ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

イベント(講演・集会等)

● 東京レインボープライド2019

 2年ぶりにパレードに参加、曇りがちで肌寒い渋谷の街を歩いた。

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 何と言っても驚いたのが、参加企業の多さである。
 保険業界、航空業界、IT業界、旅行会社、メガバンク、外資系金融企業・・・。
 就活中の学生が見たら、思わず履歴書持ってブースを駆けずり回りたくなるであろうような、大手有名企業が軒並み出店している。そして、もっか10連休満喫中の社員たちが何十名という規模でパレードに参加している。家庭サービスを兼ねた子供連れ、愛犬連れも多い。

 仕事の為、代々木公園会場に遅れて到着したソルティは、パレードの出発地点で会場のどこかにいるはずの友人と連絡とり合いながら、幾多のフロート(登録グループの塊)が目の前を通過するのを眺めていた。延々と続く人波のおそらく3分の1くらいは企業参加者ではなかったか?
 ここ最近の産業界のLGBT支援ムーブメントは承知していたけれど、もはや事態は後戻りできないところまで来ていると実感した。保守派の一国会議員が「生産性」がどうのこうのとか文句をつけたところで、もうこの流れを押しとどめることはできまい。


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 正直、この勢いは一部当事者の予測すら超えたものになっているのではなかろうか?
 自己肯定するのに長くまどろっこしい時間と上がったり下がったり一進一退の労力を要し、今だって、たとえば同性婚について「人として当然の権利」と主張できるほどの気概と認識は持ちきれないでいる旧世代オヤジゲイにしてみれば、己の頭上を超えて突き進んでいく波のうねりに、嬉しい反面、面映ゆいような、不安なような、不思議な気持がするのであった。

ともあれ、Happy Pride !!


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● 映画:『地獄でなぜ悪い』(園子温監督)

2013年日本
130分

 一世一代の映画を撮ることを夢見ている熱血映画オタクがいる。
 夫を狙う敵対グループの若衆を惨殺し、ムショ入りした極妻がいる。
 母親の起こした事件のため女優の道を断たれた娘がいる。
 娘のスクリーンデビューを夢見る獄中の妻のために、映画製作を決意した組長がいる。
 四者の思いがからみあって、ヤクザの殴り込み現場を撮影する企画が生まれた。
 
 『愛のむきだし』(2009年)で驚嘆した園子温の才能と情熱は、ここでも溢れている。何よりも、國村隼、堤真一、渡辺哲、ミッキー・カーチスというベテラン役者に、ここまで本気の、ここまで自由な芝居をさせることができる人心掌握術に並々ならぬ監督性を感じる。役者を一皮剥かせることのできる演出家ということだ。國村隼はとくに素晴らしくて、ちょっとファンになった。

 ラストの殴り込みシーンの流血ぶりが凄まじい。
 

 直接関係ないが、この映画を見た翌日新宿駅西口を通ったら、刑務所作業製品の販売をやっていた。家具、食品、布製品、石鹸、アクセサリー、文具等々、各地の刑務所内で作られた様々な商品があって、人もそこそこ入っていた。

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ソルティ購入の布製ブックカバー
made in 函館刑務所


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百万円のおみこしも売っていた

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獄産でなぜ悪い?


評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● シングルベル 初期仏教講演会:『過去からの解放~なぜ「今」をしっかり歩けないのか?~』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年12月23日(土)13:30~
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 開演前の会場を見渡すと男ばかり。
 はて、なぜ?
 まさかクリスマス・イヴ・イヴの土曜日だからってわけじゃあるまい。仏教徒にクリスマスは関係ないよなあ~。それとも、仏教もキリスト教も関係なく、クリスマスはもはや女の決戦日か? 
 あるいは、本日のテーマのせいなのだろうか?
 「過去からの解放」って言うけれど、どちらかと言えば過去にとらわれがちなのは男のほうだ。別れた昔のパートナーに未練たらたらなのは大抵男のほうだ。つき合う相手の過去にこだわるのも男のほうだ。学歴や職歴や地位といった過去の経歴に執着するのも男のほうだ。そして、年齢を忘れたがるのは女のほうだ。男にくらべれば、女のほうが圧倒的に過去から自由である。とするなら、女にはあまり関心のないテーマなのかもしれない。

 さて、スマナ長老の話をかいつまんで紹介すると、

●過去には2種類ある。一つは、「人が生きてゆく流れ」のことで「何をやったか」という変えることのできない事実(=史実)である。本人だけでなく第三者が客観的に指摘できる類いのものだ。

●もう一つは、史実を貪・瞋・痴の感情で調理し捏造した主観的ストーリーである。人は、自分の過去の出来事を適当に選択して解釈・編集し、「自我」の栄養とも住処ともなる都合のいい物語をつくる。その物語に導かれて生きようとするので、失敗して不幸になる。なぜなら、それは第一の過去の定義である「史実」と一致しないフィクションだから。 

●なぜそういった物語が生まれてしまうのか。それは、我々の認識システムには生得的な欠陥(=無明)があるから。「眼・耳・鼻・舌・身・意」というレセプターに「色・声・香・味・触・法」という外的データが触れたとたん、「快・不快・どちらでもない」といったような好悪・判断が自動的に働いてしまう。

●「快」を求め執着し(=欲)、「不快」を厭い憎悪する(=怒)ことが繰り返されるうちに、一定の判断基準をもった「自我」が生まれる。「自我」はいつも「ありのままの事実」を感情で歪曲してしまう。

●過去とは、主観と感情で捏造した経験と判断の塊である。人は、過去に縛られて苦しむ羽目になる。つまり、自分が掘った苦しみの落とし穴に自分自身で落ちる。まさに自業自得。

●すべての経験は「わたし(自我)」という器に入れられているので、人はどんなに苦しくてもそれを捨てることができなくなっている。

●第一の過去(=史実)と第二の過去(=物語)を区別する方法はいたって簡単。「私は〇〇です」と覚えているすべての記憶は後者である。この幻覚の過去をこそ捨つるべき。
 例.(ソルティ創作)
  第一の過去 「××年前に交通事故にあって、下半身不随になりました」
  第二の過去 「私は交通事故の被害者です」

●第二の過去から解放される最速にして最良の方法は、上記の認識システムに介入し、物語をつくろうとする働きに即座に楔を打つこと。それがヴィパッサナー瞑想である。 

●ヴィパッサナー瞑想を、「人間のすべての行為にはゴール(=目的)が存在しない」という事実を発見して心が変わるまで、そして因果法則を発見するまで、徹底して行ってみることで解脱に達する。

 ・・・・・といった内容であった。


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 人間が、自ら作った「物語」に縛られてほかならぬ自分自身を苦しめている、というのは至極納得がいく。
 たとえば、「クリスマスは家族や恋人と一緒に過ごすのが幸福である」という、おおむねバブル期(80年代)に商業的に作られた物語がある。その物語に子供の頃から洗脳され、信じ込み、周囲とも物語を分かち合い、「クリスマスに独りで過ごす人間」を憐れんだりバカにしたりしていると、今度は自分が「クリスマスに独りで」過ごさざるをえなくなったとき、「クリスマスに独りで過ごす自分=不幸」という烙印を自分自身に適用することになる。
 自分を不幸にするのは自分の思考(=信念=過去)にほかならない。まさに墓穴を掘るというやつだ。

 いったい人はこうした「物語」をどれだけ身内に抱えていることか!
 物語の多くが「むかし、むかし・・・」で始まることが示すように、物語とはまさに過去そのものなのである。
 その意味で、「過去からの解放」とは「物語からの解放」にほかならないわけで、出だしに戻ると、物語に閉じ込められ閉塞しがちなのは――通常のイメージとは違って――女よりもむしろ男なのかもしれない。
 稲垣××のクリスマスソングを引き合いに出すまでもなく、ソルティの周囲を見ても、“シングル”ベルに身もだえるのは、昨今、独り身の女よりもむしろ独り身の男のような気がする。

 むろん、ソルティは今年もシングルベルを安楽に過ごしましたとさ。



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※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。





● 講演:『福島の小児甲状腺がん 基礎から現状までを学ぶ』(講師:杉井吉彦)

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日時 2017年9月30日(土)18:30~
会場 阿佐ヶ谷地域区民センター(東京都杉並区)
主催 NAZEN東京、NAZEN杉並

 福島原発事故での放射線被爆により福島の子供たちに甲状腺がんが増えている!――というショッキングなテーマを描いたドキュメンタリー『A2-B-C』(イアン・トーマス・アッシュ監督、2013年)を見て、その後が気になっていた。
 アマオケのコンサートに行ったとき、会場ロビーに置かれていたチラシを見て、この講演会を知った。ケアマネ試験も近いので、「行くかどうかはその時の気分次第」と鷹揚に構えていたら、前日の夜(金曜)に大阪の友人から数年ぶりの電話をもらった。
 用件はどうでもいいのだが、彼の近況によれば、
「最近、古なった屋根の瓦を全部葺き直して、ついでにソーラーパネルを敷設したんよ。全部で800万くらい使(つこ)うたかな」
「800万!?」
「ソーラーパネルだけなら200万くらいやった」
「そーらー、高いね」
「ま、やっぱ自分は原発に反対やし、ちいとでも自分にできることはやっとこ思ってな・・・」
(以上、関西弁は適当)
 むろん、電話を切ったソルティは「これは明日の講演に行きなさい」という啓示と思ったのである。

 講師の杉井吉彦はプロフィールによると、
 
1950年、奈良県生まれ。
東京医科大学卒業後、武蔵野赤十字病院に勤務し、整形外科副部長を務める。
1992年、国分寺市に本町クリニックを開設、院長に就任。
2011年3・11原発事故をうけ、「ふくしま共同診療所」建設に尽力。2012年12月の開院以来、同診療所の医師として毎週福島市へ通い、診療を行っている。

 自己紹介の中で杉井氏は、1985年8月に起きた日航ジャンボ機123便墜落事故の現場に医療班として立ち会った時のエピソードを語った。そして、「今にして思えば、あの飛行機事故こそ、戦後日本が唱えてきた科学技術信仰による安全神話に対する最初の警告の一打だった。にもかかわらず、なんら検証も反省もすることもなく(墜落事故の真の原因はいまだに確定されていない)同じ道を突き進んだ結果、福島原発事故という未曽有の悲劇につながった」といったようなことを述べた。
 ソルティも日航ジャンボ機墜落事故と福島原発事故に強い類似を感じている。加えて薬害エイズ事件もしかり。
 利権をひたすら追い求める政・官・財の癒着や腐敗。そこに担ぎ上げられ太鼓持ちとなる御用学者連中。彼らは目の前にある現実のデータを無視して、自分たちに都合の良い言説を臆面もなく流布し続ける。金と権力と威信のためなら、国民の命なぞ、患者の命なぞ何とも思わない。
 またしても同じ過ちが繰り返されている。

 杉井氏は医師としての立場から、素人にも分かるように「甲状腺とは何か、どういう働きを司っているのか、甲状腺がんになるとどうなるのか」という点をまずレクチャーした。
  • 甲状腺は成長ホルモンを生涯産出する。もし切除したら甲状腺ホルモンを一生補充し続けなければならない。
  • 甲状腺は頸動脈のそばにあり、がんが転移しやすい。手術も難しい。
  • 小児甲状腺がんは100万人に1~3人と言われるほど、本来なら少ない。

 次に、検査で見つかった福島県の子供たちの甲状腺がんの状況を示した。
  • 原発事故以来、小児甲状腺がんの患者は増え続けている。2017年6月5日に公表された福島県民調査報告書によると、合計190人。(実に2000人に1人) 今後も増え続けるのはまず間違いない。
  • しかし、政府も福島県も、我が国の甲状腺疾患の権威・山下俊一(福島県放射線健康リスク管理アドバイザー)を擁する福島県立医大も、事故との因果関係を否定している。
  • どころか、安倍政権は今年に入って、チェルノブイリでは強制避難ゾーンとされた年間放射線量20ミリシーベルトの区域を「安全」とし、避難指示解除を行った。それに合わせて福島県は自主避難者への住宅支援を打ち切った。つまり、汚染地域に還らざるをえないよう仕向けている。
  • 子供だけでなく、大人の中でも今後、橋本病などの甲状腺疾患が増えると予測される。
 
 お隣り韓国では文在寅大統領が今が年6月に脱原発宣言をし、液化天然ガスや再生可能エネルギーによる発電を柱にする方針を発表した。杉井氏によると、韓国の原子力発電所の近くに長年住んでいて甲状腺がんを発症した人が、原発会社を相手に裁判を起こし、因果関係が認められて勝訴したとのこと。これはつまり、原発事故が発生しなくても、放射性物質を放出する原発は健康に危害を与えるという事実が法的に認められたのである。 
 なんでこんな重要なニュースが日本で報道されない!?

 明らかに何か‘おかしなこと’ ‘恐ろしいこと’が進行している。
 
 昨日67歳の誕生日を迎えたばかりという杉井氏のわかりやすく、熱く、人間味あふれる語りに会場の温度は上がった。80名を超える参加者の中には元自衛官や事故後に原発で働いた人などもいた。
 右も左も関係なく、これはまことに由々しき事態。

 ケアマネ試験が終わったら、もっと調べてみよう。


誓いの碑
薬害エイズ和解を受け厚労省内に建立された「誓いの碑」





● ただOSのみ :初期仏教月例講演会 『性格の完成~「ありのまま」は危ない!』 (講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。




● 介護のハラミツ : 原始仏教トーク 『波羅蜜具足』 (講師:マハーカルナー禅師)

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日時  2017年5月14日(日)13:00~
会場  四葉集会所(東京都板橋区) 
主催  マハーカルナー法友会

 東武東上線・下赤塚駅からハナミズキの植わる街路を下り、曹洞宗萬吉山宝持寺・松月院にあたって右折する。松月院の山門脇で「怪談・乳房榎」の記念碑を横に見やる。
 駅から歩くこと正味15分で会場に着いた。

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武将・千葉自胤が1492年に当地にあった宝持寺を菩提寺として定め、
松月院と改名したのがはじまりといわれている。


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四葉集会所

 40畳ほどの室内は100名を越える参加者で埋まり、相も変らぬマハーカルナー人気を眼前にする。
 今回のテーマは、「波羅蜜具足~正法の衰退と波羅蜜の実践」。
 波羅蜜(はらみつ)とは、「悟るための機運」といった意味である。人にはそれぞれの生まれ持った波羅蜜がある。それはまた増大させることもできれば、減らすこともできる。
 そもそも、今生で人間として生を享けたことは宝くじで一等1億円を5回連続(もっとか?)当てるくらいの奇跡的な波羅蜜である。しかも、平和で民主的な現在の日本に生まれたことは途方もなく有難い波羅蜜である。そのうえ、原始仏教を学ぶ機会(仏縁)と能力を持てたことは神々も羨む真に偉大なる波羅蜜である。
 この波羅蜜を生かして、波羅蜜が付きないうちに、ブッダの教えがこの世から消えないうちに、解脱へのパスポートを手にしよう、というのが法話の趣旨である。

 今回聴けて良かったのは、「波羅蜜の効果的な蓄積法」について。
 以下の4つが大切とのこと。

1. 善行為
 行為の内容は何でも良いが、大切なのは自らの善行為を明確に意識すること。
 例) 「私はこれから公園のゴミを拾います」

2. 善作為
 善行為の具体的な目的、それを行った結果として期待できることを明確に意識すること。
 例) 「公園がきれいになり、利用者が気持ちよく過ごせますように」

3. 誓願
 善行為の結果、「自分はこのようになりたい」と願うこと。願うのは、世間的な事柄でも、出世間的な事柄でも、どちらでもかまわない。
 例) 「この公園の清掃作業によって、私の修行が進歩しますように」

4. 廻向(えこう)
 善行為によって生じる功徳を誰に与えるか、あらかじめ決めておくこと。
 【廻向の対象は次の4つ】
  ①仏法僧 ②一切衆生 ③今生きている福徳を必要とする人々 ④すでに亡くなった近しい人々 
 例) 「この公園の清掃作業によって生じた功徳を一切衆生に廻向いたします」

ポイントは、
● 以上の4つを、善行為を行う始めと途中と終わりに、はっきりと意識すること。
● 心をこめて一所懸命善行為すること。
● 我が身の幸福も一緒に願うこと。
● 毎日積み重ねること。

日々の小さな善行を、目的・誓願・廻向先を明確に意識しながら自覚的に行っていくことで、本当の波羅蜜が蓄積されていきます。


 ソルティのやっている介護という仕事は、まあ善行為と言っていいだろう。
 日々流されるままに無自覚に仕事するのではなく、おのれの波羅蜜を蓄積する意図をもって、意識的・自覚的に仕事することで、数ヶ月・数年後には無視できない莫大な効果を生み出すことができるわけだ。

 もっと早く知っておけば良かった・・・・。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 





 
 





● おトクな一日 :Happy Wesak Day 2017 (日本テーラワーダ仏教協会主催)

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 今年もブッダの誕生・成道・般涅槃を祝うウェーサーカ祭に参加した。
 普段のスマナサーラ長老の講演会や瞑想会の時とは違い、会場いっぱいに和やかであたたかい、あえて言えば女性らしい雰囲気があふれていて、そこにいるだけで癒される心地がする。ブッダとブッダの教えとサンガを愛する人びとの慈悲の気が満ちている。会場内に流れている音楽がまた良かった。

 今年もたくさんのお土産があった。

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  • 『Patipadaパティパダー』4月号・・・・・日本テーラワーダ仏教協会の機関誌。
  • 『「怠け」を克服する』・・・・・スマナサーラ長老の法話を起こした冊子。山口県下松市の誓教寺に新設された会館「仏教なんでもセンター」の落慶記念に発行されたそうである。この誓教寺の住職が『浄土真宗は仏教なのか?』、『日本仏教は仏教なのか?』(ともにサンガ発行)で日本仏教界を騒がせた藤本晃である。
  • 『ブッダと脳』・・・・・スマナサーラ長老が現代の脳科学者によって書かれたいくつかの本を読んで、「脳」という角度からブッダの道を説明することに挑戦してみたもの。その中には当ブログで取り上げた『ブッダの脳:心と脳を変え人生を変える実践的瞑想の科学』および『奇跡の脳:脳科学者の脳が壊れたとき』も挙げられている。会員の喜捨によって刊行された尊い冊子である。
  • 『Samgha JAPANサンガジャパン』26号・・・・・スマナサーラ長老の本を最も多く出している㈱サンガ発行の季刊誌。今号の特集は『無我―「わたし」とはなにか―』。このブログで著書を紹介した慶応義塾大学大学院教授の前野隆司とスマナサーラ長老の対談が載っているのを知って、購入した。 

 これだけでもすごくトクした気分になったのであるが、なんと、昨年に引き続き今年もお弁当&ペットボトルのお茶の無料サービスがついていた。テーラワーダ協会ってば、なんて気前がいい!なんて潤沢なんだろう! 
 ・・・と感心していたら、司会者からアナウンスがあった。
 なんとこのお弁当、さる一人の女性会員からのお布施だったのである。
 ざっと500人分のお弁当とお茶。いくらかかるかは、はしたないので計算すまい。
 なんて奇特な方のいることか。
 なんて嬉しい心づかいか。
 昼休みに最寄りの公園で謹んでいただきました。
 

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 彼女が幸福でありますように。
 彼女に悟りの光があらわれますように。
 生きとし生けるものが幸福でありますように。 


 「自分」が見ている・聞いている・感じている・考えている・受け取っている「世界」は、自分だけのものである。他人は、自分と同じようには見たり・聞いたり・感じたり・考えたり・受け取ったりしていない。これを理解するのは難しいことではなかろう。
 各人の体験している「世界」は実にその人だけのものである。「世界」=「自分」なのだ。
 ならば、全部が全部「自分のもの」である「世界」をどうして愛さないでいられるものだろうか? 「世界」のなにがしかを厭い、なにがしかに抵抗することは、「自分」の一部を厭い、一部に抵抗することにほかならない。(中野駅から会場に向かう途中で訪れた気づき)


サードゥ、サードゥ、サードゥ




● 市場価値 :東京レインボープライド2017

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 今年も東京レインボープライドに参加した。
 主催者発表によると、メインイベントである代々木公園でのパレード&フェスタには、約108,000人(5月6日35,000人、7日65,000人、パレード5,000人、ウィークイベント3,000人)が来場したとのこと。大盛況である。
 ソルティは7日(日)午後のパレードに参加したのみであるが、出発地点である代々木公園イベント広場はたいへんな賑わいであった。ぎっしり並んでいるブースを見ると、昨年以上に参加企業が増えている気がした。
 資本主義社会やな~。
 セクシャルマイノリティの権利や差別反対を声高に訴えるよりも、そこ(=セクシャルマイノリティ層)に多大な市場価値あるいは購買力があると社会に知らしめたほうが、手っ取り早くセクシャルマイノリティの顕在化と社会的包括につながるということである。たしかに、ゲイやレズビアンの社会人は子供をつくらない人が多いので資産を持っている傾向は否めないし、買い物や旅行やレジャーの好きな人も多いので関連企業が彼らの懐をねらうのも無理のない話である。
 また、欧米ほどには個人主義や人権思想が徹底していない日本では、表立って人権や差別反対を訴えられることに抵抗を感じる人が少なくないように思う。むしろ、「楽しそう」とか「儲かりそう」とかいうイメージの普及のほうが人は集まってきやすく賛同を得られやすいのかもしれない。いわば、‘関西のおばちゃん’気質である。
 ただ、市場価値に基づく社会的包括は、逆に市場価値が下がると平気で社会的排除に様変わりする可能性がある。「金の切れ目が縁の切れ目」だ。やっぱり、お祭りモードだけでなく、権利の主張や法的・政治的権利の獲得という社会運動モード、この両輪が必要なのであろう。

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 今回も友人と共に、TOKYO NO HATE のフロートに加わって渋谷の街を練り歩いた。
 五月晴れ(気温23度)でさわやかな風がビル街を通り抜ける。つくづくパレードの開催を8月から5月に変更したのは正解だと思う。(この変更には、昔の主催組織と今の主催組織の間のややこしい事情があったらしいのだが・・・)
 都内で行われるセクシャルマイノリティのパレードに90年代から参加しているソルティにしてみると、昔日のパレードからの様変わりにある種の感慨を持たざるを得ない。一番驚くのが参加者の多様性である。昔は参加者の姿を見るだけで、明らかにゲイ&レズビアンパレードと分かるものであった。レザーパンツ一枚の筋肉誇示のマッチョマン、お姫様女装のオネエ、水前寺清子のようなヘアスタイルのバリバリのダイク・・・。街を歩いていても周囲の通行人の好奇と驚きの視線を一様に感じたものである。
 今や、プラカードや旗を彩るレインボーカラーの意味を知る人でなければ、これがいったい何のパレードなのか即座に分かる通行人は少ないかもしれない。それくらい参加者の顔ぶれが豊かなのである。とくにここ数年、子連れのファミリー(ヘテロカップル)の参加が増えているのに隔世の感を抱く。両親に手を引かれながら可愛らしい天使の扮装をして歩いている幼女の姿を見ていると、彼らにとってはもはやゴールデンウイークのレジャーの一つ(ヴェネチアの仮面カーニバルみたいな)になっているのではないかと思えた。天使にとっては、マッチョもお姫様も仮装以上の意味はないのかもしれない。

 
プライドパレード2017-7
今年はレインボーカイトを上げてみました。


 パレードからイベント広場に帰還し、人だかりのブースを見回っている時に事件は起きた。一緒に行った友人のカバンからデジカメが盗まれたのである。開口部分にチャックのないショルダーバッグで、外から中身が覗けたのだ。ヨドバシで15000円で購入したものである。
 気がついてからすぐに通った道を後戻りして落ちていないか探し、総合受付に落し物として届いていないか確認した。見つからなかった。見つかった場合に連絡がもらえるように遺失物ノートに詳細を記載したところ、すでに何十名もの記載があった。
 そこで友人とは別れた。友人はその後、最寄りの交番に出向いて盗難届けを出そうとした。が、盗難の場合、書類を作成するのに数時間かかると言われて(ほんとうか?)、仕方なくあきらめたそうである。
 

プライドパレード2017-2


 翌日届いた友人からのメールの一部。

届出するほど大事なものを失くした人がそれだけいる。さらに、失くしたことにまだ気づいていない人、あきらめた人もいるだろうと推定すると、無料で参加できて、みな浮かれていて、結構金目の物を持っていることで、既にスリ・置き引きの‘穴場’として犯罪グループなんかに目をつけられているんじゃないかと思います。

 う~む。
 たしかにその可能性はある。しかも、友人のように警察にまで出向く人がどれだけいるだろう? 手間ひまということではなく、タフさという点で――。
 参加者の中には、「憧れの東京のパレード」に地方から泊りがけで出てきたクローゼットの若者だっていることだろう。主催団体の受付ならともかく、警察にまで出向いて被害を届ける勇気があるだろうか。いろいろと聞かれることだろう。「どこで失くしたの?」「そのフェスティバルって何?」「じゃあ、君はゲイなの?」「とりあえず住所と名前をここに書いて」・・・e.t.c. そうしたやりとりをたった一人で経験するのは、数多い沿道の賛同者にエールを送られながら、たくさんの仲間と一緒にパレードを歩くのとはまったく違った種類のタフさが要る。あきらめる、というか泣き寝入りする人も少なくないだろう。
 被害届を出される可能性が低い。そこまで読んでセクシャルマイノリティをカモにしている泥棒あるいは犯罪グループが実際にいるのかどうか分からないが、市場価値にはこういった側面もあったのである。
 
 奪われていいのは貞操くらいにしておきたいものである。

プライドパレード2017-10
 汝、盗むべからず。(カトリック関連のブースで売っていたティーシャツ)




 




 

● 命の価値 初期仏教月例講演会:「死に方入門」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年3月 12日 (日) 13:30 ~ 16:30
場所 一橋講堂(東京都千代田区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 月例講演会が一橋講堂で行われるのは初めてじゃないだろうか。
 事前に地図で確認して出かけたものの、地下鉄東西線・竹橋駅から地上に出て、同じような高層ビルが立ち並ぶ中、案の定、迷ってしまった。スマホを持っていないと、こういう時不便である。
 立派な会場(494席)で、休日午後いっぱい借りると22万3千円かかる。月例講演会でよく使われる中野ZEROは同条件で6万900円なので、ずいぶんと開きがある。なにか安く借りられるツテでもあるのか。余計な心配だが・・・。

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 今回のタイトルは「死に方入門」。
 仏教徒でない一般市民ならギョッとするかもしれない。スマナ長老自ら「まるで死ぬことを勧めているみたいじゃないですか」と苦笑いされていた(おそらく事務局がつけたのだろう)。
 このタイトルに別に何の違和感も不自然も感じなかった自分にちょっと驚く。ここ数年の仏道修行と介護の仕事で、いかに死が身近に(あたりまえのことに)なっているかを感じた。たしかに、働き始めた最初の頃は親しくなった利用者の死に際し悲しみや動揺を覚えたものだが、最近は淡々と見送っている。「死」に免疫ができるのは良くないことだろうか?

 講演内容は、「仏教は死をどうとらえているか、仏教徒は死とどう向き合うべきか」といったあたりで、別記事で紹介したスマナ長老の著書『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)、『老いていく親が重荷ですか。』(河出書房新社)に連なるものであった。
 いつものように前半は座席で舟をこいでいた。神田川をそれこそ中野あたりまで遡ったかもしれない。いびきをかかないようにだけ注意。
 最近は眠かったら逆らわずに寝る。というのも、スマナ長老の話が世間モードから出世間モードに移って仏法の核心に近づくや、パッと目が覚め、瞬時に頭が冴えると分かったからである。よくできている。

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 以下、思わずメモをとったスマナ長老のコメント。

● 正しい花の咲き方、散り方というのはありません。どんな咲き方、散り方も自然のままです。同じように、正しい死に方はありません。死は常に正しいのです。一方、正しい生き方なら可能です。

 死は常に正しい。
 これは、広い意味で業論であろう。
 介護の仕事をしていると、人の様々な老い方、死に方を目撃することになる。
  • 心身を蝕む病いに苦しみ、入退院を繰り返し、最後は救急搬送で病院に運ばれ、死を迎える人がいる。
  • すべての不幸や不遇を周囲のせいにして、せっかく訪ねてくれた家族・友人に怒りをぶつけ、職員に八つ当たりし、食事や服薬や入浴を拒否し、施設のトラブルメーカーとなる人がいる。
  • 入所時以降、まったく顔を見せない息子を恨む一方で、半ば諦めている人がいる。
  • 認知が進み、ちゃんとトイレの始末ができないのに、プライドばかり高くて職員の介入を執拗に拒む人がいる(ほうっておくと、他の人の部屋で放尿・放便する)。
  • 子供や孫やひ孫たちがちょくちょく訪れては散歩に連れ出してもらい、楽しい一時を過ごす人がいる。
  • 職員とも周囲の利用者ともまったくコミュニケーションをとらず、自室に閉じこもっている人がいる。
  • 認知はあれど人の役に立つのが好きで、進んでコップ洗いを手伝ってくれる人がいる。
  • 家族に見守られながら、穏やかに息を引き取っていく人がいる。
 人の老い方、死に方は百人百様である。
 心あるスタッフなら、すべての利用者に、人生の最後の時間を穏やかに、安らかに、心地よく過ごしてもらいたいと思う。それはスタッフ自身の楽にもつながる。口癖のように「死にたい」「殺して」を繰り返し、しんどい思いをしている利用者に日々接するのは、スタッフにとっても辛いことである。医療従事者でないので身体的な痛みはどうにもできないけれど、せめて精神的な苦痛は少しでも和らげてあげたい。それに、トラブルメーカーが一人いるだけでフロアは混乱に陥り、スタッフは気力消耗し、バーンアウトの可能性が高まる。
 ソルティもしんどい思いをしている利用者を前に、「なんとか楽な気持ちにしてあげられないものか」、「もっと家族が訪問してくれればいいのに」と思う。あるいは、「いい加減、自分を苦しめるだけのつまらないプライドを捨てたらいいのに」、「こんな苦しみを最新医療によって引き伸ばすことに何の意味があるのだろう。これこそ虐待」と思ったりする。他人の苦しみを前に、何もできないことの無力感や苛立ちに襲われ、そのうち、いちいち感情的に反応するのが自分を苦しめるだけと思い、感情を抑えつけるのが習性となる。利用者のしんどさに鈍感になる。すると、業務が着々と滞りなく進むようになり、形だけはベテランになっていく。
 こういう落とし穴が介護の仕事にはある。
 いや、介護だけでなく、医療や保育や福祉相談など人のケアに関わる仕事には共通してある陥穽だろう。

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 感情をなくした鉄面皮にならずに、なんとか無力感や苛立ちと付き合う道はないものか・・・・と探ったところで、業論に至った。
 つまり、どのような老いを迎えるか、どのような死に方をするかは、言葉の真の意味で「自業自得」なのだと気づいた。
「このように生きてきたから、このような老いを迎えている」
「このように生きてきたから、このような死に方をする」
 すべては因果応報、因縁のルールに則っているのだ。
 たとえば、親を施設に入れたが最後、全然訪ねて来ない子供たち(もちろん立派な社会人である)について、ソルティは(ご利用者に代わって?)憤りを覚えることが多いのだが、そのような子供になった一番の原因はやはり親自身の育て方にあるのは間違いない。育てたように子は育つし、育てられたように親を看取る。親は結局、自分の蒔いた種を刈り取るほかないのである。現役時代、仕事や趣味にかまけて子供をほったらかしにしてた挙句、今度は自分がほったらかしにされる。
 そのような視点からすれば、人は誰もみな、正しく「老いて」、正しく「死んで」いる。
 もちろん、「自業自得だから苦しんでいる人をほうっておけ」ということにはならない。それだったら介護という仕事の意味がない。本人の心の苦しみは、純粋に本人の生き方(=思考パターン、妄想ループ)の結果に過ぎないので、他人が――それこそ人生の最後に介護を縁としてほんのちょっと知り合っただけの人間が――それを変えることは不可能に近い。けれど、少なくとも苦しみに寄り添うことはできる。それで十分なのだ。
 一時の感情に振り回されずに状況を正しく見て、ご利用者と適切な距離を持って関わる心の持ち方として、業論は役に立つ。
 思うに、ソルティが現在介護の仕事に携わっているのもそれなりの因縁を持つ「自業自得」に違いない。


● 慈悲喜捨、無常、苦、無我などの真理を学んで、観察して理解し、納得するならば、年老いてボケになって世の中のどうでもいいものは忘れてしまっても、心は無常に、苦に、慈悲喜捨に定着します。

 せっかく修行して真理を悟ったとしても、ボケたらどうなるのだろう? 全部無駄になってしまうのだろうか? ボケたら智慧は失われるのか? ボケたまま死んで輪廻転生して、来世は木瓜の花にでも生まれ変わるのだろうか?
 そんな疑問があった。
 この言説は大いなる安心をくれた。


● 安楽死とは、医者が殺人を犯すのを許すことです。命を助けるべき医者を殺しの専門家にしてはいけません。なぜなら、人の病に真剣にあたることができなくなるからです。

 これは納得。
 一度、安楽死に手を貸した医者が、命に対する敷居が低くなるのは想像に難くない(漫画『ブラックジャック』に登場するドクター・キリコを想起する)。一度人を殺した犯罪者が、次からはさして抵抗を感じずに人殺しできるのと同様、いったん「死」を肯定したら命は安くなる。
 一方、 


● 命は無常だから価値がありません。生きるとは、命とは、無常の流れに過ぎません。無価値の流れです。 

 これぞ出世間の智慧。
 多くの人には受け入れ難い言説であろう。命こそ最大の価値というのが、現代人の信念である。大乗仏教でも命に多大な価値を置く言説ばやりである。
 
 生きることに意味はなく、命にはなんの価値もない。

 この、ある意味‘悪魔的な’言説が本来の仏教である。
 これを認めて受け入れるのはどんなにか難しいことだろう!
 しかし、よくよく考えてみれば、命に価値があると人が思うのは、「自分が死にたくない!」からである。死んだら、いろいろな欲望が果たせなくなるからである。「自分は死にたくない」→「きっと他の人も(生命も)同じ思いだろう」→「命は大切だ」となる。つまり、命そのものに価値を見ているのではなく、欲望に価値を置いているのだ(←別にそれが悪いことだと言っているわけではない)。
 あるいは、「命が生まれるのは、天文学的な確率で起こる奇跡である」→「命は大切だ」となる。しかるに、天文学的な確率で起こることに‘価値がある’と考えるのも、きわめて打算的な発想である。ダイヤモンドに価値があると言うのと変わりない。
 価値とか、意義とか、目的とか、超越的な存在(神意)とかないところに、ただ生まれて、ただ死んでいくのが、生命である。
 (原始)仏教のこのスタンスは、下手すると‘命’の軽視につながりやすい。生命が輪廻転生するという考え方がさらにそれに拍車をかける。なぜなら、「どうせ生まれ変わるのだから、今ある命が消えてもたいしたことない」と結論付ける傾向を生んでしまうからである。ここまで来ると、ポア思想を現実化したオウム真理教と大差なくなってしまう。(むろん、これは‘邪見’の最たるものだ!)
 
 テーワラーダ仏教(原始仏教)における命の意味とはなんなのか。それと慈悲の関係はどうなっているのか。
 そのあたりを学ぶ(悟る?)必要を感じる。
 
 
サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● やれ打つな :初期仏教月例講演会『思いやりを育てる~相手の立場を理解するシュミレーション~』(スマナサーラ長老指導)

日時 12月 17日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(荒川区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 ここ数日、ハエに悩まされていた。
 何の拍子で部屋に入り込んだかは知らぬが、ご飯を食べてたり、こうしてパソコンに向かっていると、頭や顔の近くをヴンヴンと飛び回り、うっとうしくて敵わない。寒気が入るのも仕方なく、部屋の窓をしばらく開け放しておいたが、いっこうに出てゆこうとしない。
 不思議なのは、こちらが寝ているときと瞑想しているときは羽音が止むのである。もっとも邪魔されたくないこの二つを尊重してくれているらしいので、しばらくほうっておいたのだが、ある晩ブログを書いていると、パソコンの画面やキーボードに止まったり、わざわざこちらの目の前をこれ見よがしに通過したりと、あまりに十二月蝿(うるさ)いので、退治しようと決意した。不殺生戒(=生き物を故意に殺してはならない)を破るのは本意ではないが、軽く叩いて意識を失わせて床に落ちたところをティッシュでつまんで外に追い出そう。――実際にはそんな上手い具合に力加減を緩めるのは難しいから、まかり間違って叩き殺してしまっても「殺すつもりはなかった」という言い訳を用意しておきたかったのだ。
 手近にあった大学ノートを丸めて筒を作った。
 そこから数分間のハエとの攻防が始まった。
 なんだか実に賢いというか「できる」ハエで、こちらが居場所を見つけてノートをゆっくり構えた瞬間に飛び逃げる。明らかにこちらの殺気か視線を敏感に察している。なるべく殺気を出さないよう平常心を保ち、直前まで明後日の方向を見ていたりするのだが、どうしても0.5秒遅れで逃げられてしまう。
 しまいには仏壇に入り込んだ。
 それは、ソルティが毎朝線香をあげ、経を読み、慈悲の瞑想を唱えている仏壇で、中にはミャンマーの友人からもらった小さなお釈迦様の像と、ポー・オー・パユットーの『仏法』の本と、スマナサーラ長老が編纂した『ブッダの日常読誦経典』(どちらもサンガ発行)と、塩を敷きつめた線香立てが置かれている。部屋の中で一等の聖なる空間でありパワースポットであり、ハエの立場からすれば最高のアジール(避難所)である。
 いくら無慈悲なソルティでも、そこに入り込んだハエを叩き殺すことはできない。あきらめるよりなかった。
 翌朝、顔の周りで唸るハエの羽音で目が覚めた。
「ちっ。寝ているときはほうっておいてくれるんじゃなかったの?」
 手で追い払って気持ちのいい惰眠を貪ろうとすると、またしてもやって来る。
「ったく、なんだよ、いったい」
 怒りモードで身を起こし、壁時計を見てハッとした。
「いかん。約束に遅れる!」
 人と会う大事な用件があったのに目覚ましをセットしていなかった。
 すぐに着替えて、朝飯もとらず家を出た。ぎりぎりの列車に間に合った。
 あとちょっと寝過ごしたら、約束に遅れるところだった。

ハエ

 
 今回の講話のテーマは、「どうしたら相手のことが理解できて、適切な関係を結べるか」というものだった。
 結論から言えば、①自分がして欲しくないことは相手に対してやらない、②慈悲の瞑想を行って相手の幸せを願う、といったごく当たり前のことになる。
 ここで‘相手’というのは人間に限らず、すべての生命についてである。
 
 生命は自分に対してプライドを持っています、対等に接してほしいと思っています。
 
 ハエもまた然り。
 その正体は、「ハエ」という形態と生態と名前をもった「生命」であって、それはソルティが「人間」という形態と生態と名前をもった「生命」であることと、まったく変わりはないのである。ハエもソルティも輪廻転生によって変幻してゆく一時的な被り物をしているだけなのだ。
 
生命の根源は慈悲喜捨です。ほとんどの場合、それは被り物の下に隠れて寝ています。
が、それはすべての生命に共通しているものなので、慈悲の瞑想をすると、究極的にはすべての生命とひとつになることができます。それが梵天の生き方です。

生命の木


 今回面白く聞いたのは、「相手を理解する方法」すなわち読心術である。

    1. すべての生命の生きる衝動は貪・瞋・痴(=欲・怒り・無知)です。まず自らの貪・瞋・痴の感情の働き方を観察します。(貪・瞋・痴は組み合わせの配合によって何千通りの姿になる)
    2. 完璧でなくとも自己観察を続けます。
    3. 相手の行為を観察して、その裏にある行為を引き起こしている感情をチェックします。
    4. また、善行為をすると、貪・瞋・痴の三つに加え、不貪・不瞋・不痴の三つの感情も理解できるようになります。これで尺度は六つになります。 
    5. 価値観を入れず、白黒に分けず、判断せず、ありのままに相手を観ることが必要です。
    6. これで相手の感情を理解することができるようになります。 
    7. 決して悪用しないでください

 自分の感情や欲望を理解することは、相手の感情や欲望を理解することにつながる。自分が善行為することは、相手の善意を理解することにつながる。 
 面白いのは、これが社会福祉や精神保健福祉の分野で対人援助の基本原則とされているものによく似ていることである。
 たとえば、バイスティックの7原則では、
  • 統制された情緒的関与の原則(=援助者は自分の感情を自覚して吟味する)
  • 受容の原則(=クライエントのあるがままの姿を受け止める)
  • 非審判的態度の原則(=クライエントを一方的に非難・判断しない)
が謳われている。また、ケースワーカーやカウンセラーの最も重要な資質は、「自己覚知」「受容・共感・傾聴」と言われる。

 こうした方法(原則)が正鵠を射ていることを、ソルティは日々、職場の老人ホームで認知症高齢者の介助をしながら実感している。
 認知症高齢者は、思考と言葉がトンチンカンである。自らの願望を口に出して正確に相手に伝えることが苦手である。(たとえば、便意を感じているのだが、口に出して言うのは「俺のメシがないんだよ~」) また、こちら(職員)の言葉や意図を理解するのも苦手である。(たとえば、「歯を磨いてください」と歯ブラシを差し出すと、それで髪の毛を梳かし始める) 言葉を介在したコミュニケーション、あるいは言葉の背後にある意図の理解が苦手である。
 慣れていない職員だと、なんとか相手に理解させようと言葉を繰り返し、語気を強め、理屈によって納得させようと頑張ってしまう。これがまず逆効果で、相手は「職員に怒られている、脅かされている、馬鹿にされている」と感じて、不穏(=精神的に不安定な状態)になってしまう。当然、介助はうまくいかない。
 認知症の人への介助のコツは、相手の言葉や行動ではなく、感情に焦点を当てることである。理屈や良識を振りかざして介助者の意図通りに相手を動かそうとするのではなく、表情や振る舞いから相手の感情を読みとり、不安ならば安心させ、怒っているなら宥めて、嬉しそうな様子ならば一緒に喜び、感謝には感謝を返し、その瞬間瞬間の「ありのままの」相手をいっさいの保留なしに受け入れてしまうことである。そのためには、瞬間瞬間、介助者が自身の内面に湧き上がる感情を観察・捕捉できなければならない。介助者が自らの感情なり欲望なりに振り回されていては、あるいはそれらのバイアスを自覚せずに相手に関わっているようでは、到底、相手の感情に客観的に向き合えないし、相手のプライドを尊重した対等の関係を結べないからである。
 
 もはや言うまでもなかろう。自己覚知・自己観察力を育てる最強にして最高の方法がヴィパッサナー瞑想であり、「ありのままの」相手を受け入れる器をつくる最強にして最高の方法が慈悲喜捨の瞑想である。

 つくづく、ブッダって人類史上最高のカウンセラー&ケースワーカーである。
 否、生命史上か。
 


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 

● リトルスッカ 原始仏教トーク:『ローカ・ダンマ 俗世における八つの浮き沈み』(講師・マハーカルナー禅師)

ローカダンマポスター

日時 2016年11月6日(日)午後1時から
会場 板橋区大谷口北町集会所(東京都)
主催 マハーカルナー法友会

 ローカ(Loka)とはパーリ語で「世間、世俗」のこと。ダンマ(Dhamma)とは一般に「法」を意味するが、ここでは「避けられない法則」のこと。ローカ・ダンマとは「世間に生きている限り避けることのできない浮き沈み」といった意味である。むろん、お釈迦様が説いた教えである。
 四つのペア、合計八つの浮き沈みがある。

  • 利得がある(ローバ)――損失がある(アローバ)
  • 人が自分のところに集まってくる(ヤサ)――人が自分から去っていく(アヤサ)
  • 非難を受ける(ニンダ)――賞賛を受ける(パナンサ)
  • 楽(スッカ)――ドゥッカ(苦)
 
 どんな人も生涯のどこかで、この八つのダンマに遭遇する。避けようがない。対になっている組のうちの良いほうだけ(ゴシック部分)を望んでも、それは無理な話。コインの両面のように、それぞれのペアは手を携えて一緒にやってくる。そして、すべてのスッカ(楽)は最後にはドゥッカ(苦)に変じてゆく。
 これらのダンマはその人の過去世や今生での行いをはじめとする因縁から生じているので、お釈迦様や阿羅漢でさえ逃れることはできない。
 ただ、八つのダンマに翻弄され、そこからなんとか逃れようと、あるいはなんとか現状を維持しようとジタバタもがいた挙句いたずらに苦しみを大きくしてしまう我々凡人とは違い、不還果や阿羅漢果を得た聖者は、良いダンマにも悪いダンマにも一喜一憂しない。それらによって不安や落胆を感じることはなく、常に安穏としている。結果的に、悪いダンマのもたらす影響を最小にすることができる。
 
 重要なポイントはなにか。
 ダンマを通念することである。
 ここでのダンマは、ずばり仏教の核にして最高の教えである三相のこと。

  • 諸行無常=すべての物事は変化する。いいことも悪いことも長くは続かない。
  • 諸法無我=「わたし」とは幻想・幻覚である。なので「わたし」に属するものは何もない。
  • 一切行苦=あらゆるものは壊滅する。なのでパーフェクトを望むほど苦が増える。
 
 聖者は三相を如実に見て確信しているがゆえに、ローカダンマに踊らされないわけだ。
 仏教は「苦」に対する最高の特効薬である。が一方、「楽」に対する鎮静剤でもあるのだ。大変な苦しみと大変な喜びの両者から離れることを良しとするのである。
 我々凡人には次のアドヴァイス。 

 つらいことが起きたときの3つの武器があります。覚えておいてください。
 忍耐と寛容と謙虚――です。

 マハーカルナー禅師、いつもながら明晰で穏やかな話しぶりであった。
 

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 帰り道、東武東上線の上板橋駅まで石神井川の土手を歩きながら思ったのだが、人が望むのは必ずしも「利得」「人望」「賞賛」「楽」といった良いダンマだけとは限らないのではないか。
 そりゃあ、誰でも(ソルティも)この四つのダンマを望むし、それが得られれば幸福を感じる。「生きてて良かったなあ~」と思う。
 だが、ある程度大人ともなれば、良いダンマだけを常に得るのは不可能であると知っている。「楽あれば苦あり」「人生山あり谷あり」「禍福はあざなえる縄の如し」「人間万事、塞翁が馬」――それなりに世間を渡ってきた人間なら誰しも、多かれ少なかれこの教訓の真なることを痛感し、ある程度の逆境も覚悟しているのではないか。「損失」「離反」「非難」「苦」込みの波乱万丈こそ人生、と達観している人も少なくないだろう。(たとえば、ビートたけしとか中村玉緒とか・・・・)
 もっとも、悪いダンマが良いダンマを凌駕しない限りにおいてではあるが。
 
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 ドラッグにはまって青春を棒にふり、今は自助グループで依存症と向き合いながら活動している40代の男の話を聴いたことがある。
 彼が言った。
「一番つらいのは、20代30代の時に何にもなかったこと。普通の男が経験するような、仕事や趣味やいろいろな人との出会いや、恋愛や結婚や家庭や、いろいろな挑戦や挫折・・・といった事柄が何一つ持てなかったこと」
 人が望むのは、というより人が望まないのは「苦」だけではなく「無」、つまり「良きにつけ悪しきにつけ何もないこと」ではないだろうか。それが苦であろうと楽であろうと、‘体験’を持つことへの欲望こそ、人をむやみやたら突き動かす原動力になっているように思われる。
 金や地位や名声や人は遠からず失せて行く。一方、‘体験’は一時的な苦や逆境とは違い、認知症にでもならない限り‘体験者’のものとして記憶の中に残り続ける。テレビ番組でもネットでも、自分の過去の逆境や不幸をネタにして面白がる人たちがあふれているではないか。自分をアピールできれば、人の注目を集められれば、あるいは自分が生きていることの実感が得られるのなら、逆境や不幸や痛みですら甘い蜜になる。
 
 自我の持つそういった特性(=戦略)は、なかなか二元論では語りきれないように思うのである。

 上板橋駅前に見つけた小さな店で熱々のタコ焼き(withマヨネーズ、でしょ。やっぱり)を買い、ホームで一服した。
 小楽。

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 サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。





 

● CMの効用 初期仏教月例講演会:『Vinnana(識)の理解』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● あとは野となれ山となれ 初期仏教月例講演会:『「承認欲求のトリセツ」~ひとは誰に認めてもらうべきなのか?~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 9月 10日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(東京)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 400名定員のホールはほぼ満席。
 近くの席の会話を聞いていたら、「泊り込みで関西から来ました」という参加者も。東京に住み、毎月のようにスマナ長老やマハーカルナー禅師の生の姿に触れ、生の声を聴き、じかに教えを受けられるのは幸運なことである。
 というのも、今日のスマナ長老のオーラ。
 凄かった。
 演席の背後に黒い幕が垂れていたせいもあり、長老の身体から放射状に広がる白い煙のような光背が客席からよく見えた。まるで繭の中で語っているかのようであった。
 長老から発する熱波は、珍しく前の方の席に座っていたソルティのところまで及び、全身が温かく微細な波動に包まれ、全細胞が喜びに打ち震えるかのように振動し、体内温度が上昇した。
 伺うところによると、ひと月ほど母国スリランカに帰られて、村の子どもたちと交流したらしい。日本で溜まった垢を落として、すっかりリフレッシュされたのだろうか。
 
 面白かったのは、長老が、「いま日本人に話しているのとまったく同じような話をスリランカで(むろん現地語で)したけれど、聴衆はまったく食いついてこなかった」と言われたこと。原始仏教のお家元であるスリランカのほうが、庶民レベルでより仏法への関心と理解が深く、悟りを目指して瞑想修行している在家の人も多いのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 時々思うのだけれど、平成の世の日本人ってのが、世界で一番テーラワーダ仏教を理解できる素地(=波羅蜜)を持っているんじゃないだろうか。

虹をわたって 001


 今回のテーマは「承認欲求」。
 「他人に認められたい」「社会的な尊敬が欲しい」といった欲求である。
 アメリカの心理学者マズローの欲求段層説では、5段階のピラミッドの上から2番目に来る。下位3つの欲求がある程度満たされると、この「自尊と尊敬の欲求」とも言われる「承認欲求」が出現する。
 つまり、誰にでも備わっている。

マズローの五段階
2017社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用
 
 スマナ長老は言う。
 
承認欲求は無始なる過去からあり、解脱に達するまではあり続けるものです。 
 
 つまり、阿羅漢になるまでは承認欲求から完全に自由になることはできない。『私』が存在する限り、承認欲求も存在するわけである。(阿羅漢には『私』が無い)
 人が承認欲求を持つのはなぜか。
 それは、「他人に認めてもらえないと自信が持てない」からである。他人の存在も社会の目もまったく関係なしに、一人で自信満々のうちに完結しているというのは(阿羅漢でない限り)ありえない。
 というのも、
 
客観的に物事を観察するならば、何に対しても自信が持てるはずはありません。なぜならば、すべては無常なので先が見えないからです。
 
 まさしく。
 ある一つのことで成功しても、その成功がこの先ずっと続くことはあり得ない。自分も変わるし、相手も変わるし、状況も変わる。かつてのミリオンセラー連発のヒットメイカーが、時代が変わるとまったく売れなくなるのを見ると、その事情は明らかだ。好きな相手への恋が成就しても、二人の関係が永遠にハッピーに続くことはお伽話でない限りあり得ない。「体力だけは自信があります!」と言う体育会系男子も、頭脳明晰を誇った東大卒エリートも、寄る年波には勝てない。自信が持てるのはせいぜい一時だけ。それも「現状が変わらない」と言う間違った認識(=思い込み)に支えられてのことである。
 大概、人は自信と自信喪失の間を行ったりきたりしながら、最後は自信喪失のままに生涯を終える。 

 一方、自信がまったく持てないのも困りものである。仕事も恋愛も人間関係も、ある程度の自信がないとうまくいかないのは明白である。常にオドオドし失敗におびえている人間は、お望みどおりの結果(=失敗)を呼び寄せてしまい、自信喪失の悪循環にはまり込んでしまう。
 どうしたらいいのだろうか。

ポイントは自信を確信に置き換えることです。

 これが今回の法話の肝であろう。
 ソルティも「なるほど。ウン、これは使える!」と心の中で唸った。
 ここで言う「確信」とは別の言葉にすると「確認」である。つまり、サティ(念)のことだ。流行の言葉で言えば「マインドフルネス」ということだ。

仕事、勉強、料理、洗濯など、すべての行為を確認しながら行うことが大切です。行うことに確信があれば十分です。自信は要りません。
 
 つまり、「いまここ」の目の前のやるべきことについて、しっかりと注意を向け、集中し、自分ができる最良のことをすれば、それで十分ということだ。仕事についても、対人関係においても。

 ソルティの従事している介護の仕事を例にとる。
 経験のない新人のうち、たとえば片麻痺のある高齢者を車椅子からトイレの便座へ移乗するのは神経を使うものである。安全に、介助する者の負担を最小にして、ご利用者に不快感やしんどさを与えないようできるだけ短時間で、移乗介助を一連の流れとしてスムーズに行えるようになるまで、半年くらいかかる。それまでは、流れをコマ切れにした一つ一つの作業――「車椅子のブレーキをかける」→「利用者に手すりを握ってもらう」→「利用者の足の位置を確認する」→「利用者を車椅子から立たせる」→「片手で利用者を支えながら片手で衣類を下ろす」→「汚れたパットを慎重に抜き取る」→「利用者の体の向きを変え便座に座らせる」等々――について、指差し確認するかのように、確実にクリアしていかなければならない。
 慣れてくると、一連の作業を特段考えることなく分割せずに行えるようになる。体が覚えてしまうのだ。「自分もできるようになってきたなあ~」などと思うのである。
 しかし、最も事故を起こしやすいのは、この慣れてきた局面(開始後半年~1年くらい)と言われる。
 新人のうちは、一つ一つの作業に全神経傾けているので、介助技術自体は未熟でも事故は起こりにくい。慣れてきて「自信がついてくる」と、一つ一つの作業への注意力が薄れ、確認がおろそかになって、かえって事故につながりやすい。「自信がつく」ことが、事故をまねくわけだ。
 介護の仕事について5年目となるソルティも、今では上記の介助をご利用者と雑談しながら、あるいは鼻歌まじりに行えるようになった。新人の頃には考えられないくらい熟達したと思う。一方、時々、思わぬミスも生じるのである。たとえば、「車椅子のブレーキをかけ忘れた」「利用者の足を車椅子のフットレストに乗っけたまま利用者を立ち上がらせた(車椅子ごと前に倒れる危険がある)」「パットを抜き取る際に失禁していた大便を床にぶちまけてしまった」等々・・・。自信がつくことは、「大丈夫だろう」という過信に容易につながりやすく、その結果初歩的なミスを招くのである。
 最近は新人の指導につくことも多くなったが、もたついているように見える新人の介助を見ていると、一つ一つの作業について丁寧な確認を行うことの大切さを逆に教えられる。結局それが一番大切なのだ。
 自信ではノーミスは保証できないけれど、確認作業ならノーミスは保証できる。

 対人関係についても、「あの人に嫌われているのでは?」とか「あいつは気に喰わない」とか「あの人とどうやって付き合ったらいいんだろう?」とか「こんなことしたら、人からどう思われるだろう?」など、いろいろ考え頭を悩ますよりは、いま目の前にいる相手に誠心誠意向き合えば、それで十分なのである。その積み重ねが‘関係’を作っていくのだから。
 
 ポイントは、「時間」というものを‘線’や‘面’でとらえないで、「いまここ」という‘点’でのみ、とらえることだと思う。「いまここ」に集中し、「あとは野となれ山となれ」と鷹揚にかまえる。
 その結果は、自信にはつながらないかもしれない。が、「あの人は信頼できる」という評価を得、他人や社会から認められることには益するだろう。なぜなら、失敗のない「いまここ」を重ねていけば、「失敗のない」人生をいやでも生み出してしまうからである。

自分の義務を果たすだけで人生は精一杯です。それ以上、妄想するものではありません。ある程度認められたら十分です。


 自分がヴィパッサナ瞑想修行をしている理由の一つは、意識を「いまここ」に定着させる訓練(=脳神経の回路形成)をしているのだろう。
 妄想のない人生は、そのまま幸福なのだ。
 

サードゥ、サードゥ、サードゥ。



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● 仏道修行者のセーフティーネット :原始仏教トーク『いま、得がたい仏縁をいかす』(講師:マハーカルナー禅師)

原始仏教トーク20160904


日時 2016年9月4日(日)13:00~
会場 板橋区徳丸石川集会所
主催 マハーカルナー法友会

 日曜瞑想会も三周年になるという。
 数名の参加者で始まった仏教トークも、今や48畳の大部屋に入りきらず、廊下に座布団を並べるほどの盛況。みな実に熱心に聴いている。既存の大乗仏教系のところで、これだけ多くの参加者を毎回の法話に集められるお坊様がいるだろうか。寂聴さんと秋月慈童は別として。
 
 今回もまた現在(日本に)生きている我々が、いかに恵まれた仏縁を持っているかを強調するところから始まった。
 
 無始の昔より続く悠久の時間の流れの中、輪廻転生する有情の現前にブッダ・ダンマが姿を現すのは、ほんとうに稀なことです。それはちょうど、漆黒の闇に一条の流れ星がキラっと光るように、一瞬煌めき、すぐに消えてしまいます。輪廻の輪の時間のほとんどは、ダンマを知ることなしに過ぎ去っていきます。またたとえ同じ場に居あわせても、大多数の有情はその一瞬の輝きに気づきません。(チラシ中の文言より)

 仏教では生命は解脱しない限り、六道(下位より、地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人界・天界)を永遠に経巡るとする。

六道イラスト 002
イラスト:大作俊子
『パワー・アップ・ユア・ライフ』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ新書)より引用
 
 どこに転生するかは、その生命の生き方で決まる。現世で善い行為(カルマ)をたくさん行った人間は、来世は天界に行くか、再び人界に生まれて前回よりもっと幸福な「生」を享受する。現世で悪いことをした人間は、来世は阿修羅道以下の世界(悪趣)に堕ち、もっぱら苦しみだけを味わうことになる。
 いったん、人界より下に墜ちたら、再び人界に生まれ変わるまで気の遠くなるような時間を要する。単純に、現在地球上に生息する畜生(=人間以外の生命)の総数と、世界人口(約73億人)とを比較すれば、「人界」参入試験の倍率がどれほど高いか分かろうものである。悪趣巡りは、少なくとも何十億年という単位に及ぶと言う。まさに「人身受け難し」である。
 一方、ブッダ・ダンマ(お釈迦様の教え)にも寿命があって、おそらくあと5000年もすればブッダの教えや悟りに至る方法論もこの世から消えてしまうだろうと言われている。
 つまり、いま悪いことをして人界から堕ちた生命は、もう二度と、金輪際、ブッダの教えに出会うことは叶わない。修行して悟ることもできない。解脱して輪廻の輪から抜け出ることも叶わない。未来永劫、悪趣巡りをするほかない。(恐っ~!!!)
 奇跡的に運よく5000年以内に人間に生まれ変わったとしても、仏教と縁ができるような境遇に生まれる確率は決して高くない。イスラム教国に生まれたらまず難しいだろう。
 二乗に奇跡的に運よく、日本のような仏教国に生まれたとしても、大多数の人は仏教にというか宗教に関心ないまま一生を終える昨今である。
 三乗に奇跡的に運よく、仏教に関心を持ったとしても、それが悟りに至る瞑想修行とは無縁の大乗仏教系の宗派だったら、やはり残念な結果に終わってしまうかもしれない。
 というわけで、ブッダ・ダンマすなわちお釈迦様の本来の教え(=真理)と出会って、解脱へ至る方法論を知って実践できる境遇にあることは、文字通り天文学的に稀有な確率で起きている幸運なのである。
 マハーカルナー禅師は言う。
 
 「今生で完全な悟りに至って解脱すること」よりも重要なのは、「お釈迦様を見失わないこと」です。お釈迦様を見失いさえしなければ、今生では悟れなくとも、来世でまたブッダ・ダンマと出会う幸運な境遇に生まれることができます。修行が続けられます。いつの日か悟ることができるでしょう。
 
ハスの花ピンク

 そこからは在家者が修行を成功させるためのエッセンスを伝授していただいた。

その1. 仏教徒としてのゴール設定について

5つのゴールがある。
 
① 今生で阿羅漢になる。
 ヴィパッサナー瞑想をして「預流果」「一来果」「不還果」の3つの悟りの段階を経て、最終的な悟りである「阿羅漢果」を得て解脱する。輪廻転生ゲームにおいて「終了宣言」する。これが仏教徒の(人類の)目指すべき究極のゴールである。

② 今生で預流果(一来果、不還果)を得る。
 預流果を得た修行者は、少なくともあと七回人界を経験することになるが、その間のどこかで阿羅漢に達すると言われている。一来果はあと一回人界を経験し、その「生」で不還果及び阿羅漢果を得る。不還果は人界には生まれ変わらず天界に生まれ変わって、そこでの長い生涯を終えると自動的に解脱する。
 いずれにせよ、預流果に達すれば、いつの「生」かでの解脱は確実なので一安心である。もちろん以降悪趣に堕ちることもないし、人界に転生した場合には仏教と強い縁をもつことになる。いわば、解脱の‘当確’状態。ほとんどの仏道修行者の当面の目的はこれであろう。

③ 今生で「小預流果(チューラ・ソダパナ)」に達する。 
 あまり聞かない言葉であるが、小預流果とは預流果に至る途中の段階で、「名色分離智(名と色を区別する智慧)」と「縁摂受智(正しい因縁を受け取り理解する智慧)」の2つを悟った者である。

 この理解、この洞察智を有している瞑想者は、安心を得ている。つまり、以前には重荷を背負っていたのだけれど、いまはその重荷から解放されているということです。彼は立脚地、依るべきある深い洞察智をもっているのです。この洞察智を得てそれを維持している人がniyatagatikoで、これは彼が低次の存在領域(悪趣)に再生しないことを意味します。彼は確実に善趣、よい生に生まれるのです。(ウ・ジョーティカ著『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』より)

 よい生に生まれるとは、むろん、仏道修行を続けられる境遇ということだろう。

④ 梵天界に転生して修行を継続・加速する。
 梵天界は、天界より上の次元である。集中力を鍛えるサマタ瞑想をして高い段階に達した者が、その高い境地を維持したまま亡くなったら、ここに再生すると言われる。梵天になると、宇宙が一つ生まれて終わるくらいの長い寿命を至福のうちに過ごす。だが、解脱するわけではないので、そのあとどこに転生するかは定かでない。お経の中には、かつて梵天だった豚とお釈迦様が遭遇する話があるそうだ。
 現実的には、梵天界に転生できるほどの高い瞑想レベルに達するのは困難で、③の小預流果を狙ったほうが確実性がある。

⑤ 人界(天界)に転生して修行を継続・加速する。
 そのためには、悪趣に堕ちないように心がけなければならない。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(あらゆる悪をなさず、もろもろの善を実行し、みずからの心を清めること、これこそ諸仏の教えである)」ということになる。五戒を守る、八正道に基づいた生活をするなども、よい「生」に生まれるパスワードになるだろう。
 しかし、善と言っても「何をどれだけ」やればいいのか、すでに何がしかの悪を犯してしまったらもう駄目なのか、ごきぶりを殺したら畜生道か、酒を飲んだら餓鬼道か、女子高生とエッチしたら地獄行きか・・・・と凡人には程度が分からないのである。
 その意味では、やはりヴィパッサナー瞑想修行をして、少なくとも小預流果に達しておいたほうが無難である。 

 マハーカルナー禅師は言う。

 5つのゴールの中から、「できればゴール」と「少なくともゴール」の2つを作ると良いと思います。「できればここまで達したい」という修行を力強く後押しする高い目標と、「少なくともここまでは得よう」という最低限のセーフティーネット的な目標と。

 よもやここで「セーフティーネット」という昨今の社会福祉流行語大賞が出てくるとは思わなかった。
 だけど、そうだよな。
 人間における最も重要なセーフティーネットが何かと言えば、「死んだあと餓鬼道以下に堕ちないようにすること」に違いない。


その2. 燃え上がる菩提心(アスピレーション)を持つことがカギ

 菩提心とは「信(サッダー)」と「法欲(ダンマチャンダ)」が一つになったものとのこと。ブッダ(仏)やダンマ(法)やサンガ(僧)に対する篤い‘信’と、「法を学びたい」「真理を知りたい」「修行を前進させたい」という強い‘欲’――この‘欲’は悪いものではない――を持つことが大切である。

 熱い、清らかな、菩提心をつくることが、すべてに優先します。


その3. 「我」の修行をしない

 「我」の修行とは、「自分がいかに優れているか」を証明するためにする修行のことです。それはまったくの逆効果になります。

 禅師の言葉にドキッとして、思わず下を向いた。
 自分はなぜ修行を続けているのだろう?
 瞑想修行を始めた当初、よく自身に問いかけた問いを最近はなおざりにしていることに気づいた。瞑想するのが歯磨き同様に生活の一部となってしまい、「しない」理由こそを自分に問いただすほど、当たり前のことになってしまったからだ。

 なぜ修行を続けているんだろう?

 輪廻転生を信じているから?
 悟って聖者になって一発逆転したいから?
 神通力(超能力)を身につけたいから?
 瞑想が心身に良い効果を生むから?
 ストイックな感じがカッコいいから?
 仏教ブームだから?
 真理が知りたいから?
 ほかにすることがないから?
 
 ここらで一度、じっくり問い直してみる必要がありそうだ。
 

 謙虚に、正直に、誠実に、一心に、修行することが大切です。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● A は Avijja (無明)の A :初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

テーマ 『ブッダの栄養学~こころの栄養管理をしてみませんか?~』
 
日時 7月2日(土)13:30~16:30
会場 なかのZERO小ホール 
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 10時間近く寝たのに頭がすっきりしない。
 30度を超える蒸し暑さのせいで体も重い。
 更年期障害?
 早くも夏バテ?
 職場(老人ホーム)で何かに感染した?
 それとも単なる老化?
 
 冷房の効いたなかのZEROホールの固い座席に着くや、全身を襲う疲労と倦怠感に支配された。読経が終わってスマナサーラ長老の講義に入るや、頭はどこかに行ってしまった。仏教で言う五蓋(ごがい)――修行の妨げになる五つの障害――の一つである「眠気と沈鬱」に襲われたのである。
 厚い緞帳を隔てた遠くのほうでスマナ長老のいつもの快活な声が響いている。
 30分くらいそんな感じだったろうか・・・。

 
 「絶えず!」

 スマナ長老の言葉が厚い緞帳を突き破り、数光年の距離を越えて、いきなりこちらの脳天を直撃した。
 話の前後はわからない。
 だが、この短い言葉に籠められていた鋭く凄まじいエネルギーの波動が、自分の頭の中を覆っていた靄を一気に薙ぎ払い、眠気と沈鬱がさっぱり消えた。覚醒した。
 あたかもそれは、壇上のスマナ長老が、五蓋に捕まっている客席のソルティの情けない姿にあきれて、こちらの頭めがけて‘気’が充填された言葉の矢を放ったかのように思われた。(見ると、スマナ長老はまったく別の方角を向いて喋っていた。)
 
 心は一瞬にして変わる。
 以後の講義は覚醒状態にて参加した。
 
 以下、講義の概要。
 
生命を維持する栄養素は4つ。
 
1.食べ物(物質的な栄養)

 食事するときの注意点。
    •  肉体を維持するという目的のために食べる。
    •  感情で食べない。理性で食べる。
    •  一日に必要な量を理解する。(必ずしも3食必要ない)
    •  決して満腹にはならない程度にする。
    •  食べ物は生命である。慈しみの気持ちで食べる。
    •  体が常に壊れゆくこと、維持管理するのは大変であることなどに気づきながら食べる。

2.触(パッソ)

 触とは、六門(目、耳、鼻、舌、身、意)に六種類のデータ(色、音、香、味、触、法)が触れること。
 生きているとは、「触」機能によって、内外のデータを瞬間瞬間認識することである。触れて感じる機能を失ったら生命は直ちに死ぬ。
 
 
3.意志(チェータナ)
 
 意志とは、「何かをしたい」という衝動。
 生命は常に何かをやりたがっている。結果も気にかけず、何故やるのかも分からず、止めることも制御することもできず、ただ闇雲に何かをやって感情を引き起こし、存在欲(=渇愛)にフィードバックする。(感情の波を立てることで生きている実感を得る。)
 業(カルマ)を形成するのは意志である。どうせ何かするなら、意図的に善行為(善い意志からの行為)をするのがよい。善いカルマをつくるから。
 
 
4.識(ヴィンニャーナン)

 識とは、認識のことではなく、認識する以前の‘こころ’のこと。
 識は純粋な水のようなもの。この水にいろいろな感情が溶け込むことで、いわゆる‘心(=心所)’が生まれる。存在欲も執着も識の中に起こる。
 単なる物質の固まりである物体が「命」になるのは識が働いているから。(母体に宿った受精卵が数週間で細胞のかたまりになる。そこに‘識’が吹き込まれることで生命が誕生する) 
 この‘識’こそが、瞬間瞬間生滅し、データを更新しつつ、輪廻転生している真犯人である。 


 4つの栄養素の原因は存在欲(=渇愛)である。
 存在欲ある限り、栄養を得つつ生命は輪廻転生する。
 仏道修行とは、生命に栄養を施すのをストップし、存在欲を滅尽させる道程である。
 すなわち、生きながら死ぬこと。


 質疑応答の際に長老が発言した「すべての生命は無明から始まる」という言葉が面白かった。
 すべからく生命は、「無明」からスタートし、紆余曲折しながら、完全なる「智慧」に至って「解脱宣言(ゲームオーバー)」する、心の進化ゲームを大宇宙を舞台にやっているのであろうか。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※以上は、ソルティがスマナサーラ長老の講義を聞いて、独自の見解(=主観)でまとめたものです。文責はソルティにあります。




 


● 最大の逆説 :B.E.2560年 釈尊祝祭日ウェーサーカ

日時 5月15日(日)
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 仏教徒にとって一年で最も大切な日――それがウェーサーカ祭。
 お釈迦様の誕生・成道・般涅槃(はつねはん)の三大イベントは、いずれもインド暦の5月(ウェーサーカ)の満月の日に起こったとされている。この日をお坊様や仲間たちと祝い、ブッダへの親・仏法への信を篤くし、これからも仏教徒として生きることを自らに誓うのである。

20160515 004


 いつの間にやらソルティにとっても、この日は特別な一日になってしまった。元日やクリスマスや大みそかはもとより、自分や親しい人の誕生日よりも、20年来恒例となった年末のベートーヴェン《第九》コンサートの日よりも、ゲイパレードの日よりも、ボーナスの日よりも、自分の中では大切になっている。この日を軸に一年が回っているような気がするほどだ。
 諸法無我を生きる仏教徒にとって「アイデンティティ」という言葉はふさわしくないのだけれど、今やソルティの一番のアイデンティティは「仏教徒であること」になってしまった。そんな日が来るとは、若い頃のあるいは10年前の自分にはまったく想像つかなかった。人生わからないものである。
 
 だが、今にして思えば、「どうも最終的にここに到達して然るべき半生だったなあ」とも思うのである。高校時代に神社仏閣を見るのが趣味だったこととか、大学時代にはじめて出かけた海外旅行にインドを選んだこととか(お釈迦様が悟りを開いたブッダガヤとはじめて法を説いたサルナートを訪れている)、何の仕事をしても何の趣味に興じても「物足りない、落ち着かない」感覚にとらわれたこととか、孤独が好きだったこととか、精神世界に興味を持っていろいろ読み漁った(とくにクリシュナムルティ)こととか・・・・良いことも悪いことも、あれやこれや絡めて、あらかじめ仕組まれていた‘流れ’に気づかないうちに乗っかって、ここへと運ばれてきたような気がするのである。それこそ「因縁」なのかもしれない。
 この日、なかのZERO小ホールに集った人々もみな同じ思いを持っているのだろうか。「仏法」という同じ船に乗ることが決まっていた仲間だったのであろうか。

国の法律や政権はすぐに変わる、崩壊する。まったく当てになりません。
‘五戒’は私たちを、どこにいてもいつでも必ず守ってくれるガードです。
(スマナサーラ長老の法話より) 

 思うに、自分が長らく求めていたのは、心のしっかりした軸となる‘何か’であり、生きる上での指針となる‘何か’だったのだ。「この世に何一つ確かなものなどない」という教え(諸行無常)が、確かな‘何か’であったというのは、最大の逆説である。

サードゥ、サードゥ、サードゥ  

uesaka記念イラスト
 
 

● 結論ばかりが人生だ : 初期仏教講演会(講師:スマナサーラ長老)

日時:2016年4月9日(土)14時~
会場:日暮里サニーホール(東京都荒川区)
主催:日本テーラワーダ仏教協会 
テーマ:『「立ち止まらず、もう一歩前へ」~勇気を出して概念を手放せ~』

 心地よい春風が吹く行楽日和にも関わらず、定員400名ほどのホールはほぼ満席。マハーカルナー禅師の人気沸騰ぶりといい、初期仏教は一時的なブームを超えて、すっかり日本社会に根を下ろしたように思う。
 釈迦国の王子だったブッダがそうだったように、物質的豊かさと自我を満たしてくれる(ように見える)様々な‘物語’が崩壊した果てに訪れる「虚しさ」が否応なく辿り着くのは、ここでしかないのだろう。
 おそらく、今後日本における初期仏教の主役を張るのは、いわゆる「さとり世代」になるんじゃないかと予測する。

 あいかわらずのスマナ節炸裂。
 話が終わりに近づくにつれて、ぐんぐん核心に迫っていき、聴いているこちらの頭もぐんぐん覚醒していく。
 聴くことがそのまま瞑想体験になる。
 最後には脳細胞が痺れたようにジンジンと脈動しているのを感じた。
 
 思わず書き留めたスマナ語録。そのソルティ流解釈。

「結論ばかりの人生」
日本人はYES/NOをはっきり言わない、自分の意見を持たないと言われるが、それはウソ。みんな見解を持っている。対立を恐れて口にしないだけ。どんなことにも見解を持っている。結論ありきで生きている。
 巷を賑わすスキャンダラスなニュースに対するネット上の匿名コメントを見ていると、本当にそう思う。一億総評論家時代。しかも意地悪な・・・・。

「見解は戦い、勝敗を招く」
見解を持つとは、各々が「眼・耳・鼻・舌・身・心」を通して得た固有のデータをもとに概念を組み合わせ、固定した判断をすること。客観的な正しい見解などない。見解はすべからく邪見。各々が見解に執着するから戦いが起こる。

「知識は重い。智慧には重さがない」
知識は貯めること。智慧は反対に見解を捨てること。見解から自由になること。捨てることで現れる開放感・自由・安らぎ、これこそが幸福。

「あらゆる見解を捨てた境地が解脱」
仏道修行によって世間的な見解を一つ一つ捨てていったら、ブッダの言ったことが真実とわかる。「地球は丸い」と言うのと同じく立証された事実とわかる。が、それもまた一つの見解にすぎない。頭で「諸行無常・諸法無我・一切行苦」を理解しているうちは、それもまた見解。解脱とはそれさえ捨てること。

 つまり、こうなる。
 A.あらゆる見解は邪見である。 
ならば、
 B.「あらゆる見解は邪見である」という見解もまた邪見である。
この矛盾を解く第三の道は、
 C.見解のない世界(=ありのままの世界)



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● I ・ME ・MINE  原始仏教トーク:『慈悲のガーランド』(講師:マハーカルナー禅師)

慈悲のガーランド


日時 4月3日(日)午後1時~
会場 板橋区新河岸一丁目集会所
主催 マハーカルナー法友会

 都営三田線・高島平駅で降りて、満開の桜が土手に連なる新河岸川を渡って、満開の桜のアーケードが目も綾なる通りを尻目に、団地の一角にある会場に入る。
 50畳ほどの和室には80名ほどがぎっしり座していた。今日の桜のように盛況だ。

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 タイトルにあるガーランド(garland)とは「花飾り、花輪」の意。
 映画『オズの魔法使い』(1939年)でドロシーを演じたジュディ・ガーランドを想起するが、原始仏教経典の一つである『ダンマパダ(法句経)」の中の次の偈(げ=詩句)に拠っている。

うず高い花を集めて多くの花飾りをつくるように、人として生れまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。(中村元訳、岩波文庫『真理のことば』第4章53)

 マハーカルナー禅師は言う。
一つ一つの善行(クサラ)を花にたとえたとき、花と花とをつなげる中糸は菩提心――すなわち「仏法僧への篤い信」と「悟りたいという熱い思い」です。クサラの花飾りをつくることで修行は前進します。 

 では、仏道修行における善行とは何か。
 内に向いては、①むさぼり(貪)・怒り(瞋)を離れること、②戒をまもり、瞑想で定(集中力)をつくり、仏法を学び智慧を得ること、③慈悲の瞑想をすること。
 外に向いては、④布施をする(他人に食事や金銭や衣服や労働などを施す)こと、⑤慈悲の実践をすること。
 この⑤の「慈悲の実践」が難しく、また一般に仏道修行する者に足りていないのだと禅師は言う。

ここにおられる皆さんは、よく瞑想されているし、戒もよく守っているし、アビダンマなどの教学もよくされているし、またそれぞれのできる範囲で布施もされている。でも、慈悲の実践、つまり隣人に対する日常的な善なる言葉がけ、善なる振る舞いが大切なのです。これこそが修行を前進させる強力なサポートになるのです。修行は徳で進むのです。
 

 この説明を自分なりに図にしてみた。


修行の五要素
 
 
 中心から5つの頂点に向かって平等に強力に修行が進むとき、よい結果が得られるということになろう。とりわけ、慈悲の実践によって心がクサラ(善)になっていることはとても大切で、心がクサラ(善)になっていないと残りの4つを一生懸命やっていても修行は停滞してしまう・・・・。
 慈悲の実践と言っても、なにもマザー・テレサのように死にかけたホームレスのところに行って助けてあげるといった大掛かりなことでなくともいい。職場の仲間に対し、柔和でやさしい表情で接するとか、柔和でやさしい言葉遣いを心がけるといったことでいい。日頃から相手が喜ぶようなことを考えて、機会を逃さず、それを実行するのもいい。列車でお年寄りに席を譲るとか、重い荷物を持つのを手伝ってあげるのもいい。公共の場所を掃除するのもいい。要は、実際の言動において形にして顕わすこと。
 善行するときは、「この行いによって、修行が進み、悟りに至り、解脱が得られますように」と確信犯で願うのが良いそうだ。意思(動機)こそがカルマをつくるからである。

 善行するのは他人のためでもあるが、仏道修行の前進という点ではほかならぬ自分のためである。そう心の奥でしっかり理解しておけば、「他人のため、困っている人のために、自分はいいことやってます」という自惚れや傲慢や勘違いから自由でいられるわけである。
 情けは人のためならず。 
 
 法話後の質疑応答のとき、禅師がビートルズの“I ME MINE”の一節をホワイトボードに書き、「これは真実ですね」と指摘したのが面白かった。
 
 All through the day, I me mine, I me mine, I me mine
 All through the night, I me mine, I me mine, I me mine
 
 All I can hear, I me mine, I me mine, I me mine
 Even those tears, I me mine, I me mine, I me mine
 
 一日中、「私・わたし・ワタシ」
 夜も昼も、「私・わたし・ワタシ」
 
 聞こえるのはただ、「私・わたし・ワタシ」
 誰が為の涙、「私・わたし・ワタシ」



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 
 



● 末法は終わった 原始仏教トーク:『涅槃への門は、まだ開いているか? ~仏国土Buddhakhettaを求めて~」(講師:マハーカルナー禅師)

涅槃への門

日時 3月6日(日)午後1時から
会場 見次公園内集会所(東京都板橋区)
主催 マハーカルナー法友会

 マハーカルナー禅師は1955年東京生まれ(今年還暦)。42歳の時にスリランカにて出家。その後、ブラジル、ミャンマーなどで修行される。ミャンマー随一の高僧パオ・セヤドーより、パオ森林僧院日本本部の設立と日本におけるパオ瞑想システム指導の命を受け、2013年帰国。同年9月より毎週、都内を中心にパオ瞑想指導とアビダンマ講座を開催している。(パオ森林僧院ホームページ参照)

 会場は、都営三田線・志村坂上駅から歩いて5分足らずの見次公園内の公共施設。はじめて行ったが、板橋区にこんな大きな池をもつ開放的な公園があるとは知らなかった。首都高速、中山道に囲まれた激しい交通の真っ只中に位置するが、騒音はさほど気にならない。湧水を水源としている池は、へらぶな、タナゴ釣りが公認されている。うららかな日曜の午後、釣り糸を垂らしてまったりとくつろいでいるおじさんたちの姿がのどかさを醸し出していた。
 
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 会場に入ると、すでに50人くらいの参加者が畳に座っていた。3:2くらいで男が多い。全体に若い人が多いのは、若者の方が新しい情報に敏感でアクセスしやすいためか。かくいう自分、マハーカルナー師の存在と朋友会の活動を知ったのはほんの最近のこと。
 ネット上(ポッドキャストって言うんですか?)でなく、じかに師の話を聴くのははじめてであったが、非常にわかりやすく、親しみやすく、熱意ある話しぶりであった。
 今回のテーマ『涅槃への門は、まだ開いているか?』とは、換言すれば「現在もなお、解脱は可能なのか? 悟りは可能なのか?」ということになろう。
 
 日本では1052年(平安末期)を末法元年としている。

末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと。(ウィキペディア「末法思想」)
 
 現在は末法の世であり、我々は下根下機の民である。仏法を理解する力も修行する力も乏しく、悟るのも解脱するのも難しいというわけだ。
 これは日本に入ってきた大乗仏教独自の悲観的な伝承で、本家本元のテーラワーダ(原始)仏教には関係ない話--と思っていたが、マハーカルナー師によると、テーラワーダ仏教国であるタイやミャンマーでも、「涅槃の門はまだ開かれているか」、すなわち「輪廻からの解脱は現代も可能なのか」という議論が盛んにされているとのこと。
 これは、最終的な悟り(阿羅漢果)に達して解脱した修行者が、テーラワーダ仏教界においてさえ、いかに少ないか、阿羅漢になるのはいかに難しいかという事実の裏返しなのだろう。(第一、第二段階の悟りである「預流果」や「一来果」の悟達者は掃いて捨てるほどいるのだろうが・・・)

 マハーカルナー師は明言する。
「日本のどんな時代の、どんなに恵まれた境遇に生まれた者よりも、2016年現在の平均的な日本人のほうが、明らかに良い波羅蜜(ハラミツ)を持って生まれている。菩提心、すなはち悟ろうという強い意志と仏教への信さえあれば、悟ることの可能な環境にいる。涅槃の門は開かれている」
 波羅蜜とは、仏教に対するその人の縁の深さのようなもの。悟ることのできる能力や環境というニュアンスもある。 

 そうなのだ。
 仏法伝来(538年)以来、日本には深く仏教が根付いた。
 けれど、それは中国経由の大乗仏教であり、釈迦のそもそもの教え(仏説)とはたいぶ異なる偽経だった。仏教の根本奥義たる法(ダンマ)の核心は愚か、悟るための方法論たる瞑想法も伝えられなかった。これでは、いくら修行者が頑張っても、悟りはおろか、釈迦本来の教えによってこの世の真実(諸行無常、諸法無我、一切行苦)を知って、智慧を磨き、心を軽くすることすら難しい。せいぜいが――というより、だからこそ、日本では阿弥陀仏信仰が優先されたのだろう。解脱主義でなく浄土主義が・・・。
 その意味では、538年当初から日本は末法の世にあったのである。
 
 日本で原始仏教の経典が『南伝大蔵経』として翻訳・出版されたのは、1935年(昭和10年)から1941年(昭和16年)にかけて、大蔵出版の高楠順次郎らによるものである。およそ80年前だ。
 だが、太平洋戦争→敗戦→貧困→復興と続き、仏教どころの話ではなかったのは容易に想像できる。また、大乗仏教の勢いがまだまだ強かった時代、原始仏教は「小乗仏教」として蔑まれていた。あえて学ぼうとする人がいないのも無理はない。
 さらに--マハーカルナー師は言う。
「仏典はあっても、修行の方法を教える先生がいなかった。自分が若い頃は、経典を読んで自分なりに修行するしかなかった」
 つまり、瞑想修行に欠くべからざる勝れた指導者がいなかったのだ。だから、本気で悟りを目指す日本の修行者は、仕事を辞めて家族と離れてタイやミャンマーに渡航し、「これ」と思った師について、慣れない異国で言葉や文化の障壁と格闘しながら、数年を過ごさなければならなかった。
 今はどうか。
 日本には、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老はじめ、このマハーカルナー禅師や上座仏教修道会のバッダンタ・ニャーヌッタラ長老、たびたび来日されて講話や瞑想指導をされるタイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボー師などがいる。
 これらの僧侶が日本語で書かれている分かりやすい原始仏教の関連本も簡単に手に入る。遠距離からでもネットで法話を聴くことができる。じかに瞑想指導を受けることもできる。在家のままでも、仕事を辞めなくても、家族を捨てなくても、教学も修行も悟りも可能なのである。
 なによりも、かによりも、仏法を学び瞑想修行できるだけの平和と信仰の自由(日本国憲法)と経済的豊かさとがある 。共産主義独裁政権下で僧侶が強制還俗あるいは虐殺されたキリング・フィールド(=ポル・ポト)時代のカンボジアを思えば、この幸運は痛いほど分かる。(だからこそ、仏道修行者は平和維持のため行動しなければならないと自分は思っている)
 
 なんという幸運な波羅蜜だろう!
 空海が、最澄が、法然が、親鸞が、一休が、日蓮が、道元が、栄西が、その他大勢の歴史上の修行僧たちが、悩み苦しみ、呻吟し、生涯賭けて追い求めてどうにも得られず、来世に託すほかなかったものを、2016年に生きる我々は至極簡単に(クリック一つで!)手に入れている。電車賃だけで浴することができる。
 ようやく末法は終わったのだ!

 しかし、マハーカルナー師は言う。
「この幸運が、このままこれから先、何十年も何百年も続くと思ってはいけません。もしかしたら、この幸運は、ロウソクの炎が消える前の最後の輝きのようなもの、仏教が途絶え、衆生が無明に取り残される前の最後の救いの一匙のようなものかもしれません」
 
 自分の半世紀に及ぶ人生において、最大にして最高に幸運な出会いは、まぎれもなく原始仏教との出会いである(今のところ)。これあればこそ、それまでのすべての不運や不幸や逆境や苦渋も相殺されてあまりある(と言っても、たいした苦労もしていないのだが・・・) これなくして、今後迫り来る老いと病いとターミナルの数十年を安穏に過ごせるとは到底思われない。
 
 放蕩・停滞している最近の自分。
 今一度、この幸運を身に沁みて感じなければなるまい。
 
 新たな1ページを開いたような一日であった。


 サードゥ、 サードゥ、 サードゥ
 

 


● すべての生命は認知症である:初期仏教講演会『どっちがほんもの?~正しいことの真偽を問う』

日時  2016年1月9日(土)午後1時半~
会場  なかのゼロ小ホール
講師  アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 550席あるホールは8割がた埋まっていた。
 相変わらず若い層(50代以下)が目立つ。新たな参加者も増えている。『仏教思想のゼロポイント』の好評に見るように、「いよいよ初期仏教が浸透してきたなあ」という感をもった。

 今回もまた途中まで、座席で瞑想まがいの傾眠をしていた。
 午前中に用事で都心に出向いたら、すっかりバテてしまった。用事そのものは疲れることなかったが、どうも都会の人混みにいるとエネルギーが消耗してしかたない。知らずに気が奪われていくようだ。ただの老化や運動不足による体力低下・気力低下とは違うのは、逆方面への運動――すなわち山登りなら何時間歩こうがこんなに疲れることはないってことだ。むしろ、筋肉疲労はあれども気はリフレッシュし充実している。
 気を奪われない方法を学ばない限り、都心はできるだけ避けるほかないようだ。

 が、しっかりと目が覚めて頭が冴えたのが、説法的には重要な後半部だったのはいつもながらうまくできている。スマナサーラ長老の講演はいつも、前半が俗世間用(在家向け)の内容で、後半が出世間用(修行者向け)の内容になっているからだ。
 タイトルの「正しいことの真偽を問う」の結論は最初からはっきりしている。「人の持つ意見・思考・思想・主義・主張・論に正しいものなどない」である。これらはすべて‘見解’であって、個々人がそれぞれの知識や性格や教育や信仰や体験や好みや利害を素材として創り上げた、純粋に主観的な‘ものの見方’に過ぎない。
 だから、見解は人の数だけある。似かよった見解をもつ大集団が自分の立場を安定保持するために、「これが正常」「これが常識」「これが普通」と決め付けることはある。が、それでもなおそれが客観的に正しいわけではない。ただ多数派というだけだ。
 このことを各人が理解しない限り、この世から争いが無くなることはない。「自分が正しい」と各人や各集団が思い込んで主張している限り、絶対に平和的解決は起こりえない。
 「自分が‘絶対に正しい’なんてことはあり得ない」という一歩引いた理解の仕方、言うなれば絶対性から相対性への転換が必要なのだが、これが難しいのである。なぜなら、‘自己を相対化する’とは、自我の正体を暴いて、ニュートラルな立場から再調教する手続きが必須だからであり、再調教の目的はつまるところ、自我=アイデンティティの空洞化なのだから。キリスト教ともイスラム教とも違う仏教のスタンスはまさにここにある。(以上、講演テーマに関連してのソルティの見解含む。)

 スマナ長老の話より。ブッダが指摘した人が見解をつくる際のもとになる5つのもの。
1. 信仰
2. 好み
3. 言い伝え・伝統
4. 理屈・思考
5. 自分の意見・見解と合う他人のそれ 

 今回、面白かった長老の言葉。
 
「すべての生命は認知症です」

 すべての‘生命は’と言っているところがポイントであろう。
 すべての‘人間は’なら、上記に書いたように、各個人の物事に対する認識の仕方はそもそもが見解という「自我プリズム」で捻じ曲げられていて客観的な真実とは程遠い、というだけの話である。(これだけでも容易に理解しがたい話なのだが・・・)
 すべての‘生命は’といった場合、もっと根源的なところを言っている。
 すなわち、それぞれの生命は、自然(神?)によって与えられた生まれついての「種」としての認識機能(知覚手段)を持っている。人間なら、視覚(目)・聴覚(耳)・嗅覚(鼻)・味覚(舌)・触覚(体)というように。仏教ではこれに法(意)を加えて六処とする。蛇には聴覚がないと言われる。ミミズには視覚がないと言われる。犬の嗅覚はヒトの1億倍という説もある。イルカやコウモリは人間にない探知機能(ソナー)を持っていると言われる。それぞれの生命(種)は、外界を認識するためのそれぞれのツールを有している。逆に言えば、認識される外界の姿はそれぞれの生命によって異なるということである。
 では、どの生命が認識した外界の姿が正しいのだろうか?
 我々人間?
 犬 (逆立ちしたGOD)?
 イルカ?
 ゴキブリ?
 ET?
 樹齢7000年の縄文杉?
 畑の白菜?
 「盲人象を撫でる」のことわざ通り、どの生命も外界の一部をそれぞれの認識限界内で捉えているに過ぎない。
 だから、「すべての生命は認知症」なのだ。

 キリスト教徒ならこう言うかも知れない。
「その通りです。ただ唯一、全知全能の神様だけが世界の正しい姿を知っておられるのです」
 全知全能の神様を認識する人間の認識が偏っているのだから、何をかいわんや。

 介護の仕事で認知症の高齢者と日々向き合って対応の難しさにボヤいている自分であるが、「自分もまた二重の意味で(人間として、生命として)認知症にほかならないんだ」と謙虚に思った年明けである。


2016冬



 


● 初期仏教講演会:『違うって素晴らしい こだわりをなくす智慧の道』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  7月18日(土)13:30~
会場  中野ZERO小ホール
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 今日は奇しくも同じ中野のサンプラザで同じ時間帯に、花園大学の佐々木閑教授による『ブッダのことば』と題する講演会(日本仏教鑽迎会主催)もあった。このブログでも取り上げた『科学するブッダ 犀の角たち』の著者である。南口を出ればZERO、北口ならサンプラザ。どっちに参加するか中野駅地下道で右に左に迷った。
 こんな贅沢な迷いはなかなか無いな。
 素晴らしいゾ、中野!

 本日のテーマは、金子みすず流に言えば「みんな違って、当たり前」ってところか。
 まず、「区別」「差別」「分別」の違いから話は始まった。

 区別とは、違い(差)を知ること。役に立つのは、区別能力そのものであって内容はあまり関係ない。たとえば、学校で学んだ数学が社会に出てから役に立たないからといって、「学ばなくていい!」ということにはならない。数学を学ぶことで区別能力を向上することができる。それは大切。ただし、区別能力はあくまで知識世界のものである。
 差別とは、区別に主観的判断を加えたもの。たとえば――今思いついた例であるが――「黒人と白人は肌の色が違う」は区別だが、「黒人より白人のほうが美しい」と言ったら差別になる。「美しい」は主観である。
 分別とは、「行うべきこと」と「行うべきでないこと」とを知って選ぶ能力。何をすれば幸福になるか、何をしたら不幸になるかを知っていること。分別能力は倫理世界のもの。仏教ではこの分別能力を育てることを重視する。

 では、「行うべきこと」と「行うべきでないこと」をどうやって見分けるのか。 
 判断基準は何か。
 キーワードとなるのは「自我」である。
 自我のある知識は、すべて危険なものとなる。社会を不幸にする。自分の欲・怒り・無知を動機に持つ行為は、最終的に幸福にはつながらない。
 自我を捨てると、必要な知識は存分に入ってくる。それは自分も社会も幸福にする。

 自我のせいで違いは苦しみに変わる。
 自我が無ければ、違いを見つけることは面白さに変わる。人は違いを見つけて楽しむことができる。
 むろん差別は起こらない。

 事実として、この世に同じものは存在しない。すべてが互いに異なっている。
 また、すべては無常であり、瞬間瞬間消滅し新たに生まれている。同じ事象は存在し得ない。
 人生において1コマも同じものはない。
 赤ん坊の「自分」、小学生の「自分」、大学生の「自分」、大人の「自分」、年老いた「自分」、講演の始まる前の「自分」、講演後の「自分」・・・・どれも同じではない。それらに共通して連続して存在し、それらを統括するような「自分」は存在しない。
 違いを知るとは結局「無常」を知ること。
  
 ・・・・といった内容であった。(ソルティの主観入り解説)

 「ああ、そうか」と思わず膝を打った長老の言葉。
 
  「仏教には‘戻す’という言葉はありません」
 
 ‘戻す’とは「元の通りにする」ことだが、すべては無常なので、あらゆる瞬間は一回限りで繰り返しはない。「元の通り」はあり得ない。同じ瞬間は存在しない。
 なんだか「存在(生命)」というのは、もの凄い激流に押し流されて、一時も休む間もなくどこかに運び去られていく木の葉のようである。
 「時」に掴まることはできない。
 本当は、あちらかこちらか‘迷って’いる暇さえないのかも・・・。 




 

● 孤独な修行者 :日本テーラワーダ仏教協会月例講演『えっ、私が悪いの!? 疑うべきそれぞれの常識』(話者:アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

日時 2015年6月26日(金)18:30~
会場 中野ZERO小ホール(東京都中野区)

 幸いなことに早番だったので参加できた。
 日中は段取りよくテキパキと業務を進め、定時になるや更衣室に直行。褥瘡についての学習会参加を呼びかける館内放送が響く中、迷いも無く施設をあとにした。
 中野サンモール商店街でかき揚そばを食べ、途中にあるベローチェで眠気覚ましのコーヒーを飲み、中野ZEROに向かった。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老による月例講演会に参加するようになってからずいぶんになる。
 今では、自分にとって月のもっとも大切な行事(一日)であり、仏法について学び、俗世間から離れた視点から自分自身や世間や社会を見直す機会となり、かつ修行のモチべーションを高めることのできる有意義な時間である。出られるときは必ず参加するようにしている。会場が職場からわりに近いことも幸運である。
 
 今日もまた6割がた埋まった会場の後方の座席について、講演中の印象的な言葉をメモしようとノートとボールペンを手に、パワーポイント映写されたスクリーンに対峙した。
 が、なにせ8時間の重労働(介護)のあと、しかも今日は午後から入浴介助。汗をかいて体はクタクタである。
 講演冒頭の日常読誦(読経)が済むやいなや、瞼は垂れ下がり、首はコクンと前にうなだれた。
 40代半ばまではこんなことなかったのに・・・。
 かき揚そばは失敗だった。コーヒーだけで良かった。
 よって、講演は後ろ半分しか参加できなかった。
 情けねえ・・・
 
 しかし、話されている内容はおおむね理解できるものであった。
 人間の持つあらゆる意見・論・見解・印象は、つまるところ各人の主観に過ぎないので、他の人と完全な一致を見るわけがない。そのことに気づかず、お互いの意見に固執し、あい争ってもなんの解決にも至らない。コミュニケーションがうまくいくはずもない。まず、自分の意見が単なる主観に過ぎないことを自覚し、「自分が間違っている」可能性のあることを常に自覚しなければならない。
――というような内容であった。(これも主観的な解釈かも。半分寝ていたし。)

 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』が始まったばかりの大学生の頃(1987年)、夜更かしして夢中になって観ていた。天皇制や部落問題などタブーとされる話題も果敢に取り上げて、斯界の著名人らによる議論の応酬や、いい大人たちの感情の幼稚な暴発ぶりを見るのが面白かった。
 しばらく見ていて、「ああ」と腑に落ちたことがあった。
 それは、「あらゆる意見・哲学・論は結局その話者の主観に過ぎず、自らのアイデンティティを支えるための自己正当化に過ぎない」という気づきであった。科学分野における論(万有引力の法則とか相対性理論とか)はとりあえず別として、洋の東西問わず、歴史上のいかなる哲学も、社会的なトピックに関するいかなる論も、もとより正解はないのである。多数派だから正解と言うこともないのである。それぞれが自己のアイデンティティの正当化を図ろうとする延長上に、もっともらしい理屈をこねているに過ぎない。
 それがわかってから、自らの意見こそが「絶対に正しい」と信じ込んで相手を言い負かそうと必死になっている出演者らがアホに見えてきて、番組自体馬鹿らしくなって、見るのを止めてしまった。
 たが、今思うにあれは、討論することでどっちが正しいかを決めようとしたのではなく、意見の多様性を視聴者に知らしめようとしたのでもなく、いわんや視聴者の意識を高めようとしたのでもなく、単なる「机上プロレスショー」だったのである。田原総一朗はアンパイヤだったのだ。
 もとより視聴率が取れなくては番組にならない。
 (だが、上記の気づきを視聴者の一人である自分にもたらしてくれたのだから、製作者や出演者には感謝すべきだろう。)

 さて、講演内容はともかく、今回「なぜ自分がこの月例講演会に参加するのか」に思い当たった。
 もちろん、法話を聞きたい(=仏法を学びたい)というのが一番ではある。
 が、今日のように半分眠って過ごしていても「十分来た甲斐があった」と思うわけである。
 それはなぜか。
 一つには、サンガ(仏道修行の仲間たち)に出会えるからである。
 ふだん自分はたった一人で本を読んで仏法を学び、たった一人で瞑想している。テーラワーダ仏教を学んでいてお互いに励ましあえるような友人、いわゆる法友を持っていない。お寺(京王新宿線の幡ヶ谷にある)に行くことも滅多にない。孤独な修行者である。
 孤独な修行者はときに迷うのである。
 
 自分がやっていることは正しいのか。
 こんな世間的価値観とはかけ離れた仏教というものに、時間やお金や気力や能力を費やしてあたら人生を無駄にしていないか。
 何年も修行をしているのに結果が見えない。このまま続けていてもいいものか。
 こんな陰気臭いことをする代わりに、もっと生活を、もっと人生を楽しむべきではないか。
 自分の欲求に忠実であるべきでないか。
 自分は仏教に依存することで、‘何か’から、あるいは人生そのものから逃げているのではないか。
・・・・・・等々。

 仏教的観点で言えば、これらは自我の策略である。
 修行の進展によって正体が暴かれ弱毒化されていく‘自我’が、なんとか生きのびようとして、修行を邪魔せんと修行者の中に迷いを生じさせるのである。
 お釈迦様でさえ、菩提樹の下に座し解脱に達する最後の瞑想中に、悪魔の声を聞いたのである。

 君はやせ細り、体が黒ずんでいる。あなたは死の瀬戸際にある。
 死が千分なら、あなたの命は(ただの)一分。君よ、生きたまえ。生きることが優れているでしょう。生きていて、諸々の善行為を行いたまえ。・・・・・・
 あなたの修行は何の役にも立たない。修行の道は厳しい。成し遂げることは難しい。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『日本人が知らないブッダの話』学研発行)

 お釈迦様はこのように答え、悪魔を退けた。

 私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。

 ムンジャとは草の葉っぱのことで、昔インドで戦士たちがターバンにムンジャを挟んで死ぬ覚悟で戦いに赴いた故事に由来する。
 
 自分とお釈迦様を較べるつもりは毛頭ないものの、やはり瞑想が進むほどに、仏教にはまり込むほどに悪魔の声も強くなるのは事実である。
 そんなときに、同じ修行者の多く集まる月例講演会に参加し、別段会話をせずとも、「これだけの仲間がいるのだ。自分一人ではないのだ」と知ることは、悪魔を退ける力となる。
 仏教では、仏法僧を三宝とするが、僧(サンガ)――広くとらえて在家信者の集まり――にはそれなりの意義があるのだ。
 そろそろ法友が必要なのかな・・・。

 今一つの理由は、やはりスマナサーラ長老の存在に触れることにある。
 自分の軸がしっかりせずに右に左に揺れている自分が――仏教を知ってその振幅は以前より小さく単純な動きになったが――しっかりしたアンカー(碇)がほしいとき、スマナサーラ長老の確固たる存在感は‘効く’のである。姿を見るだけで安心するのである。
 これに関しては、当のスマナサーラ長老がこんなことを書いている。

 なぜ、一部の人々には影響力があって、他の人々には影響力がないのでしょう。
 両者を分けるのは、「生き方に自信を持っているか否か」ということです。「私はこういう理由で、このような生き方をしています」と、自分自身で自分の生き方に対して確信を持つこと。それが影響力の源になるのです。生き方が優柔不断・曖昧ということでは、影響力はまったく生まれません。(日本テーラワーダ仏教協会会報『Patipadaパティパダ』2015年6月号智慧の扉より)

 確かに、自分がこれまでに出会った影響力のある人々を思い起こすと、上記の言葉がぴったり当てはまる。
 何を信奉しているか、何を語っているか、何の仕事をしているか、どんな地位にあるか、どんな風采であるか、世間的に有名か否かなどは、あまり関係ない。自分の選んだ生き方について自信を持ち、日々それを基盤にして生き、それなりの覚悟のある人が、良きにつけ悪しきにつけ、自分に対する影響力を行使している。
 スマナサーラ長老はまさにその典型である。 
 
 サンガに出会い、長老に出会い、「やっぱり自分には仏教しかない」と納得し(なかば諦め)、会場を後にしたのであった。


サードゥ、サードゥ、サードゥ

ハスの花ピンク


 








● 思えば遠くに来たもんだ :仏暦2559年ウェーサーカ祭(@中野、東京)

 今日(5/25)は日本テーラワーダ仏教協会主催のウェーサーカ祭
 お釈迦様の誕生と成道(解脱)と入滅(逝去)を記念する年に一度の祝典である。
 5月の満月の日に行うのが本来。今年は5月4日がそうだった。
 
満月

 中野ゼロ小ホールで10時から16時半までの半日を(正確には約1/4日だが)、法話と読経と瞑想で過ごした。帰宅してから2時間のヴィパッサナー瞑想を行ったので、仏教漬けの一日となった。
 法話の途中で足を攣るというアクシデントに見舞われながらも、長時間、法話と瞑想指導に専念されたスマナサーラ長老に感謝。

 お昼休み、人でごった返す中野サンモール商店街を歩いた。
 あふれる商品の波、各国の料理、最新のIT機器、休日を楽しむ着飾った人々の笑い声、サブカルチャーの聖地・中野ブロードウェイに集うマニア達・・・・。
 ここと較べると、中野ゼロは文字通り‘ゼロ’だ。
 自分はいったいどこまで来てしまったことか。

 今回の特典は、記念品として参加者全員に贈られた協会オリジナルのマグカップ。
 デザインが可愛くて、色彩も明るくあたたかく、大きさも手ごろ。
 これでコーヒーや紅茶やスープを飲むのが楽しみだ。
 
ウエサカ2015 001

 と、喜んでいたら、イラストの裏面には「食事の観察」というお経(?)が書かれてあった。
 
ウエサカ2015 002

正覚者の説かれた真理を遵守し、
正しく観察してこの食事をいただきます。
食事により心が汚れることを戒め、
身体を痛めることにも注意し、
壊れてゆくこの肉体の修復のために、
量を計って、この食事をいただきます。
一切の生命に対して慈しみの念を抱き、
釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭において、
一切の現象は無常であることを随念しつつ、
この食事をいただきます。

 やっぱり、ただの記念品ではなかった。
 このマグカップを使うたびに、気づきが生じる仕掛けになっているのだ。
 
 
 もろもろの事象は過ぎ去るものである。
 怠ることなく修行を完成なさい。
 (お釈迦様の最後の言葉)

 

● 新春仏教講演:『知ってるつもり!やってるつもり!~成長を止める落とし穴~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

【日時】2015年1月10日(土)13時00分 ~ 16時30分
【会場】東京:日暮里サニーホール
【主催】日本テーラワーダ仏教協会

 新年最初の法話、寒さも手伝って身が引き締まる思い。
 サニーホールは荒川区の施設で日暮里駅の近くにある。はじめて来たが、きれいでファッショナブルなホールである。日暮里舎人ライナー開通以降、このあたりもどんどん垢抜けていく。

 400名定員のホールは8割がた埋まっていた。
 やっぱり圧倒的に男性が多い
 テーラワーダ仏教は「心の科学」と言われるくらい論理的で実証的である。キリスト教のように愛や信仰を重視するのでなく、各々の修行による智慧の開発・確信をもっぱら重視する。そのあたりが男性向けなのかもしれない。スマナ長老の人柄もあろうか。歯に衣を着せずに容赦なくズバっと核心を突く鋭さは、‘慈悲’よりも‘智慧’の人というイメージを抱かせる。(むろん、慈悲の深さは限りないものであるが・・・)

 今日のテーマは、「仏法を知ってるつもり、修行をやってるつもり」になって、実際には成長がストップしている修行者に向けて、渇を入れるものであった。
 まさに自分・・・・!
 スマナ長老の著書を含め数々の仏教書を読んで学んだことや、毎日のヴィパッサナー瞑想で発見したことで、「自分は人より(テーラワーダ)仏教を知っている、世のありよう(無常・無我・因縁・苦)を理解している」とどこかで‘上から目線’になっていた。それが修行の進歩を妨げて、同じところを堂々巡りしていたのであった。毎日行なっている慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想、および月例の講演会参加も含めた仏法の勉強、それでOKと安心してしまい、それ以上の努力を怠っていたのである。 

修行によって発見した、体験した真理を使用することで、実践することで、復習することで、真理に達するのです。ヴィパッサナー瞑想で発見したこと(無常・無我・因縁・苦など)を実践して生活することが大切です。

 生活における実践、つまりそれが八正道なのだろう。
1. 正見  ・・・・・正しく見る
2. 正思惟 ・・・・・正しく考える
3. 正語  ・・・・・正しい言葉を語る
4. 正業  ・・・・・正しい行いをする
5. 正命  ・・・・・正しい仕事をする
6. 正精進 ・・・・・正しい精進をする
7. 正念  ・・・・・正しい気づきを行なう
8. 正定  ・・・・・正しい集中力を養う

 自分の場合、特に3と4、つまり普段の言動をもう少し注意したほうがよさそうだ。昔に比べれば、ずいぶん自分をコントロールできるようになって、他人に対する余計な言動やあとから後悔するような言動は減ったと思う。
 でも、まだまだ「つい、言ってしまった」「つい、やってしまった」ということがある。
 たいていの場合、何かを言うよりは黙っていたほうが正解である。何かをするよりはやらないでいるほうが結果うまくいくことが多い。とくに、感情(気分)に煽られての言動、酒に飲まれての言動は、あとから後悔することが多い。
 後悔というより反省か。
 今年は、そのあたりの是正を目標にしよう。


 さて、本題はそれとして、今日は講演後の質疑応答がなかなか面白く勉強になった。


●若い女性の質問「私は男性が怖いんです。どうすればいいんでしょうか」
○スマナ長老「一般論として言います。それは勘違い。男性のほうが女性を恐れているのです(場内笑)。命を生んで育てなくてはならない性が弱いはずがありません。生物学的にも女性のほうが強く作られているのです。私だって、男性が何人歯向かってきてもどうということもなくやり返せます。でも、女性が本気で歯向かってきたらお手上げです(と両手を挙げられる)。男性なんかどうってことない、という強い気持ちでいてください」

●中高年男性の質問「妻がアルツハイマーで記憶障害になった。どう対応したらよいのか」
○スマナ長老「難しく考える必要はありません。奥さんのいまの状態をそのまま受け容れて、奥さんがニコニコと幸せでいられるようにその場その場で対応すればいいのです。あなたのことが分からなくなったら‘隣のおじさんだよ。君のことが気に入ったんだ’とでも言ってあげてください」  


 認知症老人の介護を仕事(正命)としている立場から言って、スマナ長老の答えは大正解である。脳の器質異常(萎縮など)はもとに戻せないのだから、相手を昔のクリアな状態に戻そうとしたり、昔と違ってしまったことで苦しんだりするのは無意味である。今目の前の相手が穏やかに落ち着いて笑顔で過ごせるようにすることが一番である。
 そして、それは結局、認知症患者相手に限らず、平常の人間関係すべてについて言えることなのだ。過去のかくあった自分・未来のあるべき自分、過去のかくあった相手・未来のあらまほしき相手、そういったイメージに我々は捕らわれ過ぎている。‘いま、ここ’の自分と相手とが幸せであること、そこにしか幸せは築けないのである。



● 王様の涙 初期仏教講演会:『やめたいことはやめられる~ブッダに学ぶ「やめる」訓練』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 12月6日(土)中野ゼロにおける日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 今回のテーマは、‘やめたいのにやめられない’好ましくない習慣(悪癖)を如何にしてやめるか、というもの。
 仏道修行を生きる糧としているのになかなか飲酒がやめられない自分にとって、ドキッとするテーマである。

 開口一番、スマナ長老は宣言する。

「やめたいのにやめられない」と言うのは嘘です。本当にやめたいのだったらとっくにやめているはずです。実は‘やめたい’と思っていないのです。自分の意思で好んでやっているのです。

 まさに図星。
 飲酒をやめたほうが絶対に修行がはかどると分かっているのに、飲んでいる時間や酔っ払っている時間をもっと有効に使えるのは明らかなのに、「まあこれくらいいいではないか」と自分を甘やかしているのが事実である。
 「理性を失って、あとから後悔するような言動をしないでいられるレベルまでならOK」とか、「自分一人で部屋でたしなむ程度(缶ビール一缶)なら、誰に迷惑かけるでなし、よいだろう」とか、「赤ワインは健康ドリンク(ポリフェノールたっぷり)であってお酒のうちには入らない」とか、「若干の飲酒は寝つきを良くするから」とか・・・いろいろ理屈をつけて飲み続けている。
 お酒が好きか、赤ワインが好きか、酔っている状態が好きかと言うと、実のところそうでもない。
 では、なぜ飲むのか。
 自己分析するに、一つには「あまりストイックなお堅い人間にはなりたくない」という牽制が働くからである。自分に厳しい人間は他人にも厳しくなりがちなので、車の運転操作で言うところのある程度の‘あそび’があったほうが良いのではないか、と思うからである。(これもまた言い訳?)
 もう一つは――こっちのほうが真相を突いていると思うが――飲酒に依存しなかったら、もっと大変なものに、人生を狂わせてしまうほど厄介なものに依存してしまいそうだからである。
 たぶん、多くのアルコール依存症やニコチン依存症の人の深層心理にこの思考が働いているような気がする。
「明らかに自己破壊につながるもっと依存性の強い‘あっち’を我慢しているのだから‘こっち’くらい許してよ」
「‘こっち’くらいでなんとか制御しているおかげで、もっと自分をダメにするであろう‘あっち’の習慣に行かないで済んでいるんだ」
--という思考である。
 このからくりというか内心の弁明は、当事者でなければわからない。外側からカウンセラーやソーシャルワーカーや医師や保健師が、いくら本人に「お酒をやめろ」「タバコをやめろ」と言ったところで、このからくりを理解しない限り、立て板に水であろう。当事者ですら自覚していないのが普通かもしれない。

 そんなわけで飲酒をやめないでいる自分なのだが、どういうわけか、最近自分の友人たちでお酒をやめる人が続出している。「あんなに日本酒好きだった奴が!」「週末になると必ず飲み屋に出入りしていた奴が!」次々と、「自分お酒をやめました」宣言をしてくる。
 いったい、何が起こっているのだろう?
 たしかに、自分の友人たちはもういい歳(40~50代)である。体の負担を感じてもおかしくはない。人生ももう秋、お酒を飲んで無駄にする時間がもったいないと思っても不思議ではない。自分もまた「お酒の席で話したことや起こったことや意気投合したかに見える人間関係は、そのときは非常に意義を感じたり、価値を感じたり、得したような気分になったりするが、醒めてみると、結局益するものが少ない」と、飲酒生活30年でいい加減気付いている。
 飲酒で得することと損することを比べれば、やっぱり針はマイナスに振れるであろう。

 話を戻して。
 「やめたいのにやめられない」は欺瞞であり、「やりたいからやっているのだ」と正直にはっきりと自覚することが大切である。
 「やりたい」は欲望であり、心に生じる様々な感情や気分(=悪感情)をもとに熾ってくる。この悪感情がうごめいている段階で、それをしっかりと認識し、それに流されないで客観的に分析する。いま悪感情と言ったが、仏教では感情はすべからく悪感情である。感情による判断は決まって間違っている。
 以下、スマナ長老直伝の仏教による「悪感情に打ち勝つための方法」。

1. まず、心に様々な感情が湧く。
2. そのとき、「この感情でいる私は幸福、楽しみ、安らぎを感じていますか? 苦しみ、不幸を感じていますか?」とチェックする。
3. 行為をしたくなった時も同様にチェックする。
4. 行為するときも、して終わってからも、同様にチェックする。
すると、
5. 正道が徐々に現れる。
6. 行為と感情の関係がわかるようになる。どのような感情が、どのような行為を引き起こすかを発見できるようになる。
7. 正しい行為によって、自分がどのように幸福になっているのかを理解する。
8. 自分の正しい行為で他者も幸福になるのだと発見する。
さらに、
9. 無知のせいで、無常なる現象に執着していたことも、執着が不幸を司っていたことも、執着はもともと成り立たないことも、発見する。
10. 執着を減らす生き方をすることで幸福に生きられることも、執着を捨てることで究極の幸福に達するのだということも発見する。

 人間がやっているすべてのことは、原始脳が司る「存在欲(=生きていたい!)」と「恐怖感(=死にたくない!)」から熾っています。あらゆる感情は、この「存在欲」か「恐怖感」を基盤として、そこから派生しています。人間は、原始脳(獣の脳)に支配されています。大脳が原始脳に支配されているのです。
 不幸と苦しみを作り出す原始脳の支配を破って、客観性と理性で働ける大脳に支配権を与えることが仏道修行です。

 いつもながら大胆すぎる。
 人が働くことも、子供を生み育てることも、家族を養うことも、勉強して偉い学者になることも、政治家になることも、練習を重ねて超一流のアスリートになることも、芸術を創造することも、友達をつくることも、恋愛することも、他の人を助けることも、すべてが原始脳の働きと言うのである。そして、そこから脱出しなさいと言うのである。

 と、ここまで書いてきて気づいた。
 自分が飲酒をやめられない今一つの理由は、真の仏教徒になることへのためらいの表れなのだ。こんな途方もない、ある意味‘非人間的な’思想を本気で受け入れて、彼岸に渡ってもいいものかどうか、深い崖の前でおびえているのである。(むろん、この感情こそエゴの仕業であろう。)

王様の涙




● 犀の角 仏教講演会『結果を出すチーム力』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
 しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
 会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
 いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
 いったい、どういうことか。
 スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
 女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
 何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
 ・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
 本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
 男は組織論が好きなのである。
 これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。

 話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。

 今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
 『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
 「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)

 という偈(げ=詩句)から始まって、

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)

 という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
 岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。 

「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上) 


 これに対してスマナ長老は異を唱えた。 

「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。

 原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
 すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
 上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。

人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。  

 中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
 中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
 中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
  すごい違いだ。

  よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
 人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
 例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
   上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
 例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
    家族ができて生きがいができる。
    友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
    有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
 例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
    世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
    見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。

  人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
 聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
 聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。 



● 初期仏教講演会:『継続力~目的に達するために』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ長老)

10月10日(金)中野ゼロ

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会への参加は、自分にとって、月のもっとも大切な行事となっている。
 スマナ長老の話を聞き、喝を入れてもらい、日々の瞑想修行のモチベーションを高める。同時に、世間的価値にすっぽり覆われた日常生活(世俗)から一瞬心を引き離して、自分のあり方や日常の物事を相対化して客観的に見る機会となる。それによって、またルーティンな生活に、新たな気持ちで向き合えるのである。
 そしてまた、どういうわけか、スマナ長老の話はいつも、その時々の自分の気持ちや瞑想修行の進捗状況にピッタリ来るような、心のうちに抱えている問いに対して見事に「解」をもたらすような、不思議な符号(=シンクロニシティ)がある。
 今回も、自分が今まさにぶつかっている壁の存在を察知して(他心通?)、それを乗り越える方法を具体的に示し、励ましてくれるかのようなテーマと内容で、講演終了後に「わかりました。やってみます」と心の中でつぶやいた。


 今回のテーマは、目的に達するための継続力について。(以下、概要) 
 

「世に魔法はありません」
ゆえに、成功するためには地道な努力が必要である。
しかし、努力だけでは成し遂げられない。結果がでるまで継続することが重要。
一般に(俗世間的に)、人が継続するためのモチベーションとして用いているのは、「欲や怒りや嫉妬や恨みや傲慢などの悪感情」である。
しかし、「貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)」で始めたことは、「貪・瞋・痴」で断念することになる。最終的には不幸になる。
「欲--たとえば、金儲けしたい、いい暮らしがしたい、出世したい、ひとかどの人物になりたいetc.--がなければ、そもそも商売や仕事ができないではないか」と反論したいと思うが、それは間違いである。
仏教的戦略は以下の通り。
1. まず、怒りを捨てること。悪感情から起こる「やる気」は堂々と断念すべき。
2. 欲を慈悲喜捨に変換すること。生きることは慈悲喜捨を実践するためにあるのだと決めてしまえば、何一つもあれこれ考えたり、悩んだり、心配したりする必要はない。
3. 理性と慈しみで目的を設定する。目的がない行為は決まって悪感情の衝動から生じている。慈悲喜捨で設定された目的ならば、やればやるほど明るくなる、元気になる、喜びと充実を感じる。
4. つまり、自然と目的に達するまで進むので、継続力は問題にならない。


しかし、慈悲喜捨で実践しても努力を止めたくなることがある。
それは、心に潜んでいる悪感情(=煩悩)のせいである。
悪感情が割り込んでくるたびに、慈悲喜捨でもってその感情を潰すことがポイント。
慈悲喜捨で生きれば、人生、自分のせいで失敗することはない。


 と、ここまでが世間的なレベルの話である。
 あまり知られていないが、仏教には、世間的レベルの教えと、出世間的レベルの教えの二種類がある。
 単純に言えば、前者は在家信者向けの教えで、「いかにすればこの世で人と争うことなく幸福に生きられるか。死んだら天国に生けるか。良い生まれ変わりができるか」という教えである。後者は出家者向けの教えで、「いかにすれば苦を終わらせることができるか。この世から離脱できるか。生まれ変わらなくて済むようになるか」という教えである。
 スマナ長老の話は――初期仏教の説法は、というべきか――だから、二段構えになることが多い。
 後半は、出世間的な「継続力」の話であった。
 ここからが仏教の本領であり、いまだに衝撃を感じることなしに聴くことは難しい。
 
生きることに目的はない。
存在欲(渇愛)によって、誰でも何かをしながら、死ぬまでただ闇雲に闘っているだけ。
ゆえに生きることは空しい(=一切皆苦)。
出世間的な生き方とは、生きることを断念するのではなく、そこから脱出する。
すなわち、生きることを乗り越えることを、生きる目的として設定する。
それが仏道の実践である。
「貪・瞋・痴」という本能に抵抗し、打ち勝つことが、真の精進である。

 今回、ドキッとした表現に「存在の罠」というのがあった。
 どういう意味か。


私たちは、普通に働いて、普通に家族を養って、普通に生活を送っていても、知らずに悪に染まってしまう。なぜなら、欲や怒りという煩悩こそが人の(動物の)本能だからである。世間の流れに沿った生き方は、人を安心させるが、実は危険なものである。  

 つまり、この世に存在するということ自体、あらかじめ罠にはめられているようなものだ、という意味である。
 本当に、仏教は西欧人の好きな「ブラボー、人生!!」とは程遠いところにある。
(ある意味、‘反社会(反近代)的’という烙印を押されても仕方ない気がするのだが、‘脱社会的(脱近代的)’というべきだろう。その昔‘ポストモダン’という言説が流行ったけれど、仏教こそが真の‘ポストモダン‘なのかもしれない。) 


 さて、スマナ長老の話は続く。 

仏道を実践すると、必ず本能の反撃があります。「貪・瞋・痴」の攻撃を受けます。
煩悩は、修行中に「妄想」として現象化します。
そうすると、修行を止めたくなります。
瞑想中に妄想が起きたときには、
① 座る場所を変える
② 修行の方法を変える(座る瞑想から立つ瞑想にする)
などの方法をとります。
日常生活では、
① 仏法を学ぶ
② 慈悲の瞑想を行なう
③ 社会奉仕をする
などして、煩悩に対する抵抗力をつけるのがポイント。
結果がでるまで、あきらめないでください。

 ――といった内容であった。

 今回、驚いたのは、最後の質疑応答で手を挙げた参加者の中に、16歳の男子高校生がいたことである。
 このような話をわざわざ平日(おそらく学校が終わってから)聞きに来て、大人たちで埋まっている会場の中で挙手するとは、たいしたものである。
「自分がこれから生きていくにあたって、これだけはしておいたほうがいいというものは何かありますか?」
というような質問内容だったと記憶する。
 彼のような子供は、教室で‘浮く’のだろうか。
 孤独を担わざるをえないのだろうか。
 この先社会で生きづらさを感じることになるのだろうか。
 それとも、意外にいまどきの‘マジョリティ’なのだろうか。 


 ともあれ、このような十代が存在するという発見が、「よし、おじさんも一つ頑張らねば」というやる気につながったのは事実である。
 2時間話したスマナ長老と同じだけの効果を、ほんの5分で成し遂げるとは!

 後世、畏るべし。 


Water lilies



● 講演:『なぜブッダを念じると幸福になるのか?』(演者・アルボムッレ・スマナサーラ)

 9月6日(土)中野ゼロで開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演に参加した。
 今回の講演はずいぶん刺激的で面白かった。
 歳をとると、どうしても講演の最中に眠くなる。いったん椅子に座ると日常の疲れが浮上してきて、それを癒そうとするモードに体は自動的に入る。また、昨今はパワーポイントとプロジェクターを使ったスクリーン映写講義がどこでも主流だが、それは人を眠くさせる。画面を見やすくするために会場をいくぶん暗くせざるを得ないし、スクリーンに映った文字を読むのに目が疲れる。結果、睡眠モードに突入する。
 案の定、講演の始まった最初の30分ほどは座席で目をつぶって、うつらうつらしていた。
 しかし、スマナ長老が「思考」の構造の説明に入ったあたりから、俄然、意識は覚醒し、集中力は高まり、目はランランとしてきた。

 まず、スマナ長老はこう断言する。 

「思考が人生を作り出します。」

 これは精神世界で人口に膾炙する黄金律の一つである。 
 有名なところでは、アメリカの作家ナポレオン・ヒル(1883- 1970)の『思考は現実化する』(Think and Grow Rich)が思い浮かぶ。「日常何をどう考えているのかが、その人の未来や運命を大きく左右する。だから、自らの思考に注意せよ」といったものである。
 さして、目新しい言説ではない。
 が、ナポレオン・ヒルは「願望実現」の秘訣という意味で、これを言ったのである。スマナ長老の(仏教の)意図するところは、これとはだいぶ異なることがおいおい明らかにされる。

 スマナ長老は仏教的な思考の構造の説明に入っていく。
 ここからが面白い。
 思考には三つの層があるという。

第一層  私たちが普段気づいている思考や感情(表面思考)
第二層  私たちがたまに気づく思考や感情。いわゆる「無意識」(背面思考)
第三層  その人が持って生まれた基礎となる思考や感情(基礎感情または潜在煩悩)


 これをコンピュータのプログラムに喩えると、
第一層  アプリケーションソフト(文書作成、表計算、IE、メールソフトなど)
第二層  基本ソフト(WINDOWS、MAC OSなど)
第三層  BIOS(バイオス)


 最も深いところにある潜在煩悩(第三層)は、その人のカルマを深いところで形成している、本人を含め周囲の誰からも気づかれることのない思考や感情の層であり、生まれ変わっても持ち続けるのだという。
 この潜在煩悩は、たまに目覚めることがあるが、そのときは相当危険なのだという。(トランスパーソナル心理学で言うところの「スピリチュアル・エマージェンシー」という概念に相当するのかもしれない。)
 たまに、「わけもなく人を殺したくなった」と言って実際に何の恨みも利害関係もない相手を殺害する人間が現れたり、「なぜあんな立派な人があのような卑劣な犯罪を犯したのか皆目見当もつかない」といった事件が世間を騒がしたりするが、それはこの潜在煩悩の覚醒によるものだという。それは当人の把握していないカルマが起こした事象なので、本人も周囲の人間も専門家も、この種の事件には納得のいく説明を与えることができない。また、潜在煩悩が覚醒する時を予測することは誰にもできない。
 この三つの思考の層は、独立しているのではなく、互いにフィードバックしている。
 表面の思考は、背面の思考(無意識)に影響を与え、背面の感情の変化は基礎感情(潜在煩悩)に影響を与える。背面で起こった感情は、表面の感情を刺激し、それに反応して表面の感情は新たな思考や妄想を作り出す。日常生活で我々が軽い気持ちで思考したことは、感情を刺激し、それが背面レベルに影響を与え、潜在レベルにもなんらかの形で蓄積される。
 一つの層で起こった思考や感情の波は、他の二つの層に伝わって、そこで何らかの変容を起こして、再び最初の層に還ってくる。
 思うに、その行ったり来たりの波及効果の積み重ねがある一定の傾向をつくって、その人の性格、人生、カルマを作っていくのであろう。

 興味深いのは、第二の層である背面思考いわゆる無意識がもっとも活発に働くのは夜寝ているときであり、それゆえに、それがどんな性質のものか本人が知ることができるのは、朝目覚めた瞬間だという。
 つまり、朝目覚めた刹那の感情や気分というものが、その人の背面思考(無意識)の質を表している。
 これを聞いて合点がいったのは、自分自身(ソルティ)、昔から朝目覚めた瞬間が一日のうちで最悪(最低)の気分であることが多いからである。二日酔いではない。なにか「非常にもの悲しい、ブルーな気分」に覆われて目が覚めることが多い。特に憂鬱の原因となるような具体的な悩みもストレスもないのに――である。
 この気分は、頭を枕につけた状態で5~10分くらいすると靄のように消えていくのが通常である。学校のこと、仕事のこと、今日やるべきこと、いま心を占めている事象(喜怒哀楽)が、ウワッと気団のごとく頭に(心に?)入り込んできて、最初のブルーな感情をどこかに追いやってしまうのである。そこから一日が始まる。
 あるいは、目覚めてから読経するのがここ数年の日課となっているのだが、それによってブルーな気分は払拭され、「過去のこと、先のことを思い煩うなかれ。目の前の一日をしっかりと生きればよい」と平常心を纏う。そこから一日が始まる。
 そうしてみると、自分の無意識(背面)、潜在煩悩(基礎)は、かなりリスキーな性質のものなのかもしれない。
 くわばら、くわばら。

 さて、スマナ長老は進める。 

「すべての生命は、貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)をさらに刺激する方法で思考します。すべての生命の本能は貪・瞋・痴です。」
 すなわち、我々の思考とは常に「煩悩」を増やすものでしかない。
 であれば、フィードバックシステムによって、表面の思考は他の二つの層にも影響を及ぼすのであるから、生命が生きること(=思考すること)は、「存在」をより悪い状況へ転化させることでしかない。  
「すべての生命はほうっておくと自動的に不幸になります。」
 ここが、ナポレオン・ヒルの思考論とは異なるところだ。「願望実現」という(世間的に見れば)ポジティブな思考でさえ、それが欲である以上、結局は不幸の引き金にすぎないと言うのである。
 

 仏教はそこにどう介入するか。
 答えは単純である。
 背面感情(無意識)、とくに基礎感情(潜在煩悩)には、我々は直接接触することができない。それらをコントロールすることも、変えることもできない。
 だが、第一層の表面思考(意識的な思考)は認識し、接触し、コントロールすることができる。我々が「なんとかできる」のはこの層に対してだけである。

意識的な感情(思考)を制御することが「鍵」です。
 第一層の汚れが取り除かれ澄んでくるにしたがい、フィードバックシステムによって、第二層、第三層の汚れも取り除かれ、次第に澄んでくる。無意識や、潜在煩悩の強い力によって、表面に現れる思考や行為がネガティブにコントロールされる危険も減ってくる。


 では、どのように意識的な思考(感情)を制御するか。


その1 サティ(念)の実践は究極の方法である。
 つまり、ヴィパッサナー瞑想を実践せよ。
 「思考」が現れた途端に、それに気づき、「欲なら欲」「怒りなら怒り」「嫉妬なら嫉妬」・・・と心の中で実況中継する。これをすることで、「思考」が身口意(行為・言葉・感情)に及ぼす破壊的な影響をダムのごとく抑えることができる。

その2 汚れた思考(貪・瞋・痴)をその都度正しい思考に置き換える。
 汚れた思考が起こってきたら――というより、ほとんどの思考は貪・瞋・痴であり、汚れているのだが――「思考」が起こってきたら、すぐにそれを強制終了させ、負の流れを生まないような「正しい思考」に置き換える。たとえば、
1.ブッダや阿羅漢など、聖者のことを念じる。 
2.ブッダの九徳を念じる。
3.仏法を学ぶ。
4.慈悲の瞑想を行なう。


 古来、いろいろな宗教や宗派において、祈りや念仏やお題目や真言やらの言葉を唱えることが推奨されてきた意味は、実はここにあるのかもしれない。
 すなわち、祈りや真言それ自体が持つ力によって「願いを叶える」とか「奇跡を起こす」というのは勘違いであって、大切なのは、すくなくともそれらを一所懸命唱えているあいだは、煩悩を増幅させる「思考」をストップさせることができる、ということなのかもしれない。
 もしそうだとしたら、煩悩が生じたときにすぐさま、数学の問題を解くのもあり?


 ちなみに、「ブッダの九徳」とは以下の通り。
 
世尊は、
①阿羅漢であり、
②正自覚者であり、
③明行具足者であり、
④善逝であり、
⑤世間解であり、
⑥無上の調御丈夫であり、
⑦天人師であり、
⑧覚者であり、
⑨世尊である。
ブッダに、私は生涯帰依したてまつる。

サードゥ、サードゥ、サードゥ
 



● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

● 「無い幸福」より「有る不幸」 B.E.2557年釈尊祝祭日ウェーサーカ法要に行く

KC3Z0001 5月12日(土)渋谷区立文化総合センター大和田さくらホールにて。

 この施設は渋谷駅から徒歩5分。天文台のドームの目立つ新しい建物である。さくらホールの収容人数は729名。6割方埋まっていたから450名ほどの参加か。

 ウェーサーカはお釈迦様の「誕生」「成道(悟達)」「般涅槃(死)」の3つのできごとを一度にお祝いする記念日で、5月の満月の日に行われる。(満月は25日)
 日本テーラーワーダ仏教協会が主催する年に一度のこのイベントが、自分にとって一年でもっとも重要な日になりつつある。出席するため、職場にしっかりと希望休を出しておいた。
 と言って、ブッダの誕生日や悟った日や亡くなった日を記念する意図は自分にはない。
 誕生日も含めて何かの記念日というのは基本的にナンセンスだと思っている。季節はめぐり暦は一年で一周するので、我々は時間が循環するものとどこかで思っている。だから、誕生日とか「○○の日」などというものをお祝いするのである。
 だが、時間は循環などしない。一方向に流れていくだけだ。同じ日など一日たりともない。昨年の5月12日と今年の5月12日には何の関係もない。月や星の位置関係ですらまったく同じと言うことはありえない。昨年庭に咲いたポピーと今年のポピーはまったく別物である。年齢という概念ですら本当は意味のないものだ。人の成長の度合いは個々人によって違うのだから。

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 自分がウェーサーカを大切にするのは、修行のための動機付けになるからである。たまに人為的にでもこういった区切りを設定して、スマナサーラ長老の話を聞き、渇を入れてもらわないことには、怠け心を払拭できないからである。

 最近、仕事のハードさを言い訳として、酒は飲むわ、瞑想はさぼるわ、と自分を甘やかしている。瞑想してもサティ(念)が続かず、知らぬ間に妄想に入り込んでいることが多い。
 現在進行中の片思いのせいもある。実際、恋愛ほど妄想の膨らむものはない。妄想から成り立っていると言っても過言ではない。相手が自分に示したささいな言動をもとに、それを客観的な事実として冷静に捉えるかわりに、自分にとって都合のよい物語をまたたく間に作り上げてしまう。満たされない思いは「苦」であるが、それすらも「喜」と感じてしまうほど、頭はバカになる。
 その意味で、恋愛ほど妄想の性質、自我の罠を観察(ヴィパッサナー)できる絶好の機会はない。それをネタに瞑想しようとチャレンジするのだが、やっぱりいつでも負けてしまう。相手の魅力がそれほど強いのだ。(ってバカじゃん)

 そんなたるみがちな自分を見通すかのように、今日のスマナ長老の話は、「釈尊の教えの基本」という、瞑想を習った頃の初心に自分を帰らせ、「お前少し頭冷やせよ」とのぼせや浮つきを取り除くような、心に今一度仏教という確固たる杭を打たれたかのような、力強く破壊的で叡智に満ちたものであった。
 そうだ。これが「本当の」仏教だった・・・・。


●講演の骨子
釈尊の教えの基本 ~信仰のかわりに確信~
1.生きることは苦である。
2.私たちは自分自身が作った鎖(煩悩)で束縛されて、自由はない。
3.私たちは幸福を目指して不幸の方へと進む。
4.他に頼って、助けられること、救われることを望んでいる。
5.自分が作った束縛を絶つことで自由を得る。智慧が生じる。
6.智慧こそが唯一の財産である。
7.智慧によって執着をなくすことにより、究極の幸福に達する。
8.究極の幸福は、「あの世」でなく「今」この世で体験するもの。 


130512_1557~01 一番最初の「生きることは苦」という仏教の根本命題を、我々はなかなか理解できない。理解したがらない。「だって楽しいこと、嬉しいこともあるじゃん」と思う。「生=苦」と認めてしまうと、よけい生きるのがつらくなるだけだと思う。希望がないと思う。鬱にでもなりかねないと思う。
 だから、なかなかその先に行けない。
 生まれつきハンディキャップをもっているとか、事故にあってカタワになったとか、愛する家族を誰かに皆殺しにされたとか、そんな心理療法や趣味娯楽では変えることのできない、時間が癒やすことのできない重荷を背負った人なら、「生きることは苦」はかえって受け入れやすいかもしれない。仏道へ入りやすいかもしれない。
 だが、若くて健康でエネルギーが有り余っていて、家族や友人にも恵まれ、将来が輝いて見える時に、「生きることは苦」は歯牙にもかからない空言だ。
 自分も若い頃はそうであった。20代の時、ブッダがどういうことを言っているか知ろうと思い、岩波文庫の『ブッダのことば』を手に取ったが、とても最後まで読めなかった。究極の悲観主義だと思った。「昔のインド人は本当に苦しみばかりの人生だったのだなあ」と思った。
 今はどうか。青春もとうに過ぎて、体のあちこちにガタが来て次第に老いが見えてきた現在、そして数々の希望がくじかれ、夢が破れ、活力も損なわれつつある現在、「生きることは苦」はずいぶんと受け入れやすい。
 老人ホームで働くようになって、一層その言葉は身に沁みる。これまでどんな境遇にあろうが、金持ちだろうが、地位が高かろうが、かつては美しかろうが、子供や孫に恵まれていようが、その生涯が様々な素晴らしい思い出に彩られていようが、今現在、日々心身を責めさいなむ「老い」と「病」と、遠からずやってくる「死」とに、誰もが囚われている。どんなに楽しい思い出も、誉れ高い業績も、認知症になれば意味はない。

 「生きることが苦」という事実は、もっと簡単に確認できる。
 我々は、「楽」をなくすには何もしなくてもよい。ベッドで寝ているのは楽だ。だが、そのまま寝続ければ、体は痛んでくる、心は退屈してくる。何もしなくても楽は消えていく。
 一方、「苦」をなくすには何かしなければならない。寝ているのが苦痛になったら、起きあがらなくてはならない。腹が痛くて苦しいのなら、薬を飲まなければならない。
 つまり、人間の基本設計は、常に「苦」を感じるようにできているということだ。「苦」にせっつかれて我々は「何か」をし続ける。それが生きるということなのである。
 であるから、スマナ長老が言うように、幸福の定義は「楽がたくさんあること」ではない。楽は必ず苦に転じるからだ。「何かを得ること」でもない。得た物は必ず失われるからだ。
 

幸福を正しく定義するなら、「苦しみがない状態」ということになります。 

 
 世間には、「有る幸福」と「有る不幸」、「無い幸福」と「無い不幸」の4つがある。
 人が一番求めるのは「有る幸福」である。何もかも手に入れた成功者を羨むのはそのためだ。一方、人が一番忌み嫌うのは「無い不幸」である。ホームレスが社会で一番貶められるのはそのためだ。
 「有る不幸」は、「不幸」という点では「無い不幸」とまったく変わりはないのであるが、どういうわけか人は「無い不幸」より「有る不幸」を選ぶ。「有る」=所有する、ということはそれだけ魅力的なのであろう。少なくとも他人と比較して優越感に浸ることができる。我々は「有ること=幸福」という観念――それは多分長い原始時代に培われたのだろう――に強く洗脳されている。だから、反射的に「無い=不幸」と思ってしまうのである。
 人が最も理解できないもの、到達しがたいものが「無い幸福」である。
 多くの人は、そんなもの負け犬の遠吠えくらいにしか思っていない。
 それがどんな状態か想像することすらできないので、「無い幸福」を選ぶくらいなら、むしろ「有る不幸」を進んで選ぶのが世間一般である。アル中でDVの夫と別れられない妻なんてその典型だ。
 「無い不幸」と「無い幸福」は、実は表裏一体である。外側から見た状況は、ほとんど一緒であろう。ホームレスは和訳すれば「出家」である。清貧をこよなく愛した聖フランチェスコと、隅田川周辺のブルーテントの住人は同じくらい「何も持っていない」。(実際にはブルーテント派の方がいろいろ所有している。)

 仏教は「無い幸福」を目指す道なのだと思う。

 しかるに、この恋は捨てがたい。
 どういった因縁が陰で働いているものやら。
 お釈迦様、どうか因縁を見極めるための執行猶予をください。(笑)



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