ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

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 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『なんでもアリの国イギリス なんでもダメの国ニッポン』(山形優子フットマン著)

2012年講談社より『けっこう笑えるイギリス人』の表題で発行
2013年講談社文庫

 ソルティは比較文化論は面白いと思うのだが、ある一国と日本とをくらべて日本のダメなところをあげつらうような本はあまり好きでない。
 とくに、マークス寿子以来、日本とイギリスをくらべて日本および日本人を批判するようなものが多い。
 本書もタイトルからしてその匂いぷんぷんで、借りるつもりはなかったのだが、イギリス人と結婚した在英生活30年の女性が見たイギリスという国およびイギリス人の生態が興味深く、つい借りてしまった。

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 読んでみたら、単純にイギリスを持ち上げ日本を下げているのではでなく、イギリスの良くないところ(不衛生、テロなど暴動が多い、医療システムがうまく機能していない等)、日本の良いところも、しっかりと指摘している。
 とくに衛生観念や医療制度に関しては、このたびの世界各国のコロナ事情で判明した通り、日本人のそれは素晴らしいものがある。「日本に比べて、我が国は・・・・」と憤っている外国人(イギリス人含む)だって決して少なくないはずだ。
 一方で、コロナに感染した人への風当たりの強さには、やはり日本人独特の陰湿さを感じざるを得ないのも事実である。
 いじめや村八分がかくも問題となる背景には、日本社会の同調圧力の強さがある。
 それを「島国根性」と理由付けできないのは、同じ島国であるイギリスでは事情が異なるからである。

 一言で言えば、英国は「人と違う」ことを評価する国だ。そして日本は「人と同じ」ことを評価する国なのだ。
 両方とも島国なのに、まるで正反対なのが愉快だ。でも、どっちが面白いかと言えば、「人と違う」のがたくさんいるほうが面白いし、飽きが来ない。一方、日本のように「人と同じ」ほうが安心と言う人がいるが、とてもそうは思えない。
 人と同じになるためには常に他人をチェックしなければならないし、常に自分が他人と同じかどうか比べて吟味しなければならない。そんなの、疲れるし飽きてしまう。本音がどうなのかわからなくて疑心暗鬼になりそう。
 基準が他人にあるということは、流されるのを前提として初めて成立する。


 ソルティは、物心ついた頃より「自分が周りの男とは違う」という漠たる意識を持っていた。
 それが思春期を迎え、周囲の男女が色気づく頃から徐々に確たるものとなり、「本当の自分」を隠すようになっていった。
 むしろ、本質的に「人と違う」ところ(ゲイセクシュアリティ)を持つがゆえに、それ以外のところでは積極的に「人と同じ」であろうと無駄に骨折ったようにも思う。
 つまり、同調圧力を推進する側に、異端を排斥する側についてしまうのだ。
 結局、それは自己分裂を招かざるを得ないので、20代の終わり頃に破綻してしまった。


破綻


 そこからは、とにかく同調圧力の強い環境(=「人と同じ」ことを求める場)からはできるだけ逃走しようというのが、生きる上での信条となった。 
 組織(とくに大きな)に属することに対する忌避感はそのあたりから来ている。

 ソルティのイギリス愛にはそれなりの根拠があるのだ。
 (濃かった前世の一つというのが一番の理由だと思っているが)



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● メルヴィルと三島 本:『ビリー・バッド』(ハーマン・メルヴィル著)

1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★ 
最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● Very English ! TVドラマ:『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』

2018年BBC制作(イギリス)
174分(全3話)
原題:A Very English Scandal

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 これ、実話なのである。
 70年代後半にイギリスを騒がせた自由党党首ジェレミー・ソープにまつわるセックススキャンダル。
 大物政治家の下半身にまつわる醜聞なんぞ今さら珍しくもあるまいに・・・・・と思うところだが、これが Very English (まったくイギリス的)なのはソープの相手が男性だったことによる。
 つまり、国家主席の座を狙えるところまで立身出世した男の同性愛スキャンダルである。
 
 ソルティはソープ事件という名は聞いたことがあったが、くわしいことは知らなかった。
 当時はインターネットはむろん衛星放送なんてものはなかったし、日本のメディアでこのニュースが喧伝された記憶がない。(70年代後半といったら、ピンクレディーが旋風を巻き起こし、キャンディーズが引退した頃である←ミーハー)
 同性愛ネタをどう取り扱っていいものか、日本のマスコミもわからなかったのではないか。
 いや、そもそもニュースヴァリューをそこに発見しなかったのかもしれない。
  
自由党党首ジェレミー・ソープは、かつて同性愛関係にあった10歳年下のノーマン・ジョシフの口を封じ込めるため、腹心の部下の手づるから殺し屋を雇って、ノーマンを抹殺しようと諮る。
が、計略は失敗し、危ういところで生き延びたノーマンは、すべてを当局とマスコミに話す。
ソープは逮捕され、世論を巻き込んだ裁判となる。

 
 イギリスでは1967年に同性愛を罰する法律、いわゆるソドミー法が廃止された。
 ソープとノーマンが出会い付き合っていた頃(60年代初頭)こそ同性愛は違法であったものの、裁判が始まった1978年は違法ではなかった。
 だから、裁判で罪が問われたのは二人の同性愛関係の有無ではなくて、ソープがノーマンを殺そうとしたのか否かという点であった。
 結果的には、ソープおよびその一味は無罪を勝ち取った。
 同性愛についてはソープは最後の最後まで否定し、すべてノーマンの悪意あるでっち上げであると主張した。
 
 判決は無罪であったがイメージ失墜は決定的で、ソープは政界を離れざるを得ず、その後の人生もままならなかったようである。
 このドラマでは、ソープとノーマンの出会いから裁判の終焉までの約20年が描かれているが、その中で二人の同性愛関係は既定の事実としてキスシーン含め映像化され、ソープによるノーマン謀殺計画も実際にあったものとしてみなされている。
 ジョン・プレストンによる同名の原作が出版されたのは2016年、その2年前にソープと彼の妻はあいついで亡くなっている。二人が亡くなったので、判決とは別の「いま一つの真実」が公表できたのだろう。
 おそらくは、このドラマに描かれたあたりが本当にあったことなんじゃないかとソルティは思ったし、イギリス国民の多くも当時も今もそう思っていることであろう。
 つまり、同性愛者であることのスティグマは、たとえそれが違法ではないにしても、一人の政治家が人殺しを企てても絶対にその志向を隠し通したいほどに強いものだったのであり、その噂が立つだけで政治生命が失われるほどに致命的なものだったのだ。
 
 主役の二人を演じる役者が素晴らしい。
 野心家ソープを演じるのは、ヒュー・グラント。
 あのジェイムズ・アイボリー監督によるゲイ映画の金字塔『モーリス』で、モーリスの親友クライヴを演じた往年のイケメン男優である。
 『モーリス』では、クライヴは自らのゲイセクシュアリティを受け入れることができず、地位と金のある女性と結婚し、政治家を志す。
 まるで本作のソープは、クライヴの数十年後の姿のよう。
 なんとも痛ましい。
 ヒュー・グラントは瞳で感情を表現するのがうまい。
 
 愛人ノーマンを演じるのは、演技力に定評ある美男子ベン・ウィショー。
 『クラウド・アトラス』でもゲイの音楽家の役だったが、どうやら実際にLGBTの人らしい。『白鯨との闘い』では作家ハーマン・メルヴィルを演じていた。
 不幸な生い立ちのノーマンは精神不安定な青年で、見ようによっては同性愛をネタにソープを強請る、たちの悪い恐喝者である。
 そこを持ち前の感性豊かな表情と繊細な演技とで、“ダメ男だけれど愛されキャラ”に造り上げている。
 彼が裁判中に“愛のカタチ”の自由を訴えるシーンは心を打つ。
 
 ドラマ的には、ソープ=悪役=クローゼット(隠れホモ)親父、ノーマン=正義=ゲイリブの若者、といった位置づけではあるけれど、二人とも差別と抑圧の犠牲者であることに変わりない。
 特にソープの姿に、セクシュアリティの抑圧と自己否定が生みだす人生の歪みと悲しみとを見出すことができよう。
 そして、それを変えていこうとする勇気と希望が、若いノーマンの姿に託される。
 単なる内幕暴露の物語に終わっていないのはさすが Very English のBBCである。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

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● 「口裂け女」考 本:『うわさと俗信 民俗学の手帖から』(常光徹著)

2016年河出書房新書

 民俗学というと、「ちょっと昔」の庶民の風俗やしきたりや言い伝えを調査研究する学問というイメージがある。
 大体、江戸時代から太平洋戦争前くらいの「昔」というか。
 勝手にそう思い込んでいたが、別に誰がそう決めた、定義したというわけでもないらしい。

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 本書は、第1部「うわさ」編と第2部「俗信」編に分かれている。
 第2部こそ土地に残る古くからの言い伝えを取り上げ考察するという従来の民俗学の範疇におさまるものだが、第1部は副題に「現代の世間話」とある通り、現代それも70年代くらいから巷で流行った噂話が列挙されている。
 いわゆる「都市伝説」というやつだ。
 これが面白い。
  • 学校のトイレにまつわる怪談 「赤い紙・青い紙」
  • 口裂け女 「わたし、きれい?」
  • 人面犬
  • 首なしライダー
  • ピアスの穴
  • 会社訪問のうわさ 「男は黙ってサッポロビール」
  • とんだヘアー
  • フランスのブティックの試着室
等々
 どこから、何がきっかけで起こったかは知らないけれど、子供や若者を中心に一世を風靡(?)した怪談や滑稽譚に光を当てている。
 10~20代をボーっと、どちらかと言えば非社交的に生きていたソルティも聞いたことがあるものばかり。懐かしい感があった。
 上のタイトルだけ見て、「ああ」とすべて分かる人は、ソルティとほぼ同世代かそれ以上だろう。

 著者の常光徹(つねみつ・とおる)は1948年高知県生まれ。
 学生の頃から民俗学に興味を持ち、中学校の教師をしながら北陸や東北の民話について調査研究をすすめていたが、年を追うごとに語り手がいなくなり、伝承の衰退を感じていた。
 そんなとき、児童文学作家の松谷みよ子に、「目の前の伝承をみつめてみては」と言われたのがきっかけとなり、教え子である都会の子供たちを対象に話を採取したそうだ。
 それが1985年(昭和60年)のことというから、まさに昭和末期あたりからの都市伝説が出揃ったわけである。

 こういった都市伝説は、話自体の奇妙さや怖さや不合理さなどの分析、あるいは伝播経路やバリエーションの調査もさることながら、なんでその噂が当時流行ったのか、その話のどこにその時代の若者たちの意識(無意識)を揺り動かすものがあったのか、を探ることこそが面白いと思う。
 著者がそのへんをもう少し突っ込んでくれたら、という感はする。

 たとえば、口裂け女が流行ったのはソルティが高校生の頃(1979年)だったが、いま自己分析すると、当時は意識していなかったが、両耳まで裂けた女の口の形状におそらく女性器を連想し、それに噛みつかれる=去勢恐怖があったのではないかと思う。
 それがひとり童貞少年の怯えにおさまらず、メディアを騒がし全国区になったのは、やはり、「女が強くなった、女が性を語るようになった」という時代風潮が背景としてあったからではなかろうか。

 一方、口裂け女には、怖いだけでなく、どこか孤独で寂しい匂いも感じていた。
 その匂いは、ソルティの中では、後年(1997年)の東電OL事件につながっている。
 やはり、性に絡んでいる。
 性に絡むことは、一般に人々が抑圧し意識に登らせないことが多いので、逆にこういう単純には説明のつかない噂話の形をとって顕在化しやすいのではなかろうか。

口裂け女
 1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題にまで発展した都市伝説。
 口元を完全に隠すほどのマスクをした若い女性が、学校帰りの子供に 「私、綺麗?」と訊ねてくる。「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す。するとその口は耳元まで大きく裂けていた、というもの。「きれいじゃない」と答えると包丁や鋏で斬り殺される。
 この都市伝説は全国の小・中学生に非常な恐怖を与え、パトカーの出動騒ぎ(福島県郡山市・神奈川県平塚市)や、北海道釧路市・埼玉県新座市で集団下校が行われるなど、市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した。
(ウィキペディア『口裂け女』より抜粋)
 
 コロナ禍のいま、外を歩いているのはマスク女性ばかりなので、口裂け女にとっては良い隠れ蓑になるはず。
 再来するか?
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Ed ZilchによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★

★★★★★
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● 救世軍とは 映画:『骨までしゃぶる』(加藤泰監督)

1966年東映
88分、白黒

 藤純子主演『緋牡丹博徒 お竜参上』や『江戸川乱歩の陰獣』などの傑作で知られる加藤泰の撮った明治時代の郭もの、ということで興味を持ち、レンタルした。

 まず、白黒とは思わなかった。
 加藤泰の作品は、そのローアングルに徹した奇抜な構図と共に、色彩のシュールなまでの鮮やかさが印象に強いからだ。
 しかし、66年というのは日本ではまだ白黒映画が主流だった頃か。66年キネ順ベストテンを見ると、白黒とカラーの割合は半々である。(『大魔神』の撮られた年だ)
 舞台は遊郭である。カラーだったら魅力倍増、間違いなかったろう。

 出演者がいい意味で地味め。
 主演の桜町弘子は東映の時代劇や任侠映画によく出ていたようだが、はじめて顔を見知った。
 共演の久保菜穂子は大映の眠狂四郎シリーズに何作か出ていて、ソルティは顔なじみであったが、一般には知られていまい。
 渋い重鎮俳優の代名詞たる夏八木勲がこの作品でデビューしている。遊郭はじめての大工の童貞青年役を演じているのが可愛い。
 本作の出演者中、もっともよく知られているのは、おそらく菅井きんだろう。
 遊郭の情け容赦ないやり手ババアを演じて、まさにドンピシャの名演である。こういう役をやらせたら彼女以上の役者はなかなかおるまい。それでも昔は御職(女郎のトップ)だったというから愉快。

 『吉原炎上』、『海は見ていた』、『赤線地帯』など、ソルティは遊郭映画は結構見ているので、本作で描かれる遊郭のしきたりや仕組みや雰囲気にことさら目新しいものは感じない。
 が、腹が立つのはやはり労働搾取である。
 貧しい家の娘を莫大な借金をかたに遊郭に連れてきて、一晩に何人もの客を相手に性的奉仕させる。
 主人公の娘おきぬ(=桜町弘子)がつとめる遊郭の経営者夫婦が、入ったばかりのおきぬが稼いだ金を勘定するシーンがあるが、おきぬの取り分はそのうちの五分(5%)と言う。
 なんつー、不当搾取か。
 その五分でさえ、そこから部屋の貸し賃やら食事代やら着物代などが差っ引かれていき、結局、最初の借金は減らないどころか膨らんでいく仕組みになっている。親元に仕送りするどころか、永遠に足ヌケできない。客から病気をもらうなり、歳とって売れなくなるなりして、お払い箱になる日まで。

 ソルティは性を売り買いすることにはそれほど目くじらを立てるものではないが、この頑張っても稼げないあこぎな仕組みには無性に腹が立つ。

 おきぬは客として来た大工の青年(=夏八木勲)と惚れ合って、夫婦の契りをし、救世軍の助けを借りて足ヌケする。
 郭ものとしては、数少ないハッピーエンドなのではないか。


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公娼廃止を訴える救世軍のシーン


救世軍とは
プロテスタントの伝道,慈善団体。メソジスト派の牧師であったウィリアム・ブースが独立して,1865年ロンドンのスラム街で Christian Missionの名のもとに貧民への伝道を始め,78年軍隊組織を模して救世軍と名を改めた。聖書を唯一の権威とし,制服をまとい音楽を用いて街頭に進出,貧民への伝道,救済活動を行い,全世界 (約 70ヵ国) に広まった。日本には 95年イギリスより渡来し,山室軍平らの努力で普及,東京に本営を構え,機関誌『ときのこえ』を出し,廃娼運動などの社会改革運動を行い,年末の社会鍋などで親しまれている。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用)


 知り合いのカトリックのシスターが、「救世軍」のことをいつも「十字軍」と言い間違えていたことを思い出す。
 プロテスタントの活動だったからなのだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
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アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎監修)

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2019年(株)カンゼン

 人類の歴史上、江戸時代の日本くらい男色天国だった場所は、そうそうないだろう。
 比肩できるのは、古代ギリシアと古代ローマくらいか。
 ま、ソルティは同性愛の歴史にはたいして詳しくないのだが・・・。

 「ある時代に、ある国が、同性愛に寛容であった(ある)かどうか」にもっとも強い影響をもつのは、間違いなく宗教である。
 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の影響下にある国々では、同性愛は基本ご法度である。
 仏教は本来、異性間・同性間を問わず、みだらな性行為を戒める。これは思想的・道徳的理由というより、単に修行の邪魔になるからである。大乗仏教の流れで日本にやって来て、なぜか女色一般を禁じるものとなり、寺院では男色がはびこることとなった。
 儒教は宗教というより哲学に近いと思うが、「家」を重んじる教えは、子孫を残さない同性愛行為を喜ばない。
 ヒンズー教についてはよくわからない。イギリス支配下のインドはむろん、キリスト教道徳に洗脳された。
 
 思うに、一神教は同性愛に厳しく、多神教は寛容なのではあるまいか?
 古代ギリシア、古代ローマ、日本の共通点を探すと、多神教=アニミズム文化というあたりに手掛かりがありそうである。
 すべてのものに神を見る感性とは、つまり、「存在するものはなべて喜ばしい」と現世肯定する思想であろう。現実的に一つの現象として同性愛があるのだから、「それはそれでOKじゃん」――ってことなのじゃなかろうか。
 
 本書は、最寄りの図書館で借りたのだが、「まあ、よくこのような本を仕入れて、貸出してくれるなあ~」と感心した。
 江戸時代の少年男娼たる「陰間」について、その生態から分布から仕事ぶりまで事細かに解説しているのはともかく、掲載している図版(浮世絵)が凄い。
 チョンマゲの成人男性が、雁の張った立派なへのこ(ペニス)を少年の菊門(アナル)に挿入しているそのものずばりの図版、いわゆる春画が、カラーグラビアも含めて何十枚と載っている。もちろん、ぼかしも黒塗りもない。
 
 昭和の昔、春画を扱った映画が銀座で上映されるというので、前売りチケットを買って楽しみに待っていたら、事前に司直の手が入り、上映中止になった。
 「なんつー、野暮な!」と憤りを感じたのを覚えている。
 浮世絵人気爆発の昨今であるが、つい最近、大墻敦(おおがきあつし)監督によるドキュメンタリー『春画と日本人』が全国公開された。(ソルティ未見)
 
 日本人のアイデンティティの底にある多神教的感性(別名エロ礼讃)は、そう簡単に塗り替えられるものではないのだろう。


男色春画

 
 

● 三船敏郎のケツと汗 映画:『野良犬』(黒澤明監督)

1949年東宝
122分、白黒

 いまさら評すまでもない黒澤映画の傑作。
 同じ黒澤の『天国と地獄』と並び、その後の日本の刑事ドラマ――『砂の器』、『七人の刑事』、『太陽にほえろ!』、『西部警察』、『踊る大捜査線』等々――の基本型をつくった作品と言えよう。
 全編に漲るリアリティ、庶民性、迫力、抒情性、そして志村喬をはじめとするベテラン役者たちの演技に魅了される。
 主演の三船敏郎の色気にはクラクラさせられる。
 あのケツの肉付きよ!

 舞台は闇市が立ち並び、コケた頬の復員服姿の男がうろうろする戦後の東京。
 新米刑事の村上(=三船敏郎)は、混雑するバスの中でピストルを掏られる。
 そのピストルを使用した強盗や殺人、先輩刑事への襲撃が続く中で、村上は苦悩し、犯人探しに執念を燃やす。

 戦後の日本の貧しさ、汚らしさ、暑苦しさが実によく描かれ、生々しく伝わってくる。
 とくに暑苦しさ!

 物語は夏の盛りで、登場人物たちは誰もみな、吹き出る汗をハンカチでしきりにぬぐい、団扇や扇子で顔や胸をひたすら扇ぎ、扇風機を一人占めにし、「暑い、暑い」と繰り返す。
 一昔前の日本の夏はそんなに暑かったのか?
 ――と一瞬思うが、むろん今のほうが暑い。
 
 気象庁のデータを見ると、この映画が撮られた1949年8月の東京の平均気温は26.6度、前後3年(1946~52年)の平均をとってもそのくらいである。
 一方、2019年8月の東京の平均気温は28.4度だった。過去6年(2013年~)を加味した平均は 27.6度。
 つまり、映画製作当時よりも真夏の平均気温が1度上昇している。
 たった1度と思うなかれ。
 月の平均気温が1度上がるということは、3日に1日は30度近い日(26.6+3.0)があるということだ。最高気温でなく、一日の平均気温が!・・・である。


流氷に乗った白熊

 全編を覆うこの映画の暑苦しさの理由は、もちろんシロクマくん(=エアコン)がなかったからである。
 エアコンが一般家庭に普及したのは昭和40年代に入ってからで、平成に入ってやっと6割を超えた。現在の普及率9割程度である。(参考「ガベージニュース」)
 つまり、昭和時代、会社やホテルや喫茶店や公共施設は別として、一般家庭でエアコンがあるのは4割以下に過ぎず、しかも今のように各部屋に一台ずつ備わっているなんてのは、スネ夫の家のような、よっぽどの金持ちに限られていたのだ。
 外回りして聞き込み捜査する刑事たちは、汗みずくにならざるをえなかった。
 真っ黒に日焼けせざるを得なかった。

 ソルティは、平成以降の刑事ドラマにどうにも興味が湧かないのであるが、たぶんその理由の一つは、登場する刑事たちが汗をかかなくなった、シャツを背中に張り付かせなくなった、清潔に(無機質に)なってきた、というあたりにある。
 だってねえ、三船敏郎の汗の美しさといったら・・・。


三船敏郎の汗



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン監督)

2011年アメリカ
102分

 TUTAYAのサスペンス&ミステリーのコーナーにあったので、「結末は誰にも教えないでください」的なサイコストーリーかと思ったら、案外ちゃんとした心理ドラマであった。

 カルト団体での2年間の集団生活から逃げ出した少女マーサの後遺症を、丁寧に描いたものである。
 映像が見事。

 カルト団体に加入したばかりの新人に対し、古くからの仲間たちは言う。
 「ここでのあなたの役割を見つけなさい」
 集団の中で独自の役割を持たせること。
 それが団体依存させるコツなのだろう。
 
 マーサの姉役のサラ・ポールソンが好演している。
 ニコール・キッドマン似の金髪美女で、2007年にレズビアンをカミングアウトしている。
 カミングアウト後もヘテロ女性の役を普通に演じられるところが、アメリカショービズ界のふところの深さか・・・。
 演技なのだから、演じる俳優のセクシュアリティは演じる役のそれとは本来なら関係ないのだけれど、日本だったらどうだろう・・・?


百合



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 
 
  

● イケパパ 映画:『LOVE, サイモン17歳の告白』(グレッグ・バーランティ監督)

2018年アメリカ
110分

 高校生のサイモンは、明るい裕福な家庭に育ち、カッコいい父親と美人で知的な母親、料理好きの可愛い妹に囲まれ、気の合うクールな友人もいる。
 顔もスタイルも良く、通学はいつもマイカー、女の子にもてる。
 はたから見たら、平凡だけれどなんら不足ない青春。
 が、彼には家族や友人に隠していることがあった。
 サイモンはゲイだったのである。
 
 SNSを使いこなす当世のゲイ少年のカミングアウトがテーマ。
 一昔前に比べれば、LGBTに対する社会の理解が進み、必要な情報に俄然アクセスしやすくなった。
 同じ仲間や相談相手、恋人やセックスフレンドも簡単に見つけられる。
 ソルティが高校生の頃は、情報と言ったら月刊誌の『薔薇族』がせいぜい。
 自己肯定を促してくれるような言説は、(同誌をも含め)社会にほとんど見当たらなかった。
 まったく、今の若ゲイがうらやましい。

 とはいえ、カミングアウトをめぐる問題だけは昔も今も変わりないということを、この映画は教えてくれる。
 子供というものが、一般にヘテロのカップルを親として生まれてくる以上、ゲイの子供はどうしても親との相違にぶち当たらざるを得ない。
 ヘテロシステムの流通する家庭の中で自己肯定し、自らのモデルとなる大人像を見つけるのは、容易なことではない。
 自然と、親や周囲が期待するジェンダーやセクシュアリティを忖度しながら演じていく過程で、自らの感情や嗜好を押し殺していく。
 そのうちに、ほんとうに自分が好きなもの、やりたいこと、子供の頃夢見ていたことが分からなくなってくる。 
 ゲイの人が鬱になりやすいのも無理からぬことである。
 
 だが、自分に対する抑圧や欺瞞は、結局、周囲の身近な人々に対する抑圧や欺瞞につながる。
 カミングアウトした結果被る不利益より、人間関係をいびつにする“不誠実”の害のほうが破壊的で、長い目で見れば、自分をも他人をも傷つけることになるかもしれない。
 それが、自身ゲイをカミングアウトしているバーランティ監督が、本作で伝えたいメッセージなのだろう。
 胸がうずくような切なさのあと、爽やかなハッピーエンドが待っている。

 ただし、サイモンのように恵まれた環境にいるゲイはむしろ少なかろう。
 国によって、社会によって、宗教によって、あるいは家庭によっては、カミングアウトが生死にかかわることだってあるのだから。(だから、日本が、仏教が好きさ!)
 
 主人公サイモンの父親役のジョシュ・デュアメル、渋くて滅茶カッコいい。
 何と言っても、美青年しか演じることの許されない――“ヴィスコンティ夫人”たるヘルムート・バーガーがかつて演じた――オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の主役の座を射止めて、映画デビュー(1999年)果たしている(下記ポスター)。
 ウィキによると、東日本大震災の際にはチャリティーマラソンを開催、支援金全額を日本赤十字社に寄付したそうである。
 いい歳の取り方をしているわけだ。


ドリアン・グレイの肖像ポスター (2)
日本では上映されず、DVDレンタルもない


ジョシュ・デアメル
現在のデュアメル




● 人生最高のドラマ体験 TVドラマ&映画:『ダウントン・アビー』(マイケル・エングラー監督)

2019年イギリス、アメリカ
122分
脚本 ジュリアン・フェロウズ

 文字通りの骨(折)休めとコロナ自粛によってあり余った時間、テレビドラマ『ダウントン・アビー』シリーズ1~6(2010~2015年イギリス ITV 放映)を、最初から最後までぶっ通しで観た。
 DVD なんと30枚分である。
 見事にハマった。
 シリーズが終了するまで観るのを待っていた甲斐あった。

 まあ、ハマるのは予期していた。
 ソルティは英国の一昔前の上流階級を描いた物語が好きなのである。
 ジェイン・オースティン、ヘンリー・ジェイムズ、P.G.ウッドハウス、E.M.フォースターなどの小説に出てくる、いわゆる貴族や大地主など有閑階級の優雅な暮らしぶりに憧憬に近いものを抱く。

 どこまでも広がる緑なす田園風景の中にそびえる、豪壮で堅牢な屋敷(いったい何部屋あるのやら?)
 庭師によってこまめに手入れされた、散策や逢引きに恰好な庭園。
 由緒ある調度や工芸品やアートに囲まれた、広々として美しく落ち着いた邸内。
 謹厳実直で頼りになる執事。
 長いテーブルを囲み、下僕の給仕を受けながら、コース料理に舌鼓を打つ紳士淑女たち。
 そこで交わされる洒脱な(ときには緊張に満ちた)会話。
 美しい陶磁器と凝ったお菓子が並ぶ午後のお茶。
 貴族のたしなみたる乗馬や狩りやカードゲーム。
 ベッドメイキングや銀器磨きや主人一家の衣装の手入れやゴシップに精出す階下の使用人たち。
 使用人に用があるとき使われる、館内にめぐらされた呼び鈴の紐。
 e.t.c.
 
 こういったすべてに魅了される。
 きっと前世の一つは、ヴィクトリア女王時代の英国のどこかの田舎屋敷のメイド(笑)で、階上で暮らす人々への強い憧れと嫉妬のうちに亡くなったのだろう。


エッジカム家


午後のお茶



 こうした好みの道具立てが揃っているうえに、さすがシェークスピアのお膝元、演劇大国のイギリスである。
 役者が揃っている。
 元クローリー伯爵夫人を演じる今世紀最高の名女優マギー・スミスの孤高な存在感は言うも愚か。
 彼女の親友であると同時に恰好の論敵たるイザベルを演じるペネロープ・ウィルトンのいぶし銀。
 美しく賢い現伯爵夫人コーラを演じるエリザベス・マクガヴァンの茶目っ気(こんなに魅力的な女優になっていたとは!)。
 未来のダウントン・アビーをその細い肩に背負う長女メアリー役のミシェル・ドッカリーの傲岸なまなざし。
 男運が悪く可哀そうな次女イーディス役のローラ・カーマイケルのモデルのようにエレガントなファッション。
 そしてそして、普段はアメリカにいて「特別出演で」ダウントン・アビーを訪れ、そのたびに嵐を巻き起こすコーラの母親マーサを演じるは、やはり今世紀最高の名女優の一人たるシャーリー・マクレーンである(映画版には登場しない)。
 女優たちの火花を散らす演技合戦と華麗なる衣装対決が全編を通じての見物である。
 
 一方男優では、現クローリー伯爵を演じるヒュー・ボネヴィルの貫禄と人の良さ。
 執事カーソン(=ジム・カーター)のどことなく滑稽な匂いを宿した重厚感。
 伯爵付き従者ベイツ(=ブレンダン・コイル)の一癖も二癖もある複雑なキャラクター。
 そして、ゲイの従僕トーマス・バロー(=ロブ・ジェームズ=コリアー)の屈折した心の表現。
 それぞれ突出した個性が楽しい。

 とりわけ、当時(20世紀初頭)の英国では犯罪者として逮捕された同性愛者を、主要キャラクターの一人として最初から最後まで登場させ描ききったのは、賛辞に値しよう。
 テレビシリーズでは、孤独で陰険なひねくれ者で幸福には程遠いように見えたバローが、このたびの映画では、どうやら恋人らしき(国王の使用人!)を得て、嬉しそうにはにかむ笑顔で終わる。
 “組合”仲間として応援していたので何よりである。

 
レインボウとゲイカップル

 
 これだけたくさんの登場人物を一人一人個性的に描き分け、それぞれの人生に語るべき(視聴者が共感できるような)ドラマを持たせ、登場人物間の愛憎や反目や誤解や支え合いもわかりやすく整理して伝え、その上に、タイタニック号沈没や第一次世界大戦やスペイン風邪流行や貴族階級の没落といった歴史的事件を巧みに盛り込んで物語にメリハリをつけていく。
 脚本の見事さは脱帽のほかない。
 
 ソルティにとって、人生最高のドラマ体験の一つであった。
 骨折った甲斐がある。



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 

● ジュリエットの独り遊び 映画:『ハイ・ライフ』(クレール・ドニ監督)

2018年フランス、ドイツ、イギリス、ポーランド、アメリカ共同制作
113分

 宇宙船を舞台とするSFスリラー。
 クレール・ドニは、『ショコラ』、『パリ、18区、夜。』、『ネネットとボニ』などで知られる国際評価の高いフランスの女流監督であるが、ソルティはこれが初見。

ブラックホールを調査するために宇宙を旅する船員たち。
彼らはみな終身刑や死刑を宣告された犯罪者で、無事地球に戻った暁には自由の身となる契約を交わしていた。
その中の一人、女性科学者ディブス(=ジュリエット・ビノシュ)は、宇宙空間で子供をつくり育てることができるかどうか、船員をモルモットにして実験していた。

 宇宙船の中で、大の男(=ロバート・パティンソン)が赤ん坊をあやす何とも奇抜なシーンから始まる。
 映像は、女性的感性を超え、独特のシュールなセンスが光る。
 ストーリー自体は面白さに欠け、テーマも曖昧でよくわからない。
 
 おそらくドニ監督が何より撮りたかったのは、大女優ジュリエット・ビノシュの魔女の如きマッドサイエンティストぶりであり、その迸るような熟女のエロチシズムなのだろう。
 この作品のクライマックスは、ビノシュのポルノ女優顔負けの本気オナニーシーンである。
 役の上のこととは言え、ここまでやってしまう役者魂にたまげる。
 
裸の女
 
 
 ジュリエット・ビノシュと言えば、『汚れた血』、『存在の耐えられない軽さ』、『トリコロール/青の愛』、そして『イングリッシュ・ペイシェント』などで世界的スターの座をほしいままにした、80年代後半から90年代が“旬”の清純派女優、というイメージを個人的には持っていた。
 いや、ヨーロッパの女優のたぶんにもれず、必然性あればヌードもセックスシーンも辞さない芸術家としての矜持はデビュー当初からみせていたが、その色白で清潔で可愛らしい容姿や、ジュリエットという可憐な名前のためか、何の役をやっても清廉なイメージが抜けきらない、いわば「フランスの吉永小百合」といった印象を持っていた。
 それがこの作品では、まるでダリオ・アルジェント監督のホラー映画に出てくるアリダ・ヴァリみたいな、一線を越えてケツまくったモーレツ熟女を演じている。
 怪演といっていい。

 オナニーマシーンにまたがって、下から突き上げる電動コ×シのピストン運動によがり声を上げ、長い髪を振り乱し、汗を飛び散らし、荒馬を乗りこなすように身をくねらすジュリエットの姿は、SFスリラーという装いを破壊してあまりある。
 フランスの仁支川峰子だ。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 宮廷恋愛スキャンダル 本:『とはずがたり』(後深草院二条・著)

14世紀初頭成立
2019年光文社文庫(現代語訳・佐々木和歌子)
 
 映画『あさき夢みし』を観て原作を読みたいと思い、図書館で検索したところ、昨年10月に新訳が出たばかりだった。
 なんつー、いいタイミングだ!

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 面白いッ!!

 こんな面白い古典文学の存在を知らなかった幾十年が口惜しい。
 実相寺の映画よりも格段に面白い。

 それも当たり前、この日記はいわば、『実録・中世宮廷恋愛スキャンダル』なのである。
 実在の人物、それも天皇や皇后や大臣や高僧や伊勢の斎宮といった、いとやんごとなき方々の、赤裸々な恋愛模様や下半身事情が、実名そのままにすっぱ抜かれている。
 華やかなりしも、奇異にして波乱含みの生涯を送った一人の女性の、色懺悔にも似た暴露本といった感すらある。
 この書が何百年もの間、陽の目を見ずに宮中(宮内庁)の奥に眠らされてきた理由も頷ける。

 主人公・二条は、美貌と教養を兼ね備えた名門の娘。
 幼い時より後深草院(第89代天皇)の手元におかれ、蝶よ花よと育てられた。そこには、二条の母親が後深草院の乳母であり、筆おろしの相手&初恋の人だった事情があった。
 『源氏物語』の若紫よろしく、14歳の時にそれまで父のように慕っていた後深草院(=御所様)に犯されて、男を知る。
 そこからは、紫の上(=若紫)とは真逆の、激しくも目まぐるしい愛欲の修羅道まっしぐら。

●二条の恋愛遍歴
  1. 御所様の子を懐妊。生まれた男児は一年余りで亡くなる。
  2. 初恋の人・西園寺実兼と密会して懐妊。生まれた女児は、御所様には「月足らずで死産」と偽って、実兼のもとに。
  3. 御所様の弟で高名な阿闍梨である「有明の月」の異常な執念に負けて、関係を結ぶ。二人の男児を生む。関係は御所様にばれるも、許しを得る。
  4. 御所様のさしがねで、関白である近衛の大殿に抱かれてしまう。(その様子を御所様は障子の向こうで聞いている)
  5. 御所様の弟で第90代天皇の亀山院に差し出される。(その間、御所様は屏風の向こうで酔っぱらって寝ている)
  6. 28歳にして宮中追放、30歳過ぎて出家。諸国流浪の旅に出る。 
 すなわち、天皇家の三兄弟と関係を持ち、時の関白に身を許し、初恋の男とも切れずにいる。分かっているだけで、一人の女児と三人の男児を生む。うち一人も育てられなかった。

 男たちは、二条が妊娠中だろうが、法要中だろうが、宮中を離れてお寺に籠っていようが、いっさい構わずやって来ては体を迫り、その都度、彼女は流されるままに許してしまう。
 その様子は、現代人の感覚からすれば、魔性の女、淫乱、セックス依存症であり、意地悪に言うなら、都合の良いダッチワイフ、皇室御用達の公衆便所、高級娼婦である。
 凄い古典でしょう?

 奔放な女性の恋愛手記という点では『和泉式部日記』に通じ、宮中の貴族たちの華麗なる生活と風俗を描いたという点では『枕草子』に通じ、おのれを観察する目を持つプライド高い才女のモノローグという点では『蜻蛉日記』に通じる。

 一方、これら平安王朝絵巻と一線を画すのは、背景に漂うデカダンスと虚無感の色合いである。
 ときは鎌倉時代後期。
 武士の世であり、執権北条氏の天下である。
 源頼朝に始まる源氏三代が絶えた後の鎌倉殿(=征夷大将軍)はもとより、京都に住む天皇や関白・摂政も北条氏の監視下に置かれ、実質的な政治権力は持たなかった。

 貴族たちは、有職故実にのっとった決まりきった儀式、詩歌管弦や蹴鞠や贅を凝らした法要などの遊び、正体を失うまでの飲酒とバカ騒ぎ、といった日々を繰り返していた。恋愛や出産もまた、無為と退屈を紛らわすゲームの一つに過ぎなかったのであろう。
 失われた過去の栄華の記憶に生きる中世の皇族や貴族たちの姿がうかがえるのも、この作品の大きな魅力である。

着物ガール


 光文社版には、日本の伝統色を並べたカラーページ、当時の貴族たちの装束イラスト、話の舞台となる京都の図面、登場人物たちの系図や相関図、尼となった二条の旅の足跡を示す日本地図が、付録としてついている。
 内容理解の助けとなり、とても有難い。
 「タイミング、トラブル、ストレス、チャンス」といったカタカナ語を怖れずに使った現代感覚の訳も、たいへん分かりやすく、また親しみやすい。

 映画『あさき夢みし』では、出家後の二条(映画では四条)の姿は、かなり清らかに描かれていた。愛欲と迷いの俗世間を離れ、ひたすらみほとけの道を歩んでいるように見えた。その理想の境地が、二条が出会う一遍上人である。
 原作の二条は、出家してもなお迷い続け、過去の栄華に引きずられ、御所様の面影が片時も離れず、涙を流してばかりいる。さすがに男との関係は書かれていないが、原本には紛失部分があるようなので、もしかしたら出家後もなんらかの色事があったのかもしれない。一遍上人も登場しない。
  
 尼姿になって贅沢を捨て、各地の有名な神社仏閣を参詣する旅に出たところで、煩悩はなかなか消えない。御所様の訃報に駆けつけ、その葬送の車を追って、都大路をどこまでも裸足でかける墨染の姿は、目に浮かぶよう。
 愛に捕らわれた女の姿は、昔も今も変わりない。



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


 
 
 
 
 

● 本:『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』(宮下規久朗・著)  

2016年岩波書店

 美術史において、光と闇がどのように描かれてきたかに焦点を当てた研究書。
 日本美術についても、また彫刻についても、それぞれ一章当てられているが、主として西洋の絵画史が概観されている。
 著者は1963年名古屋生まれの美術史家で、カラヴァッジョ研究の第一人者。

 副題にある通り、カラヴァッジョ(1571-1610)こそは、西洋美術において光と闇の表現に革新をもたらした芸術家であった。
 彼の実質的デビュー作である『聖マタイの召命』(本書表紙)は、公開されるや賛否両論を巻き起こし、カラヴァッジョの名は一夜にしてローマじゅうに知れ渡り、その画風はまたたく間に画壇を風靡したという。

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奇跡というものは、客観的な復活や治癒などではなく、すべて内面的な現象にすぎず、神も信仰もつまるところすべて個人的な内面や心理の問題に帰着する。こうした考えは、プロテスタントだけでなく、イエズス会やオラトリオ会など、個人と神との対峙を重視する当時のカトリック改革の宗教思想に通じるものである。
 しかし、それを説得力のある様式で初めて視覚的に提示したのはカラヴァッジョであった。彼は宗教画を、遠い昔の出来事ではなく、観者の目の前に立ち現れるヴィジョンとして表現した。劇的な明暗、質感豊かな細部描写、画面からモチーフが突き出るような表現などすべては、観者のいる現実空間にリアルな幻視をもたらすための仕掛けであった。 


 カラヴァッジョの尽きせぬ魅力は、その臨場感あふれるドラマチックな数々の絵とともに、その波乱万丈の生涯にあろう。
 この人は、天才画家であると同時に、ゲイであり、殺人者であり、死刑宣告を受けた逃亡者であり、脱獄者であった。名声の絶頂にいる最中、ローマの街のチンピラと決闘して一人を刺殺したのである。血気盛んな無頼漢だったようだ。
 
 殺人者でゲイの天才芸術家――というと自然連想されるのが、本邦の平賀源内(1728-1780)である。
 源内もまた、酔っぱらって大工の棟梁2人を殺傷し、破傷風で獄死した。
 カラヴァッジョの生まれ変わりだったのか・・・?

源内の墓
台東区橋場にある平賀源内の墓


 たぶん、カラヴァッジョが闇に惹かれ、闇の中の人物を執拗に描き続けたのは、自らの心の中の闇を見ていたからなのだろう。
 というのも、彼の作品においては、普通の宗教画で観られるように光(=神)を浮き立たせるために闇が描かれるのではなく、闇(=悪)の深さを描くために光が使われている――そんな印象を受けるからである。

 逃亡先で熱病に倒れ最期を迎えたとき、カラヴァッジョは光(=救い)を見たのだろうか?
 それとも闇に囚われたまま逝ったのだろうか?



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 弁証法的権力とウイルス禍 本:『オイディプス症候群』(笠井潔著)

2002年光文社
2006年カッパ・ノベルズ

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 『8・15と3・11 戦後史の死角』、『サマー・アポリカプス』に次いで、3度目の笠井ワールド探訪。

 小口の厚さ40ミリ、二段組で700ページを超える大作ミステリー、といったことを差し引いても、この本を読むのはちょっと覚悟がいる。
 ギリシア神話、監獄論、性愛論、現象学・・・・等々、ミステリーの解決とはさほど関係のない学術的な話が無駄に多い、つまり衒学的なのである。
 同じ衒学ミステリー作家であるヴァン・ダインや京極夏彦と比べても、笠井のミステリーは、より難解で饒舌で哲学的である。
 そこが読者を選ぶゆえんであり、また、熱狂的な読者を持つゆえんでもあろう。

 たとえば、この小説の登場人物たちがひけらかす煩わしい蘊蓄をすべてとっぱらって推理小説の骨子のみ残すとしたら、ミステリーとしてはかなりつらいものであることが明らかになるだろう。
 プロットや推理には杜撰な点が多く、突っ込みどころ満載なのである。

 一例を挙げよう。

 この小説(連続殺人事件)の舞台となるのは、ギリシアのクレタ島付近に浮かぶミノタウロス島という架空の島である。
 ミノタウロスと言えば、古代ミノアの王妃パシパエと牡牛の間にできた牛頭人身の怪物である。
 ギリシア神話では、父王ミノスにより迷宮に閉じ込められ、年ごとに少年少女7人ずつの生贄を要求する。

 その伝説が色濃く残る島をアメリカの製薬会社の大富豪が購入し、古代ミノアの王宮を模した豪壮な別荘を建てた。
 この孤島の館に招かれた10人の男女が次々と謎の死を遂げていく。
 要はクリスティ『そして誰もいなくなった』のパロディである。
 登場人物たちは、「次の犠牲者は自分かもしれない」と脅えながら、犯人と犯行方法について推理合戦を繰り広げる。生き残っている者の中に真犯人がいる前提で、互いが互いを疑いながら・・・・・。
 殺害の一つは館内の密室で行われており、そこから遺体が消失するという謎も含まれる。
 四方を海に囲まれた離れ小島の中の閉ざされた部屋、という二重の密室である。
 
 この状況設定から、本格推理小説の定石として、読者が当然有りうべきことと考え、登場する素人探偵たちに最初に検討してほしいと願うのは、館に仕込まれている迷宮の存在であろう。
 迷宮が存在するのなら、なにも容疑者を館に招かれた10人だけに絞る必要はない。
 もとから島内にいて迷宮に潜んでいる者がいてもおかしくはない。
 密室殺人も、「実は部屋の中に迷宮への隠し扉があった」で簡単に解決してしまう。
 迷宮の有無の検討と調査は、合理的な推理を展開しようと思うならば、探偵たちにとって必須の手続きとなるはずである。
 ところが、登場人物たちの誰一人も、迷宮の存在について思いつく様子もなく、口にもしない。
 これはあまりにも不自然である。
 最終的には、館に迷宮が存在することが明らかとなり、真犯人はまさに迷宮に潜んでいた招待客以外の人物なのであるから、「なんて頭の回らぬ探偵たちだ・・・」と、読み手はあきれざるをえない。
 プロット自体に不自然を感じる。
 『サマー・アポリカス』でも思ったが、笠井は推理小説としての整合性やリアリティにさほど拘っていないように思われる。

ミノタウロス
ミノタウロス


 しかしながら、この推理小説としての杜撰さが欠点と思えないところに、まさに笠井ミステリーの真骨頂がある。
 その秘密がつまり、衒学による目くらましなのである。
 読み手は、幅広い分野における圧倒的な量の知識と、それを支える著者の深い教養、そして哲学性に降伏してしまう。
 それも、ヴァン・ダインのように、ただ単に知識をひけらかしてページを稼いでいるのとは違う。
 評論家でもある笠井の、自らの人生経験に裏打ちされ、思考によって鍛え抜かれた社会哲学が、作品の基調となっているのである。
 その意味で、衒学による目くらましという表現は当たっていない。
 むしろ、ミステリーの体裁を借りた哲学書というべきかもしれない。
 
 そしてまた、「杜撰=つまらない」でないことを、笠井ミステリーは教えてくれる。
 単純に、すごく面白いのだ。
 天才的着想、卓抜な構成力、興味をそそる謎の提供、素人探偵と一緒に推理ゲームに参加する愉しみ、姿恰好が目に浮かぶようなキャラクター描写、巧みな伏線の配置と意外な結末、重厚感・・・・・。
 多少のアラは大目に見てしまわざるを得ない魅力にあふれている。
 
 着想の天才性という点でソルティが唸らされた点を挙げる。

 ここで言うオイディプス症候群とは、ずばり後天性免疫症候群(エイズ)のことである。
 この小説は、エイズ=HIVが「謎の奇病」として世界に出現して間もない時代を背景としている。

 HIVの感染経路は3つ――血液感染、性行為感染、母子感染である。
 当時、血液感染の中で特に問題となったのは、輸血に用いられる血液製剤の中にHIVが混入し、それにより多くの血友病患者がHIV感染し、エイズを発症して亡くなった事件であった。
 日本では薬害エイズ事件として知られるが、世界各地で製薬企業や厚生行政や血友病専門医の無作為責任が問われる裁判が起きた。
 一方、性行為感染では、男性同性愛者間でのHIV感染が顕著であり、70年代を通じて高まる一方だったゲイリブの気運の中で、性の自由を謳歌していたゲイコミュニティを直撃した。
 この『オイディプス症候群』では、初期のエイズ事情を語るに欠かせない、まさに二つのトピック――血液製剤とゲイセックス――を、一連の殺人事件の動機を構成する要素として取り上げ、見事に融合させている。
 しかも、息子を殺された一家族の復讐劇と、HIVを社会転覆の武器として利用するテロリストの陰謀、というレベルの異なる二つの事象を、齟齬することなく並べて物語ることに成功している。
 この着想と構成力、そして筆力には脱帽するほかない。

 読んでいて思わず手が止まった箇所がある。
 カッパ・ノベルズ版の624ページ。
 
 『弁証法的権力と死』を読んだきみには説明するまでもないことだと思うけど、世界の未来は暗澹としている。反対者や批判者の存在までも否定的契機として内部化し、際限なく膨張し続ける弁証法的権力に世界は遠からず完全に呑みこまれてしまうんだから。
 弁証法的権力とは闘うことができない。批判すれば批判するほど、闘えば闘うほど、歴史の終点である完璧な権力の膨張と普遍化を助けてしまうんだから。屈服しても闘争しても結果は同じなんだ。しかしIVは、自己運動する完璧な権力がはじめて直面する異様きわまりない敵だ。IVは闘わない。システムの内部に潜入しシステムが自滅するように仕向けるだけだ。社会にたいしてIVの流行が果たす役割と、生体においてIVが果たす役割には並行性がある。IVに感染してはじめて僕は、弁証法的権力を内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう素晴らしい武器を手にすることができたんだ。

 IVとあるのは、オイディプス症候群を引き起こすウイルスにつけられた名前であり、つまりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に当たる。
 このセリフの主は、自身IV感染者であり、オイディプス症候群の蔓延による社会混乱と国家権力崩壊を企図するテロリストである。
 彼はそのために、相手選ばずの無軌道なセックスを繰り返す。ミノタウロス島で起こる一連の殺人事件の真犯人(の一人)でもある。 
 
 「弁証法的権力」の説明から読み手が連想するのは、まさに現在の安倍自民党政権であり、その権力の徹底された先に登場しうる中国のような独裁政権による管理社会であろう。右も左も関係ない。
 あたかも笠井は、この小説が書かれた2002年の段階(時の首相は小泉純一郎)で、今の日本の政治状況を予言していたかのようである。
 
 ただし、このテロリストが企図したように、HIVが弁証法的権力を「内側から食い荒らし、ぼろぼろにしてしまう」武器として働いたかと言えば、HIV登場約40年後の現在の世界状況からして、「そんなことはなかった」と結論せざるを得ない。
 幸か不幸か、HIVは既存の権力構造に致命的な打撃を与えなかった。(少なくとも、今のところ)
 一つには、HIVが先進国では薬によって抑えられて、エイズが慢性病の一種となったがゆえに。
 一つには、HIVが先進国ではほぼ性行為でしか感染せず、それは様々な手段で予防できるがゆえに。
 一つには、途上国でのHIV流行はメガ・ファーマーと呼ばれる巨大製薬企業の莫大な利益を生むチャンスをつくり、グローバル資本主義に拍車をかける結果となったがゆえに。
 また、我が国に限って言えば、HIV拡大防止というもっともな名目で、純潔教育のような特定の倫理を標榜する保守団体と結びつく形で、国家権力による個人の性行動への介入と統制を許してしまったがゆえに。 
 自由を求める大衆の力の源泉となる性のエネルギーを、国家が管理統制する道を開いてしまったのではないか――というのが、過去20年以上HIVに関する市民活動に携わってきたソルティの偽らざる実感である。
 わかりやすい例で言えば、学校現場における性教育の後退やジャンダーフリー・バッシング、それに浮気した家庭持ちのタレントに対するいじめまがいの制裁である。


迷路


 そしていま、新型コロナウイルス登場である。
 現段階で予想して、新型コロナウイルスの社会的影響の大きさは、HIVのそれを凌駕していくのではないかと思われる。
 ソルティは安倍政権の終焉をこそ望むけれど、むろんテロには反対である。
 このコロナウイルス騒ぎが一刻も早く終息することを望んでいる。
 ただ、誰もが当事者とならざるをえないこのウイルスの流行が、どんな社会構造の変化を地球レベルでもたらすことになるのか、人々の意識や行動にどのような影響を及ぼすのか、気になるところではある。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








 

● だれもが当事者

たぶん40歳以下の人は知らないだろうが、今から30年以上前にエイズパニックというものがあった。
日本はもちろん、世界中で。

80年代初頭アメリカで、免疫力が次第に損なわれて死に至る奇病が、ゲイの間で蔓延した。
まもなく、原因はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)であると判明し、AIDS(後天性免疫不全症候群)と名付けられた。
1985年に日本人第1号患者の報道があった。アメリカ在住のゲイの男性だった。

ここまでは対岸の火事。

1987年、神戸で日本人女性の感染が報告された。
そこからのパニックが凄まじかった。
マスコミはこの女性の氏名・住所をつきとめて顔写真入りで公開した。
風俗に勤めているというデマが広がった結果、歓楽街が空になった。
この女性が外国人と付き合っていたという噂が独り歩きし、その後に松本で起きたフィリピン人女性の感染報道と相まって、各地で外国人入店拒否などの差別が起こった。
検査所に身に覚えある男達が殺到した。
ノイローゼとなったある弁護士は、検査結果を待たずに自殺した。(結果陰性だった)


エイズパニック記事(神戸)
昭和62年1月18日のサンケイ新聞(当時)朝刊


感染者に対する差別は酷いものであった。
診療拒否、病院たらい回し、解雇、内定取り消し、入居拒否、さまざまなレベルのプライヴァシー破壊・・・・・。家族もまた差別された。
ソルティは、当時の様子を調べるため、関東地方のある大病院を取材したことがある。
その際、担当者は言った。
「最初にウチに入院した患者が亡くなったあと、彼が使っていたベッドを焼却しました」
パニックになると、科学的事実など簡単に吹っ飛ぶものだと痛感した。

HIVは当初、ゲイと血友病患者と風俗で働く(遊ぶ)人の特有の病と思われていた。
「不特定多数の相手とのセックスは避けましょう」と盛んに言われた。
そこに当てはまらない人間にとっては、当事者性が低い。
「血友病患者をのぞけば、性的にふしだらな人間がかかる病でしょう?」とみなされた結果、感染者は倫理的に断罪され、それが差別を助長した。

感染者と分かると差別されると知って、こんどは検査を受ける人が激減した。
「どうせ陽性と分かったところで治療法はないし、八分されるだけでしょう? なら、このまま何も知らずに、いままで通りの生活を続けるよ」
感染拡大防止の観点から、これがもっとも怖い展開なのは言うまでもない。
(※現在、HIVには何種類もの薬がある。血液中のウイルスを検出限度以下まで減らし、AIDS発病を抑制できる。相手に感染させるリスクもほぼゼロになる)

コロナウイルス


新型コロナウイルスは、人と関わって社会生活を送る人間ならば、だれでも感染しうる。
感染者に対する差別は、いずれ差別した当人にそのまま降りかかってくる。
倫理も、貧富の差も、地位も、職業も、性別も、セクシュアリティも、性行動も、国籍も、人種も、年齢も、関係ない。
大統領も、世界的スターも、政治家も、官僚も、医者も、金持ちも、宗教家も、そうでない人々と同じ俎上に上げられる。

だれもが当事者。
それが今回のウイルス騒動の特徴であろう。




 

● なお美、追想 映画:『鍵』(市川崑監督)

1959年大映
107分
原作 谷崎潤一郎
音楽 芥川也寸志
撮影 宮川一夫

 『鍵』の映画化というと、ソルティ世代ではまず池田敏春監督、川島なお美主演の1997年版を想起する。
 ヴァイオリンのようなつややかな裸体を透明な湯に沈め、朦朧とも恍惚ともつかぬ面持ちで浴槽のふちにしなだれている、当時「失楽園」女優として絶好調だったなお美の宣伝ポスターが目に浮かぶ。
 あのポスターはやらしかった。 
 
 大映の誇る大スター、グランプリ女優の京マチ子が、なお美レベルの自己開示を許すはずもなく、相手役の中村鴈治郎の煩悩まみれのねっとりした眼光をもってしても、この作品のエロ度はたいしたものではない。

 いや、そもそも京マチ子は一般に思われていたほど色気があるのか、という点もある。
 きれいなのは間違いない。妖しさを引き立てる顔立ちなのも確かである。『羅生門』や『雨月物語』における存在感は大女優の名に恥じない。
 しかし、たとえば同じ大映スターであった若尾文子、山本富士子とくらべたときに、「女」を演じて妙にサバサバしているような気がする。宝塚の男役が退団したあと、女役をやっているような印象というか。大地真央とか天海祐希のような・・・。
 その意味では、京マチ子の出演作で最も印象的なのは、井上梅次監督によるミュージカル『黒蜥蜴』(1962)の男装である。この映画は面白かった。三島由紀夫作詞「黒蜥蜴の歌」に合わせて歌い踊る手下どもがショッカーのようで、超シュール。

黒蜥蜴

 市川崑監督がまたエロを撮れない(撮らない?)人である。
 『鍵』は谷崎文学の中でも、『瘋癲老人日記』と並んで老人の変態性欲を描いて煽情的な作品の一つと思うが、この映画を観ていると、どうしても市川崑の金田一耕助シリーズの一作のように思えてくる。結末では毒殺事件まで出てくる! 
 若尾文子を主演に撮った木村恵吾や増村保造の谷崎作品、あるいは加藤泰の『江戸川乱歩の陰獣』などとくらべると、エロ度の低さ、変態度の薄さを指摘せざるを得ない。
 潤一郎ファンは納得するまい。

 ま、そうであればこそ、市川崑は大衆に愛された娯楽作品をあれほどたくさん作れたのであろう。
 良くも悪くも健全なのである。 


 
おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● お爺ちゃんのくせに生意気よ! 映画:『瘋癲老人日記』(木村恵吾監督)

1962年大映
99分、カラー

 『刺青』、『卍』に並ぶ谷崎潤一郎原作×若尾文子主演の変態性欲シリーズの一作。
 瘋癲(ふうてん)と読む。誰でもフーテンの寅さんを連想するが、瘋癲には二通りの意味がある。

① 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
② 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
(小学館『大辞林』)

 寅さんや現在のソルティは二番目の意味における瘋癲で、この小説および映画の瘋癲老人は一番目の意味である。

 山村聰演じる77歳の卯木督助の「正常でない精神状態」とは、究極まで洗練されたマゾヒズムと足フェチである。自分の入る墓のデザインを、仏足石ならぬ、大好きな嫁サチ子(=若尾文子)の足跡をかたどったものにしよう、つまり、死んだ後も永遠に嫁の足に踏まれ続けたいと執念を燃やすのだから、恐れ入る。
 原作は未読だが、それなりに純文学しているのだろうと想像する。が、映画はもはや「老人の性」とか「人間の性愛の深淵」とかいう、もっともらしいテーマは飛び越えて、シュールなギャグの世界に到達している。 
 いや、公開当時(58年前)と現在における、変態性欲に対する社会の認知やイメージが変わったせいなのかもしれない。SMやフェチズムはもはや「変態」とは言えないところまで、一般化、娯楽化している。現代の日本人は、この死にぞこないの変態老人の姿を、まるで一昔前の志村けんの爺ギャグのように楽しむことができるほど大人(?)になった。


仏足石と赤い花
仏足石


 別記事で、俳優山村聰の代表作は『東京物語』と書いたが、とんだ偏狭、誤解であった。
 この映画の山村の芝居こそ、日本映画史に残る怪演の一つである。『東京物語』の取り澄ました長男が、こんな浅ましいエロ爺になるとは! 荒い鼻息を吐きながら、若尾文子(実際にはスタント女優)の足のすねに頬ずりする姿は、素か演技かわからないあきれた変態ぶりである。

 木村恵吾監督(1903-1986)は、オペレッタ映画の狸御殿シリーズで知られている。同じ谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を宇野重吉×京マチ子共演で撮っている。これ、見てみたい。
 確かな演出の腕、構図や色彩感覚にも優れ、ユーモアとアイロニー精神もある。

 山村聰と東山千栄子が出てきて、日本家屋内のローアングル(足フェチゆえに自然そうなる)が多いせいか、どうも1953年公開の『東京物語』を思い出してしまう。列車や無人の路地などの空ショットの挿入や音楽の使い方などもよく似ており、「こりゃ、確信犯じゃないか?」という気がする。
 小津安二郎が、笠智衆を使って描き出した老人の枯淡の境地、原節子を使って描き出した貞淑でやさしい日本の嫁、両者を使って描き出した性愛を捨象した人と人とのうるわしい関係を、山村聰と若尾文子を使って揶揄しているんじゃないか。「人間が生きるとはそんなきれいごとじゃないよ!」と、同い年生まれ(!)の小津安二郎を、その代表作『東京物語』をパロることで揶揄、挑発しているんじゃないか――という邪推さえ働く。

 調子に乗って、すねから膝、膝から太ももへと頬ずりしてくる督助を、嫁のサチ子は邪険にはねつける。そのセリフが、「お爺ちゃんのくせに生意気よ!」
 一見、老人虐待の言辞のように思われるが、文字通り「足蹴に」された当の本人は、それをたいへん悦んでいるのだから、これは虐待でも差別でもなくて、至高のケアそのもの。体にかけられる尿を、「女王様の聖水」と思う心理と同じである。
 
 いまやテレビ放映は絶対できない、とんでもなく面白い変態映画。
 若尾文子は、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブを軽く超えている。 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● チンドン屋の記憶 映画:『 IT (イット)』(トミー・リー・ウォーレス監督)

1990年アメリカ、カナダ
187分

 原作はスティーヴン・キングの小説(1986年発表)。
 ホラー映画史上、最もヒットした作品で、2017年にリメイクされた。

 子供の頃、ソルティがもっとも怖かったものの一つはチンドン屋であった。
 と言っても、チンドン屋を知らない若い人も多いだろう。

ちんどんや【ちんどん屋】
人目をひく服装をして、鉦(かね)・太鼓をたたき、三味線・クラリネットなどを鳴らしながら広告・宣伝を行う職業。また、その人。東西屋。ひろめや。(小学館『大辞林』)

 お馴染みの音楽とともにチンドン屋がやって来るのを見かけると、街にいれば親の背中にしがみついて隠れ、外で遊んでいればすぐさま家に走って、彼らが通り過ぎて音が聞こえなくなるまで震えていた。
 なぜ、そんなに怖がったのかよく思い出せない。時代劇に見る非日常的な恰好のせいなのか、表情のわからない白塗りの顔のせいなのか、白昼にいきなり出現する唐突さのせいなのか。
 ソルティがチンドン屋を怖がることを利用し、親は何かにつけ、「悪いことすると、チンドン屋に頼んで連れて行ってもらうよ」と叱ったものである。それを聞くと、大泣きして、「ごめんなさい。もう二度と悪いことはしません」と謝るほかなかった。
 チンドン屋のみなさんにしてみれば、迷惑千万な話である。

 だが、この経験がソルティの中に一つの畏怖をともなうトラウマをつくった。
 「どこからか風のように現れた正体不明の異形の者が、小さな子どもを連れて、忽然と消え去ってゆく」
 童話『ハーメルンの笛吹き男』に象徴される人さらい潭である。
 
 このようなトラウマが自分一人だけのものではないことを知ったのは、小学生になって江戸川乱歩の『地獄の道化師』を読んだ時だった。道化師の扮装をした殺人鬼が、次々と美しい女性をさらっては手にかけてゆく。
 乱歩は、他の作品でも道化師を登場させていたように記憶するが、「サーカスの人気者で子供たちに夢と笑いを与える人」という一般的イメージ(某バーガーチェンの看板キャラ)の裏にある、道化師という存在の不気味な本質(=正体不明、年齢不詳、性別不明)をえぐり出して、小学生のソルティを恐怖に落とし入れた。
 が、今回は泣いて逃げるようなことはなかった。
 逆に乱歩文学にハマっていったのである。

 うがった見方をすれば・・・。
 「正体不明、年齢不詳、性別不明」という、まるで美輪明宏のような存在に、「いつか自分もなってしまうのでは・・・?」という、いまだ自覚化されていない自らのセクシュアリティに関する潜在的な恐れが、道化師に投影されていたのではなかろうか?
 なるほど、チンドン屋でもっとも怖かったのは、白塗りの男であった。
 
 この映画を観ると、道化師に対する恐怖心が万国共通のものであることが察しられる。
 実際、「道化恐怖症(コルロフォビア)」なる言葉も存在し、俳優のジョニー・ディップはその一人なのだそうだ。

道化恐怖症(どうけきょうふしょう、英: Coulrophobia)は、恐怖症のひとつ。メーキャップしたピエロを見ると、本来ゆかいなおどけものを象徴したそのキャラクターに対して極めて恐怖感を覚える病的な心理。ピエロ恐怖症、クラウン恐怖症。
(ウィキペディア「道化恐怖症」より抜粋)


四国遍路2 001
四国遍路で泊まったへんろ宿の看板


 映画の出来自体は、無駄に長く、大人の鑑賞に堪えるものとは言い難い。
 というより、原作は読んでないのでどうだか知らないが、映画は最初からティーンエイジャー以下にしぼって作られたのだろう。この映画を観た子供の中から、また新たな「道化恐怖症」が生まれてゆくのが容易に想像される。
 ピエロの恰好をして出没する IT の正体が最後の最後に明かされるが、そのあまりな「ウルトラQ」ぶりにソルティはずっこけた。
 原作者のキングが、IT (それ)を大の苦手とするらしい。


おすすめ度:

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 恋愛の定義 本:『舟を編む』(三浦しをん著)

2011年光文社

 書店員が選ぶ2012年本屋大賞の第一位を獲得した作品。
 国語辞書の制作に情熱をかける編集者たちの姿をユーモラスなタッチで描く。

 肩の凝らない楽しく感動的な物語の背後から、小説家である三浦しをんの、自らが武器とする「言葉」に対する愛と、それを使ってさまざまな思いを表現することへの覚悟が伝わってくる。
 主要登場人物である編集者の馬締(まじめ)と国語学者の松本は、日本の国語辞書がすべからく国(たとえば文部省)の公的資金によってではなく、民間(個人や出版社)の自己出資によって作られてきた事情について、こう肯定する。

馬締  「言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね」

松本 「言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない」

(発話者はソルティ記す)

 確かに、『古事記』や『日本書紀』や検定教科書に見るように、国家の息がかかった出版物は権力側にとって都合の良い記述が並び、事実であっても都合の悪い物事は歪曲・隠蔽される。日本人の言葉の砦ともいえる国語辞書が、民間の手によって編まれてきた歴史は、素晴らしいことなのだ。


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 一方、たとえ民間の手によるものであっても、やはりマジョリティという権力によって、たとえ意図的でないにせよ、記述が抑圧的になることがある。そのあたりの事情もまた、本の中で取り上げられている。
 新人の女性編集者である岸辺が、ベテランとなった馬締に【愛】の定義について問い詰める場面だ。

岸辺  「さらに変なのは、恋愛的な意味での『愛』について説明した、②の語釈です。『②異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。』となっていますよね」
馬締  「なにかおかしいでしょうか」
岸辺  「なんで異性に限定するんですか。じゃあ、同性愛のひとたちが、ときに性欲も伴いつつ相手を慕い、大切だと思う気持ちは、愛ではないと言うんですか」

(適宜省略。発話者はソルティ記す)

 ソルティも自らのセクシュアリティに直面し、クラス一の美少年に「ぽわ~ん」となった思春期の頃、辞書でエッチな言葉を手あたり次第引くのと同時に、【恋愛】の定義に「男と女が・・・」とか「特定の異性に・・・」とあるのを見て、なんとなく疎外された気持ちになった。おそるおそる【ホモ】を引くと――当時【ゲイ】という言葉は一般化していなかった――「性的倒錯者」とか「変態性欲の一種」などと書かれていてギョッとした。
「ああ、自分はこのさき、変態の倒錯者として生きてゆくのか!(るんるん)」

宇宙人

 今の辞書はどうなっているのだろう?

 現在、国際医学会やWHO(世界保健機関)において、【同性愛】は「異常」「倒錯」「変態」とはみなされず、治療の対象から外されている。人権の観点からも、さすがにかつてのようなおどろおどろしい記述は無くなったようだ。
 一方、【恋愛】については、残念ながら旧態依然としてヘテロ至上主義のままのようだ。
 広辞苑(岩波)、大辞林(三省堂)、大辞泉(小学館)、日本国語大辞典(小学館)、学研国語大辞典、明鏡国語辞典(大修館書店)、新明解国語辞典(三省堂)など日本の代表的な国語辞典が無料で検索できるサイトで調べてみると、唯一、明鏡国語辞典だけが、


 異性同士(まれに同性同士)が互いに恋い慕うこと。また、その感情。


と定義している。しいて突っ込むならば、「まれに」でなく、「または」とすべきだ。さらにしいて突っ込むならば、「異性同士、同性同士」でなく、「人と人とが」で良いと思う。
(サイトに掲載されている各辞書の発行年は不明なので、最新版では変更されている可能性あり)

 よく考えてみると、【恋愛】も【同性愛】も明治時代以降に西欧から輸入された概念であり、言葉である。西欧における定義がそのまま(偏見と共に)日本に移管されたにすぎない。
 江戸時代までの日本で【恋愛】に相当する言葉を探すなら、おそらく【こひ(恋)】【いろ(色)】だろう。どちらも男女間に限らず使われていたのは言うまでもない。
 言葉によって、知らず人は洗脳される。

 ちなみに、上記の辞典サイトで【ボーイズラブ】という語を掲載しているのは、やはり明鏡国語辞典のみであった。
 大修館、素晴らしいじゃないか!



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 100年後のカミングアウト 本:『アスパンの恋文』(ヘンリー・ジェイムズ著)

1988年原著刊行
1998年岩波文庫(行方照夫訳)

 この本は学生の頃(30年以上前)読んだのだが、すっかり内容を忘れていた。
 重厚なヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の小説群の中では、『ねじの回転』と並んでミステリータッチで面白く、気軽に読むことができる。
 
 主人公の男「わたし」は、100年ほど前に亡くなったアメリカの詩人ジェフリー・アスパンについて研究している。幸運にも、アスパンの恋人だったミス・ボルドーが今も存命しており(幾つだよ!)、ヴェニスで姪とひっそり暮らしていることを知る。
 彼女が所有しているらしいアスパンからの手紙を何としても手に入れたい「わたし」は、一路アメリカからヴェニスに渡り、正体を隠してミス・ボルドーの屋敷に間借りすることに成功する。
 まずは世間知らずの姪と親しくなって、手紙を手に入れようと算段するのだが・・・・。
 
 ネタばれしてしまうと、結局、ミス・ボルドーは亡くなり、相続人となった姪の手によって問題の手紙は焼かれてしまい、「わたし」は意気消沈して帰国することになる。
 本作のテーマは難しいものでなく、芸術家の私生活を(死後100年経ってさえ)暴き出そうとする研究者や評論家などの“出版ゴロ”(今で言うならマスコミ)を揶揄し、滑稽化し、批判するところにあるのだろう。私生活を知られることを極度に嫌い、友人に出した手紙を晩年回収し焼却したというジェイムズならではのテーマである。
「芸術家は作品で勝負している。批評したいなら作品を見よ。それ以外のものに関心を持つな」
 ジェイムズの声が草葉の陰から聞こえるようである。

ヘンリージェイムズ
若き日のヘンリー・ジェイムズ


 ジェイムズには誠にお気の毒だが、隠されれば隠されるほど「何かあるのか?」と勘繰りたくなるのが人の常である。
 そのうえ、曖昧さや難解さを特徴とし、読み手によって解釈の分かれるジェイムズの小説は、どうしたって作品単体では読み解けるものではない。世界中の研究者や評論家が作品解読の手がかりを求めて、ジェイムズの私生活を覗き込もうとするのも無理のない話である。
 結果として、なんとも奇怪なことに(!)、ジェイムズ自身がアスパンと同じ憂き目をみることになった。すなわち、ジェイムズが同性の恋人にあてた手紙が没後80年経って発見され、こちらは焼却されることなく陽の目を見てしまったのである。
 
 アイルランドの作家コルム・トービン(Colm Toibin)が2004年に出版した『マスター(Master)』という小説がそれである。
 邦訳されていないようなので詳しいところは不明だが、ヘンリー・ジェイムズの生涯を描いたその小説の中で、ジェイムズがアメリカの彫刻家ヘンドリック・アンダーソン(1872-1940)宛てに書いた手紙が数十通引用されているという。
 
 ウィキペディア英語版『Hendrik Christian Andersen』によると、次のようなことが分かる。 
  • アンダーソンがヘンリー・ジェイムズに出会ったのは1899年イタリアでのことである。
  • 年齢は30歳近く離れていたが、ジェイムズが亡くなるまで親しい交際が続いていた。
  • ジェイムズの手紙からは、アンダーソンへの熱くたぎるような恋情が窺える。(“曖昧さ”など微塵もない)
  • アンダーソンの誇大妄想チックな作品制作をめぐって、二人の関係は冷え込んだらしい。

 ソルティがハッとしたのは、二人が出会った1899年という年である。
 この直後にジェイムズは代表作の一つ『大使たち』に着手している。50代半ばの独身男がフランスを訪れて、生の歓喜を知る物語である。
 どうだろう! まさにビンゴではないか!

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ジェイムズとアンダーソン(1907年頃)

 50代半ばのジェイムズは、年下の美青年アンダーソンと出会って、おそらく人生最大の恋をした。
 その情熱と喜びと感動とが『大使たち』の主人公ストレザーに投影されている。かつ、後期の大作群を完成させるエネルギーとなった。
 ソルティの勘では、『大使たち』の登場人物の一人、チャドの友人にして芸術家志望のリトル・ビラムのモデルこそは、ヘンドリック・アンダーソンその人であろう。
 『大使たち』の中でもっとも印象的なシーン――そのシーンゆえにストレザーの心は解放されることになる――は、ストレザーとビラム青年がはじめて出会うくだりである。ある美しい夕刻、二人はチャドの立派なマンションで、まるでロミオとジュリエットのようにバルコニーの上と下とで視線をからませて初対面し、一夜をともに過ごす。もしかしたらこれは、ジェイムズとアンダーソンのイタリアでの実際の出会いの再現描写なのではなかろうか。

 ・・・・とまあ、想像をたくましくしているが、こんなふうに作家の私生活の知られざる一面を知ることで、作品に新たな解釈を与えることができる。これもまた読書の楽しみなのである。
 『アスパンの恋文』もまた、30年前に読んだ時とはまったく違う視点から読むことになった。なぜジェイムズが私生活を詮索されるのをあれほど嫌がったか、今なら理解できよう。
 ヘンリーよ、もう100年過ぎたのだから気に病むな。

 『マスター』の一刻も早い邦訳を望む。


ヘンドリック・アンダーソンの作品
Museo Hendrik Christian Andersen (トリップアドバイザー提供)



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● チャイ子追悼 : 新交響楽団第248回演奏会


日時 2020年1月19日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール
指揮 飯守泰次郎
曲目
  • モーツァルト/歌劇『魔笛』序曲
  • ハイドン/交響曲第104番『ロンドン』
  • チャイコフスキー/交響曲第6番『悲愴』

 余裕を見て開演45分前に会場入りし、指定席で充実のプログラムを読んでいたら、気づくと会場はほぼ満席になっていた。新響と本日の曲目の人気を感じた。ハイドンの『ロンドン』はともかく、『魔笛』と『悲愴』はテッパンだ。

新交響248回


 1940年生まれの飯守泰次郎は今年傘寿を迎える。ソルティの親と同世代だ。そう考えると、ステージで2時間立ちっぱなしで棒を振り続けるスタミナと精神力に感服する。
 その長い音楽人生が極めたのは、「作曲家の、そして曲自体の、根本的美点を追求し引き出す演奏」と感じた。すなわち、流麗で洒脱な『魔笛』、美しさと才知あふれる軽妙な『ロンドン』、哀切極まりない『悲愴』が堪能できた。

 中でも、ハイドン(1732-1809)が面白かった。
 ハイドンの交響曲を聴くのはこれが初めてであった。が、「ああ、この作曲家は自分好みだ」と直観した。明るく、諧謔と巧緻にあふれ、美しく、しかも素朴。この『ロンドン』一曲からだけでも、ハイドンがモーツァルトとベートーヴェンという出来の良すぎる息子を持つ「交響曲の父」であることが納得できる。
 山口百恵の『プレイバック PART2』のように、曲の途中で音楽を一時停止しメリハリを生む技巧が実に楽しく、ハイドンという人の「遊び心」を感じた。
 機会あれば、これからどんどん聴いていきたい。

 チャイコの『悲愴』を、彼のホモセクシュアル人生および曲完成2か月後に訪れた謎の死を思いやることなしに聴くことは、ソルティには難しい。毎回聴くたび、思いはそこに到る。
 死因はコレラであるとか、毒殺であるとか、自殺であるとか、真相ははっきり分かっていないのだけれど、チャイコが死を覚悟していたんじゃないかと思ってしまう最大の要因は、まさに白鳥の歌となった『悲愴』の曲調にある。
 こんなに、苦悩と哀切と自己憐憫と希求と陶酔と狂気と諦念とに満ちた交響曲がほかにあるか?
 ソルティの知る限りでは、唯一匹敵するのはマーラーの交響曲9番および10番くらいではなかろうか。(ただしマーラーはゲイではなかった)

チャイコ
チャイコフスキー


 ゲイの自殺率がそうでない人に比べて高いことはよく知られている。同じセクシュアリティの友人知人を持つゲイの人で、自殺した仲間が一人もいないという人を探すのは難しいのではないかとすら思う。ソルティもまた、過去数十年のうちにゲイの友人知人の自死の報に何度か合っている。この年明け早々にも、地方在住の年下の知人の悲しい知らせがあり、「ああ、また一人・・・」と暗澹たる思いがした。彼とはここ20年以上交流はなかったが、若く元気な頃の姿――チャイコ好きのネエさんだった――しか記憶に残っていないだけに、唐突な思いにかられた。
 
 現在、国際的に同性婚合法化の流れがあるが、同性婚を認めている国でのLGBTの自殺率が減少したという調査結果が報告されている。
 たとえば、デンマークとスウェーデンの共同調査によると、「同性愛者の自殺率が46%と大幅に減少。ストレートの自殺率も28%低下」したそうである。因果関係ははっきりと分からないが、アメリカの同種の研究では、「2015年の同性婚合法化以降、10代の自殺率が14%減少」したという。(国内最大のゲイ向けWEBマガジン「ジェンクシー」記事参照)
 これは結局、その社会の寛容度を示している。「(同性と)結婚したいか否か」「現今の結婚制度を認めるか否か」という個人個人の希望や意見や選択は別として、結婚制度が社会的に(法的に)認められているという事実そのものが、LGBT一人一人にとって、あるいは何らかの意味でのマイノリティ(権力弱者)に属する一人一人にとって、決して小さい指標ではないことが察しられる。

 『悲愴』という名曲を残してくれたチャイコフスキーには大大感謝であるけれど、彼が生きた19世紀ロシア社会の寛容性の欠如あってこの曲が生まれたことを思うと、微妙な気持ちに包まれる。

 チャイコの、そして亡くなったゲイの友人知人たちの冥福を祈りつつ、会場を後にした。











 



 

● Into the Unknown 「新世界へ」 : 読響ニューイヤーコンサート

日時 2020年1月5日(日)14:00~
会場 ウェスタ川越大ホール(埼玉県)
出演
 指揮:原田慶太楼
 ヴァイオリン:前橋汀子
 管弦楽:読売日本交響楽団
プログラム
 J.シュトラウスⅡ:喜歌劇「こうもり」序曲
 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ3番(アンコール)
 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」

 池袋から東武東上線に乗って約30分で川越駅に着く。
 ここは蔵造りの街並みの残る城下町として有名、小江戸という別称を持つ。

 2015年3月に開館したウェスタ川越は、駅から歩いて5分だが、松葉枝のためタクシーを奮発した。
 およそ1700席のうち9割ほど埋まっていた。
 さすが、読響と “ヴァイオリン界のレジェンド” 前橋汀子である。

時の鐘
川越の観光名所の一つ「時の鐘」

 
 指揮の原田慶太楼は1985年東京生まれの若手。すらりとした長身と長い手足がカッコいい。プロフィールによると海外での活躍が目立つ。
 「オペラ指揮者としても実績が多い」という紹介文どおり、非常にメリハリあるドラマチックな音楽づくりが特徴と思った。ヴェルディの後期オペラ(『運命の力』とか『オテロ』とか)を聴いてみたい。
 
 読響の上手さは言うまでもない。「こうもり」序曲では、水の泡がはじけるようなクリアな輝きにスプライトを思った。
 前橋汀子の参入で、一気に高貴な香りとコクが加わり、高級シャンペンに格上げされた。
 ヴァイオリン協奏曲が進むにつれて、心地よい酔いが体中に染みわたり、ついにはネクターとなった。もちろん、不二家のピーチ味ではなく、原義の意味でのネクタル、すなわち「神の酒」である。
 演奏活動55周年の熟成は、さつまいもで有名な埼玉県の一地方都市のホールを、目をつぶれば、ウィーンのフォルクスオーパーに変容させてしまった!
 今日のメインはこの人だった。
 
 むろん、『新世界』はどう転んでも名曲。
 アンコールでは第二楽章(遠き山に日は落ちて)を繰り返してくれた。

 年末に『第九』を聴き、新年最初に『新世界』を聴くというのも、なかなか良いルーティンかもしれない。
 今年は、どんな新しい世界が待っているだろうか。
 『アナと雪の女王2』ではないが、In to the Unknown(未知の旅へ)踏み出そう!
 と掛け声はいいが、松葉杖じゃないか、われ・・・。

※この映画の英語主題歌のサビを最初に聞いたとき、「レズビアン・ラ~ブ♪」と聴こえたのはソルティだけではあるまい。前作のフェミニズムがさらに進化して、ついに「レズビアン讃歌か」とビックリした。











 
 
 
 

● 据え膳を喰わない男 本:『大使たち』(ヘンリー・ジェイムズ著)

1903年原著刊行
2007年岩波文庫(青木次生訳)

 ヘンリー・ジェイムズはソルティの好きな作家の一人であるが、おかしなことに、「他の読書好きにすすめたいか」と問われたら、ためらわざるを得ない位置づけの作家でもある。彼の幾多の小説中、たとえば最も人気あるオカルトホラー『ねじの回転』ならば、「絶対面白いから、だまされたと思って読んでごらんよ」と胸を張って言えるだろう。が、その他の作品、とくに長編については、「自分は面白かったけれど、あなたにはどうかな?」と言葉を濁さざるを得ない。
 これが同じ好きな作家でも、チャールズ・ディケンズとかジェイン・オースティンとかP.G.ウッドハウスとか(当然のごとく)コナン・ドイルならば、たとえ何巻にわたる長編だろうと、舞台が18~19世紀のイギリスという特殊な世界であろうと、世界文学全集に収録されて町立図書館の書庫で埃をかぶっている古典であろうと、なんらためらいもなく推薦できるのだが、ヘンリー・ジェイムズだとそうもいかない。

 その理由は、ジェイムズの小説の長さやストーリーの地味さやユーモアの欠如ということもあるにはあるが、それにもまして、小説の「面白さの質」が上記の他の代表的イギリス作家たちとは違って、ひとえに登場人物の心理描写の綾に存するからである。
 なので、まず登場人物とくに主役キャラに興味を持てなければまったく面白くないだろうし、事件のドラマチックな展開よりも心理描写を楽しむことのできる感性が読み手になければ退屈そのものだろうし、主役の心理をいくぶんなりとも理解できる共通点が読み手の内に見つからなければすべてが絵空事に思えることだろう。
 つまりは、読者を選ぶ作家ということだ。

 ジェイムズを「面白い」と思うソルティは選ばれた読者の一人なのであるが、それは別段名誉でも自慢でも上から目線でもなく、むしろどちらかと言えば屈辱的なことだと感じている。
 というのも、ジェイムズの小説は「敗北者の文学」だと思うからである。
 何についての敗北か?
 「人生」についての敗北である。
 そのテーマがもっとも凝縮されて描き出されているのが、『金色の盃』や『鳩の翼』と並ぶジェイムズ後期の三大長編の一つである『大使たち』である。

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 主人公のストレザーは55歳の独身男。若いうちに妻と息子を亡くしている。現在は、金持ちの婚約者であるニューサム未亡人の庇護のもと、アメリカの一都市で評論雑誌の編集をしている。真面目で善良で趣味の良い男であるが、老齢期に差しかかった今、「自分は人生を取り逃した」と後悔にも似た思いを抱いている。
 ストレザーは、ニューサム夫人からある仕事を託される。パリ遊学中のニューサム夫人の息子チャドを、アメリカに連れ戻してほしいというのだ。どうやらチャドはパリで放蕩したあげく悪い女につかまったらしく、故郷に待っている実業家としての輝かしい将来を棒に振ろうとしている。
 断る選択肢を持たないストレザーは、「大使」としてパリに赴く。着いた早々出会い意気投合したゴストリー嬢に案内され、自由で芸術的なパリの街の息吹に自らが解放されるのを感じる。久しぶりに会ったチャドは、非の打ちどころない立派な紳士に成長しており、その教育を施した人こそ、悪い女どころか、類いまれなる魅力にあふれたパリ社交界の名花ヴィオネ伯爵夫人であったことを知る。
 ストレザーはヴィオネ伯爵夫人とチャドに導かれて社交界に知遇を得、ヨーロッパ上流社会のエッセンスを味わう。アメリカでは遭ったことのない優雅で洗練された人々との交流に目を開かれて、「遅まきながらやってきた《青春》」に酔う。
 いつしかストレザーは当初の使命を忘れて、真に愛し合うチャドとヴィオネ伯爵夫人の味方となる。二人が「清らかな関係」を結んでいると信じて・・・。
 
 簡潔に言えば、「ミイラ取りがミイラになる話」である。
 ストレザーがパリとヴィオネ伯爵夫人の魅力のとりこになって、アメリカとニューサム夫人を忘れてしまう心理過程が、丁寧かつ緻密に描かれているので、そこに不自然さはない。要は、ストレザーはアメリカにいて空虚な日々を送っていたのであり、ニューサム夫人への愛も本物ではなかったのである。パリにこそ自らの「ほんとうの人生」があると思ったのである。
 半生を社会通念にしたがって迷いなく生きてきた男が、中年期に差しかかり、ふと「自分の人生これでよいのか?」と思い始め、新たな冒険やアバンチュールに溺れていく、いわゆる中年クライシスはよくある話なので、ストレザーの反逆は世慣れた読者の理解外ではなかろう。
 むろん、ソルティもまた一人の中年男なので、ストレザーの気持ちは理解できる。共感を持って読みすすめることができる。
 
 業を煮やしたニューサム夫人はストレザーに見切りをつけ、第二の「大使」として自らの娘セアラをパリに差し向ける。セアラは、ストレザーとはまったく違って、パリにも社交界にもヴィオネ伯爵夫人にも弟の成長にもなんら感銘を受けることなく、チャド奪回の使命を果たさんとする。
 結果、ストレザーとセアラは正面衝突し、ストレザーはお払い箱となる。ニューサム夫人との婚約は白紙に戻され、故国の有力一族の愛顧を失い、おそらくは編集の仕事も失い、老後の保障も無くなった。
 それでも、おのれの心の声のままに「生きる」ことを選択し、チャドと伯爵夫人を守り抜いたストレザーには、後悔はなかった。たとえ、二人の関係が「清らか」でなかったと知ったあとも・・・。
 
 ――という話である。
 たいして面白いストーリーではないことがお分かりいただけるだろう。
 切り詰めたら短編で語り得るような話が、上下巻800ページほどの大著になっているわけで、いかに心理描写に紙面が割かれているか分かろうものである。(風景描写はそれほどうるさくはない。少なくとも一昔前のフランス小説ほどには)

モンマルトル
パリ、モンマルトル
 

 まず、「大使たち(The Ambassadors)」という題名についてである。
 これはもちろん、チャド奪回の使命を受けてパリに派遣された二人の使徒、すなわちストレザーとセアラのことを言っているのは間違いない。
 だが、この語がわざわざ複数形で表されていることを考えると、もっと広い意味合いを持っているように思われる。
 つまり、アメリカからヨーロッパにやってきたニューサム家に関わる者すべて、という意味である。
 次の3つのタイプに分かれる。
  1. ヨーロッパに感化され、そのエキスを吸収し尽くし、それを利用して世界にのし上がろうとするアメリカ人=チャド
  2. ヨーロッパに感化され、幻惑されて、アイデンティティが揺らいでしまうアメリカ人=ストレザー
  3. ヨーロッパに感化されることも影響を受けることもなく、アメリカ人であることを片時も忘れないアメリカ人=ニューサム夫人およびセアラとその御一行
 ジェイムズは、勢いある新興国アメリカから、古く伝統あるヨーロッパを訪れた「大使たち」の様々な身の処し方を、ニューサム一族に代表させて、描き分けている。この小説は、ジェイムズが初期から取り上げてきたテーマの一つである「新旧大陸の文化対峙」を描いているのである。

 次のポイントは、ストレザーという男のキャラクターである。
 この小説を読み終わってソルティがまず思ったのは、「はてさて? 読者はこのストレザーという男の人物設定にどれだけリアリティを感じるだろうか?」、「どれだけ共感できるであろうか――とくに中年以上の大人の読者は?」ということであった。
 ぶっちゃけ、「こんな男、いるかあ?」と思ったのである。

 アメリカからパリに来て、「ミイラ取りがミイラになった」ところはいい。そういうこともあるだろう。「道を誤った」と気がついたところで人生行路を変えるのは、いくつになってからでも遅くはない。社会通念にしたがって本音を殺して成功裡に生きるより、たとえ多大な実害を被ろうともおのれの心のままに生きるほうが、当節カッコいい。(氷川きよしを見よ!←伏線)
 ソルティが不可解に思うのはストレザーの次のような点である。
  • チャドとヴィオネ伯爵夫人の関係が「清らか(=肉体関係なし)」だなんて、いったいなぜ信じ込めたのか?
  • ニューサム夫人との関係が破綻したあと、なぜ最も肝胆照らし合うゴストリー嬢と関係を結ばないのか? 彼女から明らかにそれとわかる申し出(据え膳の提示)を受けたのに。
  • なぜ、ラストでチャドに、「ヴィオネ伯爵夫人を捨てたら極悪非道の罪をうけることになるぞ」なんて、日活青春映画の敗れた恋敵が言うような、こっぱずかしい脅しをしたのか? 
 ストレザーが20代、せいぜい30代前半の世間知らずの青年だったのなら、まだ上記の疑問は浮上しない。ストレザー青年は、「強い女性幻想、プラトニックラブ幻想を持っているんだなあ」、「経験が浅いため、女に臆するところがあるんだなあ」、「あちらには、据え膳喰わぬは男の恥という文化がないのだなあ」、「ヴィオネ伯爵夫人によほどイカレて、状況を冷静に見る余裕がないんだなあ」、「女心がわからないから、恋愛というのがつまるところフィフティ・フィフティであるということが、つまりチャドとヴィオネ伯爵夫人の関係は(周囲からどう見えようとも)一方のみが余計に負担を強いられているものではない、ということがわからないんだあ」と、落としどころを見つけるところであろう。
 しかし、ストレザーは酸いも甘いも噛み分けた55歳。過去に結婚経験があり、愛する者の死を経験している。アメリカでは、ニューサム夫人と大人の関係にあった(はずである)。
 それにしては、あまりにナイーブ、あまりに男女の機微に疎すぎないか?
 まるで、アーサー王伝説に出てくる騎士たちのような女性観、水車に突進したドン・キホーテのような空きめくら。「女に性欲がある」とは思いもしない童貞少年のごとくである。ストレザーが、恋愛以外の他の事柄に関しては、鋭い観察力と深い洞察と高い知性を持ち合わせているだけに、一層不思議な気がする。

 主役キャラのこうしたリアリティ無さを他の読者はどう受け止めているのだろう?
 ネットで『大使たち』に寄せられた読者の感想をいくつか読んでみたが、そこにこだわっているコメントは見当たらなかった。
 だいたい百年以上前に評価の定まった世界的名作である。主人公のキャラ設定におかしなところあれば、誰かがとうに指摘しているはずである。
 してみると、ソルティの感想こそはゆがんだ偏狭な見方であって、こういった55歳の男は昔も今も普通に存在するのだろうか。

ドン・キホーテ
ドン・キホーテ


 このストレザーというキャラに、生涯結婚せず、女性との浮いた噂もなく、独身を貫いた作者ヘンリー・ジェイムズ自身が少なからず投影されていると見るのは、あながち間違ってはいまい。だからこそ、ここまで細やかな心理描写が書けて、ジェイムズ自身の「生涯でもっとも満足のいく作品」となったのである。客観的に見れば、「どうしようもなくウブで、簡単にだまされやすい」ストレザーを滑稽に貶めることなく、悲惨と失意のうちに置き去りにすることなく、最後まで読者が共感できる高潔な人間として描き出すことができたのは、この主役に対する作者の愛にほかならない。
 
 ソルティはストレザーというキャラの不思議を解く一つのアイデアを持っている。
 それはまた大作家ヘンリー・ジェイムズの秘密につながるものである。

 ストレザーがゲイであるならば、作品執筆当時にあってはクローゼット(隠れゲイ)たることを強いられ偽装結婚もやむを得なかった同性愛の男であると仮定するならば、このキャラの不自然さは納得できるものに様変わりする。男女の機微に疎いのも、据え膳喰わぬのも、仕方ないと思える。55歳になるまで「本当の人生を生きられなかった」という感慨も深く響く。
 ストレザーは、クローゼットであったヘンリー・ジェイムズの分身ではなかろうか。
 ゲイの男を主人公とする小説を発表するなど、当時のイギリスでは、ましてや有名な哲学者ウイリアム・ジェイムズを兄に持つ大作家ヘンリーには到底できなかった。出版社からも読者からも総スカン喰らうかもしれなかった。
 だから、ヘンリーはここで一つ嘘をついた。ゲイ的感性を持つノンケの主人公を創り上げた。
 それがストレザーの不可思議なキャラの秘密ではないか。
 
 こういった独断&偏見的読み方ができるところがこの作家の面白さの一つである。
 読者を選ぶ作家という意味がお分かりいただけるだろうか。


評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 本:『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』(作:泉鏡花作、絵:中川学)

1920(大正9)年原作発表
2019年河出書房新社より刊行

 『龍潭譚(りゅうたんだん)』『化鳥』『朱日記』に続く、中川学の泉鏡花絵本シリーズである。
 今回も、スタイリッシュで美しい、切り絵のようなタッチの絵が、ページをめくるごと心躍らせる。

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 ソルティはこの短編をはじめて読んだが、非常に切ない、心に残る一編である。

 物語の舞台は、鏡花ゆかりの金沢がモデル。
 ある屋敷の木戸に掲げられた『今日は此の家に居り侍り 御方様たちおなぐさみ』という謎の看板と、その傍らに立つ榲桲の木、そして百合のように美しい少女を中心に、話は展開していく。

 例によって、鏡花の自在なイマジネーションと硝子細工のように繊細で美しい文体とで、テーマは詩的にカモフラージュされていく。
 が、これはかなりエロティックな話である。
 そして、相当に残酷な話である。
 ちょっと前に読んだ東野圭吾の『白夜行』のヒロイン西本雪穂を思いだしたほどに・・・。

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 現代風に言えば、この話は児童虐待、少女春がテーマなのである。
 部落差別を隠れたテーマとする『化鳥』でも思ったけれど、鏡花には実は結構強い社会問題意識があったのではないかという気がする。
 弱者、マイノリティに対する同情に近いものを多分に持っていたのではなかろうか。 

 中川学の描く榲桲を抱える少女が、無垢なる可憐さで百合のごとくひっそりたたずみ、ひたとそのつぶらな瞳を読む者に投げかけるとき、美しき幻想世界によって煙幕された現実の醜さがいやまさって浮かび上がる。
 

 
評価:★★★★

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● 本:『天国でまた会おう』(ピエール・ルメートル著)

2013年原著刊行
2015年早川書房より邦訳

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 『その女アレックス』で一躍、世界のひのき舞台に躍り出たフランスのミステリー作家ピエール・ルメートル。
 本作は、ミステリー作家としてだけでなく、小説家としての実力のほどを知らしめるに十分な力作である。

 形としては第一次世界大戦を背景とする犯罪サスペンスであるが、登場人物のキャラクターづくりと奇抜にしてリアリティあるプロットが巧みで、そのうえで一人一人の心理や欲望の綾を押さえたストーリーが展開するので、人間ドラマとして読みでがある。フランス最高の文学賞と言われるゴンクール賞(日本で言えば芥川賞か直木賞のようなものか)を受賞しているのも納得できる。

 キャラクターの魅力で言えば、徹底したエゴイストで二枚目の没落貴族であるアンリ・ドルネー・プラデルが、憎らしいながらも面白い。サイコパスそのものといった冷酷さは、ヴィスコンテの『イノセント』に出てきたトゥリオを想起させる。
 主人公の青年アルベールは、犯罪小説のヒーローらしくない臆病な小心者で、天敵プラデルを前にすると蛇の前の蛙のようにすくみあがって、ズボンの中にオシッコをちびってしまう。だが、心やさしく、責任感がある。
 もう一人の主人公エドゥアールは、芸術家気質の反骨的な青年で、億万長者の息子。ゲイである彼は、やり手の実業家である父親と断絶している。

 上官プラデルの奸計により戦地で生き埋めにされたアルベールは、同僚のエドゥアールに危ういところを救出される。そのとき、爆発物の破片が飛んできて、エドゥアールの顔の下半分を整形不可能なほど破壊してしまう。
 この災難によって、アルベールとエドゥアールは固く結び付けられることになる。
 
 アルベールとエドゥアールの、ノンケとゲイの友情の行方は?
 傷痍軍人二人による国家相手の壮大なる復讐(詐欺)は成功するのか?
 悪辣なるプラデルに天罰が下る日は来るのか?
 そして、エドゥアールは父親と邂逅を果たすのか?
 父親はエドゥアールのセクシュアリティを受け入れられるのか?
 
 様々な関心が並行しながら、怒涛の結末に向かっていく強烈サスペンス。
 サスペンスとは、事件でなく、心理にこそある。
 上下巻600ページを超える分量も、物の数ではない。
 夜更かし必死。


 
評価:★★★★

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● ほすぴたる記 12 リハビリ回春

 この病院のリハビリは充実している。 
 ソルティを担当してくれる青年スタッフの話によると、現在80名近いリハビリ職員が働いていて、来年度の入職予定者は25名だという。
 大企業か!

 リハビリ室は非常に広く、外光をいっぱい取り込んで明るい。
 いつ行っても、たくさんの高齢患者たちが、孫あるいはひ孫ほど年の離れた若いスタッフたちと共に、リハビリに取り込んでいる。
 そう。スタッフの若さには特筆すべきものがある。
 おそらく、平均年齢は35才を切るんじゃないか。

 この若さの秘密は、理学療法士や作業療法士といったリハビリ職が、医療介護の現場で脚光を浴び、働き口が増えるようになってから、まだ日が浅いためにあると思われる。
 また、リハビリ職は介護職と比べると資格を取るためのハードルが高いので、介護職には多く見られる中高年転職組の少ないこともあろう。
 ソルティが前に勤めた施設でも、介護職や看護職に比べると、リハビリ職員の平均年齢は低かった。

 この若さというのが馬鹿にならない。

 病棟より明らかに寒く、だだっ広いリハビリ室で、揃いのオレンジ色の半袖ユニフォームを着て、きびきびと動き回る若いスタッフたちの発散する生気は、それだけで十分、高齢患者たちを活気づける。
 その上に、リハビリという名目がなければ明らかにセクハラに当たるであろうほど、若い彼らは患者たちに体を密着させてくる。
 患部やその周囲を執拗にマッサージし、背後から両脇に腕を入れて抱きかかえ、固くなった股関節を念入りにほぐし等々・・・。丁寧な声かけと優しい笑顔を伴って。
 科学的エビデンスに裏付けられたさまざま施術と並んで、あるいは施術以上に、患者にプラス効果をもたらすのは、接触による「若いエキス(笑)」の摂取である。

 リハビリとは、被害者による合法的なセクハラ行為である😘

 今日もソルティがマッサージを受けている隣りの寝台では、70才は超えていると覚しき小太りでちりちりパーマの女性が、30才くらいの彫りの深い阿部寛風イケメンスタッフに背後から羽交い締めにされて、顔を真っ赤にして恍惚境に彷徨っていた。二人の、複雑に絡み合った肢体は、まるでインドカジュラホの有名な男女神交合像のよう。

「痛くないですか?」
 耳元で優しく問いかけるイケメン。
「ん・・・だ、だいじょうぶ。良く効いてますゥ」

 見てはいけないものを見た気がした。

 いや、人のことは言えん。
 ソルティもまた、息子世代のさわやか系青年スタッフの容赦ない関節攻撃にアヘアへである。
 一週間の固定処置で硬くなった足首の関節と筋肉を元に戻すためには、それなりの痛みを覚悟しなければならない。ちょっとくらいエロスの魔法に頼って、「痛み」を「気持ち良さ」で緩和してもいいではないか。

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病室から拝む夕映え富士



 
 

 
 

● 映画:『シェイプ・オブ・ウォーター』(ギレルモ・デル・トロ監督)

2017年アメリカ
123分

SFファンタジー恋愛ドラマ。
監督は『パンズ・ラビリンス』(2006)、『クリムゾン・ピーク』(2015)の奇才ギレルモ・デル・トロ。
CGによる怪奇色の強い幻想的な作品(ダークファンタジーとでも言うのか)を得意としている。

映像的には好みと言っていいのだが、話自体が凡庸。
なぜ、いまこんな使いつくされた設定(異生物間の恋愛)の物語を撮ったのか、なぜ全米が高い評価を下したのか(第75回ゴールデングローブ賞および第90回アカデミー賞の作品賞と監督賞)、正直理解に苦しむ。
差別の厳しかった時代に生きた唖者、ゲイ、黒人らマイノリティたちの優しい連帯を描きたかったのかもしれないが、それもやはり、なぜ今さら?という気がする。

ただ、唖のヒロインを演じるサリー・ホーキンスはじめ、憎まれ役のマイケル・シャノン、年老いたゲイの画家役のリチャード・ジェンキンス、ヒロインの友人の掃除婦役のオクタヴィア・スペンサーなど、役者陣は充実している。

ギレルモ監督は日本アニメの大ファンで、大友克洋の『童夢』に関心あるとか。
ぜひ、あの日本マンガ史上指折りの傑作を映画化してほしいものだ。



評価:★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 波は遅れてやって来た 映画:『修道女』(ジャック・リヴェット監督)

1966年フランス
135分

 ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーと並んでヌーヴェルヴァーグの旗手と言われたジャック・リヴェットであるが、日本ではあまり知られていない。
 もっとも有名な作品は、第44回カンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞したエマニュエル・ベアール主演『美しき諍い女』ではなかろうか。ヌーヴェルヴァーグをはるか彼方に見やる1991年の作品である。これがきっかけで、ジャック・リヴェット作品がようやく日本で公開され始めたというから驚きである。
 ソルティは2007年発表の『ランジェ侯爵夫人』をDVDで観たのが初リヴェットであった。非常によく出来た大人の恋愛映画で、心理描写の鋭さとヨーロッパ映画ならではの風格に感心した。
 今回やっとヌーヴェルヴァーグ全盛時の作品を観ることができた。
 
 18世紀フランス。親の命令で強制的に修道女にされてしまった貧乏貴族の娘シュザンヌ(=アンナ・カリーナ)。
 最初に入った修道院では、新任の院長とうまくいかず、シスターたちから壮絶ないじめを受け、狂ったようになって移転を許される。次の修道院では、レズビアンの院長から目を付けられ、貞操と背徳の危機にさらされる。告解司祭とともに修道院を脱走するが、世間知らずのシュザンヌは俗世に馴染めず、ついには道端で物乞いする羽目に。声をかけてきた女性に連れて行かれた先は高級娼館。それを知るや、シュザンヌは窓から身を投げる。

 女の転落劇という点では溝口健二の『西鶴一代女』を連想した。もっとも、田中絹代が演じたヒロインのように、転落を受け入れてしたたかに生きていく強さは、シュザンヌにはなかった。
 シュザンヌの悲劇は、「聖」に徹しきれず「俗」にも馴染めず、というところにあった。

 原作は18世紀フランスの百科全書派のドゥニ・ディドロの同名小説。修道院の腐敗を告発する目的で書いたらしい。ディドロは無神論者であった。
 この映画は、発表時にカトリック教会から冒涜的と非難され、一時は上映禁止になったという。

 これからおいおいリヴェットを観ていきたい。

 
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     読み損、観て損、聴き損








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