上野から出る常磐線が三河島を過ぎて南千住駅に着く直前に、進行方向右手の窓からお寺の墓地が見える。列車はそこから左カーブを描きながら南千住駅構内に入っていくが、隅田川駅に向かう貨物線が右に別れる分岐点で大きなお地蔵様の後姿が一瞬見える。前者が「投げ込み寺」の通称で知られる浄閑寺、後者が小塚原刑場の跡地に建てられた延命寺の「首切り地蔵」である。
さわやかな秋晴れの一日、かねてから気になっていた南千住のディープな一角を散策してみた。
浄閑寺は浄土宗の寺院で1655年に開基されている。
投げ込み寺と言われる由来は、安政2年(1855年)10月2日に発生した大地震の際、最寄りにある吉原の遊女500人余りの遺体を、境内に掘った大きな墓穴に投げ込むように埋葬したという史実による。江戸、明治、大正、昭和と380年余間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など推定数は25,000名に及ぶと言われている。ここは遊女たちの終着駅だったのである。彼女たちの御霊を祀る新吉原総霊塔の背後に、常磐線の走る土手が見える。
総霊塔の向かいには、山谷で働き山谷で老い山谷で亡くなった男たちの墓がある。山谷老友会発願、彫刻家の倉田辰彦制作による「ひまわり地蔵尊」である。愛らしい、ほっとするような笑みをたたえている。
現在山谷には「山友会」というNPO法人があって、無料クリニックやアウトリーチ、炊き出しなどを行っている。老友会とはたぶん関係のない別の組織だろう。身寄りもなく帰る家もない日雇い労働者の困窮にこうして手を差し伸べる人がいる。彼らこそ「地蔵」というにふさわしい。
小塚原刑場は1651年創設。明治初年に廃止となるまで、大井競馬場(品川区)の近くにあった鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸時代の主たる刑場(お仕置き場)の一つであった。
以前あった案内板によると、
この地附近は徳川幕府初期頃より重罪者の刑に宛てた所で、昔は「浅草はりつけ場」と称されていた。刑場として開創されてから二百二十余年の間埋葬された屍体は実に二十余万と称せられるが大部分は重罪者の屍体であった。
寛文七年(1667)刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。これが現在の史跡小塚原回向院である。幕法よりすれば、憂国の志士も盗賊放火の罪人も等しく幕府の大罪人であって、これらの大罪人が伝馬町の牢獄なり小塚原の刑場において仕置きとなる時は、その遺体は非人頭に下げられ、この境内に取捨となった。故に埋葬とは名のみであって、土中に浅く穴を掘りその上にうすく土をかけおくだけであったから、雨水に洗われて手肢の土中より顕れ出ること等決して珍しくなく、特に暑中の頃は臭気紛々として鼻をつき、野犬やいたちなどが死体を喰い、残月に嘯(うそぶ)く様はこの世ながらの修羅場であった。(以下略。ソルティ適宜読点付す)
首切り地蔵は1741年に無縁供養のため建てられたという。
昔の写真に見る小塚原はたしかにぞっとするような景色である。今も地蔵の奥に並ぶ墓石の間を歩いていると、何者かに見つめられているような、何ともいたたまれない不吉さを感じざるを得ない。(霊感がなくて良かった)
が、延命寺入口に立っている荒川区教育委員会作成の案内板によると、「明治30年代から昭和30年代まで、月3回地蔵の縁日が行われ、多くの露店や見世物小屋が立ち大変な賑わいを見せていた」――そうである。
人間って物好きだ。
地蔵の立つ延命寺とは常磐線の高架をはさんで、回向院がある。
まず目立つのは入口脇にある「吉展地蔵尊」。
1963年(昭和38年)に上野駅近くの公園から身代金目当てで誘拐され、2キロと離れていない南千住の円通寺で殺害遺棄された村越吉展ちゃん(当時4歳)の冥福を祈るお地蔵様である。村越家は回向院の檀家らしい。この事件の犯人小原保は事件発生後2年半経って逮捕され、1971年に死刑に処された。犯人が誘拐を思い立ったのは、黒澤明の『天国と地獄』を観たからと言われている。
境内に入ると「史蹟エリア」があって、見学できる。
ここにはいろいろな歴史上の有名人の墓がある。
安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内。
桜田門外の変で井伊直弼を襲撃した水戸藩の志士たち。
2・2・6事件の首謀者の一人であり銃殺刑に処された磯部浅一とその妻。
ねずみ小僧次郎吉。
中で、名前だけは耳にしたことがあるが、どんな人物か思い出せないものがあった。
高橋お傳(伝)。
帰宅してから調べて「ああ」と思った。
自分が持っている「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」(新人物往来社)で紹介されている明治時代の有名な犯罪者なのであった。ちなみにこの本は、明治から平成(16年まで)に至る世情を大いに騒がした120以上の殺人事件をレポートしたものである。読んでいると、人間という種の持つ狂気、際限のない怒りや欲の恐ろしさ、犯罪に巻き込まれる者たちの業の深さに暗澹たる気持ちになること確実である。
高橋お伝は、わが国の斬首による最後の女刑死者であり、「毒婦」の代名詞であった
お伝が夫、波之助と、生まれ故郷の群馬県から横浜に出てきたのが1869年(明治2年)のこと。波之助はハンセン病であり、当時のこととて、二人は追われるようにして村を離れたのだった。お伝は料亭で働き、波之助も人足仕事に出たが、波之助はやがて寝たきりに、1873年(明治6年)、ついに亡くなった。この小川がいわゆる「武士の商法」であったらしく、二人はたちまち困窮する。ここで殺人に至る動機(=金)が発生したらしい。
一人になったお伝は東京に出、自分と同じ群馬の出の絹商人、小沢伊兵衛の妾になる。が、やがて彼女は元尾張藩士の小川市太郎と恋仲になり、小沢とは切れ、二人でお茶や桑の苗などを対象としたブローカーのような仕事を始める。(「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」、新人物往来社)
お伝が日本橋の古着商、後藤吉蔵を儲け話で誘い、蔵前の旅館の一室で同衾したのが1876年(明治9年)8月27日のことだった。色仕掛けで所持金を騙し取る算段だったが、もし話に乗ってこなかったら殺して奪おうと、彼女は懐に剃刀をしのばせていた。(上掲書)結局、当初の目的がうまくいかず、殺人→逃亡→逮捕→処刑となる。
お伝が「毒婦」として知れ渡ったきっかけは、この事件を元にした当時の小説家仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)』による。物語中でお伝は、ヤクザと斬り合ったり、スリの頭目の情婦になったり、夫を殺して海に放り込んだり、美人局をやったり・・・とまさに「毒婦」としか形容しようのない行状を重ねているらしい。(ソルティ未読) もちろん、当時人殺しに人権なぞあろうはずもなく、すべてフィクション(=出鱈目)である。
また、お伝の遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)が現在の東京大学法医学部の参考室で保存された。これをまた新聞が面白半分にネタにしたことから、お伝のもう一つの伝説が出来上がっていく。曰く「並はずれた淫乱だった。」
別の資料によると、お伝は確かに商売下手な夫を助けるため体を売って金を得ようとはしたらしいが、犯行のきっかけは相手の後藤吉蔵がコトが済んだあとに約束どおり対価を払わなかったことにカッとなって・・・とある。
どちらが本当なのだろう?
もはや真相は歴史の闇の中、お伝の墓石の下にある。
けれど、ハンセン病の夫を愛し、故郷を追われ、最期まで看病したのは事実らしい。『砂の器』を出すまでもなく、その昔ハンセン病(=癩)と言ったら、想像を絶するすさまじい差別の対象だったのである。お伝が夫を捨てて逃げ出したっておかしくなかった。世間も非難はしなかったろう。
が、お伝は夫を捨てなかった。
そのような女が「毒婦」だろうか。
「貞女」と賞賛されこそすれ、「毒婦」と蔑まれるいわれはなかろう。
都電荒川線「三ノ輪駅」から帰途に着く。
車内は巣鴨とげぬき地蔵に向かう都バスツアーのおばちゃんたちで満員だった。
壁面の広告に思わず吹き出す。