ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

シェイクスピア

● 英国的な午後 本:『古書奇譚』(チャーリー・ラヴェット著)

2013年原著刊行
2015年集英社より邦訳刊行

 原題 THE BOOKMAN’S TALE の通り、古書に憑りつかれた人間達が“世紀の奇書”をめぐって織りなすミステリードラマである。
 実際に古書取引に携わっていたという著者の英文学や古書売買に関する深い専門的知識、本に対する並々ならぬ愛情が全編あふれている。下手すると衒学的で退屈になりがちな、かび臭い古書の話を、対人恐怖症の主人公の恋愛譚および愛する妻を失った絶望からの再生譚とからませて、広い読者が楽しめるエンターテインメントに仕立て上げている。

 実のところ、ミステリとしてもサスペンスとしても恋愛物語としてもそれほどレベルは高くない。過去と現在と大昔を交互にからませる構成も功を奏しているというよりは、まどるっこしさを感じさせる。
 だが、物語の基音となる“世紀の奇書”というのが強烈な磁力を放ち、ソルティを終わりまで連れて行った。それは、かの偉大なる劇作家シェイクスピアをめぐる古くからの謎——シェイクスピアの正体は誰だったのか?——の解明に関わるものである。

 文庫500ページはなかなか気合のいる分量であるが、何の用事もない冷たい雨の午後、紅茶&パイあるいはビール&チップスを傍らにおいて英国的に過ごすにはおあつらえ向きの相棒である。


紅茶







 

● オペラライブDVD:ヴェルディ作曲『マクベス』(デイヴィッド・パウントニー演出)

マクベスdvd収録日   2001年7月
劇場    チューリッヒ歌劇場(スイス)
キャスト
 マクベス ・・・・・トーマス・ハンプソン(バリトン)
 マクベス夫人 ・・・パオレッタ・マッローク(ソプラノ)
 バンクォー ・・・・ロベルト・スカンディウッツィ(バス)
 マクダフ ・・・・・ルイス・リーマ(テノール)
 管弦楽&合唱 ・・・チューリッヒ歌劇場管弦楽団&合唱団
 指揮 ・・・・・・・フランツ・ヴェルザー=メスト
 演出 ・・・・・・・デイヴィッド・パウントニー

 イタリアオペラなので本来なら『マクベット』というタイトルが正しい--イタリア語では女性の名前はア行で、男性の名前はオ行で終わる--のであろうが、言わずと知れたシェークスピアの傑作、誰が気にしようか。
 この悲劇の主役は、しかし、タイトルとは別にマクベス夫人である。
 シェークスピアが意図したかどうかは知らないが、原作においても、舞台にかけても、映画化しても(たとえば黒澤明『蜘蛛巣城』)、そしてこのオペラにおいても、圧倒的に魅力あるのはマクベス夫人である。
 烈女という形容がこれほどふさわしい役柄は、他にあまりないのではないか。主君暗殺に怯む夫のケツをたたき、「あんた金玉ついてんの!」とさらなる謀略をけしかけ、罪悪感に苦しむ夫を「情けない」と叱咤する。それでいて、幕が変わると、唐突に自らが罪悪感の虜となって狂気の淵に追いやられる。この極端から極端へのダイナミックな変貌こそ、マクベス夫人の最たる魅力であろう。
「いったい幕間に何が起こったのだろう?」
と、この芝居に接するといつも考える。
 そこがもっともらしく説明されていないからこそ――たとえば、殺害した王とバンクォーの亡霊を見たとか――かえって人間心理の複雑さを表現しているように受け取られ、このキャラを魅力的にし、この芝居を成功に導いたのであろう。

 記録に残っているマクベス夫人では、やはりマリア・カラス(1952年ヴィクトール・デ・サバタ指揮ミラノ・スカラ座ライブCD)と山田五十鈴(映画『蜘蛛巣城』)が両横綱であろう。この二人を超えるマクベス夫人はそうそう出て来まい。


 このライブ収録DVDにおけるパオレッタ・マッロークのマクベス夫人は、両横綱には到底及ばないものの関脇くらいの位置には十分つける出来栄えである。よく通る力強い声、本職のシェークスピア役者並みの演技、マクベス夫人におあつらえ向きな気の強そうな面構えと美貌、胸の谷間もあらわなダイナマイトボディ、どれをとっても過不足ない。歌声は、高音域でびんびんと鋼のように強靭に鳴り響き、中音域でふとマリア・カラスを想起させるくぐもった陰影に富んだ音色がある。適役と言うべきだろう。
 このマクベス夫人に劣らぬ出来栄えを見せたのが、マクベス役のトーマス・ハンプソン。
 こちらも容姿・演技・歌唱の三拍子が見事に揃った理想的なマクベスである。とりわけ、容姿の魅力に効し難いものがある。ハンサムな上に表情が豊かであり、恰幅もよく、黙っていても語っていても、動いていても止まっていても、絵になる男である。その点では、プラシド・ドミンゴに似ている。が、ハンプソンのほうがナイーブで繊細なタッチが濃厚である。だから、マクベスを‘野心に振り回され破滅した英雄’というもともとの役柄を超えて、もっと現代的な、それこそ精神病理学の文脈で説明されるような‘人格障害’の一患者像として描き出す範疇にまで到達している。
 そしてそこにこのライブの演出の意図はあるように思われる。


 おそらく、この芝居の進行している舞台背景は精神科病院あるいは医療刑務所である。
 マクベスもマクベス夫人もバンクォーも三人の魔女たちも、そこに収容されて治療を受けている患者である。マクベス役の男とその妻であるマクベス夫人役の女は、何らかの犯罪を犯し、ここに護送されてきた夫婦であり、精神に異常を来たして、自分たちが「マクベス夫妻」だと思い込んでいる。(もしかしたら娑婆にいるときに‘夫の勤め先の社長殺し’でも企てたのかもしれない)。
 周囲の医師も看護師も看守たちも、ほかの収容者たちも、治療のためか真相を探るためかは知らぬが、二人のその妄想につきあって芝居をしている。
 これは「‘マクベス’という名の囚人たちの妄想劇」なのである。

 自分はそんなふうに勝手に読んで楽しんだのであるが、デイヴィッド・パウントニーの意図はどの辺にあったのだろう?





● 映画:『もうひとりのシェイクスピア』(ローランド・エメリッヒ監督)

 2011年イギリス・ドイツ合作。

 シェイクスピア別人説をモチーフにした歴史サスペンス。
 英国エリザベス絶対王政時代のコスチュームプレイと、ゲイとして有名なエメリッヒ監督の好むイケメン群像が楽しめる。

 シェイクスピア別人説は、人類史上最高の劇作家であるウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の作品が別人によって書かれた――というものである。史実上のシェイクスピア(とされる人物)の育ちや経歴を見ると、アノ間違いなく「世界遺産」の上位五指に入る膨大にして崇高な傑作群を生むほどの教養や語学力を身につけられたはずはない――というのが根強い別人説を生む原因となっている。

 真の作者として有力な候補は三名。
1. フランシス・ベーコン・・・経験主義、帰納法で有名な政治家・哲学者
2. クリストファー・マーロー・・・同時代の劇詩人。シェイクスピアと生年が同じで、最期は他殺体となって見つかった。(この映画にも登場する)
3. エドワード・ド・ヴィア・・・第17代オックスフォード伯。政治よりも文学を愛好する貴族。

 この映画は、3のオックスフォード伯こそ真のシェイクスピアであるという説に基づいて創られている。
 脚本はよく練られている。が、登場人物達の若い頃と現在とが頻繁にスイッチするので、誰が誰だか分からないのは難点。映像はエメリッヒらしい美意識と格調とが横溢。最後の最後で明かされる衝撃の事実も(史実ではないだろうが)、ギリシャ悲劇のようで面白い。エリザベス役のヴァネッサ・レッドグレイブも女王らしい威厳を醸している。全体に肩の凝らない娯楽作品に仕上がっている。

 シェイクスピアと言えば、思い出すのは小学校時代の学芸会である。
 演劇クラブに所属していた自分は、全校生徒を前に体育館のステージで『リア王』を演じたのである。脚色もほぼ自分がやった。
 このときの自分の役は、なんとリア王の三人娘の一人で、冷淡で強欲な長女ゴナリルだった。妹のネグリジェをドレスに仕立て、母親のカツラを借りて、人生最初にして(おそらくは)最後の女装であった。思う存分役になりきって、次女のリーガンと共にけなげで可憐な末娘コーデリアをいたぶったものである。
 リア王を演じたのは、クラブの部長だった上級生の女子であった。傲慢で尊大で貫禄があってリア王にぴったりだった。
 男子児童が女性を演じ、女子児童が男性を演じ・・・。今思うと、かなりキッチョで、クールで、恥知らずな舞台であった。
 何より大胆だと思うのは、『リア王』を喜劇に変えてしまったのであった。

評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● シェイクスピアと紫式部 映画:『から騒ぎ』(ケネス・ブラナー監督)

 1993年アメリカ・イギリス共同制作。

 原作はシェイクスピアのMuch Ado About Nothing
 まんま「から騒ぎ」である。
 惚れ合っている二組の男女が結ばれるまでのすったもんだをイタリアの片田舎を舞台に陽気に描いたコメディである。

 お互いに惚れ合っているのだから「好きだ」「私も」・・・で結ばれれば簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。二人を引き裂く陰謀があったり、誤解があったり、両人のプライドがあったり、意固地な性格があったりして、当人同士も周囲もヤキモキする。
 また、そうした波乱や障害がなければそもそも「物語」は生まれない。あらゆる「物語」は、まさにMuch Ado About Nothing「意味のない大騒ぎ」である。
 もちろん、「人生」という物語も同じである。シェイクスピアは『マクベス』にこう語らせている。
 

Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.  
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。 
 
 このようなある種の「虚無」の地点から人生や世間や周囲の人間たちの紡ぐドラマを観ていたのがシェイクスピアである。
 凄いとしかいいようがない。
 一方、この「虚無」からこそ、あれだけ豊かな深みのある物語が生まれ得たとも言える。「物語」を超越した地点にいて、冷めた目であらゆる「物語」の機構を読み抜いたのであろう。神の視点から人間を見るように、自在に「物語」を創り得たのであろう。
 先般亡くなった名女優山田五十鈴が、親友が夫を亡くし嘆き悲しんでいるのをじっと観察して演技の参考にしたという話を、中野翠がどこかに書いていたが、才能ある芸術家というのはどこか透徹した目で世を見ているのかもしれない。
 中世から抜けたばかりの産業革命前の時代。まだイギリスが封建的で牧歌的な空気を宿していて人々が陽気で暢気だった時代。そしてまたエリザベス一世の絶対王政で世界の覇者となったイケイケバブリーな時代。そんな時代に一人そんな境地にいたというところが本当に凄いとしかいいようがない。時代の寵児というより、時代の「超」児=異端者だ。
 日本で比肩できる人物を挙げるとすれば紫式部をおいてない。

 シェイクスピア作品の映画化は難しい。
 そもそもが舞台のために書かれた脚本である。それをそのまま使って映像化するのは無理がある。セリフ自体がまた冗長で古めかしくて「芝居がかって」いる(あたりまえだ)。
 閉鎖された非日常空間である舞台の上なら映えるものも、日常生活同様の開放された空間と日常生活を凌駕する視点の自在さを有する映画ではリアリティを欠く危険がある。それでもシェイクスピアに敬意を示してか、たいていの場合、脚本を映画用に書き換えるということをしない。この映画もおそらくセリフはほぼ原作そのままであろう。
 すると、監督の演出手腕が見所となる。
 ケネス・ブラナーは非常に才能豊かな演出家であることを証明している。実に巧く映像化している。舞台用に書かれた本であることを忘れさせるくらい、演出とカメラ回しとテンポの付け方が巧みでダレがない。ドン・ペドロ(デンゼル・ワシントン)が仲間ともども凱旋するのを村中で迎える最初のシーンなどは、まさに映像でなければ表現できないリズムとお色気を生み出して、村人の喜びの爆発する様を描ききっている。この芝居には欠かせない、舞台はイタリアだがこの時代のイギリスにも欠かせないラテン的な明るく陽気で享楽的な雰囲気が横溢している。モーツァルトの『フィガロの結婚』を聴いているかのようだ。
 しかも、ケネス・ブラナー自身が主役の一人、恋する男を演じている。これがまた実に巧い。本当に才能ある人だ。 
 マイケル・キートンの演技もトンでいて笑える。『ビートルジュース』しかり、独特な体の動きと喋り方によって奇天烈な人物を造型するという点で、ジョニー・ディップ(=ジャック・スパロウ)に先んじている。
 ブレイク前のキアヌ・リーブスの暗い眼差しもまた魅力である。

 『から騒ぎ』は2012年にジョス・ウィードン監督により再映画化されている。
 DVD化されると良いのだが・・・。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」      

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」          
        「ボーイズ・ドント・クライ」
          
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● 映画:『塀の中のジュリアス・シーザー』(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督)

塀の中のシーザー 2012年イタリア映画。

 一分の隙もない傑作。
 さすがタヴィアーニ兄弟。老いの入舞、白鳥の歌と言ったら失礼か。


 ローマ郊外のレビッビア刑務所で行われている演劇実習。毎年様々な戯曲を囚人たちが演じ、所内の劇場で一般市民に向け披露する。
 今年の演目はシェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』。まぎれもなくイタリア人にとって祖国の英雄である。日本で言ったら、ヤマトタケルか平将門か源義経か織田信長か。原作は知らなくても「ブルータス、お前もか」というセリフは、「あなたはどうしてロミオなの?」と並んで、もっともよく知られているシェイクスピア劇中のセリフであろう。「殿中にござる」と並んで、もっともよく日本人に知られている刃傷沙汰における名文句であろう。


 シーザー暗殺という古代ローマ随一の劇的事件を描いた作品を、末裔であるイタリア人がイタリア語で演じるというところがまず見物、というか聞き物である。
 イタリア語は何と美しくリズミカルで芝居に向いているのだろう。オペラがイタリアで誕生し花開いたことを思えば当然なのだが、感情をきわめて豊かに音楽的に相手に伝えることのできる言語なのだなあと感心する。原作の英語より良いかもしれない。
 イタリア人が演じていることも非常にプラスに感じられる。実際にシーザー暗殺に関わった人たちの風貌や挙措挙動はこんな風だったのだろうなあと思わせてくれる。日本人に日本人特有の動きや表情や姿勢や目つきがあるように、イタリア人にもそれがある。もちろん現代イタリア人と古代ローマ人とでは違っているだろう。でも、他の国の役者が古代ローマ人を演じるよりもやっぱりふさわしいように思うのである。オペラ『蝶々夫人』を見るとき、主役が日本人かそうでないかで全然舞台の雰囲気が違ってくることに似ているかもしれない。 

 血なまぐさいドラマを演じるのが正真正銘の犯罪者たちであるという点がまた面白い。
 陰謀、腹の探り合い、裏切り、仲間割れ、権力争い、二枚舌、大義名分、血で血を洗う殺戮・・・。
 こういった要素がこの劇のエッセンスであるが、これらはまさに演者である囚人たちの半生を彩ってきたものである。それだけに、劇中のセリフの一つ一つがそれぞれの演者の人生とオーバーラップしていく。稽古の最中、ある一つのセリフで過去の出来事を思い出し苦痛で芝居が続けられなくなってしまう。相手役の弄する甘言セリフを、その役者の性格とダブらせてしまい、普段押し殺していた怒りに火がついて稽古場で喧嘩が起こる。
 芝居と現実とが入り混じって、そのたびにリアリティを増していく芝居の質、本物になっていく囚人たちの演技。この演目を選んだ人間の鋭さに感心するが、それよりも何よりもやっぱりシェイクスピアの凄さである。本物の犯罪者に「これとまったく同じセリフを死んだ仲間は言っていた」などと言わせて心のひだに入り込んでしまうシェイクスピアの人間理解、洞察力。よく言われるシェイクスピア複数説も、そのあたりの「何回人生、生きてんだ~?」と思わせる幅広い世間知から導き出されるのであろう。 

 シェイクスピアの凄さに負けず劣らず、囚人たちの役への没入ぶり、芝居への熱中ぶりも凄い。
 獄中の退屈さをつかの間忘れられるという点はあろう。
 が、おそらくそれだけではない。
 元来、才能ある役者と犯罪者には共通したものがあると思う。それは洗脳のされやすさ、自分でない何かに簡単に仮託してしまう「自我」のもろさである。より適確な言葉で言えば「憑依体質」である。この映画はそのことを実証する。稽古が進むに連れ、本番が近づくに連れ、役に同化していき表情まで変わっていく囚人たちの様子は、鏡ノ間で面と向き合いながら役が乗り移るのに身をゆだねる能役者の姿を連想させる。
 演じている間は、自分はシーザーでありブルータスでありアントニウスである。そして役者である。殺害犯でもポン引きでも強盗でもない。犯罪者、社会の落伍者、人生の失敗者、故郷からも家族からも友人からも見放された孤独な男、という現実をしばし忘れることができる。「自分ではない何か」になれる喜びと救いは、彼らにとって強烈なエクスタシーであろう。
 囚人たちのこのつかの間の夢、栄光を支えるかのように、石造りの監獄はあたかも古代ローマの城塞のように、広場のように、路地のように姿を変えていく。モノクロ撮影がそれをバックアップする。


 この映画を老タヴィアーニ兄弟は何故撮ったのだろうか?
 観る者は映画の最後にその答えを知らされる。成功裡に終わった一般市民への公演のあと、看守の手によって独房に戻された一人の役者、一人の囚人、一人の殺害者の口を通して。
 そのセリフこそ、『ジュリアス・シーザー』の中のどの名文句にも劣らないくらいの圧倒的な真実の苦さに満ちている。
 そして、人生における芸術の意味、人類の歴史におけるシェイクスピアやダ・ヴィンチやベートーヴェンの意味を教えてくれる。
 きっとタヴィアーニ兄弟は、自らの長い映画人生を総括したかったんだろう。


 ダニエル・シュミットは『トスカの接吻』(1984年)で、引退した音楽家たちが住む老人ホームを訪れた。シュミットの魔術的なカメラは、灰色の隠遁生活を送っていた老人たちを薔薇色の過去の中に甦らせ、オペラへの愛、芸術への愛、生きることの喜びを回復させてしまう。それはかつて老人たちが持っていたものである。
 『塀の中のジュリアス・シーザー』は、灰色の監獄生活を送っていた囚人たちに、つかの間の喜びをもたらす。
 一方、彼らは芸術を通してはじめて気づくのである。自分たちが人生で手にできなかったものの大きさに。

 彼らが更正しますように。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
           
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『テンペスト』(ジュリー・テイモア監督)

 2010年アメリカ映画。

 言わずと知れたシェイクスピアのラストメッセージTHE TEMPEST(嵐)の映画化である。

 いまや映像芸術はCG全盛の時代であるが、CGの効果がもっとも生かされるジャンルはファンタジーではないだろうか。
 もちろん、SFやホラーや戦闘ものもCG技術の向上によって多大なる恩恵にあずかった。スーパーノヴァの爆風に宇宙空間を木の葉のように錐揉みしていく宇宙船だろが、人間の内臓を喰らう見るも恐ろしいグロテスクな怪物だろうが、何万という兵士たちが大草原を兜と旗の色とで塗り替えていくシーンだろうが、CGを使えば簡単に低予算で実現できる。今や、人の頭の中で想像するもので作れない映像はないと言っても過言ではないだろう。
 SFやホラーや戦闘ものが多かれ少なかれ物語を語るためにCGを利用するのにくらべ、ファンタジーというジャンルは物語もあるにはあるが、非日常的な夢のような魔法のような現象が目の前におきているという、まさにそのこと自体に特徴があり魅力がある。つまり、夢のような魔法のような視覚体験を紡ぎだすことがファンタジーの使命である。
 であるから、CGはファンタジーというジャンルにおいて、その進歩のほどを存分に発揮できると思うのである。

 シェイクスピアのあまたある作品中、もっともファンタジー色の強いのは『真夏の世の夢』と『テンペスト』であろう。とくに、主役のプロスペローが縦横無尽に魔法を使う『テンペスト』こそ、CGによる映像化が待ち望まれていたと言ってよい。
 そんなわけで、期待大でレンタルした。

 さて、CGによる映像そのものは可もなく不可もなく、「まあ、こんなところかなあ」という仕上がりである。なかなか『ザ・セル』(ターセム監督)レベルの映像表現はお目にかかれない。
 面白いと思ったのは、主役のプロスペローを原作の男から女へと変更している点である。

 ミラノの王であったプロスペローは、実の弟とそれにつるんだナポリ王たちの陰謀により失脚し、3歳の娘ミランダともども、島流しの憂き目にあう。辿り着いた島で、臥薪嘗胆、魔術の腕を磨きながら復讐の時を待つ。12年後、島の近くを仇の男たちが船で通り過ぎる。ついに、そのときがやってきた。プロスペローは船を遭難させるべく、魔術を使って嵐を巻き起こす。


 プロスペローを演じるは、イギリスの誇る名女優ヘレン・ミレン。エリザベス二世を演じた『クイーン』(スティーブン・フリアーズ監督、2006年)で主演女優賞を総なめにしたのが記憶に新しい。
 現代でも、イギリスで名役者と言われる条件は変わらない。シェイクスピアを演じられることである。ヘレン・ミレンは、見事にシェイクスピアの古めかしくて、長くて、難しいセリフを自分のものにしている。その上、原作では男であり王であり父親であるプロスペローを、女として女王として母親としてリアリティもってつくりかえて、まったく不自然を感じさせない。さすがである。

 この女プロスペローを見ていて、たくまず思い起こしたのはモーツァルトのオペラ『魔笛』に出てくる夜の女王であった。崖の上で魔法の杖を振り回し、仇の男たちの乗る船に向かって雄叫びを上げるミレンのプロスペローは、まさにコロラトゥーラでザラストロを罵倒する夜の女王そのものである。自然と両者の比較してしまうのである。

 『魔笛』は、父権社会の象徴たるザラストロと、母権社会の象徴たる夜の女王が、二人の間にできた娘パミーナを取り合っていがみあうストーリーである。パミーナの肖像に一目惚れした若者タミーノは、ザラストロに誘拐されたパミーナを助けるよう夜の女王に頼まれる。取り戻せば、娘はお前のものと約束を得て。
 若者はザラストロのところへと向かうが、どうやら悪いのはザラストロではなく夜の女王の方であると知る。何かの教団の長であるザラストロは、パミーナを求めるタミーノに試練を与える。その試練に耐え抜き合格したタミーノは、晴れて教団の一員として認められ、パミーナを得る。

 単純に言えば、青年が通過儀礼を乗り越えて男社会(父権社会)の一員となって恋する女を獲得する物語である。(こうダイジェストするとミもフタもないな~)
 自分が『魔笛』をその素晴らしい音楽にもかかわらず、どうも好きになれない、とくに途中からつまらないと思ってしまうのは、このストーリー構造が気に入らないからである。ザラストロより夜の女王の方が数段魅力的である。(与えられている歌の点でも)
 ザラストロを長とする教団とは、モーツァルトが入会していたというフリーメーソンだという説がある。そうなのかもしれない。ただ、それを超えて、このストーリーは父権社会の構造を「よし」とする圧力が全編みなぎっている。


 『テンペスト』でも、これとよく似た仕掛けが見られる。
 ナポリの王子であるファーディナンドは、遭難したあと、島で出会ったプロスペローの娘ミランダに一目惚れする。しかし、ミランダを手に入れるためにはプロスペローから与えられた試練を乗り越えなければならない。最終的には、無事試練を潜り抜け、ミランダの手をとることを許される。


 プロスペローを男から女へと変えたことによって、ジュリー・テイモア監督とヘレン・ミレンは、この作品に新しい視点をもたらした。
 男たちの陰謀によって娘ともども島流しにあい、男たちへの復讐を誓いつつ魔法の腕を磨き、雌伏12年、ついに男たちに報復する機会を得た女プロスペローの「男社会への闘い」の物語と読めるのである。(「雌伏」とは、まさにメスが伏せることだなあ。)
 その文脈では、王子ファーディナンドの受ける試練の意味も変わってくる。『魔笛』とは逆に、若者に試練を施し、若者が一人前になったと承認するのは娘の母親なのであるから。
 女プロスペローにとっては、自分の大切な娘を、自分を虐げた男社会の一員であり、やがてはそれを継ぐことになる青年に、そのままの形で託したくないに違いない。だから、彼女が青年に与える試練は、「男社会の一員たれ」というものではないと想定される。

 さしものシェイクスピアもモーツァルトもこんな展開が有りうるとは予想しなかったであろう。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


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