ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

雑記

● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

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 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

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 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

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カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

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表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

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 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● TWO RIGHT HAND 両方右手

 出先の街の本屋に、木の立体パズルのコーナーがあった。
 スカイツリーやエッフェル塔、恐竜や動物、飛行船や機関車やクラシックカーなど、いろいろな種類が並んでいる。
 コロナでおウチ時間が長くなった影響の一つであろう。
 結構売れているらしい。


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 手先の不器用なソルティはジグゾーパズル派(平面派)なのだが、よくある精巧模型ほどに難しそうでもないし、なにより接着材やカッターを使わずに組み立てられるというのが良い。
 展示されている模型の木の風合いも素敵だ。
 一つチャレンジしてみようかと棚を見回していたら、五重塔があった。
 仏教愛がほとばしった。


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 275ピースで、完成サイズは160×160×320ミリ、対象年齢12歳以上。
 これなら TWO RIGHT HAND(両方右手)のソルティでもなんとか作れるかもしれない。
 ( TWO LEFT FOOT 「両方左足」は不器用という意の英語表現。なので、TWO LEFT HAND と洒落るところだが、ソルティは左利きなので「両方右手」となる)

 家に帰って箱を開けたら、部品が並んだ木のボード10枚と簡単な説明書が入っていた。
 静かな秋の夜、ワイン片手にじっくり作ってみようかな。


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70番本山寺五重塔
四国遍路第70番札所・本山寺の五重塔






● 映画:『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(フィリダ・ロイド監督)

2012年イギリス
105分

 メリル・ストリープの演技力にまたしても舌を巻くための映画である。
 モデルとなった当人に似ているかどうかはともかく、一人の意志堅固な女性政治家像およびその老いた姿を完璧につくりあげている点が凄い。
 サッチャー(1925-2013)という政治家をまったく知らない人が見ても、そこに一貫した魅力あるキャラクターを見て取ることができよう。
 
 ドラマ自体は政治家としてのサッチャーの生涯を簡潔になぞったものである。
 家族ドラマとしても、社会派ドラマとしても、あるいは認知症でその生を終えた「鉄の女」を描いた人生ドラマとしても、深みには達していない。
 制作時には、サッチャーの子供たちはむろん、本人が存命していたせいもあろう。
 サッチャーとその時代のイギリスを知るには手頃な資料である。

 政治家を引退したサッチャーが、来日して地方の行政主催イベントによばれたときの講演料が1000万円だったことを思い出した。
 ときは90年代半ば、バブル崩壊が始まっていた。
 
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おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 科白が入っていない!    


 舞台の本番を数日後に控えているのに、自分の役の科白を全然覚えていない。
 これからどう頑張っても覚えきれない。
 いったい自分は何をボケっとしていたのだろう?
 
 ―――という夢をたまに見る。
 悪夢というほどではない。
 にっちもさっちもいかない困った状態のまま目が覚めて、「ああ、夢でよかった」とホッと一安心する、というほどのこともない。
 ちょっと、心がざわついて、しばらくすると夢を見たことも忘れてしまう。
 
 似たような夢で、試験が近い夢や試験を受けている夢を見るという人がいる。
 学生時代の延長のようなストレスフルな夢だ。
 ソルティはこちらは見たことがない。
 どういうわけか決まって舞台がかかわっている。
 
 実際、ほんの少しの間だが芝居をやっていたことも過去にあり、そのせいかとも思うのだが、やっていた時は科白を覚えきれないとか、科白を忘れたという経験はなかった。
 トラウマになるほどの悲惨な失敗もしなかった。
 ステージフライト(舞台恐怖)に苦しんだこともなかった。
 
 いつからこの夢を見始めたのか覚えていないのだが、最初のうちは幕が開くのは2~3日後という設定だった。
 がむしゃらに覚えようとすれば間に合わないこともない気がする。
 もっとも、どんな内容の芝居なのか、どんな役を振り当てられているのか、どのくらいの量の科白があるのかまでは、はっきりした設定ができていないのだが。
 ただ夢の中では、「いまから覚えるのは到底無理」と半ば諦めている。
 
 そのうち、だんだんと幕開きまでの期間が短縮されてきて、「明日が本番」という設定がしばらく続いた。
 それがさらに短縮されて、「数時間後に本番」となった。
 だんだん追い詰められていく。
 ついには、「本番直前の楽屋」で扮装も化粧も済んで、幕開きを他の役者たちと待っているところになった。
 ソルティが全然科白を覚えていないことを他の役者たちは知りもせず、それぞれ自分の科白や動きを確認している。
 自分の中では「困ったことになった」と思っているのに、「いまのうち、みんなに告白しておかなければ・・・」とは考えていないあたりが不誠実きわまりない(笑)。
 
 先日、夢の中で気づいたら、ついに舞台上にいた。
 本番最中である。
 数名の役者と一緒に舞台にいて、観客の視線を浴びている。
 戸外のシーンのようで、草や木の大道具に囲まれている。
 周りの役者たちが流れるようなよどみなさで、代わる代わる科白を口にする。
 何を言っているのかはわからないものの、ソルティは「なかなか、上手いものだ」と感心している。
 なんとなくシェークスピアを思わせる科白回しだ。
 と、科白が切れた。
 舞台上を沈黙が支配する。

 ・・・・・

 それは芝居の「間」ではなく、明らかに「途切れ」と分かる不自然な沈黙。
 誰かが科白を忘れているらしい。
 役者間に緊張が走る。

 ・・・・・・・・

 瞬間、「あっ、ここは自分の科白なんだ」と理解する。
 が、むろん何をしゃべっていいのか見当もつかない。
 筋が分からないのでアドリブすらきかない。
 沈黙が続く。

 ・・・・・・・・・・
 
 しばらくすると、舞台袖に控えていた他の役者がその沈黙の理由に気づいたらしく、出番ではないのに舞台に登場して、適当な科白をその場ででっちあげて、事態をうまく回収してくれた。
 そこで夢は終わった。

 これでこの夢は終わるのか、この先があるのか。

 
黒子
 黒子がいれば問題ないのでは?
 

P.S. そうそう、肝心なことを書くのを忘れていた。この芝居の台本を書いたのはソルティ自身なのであった。自分の書いたものを忘れているのだ。






● ブルー・スカイ・ブルー

 ネットでポップアップテントというのを購入した。
 ワンタッチで組み立てられるポリエステル製のテントである。

 近くの公園で、昼寝したり、読書したり、瞑想したりする際に使ったら、「快適だろうなあ~」と思った。
 強い日射しや虫が防げるし、プライベートな空間がつくれるし、ちょっとしたキャンプ気分も味わえる。
 自粛で引き籠ってばかりのストレスも緩和されよう。
 むろん、ソーシャルディスタンスはばっちりだ。
 
 値段はピンキリだが、山登りに持っていくつもりはないので、3300円のキリにした。
 それでも一応、UVカットコーティングしてあり、小雨くらいならしのげる耐水加工してあり、広げたときのサイズも幅 200 × 奥行 140 × 高さ 110 cm という大型である。
 余裕で寝そべることができ、座禅を組むこともできる。
 それで重さは、持ち運びに便利な1kgなのだから、最近の技術革新には感嘆する。
 
 テントを組み立てるのは本当に簡単で、専用の袋から出して宙に投げるだけでよい。
 その名の通り、ポップコーンのようにPOP UPする(はじける)。
 あとは四隅にペグを差して、大地に固定すればよい。
 わずか30秒で完成。 
 魔法のようだ。


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 厄介なのは収納である。
 元通りにきれいな円形に戻すのにコツがいる。
 商品と一緒に送られてきた説明ビラではまったく理解できなかった。
 ネットで検索したら、たたみ方を丁寧に教えてくれる素人さんの動画があった。
 ありがたや~。
 部屋の中で2回ほど練習してマスターしてから、いざ公園デビュー!


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 夕方いくぶん涼しくなってから出かけ、公園の木陰に設置した。
 が、やはりテントの中は暑い。
 日中はサウナ状態になるのは間違いない。(それはそれで痩身目的に使えるかもしれない)
 また、重量が軽いというメリットは、風に弱いという弱点になるのであった。
 テントの中に人がいる時はいいが、テントから離れているときに強風が吹いたら、西部劇に出てくるタンブルウィードのように転がっていくテントを、追っかける羽目になりそうだ。


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RJA1988によるPixabayからの画像
 

 午後5時を過ぎたらテントの中も涼しくなった。
 テントの中から見える風景を楽しみながら、1時間ほど読書した。
 意外に集中できる。
 移動できるプライベートルームがひとつ増えたような気分。
 次回は瞑想してみよう。


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ポリエステル素材とメッシュ素材、出入り口は二重で開閉できる


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テントのてっぺんのフックは本来はランタンを吊るすため

 
 一点だけミスったかな?と思ったのはテントの色である。
 好きなスカイブルーを選んだのだが、考えてみたらこれは作業用ブルーシートの色にほど近かった。
 なんとなく、公園のホームレスのような感じも・・・。
 (遊んでいる子供らが覗き込んでいったのはそのせいだったのか?)
 
 
 
  




● 風評被害の生まれ方

 このまえの日曜の晩、友人と会食するために、一ヶ月ぶりに都心に出かけた。
 両者の住まいの中間にある池袋で会うことにした。
 池袋駅西口の東京芸術劇場前にある公園、いわゆるウエストゲートパークで待ち合わせた。

 しばらく前までここは工事をしていた。それも終わって、野外舞台のある円形劇場を兼ねた、明るく清潔な公園に生まれ変わった。
 一角にできたカフェもおしゃれで、芸術劇場のコンサート前後に寄るのにあつらえ向きである。

 かつてこの公園は、チーマたちの縄張り争いやホームレスのたまり場として、あまり印象良くなかった。
 ここで待ち合わせなんかしたら、オヤジ狩りに遭ってもおかしくはない雰囲気があった。
 円周の孤に沿って設置されている木のベンチに腰掛け、友人を待ちながら、そんな記憶をたどった。
 
 ベンチに座っている人たちは、隣りの人と1m以上の間隔を空けて横並びに座っている。
 もちろん、みなマスクをつけている。
 何も言わなくとも、自然とそのように配慮できるところが、日本人の美点だろう。


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 友人は酒を飲まないので、駅からやや離れたファミレスに行った。
 なるべく混雑は避けたい。
 さいわい店内は空いていて、テーブル間隔も十分離れているので、ここなら大丈夫だろうと思った。
 やはり、都心の繁華街での会食は気を遣う。
 池袋駅西口はまさに「夜の街」でもあるので、ウイルスが至る所にいるような気さえしてくる。
 見えない敵は厄介である。

 友人は現在テレワーク中で、毎日、自宅で携帯電話とパソコンを使い仕事をしていると言う。
 「自分のペースで働けて、さぼれるからいいねえ」と言ったら、思ったより忙しくて朝から夜までパソコンに向かっているという。
 積もる話をして、気づいたら3時間近く経っていた。
 どちらかがウイルスを持っていたら、相手にうつしていただろう。
 
 
 昨日は、足のリハビリのため、いつもの病院に行った。
 マッサージを受けながら担当の理学療法士と話していたら、こんなことを言う。
 「市内の〇〇という店で、スタッフに感染者が出たそうですよ」

 ソルティも知っている飲食店で、たまに店の前を通ることもある。
 が、主に若者をターゲットにしているこじゃれた店なので、オジサン、入ったことはない。
 「え? それどこからの情報?」と聞くと、
 「この前、髪切りに行って、そこの理容師から聞いたんです。その理容師は友だちから聞いたみたいです」
 「その友だちはどうやって知ったの?」
 「その友だちが、〇〇店の向かいの店でバイトしていて、ある日、〇〇店のシャッターが下りていて、そこに『感染対策を行うため、3日間休業します』と書かれていたんだそうです」
 「ふ~ん」
 
 家に帰って、さっそく家族に伝えようと思い、そこではっとした。
 ソルティの得た情報はまた聞きのまた聞きで、伝言ゲームのように誤って伝わっている可能性大だ。
 しかも、元の情報自体も確かなものではない。
 「感染対策を行う」=「感染者が出た」ではない。
 店内のテーブルの配置や座席の向きを感染対策用に変える、ということかもしれない。
 テーブル間に新たに衝立を設置しているのかもしれない。
 大体、本当にスタッフに感染者が出たら、3日間休業ではすまないのではないか?

 ここで下手に店の名前を口にしてしまったら、そこからまた噂は広がっていくことだろう。
 そのうち、ネットに店名や住所を書くヤツも出てくるかもしれない。
 風評被害ははかりしれない。

 こんなふうにして、自分でもたいして意識しないうちに、コロナ差別に加担してしまうのだなあ。

 
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Gerd AltmannによるPixabayからの画像





● 圧着ハガキ

 先日、厚生労働省から圧着ハガキ(情報保護のため糊付けしてあるやつ)が届いた。
 「なんだろう?」
 はがしてみると、雇用保険の給付に関するお知らせであった。

 「厚生労働省が所管する統計について、長年にわたり不適切な取扱いをしていたことにより」、2004年8月以降の雇用保険の給付額が低く計算されていた。ついては、表記の通り追加給付を行う。
 ――という知らせであった。
 
 ソルティは、2011年7月~2012年4月まで失業保険をもらっていたので、対象者に当たる。全国で1860万人以上が該当するという。
 昨年の秋くらいだったか、最初の通知が届いた。
 「そうか。低くもらっていたのか」と思い、指示に従って同封されてきた用紙に振り込み口座等を記入し、送り返した。
 「9ヶ月分だから結構な額になるかも。飲み代2回分くらいは還付されるのでは・・・」と期待しながら。
 それから、骨折事故があり、コロナも発生し・・・。
 すっかり忘れていた。
 
 「さて、いくらかな?」

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 脱力・・・・・・

 むろん、思ったよりずっと少なかったからということもあるが、それよりも、このわずかな額のために使われた人件費や郵送代などを思ってのことである。

 調べてみたら、追加給付の総額は約300億円だという。
 1860万人に通知するための圧着ハガキ作成費と郵送料と銀行振込み手数料だけでも30億はゆうに超えるだろう。人件費(委託費)を加えたら、いくらになるだろう?
「お役所仕事」という言葉が頭に浮かんだ。

 むろん、不正がただされ、適正に会計処理されることは大切である。
 だが、一般企業で同様なことが起きたら、担当部署は具体的な形でなんらかの責任を取らされざるを得ないだろう。
 アベノマスク然り、GOTOキャンペーンも然り・・・。
















● マルセイバターサンド臭の謎

 数週間前ほどから、頭皮から甘ったるい匂いがして、気になっていた。
 むろん、オヤジ臭あるいは加齢臭であっても、ちっともおかしくない年齢なのだけれど、その匂いはあまりにもきつく、異様に甘ったるい。
 六花堂名物のマルセイバターサンドを頭皮に擦り込んだような、ココナッツミルクを頭からかぶったような、強い洋菓子臭である。
 これが加齢臭なら、ケーキバイキング好きの若い女性が寄ってきそうである。


ケーキバイキング
 
 
 頭皮を触って手についた匂いは、ちょっとやそっと洗ったくらいでは落ちない。
 コロナ対応で家の各所に設置してある消毒液を塗りこんでも消えなくて、そのうち鼻腔にもついて、始終その匂いに包まれるようになり、さすがに気持ち悪くなった。

 もしや、身体に異変があるのか?
 血管内の過剰な糖分が、汗腺からにじみ出しているのでは?
 つまり、糖尿病?
 
 たしかに昨年末の骨折と今年に入ってのコロナ自粛で、運動不足は否めない。
 夕食後、映画を観ながらのスナックぼりぼりも続いていた。
 体重はここ半年で4キロ増えた。
 おなか周りもプヨプヨである。
 加えて、 
  • おしっこが近くなった。
  • 慢性的な疲労感がある。
  • 皮膚が乾燥して痒い。
  • 感染症にかかりやすくなった。
  • 目がかすむ。
  • 切り傷やその他の皮膚の傷が治りにくい。
  • 性機能の低下(ED)も・・・。 
 ネットで見つけた糖尿病(2型)の初期症状のほとんどに見事当てはまる。

 高血圧、インスリン投与、腎不全、透析治療、失明、動脈硬化、脳卒中・・・・

 起こり得る事態がすぐさま浮かんできてしまうのが、いろんな病人を見てきた介護職の因果なところである。
 そういえば、最後に健康診断を受けたのは一昨年の夏であった。

 
 先週、透析治療をやってる近所のクリニックに行き、ドクターに症状を話し、尿検査と血液検査をしてもらった。
 数日後、結果を聞きに行った。
 血糖値69(基準値は70~109)。
 尿に糖やタンパクは出てなかった。
 「とくに異常はありませんよ」
 糖尿病ではなかった。
 
 しかし、渡された検査報告書を見てがくぜんとした。

 総コレステロール    262 (基準値120~219)
 LDLコレステロール  183 (基準値70~139)
 中性脂肪        234 (基準値35~149)

 生活習慣病予備軍と言ってよかろう。
 このまま行けばマジで、糖尿病や動脈硬化や心筋梗塞への道をたどってしまう。
 帰り道、間食や夜食をやめて、運動不足解消に努めようと夏空に誓った。


夏空と信号



 先日はとても暑かった。
 30度を超える気温は、冷蔵庫の外に置きっぱなしにされた、牛乳をヨーグルトに変え、大豆を納豆に変え、麦茶をビールに変え、バナナをナマコに変える、そんな苛烈さだった。
 外出から帰ったソルティは、いつものように玄関の靴棚の上にあるアルコール消毒液をプッシュして、手に擦り込んだ。
 その瞬間、甘ったるい匂いの正体に気がついた。

 消毒液が原因だったのである!

 消毒液がついた手で、いつもの癖で髪の毛をいじっていたから、頭皮に匂いが移ったのだ。
 すぐさま、「消毒液、甘い匂い」と検索をかけて、裏をとった。
 犯人が特定できた。

 ジアセチル(diacetyl, C4H6O2)
 
 酵母や乳酸菌などの微生物による発酵の際に生成する有機化合物である。
 
ジアセチルは強いバター様・チーズ様の匂いを持ち、低濃度では蒸れたような匂いを発する。共存する物質により異なるが、弁別閾値は低く、製品中0.1mg/L程度の濃度で問題となる。2,3-ペンタンジオンも同様の匂いを持つが、揮発性が低いため匂いは弱い。一般に、発酵バターや一部のチーズなど乳酸発酵により製造される乳製品には不可欠な香りであるが、酒類などアルコール発酵により製造される飲食品では好ましくない異臭とされる。
(ウィキペディア「ジアセチル」より抜粋)

 おそらく、空気中の乳酸菌が消毒液のボトルの中に侵入し、アルコール発酵したのだろう。
 その日は特に暑かったので発酵の度合いが激しく、それと気づくほどに匂いがきつかったのである。
 臭いを消そうと消毒液を擦り込めば擦り込むほど、逆効果だった。

 このジアセチル、醸造業界ではダイアセチルとも呼ばれ、なんと「つわり香」と呼ばれているそうである。
 なるほど、妊娠初期の女性にとってはつらい刺激臭である――って分かるのか!

 また、ジアセチルは30~40代の男の「おやじ臭」の原因物質でもある。
 現在50代のソルティが発する「加齢臭」は、ノネナールという成分が原因であり、両者は化粧品業界によって厳密に区別されているらしい(笑)。
 言われてみれば、マルセイバターサンドは10年前くらいの頭皮の匂いだったかも・・・?

 くだんの消毒液は取り換えた。
 一件落着。

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● 五十の手習い

 最近新たに始めたことの一つはオルガンである。

 30年ぶりに戻った実家には、嫁いだ妹が弾いていたオルガンがある。
 誰も使わず、埃にまみれ、天板は物置きと化していた。
 そこを片付けて、数年ぶりに蓋を開け、電源を入れたら、ちゃんと鍵盤が鳴った。


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 ソルティは幼年の頃、一年ばかりピアノを習った。
 自分から習いたいと言ったわけでなく、音楽の才を見出されたわけでもない。
 左利きを矯正する一環だったのだろう。
 同時に書道も習わされた。

 バイエルの途中で終わってしまったので、とてもとても「弾ける」というレベルではない。
 両手弾きにやっと入ったあたりで、自分から辞めたいと言ったわけでなく、辞めさせられた。
 きっと、家計が苦しくなったのだろう。
 ちなみに、今はバイエルはあまり使われていないらしい。

 近所の楽器ショップで一番簡単そうなクラシックの楽譜集を買った。
 誰もが耳にしたことある有名曲ばかり52曲も収録されている。
 たとえば、
 
 G線上のアリア
 きらきら星変奏曲
 アイネ・クライネ・ナハトムジーク
 エリーゼのために
 美しく青きドナウ
 別れの曲
 トロイメライ
 ブラームスの子守唄
 ジュ・トゥ・ヴ
 亡き王女のためのパヴァーヌ
 ラプソディー・イン・ブルー
 月の光~「ベルガマスク組曲」
 花のワルツ~バレエ音楽「くるみ割り人形」
 アヴェ・マリア
 パッヘルベルのカノン
 恋とはどんなものかしら~歌劇「フィガロの結婚
 交響曲第5番 Op.67「運命」 第1楽章
 交響曲第9番 Op.125 第4 楽章「歓びのうた」
 白鳥~組曲「動物の謝肉祭」
 誰も寝てはならぬ~歌劇「トゥーランドット」
 サマータイム~オペラ「ポーギーとベス」
 e.t.c.  

 なんと言っても良いのは、音符の上に「ドレミ」が表示されているところである。
 調も半音(黒い鍵盤)が少なくなるようアレンジされている。

 指使いもテンポもまったく自己流。
 気の向いたとき小一時間ほど鍵盤に向かって、しんでいる。









 





 
 

   

● ソルティはかた、かく引っ越せり

12年近く暮らしたK市のアパートを離れた。

ここ一ヵ月は荷物や家具や家電の整理と処分に追われた。
引っ越す先は実家なので、家具や家電は必要ない。

市の粗大ごみセンターに連絡して、電子レンジ、ガスコンロ、ストーブ、カラーボックス、机と椅子、食器棚、衣装ケースなど計20点あまりを引き取ってもらった。
手数料として計7千円くらいかかった。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンは行政では扱ってくれない。
購入した店に持って行くか、専門業者に頼まなければならない。
12年以上前に同居していた友人から、ここへの引っ越しの際に譲り受けたものばかりなので、どこで買ったかわからないし、領収証等もない。
ネットで見つけたいくつかの業者に見積もりを頼んだら、6~6.5万円だった。
最後に連絡した業者との交渉で、5万7千円で引き取ってくれることになった。

両親が60年近く住んでいる実家は、物であふれている。
買ってばかりで捨てることをなかなか良しとしない世代なので、空いていたソルティの部屋が倉庫のように使われて、布団を敷いたら床がほとんど埋まってしまう。
アパートの12年分の荷物を運び入れるなど到底無理なので、大胆な断捨離を挙行し、最終的に段ボール箱6つ分にまとめた。
半分は本とCDである。

仏教関係の書籍と30年間収集したクラシックCDはなかなか捨てられない。
それにくらべれば、衣類の捨て甲斐あること。
大半が資源回収か燃えるゴミに消えていった。

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今回は、思い切った断捨離も決行した。
過去数回、引っ越すたびに一緒に持ち運んでいた古いアルバム、若い頃の創作ノート数十冊、仙台にいた30代の頃つけていた日記5~6冊を、思い切って庭で燃やしてしまった。
過去の自分との決別、と言えばカッコよいが、時折押し入れの奥から引っ張り出して読み返して感慨にふけるといった趣味もないので、「とっておいても意味がない」と、いい加減気づいた。
一緒に、数年前に完成させて部屋に飾っていたレオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の巨大ジグソーパズルも火の中に投じた。
これが一番もったいなかったかもしれない。
が、この機会になるべく身を軽くしたいという欲求が強かった。
世界の名画と共に、若かりしソルティの愚作の数々と、恥じ多かりし青春の日々が燃え尽きていった。


最後の晩餐


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野菜作りに励んだ庭と自家製焼却炉

 
12年近く暮らしたアパートは、ソルティにとって理想的な物件であった。

・陽当たり抜群(東と南に窓)
・風通しがいい
・閑静である
・自然に囲まれている(南側が梨とミカン畑、東側が梅林)
・プライバシーが守られる(裸族可)
・隣室が空いている(12年間!)
・駅まで8分
・コンビニ、スーパー、郵便局まで5分
・図書館まで10分
・二十畳ほどの自由になる庭がある!(野菜作りを覚えた)
・友人の家まで自転車で15分


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ミカンの木に囲まれた梨畑


 年寄るまでここで過ごしたいと思わないこともなかった。
 が、一つ気になったのは、部屋の東北から南西の筋に「霊道」が走っているような感じがした。その筋の上で寝ていると、首を絞められるような圧迫を感じ、うなされることがよくあった。
 アパートの隣室とその上の部屋が埋まらないのも、それと関係しているような気がした。
 ここに来た当初空いていたソルティの上階は数年前から埋まっているが、そこに住んでいる中年男性が数回救急車で運ばれるということがあった。
 交流はなかったので、理由はわからない。
 
 ともあれ、「ここらで年老いた両親としばらく暮らしてみようか」という思いが、今回の引っ越しの理由の一つである。
 井上理津子の『親を送る その日は必ずやってくる』(集英社)を読んだせいもあるかもしれない。
 
 粗大ゴミの業者が来るのを待ちながら、「特別なことは何もなかったようで、いろいろなことが展開した」12年の歳月に good-bye した。


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● 来神、来仙 

 いま読んでいる本の中に出てきた言葉で、一瞬意味が分からず戸惑い、そのすぐあと「アア」と了解し「フッ」と笑ったのは、「来熊」という言葉であった。
 「熊が来る? そりゃ大変だ」

 
パンダ

  
 著者は熊本県に住む元高校教師で、教員時代に作家の三島由紀夫が取材で熊本を訪れたとき一緒について回り、案内した。そのくだりで何の説明もなく「来熊」が出てきたのである。
 もちろん、これは三島由紀夫が「熊本に来る、来た」の意である。そのあとのほうで「帰熊」「在熊」という言葉も出てくるので、熊本県民の間では普通に使われているのだろう。
 ちなみに、読み方は「らいくま」「きくま」「ざいくま」ではなく、「熊」を「ゆう」と読んで「らいゆう」「きゆう」「ざいゆう」である。 
 
 今を去ること25年前、ソルティが東京から仙台に居を移したとき、現地発行の新聞や印刷物の中に見つけて、やはり最初何のことだか分からず、意味を知って面白く感じたのが、「来仙」「帰仙」「在仙」という言葉であった。なんだか中国の奥地にある桃源郷から、白く長いあご髭を生やした御老体が雲に乗ってやって来る、みたいなイメージである。
 こんなふうに使われる。
 
 ベンチャーズ、最初で最後の来仙公演!
 いま北海道に出張中です。帰仙したら「白い恋人」もって伺います。
 在仙25年になるのに、いまだよそ者扱い。東北の人は閉鎖的だね。

 面白いのは、宮城県については聞いたことがない。つまり、「来宮」「帰宮」「在宮」という言葉は使われていない。「宮」を「御所」と取って、ご大層な意味と勘違いされる可能性があるからだろうか。
 
 こんなふうに、どこか遠くから発話者のいる土地に、人が「やって来る」、「帰ってくる」、あるいは「滞在している」ことを表すのに、「来」「帰」「在」という漢字に地名の一字を組み合わせることはよく行われる。というか、地方に住んでいる人ならそんなこと今さら言われるまでもないだろう。
 仙台に越した27歳になるまでソルティがそういう風習を知らなかったのは、それまで埼玉県と東京都でしか暮らしたことがなかったからである。

 埼玉の場合、「来埼」「帰埼」「在埼」あるいは「来玉」「帰玉」「在玉」なんて誰も言わない。県民の郷土愛が低いのであろうか? 団結性に欠くのであろうか? 
 東京の場合は、「帰京」「在京」は見聞きするが、「来京」は使われない。おそらく、「来〇」という言葉は、「中央で活躍しているお偉い先生、人気あるスターがわざわざ当地まで足を運んでくださる」というちょっと卑下の入ったニュアンスがあるから、日本の中心であり各地域にいま流行りの人物を派遣・紹介する立場にある全国区・東京には要らん言葉なのだろう。「徳島県で大人気のお笑い芸人がついに来京!」とか、ギャグみたいに聞こえる。
 
 ネットで調べてみたら、「来(帰、在)+都道府県名の一字」が使われている都道府県と、宮城や埼玉のように使われていない都道府県があった。 

● 頭文字が使われる
青森、岩手、秋田、福島、栃木、群馬、富山、福井、
長野、岐阜、静岡、京都、鳥取、岡山、広島、香川、
徳島、高知、福岡、佐賀、熊本、鹿児島、沖縄

  ※群馬の「来群」は稀である。
  ※秋田の「来秋」は、「来年の秋季」という意味にも解釈できるため、避けられる傾向がある。

● 語末の字が使われる
山形(来形)、千葉(来葉)、大阪(来阪)、長崎(来崎)、大分(来分)、北海道(来道)

● 特殊なケース

新潟(来越)・・・ 越後国に由来
奈良(来寧)・・・ 雅称である「寧楽」に由来

● 該当する語がない

宮城、茨城、埼玉、東京、神奈川、山梨、愛知、石川、
滋賀、和歌山、兵庫、三重、島根、山口、愛媛、宮崎

 鳥取県の「来鳥」や鹿児島県の「来鹿」は、「来熊」と並んでアニマルランドな感じである。
 福島、福井、福岡の「来福」はなんとも縁起が良い。(中華料理店を思わせる?) 
 愛知と愛媛の「来愛」がないのは残念。
 兵庫の「来兵」はなくて良かった。

 また、「来仙」のように、都道府県でなく都市名に付くケースも多い。

来神(神戸)、来甲(甲府)、来札(札幌)、来旭(旭川)、来函(函館)、
来盛(盛岡)、来水(水戸)、来浜(横浜、浜松)、来名(名古屋)、
来沢(金沢)、来勢(伊勢)、来姫(姫路)、来博(博多)・・・など


 埼玉県では「来埼」や「帰埼」は使われないと書いたが、都市名ではどうだろう?

 なんと、これがあったのである!

 来秩

 秩父である。「菅原文太、来秩!」なんてニュースがネットに載っている。
 さすが、秩父事件の地元である。
 郷土愛、団結性はゆるぎない。


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● ただいま冬眠中


眠る猫

Z・Z・Z・・・










● 多摩ニュータウン探訪

 コンサート終了後、パルテノン多摩の背後に広がる多摩中央公園を散歩した。曇りがちではあるが、暑くも寒くもなく、夕刻の涼風が素肌に心地よい。
 木々に囲まれた広大な芝の広場は、円形劇場のようにゆるやかな傾斜を持って底面の池を囲んでいる。空も大きく、どうしたってここで寝転がりたい気になる。
 久しぶりにゆっくり空を見て、思考という名の雲の行く末を追っていた。


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テントを張っている人もチラホラ
 
 
 広場の奥には森木立があり、散歩道がついている。
 江戸時代から代々の村主をつとめた富澤家の遺構が残っている。明治天皇はじめ皇族方が、この地に兎狩り()に来られた際、休息所として利用したという。

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 丘の中腹に多摩市立グリーンライブセンターがある。
 四季折々の草花の観賞、植物に関する相談、散策や休憩もできる施設で、恵泉女学園大学・多摩市グリーンボランティア連絡会・多摩市の三者で運営管理している。庭園のほかに温室やオーガニックコーヒーの飲めるホール、相談コーナーなどがある。

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 今の時期は、なんといっても薔薇である。
 庭全体が色とりどりの薔薇で埋め尽くされ、おとぎの国のようであった。
 『ガラスの仮面』で一躍有名になった‘紫の薔薇’がソルティの目を引いた。

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その名もアメジスト・バビロン


 丘のふもとには白山神社がある。
 立看板によると、「御神体として祀られている木造の神像七躯は遠く平安時代(1180)に遡る」とあり、その後、江戸時代の元和四年(1618)に加賀・白山大権現の神霊を勧請したとの由。
 某サイトによると、ここはパワースポットだとか・・・。
   神社のすぐ前に風俗店があった。
 なるほどパワースポット

 
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 このあたりは1960年代後半から始まった多摩ニュータウン造営計画によって、すっかり開発された地域である。当時立てられた団地はいまも残っている。

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落合3丁目団地から多摩センター駅方面を眺める 
 

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なぜか駐車場にD-51が置かれていた


 散歩の終わりは極楽湯。
 土曜の午後、さすがの混雑であった。

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● カーネル in 五月人形

 ベートーヴェン《第九》の第4楽章「歓喜の歌」が、18世紀ドイツの国民的詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)の創作した『自由』という詩がもとになっていることは有名である。
 実はこの詩、フリーメイソンの理念すなわち「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を謳ったものであり、シラーはドレスデンのフリーメイソンの儀式のために書きおろしたと言われている。
 なので、「歓喜の歌」を理解するためにはフリーメイソンについてある程度知っておいたほうが良いと思われる。(たとえば、歌詞の中に頻繁に出てくる「Bruder(兄弟)」は、フリーメイソンの会員同士がお互いを呼ぶときの呼称である。)
 作曲したベートーヴェンがフリーメイソンの会員であったかどうかは意見の分かれるところらしい。が、彼が尊敬するモーツァルトも、同時代の偉人シラーやゲーテも会員であったことから、かなりシンパシーを持っていたのは間違いあるまい。
 というより、欧米では何らかの分野で成功し‘ひとかど’の人物になった男子は、上記の基本理念に反対ない限り、フリーメイソンに入会するのが通例なのではないだろうか。歴史上のフリーメイソン会員のリストを見ると、つくづくそう思う。

 そんなことを考えながら街を歩いていたら、鎧兜を身につけたカーネル・サンダースに遭遇した。
 
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 店員たちの創意工夫が光っていて、段ボールや包装紙を使った安上がりにしてゴージャスな手作り感が好ましい。前垂れに威勢よく泳ぐは名古屋城のシャチホコを模したのか。

 そう。恵まれない子供たちへの慈善活動を積極的に行ったカーネル・サンダースもまたフリーメイソン会員であった。



 




● 重陽の虹

 9月9日午後4時
 滝のようなどしゃぶりが上がって、部屋の中に日が差し込んだ。
 「もしかしたら」と思って、東の窓を開けると・・・。

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 これだけ見事な虹は、しばらくぶりだ。 
 ご近所さんも通りに出て眺めていた。


 
 

● 見事な夕焼け

 5月23日(土)午後7時に実家のある私鉄駅から見た夕焼け。
 思わず足を止めた。
 

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● 墓地墓地考えてみませんか?:南千住探訪

 上野から出る常磐線が三河島を過ぎて南千住駅に着く直前に、進行方向右手の窓からお寺の墓地が見える。列車はそこから左カーブを描きながら南千住駅構内に入っていくが、隅田川駅に向かう貨物線が右に別れる分岐点で大きなお地蔵様の後姿が一瞬見える。前者が「投げ込み寺」の通称で知られる浄閑寺、後者が小塚原刑場の跡地に建てられた延命寺の「首切り地蔵」である。
 さわやかな秋晴れの一日、かねてから気になっていた南千住のディープな一角を散策してみた。

 浄閑寺は浄土宗の寺院で1655年に開基されている。
 投げ込み寺と言われる由来は、安政2年(1855年)10月2日に発生した大地震の際、最寄りにある吉原の遊女500人余りの遺体を、境内に掘った大きな墓穴に投げ込むように埋葬したという史実による。江戸、明治、大正、昭和と380年余間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など推定数は25,000名に及ぶと言われている。ここは遊女たちの終着駅だったのである。彼女たちの御霊を祀る新吉原総霊塔の背後に、常磐線の走る土手が見える。

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 総霊塔の向かいには、山谷で働き山谷で老い山谷で亡くなった男たちの墓がある。山谷老友会発願、彫刻家の倉田辰彦制作による「ひまわり地蔵尊」である。愛らしい、ほっとするような笑みをたたえている。
 現在山谷には「山友会」というNPO法人があって、無料クリニックやアウトリーチ、炊き出しなどを行っている。老友会とはたぶん関係のない別の組織だろう。身寄りもなく帰る家もない日雇い労働者の困窮にこうして手を差し伸べる人がいる。彼らこそ「地蔵」というにふさわしい。

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 小塚原刑場は1651年創設。明治初年に廃止となるまで、大井競馬場(品川区)の近くにあった鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸時代の主たる刑場(お仕置き場)の一つであった。
 以前あった案内板によると、

 この地附近は徳川幕府初期頃より重罪者の刑に宛てた所で、昔は「浅草はりつけ場」と称されていた。刑場として開創されてから二百二十余年の間埋葬された屍体は実に二十余万と称せられるが大部分は重罪者の屍体であった。
 寛文七年(1667)刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。これが現在の史跡小塚原回向院である。幕法よりすれば、憂国の志士も盗賊放火の罪人も等しく幕府の大罪人であって、これらの大罪人が伝馬町の牢獄なり小塚原の刑場において仕置きとなる時は、その遺体は非人頭に下げられ、この境内に取捨となった。故に埋葬とは名のみであって、土中に浅く穴を掘りその上にうすく土をかけおくだけであったから、雨水に洗われて手肢の土中より顕れ出ること等決して珍しくなく、特に暑中の頃は臭気紛々として鼻をつき、野犬やいたちなどが死体を喰い、残月に嘯(うそぶ)く様はこの世ながらの修羅場であった。(以下略。ソルティ適宜読点付す)

 首切り地蔵は1741年に無縁供養のため建てられたという。
 昔の写真に見る小塚原はたしかにぞっとするような景色である。今も地蔵の奥に並ぶ墓石の間を歩いていると、何者かに見つめられているような、何ともいたたまれない不吉さを感じざるを得ない。(霊感がなくて良かった)
 が、延命寺入口に立っている荒川区教育委員会作成の案内板によると、「明治30年代から昭和30年代まで、月3回地蔵の縁日が行われ、多くの露店や見世物小屋が立ち大変な賑わいを見せていた」――そうである。
 人間って物好きだ。

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かつての小塚原刑場


 地蔵の立つ延命寺とは常磐線の高架をはさんで、回向院がある。
 まず目立つのは入口脇にある「吉展地蔵尊」。
 1963年(昭和38年)に上野駅近くの公園から身代金目当てで誘拐され、2キロと離れていない南千住の円通寺で殺害遺棄された村越吉展ちゃん(当時4歳)の冥福を祈るお地蔵様である。村越家は回向院の檀家らしい。この事件の犯人小原保は事件発生後2年半経って逮捕され、1971年に死刑に処された。犯人が誘拐を思い立ったのは、黒澤明の『天国と地獄』を観たからと言われている。

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 境内に入ると「史蹟エリア」があって、見学できる。
 ここにはいろいろな歴史上の有名人の墓がある。
 安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内。
 桜田門外の変で井伊直弼を襲撃した水戸藩の志士たち。
 2・2・6事件の首謀者の一人であり銃殺刑に処された磯部浅一とその妻。
 ねずみ小僧次郎吉。

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 中で、名前だけは耳にしたことがあるが、どんな人物か思い出せないものがあった。
 高橋お傳(伝)。
殺人百科 帰宅してから調べて「ああ」と思った。
 自分が持っている「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」(新人物往来社)で紹介されている明治時代の有名な犯罪者なのであった。ちなみにこの本は、明治から平成(16年まで)に至る世情を大いに騒がした120以上の殺人事件をレポートしたものである。読んでいると、人間という種の持つ狂気、際限のない怒りや欲の恐ろしさ、犯罪に巻き込まれる者たちの業の深さに暗澹たる気持ちになること確実である。
 高橋お伝は、わが国の斬首による最後の女刑死者であり、「毒婦」の代名詞であった

 お伝が夫、波之助と、生まれ故郷の群馬県から横浜に出てきたのが1869年(明治2年)のこと。波之助はハンセン病であり、当時のこととて、二人は追われるようにして村を離れたのだった。お伝は料亭で働き、波之助も人足仕事に出たが、波之助はやがて寝たきりに、1873年(明治6年)、ついに亡くなった。
 一人になったお伝は東京に出、自分と同じ群馬の出の絹商人、小沢伊兵衛の妾になる。が、やがて彼女は元尾張藩士の小川市太郎と恋仲になり、小沢とは切れ、二人でお茶や桑の苗などを対象としたブローカーのような仕事を始める。(「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」、新人物往来社) 
 この小川がいわゆる「武士の商法」であったらしく、二人はたちまち困窮する。ここで殺人に至る動機(=金)が発生したらしい。

 お伝が日本橋の古着商、後藤吉蔵を儲け話で誘い、蔵前の旅館の一室で同衾したのが1876年(明治9年)8月27日のことだった。色仕掛けで所持金を騙し取る算段だったが、もし話に乗ってこなかったら殺して奪おうと、彼女は懐に剃刀をしのばせていた。(上掲書)
 結局、当初の目的がうまくいかず、殺人→逃亡→逮捕→処刑となる。
 お伝が「毒婦」として知れ渡ったきっかけは、この事件を元にした当時の小説家仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)』による。物語中でお伝は、ヤクザと斬り合ったり、スリの頭目の情婦になったり、夫を殺して海に放り込んだり、美人局をやったり・・・とまさに「毒婦」としか形容しようのない行状を重ねているらしい。(ソルティ未読) もちろん、当時人殺しに人権なぞあろうはずもなく、すべてフィクション(=出鱈目)である。
 また、お伝の遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)が現在の東京大学法医学部の参考室で保存された。これをまた新聞が面白半分にネタにしたことから、お伝のもう一つの伝説が出来上がっていく。曰く「並はずれた淫乱だった。」
 別の資料によると、お伝は確かに商売下手な夫を助けるため体を売って金を得ようとはしたらしいが、犯行のきっかけは相手の後藤吉蔵がコトが済んだあとに約束どおり対価を払わなかったことにカッとなって・・・とある。
 どちらが本当なのだろう?
 もはや真相は歴史の闇の中、お伝の墓石の下にある。
 けれど、ハンセン病の夫を愛し、故郷を追われ、最期まで看病したのは事実らしい。『砂の器』を出すまでもなく、その昔ハンセン病(=癩)と言ったら、想像を絶するすさまじい差別の対象だったのである。お伝が夫を捨てて逃げ出したっておかしくなかった。世間も非難はしなかったろう。
 が、お伝は夫を捨てなかった。
 そのような女が「毒婦」だろうか。
 「貞女」と賞賛されこそすれ、「毒婦」と蔑まれるいわれはなかろう。

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 都電荒川線「三ノ輪駅」から帰途に着く。
 車内は巣鴨とげぬき地蔵に向かう都バスツアーのおばちゃんたちで満員だった。
 壁面の広告に思わず吹き出す。

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● 登戸研究所資料館を訪ねて

・ 何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか
・ 静脈から空気を注射すると、どのようなプロセスを経て悶絶に至るのか
・ 逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどのように変化するか
・ 大きな遠心分離器に入れ、高速で回転させる実験
・ 馬や豚の血液を腎臓に注入
・ チフス菌入り甘味まんじゅう実験
・ A型からO型(血液)への輸血
・ 「イチョウ返し」といって胃と腸の位置を逆転したらどうなるか
・ 右腕と左腕を取り替える
・ 真空管に放り込んで内蔵が出てくるさまを16mm映写機で撮影する

 これ全部、アジア太平洋戦争中に日本人が捕虜に対して行った実験である。
 詳しく言うと、大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部(通称731部隊または石井部隊)において、隊員である医学者たちが、捕虜となった朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等に対して行った人体実験の例である。
 731部隊は、兵士の感染症予防、衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関であった。1933年(昭和8)初代隊長に石井四郎を擁し、ハルビンに設置された。
 上に挙げた実験が本来の目的である細菌戦の準備とは関係なく、医学者たちの好奇心だけで実施されたのを知るとき、そして実験台として使われた捕虜のことを隊員たちが「マルタ(丸太)」と呼んでいたのを知るとき、そのような心性や衝動が日本人の中に潜んでいるのに慄然とする。自分の中にもあるのかと。

 「731部隊展」が、明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館でやっているのをネットで知って出かけてみた。
 場所は小田急線生田駅から歩いて10分、多摩丘陵の高台にある。

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 登校路門から入って急な坂道を登ってすぐのところに神社がある。生田神社と呼ばれているが、もとは1943年に建立された弥心(やごころ)神社で、古事記の天岩戸神話に登場する知恵の神「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀っている。大学キャンパスに祀る神としては、天神様(菅原道真公)と並んで最適の選択であるなあと感心するなかれ。生田キャンパスは登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地に建てられたもので、つまりこの神社は研究の成功=戦勝(=「敵をたくさん殺すための知恵をください」)を願って建てられたものなのである。

 緑豊かなキャンパスに入ると、学生がわんさかいる。
 あたりまえの話だ。が、普段老人ホームで平均85歳の高齢者たちに囲まれているので、こんなにたくさん若い人がいるという目の前の景色がなんだか信じられない。相対性のマジックで、みな子供のように、中学生のように見える。
 いや、実際自分の息子・娘の世代ではあった。
 仲間と楽しそうに歩く学生たちの背後に、現代的な高層ビルディングとヒマラヤ杉が聳え立つ。

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 登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。ここでは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・かく乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)のためのさまざまな秘密戦兵器が開発されました。正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、決して外部にその研究・開発内容を知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
 登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究所でありましたが、敗戦とともに閉鎖されました。その後、1950年に登戸研究所の跡地の一部を明治大学が購入し、明治大学生田キャンパスが開設され現在に至っています。(資料館パンフレットより抜粋)


 キャンパス内には、弥心神社をはじめ、研究所の史跡(戦争遺跡)が点在している。そのうち、第二科の実験棟のあった場所に、当時の建物の設備をなるべくそのまま残す形で復元されたのが登戸研究所資料館である。
 見学は無料。

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 登戸研究所では主に以下のような研究・開発を行っていた。
 第一科 風船爆弾の研究開発
 第二科 生物兵器・毒物・スパイ機材の研究開発
 第三科 偽札の製造
 
 資料館では、それぞれの科で行っていた研究の中味について、部屋ごとに分けて展示している。それぞれの部屋に展示説明のDVDが置かれてるので、職員に解説を頼まなくても概要を理解することができる。

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 風船爆弾の名前だけは知っていたが、本当に実戦に使われたとは知らなかった。
 実際に爆弾を搭載した風船が千葉県の一宮からアメリカに向けて飛ばされたのである。
 9300発打ち上げられて、偏西風に乗ってアメリカ本土に1000発ほどが到着したのである。
 なんだか夢のような、メアリー・ポピンズのようなファンタジー。
 しかも風船の生地が和紙とこんにゃくとでできているときては!
 たしかに、各高度における風の向きや強さの分析、気圧の変化によって風船が膨張爆発するのを抑える技術、途中で(太平洋上で)落下するのを防ぐため錘(砂袋)を自動的に投下する技術、アメリカ本土で爆弾を投擲できるタイミングをはかる技術など、各分野から動員された専門家による高度の知的プロジェクトには違いない。オレゴン州でピクニック(!)中の子供と大人が不時着した風船爆弾に触れて6名が死亡するという成果もあった。放球時の事故で日本の兵士が6名死亡しているので差し引きゼロだが。
 風船爆弾は「最終決戦兵器」として作られたという。ミッドウェーで敗北し、ガダルカナルから撤退し、あとがなかった。和紙とこんにゃくという組み合わせの妙も、真相を言えば、もはや南方からゴムを調達するだけの機動力を失っていたからなのである。
 これが「最終兵器」たる理由は、そもそもの計画が爆弾ではなく生物兵器(牛疫ウイルス)を搭載してアメリカを攻撃するというところにあったようだ。実際、強毒化や生体実験も済んで実用可状態にあったらしい。
 なぜ実際には使わなかったか。 

アメリカからの報復を恐れた陸軍中央の最終的な判断によって風船爆弾に搭載されることはありませんでした。(資料館ガイドブックより)

 賢明な判断である。
 っていうか、「報復を恐れて攻撃を控える」という時点で、すでに敗北宣言も同然じゃないか。
 想像してみよ。
 高度4500mの太平洋上空を何千発もの和紙の風船たちが時速200キロの風に乗って旅するさまを。あるは上空で爆発し、あるは海の藻屑と消え、あるは名も知らぬ南の島に不時着する。昼は冬の(というのは偏西風は冬しか吹かない)日差しに焼かれ、夜は氷点下の星空を行く。二泊三日の旅を終え、無事目的地に到達できるのは1割。
 なんともいじらしい風船たちの旅。
 日本国民の食卓からこんにゃくが姿を消していたこの期間、アメリカは着々と戦争を終結させる最終兵器=原子爆弾の使用のタイミングをはかっていたのである。


 生物兵器や毒物を研究開発する第二科こそは、731部隊と関係の深かったところである。ここで開発した毒物の人体実験、細菌の散布実験が中国で行われたのである。登戸研究所が頭脳、731部隊が手足といったところか。
 戦後まもない東京で、ある事件が起きた。 

1948年1月26日午後3時過ぎ、一人の男が帝国銀行椎名町支店に現れ、近くで集団赤痢が発生したといって16人の行員を集め、予防薬と称する毒物を飲ませ、12人が死亡した。その際に犯人は「厚生省技官松井蔚」という名刺を残した。松井氏は実在の人物で、名刺を交換したものの捜査がすすめられた。捜査本部は、毒物に深い知識を持っていることに注目し、青酸毒物の人体実験をおこなっていた731部隊など旧陸軍関係者の捜査を進めたが、捜査は一転、毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通氏を逮捕した。平沢氏は公判で無実を訴えたが、一審、二審とも死刑判決が出され、1955年5月7日、死刑が確定した。平沢氏は再審を訴えつづけたが、1987年5月10日、獄死した。享年95歳。(「帝銀事件ホームページ 平沢貞通を救う会」より抜粋)

 帝銀事件である。
 このとき使用された毒物というのが、登戸研究所第二科が開発した青酸ニトリル(アセトンシアンヒドリン)であった。
 警察が最初に容疑者として目星をつけていたのは登戸研究所第二科の所員であったS中佐だったが、何らかの思惑(GHQの圧力と言われている)が働いて、その方面の捜査は中止となった。S中佐は事件の翌年に病死している。ブルッ。


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 第二科に勤務していた伴繁雄は、戦後40年間、身内にも自身の研究所での体験を語ることなく沈黙を貫いていた。
 それが、80年代、登戸研究所について調査活動していた高校生のたび重なる訪問を受けているうちに、重い口を開き始める。曰く、「登戸研究所のことは大人の誰にも話したくなかった。君たちが高校生だから話したのだ」
 こうした取り組みが、伴氏をはじめとする元所員たちの心の扉を開いていき、それぞれの体験を語り始める。登戸研究所の保存と資料館の設置を明治大学に要望したのも彼らである。

 資料館の最後の部屋に伴繁雄が高校生に送ったメッセージがある。正確には覚えていないが、大体こんなことだ。

 「自分たちは小さい頃から天皇陛下を神と拝み、お国のために闘うのがあたりまえと育てられてきた。だから、時代の流れの中で逆らえるものではなかった。それをわかってほしい」
 その通りだと思う。
 おそらく、いやきっと、自分も同じような環境に身が置かれたら、伴氏や他の研究所職員や731部隊の兵士たち同様、愛国心と正義感を持って、一人でも多くの敵の殺戮に日々励み、喜びとすることだろう。
 だからこそ、国家というものが、戦争というものが、どれほど狂気と理不尽に満ちているか、人間というものがどれほど無明に閉ざされているかを忘れないために、過去のあやまちを放擲してはならない。

 現在、中国は731部隊跡地を世界遺産登録するための運動を推進している。

731跡地


 
 
 

● 平林寺――武蔵野の匂い

6月9日(日)
 あまりに天気がうるわしいので、弁当をこさえてサイクリングと洒落てみた。
 行き先は埼玉県新座市にある臨済宗の名刹、13万坪の広大な境内を有する平林寺である。ちなみに、13万坪というのは東京ドーム9個分、皇居37%分である。外周を歩くと1時間以上もかかる!

平林寺 001


平林寺 002


 その名の通り「平」野にある「林」で、田山花袋が「武蔵野の昔の匂いを嗅ごうとするには野火止の平林寺付近がいい」と言ったように、コナラ、クヌギ、モミジ、松、杉、ヒノキが生い茂り、野火止用水が走り、30種類以上の野鳥が生息する自然豊かなお寺である。
 川越街道と関越自動車道にはさまれ、新座市役所が隣にあるような喧噪な一画に、こんな美しく静かな森があるということに驚嘆する。わざわざ郊外の山に行かなくても十分リフレッシュできる。
 また、禅寺の持つ静寂な雰囲気が散策者の心を落ち着かせる。思索にふけるもよし、思索しないにふけるもよし。こんな自然の中で坐禅を組めば進歩も早いことだろう。ウグイスの声がひときわ目立っていた。

 ただ、紅葉の頃はかなり混雑するらしい。モミジがたくさんあるからむべなるかな。

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 平林寺は南北朝時代(1375年)にさいたま市岩槻に建てられ、その後松平家の霊廟となり、江戸時代(1663年)松平輝綱によって現在の地に移されたとある。
 境内の一等地に松平家代々のお墓がデンと構えている。
 松平家で一番有名なのは、三代将軍徳川家光に仕えた松平信綱であろう。「知恵伊豆(知恵出づ)」と言われたほど頭の切れる男で、幕藩体制の確立に貢献したほかにも、島原の乱を鎮圧したり、野火止用水や玉川上水を作ったり、川越を城下町として発展させたりと、いろいろな功績が残っている。(下の写真は信綱の墓と平和観音)
 境内には島原の乱で殺された人々を弔う供養塔があった。松平信綱は、言ってみれば美輪明宏(=天草四郎時貞の生まれ変わり)の天敵である。さしもの美輪様もここに来たら逆上するかも。

平林寺 010


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 閉門(4時半)間際の境内に人影は少なく、静かな散策と瞑想が楽しめた。

平林寺 006




● 春を探して

春を探しに 006 春を探しに 002

春を探しに 003 春を探しに 004

探春
盡日尋春不見春
杖藜踏破幾重雲
歸來試把梅梢看
春在枝頭已十分

春を探(さぐ)る
盡日(じんじつ)春を尋ねて 春を見ず
杖藜(じょうれい)踏破す 幾重(いくちょう)の雲
歸來(きらい)試みに 梅梢(ばいしょう)を把(と)って看れば
春は枝頭(しとう)に在りて 已(すで)に十分


春を探して (ソルティ訳)
一日中、春を探して自転車で走り回った。
あそこにも ここにも 春の徴は鮮やかだ。
(けれど何だか晴れがましすぎて、しっくりこない)
家に帰って庭に目をやった。
ああ、こんなところに土筆ン坊が!



春を探しに 001



 

● 腐ったミカンの多元連立時空方程式、または一つの死刑廃止論

 光市の母子殺人事件の死刑判決が確定して、死刑についての思いがまたもや頭をもたげるこの頃。
 世間では、この判決確定を「当然である」「あまりに遅すぎる」「とっとと執行せい!」とする声が大きいのは重々承知しているが、やはり、むなしさ、悲しさを感じざるを得ない。
 自分が死刑制度に反対する理由は言葉にするのがなかなか難しくて、ましてや死刑賛成論者と議論するなど到底無理な話と思っているのだが、自分が反対する理由に近いものをこれまであまた語られてきた死刑廃止論の中には見つけることができないので、ここで不十分ながらもまとめておくのもよいかと思う。


 まず、この問題を考えるとっかかりとしてベタは承知の上、段ボール箱に詰められたミカンを持ち出してみたい。

 どこからか箱ごと送られてきたミカンは、早いとこ食べるか人に分けるかしないと、他のミカンの重さを引き受け空気の流通も悪い、箱の一番下のミカンからカビて腐っていく。腐ったミカンを取り除いて捨てたところで、保管方法を変えなければ、また一番下になったミカンが腐るだけである。
 なぜ腐ったのか原因をつきとめて、時々箱をさかさまにするとか、すべてのミカンを取り出して分散して保管するとか、一部はミキサーで搾って冷凍するとか、保管方法をそれなりに工夫しなければ状況は変わらない。「腐ったら捨てればいいじゃん」は、保管方法をこれまでどおり維持する口実となるばかりでない。そのうち腐ったものをそれと気づかずに口にしてしまう危険だってある。
 死刑もそれと同じである。
 犯罪者をこの社会から抹殺しても、何の解決にもならない。
 解決するように見えるものがあるとしたら、それは犯罪者を収容し続けるあるいは更生するためにかかる経費の削減と、殺された被害者の家族らの感情がいささかでもなだめられるという点である。経費の削減のために死刑を執行するというのはいくらなんでもとんでもない話であるから無視するとして、被害者の家族らの感情についてはどうであろうか。 
 たとえ加害者が死刑になったとしても亡くなった者が帰ってくることはないし、受けた苦しみが消えることはないだろう。「なぜ自分の愛する者が・・・」「なぜ自分がこんな目にあうのか・・・」という理不尽は生涯ついて回るであろう。
 死刑は、なぜ「彼(彼女)がそうした犯罪を行ったのか」という問いと追究を封じて、そうした行為が二度と起こらないようにするための対策への努力を怠る口実となる。
 「社会のゴミは処分すればいいじゃん。」


 引き続き、ミカン箱の比喩を用いよう。
 台所の隅に無造作に置かれたミカンの段ボール箱。このような保管方法をしている限り、いずれ一番劣悪な状況にあるミカンが腐るのは時間の問題である。
 同様に、このような社会構造がある限り、いずれ誰かが犯罪の加害者となり、誰かが被害者として選ばれるのは時間の問題である。今回は、たまたまAさんが「加害者」になり、Bさんが「被害者」となったけれど、Aさん、Bさんでなければ、きっとCさんが加害者、Dさんが被害者になったであろう。このような社会構造の中で、いずれこのような事件がどこかで生じることは避けられないのであり、AさんやBさんは今回たまたま「加害者」「被害者」の役を振り当てられたと見るのである。
 このような社会構造とは、むろん、戦争があり、飽くなき欲望の追求とその称賛があり、熾烈な競争があり、他者との比較があり、差別があり、不平等があり、虐待があり、福祉の欠如があり、無知が蔓延しているこの社会のありようである。

 あれがあるからこれがある。
 あれがなければこれがない。


 これは仏教で言う因縁の見方である。


 この世は因縁で成り立っている。
 因(原因)があり、そこにいくつかの縁(条件)がそろって、果(結果)が生じる。生じた果はそのまま新たな因となる。この流れが気の遠くなるような過去から現在まで、一枚の落葉から銀河の衝突に至るまで、複雑微妙にからみあって、しかし完璧な秩序をもって運行している。その意味では、世界は瞬間瞬間「完全」である。
 ある事象が起こる因縁が調ったとき、それは不可避に生じざるを得ない。社会の中である事件が起こる因縁がそろったとき、それは起こらざるを得ない。その当事者となるのがどこの誰であるかは、私たちには読み取れない。
 この考え方に、個人の意志や理性というものについての軽視をみるかもしれない。
 その通りである。個人とは、結局、歴史の大海の中に現れたある特定の「社会」という渦巻きの中の波のしぶきのようなものである。言葉を換えて言えば、個人とは歴史と社会によって条件付けられた「土のかけら(人間は炭素からできている)」である。個人は社会(世界)の不出来なミニチュアである。自分の意志なんてものは錯覚にすぎない。
 とすると、犯罪が起こるのは仕方ない、人が悪事を犯すのは止められないという極論に導かれそうだが、そうではない。
 我々人間が行う一つ一つの行為は、それが意図的であろうとあるまいと、必ずや因縁の流れに組み込まれ、なにがしかの結果をもたらさずにはいない。歴史と社会に条件付けられた意識が、その条件付けの範囲内の因縁しか流れに加えることができないのは火を見るより明らかであろう。悪い社会の悪い環境に生まれ育った青年は、流れに悪い因を加え、結果として社会をいっそう悪くするのに力を貸す。遅かれ早かれ自身も悪い果を得るだろう。
 だが、この条件付けに気づき、そこからちょっとでも身を引き剥がすことに成功した人間は、よい因縁(と自ら判断したもの)をつくりだして、流れに加えることができる。そこが、本能(自然)だけで命をまっとうする(まっとうできる)動物と、どういうわけか本能の壊れた人間との違いである。
 人は犯罪を犯した人間を裁くが、その人間がその犯罪を起こすことになった因縁は見たがらない。あたかも、その人間が悪い意志を持った、悪い人間であるかのように考える。良くなる意志を欠いた怠け者のように扱う。
 だが、良くなろうとする意志もまた、その背景(因縁)がそろってはじめて生まれるものなのである。事件を起こすまでの半生の中で、その因縁をつかめなかったのは当人の所為であろうか。良き親との出会い、良き人との出会い、良い本との出会い、そもそも「良いとは何か」を知る機会がなかったのは当人の努力不足であろうか。ミカン箱の一番下になったのは、そのミカンの所為だろうか。

 東日本大震災で、我々は被災した多くの人々の苦しみ・悲しみに共感し、援助を捧げることに何のためらいも見せなかった。日本人であれば、被害にあったのが自分であったかもしれないことを誰もが知っているからであろう。地震大国の日本では早晩大地震が起こるであろうことは知れていたし、どこに来るかは誰にも予測できなかった。今回、被害にあった地域と住民たちは、いわば、幸いにして被害にあわなかった自分たちの身代わり、人身御供になったのである。
「自分の地域だったかもしれない」
「自分の家族だったかもしれない」
 その思いが当事者とそれを免れた者とを結びつける。
 一方、誰も地震や津波そのものを責めはしない。このように不安定な岩盤を持つ土地に暮らしている以上、いつかは来ることは覚悟していたからである。
 社会における犯罪というのもそれと同じように自分には思われる。
「加害者は自分だったかもしれない」
「被害者は自分や自分の家族だったかもしれない」
 死刑という制度は、このような世のしくみ(=因縁)に対する無知のあらわれのように思われる。と同時に、条件付けから解かれないがゆえに、このような社会構造をそのまま持続させることに加担してしまっている、社会の一員である自分に対する負い目が、死刑を声高に唱えることを控えさせるのである。


 因縁を別の側面から取り上げてみよう。
 我々のすべての行為が新たな因となり縁となって流れをつくるのであってみれば、死刑という行為自体も当然因縁をつくる。それははたして良い因であろうか。良い縁であろうか。良い果を生むであろうか。
 死刑は、理由や背景がどうであれ、人を殺す行為である。決してポジティブな結果を生むとは思われない。
 単純な結果だけ見ても、それは国が合法的に人を殺すことを認める行為である。戦争と同じである。戦争放棄をうたっている日本が、合法的に人を殺すことを認めるのは矛盾している。この矛盾は憲法9条の存続を揺るがしかねない。
 また、主権在民の国家において、「国」とは国民である私たち一人ひとりである。すなわち、国による殺人である死刑の実情とは、私たち一人ひとりによる殺人なのである。国が殺すのではない。法律が殺すのではない。裁判所が殺すのではない。死刑執行人が殺すのではない。ましてや電気椅子や13階段が殺すのではない。私たちが、一億二千万分の一の責任を背負って殺害者になるのである。その自覚と覚悟がおありだろうか。


 再び、ミカン箱に戻る。
 社会がミカン箱であり、個人は社会のミニチュアであるならば、ミカン箱はまた個人の中にも存在する。個人の中味は社会の中味そのものなのである。
 社会がミカン箱から腐ったミカンを捨て去った(=死刑を執行した)時、それはその社会に住む個人が己の中からも同じ腐ったミカンを捨て去ったことになる。自分自身の一部を理解することなく、受け入れることなく、切り捨てたのである。切り捨てるのを許容したのである。腐った部位だからかまわないだろうか。だが、それはほかでもない自分の一部なのだ。自分の中のある部分が、許容できない別の一部を阻害した。それは自己分裂のはじまりであろう。

 このことを自分が強く感じたのは、1980年代終わりに連続幼女誘拐殺人で世間を騒がした宮崎勤の死刑が執行された時(2008年6月17日)であった。
 自分と同世代の人間として、つまり、生まれたときから同じ時代の変遷を経験し、同じ年齢でその都度同じ社会の有する価値観の内面化をはかった人間として、宮崎勤にはどこかつながりを感じていた。犯罪こそ起こさないけれど、自分の中にも「宮崎的なるもの」は育まれ、潜んでいた。フローベルに倣って言えば、「宮崎勤は私だ!」
 これは、他の世代の人間にはなかなか理解できないものであろう。けれど、一つの世代にはその世代にだけ理解できる、なんとなく共感しうる代表的な犯罪者がいるはずである。たとえば、『無知の涙』の永山則夫、『佐川君からの手紙』の佐川一政、神戸連続児童殺傷事件のサカキバラ、秋葉原通り魔事件の被疑者・・・・。彼らは、同世代の人間が隠し持つ「負の部分」の結実であり、同世代の中から選ばれた社会に対する生け贄なのである。
 宮崎勤が死刑になったとき、自分の中から何かが奪われるのを感じた。自分の中の「宮崎的なるもの」が結局、社会に理解されることも、そういうものが「ある」と認められることさえなく、捨て去られたような気がした。切り捨てられた「何か」は、どこにも落ち着くところがなく、今もどこか中空を漂っているような感覚がある。自分の中で統合される機会を持たないままで・・・。
 死刑とは、自分自身の一部を殺すことである。否、自分自身の一部が社会に殺されるのを黙って見過ごすことである。


 加害者が自分であったかもしれないのと同様、被害者も自分であったかもしれない。被害者は、他の人に代わって、このような社会構造の犠牲になってくれたのである。
 であってみれば、被害者とその家族に最善のケアをすることが社会の義務であるのは当たり前の話である。なぜこのような事件が起こったのか、加害者はどんな人間でなぜこのような犯罪を起こすに至ったのか、どういう償いが妥当なのか、更生はうまくいっているのか。こういった事件の詳細にまつわる情報を知る権利がある。また、その被害を社会が何らかの形で賠償する義務がある。

 被害者の身内の怒り、苦しみ、悲しみはどうしたらなくなるだろうか。そもそもその怒り、苦しみ、悲しみはなくなるものだろうか。克服すべきものだろうか。その怒り、苦しみ、悲しみの大きさこそが、もはや帰ってこない奪われた身内に対する愛情のバロメーターであるときに・・・。
 「なぜ自分の家族が・・・」「なぜ自分がこんな目に・・・」という問いかけに、答えは見つからない。だが、「他の家族に起きれば良かったのに・・・」「自分でなく隣の人であれば・・・」と彼らが思うわけもなかろう。

 苦しみが避けられない世の中に、我々は共に生きている。

みかん




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