ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

阿含経典を読む

● 『阿含経典』を読む 1

1979年筑摩書房
2012年ちくま学芸文庫
増谷文雄 編訳

 しばらく前から、毎朝、『阿含経典』を読んでいる。
 ちくま学芸文庫から出ている増谷文雄(1902-1987)編訳の3巻本である。


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 ソルティは学者でも僧侶でもないし、仏教経典をめぐる様々な議論にも興味ないので、無知な素人ならではの無責任とガサツさで括ってしまおう。
 『阿含経典』とは、最も古い経典=お釈迦様の教えに近い経典、である。
 加えて、大乗仏教の日本では長いこと、有難がられることなく、ほとんど無視されてきた、いわゆる小乗仏教の主要経典である。(日本で現在、阿含経典を奉じている宗派は、有名どころでは、テーラワーダ仏教協会をのぞけば、阿含宗である。)

 よく知られるように、お釈迦様が亡くなったあとしばらくして、多くの高弟たちが集まって会を開いた。第一結集と言われる。
 目的は、お釈迦様の教えを正しい形で後世に伝えるため、覚えやすい形式にして全員で記憶するためである。筆記という手段はこの頃なかったようだ。
 何十年とお釈迦様のおそばに仕え、飛び抜けた記憶力をもつアーナンダ――思うに今でいう「アスペルガー症候群」だったのかも――がまず、「お釈迦様は、どこそこの地で、誰それ相手に、こんなことを説きました」と語り、全員でその内容を吟味し、確定し、暗唱した。
 集まった弟子たちは、アーナンダも含め全員が阿羅漢、つまりお釈迦様と同じレベルの悟りに達した者ばかりであったから、その内容はお釈迦様の教えそのものと言っても間違いなかろう。
 これがお経の始まりである。
 
 『阿含経典』は、この結集のときに採択されたお経を、後の僧侶たちが5部に分けて編纂したものと言われる。(パーリ語経典の場合。漢訳では4部)
  1. 長部経典     34経
  2. 中部経典    152経
  3. 相応部経典  7762経
  4. 増支部経典  9557経
  5. 小部経典     15分
 上記5部の経典に収録されている経の数は、じつに17000経以上に及ぶ。
 いくらなんでも、こんなにたくさんの経を、第一結集のみでまとめ上げられるわけがない。(伝えによれば、第一結集は約7ヶ月を要したとか)
 その後の再三にわたる結集、および活字化され編集される過程で、新たな逸話が追加され、創作され、肥大化したのは間違いあるまい。
 少なくとも西暦前、つまり大乗仏教が成立する前には、いまある5部の形に整っていたらしい。

 編訳者の増谷文雄によると、5部の経典を成立順にならべると、次のようになる。
  1. 相応部経典
  2. 中部経典
  3. 長部経典
  4. 増支部経典
  5. 小部経典 
 ただし、小部経典の中のいくつか、たとえば岩波文庫に入っている中村元訳『ブッダのことば(スッタニパータ)』、『真理のことば(ダンマパダ)』などは、韻文でできており、最初期の教えに入るようだ。

 
 このちくま学芸文庫には、増谷が抽出した400経が訳せられている。
 全3巻のうち、第1巻と第2巻は相応部経典から、第3巻はそれ以外の経典から採られている。
 つまり、阿含経典の中でも最も古い教え=より仏説に近い、ということになろう。
 
 ソルティは、経典の翻訳の中では、この増谷文雄訳がもっとも好きである。
 平易で、読みやすく、言葉の選択もリズムもよく、品格がある。
 岩波文庫の中村訳のお釈迦様は、厳めしく近寄りがたい孤高の人というイメージだが、増谷訳のお釈迦様は、慈愛に満ち、来る人を拒まない雅量を感じさせる。(両文庫で使用される活字の大きさや種類の違いも大きい)
 
 毎朝、3つか4つのお経を声を出して読んで、内容について思いをめぐらす。
 それだけのことが、心の安定と落ち着きをもたらすから、不思議である。
 昨今の世相は、そのまま飲まれてしまうと、不安と混乱と気鬱をもたらしかねない。
 お経を読んで、2500年の時を超えてお釈迦様とつながることが、良い精神安定剤となっている。


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● 『阿含経典』を読む 2  科学的な、あまりに科学的な

 増谷文雄編訳の『阿含経典』(ちくま学芸文庫)の第1巻は、7762経に及ぶ膨大な『相応部経典』のうち、「存在の法則(縁起)に関する経典群」と「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を中心に編まれている。
 ちなみに、「相応」とは「同じようなテーマの教えを集めた」という意である。

 縁起と五蘊――どちらもブッダの教えの核心にあたる。


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 改めて認識し、かつ驚くべきは、仏教は宗教は宗教でも、実に科学的ということだ。
 存在の法則、人間の分析が、語られるべき「いの一番」なのである。
 そこには、神秘的・神話的・土俗的・幻覚的・空想的なところがまったくない。
 神がこの世界と生き物を創造したとか、土をこねて神の姿に似せて人間を作ったとか、アダムの骨からイヴを作ったとか、神が降臨して人間の祖となったとか・・・・そんなお伽噺とはかけ離れている。
 ブッダは何より科学者――客観的にありのままの事実を見つめ、システムの構造と働きを見抜き、誰もが検証できる形で理論化・言語化した人――なのである。

 さて、存在の法則とは縁起である。

縁起の公式1  これあるときに、これあり。 これ生じるが故に、これ生ず。

縁起の公式2  これなきときに、これなし。 これ滅するが故に、これ滅す。

 上記はわかりやすい。
 存在するものは、原因や条件があって存在している。
 その原因や条件がなければ、あるいはそれらを滅してしまったら、存在は成り立たない。
 ごく当たり前の事実である。

 公式1をもとに、人間の存在の法則、すなわち十二縁起が説かれる。

縁起の公式3 
  1.  無明あるときに、が生じる
  2.  あるときに、が生じる
  3.  あるときに、名色が生じる
  4.  名色あるときに、六処が生じる
  5.  六処あるときに、が生じる
  6.  あるときに、が生じる
  7.  あるときに、渇愛が生じる
  8.  渇愛あるときに、が生じる
  9.  あるときに、が生じる
  10.  あるときに、が生じる
  11.  あるときに、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩が生じる
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩あるときに、無明が生じる

 公式2をもとに、以下の公式もまた成り立つ。

縁起の公式4
  1.  無明なければ、は生ぜず
  2.  なければ、は生ぜず
  3.  なければ、名色は生ぜず
  4.  名色なければ、六処は生ぜず
  5.  六処なければ、は生ぜず
  6.  なければ、は生ぜず
  7.  なければ、渇愛は生ぜず
  8.  渇愛なければ、は生ぜず
  9.  なければ、は生ぜず
  10.  なければ、は生ぜず
  11.  なければ、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩は生ぜず
  12.  老死、及び愁・悲・苦・憂・悩なければ、無明は生ぜず


 十二縁起を構成する各要素(項目)をどう定義するかが問題である。
 タイ仏教界の最高学僧であるポー・オー・パユットー著の『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で定義を試みたい。

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無明 =ありのままの真実を見ないこと、愚かなこと
  =心に思うこと、言うこと、行うことのすべて。およびそれによって蓄えられる業(カルマ)
  =認識力   ・・・機能面から見たときの生命現象
名色 =精神と身体 ・・・構成面から見たときの生命現象
六処 =目、耳、鼻、舌、皮膚、心あるいは脳
  =六処になんらかの情報が触れること。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が浮かぶ
  =快感 or 不快感 or どちらでもない
渇愛 =欲望 or 嫌悪
  =執着
  =自我に囚われた存在、それよって生じるカルマ(業)
  =人間として生まれること
老死 =老いと死
愁・悲・苦・憂・悩 =愁い・悲しみ・苦しみ・憂鬱・悩み


 さて、注意すべきは、一般的に十二縁起が意味しているのは、人間の一つの生における縁起ではなくて、前世・現世・来世の3つの生にまたがる縁起だという点である。
 つまり、公式3と4における1番(青色)は前世の、2~9番まで(黒色)は現世の、10~12番(赤色)は来世の事象を意味する。

 前世において、無明のため様々な間違ったを為したがゆえに業(カルマ)をつくり、名色を有する生命として現世に誕生した。
 現世で、六処から流入する様々な情報にれ、そこでけた快感・不快感にしたがって渇愛に溺れ、を肥大化させた結果、に囚われて、解脱の道を逃してしまい、輪廻転生を許してしまう。
 結果として、来世にを受けて、またもや老死愁・悲・苦・憂・悩を味わうハメになる。
 これが永遠に回る。

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 正直のところ、前世と現世とをつなぐ項目である、あるいは現世と来世とをつなぐ項目である、つまり業(カルマ)の存在と働きについては、ソルティは分からない。
 そこのところは、非科学的とは断じないまでも、仏教の「お伽噺」性の最たる部分とみなされるのかもしれない。(昨今のニュースで、「量子力学が輪廻転生を証明できる可能性がある」というのを見たが・・・)
 それ以外の縁起の部分、特に六処からに至る、現世において人間の欲望や嫌悪が生まれ育っていく過程の分析については、実に精緻で科学的で見事というほかない。
 
 輪廻転生を阻み解脱することを最終目的とする仏道修行において重要なのは、公式4である。
 現世にある修行者が介入し得るのは、流れのうちの6番「なければ、は生ぜず」、7番「なければ、渇愛は生ぜず」、8番「渇愛なければ、は生ぜず」の部分だけである。
 前世についてはすでに手遅れであり、来世については現世の行い次第である。
 現世における2番から5番、すなわちの生起からの生起までも、自動的に(自らが預かり知らぬところで)起こってしまっている。
 現世のを生む瞬間、渇愛に変わる瞬間、渇愛に育つ瞬間に対してのみ、人は介入して、流れをストップすることができる。

 そのために欠かせないのが、念(気づき)なのである。
 念が欠けていると、ほとんど自動的・盲目的に、触→受→渇愛→取の流れが圧倒的な勢いで進んでしまう。
 そのとき人は、機械的な生を送るマリオネットとなる。

 念(気づき)を育てる修行が、ヴィパッサナ瞑想である。

 う~ん、科学的だ。

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追記:日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が、「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて」のメッセージを同会ホームページに寄せている。ソルティは、過剰なマスコミ報道などに接し、心が落ち着きを失った時などに読み返している。ご参考までに。






● 『阿含経典』を読む 3 まぼろしの映画


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お釈迦様は人間を分析し、5つの構成要素に分けた。
五蘊(ごうん)と言う。

 色(ルーパ)
 受(ヴェーダナ)
 想(サンニャ)
 行(サンカーラ)
 識(ヴィンニャーナ)

お釈迦様はそれらをどう定義しているか。
  • ・・・・四つの元素(地・水・火・風)と、四つの元素によって造られたる物
  • ・・・・六つの感受する器官の働き。いわく、目の触れて生ずる感覚、耳の触れて生ずる感覚、鼻の触れて生ずる感覚、舌の触れて生ずる感覚、身の触れて生ずる感覚、意の触れて生ずる感覚。
  • ・・・・六つの表象する作用。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、観念の表象。
  • ・・・・六つの意志するいとなみ。いわく、色への意志、声への意志、香への意志、味への意志、感触への意志、観念への意志。
  • ・・・・六つの意識するいとなみ。いわく、眼の意識、耳の意識、鼻の意識、舌の意識、身の意識、意の意識。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』蘊相応44「五取蘊の四転」より)


 正直、かなりわかりづらい。
 訳者の増谷文雄は、次のように解説している。
  • ・・・・物質的要素。すなわち、肉体。
  • ・・・・感覚。
  • ・・・・表象。与えられたる感覚によって表象を構成する過程。
  • ・・・・意志(will)もしくは意思(intention)。人間の精神はここから対象に対して能動に転じる。
  • ・・・・対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所。
(同上書の380~381ページ)


 まだ、わかりづらい。
 肉体(色)、感覚(受)はともかく、表象(想)ってなんだ?
 行に与えられた定義の「意志」と「意思」はどう違うんだ?
 識の定義も難解である。
 
 とりあえず、「意志」と「意思」の違いについて解決しておこう。  
 「意志」は「意志を貫く」「意志の強い人」「意志薄弱」など、何かをしよう、したいという気持ちを表す場合に用いられる。
 「意思」は、「双方の意思を汲む」「家族の意思を尊重する」など、思い・考えの意味に重点を置いた場合に用いられる。
(小学館『大辞林』)


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 人間を分析するときに、誰もがすぐ思いつく、もっとも手っ取り早い、万人の了解の得られやすいやり方は、心(精神的要素)と肉体(身体的要素)とに分けることであろう。
 仏教ではこれを、名(ナーマ)色(ルーパ)と呼ぶ。 
 お釈迦様は、精神的要素である「名」をさらに分析して、「受」「想」「行」「識」の四つに分けたのである。
 
 今回もまた、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で再定義を試みたい。
  • ・・・・身体的要素(六つの感覚器官――目・耳・鼻・舌・皮膚・心あるいは脳――を有す)
  • ・・・・視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が生じる
  • ・・・・「受」によって自然と湧きおこる観念やイメージの連想作用
  • ・・・・「受」と「想」によって造られ、新たな行為につながる様々な感情や思考や意志
  • ・・・・認識力(意識)

 たとえば今、「色」の一部である眼が、外界からの光の情報を視覚によって受けて、「赤く丸い物体」を認識する。(色・受)
 たちまち、記憶の中にある様々な観念やイメージが立ち上がる。(想)
 
食べ物、果物、リンゴ、本物、新しい、大きい、きれい、美味しそう、甘い、酸っぱい、青森、紅玉、ふじ、ジョナゴールド、所有者、空腹、歯ごたえ、歯茎から出血、白雪姫、毒、アダムとイヴ、ウイリアム・テル、ニューヨーク、ビートルズ、椎名林檎・・・・

 その結果として、目の前のリンゴに対する何らかの能動的な感情や思考や意志が生じる。(行)
 
食べたい、香りを確かめたい、かぶりつきたい、触ってみよう、踏んづけたい、盗みたい、関心ない、無視しよう、誰のものか聞いてみよう・・・・

 「行」の一歩先は、実際の肉体を伴った行為となり、ここでまた「色」の出番となる。

 問題は最後の「識」である。
 これは十二縁起でも「名色」に先んじて登場するが、「識」と「名色」の関係は、どっちが先で、どっちが後というものではなく、たとえば「受があるゆえに渇愛が生じる」といった順列の因果関係にはあたらないと思われる。
 というのも、お釈迦様はこう言っている。

 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈識があるゆえに名色があるのである。識によって名色があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはこのように考えた。〈いったい、なにがあるがゆえに識があるのであろうか。なにによって識があるのであろうか〉と。
 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈名色があるゆえに識があるのである。名色によって識があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはまたこのように考えた。〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、老いてはまた生れ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。つまるところ、この名色によりて識があるのであり、識によって名色があるのである。さらに、名色によって六処があるのである。六処によって触があるのである。・・・・これがすべての苦の集積のよりてなる所以である〉と。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』、因縁相応43「城邑」より)

 別のお経(因縁相応「葦束」)では、お釈迦様の十大弟子の一人で智慧随一のサーリプッタが、名色と識との関係を人に問われて、「相依って立つ二つの葦の束」にたとえている。
 そこで、ソルティは、機能面から見たときの生命現象を「識=認識力」と定義し、構成面から見たときの生命現象を「名色=心と体」と定義したわけである。
 つまり、生命とは、「身体的要素(色)と精神的要素(名)を有し、外界および内界を認識するもの」である。
 
 なので、「名」の4つの要素(受・想・行・識)のうち、「識」だけはちょっと他の3つと位相が異なる。
 「識」は、受・想・行が働く足場のようなものである。
 「識」がないとき、たとえば深い睡眠状態にある時や気絶している時は、受も想も行も働くことができない。
 逆に、受・想・行がないとき、すなわち外界からも内界からも流入する情報がまったくないとき、凪の海に浮かぶ舟のように「識」は止むほかない。
 適切な譬えかどうか自信はないが、人間を映画と考えたとき、「色」が映写機とスクリーン、「受・想・行」がフィルムとそれによって映し出される映像やストーリー、「識」は光線という感じか。


映画館

 
 お釈迦様は、かくも見事に人間を分析し五蘊を唱えたが、大切なのは分析そのものではない。
 五つの要素のどれをとっても、常なるものはなく(無常)、単独で成り立つものもなく(無我)、「私」がコントロールできるものもなく、「私のもの」と言えるものもない。
 すなわち、五蘊の分析を通して「無常・無我・苦」を知り、「私」の虚構性を見抜くことが肝要なのである。
 仏教科学は、科学のための科学ではなく、あくまで修行に役立てることを目的とする。
  
要するに、五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)


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 映画とは、スクリーンと映写機ではない。
 撮影されたフィルムでもない。
 フィルムに固定された役者の姿や演技、ストーリーでもない。
 もちろん、映画館でもなければ、暗闇でも光線でもない。
 また、観る者が一人もいなければ、作品は存在しない。

 さて、映画とは何だろう?






● 阿含経典を読む 4 デカルト V.S. ブッダ

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)第2巻は、相応部経典の中の「人間の感官(六処)に関する経典群」、「実践の方法(道)に関する経典群」、「詩(偈)のある経典群」が収録されている。


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 仏教では、人間の感官すなわち感覚器官を次の6つとしている。
  1.  眼(視覚)
  2.  耳(聴覚)
  3.  鼻(嗅覚)
  4.  舌(味覚)
  5.  身(触覚)
  6.  意

 それぞれの器官は、体の外部あるいは内部からの刺激(=情報)を次の形で認識し取り入れる。
  1.  色(物体)・・・眼は物体を識る
  2.  声(音) ・・・耳は音を識る
  3.  香    ・・・鼻は香を識る
  4.  味    ・・・舌は味を識る
  5.  触    ・・・身体は接触を識る
  6.  法    ・・・意は法を識る

 6つの器官は、人が「世界」を認識するための窓口であり、同時に――ここが重要なところなのだが――世界を造り上げるための道具でもある。
 というのも、我々は、客観的に正確な、ありのままの「世界」を見て知っているのではない。
 上記の6つの感覚器官の働きによって人間仕様に(あるいは個人仕様に)編集された「世界」を見て知っているのである。
 なぜなら、備わっている感覚器官の種類と働きは、生命体によって異なるからである。
 トカゲにはトカゲ仕様の、イルカにはイルカ仕様の、蟻には蟻仕様の、エイリアンにはエイリアン仕様の、盲人には盲人仕様の「世界」がある。
 我々は、「世界に存在している物を認識している」のではなく、「認識した通りに世界を存在させている」のだ。
 お釈迦様はこう言っている。
 
六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみを愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第一章「雪山に住む者」より)
 
 お釈迦様が六処について説いたのは、まさにこの六つの感覚器官こそが人を悩ますものであり、「苦」を生みだす産地だからである。
 もちろん、「楽」を生みだす産地でもあるわけだが、どちらの産出量が多いかは言うまでもないだろう。
 お釈迦様は、六処のいずれについてもまた、五蘊同様、「無常であり、無我であり、苦である」と繰り返し説いている。 
 
つまり、この師は、「無常・無我・苦」の説得と、「厭離・離貪・解脱」の成就のために、時には五蘊について語り、時には六処をあげて語ったのである。すなわち、ある時には、人間そのものを指して、その肉体的要素と精神的要素のあるがままの相(すがた)を省察せしめ、またある時には、人間の内なる感官が、外なる対象に接触して、さまざまな苦楽を感受する、その真相を洞察せよと語っているのである。
(ちくま学芸文庫『阿含経典2』18ページ、増谷文雄の解説より)


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 さて、我々の実感からしてもっとも理解し難いのは、6番目の感覚としてあげられている「意」であり、それが対象とする「法」であろう。
 それ以外の5つの感覚(五感)についてはすんなり納得できよう。
 「第六感」といった場合に我々(年配者)が思いつくのは、フランキー堺司会の『霊感ヤマカン第六感~♪』(古い・・・)であり、「胸騒ぎして搭乗しなかった飛行機が墜落した」といったたぐいのスピリチュアルミステリーであろう。
 ここで言う「意」とは、もちろん、そんなものとは違う。

 「意」とは「心」のことである。
 お釈迦様は「心」を感覚器官の一つとしたのである。
 ソルティは、ここがお釈迦様の、そして仏教の最も革新的で凄いところだと思っている。

 「心」は、他の5つの感覚器官のように、その実体を「これ」と指し示すことができない。
 どこにあるのか、分からない。
 解剖しても見つからない。
 だが、「心」があることは誰もが知っている。
 ソルティはそこで、現代科学に慣らされた我々が少しでも納得しやすいよう、これを「脳」とみなしてもよいのではないかと思う。
 「意」とは、「心あるいは脳」である。

 では、「意=心あるいは脳」が情報として取り入れる対象であるところの「法」とはなんだろうか?

 仏教でいう「法(ダンマ)」とは、一般に、お釈迦様の教えのことであり、すなわち「真実」のことを指す。
 たとえば、仏教の三宝にあたる「仏・法・僧」と言ったら、「お釈迦様・お釈迦様の教え・出家者の集まり」である。
 が、六処における「法」は別の意味である。
 増谷文雄は、これを「観念」と訳しているが、文字通り観念的でわかんねん。

 (_´Д`) アイーン

 
「心あるいは脳」に触れ、「心あるいは脳」が取り入れる情報といったら、なんであろう?
 それは、「心あるいは脳」に浮かぶすべて、すなわち一切の精神内容である。
 具体的に言えば、「思考、感情、意志、記憶、想念など」である。
 眼に色(物体)が触れ、耳に声(音)が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身体に何かが触れ、それぞれ情報が取り入れられるように、心あるいは脳に「思考、感情、意志、記憶、想念など」が触れ、情報が取り入れられる。
 お釈迦様は、人間の思考や感情や意志や記憶や想念すらも、音や香や味同様の、外部情報もしくは外的刺激とみなしたわけである。

 この「意」と「法」を六処に数える意味が、ソルティには長いこと理解できなかった。
 仏教書や経典を読んでも文意はわかるが、実質何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
 ヴィパッサナー瞑想をはじめても、しばらくは理解できなかった。

 それがある時、はっと腑に落ちた。
 なかなか理解できなかった理由がわかった。
 それは、思考や感情や意志や記憶や想念などとあまりにも自己一体化していて、少しでも離れた視点から客観的にそれらを観るということが、できなかったからである。
 思考や感情や意志や記憶や想念こそが、「私」の核となっていたのだ。
 曰く、我思う、ゆえに我あり

 
ヴィパッサナー瞑想に習熟し、外部から入ってくる音や香や体の感触などの刺激を、何の解釈も評価も好き嫌いの判断も伴わずに、「音は音」として、「香は香」として、「体の感触は感触」として、客観的に観られるようになるにしたがい、瞑想中に心や脳に勝手に浮かんでくる思考や感情や記憶や想念もまた、距離を置いて客観的に観られるようになった。
 すると、思考や感情や記憶や想念が、あたかも、どこからともなくボウフラのように湧いてきて、心や脳に取り憑いて、人を乗っ取ろうと企んでいる、よこしまな霊団か何かのように思われてきた。
 同時に、思考や感情や記憶や想念によって条件づけられた「私」の正体が見えてきた。

 それは、実際にはプログラミングされた通りに動いているに過ぎないのに、主体的意志で生きていると勘違いしている可哀そうなレプリカントさながらであった。


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 デカルトの言葉が近代的思考のはじまりとみなされるように、近代以降の世界に生きる我々は、思考し、感情を抱え表現し、意志を持ち、一貫した記憶を有する個別主体として、「私」を定義し認識している。
 いわゆる、近代的自己である。
 お釈迦様は、2000年以上も前に、「そうではない」と言ってのけた。
 
師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第四章「迅速」より)

 つくづく凄い。


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瞑想の池


 
さて、「意」や「法」を含めた六処は、無常であり無我であり苦であり、生まれては消える現象に過ぎず、そのどこにも「私」が立てる場所はないと瞑想者が悟ったとき、次に出てくる問いはおそらく次のようなものであろう。

六処において刺激を純粋に認識する機能、つまり識(=認識力)こそが、本当の「私」ではなかろうか?
 
 
これを突き詰めると、きっと唯識論梵我一如の非二元の教えになるのだろうなあ~、となんとなく想像する。
 だが、これも、お釈迦様は五蘊の教えで明確に否定している。
 識もまた、無常であり、無我であり、苦であると。
 そこに「私」は存しないし、それは「私」でないと。




 

● 阿含経典を読む 5 ガータクイズ

 お経の中の韻文、すなわち詩のような部分を偈(げ、 ガータ)と言う。

 お経には、全編が散文でできているものもあれば、全編が韻文(偈)でできているものもある。
 両者が混じっているものもある。

 おおむね、十二縁起五蘊六処四諦といった、お釈迦様の思想体系(=仏教の中核テーマ)に関わるものは散文形式のものが多く、お釈迦様の伝記に関することやエピソード風のものは「散文+韻文」形式のものが多いようだ。
 なので、純粋に読み物として面白いのは、後者である。

 ちくま学芸文庫『阿含経典』(増谷文雄編訳)第2巻では、「詩のある経典群」を取り上げている。


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 お釈迦様 v.s. 様々な相手(神々、悪魔、一般庶民、弟子たち、他の宗派の論敵など)のエピソードも面白いが、そこで応酬され、披露される詩の数々が、格調高く、含蓄あって、比喩や表現が豊かで、感心させられる。
 増谷の訳も簡潔にしてリズミカルで、すばらしい。

 一つ、クイズ形式で紹介したい。

 ある天神とお釈迦様(世尊)との対話である。

 その時、一人の天神があり、夜もすでにふけたころ、その素晴らしい光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐したその天神は、世尊の御許にあって、このような偈を説いた。

  子にもひとしき可愛きものなく
  牛にもひとしき財宝はなく
  太陽にもひとしき光明はなく
  海はもっとも大いなる湖なり

 これに対して、世尊はこう仰せられた。

 (   ①   ) にもひとしき可愛きものなく
 (   ②   ) にもひとしき財宝はなく
 (   ③   ) にもひとしき光明はなく
 (   ④   ) こそは最高の湖なり
 

 さて、①~④にはどんな言葉が入るであろう?
 
 正解を考えるというよりは、「自分の場合はこれだ!」と当てはめてみるのも一興。

 お釈迦様の答えは、阿含経典を読む 6で。


太陽



● 阿含経典を読む 6 老いの用心

 人生100年と言われる時代、50代半ばで老後のことを考えるのは「早い!」
 ――という意見もあろうが、体力や気力や精力の衰えは否定しがたく、老いとその先にある死について考える夜もある。
 自分がここ数年、老人介護の世界に関わって、さまざまな老いと死を見ているせいもある。
 このたびのコロナ騒動で、仕事柄、自らの感染と死をある程度は覚悟しなければならなかったせいもある。
 
 日本人の平均寿命が長くなったからこそ、老後問題が浮上したとも言える。
 一昔前なら、いまのソルティの歳で定年を迎え、孫の面倒を見ながら数年の老後を過ごし、七十を迎える前にはあの世に逝っていった。
 ソルティが小学生の頃、近所にひい祖母ちゃんはいても、ひい爺ちゃんはいなかった。
 
 老後の不安を軽減するには、貯金や年金の確保、子供や孫と良い関係を作っておく、親戚や近所との普段からのつき合い、地域コミュニティに顔を出しておく、良いケアマネを見つけておく、足腰を鍛えて健康管理する、ボケないように頭や手先を使う作業をする・・・・など、いろいろな用心がある。
 だが、より重要なのは心の問題だろう。
 淋しさや孤独、人生についての後悔や不全感、退屈や虚しさ、生きがいや自己価値の喪失、ボケることの恐怖、下の世話や着替えを他人に手伝ってもらわなければならない屈辱、死の恐怖・・・こういったものと向き合わなければならない。
 
 経典によると、天神ですらも、老いが心配だったらしい。
  

 その時、一人の天神があり、夜もすでにふけたころ、その勝れた光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐したその天神は、世尊の御前にあって、偈を説いていった。
 
 われら老いる時なにものか善き
 なにものかわれらの安らぎのところぞ
 われらにとりて貴重なる宝はなんぞ
 なにものか盗人に奪われざるものぞ
 
 その時、世尊もまた、偈を説いて仰せられた。
 
 戒はわれらの老ゆるとき善く
 信はわれらの安らぎのところ
 智慧はわれらが貴重なる宝
 功徳は盗人によりて奪われることなし

(増谷文雄編著、ちくま学芸文庫『阿含経典2』、諸天相応「老い」より)
  
  この言葉に天神は歓喜し、満足して消え去ったという。

神様



 さて、前回のガータクイズの答え。

 

世尊は仰せられた。
おのれ ) にもひとしき可愛きものなく
( 穀物  ) にもひとしき財宝はなく
( 智慧  ) にもひとしき光明はなく
(  ) こそは最高の湖なり
  
 ちなみに、ソルティの答え。
  ( 自分 ) にもひとしき可愛きものなく
  ( 健康  ) にもひとしき財宝はなく
  ( 真理 ) にもひとしき光明はなく
  ( 秘湯 ) こそは最高の湖なり
 

秘湯
栃木県奥鬼怒の八丁湯








 

● 阿含経典を読む 7 悟りの方程式

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)も3巻目に入った。
 前2巻で採録された「相応部経典」から離れて、「中部経典」、「長部経典」、お釈迦様の最期の日々を伝える「大般涅槃経」、お経誕生の経緯を記した「五百人の結集」などが取り上げられている。


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 しょっぱなに登場する「数学者モッガラーナの問い」(中部経典107)が興味深い。

 数学者モッガラーナの問い、「法と律とにおいて、順序をふんで学ぶべきこと、順序をふんでなすべきこと、順序をふんで行くべき道はあるか」に対し、お釈迦様が答えたお経である。
 すなわち、仏教において、悟りあるいは解脱にいたるための段取りが記されている。

 お釈迦様は次のような順序を語る。
  1.  すべからく戒を具する者となれ
  2.  すべからく諸根(6つの感覚器官)の門を守るがよい
  3.  食において量を知るがよい
  4.  行住坐臥のつつしみを修することに専念するがよい
  5.  すべからく正念(ただしい気づき)と正知(ただしい智慧)を身につけるがよい
  6.  ただ一人して住すべき人里はなれた空閑処をえらび、結跏趺坐し、身を正して、正念が目のあたりに現前するがごとくにして坐するがよい
  7.  五蓋(貪欲・瞋恚・惛眠・掉悔・疑惑)を除き、心を清浄にするがよい
  8.  さすれば、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に至る
 相手が数学者だけに、お釈迦様もあたかも方程式を解くように、理路整然と語られたのだろう。
 
 上記7にある五蓋(ごがい)とは、禅定をつくることを妨げる五つの心のはたらきのこと。
 テーラワーダ仏教の比丘であるスマナサーラ長老と、浄土真宗誓教寺住職・藤本晃共著による『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』を参考に、簡潔に定義すると、
  • 貪欲(どんよく) ・・・・色声香味触の刺激を受けたい気持ち
  • 瞋恚(しんに)    ・・・・怒り
  • 惛眠(こんみん) ・・・・心が小さく縮こまること、眠くなること
  • 掉悔(じょうご) ・・・・混乱すること、後悔すること
  • 疑惑(ぎわく)  ・・・・ブッダの教えを試そうともせず、ただ嫌がって拒否すること

 ソルティは五蓋のうち、とくに惛眠につけこまれやすい。
 いや、日本人は意外とその傾向が強いのか、たまに瞑想会などに参加すると、みな瞑想の合間にコーヒーばかり飲んでいて、指導してくれる外国のお坊さまをあきれさせたりする。
 電車の中の居眠りも日本人の得技で、外国ではなかなか見られない光景という。

車内睡眠

 
 また、掉悔(じょうご)について言えば、仏教では後悔はNGである。
 
 仏教では後悔は罪だと思っています。「後悔する人は罪を犯している」と考えます。「悔い改める」という言葉がありますが、天国に行きたければ、「悔やんで改める」のではなく、ただ「改める」だけにした方がいいのです。
 
 瞑想するときも開き直った方がいいのです。今までどんな悪いことをしていても、そんなものはどうでもいい、と開き直って明るい心で始めるしかないのです。後悔すると、過去の失敗や罪を思い出すと、心が暗くなってエネルギーが消えます。それで超越的な知識が生まれなくなります。

(『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』、サンガ文庫)
 
 何十人をも殺害した凶賊アングリマーラでさえ、お釈迦様と出会って改心し、修行して、阿羅漢となれた。
 仏教の楽天性、ここに極まれり。




● 阿含経典を読む 8 アーナンダの過失

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)は、ブッダが亡くなる最後の旅の様子を描いたお経である。


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増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)

 
 編者の増谷文雄の研究によると、この経は適切に分断すると、その各部のほとんどを『阿含経典』の他の箇所や律蔵の中に見つけることができるそうだ。
 つまり、ブッダ入滅後の阿羅漢たちによる結集で確認され暗唱されたお経ではなく、その後だいぶ経ってから、編集の趣味ある一比丘なり在家信者なりが、「偉大なるブッダの最後を物語として残そう」と、既存のお経や律などをつぎはぎして、新たに創った作品ということになる。
 おそらく、まったくゼロから作ったわけではなく、ブッダの最後の旅の行程を伝える簡素なお経――結集時から伝えられたもの――はあったのだろう。そこに肉付けして、一つの感動的なストーリーに仕立て上げたのではあるまいか。
 いつの世にも、こういった戯作者まがいはいるものである。
 
 「戯作者まがい」と言うのは、この編集者は結構抜けているのである。
 ブッダより前に亡くなっているはずのサーリプッタ長老を出演させたり(ここからもこれが結集時の作でないことは明らか)、聖人ブッダらしくないエピソードを盛り込んだりしているからだ。
 
 ソルティはとくに、この経の第3章を奇異に感じて仕方ない。
 以下のような筋立てになっている。
 登場人物は、ブッダと侍者のアーナンダと悪魔、それに最後の場面で他の比丘たちである。
  1.  ブッダがアーナンダを相手に、ヴェ―サリーやその他の霊地の楽しさを称える。
  2.  余命を悟ったブッダはアーナンダに向かって、「自分は神通力により、望めばいくらでも長生きすることができる」と言うも、アーナンダはその言葉を無視する。
  3.  アーナンダが去った後、悪魔が現れ、「今こそ涅槃すべき時」とブッダに死をすすめる。ブッダは3か月後の死を決意する。すると、大地震が起こる。
  4.  地震に驚いたアーナンダがブッダのもとに駆け付け、地震の意味を問う。ブッダは「地震の8つの原因」を説く。
  5.  ついでに、「8つの衆」、「8つの勝れた認識(勝処)」、「8つの解脱」について説く。
  6.  ブッダが、最前の悪魔との対話についてアーナンダに伝える。驚いたアーナンダは、ブッダに延命を乞い願う。が、ブッダはアーナンダの願いを却下し、「自分が死を決意したのは、さっきおまえが引き止めなかったせいだ」とアーナンダを非難する。
  7.  一転して、アーナンダに「すべての者は死ぬさだめにある」と諄々と説き、延命があり得ないことを説く。比丘たちを集め、37道品(悟りに至る37の修行法)を説き、自分が3か月後に涅槃することを告げる。

 1~7のそれぞれについて、奇異に感じる点をあげる。
  1.  この世の楽しさを讃えるようなブッダのセリフ。一切行苦ではなかったか?
  2.  神通力でいつまでも長生きできるというセリフ。諸行無常ではなかったか?
  3.  悪魔の存在は、ブッダの心の中の誘惑の声の比喩とみなしてもよかろう。聖者が自ら死ぬ時を知るのもよく聞くところである。地震の発生は、偶然でなければ比喩的表現か。
  4.  地震の8つの原因は非科学的でナンセンスである。
  5.  8つの衆、8つの勝れた認識、8つの解脱の説法は、あまり意義あるものとは思えない。『大般涅槃経』の他の章にある説法――たとえば、有名な「自灯明、法灯明」や「法の鏡」や「サンガの不退法」など――にくらべると、歯が浮くような、とってつけた感がある。戯作者により創作されたものとしても、出来が悪い。
  6.  ここがとくに理解に苦しむ。「お前が望まなかったから、私は死ぬのだ」と、自らの寿命の決定をアーナンダのせいにしている。しかも、「あそこでもそうだった、かしこでもそうだった・・・・」と、過去のことを持ち出して、しつこく何回もアーナンダを責め続ける。一体、なにこれ? パワハラ?
  7.  急にまともに戻る。「すべての生じたものは滅する」と説き、比丘たちに向かう。 

 まるで、死を前にした80歳のブッダが認知症になったか、あるいは精神不安に陥ったかのような聖人らしからぬエピソードである。
 もっとも、世間の尊敬を集めるカリスマ的リーダーが、家族など最も身近な人間に対しては極めて尊大でワガママ、というケースは結構ある。死を前にした人間が、人格障害のような精神不安に陥るケースもよくある(エリザベス・キューブラ・ロスを思い出す)。
 よもや、ここでブッダの人間らしさを表現しているのだろうか?

 続く第4章で、ブッダは鍛冶屋のチュンダの用意した食事を食べたあと体調を悪化させる。
 ブッダは、チュンダがあとから「ブッダの死の因を作ってしまった」と自身を責めなくてすむように、また比丘や信者たちから責められないように、アーナンダに前もって注意を残しておく。
 こんな細やかな慈悲深い配慮のできる人が、延命を乞わなかったことでアーナンダを責め立てるだろうか? 二千年後にも残るような激しい言葉で。
 ソルティにはとても信じられない。信じたくない。

 同じアーナンダを諫めるのであれば、次のような流れこそブッダにふさわしかろう。
  1.  ブッダは自らの死期を悟り、アーナンダに「3か月後」と告げる。
  2.  驚いたアーナンダは号泣しつつ、「神通力を使って、少しでも長生きしてください」と何度も願う。
  3.  ブッダはそれに対し、「一緒に長くいながら何を学んできたのだ。諸行無常、諸法無我と幾たびも教えたではないか!」と叱責する。

 このような過失こそ、愛すべきアーナンダにふさわしかろう。


室戸岬の涅槃像
豪華共演:涅槃するお釈迦さまとそれを守る弘法大師
(高知県室戸岬にて)







● 阿含経典を読む 9 スバッダの暴言


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増谷文雄 編訳 『阿含経典』(ちくま学芸文庫)


 お釈迦様が亡くなられた。

 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。
 「諸行無常である。生きる者の死なないことがあろうか」と。

 同じ頃、お釈迦様の十大弟子の一人であるマハー・カッサパは、500人の比丘を引き連れて、クシナーラに向かっていた。お釈迦様の後を追って遊行していたのである。
 一行が樹の根方で休んでいると、クシナーラからやって来た一人の男が告げる。
 「お釈迦様は7日前に亡くなられました」
 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。

 ――と、そのときである。
 一人の年老いた比丘が、号泣している比丘たちに向かって、こう言い放った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。われらは、かの大沙門からまったく脱れたのである。<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられたが、いまや、われらは、欲することなし、欲せざることをなさないでよいのである」
 
 この男こそ、スバッダである。
 
 お釈迦様の最期を語る崇高にして美しい物語の中にあって、このスバッダの暴言は悪目立ちしている。あたかも、清らかな流れに一杯の墨を投じたみたいに。
 それゆえ、かえって興味が引かれるのである。
 年老いた比丘なら、悲嘆にくれて正気を失っている若い比丘たちを諭したり、慰めたりしそうなものだが、逆に周囲を不快にし、場を凍り付かせるような、とんでもないことを言う。
 
 一つには、スバッダが長いこと世俗で暮らしてきて、年老いてから出家した男だからである。
 まだ修行も浅く、智慧も浅く、貪瞋痴(欲と怒りと無知)に覆われているのである。お釈迦様に憧れて出家してはみたものの、あまりのサンガの律(規則)の厳しさに、「こんなはずじゃなかった」と後悔している最中だったのかもしれない。とくに、彼のメンター(師)たるカッサパは、教団の中でもっとも厳しく律を守る人であったから、普段からあれこれ細かい注意を受けていた可能性がある。

 あるいは、スバッダは今でいうアスペルガーだったのかもしれない。
 つまり、「空気を読めない」、「他人の気持ちを推測するのが苦手」、「思ったことをすぐに口にしてしまう」、「パニックを起こしやすい」といった特徴があり、集団生活になじまないタイプである。これは脳の構造という先天的なものらしいから、当人を責めるのは酷である。
 
 スバッダの暴言を耳にしたカッサパは、さすがに阿羅漢であった。
 アスペルガー症候群なんてものは当然知らなかったが、スバッダを責めたり叱ったりすることなく(少なくともその場では)、嘆き悲しんでいる比丘たちに向かってこう言った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。友よ、世尊はかつて、こう説かれたではないか。<すべてのいとしみ愛する者といえども、生きて別れ、死して別れ、死してののちはその境界を異にする>と。友よ、かの生じ、生成し、造られ、そして壊するものにして、それが壊することなしなどという道理が、どうしてありえようか」


クロアゲハと彼岸花


 それにしても不思議に思うのは、スバッダの言葉の中味である。
 「<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられた」
 つまり厳しい規則によって、束縛され、抑圧され、管理されてきたことの愚痴を言っている。 
 思わずソルティは突っ込みを入れたくなる。
 「それが嫌なら、なんで出家したの? なんで還俗しないの?」

 別に誰から頼まれて出家したわけでもなかろうに・・・。
 親のあとを継いで檀家寺を守らなければならないとか、現在のタイ国のように一生に一度の出家が義務付けられているというわけではあるまい。
 たとえ、認識が甘く覚悟が足りないまま、いきおいで出家してしまったとしても、やってみて自分に合わないと思ったなら、還俗すればいいだけの話ではないか。我慢してまでサンガに居続ける義務などなかろうに。
 これが会社なら話は別である。給料をもらうため、生活のため、家族を養うため、ちょっとくらい嫌なことがあっても、口うるさい上司や厳しい規則があっても、我慢しなければなるまい。であればこそ、横暴なカリスマ社長が亡くなったら、葬儀の席で“心の中で”呟くことも許される。
 「これで、あの鬼社長から解放された。これからはもっと自由な社風になるだろう」
 
 スバッダの「われら」という言葉から推測するに、どうやら比丘衆の中にスバッダと同じような考えの持ち主が他にもいたんじゃなかろうか。
 カッサパの目の届かないところで、タバコを吸いながら愚痴をこぼし合っている風景が目に浮かぶ。
 「なんだよ、あの規則、意味ねえじゃん」
 「だよなー。便所のあと手を洗おうが洗うまいが、人の勝手だよ」
 「うざいんだよ、あのジジイ。いつも俺たちを見張っていやがる」
 「大方、こっちを支配したいだけなんじゃねえの?」
 (注:「トイレのあと手を洗え」という規則は仏教の「律」にはありません。たぶん・・・・)
 
 このときには、お釈迦様の名声はインドじゅうに広く知れ渡り、各地の領主から篤い尊敬と保護を受け、次々と土地や食べ物や衣類などのお布施が集まり、謁見や出家を願う者が次々と訪れ、組織は巨大化していたであろうことは想像に難くない。
 巨大組織の常で、そこは出家と言えども玉石混交、さまざまなタイプの、さまざまな癖のある、さまざまな機根(悟る潜在力)をもつ、さまざまな思いを抱えた比丘たちがいたであろう。人間関係も複雑になる一方だったに違いない。
 実際、お釈迦様は亡くなる前に侍者のアーナンダに対し、チャンダという名前の比丘の処遇について遺言を残している。チャンダは「暴戻にして非道」で、周りの人間を困らせていたらしい。お釈迦様は彼に梵壇罰を与えた。これは簡単に言うと、「誰も彼とは口をきいてはならない」という罰である。

 各人の出家の理由も、初期のように「悟りや解脱を求めて」、「なにかしら善を求めて」、「どうしようもない苦から逃れるため」といったものだけでなく、より俗っぽいものが混じってきていたのではかなろうか。
 たとえば、「釈尊メンバーとしてのステイタスが得られる」、「お布施をもらいやすいから生活に困らない」、「仲間がいるので孤独が癒される」、「世俗で働くのが嫌」、「結婚を強制するうるさい親族から逃れるため」、「集団の中でパワーゲームに興じられる(人を支配できる)」、「若い比丘たちが老後の面倒を見てくれる」、「罪を犯し村八分になった者の逃げ道として」、「厳しいカースト差別から逃れるため」等々。
 スバッダのような老人は、特に生活と老後不安の点で、出家生活に期するところがあったのかもしれない。
 
 いたずらな想像ついでに。
 あるいは、スバッダは周囲の比丘の苦しみを和らげようと思い、ジョークを言っただけなのかもしれない。悲しみに閉ざされる心を解きほぐそうと試みたのかもしれない。
 ところが、そのジョークは見事はずした。
 だれも笑ってくれなかった。
 まさに親父ギャグ。
 そのうえ悪いことに、冗談やユーモアを解することのまずなさそうな、真面目でお堅いカッサパの耳に入ってしまった。
 この場合、スバッダでなくて、スベッタということになる(――まさに親父ギャグ)。
 
 あれから2500年経った現在からみると、このスバッダの暴言こそが、カッサパをして、「お釈迦様が説かれた法と定められた律をちゃんと形にして残そう」と思わせしめ、その後の五百人結集につながったのである。いま我々が学んでいるお経が口伝として残り、仏教が生まれるきっかけとなったのである。

 そう考えると、スバッダとその暴言にたいして、仏教を愛する者は感謝しなければなるまい。



金閣寺




 
 
 
 

● 阿含経典を読む10 マヤ=アルディス効果

 3月から読み始めた、ちくま学芸文庫『阿含経典』全3巻(増谷文雄訳)が読み終わって、今は引き続き、岩波文庫『真理のことば(ダンマパダ)』(中村元訳)を読んでいる。
 毎朝、少しずつ音読している。

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 この音読=声に出して読むという行為が、実に良い効果を持っていることに気づかされた。

 脳科学のほうで、音読は黙読にくらべて脳の活性化に役立つと言う説がある。
 「読む(目で追う)」にプラスして、「耳で聞く」と「口で話す」を同時に行っていて、脳の異なる部分を使用するからである。
 読んで=インプット、話して=アウトプット、聞く=インプット、という繰り返しも良い刺激になるらしい。
 夜間の睡眠で脳がリセットされている朝起きがけにやることが、とくに効果的という。
 
 真偽のほどは分からないが、朝の音読が頭をすっきりさせ、気持ちよい一日のスタートを切るのに役立つことは実感できる。
 とくに、新聞記事とかエロ小説とかではなく、お経のような一般に「ありがたい」とされるものを読むのは、精神的に良い。これに線香でも焚こうものなら、リラックス効果倍増である。鬱の人にもおすすめだ。
 子供の頃、隣家の老人が毎朝読経を欠かさなかった理由が、ようやく分かった。
 たとえ、経の意味内容は十分に理解できていなくとも、それなりの効果はあるのだ。
 そう、「読む」とは元来、「一字一字声に出して言う」ことを意味する。
 
 ソルティの場合、増谷文雄による分かりやすい和訳を読んでいたので、内容も理解しながら読むことができた。
 しかも、お釈迦様の直説(に近い)とされる『阿含経典』を音読することには、思いもかけない利得があった。
 お芝居をやる人が脚本に書いてあるセリフを口にすることで、その人物になりきっていくように、お釈迦様の言葉を口にすることで、あたかも自分がお釈迦様になって比丘や在家信者や神々や悪魔を相手に語っているような気分になれるのである。
 
比丘たちよ、人間は、現在世においても、類をもって集まり、類をもって結合する。劣れる好みを抱くものは、劣れる好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合する。すぐれた好みを抱くものは、すぐれた好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合するのである。
 
 芝居好きのソルティは、お釈迦様の声と話し方を自分なりに作り上げ、お釈迦様のセリフを言う時は、普段よりも低く響く声音で、ゆっくりと穏やかに語る。悪魔のセリフを言う時は、シューベルトの『魔王』を想像し、耳に心地よいが下心を秘めた誘惑者の調子で語る。
 そんなふうに音読していると、自分がお釈迦様になって悪魔を折伏したような心地さえしてくる。
 お釈迦様になりきることができれば、自然と行住坐臥がそれらしく整ってくる。
 これを「マヤ=アルディス効果」という(笑)。

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王女アルディスを演じる北島マヤ
(美内すずえ『ガラスの仮面』白泉社より)

 
 これにすっかりはまって、引き続き『真理の言葉』を読んでいるのだが、個人的な嗜好に過ぎないのかもしれないが、中村元の訳より増谷文雄の訳のほうが「マヤ=アルディス効果」を得やすいようだ。
 後者の訳(セリフ回し)が、ソルティの想像するお釈迦様キャラに近いからだろう。
 
 今後も、音読を朝の日課にしよう。
 
 
 

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