ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

筒井功

● 本:『日本の「アジール」を訪ねて 漂泊民の場所』(筒井功著)

2016年河出書房新社刊行
 

 「アジール」とはなにか。

犯罪者、負債者、奴隷などが逃げ込んだ場合に保護を得られる場所。世界各地にわたって聖地や寺院などにその例が見られるが、法体系の整備とともに失効している。聖庇、聖域、避難所。(小学館『日本国語大辞典』より)

 元来はヨーロッパの法制度と宗教観念を背景に生まれた言葉なので、該当する適切な日本語は存在しない。
 ここで著者は、「何らかの形で国家権力や法律制度の枠外にある地域」を指して、「アジール」という言葉を使っている。そして、日本におけるアジールの恰好の例として、遅くとも半世紀ほど前までは日本のあちこちに点在し、その後消滅してしまった「セブリ」を挙げている。
 在野の民俗研究家にして卓抜なるエッセイストである筒井功の最新刊は、日本各地にあったセブリについての記録の数々である。

セブリは非定住民らのあいだで広く使われていた一種の隠語で、動詞形だと「セブル」となる。それは「フセル(伏せる、臥せる)」の転倒語だとされている。意味は「住む」「泊まる」「寝る」などであり、セブリはそのような場所のことである。乞食または一見してそう思える人びとは、しばしば普通民の近づかない土地に集住して、そこをセブリとしていた。

 本書では、栃木県高原山の麓の「仏沢」、福島県原町石神の「土窟」、大阪市天王寺にあった「ミカン山」、埼玉県比企郡の「吉見百穴」、高知県土佐市清水市の「箕作」、岡山県の旭川ダムの流域・・・など、著者が実際に足を運び、古くから土地に住む古老に話を聞き、文献を調べ、あるいは実際にセブリしていた人の縁者を取材し、あとは推理と世間知と想像の力によって再構成した在りし日のセブリの姿が描かれている。
 ソルティは上記の吉見百穴だけ小学校の遠足で行った。古墳時代後期の横穴墓群の遺跡とされているが、小学生のソルティはちょうどテレビで放映されていた『はじめ人間ギャートルズ』(原作は園山俊二のギャグ漫画)の影響で、原始人の住居跡という勝手な思い込みをもった。太平洋戦争時は地下軍需工場として利用するため坑道が掘られている。
 遠足での一番の思い出は、斜面を歩いているときに足が滑って落下しそうになったことである。そばにいた女の子が差し伸べてくれた手につかまって一命を取り留めた(と思っている)。今はどうか知らないが、当時はあまり観光用(すくなくとも子供の遠足用)には整備されていなかったので、ずいぶん危険なところもあったのだ。

吉見百穴
吉見百穴

 セブリにはどういう人たちが暮らしていたか。というより、どういう人たちがセブっていたのか。
 サンカと呼ばれた人たちである。
 筒井の定義によると、サンカとは「箕(み)、筬(おさ)、川漁などにかかわる無籍、非定住の職能民」である。は農具、筬は機織りに用いる道具で、どちらも竹を主原料とする。サンカは、竹林をもとめて移動し、普通民の邪魔にならない目立たぬところに竹や藁や布を材料とする仮の宿(セブリ)をこさえ、家族ぐるみで箕や筬をつくっては周辺の農民たちに商いし、一定期間が過ぎるとまた別の竹林と商売相手をもとめて移動する。あるいは川の流域を上下しながら漁をする。生涯定まった家を持たず、籍も持たず、名字もない。結婚は地域を離れたサンカ同士の間で行われる。
 こんな世過ぎをしていた人たちが、ほんの半世紀余り前まで日本にいたのである。文化・風習はこれとまったく異なるが、「日本のジプシー」と譬えれば、イメージを描きやすいであろう。

 著者によれば、サンカの語源は「坂ノ者」だと言う。サカノモノ→サカンモン→サンカモン→サンカ、という音の転換があったのではないかと言う。

坂ノ者は元来は「坂に住む者」の意であった。この語は11世紀の文献にすでに見えている。当初は主として京都・清水坂と、奈良・奈良坂のそれを指していた。彼らは「非人」とも「長吏(ちょうり)」とも呼ばれ、賎視の対象になっていた。

 奈良や京都で発生した「坂ノ者」という言葉が、音を変え、指し示す実態を微妙に変えながら、各地に広がっていったということであろうか。

 歴史的・民俗学的探求もたしかに面白いけれど、ソルティが一番興味深く思うのは、わが国で1000年近くの歴史を持ちその存在が許されてきた(大目に見られてきた)これらの人たちの姿が、たった半世紀ほど前に、敗戦から20年くらいの間にすっかり消滅してしまった――ということの意味である。
 いったいこの間、なにがあったのだろう?

 むろん、敗戦は大きい。敗戦とGHQによる日本改造(近代化・民主化)は無視できまい。それに、産業構造の変化や国土開発や交通機関・マスメディアの発達が、日本からアジール(隠れ場所)を払拭してしまったこともあろう。産業自体も大きく変化した。伝統産業が衰退し、箕や筬は使われなくなっていった。川漁も減った。
 消えてゆく文化や風習や民族のことを思うと、ちょっと淋しいようなもったいないような気もするけれど、賎視され差別される人たちがいなくなるのは良いことに違いない。時代は流れる。
 一方で、無籍で家を持たず法制度から外れた‘サンカ’は、ほんとうに消滅したのだろうかとも思うのである。押し寄せる近代化の波の中に消えたように見えて、実際には別の形となって再び水面に顕われているのではないだろうか。
 サンカの子孫として今は定住し市民として暮らしている人たちのことを言っているのではない。
 たとえば、河川敷のホームレスであるとか、施設や刑務所に収容される知的障害者や発達障害者であるとか、家に引き篭もる精神障害者であるとか、ビザや住民票を持たない外国人であるとか・・・。
 世の中には、近代社会のシステム――法や制度や経済や市民的一般常識――にどうしても馴染まない人々がいて、そういう人たちは現代日本社会でどこにも居場所を見つけられずに、かと言って、もはや大自然の中で孤独ではあるが自由気ままに生きることもかなわずに、社会の片隅で窒息しかかっているのではないかなあ、と思うのである。



 
 

  

● 本:『「青」の民俗学 地名と葬制』(筒井功著)

2015年河出書房新社。

日本語の「青」は、元来は墓地・葬地を意味する言葉だったといえば、ほとんどの人がまず眉に唾を塗ることだろう。・・・・・そんなことは、どんな辞書、事典を開いても載っておらず、ごく最近になるまで、それらしい指摘をした研究者は皆無だったからである。(本書より引用、以下同)

 言うまでもなく、ここで言うのは「青」という漢字表記のことではない。日本に漢字が入ってきたのは紀元後1世紀頃と考えられている(大修館書店「漢字文化資料館」より)。弥生時代中期である。「漢」王朝が紀元前206年‐紀元220年だから妥当な線だろう。
 「あお(blue)」という色も、それを指し示す「アオ」という音も、当然古代日本人は目で見て認識し、話し言葉として使っていたはずだ。「いつ」からかというのは難しい。縄文時代からなのか、弥生時代に入ってからなのか。日本語の起源に関わる問題である。
  ただし、「アオ」という音で示された色は、いまの青・蒼・藍・blueに限定されていなくて、「本来は黒と白との中間の範囲を示す広い色合いで、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした」そうである(小学館『日本国語大辞典』より)。確かに、現在でも「青」という言葉によって表現される事物は、「青信号」「青葉」「青馬」「青梅」「青蛙」「青田刈り」「青大将」「青海苔」などにみるようにblueとは限らない。むしろ緑系が多い気がする。

 これらから考えて、青は原義的には何かの色を指す言葉ではなく、「どちらにも属さない、中間の位置または状態」を意味していた可能性が強いように思われる。
 この推測が当たっているとすれば、アオ(古い表記では「アヲ」)とは元来、「あの世とこの世とのあいだ、境、中間」を指していたのではないか。そこはぼんやりと薄暗い、もしくは薄明るい世界だと意識されていたのではないか。その感じが、古代から今日までつづく色彩語としての青に反映しているのかもしれない。

 日本各地を旅しながら関心の赴くままに民俗研究を続け、『新・忘れられた日本人』『猿回し 被差別の民俗学』『忘れられた日本の村』などの好著をものしてきた筒井は、研究の途上で「青(アオ)」と「墓地・葬地」の関連を思うようになり、「青(アオ)」で始まる地名の分析を手がかりに系統的な研究に着手した。
 その成果が本書である。

 上記に挙げた他の著書――文学と民俗学と旅行記とミステリーの折衷のような味わい深いエッセイ――とは異なり、研究書の色合いが濃い。手法として、「青」で始まる土地(青山、青柳、青島、青木など)と、その土地にある古墳や古くからの葬地との相関を探っていくので、全般に証拠(=判断材料)の列挙というスタイルにならざるを得ないのは仕方あるまい。
 しかし、よく足を使って、よく調べたなあ~。
 相変わらずの筒井の探求心と勤勉さと行動力に感心する。こういうライフワークを持つ男は幸せである。

 一読した実感では、なるほど各地に今も残る「青(アオ)」地名と「墓地・葬地」の間には高い相関を指摘することができそうである。もっと両者のサンプルを増やして、統計学的処理――たとえば統制群(コントロール)も用意して「カイ2乗検定」をかける――と明瞭になるのだろうか?

 一つ考察がほしいと思ったのは、「青という言葉を、はっきり死または葬に関連して使ったと思われる例は、記紀万葉などの古代文献にはないようである」と筒井が述べているところだ。
 その理由はなんだろうか?
 筒井の推理どおりに、「アオ」が「死・他界」を意味する言葉として使われていたのならば、それがそのようには使われなくなった理由も知りたいところである。6世紀に入ってきた仏教の影響だけとするには、あまりに痕跡なさ過ぎと感じる。
 冠位十二階(604年制定)では「青」は「紫」につぐ高い位を与えられている。古代日本人が「死」のイメージを喚起したであろう色に、それほど高い位をすんなり与えるものだろうか?
 差別語の変遷に見るように、人の「感覚」を変えるのは「言葉」を変えるよりずっと難しいと思うのだ。 


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● 日本人を解放せよ 本:『忘れられた日本の村』(筒井功著)

2016年河出書房新社発行。
 
 『猿回し 被差別の民俗学』、『新・忘れられた日本人』の著者の最新作。
 やっぱり、面白い。クオリティが高い。あとがきで触れているとおり、「エッセイとも旅行記ともつかない妙な内容」であって、また「民俗学とも文学ともつかない不思議な文体」である。
 そこがいい。

 今回は、日本各地の‘忘れられた’――というより‘知られざる’村をいくつか取り上げて、その村に古くから伝わってきた‘知られざる’伝承や習俗や生業や芸能を紹介している。現地での取材、各種の文献調査、地勢や地名や生産物や今も残っている言葉などをたよりに、ありし日の村の姿、村に生きた人々の姿を再構成していく著者の視力と手腕は、奥ゆかしくも鋭敏である。推理の楽しみは本書の大きな魅力となっている。(いつか民俗ミステリーを書いちゃくれまいか)
 一般に民俗学文献を読むのは素人には難儀なものだけど、この本は非常に読みやすい。リアルタイムの取材の様子を縦糸に張り、上手い具合に、地誌学、歴史学、言語学、記紀文学などから得た推理の材料を横糸として加え、全体図を織り上げていく。分かりやすい言葉で、シンプルかつ要領よい説明がなされる。織手としての、作家としての著者の技量には感心する。

 取り上げられるのは、
第一章 出雲国の水晶山と「たたら村」
第二章 マタギは、なぜアイヌ語を使っていたか
第三章 断崖の漁村「御火浦」略史
第四章 雪深い北陸「綾子舞い」の里
第五章 大分県「青の洞門」の虚と実
第六章 阿波山岳武士の村と天皇家を結ぶ糸
第七章 地名と村の歴史――千葉県・丁子(ようろご)から

 どの一編も魅力的で面白い。
「へえ~、こんな村があったの?」
「この地名にはこんな謂れがあったの?」
「こんな伝統芸能・伝統産業があったの?」
e.t.c.
 「日本は広くて奥が深いなあ~」という思いを著者と共にする。そう、バンに荷を積み込んで著者と一緒に旅している気分になるところがまた一つの魅力である。

 ソルティが特に面白く読んだのは、第五章と第六章。
 第五章の「青の洞門」は、大分県中津市本耶馬渓町にある切り立った渓谷の岩壁をくり貫いたトンネル。江戸時代の僧侶禅海の手によって成し遂げられた偉業である。ダイナマイトも掘削機もない時代に、全長約200mのトンネルを掘るのはまさに生涯をかけた大事業であったろう。
 この洞門が有名になったのは、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台となったことによる。ソルティも小学校時代、国語か道徳の授業で習った覚えがある。クラスメートの悪ガキが、「先生、それ『けろっこデメタン』にもおんなじ話があるよ!」と叫んだ声が今も耳についている。
 筒井はここでトンネル掘削の経緯や禅海の素性や半生について、まず『恩讐の彼方に』のストーリーをおさらいし、次に土地に残っている伝承を紹介し、最後に各種文献から組み立てた筒井自身の推理を述べている。すなわち、フィクション、伝承、推理によって組み立てた蓋然性の高い史実、の3つを並べている。史実がいかにして地域の伝承になっていくか、伝承がいかにしてフィクションに飛翔するか。その変容ぶりははからずも、この3つの表現形態の特色の違いを浮き彫りにする。そして、史実が伝承を経て文学作品として昇華されていく過程に、「物語」に対する人間の根源的欲望(=無明)を見る。

青の洞門


 第六章では、徳島県美馬市木屋平村字三ツ木に残る一軒家、三木家の歴史を取り上げている。
 三木家では、大嘗祭――天皇が即位してはじめて行う新嘗祭(11月23日)――において、新天皇が着用する麁布(あらたえ)を作って貢納する役目を古くから担っている。

麁布とは要するに麻服のことであり、原料は麻である。麻は周知のように大麻ともいい、麻薬の原料にもなるから勝手に栽培することはできない。三木家では、むろん許可を受けたうえで前面の傾斜面を畑に当てている。

 貢納に対しては、宮内庁から多少の謝礼が出る。しかし、かかった費用にくらべれば、問題にならないほどの少額である。つまり、一方的な贈与に近い。三木家も寄付に応じた人びとも、それを承知で力を合わせたことになる。

 新嘗祭ならば一年に一回である。そこに標準を合わせて、畑を耕し、麻を育て、麻糸をとって、布に仕立てることもできよう。
 だが、大嘗祭は数十年に一回で、いつあるかも予測できない。一番最近は、平成天皇が即位した平成2年11月22日深夜から翌日未明にかけて行われている。26年前である。生前退位がいま話題となっているが、次の大嘗祭がいつになるか(不敬な話であるが)分からない。
 伝承によれば、三木家はこの麻布の貢納を古代から行っているという。文献で確認できるのは、文保二年(1318年)、すなわち約700年前である! 三ツ木という地名、および三木という家名も「みつぎ」から来ていると推測される。

 気の遠くなるような話ではないか。
 何十年に一度の大嘗祭たった一日の折に天皇陛下が着る麻服の素材を、700年以上も貢いできたことを誇りとし、その伝統行為が家名に転じたほどの一族が、都からはるか遠く離れた徳島県の奥深い山間に暮らしているのだ。今も!
 天皇制がいかに深く日本に入り込んでいるか、日本人の血肉となっているのかが伺えよう。(ただ、次の大嘗祭の折も麁布を献上するかどうかは未定らしい。過疎化、少子高齢化の波はこうした伝統行為も絶滅させるのだ。)

 筒井の他の著書同様、本書で紹介されるのは日本史の表舞台には登場しない庶民の姿である。特に、たたら(製鉄)、マタギ(猟師)、綾子舞い(芸人)、神人(神社の雑役)といったいわゆる「被差別の民」が主役となっている。
 教科書には載っていない。授業でも習わない。時代劇や大河ドラマでも詳しくは描かれない。しかし、日本の辺界に存在し、逞しくつましく賢く生きてきた人々の姿を知ることは、日本という国の奥深さを知り、日本庶民文化の豊穣を知り、日本人の多様性を知ることにつながる。それは、画一化・標準化・記号化しつつある現代日本人を解放する‘裏ワザ’のように思うのである。
 
 
 

● 子供たちはどこへ消えた 本:『新・忘れられた日本人 辺界の人と土地』(筒井功著、河出書房新社)

忘れられた日本人 2011年刊行。

 昔から自分を惹きつけてやまないお伽噺の一つに『ハーメルンの笛吹き男』がある。
 約束していたネズミ捕りの報酬が貰えなかった仕返しに、町中の子供たちを笛の音で躍らせてどこかにさらって行った男の物語である。
 この話のどこがそれほど自分を惹きつけるのかはっきりしないのであるが、似たようなテーマを扱ったピーター・ウィア監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年、オーストラリア)もやはり同じような感慨を身内に興す。もっとも、後者で神隠しにあうのは少女たちであり、ネズミ捕りに当たるような人物は出てこない。
 神隠し。蒸発。行方知れず。失踪。
 これらの言葉が持つ、不可思議と恐怖と幾分ロマンティックな響きが、妙に琴線に触れる。日常からの逃避願望なのだろうか。山への単独行はこの延長上にあるのかもしれない。
 そう言えば、千葉県茂原で2ヵ月半ものあいだ行方不明になっていた女子高生の事件も興味をそそられる。発見された場所が神社の境内であったということが、まさに「神隠し」という昔からの言い回しを想起させる。

 『ハーメルンの笛吹き男』は1284年ドイツのハーメルンで実際に起きた130人の子供の失踪事件の伝承をもとに作られたものである。この不思議ではあるけれど単純な事件が、年代を経るごとに脚色されていく。誘拐魔としての笛吹き男(パイド・パイパー)がまず登場し、次にこの笛吹き男はネズミ捕りでもあったという変貌を遂げる。この過程には、中世ヨーロッパにおける遍歴芸人に対する差別と、収穫した穀物を襲うネズミの群れに対する人びとの恐怖心とが潜んでいることを解明したのが、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(ちくま文庫)である。
 自分が子供の頃に読んだ『ハーメルンの笛吹き男』はグリム童話だったと思う。そこでは、他の子供達に遅れをとった盲目と足の不自由な子供二人があとに残され、大人たちに仔細を語る役を果たしている。連れ去られた子供たちがその後どうなったか知る由もない。
 ただ、物語はこんなふうに終わっていた。
「ハーメルンを山一つ超えたジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)のある村で、異国の言葉を話す人々がいつからか現れて暮らしている。」


 前段が長くなった。
 筒井功の『新・忘れられた日本人』は、日本の辺界の人と土地を訪ね、埋もれた歴史や語られざる風習や虐げられた人々の姿を、丹念な調査と地道な取材と豊かな想像力とで紙面に甦らせた民俗学的記録である。
 著者は民俗研究家であって学者ではない。書かれたものは、研究としての客観性、正確さを保ちながらも、小説のような味わいがある。つまり文学的である。
 文章のうまさ、わかりやすさは言うまでもないが、調査・取材の対象となる人々との距離のとり方が、科学的(=冷たく事務的)でもなく、扇情的(=差別意識が透けて見える往年のサンカ研究家の三角寛のよう)でもなく、かといって過度に同情的(=お涙頂戴or社会問題として一石を投じたい)でもない。絶妙の距離間と言っていい。
 一方、虐げられた人々に対する筒井のあたたかく哀切なるまなざしは、十分に感得される。それが基音として通底しているこの本は、珠玉の短編小説集といった趣きを呈している。


 語られるのは次のテーマである。
第1章 サンカが過ごした最後の日々
     茨城県のある山村で箕直しによって生計を立てていた一家の物語
第2章 奥会津・三条村略史
     400年以上存在し昭和59年に消滅した奥会津の僻村の来歴
第3章 ある被差別部落の誕生と消滅
     高知県のある村に明治以後に一時だけ生まれ消えていった部落の物語
第4章 「説教強盗」こと妻木松吉伝
     昭和の始めに世間の耳目を集めた説教強盗の波乱の生涯と出自
第5章 葬送の島、葬送の谷
     丹後半島のある漁村で昭和17年まで行われていた変わった葬式の記憶
第6章 朝鮮被虜人の里の400年
   秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に連れて来られた朝鮮の陶工たちがつくった里の栄光と受難

 どの一篇をとっても面白く味わい深い。
 説教強盗のことや朝鮮被虜人からなる陶器の村のことなどくわしく聞いたことがなかったので、誠に勉強になった。京都北端の伊根湾にあるという舟屋の光景も、そのうち見に行きたいものである。 

 舟屋とは、海ぎわに建つ二階家の一階部分が「駐船場」になっている家屋のことである。倉庫のようながらんどうの一階が漁船の収納庫になっているので、ちょっと離れたところからだと家は水の上に浮かんでいるように見える。そういう舟屋が湾を囲んで、すき間なく軒を連ねている。そのような特異な景観を望める場所は、国内ではここ以外にはないらしい。

伊根の舟屋



 このうち、自分が一番興味を掻き立てられ、一読遠いところまで心が連れて行かれたのは、第2章である。 

 昭和59年かぎりで消滅してしまった福島県金山町本名字三条も、その来歴や住民の昔の暮らしを語る文献を全く欠いた村の一つであった。少なくとも400年は存在していた奥会津の僻村は、どんな記録も残さず、いまでは地図の上からも消えたのである。本章は、わずかな手がかりから、この村のかつての姿を想像しようとする試みである。

 筒井は昭和52年の夏に只見川支流にイワナ釣りに向かう際に通り過ぎた三条の様子を記憶に辿る。

 そこは見たところ10戸たらずの、ささやかすぎるくらいの集落であった。気づいたかぎりでは、みな茅葺きの屋根で、曲がり屋と直屋(すごや)があった。それらが未舗装の道をはさんで左右に並んでいた。


 山中深くに孤立した集落というのは、ほかで暮らす者たちの注意を引かずにおかないものらしい。「なぜ、わざわざ、あんなところに」という疑問がわくからであろう。


 筒井は、様々な資料を手がかりにこの村の成り立ちや暮らしぶりを探っていく。
○ 暮らしは何で立てていたのか(産物)
○ マタギ(職業的猟師)が定住した集落だったのか
○ 椀、盆、木鉢、木皿、銚子などをつくる木地集落だったのか
○ 箕作りをしていた記録は何らかの被差別の歴史を暗示しているのか
○ 全戸とも栗田姓であった理由は何か
○ 落人伝説(たとえば平家の)があてはまるのか
そして、
○ 近隣の村人達とは語彙も抑揚もかなり異なった「三条のウグイス言葉」なるものを使っていた意味は何か

 もうおわかりであろう。
 まさにグリム童話の『ハーメルンの笛吹き男』の末尾を彷彿とさせる。
 マタギ説、木地師説、落人伝説を説得力ある論証によって一つ一つ消去していく筒井の推理は、地形を手がかりに飛翔する。 

 三条の起源を考えようとするとき、村の北方にそびえる御神楽岳(1387メートル)の存在が大きな鍵をにぎっているのではないか、これがわたしの推測である。
 御神楽岳は、会津にとっても越後にとっても、きわめて古くからの信仰の対象である聖山であった。

 信仰の山には、いや応なしに参拝者が集まる。御神楽岳にも、いつとも知れないころから、南北二つの登山道が開かれていた。いま南側を例にとると、只見川筋から山頂までは直線距離でも一〇キロはある。標高差で千メートルを超す。とても一気に登れるものではない。これを一日で往復するとなると、かなりの足達者でないと難しいだろう。山に通じない参拝者には、案内人も必要になる。

 そうであるなら、途中に休憩や宿泊ができる建物が欲しいところである。それは緊急の際の避難所にも、案内人のたまり場にも使える。三条は、そのような事情によって成立した集落ではなかったか。

 このあたり、読んでいてワクワクしてくる。
 金田一耕助ばりの推理は続く。 

 御神楽岳信仰は、実は越後から始まった可能性が強い。その何よりの理由は、新潟県の津川盆地や蒲原平野からは同岳が眺望されるのに、会津の方は、どこからも山容を拝することができない点にある。

 そして・・・ 

 もし右の通りであるとすれば、御神楽岳という聖山の存在によって生計の糧を得る生き方も、越後側から始まったことになるだろう。そうして御神楽岳信仰が南側の会津にも波及する、そちらへ移住して登山道の途中に村を構える者が出てくることは、ごく自然のなりゆきである。

 この推測は、三条住民のあいだで語られていた、越後からの移住伝承にもよく合う。また。「三条のウグイス言葉」の由来も、説明できることになる。


 う~ん。お見事。
 『猿回し 被差別の民俗学』でも唸ったが、人間というものがよくわかっている。共同通信の記者をやっていただけある。世間知らずの学者ではこうはゆかない。
 民俗学に必要なのは、「人間」に対する知識なのだとつくづく思う。
 

 三条は、もと御神楽岳の山腹に開かれた宗教集落であり、もっぱら山稼ぎに頼る暮らしに変わったのは信仰が衰えてのちのことであった、これがわたしが想像によってたどり着いた結論である。


 筒井の推理はここで終わっているが、あえて言明を避けたのだろうと思うところを自分が続けてみよう。


 400年前、御神楽岳への篤い信仰を抱いていた数十名からなる一団(講)が、越後から山を越えてやってきた。
 故郷を離れた理由は知る由もない。
 新しい土地に到着し、自分たちの村を拓く。
 さて、なんという名前をつけようか。
 一番有り得そうなことは、自分たちが元々いた場所、すなわち故郷の名前をそのまま付けることである。たとえば、アメリカに移住した清教徒が、ニューヨークやニューイングランドを築いたように。19世紀末にロサンゼルスに移住した日本人がリトル・トーキョーを築いたように。

 三条――。
 この名前が何よりの状況証拠なのではないだろうか。


 と、張り切って推理したところで、くだんの村はとうに消え失せているのであった。


● 本:『猿まわし 被差別の民俗学』(筒井功著、河出書房新社)

猿回しの民俗学 2013年刊。

 この本は面白い。
 筒井功はほかに『漂泊の民サンカを追って』を読んだが、これも面白かった。
 この作家は、民俗学の面白さを十分に感じさせてくれる。
 それは何かというと、文献や古老への聞き取り、地名や人名、その土地の神社(信仰)や祭事、昔から伝わっている風習やしきたりや伝説などを手がかりとして、ある文化や事物の由来・来歴・いわれ・成り立ち・変容などを探る面白さである。
 綿密な調査と取材、自然な論理展開と鋭い分析力、そして深い人間理解を伴った過去を再構成する想像力。それらが揃った民俗学には、優れた推理小説を読むのと同質の面白さがある。恰好の例として、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)を挙げたい。
 筒井の本もまた推理小説のように謎解きの興味に読者を引き込む。
 しかも、共同通信社の記者をやっていただけあってその文章はわかりやすい。
 
 題材は猿回しである。
 60年代首都圏生まれの自分は、テレビや観光地などでたまに見かける猿を使った芸というイメージしかなかったのであるが、昔は縁起物として正月に家々を回り、家人に芸を見せてご祝儀を得ていた。いわゆる門付け芸である。門付け芸をする猿まわしは、60年代初頭に日本から姿を消したとあるから、自分が知らないのも無理はない。
 その歴史は古く、中国古代の文献『荘子』や『列子』に猿回しをする芸人として「狙公」という言葉が見られるそうである。日本の文献では13世紀成立の『吾妻鏡』『古今著聞集』までさかのぼれるとのこと。
 だが、本来、猿回しの主たる仕事は芸を見せることではなかった。

 これまでに紹介してきた文献類からもうかがえるように、猿まわしという職業者の仕事は、もともとは牛馬の祈祷とくに厩祓いを主としたものであった。


 どうして、猿に馬を守る力がそなわっていると考えるようになったのか、これに納得できる説明を与えることは、実は今日でも非常にむつかしい。ただ、そのような習俗は古くから中国にも東南アジアにもあって、どうやらインドが発祥地らしいということは、ほぼ間違いがない。


 それはともかく、猿は馬の守りになる、馬の病気をふせぎ治すという思想が存在したことは、はっきりしている。のちには大型家畜の牛にも、この考え方は適用されるようになる。その結果、猿を扱う者すなわち猿飼が牛馬の祈祷を職掌とすることになったと考えられる。


 すなわち、猿まわしとは牛馬の祈祷に特化したシャーマンだといえる。これが本質であって、猿に芸をさせて喜捨を乞う芸人の姿は、時代が下ってからの転進である。

 
 この本の表紙に使われている写真(上掲)は、新潟県上越市西本町の府中八幡宮にあった「神馬」と猿の木像であるが、まさに猿と馬との切っても切れない親密な関係を表している。
 大陸から入った「厩で猿を飼う」という習俗がまずあった。著者は日本では10世紀頃から広く見られるようになったと推定している。その後、猿を連れた猿まわしが大名屋敷を訪れてお厩祓いに勤め、祓いが終わってから余興としてお偉方に猿舞を見せるようになる(江戸時代全盛)。維新後になると、正月を中心に各地に出稼ぎして、家々を回って門付け芸をしたり、路上で大道芸をするようになった。
 現代の猿まわしの姿は、この変貌の最終局面(=大道芸)だったのである。
 
 ところで、現在日本でもっとも名前の知られている猿まわしと言えば、村崎太郎であろう。80年代末に「反省する猿(次郎)」のCMで一躍有名になった。以後、文化庁芸術祭大賞を受賞したり、ニューヨーク・リンカーン・センターで公演したり、千葉県市原市に「次郎おさるランド」を開設したり、「徹子の部屋」に出演したり、その半生がドラマ化されてプロデューサーであった栗原美和子と結婚(2007年)したりと、華やかなスター街道を愛猿・次郎と共に歩いてきた。
 自分は栗原美和子の書いた『太郎が恋をする頃までには…』(幻冬舎2008年刊)を読み、はじめて村崎太郎が被差別部落の出身であること、それに、猿まわしという職業が皮革産業や食肉産業のように伝統的に部落特有の仕事とされてきたことを知った。もっとも、山城新吾の『現代・河原乞食考 ―― 役者の世界って何やねん?』(解放出版社)を出すまでもなく、日本の伝統芸のルーツは「河原者」という知識はあった。猿まわしがこれほど古い歴史を持つ伝統芸であるとは知らなかったのである。
 ちなみに、『太郎が恋をする頃までには・・・』は近頃珍しいほど真摯でピュアな恋愛小説である。平成の『破戒』と評されたらしいが、自分はむしろ『ロミオとジュリエット』を、あるいはニコール・キッドマン主演の『白いカラス』(ロバート・ベントン監督、2003年)を連想した。まったくのところ涙なしには読めない。こういう小説こそドラマ化して、近頃のつまらないテレビに活を入れるべきである。
 村崎太郎は妻の本と前後してテレビで出自をカミングアウトした。現在は、本業に加え、部落問題に関する講演や啓発活動なども行っている。


 さて、筒井は猿まわしという職業が「なぜ差別されたか」を最後に検証している。


 遅くとも中世に始まり、そして今日なお日本人を呪縛しつづけている社会的差別の根源は、いったい何に由来するのか。これは被差別部落や中、近世史の研究者のみならず、およそ自らが暮らす社会に多少なりとも関心をもつ者なら、だれしもが意識のどこかに抱いている疑問のように思われる。
 この問いに答えるのは簡単ではない。現在、最も有力とされているのは穢れと清めの両語をキーワードとする説であろう。わたしは、それに対してずっと、しっくりしないものを感じていた。それでは、どうしても説明しきれない事実があるとの思いが消えなかったからである。
 その例として猿まわし差別や、渡し守差別を挙げることができる。


 と、書いているので分かるように、本書での筒井の一番の目的は「猿まわしが差別されるようになった理由」の追求にある。
 筒井の出した結論(=仮説)は興味深い。

 その差別は詰まるところ、呪的能力者の零落であるというのが私見である。ほかの差別にはほとんど言及していないが、ほぼ同様の視点で理解しうると、わたしは考えている。


 猿まわしはもともと共同体のシャーマン(古い日本語で「イチ」という)として、恐れられ祀り上げられていた。
 それが時代を経て、人知が進み、人々の間で神の地位が軽くなっていくとともに零落していった。

 神の零落は、もっとはっきりした形でイチの身に及ぶことになる。畏敬は、それが消えたとき軽侮に転化しやすい。卑近な例を挙げれば、落選した政治家、成績が落ちたスポーツ選手、人気がなくなったタレント・・・・などのたどる道に通じている。
 畏敬と軽侮が入りまじった感情の重心が後者へ移っていくにしたがい、それはやがて差別へつながることになる。


 この部分が著者の鋭い人間観察と深い人間理解の表れだと思う。
 人は、それまで尊敬し恭順の意を表していた人間が何か失望させるような行為を働いたのを知ったとき、必要以上に容赦なくその人間をバッシングするものである。失望して、単に「普通の人」レベルに相手の地位を修正すればいいと思うのだが、以前に自分が捧げていた恭順の意の裏返しとして持たされていた劣等意識や嫉妬が、反転し、一挙にむき出しになり、相手に向かうのである。


 被差別民を指す代表的な呼称の一つに「エタ」という言葉がある。「穢多」と書くので、「穢れにふれることが多い人びと」という意味で生まれた言葉と勘違いされやすいが、実はそうではない。「エタ」という音が先にあって、あとから「穢多」という漢字をあてたのである。
 では、語源は何か。
 筒井はこう推理する。


 エタの本質は呪的能力者にあったと思われる。そうだとすると、エタの語源はイチだということになる。猿や、鹿児島県で蛇の意があるエテも同様であろう。


 イチが転じてエタになった。
 この見解、当たっているのか、外しているのか。
 いずれにせよ、当の猿たちにしてみれば「どうでもいいこと」である。
 きっと、くだらない差別に「回されている」人間たちを見て、手を打って笑っていることだろう。



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