ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

藤本晃

● 仏教界の半沢直樹 本:『浄土真宗は仏教なのか?』(藤本晃著)

2013年サンガ刊行。
浄土真宗は仏教か

  この本は、聖徳太子爾来1400年以上の脈々たる伝統を持つ日本仏教界に投げ込まれた手榴弾、いや時限爆弾である。これほど革新的な書はそうそうになかろう。その影響は、単に出版直後に「日本仏教界に物議をかもした」とか「ネットで炎上」といったレベルではなく、この書がいずれ新書化され、文庫化され、電子書籍化され、英訳され、時を重ね版を重ねていくに連れて、患部に貼ったサロンパスのようにじわじわと効き目を顕わし、日本大乗仏教の滔々たる流れを変えた最初の杙の一本として、著者の類いまれなる勇気と仏教への揺ぎ無い信心に対する賛嘆の念とともに、その真価を唱えられ称えられることであろう。
 著者が懇意にし共著も出している日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老もまた『般若心経は間違い?』(2007年宝島社刊行)という極めて過激で挑発的な本を出している。こちらは手榴弾というより殴りこみに近い。控えめに言っても果たし状だ。それも日本仏教界のみならず、仏教を愛するすべての日本人への。般若心経は日本人が最も好きなお経であるから。
 だが、いかほど出家生活の長い偉そうなお坊さんであろうとも、結局のところ「外人」で「小乗仏教徒」に過ぎない。おそらく、多くの読者は「そのとおり。般若心経はおかしい。もう読経するのも写経するのも止めよう」とは思わずに、「やっぱり、小乗の人には大乗が理解できないのだろう。やっぱり、外人には般若心経を愛する日本人の心が理解できないのだろう」と思ったのではないか。あるいは、般若心経の内容の真偽を云々できるほどの智慧のある人など――つまりそれは「悟った」人ってことになろう――滅多にいないだろうから、そもそも反論のしようもないのかもしれない。
 それに比して、著者の藤本晃は、日本人であり、山口県にある誓教寺という浄土真宗のお寺の16代住職である。つまり、生粋の(?)大乗仏教徒である。その男が、「浄土真宗は仏教なのか?」と内部批判めいた問いを発し、ひいては「日本にそもそも仏教はあるのか?」と神をも恐れぬ、いや仏をも恐れぬ大胆不敵なことを言い放つのである。
 この反乱は当然無視できるレベルではなかった。

 誓教寺は浄土真宗西本願寺派に属する末寺であった。よくは知らぬが、日本のお寺の組織は典型的な上意下達のピラミッドで、本山(浄土真宗の場合、京都の西本願寺)→教区→組(そ)→一般寺院というヒエラルキーの中、上からの命令には逆らえない、人事に口出しできない、勝手をやって上の逆鱗に触れようものなら破門のうえ僧籍剥奪、家族ぐるみで寺から追放の憂き目もあるらしい。というか、藤本晃はまさにテーラワーダ仏教との親交(スマナサーラ長老を自寺に呼んで説法や瞑想会を開催していた)が原因で、組と教区の不興を買い、「小乗との縁を絶って浄土真宗の法義の興隆につとめるか、さもなくば宗門を改めて家族ともども寺から出て行くか」の二者択一の最後通牒を突きつけられたのである。
 結果、この書が刊行される2年前の2011年、藤本晃は西本願寺派を脱退し、誓教寺は浄土真宗の単立の宗教法人になった。つまり、独立したってことだ。このあたりは、あとがきにくわしい。(あとがきが面白すぎる!)

 こうした経緯があるゆえに、本書で藤本は自らの思うところを臆することも遠慮することもなしに、歯に衣着せずに語っている。もはや宗門の幹部たちの顔色を気にする必要も、他の大乗仏教系の宗派との軋轢も気にかける必要もない。大切なのは、仏教の真髄(=法)を守り生きること、そして寺始まって以来の苦境を一緒に乗り越えてくれた地元の檀家さんたちの期待に応えることである。
 というわけで、大乗仏教の僧侶にして緻密な仏教研究者である男が、巨大組織を向こうに回して一人闘い信念を貫いた清新な息吹そのままに、満を持して世に問うたのが本書なのである。

 どこがどう革新的なのか。
 藤本はこう言い切る。

 本当は、日本仏教はどうなってるの?どころではないのです。日本には、はじめから仏教がなかったのです。仏教と名の付くものは以前からありました。しかしそれは、お釈迦様の仏教とは別ものだったのです。より正確に言えば、日本仏教には、僧(サンガ)と持戒の念がはじめからなかったのです。何らかの形の仏と法とは言えるかもしれませんが、それを支えるサンガ、そしてサンガの構成員たる所以である戒がなかったのです。平たく言えば、「仏教徒」がいなかったのです。(ゴチック:ソルティ付す) 

 なんつう大胆な発言。お釈迦様も真っ青だ。
 もう一度言うが、これは浄土真宗の一住職の発言である。自らのアイデンティティの基盤をよくもまあこうはっきりと断罪したものよ!
 それだけでない。この言説は、仏教によって培われたところ多の日本文化の意味を再考せざるをえない、日本人の宗教観を別の角度から読み直さなければならない、パラダイムを刷新する一撃である。
 仏教の三宝とは、仏(お釈迦様)・法(真理)・僧(出家者の集まり)である。日本にだってサンガ(僧の集まり)はあったじゃないか、あるじゃないか。西本願寺にだって、高野山にだって、永平寺にだって、起居を共にし修行しているお坊様はたくさんいるではないか。
 その通り。
 だが、サンガとは元来、「俗世間を捨て、悟り(=解脱)を目指して戒を守りながら修行している出家者たちの集団」である。日本の僧侶に、この戒を守ることが根付かなかった。般若湯(=酒)しかり、男色しかり、妻帯しかり、財産の所有しかり・・・。いったい日本で乞食(こつじき)しているお坊様を見たことがあるだろうか?
 なぜ戒を守ることの重要性が浸透しなかったか。
 それはそもそもの戒を守る最大の理由にして目的である「悟り(=解脱)」というものの実体が、我が日本仏教には伝わらなかったからである。

 仏教の証拠といえば、悟りです。世界の果てのどの文化の宗派であっても、「仏教」を名乗るなら、お釈迦様が人類ではじめて発見した悟りがあるはずなのです。悟りを表す言葉がどのように変わっていても、その説明を聞いたら、「ああ、悟りをなんとかして説明しているのだ」と分かるはずなのです。

 お釈迦様の仏教では身近であった悟りが、日本仏教を含む大乗仏教にはほとんど引き継がれませんでした。お釈迦様が説かれた悟りは、凡夫かブッダに等しい覚者かという二者択一の雲の上のようなものではありません。煩悩とそれがもたらす苦を厭い発心した凡夫が、学び修行し、やがて完全な覚者となるまでの悟りに、まだ凡夫とほとんど差のない預流果から一来果、不還果、そして完全な悟り・阿羅漢果実までの四段階(四沙門果)があると明らかにされました。しかし、その内容はおろか四沙門果という言葉さえも、大乗経典にはほとんど見られないのです。

 むろん、お釈迦様は「悟る」ための修行方法もその階梯も詳しく説いている。(ヴィッパサナー瞑想や戒を守ることもその一つである。)
 だが、仏教の最大の価値であり精髄であり目玉である‘悟るための方法論’が日本には入らなかった。あるいは入っても根付かなかったのである。たとえてみれば、多種多様の車は輸入されたが車の製造方法は伝わらなかった、なのに車を作ろうと努力し続ける途上国のエンジニア――みたいなものか。むろん、禅宗は悟りを重視している。が、やはり方法論が弱い。「只管打座」や「隻手の音声(公案)」だけでは何とも心もとない。
 この悟りの方法論が根付かなかった理由こそ、もしかしたら、日本人の国民性を解き明かす一つの鍵なのかもしれない。聖徳太子や時の為政者が「わざと」それを握りつぶしたのか、それとも民衆がそれを望まなかったのか。(→「死生観を問い直す」参照)

 設計図や工法を記したマニュアルがなくとも、出来上がった車を分解・研究・再構成することで新しく車を作ることのできる天才がいるように、ブッダ直伝の‘悟りマニュアル’がなくとも、たまたま偶然に悟ってしまった修行者や市井の人はいただろう。日本仏教史に名を残す宗祖たち――空海、法然、親鸞、一休、日蓮、栄西、道元など――は、そんな天才だったのかもしれない。彼らは「偶然悟った」がゆえに、万人に共通して適用できる悟りの方法論を残すことができなかったのだろう。

 藤本のいまひとつ革新的なところは、上記の見解から自ずから導かれるように思われる「大乗仏教は本当の仏教ではない。その一つである浄土真宗も然り。ゆえに、日本人は大乗仏教を捨てて、いますぐテーラワーダ仏教に就くべし」という安直な結論を賢明にも回避して、伝統的な大乗仏教の根本教義のうちに――すなわち後世になって装飾・歪曲・捏造された宗門の教えではなく、浄土真宗なら宗祖・親鸞聖人(と親鸞が最も影響を受けた過去七人の高僧)の言葉のうちに――元来の仏教(小乗仏教=原始仏教)まで遡ってつながっていける教えがあるはずとして、それを緻密なテキスト講読による教学研究をもとに検証していることである。仏教研究者としての藤本の面目躍如たる部分である。
 浄土真宗(親鸞)と言えば、すぐに思いつくのは「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」「極楽浄土」「絶対他力」「往生即成仏」「悪人正機」などのキーワードである。
 藤本は、これらの概念をテキストを頼りに一つ一つ検証しつつ、初期仏教との違いや共通点、類似点を指摘していく。初期仏教の‘悟りマニュアル’と照らし合わせながら、ほかならぬ「親鸞聖人は(預流果に)悟っていたか」なんてことまで探究する。破門されていなければなかなかできないことであろう。
 
 現代の真宗僧侶は、自分が納得した正しい教えを、自信を持って伝えているでしょうか。そもそも、自分自身が納得して心が変わっているでしょうか。親鸞聖人の求道と伝道には、生死を乗り越える真剣さがありました。何らかの真実に達した自信と安心がありました。
 浄土真宗にも、その母体となった浄土教にも、仏教の真実の断片が伝わっています。正しく受け取り、正しく伝えれば、悟りとそこに至る道筋も見えてくるのです。
 
 私たち一人一人が、狭い見方を振り捨てて、お釈迦様の正しい道に入るかどうかだけが、安心を得られるかどうかの違いなのです。自分が本当に安心して生きて死ねるのかと、自分と正直に向き合う道ですから、ごまかしはききません。他人の目はごまかせても、自分だけはごまかせないのです。自分の安心は、自分で得るしかないのです。親鸞聖人や、現代に続くたくさんの妙好人たちが示してくれたように、正直に自分の心を見据えて、仏陀の悟りと教えを目標に、自分が一歩ずつ歩むものです。それが仏道です。その道は、浄土真宗にもしっかり根付いています。

 西本願寺も早まったことをした。
 自分が教団幹部だったら、藤本を起点にして浄土真宗とテーラワーダ仏教の習合を段階的にはかる道を探ったであろう。仏仏習合――それは‘神仏習合’を超える歴史的事件となったであろう。
 それこそがこれからの日本で伝統的な大乗仏教教団が生き残るほとんど唯一の道だと思うのだが・・・。


 


● 認識と存在のあいだ、または2300円の真理 本:『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ/藤本晃共著)

ブッダの実践心理学 最近、自分の読書傾向が限定されている。
 一つは仕事に関するもので、介護や老いや死をテーマにしたもの。面白くはあるが、いわば必要にかられて読んでいる本たち。
 もう一つは仏教に関するものである。

 もともと自分の読書範囲は広くない。社会問題系の新書、ミステリー、スピリチュアル本、ごくたまに小説くらい。それらが今やすっかりお見限りである。例外は、故ナンシー関のエッセイと漫画くらいか。
 特に、あれほど手当たり次第に渉猟したスピリチュアル本に関心がなくなった。江原啓之、山川紘矢・亜希子夫妻、シャーリー・マクレーン、『聖なる予言』、『神との対話』、プレアデス、ラザリス、ラムサ、シルバーバーチ、ロバート・モンロー、ラマナ・マハリシ、サイババ、グルジェフ、エックハルト・トール、和尚(ラジニーシ)、様々な冥想の本・・・・。クリシュナムルティでさえ、もはや進んで手に取ろうとは思わない。それらの本が並ぶ書店のコーナーに行っても、立ち読み以上のことはしない。

 スピリチュアルショッピングに終息をつけたのは、テーラワーダ仏教およびヴィパッサナー瞑想との出会いである。
 仏教の本質に触れて、「これ以上の思想はない」と思った。
 否、思想という言葉は正しくない。
 哲学? それも違う。
 やっぱり、“真理”という言葉がふさわしい。
「これ以上の真理はきっとないな」と思ったので、他をあたる必要を感じなくなったのである。仏教は「信仰でなくて確信」とスマナサーラ長老が言うとおりである。


 この確信の中味は何かというと、自分の場合、瞑想によって「認識」と「存在」との関係を悟ったことにある。「自分」と「世界」と言い換えてもよい。
 それまで自分はこう思っていた。
「周囲にまず確固たる‘世界(存在)’があって、それを‘自分’が認識している。すなわち、自分(人間)は世界のオブザーバー(観察者)である。」
 しかし、瞑想で気づいた事実はそうではなかった。

「‘認識’が、‘有’から‘世界(存在)’を切り出している。」
「目の前にある‘世界’は、‘自分(人間)’にとってのみ、このような色彩と形状と運動とをもって現れている。」


 この事実に気づいたときに、十代の頃からずっと抱えていた疑問が氷解した。
 それは次のような疑問だった。

「誰もいない夜のジャングルはどんな姿をしているのだろう?」

 たいてい次のような答えが返ってこよう。
「そんなのカメラを設置して撮影しておけば分かるじゃん」
 しかし、それは(自分にとって)正解ではなかった。
 なぜなら、カメラで撮影された映像をあとから見る瞬間、それは人間の目によって見られている(変換されている)からである。あくまでも、人間によって見られたジャングルの姿でしかない。自分が知りたいのは「人間が見ていないときのジャングルはどんな姿なのだろう?」というものであった。
 当然ながら、正解は「決して、人はその姿を知ることができない」である。
 この疑問(ジャングル・クエスチョン)が浮かび上がるたび、常にこの結論に達していながらも、その問いの奥に隠れている驚くべき事実に自分は思い至らなかった。頭の配線がつながっていなかった。

 もう一つの問い(ジュラシック・クエスチョン)。

「人類が登場する前の地上の風景を描きなさい」

 紙と鉛筆を渡された大方の人は次のような絵を描くだろう。
 ソテツのような樹木の間をティラノサウルス以下数匹の恐竜が闊歩している。草陰には哺乳類が身を潜めている。空にはプテラノドンが飛び交い、背景では火山が火を噴いている。
 子供の頃に見た科学系の絵本や『ジュラシック・パーク』をはじめとする恐竜映画の映像記憶がこうした景色を作り上げる。

ジュラ紀の世界


 そこで、次の問い。

「この風景を見ているのは誰ですか?」

答1 「原始人です」
 ・・・・「ブー。人類が登場する前、と言いましたね」

答2 「草陰のハリモグラ(哺乳類)です」
 ・・・・「なるほど。だけど、ハリモグラはこのように世界を見ているでしょうか?」

 ハリモグラの視覚も聴覚も決して人間のそれと同じではない。人間が見るようには、世界を見ていない。(たとえば、犬は色彩を峻別できないと言われる)
 恐竜が見る風景、鳥類が見る風景、ハリモグラが見る風景・・・みんな違うのである。あとから出現した人類が見る風景が唯一「正解(真実)」であるというのは人間中心主義という誤りである。
 と言うより、上に掲げた絵(ネットから適当に拾ったものだが)のような光景なぞ、この地上にかつて存在した試しなど決してないのである。なぜなら、そのように認識できる生命(=人間)がそこにはいなかったからである。 
 逆に、人類が絶滅したあとの世界を想像するのも同様のことが言える。そこには、人間より精緻な認識システムを持った生命体が出現しているかもしれない。彼らが見る「世界」は、人間の想像する「世界」とはまったく様相が異なるであろう。


正解 「我々人類は決してその風景を知ることができない」

 あるいは、こうも言える。   
「誰が見ているか(主体)をあらかじめ設定することによってのみ、はじめて風景(客体)を描くことが可能となる」 (「可能となる」であって「できる」ではない。人間が他の生命がどう世界を認識しているかを知ることはできないから) 

 そのあたりの事情を、本書ではこう述べている。 

それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。
 知る能力は、すべての生命に同じではありません。チャンネルが五つも付いていない生命もいます。例えばミミズは目も耳もありません。一方、ワシの目の力、犬の鼻の力、コウモリの耳の力などは、人間よりはるかに鋭いのです。
 生命は知った情報を「意」というチャンネルで認識・概念にするのです。認識・概念は生命すべてに共通するものではなく、それぞれの生命に個別な主観なのです。(標題書より引用)


 人間の認識している「世界」が唯一絶対的なものとして客観的に存在しているのでは、ない。
 おそらく、唯一絶対的な世界は存在しない。それぞれの生命(人間、動物、魚類、鳥類、昆虫、植物、菌類、微生物、宇宙人、幽霊e.t.c.)に一対一対応で固有の「世界」が現れている。(厳密に言えば、同じ種の中でも個体間で異なった「世界」に生きている)
 自分の推測ではこうだ。
 何か「世界(存在)」を生み出すもとになる要素は「有る」のだろう。それは、電磁波のようなものかもしれない。暗黒物質なのかもしれない。ありとあらゆるところに満ちているその「有」から、あたかも複数の彫刻家が同じ石膏からそれぞれの裸婦像を彫り出すように、それぞれの「生命=認識」が「世界=存在」を切り出している。
 「世界」は生命の数だけある相対的なものである。どれか一つが「真実の」世界というのではない。
 端的に言えば、「認識」=「存在」なのだ。

 このことを悟ると自動的に次の結論に達する。


 科学がやっていることはすべて、つまるところ人間の認識能力を量的に拡大しているにすぎない。望遠鏡の機能が高まれば、より遠くの星雲が発見できる。顕微鏡の精度が高まれば、より小さい粒子を発見できる。だが、それは結局人間の認識システムそのものを超えることは絶対にない。人間である以上、質的変換はあり得ない。どこまで行っても、「この目で見る」「この耳で聞く」「この鼻で嗅ぐ」「この舌で味わう」「この身体で感じる」以上のことはできない。人間が「世界」を知るための窓口は基本的にそれしかないからである。

∴このやり方では真理を知ることはできない。
 
 ここまで来れば、量子物理学の第一定理とも言うべき不確定性原理はごくごく当然の話だと納得できる。

● 観測または測定されるまでは、量子は特定の性質を持たず、同時に複数の状態で存在する。これらの状態は、「実際の」ものではなく、「潜在的な」ものであり、観測や測定を受けたときに量子がとりうる状態である(これは、観測者または測定器が、可能性の海から量子を釣り上げるようなものである。一つの量子が海から釣り上げられると、それは仮想的な存在ではなくなり、現実の存在となる。)
● ある量子が一組のパラメータからなる実際の状態をとっているときでも、私たちはこれらのパラメータのすべてを同時に観測したり測定したりすることはできない。あるパラメータ(たとえば位置やエネルギー)を測定すると、他のパラメータ(速度や観測時間など)はあいまいになる。
 (『叡智の海・宇宙』(アーヴィン・ラズロ著、日本教文社)

 これは、「認識システムそのものが物質の存在のあり方に関わっている」ことの科学的証明である。
 現代科学が到達した結論を、ブッダは2000年以上も前に披瀝しているのである。西洋科学も哲学も、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空に過ぎなかったのだ。


 なぜ、西洋がそんな誤謬を犯してきたかと言うと、「私」という主体があり、それに対して「環境」という客体がある、という二元論を前提として進歩(退歩?)してきたからである。この「環境」という言葉を「世界」「神」「自然」「宇宙」「物質」と変えてもよい。
 「私」がある、がそもそもの元凶だ。 

人間はどのように考えているのでしょうか。人間はだいたい「私がいる」という前提で考えています。しかし、「私がいる」という概念を証明しようとしない。前提ですから、証明する必要もないと思うでしょう。しかし、この前提がもし間違っているならば、人類が築き上げてきたすべての哲学・宗教などは的はずれになってしまうでしょう。根拠のないものになってしまうでしょう。
「ブッダが革命を起こした」と言う由縁がここにあります。ブッダは「私がいる」という前提に、挑戦したのです。なぜ自我意識が生まれるのか、そのからくりは何なのか、本当に実体として変わらない自我というものはあるのかを観察してみたのです。そこで発見した事実が仏教なのです。(標題書より引用)


 第二巻心の分析では、「心とは何か」を定義し、解脱に向かって心の成長していく段階を瞑想との絡みでつぶさに説明している。
 2300円は文庫としては破格の高値であろう。
 しかし、真理の値段と考えれば、破格の投げ売りである。


 
 サードゥ サードゥ サードゥ




● 本:『ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著、サンガ文庫)

アビダンマ 001 孫悟空(『西遊記』)に出てくる三蔵法師と言えば夏目雅子を思い出す。
 三蔵法師とは名前ではない。モデルとなったのは玄奘(げんじょう)という名の中国(唐時代)の実在の坊さんである。三蔵法師とは「仏教の三蔵に精通した僧侶」を意味する尊称である。

 三蔵とは何か。
 三蔵は仏教の聖典である三つを言う。


経蔵 (sutra) ・・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」。
律蔵 (vinaya) ・・・・ 出家集団(サンガ)の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」。
論蔵 (abhidharma)・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの 。いわば「仏教哲学」。

 上の二つはわかりやすい。読みやすい。
 多くの「経」は、ブッダが庶民に向かって相手のレベルに合わせてやさしく説いたものだから当然である。ブッダはまた、こむずかしい抽象的な議論を好まなかった。「戒」は集団の日常生活を規定するものだから、わかりにくかったら困る。
 「論蔵」はなんだか難しいのである。
 それもそのはず。論蔵はブッダが説いたものではなく、その死後に頭のいい僧侶達によって記述され、まとめられていったものだからである。
 論蔵とはアビダルマ。アビとは「最勝の」と言う意味の接頭辞、ダルマは「ブッダの教え」であるから「ブッダの最勝の教え」という意味である。

お釈迦様は、悟りを開いてから亡くなるまでの四十五年間、いろいろなところでいろいろな相手にいろいろなふうに話しましたが、四十五年間さまざまに説き続けた教えを全部まとめて、その内容は結局どんなものであったか、と学問的にエッセンスだけを取り出してみると、簡単に、明確になります。そのエッセンスを、お釈迦様の教えの基本的論理という意味で、アビダンマと言うのです。


 この本(シリーズ)は、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、会員たちを前にアビダルマの講義をしたものをまとめたものである。
 本があるのは知っていたが、なかなか手をつけようとは思わなかった。ざっとページをめくるだけでも仏教用語がたくさん並んで難しそうであったし、ハードカバーの一冊一冊が厚くて、それが7巻まである。値段も高い。
 何より、知識よりも智慧の方が大切である。座学よりも坐禅である。そうでなくとも「頭でっかち」になりやすい自分なので、興味はあったけれど近づかないようにしていた。

 スマナ長老の教えを受けてヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想をはじめて丸4年。
 毎日熱心にやっていた時期もあれば、だらけていた時期もある。五戒をちゃんと守っていた期間もあれば、自分を甘やかした期間もある。(今は甘やかしている期間だ。特に仕事後、山登り後の酒が止められない)。転職したり体調が変化したりストレスがあったりで、同じレベルの熱心さで瞑想を続けるのは難しい。
 とは言え、4年間続いたのはそれなりに成果を感じているからである。
 体調が良くなった(特に腰痛と痔)。以前より気持ちが安定し、ささいなことで悩まなくなった。怒らなくなった。よく眠れる。頭も冴える。他人の悪口を言ったり聞いたりするのが自然とイヤになり、「ありがとう」という言葉が自然と口をついて出るようになった。人間関係も家族関係もまず良好である。コンビニの店員など見知らぬ人から親切にされることが多くなった(気がする)。年を取ったせいもあろうが、「我ながら落ち着いたなあ~」と思う。若い頃は、晴れた休日など外に(街に)出かけないでいると罪悪感を覚えるほどの落ち着かなさ(ムラムラ感)に衝かれていたが、今はなるべく賑やかなところは遠慮したい。
 一等の成果は智慧につながったことである。
 これは瞑想をはじめて一年経った頃から感じられるようになった。
「ぬあ~んだ。結局この世にはナーマ(認識、心)とルーパ(対象、物)しかないんだ」とか「認識があるから対象が存在し得るんだ」とか、いろいろ見えてきた。
 こういう智慧は本で読むだけでは、頭で理解するだけではダメなのである。身をもって知るには瞑想するしかない。身をもって知ってこそ心は変容するのである。

 智慧が出てくると、今度はその智慧がどのように仏教では説明されているか、どのような言葉でブッダや過去の阿羅漢たちが語っているのかが知りたくなる。或いは、自分はこう悟ったけれど、それが正しいのかどうか確認したくなる。

 どこかに書かれていないのか?
 
 そう思っていたところ文庫版が出た。
 で、やっとアビダンマに手をつけてみようと思ったのである。

 まあ、書いてある、書いてある。
 瞑想をしていて自分が発見したことが、当たり前のように其処かしこに散りばめられている。以前は難しいと思っていた記述が水が砂に染みこむようにすらすらと入って来る。以前ならきっと特に引っかかることなく読み流していたであろう部分で、奥深い意味に気づいてハッと息が詰まる。「そうだったのか~」と唸ることしきり。


 アビダルマってこんなに面白かったのか!
 
 むろん、秘密はスマナ長老の説法にある。長老自身が序文の中で、共著者の藤本晃に感謝してこう言っている。

 「アビダルマ説法」はそれほど難しくはありません。強いて言えば喉が渇くくらいです。人が気楽にやりたい放題、話を脱線させながらおこなった講義を、整理整頓されたまともな本にすることは気が遠くなるほど難しい作業だと思います。

 「やりたい放題、話を脱線させながら」の部分が滅法(笑)面白いのである。スマナ長老の他の本や普段の講演でも時にドキッとするほどストレートな発言に触れる瞬間がある。そのたびに「そこまで言い切ってしまうのか」「初期仏教ってこんなにも過激なのか」と驚く。それ以外の部分は、直截的表現を厭う日本人に合わせてか、在家信者や一般読者を対象としているせいか、オブラートに包んだように曖昧で穏やかな物言いになっている。
 この本でのスマナ長老は、おそらく少人数の気のおけない会員を相手にした講義であったせいだと思うが、自由闊達、融通無碍に仏法を語っている。そこが一番の魅力である。
 とりわけ、本題に入る前の長い長い序章「アビダンマ早分かり」は、仏教の真髄が凝縮された驚くべき部分であると思う。まったく1ページ、1行たりとも疎かには読めない。ポイントにマーカーを引こうと思ったら、全ページ真っ黄黄になってしまいかねない。


以下、引用。


● アビダンマの目的

 ものごとの真理をとことん納得したら、自分がやりたい快楽を追いかける道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。欲望、快楽、知識、名誉、財産、ありとあらゆるこの世のものを目指していく道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。嫌になるのです。本能的に嫌になりますから、それからは自分の意思で、正しい道を歩んでみよう、励んでみようという気持ちが生まれます。
 アビダンマの目的は、修行する気持ちを起こさせること、そして、修行の過程において自分の心をどう理解してどう進むのかと、その道筋を示すことです。 


● 我々が生きている世界は3つだけ

 認識機能(心)があって、認識機能と同時に生まれるありとあらゆる感情(心所)があって、それから、認識機能がそこで機能する物質的な世界(色)があります。

 我々が生きているすべての世界はその三つだけです。世界にはそれ以外何もないのです。


●初期仏教は煎じ詰めれば「認識論」

 人間の問題は認識することから生まれるのですから、認識の範囲の中だけで、心と物質のはたらきを徹底的に分析するのが、初期仏教の立場です。
 
 我々が分かっているのは、眼、耳、鼻、舌、身に触れる色、声、香、味、触という五つのエネルギーだけです。我々が知っている「客観的な世界・宇宙」はその五つだけなのです。その五種類以外の物があるかないかさえ、私たちは知りません。

 生命のはたらきといえば、認識することだけなのです。他のことには何の関係もありません。


●悟り(涅槃)とは

 認識の仕組みが、苦しみ、無常であると分かったら、心が何か変わるはずです。その変わる瞬間に、現象でない状態、現象の超越という状態を、その瞬間だけ体験する。この瞬間が涅槃です。


●我々は変化するものしか認識できない(=諸行無常) 

我々が認識するものは、変化だけです。もし何も変化しないなら、何も認識しなくなります。同じ状態が繰り返し続くだけでも、認識できなくなります。例えば同じ音をずーっと聞いていると聞こえなくなります。同じ味をずーっと味わっていると、その味さえ分からなくなります。変化しないと認識できないのです。


●性格について 

性格を構成しているものは、ほとんどカルマです。・・・ですから人に「あなたの性格を変えてください」と言っても、そんなことはできることではありません。

●「無」について 
仏教で言う無は、物質が物質でいられなくなって、宇宙が消えて、エネルギーがいっぱい溜まっている状態ですから、何もないという意味の無ではない。


●人として生を受けたこと 

悪業や罪を犯せば、人間には生まれることはできません。人間に生まれたということは、前世で間違いなく善いカルマを作ったということなのです。


●自由意思について

人間には、善いことをすることも悪いことをすることも可能です。それは自由だからではなく、悪いことをしようとする原因を抑えると、善いことができるようになり、善いことをしようとする心を育てずにいると、悪いことをするようになるのです。因果法則でそれぞれ違った結果になります。


 繰り返し熟読玩味したい本である。
 文庫版第二巻の発売を修行しながら待つことにしよう。


 それにしても、玄奘が命を賭してガンダーラに求めた三蔵を、日本にいながらこんなに手軽に学習できるとは、我々は何と良いカルマを持っていることか!



● 輪廻転生と無我 本:『「老い」と「死」を語る』(中村元著、駒澤大学出版会)

中村元「老いと死を語る」 長い間、日本で仏教の大家と言ったら、瀬戸内寂聴でも五木寛之でもひろさちやでも、ましてや大川隆法でもなく、中村元(はじめ)であった。
 その地位に氏を登らせたのは『ブッダのことば』『真理のことば・感興のことば』『仏弟子の告白』など岩波文庫の仏典邦訳シリーズであろう。氏の他の業績は知らないが、岩波文庫で仏典を邦訳する(できる)というのは、他の追随を許さぬその道のエキスパートであり、自他共に認める仏教理解の泰斗であることを意味している。
 正確に言えば、中村氏は僧侶ではなかった(たぶん)から「仏教研究の大家」と言うべきなのかも知れないが、仏の教えを実際に生きる人(=悟りをひらいた出家者)の姿は大衆の目にはあまり触れないから(たとえば108歳まで婬戒を守り修行一筋に生きた永平寺の宮崎奕保禅師)、世間的には「仏教に詳しい人=仏教の大家」という理解になるのも無理はない。もっとも中村元氏は仏教を研究していただけではなく、仏教徒として智慧と慈愛に満ちた半生を送った人であるらしい。(1999年逝去)

 そんな中村氏が「老いと死」を語るというのだから読まないわけにはいかない。書店で見つけ即買った。

 期待して読み始めたのだが、内容は「ブッダは老いについてこういうことを言っている」「死についてこの経典ではこう書かれている」といった仏説の紹介に終始していて肩すかしであった。仏教を生涯研究し続け、85歳(当時)という「老い」の真っ直中にいて「死」を目前にしている中村氏の、個人的な感慨なり覚悟なり達した境地なり老死を前にまざまざと知った仏説の真意(深意)なりが吐露されているかと思っていたのである。
 どこかの講演録をテキスト化したものなので、講演時間やテーマや対象者のレベルの関係もあって仏説紹介レベルにとどまったのかもしれない。あるいは、仏説そのものが個人の見解と一致するほどに、もはや「我」を表現することなど思いも寄らないほどに、仏教徒としての中村氏の心のありようが澄んでいたのかもしれない。

 そんななかで、一箇所引っかかる部分があった。
 それは輪廻転生をめぐる説明である。
 中村氏、こう言っている。
 

  仏教では、輪廻ということを説きます。そうしますと、結局、仏教も輪廻の主体を説くことになるのではないかと、疑問に思われる方もいるかと思います。しかし一方で、仏教は無我ということを説いています。この両説はどういう関係になっているのでしょうか。
 仏教がなぜ、輪廻ーー生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。
 ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。

  
 ブッダが輪廻転生を説いたのは、輪廻転生を信じる当時の民衆に仏教の真髄「我執にとらわれるな」ということを教えるための手段として、つまり方便であったと言っているのである。


 これは違う。

 ブッダは輪廻転生を自らの確かめた事実として語ったのである。方便なんかではない。中村氏自身が訳した『真理のことば』(ダンマパダ)にちゃんと書かれている。

 わたくしは生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た。家屋の作者をさがしもとめてー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。(岩波文庫『真理のことば』153,154の偈) 


 これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
 さらに、ブッダはこうも言っている。
 

 二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。(中部130) (藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ)


 「比丘たちよ」と語っているところに注目してほしい。
 ブッダはこの言葉を民衆に向かって言ったのではない。出家して比丘サンガに入って解脱を目指して修行している比丘たちに対して言ったのである。

 中村氏はなぜこんな勘違いをしたのだろう?


 客観的に(科学的に)証明できない輪廻転生という現象について、そしてブッダが輪廻転生を事実として認めたということについて、すんなりと受け入れたくない気持ちはわからないでもない。西洋近代思想に囚われた現代人にとって、科学的に証明できないことや自然科学の法則に反することは簡単に信じてはならないことであり、眉唾であり、「オカルト」に属することである。それを単純に信じ込んで周囲に吹聴する人間は洗脳されやすい「危ない」人間とみなされてしまう。いろいろな宗教団体が起こす突飛な事件がその見解の正当性を裏付けていく。
 ブッダ及び仏教を奉じる自分自身を、そんな「オカルト」一派に仲間入りさせたくないという気持ちが、仏教の中の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「慈悲喜捨」は良くとも「輪廻転生」はちょっと・・・・・という言説をつくっていくのかもしれない。
 他の宗教に較べると、極めて論理的で精密で実証主義を重んじ「最先端の科学的知見」との整合性すらも獲得しつつある仏教の、唯一の突っこみどころが「輪廻転生」であり「神、悪魔についての言及」なのである。それあるかぎり仏教は結局「天地創造」「処女懐胎」「復活」を唱えるキリスト教(のナンセンス)と大差ないということになってしまうのだから。

 自分も仏教を学び瞑想実践するようになって数年になるが、仏教の中でもっとも理解できない部分がこの「輪廻転生」であった。
 仏典に出てくる「神と悪魔」の存在についてはそれに較べればどうということはない。よく解釈されるようにそれらを修行者の「心の声(良心と誘惑)」とみなすこともできるし、「神」を修行を励ますサンガの仲間達、「悪魔」を修行の邪魔をする俗世間の比喩としてとらえることもできる。ブッダや比丘たちの無意識が投影された集団幻覚であってもよい。なんなら、人間とは別次元に住む存在(幽霊、妖怪、宇宙人e.t.c)としたってよい。
 つまるところ、神や悪魔の存在はブッダの教えそのものについてはほとんど関わりをもたないからである。それこそ、「教え」を効果的に大衆に伝えるための演出、修飾、誇張と位置づけることも可能である。
 一方の輪廻転生は厄介である。たんなる比喩や誇張ではすまされない。

 ポイントは二つある。

 まず、輪廻転生(生まれ変わり)という現象自体があるのかないのかという点である。
 前世のことを鮮明に記憶していている人物がいて、第三者が調査してみたらその人の証言通りの事実が過去にあったという、まさに生まれ変わりとしか思えないようなケースも調べればたくさんある。有名なところではダライ・ラマがそうである。
 「無我」(「自分」という感覚は幻想である)が現代科学によって証明されてきているように、輪廻転生もいつの日か科学的に納得できる説明がなされる日が来るのかもしれない。その日まで事の真偽を保留にしておくのが賢いのだろう。ブッダが言ったからといって無条件に信じる必要もない。
 結局のところ、輪廻転生があるかないかという問題は仏道修行そのものにはまったく影響しないからである。というのも、ブッダのような天眼(超能力)を持たない一般人にとっては「来世でいいところに生まれたいから修行する」「永遠に続く輪廻転生の苦しみから解脱したいから修行する」というのは修行の理由にはならないからである。前世を見る能力がないのに来世の幸福のために修行するというのはナンセンスである。自分で確かめていないことを、ブッダが言ったからといって頭から信じ込んでいるのはまさに「信仰」であって、それこそまことの仏教徒の態度としてはふさわしくない。
 また、輪廻転生が実在するとして、ある人が今生での修行の成果によって来世で良い境遇に生まれたとしても、来世にいる当人は前世(今生)のことを覚えていないのが普通だから、「前世で頑張って修行しておいて良かった。来世のために今生も頑張って修行しよう」とは思わないだろう。今生で酷い悪行を犯し、それが露見せずに罰を受けることなく死んだとする。その報いを来世で受けるのは、記憶がつながっていない限り(天眼を持っていない限り)、今生の「自分」とは別人格の「他人」である。
 つまり、輪廻転生という現象はそれを見る能力がない人にとっては、何ら意味を持たないのである。そこに左右されることは馬鹿らしい。
 仏道修行の目標は「修行によって智慧を開発し、煩悩を減らし苦しみを無くすこと」である。輪廻転生のあるなしはとりあえず棚上げしておけばよい。

 次のポイント。
 ブッダの言うとおり輪廻転生があるとして、「では、いったい何が生まれ変わるのか」という点である。先に挙げた中村元氏の言葉の最初の部分に集約されるように、「生まれ変わりがある(輪廻転生)」と「永続する主体は存在しない(諸法無我)」は矛盾するように見える。
 この禅問答のような謎は、仏教を学ぶ者にとって長い間解きほぐせない難題であった。

 繰り返すが、釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは、一般にいう輪廻思想はでてこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
 では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。(田上太秀著『仏陀のいいたかったこと』、講談社学術文庫)


 後生の仏教徒は、ゴータマ・ブッダのこの姿勢が結局わからなかった。無我説は、有我説と、不毛な水かけ論が延々と続くという事態を招いた。また、輪廻の主体としてのアートマン(ソルティ注:「我」)がないなら、輪廻転生や因果応報をどう説明すればよいのかという問題の解決に大いに苦心することとなった。とてもではないが無理なことを説明するために、多大な学問的努力が払われた。皮肉なことに、それゆえ仏教「哲学」は、千年の長きにわたって、インドの哲学界をリードしつづけることができたのである。(宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』、光文社文庫)


 この謎、矛盾が、テーラワーダ仏教を学び瞑想を始めたばかりの自分の大きなジレンマであった。瞑想をしていても、ともすればこの謎が頭を占めてしまい集中できないこともあった。
「いったいブッダは、なぜ何が輪廻転生するか、はっきり言わなかったのだろう?」
 上に書いたように輪廻転生のあるなしは問題ではなかった。あるならあるでいい。とりあえず修行には関係ない。
 問題は、輪廻転生する主体の存在を否定しておきながら輪廻転生を説いたブッダのスタンス(真意)がわからないところにあった。こんな矛盾することを平気で語っているブッダのアバウトさに困惑したのである。ブッダの生きていた時代、この謎について質問した修行者もいたようだが、ブッダは明確には答えなかった。
 輪廻転生のあるなしより、それについて整合性ある説明がないことに、中村先生同様、自分も戸惑ったのである。「こんないい加減なことを言いっぱなしにするなら、仏教も信用できない」と思いかねないほどに・・・・。


 しかるに、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老はこう述べている。
 

 みんながもっているのは、私という変わらない何かのサブスタンスが、死後あちこちに引っ越しするというような理解ですね。そんな原始的な話ではありません。個といえるもの、常住不変の魂・霊魂のような実体は成り立たないのだと、仏教は厳しく語っています。無我説があったうえでの輪廻の話です。輪廻を理解したければ、「難しいもの」とお釈迦さまが注意された、因縁法則を理解することになります。
 しかし、心配いりません。解脱に達しようと思って実践を続けると、ものの見事に自分で発見するのです。・・・・・・・
 端的にいえば、「無常がわかれば、輪廻がわかる」ということです。今の現象は瞬時に消えて、新たな現象が生まれる。それは限りなく続く。輪廻とは変化し続けるのだという意味の言葉です。
(アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉対談『出家の覚悟』、サンガ)


 無我説があったうえでの輪廻。
 実践を続けると、ものの見事に発見する。


 中村氏は仏教の研究者としてはまぎれもなく超一流であったが、実践者としては道半ばだったのだろうか。 (他人のことはほっとけ←ギャグ)


 それにしても、そもそも「輪廻転生には主体が必要」と考えるのはなぜだろう?
 そう考えるのは「誰」だろう?



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