ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

輪廻転生

● 本:『日々是修行――現代人のための仏教100話』(佐々木閑著)

2009年筑摩書房より刊行。

 仏教と科学の近似性を追及した名著『犀の角たち』の著者による仏教エッセイ。朝日新聞夕刊に2年にわたって毎週連載された文章をまとめたものなので、広い読者を想定し、わかりやすく、読みやすく、多彩なテーマが楽しい、肩の凝らない読み物になっている。
 ここでも著者は『犀の角たち』同様に、日本人に馴染んでいる大乗仏教ではなくて、初期の仏教つまり2500年前に存在した釈迦の仏教の紹介を目論んでいる。朝日新聞という広く一般大衆が購読する媒体に、元来の釈迦の教えや修行僧(サンガ)の在り様が持続的に紹介され、読者の仏教観に何がしかの変容をもたらしていくことは、非常に意義深いことである。
 花園大学教授である佐々木はもちろん、伝統的な大乗仏教を否定も批判も断罪もしていない。が、釈迦本来の‘正しい’仏教の広まることが、結局は仏教の為になり、世の苦しむ人々の為になることを確信しているのは間違いあるまい。
 100のエピソードを通して、佐々木の仏教への信、若い頃科学者を志したほどの合理精神、縁を大切にする謙虚な心が伝わってくる逸品である。

 では仏教を信じるとはどういうことなのか。それは単に「仏の存在を信じる」のとは違う。仏教を信じるとは、「釈迦の説いた道を信頼する」のである。お釈迦様という人が発見した「悟りへの道」を信頼し、そこに自分の生活をゆだねる。それが仏教を信じるということの本来の意味である。

 一方、このエッセイの、というか著者の隅に置けないところは――隅に置くつもりはもとより無いけれど――釈迦の仏教を全幅賞賛し持ち上げるだけでなく、その欠陥をちゃんと指摘しているところである。まさに合理精神の表われである。

 第二次大戦中、日本は戦争色に染まった。「私は僧侶だから戦争には協力しない」と言って時流に抵抗した人もかなりいたが、逆に戦争を賛美する僧侶も多かった。「アジアの平和を実現するための聖戦だから許される」という理屈である。そして、反戦論者は迫害され、賛美した人は褒められた。ここに、仏教という宗教の持つ問題点がある。社会から非難されないよう、自己の行いを正していくという独特のシステムの裏側には、社会の大勢に迎合してしまう危険性が潜んでいる。
 お布施で生きる以上、世間の顰蹙を買うような行動は絶対に避けねばならないが、一方、あまりにも社会の時流に流されると、教えに背いてしまうことになる。

 「律」の規則のひとつに、「僧侶になるためには、10人以上の同性の僧侶の許可を得なければならない」というものがある。男なら10人以上の男の坊さんが「よし」と言わないと、坊さんになれない。女なら10人以上の尼さんの「よし」が必要である。・・・・・・・・・
 スリランカを中心とする南方諸国で、国が乱れて僧侶の数が減っていき、尼さんの数が10人を切り、女性の僧団が消えたのだ。そして、驚くべきことに、その後1000年、スリランカにもタイにもミャンマーにも、正式の尼さんはいない。せっかく釈迦の説いた悟りの道が、それ以来、女性には閉ざされたままなのだ。最近、なんとかしようという動きがでてきたが、まだ問題山積である。

 釈迦は、非常に高度な平等主義者だった。家柄・血筋で人の価値が決まると考えられていた古代インドで、決然とそれに反旗を翻し、「人の価値は、生まれではなく、心根や行為によって決まる」と説いた。当時としては革新的な主張だ。
 だがその釈迦が作った仏教僧団にも、様々な差別が残った。世間の人びとからもらうお布施だけが頼りの仏教は、当時のインド社会の差別意識に逆らうことができず、障害者や重病人の出家を認めなかったし、男女間に格差を設けて女性修行者を低く見た。その差別は釈迦にも逆らいがたい、きわめて強固な社会常識だったのだ。

 2つ目の引用中の「悟りの道が、女性には閉ざされたまま」というのは間違いである。なぜなら、在家者でも男女問わず「悟る」ことはできるから。
 初期仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の4つの「悟り」のうち、出家しないと悟れないと断定されているものはない。第3の悟りである不還果を得た人でも、かろうじて在家生活を送ることができる。だが、「解脱」に至る最後の悟りである阿羅漢果を得たら、「自分」という感覚が滅してしまうので、もはや在家生活は不可能である――と言うのである。
 つまり、出家できない女性でも、「悟り」も「解脱」も可能なのである。ただ、雑事の多い在家生活を送りながら修行するよりは、出家して修行に専念するほうが当然進歩が速い。戒も守りやすいし、周囲の理解も得られやすい。その点では、女性差別は確かである。
 
 最後に、著者の合理精神の賜物と解していいのかどうか定かでないが、釈迦の説いた道を信頼している佐々木であるが、明らかに釈迦自身が説いた「輪廻転生」は信じていないらしい。
 こうはっきり述べている。
 
 私は釈迦の信者だが、輪廻の実在性は信じない。つまり、「もはや輪廻しない」という確信こそが真の安らぎをもたらすという、釈迦の精神は尊敬するが、「天の神様」や「地獄の亡者」が実在すると考える、その時代のインド人の世界観を丸ごと鵜呑みにはしないということである。
 

 ソルティ自身は「輪廻(=変化)」については「ある」と確信している。「輪廻転生(=生まれ変わり)」については結論を出すことをペンディングにしている。この二つを混同するのは良くないと思っている。
 輪廻とは結局、「万物流転&不生不滅」の謂いである。
 ――エントロピーの法則&エネルギー保存の法則。
 現代科学の目で見ても、少しもおかしなことではなかろう。


 
 


● シーシュポスの岩 映画:『パラドクス』(イサーク・エスパン監督)

2014年メキシコ映画。

 原題はEl  Incidente
 「出来事」といった意味か。

 1階まで降りると9階の踊り場に、9階まで上がると1階の踊り場に到達する出口のない階段。一本道をずっと運転し続けると、いつの間にか通り過ぎたはずの道に舞い戻ってしまう道路。山手線のように同じ軌道をグルグル走り続け降車できない列車。漕げども漕げども陸地も他の船も見えない大海原を漂う筏。
 無限に繰り返される出口のない空間に、30年以上、訳も分からず閉じ込められた数名の男女のパニックと恐怖と苛立ちと絶望と墜落と諦めとを描くシチュエーションスリラー。
 「世界各地の映画祭で注目を集めた」というDVDパッケージの煽り文句に乗せられてレンタルした。
 
 趣向は面白い。
 しかし、意味が分からん。
 結局なんだったのか、最後まで明かされることがない。
 永遠にループするシステム自体は判読できる。一つのループシステムが別のループシステムに、登場人物の一人を介してつながってゆくという仕組みは分かった。だが、いったい誰がどういった意図で、このようなパラドクスをある特定の人物に仕掛けたのかが説明されないで終わってしまう。
 その点で、パラドクス(逆説)というより不条理である。喜劇にしろ悲劇にしろ、幸福にしろ不幸にしろ、すっきりした結末がない。

 深読みするならば、元になっているのはギリシア神話に出てくる『シーシュポスの岩』だろう。
 
 シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。
 シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される。(ウィキペディア「シーシュポス」より)
 
 『異邦人』で有名な久保田早紀、じゃなかったアルベール・カミュ(1913-1960、←タレントのセイン・カミュの大叔父にあたる大作家)が、このエピソードをもとに『シーシュポスの神話』というエッセイを書いている。ソルティ未読だが、「いずれは死んですべて水泡に帰すことを承知しているにもかかわらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出した。」(ウィキペディア『シーシュポスの神話』より)。
 イサーク・エスパン監督がここまで哲学的なところを踏まえて、この映画を撮ったのかどうか知らないが、確かに人生の比喩として観ると‘面白い’・・・て、言っていいのやら。どころか、仏教徒のソルティが観ると、もっと深く、もっと残酷に、これは輪廻転生の比喩のようにも思える。
 
 この世に生まれると同時に前世の記憶をすっかり抜き取られ、一からやり直し。理由も目的も分からず、ゴールも分からず、出口も分からず、ただ欲望を満たすために闇雲に闘うだけ。得られたものはすべて奪い去られ、老いて病んで苦しみのうちに死んでいく。それが何万回、何億回と繰り返される。
 これがブッダの説いた輪廻転生の実体である。

 そのあたりと絡ませると、この映画はかなり深遠な興味深いものになっただろう。
 でも、エスパン監督は仏教を知らんだろうな。

 いずれにせよ、怖ろしいシステムだ。
ハムスター車

評価:C+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 


 
 
 
 
 

● 異端愛、またはカタリ派と仏教 本:『聖灰の暗号』(帚木蓬生著、新潮文庫)

聖灰の暗号 002 2007年刊行。

 帚木蓬生(ははきぎほうせい)と読む。
 源氏物語の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生(よもぎう)」から取ったペンネームである。
 この著者の本ははじめてだが、著者に関心があったわけではなく、テーマに関心があった。
 この本、キリスト教の異端としてカトリック教会によって殲滅されたカタリ派をめぐるミステリーなのである。

カタリ派(Cathari)
12~13世紀の西欧に広がったキリスト教異端の一派。バルカン地方に起り、その呼称は清浄を意味するギリシア語に由来、マニ教的な善悪二元論の影響を受け、禁欲的・使徒的生活を追求。南フランスではアルビジョワ派と呼ばれた。(広辞苑)


 彼らはまず結婚はおろか、あらゆる種類の性的な行為を忌避する。生殖行為で生まれる動物の肉は口にせず、ひんぱんな食断ちを行なう。福音書が禁じている以上、たとえ自衛のためであろうとどんな殺人も許されず、動物を殺してもならなかった。所有を避けて、福音書の命じる清貧に徹し、裁かず、誓わず、嘘をつくこともなかった。彼らがもっとも賞賛した美徳は勇気であって、苦しみと死に毅然と耐えることこそ、彼らの望むところであった。(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)


 カタリ派について興味を持ったきっかけは、セオドア・ローザックのミステリー『フリッカー、あるいは映画の魔』(1998年刊行)であった。
 映画を題材にしたミステリーというだけでも、映画好き&ミステリー好きの自分にはたまらないわけであるが、この小説の重厚なる、不気味なる、高踏なる、非日常的面白さに匹敵するミステリーは、ウンベルト・エコーの『薔薇の名前』くらいしか思い浮かばない。こういう本に出会うと、読書を生涯の趣味となるよう幼い頃から仕向けてくれた両親に感謝したくなる。
 詳しい内容は省くが、主人公の映画好きの青年はカルト的な人気を持つ過去の映画監督について調べていくうちに恐ろしい陰謀に巻き込まれていく。映画や音楽が意識(無意識)に与える効果を駆使して世界を独特の‘デモニッシュ’な思想で覆いつくそうとする邪悪な秘密結社として登場するのが、何を隠そう(隠さないが)異端カタリ派の残党なのである。深入りしすぎた青年は最後には組織に拉致されてしまう。
 小説内でのカタリ派の扱われようは、オウム真理教かショッカーか、というくらいの悪役、汚れ役だった。
 しかし、そこで明かされるカタリ派の教義内容はユニークそのものであり、妙に惹かれるものがあった。
 それから、カタリ派について書かれたものを読むようになった。 
 信者たちがバチカン(=正統カトリック)が派遣した十字軍によって虐殺されたことや、異端尋問や残酷極まりない拷問のあげくに火炙りにされた史実などを知ると、自分の中の「異端愛」がうずいた。信者の中でも「完全者(パルフェ)」と呼ばれる人々の、自らを厳しく律し他者や地域に尽くす生き方は、まさしく聖者そのもので、敬意以外の何ものそこに感じとることができない。
 それからすっかり「カタリ派」派になったのである。
 
 その後、自分はテーラワーダ仏教(上座部仏教)を学ぶようになったのだが、驚いたことに、仏教とカタリ派は似ているのである。
 いや、そもそもカタリ派が「西欧の仏教」と呼ばれていたのは上記の原田の本で知っていた。輪廻転生を信じていたことや、殺生戒や肉食の禁止などが両者に共通する。
 しかし、たいていの日本人同様、自分も仏教=大乗仏教という認識を持っていたので、もっと深いところでカタリ派と仏教(原始仏教)が似ていることに気づかなかったのである。

似ている点

○ 輪廻転生思想をもつ

カタリ派の人々が輪廻転生思想を信じていたと聞くと、数百年も前の異端信仰が俄然私たちに身近になる。真の正統キリスト教徒との自負にはなはだ似つかわしくなくても、「完全者」の努めを全うしない一般の信者は、救済にたどりつくのに死後いくつもの肉体をさまよわなければならないと考えられていたのである。(同上)

○ 五戒(殺すな、盗むな、性行為をするな、嘘をつくな、酒や麻薬をやるな)をはじめとする厳しい戒律
○ 出家と在家の関係(カタリ派では「完全者」と「帰依者」に相当)
○ 偶像崇拝をしない
○ 女性もまた出家できる
○ 非暴力主義


 もっとも驚くべき相似は、解脱思想=この世に生まれることを「苦」とする点である。


 正統教会から目のかたきにされただけあって、これら新しい信仰者たちの奉じる教えは、一見して正統カトリックとはなはだしく異なっている。この世が神の創造になることさえ彼らの教理にはない。人間の肉体を含めた物質世界は、すべて悪魔(あるいは「悪の原理」)の手で作られたものだとするのがこの教えの基本的な前提なのである。もともと天使として光輝く天にあった人間は、悪魔の奸計によって地上に拉致されたのである。現世にあること自体が受難なのであって、私たちは本来こんな地上に住むべきではない。人間につきまとう物質的要素を可能な限り断ち切り、真の祖国への復帰にそなえることこそ、人間の務めなのだ。(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)

 
 仏教では、悟りを得ることで輪廻転生から解脱し、二度とこの世に生を受けないで済む、と説く。カタリ派では、「完全者」の努めを果たすことで救済を得て、真の祖国(天国)に帰還できると言う。
 いずれにしろ、この世の価値は低い。


 ブッダが「苦」と言ったものを、カタリ派は「悪」と言った。神と悪魔の対立という二元論を基にしていたキリスト教ならではである。
 仏教は二元論ではない。世界を誕生させた「神」も、世界を破滅させようと企む「悪魔」も存在しない。「生まれては滅する」という現象が永遠に続いているだけである。
 そして、上記の文に見るように、カタリ派は「自我」の存在を前提にしている。「地上に拉致された」とか「真の祖国への復帰」という表現は、永遠に継続して存在するアイデンティティ(魂)の存在を含意している。
 一方、ブッダは「諸法無我」と言った。アイデンティティ(魂)などないとしたのである。


 似ているようで違っている。
 
 帚木の小説は、カタリ派や宗教や中世史に興味のない読者にとってみれば、凡庸なミステリーに過ぎないかもしれない。推理(謎解き)部分もサスペンス部分も決着のつけ方も弱い。
 だが、カタリ派の復権を訴える主人公の学者の意志は、そのまま著者の思いでもあろう。
 帚木もまた「異端愛」の持ち主なのだろう。
 

● まわれ、まわれ 映画:『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)

 2013年スタジオジブリ。

 物語の祖(おや)と言われ、日本人の心の源泉とも言えるこの不朽の名作を、スタジオジブリがどう脚色したのかが見所である。
 絵についてはもう評するまでもなかろう。


 思いもかけない展開だった。
 しかも自分の最近の関心テーマと深くからんでいたものだから、驚いてしまった。
 心がざわついてうまく文章にまとめる自信がない。
 いくつか思い浮かんだことを書きとめるのみにする。


○ かぐや姫の出自
 誰でも知っているように、かぐや姫の育ての親は竹取の翁・嫗である。 

今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつゝ、萬(よろず)の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。
 翁は讃岐の造麿(みやつこまろ)という名であり、竹を取り様々な竹細工をつくることを生業としている。
 そのことは子供の頃に絵本で接したときから、高校時代に古典の授業で原文に接したときから、とりたてて不思議に思うこともなく、そのまま受け入れてきた。
 しかし、ここ数年被差別部落のことを学んできて、はじめて「おや?」と気づいたことがある。
 竹細工は昔から被差別部落がもっぱらとする仕事だったのである。特にこの物語の舞台である関西ではそうであった。
 映画の中で、竹取の翁と嫗が、赤ん坊のかぐや姫のために近所の木地師の家まで乳をもらい受けに行く場面がある。そのお礼として嫗が用意したのは、翁がこしらえた箕であった。
 
箕 箕は、農作業において穀物を主とする収穫物から不要な小片を吹き飛ばして選別するために古くから用いられてきた道具であり、また、とりあえずの容器としても使えることから、様々な伝統的労働における採り入れや運搬などにも流用されてきた。(ウィキペディアより)

 筒井功の『新・忘れられた日本人』にも箕作りを専業とするサンカと呼ばれた人々の話が出てくる。箕作りは被差別の象徴であったのだ。
 ちなみに、山から山へと渡り歩き、木を伐採してお盆やお椀の素地をつくりだす木地師もまた古来差別された民であった。
 かぐや姫の幼馴染で初恋の人である木地師一家の息子に「捨丸」というぞんざいな名前を与えている。
 竹取一家と木地師一家は、他の民衆(たとえば百姓)との交流をいっさい持たないで山奥に暮らしている。
 これらのエピソードはもちろん原作にはない。
 高畑監督はどうやら、かぐや姫の出自として被差別の民を意識したのではないか。見る人が見ればわかるように。
 賤民の家に育った娘が、身分社会の最上位である貴族や皇族を袖にし、あまつさえ時の帝の求婚さえピシャリとはねつける。そんな胸のすくような筋書きなのである。(ただし、竹取物語の書かれた時代に部落差別、職業差別が存在したかどうかは不明)
 一方、かぐや姫の幸せを願う翁は、竹取の仕事も家も山も捨てて「高貴な人々」の住まう都に居を構え、高貴な暮らしを装う。『マイ・フェア・レディ』のイライザよろしく、かぐや姫も女官の相模の躾のもと高貴な姫としての教育を受ける。礼儀やしきたりだらけの窮屈な生活で、かぐや姫の生来の活気や陽気さは次第に失われていく。翁を悲しませまいと自分を偽った生活が、かぐや姫も周囲の人間をも結局は不幸にする。
 ここにまた一つのテーマが見える。
 自分の幸せについて、他人に任せてはいけない。他人の価値観に合わせてはいけない。
 
○ かぐや姫の罪と罰
 かぐや姫は月から来た迎えの者たちと共に地上から去っていく。
 この天人降臨と翁・嫗との別れの場面がこの物語のクライマックス。涙に袖を濡らすところである。
 どんなふうに演出してくれるだろうか。どんなゴージャスで神秘的な絵を見せてくれるだろうか。
 期待して見ていたら、度肝を抜かれた。
 天女たちの奏でる軽妙な調べとともに雲に乗って来迎したのは、天人に取り巻かれたお釈迦様だったのである。
 優美な天蓋の下で悠然と微笑んで立ちあそばすのは、だれがどう見たって手塚治虫によってアニメ的に典型化されたブッダである。
 これで物語の結構が露わになった。
 
 月の世界とは悟りの世界、輪廻転生(生まれ変わり)から解脱した者たち(=聖者)の住む世界である。
 そこには苦しみも悩みも争いもない。永遠の浄福に支配される楽土である。
 一方、この地上は苦しみや悩みや争いの絶えない娑婆である。生き物は悟りを得ない限り、人や獣や虫や草木や霊や鬼に形を変えながら、永遠に輪廻転生を繰り返す。無明をエネルギーとして。
 かぐや姫の罪とは、浄土にいながら輪廻転生のある地上の世界を望んだことであった。
 かぐや姫の罰とは、その罪ゆえに穢土たる地上に下ろされたことであった。
 幾度生まれ変わって、苦しみから苦しみへと何億の生を紡いでもかまわない。
 差別されても、殺されても、病や老いに苦しんでも、親しい者との別れに心引き裂かれても、死の恐怖に何億回さらされてもかまわない。
 それでもこの世に生き続けたいという願い。
 この世に生を受けて、自然の美しさ、子供の笑い声、人を好きになる喜び、人の情けにふれる嬉しさ・・・を味わいたいという思い。(ブッダ側から見れば「無明」)
 
 なんとも驚いたことに、この映画は仏教に対するオブジェクションなのである。
 
 そう解釈したときに、映画の中でかぐや姫らによって繰り返し歌われるテーマソングが、輪廻転生を唄っているものであることに気づく。
 
 物語の祖に仏教への懐疑を託す。
 すごいことかもしれない。
 だが、よく考えてみると、物語の誕生こそが「自我」の誕生なのであるから、物語と仏教は本質的に背反するものなのだ。
 
 天人たちの調べがいまだに頭の中をぐるぐるしている。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 輪廻転生と無我 本:『「老い」と「死」を語る』(中村元著、駒澤大学出版会)

中村元「老いと死を語る」 長い間、日本で仏教の大家と言ったら、瀬戸内寂聴でも五木寛之でもひろさちやでも、ましてや大川隆法でもなく、中村元(はじめ)であった。
 その地位に氏を登らせたのは『ブッダのことば』『真理のことば・感興のことば』『仏弟子の告白』など岩波文庫の仏典邦訳シリーズであろう。氏の他の業績は知らないが、岩波文庫で仏典を邦訳する(できる)というのは、他の追随を許さぬその道のエキスパートであり、自他共に認める仏教理解の泰斗であることを意味している。
 正確に言えば、中村氏は僧侶ではなかった(たぶん)から「仏教研究の大家」と言うべきなのかも知れないが、仏の教えを実際に生きる人(=悟りをひらいた出家者)の姿は大衆の目にはあまり触れないから(たとえば108歳まで婬戒を守り修行一筋に生きた永平寺の宮崎奕保禅師)、世間的には「仏教に詳しい人=仏教の大家」という理解になるのも無理はない。もっとも中村元氏は仏教を研究していただけではなく、仏教徒として智慧と慈愛に満ちた半生を送った人であるらしい。(1999年逝去)

 そんな中村氏が「老いと死」を語るというのだから読まないわけにはいかない。書店で見つけ即買った。

 期待して読み始めたのだが、内容は「ブッダは老いについてこういうことを言っている」「死についてこの経典ではこう書かれている」といった仏説の紹介に終始していて肩すかしであった。仏教を生涯研究し続け、85歳(当時)という「老い」の真っ直中にいて「死」を目前にしている中村氏の、個人的な感慨なり覚悟なり達した境地なり老死を前にまざまざと知った仏説の真意(深意)なりが吐露されているかと思っていたのである。
 どこかの講演録をテキスト化したものなので、講演時間やテーマや対象者のレベルの関係もあって仏説紹介レベルにとどまったのかもしれない。あるいは、仏説そのものが個人の見解と一致するほどに、もはや「我」を表現することなど思いも寄らないほどに、仏教徒としての中村氏の心のありようが澄んでいたのかもしれない。

 そんななかで、一箇所引っかかる部分があった。
 それは輪廻転生をめぐる説明である。
 中村氏、こう言っている。
 

  仏教では、輪廻ということを説きます。そうしますと、結局、仏教も輪廻の主体を説くことになるのではないかと、疑問に思われる方もいるかと思います。しかし一方で、仏教は無我ということを説いています。この両説はどういう関係になっているのでしょうか。
 仏教がなぜ、輪廻ーー生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。
 ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。

  
 ブッダが輪廻転生を説いたのは、輪廻転生を信じる当時の民衆に仏教の真髄「我執にとらわれるな」ということを教えるための手段として、つまり方便であったと言っているのである。


 これは違う。

 ブッダは輪廻転生を自らの確かめた事実として語ったのである。方便なんかではない。中村氏自身が訳した『真理のことば』(ダンマパダ)にちゃんと書かれている。

 わたくしは生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た。家屋の作者をさがしもとめてー。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。(岩波文庫『真理のことば』153,154の偈) 


 これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
 さらに、ブッダはこうも言っている。
 

 二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。(中部130) (藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ)


 「比丘たちよ」と語っているところに注目してほしい。
 ブッダはこの言葉を民衆に向かって言ったのではない。出家して比丘サンガに入って解脱を目指して修行している比丘たちに対して言ったのである。

 中村氏はなぜこんな勘違いをしたのだろう?


 客観的に(科学的に)証明できない輪廻転生という現象について、そしてブッダが輪廻転生を事実として認めたということについて、すんなりと受け入れたくない気持ちはわからないでもない。西洋近代思想に囚われた現代人にとって、科学的に証明できないことや自然科学の法則に反することは簡単に信じてはならないことであり、眉唾であり、「オカルト」に属することである。それを単純に信じ込んで周囲に吹聴する人間は洗脳されやすい「危ない」人間とみなされてしまう。いろいろな宗教団体が起こす突飛な事件がその見解の正当性を裏付けていく。
 ブッダ及び仏教を奉じる自分自身を、そんな「オカルト」一派に仲間入りさせたくないという気持ちが、仏教の中の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「慈悲喜捨」は良くとも「輪廻転生」はちょっと・・・・・という言説をつくっていくのかもしれない。
 他の宗教に較べると、極めて論理的で精密で実証主義を重んじ「最先端の科学的知見」との整合性すらも獲得しつつある仏教の、唯一の突っこみどころが「輪廻転生」であり「神、悪魔についての言及」なのである。それあるかぎり仏教は結局「天地創造」「処女懐胎」「復活」を唱えるキリスト教(のナンセンス)と大差ないということになってしまうのだから。

 自分も仏教を学び瞑想実践するようになって数年になるが、仏教の中でもっとも理解できない部分がこの「輪廻転生」であった。
 仏典に出てくる「神と悪魔」の存在についてはそれに較べればどうということはない。よく解釈されるようにそれらを修行者の「心の声(良心と誘惑)」とみなすこともできるし、「神」を修行を励ますサンガの仲間達、「悪魔」を修行の邪魔をする俗世間の比喩としてとらえることもできる。ブッダや比丘たちの無意識が投影された集団幻覚であってもよい。なんなら、人間とは別次元に住む存在(幽霊、妖怪、宇宙人e.t.c)としたってよい。
 つまるところ、神や悪魔の存在はブッダの教えそのものについてはほとんど関わりをもたないからである。それこそ、「教え」を効果的に大衆に伝えるための演出、修飾、誇張と位置づけることも可能である。
 一方の輪廻転生は厄介である。たんなる比喩や誇張ではすまされない。

 ポイントは二つある。

 まず、輪廻転生(生まれ変わり)という現象自体があるのかないのかという点である。
 前世のことを鮮明に記憶していている人物がいて、第三者が調査してみたらその人の証言通りの事実が過去にあったという、まさに生まれ変わりとしか思えないようなケースも調べればたくさんある。有名なところではダライ・ラマがそうである。
 「無我」(「自分」という感覚は幻想である)が現代科学によって証明されてきているように、輪廻転生もいつの日か科学的に納得できる説明がなされる日が来るのかもしれない。その日まで事の真偽を保留にしておくのが賢いのだろう。ブッダが言ったからといって無条件に信じる必要もない。
 結局のところ、輪廻転生があるかないかという問題は仏道修行そのものにはまったく影響しないからである。というのも、ブッダのような天眼(超能力)を持たない一般人にとっては「来世でいいところに生まれたいから修行する」「永遠に続く輪廻転生の苦しみから解脱したいから修行する」というのは修行の理由にはならないからである。前世を見る能力がないのに来世の幸福のために修行するというのはナンセンスである。自分で確かめていないことを、ブッダが言ったからといって頭から信じ込んでいるのはまさに「信仰」であって、それこそまことの仏教徒の態度としてはふさわしくない。
 また、輪廻転生が実在するとして、ある人が今生での修行の成果によって来世で良い境遇に生まれたとしても、来世にいる当人は前世(今生)のことを覚えていないのが普通だから、「前世で頑張って修行しておいて良かった。来世のために今生も頑張って修行しよう」とは思わないだろう。今生で酷い悪行を犯し、それが露見せずに罰を受けることなく死んだとする。その報いを来世で受けるのは、記憶がつながっていない限り(天眼を持っていない限り)、今生の「自分」とは別人格の「他人」である。
 つまり、輪廻転生という現象はそれを見る能力がない人にとっては、何ら意味を持たないのである。そこに左右されることは馬鹿らしい。
 仏道修行の目標は「修行によって智慧を開発し、煩悩を減らし苦しみを無くすこと」である。輪廻転生のあるなしはとりあえず棚上げしておけばよい。

 次のポイント。
 ブッダの言うとおり輪廻転生があるとして、「では、いったい何が生まれ変わるのか」という点である。先に挙げた中村元氏の言葉の最初の部分に集約されるように、「生まれ変わりがある(輪廻転生)」と「永続する主体は存在しない(諸法無我)」は矛盾するように見える。
 この禅問答のような謎は、仏教を学ぶ者にとって長い間解きほぐせない難題であった。

 繰り返すが、釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは、一般にいう輪廻思想はでてこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
 では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。(田上太秀著『仏陀のいいたかったこと』、講談社学術文庫)


 後生の仏教徒は、ゴータマ・ブッダのこの姿勢が結局わからなかった。無我説は、有我説と、不毛な水かけ論が延々と続くという事態を招いた。また、輪廻の主体としてのアートマン(ソルティ注:「我」)がないなら、輪廻転生や因果応報をどう説明すればよいのかという問題の解決に大いに苦心することとなった。とてもではないが無理なことを説明するために、多大な学問的努力が払われた。皮肉なことに、それゆえ仏教「哲学」は、千年の長きにわたって、インドの哲学界をリードしつづけることができたのである。(宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』、光文社文庫)


 この謎、矛盾が、テーラワーダ仏教を学び瞑想を始めたばかりの自分の大きなジレンマであった。瞑想をしていても、ともすればこの謎が頭を占めてしまい集中できないこともあった。
「いったいブッダは、なぜ何が輪廻転生するか、はっきり言わなかったのだろう?」
 上に書いたように輪廻転生のあるなしは問題ではなかった。あるならあるでいい。とりあえず修行には関係ない。
 問題は、輪廻転生する主体の存在を否定しておきながら輪廻転生を説いたブッダのスタンス(真意)がわからないところにあった。こんな矛盾することを平気で語っているブッダのアバウトさに困惑したのである。ブッダの生きていた時代、この謎について質問した修行者もいたようだが、ブッダは明確には答えなかった。
 輪廻転生のあるなしより、それについて整合性ある説明がないことに、中村先生同様、自分も戸惑ったのである。「こんないい加減なことを言いっぱなしにするなら、仏教も信用できない」と思いかねないほどに・・・・。


 しかるに、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老はこう述べている。
 

 みんながもっているのは、私という変わらない何かのサブスタンスが、死後あちこちに引っ越しするというような理解ですね。そんな原始的な話ではありません。個といえるもの、常住不変の魂・霊魂のような実体は成り立たないのだと、仏教は厳しく語っています。無我説があったうえでの輪廻の話です。輪廻を理解したければ、「難しいもの」とお釈迦さまが注意された、因縁法則を理解することになります。
 しかし、心配いりません。解脱に達しようと思って実践を続けると、ものの見事に自分で発見するのです。・・・・・・・
 端的にいえば、「無常がわかれば、輪廻がわかる」ということです。今の現象は瞬時に消えて、新たな現象が生まれる。それは限りなく続く。輪廻とは変化し続けるのだという意味の言葉です。
(アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉対談『出家の覚悟』、サンガ)


 無我説があったうえでの輪廻。
 実践を続けると、ものの見事に発見する。


 中村氏は仏教の研究者としてはまぎれもなく超一流であったが、実践者としては道半ばだったのだろうか。 (他人のことはほっとけ←ギャグ)


 それにしても、そもそも「輪廻転生には主体が必要」と考えるのはなぜだろう?
 そう考えるのは「誰」だろう?



● 映画:『記憶の棘』(ジョナサン・グレイザー監督)

 2004年アメリカ映画。

 統計によると、アメリカ人の4人に1人は輪廻転生(生まれ変わり)を信じているという。キリスト教徒に限っても5人に1人が信じているらしい。(出典はホームページ「忘却からの帰還」http://transact.seesaa.net/article/59854004.html

 そりゃ、キリスト教徒じゃないだろう!

 と、つっこみたくなる。
 もっとも、原始キリスト教時代、イエスは輪廻転生を説いていたという説もある。(この地下水脈は中世フランスにおいてカタリ派となって表に現れ出でて異端として虐殺される。隣人愛も何もあったもんじゃない。)

 NHKが2008年に行った調査では、日本人の約4割が輪廻転生を信じている。(出典は「NHK放送文化研究所」ホームページttp://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/month/2009/2009_05/index.html

 一応仏教国の日本で信じる人が多いのは分かるが、なぜキリスト教国のアメリカ人が・・・?と不思議になるが、英国の調査でも同じような結果が出ている。
 つまり、どの先進国の国民も3~4割は輪廻転生派なのではないだろうか。(チベットやタイやミャンマーならもちろん100%近いだろう。)

 この映画は、輪廻転生をモチーフとした‘恋愛映画’である。
 ‘   ’をつけざるをえないのは、恋愛関係に陥るのがアナ(ニコール・キッドマン)とショーン(キャメロン・ブライト)だからであり、キャメロン・ブライトは10歳の少年だからである。
 10歳の少年が突然目の前に現れて、「ぼくはあなたの夫だった」と告げ、二人の間でしか分からないような秘密の出来事を話し出す。アナは混乱の極みに置かれてしまう。
 果たして、少年は本当に夫の生まれ変わりなのか。

 品格のある大人のミステリーである。
 この品格を作り出しているのは、長回しを多用した撮影(ニコールのアップを延々1分以上も映しているだけのシーンがある!)であり、室内装飾の優美さに見られるような美術の素晴らしさであり、なんといってもアナ(=ニコール)の母親を演じる往年の大女優ローレン・バコールの風格である。画面にいるだけで作品そのものをグレイドアップするさすがの存在感である。
 伏線の張り方もうまい。
 
 大人の男の心を持った少年を巧みに演じたキャメロン・ブライトは、今や20歳目前である。どんな男に成長しているのか、追ってみたいと思わせるに十分な、独特の雰囲気のある子役ぶりである。

 考えてみると役者稼業というのが、あるキャラから別のキャラへと着ぐるみを替えていく輪廻転生ゲームみたいなものであるよな。


評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

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