ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

仏教

● 阿含経典を読む 9 スバッダの暴言


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増谷文雄 編訳 『阿含経典』(ちくま学芸文庫)


 お釈迦様が亡くなられた。

 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。
 「諸行無常である。生きる者の死なないことがあろうか」と。

 同じ頃、お釈迦様の十大弟子の一人であるマハー・カッサパは、500人の比丘を引き連れて、クシナーラに向かっていた。お釈迦様の後を追って遊行していたのである。
 一行が樹の根方で休んでいると、クシナーラからやって来た一人の男が告げる。
 「お釈迦様は7日前に亡くなられました」
 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。

 ――と、そのときである。
 一人の年老いた比丘が、号泣している比丘たちに向かって、こう言い放った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。われらは、かの大沙門からまったく脱れたのである。<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられたが、いまや、われらは、欲することなし、欲せざることをなさないでよいのである」
 
 この男こそ、スバッダである。
 
 お釈迦様の最期を語る崇高にして美しい物語の中にあって、このスバッダの暴言は悪目立ちしている。あたかも、清らかな流れに一杯の墨を投じたみたいに。
 それゆえ、かえって興味が引かれるのである。
 年老いた比丘なら、悲嘆にくれて正気を失っている若い比丘たちを諭したり、慰めたりしそうなものだが、逆に周囲を不快にし、場を凍り付かせるような、とんでもないことを言う。
 
 一つには、スバッダが長いこと世俗で暮らしてきて、年老いてから出家した男だからである。
 まだ修行も浅く、智慧も浅く、貪瞋痴(欲と怒りと無知)に覆われているのである。お釈迦様に憧れて出家してはみたものの、あまりのサンガの律(規則)の厳しさに、「こんなはずじゃなかった」と後悔している最中だったのかもしれない。とくに、彼のメンター(師)たるカッサパは、教団の中でもっとも厳しく律を守る人であったから、普段からあれこれ細かい注意を受けていた可能性がある。

 あるいは、スバッダは今でいうアスペルガーだったのかもしれない。
 つまり、「空気を読めない」、「他人の気持ちを推測するのが苦手」、「思ったことをすぐに口にしてしまう」、「パニックを起こしやすい」といった特徴があり、集団生活になじまないタイプである。これは脳の構造という先天的なものらしいから、当人を責めるのは酷である。
 
 スバッダの暴言を耳にしたカッサパは、さすがに阿羅漢であった。
 アスペルガー症候群なんてものは当然知らなかったが、スバッダを責めたり叱ったりすることなく(少なくともその場では)、嘆き悲しんでいる比丘たちに向かってこう言った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。友よ、世尊はかつて、こう説かれたではないか。<すべてのいとしみ愛する者といえども、生きて別れ、死して別れ、死してののちはその境界を異にする>と。友よ、かの生じ、生成し、造られ、そして壊するものにして、それが壊することなしなどという道理が、どうしてありえようか」


クロアゲハと彼岸花


 それにしても不思議に思うのは、スバッダの言葉の中味である。
 「<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられた」
 つまり厳しい規則によって、束縛され、抑圧され、管理されてきたことの愚痴を言っている。 
 思わずソルティは突っ込みを入れたくなる。
 「それが嫌なら、なんで出家したの? なんで還俗しないの?」

 別に誰から頼まれて出家したわけでもなかろうに・・・。
 親のあとを継いで檀家寺を守らなければならないとか、現在のタイ国のように一生に一度の出家が義務付けられているというわけではあるまい。
 たとえ、認識が甘く覚悟が足りないまま、いきおいで出家してしまったとしても、やってみて自分に合わないと思ったなら、還俗すればいいだけの話ではないか。我慢してまでサンガに居続ける義務などなかろうに。
 これが会社なら話は別である。給料をもらうため、生活のため、家族を養うため、ちょっとくらい嫌なことがあっても、口うるさい上司や厳しい規則があっても、我慢しなければなるまい。であればこそ、横暴なカリスマ社長が亡くなったら、葬儀の席で“心の中で”呟くことも許される。
 「これで、あの鬼社長から解放された。これからはもっと自由な社風になるだろう」
 
 スバッダの「われら」という言葉から推測するに、どうやら比丘衆の中にスバッダと同じような考えの持ち主が他にもいたんじゃなかろうか。
 カッサパの目の届かないところで、タバコを吸いながら愚痴をこぼし合っている風景が目に浮かぶ。
 「なんだよ、あの規則、意味ねえじゃん」
 「だよなー。便所のあと手を洗おうが洗うまいが、人の勝手だよ」
 「うざいんだよ、あのジジイ。いつも俺たちを見張っていやがる」
 「大方、こっちを支配したいだけなんじゃねえの?」
 (注:「トイレのあと手を洗え」という規則は仏教の「律」にはありません。たぶん・・・・)
 
 このときには、お釈迦様の名声はインドじゅうに広く知れ渡り、各地の領主から篤い尊敬と保護を受け、次々と土地や食べ物や衣類などのお布施が集まり、謁見や出家を願う者が次々と訪れ、組織は巨大化していたであろうことは想像に難くない。
 巨大組織の常で、そこは出家と言えども玉石混交、さまざまなタイプの、さまざまな癖のある、さまざまな機根(悟る潜在力)をもつ、さまざまな思いを抱えた比丘たちがいたであろう。人間関係も複雑になる一方だったに違いない。
 実際、お釈迦様は亡くなる前に侍者のアーナンダに対し、チャンダという名前の比丘の処遇について遺言を残している。チャンダは「暴戻にして非道」で、周りの人間を困らせていたらしい。お釈迦様は彼に梵壇罰を与えた。これは簡単に言うと、「誰も彼とは口をきいてはならない」という罰である。

 各人の出家の理由も、初期のように「悟りや解脱を求めて」、「なにかしら善を求めて」、「どうしようもない苦から逃れるため」といったものだけでなく、より俗っぽいものが混じってきていたのではかなろうか。
 たとえば、「釈尊メンバーとしてのステイタスが得られる」、「お布施をもらいやすいから生活に困らない」、「仲間がいるので孤独が癒される」、「世俗で働くのが嫌」、「結婚を強制するうるさい親族から逃れるため」、「集団の中でパワーゲームに興じられる(人を支配できる)」、「若い比丘たちが老後の面倒を見てくれる」、「罪を犯し村八分になった者の逃げ道として」、「厳しいカースト差別から逃れるため」等々。
 スバッダのような老人は、特に生活と老後不安の点で、出家生活に期するところがあったのかもしれない。
 
 いたずらな想像ついでに。
 あるいは、スバッダは周囲の比丘の苦しみを和らげようと思い、ジョークを言っただけなのかもしれない。悲しみに閉ざされる心を解きほぐそうと試みたのかもしれない。
 ところが、そのジョークは見事はずした。
 だれも笑ってくれなかった。
 まさに親父ギャグ。
 そのうえ悪いことに、冗談やユーモアを解することのまずなさそうな、真面目でお堅いカッサパの耳に入ってしまった。
 この場合、スバッダでなくて、スベッタということになる(――まさに親父ギャグ)。
 
 あれから2500年経った現在からみると、このスバッダの暴言こそが、カッサパをして、「お釈迦様が説かれた法と定められた律をちゃんと形にして残そう」と思わせしめ、その後の五百人結集につながったのである。いま我々が学んでいるお経が口伝として残り、仏教が生まれるきっかけとなったのである。

 そう考えると、スバッダとその暴言にたいして、仏教を愛する者は感謝しなければなるまい。



金閣寺




 
 
 
 

● 阿含経典を読む 8 アーナンダの過失

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)は、ブッダが亡くなる最後の旅の様子を描いたお経である。


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増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)

 
 編者の増谷文雄の研究によると、この経は適切に分断すると、その各部のほとんどを『阿含経典』の他の箇所や律蔵の中に見つけることができるそうだ。
 つまり、ブッダ入滅後の阿羅漢たちによる結集で確認され暗唱されたお経ではなく、その後だいぶ経ってから、編集の趣味ある一比丘なり在家信者なりが、「偉大なるブッダの最後を物語として残そう」と、既存のお経や律などをつぎはぎして、新たに創った作品ということになる。
 おそらく、まったくゼロから作ったわけではなく、ブッダの最後の旅の行程を伝える簡素なお経――結集時から伝えられたもの――はあったのだろう。そこに肉付けして、一つの感動的なストーリーに仕立て上げたのではあるまいか。
 いつの世にも、こういった戯作者まがいはいるものである。
 
 「戯作者まがい」と言うのは、この編集者は結構抜けているのである。
 ブッダより前に亡くなっているはずのサーリプッタ長老を出演させたり(ここからもこれが結集時の作でないことは明らか)、聖人ブッダらしくないエピソードを盛り込んだりしているからだ。
 
 ソルティはとくに、この経の第3章を奇異に感じて仕方ない。
 以下のような筋立てになっている。
 登場人物は、ブッダと侍者のアーナンダと悪魔、それに最後の場面で他の比丘たちである。
  1.  ブッダがアーナンダを相手に、ヴェ―サリーやその他の霊地の楽しさを称える。
  2.  余命を悟ったブッダはアーナンダに向かって、「自分は神通力により、望めばいくらでも長生きすることができる」と言うも、アーナンダはその言葉を無視する。
  3.  アーナンダが去った後、悪魔が現れ、「今こそ涅槃すべき時」とブッダに死をすすめる。ブッダは3か月後の死を決意する。すると、大地震が起こる。
  4.  地震に驚いたアーナンダがブッダのもとに駆け付け、地震の意味を問う。ブッダは「地震の8つの原因」を説く。
  5.  ついでに、「8つの衆」、「8つの勝れた認識(勝処)」、「8つの解脱」について説く。
  6.  ブッダが、最前の悪魔との対話についてアーナンダに伝える。驚いたアーナンダは、ブッダに延命を乞い願う。が、ブッダはアーナンダの願いを却下し、「自分が死を決意したのは、さっきおまえが引き止めなかったせいだ」とアーナンダを非難する。
  7.  一転して、アーナンダに「すべての者は死ぬさだめにある」と諄々と説き、延命があり得ないことを説く。比丘たちを集め、37道品(悟りに至る37の修行法)を説き、自分が3か月後に涅槃することを告げる。

 1~7のそれぞれについて、奇異に感じる点をあげる。
  1.  この世の楽しさを讃えるようなブッダのセリフ。一切行苦ではなかったか?
  2.  神通力でいつまでも長生きできるというセリフ。諸行無常ではなかったか?
  3.  悪魔の存在は、ブッダの心の中の誘惑の声の比喩とみなしてもよかろう。聖者が自ら死ぬ時を知るのもよく聞くところである。地震の発生は、偶然でなければ比喩的表現か。
  4.  地震の8つの原因は非科学的でナンセンスである。
  5.  8つの衆、8つの勝れた認識、8つの解脱の説法は、あまり意義あるものとは思えない。『大般涅槃経』の他の章にある説法――たとえば、有名な「自灯明、法灯明」や「法の鏡」や「サンガの不退法」など――にくらべると、歯が浮くような、とってつけた感がある。戯作者により創作されたものとしても、出来が悪い。
  6.  ここがとくに理解に苦しむ。「お前が望まなかったから、私は死ぬのだ」と、自らの寿命の決定をアーナンダのせいにしている。しかも、「あそこでもそうだった、かしこでもそうだった・・・・」と、過去のことを持ち出して、しつこく何回もアーナンダを責め続ける。一体、なにこれ? パワハラ?
  7.  急にまともに戻る。「すべての生じたものは滅する」と説き、比丘たちに向かう。 

 まるで、死を前にした80歳のブッダが認知症になったか、あるいは精神不安に陥ったかのような聖人らしからぬエピソードである。
 もっとも、世間の尊敬を集めるカリスマ的リーダーが、家族など最も身近な人間に対しては極めて尊大でワガママ、というケースは結構ある。死を前にした人間が、人格障害のような精神不安に陥るケースもよくある(エリザベス・キューブラ・ロスを思い出す)。
 よもや、ここでブッダの人間らしさを表現しているのだろうか?

 続く第4章で、ブッダは鍛冶屋のチュンダの用意した食事を食べたあと体調を悪化させる。
 ブッダは、チュンダがあとから「ブッダの死の因を作ってしまった」と自身を責めなくてすむように、また比丘や信者たちから責められないように、アーナンダに前もって注意を残しておく。
 こんな細やかな慈悲深い配慮のできる人が、延命を乞わなかったことでアーナンダを責め立てるだろうか? 二千年後にも残るような激しい言葉で。
 ソルティにはとても信じられない。信じたくない。

 同じアーナンダを諫めるのであれば、次のような流れこそブッダにふさわしかろう。
  1.  ブッダは自らの死期を悟り、アーナンダに「3か月後」と告げる。
  2.  驚いたアーナンダは号泣しつつ、「神通力を使って、少しでも長生きしてください」と何度も願う。
  3.  ブッダはそれに対し、「一緒に長くいながら何を学んできたのだ。諸行無常、諸法無我と幾たびも教えたではないか!」と叱責する。

 このような過失こそ、愛すべきアーナンダにふさわしかろう。


室戸岬の涅槃像
豪華共演:涅槃するお釈迦さまとそれを守る弘法大師
(高知県室戸岬にて)







● 本:『ブッダは実在しない』(島田裕巳著)

2015年角川新書
 
 ブッダは実在しない。
 簡単に言えば、結論はそういうことだ。 
 ブッダは実在の人物ではなく、一つの観念であり、その観念から人物としてのブッダが生み出されていった。
 そして、実在の証としてブッダの遺骨とされるもの、仏舎利を祀る仏塔が建てられ、それを核として仏教という宗教が生み出されていった。
 
 ――という衝撃的結論を掲げる本書が、日本のお寺関係者や仏教研究者たち、あるいは一般信徒や一般読者の間でどのような反響をもたらしたのか、ソルティは寡聞にして知らない。サンガ新書発行のその名もずばり、『ブッダは実在しないのか?』(2016年発行)という本の中で、島田裕巳と浄土真宗住職でテーラワーダ仏教を信奉する藤本晃とが対談しているようだが、未読である。読んだ人の感想をうかがうに、突っ込んだ議論には至らなかったらしい。
 なんとなく、この「ブッダ非実在論」は島田の言いっ放しのまま、各方面から放置されているような感を受ける。
 気のせいだろうか?

ブッダは実在しない

 
 本書において、島田が、「ブッダすなわちゴータマ・シッダールタが実在しなかった」と唱える根拠は、ソルティの解するところ、以下のとおりである。
  1.  仏教の初期の段階では、ブッダの生涯が一人の人物の一貫したものとして語られていない。
  2.  ブッダが実在したことを証明する同時代の資料がまったく存在しない。
  3.  ブッダの直説に近いとされる初期の経典『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)の内容は、あまりに単純であっけなく、仏教の基本教義とされる「八正道」や「十二縁起」の教えなども含まれておらず、世界宗教につながるような要素が見出せない。
  4.  初期の経典においては、ブッダ(悟りを求めて修行する人、の意としている)という言葉は複数形で使われており、必ずしも一人の人間に限定されるものではない。
  5.  インドに仏像が誕生するのはブッダが亡くなって600年以上経ってから。こんなタイムラグが生じたのは、仏像のモデルとなるブッダの存在が曖昧だったから。
  6.  紀元前にインドで建てられた仏塔を飾るレリーフの「仏伝図」をみると、描かれているのは、「出家」、「成道」、「涅槃」などの個々のエピソードであり、同一人物の人生上の出来事を表現したものとして物語化されていない。
 以上から、島田は次のように断定する。
 
 つまり、もともとブッダという人物が実在していたわけではなく、長い時間をかけて、一人の人物が作り上げられてきたことになる。そう考えなければ、ブッダということばが最初に複数形で用いられたことも、仏伝図が一人の人物の生涯としてまとめあげられていなかったことも説明できないのだ。

仏伝図
仏伝図レリーフ


 ソルティは学者でも研究者でも僧侶でもないので、島田の説に反論することはできない。上記の6つの論拠一つ一つについて、具体的な資料をもって反証する能力はないし、それをするつもりもない。
 ただ、ブッダは2500年以上前の人物(イエス・キリストより500年以上昔)で、当時のインドには記録を文字として残すという習慣がなかったのだから、2の論拠については致し方ないところである。実在したことの証明にも、実在しなかったことの証明にもならないであろう。

 ブッダの実在性について疑問を持ち研究すること自体、何ら問題はない。あたりまえと思われていることに懐疑の目を向け、真相を確かめようとする研究姿勢は学者として立派である。
 また、各経典の成立時期や内容・形式から、仏教の中心教義の成立過程を調べる作業も有益であるに違いない。
 ソルティはいまテーラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)の聖典である『阿含経典』を読んでいる最中だが、すべてのお経がブッダの直説あるいはブッダオリジナルの思想であるとはまったく思っていない。なにしろ、ブッダ入滅後の数度の結集において弟子たちが記憶・暗唱するには、あまりに膨大な量であるから。
 また、現時点で最も古い経典と学界でみなされている『スッタニパータ』と、仏教の中心教義(十二因縁・五蘊・六処・四諦・三相・八正道)が体系的に説かれている『相応部経典』の内容や形式は、同じ『阿含経典』の中にあっても、かなり印象が異なる。それこそ、二人のブッダを想定したくなるくらいに・・・。
 確かに、この違いにはなんらかの筋の通った説明が必要かもしれない。(たとえば、『スッタニパータ』はゴータマ・シッダールタの直説であるが、『相応部経典』は弟子の阿羅漢たちが直説をもとに理論構築したとか・・・)
 
 島田でもほかの誰でも、「ブッダは実在するか?」と問いを立て、自分なりに調ベ上げて、説得力ある論拠と共に「非実在説」を立てることに何の問題もない。
 ただ、新奇な説を唱えるには――それがラジカルなものであればあるほど――丁寧かつ揺るぎない論証が必要とされるであろうに、ここでの論旨はかなり杜撰に思える。
 一例であるが、5の「仏像が作られるようになるまでのタイムラグ」について、それならば当時のインドにおける仏教以外の他の宗教(たとえばバラモン教)の神像の制作事情がどうであったか、が問われなければならないだろう。そこにはまったく触れられていない。
 門外漢のソルティが言うのもなんだが、

ヴェーダ時代(紀元前1500~紀元前500年頃まで)は、インドの文化や思想形成のうえで重要な時期であった。しかし、ヴェーダの宗教においては、前述のような祭祀が重視され、哲学的思索が発達した一方で、神像、神殿のような造形作品はその需要がなく、この時代はインド美術史における空白時代となっている。(ウィキペディア「インドの美術」より抜粋)

 仏像に限らず、偶像崇拝自体がなかったのではあるまいか。


鋸山の仏像
釈迦と弟子たち(千葉県鋸山の日本寺


 さらに、島田の困ったところは、仮説からいきなり断定に走り、断定が暴論を生んでいる点である。
 
ブッダが実在しなければ、ブッダが説いた教えというものも存在しない。教えが存在しないのであれば、仏教という宗教自体が存立し得ない。すべてが後世に作られたものであれば、仏教の教えとされるものの価値や根拠はどこにも見出せなくなってしまう。
 
 言葉の用法にもっと気をつかってほしいところであるが、上記の「ブッダ」は仏教の祖とされるゴータマ・シッダールタ個人のことである。彼が実在しなかったのであれば仏教には価値がない、と言っている。
 しかし、島田自身が「ブッダ」は複数の人物であった可能性があると述べているではないか。複数の優れた「ブッダ」による教えが仏教として残ることに、それが時を経るにつれ仏法としてまとめ上げられることに、なんの問題があるのだろう?(ソルティ自身は、ゴータマ・シッダールタは実在したカリスマ的教祖と思っている)
 それに、「後世に作られたものであれば、価値や根拠は見出せない」と言うのであれば、島田が「魅力的」と述べている大乗仏教の教えは、まさに価値も根拠も根こそぎ剥ぎ落とされてしまうのではないか?
 
 大乗仏教においては、空や唯識といったことが説かれ、あらゆる存在に仏性が備わっているという主張もなされた。あるいは、称名念仏による西方極楽浄土への往生といったことも、誰もが実践できる信仰として説かれるに至った。
 そうした大乗仏教の教えに比べると、原始仏教の思想は、極めてシンプルなものに感じられるかもしれないが、内容は曖昧で、何より実践性に乏しい。空の思想のように、それに接する人間に衝撃を与えるものにはなっていないのだ。
 
 島田はほんとうに原始仏教を知っているのであろうか、という疑問が浮かび上がらざるをえない。
 どう見たって、「内容が曖昧で、実践性に乏しい」のは大乗仏教(と一括りにするのも乱暴であるが)のほうである。
 原始仏教にはアビダンマという、それこそ重箱の隅をつつくような緻密にして周到な論理体系がある。曖昧には程遠い。
 また、八正道や種々の瞑想法という具体的な実践が懇切丁寧に経典に説かれている。タイやミャンマーやスリランカの坊さんたちが、一体何をしていると言うのだろう?
 人類に与える衝撃の度合いについては何をかいわんや!
 
 どうも島田の本心は、仏説に近いとされる原始仏教を矮小化することにあるように見受けられる。
 原始仏教を矮小化し、大乗仏教を持ち上げ、中でも神秘主義的側面の濃い密教を肯定し、つまるところ何がしたいのだろう?
 
 このように、仏教は絶えず発展し、変化をとげていく宗教であり、原点に回帰するという方向性をもたない。原点が明確でない以上、キリスト教のように、正統と異端というとらえ方も成り立たない。仏教は融通無碍で、無限の自由を有しているとも言えるし、逆にとりとめがなく、無節操であるとも言えるのである。
 
 「異端で、無節操」な仏教風宗派があってもいいじゃないか!
 そう言いたいのではあるまいか?
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 阿含経典を読む 7 悟りの方程式

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)も3巻目に入った。
 前2巻で採録された「相応部経典」から離れて、「中部経典」、「長部経典」、お釈迦様の最期の日々を伝える「大般涅槃経」、お経誕生の経緯を記した「五百人の結集」などが取り上げられている。


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 しょっぱなに登場する「数学者モッガラーナの問い」(中部経典107)が興味深い。

 数学者モッガラーナの問い、「法と律とにおいて、順序をふんで学ぶべきこと、順序をふんでなすべきこと、順序をふんで行くべき道はあるか」に対し、お釈迦様が答えたお経である。
 すなわち、仏教において、悟りあるいは解脱にいたるための段取りが記されている。

 お釈迦様は次のような順序を語る。
  1.  すべからく戒を具する者となれ
  2.  すべからく諸根(6つの感覚器官)の門を守るがよい
  3.  食において量を知るがよい
  4.  行住坐臥のつつしみを修することに専念するがよい
  5.  すべからく正念(ただしい気づき)と正知(ただしい智慧)を身につけるがよい
  6.  ただ一人して住すべき人里はなれた空閑処をえらび、結跏趺坐し、身を正して、正念が目のあたりに現前するがごとくにして坐するがよい
  7.  五蓋(貪欲・瞋恚・惛眠・掉悔・疑惑)を除き、心を清浄にするがよい
  8.  さすれば、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に至る
 相手が数学者だけに、お釈迦様もあたかも方程式を解くように、理路整然と語られたのだろう。
 
 上記7にある五蓋(ごがい)とは、禅定をつくることを妨げる五つの心のはたらきのこと。
 テーラワーダ仏教の比丘であるスマナサーラ長老と、浄土真宗誓教寺住職・藤本晃共著による『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』を参考に、簡潔に定義すると、
  • 貪欲(どんよく) ・・・・色声香味触の刺激を受けたい気持ち
  • 瞋恚(しんに)    ・・・・怒り
  • 惛眠(こんみん) ・・・・心が小さく縮こまること、眠くなること
  • 掉悔(じょうご) ・・・・混乱すること、後悔すること
  • 疑惑(ぎわく)  ・・・・ブッダの教えを試そうともせず、ただ嫌がって拒否すること

 ソルティは五蓋のうち、とくに惛眠につけこまれやすい。
 いや、日本人は意外とその傾向が強いのか、たまに瞑想会などに参加すると、みな瞑想の合間にコーヒーばかり飲んでいて、指導してくれる外国のお坊さまをあきれさせたりする。
 電車の中の居眠りも日本人の得技で、外国ではなかなか見られない光景という。

車内睡眠

 
 また、掉悔(じょうご)について言えば、仏教では後悔はNGである。
 
 仏教では後悔は罪だと思っています。「後悔する人は罪を犯している」と考えます。「悔い改める」という言葉がありますが、天国に行きたければ、「悔やんで改める」のではなく、ただ「改める」だけにした方がいいのです。
 
 瞑想するときも開き直った方がいいのです。今までどんな悪いことをしていても、そんなものはどうでもいい、と開き直って明るい心で始めるしかないのです。後悔すると、過去の失敗や罪を思い出すと、心が暗くなってエネルギーが消えます。それで超越的な知識が生まれなくなります。

(『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』、サンガ文庫)
 
 何十人をも殺害した凶賊アングリマーラでさえ、お釈迦様と出会って改心し、修行して、阿羅漢となれた。
 仏教の楽天性、ここに極まれり。




● 阿含経典を読む 6 老いの用心

 人生100年と言われる時代、50代半ばで老後のことを考えるのは「早い!」
 ――という意見もあろうが、体力や気力や精力の衰えは否定しがたく、老いとその先にある死について考える夜もある。
 自分がここ数年、老人介護の世界に関わって、さまざまな老いと死を見ているせいもある。
 このたびのコロナ騒動で、仕事柄、自らの感染と死をある程度は覚悟しなければならなかったせいもある。
 
 日本人の平均寿命が長くなったからこそ、老後問題が浮上したとも言える。
 一昔前なら、いまのソルティの歳で定年を迎え、孫の面倒を見ながら数年の老後を過ごし、七十を迎える前にはあの世に逝っていった。
 ソルティが小学生の頃、近所にひい祖母ちゃんはいても、ひい爺ちゃんはいなかった。
 
 老後の不安を軽減するには、貯金や年金の確保、子供や孫と良い関係を作っておく、親戚や近所との普段からのつき合い、地域コミュニティに顔を出しておく、良いケアマネを見つけておく、足腰を鍛えて健康管理する、ボケないように頭や手先を使う作業をする・・・・など、いろいろな用心がある。
 だが、より重要なのは心の問題だろう。
 淋しさや孤独、人生についての後悔や不全感、退屈や虚しさ、生きがいや自己価値の喪失、ボケることの恐怖、下の世話や着替えを他人に手伝ってもらわなければならない屈辱、死の恐怖・・・こういったものと向き合わなければならない。
 
 経典によると、天神ですらも、老いが心配だったらしい。
  

 その時、一人の天神があり、夜もすでにふけたころ、その勝れた光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐したその天神は、世尊の御前にあって、偈を説いていった。
 
 われら老いる時なにものか善き
 なにものかわれらの安らぎのところぞ
 われらにとりて貴重なる宝はなんぞ
 なにものか盗人に奪われざるものぞ
 
 その時、世尊もまた、偈を説いて仰せられた。
 
 戒はわれらの老ゆるとき善く
 信はわれらの安らぎのところ
 智慧はわれらが貴重なる宝
 功徳は盗人によりて奪われることなし

(増谷文雄編著、ちくま学芸文庫『阿含経典2』、諸天相応「老い」より)
  
  この言葉に天神は歓喜し、満足して消え去ったという。

神様



 さて、前回のガータクイズの答え。

 

世尊は仰せられた。
おのれ ) にもひとしき可愛きものなく
( 穀物  ) にもひとしき財宝はなく
( 智慧  ) にもひとしき光明はなく
(  ) こそは最高の湖なり
  
 ちなみに、ソルティの答え。
  ( 自分 ) にもひとしき可愛きものなく
  ( 健康  ) にもひとしき財宝はなく
  ( 真理 ) にもひとしき光明はなく
  ( 秘湯 ) こそは最高の湖なり
 

秘湯
栃木県奥鬼怒の八丁湯








 

● 阿含経典を読む 5 ガータクイズ

 お経の中の韻文、すなわち詩のような部分を偈(げ、 ガータ)と言う。

 お経には、全編が散文でできているものもあれば、全編が韻文(偈)でできているものもある。
 両者が混じっているものもある。

 おおむね、十二縁起五蘊六処四諦といった、お釈迦様の思想体系(=仏教の中核テーマ)に関わるものは散文形式のものが多く、お釈迦様の伝記に関することやエピソード風のものは「散文+韻文」形式のものが多いようだ。
 なので、純粋に読み物として面白いのは、後者である。

 ちくま学芸文庫『阿含経典』(増谷文雄編訳)第2巻では、「詩のある経典群」を取り上げている。


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 お釈迦様 v.s. 様々な相手(神々、悪魔、一般庶民、弟子たち、他の宗派の論敵など)のエピソードも面白いが、そこで応酬され、披露される詩の数々が、格調高く、含蓄あって、比喩や表現が豊かで、感心させられる。
 増谷の訳も簡潔にしてリズミカルで、すばらしい。

 一つ、クイズ形式で紹介したい。

 ある天神とお釈迦様(世尊)との対話である。

 その時、一人の天神があり、夜もすでにふけたころ、その素晴らしい光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐したその天神は、世尊の御許にあって、このような偈を説いた。

  子にもひとしき可愛きものなく
  牛にもひとしき財宝はなく
  太陽にもひとしき光明はなく
  海はもっとも大いなる湖なり

 これに対して、世尊はこう仰せられた。

 (   ①   ) にもひとしき可愛きものなく
 (   ②   ) にもひとしき財宝はなく
 (   ③   ) にもひとしき光明はなく
 (   ④   ) こそは最高の湖なり
 

 さて、①~④にはどんな言葉が入るであろう?
 
 正解を考えるというよりは、「自分の場合はこれだ!」と当てはめてみるのも一興。

 お釈迦様の答えは、阿含経典を読む 6で。


太陽



● 阿含経典を読む 4 デカルト V.S. ブッダ

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)第2巻は、相応部経典の中の「人間の感官(六処)に関する経典群」、「実践の方法(道)に関する経典群」、「詩(偈)のある経典群」が収録されている。


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 仏教では、人間の感官すなわち感覚器官を次の6つとしている。
  1.  眼(視覚)
  2.  耳(聴覚)
  3.  鼻(嗅覚)
  4.  舌(味覚)
  5.  身(触覚)
  6.  意

 それぞれの器官は、体の外部あるいは内部からの刺激(=情報)を次の形で認識し取り入れる。
  1.  色(物体)・・・眼は物体を識る
  2.  声(音) ・・・耳は音を識る
  3.  香    ・・・鼻は香を識る
  4.  味    ・・・舌は味を識る
  5.  触    ・・・身体は接触を識る
  6.  法    ・・・意は法を識る

 6つの器官は、人が「世界」を認識するための窓口であり、同時に――ここが重要なところなのだが――世界を造り上げるための道具でもある。
 というのも、我々は、客観的に正確な、ありのままの「世界」を見て知っているのではない。
 上記の6つの感覚器官の働きによって人間仕様に(あるいは個人仕様に)編集された「世界」を見て知っているのである。
 なぜなら、備わっている感覚器官の種類と働きは、生命体によって異なるからである。
 トカゲにはトカゲ仕様の、イルカにはイルカ仕様の、蟻には蟻仕様の、エイリアンにはエイリアン仕様の、盲人には盲人仕様の「世界」がある。
 我々は、「世界に存在している物を認識している」のではなく、「認識した通りに世界を存在させている」のだ。
 お釈迦様はこう言っている。
 
六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみを愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第一章「雪山に住む者」より)
 
 お釈迦様が六処について説いたのは、まさにこの六つの感覚器官こそが人を悩ますものであり、「苦」を生みだす産地だからである。
 もちろん、「楽」を生みだす産地でもあるわけだが、どちらの産出量が多いかは言うまでもないだろう。
 お釈迦様は、六処のいずれについてもまた、五蘊同様、「無常であり、無我であり、苦である」と繰り返し説いている。 
 
つまり、この師は、「無常・無我・苦」の説得と、「厭離・離貪・解脱」の成就のために、時には五蘊について語り、時には六処をあげて語ったのである。すなわち、ある時には、人間そのものを指して、その肉体的要素と精神的要素のあるがままの相(すがた)を省察せしめ、またある時には、人間の内なる感官が、外なる対象に接触して、さまざまな苦楽を感受する、その真相を洞察せよと語っているのである。
(ちくま学芸文庫『阿含経典2』18ページ、増谷文雄の解説より)


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 さて、我々の実感からしてもっとも理解し難いのは、6番目の感覚としてあげられている「意」であり、それが対象とする「法」であろう。
 それ以外の5つの感覚(五感)についてはすんなり納得できよう。
 「第六感」といった場合に我々(年配者)が思いつくのは、フランキー堺司会の『霊感ヤマカン第六感~♪』(古い・・・)であり、「胸騒ぎして搭乗しなかった飛行機が墜落した」といったたぐいのスピリチュアルミステリーであろう。
 ここで言う「意」とは、もちろん、そんなものとは違う。

 「意」とは「心」のことである。
 お釈迦様は「心」を感覚器官の一つとしたのである。
 ソルティは、ここがお釈迦様の、そして仏教の最も革新的で凄いところだと思っている。

 「心」は、他の5つの感覚器官のように、その実体を「これ」と指し示すことができない。
 どこにあるのか、分からない。
 解剖しても見つからない。
 だが、「心」があることは誰もが知っている。
 ソルティはそこで、現代科学に慣らされた我々が少しでも納得しやすいよう、これを「脳」とみなしてもよいのではないかと思う。
 「意」とは、「心あるいは脳」である。

 では、「意=心あるいは脳」が情報として取り入れる対象であるところの「法」とはなんだろうか?

 仏教でいう「法(ダンマ)」とは、一般に、お釈迦様の教えのことであり、すなわち「真実」のことを指す。
 たとえば、仏教の三宝にあたる「仏・法・僧」と言ったら、「お釈迦様・お釈迦様の教え・出家者の集まり」である。
 が、六処における「法」は別の意味である。
 増谷文雄は、これを「観念」と訳しているが、文字通り観念的でわかんねん。

 (_´Д`) アイーン

 
「心あるいは脳」に触れ、「心あるいは脳」が取り入れる情報といったら、なんであろう?
 それは、「心あるいは脳」に浮かぶすべて、すなわち一切の精神内容である。
 具体的に言えば、「思考、感情、意志、記憶、想念など」である。
 眼に色(物体)が触れ、耳に声(音)が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身体に何かが触れ、それぞれ情報が取り入れられるように、心あるいは脳に「思考、感情、意志、記憶、想念など」が触れ、情報が取り入れられる。
 お釈迦様は、人間の思考や感情や意志や記憶や想念すらも、音や香や味同様の、外部情報もしくは外的刺激とみなしたわけである。

 この「意」と「法」を六処に数える意味が、ソルティには長いこと理解できなかった。
 仏教書や経典を読んでも文意はわかるが、実質何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
 ヴィパッサナー瞑想をはじめても、しばらくは理解できなかった。

 それがある時、はっと腑に落ちた。
 なかなか理解できなかった理由がわかった。
 それは、思考や感情や意志や記憶や想念などとあまりにも自己一体化していて、少しでも離れた視点から客観的にそれらを観るということが、できなかったからである。
 思考や感情や意志や記憶や想念こそが、「私」の核となっていたのだ。
 曰く、我思う、ゆえに我あり

 
ヴィパッサナー瞑想に習熟し、外部から入ってくる音や香や体の感触などの刺激を、何の解釈も評価も好き嫌いの判断も伴わずに、「音は音」として、「香は香」として、「体の感触は感触」として、客観的に観られるようになるにしたがい、瞑想中に心や脳に勝手に浮かんでくる思考や感情や記憶や想念もまた、距離を置いて客観的に観られるようになった。
 すると、思考や感情や記憶や想念が、あたかも、どこからともなくボウフラのように湧いてきて、心や脳に取り憑いて、人を乗っ取ろうと企んでいる、よこしまな霊団か何かのように思われてきた。
 同時に、思考や感情や記憶や想念によって条件づけられた「私」の正体が見えてきた。

 それは、実際にはプログラミングされた通りに動いているに過ぎないのに、主体的意志で生きていると勘違いしている可哀そうなレプリカントさながらであった。


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 デカルトの言葉が近代的思考のはじまりとみなされるように、近代以降の世界に生きる我々は、思考し、感情を抱え表現し、意志を持ち、一貫した記憶を有する個別主体として、「私」を定義し認識している。
 いわゆる、近代的自己である。
 お釈迦様は、2000年以上も前に、「そうではない」と言ってのけた。
 
師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第四章「迅速」より)

 つくづく凄い。


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瞑想の池


 
さて、「意」や「法」を含めた六処は、無常であり無我であり苦であり、生まれては消える現象に過ぎず、そのどこにも「私」が立てる場所はないと瞑想者が悟ったとき、次に出てくる問いはおそらく次のようなものであろう。

六処において刺激を純粋に認識する機能、つまり識(=認識力)こそが、本当の「私」ではなかろうか?
 
 
これを突き詰めると、きっと唯識論梵我一如の非二元の教えになるのだろうなあ~、となんとなく想像する。
 だが、これも、お釈迦様は五蘊の教えで明確に否定している。
 識もまた、無常であり、無我であり、苦であると。
 そこに「私」は存しないし、それは「私」でないと。




 

● 『阿含経典』を読む 3 まぼろしの映画


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お釈迦様は人間を分析し、5つの構成要素に分けた。
五蘊(ごうん)と言う。

 色(ルーパ)
 受(ヴェーダナ)
 想(サンニャ)
 行(サンカーラ)
 識(ヴィンニャーナ)

お釈迦様はそれらをどう定義しているか。
  • ・・・・四つの元素(地・水・火・風)と、四つの元素によって造られたる物
  • ・・・・六つの感受する器官の働き。いわく、目の触れて生ずる感覚、耳の触れて生ずる感覚、鼻の触れて生ずる感覚、舌の触れて生ずる感覚、身の触れて生ずる感覚、意の触れて生ずる感覚。
  • ・・・・六つの表象する作用。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、観念の表象。
  • ・・・・六つの意志するいとなみ。いわく、色への意志、声への意志、香への意志、味への意志、感触への意志、観念への意志。
  • ・・・・六つの意識するいとなみ。いわく、眼の意識、耳の意識、鼻の意識、舌の意識、身の意識、意の意識。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』蘊相応44「五取蘊の四転」より)


 正直、かなりわかりづらい。
 訳者の増谷文雄は、次のように解説している。
  • ・・・・物質的要素。すなわち、肉体。
  • ・・・・感覚。
  • ・・・・表象。与えられたる感覚によって表象を構成する過程。
  • ・・・・意志(will)もしくは意思(intention)。人間の精神はここから対象に対して能動に転じる。
  • ・・・・対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所。
(同上書の380~381ページ)


 まだ、わかりづらい。
 肉体(色)、感覚(受)はともかく、表象(想)ってなんだ?
 行に与えられた定義の「意志」と「意思」はどう違うんだ?
 識の定義も難解である。
 
 とりあえず、「意志」と「意思」の違いについて解決しておこう。  
 「意志」は「意志を貫く」「意志の強い人」「意志薄弱」など、何かをしよう、したいという気持ちを表す場合に用いられる。
 「意思」は、「双方の意思を汲む」「家族の意思を尊重する」など、思い・考えの意味に重点を置いた場合に用いられる。
(小学館『大辞林』)


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 人間を分析するときに、誰もがすぐ思いつく、もっとも手っ取り早い、万人の了解の得られやすいやり方は、心(精神的要素)と肉体(身体的要素)とに分けることであろう。
 仏教ではこれを、名(ナーマ)色(ルーパ)と呼ぶ。 
 お釈迦様は、精神的要素である「名」をさらに分析して、「受」「想」「行」「識」の四つに分けたのである。
 
 今回もまた、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で再定義を試みたい。
  • ・・・・身体的要素(六つの感覚器官――目・耳・鼻・舌・皮膚・心あるいは脳――を有す)
  • ・・・・視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が生じる
  • ・・・・「受」によって自然と湧きおこる観念やイメージの連想作用
  • ・・・・「受」と「想」によって造られ、新たな行為につながる様々な感情や思考や意志
  • ・・・・認識力(意識)

 たとえば今、「色」の一部である眼が、外界からの光の情報を視覚によって受けて、「赤く丸い物体」を認識する。(色・受)
 たちまち、記憶の中にある様々な観念やイメージが立ち上がる。(想)
 
食べ物、果物、リンゴ、本物、新しい、大きい、きれい、美味しそう、甘い、酸っぱい、青森、紅玉、ふじ、ジョナゴールド、所有者、空腹、歯ごたえ、歯茎から出血、白雪姫、毒、アダムとイヴ、ウイリアム・テル、ニューヨーク、ビートルズ、椎名林檎・・・・

 その結果として、目の前のリンゴに対する何らかの能動的な感情や思考や意志が生じる。(行)
 
食べたい、香りを確かめたい、かぶりつきたい、触ってみよう、踏んづけたい、盗みたい、関心ない、無視しよう、誰のものか聞いてみよう・・・・

 「行」の一歩先は、実際の肉体を伴った行為となり、ここでまた「色」の出番となる。

 問題は最後の「識」である。
 これは十二縁起でも「名色」に先んじて登場するが、「識」と「名色」の関係は、どっちが先で、どっちが後というものではなく、たとえば「受があるゆえに渇愛が生じる」といった順列の因果関係にはあたらないと思われる。
 というのも、お釈迦様はこう言っている。

 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈識があるゆえに名色があるのである。識によって名色があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはこのように考えた。〈いったい、なにがあるがゆえに識があるのであろうか。なにによって識があるのであろうか〉と。
 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈名色があるゆえに識があるのである。名色によって識があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはまたこのように考えた。〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、老いてはまた生れ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。つまるところ、この名色によりて識があるのであり、識によって名色があるのである。さらに、名色によって六処があるのである。六処によって触があるのである。・・・・これがすべての苦の集積のよりてなる所以である〉と。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』、因縁相応43「城邑」より)

 別のお経(因縁相応「葦束」)では、お釈迦様の十大弟子の一人で智慧随一のサーリプッタが、名色と識との関係を人に問われて、「相依って立つ二つの葦の束」にたとえている。
 そこで、ソルティは、機能面から見たときの生命現象を「識=認識力」と定義し、構成面から見たときの生命現象を「名色=心と体」と定義したわけである。
 つまり、生命とは、「身体的要素(色)と精神的要素(名)を有し、外界および内界を認識するもの」である。
 
 なので、「名」の4つの要素(受・想・行・識)のうち、「識」だけはちょっと他の3つと位相が異なる。
 「識」は、受・想・行が働く足場のようなものである。
 「識」がないとき、たとえば深い睡眠状態にある時や気絶している時は、受も想も行も働くことができない。
 逆に、受・想・行がないとき、すなわち外界からも内界からも流入する情報がまったくないとき、凪の海に浮かぶ舟のように「識」は止むほかない。
 適切な譬えかどうか自信はないが、人間を映画と考えたとき、「色」が映写機とスクリーン、「受・想・行」がフィルムとそれによって映し出される映像やストーリー、「識」は光線という感じか。


映画館

 
 お釈迦様は、かくも見事に人間を分析し五蘊を唱えたが、大切なのは分析そのものではない。
 五つの要素のどれをとっても、常なるものはなく(無常)、単独で成り立つものもなく(無我)、「私」がコントロールできるものもなく、「私のもの」と言えるものもない。
 すなわち、五蘊の分析を通して「無常・無我・苦」を知り、「私」の虚構性を見抜くことが肝要なのである。
 仏教科学は、科学のための科学ではなく、あくまで修行に役立てることを目的とする。
  
要するに、五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)


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 映画とは、スクリーンと映写機ではない。
 撮影されたフィルムでもない。
 フィルムに固定された役者の姿や演技、ストーリーでもない。
 もちろん、映画館でもなければ、暗闇でも光線でもない。
 また、観る者が一人もいなければ、作品は存在しない。

 さて、映画とは何だろう?






● 『阿含経典』を読む 2  科学的な、あまりに科学的な

 増谷文雄編訳の『阿含経典』(ちくま学芸文庫)の第1巻は、7762経に及ぶ膨大な『相応部経典』のうち、「存在の法則(縁起)に関する経典群」と「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を中心に編まれている。
 ちなみに、「相応」とは「同じようなテーマの教えを集めた」という意である。

 縁起と五蘊――どちらもブッダの教えの核心にあたる。


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 改めて認識し、かつ驚くべきは、仏教は宗教は宗教でも、実に科学的ということだ。
 存在の法則、人間の分析が、語られるべき「いの一番」なのである。
 そこには、神秘的・神話的・土俗的・幻覚的・空想的なところがまったくない。
 神がこの世界と生き物を創造したとか、土をこねて神の姿に似せて人間を作ったとか、アダムの骨からイヴを作ったとか、神が降臨して人間の祖となったとか・・・・そんなお伽噺とはかけ離れている。
 ブッダは何より科学者――客観的にありのままの事実を見つめ、システムの構造と働きを見抜き、誰もが検証できる形で理論化・言語化した人――なのである。

 さて、存在の法則とは縁起である。

縁起の公式1  これあるときに、これあり。 これ生じるが故に、これ生ず。

縁起の公式2  これなきときに、これなし。 これ滅するが故に、これ滅す。

 上記はわかりやすい。
 存在するものは、原因や条件があって存在している。
 その原因や条件がなければ、あるいはそれらを滅してしまったら、存在は成り立たない。
 ごく当たり前の事実である。

 公式1をもとに、人間の存在の法則、すなわち十二縁起が説かれる。

縁起の公式3 
  1.  無明あるときに、が生じる
  2.  あるときに、が生じる
  3.  あるときに、名色が生じる
  4.  名色あるときに、六処が生じる
  5.  六処あるときに、が生じる
  6.  あるときに、が生じる
  7.  あるときに、渇愛が生じる
  8.  渇愛あるときに、が生じる
  9.  あるときに、が生じる
  10.  あるときに、が生じる
  11.  あるときに、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩が生じる
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩あるときに、無明が生じる

 公式2をもとに、以下の公式もまた成り立つ。

縁起の公式4
  1.  無明なければ、は生ぜず
  2.  なければ、は生ぜず
  3.  なければ、名色は生ぜず
  4.  名色なければ、六処は生ぜず
  5.  六処なければ、は生ぜず
  6.  なければ、は生ぜず
  7.  なければ、渇愛は生ぜず
  8.  渇愛なければ、は生ぜず
  9.  なければ、は生ぜず
  10.  なければ、は生ぜず
  11.  なければ、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩は生ぜず
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩なければ、無明は生ぜず


 十二縁起を構成する各要素(項目)をどう定義するかが問題である。
 タイ仏教界の最高学僧であるポー・オー・パユットー著の『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で定義を試みたい。

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無明 =ありのままの真実を見ないこと、愚かなこと
  =心に思うこと、言うこと、行うことのすべて。およびそれによって蓄えられる業(カルマ)
  =認識力   ・・・機能面から見たときの生命現象
名色 =精神と身体 ・・・構成面から見たときの生命現象
六処 =目、耳、鼻、舌、皮膚、心あるいは脳
  =六処になんらかの情報が触れること。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が浮かぶ
  =快感 or 不快感 or どちらでもない
渇愛 =欲望 or 嫌悪
  =執着
  =自我に囚われた存在、それよって生じるカルマ(業)
  =人間として生まれること
老死 =老いと死
愁・悲・苦・憂・悩 =愁い・悲しみ・苦しみ・憂鬱・悩み


 さて、注意すべきは、一般的に十二縁起が意味しているのは、人間の一つの生における縁起ではなくて、前世・現世・来世の3つの生にまたがる縁起だという点である。
 つまり、公式3と4における1番(青色)は前世の、2~9番まで(黒色)は現世の、10~12番(赤色)は来世の事象を意味する。

 前世において、無明のため様々な間違ったを為したがゆえに業(カルマ)をつくり、名色を有する生命として現世に誕生した。
 現世で、六処から流入する様々な情報にれ、そこでけた快感・不快感にしたがって渇愛に溺れ、を肥大化させた結果、に囚われて、解脱の道を逃してしまい、輪廻転生を許してしまう。
 結果として、来世にを受けて、またもや老死愁・悲・苦・憂・悩を味わうハメになる。
 これが永遠に回る。

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 正直のところ、前世と現世とをつなぐ項目である、あるいは現世と来世とをつなぐ項目である、つまり業(カルマ)の存在と働きについては、ソルティは分からない。
 そこのところは、非科学的とは断じないまでも、仏教の「お伽噺」性の最たる部分とみなされるのかもしれない。(昨今のニュースで、「量子力学が輪廻転生を証明できる可能性がある」というのを見たが・・・)
 それ以外の縁起の部分、特に六処からに至る、現世において人間の欲望や嫌悪が生まれ育っていく過程の分析については、実に精緻で科学的で見事というほかない。
 
 輪廻転生を阻み解脱することを最終目的とする仏道修行において重要なのは、公式4である。
 現世にある修行者が介入し得るのは、流れのうちの6番「なければ、は生ぜず」、7番「なければ、渇愛は生ぜず」、8番「渇愛なければ、は生ぜず」の部分だけである。
 前世についてはすでに手遅れであり、来世については現世の行い次第である。
 現世における2番から5番、すなわちの生起からの生起までも、自動的に(自らが預かり知らぬところで)起こってしまっている。
 現世のを生む瞬間、渇愛に変わる瞬間、渇愛に育つ瞬間に対してのみ、人は介入して、流れをストップすることができる。

 そのために欠かせないのが、念(気づき)なのである。
 念が欠けていると、ほとんど自動的・盲目的に、触→受→渇愛→取の流れが圧倒的な勢いで進んでしまう。
 そのとき人は、機械的な生を送るマリオネットとなる。

 念(気づき)を育てる修行が、ヴィパッサナ瞑想である。

 う~ん、科学的だ。

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追記:日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が、「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて」のメッセージを同会ホームページに寄せている。ソルティは、過剰なマスコミ報道などに接し、心が落ち着きを失った時などに読み返している。ご参考までに。






● 本:『過激な隠遁 高島野十郎評伝』(川崎浹著)


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 2018年求龍堂 

 高島野十郎(1890-1975)の名は、『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』(宮下規久朗・著)で知った。
 日本美術史において、光と闇をモチーフに描いた代表的な画家の一人として触れられていたのである。
 彼が晩年、好んで描いた『月』や『蝋燭』の連作を見ると、確かに、一面の闇の中にぽっかり空いた覗き穴のような満月であるとか、闇を赤錆に染める一本の蝋燭の炎のゆらぎであるとか、これ以上にないシンプルな光と闇の表現が特徴的である。
 
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月(1963年)

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蝋燭(1912-26)


 上述の本の中でこれらの絵の図版を見たとき、そして、高島野十郎が生涯独身を貫き、画壇とも一切関わりを持たず、隠者のような孤高の人生を送ったと知ったとき、さらには、野十郎が非常に仏教に造詣深かったと知ったとき、俄然興味が湧いた。
 
 著者は、1930年生まれのロシア文学研究者。
 大学院生(24歳)の時に40歳年上の野十郎と運命的な出会いを果たし、以後20年以上にわたる交流を続けた。
 ちなみに、野十郎は「やじゅうろう」、著者の名の「浹」は「わたる」と読む。

 『月』や『蝋燭』といった作品に見られるシンプルで静謐な印象から、ソルティはてっきり、仏教は仏教でも、「禅の人」と思ったのである。
 曹洞宗や臨済宗が、野十郎の画風の依拠するところ、彼の精神の礎となるところなのでは?・・・と思った。

 しかるに、この評伝を読み、野十郎の言動や人となりに触れ、また『月』や『蝋燭』以外の若い頃からの彼の作品の図版を見ると、「禅的」とはちょっと違うと思った。

 野十郎は、ゴッホがそうであったように、生前ほとんど無名で、没後に脚光を浴びるようになった。
 ブレイクのきっかけとなったのが、『すいれんの池』という作品であった。


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すいれんの池(1949年)


 この絵は、写実の極みである一方、風景画を超えたなにか過剰なものを観る者に感じさせる。
 なんだろう?
 ソルティは、「曼荼羅だ」と思ったのである。
 池の白蓮一つ一つの中に、周囲の木々の葉一枚一枚の中に、生命の形を借りた仏が宿っている。
 それを画家は見ている。
 実物の絵を見ていないので確言はできないけれど、野十郎の絵は「禅的」というよりも「密教的」なのではないか。
 その視点から見直してみると、『月』を取り巻く深い闇は「無」ではなく、多数の生命が彼方の光(=大日如来)に吸収されていくあの世の光景に思えるし、『蝋燭』のゆらぎはラヴェルの『ボレロ』に合わせて命の輝きを表現するダンサーの舞いのように見えてくる。 
 
 評伝に描かれる野十郎は、まさに明治生まれの頑固一徹で、さらに、世俗に背を向けすべてを芸術に捧げた男の凄みと、脱俗者ならではの飄々とした恬淡さとが、共生する。
 国土開発の60年代後半、野十郎は、団地造営を計画する大手建設会社から、住みなれたアトリエの立ち退きを迫られる。
 建設業者との激しい攻防のくだりは、この本につけられた『過激な隠遁』という、一見矛盾するようなタイトルの意味を、納得せしめるに十分である。
 こういう過激な爺さん、最早日本中のどこを探しても見つかるまい。

 いつか、高島野十郎展に足を運ぶ機会の来たらんことを!



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 鎌倉時代の寂聴さん 映画:『あさき夢みし』(実相寺昭雄監督)

1974年ATG配給
120分、カラー

あさき夢みしポスター


 実相寺は、ウルトラマンシリーズや『悪徳の栄え』(1988)の前衛的でシュールな演出で知られる奇才。
 
 この映画には原作がある。
 鎌倉時代中期、第89代天皇であった後深草院(1243-1304)の寵愛を受けた女官二条が、自らの半生をつづった日記、『とはずがたり』がそれで、つまりは古典文学である。
 ウィキによると、『とわずがたり』は、1938年宮内庁図書寮で国文学者の山岸徳平が発見したという。それまで600年近く、その存在を知られず埋もれていたらしい。
 凄いことがあるもんだ。
 
誰に問われるでもなく自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院に仕えた女房二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。(ウィキ『とはずがたり』より抜粋)

 ソルティは原作を読んでいないのではっきりとは言えないのだが、おおむね原作に忠実にシナリオ化されているようだ。(脚本は詩人の大岡信) 主役の二条は、映画では四条と改名されている。
 数々の恋愛遍歴を経た挙句、世をはかなんで出家した女性の話という点で瀬戸内寂聴を連想する。まさしく寂聴は現代語訳を手がけ、『中世炎上』というタイトルで小説化もしている。共鳴するところ大であったのだろう。
 また、『源氏物語』宇治十帖に登場する浮舟のその後、という感じもする。
 男中心の生き難い世に、ひたすら心の安寧を探す女の物語なのだ。

 四条を演じているジャネット八田という女優は、元プロ野球選手田淵幸一の妻である。演技は決して上手ではないが、ヌードも辞さない覚悟で熱演している。
 演出は実相寺スタイルそのもので、画面全般が暗い、というより黒い。
 灯火よりほかに照明のない時代で、室内シーンが多いので、実際に人の顔も分かたぬほど暗かったとは思う。
 が、この暗がりが意味しているのは、物理的な暗さというより心理的暗さ、つまり無明なのだろう。四条をはじめとする登場人物たちの心の闇が、画面を覆っているのだ。
 唯一、暗がりを破るものとして目立つのは炎のショットである。これはまた、どうしようもない人間の愛欲の比喩となる。炎めがけて飛び込み焼け死ぬ夏虫のごと、愛欲に突き動かされ、身を焼かれ、さらなる無明に陥る人間たち。
 その輪廻から逃れるべく、四条は尼姿となって諸国流浪の旅に出たのである。

 遍歴する四条が出会い、心にとめた同じ遍歴衆がいた。
 「南無阿弥陀仏」を一心に唱えながら踊り歩く連中である。
 時宗の元祖、一遍上人率いる踊念仏。
 
 そうか、これは一遍上人の時代の話であったか。 
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 『阿含経典』を読む 1

1979年筑摩書房
2012年ちくま学芸文庫
増谷文雄 編訳

 しばらく前から、毎朝、『阿含経典』を読んでいる。
 ちくま学芸文庫から出ている増谷文雄(1902-1987)編訳の3巻本である。


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 ソルティは学者でも僧侶でもないし、仏教経典をめぐる様々な議論にも興味ないので、無知な素人ならではの無責任とガサツさで括ってしまおう。
 『阿含経典』とは、最も古い経典=お釈迦様の教えに近い経典、である。
 加えて、大乗仏教の日本では長いこと、有難がられることなく、ほとんど無視されてきた、いわゆる小乗仏教の主要経典である。(日本で現在、阿含経典を奉じている宗派は、有名どころでは、テーラワーダ仏教協会をのぞけば、阿含宗である。)

 よく知られるように、お釈迦様が亡くなったあとしばらくして、多くの高弟たちが集まって会を開いた。第一結集と言われる。
 目的は、お釈迦様の教えを正しい形で後世に伝えるため、覚えやすい形式にして全員で記憶するためである。筆記という手段はこの頃なかったようだ。
 何十年とお釈迦様のおそばに仕え、飛び抜けた記憶力をもつアーナンダ――思うに今でいう「アスペルガー症候群」だったのかも――がまず、「お釈迦様は、どこそこの地で、誰それ相手に、こんなことを説きました」と語り、全員でその内容を吟味し、確定し、暗唱した。
 集まった弟子たちは、アーナンダも含め全員が阿羅漢、つまりお釈迦様と同じレベルの悟りに達した者ばかりであったから、その内容はお釈迦様の教えそのものと言っても間違いなかろう。
 これがお経の始まりである。
 
 『阿含経典』は、この結集のときに採択されたお経を、後の僧侶たちが5部に分けて編纂したものと言われる。(パーリ語経典の場合。漢訳では4部)
  1. 長部経典     34経
  2. 中部経典    152経
  3. 相応部経典  7762経
  4. 増支部経典  9557経
  5. 小部経典     15分
 上記5部の経典に収録されている経の数は、じつに17000経以上に及ぶ。
 いくらなんでも、こんなにたくさんの経を、第一結集のみでまとめ上げられるわけがない。(伝えによれば、第一結集は約7ヶ月を要したとか)
 その後の再三にわたる結集、および活字化され編集される過程で、新たな逸話が追加され、創作され、肥大化したのは間違いあるまい。
 少なくとも西暦前、つまり大乗仏教が成立する前には、いまある5部の形に整っていたらしい。

 編訳者の増谷文雄によると、5部の経典を成立順にならべると、次のようになる。
  1. 相応部経典
  2. 中部経典
  3. 長部経典
  4. 増支部経典
  5. 小部経典 
 ただし、小部経典の中のいくつか、たとえば岩波文庫に入っている中村元訳『ブッダのことば(スッタニパータ)』、『真理のことば(ダンマパダ)』などは、韻文でできており、最初期の教えに入るようだ。

 
 このちくま学芸文庫には、増谷が抽出した400経が訳せられている。
 全3巻のうち、第1巻と第2巻は相応部経典から、第3巻はそれ以外の経典から採られている。
 つまり、阿含経典の中でも最も古い教え=より仏説に近い、ということになろう。
 
 ソルティは、経典の翻訳の中では、この増谷文雄訳がもっとも好きである。
 平易で、読みやすく、言葉の選択もリズムもよく、品格がある。
 岩波文庫の中村訳のお釈迦様は、厳めしく近寄りがたい孤高の人というイメージだが、増谷訳のお釈迦様は、慈愛に満ち、来る人を拒まない雅量を感じさせる。(両文庫で使用される活字の大きさや種類の違いも大きい)
 
 毎朝、3つか4つのお経を声を出して読んで、内容について思いをめぐらす。
 それだけのことが、心の安定と落ち着きをもたらすから、不思議である。
 昨今の世相は、そのまま飲まれてしまうと、不安と混乱と気鬱をもたらしかねない。
 お経を読んで、2500年の時を超えてお釈迦様とつながることが、良い精神安定剤となっている。


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● 本:『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』(大竹晋著)

2019年新潮社

 一昨年、極めて挑発的かつ刺激的な一冊、『大乗非仏説をこえて 大乗仏教は何のためにあるのか』を世に問うた大竹晋(すすむ)の新著。
 今回も仏教の核心をつく興味深いテーマを掲げてきた。

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筆者は本書において、前近代から近代にかけて得られていた大乗仏教の覚醒体験が記されている、さまざまな悟り体験記を読みとくことによって、日本において伝統的に「悟り」と呼ばれてきた覚醒体験について、おおまかな輪郭を描いてみたいと思っています。(本書「はじめに」より)

 冒頭から周到にも留保がつけられているが、本書で取り上げられるのはあくまでも「大乗仏教の覚醒体験」である。
 つまり、紀元前インドにおいて誕生した原始仏教の覚醒体験や、その後原始教団が分裂することで生まれた部派仏教――かつて小乗仏教と呼ばれていたテーラワーダ(上座部)仏教はこの流れを汲む――における覚醒体験は、本書の守備範囲外である。
 というのも、大竹は大乗仏教と部派仏教以前の覚醒体験を質の異なるものと規定しているのである。
 
部派仏教においては四諦という四つのものを実見して阿羅漢となるのであるが、大乗仏教においては真如という一つのものを実見してブッダとなるのであるとわかる。大乗仏教においては、伝統的に、大乗仏教の覚醒体験は仏教の開祖であるブッダの覚醒体験と同視されてきたが、実のところ、大乗仏教の覚醒体験を、仏教の開祖であるブッダの覚醒体験にまで遡らせることは難しい。

 いきなりの核心ヒット!
 日本トランスパーソナル心理学 / 精神医学会会長である石川勇一が同様のことを書いていたっけ。
 ちなみに、四諦とは、「①苦がある、②苦には原因がある、③苦は滅することができる、④そのための道がある」である。真如とは、法無我すなわち空性のことである。(大竹は空性=仏性としている)
 上記の大竹の見解をそのまま是とするか否か、議論すべきところ多と思うけれど(そして、個人的には非常に追究してほしいテーマではあるけれど)、とりあえず、本書の守備範囲は大乗仏教ということである。そして、「悟り」という言葉が日本語である以上、「悟り」が意味するのは大乗仏教の覚醒体験にほかならない、としている。つまり、「ブッダの悟り」という言い方は自家撞着だ、ということになる。
 これは、ある意味、「目からウロコ」の面白い指摘である。

 では、本書の面白ポイントを紹介しよう。

その1 四十数人の悟り体験記が読める
 ソルティがその名を知る人では、現存最古の悟り体験記を残した禅の祖たる菩提達磨(ボディダルマ)、数々の日本庭園の設計で誉れ高い夢窓疎石、禅画や書の達人でもあった白隠慧鶴、禅の海外普及に尽くした鈴木大拙、「元始、女性は太陽であった」の平塚らいてう、親鸞上人を描いた戯曲『出家とその弟子』の作者倉田百三、筋金入りのマルクス主義者であった河上肇などが含まれている。(大拙は悟っていたのだ!
 意外に思ったのは、これら悟った人たちの帰属宗派は必ずしも禅(曹洞宗、臨済宗)とは限らない。真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、黄檗宗、普化宗、キリスト教徒もいる。

三蔵法師(菩提達磨)はおっしゃった。
「悟らないでいる時は人のほうが真理に迫っていこうとするが、悟る時は真理のほうが人に迫ってくる。悟ってからは心が景色を包んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている。」

その2 悟りのプロセス抽出
 上記数十名の体験記を分析し共通点を探ることで、下記のような悟りのプロセスを抽出している。
  1. 自他忘失体験・・・自己と他者の隔てを忘失して、ただ心のみとなる体験。(ただし臨済宗においては悟り体験とみなされない)
  2. 真如顕現体験・・・通常の心である“自我の殻”を破って、真如が顕現する体験。しばしば「心が開けた」と表現される。
  3. 自我解消体験・・・真如(法無我)が顕現したことによって、“自我の殻”が解消される体験。しばしば光を見たり一大歓喜を経験する。
  4. 基層転換体験・・・“自我の殻”が解消することによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験。しばしば心と体の変化を伴う。(3と4はほぼ同時に起こる)
  5. 叡智獲得体験・・・存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験。しばしば宗教的問題全般が(すべての公案も)解決される。
 この記述を読んでいて、どこかで似たようなものを読んだ記憶が・・・・と、思い当たった。そう、欧米の臨死体験の研究レポート、あるいは脳卒中で左脳の機能を失った医師の手記である。

その3 悟る方法の抽出
 数十名の体験記の修行の共通点を探ることにより、以下のように述べている。
 
悟り体験を得られる修行はどれか特定の修行に限られているわけではない。重要なのは、どの修行を選ぶかではなく、むしろ、公案とひとつになること、疑いとひとつになること、本尊とひとつになること、念仏とひとつになること、題目とひとつになることによって、通常の心である“自我の殻”をなくしていくことであるように思われる。

その4 悟った後の人生いろいろ
 悟った人は坊さんになる(坊さんのままでいる)か、教祖になるか、世を捨て無為自然に暮らすか、本を書いてセミナーを開くか、頭陀袋ひとつで旅に出るか・・・。社会(世間)とは距離を置いて暮らすイメージがある。ましてや、政治活動なんて最もしないことの一つ、と思っていた。
 しかし、たとえば平塚らいてう(1879-1946)は、悟った後に、作家の草野心平と心中未遂を起こしたり、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を作ったり、婦人参政権など女性の権利獲得運動や反戦平和活動に邁進している。河上肇(1879-1946)は、『資本論』を翻訳、日本共産党に加入して地下活動に参加、検挙されて入獄している。あるいは、ソルティが本書ではじめてその名を知った井上日召(1886-1967)と来た日には、正真正銘のテロリストである。1932年に右翼団体血盟団を結成し、「一人一殺」主義を掲げ、要人暗殺による国家改造を目論む。戦後は公職追放の憂き目に遭っている。
 彼らの「悟り」は偽物だったのか? それとも、これらの活動もまた叡智のなせる技だったのか?

その5 悟りのトリビア
 以下のような興味深いトピックも取り上げている。

 ● 悟りと異常心理の違い
悟り体験においては歓喜が起こったのちに叡智が獲得されるのであるが、異常心理においてはけたけた笑いなどをもたらす多幸感が起こったのちにむしろ知性が低下するのである

 ● 近現代の曹洞宗は悟り体験を否定していた。
「そのままでいい」「ありのままでいい」という現世肯定は、前近代まで伝統的な仏教において保持されてきた現世否定と、本質的に異なっている。近現代の曹洞宗における宗教学者たちの悟り体験批判は、仏教が従来果たしてきた、現世に拮抗する役割を低下させ、仏教を、単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる。
 ここはちょっと待ったァ
 前近代までの伝統的仏教の段階で、すでに本覚思想という現世肯定主義があったのではないか? 

 ● 悟りと超能力の関係
 ● 昭和30年代に5日間で悟りを体験できる「早期見性法」がブームとなった。火付け人は曹洞宗の石黒法龍。


 以上のように、硬軟、深浅、取り混ぜたユニークで幅広い「悟り学」入門書となっており、面白く読んだ。
 誰にもどこにも忖度しない自由な立場から、果敢に仏教の核心に切り込んでいく大竹の研究姿勢は、クールかつセクシーである。
 次作は、「悟りと戦争」を題材に考えていると言う。仏教の戦争責任ということだろうか。これまた、「大乗非仏説」と並ぶ戦後仏教界の抱えるタブーでありトラウマであろう。

 最後になるが、大竹は、「(現代は)悟り体験を得ることが難しくなりつつある」と指摘し、その理由をこう述べている。
 
現代においては、前近代や近代に較べ多くの情報に晒され、あるいは多くの情報を発信しているせいで、人が極度に知的になっているからである。

 そのために、「その3」で挙げた悟り体験を得るための方途、「(何かと)ひとつになること」が難しいというのである。
 これには、ソルティ自身、反省することしきりである。
 スマホいじりも、ネットサーフィンも、読書も音楽鑑賞もブログ更新も、ほどほどにしないといかんな。せっかくの骨折休暇だもん。
 光陰矢の如し。2月は逃げる。


67番大興寺本堂
四国67番札所、大興寺本堂


評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 大拙は悟っていたか? 本:『禅学入門』(鈴木大拙著)

1934(昭和9)年 大谷大学イスタン・ブデスト・ソサイエティより原著刊行(英語)
1940(昭和15)年 大東出版より邦訳刊行
2004年 講談社学術文庫

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 金沢旅行で鈴木大拙館を訪れた際に購入した。
 最初に英語で刊行されたことから分かるように、欧米人向けの禅の入門書として書かれた。その類いのものとしては、おそらく世界で最も早く、最も簡潔にして、最も要点を突いている名著と言えるのではなかろうか。
 とは言え、禅や仏教に馴染みの薄い当時の欧米人読者のための、禅の「いろは」を押さえた分かりやすい案内書かと思ってページをめくると、そうは問屋がおろさない。日本人かつ仏教徒であるソルティが読んでも、難解というか、分かりにくい印象を受ける。
 その理由は、禅そのもののつかみどころのなさ、語り難さに出来するのではないかと思われる。

 もちろん、仮にも「入門書」を謳うならば当然期待されてしかるべき事柄はちゃんと記されている。
 禅(仏心宗)の成立した歴史的背景とか、禅の歴史に名を残す傑出した禅師たちのエピソードとか、有名な公案の数々とか、禅寺の生活風景とか。あるいは、ずばり禅の目的も明確に述べられている。

禅は洞察によって心の本性に達し、心のそのものを見出し、自らの心の主となるのを目的とする。この心または精神の真性に到達することが禅仏教の根本目的であるのである。

禅修業の目的は事物の観察に対する新見地を獲得することにある。もし我々が二元主義の法則に従って、論理的に考える習慣を持っているならば、それを捨て去ることである。

 分かりにくさの理由の一つは、上記の「心または精神の真性」なり「事物の観察に対する新見地」なりが、まったくの個人的経験であり、言葉や論理による説明を超えたものであり、キリスト教やイスラム教や禅以外の大乗仏教に見られるような「神、浄土(天国)、霊魂」といった宗教的アイコンとはまったく関係を持たぬゆえである。

禅は宗教であるか。これが一般に考えられるような意味では、それは宗教ではない。禅には拝すべき神もなく、守るべき儀式もなく、死者の行くべく定められた未来の住家もなく、さらに最後に、何人かによってその幸福が保障されるであろうような霊魂なるものもないのである。

 では、禅は哲学か? 
 それもまた違うと大拙は言う。
 本書を読んだ西洋人の頭の周りに、いくつものクエスチョンマークが点灯するのが見えるようだ。

禅問答


 要は、悟りである。
 禅は悟りを目的としている。
 が、人は悟りを語ることができず、語ってはならず、語ったそばから逃げていく。そんな雲をつかむようなものなのである。
 大拙は、次のように語るにとどめている。
 
悟りを得なければ、何人も禅の真理に入ることは出来ない。悟りは今迄夢想だにもされなかった真理に対する新しい意識への突然の閃きである。それは知的または表現的事項を多く積み重ねた後に、一時に起るところの一種の心的激動または爆発である。この分別的堆積が絶頂に達して、もうこの上積まれぬというところまで行くと、この建物は地上に倒れる。その時に新しき天が眼の届く限りに開けるのである。

わずか一瞬の間にすべての事態が一変して禅が得られる。しかして、自身元のままながら完全で普通の人なのである。が、同時に何物か全然新しいものが得られたのである。何となれば、すべての心的活動は今や以前とは異なった基調に従って動き、しかして一層満足な、一層平和な、かつ従来味わったことのない歓喜の充実が得られるのである。人生の調子は一変するのである。


黄蓮


 わかりにくさのいま一つの理由は、この悟りに至るための手段がまた曖昧模糊としているためであろう。
 これは禅の二大流派である曹洞宗と臨済宗とでは事情が異なる。

 まず、曹洞宗と言ったら「修証一如、只管打坐」である。ただひたすら坐る。坐ることそのものが目的(=悟りそのもの)と言えば聞こえはよろしいが、やっぱり、修証一如が感得できるレベルになるまでの何らかの心的階梯はあるはずで、よほどの天才でない限り、「黙って坐ればピタリと悟る」というわけにはいかないだろう。幸運にも悟ったあとにこそ、はじめて修証一如が実感(あるいは体現)できるわけで、それまでは坐禅はどうしたって悟りのための手段にならざるを得ない。
 では、どのように坐禅をすれば悟りに近づけるのか。
 そこのところが、不親切というか曖昧模糊としているように思うのだ。たとえば、お釈迦様の直説による最古の経典群を重んじるテーラワーダ仏教(上座部仏教)と比べてみたとき、曹洞禅の方法論のおぼつかなさは歴然としている。

 一方の臨済宗は、悟るための手段として公案を用いる。大拙は臨済宗の人なので、本書には公案についての記述が多い。その公案がなんともチンプンカンプンである。

公案は文学的には公文書、あるいは権威的法規を意味するもので、宋朝の末期に流行した言葉であった。現在では古の禅師の逸話、あるいは師匠と弟子の間の問答、または禅師によって提出された命題質問を意味し、すべて心を開き、禅の真理に導くための方法として用いられている。勿論初期にあっては今日吾々の知るような公案はなかった。これは後世の師匠達が、その溢れんばかりの老婆心から天賦のない弟子の精神的進化を強いて計らんがために工夫された一種の人為的手段である。

 本書に挙げられている公案の一つを挙げよう。

兎と馬とに角がある
牛と羊とに角がない
豪末ほどの塵もここにはない
しかも山の聳えるごとくに巍巍堂々としている
黄金の霊骨は今もなお存在している
白浪が滔々として天を浸すとき、どこに手の着けようがあるか
着けようはどこにもない
その昔、達磨は隻履を下げて西へ還って行ってしまった

この英訳を見てみたいものだ。
まるでマザーグースの一節のようではないか。

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 さらにもう一つある。禅を分かりにくくしているのは、あるいは本書の記述を分かりにくくしているのは、禅という言葉の用い方にある。
 本書では、同じ一つの「禅」という語が、幾通りかの異なった意味で用いられている。
 すなわち、
  1. 大乗仏教の一宗派(仏心宗)を意味するものとしての「禅」
  2. 悟りという目的(あるいは境地)を意味するものとしての「禅」
  3. 悟りへ至る手段としての坐禅や公案を意味するものとしての「禅」
  4. 修行中の、あるいは悟った後の日常生活のあり方を意味するものとしての「禅」

 大拙は本書で自在にこの使い分けを行っているのだが、上記の「禅」という言葉の多義性に関する解説や注釈がいっさいないので、読む者はわけが分からなくなってくる。事物を理解するのにまずもって明確な定義を求める習慣のある欧米人にしたら、なおさらであろう。
 なるほど、「禅」の妙味は、それが手段であり、目的であり、日常生活スタイルであり、一つの教えであるところにこそあるのだろう。それらを一つ一つ切り離すことは適当でない。大拙の記述には何ら不適当はない。
 ただ、やっぱり不親切を感じるのも事実。ことさら謎めいたふうを装うことで禅に対する欧米人の関心を掻き立てようという、世界進出における戦略の一端だったのかもしれないが・・・。


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金沢にある鈴木大拙館

 
 ソルティは、大乗仏教の中で最もテーラワーダ仏教、すなわちお釈迦様の直説に近いのが禅だと思う。
 神や霊魂の存在を説かない、偶像崇拝や儀式をありがたがらない、お題目や真言のたぐいの呪文に頼らない、極楽往生ではなく悟りを目的とする、悟るための修行を重視する、といったあたりはテーラワーダ仏教と通じるものがある。
 一方、方法論について、両者はかなりの隔たりがある。
 テーラワーダ仏教では、八正(聖)道や瞑想法といった悟るための方法論が体系的にしっかり構築され明示されている。智慧の醸成による悟りへの階梯が明晰に説かれ、修行者が自分の瞑想の進み具合を知ることのできる指南書さえある。きわめて合理的でシステマティックで、曖昧模糊としたところも神秘もない。テーラワーダ仏教のエッセンスである輪廻転生や解脱といった教理をスムーズに受け入れられるかどうかはともかくとして――19世紀の西欧人は仏教を虚無の信仰と怖れた――教義や方法論の理解という点では、欧米人も取っつきやすいであろう。
 それに比べると、只管打坐にせよ、公案にせよ、禅の方法論はまるで東洋の神秘そのものである。性急な性分のソルティにしてみれば、禅の修行者たちはよくもまあ、この曖昧模糊たる悟りシステムに耐えられるなあと感心してしまうのである。
 
 

評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ネットカフェ行者

最近、ネットカフェによく行く。

通勤圏内の3店舗のネットカフェの会員カードを常に持ち歩き、2~4時間の空き時間あれば手近な店に立ち寄る。
昔だったら、そういう空き時間は喫茶店やファーストフード店で暇をつぶしていたのだが、ネットカフェの利便性に目覚めてしまった。

喫茶店と比べると、
  1. フリードリンク
  2. 飲食物持ち込み自由
  3. 静かで、ほどよく暗くて、落ち着ける
  4. 個室なので人目を気にせず好きなことができる
  5. 横にもなれる
  6. インターネットや電源も使い放題
  7. 課金制で好きなだけ滞在できる
  8. 漫画や雑誌がたくさんある
  9. シャワーも利用できる
自分の場合、ネットカフェにある漫画や雑誌を読むことも、シャワーを使うこともほとんどなく、持参したレンタルDVDの映画を観たり、本を読んだり、ブログを書いたり、You Tubeでクラシック音楽を聴いたり、睡眠不足を補ったりしている。
これらはもちろん自宅でもできるし、自宅でもやっている。
が、ネットカフェのほうがより集中して、映画にも、読書にも、執筆にも、音楽鑑賞にも、睡眠にも(?)取り組める。
たぶん、せいぜい畳一帖分のコックピットのごとき閉鎖空間ゆえであろう。
とりわけ、家で観るにはちょっと覚悟が要るような重厚な長い映画などは、ネットカフェ向きである。


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先日、ネットカフェの新しい利用法を発見した。
瞑想である。

瞑想もまた、家でも喫茶店でも列車の中でも公園でもどこでもできる。
けれど、静かで、ほどよく暗くて、人目を気にせず座禅が組めて、トイレも飲み物もついているネットカフェは、最高の瞑想空間なのである。
雨や風、寒さや暑さに関係なく、その気になったそのときに、24時間いつでも瞑想することができる。
今まで気づかなかったとは、なんとも迂闊であった。

瞑想する時はふつう、二つ折りした座布団や坐布と呼ばれる専用クッションをお尻の下にあてがう。
そうすると、腰を立てて、背筋をまっすぐに、長時間同じ姿勢が保てる。
しかし、座布団や坐布を常に持ち歩くのはさすがに邪魔だ。
ネットで調べたら、空気を入れて膨らませるタイプのビニール坐布があった。
これなら、それほどかさばることがないので、カバンに入れて落ち運ぶことができる。
100円ショップで空気ポンプと滑り止めになるような布カバーを購入した。
気分を落ち着けるためのアロマオイルもセッティング。
「どこでも瞑想セット」の完成である。


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どこでも瞑想セット
布カバーの正体は女性用ナイトキャップ

















● 働かざる者、食って良し 本:『ベーシックインカムへの道』(ガイ・スタンディング著)

2017年原著刊行
2018年プレジデント社より邦訳発行

 ベーシックインカムとは、個人に対して、無条件に、定期的に、少額の現金を給付する制度のことである。
 無条件なので、年齢、性別、婚姻状態、就労状況、就労歴、年収には関係ない。まったく働いてなくて無収入の人も、年収数十億という人も、子供も老人も、基本同じ額がもらえる。

 90年代半ばにこの言葉を最初に聞いたとき、「なんて素晴らしい制度なんだ!」と思った。ちょうど失業中だったせいもある。失業保険をもらっていたのだが、それがあと数日で切れるというのに次の職が決まっていなかった。そのうち貯金も尽きてしまい、アルバイトでつなぐしかなかった。時給950円のコンビニの夜勤をしながら、家賃と光熱費を払い、国民健康保険や国民年金や住民税の納付書を若干の後ろめたさを覚えながら引き出しの奥に押しやり、仕事を探し続けた。うっかり病気になることもできなかった。昔の友人から結婚式の招待状が届いたが、交通費と祝い金をひねり出すことができず、欠席した。
 たまっていくお役所からの納付書を見ながら、「ああ、こういう生活が数年も続いたら、社会から脱落し、破綻するだろうなあ」と思った。毎月給与が保障されて有給休暇があって保険も年金も厚遇されている、多くの日本人が属している会社員という身分からいったん外れると、転げ落ちるように貧困化、脱社会化していき、そこから這い上がるのは容易ではないのだなあ、とつくづく思った。
 そんなときベーシックインカムという言葉に出会ったのである。

 この制度があったなら、失業しても安心して生活が営める。
 落ち着いた心持ちで自分に合った仕事をじっくり探すことができる。
 そのための職業訓練や資格取得のための勉強もできる。
 心身の調子が悪いならば(長い人生、そういう時期は誰にだってあるはず。当時のソルティも実はそうだった)、具合が良くなるまで働くのを控えて養生することもできる。
 そうだ、思い切って起業だってできるではないか。たとえ失敗して破産したところで、ベーシックな生活費だけは保障されるのだから、文無しになるのを恐れる必要がない。
 なによりも、失業保険をもらうために毎月ハローワーク(当時は職業安定所)に行って、机の向こうの愛想のないお役人から侮蔑と不信の眼差しを向けられ、ポジティブな気分を損なわれながら、働く意思の表明をし続ける必要もない。
 
 いいことずくめに思われた。
 だが一方、実現可能性については「夢物語」という気がした。
 なによりも莫大な費用がかかる。
 日本国民全員に生活保護レベルの、とはいかないでも国民年金レベルの現金を毎月給付するとしたら、単純計算で年間、120,000,000人×70,000円×12ヶ月=100,800,000,000,000(100兆8千億)円の予算が要る。現在の日本の年金給付費は年間60兆円近いから、40兆円足りない。(ちなみに、生活保護負担金は年間4兆円に満たない) どこから捻出できるというのか?
 また、もし働かないでも暮らせる仕組みができてしまったら、だれも働かなくなって経済は破綻してしまうのではないか? 社会は回らなくなるのではないか?

 そのうちに正社員の仕事が見つかって、ベーシックインカムについて考えるのはペンディングになった。
 が、その後、別の理由から再びこの制度について考えるようになった。
 仏教と出会ったためである。

雲辺寺五百羅漢 
四国霊場66番雲辺寺の五百羅漢


 仏教を学んで瞑想修行するようになると、だんだんと俗世間がわずらわしくなってくる。9割がた(?)金と成功と娯楽への追求で回っている社会から、できるだけ身を引き離したくなる。贅沢にも社交にも関心が薄くなり、そこそこ生活できるくらいの収入でも瞑想さえできれば満足がいくようになる。厭離が高じると、修行者は出家を考えるだろう。
 が、そこでネックとなるのが、我が国の仏教文化には出家者の集まりであるサンガというものがなく、サンガの生活を支えるための在家仏教徒による喜捨という習慣が根付いていないことである。タイやスリランカやミャンマーなど原始仏教の伝統を守る国々に行けば、袈裟と鉢以外は何一つ持たない出家者が毎朝街に行って乞食し、その日の分の食べ物を容易に得られるさまを目にすることができよう。寺や精舎(住まい)も寄進される。そうやって、在家の人たちは出家者の修行生活を支えることで功徳を積み、自らの極楽往生や来世でのいっそうの幸福を願うのである。
 あるいはまた、修行の結果にせよ偶然にせよ、悟りをひらいた人は俗世間に馴染まない。「我」が非常に薄れるためである。(悟りの最終段階である阿羅漢になると、「我」がなくなると言う) いまの日本で下手に悟ってしまったら、もともと資産家でない限り、河川敷のホームレスにでもなりかねない。
 仏道を歩もうと志した者が、雑事に悩まされることなく安心して修行に邁進できて、めでたく悟った暁にはさらりと世間を捨てられる。それを可能にするシステムとして、ベーシックインカムは理想的である。
 いや、話はなにも仏道に限らない。
 お金にはならないけれど自分のやりたいことを持っている人間にとって、この制度は自由と自己実現を叶える手段となる。
 働かざる者、食って良し。

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 この本は、ベーシックインカムへの賛成論と反対論を一とおり読者に紹介することを目的としている。

 読者にベーシックインカムの基礎知識を提供し、掘り下げた紹介をすることにある。ベーシックインカムとはどういうものか、この制度が必要な理由として挙げられてきた三つの側面、すなわち正義と自由と安全について論じ、あわせて経済面での意義にも触れる。また、さまざまな反対論も紹介する。とくに財源面での実現可能性の問題と、労働力供給への影響についても検討する。さらに、実際に制度を導入するうえでの実務的・政治的な課題も見ていく。
(標題書より抜粋、以下同)

 著者のガイ・スタンディング(Guy Standing →立っている男?)は経済学者で、ベーシックインカムの世界的啓蒙団体BIEN(Basic Income Earth Network)の共同創設者である。BIENは1986年に発足、その後30年以上にわたって研究や政策提言や市民運動に取り組んできた。日本を含む(!)世界各国に支部や連携団体を持っている。
 ソルティはたまたま図書館で目に入った本書を選んだのだが、ベーシックインカムの歴史的経緯、国際潮流、様々な地域における試験プロジェクトとその結果、もちろん意義と実現可能性までを記した総合的な入門書として、おそらく最適な一冊であろう。
 副題に「正義・自由・安全の社会インフラを実現させるには」とある。

 本書でガイが挙げているベーシックインカムの賛成論と反対論を大まかにまとめると、以下のようになる。

【賛成論】
  • 社会正義を実現する手段となる
  • 自由を拡大できる
  • 貧困、不平等、不安定を緩和する
  • 経済面でもフィードバック効果を生む
【反対論】
  • 財源を確保できない
  • 怠け者が増え、労働力の供給が減る
  • 賃金の下落につながる
  • 福祉国家の解体につながる
  • 金持ちにも金を配るのは馬鹿げている
  • 浪費を助長する
  • 移民の流入が加速する
  • インフレを起こす  e.t.c.

 それぞれの理由の詳しい説明は本書にまかせるとして、賛成論のうちの「自由を拡大できる」について、ガイの挙げている具体例を引用しよう。すごく納得いくと思う。
 
  • 困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
  • 経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
  • 賃金が減ったり、不安定化したりしていても、いまの仕事を続ける自由
  • ハイリスク・ハイリターンの小規模なベンチャー事業を始める自由
  • 経済的事情で長時間の有給労働をせざるをえない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
  • 創造的な活動や仕事に取り組む自由
  • 新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
  • 官僚機構から干渉、監視、強制されない自由
  • 経済的に安全を欠く相手と交際し、その人と「家庭」を築く自由
  • 愛情を感じられなくなったり、虐待されたりする相手との関係を終わらせる自由
  • 子どもを持つ自由
  • ときどき怠惰に過ごす自由

 反対論のそれぞれについて、ガイは論破なり解決策の提示なりを行っている。
 たとえば、ベーシックインカムが成立すると弱者に対する公共サービスや福祉給付などが廃止されかねず「福祉国家の解体につながる」という反対意見に対しては、「高齢者や病弱な人、障がいがある人への給付を上積みする」という論者の意見も提示している。
 最大の難題たる財源に関しての議論は、ソルティは経済にも数字にも弱いので正直何とも言えない。ただ、日本はほうっておけば2065年には2.6人に1人が高齢者(65歳以上)になるわけで、年金の受給開始年齢を幾分引き上げるとしても、国民の相当数がベーシックインカム状態になる。加えて、若い人に面倒を見てもらわなくてはならない立場になる。国を挙げて若い人の生活を保障してあげる義務があろう。
 「労働力の供給が減る」という問題については、過去に世界各地で行われた数々のベーシックインカム試験プロジェクトの結果から、「ベーシックインカムが導入されても労働力は低下しなかった」ということが明らかになっている。
 そりゃあ、そうだ。ビル・ゲイツはなぜ今も働いているのか。タモリやイチローはなぜ南の島で安楽な余生を送らないのか。
 
多くの国の世論調査の結果を見ると、ベーシックインカムを受け取れるとしたら、働く量を減らすかという問いに対し、圧倒的大多数はそのつもりがないと回答している。しかし、ほかの人たちが働く量を減らすと思うかという問いに対しては、そう思うと答える人が多い。要するに、「みんなは怠け者だが、自分だけは違う」と思っているのだ。
 
 ほとんどの人はより“良い”暮らしを望むから、ベーシックインカム収入だけで満足することはないだろう。日本人は特に「仕事が生きがい」の人は多いから、なんだかんだ言っても働くことはやめないと思う。
 
 さらに、日本人ということで言えば、ベーシックインカムは我が日本国憲法の精神をもっともシンプルに実現する手段である。
 
 日本国憲法第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 
 この第25条が現行の生活保護制度の基盤となっているのであるが、資力調査を前提とする生活保護制度は、手続きが煩瑣で、個人や親族のプライバシーに踏み込まれ、受給者に「負け組」スティグマを与えるなど、いろいろと問題も多い。そして、一定以下の年収で働きながら税金や医療保険や医療費を納めている人より、それらが免除されている生活保護世帯のほうが相対的に家計支出が少なくなる、という逆転現象が起きているので、なかなか生活保護をやめて就労しようというベクトルが生まれない。
 ベーシックインカムなら、すべての国民に「最低限度の生活を営む権利」を無条件で保障できる。

 
野菊
 
  
 さて最後になるが、実は本書を読んでソルティが一番度肝を抜かれたことは、ガイが賛成論のいの一番に持ってきた「社会正義を実現する手段となる」という理由であった。
 ベーシックインカムと社会正義?
 どういう意味?

ベーシックインカムは、どのような倫理的・哲学的根拠によって正当化できるのか? 根幹を成す主張の一つは、社会の富はみんなのものという考え方の下、社会正義を実現する手段になるというものだ。

ベーシックインカムは、先人が創造・維持してきた社会共通の遺産から給付される社会配当、そして、万人のものである共有地と天然資源が生み出す収益の分け前と位置づけられる。


 ガ――ン!

 そうであった。
 ソルティも子供の頃、不思議に思ったものだ。
   
 大地はだれのもの?
 海はだれのもの?
 森はだれのもの?
 川はだれのもの?

 人類みんなのもの、否、地球上の生命すべてのものじゃないか。

 なのに、なぜ大地から取れるダイヤモンドや石油が一部の人だけに独占されるの?
 なぜ海の魚が特定の国に乱獲され、しかも大量廃棄されるの?  
 なぜ森の木々が一企業によって伐採され、山肌が剥き出しにされるの?
 なぜ原価タダの川の水が、ペットボトルに入れられると有料になるの?

 あなたたちは私を裏切った・・・(グレタ・トゥーンベリ?)

 万人の共有財産から得られる収益に対して、我々は配当を要求する権利がある!
 いや、そもそも共有財産の用い方について本来なら決定に参加できる権利がある!
 なぜなら、用い方によっては甚大な健康被害を受けることになるのは、ほかならぬ地球市民一人一人なのだから。
 社会正義を実現するとはこういう意味だったのだ。

 ここまでくると、ベーシックインカムが単なる貧困対策とか働き方改革といった制度上の概念ではなく、ひとつの社会思想であることが見えてくる。人類の意識を根底から変え得る、フランス革命を導いた人権思想の如き、パラダイムシフトの手段たりうることが予見される。

 まさかそこまでのものとは思わなかった。


青龍寺の猫
砂浜でドッジボールに興じる高校生ら(四国霊場36番青龍寺付近)
 


評価:★★★★ 

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 公案としての人生 映画 : 『禅と骨』(中村高寛監督)

2016年
127分
配給:トランスフォーマー


 京都天龍寺の禅僧ヘンリ・ミトワ(1918-2012)の生涯を描いたドキュメンタリー。
 生前の本人および妻子や友人知人へのインタビュー、過去の様々な資料(写真やホームビデオや雑誌記事や政府の公式記録など)の使用のほか、青年時代のヘンリ・ミトワをウエンツ瑛士、その母親を余貴美子が扮して再現ドラマ化、一人の男の人生の再構成をはかっている。


 映画にならなければほとんどの日本人は存在を知ることなかったであろうこの禅僧を、中村監督はなぜ対象に選んだのか。
 一言で言えば、人間的魅力からであろう。


 ドイツ系アメリカ人でチャップリン映画の配給をしていたという父親と、新橋で芸者をしていた母親との間に生まれたハーフ。それが原因で戦時中は日本にいては警察に目を付けられ、アメリカに移住してはスパイ疑惑により収容所暮らしを余儀なくされた。
 ラジオ製作や家具づくり、絵画や茶道や陶芸、通訳に雑誌づくり、果ては映画製作にまで手を広げる多才さ、器用さ。
 妻子をアメリカに残して一人来日、禅僧として厳しい修行をこなし、いまや仲間うちから一目も二目も置かれる仏教者。
 一方、家族の中では独裁者として畏れられ、煙たがられ、成人した子供たちとの関係や亡き母親への思慕と悔悟に苦悩する煩悩の徒。
 それが人生も終わりに近づき、突如として一念発起、童謡「赤い靴」の映画化にロマンを賭ける。


 たしかに波乱万丈、自由奔放、奇天烈至極な人生である。
 結局、念願の『赤い靴』映画化は叶わなかったけれど、それ以外、「やりのこしたことはまったくあるまい」と傍からは思えるような、本人も十分満足しているであろうと思えるような人生である。
 ところが、当人はカメラに向かって吐露するのだ。
 「この人生、生きたほうが良かったのか。まったく生きなかったほうが良かったのか?」


 観る者は、映画前半のミトワの屈託ない笑顔と鷹揚たる言動に、「悟った坊さんがここにいる」という印象を持つ。
 それが後半、あたかも「化けの皮がはがれた」かのように、映画製作の野心に取りつかれ、肉親との愛憎に振り回され、映画スタッフに対して「ぶっ殺す」と凄む、一人の老いた俗人を見る。
 人間性の複雑さよ。


 この映画を観ていてソルティが連想したのは、オーソン・ウェルズ監督、主演の『市民ケーン』(1941)であった。
 新聞王と言われ実業家として成功したケーンが死の床でつぶやいた最期の言葉、「バラのつぼみ」。
その言葉の謎を探ろうと一記者はケーンの生涯を追う。
 ラストシーンで観る者は、この「バラのつぼみ」にまつわる少年時代のエピソードこそが、ケーンの生涯を決定づけ、成功と称賛に向かって彼を駆り立てた要因だったと知る。
 ミトワにとっての「赤い靴」は、ケーンにとって「ばらのつぼみ」に相応するようだ。


 一人の男の人生の謎を描いたものとして、面白いし、よくできていると思う。
 ドラマ部分のウエンツ瑛士も余貴美子も適役で印象に残る好演である。
 母への思慕に物語を収斂させたがるスタッフの意図がいささか作為的な感もあるけれど、成人して人の親となったいまもミトワにアンビバレントな思いを抱く次女のエピソードなど、家族というテーマの抜き差しならない深さ、重さ、すなわち「業」を抉り出しているのは見事である。


 一方、せっかくの禅僧なのだから、その部分にも肉薄してほしかった。
 つまり、ミトワにとっての禅の意味、仏教の価値を追求してほしかったと思う。
 そもそもなんでミトワが出家したのか、禅のどこに惹かれたのか、観る者には知らされない。
 これは、監督の宗教観、仏教観(あまり仏教に関心がない?)ゆえなのだろうか。
 それとも、ミトワが仏教を語るシーンが全然ないのは、不立文字である禅の必然性なのか。
 あるいは、ミトワの自家撞着してるような人生そのものがひとつの「公案」であり、それを解くのはこの映画を観るひとりひとりに託されているということなのか。


赤い靴




評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳著)

2018年文藝春秋新書

 明治維新が起こって、新政府がまっさきに行ったことの一つが神仏分離であった。これからの日本が目指す祭政一致体制(=天皇が政治上の君主と宗教上の司祭者とを兼ねる)をつくるための最初ののろしであった。
 
 仏と神の切り分けは、1868(慶応4)年3月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されていった。1868年10月まで断続的に続けられた一連の12の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる。

 神仏分離令は王政復古、祭政一致に基づいて、あくまでも、神と仏を区別するのが目的の法令だった。その内容は神祇官の再興、神社における僧侶の還俗、権現号の廃止、神葬祭への切り替えなどである。
 しかし、為政者や神官の中には、この神仏分離を拡大解釈する者が現れた。

 拡大解釈――それが廃仏毀釈であった。

 本書は、神仏分離令をきっかけに日本各地で巻き起った凄まじい廃仏毀釈の模様を描き出し、その背景にあった要因を探るルポルタージュである。
 著者の鵜飼秀徳は、報知新聞社や日経BP(Business Publications)に勤めていたジャーナリストで、同時に京都にある浄土宗正覚寺の副住職としての顔を持つ。まさにこのテーマを追うにうってつけの人物と言えよう。

 もちろん、ソルティも日本史の授業で神仏分離・廃仏毀釈は習っていた。
 だが、実際のところ、どのような規模でどのような類いの廃仏毀釈が行われたのかは知るところではなかった。
 本書を読んで、蛮行とも日本史の汚点とも言って過言ではない仏教抹殺のさまに驚かされた。2001年にアフガニスタンのバーミヤンの大仏(磨崖仏)がウサマ・ビン・ラディン率いるタリバンによって破壊されるという事件があった。世界はこれを非難したけれど、少なくとも日本人にはそれを非難する資格などなかった。明治維新で日本人がやったことは、タリバンに勝るとも劣らない伝統文化と仏教美術の取り返しのつかない大破壊だったのである。


バーミアンの石仏 (3)
破壊されたバーミヤンの石仏
  
 廃仏毀釈にたいし、新政府は度々、戒める布令を出すが、コントロール不能な状態に陥った。
 廃仏毀釈が与えた仏教界への影響は甚大である。多くの仏教建造物、仏像、仏具、経典が灰燼に帰した。廃仏毀釈によって9万あったと推定される寺院は半分の4万5千ほどになった。廃仏毀釈がなければ日本の国宝はゆうに三倍はあったともいわれる。

 著者は、比叡山、水戸、薩摩、長州、宮崎、松本、苗木(岐阜県)、隠岐、佐渡、伊勢、東京、奈良、京都の廃仏希釈の実態を調査し、その土地ならではの当時の政治・文化・宗教的背景を読み解きながら、過激な廃仏毀釈に至った要因を探っている。
 たとえば、もっとも徹底的に寺院が破却され、1874(明治7)年時点で寺院・僧侶ともにゼロになってしまった薩摩(鹿児島県)の場合、
  1. ときの藩主であった島津斉彬が国学に傾倒していたこと
  2. 寺院に使われていた金属(鐘、仏像、仏具など)が軍備拡充と財政上の理由から徴収されたこと
  3. もともと「外城制度」「郷中教育」という薩摩独自の領内支配システムや武家教育システムがあり、地域の住民と寺との関係が極めて弱かったこと
などを要因として挙げている。結果、現在鹿児島県には仏教由来の国宝、国の重要文化財が一つもないとの由。
 知らなかった。
 他にも、
  • 比叡山延暦寺が長年支配していた大津坂本の日吉神社では神官らが暴動を起こし、社殿に安置されていた仏像や仏具、経典を焼き捨てた。
  • 寺がほとんどなくなった宮崎県南部では、いまも葬式の半分が仏式ではなく神式で実施されている。
  • 岐阜県東白川村はいまも日本の自治体で唯一「寺のない」村のままで、仏教徒はほとんど存在しない。
  • 隠岐では島民が血判状を作り、仏教から神道への改宗を誓った。破却された寺院の鐘や銅鑼は売却され、学校設立のために使われた。
  • 伊勢神宮の裏手にあった菩提山神宮寺は、奈良の東大寺や興福寺と並ぶ威容を誇った古代寺院であったが、1869年の明治天皇行幸に際して廃寺となった。三河の漬物商人・角谷大十によって救出された本尊(毘盧遮那仏)は、現在愛知県碧南市の海徳寺にある。(観に行きたいものだ)
  • 奈良の興福寺にあった天平時代の仏像の多くが、警官たちが暖をとる為に火にくべられた。あの国宝美少年の阿修羅像も金堂の片隅に無造作に放置された。五重塔はわずか25円(現在価値で10万円)で売り払われた。
  • 奈良公園のシカは、すき焼きにされて食べられ、一時期絶滅の危機に瀕した。
 ・・・・とまあ、面白い(と言ったら不敬、いや罰当たりだが)エピソード満載である。

 ソルティは偶像崇拝には興味ないのだが、歴史的&美術的価値の高い仏像や仏教建築の数々が、文明開化のわずか数年に大量破壊されたのは、「なんたる愚!」と嘆息せざるを得ない。
 もちろん、破壊を手をこまねいて見ていた者ばかりではなかった。上記の漬物商人のように、心の拠り所となるお寺や仏像を守るために、「寺を焼くなら、私を焼け」と孤軍奮闘した住職や、仏像を密かに持ち出すなど知恵を絞った者のエピソードも紹介されている。
 彼らの極楽往生間違いなし。


奈良公園のシカ (2)
神仏の使いとされる奈良公園の鹿さん


 著者は、神仏分離が極端な廃仏毀釈に至った要因として、次の4つを挙げている。カッコ内ソルティ注釈)
① 権力者の忖度(地域の権力者が明治新政府に媚を売った)
② 富国策のための寺院利用(寺院にある金属の徴収や土地建物の学校への転用)
③ 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性(為政者だけでなく大衆もまた仏教破壊に加わった)
④ 僧侶の堕落

 僧侶の堕落については、興福寺の例がわかりやすい。
 平安時代以降、本地垂迹説に基づき、興福寺は春日大社を配下に収めていた。1868年4月7日に大和国鎮撫総督府より春日大社における権現の廃止命令が下る。すなわち、お寺と神社の支配関係の逆転が決定的となった。
 すると、
 
 4月13日、塔頭の大乗院・一乗院が、連名で鎮撫総督府宛に「復飾(還俗)願い」を提出する。当局からの命令が出される前に、先手を打ったのである。
 復飾願いの文言をみると、仏教者としての矜持がまったく感じられない、驚きの内容であった。そこにはこのように書かれている。
「歴史的に興福寺は春日大社と深い関係にあり、社殿の造営から儀式、管理にいたるまで差配してきました。とくに大乗院と一乗院は交替で別当職をつとめてきました。しかしながらこのたびの神仏分離の政府方針を受けて、率先して還俗することとします。そこで、改めて春日大社の神主として奉職させていただき、勤王の道を第一として、尽力させていただきたく――」(著者要約)


 本書を読んで思うのは、為政者にせよ、僧侶にせよ、大衆にせよ、いったい日本人にとって仏教とは何なのか、宗教とは何なのか――ということである。
 支配者が変わり制度が変われば、こんなに簡単に仏教から神道に鞍替えできる変わり身の早さ、腰の軽さはなんだろう? キリスト教社会の異端尋問の歴史とくらべると、良くも悪くも、「なんと宗教意識の低い、信仰心の薄い民族か」と思わざるを得ない。
 これは日本人の現世志向の強さを表しているのか。それとも、お上に弱い国民性を示しているのか。あるいはまた、神と仏の二股かけてどちらに転んでも救われんとする要領の良さの現れなのか。

 現職の僧侶である鵜飼は、最後にこう締めくくっている。

 一連の調査を終え、私はこうも考える。明治以降も仏教が消滅することなく、今日まで続いてきているのはある意味、廃仏毀釈があったからではないか。これほどまでに多大な犠牲を払ったことは極めて残念なことではあるが。
 これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという「プラスの側面」も、廃仏毀釈にはあったのではないか、と考えるのだ。

 現状認識の正確さと問題意識の高さは、やはりジャーナリズムに身を置いて実社会を見てきた人間の面目躍如である。
 昨今の葬礼事情を鑑みれば、明治維新ほどではないにせよ、大衆の(大乗)仏教離れは否めない。社会における、あるいは個人における仏教の役割が問われているのは間違いなかろう。
 

首無し地蔵
四国遍路中に出会った愛媛県某山中の首無し地蔵
(後ろにいるのはへんろ道を整備するボランティアの方)



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 古刹とハーケンと摩崖仏 鷹取山(139m)

関東に住むこと45年、山登りを趣味として15年余になるというのに、こんな面白い山が身近にあったとは知らなかった。

標高139メートルは山というより丘に近いが、清らなる森の大気、広々と気持ちいい山頂、360度の見事な眺望、奇岩・絶壁のそそり立つ珍景、古刹と摩崖仏が語る信仰の歴史、枝先を走るムササビ・・・と、一度は訪れるに足る楽しい山である。

鷹取山は、神奈川県逗子市と横須賀市の境に位置する。

● 日時 2019年10月28日(月)
● 天候 はれ
● 行程
13:00 京浜急行神武寺駅
       歩行開始
13:35 神武寺
14:20 鷹取山展望台
       昼食休憩
14:45 出発
15:00 摩崖仏
15:40 京浜急行追浜駅
       歩行終了
● 所要時間 2時間40分(歩行2時間10分+休憩30分)
● 最大標高差 131m

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京浜急行神武寺駅より歩行開始

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ハイキングコース入口

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逗子中学校の前を通過し・・・



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特別養護老人ホーム「せせらぎ」の裏手から


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山道に入る


鷹取山は凝灰岩の産地で、明治から昭和にかけて採石場として栄えた。
凝灰岩は柔らかで加工しやすいため、家屋の基礎や塀、護岸などの建築土木用材として愛用された。
良くも悪くも、その歴史が鷹取山の山頂付近の奇抜な景観を作ったのである。

広葉樹に囲まれた沢沿いの気持ちのよい道を15分も上ると、神武寺に到着する。


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神武寺鐘楼


医王山神武寺は、724年聖武天皇の命を受けた行基が、この地に十一面観音と釈迦・薬師如来を祀ったことに始まる。
鎌倉時代には、源頼朝をはじめ幕府の手厚い保護を受けたらしい。
お寺というより神社のような雰囲気のある境内である。

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薬師堂
本尊は秘仏となっている

お堂の左手の階段を上りきると尾根道に出る。
ごつごつした岩の道をいくつかのピークをたどりながら進むと、垂直に切り立った岩壁が突如として現れる。
岩登りのグループの嬌声が響く。

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岩壁のてっぺんに展望台があり、そこが山頂となる。

山頂からはほぼ360度の素晴らしい景色が望める。
高度を考えると、かなりトクな気分。

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横浜方面

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追浜方面

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米軍横須賀基地方面
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逗子方面

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富士山方面
冬の晴れた日はよく見えるらしい


展望台でおにぎりを頬張っていると、地元の中学生たちが息をつきながら上がってきた。
体育の授業だろうか。
みな半袖・半ズボンである。
ソルティの中学時代の級友らとくらべると、概して賢そうな顔立ちをしている。

山頂から見下ろす山肌の一角に摩崖仏がのぞく。
あそこまで行くのか。

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山頂付近は採掘されたあとの岩が立ち並び、一種異様な景観をつくっている。
ここでUFOが目撃されても驚かない。
房総半島の鋸山に似ている。(先だっての台風19号で大きな被害を受けた地区である)

岩肌に穿たれた無数の穴は登山練習のハーケンが打ち込まれた跡である。
基本、岩登りは禁止されているのだが、たしかに登高意欲がそそられる斜面。


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15分ほど下って摩崖仏にお目見え。
横須賀在住の彫刻家藤島茂氏が、昭和40年ごろに制作した弥勒菩薩像である。


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無事下山し、追浜駅へ。
途中に鷹取温泉という名の銭湯があるのをガイドブックで知り、ひと風呂浴びようかと思っていたのだが、休業であった。
残念!

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京急の踏切を渡ってすぐに、北原のパンという老舗がある。
ここで、ウエハースとぶどう食パンを買った。


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追浜駅周辺は人や車の往来が盛んで、一見賑わいでいるようなのだが、アーケードを歩くとシャッターの閉まった店が目立つ。

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追浜駅
歩行終了

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駅前通り

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京急に乗って帰途につく


殺人的熱さの夏、台風や大雨の続いた秋、なかなか山登りの機会がなかった。
これからいよいよシーズンである。















● 本:『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)

2017年原著刊行
2018年早川書房

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 この本がどんな本なのかは、解説の魚川祐司(主著『仏教思想のゼロポイント』)が端的かつ的確にまとめている。

(一)現代人の一人として仏教者でない人々とも感覚を共有する著者が自ら瞑想を実践し、
(二)仏教の説く「真理」を科学的な知見を裏づけとしつつ語り直して、
(三)さらにその実践と哲学を、究極的には単なる「いやしの道具」としてではなく、むしろ「精神的」な探求の道として、私たちに提示しようとする著作である。

 原題は WHY BUDDISM IS TRUE 「なぜ仏教は正しいか」。
 なんとも大胆にして自信満々なタイトルである。
 その自信の根拠となっているのは、科学ジャーナリストである著者の有する最先端科学(神経科学、心理学、進化心理学e.t.c.)の知見と、著者自身がマインドフルネス瞑想(=ヴィパッサナー瞑想)体験で得た智慧とである。
 とくに本書では、ダーウィンの自然選択説をもとに人類の心のメカニズムを説明しようとする進化心理学の記述が多い。

進化心理学(evolutionary psychology)とはヒトの心理メカニズムの多くは進化生物学の意味で生物学的適応であると仮定しヒトの心理を研究するアプローチのこと。
(ウィキペディア「進化心理学」より抜粋)

 ソルティが「なるほど!」と膝を叩いたのは、この進化心理学の考え方によって、「人類がなぜ苦しみから抜けられないのか、なぜ幸福になれないのか」、すなわち仏教でいうところの「一切行苦」や「無明」を見事に説明しうるのである。

 結局のところ自然選択は一つのことしか気にかけていない(ここはかぎかっこをつけて、一つのことしか「気にかけていない」とするべきだろう。というのも、自然選択はやみくもに進むプロセスでしかなく、意思を持つ設計者ではないからだ)。自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生き抜いてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。
 だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれた場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解だ。そのような知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。
 脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている。

 しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。

(ゴチックはソルティ付す、適宜改行)

 生の目的が「遺伝子を残すこと」にあり、そのためにヒトが「最適化」されているのであれば、仏教で言うところの三毒(貪・瞋・癡)、すなわち食欲・性欲に代表される「欲(貪)」、生殖のライバルを蹴落とすために動員される「怒り(瞋)」、そして妄想を妄想として見抜くことのできない「無知(癡)」は、当然なくてはならない基本スペックとなる。結果、ドゥッカ(苦、不満足)は常につき従う。
 ヒトはあたかも不幸になるように設計されている。(他の生物もだが・・・)

 この馬車馬のような「生」、ロボットのように機械的な「生」から抜け出したいのならば、あるいは(本書でも引用されている)映画『マトリックス』の主人公ネオ(=キアヌ・リーブス)のように「妄想ととらわれの人生」から脱して「洞察と自由の人生」に飛び込みたいのならば、すなわち生の目的を「幸福になること」に設定し直したいのならば、仏教(とくにテーラワーダ仏教)を学ぶに如くはない、マインドフルネス瞑想の実践に如くはない。
 それが著者の一番言いたいことである。

 人の脳は、飛びこんでくる入力にかなり反射的に反応するよう自然選択によって設計された機械だ。感覚器官からの入力に、支配されるよう設計されているといってもいい。支配のかなめとなるのは入力に反応して生じる快や不快の感覚だ。
 もしタンハ―(ソルティ注:渇愛)を介してこの感覚に対応するなら、つまり快の感覚に対しては反射的に渇望が生じるにまかせ、不快の感覚に対しては反射的に忌避が生じるにまかせるのなら、まわりの世界に支配されつづけることになる。
 しかし感覚にただ反応するのではなく、感覚をマインドフルに観察すれば、ある程度その支配から抜けだせる。

 きわめて論理的である。
 感覚をマインドフルに観察する――これがヴィパッサナー瞑想の極意である。
 あとは実践のみ。

 ソルティは十年来テーラワーダ仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想(=マインドフルネス瞑想)を日々実践している。
 なので、本書に頻出する仏教の専門用語に馴染んでおり、「無常」「無我(空)」「苦」といった概念も、瞑想体験を通じてある程度は得心している。そのせいか、本書を読むのに特段の困難は覚えなかった。著者が瞑想合宿中に体験した数々の現象の記述も、「そうそう、自分も同じだった」と共鳴できるものが多かった。
 が、これから仏教を学んでみよう、瞑想をやってみようと思う人にとっては、本書はこむずかしく感じられるかもしれない。その意味で、入門書というよりは、瞑想修行している人が修行の根拠と価値とを再認識できる「励みになる本」として意義が高いのではないかと思う。
 
 それにしても、現代科学が到達し解き明かしつつある現象について、はるか二千年以上前にブッダは知悉し説き回っていたという仰天すべき事実!
 すべての人類は(生命は)ひれ伏して然るべきではないか。


仏像 (2)


ブッダン サラナン ガッチャーミ  (覚者に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャーミ (真理に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャーミ (僧団に帰依したてまつる)

 

評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 映画:『日蓮』(中村登監督)

1979年松竹
143分

原作 川口松太郎
音楽 芥川也寸志

 『空海』(真言宗)、『親鸞 白い道』(浄土真宗)、『禅 ZEN』(曹洞宗・道元)と宗祖を描いた伝記映画をこれまで観てきた。
 あとはウド鈴木が主役を演じた『一遍上人』(2015年)を残すのみか。
 最澄や栄西は地味なためか、映画にはなっていないようだ。

 日蓮についてはよく知らなかった。
 千葉の房総半島の先にある鴨川生まれということも、最近知った。
 日蓮宗のお寺が最も多く、おそらく信徒が最も多いのも、東京を除けば千葉県であろうということも・・・。
 他宗派排撃の独善的イメージ、創価学会がらみの内紛イメージがあったので、あまり興味を持たなかったのである。 
 もちろん、「南無妙法蓮華経」というお題目は知っていた。

 教義や理念あるいは教団の体質はともかく、一人の人間としてみた場合、日蓮は興味深く、面白く、偉大な人物であるのは間違いない。
 その波乱万丈の生涯とたび重なる迫害にめげない不屈の精神は、空海や親鸞に負けず劣らず、大作映画になるだけの十分なドラマ性がある。
 名匠中村登の確かな演出と、豪華キャストを得て、見ごたえ十分であった。
  
 日蓮を演じる萬屋錦之介が圧巻。
 出家寺(天台宗)を追われ日蓮を名乗るようになった30歳から、武蔵国池上郷(現在の東京都大田区池上本門寺)で61歳で亡くなるまでを、圧倒的風格と歌舞伎役者の家系ならではの大向こうをうならせる外連味たっぷりの芝居で魅せてくれる。
 当然、年を取るにつれて外見は老けていくのだが、深まっていく思想や固まっていく信仰、いや増していく貫禄といった内面上の変化を、しっかりと外見上に反映させる演技の質は相当なものである。
 ソルティは子供のころに見たテレビドラマの『子連れ狼』(1973-1976)と『破れ傘刀舟 悪人狩り』(1974-1977)でしか、この役者を知らなかった。
 子供心にも他の役者にはない凄みは感じていたが、やはり名優であったか。
 
 日蓮の一番弟子の日照を実の弟の中村嘉葎雄、二番弟子の日朗を実の甥の中村光輝(現・三代目中村又五郎)が演じているのも一興。
 チームワーク抜群。

 執権北條時頼を市川染五郎 (現・二代目松本白鸚)が、北條時宗を松方弘樹が演じている。
 どちらも凛々しくて超ハンサム!

 他にも、田村高廣、岸田今日子、永島敏行(ういういし~!)、田中邦衛、松坂慶子(うつくし~!)、丹波哲郎(『親鸞』、『空海』にも出ていた)、野際陽子、伊吹吾郎(濃い!)、西村晃、赤木春恵、加藤武、池上季実子、大滝秀治、嵐寛寿郎(座っているだけでサマになる!)など、絢爛たる顔ぶれ。

 「お釈迦さまが最後に説いた唯一正しい法は法華経である」という日蓮の言葉には素直にうなづけないけれど、時の権力者や他宗派からの弾圧にも屈せず、数度の流罪にも耐え抜いて、ぶれずに信念を守りぬいた日蓮の生き方には感服のほかない。



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 

● 本:『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』(石井光太著)

2016年
新潮社

 『神の棄てた裸体』、『蛍の森』ほかの石井光太による児童虐待のルポルタージュ。

 このライターは、子供、貧困、性、死、差別を主要テーマに取材している。
 ソルティの関心ともろ重なるので気になる存在なのである。


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 本書は、2014年に発覚した3つの実子虐待殺害事件を取り上げている。
  • 厚木市幼児餓死白骨化事件
    神奈川県厚木市のアパートから男児の白骨遺体が見つかった。父親の齋藤幸裕は、2004年に妻が家出をして以来、一人で長男を育てていたが、やがて恋人ができてアパートに帰らなくなった。長男は2007年冬、ゴミだらけの部屋でオムツとTシャツだけつけて絶命。その後7年間放置されていた。
  • 下田市嬰児連続殺害事件
    静岡県下田市の民家の天井裏と押し入れから二人の嬰児(えいじ)の遺体が発見された。母親の高野愛(いつみ)は、高校2年生の時から10年あまりで8人の子供を妊娠していた。殺害の動機は「中絶費用を用意できなかった」ことだった。
  • 足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件
    皆川忍と妻朋美は次男に虐待を繰り返し、ウサギ用ケージに監禁した挙句、2013年3月に死亡させた。遺体を遺棄した後も、マネキンを使用して次男が生きているように見せかけ、児童手当や生活保護費を不正受給していた。遺体はいまも見つかっていない。

 獄中の加害者との面会、裁判傍聴、家族・親戚・知人へのインタビュー、地元での取材や聞き込みなどを通して3つの事件を詳細にレポートしており、事件に至る背景や過程をわかりやすく再構成している。
 ルポライターとしてまさに脂が乗っていることを感じさせる仕事ぶりである。
 
 『神の棄てた裸体』や『蛍の森』で感じたケレン味やセンチメンタリズムがここでは抑えられ、全編、冷静で客観的な筆致が保たれている。 
 また、子殺しの残虐な犯罪者を描いているにも関わらず、他罰的でないのも特徴である。
 といって、加害親に対して同情的・共感的というのでも、弁護的というのでもない。
 事件に至る背景が加害者自身の親との関係も含めて丹念に描き出されていく中で、これらの事件が「起こるべくして起こった」という印象を読む者は持たされるのだ。

 3つの事件に共通して言えるのは、加害者自身もまた虐待の被害者にほかならないことである。
 いわゆる虐待の連鎖が生じている。
 本書を読む者は、「鬼畜」と呼ばれる加害者たちへの憤りや憎悪よりも、むしろ幼児の頃に書き込まれたプログラムに知らぬ間に操られて、わが子を愛しているにもかかわらず、どうしようもなく虐待に走ってしまう彼らの有様に、一種のおぞましさ、悲惨さ、やりきれなさを感じざるを得ないだろう。
 底知れない無明に慨嘆せざるを得ないだろう。
 因縁という言葉すら浮かんでくる。

 とりわけソルティが憐憫にも近いやるせなさを覚えたのは、下田市嬰児連続殺害事件の高野愛のケースである。
 彼女の成育歴や奔放な男関係、行き当たりばったりの生活風景を読んでいると、一人の意志を持った人間というより、理性のない動物のよう。
 いや、動物なら本能という安全枠がある。
 本能の壊れた人間には安全枠がない。
 自動反応するマリオネットか、意志を失った亡霊のよう。
 はたから見たら、彼女は常に不幸になる選択ばかりを繰り返している。
 先天的環境と幼少期の成育環境とで条件づけられたプログラムから、人がなかなか脱しきれないことをこれほど感じさせるものはない。

 他人ごとではない。
 3つ事件の加害者たちの場合ほど劣悪なプログラムに乗ってはいないとしても、誰もがみな、同じようにあらかじめプログラミングされた生を、「自分は主体的に生きている」と勘違いしながら生きている。
 少なくとも、そのことに気づくまでは!
 
 石井は3つの事件の全容を明らかにし読者に提供して事足れりとはしていない。
 エピローグにおいて、NPO法人「Babyポケット」の活動の一端が紹介されている。 
 
当会では、予期せぬ妊娠や経済的な理由などにより出産しても子供を育てることはできないが、産まれてくる子供には施設ではなく温かい家庭の中で幸せになって欲しいという実親さん達の願いと、赤ちゃんを授かりたいと不妊治療などの努力をしても子供を授からず、どうしても夫婦で子供を育てたいという養親(育て親)さんご夫婦の願いを実現していくサポートと養子縁組の仲介・あっせん事業を行っています。(NPO法人「Babyぽけっと」ホームページより抜粋)

 無明の闇に灯る一筋の明かり。
 ここまで書いてこそ、一流のルポライターの名に恥じないと言えよう。




評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 仏教の功徳 映画:『王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン』(ツイ・ハーク監督)

2018年中国
132分

 香港のスピルバーグと称されるツイ・ハーク監督の歴史アクション映画。
 テンポの良さと高度のCG技術駆使によるファンタジーあふれる映像世界に魅了される。
 体を動かすのも、物を考えるのも、人と話すのも億劫な酷暑の休日、冷房の効いた部屋で冷たいドリンクとスナック菓子を脇に鑑賞するのに手頃な映画である。
 な~んも考えなくてよい。

 妖術を使う悪との闘いの最後の切り札となるのが、深山幽谷で仏道修行に励んでいる聖者——というのがアジアらしい。『レインボーマン』を思い出した。
 集団催眠で天女や竜や巨大怪物を幻視させる敵の妖術に対し、善側は大乗経典(経名は忘れた)を唱えることで幻想を破る、といった趣向も面白い。

 仏教の功徳でトラブルを解決するというのはアジアの伝統的な物語形式の一つである。日本の場合、能楽にその伝統が一番残っているように思う。



評価:★★

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● 本:『空の智慧、科学のこころ』(ダライ・ラマ十四世、茂木健一郎著) 

 2011年集英社新書

 本書は二部構成になっている。
 第一部がダライ・ラマ十四世による『般若心経』解説、第二部がダライ・ラマと脳科学者茂木健一郎との『人間の脳と幸せを科学する』と題する対談。
 読むべきは、第一部である。
ダライラマイラスト


 『般若心経』の解説書は、日本でもたくさん出ている。どれも似たり寄ったりの気もするし、いろんな解釈があってワケがわからないという気もする。つまるところ、それだけ難しいお経なのだ。あるいは、それだけ不親切なお経なのだ。
 おそらく、出版されている解説本の中でもっともユニークで過激なのは、アルボムッレ・スマナサーラ長老による『般若心経は間違い?』(2007年宝島社刊行)であろう。内容についての是非・賛否はともかく、『般若心経』を無批判に受け入れ有り難がる日本人の思考停止に冷水をかけてくれる貴重な書で、一読に値する。

 わずか300字足らずの『般若心経』の中で、文字通り「心」となるのは色即是空、空即是色のフレーズであろう。つまり、『般若心経』とは「空」をテーマにしたお経なのである。
 解説者がこの「空」をどう理解しているかで、いろいろな解釈が生じているように見受けられる。
 たとえば、ソルティが先日参加したある仏教講演において、講師の禅僧は「空=いのち」と解説していた。「すべての存在(=色)はいのち(=空)のあらわれである」とは、アニミズム的心性を持つ日本人には馴染みやすい解釈だなあと思った。

 さて、ダライ・ラマ十四世は「空」についてこう語っている。

 空とは、よく勉強した上で正しく理解しないと、何も存在しないのだからだいじょうぶだ、と考えて虚無論に陥ってしまう危険があるのです。つまり、智慧の劣った者が空の意味を誤解してしまうと、間違った見解を持つようなことになってしまいます。

 「空」は「無」とは違う。「なにもない」、「からっぽ」、「ゼロ」、「無意味」ではない。
 「この世界は本当は存在しない。いっときの夢のようなものだから、ここで何をしようがまったく問題ない。もちろん、来世もないし天国もない。だから、好き放題に今を楽しんで生きればいい」と考えるのは、間違った見解ということだ。

 さらに、こう語る。

 空とは、「縁起」を意味しています。そして「縁起」とは、「すべての現象は他のものに依存して名前を与えられたことによって生じ、存在している」という意味なのです。「縁起」を理解する目的の一つは、ものごとを全体的にとらえることができるようになるためです。

 「色即是空」とは、物質的な存在(色)はその自性による成立がないので、空の本質を持つものである、ということです。
 そして、「空即是色」とは、自性による成立がない物質的な存在の究極のありようである空が、物資的な存在として現れている、という意味です。

 空を理解して、物質的な存在が究極的にはどのように存在しているのかを知ることによって、物質的な存在には実体がないことを理解すると、実体をつかむ心が起きてくることはなくなります。すると、間違った認識を持つことはなくなり、輪廻から自由になって、涅槃に至ることができるのです。


 これは、言葉で理解する問題ではない。
 いくら何百という仏典を熱心に読み込んでも、何千何万回、般若心経を唱えても書写しても、真に理解できるものではない。
 理解するには智慧が必要であり、智慧を得るためには現象を客観的に見つめ分析する観察力と集中力とが要る。
 瞑想修行の重要性はここにある。



評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『ルポ 仏教、貧困・自殺に挑む』(磯村健太郎著)

2011年2月岩波書店

 タイトル通り、貧困・自殺問題に取り組む各地の仏教者の活動を紹介した本。
 著者は1960年生まれの朝日新聞社記者。

 本書発行当時、我が国の年間自殺者数は14年連続で3万人を超えており、自殺対策の喫緊性が叫ばれていた。折しも、2009年8月の政権交代で、当事者の「自己責任」を唱え続けてきた自民党から、革新よりの民主党に時代は移って、弱者支援に目が向けられる機運が高まっていた。
 2010年3月に東京で開催された『自殺と貧困から見えてくる日本』と題したシンポジウム(主催は反貧困ネットワーク&NPO法人ライフリンク)にソルティは参加したが、当時総理大臣であった鳩山由紀夫が登壇し熱っぽく語ったのを覚えている。この時の進行役が中下大樹という名の僧侶であった。日本の(大乗仏教の)お坊さんを見直した瞬間であった。
 
 しかし、ソルティが寡聞なだけで、もっと以前から貧困・自殺問題に取り組んでいた仏教者が日本各地にいることが本書で示される。
 宮城県亘理町で困窮者の駆け込み寺を運営している行持院(曹洞宗)、大阪市天王寺で路上生活者のためのシャワー室と診療所を設けた一心寺(浄土宗)、東京墨田区でホームレスのための宿泊所「ぽたらか寮」を開いた尼僧(時衆)、岐阜県関市で引きこもりの若者のためインターネットによる座禅会やチャット会を開催する大禅寺(臨済宗)・・・等々、お釈迦様の慈悲の教えを具体的な形にして実践し、山門を弱者のためにこそ開いている僧侶たちの活動は、真の大乗精神を感じさせる。


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 本書でも触れられているが、仏教者が他者を扶ける活動をする上で留意すべきことが二つある。
 一つは、貧困や孤独や病いに苦しむ者、希死念慮を持つ者、死を待つ者、愛する家族を自死で失った者を前に、仏法をそのまま説いても(お経を唱えても)たいした役には立たない。説法するよりむしろ、ただ傍らに寄り添い、話に耳を傾け、黙って一緒に食事をすることのほうが、相手の苦しみを和らげる役に立つかもしれない。相手の感情を受けとめる、共感するのがなによりの功徳となる。
 しかし、それは仏教が人助けの役に立たないことを意味するわけではない。苦しむ人の傍らに寄り添う者に、しっかりした“存在の核”があることが重要である。その“核”に触れて、人生に惑い悩みふらつく人々は安心を得るのである。キリスト教や仏教といった宗教は、その“核”を育てるメッソード足り得る。人を扶ける前に、あるいはそれと同時に、「自分を扶けよ」ということである。
 
 もう一つは、キリスト教なり仏教なりが、たとえば「自殺」に対してどんな見解を持っているか、すなわち、相談や支援に携わる宗教者がいかなる自殺観を持っているかである。
 もし彼らが「自殺=悪、罪」といった見解を抱いたまま、希死念慮ある人や自死遺族に接したら、彼らの抱く見解(=価値観)は言葉には出さないまでも表情や姿勢やまなざしやオーラを通して相手に伝わってしまうだろう。よく言われるように、言語的メッセージよりも非言語的メッセージの方がより多くを伝える。その場合、良い結果を生むのは難しかろう。「お前は(自殺という)悪いことをしようとしている」、「お前の家族は(自殺という)罪深いことをした」と、相手を裁くことになってしまうからだ。
 
仏教は「殺生してはならない」と説く。そのため多くの僧侶は自分のいのちを絶つのも悪いことと考え、その結果、たとえば自死遺族になんと声をかけてよいのかわからずにいる。一方で、だれかのために身を投げうつことをたたえる教えもあり、自殺を容認しているように考える者もいる。つまり、これまで自殺問題に対して、いったいどういう姿勢で臨めばいいのかわからないという事情があった。

 この点について、浄土真宗本願寺派の「教学伝道研究センター」という機関が、原始仏典と大乗仏典にある自殺に関する数百カ所の言説を調べたところ、「釈尊は自殺について価値判断していない」ことがわかったそうである。 
 
つまり仏典は、ぎりぎりのところまで「生きろ!」と呼びかける一方で、自殺という行為そのものについては、良いとも悪いとも語っていない。釈尊の時代にもあった自殺の問題に正面から向き合い、是非論ではなく当事者の苦しみをどう受け入れていくかがテーマにされていたというのだ。

 一方、キリスト教はどうか。 
 
キリスト教、なかでもカトリックは「いのちは神に与えられたもの」という立場から、自殺は神に対する「罪」とみなしてきた。自殺した人に対するミサや埋葬を禁止するなど、ひどい差別をしてきた歴史が長くつづき、1983年の新教会法で、ほとんどの規定がようやく見直された。日本カトリック司教団は2001年に公式メッセージ『いのちへのまなざし』を発表し、そのなかで「これまで自殺者に対して、冷たく、裁き手として振る舞い、差別を助長してきました」と謝罪している。

 というように、いまや仏教もキリスト教も「自殺=悪、罪」とは大っぴらには言っていない。パラダイムは転換したようである。(ソルティは、仏教はともかく、キリスト教は教義的にかなり苦しい転向という気がする。キリスト教の神はどう見たって「裁きの神」であるし、裏切り者のユダを自殺させ地獄に突き落としたのを、いったいどう解釈したらよいのやら?)

 ともあれ、仏教者だろうがキリスト者だろうが、いや宗教者だろうがそうでなかろうが、自殺や貧困問題に携わる者には、それぞれの見解や価値観の自己検証作業が求められる。ソーシャルワークで言うところの「自己覚知」である。



評価:★★★

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● 本:『「忙しい」を捨てる 時間にとらわれない生き方』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2016年角川新書

 久しぶりのスマナ長老の本。
 巻末に質疑応答がついているので、おそらくは実際に長老が行った講演(月例講演か?)をまとめたものなのだろう。
 内容もいつもの月例講演同様、喩えやエピソードをふんだんに取り入れた、万人にわかりやすいものとなっている。

 「忙しい」が口癖で時間を気にしすぎる日本人への忠言を一応の骨子としながら、話は縦横無尽に飛び、一見とりとめないような印象を持ちながら、常に底に流れているのは仏法である。
 結局、長老が語っているのは、「無常」「無我」「苦」の三宝印に尽きる。その真実を前提にして、「じゃあ、この複雑きわまりない、変化の速い現代社会をどう生きるか」と理性的に考えるのが、仏教的生き方なのである。
 目先だけの率のよいアドバイスを求めるよりも、根本を悟れということだろう。

 本当は、私たちが生きる喜びを感じる瞬間というのは、あの目標に立ち向かうときの、生き生きとした瞬間だけなのです。その瞬間は、もう無我夢中ですから「超楽しい!」とか喜びを感じているという実感はないかもしれません。けれども、そうして目標に向かって戦っている瞬間こそが、私たち人間が最大限に充実感を覚える瞬間なのです。
 それなのに、世のなかに幸せを感じることができない人が多いということは、問題はやはりこの「現状維持」を望むという「保守主義」にあるのですね。この「保守主義」とは脳のからくりであって、仏教的にいうのなら、「無知」ということになります。

 四国遍路で実感したように、目標志向的な生き方はともすれば過程よりゴールを重視し、「いま、ここ」の出会いを軽視してしまうリスクを持っている。その罠にはまることなく、何らかの目標をもつことは精神衛生上においても大切なのだろう。

 次は何にチャレンジする?


評価:★★★

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● 本:『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』(横山紘一著)

2011年幻冬舎

 唯識とか阿頼耶識とか聞くと、「難しくて理屈っぽい仏教哲学」というイメージがある。
 無学の人にもストンと落ちるような、わかりやすい言葉で説いたお釈迦さまの直説ではないので、これまであまり興味を持たなかった。
 日本初の『唯識 仏教辞典』(春秋社)を三十数年の歳月をかけて完成させた横山紘一の名前は、あちこちで目にしていた。おそらく、日本で唯識を語らせたら、この人以上の適任者はいないだろう。
 図書館で本書を見つけ開いてみたら、文字が大きくイラストも多用され、小口も薄くて読みやすそうである。
 試しに読んでみることにした。

 本書の特徴は、一つは、深層心の阿頼耶識を変革することによって自分と世界が変わることを、もう一つは、いかに唯識思想が常識からかけ離れた教理を展開しているか、この二つを力説しているところにあります。(本書「おわりに」より)

 と、著者自身が述べているように、第一章では「心の中を探る」と題して唯識の基本教理が語られており、第二章では「心を変革する」と題して唯識思想を実生活に生かし、煩悩を減らし、より自由に幸福に生きる方法が説かれている。
 仏教とは、単なる教え(教理)ではなく、悟りや幸福に向かう生き方(実践)であるべきなので、この二段構成はさすがというか、横山が机上の学問を振り回すだけの学者ではないことが知られる。つまり、真の仏教者である。

 この唯識思想は、小説『西遊記』の主人公としても有名な七世紀の中国の僧である玄奘三蔵が、十七年間もの長きにわたる艱難辛苦のすえ、インドから中国にもたらした思想です。そしてそれは奈良時代に日本に伝来し、以来、現代に至るまで、仏教の根本の思想として脈々と学ばれ続けてきた重要な思想なのです。

 唯識は、心の構造を根本的に解明し、心を大変革させる方法論を提示したのです。

 唯識とはその名の通り「唯、識のみ」ということだが、正確に言うと「唯、識るというはたらき(認識)があるのみ」という意味とのこと。これならソルティも知っている

 初期仏教では、世界を認識し感受する部分として、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)・意(心あるいは脳)の6つの識を措定する。6通りの知る道である。
 このうち最後の「意」がちょっとわかりにくいが、外界にある特定の音波が耳に触れ「耳識(聴覚)」がはたらいて、はじめて「カラスの鳴き声」として認識されるように、何らかの情報が意(心あるいは脳)に触れ「意識」がはたらいて、はじめて様々な思考や感情やイメージなどが生まれる、と考える。たとえば、「カラスの鳴き声」という情報が「意」に触れることによって、「七つの子」「うるさい」「怖い」「不吉」「生ゴミの日」「夕暮れ」「勝手でしょ」等々の思考や感情やイメージがこれまでのストックから立ち現れる。心もまた「五感」と同種のはたらきをする認識機能とみなすところが、西洋科学とは異なるところだろう。
 ともあれ、この6つの識(知る道)を通して、我々人間は世界のすべてを認識・把握している。逆に言えば、世界とは、6つの識(知る道)により、一人一人の存在のうちに、瞬時瞬時、構築され破壊され更新されるホログラムである。これが「唯、識るというはたらきがあるのみ」の意味するところである。(多分)
 
 しかるに唯識思想では、この6つの識を表層心と定義し、深層心としてさらに2つの識を加える。
 それが末那識(まなしき)阿頼耶識(あらやしき)である。

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 末那識は「深層にはたらく自我執着心」。常に阿頼耶識を対象として「自分」(我)と執する。表層心がエゴで汚れている原因は末那識である。
 阿頼耶識は「深層に働く根本心」。一人一宇宙の中のすべての存在を生じさせる可能力を有していることから、その可能力を植物の種に喩えて「一切種子識」ともいう。眼識ないし末那識を生じさせる。身体を作りだし、それを維持している。自然をも作りだし、それを常に認識しつづけている。

 この阿頼耶識こそが、この世に存在するありとあらゆるものを生み出し、維持し、しかも認識している根本らしい。「生まれたときから行ってきたすべての業の結果は、阿頼耶識の中に記憶として貯蔵されて」いると言う。そこには前世の業も含まれるのだろう。
 また、「自然全体は阿頼耶識が作りだし、作りだした自然を阿頼耶識自らが認識しつづけている」のだと言う。なんだか、「宇宙が自分自身を見るために人間を作りだした」という物理学でいう「人間原理」を思わせる。 

宇宙と人間


 そう、唯識思想で説いていることは、量子力学や宇宙物理学や脳科学などの現代最先端の科学の知見と符合するものが多い。
 なので、唯識思想を理解するには、科学の方面からアクセスする方がてっとり早いのではないかと思う。当ブログでも紹介した前野隆司の『錯覚する脳』や『脳はなぜ「心」を作ったのか』などの著書や、クオリアという言葉を広めた脳科学者である茂木健一郎の本などである。

 「よくわかる唯識入門」と題された本書は、イラストや比喩を混ぜながら平易な言葉で語られており、一見わかりやすく見えるけれど、残念ながら言葉の上だけの理解に終わってしまいがちな、説明足らずのこじつけ感がある。
 無理もない。「広大な物理的宇宙(世界)の中に、自分も他人も自然も事物も存在している」と当然のごとく信じながら生きているごく普通の入門者にしてみれば、いきなり、「一人一宇宙」とか「外界に物は存在しない」とか「自分は存在しない」とか「唯、識るはたらきだけがある」とか言われても、目が「・」のトンデモ理論としか映らないだろう。それくらい唯識思想は常識からかけ離れている。
 科学という近代合理精神のアイテムを持って唯識思想に近づいた方が、攻略する可能性は高いであろう。
 あるいは、著者同様に、瞑想修行して悟るかである。言うまでもなく、これが本来の攻略方法である。(ソルティは、末那識と阿頼耶識の存在については、実感したことがないのでよく分からない)

荒屋敷
荒屋敷


 〈唯識〉の入り口では、「一体なにか」という問いに対して「惟だ識のみである」という答えがあることは説明しましたが、唯識における最終的な問い、「いかに生きるか」という問いには「惟だ生きる」という答えが返ってくるのです。
 生きるには場所と時間とが関係してきますから、「惟だ生きる」とは「いま、ここに、惟だ生きる」ということになります。




評価:★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 怒りと慟哭 映画:『笛吹川』(木下惠介監督)

1960年松竹
123分

原作 深沢七郎
脚本 木下惠介
音楽 木下忠司

 甲斐国を流れる笛吹川は、最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつとされ、「暴れ川」の異名を持つ。
 この川のほとりの掘っ立て小屋に暮らす貧農一家の5代にわたる生活の様を描く。
 
 時は戦国。 
 甲斐の武田が、上杉はもとより北条や諏訪など周囲の大名らと戦を重ねていた時代である。いきおい、領地内の庶民の暮らしは戦を中心に回っていく。
 手柄や褒美や勲功に釣られて、鋤や鍬を投げだし、刀を手に戦に飛び込む血気盛んな百姓たち。
 「風林火山」の旗の下、主君に命を投げ出す男たち。が、その主君こそは、気分次第で領民を虫けらのように殺戮する暴君なのだ。
 生まれた子供をすべて戦に取られ、なすすべもなく天を仰ぐ老夫婦。
 
 これは、もう一つの『陸軍』である。
 木下惠介の怒りと慟哭のこもった反戦映画である。
 
 モノクロフィルムに部分的に色を焼き付ける手法は、評価の分かれるところであろう。
 リアリティを奪い、鑑賞の妨げになるだけの感もある。
 せっかく素晴らしい場所を見つけての(現在ではもはや不可能な)ロケ撮影なのに、もったいない気もする。
 が、最初は違和感あったが、観ているうちに気にならなくなった。
 むしろ、たとえば黒澤の活劇のようなリアリズム一辺倒の作品にはない、ある種の寓意というかメタフィクション性が備わっているように思う。
 つまり、特定の時代、特定の場所の、特定の家族の物語が、人間の「無明」と生の「苦しみ」を描く絵巻物の仏教説話のような普遍性を帯びている。それは、白装束の遍路姿で鈴を鳴らす原泉がところどころで亡霊のように出現するシーンや、合戦の最中に無情に打ち鳴らされる鐘の響きなどにも依っている。
 反戦映画であると同時に、「何千年という戦いの歴史を持ちながらも、そこから抜け出すことのできない人類の無明」が一見無造作に色づけられたフィルムの表層から迫ってくる。
 
 老醜メイクも厭わず役者根性を見せた高峰秀子、地味だが芯の通った人の好い夫を演じた田村高廣、しょっぱなの短い出番だけで物語全体の行く末を暗示する加藤嘉の深みある演技が印象に残った。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 女が世間を捨てるとき 本:『尼さんはつらいよ』(勝本華蓮著)

2012年新潮新書

 現役の尼さんが書いた本である。

 尼さんという存在には、これまであまり興味がなかった。半世紀以上生きているうちには、頭を丸めて作務衣を着た女性たちともあちこちで出会ってきたが、個人的な付き合いはなく、じかに身の上話を聴いたこともなかった。なんとなく、「触れてはならない何か」を感じ、距離を置いてきたような気がする。

 これがキリスト教のシスターなら別である。
 仲の良いカトリックのシスターならいる。彼女が入信した理由も、暮らしている修道院での生活の様子もよく聞いていた。
 日本人の女性がクリスチャンになること、さらにシスターになって修道院に入ること、に対する違和感はさほどない。神やキリストやマリアを敬愛し信仰する清らかな高い志も、シスターとなって生涯を奉仕活動に捧げたいという愛他精神も女性には似つかわしいものである。(ジェンダーについて固定観念に縛られているという批判はあろう) なによりシスターシステムは、非常に長い国際的伝統である。


シスター


 ひるがえって、日本の仏教界はどうか。
 ソルティは最近まで、瀬戸内寂聴以外の女性住職というものを知らなかった。(四国遍路88札所のうち2つは女性住職のお寺で、そのことが話題になっていた) 日本には尼寺もあるらしいが、その実態はほとんど知られていない。お布施を求めて街頭に立つ雲水の中にも、女性の姿は見かけない。
 日本の仏教界は圧倒的に男社会なので、わざわざそこに入っていく女性仏教者はそもそも少ないのであろう。仏教に関心高い女性は、寺を持つお坊さんと結婚し、寺庭婦人となることが多いのではなかろうか。
 西洋のシスターのように、社会的に認められ、ある程度身分や生活が保障される出家システムが、日本の女性出家者には用意されていない。

 制度的なことは別としても、そもそも女性出家者という存在が珍しいこともある。
 男の場合、出家者の9割はお寺の跡継ぎではなかろうか。(統計的に正確なところは知らない) 云わば、職業としての僧侶である。
 残り1割が、何らかの個人的理由で仏道に入った人たち。訳あって世間を離れざるを得なくなった世捨て系、生きる意味を問い続けて悟りや解脱を求める悟り系、霊的現象や神秘体験を重ね宗教に頼らざるを得なくなった神秘系などである。

 平和で豊かな令和時代。自ら世俗を離れ、美食や娯楽や愛欲を擲ち、家族や友人と縁を断ち、ひたすら仏道修行に励む人間は、良く言えば「奇特な人、道の人」、悪く言えば「変人、落伍者」であろう。ソルティもその傾向を多分に持っている。
 だが、男の場合、古からそういう生き方を志す者は多かった。武道や芸道に見るように、俗世に惑わされず自ら選んだ「道」を極めることは、ある意味、男の甲斐性であった。男は、家庭生活に馴染まない生き物と思われてきた。
 一方、女の場合、産む性であることが大きい。子供を産み、育て、家庭を守る役割が伝統的にレッテル付けられている。どこまでが遺伝子に書かれた本能で、どこからが後天的に社会的に条件づけられた特質なのかは不明瞭であるが・・・。
 一般に男と女をくらべた場合、女の方がより生活に根差していて、より現世肯定的であり、より現状肯定的であるのは、間違いないように思う。抽象的で現実の役に立たない理屈を振り回すのは、いつだって男である。ソルティが働いていた老人ホームでも、社会や家庭の軛(くびき)からとうに離れた男女の成れの果てを観察していても、その傾向は否定できない。活発で、明るく、生活に楽しみを見つけるのが上手なのは、いつだって老女たちであった。
 女は「現実」という大地に咲いた花のようである。
 であるから、女の出家者という存在が特異に思え、「触れてはならない何か」を感じさせるのである。

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 勝本華蓮(かつもとかれん)は1955年大阪生まれ。デザインの仕事に関わりバブリーな生活を送るも、91年(36歳時)天台宗にて得度、尼となる。いまは大阪のマンションで一人暮らししながら、仏典研究に従事しつつ、大学講師や執筆活動をしている。

 本書では、勝本が出家した理由や背景や経緯を含め、仏教界における尼の歴史や現状、日本の尼寺の実態やいろいろな“腐れ尼”のエピソード、尼を志す女性に向けてのアドバイス、比丘尼システムを広めようとする国際的な女性仏教者の動きなどが、語られている。(タイやスリランカやミャンマーなどの上座部仏教では、女性の出家(比丘尼)が認められていない。というか、何百年も昔に作られた律のせいで、比丘尼が作れないアホみたいな状況がいまだに続いている)
 タイトル通り、「尼さんはつらいよ」の実情がよく分かる、興味深い本であった。

 とは言え、勝本の出家理由については、やはりどこか隔靴掻痒の感を抱かされた。
 というのも、勝本自身は、上記の分類で言えば世捨て系でも神秘系でもなく、悟り系の一人のようなのだが、女性が世俗を離れる上での一番の桎梏になると思われる性愛事情について、まったく触れられていないからである。そこに何の桎梏も束縛もなかったのであろうか?
 これは日本の尼僧界のトップたる瀬戸内寂聴の事情と比べると、はっきりする。
 誰もが知るように、そして当人が方々で赤裸々に述べ小説にも書いているように、瀬戸内晴美は若い頃、性愛部分で相当な辛酸を舐めている。男に溺れて、囚われて、縛られて、苦しみぬいた挙句に、「もう春は十分!」と諦めて、出家したのであった。
 あるいは、岩波文庫で邦訳が出ている原始仏典の一つ『尼僧の告白(テーリガータ)』を読むと、釈尊のもとで出家し修行し解脱に達した女性たちのほとんどは、出家前の俗世で、言うに言われぬ性愛の生き地獄を経験している。

 女性にだっていろいろなタイプがある。生まれつき性愛には関心の薄い人間だっている。
 ――と言われればそれまでであるが、勝本には書き尽くしていないものがあるような気がする。(別に大っぴらにする必要も義務もないが)
 


評価:★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 散骨への道 本:『生臭坊主 “ぶっちゃけ説法”』(いのうえけんいち著)

2015年 ㈱ベストブック社

 著者の井上健一は、1957年生まれの経済ジャーナリストにして仏教ジャーナリスト。プロボクサー、毎日新聞記者、会社設立、MBA取得などの傍ら、高校時代に雲水修行したのを手始めに、いろいろな老師に師事しながら仏道を学び、2002年臨済宗の小池心叟老師より法号を受けている。
 法号とは、臨済宗における生前戒名の一つであるらしい。なので、いのうえは出家者ではなくて在家の仏教徒なのだろう。

 本書は、日本仏教界や坊主業界に詳しい人間による内幕暴露および業界批判である。
 と言っても、口調はそれほど辛辣なものではなく、ユーモア漂う気楽に読めるエッセイである。

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 今さらの日本仏教=「葬式仏教」批判であってみれば、特段驚くような発見はなかった。(水子供養1人当たり328万円は知らなかったが・・・。罪悪感はいい商売になるのだ)


秩父巡礼4~5日 051


 なぜ、この本を図書館で手に取り読んだのか?

 思うに、老衰や死を身近に感じ始めているからなのだろう。
 で、自分が死んだあとの始末について考えたとき、「生前なんらかの手を打っておかないと、死んだら嫌でもこの手間とカネのかかる“葬式仏教システム”に絡めとられてしまう」と思うからだ。

 別に自分が死んだ後のことはどう始末されようが気にしないけれど、子供のいないソルティにしてみれば、親兄弟ならばともかく、普段それほど親交のない甥や姪には迷惑かけたくないなあと思うのである。十分な愛や遺産を彼らに遺せるならともかく・・・。

 理想としては、「焼却・砕骨・海に散骨・戒名葬式いっさい不要」だけれど、それが叶うためには何らかの事前準備すなわち「終活」が必要である。

 終活――これも一つのエゴなんだがな。


評価:★★

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