演目
- チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
- マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調
ヴァイオリン独奏:﨑谷 直人(神奈川フィルハーモニー管弦楽団・ソロコンサートマスター)
猛暑の中、外出する気力を呼び起こす演奏会などそうそうあるものじゃない。たとえ、それがチャイコのヴァイオリン協奏曲とマーラー5番という大好きなカップリングであるとしても・・・。
指揮者和田一樹にはその気力を呼び起こすだけの引力がある。
保谷駅にははじめて降りた。急行の停まらないマイナーな私鉄沿線駅らしい庶民的雰囲気である。会場のこもれびホールまで徒歩15分。もちろん歩いて行くなど話にならない。保谷庁舎行きのバスに乗った。
662席のメインホールはほぼ満席だった。
西東京フィルハーモニーオーケストラは、管弦楽合奏を通じて音楽に親しむこと、そして、地域の音楽文化に貢献することを目的として1998年6月に生まれました。発足当時は保谷フィルハーモニーオーケストラという名称でしたが、2001年の田無市と保谷市の合併により市の名前が西東京市になったことで、現在の名称に改称しました。(西東京フィルハーモニーオーケストラのホームページより抜粋)
チャイコのヴァイオリン協奏曲は、独奏の崎谷直人の圧倒的技巧に引き込まれた。背もスラっと高くてカッコいい。あれを目の前でやられて落ちない女性がいるだろうか。
男っぽい厚みのある音色で、一本造(いちぼくづくり)の彫刻家のように、全体をザクッザクッと大胆に直感的冴えをもってノミで削り、細かいところを繊細な気配りをもって小刀で削るといった印象であった。
和田は協奏曲もうまい。第1、第2楽章でソリストを引き立てて思う存分遊ばせながら、第3楽章で見事にオケとの対話を演出、最終的に和田一樹ならではのチャイコに仕立てていくあたり、やはり並みの才能ではない。
今回は西東京フィルの安定した力強い演奏とソロパートの上手さを伴侶に得て、どうやら「和田のマーラー」の何たるかが見えてきた。
これまでにソルティが数多く聴いてきた5番と「どこか違う」という印象は、第1楽章からずっと感じていた。だが、いったいそれが何なのか言葉にできなかった。分析できない、言葉にできない音楽素人のもどかしさよ。
ただ、《葬列のように》という指示がついている第1楽章は全然《葬式》を連想させず、《嵐のように激しい》はずの第2楽章は意外に「あっさり」していて、ソロパートの多い第3楽章では「遊び心」をふんだんに感じ、『ベニスに死す』のラストシーンを想起せずに聴くことはもはや困難な第4楽章では指揮者の目線は「彼岸」より「此岸」を向いているように感じた。そして、完全に自己肯定的で喜悦にあふれた第5楽章の祝典ノリ。
「これはマーラーか?」
「これは5番か?」
と思わず胸の中で呟いた。
神が死んだ世界に独りぼっちで投げ出され、孤独と憂愁と自己否定と、それでもなお絶えて止まぬ独立心と自己拡張と自由への希求と、その狭間で生じる他者との関係性という煉獄、永遠に先送りされる愛の成就。マーラーの音楽は、こういった近代的テーマに換言されよう。むろん、本邦の夏目漱石や三島由紀夫同様、時代精神を背負う(あるいは先取る)からこその天才なのである。
多くの指揮者は、こうした近代的テーマの顕現をいかに深くマーラーの楽譜の中に読み取るか、同じ近代に生きる人間としていかに切迫に自分事としてそれを理解し、いかに巧みに音として再現・表現していくか、に身を砕く。聴衆もまた、己の中に知らず持たされている近代的テーマを、マーラーの音楽を聴くことを通して浮上させ、発見し、確認し、共感するのである。
ここでは、「創るマーラー✕表現する演奏家✕受け取る聴衆」の近代的テーマをめぐる三位一体は完璧であった。ソルティもその枠組みの中でマーラーを聴いてきた。何と言っても、ソルティもまた近代的価値観の中で生まれ育ち、それをずっと内面化し続けてきた人間だからである。マーラーの5番に「物語」を読みたくなってしまうのはそのせいである。
だが、日本社会はすでにポストモダン(脱近代)に入っているのやもしれない。上にあげたような近代的テーマを愚直に内面化することから免れた若い世代が、日本社会に続々登場しているのかもしれない。
ポストモダンとは・・・
現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
出典:朝日新聞出版発行「知恵蔵」
和田のマーラー5番を聴いて、「どこかこれまでのマーラーと違う」と感じたのは、この脱近代性ゆえである。その演奏は、「苦悩する近代人マーラー」という物語を次々と裏切っていくのである。痛快なまでに!
和田の年齢は知らないが、おそらくポストモダンなキャラの主なのではあるまいか。
それすなわち「脱マーラー」でもあるのだけれど、マーラーだっていつまでも「苦悩するボヘミアン」の役柄ばかり押し付けられたくないにちがいない。
「近代的」解釈を払拭されてもなお、マーラーの音楽は素晴らしい。