ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

クリント・イーストウッド

● 父性と母性 映画:『パーフェクト・ワールド』(クリント・イーストウッド監督)

 1993年アメリカ映画。

 クリント・イーストウッド監督の映画について、別記事で「ジェンダー映画である」と定義した。それは「男」を問う物語である、と。
 『パーフェクト・ワールド』もまた、その定義の妥当性を補強する作品である。

 仲間と共に刑務所から脱走したブッチ(=ケヴィン・コスナー)は、仲間の愚行がもとで、ある母子家庭に侵入し、その家の少年フィリップを人質として誘拐するハメになる。瞬く間に広がる警察の捜査網。陣頭指揮を執るのは警察署長のレッド(=クリント・イーストウッド)。かつて娼婦の母親に暴力を振るった男を殺めた十代のブッチを、少年刑務所に送り込んだ人間である。
 かくして、ブッチとフィリップの幾台も車を乗り換えての逃避行、レッド達の追跡が始まる。

 ブッチとフィリップには共通点がある。
 父親の不在である。二人とも幼い頃に父親と生き別れた経験がある。父親との触れ合いを知らない。
 フィリップはそれでも賢くしっかりした母親の愛情を受けて育った。女だらけの家庭、「エホバの証人」を信仰する母親のせいで他の家の男の子たちと自由に遊べない、外で立小便もできない柔弱な男の子になってしまったけれど。
 ブッチの母親は首吊り自殺をしている。ブッチは母親の愛情も十分に受けなかったに違いない。

 これがジェンダー映画であるのは、ブッチとフィリップの関係性に依る。
 逃走犯と人質でありながら、二人の関係は「父と息子」なのである。
 旅の途中ブッチは、缶詰のアスパラガスのように柔弱なフィリップを「男」にしようと訓練する。それは、まさにアメリカンな父親の役割、父性の発露である。その点で、この作品は同じイーストウッド監督の『グラン・トリノ』(2008年)に類似している。ほうっておいたらオカマかゲイになってしまいそうな隣家のアジア系の少年を、頑陋な退役軍人を演じるイーストウッドが矯正しようとする話である。(イーストウッドが勘違いしているなあと思うのは、父親のいないこと=父性の欠如がゲイやオカマをつくるわけではない、という点である。) 
 ブッチは、フィリップに対して父親としての役割を果たすことによって自らの中の父性を確認し、家族を捨ててアラスカに去った自分の父親の罪を代償しているかのようだ。彼の心の声が聞こえてくる。
「俺はこんなふうに親父に接してほしかったんだ。」
 一方、母や姉のいるあたたかい家庭から連れ出され、見知らぬ男に誘拐されたフィリップがそれを恐れているかといえば、そうでもない。道中フィリップは家に帰られる機会が何度か与えられたにもかかわらず、ブッチに付いていく決心をしている。それはフィリップがブッチに父親の姿を見ているからである。自分の成長に必要な「父性」の洗礼を無意識に求めているからである。
 その意味で、これはアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督『父、帰る』(2003年)同様、男の子にとっての父親の存在意義、「父性」の意味を問う物語でもある。

 故河合隼雄が、次のようなことを述べている。 

 母性の原理は「包合する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
 しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子・一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑みこんでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
・・・・中略・・・・
 これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供を能力や個性に応じて分類する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子供を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
 父性原理はこのようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と、両面をそなえている。
(河合隼雄著『母性社会日本の病理』中公選書)

 子供は無条件に自分を受け入れ肯定してくれる存在をまず必要とする。それによって、ひとの中で自信を持って生きていくのに必要な自己信頼(=セルフエスティーム)、および自分を取り巻く周囲の世界に対する信頼感が得られる。それがないと、長じてから他者との信頼と愛情に満ちた関係を築くことができなくなる。それを与えるのが母性の役目である。(河合が言っているように、必ずしも父性=父親、母性=母親とは限らない。)
 だが、母性だけでは十全でない。母性は育ち始める子供の自我を下手すると「飲み込んで」しまう。とくに、母親と男の子の組み合わせの場合、コントロールが効かなくなる危険がある。母親は、本来なら夫に求めるべき優しさを息子に求め、夫に与えるべき愛情を息子に向ける。幼い男の子はそれを拒否する手立てを知らない。どこか「このままではいけない」と思いながら、居心地の良い関係性から抜け出すことができないまま、いつの間にか自立する力を失っていく。砂糖でできた蟻地獄のようなものだ。イーストウッドはこの陥穽にはまった男の姿を『エドガー』(2011年)で描いた。
 父性の役目とは、ほうっておいたらそのような母子一体の共依存に陥ってしまう関係を「切る」ところにあると言えるかもしれない。少年を「男」にするとか、マッチョイズムとかは全然関係ない。
 そこのところがマッチョの国アメリカでは誤解されているような気がする。
 そもそも「男」になるということが、暴力的になる、好戦的になる、女性蔑視を身につける、千人切りを達成する、多様性を認めない狭量な心を持つ、ということとイコールであるなら、なんと愚かな価値観だろう。なんて醜い「勲章」だろう。「女子供を守る」という幾分マシな価値観でさえ、守られている側からすればハタ迷惑な、独りよがりなものである。子供はともかく、男に本当に守られなければならない女など果たしているものだろうか。

 閑話休題。
 誘拐されたフィリップは父親代わりを果たしてくれたブッチになつき、母子一体の繭からの脱出をなし、最後にはすっかりブッチの味方になってしまう。
 これは「ストックホルム症候群」であろうか。『スノータウン』のジェイミー少年ように、加害者に洗脳されてしまった結果だろうか。
 そうではなかろう。
 ここがイーストウッドの凄いところと思うのだが、フィリップは最後にブッチに銃口を向けるのである。ブッチになつき、親しみを持ってはいるが、決してブッチの共犯にも仲間にもならなかった。ブッチに心酔するあまり、善悪の判断をなくすことはなかったのである。
 それを可能ならしめたもの、『スノータウン』のジェイミーとの決定的な相違ーーそれこそがフィリップの自己信頼、すなわち母親から与えられた愛情ではないかと思うのである。

 人が育つのには母性と父性、両方必要だ。
 (少なくとも男の子は・・・)


 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『J・エドガー』(クリント・イーストウッド監督)

 2011年アメリカ映画。

 FBI(アメリカ連邦捜査局)初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーの伝記であり、48年間という異常に長い在任期間中、8代の大統領に仕えた、というより8代の大統領を御した陰の権力者の実像に迫る物語である。

 主演のレオナルド・デカプリオは、往年の美少年イメージを台無しにするグロテスクな老けメイクで力演している。どうせならもっと突き抜けて「怪演」まで行けば良かったのに・・・。


 観る者は、20世紀アメリカの国家レベルの犯罪(たとえば飛行家リンドバーグ夫妻の愛児誘拐殺人事件)に立ち会うスリルを味わいつつ、自らが育てたFBIという牙城と長官の椅子を守るためにスキャンダルの暴露を武器に政敵(時の大統領さえ!)を脅すエドガーの権謀術数のいやらしさに、大物ならではの複雑な人間性を愉しむこともできる。
 しかし、やはり一番の見所は、エドガーの私生活であろう。

 生涯独身を貫き、母親と一緒に暮らし続けたエドガーの謎に包まれた私生活こそ、観る者の好奇心をそそって止まない。野心と支配欲と名声と被害妄想とに満ちた複雑極まりない男の謎を解く鍵でもある。
 イーストウッドはその鍵を見つけて、鍵穴に丁重に差し込み、ゆっくりと回して留め金を外す。そして、家人が気づかぬようにそっと扉を押すのである。
 それは、虚像をあばくといったマスコミめいた青臭い正義感でもなく、正体をさらして貶めるといった世間好みの覗き趣味でもなく、抑圧された欲求(=深層心理)と満たされない家族関係のうちに表の世界のエドガーの無情でエキセントリックな振る舞いの原因を探るといった心理学的な解釈の押し付けでもない。
 あくまでもクリントの目はやさしい。エドガーの抱えざるをえなかった苦しみに対する理解と密やかな共感とに満ちている。
 エドガーが、母親を亡くした直後に、母親の部屋の姿見の前に立ち、母親の首飾りをかけて、母親の洋服を身に着けるシーンの痛切さは、どうだろう?
 異性装、それもかくまでグロテスクな‘親父’の女装は、下手すると観る者に強い拒否感や嘲笑を呼び覚ましかねない。「なんだ、単なる変態か」と。あるいは、いびつな母子関係の犠牲者であるエドガーの姿に、ヒッチコックの『サイコ』に出てきたノーマン・ベイツの姿を重ねてしまう恐れだってある。
 そのリスクをあえて冒して、クリントが姿見に映し出してみせたのは、母親の姿に重ねることでしか「自分」というものを発見できなくなってしまったエドガーの強烈な孤独と自己否定である。

 それはもしかしたら、クリント自身の姿だったのかもしれない。クリントもまた、大衆という巨大な母親の声に応えて「マッチョ」を演じ続けてきた一人であるからだ。(→ブログ記事参照

 マッチョであることを母親に強いられ、母親の期待に応えることではじめてその愛情を獲得できたエドガーは、結局死ぬまで母親という呪縛から逃れることができなかった。本来の自分を偽り続けることが第二の天性となってしまい、その一方で、他人の偽りを収集しあばき続けることに執念を燃やしたのである。
 そんななかで出会った生涯ただ一人のパートナーが副長官クライド。
 このクライドとの関係がもう少し丹念に描かれると良いのだが、そうすると伝記の枠をはみ出してフィクションになってしまうから、まあ仕方ないかな。

 それにしても、アメリカはホモフォビア(同性愛嫌悪)の強い国であるが、奇妙なことに、J・エドガーの例に限らず、アメリカの権力者(特に共和党の)にはクローゼットのゲイが多いと言われる。彼等は一様にゲイの権利を保障する条案の成立を拒んできた。
 さもありなん。
 ホモフォビアとは、自らのうちにあるホモセクシュアリティに対する否認だからだ。人は、自分自身に認めないもの、許さないもの、与えないものを、他人に対して認め、許し、与えることはできない。
 かくして、クローゼットなゲイの権力者によって支配されているホモフォビアの強いマッチョな国アメリカという倒錯が起こる。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● イーストウッド、ついに同性愛を撮る! 映画:『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド監督)

 2010年アメリカ映画。


 クリント・イーストウッド監督の最新作『J・エドガー』は今秋アメリカで公開、日本では年明けに封切られるそうだ。FBIの初代長官だったジョン・エドガー・フーヴァーを描いた伝記らしいが、話題の中心となっているのは、どうやらフーヴァー長官は同性愛者(クローゼット)だったらしく、側近のクライド・トルソンとの長年にわたる恋愛関係が映画の中でふれられていることである。(なんだかどこかの大国の大統領と首相の関係を思わせる)

 クリント・イーストウッド、ついに同性愛を撮る!
 
 そのことを知ったとき、「ああ、やっぱりな」と自分は思った。
 「やっぱり」というのは、クリント・イーストウッドが実はゲイだったとか、ゲイになったとか、作品を通して間接的にカミングアウト、とかというのではなくて、「この人、いつかは同性愛をテーマに撮るのではないか。」と以前から思っていたからだ。「それまで生きていられるかな?」とも。
 無事(?)間に合ったわけである。

 クリント・イーストウッドのイメージを一言で表すとしたら、十中八九の人は「男の中の男」と言うだろう。その作品は「男の映画である」と。
 マカロニウエスタンで人気に火がつき、ダーティーハリーで国際的スターになった俳優として、イーストウッドは映画の中でのイメージそのままに、アメリカを代表する男優として、その風貌においても言動においても「男の中の男」像を保ち続けてきた。グレゴリー・ペックやジェームズ・ステュアートのような理想の父親像とはまた違うが、チャールトン・ヘストンやハンフリー・ボガードに並んで古き良きアメリカの「男」を体現する一人と言える。
 監督として彼の描く世界もまた、男の小道具で満ちている。
 敵との戦い、勝利の苦味、敗残者の悲哀、プライド、見栄、野望、意地、連帯、暴力、アウトロー、一匹狼、車、タバコ、酒、拳銃、狩り、ボクシング、仕事への誇り、弱き女を守ること、共和党員・・・。
 西部劇の巨匠ジョン・フォードの正当な継承者と言えるだろう。あるいは、パパ、ヘミングウェイの。
 
 自分は、こういう世界が苦手だし関心もないので、もったいないとは分かっているが、ジョン・フォードはほとんど観ていない。日本でならさしずめ北野武だろか。映画史に残る映画作家であることは間違いないが、どうもあの暴力世界にはついていけない。
 日本とアメリカの理想の「男」像には、もちろん違いがある。
 日本の「男の中の男」というと、任侠の世界にその典型がもとめられてしまうのは不思議なことである。高倉健、菅原文太、本宮ひろ志の漫画を思い起こせば十分だ。ヒーローでも正義の味方でもなく、世間的には日陰者、社会的にはハミダシ者であることが「男」であるとしたら、やくざや暴力団や右翼にあこがれる若者がいてもおかしくはない。
 まあ、道を外さずに、マグロ漁船にでも乗ってほしいものである。この節、演歌歌手になるのも石原軍団に入るのももう難しいだろうから。


 閑話休題。

 ジョン・フォードや北野武はレンタルしてまで観ようとは思わない自分も、どういうわけかクリント・イーストウッドは気になって、すべての作品とは言わないが、時々思い出したように上映館に足を運んでしまう。
 一見、「男の映画」には違いないのだが、妙に文学的とでもいうのか、自らを相対化する深みのようなものが感じられて、惹かれるのである。
 最初に鼓動を感じたのは、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)だった。これは、先進国の白人の「男」(イーストウッドが演じている)と現地の黒人達との相対性の苦味を描いた傑作である。そのとき、このままいけば、「男」である自分自身をやがて相対化していくだろうという予感を持った。
 その予感は『マディソン郡の橋』(1995)で見事に裏切られて、しばらくクリント作品から遠ざかった。
 2003年『ミスティック・リバー』は衝撃的であった。主人公は3人の少年、それぞれの成長を描いた物語だが、うち一人は少年時代に男に誘拐されて、レイプされてしまうのである。
 女をレイプしても「男」でいられる。男をレイプしても「男」でいられる。しかし、男にレイプされたら、もはや「男」ではいられない。その瞬間から一切の男の小道具が彼の手からは奪われてしまう。アメリカのようなマッチョの社会にあっては、社会的な死の宣告に等しい。「男」の崩壊・・・。
 2004年『ミリオンダラー・ベイビー』では、イーストウッドはジェンダーの崩壊というテーマを自らに課した。成功した。
 2008年『チェンジリング』ではまた新たなチャレンジ。母性である。
 続く『グラン・トリノ』は、自身が主役を張って、タイトル通り男の小道具をめいっぱい用意して、一見「男の映画」に逆戻りしているように見えるのだが、登場人物のアジア系の少年~園芸や料理が好きで、気が弱くてやさしい~はおそらくゲイだろう。役中のクリントは、隣家に住むこの少年を「男」に鍛えようと懸命にコーチする。そこがゲイの男がヘテロのふりをしようと努力する映画『イン&アウト』(フランク・オズ監督)を想起させて笑えるところであるが、つまり、「男」というのはこうやって作り上げられていくものだという種明かしを、クリントは描き出しているのである。映画の最後では、ダーティーハリーを髣髴とさせるよう銃撃戦になるかと思えば、さすがにもはやそのリアリティのなさは自身許さなかったのだろう。「男」としてのプライドは保ちながら、捨て身の作戦に打って出る。(観ていない人のために結末は書かない) クリントが自分自身の演技としてできるのはこれが限度であろう。そこを超えたら、培ってきたすべてのイメージが壊れてしまう。
 ここまで来たら、あとはそのものずばり「同性愛」をテーマにするだろう。もちろん、自分でない男優を使って。そう思った。
 なぜなら、同性愛とは、「男」を相対化する装置にほかならないからだ。

 そして、『ヒアアフター』である。

 クリントの作品をどうしてもジェンダーの視点がらみで観てしまう自分にとって(これもジェンダーバイアスか)、この作品の一番の見所は、マット・デイモンが霊媒師を演じているところにある。むろん、ジェンダーがらみで見なくても、この作品は、他のイーストウッド作品同様、とても丁寧に作られていて、しみじみとした感動が広がる佳作である。
 マット・デイモンは、戦争映画で主役を演じるは、ボーンシリーズで不死身のヒーローを演じるは、まさに昔のクリント・イーストウッドになぞらえるような男優である。その意味で、ここでのマットをクリント自身とダブらせることが可能であろう。(実際は、俳優としての二人の資質はずいぶんと異なる。マットは、たとえばベン・アフレックやショーン・ペンにくらべると、「男」を不思議と感じさせない。だから、霊媒師役をやっても大きな違和感がないのだ。演じられる役柄がイーストウッドより断然広いのだ。クリントが霊媒師を演ったらコメディにしかならないだろう。)

 マットが演じる男ジョージは、才能ある霊媒師であり、イタリア料理を習い、毎晩寝る前に詩を聴き、イギリスの生家に見学に行くほどのチャールズ・ディケンズのファンで、朗読会に行けば感動にふるえる。
 どうだろう?
 霊媒師、料理を習う、詩を聴く、ディケンズのファン、朗読会。
 まったく、男の小道具にそぐわないラインナップ。クリントの映画の主役にまったくふさわしくない男である。
 ジョージは、霊媒師という職業に嫌気がさして廃業し、建設現場でヘルメット(男の小道具である)をかぶって働いているのだが、リストラされてしまう。残された道は、霊媒師としての自分を受け入れることだけだ。
 彼はそこで旅に出る。イギリスに。そう、アメリカというマッチョな国からいったん離れることなしには、「男」をおりられないのである。
 イギリスで、彼を追ってきた少年のため仕方なく霊媒したのをきっかけに、ジョージは自らのありのままの資質を受け入れる心の準備を始める。そして、自らの理解者~津波から生きのびた女性、死後の世界(Hereafter)を垣間見て、それを世間の偏見に屈せず伝えることを決意した女性~との運命的な出会いがあって、物語は終わる。
 「男」をおりたからといって、「ゲイ」になるわけでも、「女」になるわけでも、女性と関係がもてなくなるわけでもない。イーストウッドにとっては、その重い鎧を脱ぐのがとてつもなく難しかったのだと思う。高倉健の例を出すまでもないが、出演作によって作られてしまったイメージ(虚像)と、本当のありのままの姿(実像)とのギャップによって生じるプレッシャーは、一般人にははかりしれない。素顔のクリントは実はこのジョージに近いのではなかろうか。 


 男の子が成長するとは、一般に「男」になることであった。
 アメリカやラテン国家などのマッチョ社会では、そのプレッシャーはとても大きい。だから、UNAIDS(国連エイズ合同計画)は、男と性行為を持っていても自らを「ゲイ」と認めることをしない「男」達へのエイズ啓発のために、MSM(Men who have Sex with Men)という造語をわざわざ作ったのである。むろん、ゲイと名指されることは、一直線に「男」から転落することであるからだ。
 「男」をおりること、「男」でなくなることは、とてつもない恐怖を伴っているのだ。

 ほかに迷惑をかけないのなら、いくらでも「男ごっこ」をしていてくれればよいと思う。
 だが、長年プレッシャーにさらされた「男達」は、長じてその抑圧を他者に向けることで鬱憤をはらそうとする。「男」ではない者たちに。別のグループ(文化、組織、派閥、チーム)に属する「男達」に。
 とりわけ、もっとも強いプレッシャーに置かれるのは、「男」を演じざるを得ないクローゼットの同性愛者であろう。彼らが勤勉と忍耐のあげくに組織の頂点に立ち、権力を手にしたとき、どんな抑圧を周囲にもたらすことか。(ロシアの今後が恐ろしい・・・。あくまで勘に過ぎない。念のため。)

 男とは何か。男の成長とは何か。
 クリント・イーストウッドが生涯考え続け、描き続けてきたのは、つまるところ、そこなのだろう。

 そういった意味では、彼の映画はジェンダー映画なのである。 

 ここから先(Hereafter)、どこに行くのか。
 それは、次回作を観るまでなんとも言えない。
 これまでの流れから推測すると、同性愛を否定的に、批判的に描くような野暮はしないであろう。実際、クリント自身、「同性婚」を擁護する発言をしているらしい。共和党員であることを考えると、面白いひねりである。
 何より楽しみなのは、フーヴァー長官の役をレオナルド・ディカプリオが演じているということだ。ディカプリオにとっても、『太陽と月に背いて』以来のソドミーもの(笑)である。もはや美少年とも美青年とも言い難くなったレオ様。どんなラブシーンを見せてくれるのだろうか?


 一つ予言をする。
 これでレオ様は念願のオスカーを手に入れるだろう。

P.S. マット・デイモンの次作『リベラーチェ』もゲイカップルもので、ピアニスト役のマイケル・ダグラス(!)とのラブシーンがあるそうだ。アメリカの「男」は揺れてるな。



評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!




 

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