。
 爆発寸前の欲望を抑えながらも、一家を可愛そうに思った兵隊たちの意見で、結局、ホセ一家は後方に送られることになった。
 若い女が目に見えるところにいることが、男の心をかき乱すからである。 

 戦後、姉妹の一人は日本人と結婚し、日本に移住した。
 ホッとする話であるが、これが日本軍の“稀に見る美談”として語られたというのだから、通常ならばどうであったか推して知るべし。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 強烈無比のサスペンス 本:『遮断地区』(ミネット・ウォルターズ著)

2001年原著刊行
2013年東京創元文庫

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 現代英国ミステリーの女王と言われるミネット・ウォルターズの野心的な異色作。
 ミステリーというより、群集パニック&犯罪サスペンスの感が強い。

 原題 ACID ROW は「LSDの街」の意。(ROWには「騒動」という意味もある)
 「教育程度が低く、ドラッグが蔓延し、争いが日常茶飯事の場所」であるバシンデール団地に、二人の男が引っ越してきた。
 愚かな保健師の失言から、どちらかの男に小児性愛の前科があることが広まってしまう。
 小さな子供を持ち不安におびえる母親たちは、彼らを追い出すべくデモ行進を企画する。

 少し離れた別の団地では、離婚した母親に連れられて、母親の新たな同棲相手の一家と暮らす10歳の少女エイミーが行方不明になっていた。
 その陰にはどうやら大人の男の影がちらつく。
 警察は、エイミーがなんらかの事件に巻き込まれたものと推定し、少女の実父や母親の元愛人など関係者への尋問を開始する。

 前科者排斥運動と少女失踪――この二つの事件が結びついたとき、すなわち、エイミーがバシンデールに住む小児性愛者の毒牙にかかったという根拠なき噂が生まれたとき、平和裡に行うはずのデモが、死者数名、負傷者多数の暴動に発展する。
 LSDやアルコールで常軌を逸した不良少年たちは、鬱積したエネルギーのはけ口を見つけ、火炎瓶を住宅に投げつけ、車をひっくり返し、スーパーの商品を奪い、小児性愛者の住む家を打ち壊して押し入り、ついには間違った相手をリンチ死に至らしめる。

 二つの事件を結びつけるキーワードが「小児性愛」である。
 この言葉一つで、登場人物たちは色めき立ち、反感と嫌悪を露わにし、それと疑われた男を攻撃・成敗する正当性を身にまとう。
 読者もまた、この言葉の持つスキャンダラスで背徳的で残忍な匂いに惹きつけられつつ、少女の行方を案じ、暴動の一部始終を固唾をのんで見守ることになる。
 物語の冒頭にこれから語られる異常な事件への予告があり、期待感とともに本章に入るや、高いテンションと凄まじい潮流とでぐいぐい核心へ引きずり込まれてしまう。
 その構成と語り口の上手さ、それに多彩なキャラクターの描写力は、さすが「女王」と冠されるだけある。

 実際には、少女エイミーをさらったのはバシンデールの小児性愛者ではなかった。(彼は羊のように大人しい少年愛好者だった)
 誘拐の真犯人もまたロリコンではなく、恐喝が目的だった。
 二つの事件に関わった人々は、「小児性愛」という言葉に踊らされたのであった。
 
 この小説には、イギリスはじめ先進国の抱える様々な社会問題が織り込まれている。
 小児性愛犯罪の増加、LSDなど薬物問題、移民による人種問題、少年の凶悪犯罪、貧困、高齢化、もちろん家庭崩壊。
 といって、ウォルターズには「一石投じたい」、「新たな視点から問題提起したい」といったような“社会派”の気負いは感じられない。
 そこが、『三秒間の死角』、『死刑囚』、『熊は踊れ』、『ボックス21』などで人気のスウェーデンの作家アンデシュ・ルースルンド+1とは違う。
 暴動の中で子どもが亡くなったり、小児性愛者と間違えられた老人が悲惨な姿で窓から吊り下げられたり、といった残酷なシーンがあるにもかかわらず、読んでいる間も読後も、重さや暗さはない。
 ただただ、強烈なサスペンスに酔い、寝不足な日中に弱るばかり。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 映画:『あるスキャンダルの覚え書き』(リチャード・エアー監督)

2007年イギリス
98分

 イギリス出身のジュディ・デンチとオーストラリア出身のケイト・ブランシェット。
 25歳の年の差はあれど、どちらもオスカーに輝く、掛け値なしの名女優である。
 映画でエリザベス一世に扮したという共通点もある。
 この二人に、やはりイギリス出身の名脇役ビル・ナイがからむというのだから、期待するなというほうが無理。

 しかも、この映画は、実際にアメリカであった女教師メアリー・ケイ・ルトーノーによる“児童レイプ事件”をモデルとしている。( “  ” をつけたのは、ソルティはこれをレイプと言っていいのか疑問に思うからである)
 34歳のメアリー先生は、教え子である13歳の少年と恋愛関係に陥り、子どもを二人生んだ。
 90年代末に全米を揺るがすスキャンダルとなったこのニュースを、ソルティも何となく覚えている。
 逮捕され懲役刑に処せられたメアリーは、出所したあと、少年(そのときは無論成人していた)と結婚した。二人は愛を貫いたのだ。(2018年に離婚)
 今年の夏、世間がコロナ一色に染まっている中、メアリーは癌により58歳で亡くなった。
 ソルティは彼女の死のニュースを最近ネットで見たばかりであった。

 本作で、この女教師(本作ではシバという名前が与えられている)を演じるのは、もちろんジュディ・デンチでなくて、ケイト・ブランシェットである。
 思春期の少年が夢中になるのも無理はないと思う美しさと天真爛漫な魅力にあふれている。
 いや、それだけ説得力をもった見事な役作りができている。

 一方、ジュディが演じるのはシバの同僚のベテラン教師バーバラ。
 生徒たちにも同僚にも煙たがられている、頑固でお堅い孤独なオールド・ミスである。
 新任の美術教師としてやって来たシバに好意をもったバーバラは、シバの行動を観察し、自らの覚え書きに記していく。
 シバと生徒との許されぬ関係をたまたま目撃しショックを受けるが、その秘密をシバと自分との関係を深めるために利用しようと企み、あえて口を閉ざす。
 そう、バーバラはクローゼットなレズビアンなのである。

 この映画の真のテーマは、女教師の“少年レイプ事件”を描くことにはなくて、それをダシにしつつ、孤独な初老の女性の不器用な愛を描くことにある。
 したがって、主役はケイトではなくジュディであり、“あるスキャンダル”とは女教師と少年との恋愛&セックスではなくて、抑圧され歪曲したレズビアニズムである。

 深い情熱と高い教養の持ち主であるにもかかわらず、他人と良好な関係を築くことができないストーカー気質の年老いたレズビアン――という、なんとも難しい役を演じるジュディ・デンチがやはり素晴らしい。(ジュディ自身は男性と結婚して娘を生んでいる、おそらくはノンケ女性)
 自らの思い通りにならないシバに対する愛情が一転憎しみに変わるや、シバと少年との秘密を学校関係者に告げ口し、スキャンダルを巻き起こし、シバを苦境に陥れる。
 なんとも陰険でひねくれた、顔も心も醜い女である。

 しかるに、設定上は憎まれ役に違いないのだが、ジュディ・デンチが演じるとただの憎まれ役にはおさまらず、女ひとりが老いて生きることの悲しみと孤独と切なさが、画面を通してじわじわと伝わってくる。
 観る者は、新聞に顔写真がでかでかと載り家族崩壊したシバのこれからの幸せとともに、バーバラの幸せをも願わずにはいられなくなる。
 
 ケイト・ブランシェット然り、ジュディ・デンチ然り。
 名役者というものは、自らが演じる役を――それがどんなに卑劣な、どんなに醜い、どんなに不道徳なキャラであれ――愛するものなのだろう。
 その愛あればこそ、観る者にとっても愛おしいキャラになりうるのだ。


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ジュディ・デンチとケイト・ブランシェット



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 岸田今日子という女優 映画:『地獄』(神代辰巳監督)

1979年東映
131分

 昭和・平成・令和と半世紀以上生きてきたソルティが、「日本社会から消え失せてしまったなあ」と思うものの一つは、エログロである。
 テレビからも映画からも、コミックや週刊誌からも、街頭からも日常会話からも、エロ(猥褻)とグロ(ゲテモノ趣味)はすっかり影を潜めたなあと思う。
 街はキレイになり、脱臭・滅菌志向が国民に行き渡り、コンビニからエロ本は消え、セクハラやパワハラに気を使う男たちは一応モラリストになり、体臭を失った若者は植物化・鉱物化・IT化し、人間関係もまた無機質で表面的なものになった。
 無“性”的で清潔――というのが、令和時代の理想的日本人であろう。
 (今、コロナがそれに拍車をかけている!)

 この映画が作られた昭和50年代、戦後のカストリ雑誌の興隆から続いてきたエログロ人気はすでに下降線にあったと思う。
 いわゆる猟奇趣味は、一部のマニアックな人々の嗜好になっていた。
 「明るく健全」が社会の建前として定着していた。
 が、この映画を観ると、昭和時代のエログロさに今さらながら驚嘆する。
 こんな凄い、PTAクレーム殺到、文部省検閲必死の映画が、メジャーの雄たる東映で制作され、一般公開されていたとは・・・・。
 なんとまあ、寛容な時代であったことか!
 なんとまあ、日本人は猥雑で卑俗であったことか!


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海外で公開されたときのポスター
タイトルはまんま INFERNO (地獄)


 日活ポルノの巨匠・神代辰巳(代表作『赫い髪の女』)のメガホン。
 主演に原田三枝子、共演に岸田今日子、田中邦衛、石橋凌、加藤嘉、林隆三の面々。
 主題歌は山崎ハコ。
 描かれるは、男女のドロドロした愛憎と怨念が渦巻く現世の生き地獄、および来世のほんものの地獄。
 この面子で、このテーマで、健全で清潔でまっとうなものなどできるはずがない。
 『仮面ライダー』で発揮された東映ならではのマンガ的特撮を含め、なんとも形容しがたい、強烈かつ奇天烈な怪作に仕上がっている。
 無類の面白さ!

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閻魔大王(金子信雄)と 茶吉尼天(天本英世)に裁かれるアキ(原田美枝子)


 当時19歳の原田美枝子は、美貌だが演技は素人レベル。
 が、文字通りヌードも辞さない体当たり根性は立派。
 
 その原田を食っているのが、日本が世界に誇る名女優にして怪女優・岸田今日子である。
 この人については、一度考えてみなければならないと思っていた。
 
 ソルティの中で最初にこの女優を意識したのは、山口百恵主演のTBSドラマ『赤い運命』である。
 百恵演じる薄幸の娘・直子の生き別れとなった母親役で出ていた。
「あの腕のホクロ、あれは確かに直子のしるし・・・・」とかいう大映ドラマならではのベタなセリフと過剰な演技が、あの分厚い唇とともに印象に刻まれた。中学生だった。

 それから、子供の頃、毎日曜欠かさず観ていたカルピスまんが劇場『ムーミン』の声がこの人であることを知って驚き、親しみが湧いた。
 
 次のインパクトは、76年の市川崑監督『犬神家の一族』の盲目の琴のお師匠さん役である。
 ほんのちょっとしか出番はないのに、金田一耕助役の石坂浩二や真犯人役の高峰三枝子に匹敵する存在感。それを上回るのは白マスク姿のスケキヨだけであった。
 
 83年フジテレビ系列で放映された『大奥』のナレーションで、岸田は一世を風靡した。
 あの鼻にかかった独特のふるえ声と、婀娜っぽいともストイックともつかぬ語り口。
 ナレーション役が画面に登場するキャラたち――演じるは昭和を代表する錚々たるスターたち――より話題となったのは、後にも先にもあれくらいではなかろうか。
 ソルティもよく岸田のマネをして家族を笑わせたものである。
 
 この頃、都内の映画館で岸田が出演する2本の映画を観た。
 安倍公房原作・勅使河原宏監督『砂の女』と、若尾文子主演・増村保造監督『卍(まんじ)』(どちらも1964年公開)である。
 女優としての真価のほどを見せつけられた。
 どんな役でもこなせるカメレオンのような役者なのだ。
 
 それからは映画に岸田が出てくるたびに嬉しくなり、自然と注目する存在となった。
 なかでも、『この子の七つのお祝いに』(1982年)で岩下志麻サマを完全に食った狂気の母親と、『八つ墓村』(1996年)で物語に不気味な雰囲気を付与する双子の老婆役が記憶に残っている。
 この『地獄』における岸田の演技は、それらを凌駕するインパクトがある。
 地獄にいる脱衣婆や閻魔様より怖い。
 
 残念なことに、ソルティは岸田の舞台を観なかった。
 彼女のマクベス夫人、およびテネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の列車』のブランチは、どんなに素晴らしかっただろう? 
 どちらもまさにピッタリの役である。
 岸田が文学座を脱退した(63年)ことを許さなかった杉村春子は、その後岸田と共演しなかったそうだが、なんともったいないことだろう。
 昭和最高の名女優二人が、テレビでも映画でも共演しなかったのは、誠に残念でたまらない。
 そう、杉村春子を継げるのは、太地喜和子でも、樹木希林でも、大竹しのぶでも、田中裕子でも、小川真由美でも、市原悦子でも、森光子でもなく、岸田今日子だったのではないかと思うのだ。


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 加藤嘉とともに血の池地獄の臼を回す岸田今日子


 冒頭の話題に戻る。
 令和日本から消えたように見えるエログロ。
 もちろん、消えてなどいなくて、インターネットの中に潜り込んだのだ。
 表面から駆除されて、表立って見えないところで一層狂気を増してはびこっている。
 ちょっとネットサーフィンすれば誰にでも分かることだ。
 
 エログロを許さぬ、行政のパンフレットの文句のような“きれいで健全な”社会。
 底に押し込められた魔物が、いつか表面に浮上して復讐するのではないかと危惧するソルティである。
 いや、コロナがそれなのか?
 
 

おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 

● ジェラルディン・ペイジの怪演 映画:『白い肌の異常な夜』(ドン・シーゲル監督)


1971年アメリカ
105分

 ソフィア・コッポラ監督『ビガイルド 欲望のめざめ』(2018)と原作を同じくする約半世紀前の先行作品。
 ストーリーはほぼ同じだが、主要キャラクター設定が微妙に異なり、その違いが馬鹿にならない。

 たとえば、シーゲル版で登場する学園に住み込みで働いている黒人奴隷女性が、コッポラ版には登場しない。
 南北戦争中の南部の女子学校が舞台という設定を考えれば、シーゲル版のほうが自然でリアリティがあり、物語に奥行きも出る。
 コッポラは人種差別問題に触れたくなかったのかもしれない。

 また、最後まで生徒たちを守り抜く気丈なマーサ校長の人物設定もかなり違う。
 コッポラ版のマーサ(=ニコール・キッドマン)は、久しぶりに接する若く逞しくハンサムな脱走兵(=コリン・ファレル)を前に惑溺・葛藤しはするものの、基本的には美しく凛とした女校長であり続ける。
 一方、シーゲル版のマーサ(=ジェラルディン・ペイジ)は、重すぎる背徳を抱えたある種の精神障害者であり、脱走兵(=クリント・イーストウッド)に抱く感情も複雑極まりないものがある。
 このジェラルディン・ペイジの演技が圧巻。
 業に囚われ、性愛の天国と地獄を知った女を、絶妙な表情とたたずまいで演じきっている。
 これにはさしものニコール・キッドマンも形無し。

 どちらの作品がより原作に沿っているのかは知らないが、明らかにシーゲル版のほうが人間心理の奥まで抉り出し、より恐ろしく残酷な物語になっている。
 演出も、撮影も、役者の演技や貫禄も、官能性も、シーゲル版に軍配は上がる。


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脱走兵(イーストウッド)と女校長(ジェラルディン・ペイジ)
黒魔術の儀式のような背徳感あふれる
硬派のシーゲル&イーストウッドには珍しいシーンである


 コッポラ版では女校長の視点に同調して映画を観たソルティ。
 今回のシーゲル版では脱走兵の視点に同調していた。
 男だろうと女だろうと、性別に関係なく主役に同調できるところが、物語鑑賞者としての自分の強みかもしれない。
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 古びるものと変わらないもの 映画:『BOYS ボーイズ』(ミシャ・カンプ監督)

2014年オランダ
80分

 オランダでTV映画として制作され、放映後に大反響を巻き起こし、急遽劇場公開、またたく間に世界展開となった“ボーイズラブ”もの。
 思春期の少年のひと夏の恋の経験が、一編の美しい詩のように、高い完成度で描かれている。
 自然あふれる田舎町の瑞々しい風景、きらめく陽光と水しぶき、丁寧な心理描写、俯瞰やアオリ(仰角)や逆立ち映像などを効果的に使った演出の冴え、適度な長さ(TV映画として作られた恩恵か)。
 BL映画の古典たり得る傑作である。

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 この映画と、より最近(2019年)日本で制作・上映されたLGBT映画『アスリート』をくらべたときに、時の経過により「古びるもの」と「変わらないもの」についての考察を試みざるを得ない。
 どちらも、主人公の男(少年)が、自らの中に呼び覚まされた同性に対する恋心に困惑し、抵抗し、葛藤し、逡巡しながら受け入れていく、という点では変わらない。
 相手が同性だろうが異性だろうが、人が人を好きになるという感情や、それに付随して起こるさまざまな思いは同じである。また、世の中では多かれ少なかれ“異端視”される同性愛を、自らのものとして受け入れていく困難も、洋の東西問わず、同じである。
 こういった感情の部分は古びない。
 
 一方、登場人物が抱えるそうした感情をどう表現していくかという段階で、陳腐になったり、旧態依然であったり、斬新であったり、新しい価値観を世に送ることになったり、という違いが生じてくる。
 つまり、素材は同じでも調理法が違えば、出来上がった料理はまったく違うものになる。
 調理法とは、創作者(主として監督)の感性、世界観、価値観、人間観、思想性、世の中との距離の取り方などの反映であり、映画の場合、具体的には脚本や演出にあらわれる。
  
 この映画を「ボーイズラブもの」とくくってしまうのにいささか抵抗をおぼえるのは、これが LGBT 映画というよりも、思春期の少年の心情を描いた“普通”の映画という印象を受けるからだ。
 普遍性がある。
 そこには、「同性愛というのは別に特別なものじゃない」というミシャ監督の揺るぎない世界観があり、観る者はそこに新しい料理を発見し、飛びつくのである。(オランダではTVで放映されたという点に国民性を感じる)


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 俯瞰で描く、少年たちのはじめてのキスシーン



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● フェミニズム回避 映画:『めし』(成瀬巳喜男監督)

1951年東宝
97分、モノクロ

 原作は林芙美子の遺作小説。
 監修に川端康成の名が上がっている。
 
 熱烈な恋愛の末、周囲の反対を押し切って結ばれた初之輔(=上原謙)と三千代(=原節子)であったが、二人だけの生活も5年もするとマンネリ化してくる。三千代は、「台所と茶の間を行ったり来たり」だけの人生でいいのか、と思い悩む。
 そんなとき、東京に住む初之輔の姪・里子が、親の決めた縁談を嫌い、家出して夫婦のもとに転がり込んでくる。奔放な里子の振る舞いに眉を顰め、里子と初之輔の仲の良さに嫉妬する三千代であった。
 
 倦怠期の夫婦を描いた作品と解説されることが多いが、これはむしろ、フェミニズム的テーマを含んだ問題作の片鱗がある。
 片鱗――というのは、原作は未完で、林芙美子がどういう結末を用意していたか誰にも分からないからだ。
 原作は、三千代が「これからの人生を考える」ために東京の実家に帰ったところで終わる。
 三千代がこのまま初之輔と別れ、東京で仕事をみつけて自立するなら、本作はフェミニズム小説(映画)になりえただろう。
 だが、実際の映画は、東京まで迎えに来た初之輔に三千代が情愛を感じ、一緒に列車に乗って大阪に戻るところでエンドクレジットとなる。
 窓外を流れる景色を見ながら、三千代は心の中で呟く。
「愛する男と一緒に幸福を求めながら生きていくことが、女の幸福なのかもしれない」
 
 ソルティは林芙美子を読んだことがないので作風も人物も知らないのだが、流行作家としてジャーナリズムを賑わせたことから察するに、「結婚して家に入って炊事・洗濯・夫と子供の世話に明け暮れる」ことを女の幸福と考える人じゃないのは確かだと思う。
 この映画の結末は、東宝サイドの「二人を離婚させるな」という要望を汲んでのことらしく、林芙美子ファンの間では評判が良くないようだ。
 さもありなん。
 
 だが、当時の観客の多くにとっては(男はもちろん女の観客も)、三千代が夫のもとに戻る結末にホッとしただろうし、上記の三千代の独白にも「そのとおり」と頷いたことだろう。
 女性の自立を映画で描くには、20年ばかり早かったのだ。
 
 往年の美男美女スターである上原謙と原節子は、ここでは円熟の色を見せている。美より技を感じさせる演技である。(いや、二人とも十分美しいが)
 三千代の母親役の杉村春子も、ここではいつもの「おきゃんで口やかましい下町風おばさん」とは違った、やさしい日本のおふくろを演じ、その穏やかな笑顔は心にしみる。
 
 戦後の日本、とくに夫婦が住む大阪の風景(中之島公園、大阪城、道頓堀など)が映し出され、興味深い。
 
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上原謙(42)と原節子(31)



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● どんでん現象、あるいは遅れてきたセクマイ 映画:『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』(大江崇允監督)

2019年
89分

 レンタルDVDショップで見つけた LGBT映画。

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妻に捨てられた中年の海堂(=ジョーナカムラ)はやけ飲みした晩に、年下の美青年ユタカ(=こんどうようぢ)と出会う。二人は互いの孤独を埋めるように共に暮らし始める。そのうち、これまで男性経験のないノンケだった海堂は、ユタカを愛するようになる。だが、もとからゲイであるユタカには家族との関係など屈折した感情があり、二人の溝はすんなり埋まらない。

 どこかで聞いたような話だなあ~、と既視観が起こるのも無理はない。
 ちょっと前に一世を風靡したテレビドラマ『おっさんずラブ』の主人公・春田創一(= 田中圭)と同居人・牧凌太(=林遣都)の関係にかぶっている。春ちゃん:牧=海堂:ユタカ、である。
 もっとも、春ちゃんは中年と言うにはまだ早い。海堂と違って結婚もしてなければ子供もいない。

 LGBTドラマに昔からよくあるパターンとして、ゲイがノンケを好きになって叶わぬ思いに苦しむというのがある。マニュエル・プイグ原作『蜘蛛女のキス』とか、橋口亮輔監督『渚のシンドバッド』とか・・・。イバン・コトロネーオ監督『最初で最後のキス』なんかは、そのパターンのもっとも悲劇的な結末を描いている。
 『おっさんずラブ』のヒットの影響からか、あるいは実際に巷でそういう現象が増えているのか、ノンケの男がふとしたはずみで同性愛に目覚めてしまうという、これまでとは逆ベクトルのストーリーが昨今求められている(?)ようである。
 もちろん、腐女子もといBL(ボーイズラブ)の世界では、そうした設定は「王道」と言ってもいいくらいの使い古されたパターンであるが、それが今、BL界を越えて世間に流出してきたかのようだ。
 ちなみに、そういう現象を業界用語で「どんでん」と言ったものだが、今でも使われているのだろうか?

 既視感はもうひとつある。
 ソルティは観ている途中で、この映画の制作年を確認せざるをえなかった。
 「2019年」って昨年じゃないか。
 令和元年じゃないか。
 『おっさんずラブ』以後じゃないか。

 しかるに、この映画のタッチというか、雰囲気というか、描かれている世界観というか、LGBTに対するイメージというか、ともあれ全体の質感が、ほとんど80年代のゲイ映画、いやもっと特定するなら当時新宿や上野の専門映画館で上映されていた薔薇族映画のそれとよく似ているのだ。
 つまり、なんだか暗くて、後ろめたくて、隠花植物的で、十字架を背負っている風で・・・・といった感じである。

 ユタカの近所に住む若い女性たちが通り過ぎるユタカを見て、「あの人、ゲイだって。気持ち悪いよね~」と聞こえよがしに言ったり、新宿2丁目で飲んでいるノンケらしい二人組の若いリーマンが道に立つ女装子を見て、「おかま、無理無理」と口にしたり、どうにもこうにも古いのだ。
 いや、もちろん同性婚が政治テーマに浮上した令和の今だって、差別はある。偏見を持つ人はたくさんいる。当事者にだって、周囲にカミングアウトしてゲイリブに生きる人から、昭和時代を背負ったまま年を重ねたクローゼットまで、いろいろいる。なにも無理して、「明るくポジティブで未来志向の LGBT像」を描いてくれなくてもよい。
 が、ここに描かれる LGBT観はあまりにも旧式である。

 いったい、なんでこんなことが起こったのだろう?
 世間の流れに疎いソルティが知らないだけで、2丁目界隈にちょっとしたバックラッシュが起きているのだろうか?
 あるいは、生粋の(?)当事者自身がもつ令和時代の LGBT観と、最近「どんでん」したばかりの元ノンケ(遅れてきたセクシャルマイノリティ)のもつ LGBT観の、ギャップによるものなのか?
 なるほど、この映画はゲイであるユタカの視点より、元ノンケである海堂の視点が濃い。
 ひょっとして、制作サイドに生粋の当事者がいないのでは?

 WAHAHA本舗の「梅ちゃん」こと梅垣義明が、ゲイバーのママ役で出演しているのが見物。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

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 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『なんでもアリの国イギリス なんでもダメの国ニッポン』(山形優子フットマン著)

2012年講談社より『けっこう笑えるイギリス人』の表題で発行
2013年講談社文庫

 ソルティは比較文化論は面白いと思うのだが、ある一国と日本とをくらべて日本のダメなところをあげつらうような本はあまり好きでない。
 とくに、マークス寿子以来、日本とイギリスをくらべて日本および日本人を批判するようなものが多い。
 本書もタイトルからしてその匂いぷんぷんで、借りるつもりはなかったのだが、イギリス人と結婚した在英生活30年の女性が見たイギリスという国およびイギリス人の生態が興味深く、つい借りてしまった。

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 読んでみたら、単純にイギリスを持ち上げ日本を下げているのではでなく、イギリスの良くないところ(不衛生、テロなど暴動が多い、医療システムがうまく機能していない等)、日本の良いところも、しっかりと指摘している。
 とくに衛生観念や医療制度に関しては、このたびの世界各国のコロナ事情で判明した通り、日本人のそれは素晴らしいものがある。「日本に比べて、我が国は・・・・」と憤っている外国人(イギリス人含む)だって決して少なくないはずだ。
 一方で、コロナに感染した人への風当たりの強さには、やはり日本人独特の陰湿さを感じざるを得ないのも事実である。
 いじめや村八分がかくも問題となる背景には、日本社会の同調圧力の強さがある。
 それを「島国根性」と理由付けできないのは、同じ島国であるイギリスでは事情が異なるからである。

 一言で言えば、英国は「人と違う」ことを評価する国だ。そして日本は「人と同じ」ことを評価する国なのだ。
 両方とも島国なのに、まるで正反対なのが愉快だ。でも、どっちが面白いかと言えば、「人と違う」のがたくさんいるほうが面白いし、飽きが来ない。一方、日本のように「人と同じ」ほうが安心と言う人がいるが、とてもそうは思えない。
 人と同じになるためには常に他人をチェックしなければならないし、常に自分が他人と同じかどうか比べて吟味しなければならない。そんなの、疲れるし飽きてしまう。本音がどうなのかわからなくて疑心暗鬼になりそう。
 基準が他人にあるということは、流されるのを前提として初めて成立する。


 ソルティは、物心ついた頃より「自分が周りの男とは違う」という漠たる意識を持っていた。
 それが思春期を迎え、周囲の男女が色気づく頃から徐々に確たるものとなり、「本当の自分」を隠すようになっていった。
 むしろ、本質的に「人と違う」ところ(ゲイセクシュアリティ)を持つがゆえに、それ以外のところでは積極的に「人と同じ」であろうと無駄に骨折ったようにも思う。
 つまり、同調圧力を推進する側に、異端を排斥する側についてしまうのだ。
 結局、それは自己分裂を招かざるを得ないので、20代の終わり頃に破綻してしまった。


破綻


 そこからは、とにかく同調圧力の強い環境(=「人と同じ」ことを求める場)からはできるだけ逃走しようというのが、生きる上での信条となった。 
 組織(とくに大きな)に属することに対する忌避感はそのあたりから来ている。

 ソルティのイギリス愛にはそれなりの根拠があるのだ。
 (濃かった前世の一つというのが一番の理由だと思っているが)



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● メルヴィルと三島 本:『ビリー・バッド』(ハーマン・メルヴィル著)

1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★ 
最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● Very English ! TVドラマ:『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』

2018年BBC制作(イギリス)
174分(全3話)
原題:A Very English Scandal

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 これ、実話なのである。
 70年代後半にイギリスを騒がせた自由党党首ジェレミー・ソープにまつわるセックススキャンダル。
 大物政治家の下半身にまつわる醜聞なんぞ今さら珍しくもあるまいに・・・・・と思うところだが、これが Very English (まったくイギリス的)なのはソープの相手が男性だったことによる。
 つまり、国家主席の座を狙えるところまで立身出世した男の同性愛スキャンダルである。
 
 ソルティはソープ事件という名は聞いたことがあったが、くわしいことは知らなかった。
 当時はインターネットはむろん衛星放送なんてものはなかったし、日本のメディアでこのニュースが喧伝された記憶がない。(70年代後半といったら、ピンクレディーが旋風を巻き起こし、キャンディーズが引退した頃である←ミーハー)
 同性愛ネタをどう取り扱っていいものか、日本のマスコミもわからなかったのではないか。
 いや、そもそもニュースヴァリューをそこに発見しなかったのかもしれない。
  
自由党党首ジェレミー・ソープは、かつて同性愛関係にあった10歳年下のノーマン・ジョシフの口を封じ込めるため、腹心の部下の手づるから殺し屋を雇って、ノーマンを抹殺しようと諮る。
が、計略は失敗し、危ういところで生き延びたノーマンは、すべてを当局とマスコミに話す。
ソープは逮捕され、世論を巻き込んだ裁判となる。

 
 イギリスでは1967年に同性愛を罰する法律、いわゆるソドミー法が廃止された。
 ソープとノーマンが出会い付き合っていた頃(60年代初頭)こそ同性愛は違法であったものの、裁判が始まった1978年は違法ではなかった。
 だから、裁判で罪が問われたのは二人の同性愛関係の有無ではなくて、ソープがノーマンを殺そうとしたのか否かという点であった。
 結果的には、ソープおよびその一味は無罪を勝ち取った。
 同性愛についてはソープは最後の最後まで否定し、すべてノーマンの悪意あるでっち上げであると主張した。
 
 判決は無罪であったがイメージ失墜は決定的で、ソープは政界を離れざるを得ず、その後の人生もままならなかったようである。
 このドラマでは、ソープとノーマンの出会いから裁判の終焉までの約20年が描かれているが、その中で二人の同性愛関係は既定の事実としてキスシーン含め映像化され、ソープによるノーマン謀殺計画も実際にあったものとしてみなされている。
 ジョン・プレストンによる同名の原作が出版されたのは2016年、その2年前にソープと彼の妻はあいついで亡くなっている。二人が亡くなったので、判決とは別の「いま一つの真実」が公表できたのだろう。
 おそらくは、このドラマに描かれたあたりが本当にあったことなんじゃないかとソルティは思ったし、イギリス国民の多くも当時も今もそう思っていることであろう。
 つまり、同性愛者であることのスティグマは、たとえそれが違法ではないにしても、一人の政治家が人殺しを企てても絶対にその志向を隠し通したいほどに強いものだったのであり、その噂が立つだけで政治生命が失われるほどに致命的なものだったのだ。
 
 主役の二人を演じる役者が素晴らしい。
 野心家ソープを演じるのは、ヒュー・グラント。
 あのジェイムズ・アイボリー監督によるゲイ映画の金字塔『モーリス』で、モーリスの親友クライヴを演じた往年のイケメン男優である。
 『モーリス』では、クライヴは自らのゲイセクシュアリティを受け入れることができず、地位と金のある女性と結婚し、政治家を志す。
 まるで本作のソープは、クライヴの数十年後の姿のよう。
 なんとも痛ましい。
 ヒュー・グラントは瞳で感情を表現するのがうまい。
 
 愛人ノーマンを演じるのは、演技力に定評ある美男子ベン・ウィショー。
 『クラウド・アトラス』でもゲイの音楽家の役だったが、どうやら実際にLGBTの人らしい。『白鯨との闘い』では作家ハーマン・メルヴィルを演じていた。
 不幸な生い立ちのノーマンは精神不安定な青年で、見ようによっては同性愛をネタにソープを強請る、たちの悪い恐喝者である。
 そこを持ち前の感性豊かな表情と繊細な演技とで、“ダメ男だけれど愛されキャラ”に造り上げている。
 彼が裁判中に“愛のカタチ”の自由を訴えるシーンは心を打つ。
 
 ドラマ的には、ソープ=悪役=クローゼット(隠れホモ)親父、ノーマン=正義=ゲイリブの若者、といった位置づけではあるけれど、二人とも差別と抑圧の犠牲者であることに変わりない。
 特にソープの姿に、セクシュアリティの抑圧と自己否定が生みだす人生の歪みと悲しみとを見出すことができよう。
 そして、それを変えていこうとする勇気と希望が、若いノーマンの姿に託される。
 単なる内幕暴露の物語に終わっていないのはさすが Very English のBBCである。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● 「口裂け女」考 本:『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(常光徹著)

2016年河出書房新書

 民俗学というと、「ちょっと昔」の庶民の風俗やしきたりや言い伝えを調査研究する学問というイメージがある。
 大体、江戸時代から太平洋戦争前くらいの「昔」というか。
 勝手にそう思い込んでいたが、別に誰がそう決めた、定義したというわけでもないらしい。

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 本書は、第1部「うわさ」編と第2部「俗信」編に分かれている。
 第2部こそ土地に残る古くからの言い伝えを取り上げ考察するという従来の民俗学の範疇におさまるものだが、第1部は副題に「現代の世間話」とある通り、現代それも70年代くらいから巷で流行った噂話が列挙されている。
 いわゆる「都市伝説」というやつだ。
 これが面白い。
  • 学校のトイレにまつわる怪談 「赤い紙・青い紙」
  • 口裂け女 「わたし、きれい?」
  • 人面犬
  • 首なしライダー
  • ピアスの穴
  • 会社訪問のうわさ 「男は黙ってサッポロビール」
  • とんだヘアー
  • フランスのブティックの試着室
等々
 どこから、何がきっかけで起こったかは知らないけれど、子供や若者を中心に一世を風靡(?)した怪談や滑稽譚に光を当てている。
 10~20代をボーっと、どちらかと言えば非社交的に生きていたソルティも聞いたことがあるものばかり。懐かしい感があった。
 上のタイトルだけ見て、「ああ」とすべて分かる人は、ソルティとほぼ同世代かそれ以上だろう。

 著者の常光徹(つねみつ・とおる)は1948年高知県生まれ。
 学生の頃から民俗学に興味を持ち、中学校の教師をしながら北陸や東北の民話について調査研究をすすめていたが、年を追うごとに語り手がいなくなり、伝承の衰退を感じていた。
 そんなとき、児童文学作家の松谷みよ子に、「目の前の伝承をみつめてみては」と言われたのがきっかけとなり、教え子である都会の子供たちを対象に話を採取したそうだ。
 それが1985年(昭和60年)のことというから、まさに昭和末期あたりからの都市伝説が出揃ったわけである。

 こういった都市伝説は、話自体の奇妙さや怖さや不合理さなどの分析、あるいは伝播経路やバリエーションの調査もさることながら、なんでその噂が当時流行ったのか、その話のどこにその時代の若者たちの意識(無意識)を揺り動かすものがあったのか、を探ることこそが面白いと思う。
 著者がそのへんをもう少し突っ込んでくれたら、という感はする。

 たとえば、口裂け女が流行ったのはソルティが高校生の頃(1979年)だったが、いま自己分析すると、当時は意識していなかったが、両耳まで裂けた女の口の形状におそらく女性器を連想し、それに噛みつかれる=去勢恐怖があったのではないかと思う。
 それがひとり童貞少年の怯えにおさまらず、メディアを騒がし全国区になったのは、やはり、「女が強くなった、女が性を語るようになった」という時代風潮が背景としてあったからではなかろうか。

 一方、口裂け女には、怖いだけでなく、どこか孤独で寂しい匂いも感じていた。
 その匂いは、ソルティの中では、後年(1997年)の東電OL事件につながっている。
 やはり、性に絡んでいる。
 性に絡むことは、一般に人々が抑圧し意識に登らせないことが多いので、逆にこういう単純には説明のつかない噂話の形をとって顕在化しやすいのではなかろうか。

口裂け女
 1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題にまで発展した都市伝説。
 口元を完全に隠すほどのマスクをした若い女性が、学校帰りの子供に 「私、綺麗?」と訊ねてくる。「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す。するとその口は耳元まで大きく裂けていた、というもの。「きれいじゃない」と答えると包丁や鋏で斬り殺される。
 この都市伝説は全国の小・中学生に非常な恐怖を与え、パトカーの出動騒ぎ(福島県郡山市・神奈川県平塚市)や、北海道釧路市・埼玉県新座市で集団下校が行われるなど、市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した。
(ウィキペディア『口裂け女』より抜粋)
 
 コロナ禍のいま、外を歩いているのはマスク女性ばかりなので、口裂け女にとっては良い隠れ蓑になるはず。
 再来するか?
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Ed ZilchによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★

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● 救世軍とは 映画:『骨までしゃぶる』(加藤泰監督)

1966年東映
88分、白黒

 藤純子主演『緋牡丹博徒 お竜参上』や『江戸川乱歩の陰獣』などの傑作で知られる加藤泰の撮った明治時代の郭もの、ということで興味を持ち、レンタルした。

 まず、白黒とは思わなかった。
 加藤泰の作品は、そのローアングルに徹した奇抜な構図と共に、色彩のシュールなまでの鮮やかさが印象に強いからだ。
 しかし、66年というのは日本ではまだ白黒映画が主流だった頃か。66年キネ順ベストテンを見ると、白黒とカラーの割合は半々である。(『大魔神』の撮られた年だ)
 舞台は遊郭である。カラーだったら魅力倍増、間違いなかったろう。

 出演者がいい意味で地味め。
 主演の桜町弘子は東映の時代劇や任侠映画によく出ていたようだが、はじめて顔を見知った。
 共演の久保菜穂子は大映の眠狂四郎シリーズに何作か出ていて、ソルティは顔なじみであったが、一般には知られていまい。
 渋い重鎮俳優の代名詞たる夏八木勲がこの作品でデビューしている。遊郭はじめての大工の童貞青年役を演じているのが可愛い。
 本作の出演者中、もっともよく知られているのは、おそらく菅井きんだろう。
 遊郭の情け容赦ないやり手ババアを演じて、まさにドンピシャの名演である。こういう役をやらせたら彼女以上の役者はなかなかおるまい。それでも昔は御職(女郎のトップ)だったというから愉快。

 『吉原炎上』、『海は見ていた』、『赤線地帯』など、ソルティは遊郭映画は結構見ているので、本作で描かれる遊郭のしきたりや仕組みや雰囲気にことさら目新しいものは感じない。
 が、腹が立つのはやはり労働搾取である。
 貧しい家の娘を莫大な借金をかたに遊郭に連れてきて、一晩に何人もの客を相手に性的奉仕させる。
 主人公の娘おきぬ(=桜町弘子)がつとめる遊郭の経営者夫婦が、入ったばかりのおきぬが稼いだ金を勘定するシーンがあるが、おきぬの取り分はそのうちの五分(5%)と言う。
 なんつー、不当搾取か。
 その五分でさえ、そこから部屋の貸し賃やら食事代やら着物代などが差っ引かれていき、結局、最初の借金は減らないどころか膨らんでいく仕組みになっている。親元に仕送りするどころか、永遠に足ヌケできない。客から病気をもらうなり、歳とって売れなくなるなりして、お払い箱になる日まで。

 ソルティは性を売り買いすることにはそれほど目くじらを立てるものではないが、この頑張っても稼げないあこぎな仕組みには無性に腹が立つ。

 おきぬは客として来た大工の青年(=夏八木勲)と惚れ合って、夫婦の契りをし、救世軍の助けを借りて足ヌケする。
 郭ものとしては、数少ないハッピーエンドなのではないか。


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公娼廃止を訴える救世軍のシーン


救世軍とは
プロテスタントの伝道,慈善団体。メソジスト派の牧師であったウィリアム・ブースが独立して,1865年ロンドンのスラム街で Christian Missionの名のもとに貧民への伝道を始め,78年軍隊組織を模して救世軍と名を改めた。聖書を唯一の権威とし,制服をまとい音楽を用いて街頭に進出,貧民への伝道,救済活動を行い,全世界 (約 70ヵ国) に広まった。日本には 95年イギリスより渡来し,山室軍平らの努力で普及,東京に本営を構え,機関誌『ときのこえ』を出し,廃娼運動などの社会改革運動を行い,年末の社会鍋などで親しまれている。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用)


 知り合いのカトリックのシスターが、「救世軍」のことをいつも「十字軍」と言い間違えていたことを思い出す。
 プロテスタントの活動だったからなのだ。



おすすめ度 : ★★★

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● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
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アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

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● 本:『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎監修)

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2019年(株)カンゼン

 人類の歴史上、江戸時代の日本くらい男色天国だった場所は、そうそうないだろう。
 比肩できるのは、古代ギリシアと古代ローマくらいか。
 ま、ソルティは同性愛の歴史にはたいして詳しくないのだが・・・。

 「ある時代に、ある国が、同性愛に寛容であった(ある)かどうか」にもっとも強い影響をもつのは、間違いなく宗教である。
 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の影響下にある国々では、同性愛は基本ご法度である。
 仏教は本来、異性間・同性間を問わず、みだらな性行為を戒める。これは思想的・道徳的理由というより、単に修行の邪魔になるからである。大乗仏教の流れで日本にやって来て、なぜか女色一般を禁じるものとなり、寺院では男色がはびこることとなった。
 儒教は宗教というより哲学に近いと思うが、「家」を重んじる教えは、子孫を残さない同性愛行為を喜ばない。
 ヒンズー教についてはよくわからない。イギリス支配下のインドはむろん、キリスト教道徳に洗脳された。
 
 思うに、一神教は同性愛に厳しく、多神教は寛容なのではあるまいか?
 古代ギリシア、古代ローマ、日本の共通点を探すと、多神教=アニミズム文化というあたりに手掛かりがありそうである。
 すべてのものに神を見る感性とは、つまり、「存在するものはなべて喜ばしい」と現世肯定する思想であろう。現実的に一つの現象として同性愛があるのだから、「それはそれでOKじゃん」――ってことなのじゃなかろうか。
 
 本書は、最寄りの図書館で借りたのだが、「まあ、よくこのような本を仕入れて、貸出してくれるなあ~」と感心した。
 江戸時代の少年男娼たる「陰間」について、その生態から分布から仕事ぶりまで事細かに解説しているのはともかく、掲載している図版(浮世絵)が凄い。
 チョンマゲの成人男性が、雁の張った立派なへのこ(ペニス)を少年の菊門(アナル)に挿入しているそのものずばりの図版、いわゆる春画が、カラーグラビアも含めて何十枚と載っている。もちろん、ぼかしも黒塗りもない。
 
 昭和の昔、春画を扱った映画が銀座で上映されるというので、前売りチケットを買って楽しみに待っていたら、事前に司直の手が入り、上映中止になった。
 「なんつー、野暮な!」と憤りを感じたのを覚えている。
 浮世絵人気爆発の昨今であるが、つい最近、大墻敦(おおがきあつし)監督によるドキュメンタリー『春画と日本人』が全国公開された。(ソルティ未見)
 
 日本人のアイデンティティの底にある多神教的感性(別名エロ礼讃)は、そう簡単に塗り替えられるものではないのだろう。


男色春画

 
 

● 三船敏郎のケツと汗 映画:『野良犬』(黒澤明監督)

1949年東宝
122分、白黒

 いまさら評すまでもない黒澤映画の傑作。
 同じ黒澤の『天国と地獄』と並び、その後の日本の刑事ドラマ――『砂の器』、『七人の刑事』、『太陽にほえろ!』、『西部警察』、『踊る大捜査線』等々――の基本型をつくった作品と言えよう。
 全編に漲るリアリティ、庶民性、迫力、抒情性、そして志村喬をはじめとするベテラン役者たちの演技に魅了される。
 主演の三船敏郎の色気にはクラクラさせられる。
 あのケツの肉付きよ!

 舞台は闇市が立ち並び、コケた頬の復員服姿の男がうろうろする戦後の東京。
 新米刑事の村上(=三船敏郎)は、混雑するバスの中でピストルを掏られる。
 そのピストルを使用した強盗や殺人、先輩刑事への襲撃が続く中で、村上は苦悩し、犯人探しに執念を燃やす。

 戦後の日本の貧しさ、汚らしさ、暑苦しさが実によく描かれ、生々しく伝わってくる。
 とくに暑苦しさ!

 物語は夏の盛りで、登場人物たちは誰もみな、吹き出る汗をハンカチでしきりにぬぐい、団扇や扇子で顔や胸をひたすら扇ぎ、扇風機を一人占めにし、「暑い、暑い」と繰り返す。
 一昔前の日本の夏はそんなに暑かったのか?
 ――と一瞬思うが、むろん今のほうが暑い。
 
 気象庁のデータを見ると、この映画が撮られた1949年8月の東京の平均気温は26.6度、前後3年(1946~52年)の平均をとってもそのくらいである。
 一方、2019年8月の東京の平均気温は28.4度だった。過去6年(2013年~)を加味した平均は 27.6度。
 つまり、映画製作当時よりも真夏の平均気温が1度上昇している。
 たった1度と思うなかれ。
 月の平均気温が1度上がるということは、3日に1日は30度近い日(26.6+3.0)があるということだ。最高気温でなく、一日の平均気温が!・・・である。


流氷に乗った白熊

 全編を覆うこの映画の暑苦しさの理由は、もちろんシロクマくん(=エアコン)がなかったからである。
 エアコンが一般家庭に普及したのは昭和40年代に入ってからで、平成に入ってやっと6割を超えた。現在の普及率9割程度である。(参考「ガベージニュース」)
 つまり、昭和時代、会社やホテルや喫茶店や公共施設は別として、一般家庭でエアコンがあるのは4割以下に過ぎず、しかも今のように各部屋に一台ずつ備わっているなんてのは、スネ夫の家のような、よっぽどの金持ちに限られていたのだ。
 外回りして聞き込み捜査する刑事たちは、汗みずくにならざるをえなかった。
 真っ黒に日焼けせざるを得なかった。

 ソルティは、平成以降の刑事ドラマにどうにも興味が湧かないのであるが、たぶんその理由の一つは、登場する刑事たちが汗をかかなくなった、シャツを背中に張り付かせなくなった、清潔に(無機質に)なってきた、というあたりにある。
 だってねえ、三船敏郎の汗の美しさといったら・・・。


三船敏郎の汗



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● 映画:『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン監督)

2011年アメリカ
102分

 TUTAYAのサスペンス&ミステリーのコーナーにあったので、「結末は誰にも教えないでください」的なサイコストーリーかと思ったら、案外ちゃんとした心理ドラマであった。

 カルト団体での2年間の集団生活から逃げ出した少女マーサの後遺症を、丁寧に描いたものである。
 映像が見事。

 カルト団体に加入したばかりの新人に対し、古くからの仲間たちは言う。
 「ここでのあなたの役割を見つけなさい」
 集団の中で独自の役割を持たせること。
 それが団体依存させるコツなのだろう。
 
 マーサの姉役のサラ・ポールソンが好演している。
 ニコール・キッドマン似の金髪美女で、2007年にレズビアンをカミングアウトしている。
 カミングアウト後もヘテロ女性の役を普通に演じられるところが、アメリカショービズ界のふところの深さか・・・。
 演技なのだから、演じる俳優のセクシュアリティは演じる役のそれとは本来なら関係ないのだけれど、日本だったらどうだろう・・・?


百合



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