ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

田上太秀

● 一闡堤(イッチャンティカ)と呼ばれて 本:『「涅槃経」を読む』(田上太秀著、講談社学術文庫)

涅槃経を読む 2004年刊行。


 別記事(「無間地獄はどこにあるか」)に書いたように、「涅槃経」には2種類ある。
 編纂経典である「原始涅槃経」と、創作経典である「大乗涅槃経」である。
 釈尊の教えを忠実に伝えているのはタイやミャンマーやスリランカなど原始仏教圏で今も読み継がれている前者であり、後者は大乗仏教の隆興と中国や日本への伝播の中で説法師たちが「原始涅槃経」を換骨奪胎、拡大解釈、誇張粉飾、我田引水した、いわゆる偽経である。
 本書はあえてこの「大乗涅槃経」の思想を紹介し、説明するために書かれたものである。

 『原始涅槃経』は、鷲の峰(霊鷲山)を出発し、クシナガラまで途中十三の町や村を訪れ、マガダ国、ヴァッジ国、そしてマッラ国の都合三ヵ国を経た、最後の遊行の旅を記述している。これに対し、『大乗涅槃経』はクシナガラの沙羅樹林での臨終場面を述べ、過去を回想する内容となっている。

 思想に関して大きな違いを見ると、まず、『原始涅槃経』では諸行無常、一切皆苦、諸法無我という、常住不滅の存在は世間にはないと説法しているのに対して、『大乗涅槃経』では常住(常)、安楽(楽)、実在(我)、清浄(浄)という性質をもつ仏性があるという、『原始涅槃経』に反する考えを打ち出している。


 まあ、この時点でもはや『大乗涅槃経』は明らかに仏教では、ない
 釈尊の教えの最も重要な核心部分について異論を述べているのだから、反仏教と言うべきである。拡大解釈というよりも誹謗正法(仏法を否定すること)に近い。
 誹謗正法は、両親や阿羅漢(完全な悟りに達した人)を殺す、ダイバダッダがやったようなサンガ(出家仲間)の分裂をはかる、など六重罪の一つに上げられている。六重罪を犯したら今生で悟ることはできない、どころか来世で地獄に落ちると言われている。『大乗涅槃経』の創作者や説法師たちが、そのような目にあっていなければよいが・・・。


 ともあれ、一等の違いは「仏性」という概念にある。
 著者は「仏性とはなにか」ということについて、いろいろな経典を引用しながら、また「霊魂」との違いを表にして整理しながら、一章を費やして説明してくれているのだが、まったく要領を得ない。わけが分からない。著者の説明が悪いのではない。読み手(ソルティ)の読解力が悪いわけではない(たぶん)。そもそもの経典の記述が曖昧なのだ。「仏性」がなんであるか、はっきりと定義していない。実にいい加減だ。
 大乗涅槃経の作者は、畏れ多いことに、釈尊にこんなことを言わせている。


 迦葉菩薩、仏性はあるでもなく、ないでもない。その理由は仏性はあると言っても虚空のようなものではないからだ。
 世間で言う虚空は方便を使っても見られない。ところが仏性は方便(たとえば八正道を修めるなど)を使うと見られる。だからあると言う。したがって虚空のようではない。
 仏性はないと言っても兔の角とは違う。なぜなら亀の甲羅の毛や兔の角は方便を使っても生えないからだ。ところが仏性は生じる。ないと言っても兔の角とは違う。だから仏性はあるとも言えないし、ないとも言えない。  

 どうだろう?
 一見なにか深遠なことを言っているように思えるが、端的に言えば「仏性は修行をすれば生じる」ということをまわりくどく言っているだけである。こんなまわりくどい、もってまわった表現はそもそも釈尊には似つかわしくない。しかも、この文章が論理的におかしいことは中学生でも分かる。
 普通、比喩とは説明が難しい事柄をわかりやすく理解してもらうために使うものだが、この『大乗涅槃経』に出てくる比喩は、読めば読むほど本質がわからなくなるようになっている。(たぶん確信犯だろう。)
 その理由は簡単で、そこにはなんら本質がないからなのだと思う。意味のないことを、いかにも意味ありげに見せるために修辞が使われている。
  で、ずる賢いことに、「仏性なんてデタラメだ」「仏性なんてものはない」という反論の提出をあらかじめ封じる手を打ってある。
 それが「一闡堤(イッチャンティカ)」である。

  『大乗涅槃経』では仏性の教えを誹謗し、信じない人物を一闡堤と呼び、悪人のなかでも最も許せないものと位置付けている。

 一闡堤は極悪人と決めつけられ、しかも仏法(仏性)を信じない一闡堤に仏性があるわけないと考えられてきた。こういう考えを持つ人は次の経文を例証として挙げてきた。・・・・・

 一切生類にはみな仏性がある。この(仏)性があるから、数えきれないほどの種々の煩悩の塊を断ち切れば、すぐにでも最高の覚りを得ることができる。ただし一闡堤は除かれる。
(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻>


 これでは「仏性」について疑問を抱きようがないではないか。真摯な仏法の求道者がいて、もし「仏性」の存在について疑問を抱き、それを口にしたとたん、師匠や兄弟子や仲間たちから「お前は一闡堤だ!」という、破門にも似た全方位的攻撃が待ちかまえている。「それが理解できないのはお前が一闡堤だからだ」と烙印を押されるのを恐れ、「仏性」に関する問いは以後タブーとなる。本当は誰もその正体を知らないのに、もとい正体がないことを知らないのに、「ある」ということになったまま大乗仏教の秘中の秘として申し送られる。
 なんとまあ狡猾な手口だろう!
 そして、なんとまあ愚かなことだろう!


 そうして大乗仏教に確たる、赫奕たる、地位を占めた「仏性」は、「すべての生き物には仏性がある(一切衆生悉有仏性)」、「すべての生き物はそのまま仏性である(一切衆生即仏性)」というナンセンスを経て、ついには「山川草木悉有仏性」という神道アニミズム的決着をみたのである。


 無明とはこのようなものだ、と『大乗涅槃経』は教えてくれる。 




● 無間地獄はどこにあるのか 映画:『インファナル・アフェア』(アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督)

 2002年香港映画。

 Infernal Affairs とは「地獄の出来事」といった意。原題は「無間道」。
 映画の冒頭、金色の仏像を背景にクレジットタイトルが流れ、続いて以下の文言が浮かび上がる。

涅槃経第19巻
「八大地獄の最たるを無間地獄という。“絶え間無く責め苦にあう”ゆえに、そう呼ばれる。」


 警察学校に同時に入学した二人の優秀な青年。
 一人はヤン(=トニー・レオン)。警察の密偵として、サム率いるマフィアの一味に子分として潜入することになる。
 もう一人はラウ(=アンディ・ラウ)。サムの命を受けてスパイとして警察に入り込んだのである。
 それぞれが潜入先で相応の手柄を立てて出世し、ボスに気に入られ、なくてはならない組織の一員として足場を固めていく。
 警察v.s.マフィアの血で血を洗う壮絶なたたかい。その中で、周囲にばれないように神経を尖らせながら、本来の組織の利益のために情報漏洩に苦心する二人。

 設定の面白さが成功の一因であるのは間違いない。
 携帯電話やモールス信号、インターネットを駆使した情報合戦はスリリングであるし、二人の素性がいつばれるのかというハラハラ感も味わえる。それぞれのボス――サム(=エリック・ツァン)とウォン警視(=アンソニー・ウォン)――の演技も風格と貫禄があって作品に重厚感を与えている。世界的ヒットも、ハリウッド(『ディパーテッド』)や日本(『ダブルフェイス』)でのリメイクも当然と思われる。

 二人の主人公のどちらが無間地獄にいるかと言えば、本当は悪人なのに善人になりすましているラウである。本当は善人なのにマフィアの一味として汚い仕事をこなさなければならないヤンも辛いにゃ辛い。だが、それもマフィアの摘発という、世のため人のため、善なる目的である。自分のやりきれない立場に苦悩するヤンはカウンセリングのお世話になっている。
 一方、善なる仮面をかぶって警察組織の中に入り込み、自分の婚約者にすらも本当の素性を隠しているラウには、良心すらも余計である。そんなものが入り込んだ日には、ラウの仮面は一挙に壊れてしまうだろう。その意味で、ラウが地獄に値する一番の罪は、「自分自身を裏切っていること」に尽きる。
 その矛盾、葛藤を正すために、悪人から善人になるために、最後にラウは自らの本来のボスであるサムを殺して、自分の正体を知る仲間をも殺して、過去を葬る。「本当の」警察官になるために。
 しかし、それでラウは地獄から脱したのだろうか。
 さらなる地獄へと駒を進めただけではないだろうか。

 
 映画の終わりに、冒頭の言葉と呼応するように次の文言が現れる。


仏陀いわく、「無間地獄に死はない。長寿は無間地獄の最大の苦しみなり」

 
 さて、この言葉を本当に仏陀は言ったのだろうか。
 『涅槃経』と言えば、仏陀の最後の旅と涅槃(死)の様子を描いた経典のことであるが、手元にある『ブッダ最後の旅(大般涅槃経)』(中村元訳、岩波文庫)を調べても、このような記述は見当たらない。そもそも19巻などという巻数を持つような大著ではない。
 調べてみると、『涅槃経』には2種類あるらしい。

 仏教経典には編纂された経典と創作された経典がある。
 編纂された経典とは、釈尊が四十五年間に遊行先で説法したものを、釈尊の死後、弟子たちが編集したものを言う。
 ・・・・・・・・・・・・
 紀元後になると、大乗仏教思想を謳歌した経典が数えきれないほど出現した。これらは編纂された経典の内容をもとにまったく新しい思想を展開し、その教えをすでに亡くなっている釈尊に語らせた。本当は作者の考えを披瀝しているのに、いかにも釈尊の説であるかのように書かれているのである。
 これが創作された経典である。別言すれば偽の経典である。これを偽経と言う。
 このように仏教経典には編纂経典と創作経典があるが、編纂経典はパーリ語という一種の俗語で著されていて、しかも釈尊が身近な人々を相手に説法した内容であることから、現代語訳で読んでもすぐに理解できるほどわかりやすい。一方、創作経典は雅語であるサンスクリット語で著されていて、内容は高度な哲学書ではないかと思われるほど難しく、現代語訳を読んでもなかなかわからない。わが国の寺院で読まれ、親しまれてきた経典はこの創作経典ばかりである。(『「涅槃経」を読む』(田上太秀著、講談社学術文庫)


 そう。「涅槃経」にも編纂経典と創作経典の二種類あるのだ。
 香港もまた大乗仏教圏であるから、上記の「涅槃経」とは創作経典のことなのだ。
 つまり、仏陀の言葉では、ない。

 むろん、編纂経典にも六道(天界、阿修羅会、人間界、畜生道、餓鬼道、地獄)の一つとして地獄の記述はあり、細分化された地獄の階層を描写する経典はあるらしい。
 だが、仏陀自身はあまり地獄については語らなかったようである。

 それにしても偽経であるとは言え、「長寿は無間地獄の最大の苦しみ」とはよく言ったものである。
 「生きることは苦(一切皆苦)」は間違いなく仏陀の言葉であるのだから、「長く生きれば生きるほど苦しみが大きくなる」というのは論理的に正解である。

 長寿は喜ぶべきことか、憂えるべきことか。
 老人ホームで働く自分にしてみれば、正直実に悩ましい問いである。




評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 輪廻転生と無我 本:『「老い」と「死」を語る』(中村元著、駒澤大学出版会)

中村元「老いと死を語る」 長い間、日本で仏教の大家と言ったら、瀬戸内寂聴でも五木寛之でもひろさちやでも、ましてや大川隆法でもなく、中村元(はじめ)であった。
 その地位に氏を登らせたのは『ブッダのことば』『真理のことば・感興のことば』『仏弟子の告白』など岩波文庫の仏典邦訳シリーズであろう。氏の他の業績は知らないが、岩波文庫で仏典を邦訳する(できる)というのは、他の追随を許さぬその道のエキスパートであり、自他共に認める仏教理解の泰斗であることを意味している。
 正確に言えば、中村氏は僧侶ではなかった(たぶん)から「仏教研究の大家」と言うべきなのかも知れないが、仏の教えを実際に生きる人(=悟りをひらいた出家者)の姿は大衆の目にはあまり触れないから(たとえば108歳まで婬戒を守り修行一筋に生きた永平寺の宮崎奕保禅師)、世間的には「仏教に詳しい人=仏教の大家」という理解になるのも無理はない。もっとも中村元氏は仏教を研究していただけではなく、仏教徒として智慧と慈愛に満ちた半生を送った人であるらしい。(1999年逝去)

 そんな中村氏が「老いと死」を語るというのだから読まないわけにはいかない。書店で見つけ即買った。

 期待して読み始めたのだが、内容は「ブッダは老いについてこういうことを言っている」「死についてこの経典ではこう書かれている」といった仏説の紹介に終始していて肩すかしであった。仏教を生涯研究し続け、85歳(当時)という「老い」の真っ直中にいて「死」を目前にしている中村氏の、個人的な感慨なり覚悟なり達した境地なり老死を前にまざまざと知った仏説の真意(深意)なりが吐露されているかと思っていたのである。
 どこかの講演録をテキスト化したものなので、講演時間やテーマや対象者のレベルの関係もあって仏説紹介レベルにとどまったのかもしれない。あるいは、仏説そのものが個人の見解と一致するほどに、もはや「我」を表現することなど思いも寄らないほどに、仏教徒としての中村氏の心のありようが澄んでいたのかもしれない。

 そんななかで、一箇所引っかかる部分があった。
 それは輪廻転生をめぐる説明である。
 中村氏、こう言っている。
 

  仏教では、輪廻ということを説きます。そうしますと、結局、仏教も輪廻の主体を説くことになるのではないかと、疑問に思われる方もいるかと思います。しかし一方で、仏教は無我ということを説いています。この両説はどういう関係になっているのでしょうか。
 仏教がなぜ、輪廻ーー生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。
 ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。

  
 ブッダが輪廻転生を説いたのは、輪廻転生を信じる当時の民衆に仏教の真髄「我執にとらわれるな」ということを教えるための手段として、つまり方便であったと言っているのである。


 これは違う。

 ブッダは輪廻転生を自らの確かめた事実として語ったのである。方便なんかではない。中村氏自身が訳した『真理のことば』(ダンマパダ)にちゃんと書かれている。

 わたくしは生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た。家屋の作者をさがしもとめてー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。(岩波文庫『真理のことば』153,154の偈) 


 これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
 さらに、ブッダはこうも言っている。
 

 二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。(中部130) (藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ)


 「比丘たちよ」と語っているところに注目してほしい。
 ブッダはこの言葉を民衆に向かって言ったのではない。出家して比丘サンガに入って解脱を目指して修行している比丘たちに対して言ったのである。

 中村氏はなぜこんな勘違いをしたのだろう?


 客観的に(科学的に)証明できない輪廻転生という現象について、そしてブッダが輪廻転生を事実として認めたということについて、すんなりと受け入れたくない気持ちはわからないでもない。西洋近代思想に囚われた現代人にとって、科学的に証明できないことや自然科学の法則に反することは簡単に信じてはならないことであり、眉唾であり、「オカルト」に属することである。それを単純に信じ込んで周囲に吹聴する人間は洗脳されやすい「危ない」人間とみなされてしまう。いろいろな宗教団体が起こす突飛な事件がその見解の正当性を裏付けていく。
 ブッダ及び仏教を奉じる自分自身を、そんな「オカルト」一派に仲間入りさせたくないという気持ちが、仏教の中の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「慈悲喜捨」は良くとも「輪廻転生」はちょっと・・・・・という言説をつくっていくのかもしれない。
 他の宗教に較べると、極めて論理的で精密で実証主義を重んじ「最先端の科学的知見」との整合性すらも獲得しつつある仏教の、唯一の突っこみどころが「輪廻転生」であり「神、悪魔についての言及」なのである。それあるかぎり仏教は結局「天地創造」「処女懐胎」「復活」を唱えるキリスト教(のナンセンス)と大差ないということになってしまうのだから。

 自分も仏教を学び瞑想実践するようになって数年になるが、仏教の中でもっとも理解できない部分がこの「輪廻転生」であった。
 仏典に出てくる「神と悪魔」の存在についてはそれに較べればどうということはない。よく解釈されるようにそれらを修行者の「心の声(良心と誘惑)」とみなすこともできるし、「神」を修行を励ますサンガの仲間達、「悪魔」を修行の邪魔をする俗世間の比喩としてとらえることもできる。ブッダや比丘たちの無意識が投影された集団幻覚であってもよい。なんなら、人間とは別次元に住む存在(幽霊、妖怪、宇宙人e.t.c)としたってよい。
 つまるところ、神や悪魔の存在はブッダの教えそのものについてはほとんど関わりをもたないからである。それこそ、「教え」を効果的に大衆に伝えるための演出、修飾、誇張と位置づけることも可能である。
 一方の輪廻転生は厄介である。たんなる比喩や誇張ではすまされない。

 ポイントは二つある。

 まず、輪廻転生(生まれ変わり)という現象自体があるのかないのかという点である。
 前世のことを鮮明に記憶していている人物がいて、第三者が調査してみたらその人の証言通りの事実が過去にあったという、まさに生まれ変わりとしか思えないようなケースも調べればたくさんある。有名なところではダライ・ラマがそうである。
 「無我」(「自分」という感覚は幻想である)が現代科学によって証明されてきているように、輪廻転生もいつの日か科学的に納得できる説明がなされる日が来るのかもしれない。その日まで事の真偽を保留にしておくのが賢いのだろう。ブッダが言ったからといって無条件に信じる必要もない。
 結局のところ、輪廻転生があるかないかという問題は仏道修行そのものにはまったく影響しないからである。というのも、ブッダのような天眼(超能力)を持たない一般人にとっては「来世でいいところに生まれたいから修行する」「永遠に続く輪廻転生の苦しみから解脱したいから修行する」というのは修行の理由にはならないからである。前世を見る能力がないのに来世の幸福のために修行するというのはナンセンスである。自分で確かめていないことを、ブッダが言ったからといって頭から信じ込んでいるのはまさに「信仰」であって、それこそまことの仏教徒の態度としてはふさわしくない。
 また、輪廻転生が実在するとして、ある人が今生での修行の成果によって来世で良い境遇に生まれたとしても、来世にいる当人は前世(今生)のことを覚えていないのが普通だから、「前世で頑張って修行しておいて良かった。来世のために今生も頑張って修行しよう」とは思わないだろう。今生で酷い悪行を犯し、それが露見せずに罰を受けることなく死んだとする。その報いを来世で受けるのは、記憶がつながっていない限り(天眼を持っていない限り)、今生の「自分」とは別人格の「他人」である。
 つまり、輪廻転生という現象はそれを見る能力がない人にとっては、何ら意味を持たないのである。そこに左右されることは馬鹿らしい。
 仏道修行の目標は「修行によって智慧を開発し、煩悩を減らし苦しみを無くすこと」である。輪廻転生のあるなしはとりあえず棚上げしておけばよい。

 次のポイント。
 ブッダの言うとおり輪廻転生があるとして、「では、いったい何が生まれ変わるのか」という点である。先に挙げた中村元氏の言葉の最初の部分に集約されるように、「生まれ変わりがある(輪廻転生)」と「永続する主体は存在しない(諸法無我)」は矛盾するように見える。
 この禅問答のような謎は、仏教を学ぶ者にとって長い間解きほぐせない難題であった。

 繰り返すが、釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは、一般にいう輪廻思想はでてこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
 では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。(田上太秀著『仏陀のいいたかったこと』、講談社学術文庫)


 後生の仏教徒は、ゴータマ・ブッダのこの姿勢が結局わからなかった。無我説は、有我説と、不毛な水かけ論が延々と続くという事態を招いた。また、輪廻の主体としてのアートマン(ソルティ注:「我」)がないなら、輪廻転生や因果応報をどう説明すればよいのかという問題の解決に大いに苦心することとなった。とてもではないが無理なことを説明するために、多大な学問的努力が払われた。皮肉なことに、それゆえ仏教「哲学」は、千年の長きにわたって、インドの哲学界をリードしつづけることができたのである。(宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』、光文社文庫)


 この謎、矛盾が、テーラワーダ仏教を学び瞑想を始めたばかりの自分の大きなジレンマであった。瞑想をしていても、ともすればこの謎が頭を占めてしまい集中できないこともあった。
「いったいブッダは、なぜ何が輪廻転生するか、はっきり言わなかったのだろう?」
 上に書いたように輪廻転生のあるなしは問題ではなかった。あるならあるでいい。とりあえず修行には関係ない。
 問題は、輪廻転生する主体の存在を否定しておきながら輪廻転生を説いたブッダのスタンス(真意)がわからないところにあった。こんな矛盾することを平気で語っているブッダのアバウトさに困惑したのである。ブッダの生きていた時代、この謎について質問した修行者もいたようだが、ブッダは明確には答えなかった。
 輪廻転生のあるなしより、それについて整合性ある説明がないことに、中村先生同様、自分も戸惑ったのである。「こんないい加減なことを言いっぱなしにするなら、仏教も信用できない」と思いかねないほどに・・・・。


 しかるに、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老はこう述べている。
 

 みんながもっているのは、私という変わらない何かのサブスタンスが、死後あちこちに引っ越しするというような理解ですね。そんな原始的な話ではありません。個といえるもの、常住不変の魂・霊魂のような実体は成り立たないのだと、仏教は厳しく語っています。無我説があったうえでの輪廻の話です。輪廻を理解したければ、「難しいもの」とお釈迦さまが注意された、因縁法則を理解することになります。
 しかし、心配いりません。解脱に達しようと思って実践を続けると、ものの見事に自分で発見するのです。・・・・・・・
 端的にいえば、「無常がわかれば、輪廻がわかる」ということです。今の現象は瞬時に消えて、新たな現象が生まれる。それは限りなく続く。輪廻とは変化し続けるのだという意味の言葉です。
(アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉対談『出家の覚悟』、サンガ)


 無我説があったうえでの輪廻。
 実践を続けると、ものの見事に発見する。


 中村氏は仏教の研究者としてはまぎれもなく超一流であったが、実践者としては道半ばだったのだろうか。 (他人のことはほっとけ←ギャグ)


 それにしても、そもそも「輪廻転生には主体が必要」と考えるのはなぜだろう?
 そう考えるのは「誰」だろう?



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