ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

マハーカルナー

● 介護のハラミツ : 原始仏教トーク 『波羅蜜具足』 (講師:マハーカルナー禅師)

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日時  2017年5月14日(日)13:00~
会場  四葉集会所(東京都板橋区) 
主催  マハーカルナー法友会

 東武東上線・下赤塚駅からハナミズキの植わる街路を下り、曹洞宗萬吉山宝持寺・松月院にあたって右折する。松月院の山門脇で「怪談・乳房榎」の記念碑を横に見やる。
 駅から歩くこと正味15分で会場に着いた。

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武将・千葉自胤が1492年に当地にあった宝持寺を菩提寺として定め、
松月院と改名したのがはじまりといわれている。


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四葉集会所

 40畳ほどの室内は100名を越える参加者で埋まり、相も変らぬマハーカルナー人気を眼前にする。
 今回のテーマは、「波羅蜜具足~正法の衰退と波羅蜜の実践」。
 波羅蜜(はらみつ)とは、「悟るための機運」といった意味である。人にはそれぞれの生まれ持った波羅蜜がある。それはまた増大させることもできれば、減らすこともできる。
 そもそも、今生で人間として生を享けたことは宝くじで一等1億円を5回連続(もっとか?)当てるくらいの奇跡的な波羅蜜である。しかも、平和で民主的な現在の日本に生まれたことは途方もなく有難い波羅蜜である。そのうえ、原始仏教を学ぶ機会(仏縁)と能力を持てたことは神々も羨む真に偉大なる波羅蜜である。
 この波羅蜜を生かして、波羅蜜が付きないうちに、ブッダの教えがこの世から消えないうちに、解脱へのパスポートを手にしよう、というのが法話の趣旨である。

 今回聴けて良かったのは、「波羅蜜の効果的な蓄積法」について。
 以下の4つが大切とのこと。

1. 善行為
 行為の内容は何でも良いが、大切なのは自らの善行為を明確に意識すること。
 例) 「私はこれから公園のゴミを拾います」

2. 善作為
 善行為の具体的な目的、それを行った結果として期待できることを明確に意識すること。
 例) 「公園がきれいになり、利用者が気持ちよく過ごせますように」

3. 誓願
 善行為の結果、「自分はこのようになりたい」と願うこと。願うのは、世間的な事柄でも、出世間的な事柄でも、どちらでもかまわない。
 例) 「この公園の清掃作業によって、私の修行が進歩しますように」

4. 廻向(えこう)
 善行為によって生じる功徳を誰に与えるか、あらかじめ決めておくこと。
 【廻向の対象は次の4つ】
  ①仏法僧 ②一切衆生 ③今生きている福徳を必要とする人々 ④すでに亡くなった近しい人々 
 例) 「この公園の清掃作業によって生じた功徳を一切衆生に廻向いたします」

ポイントは、
● 以上の4つを、善行為を行う始めと途中と終わりに、はっきりと意識すること。
● 心をこめて一所懸命善行為すること。
● 我が身の幸福も一緒に願うこと。
● 毎日積み重ねること。

日々の小さな善行を、目的・誓願・廻向先を明確に意識しながら自覚的に行っていくことで、本当の波羅蜜が蓄積されていきます。


 ソルティのやっている介護という仕事は、まあ善行為と言っていいだろう。
 日々流されるままに無自覚に仕事するのではなく、おのれの波羅蜜を蓄積する意図をもって、意識的・自覚的に仕事することで、数ヶ月・数年後には無視できない莫大な効果を生み出すことができるわけだ。

 もっと早く知っておけば良かった・・・・。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 





 
 





● リトルスッカ 原始仏教トーク:『ローカ・ダンマ 俗世における八つの浮き沈み』(講師・マハーカルナー禅師)

ローカダンマポスター

日時 2016年11月6日(日)午後1時から
会場 板橋区大谷口北町集会所(東京都)
主催 マハーカルナー法友会

 ローカ(Loka)とはパーリ語で「世間、世俗」のこと。ダンマ(Dhamma)とは一般に「法」を意味するが、ここでは「避けられない法則」のこと。ローカ・ダンマとは「世間に生きている限り避けることのできない浮き沈み」といった意味である。むろん、お釈迦様が説いた教えである。
 四つのペア、合計八つの浮き沈みがある。

  • 利得がある(ローバ)――損失がある(アローバ)
  • 人が自分のところに集まってくる(ヤサ)――人が自分から去っていく(アヤサ)
  • 非難を受ける(ニンダ)――賞賛を受ける(パナンサ)
  • 楽(スッカ)――ドゥッカ(苦)
 
 どんな人も生涯のどこかで、この八つのダンマに遭遇する。避けようがない。対になっている組のうちの良いほうだけ(ゴシック部分)を望んでも、それは無理な話。コインの両面のように、それぞれのペアは手を携えて一緒にやってくる。そして、すべてのスッカ(楽)は最後にはドゥッカ(苦)に変じてゆく。
 これらのダンマはその人の過去世や今生での行いをはじめとする因縁から生じているので、お釈迦様や阿羅漢でさえ逃れることはできない。
 ただ、八つのダンマに翻弄され、そこからなんとか逃れようと、あるいはなんとか現状を維持しようとジタバタもがいた挙句いたずらに苦しみを大きくしてしまう我々凡人とは違い、不還果や阿羅漢果を得た聖者は、良いダンマにも悪いダンマにも一喜一憂しない。それらによって不安や落胆を感じることはなく、常に安穏としている。結果的に、悪いダンマのもたらす影響を最小にすることができる。
 
 重要なポイントはなにか。
 ダンマを通念することである。
 ここでのダンマは、ずばり仏教の核にして最高の教えである三相のこと。

  • 諸行無常=すべての物事は変化する。いいことも悪いことも長くは続かない。
  • 諸法無我=「わたし」とは幻想・幻覚である。なので「わたし」に属するものは何もない。
  • 一切行苦=あらゆるものは壊滅する。なのでパーフェクトを望むほど苦が増える。
 
 聖者は三相を如実に見て確信しているがゆえに、ローカダンマに踊らされないわけだ。
 仏教は「苦」に対する最高の特効薬である。が一方、「楽」に対する鎮静剤でもあるのだ。大変な苦しみと大変な喜びの両者から離れることを良しとするのである。
 我々凡人には次のアドヴァイス。 

 つらいことが起きたときの3つの武器があります。覚えておいてください。
 忍耐と寛容と謙虚――です。

 マハーカルナー禅師、いつもながら明晰で穏やかな話しぶりであった。
 

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 帰り道、東武東上線の上板橋駅まで石神井川の土手を歩きながら思ったのだが、人が望むのは必ずしも「利得」「人望」「賞賛」「楽」といった良いダンマだけとは限らないのではないか。
 そりゃあ、誰でも(ソルティも)この四つのダンマを望むし、それが得られれば幸福を感じる。「生きてて良かったなあ~」と思う。
 だが、ある程度大人ともなれば、良いダンマだけを常に得るのは不可能であると知っている。「楽あれば苦あり」「人生山あり谷あり」「禍福はあざなえる縄の如し」「人間万事、塞翁が馬」――それなりに世間を渡ってきた人間なら誰しも、多かれ少なかれこの教訓の真なることを痛感し、ある程度の逆境も覚悟しているのではないか。「損失」「離反」「非難」「苦」込みの波乱万丈こそ人生、と達観している人も少なくないだろう。(たとえば、ビートたけしとか中村玉緒とか・・・・)
 もっとも、悪いダンマが良いダンマを凌駕しない限りにおいてではあるが。
 
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 ドラッグにはまって青春を棒にふり、今は自助グループで依存症と向き合いながら活動している40代の男の話を聴いたことがある。
 彼が言った。
「一番つらいのは、20代30代の時に何にもなかったこと。普通の男が経験するような、仕事や趣味やいろいろな人との出会いや、恋愛や結婚や家庭や、いろいろな挑戦や挫折・・・といった事柄が何一つ持てなかったこと」
 人が望むのは、というより人が望まないのは「苦」だけではなく「無」、つまり「良きにつけ悪しきにつけ何もないこと」ではないだろうか。それが苦であろうと楽であろうと、‘体験’を持つことへの欲望こそ、人をむやみやたら突き動かす原動力になっているように思われる。
 金や地位や名声や人は遠からず失せて行く。一方、‘体験’は一時的な苦や逆境とは違い、認知症にでもならない限り‘体験者’のものとして記憶の中に残り続ける。テレビ番組でもネットでも、自分の過去の逆境や不幸をネタにして面白がる人たちがあふれているではないか。自分をアピールできれば、人の注目を集められれば、あるいは自分が生きていることの実感が得られるのなら、逆境や不幸や痛みですら甘い蜜になる。
 
 自我の持つそういった特性(=戦略)は、なかなか二元論では語りきれないように思うのである。

 上板橋駅前に見つけた小さな店で熱々のタコ焼き(withマヨネーズ、でしょ。やっぱり)を買い、ホームで一服した。
 小楽。

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 サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。





 

● 末法は終わった 原始仏教トーク:『涅槃への門は、まだ開いているか? ~仏国土Buddhakhettaを求めて~」(講師:マハーカルナー禅師)

涅槃への門

日時 3月6日(日)午後1時から
会場 見次公園内集会所(東京都板橋区)
主催 マハーカルナー法友会

 マハーカルナー禅師は1955年東京生まれ(今年還暦)。42歳の時にスリランカにて出家。その後、ブラジル、ミャンマーなどで修行される。ミャンマー随一の高僧パオ・セヤドーより、パオ森林僧院日本本部の設立と日本におけるパオ瞑想システム指導の命を受け、2013年帰国。同年9月より毎週、都内を中心にパオ瞑想指導とアビダンマ講座を開催している。(パオ森林僧院ホームページ参照)

 会場は、都営三田線・志村坂上駅から歩いて5分足らずの見次公園内の公共施設。はじめて行ったが、板橋区にこんな大きな池をもつ開放的な公園があるとは知らなかった。首都高速、中山道に囲まれた激しい交通の真っ只中に位置するが、騒音はさほど気にならない。湧水を水源としている池は、へらぶな、タナゴ釣りが公認されている。うららかな日曜の午後、釣り糸を垂らしてまったりとくつろいでいるおじさんたちの姿がのどかさを醸し出していた。
 
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見次公園 002

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 会場に入ると、すでに50人くらいの参加者が畳に座っていた。3:2くらいで男が多い。全体に若い人が多いのは、若者の方が新しい情報に敏感でアクセスしやすいためか。かくいう自分、マハーカルナー師の存在と朋友会の活動を知ったのはほんの最近のこと。
 ネット上(ポッドキャストって言うんですか?)でなく、じかに師の話を聴くのははじめてであったが、非常にわかりやすく、親しみやすく、熱意ある話しぶりであった。
 今回のテーマ『涅槃への門は、まだ開いているか?』とは、換言すれば「現在もなお、解脱は可能なのか? 悟りは可能なのか?」ということになろう。
 
 日本では1052年(平安末期)を末法元年としている。

末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと。(ウィキペディア「末法思想」)
 
 現在は末法の世であり、我々は下根下機の民である。仏法を理解する力も修行する力も乏しく、悟るのも解脱するのも難しいというわけだ。
 これは日本に入ってきた大乗仏教独自の悲観的な伝承で、本家本元のテーラワーダ(原始)仏教には関係ない話--と思っていたが、マハーカルナー師によると、テーラワーダ仏教国であるタイやミャンマーでも、「涅槃の門はまだ開かれているか」、すなわち「輪廻からの解脱は現代も可能なのか」という議論が盛んにされているとのこと。
 これは、最終的な悟り(阿羅漢果)に達して解脱した修行者が、テーラワーダ仏教界においてさえ、いかに少ないか、阿羅漢になるのはいかに難しいかという事実の裏返しなのだろう。(第一、第二段階の悟りである「預流果」や「一来果」の悟達者は掃いて捨てるほどいるのだろうが・・・)

 マハーカルナー師は明言する。
「日本のどんな時代の、どんなに恵まれた境遇に生まれた者よりも、2016年現在の平均的な日本人のほうが、明らかに良い波羅蜜(ハラミツ)を持って生まれている。菩提心、すなはち悟ろうという強い意志と仏教への信さえあれば、悟ることの可能な環境にいる。涅槃の門は開かれている」
 波羅蜜とは、仏教に対するその人の縁の深さのようなもの。悟ることのできる能力や環境というニュアンスもある。 

 そうなのだ。
 仏法伝来(538年)以来、日本には深く仏教が根付いた。
 けれど、それは中国経由の大乗仏教であり、釈迦のそもそもの教え(仏説)とはたいぶ異なる偽経だった。仏教の根本奥義たる法(ダンマ)の核心は愚か、悟るための方法論たる瞑想法も伝えられなかった。これでは、いくら修行者が頑張っても、悟りはおろか、釈迦本来の教えによってこの世の真実(諸行無常、諸法無我、一切行苦)を知って、智慧を磨き、心を軽くすることすら難しい。せいぜいが――というより、だからこそ、日本では阿弥陀仏信仰が優先されたのだろう。解脱主義でなく浄土主義が・・・。
 その意味では、538年当初から日本は末法の世にあったのである。
 
 日本で原始仏教の経典が『南伝大蔵経』として翻訳・出版されたのは、1935年(昭和10年)から1941年(昭和16年)にかけて、大蔵出版の高楠順次郎らによるものである。およそ80年前だ。
 だが、太平洋戦争→敗戦→貧困→復興と続き、仏教どころの話ではなかったのは容易に想像できる。また、大乗仏教の勢いがまだまだ強かった時代、原始仏教は「小乗仏教」として蔑まれていた。あえて学ぼうとする人がいないのも無理はない。
 さらに--マハーカルナー師は言う。
「仏典はあっても、修行の方法を教える先生がいなかった。自分が若い頃は、経典を読んで自分なりに修行するしかなかった」
 つまり、瞑想修行に欠くべからざる勝れた指導者がいなかったのだ。だから、本気で悟りを目指す日本の修行者は、仕事を辞めて家族と離れてタイやミャンマーに渡航し、「これ」と思った師について、慣れない異国で言葉や文化の障壁と格闘しながら、数年を過ごさなければならなかった。
 今はどうか。
 日本には、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老はじめ、このマハーカルナー禅師や上座仏教修道会のバッダンタ・ニャーヌッタラ長老、たびたび来日されて講話や瞑想指導をされるタイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボー師などがいる。
 これらの僧侶が日本語で書かれている分かりやすい原始仏教の関連本も簡単に手に入る。遠距離からでもネットで法話を聴くことができる。じかに瞑想指導を受けることもできる。在家のままでも、仕事を辞めなくても、家族を捨てなくても、教学も修行も悟りも可能なのである。
 なによりも、かによりも、仏法を学び瞑想修行できるだけの平和と信仰の自由(日本国憲法)と経済的豊かさとがある 。共産主義独裁政権下で僧侶が強制還俗あるいは虐殺されたキリング・フィールド(=ポル・ポト)時代のカンボジアを思えば、この幸運は痛いほど分かる。(だからこそ、仏道修行者は平和維持のため行動しなければならないと自分は思っている)
 
 なんという幸運な波羅蜜だろう!
 空海が、最澄が、法然が、親鸞が、一休が、日蓮が、道元が、栄西が、その他大勢の歴史上の修行僧たちが、悩み苦しみ、呻吟し、生涯賭けて追い求めてどうにも得られず、来世に託すほかなかったものを、2016年に生きる我々は至極簡単に(クリック一つで!)手に入れている。電車賃だけで浴することができる。
 ようやく末法は終わったのだ!

 しかし、マハーカルナー師は言う。
「この幸運が、このままこれから先、何十年も何百年も続くと思ってはいけません。もしかしたら、この幸運は、ロウソクの炎が消える前の最後の輝きのようなもの、仏教が途絶え、衆生が無明に取り残される前の最後の救いの一匙のようなものかもしれません」
 
 自分の半世紀に及ぶ人生において、最大にして最高に幸運な出会いは、まぎれもなく原始仏教との出会いである(今のところ)。これあればこそ、それまでのすべての不運や不幸や逆境や苦渋も相殺されてあまりある(と言っても、たいした苦労もしていないのだが・・・) これなくして、今後迫り来る老いと病いとターミナルの数十年を安穏に過ごせるとは到底思われない。
 
 放蕩・停滞している最近の自分。
 今一度、この幸運を身に沁みて感じなければなるまい。
 
 新たな1ページを開いたような一日であった。


 サードゥ、 サードゥ、 サードゥ
 

 


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