ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『シャーロック・ホームズのジャーナル』(ジューン・トムスン著)

1993年原著刊行
1996年創元推理文庫(訳:押田由起)

IMG_20230128_145344

 英国の女性ミステリー作家ジューン・トムスンによる贋作ホームズシリーズ3作目。
 今のところ、伝記『ホームズとワトスン 友情の研究』をのぞけば、全7作のミステリー短編集が発表されているようで、うち邦訳が出ているのは4作である。
 ほぼ間違いなく、既刊しているものは全部読むことになるだろう。

 シャーロキアンを喜ばせ、まずまず満足させてくれるレベルの贋作であり、謎解きとしても一定の水準をキープしている。
 原作にくらべて全般に、ホームズの推理の冴えや勘が鈍いのと、助手であり親友であり事件の記録者であるワトスンが有能である印象は受ける。
 つまり、2人の差が縮まっている感がある。
 だが、個性的な天才ホームズと忠実で信頼の置けるワトスンの篤い友情は原作そのままで、2人のやりとりから、ベーガー街221Bの薄暗いが居心地の良い部屋が眼前に浮かんでくる。
 20年以上前にイギリスに行ったとき、もちろんソルティは、221Bに建てられたシャーロック・ホームズ博物館に足を運び、至福の時を過ごしたものである。

sherlock-2640292_1920
Justin VogtによるPixabayからの画像画像

 本作には、7つの短編と付録『ふたり目のワトスン夫人の身元に関する仮説』が収録されている。
 もっとも興味深くかつ鮮やかな推理が展開されているのは、本編より付録であるのはご愛嬌。
 が、知られる限り2度の結婚歴のあるワトスン博士の、語られることなき2番目の奥さん――最初の奥さんメアリー・モーンスタンはいくつかの小説に登場する――に関する探索は、関心を持たざるを得ない。
 ワトスン博士、実はモテるのである。

 かく言うソルティも、若い頃はシャーロック・ホームズ“神推し”であったけれど、年をとるにつれてワトスン博士に惹かれるようになった。
 ワトスンという、地に足の着いた信頼すべきパートナーがそばにいるからこそ、奇態なところ多いホームズはまっとうな社会生活が送られたんじゃないかという気がする。
 恋人にするならシャーロック、結婚するならワトスン・・・・といったところか。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 千葉真一がエモすぎ! 映画:『沖縄やくざ戦争』(中島貞夫監督)

1976年東映
96分

 チャカが出てくるヤクザ映画は好きじゃないが、日本返還後の沖縄が舞台というので、当時の風俗や街の匂いが伺えたらと思い、借りてみた。

沖縄やくざ戦争DVD

 戦後沖縄のヤクザ抗争は、スターこと又吉世喜を親分とする那覇派と、ミンタミーこと新城喜史を親分とするコザ派の対立から始まったとされる。
 このあたりの模様は、真藤順丈著『宝島』に実名のままに描かれている。
 1972年の返還を前に、本土最大組織である山口組が沖縄を配下に収めようと乗り込んできた。
 これをきっかけに、那覇派とコザ派(やんばる派と改名)は大同団結した。
「ヤマトンチュウに沖縄を奪われてたまるものか!」というわけだ。
 いったん状況は落ち着いたかに見えたが、そこは抑えの効かない狂犬の集まり。
 やんばる派で起きた内部抗争が引き金となって、那覇派、山口組も入り混じえた全島を揺るがす壮絶な闘いが勃発する。

 本作は、このやんばる派の内部抗争を描いた実録風ドラマである。
 もちろん、冒頭クレジットではフィクションと銘打ってあり、登場人物に実名は使われていない。
 が、ヤンバル派⇒国頭派、新城喜史⇒国頭正剛(千葉真一)、又吉世喜⇒翁長信康(成田三樹夫)、山口組⇒旭会、と変換されていることは、ちょっと調べれば分かる。
 本作の主役である中里英雄のモデルは、新城喜史とは兄弟分でありながら、内輪もめからやんばる派を脱会することになり、その後、組織から追われることになった上原勇吉という実在した男。
 演じるは松方弘樹である。

 どこまでが事実でどこからが創作か、誰が実在した人物で誰が創作上のキャラクターか、いちいち調べる気はないけれど、全編に溢れかえる暴力と残虐と怒りと愚かさだけは、現実にあったものと変わらないだろう。
 中里の子分の一人が、国頭組に拉致監禁されたうえ、ペンチで陰茎を捩じ切られるシーンが出てくる。
 見ていて思わず腰を引いてしまった。(これは実際にあったことらしい)
 こういった映画を観ていると、ある種の男にとって、暴力とは問題を解決する手段ではなくて、目的そのものなのだとつくづく感じる。
 暴力のための暴力。
 実に阿修羅とはこういう存在を言う。

阿修羅
 
 国頭正剛を演じる千葉真一が、異次元の怪演をみせている。
 酒場で一般人相手に暴れまくったり、上半身裸になって沖縄民謡に合わせて空手の型を見せたり、猿のようにテーブルに飛び乗ったり、人間離れした無頼ぶりが精彩を放っている。
 この千葉真一の演技は一見の価値がある。
 
 ほかに、ぴちぴちジーンズ姿が若々しい渡瀬恒彦や、あいかわらず悲惨な役柄の尾藤イサオ、旭会(=山口組)幹部役の梅宮辰夫、国頭組の冷酷にしてニヒルな参謀石川役の地井武男など、東映スター大集結といった豪華さが感じられる。

 残念ながら、ある事情があって、本作は沖縄ロケを敢行できず、ほぼ全編京都撮影となったそうだ。(ウィキ「沖縄やくざ戦争」より)
 返還直後のリアルな沖縄の風景は見られなかった。

IMG_20230126_145830
松方弘樹と千葉真一、手前は地井武男




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 映画:『蠅の王』(ピーター・ブルック監督)

1963年イギリス
87分、白黒

 原作は、英国作家ウィリアム・ゴールディング(1911-1993)のノーベル文学賞受賞作。
 「蠅の王」とは聖書に出てくる悪魔ベルゼバブのこと。
 と言っても、オカルト映画ではない。
 『十五少年漂流記』の闇バージョンといった内容で、無法状態におかれた少年たちが陥った狂気を描く反ヒューマニズム・サバイバル・サスペンスである。

 飛行機事故により南海の孤島に取り残された数十人の少年たち。
 最初のうちはリーダーやルールを決めて、みんなで協力し合い、サバイバル生活を送っていた。
 が、リーダーを快く思わない一部が離反し、集団は二つに分かれる。
 次第に野性をむき出しにして獣のように狂暴になっていくグループと、最後まで人間らしく文化的に生きようとするグループ。
 次第に、狩猟にすぐれた前者に荷担していく者が増える。 
 そのうち前者は悪魔に憑りつかれたようになって、カリスマ性あるリーダーの命令のもと、後者を一人また一人と血祭りにあげていく。 

 原作を読んだのは学生時代だった。
 夏休みだったが、うなじから背中に氷を入れられたような冷感に襲われた。
 ゴールディングが本作を書いたきっかけとなったのは、彼が小学校の教員をしていた時の体験だと、解説に書かれていたのを覚えている。
 つまり、身の回りの少年たちの言動の中に常日頃、“悪魔”的なものを見ていて、それをもとにこの小説を作り上げたのである。
 「ずいぶんと観察眼ある、しかし性悪説の作家だなあ」と当時ソルティは思った。
 「よほど、生徒たちに振り回され、痛い目にあったんだろうなあ」
 
 むろん、これは一種の寓意小説である。
 少年の集団に仮託して、ゴールディングが描きたかったのは、人間の奥底に潜む支配欲や攻撃性や獣性、集団となったときの人間が帯びる負のグループダイナミズムやファッショの狂気である。
 沖縄戦や南京虐殺における日本軍の蛮行、アウシュビッツにおけるユダヤ人大量虐殺、連合赤軍やオウム真理教内部で起きていたこと、キリングフィールド(殺戮場)と呼ばれたカンボジア、スハルト政権下のインドネシア、十字軍のイスラム教徒蹂躙、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺や福田村事件、ルアンダの悲劇・・・・人類史に例は事欠かない。

 ただ、これを獣性とか鬼畜の所行と言ってしまうのは、譬えられる動物にとって迷惑千万な話であり、動物は普通ここまで同じ種に対して残虐な仕打ちはしない。
 本能によって限界が設けられている。
 本能の壊れた=自我を持つ人間だけが、この世に地獄を作り出せる。

IMG_20230124_184807
野獣グループが神と仰ぐ「蠅の王」

 原作の設定でもそうだったのかよく覚えていないのだが、悪魔化していく少年グループのコアメンバーは、もともと教会の聖歌隊であった。
 彼らは讃美歌を口ずさむながら、人間狩りをする。
 ここには強烈な皮肉がある。

 本作のラストは、「蠅の王」への贄を求める狂気集団の標的とされた元リーダーの少年が、島中を逃げ回り、あわや捕らえられる絶体絶命の瞬間、救助に来た大人と砂浜で遭遇するシーンで終わる。
 助かった!
 孤島の殺戮劇は終了した。
 最後のカットは、燃える森をバックに、安堵の涙を流す少年のアップである。

 しかし、原作のラストは違った。
 助けに来たのは、島の近くを通りかかった戦艦の乗組員、すなわち兵士であった。
 少年の瞳には、兵士が島に漕ぎつけるのに使用したボートのはるか向こうを遊弋する、巨大な戦艦の姿が映る。
 ――ジ・エンド。
 少年たちの殺戮ゲームを裁ける資格を、大人は持っているのか。
 
 この重要なラストシーンがなぜ映画ではカットされたのか、不明である。
 『蠅の王』は、1990年にハリー・フック監督によって再映画化されている。
 そちらの最後はどうなんだろう?

island-725792_1920
軍艦島
Jordy MeowによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 生まれたところに還る旅 : フライハイト交響楽団 第50回記念演奏会

日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

IMG_20230122_162901
錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

IMG_20230122_132205
すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

IMG_20230122_162954




 
 

● 田中角栄の遺言 本:『戦争の大問題 それでも戦争を選ぶのか。』(丹羽宇一郎著)

2017年東洋経済新報社

IMG_20230121_205613

 経営戦略とか組織マネジメントとかPDCAサイクルといった概念や言葉が、日本で広まり、官民問わず様々な分野で取り入れられるようになったのは、90年代に入ってからだったと思う。
 戦後ずっと日本の景気は右肩上がりで来て、80年代に空前のバブル景気を迎えたので、経営戦略とかリスクマネジメントとか特に難しいことを考えないでも、多くの企業はやって来られた。
 そこでは事実の客観的分析や的確な状況判断よりも、ワンマン社長の才覚一つとか、「みんなが心を一つにし、死ぬ気で頑張ればなんとかなる」という精神論が重きをなしていた。
 官もまた同じで、国の決めた泥縄式政策を各自治体は実施するのだが、その効果についてはなんら評価することなく、失敗しても誰も責任をとることがない。
 日本の各地に遺跡のように残る、使われていない高速道路や廃墟と化した公共施設を見れば、その証拠は十分であろう。
 こうした「日本式戦法」の最大にして最悪の失敗例が、太平洋戦争であったことは言うまでもない。
 猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』に見るように、大日本帝国は「負けると分かっていた」戦争にあえて飛び込んだ。
 そして、「負けたと分かって」からも戦争を続け、硫黄島の戦い沖縄戦カミカゼ特攻隊中国での行軍、そして広島・長崎原爆投下に代表されるような無駄死を積み上げた。
 それこそ「自虐死観」とでも言うべきものだ。
 
 そういう意味では、科学的な経営戦略や組織マネジメントが各分野で導入されるのは基本的に良いことだと思う。
 2000年に創設された介護保険制度など、まさにPDCAサイクルを利用したケアマネジメントが主軸である。
 グローバル化した世界の中で生き残るには、やはり、運まかせ・天まかせ・神風まかせではいけない。
 事実をもとにした冷徹な状況判断と情勢予測、巧みな戦略と戦術、成員の持てる力を十全に発揮させる組織マネジメントが必要であろう。 
 企業運営しかり、国家運営しかり。
 

mark-516278_1920
Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 著者の丹羽宇一郎は、1939年愛知県生まれ。
 伊藤忠商事の社長として約4000億円の負債を処理したうえ、同社史上の最高益を記録。
 内閣府の委員や日本郵政取締役やWFP(国際食糧計画)会長を歴任したのち、2010年に民間出身では初の中国大使に就任。本著刊行時、公益社団法人「日中友好協会」の会長を務めている。
 つまり、卓越した企業家であり、政治・経済・外交・国際情勢にも明るく、組織運営に長けた人である。
 実社会を肌で知っている人であり、お坊ちゃま育ちの2世、3世議員や体制べったりの太鼓持ち学者のような、最初に結論ありきの机上の空論を振り回す人ではない。
 本書はこのような著者による戦争論、安全保障論、国防論ということができる。
 その言は、『新国防論』の伊勢崎賢治同様、信頼に値する。
 
 まさに、成功した企業家ならではの客観的にして合理的な論述が、非常にわかりやすく展開されている。すなわち、

① エビデンス(根拠となる事実)の収集
  • 過去の日米戦の推移
  • 戦争体験者から聞いた戦場の真実
  • 日本・アメリカ・中国・北朝鮮の軍事力や国力の評価
② 状況把握&情勢分析
  • 各国の思惑と関係性
  • 日米安保の信頼性(日本が中国と戦争になったら、アメリカは加勢してくれるのか?)
  • 国際情勢と国際社会のオピニオン潮流、日本に対する評価
  • 軍事力や核による抑止効果の査定
  • 戦争することによる利益と損失の分析
③ 方針決定
  • 日本は戦争はしてはならない、巻き込まれてはならない
  • 外交による安全保障政策こそ第一であり、軍事力増強は次善の策
④ 戦略&戦術策定
  • 各国との付き合い方
  • 国民への啓発はいかにあるべきか

 昭和14年生まれの著者は当然戦地には行っていないし、戦時中の日本をよく覚えていない。
 そこで、実際に戦地に派遣され戦争を体験してきた人たち(その数は少なくなっている)に取材し、思い出すのもつらい事実――被害だけでなく加害の!――を聞きとっている。
 本書の一番の美点は、戦争体験者の証言が核となっている点である。
 そう。戦争について何か言おうとするのなら、実際の戦場を知る人間の話に耳を傾けることから始めるのが当然である。
 中国や北朝鮮の脅威をしきりに煽り、憲法改正や軍備増強を訴える保守右翼の人たちや国会議員には、まず著者のこの姿勢をこそ学んでもらいたいものだ。
 戦場の真実というエビデンスをもとにしない方針や戦略など、ソルティは認めない。
 (ちなみに、少子化対策について考えるなら、まず子供を産む性である女性たちに意見を求めるのが常識だと思うのだが、なぜそれをしないのか? 女性たちが「産みたい」と思う対策を講じない限り、何をやっても無駄なのに・・・)

DSCN5598
沖縄南部海岸沿いにある魂魄(こんぱく)の塔
沖縄戦で亡くなった約35,000人の遺骨が納められている。

 以下、引用。
 量が多くなるが、本書にはそれだけ重要な文章が多い。
 しかもこれらは、ソルティの小さな頃(60~70年代)はあたりまえに日本のメディアを占めていた言葉ばかり。
 しばらくぶりに出会った「まっとうな」言葉の数々に、思いがけず落涙した。
 これが戦後昭和の大人の良心であった。 
 
 責任をとる覚悟のない人間は、企業であれ、国であれ、組織のトップをやるべきではない。
 優等生ばかりの集団は、自分の保身に頭を使うが、責任を取ることを躊躇する。戦前の日本政府でも、同じことがあったのだと思う。

 戦争は人を狂わせる。繰り返すが、日本国内にいたときは、ほとんどの兵士は善良な市民である。善良な市民も戦場では鬼畜・悪鬼の振る舞いができるのである。それが戦争なのだ。

 戦術の誤りは戦略で補うことができるが、戦略の誤りを戦術で補うことはできない。これは鉄則中の鉄則である。この鉄則に、企業も国家も変わりはない。ところが戦前の日本の指導者は、この鉄則さえ守ろうとしていない。戦略の誤りを兵士や国民の犠牲という戦術で補おうとしたのだ。戦前日本の精神主義は、その一例である。

 国力とは、その国の国民の質と量の掛け算である。土地は借りればよいし、資源は買ってくればよい。しかし、質の高い国民を買ってくることも、戦争で獲得することもできない。質の高い国民は、自国で育てるしかないのだ。
 その国民を戦争の犠牲にして、益のない領土を守ったり、無理に他国から資源を奪うことにどれだけ合理性があるだろうか。これもまた、本末転倒である。

 防衛力と安全保障は軍事と政治という明らかに違う世界である。これを混同した議論をしてはいけない。
 安全保障政策とは国際政治である。
 国際政治とは冷徹に国際関係上の利害を計算し、最も有利な選択をすることだ。そこに「共通の思想や価値観」などというイデオロギーの入り込むすき間はない。単に中国が嫌いという情緒論をベースにした議論も国際政治ではあり得ない。嫌いな相手とでも我が国に有利となれば友好関係を結ぶのが国際政治であり、安全保障政策である。

 防衛費を増やすことができるのは国内経済が拡大するからで、国内経済を犠牲にして防衛費だけを増やすことはできないのだ。したがって抑止力を無制限に拡大するという戦略は、成熟経済下の我が国では選択できない。

 日本の現代史は“敗者の物語”であるが、私も日本人はあえて敗者の歴史を、勇気を持って学ぶべきと思う。普通の国は“勝者の物語”を勉強するが、日本が目指すべきは敗者の歴史も真摯に検証していく特別な“歴史”の学び方である。・・・・・・・
 戦争は国民を犠牲にする。
 戦争で得する人はいない。
 結局みんなが損をする。
 特に弱い立場の人ほど犠牲になる。
 日本は二度と戦争をしてはいけない。
 これらは敗者の歴史からしか学べない重要なことだ。だから日本人は敗北の現代史を学ぶべきなのである。
 
 民意はときに過ちを犯すということが、民主主義の最大のウィークポイントだ。
 最大の過ちは戦争である。政治家の使命の第一は、国を戦争に導かないことだ。国益のために戦争も辞さずという声を聞くこともあるが、その国益とはいったい何なのか。国民を犠牲にして成り立つ国益などあろうはずがない。

 最後に、自民党総裁で内閣総理大臣だった田中角栄が、いつも新人議員に語っていたという言葉。

 戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない。 

Kakuei_Tanaka
毀誉褒貶ある人だった




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 本:『飛ぶ教室』(エーリッヒ・ケストナー著)

1933年原著刊行
2003年講談社文庫

IMG_20230119_094218


 児童文学の傑作として名高いが、未読であった(おそらく)。
 タイトルからして、楳図かずお『漂流教室』のようなSF設定、あるいは主人公ドロシーが家ごと飛ばされる『オズの魔法使い』のようなファンタジーなのかと思っていた。
 が、蓋を開けたら違った。
 ドイツの寄宿学校を舞台とする普通(BL色なし)の少年小説である。
 個性的で腕白な5人の少年を主人公に、ケンカや友情や尊敬する教師との心温まるエピソードなどが描かれる。
 「飛ぶ教室」というのは、彼等がクリスマスの余興として体育館で上演する創作芝居のタイトルであった。
 
 評判通り、実に楽しく、面白く、感動的で、心が洗われる。
 友情、正義、勇気、誇り、思いやり、感謝、かしこさ、自由、寛容、誠実、親子の情愛といった古き良きドイツの価値――それはまた人類に普遍的な良き価値でもある――が、押しつけがましさのない、ユーモアたっぷりの語りのうちに謳われている。
 本作の刊行年を思うとき、これはある種の奇跡といった気がしてくる。

 というのも、1933年こそはナチス=ヒトラーが政権をとった年であり、ドイツという国がファシズムの狂気とジェノサイドへと突き進むスタートを切った年だからである。
 戦争末期のドイツ領の様子を描いた身辺雑記である『ケストナーの終戦日記』に見るように、自由主義・民主主義の立場を貫いたケストナーはナチスに目をつけられ、二度逮捕され、執筆を禁じられ、著書を焼かれた。
 本作のような小説はこれを最後に書くことができなくなったし、そもそも現実のドイツ自体が、ドイツの教育現場自体が、ここに書かれている自由と友愛と正義の空気をまったく失ってしまったのは言うまでもない。
 友が友を裏切り、子供が親を売り渡し、隣人同士が疑心暗鬼に陥った時代であった。
 そうした暗黒の夜に突入するぎりぎり直前に、最後の光線のごとく放たれたのが本作だったのである。
 本作にはかなり長めの「まえがき」がついている。
 その中でケストナーは次のように語っている。

 かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて――いままではしばしばまちがって考えられてきましたが――人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。 

 ケストナーは相当の危機感を抱いていたのは間違いない。






おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








 

● この世は地獄じゃ 本:『時間』(堀田善衛著)

1955年新潮社より刊行
2015年岩波現代文庫

IMG_20230105_190216


 ニノ、こと二宮和也主演『硫黄島からの手紙』の記事において、敵国であった日本人の視点に立って過去の日米戦を描き出したクリント・イーストウッド監督の凄さについて讃え、それと同じことができる、つまり中国人の視点に立って日中戦を描ける日本の監督がはたしているか、と問うた。
 映画監督はいざ知らず、小説家はいたのである。
 堀田善衛がその人であった。
 この『時間』という小説は、一中国人の視点から、1937年12月13日に起きた南京虐殺の模様を描いた作品である。

 南京城は、城壁に囲まれた一つの熱風炉であって、そこでは人間の血も精液も、涙も汗も、要するに人間が外部に吐き出し得る一切のものがどろどろに熱せられ溶け混りあい漂い、その上に、怒りや嘆きや悲しみやの濃いガスがかかり、このどろどろは家をも人をも溺没させ、いまにも城壁を越して熔岩のように長江へと溢れ出てゆこうとする・・・・
 (本文より、以下同) 

 語り手は、陳英諦という名の南京に住む中国人。
 当時中国は、蒋介石をリーダーとする国民党と毛沢東をリーダーとする共産党とが覇権争いをしていたが、1937年の日中戦争勃発を機に国共合作し、抗日戦線を組んでいた。
 陳英諦は、国民党政府の首都である南京に、妊娠中の妻と幼い息子と暮らしていた。
 世間向けには海軍部につとめる役人であるが、本当の正体は政府の諜報員であった。
 各地で勝利を重ねながら南下してくる日本軍の猛攻を前に、国民党政府が漢口に一斉避難した後も、なお南京に残って、家の地下に隠された無電機を使って、南京の状況を党中央に伝える役目を負っていた。
 ゆえに、陳一家は南京から逃れられなかったのである。

 本作は陳の日記という体裁なので、とても読みやすく、かつリアルで臨場感がある。
 政府の重鎮の一人として漢口へと出航する兄を見送る1937年11月30日から始まり、日本軍の南京入城および虐殺事件、傀儡政権である中華民国維新政府の樹立をはさみ、日本が国際連盟と完全に袂を分かった1938年10月3日までが描かれる。
 その間に、陳一家は鬼子(くいず)こと日本軍に捕らわれ、他の住民と一緒に近所の小学校に集められ、虐殺の真っただ中に投げ込まれた。
 陳の妻・莫愁は胎児と共に殺され、浮浪児になった息子・英武は日本軍の番兵に斬り殺され、一家のもとに身を寄せていた若い従妹・楊は集団レイプされて妊娠堕胎を経たうえ、麻薬づけにされる。
 からくも生き延びた陳は、日本軍に収用された我が家に戻り、桐野大尉の従僕として仕えながら、深夜になるとこっそり地下室に潜って諜報の仕事を行う。
 
 12月13日の南京虐殺の模様は、半年たってからようやく日記に書かれる。
 つまり、1937年12月11日のあとは空白になって、次の日付は翌年5月10日になっている。 
 陳が環境的にも精神的にも日記を書ける程度の落ち着きを取り戻すまで半年の月日を必要としたという意味であるが、それゆえ、虐殺の生々しい描写であるとか陳自身の慟哭や悲しみや怒りといった激しい感情の吐露は抑えられている。
 またそれは、国際的にも高く評価された堀田の筆をもってしても、十分に描き切れるものではなかっただろう。


architecture-2187968_1920
現在の南京(lujunjunzhangによるPixabayからの画像)

 本書の主要なテーマを言うなら、戦争のむごさ、戦争という非日常的「時間」に見られる人間性といったあたりになろう。
 その点では、中世ヨーロッパの十字軍の異端カタリ派に対する暴虐を描いた、同じ著者の『路上の人』と共通する。
 傲慢不遜で差別的で不寛容な精神――『路上の人』では法王を頂点とする正統派カトリックのそれ、『時間』では天皇を頂点とする大日本帝国のそれ――が、神の名のもとに美辞麗句を掲げながら、いかに残酷非道なことをなし得るか、文明や法や恥や良心という縛りを解かれた人間がいかに野蛮になり得るか。
 人間性のもつ底知れない残虐性がむき出しにされている。
 ソルティが堀田善衛を読むのはこれが2冊目なので断言できないけれど、堀田善衛という作家の資質として、人間に対する不信や絶望、この世に対する悲観といった「ニヒリズム」に近いものがあったのではないか。
 ショーペンハウアやエミール・シオランやシモーヌ・ヴェイユ、そして最近よく話題となる反出生主義(「親ガチャ」もその変形だろう)に近い志向を感じる。
 あるいは、仏教か・・・。
 
 今一つのテーマは、被害者である一中国人を語り手に置くことで、外から見た日本という国家、日本人という国民を描き出そうという試みにある。
 これが可能だったのは、堀田自身が太平洋戦争中の1945年3月から戦後の1947年12月までの2年半以上を上海で過ごし、中国国民党宣伝部に徴用された経験をもつからである。
 中国文化や中国人をよく理解していたので、中国人を主人公にできたのである。
 とはいえ、陳英諦は堀田善衛の分身でもある。

 逃亡と暴発、これが南京暴行の潜在的理由ではないだろうか。いま中国にあって、彼(ソルティ注:陳を従僕として使っている桐野大尉)は自分が日本人であるという当然事にさえ苦しむ。中国侵略は、彼等にとっては、心理的には、こうした、一種の日本脱出の夢の実現だったのではないか。がしかし、どこにいようとも、日本人であることをやめることは、出来ない。
 彼等は国際連盟、つまりは国際社会からさえも脱退し逃亡しようと夢見る。孤独に堪えずして他国に押し込み、押し込むことによって孤立する。やがて全世界(彼ら自身の民衆も含めて)を征服しない限り、そして征服してもなお、破滅するだろう。全世界の征服と、全世界からの逃亡とは、彼等にとって同義語ではなかろうか。孤立、破滅、そこに一種の美観にも似たものがあるらしい。

 そうか!
 あの当時、日本という国自体が、全世界に対するテロリズムを行っていたのか。
 「自分が滅ぶか、世界が滅ぶか」という二者択一妄想に追い込まれていたのだ。
 上記の文章は、笠井潔が『8・15と3・15 戦後史の死角』の中で説いた日本人の心性(=ニッポン・イデオロギー)の分析と通じるものがある。

 生産経済が普及して以降の日本列島住民の心性は、不適切な自然環境で稲作を選好した事実を規定としている。過重で単調な反復作業に耐え(「頑張ればなんとかなる」)、しかも集団的な農作業(「みんなで一緒に」)のため共同体的な相互抑圧に耐えるという二点が、この国の住民の心性を根本的に規定してきた。
 この精神的抑圧が、ときとして「日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)」という激情の嵐を生じさせる。しかも「忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現れる」。 
(笠井潔著『8・15と3・15 戦後史の死角』NHK出版より)

sacred-4938792_1920
May_hokkaidoによるPixabayからの画像画像:


 堀田善衛の資質としてニヒリズムへの志向ということを上げたけれど、それと同時に、ニヒリズムに傾斜することに対する抵抗も上げなければいけない。
 絶望や悲観主義に陥り、諦観や虚無に捕われ、意志的な行動を放棄することを、堀田は戒める。
 現世における闘いを捨て去り、来世や天上に望みをつなぐだけの生き方に、陳の口を借りて警醒する。

 戦争は、宿命論的な感情をもっとも深く満足させる。平和とは、戦争がないという消極的な事柄であるよりも、むしろ、奴隷的な宿命論や、破滅的な人生観に屈従せぬということなのだ。

 自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は、見出されえない。これが抵抗の原理原則だ。この原理原則にはずれた闘いは、すべて罪、罪悪である。莫愁を殺し、その腹のなかの子を殺し、英武を殺し、南京だけで数万の人間を凌辱した人間達は、彼等自身との闘いを、その意志を悉く放棄した人間達であった。

 ニヒリストとは、いつもいつも触発されてばかりいる人のことをいうのだ。

 人間認識と社会認識のあいだに、戴然たる裂け目がある。分裂しているのだ。前者は、何等かの信仰、神の方へと向おうとし、後者は組織の方へ向おうとする。それらの統一された、主体的な存在でありたいという渇望を別とすれば、こうした状況は、別に不思議なことでも嘆かわしいことでもない。普通のことなのだ、人間の条件なのだ。この両者を結ぶもの、あるいはこの両者を同時に生きているものがわれわれの身体なのだ。

 堀田善衛は、宮崎駿が最も尊敬する作家の一人だという。
 ゼロ戦設計者である堀越二郎の半生を描いた宮崎の『風立ちぬ』を観ると、その理由がわかるような気がする。
 虚無(ニヒリズム)へと人を誘いかねない人生の無意味さや残酷さ、人の命の儚さを前にして、それでも「生きよ」と宮崎監督は告げていた。

 本文庫は作家の辺見庸が解説を書いている。
 これ以上にふさわしい人選はないだろう。
 この小説の今読まれるべき意義を訴える素晴らしい解説である。
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● その火を飛び越して来い 映画:『潮騒』(森永健次郎監督)

1964年日活
82分、カラー

 三島由紀夫原作のこの有名なロマンスはこれまでに5回映画化されている。
  • 1954年(昭和29年) 監督:谷口千吉 主演:青山京子&久保明
  • 1964年(昭和39年) 監督:森永健次郎 主演:吉永小百合&浜田光夫
  • 1971年(昭和46年) 監督:森谷司郎 主演:小野里みどり&朝比奈逸人
  • 1975年(昭和50年) 監督:西河克己 主演:山口百恵&三浦友和
  • 1985年(昭和60年) 監督:小谷承靖 主演:堀ちえみ&鶴見辰吾
 ソルティ世代(60年代前半生まれ)は、百友コンビの1975年版に思い入れが深い。
 団塊の世代なら、当然、小百合サマ主演の本作であろう。
 同時上映が、石原裕次郎&浅丘ルリ子の『夕陽の丘』(松尾昭典監督)だったというから、今思えば最高に贅沢なプログラムである。
 他にも、個性的な風貌とたしかな演技力で気を吐いた石山健二郎、清川虹子、高橋とよ等ベテランが脇を固めており、伊勢湾にある神島の美しい風景や中林淳誠による抒情的なギターBGMと相俟って、質の良い映画に仕上がっている。
 半世紀以上前の日本の小島の漁村文化の風景は、記録としても興味深い。
 (神島に行ってみたいな)

神島
ウィキペディア「神島」より

 原作者である三島は第1作の1954年版を気に入っていたらしいが、本作はどう評価したのだろうか?
 気になるところである。
 とりわけ、主役の漁師久保新治を演じた浜田光夫をどう思っただろう?
 ソルティの受けた感じでは、浜田は演技は悪くないが、都会的な匂いが多分にあり(潮の匂いというより地下鉄の匂い)、漁師としての肉体的逞しさにも欠けるように思う。
 ふんどしも似合わないだろう。(有名な「その火を飛び越して来い」のシーンではふんどし姿にならない)
 個人的には過去5作の新治役の中では鶴見辰吾が一番イメージ的にしっくりくるが、まあ全作観ていないので何とも言えない。

IMG_20230115_132400
有名な「火越え」シーン
原作の書かれた50年代には神島にジーンズは入ってなかったろう

 小百合サマはあいかわらず可愛らしく華がある。
 美少女には間違いないけれど、角度によっては意外と芋っぽく見える瞬間があり、島の長者の娘初江として、それほど場違いな感じはしない。
 なにより溌剌としたオーラーが若さを発散して惹きつける。
 
 島の海女たちのリーダーおはる(高橋とよ)が、初江(小百合)が生娘かどうか確かめるため、仕事を終えた仲間と語らう浜辺で、初江の乳房を観察するシーンがある。
 80年代までなら上映に際して別になんら問題の生じなかったシーンであるけれど、令和の現在はなんらかの脚色(=取り繕い)が必要になって来よう。
 この小説が、85年を最後に映画化されていないのは、そのあたりの事情もあるのかな?
 昭和文学ってのは、ジェンダー視点からはかなり悪者になってしまった。
 
IMG_20230115_140855
小百合の乳房を確認する高橋とよ
このあと「おらのは古漬けだ」というセリフが来る






おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画:『メイズ・ランナー』(ウェス・ボール監督)

2014年アメリカ
113分

 原作はジェームズ・ダシュナーが2009年に発表したヤングアダルトSF小説。
 『メイズ・ランナー』の題名で角川文庫から邦訳が出ている。
 巨大な迷路(Maze)の真ん中に閉じ込められた若者たちの脱出劇を描くシチュエイション・スリラーである。

迷路
 
 意識と記憶を奪われて、ある日突然、迷路の中に放り込まれた若者たち。
 迷路をつくる分厚い壁は日々縦横無尽に移動し、迷路の中には獰猛醜悪なサソリを思わす怪物が棲んでいるので、容易には抜け出すことができない。
 外的環境の厳しさのみならず、主導権を巡っての仲間割れなど内的事情もなまなかなものではない。

 観ていて想起したのは、貴志祐介のサバイバル・ホラー『クリムゾンの迷宮』。
 あの作品と同様、迷路の中の若者たちを外部からモニターで監視する大人たちがいる。
 その目的はいったい何なのか?

 借りたときは気づかなかったが、映画は原作同様3部作仕立てであった。
 よって、謎が解明されず、若者たちの置かれている状況も理解できず、無事迷路を脱した者たちの苦難も去らないまま、続編に続く。
 しかし、ソルティはもう続きを追うことはないだろう。
 あくまでヤングアダルト向け。
 内容も映像もゲーム感覚である。
 いち早く抜けることにした。
 
 


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







 

● 鎌倉殿の血統 本:『新・沖縄ノート 沖縄よ、甘えるな!』(惠隆之介著)

2015年WAC株式会社

IMG_20230105_190315


 大江健三郎の『沖縄ノート』を探している時に本書を知った。
 ソルティは著者の惠隆之介については何も知らなかったが、発行元のWACは『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男著)の版元なので、読む前からバイアスがかかってしまうのは致し方あるまい。
 いわゆる安倍元首相シンパ、雑誌『Hanada』周辺にたむろするジャーナリストの一人である。

 本書の内容を簡単に言えば、

 中国の脅威が迫っている。
 このまま行けば、沖縄は中国に奪われる。
 沖縄にいる左翼グループもその手引きをしている。
 それをかろうじて守ってくれるのが米軍であり米軍基地なのに、沖縄県民はもとより日本人の多くがそこを理解していない。
 沖縄県民と来た日には、戦後沖縄の復興と民度向上に多大なる貢献をしてくれた米軍への感謝を忘れている。
 それどころか、米軍基地あることをネタに、政府から多額の補助金を引き出すことに汲々としている。
 普天間飛行場の辺野古への移設反対運動をするなど、もってのほかである。
 危険な左翼思想に侵された沖縄の教育界やメディアなどを、日本政府が強権をもって糺さなければ、とんでもないことになる。
 沖縄よ、甘えるな! 

 ――ということになろう。

 内容についてここでとやかく言うつもりはない。
 著者が昨今のアジア情勢に非常な危機感を抱き、早急な対策すなわち日本の軍事力強化と日米同盟の緊密化を求めていることは確かである。
 一つの視点としてそれは理解した。
 
 ソルティが一番気になったのは、恵隆之介が1954年コザ市(現沖縄市)生まれだという点である。
 いくつの時まで沖縄にいたのか知らないが、真藤順丈著『宝島』に描かれているような戦後沖縄を少年時代にリアルタイムで見てきたはずである。
 年長の肉親や親戚には沖縄戦で無惨な最期を遂げた者も少なくないだろう。
 同年代の知人の中には、米兵による性暴力の被害を受けた女子だっていることであろう。
 それがなぜ、海上自衛隊に入ることになったのか?
 そこをなぜたった4年で辞めて、琉球銀行に転職することになったのか?
 いつから親米家になったのか? 
 なぜジャ-ナリズムの世界に飛び込み、本書のような作品を書くことになったのか?
 どうして、生まれ故郷の沖縄の多くの人々の気持ちを逆撫でするような思想を持ち、沖縄県民を愚弄するような発言をするようになったのか?
 ソルティが知りたいと思うのは、惠隆之介当人の幼児体験であり、育ちであり、トラウマであり、思想形成であり、つまるところアイデンティティ形成である。

 沖縄県民の特性は、理念闘争に終始して物事の本質を見失う欠点がある。なにより、演繹的思考に乏しい。これは亜熱帯の気候に主因がある。(本書より) 
 
 ブーメラン?

 ある人間が右翼的になり、ある人間が左翼的になるのは、いったいどんな原因や背景によるものなのだろう?
 
bowling-148754_1280
 
 本書を読んで、沖縄の歴史に興味を持った。
 初めて知ったのだが、琉球王国の開祖である舜天(しゅんてん1166-1237)は、沖縄に流れ着いた源為朝と土地の豪族の娘との間にできた子供だという。
 源為朝と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父である。
 つまり、貴種流離譚であり、落ち武者伝説なのだ。
 おそらく伝説の域を出ない物語だとは思うが、沖縄の男の名前に「朝」がつくことが多いのはそのせいであったか、と合点がいった。
 鎌倉殿の血統が首里城の主だったと思うと、なんだか面白い。
 もしかすると、ソルティの沖縄戦跡めぐりは、源実朝の計らいだったのか・・・。
 
 世の中は つねにもがもな 渚こぐ
 海人の小舟の つなでかなしも

(波打ち際を綱に引かれながら漕いでいる小舟。なんとしみじみと平和な光景だろう。こんな世が続くといいのになあ~)


青龍寺の猫
四国遍路第38番札所・青龍寺付近の浜辺 

 

おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● R65-(65歳以上、鑑賞注意) 映画:『パーフェクト・ケア』(J・ブレイクソン監督)

2020年アメリカ
118分

 介護業界の闇をテーマにしたクライムサスペンス。
 原題は I Care a Lot 「ケアにかかりきり」ってところか。
 
 医師によって認知症の診断を下された独り暮らしの高齢女性ジェニファーが、高級老人ホームに無理矢理閉じ込められて、家や車や財産など一切合切を悪徳後見人マーラに巻き上げられてしまうまでが前半。
 ジェニファーの息子ローマンは実は裏社会のボスであることが判明し、母親を取り戻そうとするローマン一味とそれに抗うジェニファーとが死闘を繰り広げるのが後半。

 女だてらに(と言うと男女差別の叱りを受けそうだが)元ロシアンマフィアのボスに逆らい、瀕死の目にあわされながらも驚異的なガッツでサバイバルし、あまつさえボスに復讐を企てるマーラの闘志とパワーがとにかく凄い。
 アクション満載の後半は、最後までどう決着するか読めないスリリングな展開で、映像から目が離せない。
 マーラを演じるロザムンド・パイクは、デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』でも、目的の為なら手段を選ばぬソシオパス(反社会性人格障害)の妻を好演していた。
 かつてジェーン・オースティンの名作『プライドと偏見』(ジョー・ライト監督2005年)で純粋でお人好しのお嬢様ジェーン・ベネットを演じていたのと同じ人間と思えない、女優としてのたしかな成長ぶり。
 しかも、ここでパイクが演じるマーラはレズビアンという設定で、恋人女性とのラブシーンもある。
 生きるのに男を必要としない女性2人が、男尊女卑の父権社会に敢然と立ち向かい、自力でのし上がっていくフェミニズムな物語と読むこともできる。
 その意味で、リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(1991)を想起した。

kiss-2897402_1920
Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像

 しかしながら、本作の最も独創的でゾッとするところは、淡々とした前半である。
 認知症高齢者の身上保護や財産管理を後見する人間が、もし悪徳で強欲だった場合、何が起こりうるかを描いて、この上なく恐ろしい。

 ジェニファー・ピーターソン(往年の名女優ダイアン・ウィースト演ず)は、一人暮らしなれども何不自由ない快適な老後を送っていた。
 ある日突然、後見人を名乗る女が戸口に現れて、「あなたは認知症のため、医師と裁判所の指示により医療保護のもとに置かれることになりました。私があなたの後見人です」と告げる。
 誰かに連絡とる暇も与えられず、警官付き添いで車に乗せられ老人ホームに連れていかれ、そのまま一室に閉じ込められる。
 安全とプライバシーの名のもと、外に出ることも電話をかけることも叶わない。
 その間に、財産は整理され、車と家は売却され、銀行の個人金庫は空にされる。
 以上すべてが、正式な医師の診断書と裁判所の公式な手続きのもとに遂行されていく。

 ジェニファーは実際には認知症ではなかった。
 マーラと手を組んだ悪徳医師が偽の診断書を作成し、マーラの息のかかった高級老人ホームに“合法的に”送致されたのであった。つまり、グルなのだ。
 知らないうちに認知症にさせられ、それを否認する言葉を周囲の誰も信じてくれないという恐怖。(なぜなら、「認知症患者の多くは自らが認知症だとは認めない」というのは通説になっているから)
 本人にしてみれば、カフカの小説の主人公が味わうような悪夢であろう。
 実際にありそうな話だから怖い。

 しかしながら、当人が本当に認知症であったとしても、一方的に診断を受け、無理矢理施設に入れられる理不尽と恐怖は同じようなものだろう。
 自分を認知症と思っていない本人は、全然納得していないのだから。
 ソルティが介護施設に務めていた時、ベッド脇のナースコールをマイクのように握りしめて、「もしもし、すぐに110番してください。わたしは誘拐されてここに閉じ込められています。助けに来てください」と日々繰り返していた80代の女性がいた。
 戦争も貧苦も乗り越えて80過ぎまで生きてきて、最後にこんな目に遭わされるなんて!
 彼女の目には、介護者であるソルティもまた、恐ろしく冷酷な牢番に映っていたであろう。

care-costs-63612_1280
Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 日本でも認知症、知的障害、精神障害など判断能力が十分でない人の権利と財産を守るための成年後見制度というものがある。
 たいていは、妻や夫や娘息子など家族が後見人になるのだが、身寄りのない人や家族が適任でないとみなされた場合は、弁護士や行政書士などが選任される。
 後見人がこの映画のマーラーのような人物だったら、当人はそれこそ尻の毛まで抜かれてしまうだろう。
 また、後見人でなくとも、悪徳老人ホームの理事長が認知症入居者の財産を掠め取っていたという話はしばしばニュースにのぼる。
 財産ってのは、あればあるでトラブルが絶えないものだ。(負け惜しみ)

 お金持ちの65歳以上の人は余計な不安が募ると思うので、本作の鑑賞をお勧めしない。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● アムロ世代 本:『宝島』(真藤順丈著)

2018年講談社

IMG_20230108_120314


 『宝島』と言えばスティーヴンソンの冒険小説であるが、本作もある意味、冒険小説と言えないこともない。
 悪漢を主人公としたピカレスクロマン(悪漢小説)の風味があるからだ。
 代表的なピカレスクロマンの主人公と言えば、アルセーヌ・ルパンや石川五右衛門や『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士や『悪の教典』の蓮実聖司あたりだろう。
 映画では、『ジョーカー』やエミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』にとどめを刺す。
 本作の主人公らは、米軍基地からの窃盗行為を繰り返す「戦果アギヤー」と呼ばれる若者たち。
 
 ただ、本作がピカレスクロマンあるいはミステリーあるいは青春小説というジャンルにどうあっても収まらないのは、宝島とはすなわち沖縄のことであり、本作で語られるのは1952年から1972年の沖縄――サンフランシスコ平和条約締結から本土返還に至るまでの沖縄――が舞台となっているからである。
 GHQによる占領が終わり主権回復、経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに言い放った本土の平和と繁栄の陰で、いまだ米軍による占領が続いていた沖縄20年間の苦闘の歴史である。

 読み終わるまで知らなかったが、本作は2019年に直木賞を受賞している。
 当然評判になり、ベストセラーの一角を占め、多くの人――ヤマトンチュウ(本土出身者)もウチナンチュウ(沖縄出身者)も――が手に取ったことだろう。
 出身地により、世代により、政治信条により、それぞれどんな感想を持ったのだろうか。
 
 少なくとも一つ言えるのは、沖縄戦の実態とその後の米軍基地をめぐる問題についてある程度知っている読者と、本作で初めてそれに触れた読者とでは、まったく読みの深さが異なるだろうということである。
 本作には20年間に実際に沖縄であった事件――米兵による現地婦女子レイプ殺害事件、石川市(現うるま市)宮森小学校への米軍戦闘機墜落事故、地元ヤクザの那覇派とコザ派の対立、コザ暴動など――がたくさん出てくるし、実在の人物も実名のまま多く登場する。
 また、「特飲街、Aサイン、オフリミッツ」といった戦後沖縄の風俗シーンを彩った用語も詳しい説明なしに使用されるし、「ウタキ(御嶽)、ユタ、ニライカナイ」など古くからの琉球文化の重要な概念にも触れられる。

 読者が沖縄のことを知っていれば知っているだけ、本書の深みと魅力はいや増すに違いない。
 登場するウチナンチュウたちの心情にも一歩なりとも近寄ることができよう。
 ソルティはここ半年で、実際の戦跡めぐりも含め、ずいぶん沖縄戦や戦後の沖縄事情を学んできたこともあって(沖縄のスピリチュアル文化については永久保貴一の漫画で学んだ)、本書を読むに際してわからない用語や概念がほとんどなかった。
 戦後沖縄で実際にあったこと、あるいはあっても全然おかしくなかったことの記述なのか、それとも話を盛り上げるために作者が誇張して創作しているのか、と戸惑うこともなかった。
 主人公たちにも自然と共感できた。
 これがもし半年前に読んでいたら、幕の向こうから触れるみたいなもどかしさやリアリティへの疑問を感じたかもしれない。
 つくづく本との出会いにはタイミングが重要だと思う。

 もちろん、事前にこういった知識を持たぬ読者でも、理解できて楽しめるような物語性やキャラの魅力は有しているし、本書を読むことで若い読者が沖縄文化や沖縄問題に興味を持ち、調べ考えるきっかけになれば何よりであろう。

DSCN5737


 一番の驚きは、本書を書いたのが沖縄出身の作家、少なくとも沖縄在住経験の長い本土生まれの作家とばかり思っていたのだが、そうではなく、1977年東京生まれ東京育ちの男であるということ。
 沖縄返還後の生まれではないか!
 よくまあ、並み居るベテラン作家が怖気づくようなこの戦後最大級の重いテーマを取り上げて、よく取材し、よく小説化したなあと、その度胸と力量に感心した。
 逆に言えば、安室奈美恵と同年生まれの作家だからこそ、「沖縄問題」に対して無用な偏見やイメージや固定観念を持たず、想像力を縛られることなく、真正面から立ち向かえたのかもしれない。

 直木賞受賞の価値は十分ある。
 が、それ以上に本書の価値を高めるのは、『沖縄アンダーグラウンド』と一緒に受けた「沖縄書店大賞」の受賞であろう。
 ウチナンチュウの書店員らに選ばれたことは、真藤が沖縄の人々の思いをしっかりと受け止めて、表現し得た証拠であると思う。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサート2023


日時: 2023年1月8日(日)
会場: 豊島区立芸術文化劇場(東京建物ブリリアホール)
曲目:
  • ベートーヴェン: 交響曲第7番
  • 武満徹: 系図 -若い人たちのための音楽詩-
  • ストラヴィンスキー: バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
指揮: 和田 一樹
アコーディオン: 大田智美
語り: 都立千早高等学校演劇部員

 昨年は和田一樹の素晴らしいマーラー1番で幕を閉じたが、年明けも和田一樹となった。
 2019年11月開館のブリリアホール(豊島区立芸術文化劇場)に行くのは初めて。
 池袋駅東口(西武があるほうが東口である)から徒歩5分、お隣が豊島区役所。
 この辺を訪れるのは10年ぶり。 
 かつてホームレスや終電逃した酔っ払いのたまり場であった中池袋公園が、明るくモダンな都市空間に変貌しているのにビックリした。
 ソルティも20代の会社員時代、ここのベンチで朝焼けとカラスに蹂躙されたこと度々。

IMG_20230108_194427
池袋駅東口

IMG_20230108_194349
ブリリアホール

IMG_20230108_194240
ホール前の中池袋公園

 TVドラマ『のだめカンタービレ』で一躍人気ナンバーとなったベートーヴェン交響曲第7番、通称ベト7は、年明けを飾るにふさわしい華やかで躍動的な曲。
 10年近く常任指揮者をつとめているだけあって豊島管弦楽団と和田の呼吸はぴったり。
 危うげなところが微塵もない。
 上記ドラマにおいて指揮指導をした和田にとって、ベト7は自家薬籠中といった余裕すら感じる。
 各演奏者のレベルも相当なもの。
 海外ツアーしてもいいんじゃなかろうか。

 珍しいのが2曲目の武満徹『系図』。
 配布プログラムによると、

武満晩年にあたる1992年に作曲された。40年来の親友である詩人、谷川俊太郎の詩集『はだか』から、“自分と家族”に関わる詩を選び、一連のストーリーとなるよう並べ、音楽で彩った。語り手は12歳から15歳の少女が望ましい、と武満は言っていたそうで、若手女優を起用する例が多い。 

 今回語り手の少女は、豊島区にある都立高校の演劇部の女子学生6人がつとめた。
 自らの祖父母、両親のことを順に語り、最後は自分の将来を夢見るという構成。
 しかし、描き出されるのは『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』風の幸福な家族ではなく、むしろ心がバラバラの現代的な一家の姿。
 認知症っぽい祖父、寝たきりの祖母、燃え尽き症候群の父、キッチンドリンカーの母。 
 そこに、映画BGMでも発揮される武満の奇っ怪な音楽が、アコーディオンの庶民的な響きと共にかぶさる。
 正直、どうとらえていいか分からない作品である。
 これで「系図」と言われてもなあ・・・・。
 (よもや虐待の系図ではないよね?)

 女子高生たちの好演には拍手を惜しまないが、本作も含め、今回の曲目選定には疑問が残った。
 普通ならベト7をラストに持って来て、明るく盛り上がって終わりだろう。
 新春でもあり、豊島区90周年のお祝いも兼ねている催しなのだから。
 しかしそうすると、『火の鳥』か『系図』を一番に持って来なければならない。
 それはあまりに無謀だろう。
 ってわけで、ベト7からスタートしたんじゃないかと推測する。

 『火の鳥』をプログラムに入れたのは、もちろん手塚治虫『火の鳥』とのからみである。
 豊島区には手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが青春時代を過ごしたトキワ荘があって「マンガの聖地」になっているのだ。
 今春3月には世界最大規模のアニメショップ「アニメイト池袋本店」が、それこそブリリアホールとは豊島区役所をはさんだ反対隣りにオープンする。
 今回の曲目を誰が選んだか知らないが(区長?)、ここぞとばかり「豊島区=アニメ」を強調したかったのだろう。

 ともあれ、一曲一曲の出来は良かったのだけれど、感動が相殺し合うようなバランスの悪いプログラムで、すっきりしない終演。
 こういうこともあるんだなあ~と一つ学んだ。
 5月5日には、和田一樹&豊島区管弦楽団で R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラー交響曲第9番に挑戦するらしい。
 これぞ実力見せどころの名プログラム。
 掛け値なしの必聴コンサートである。




● 漫画:『地獄星 レミナ』(伊藤潤二作画)

2005年小学館
併録『億万ぼっち』

IMG_20230108_193643

 伊藤潤二には一時ハマった。
 出世作『富江』はじめ短編集をずいぶん読み、江戸川乱歩に通じるような不気味で変態チックなアイデアと、草間彌生に通じるようなゲテモノ趣味で精密な画風に惹かれた。
 どんないかがわしい風体の人だろうと思っていたが、実物の写真を見ると普通の常識的なサラリーマンみたいな感じで拍子抜けした。(いや、昨今、普通の常識的なサラリーマンこそがよっぽど変態チックなのかもしれないが)

 日常生活に潜む恐怖を切り取ったアイデア勝負の短編が得意な人と思っていたので、本作のようなある程度の長さのストーリー仕立ての、しかもSF作品があるとは知らなかった。
 古本屋で見つけた。

 別宇宙からやって来た謎の新惑星レミナが地球に迫ってくる。
 冥王星が、海王星が、土星が、火星が、月が、カメレオンのような舌でペロリと飲み込まれていく。
 地球消滅寸前のパニックの中、狂気に落ちた群衆は、惑星と同じ名前を持つ美少女レミナを生贄にしようと狩りを始める。

 あいかわらず、不気味で変態チックでゲテモノ趣味で精密であった。
 惑星レミナの描写はまさに地獄そのもの。
 こういったものに惹かれる感性というのは、たとえば爪楊枝で歯カスをとるのに熱中したり、わざわざカサブタをはがして出血させたり、歩道の通気口の四角い穴に煙草の吸殻を押し込んだり、博物館のミイラに行列したりするのと通じるようなものを感じる。
 多くの子供がウンチが好きなように、人の原初的な部分に存在する志向なのかもしれない。
 でなければ、伊藤潤二の人気を説明できまい。

 読んでいて、子供の頃にテレビで観た『妖星ゴラス』(1962東宝)を思い出した。
 ゴラスと名付けられた天体が地球に衝突するのを回避するため、世界一丸となって人智を尽くし、地球の軌道を変えるという話であった。
 兄と一緒に、ドキドキしながら固唾をのんで観たのを覚えている。

 併録作『億万ぼっち』は、奇抜なアイデアで驚かす伊藤潤二ならではの奇編。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 切られた人格 映画:『スプリット』(M・ナイト・シャマラン監督)

2017年アメリカ
117分

 『シックス・センス』『サイン』『ヴィレッジ』など、どんでん返し型サスペンスミステリーの作り手として有名なナイト・シャマラン監督。
 多重人格(医学用語では解離性同一性障害)の男に囚われた3人の女子高生の血も凍るような地獄の体験が描かれる。
 原題の Split は「分裂する」の意だろう。

多重人格

 23の人格を持つ多重人格者を演じるジェームズ・マカヴォイの演技が見物である。
 幼少の頃に親から虐待を受けた本来の人格ケビン、ファッションデザイナーのオネエさんバリー、9歳の無邪気な男の子ヘドウィグ、強迫障害をもつ潔癖症の男デニス、歴史オタクの中年オーウェル、ヒステリー気質の女パトリシア、インスリン注射の欠かせない糖尿病患者ジェイド、そして他のほとんどの人格にも主治医の精神科医にも隠されていた24番目の人格ビースト。
 作中、マカヴォイは少なくとも8つの人格を演じ分けている。
 しかも、ある人格(デニス)が別の人格(バリー)のフリをして精神科医をたぶらかすなんて、複雑で難しい演技も求められている。
 役者冥利に尽きるような役であるが、なかなか見事な演技である。

 精神科医役のベティ・バックリーも、ユーモアと人情味ある経験豊富な女医を演じていて良い。
 拉致される女子高生の一人でやはり被虐待経験をもつ少女ケイシーを演じるのは、アニャ・テイラー=ジョイという名の女優兼モデル。冴え冴えした美貌が光っている。
 借りてきたDVDにはメイキングがついているが、それを観ると、完成版(公開版)ではまったく出てこないサブキャラ(演ずるのは黒人俳優)が登場している。
 つまり、彼の出るシーンはすべて切られてしまったのだ。
 シビアな世界だなあと、切られた人格(キャラ)にちょっと同情した。

 決してつまらない作品ではないけれど、児童虐待や多重人格をテーマにしたサスペンス映画は履いて捨てるほどあるので、目新しさはない。
 演出にもこれといった斬新さもなく、結末も凡庸。
 この監督、なかなか『シックス・センス』を超えられないのがつらいところだ。





おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 新型コロナ感染記

 昨年末に新型コロナ陽性になった。
 幸いなことに軽症ですんだ。
 オミクロン対応ワクチンこそ打っていなかったが、これまでに4回ワクチン接種していたのが重症化を防いだ一因ではないかと思う。
 幸いなことに同居の両親は感染しなかった。
 経過を記録しておく。
 発熱した日を発症日(0日)とする。

IMG_20230105_115535
携帯に送られてきたPCR検査結果通知
やはり目にした瞬間はショックだった
  • -2日 勤務日。深夜までブログ書き。
  • -1日 休日。倦怠感強し。午後はずっと横になっていた。
  •  0日 朝方より倦怠感強し。風邪かと思い熱を測る。6.4度。出勤するも14時で早退。帰宅し横になる。食欲なし。夜間より寒気と咳込みあり。7.5度に上がる。小青竜湯服用。
  • +1日 起床時より強い倦怠感とのどの痛み、体熱感あり。8.5度まで上昇。血中酸素(SPO2)は95%。小青竜湯および葛根湯服用。コロナを疑い勤務先に連絡入れる。自室隔離開始。午前中は起き上がれず。午後2時に7.5度に下がる。痰と咳込み続く。近隣の病院にPCR検査の予約入れる。夜、おかゆを食べる。寝る前の体温は7.3度
  • +2日 朝の体温は6.5度。倦怠感もかなり抜けている。咳たまにあり。のどの痛みはとれたが違和感あり。鼻のあたりにムズムズ感あり。匂いは感じられる。午前中にPCR検査を受ける。日中はブログを書いて過ごす。午後3時、陽性判明。勤務先に報告し一週間の出勤停止指示を受ける。家族に外出自粛を依頼する。食欲復活。
  • +3日 体温は5.7度(平熱)まで下がる。のどのイガイガ感あり。声がかすれている。咳たまにあり。そのほか、ほぼ平常通り。
  • +4~6日 特変なし。食べ物の味が塩辛く感じられる。匂いは通常通り。のどに痰が絡まっているような感覚続く。高音が出ない。一日一回は人通りの少ない道を散歩する。
  • +7日 午後3時、買ってきた抗原検査キットで「陰性」結果確認。9日ぶりに入浴。抜け毛が気になる。
  • +8日 床屋に行く。
  • +9日 のどの調子と味覚戻る。図書館に行く。
  • +10日 出勤再開。
金長さん

 いつどこで感染したのかわからない。
 発症前の数日、家族以外との濃厚接触はなかった。
 しいて言えば、家の近くのサイゼリアに1人で行ったとき、通路を挟んだ隣のテーブルの4人家族が食事中ずっと喋っていたのが可能性として思い当たる。疲れと寝不足で抵抗力が落ちていた。 
 一番重かった症状は倦怠感。
 7度以上の発熱、のどの痛みは丸一日程度。
 激しい咳込みや関節痛はなし。
 抜け毛はあったかもしれないが、年齢のせいか区別つかず。
 インフルエンザよりまったく軽かった。
 家族の体調不良もなし。

 5人いる職場では自分がコロナ感染第1号となったが、出勤再開後まもなく他の職員1名が感染、また別の職員が濃厚接触者となって出勤停止。
 結局、職員全員揃わないまま、仕事納めとなった。
 現在、日本では3000万人近い感染者が報告されているから、4人に1人は感染している勘定になる。
 もうちっとも珍しいことではなくなった。
 こんなふうにコロナ感染を平気でカミングアウトできる現状をみるにつけ、3年前のコロナパニック時に感染が発覚した人が各地で厳しい差別を受けたことを理不尽に思う。
 なんだったんだ、あれは・・・・・?

 感染から半月以上経った。
 後遺症なのかどうか分からないが、若干の喉のかすれは残っている。
 また、集中力が減退しているようで、瞑想中に雑念に振り回されている。
 ブレインフォグ(直訳すると「脳の霧」)というやつだろうか?
 脳の配線が感染前と違っているような別人感がある。
 仕事上のミスの言い訳に使おうと思っている。 

P.S. 感染時の症状は、ワクチン接種後の副反応同様、個人差が大きい。上記はあくまでソルティのケースに過ぎないので、軽視は禁物。くれぐれもご用心を!
 
脳みそ




 

● 本:『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット著)

2006年原著発行
2007年講談社より邦訳刊行
2014年講談社文庫

IMG_20221229_180301


 ダスティン・ホフマンが『レインマン』で演じたレイモンド・バビットと同じサヴァン症候群の青年の自叙伝である。
 1979年ロンドン生まれのダニエルは、現在43歳。
 本書では生まれてから26歳までのことが書かれている。

 サヴァン症候群は「非凡な才能と脳の発達障害をあわせ持つ人々」のことを言い、記憶、計算、芸術などの領域において超人的な才能を発揮する。
 ダニエルは円周率2万桁以上を暗唱し、10カ国語を操り(アイスランド語を習得するのに一週間しかかからなかった)、難しい計算を秒速で回答し、×年×月×日が何曜日になるか即座に言い当てることができる。
 また、数字に色や感情、動きを感じる共感覚者でもある。
 紛れもない天才なのだが、一方、アスペルガー症候群という障害も抱えており、

    1.  人の心の動きや社会的な約束事がよくわからないため、他人とのコミュニケーションが難しく、集団において期待される適切な行動がとれない。
    2.  同一の事物にこだわりが強く、新しい事柄や環境をなかなか受け入れられない。

という特徴を持つ。

 本書には、周囲の人間とあまりに違うがゆえに、両親も本人も幼少時から非常に苦労してきたことがありのまま書かれている。
 とくに、ダニエルの両親の忍耐強さ、愛情深さ、度量の広さには感心するほかない。
 この両親がいたからこそ、ダニエルはいじけることも絶望することも閉じこもることもなく、自らを受け入れ、周囲に心を開き、友人や恋人を作り、海外での仕事やテレビ出演などさまざまな挑戦を自らに課し、社会参加できたのだろう。
 ある意味、この本の主役はダニエルではなくて、彼の両親という気がするほどだ。

 それを示す象徴的なエピソードの一つが、ダニエルが自分がゲイであることに気づき、両親にカミングアウトするシーンである。(ゲイというセクシュアリティと、サヴァン症候群あるいはアスペルガー症候群といった自閉症に、なんらかの相関があるかは不明)

 ふたりにきちんと話を聞いてもらいたくて、ぼくはテレビのところに行って電源を切った。父は不満そうに口を開きかけたが、母はぼくを見つめてぼくが話しだすのを待った。口を開くと自分の声――小さなしゃがれ声――が聞こえた。その声はぼくはゲイで、とても好きになった人と会うつもりでいる、と告げていた。両親はしばらく口をきかず、ぼくを見つめるばかりだった。ようやく母が、それはまったく問題ではないし、あなたに幸せになってほしいと思っている、と言った。父の反応も肯定的で、きみが愛し愛される相手と出会えることを願っている、と言った。

 障害があったりLGBTであったり、あるいは多くの人と違った特質を持っていたりすること自体は副次的な問題に過ぎず、大切なのはそうした違いを否定せずにありのままに受け入れ、見守り、本人のストレングス(強み、長所、特技)を引き出してくれる周囲のあり方なのだ、と本書は教えてくれる。
 そのようにしてダニエルのような天才が彼なりに健やかに育ち、ストレングスをもって社会貢献してくれるとしたら、それは人類社会にとって大きな利益にもなる。
 人と違っていることは、新しい何かを生み出せる潜在力を有しているってことなのだ。

 ソルティはサンドイッチマン&芦田愛菜司会のTV朝日『博士ちゃん』が好きでよく観るのだが、出演する博士ちゃん――大人顔負けのこだわりの趣味・特技をもつ、クラスでは浮きがちな小・中学生――を観ていると、「日本の未来も明るい」と思うのである。


博士ちゃん




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 

● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


IMG_20221229_124437

日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

IMG_20221229_124333

IMG_20221229_124307

 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

IMG_20221229_124403









● 秩父神社でカウントダウン

 年越し3日間は秩父で過ごした。
 スマホもテレビもOFFにして、午前中は瞑想、午後は散歩、夜は読書と瞑想にふけった。
 基本、人とは喋らない。

 たまにこういう生活をすると、テレビはともかくとして、自分がいかにスマホ依存しているかに気づかされる。
 LINEやゲームやツイートをしていないので、他の人にくらべればスマホをいじっている時間は少ないと思っていたのだが、暇な瞬間あれば、ついスマホに手が伸びてしまう自分がいる。
 スマホをいじる時の手の形や人差し指の動きが癖になってしまって、それがないと手のひらや指が淋しがっている気がするほど。
 5年前まではスマホのない生活を送っていたのに・・・・。
 休肝日ならぬ休スマ日をつくるかなあ。 

 瞑想はこのところスランプというか集中力が途切れがち。
 年末にコロナ陽性になってから、いまひとつ身が入らない。
 ウイルスで脳の一部が変容してしまったんじゃないか・・・と恐れている。
 某国が極秘開発した“人間を馬鹿にするウイルス”がその正体だったのか?
 まあ、修行には波がある。
 いまはそういう時期なのだろう。

DSCN5749
冬の秩父の稜線は美しい
 
 午後はずいぶん歩いた。
 天気が良かったので、連日12キロ以上は歩き回って、おろしたてのシューズがすっかり足に馴染んだ。
 秩父は朝方こそ寒いものの、日中は風がなく、遮るもののない陽射しが降りそそぎ、都心よりむしろ暖かいくらい。
 1時間も歩けば上着が邪魔になり、ズボン下のスパッツが汗ばんでくる。

 市内はずいぶん歩き尽くしたので、もう目を惹くような新奇なものは残っていまいと思っていたが、いやいや、まだまだ奥が深かった。
 秩父は関東大震災も戦災も被らなかったので、レトロな建物が残っていることで知られている。
 実際、江戸、明治、大正、昭和(戦前・戦後)、平成、令和といくつもの時代の建物が町中に併存して、ソルティのような建築物好き素人にはたまらない面白さ。
 今回は中でも、味のあるハイオク=廃屋=あばら家に惹かれてしまった。

DSCN5753
結構広いウチだが、さすがに住人はいない

DSCN5757
玄関前にバイク。住んでいるのか?

DSCN5758
売り家のようだが、果たして買い手はつくか?

DSCN5759
ここでカフェをやっていたらしい
古民家を部分的に修繕し、小ぎれいに住みなしている家も少なくない

DSCN5770
家の造りから、養蚕をやっていたのではないか?

DSCN5777
この壁に何があったのか?

DSCN5756
これは民家ではなくて病院
冬でも枯れ落ちないのは品種のせい?

DSCN5771
クラブ湯
秩父の街中にある創業85年の銭湯

DSCN5774
外側は改装しているが、中は昭和レトロそのもの
更衣室にロッカーはなく、脱いだ服は竹籠に入れる
富士山を眺めながら43度を超える熱い湯に
桶はもちろんケロヨン

DSCN5773
昭和11年創業のたから湯と並び、秩父名所の一つと言ってもいいだろう

DSCN5761
秩父鉄道の開運列車
これを見た人には幸運が訪れるとか


 大みそかの夜は、23時半に宿を出て、除夜の鐘を聴きながら秩父神社に向かった。
 境内には一年間世話になったお札や破魔弓やダルマなどを燃やす浄めの火が焚かれ、その周囲で暖をとる人の輪が幾重にも広がっていた。
 やはり若い人が多い。

DSCN5779
秩父神社参道にあるレトロな煙草屋
夜見るとまた雰囲気がある

DSCN5787
秩父神社の境内で年の変わるのを待つ人々

DSCN5789
お好み焼きや甘酒などの屋台も出ていた

DSCN5781
4本の竹としめ縄で囲った結界の中で火が焚かれる

DSCN5791
瞳の入っていないダルマが燃やされていた
願い叶わず・・・か

DSCN5793
新年を迎えるとともに拝殿に行列する人々
日本人が無宗教ってのは何かの間違いだろう

DSCN5794
賽銭箱の中味もコロナ前に戻っただろうか?
おみくじは「大吉」でした

 初詣のあとは、冷えた体を温めるべく神社近くの居酒屋の暖簾をくぐり、武甲正宗を燗で。
 すっかりお屠蘇気分の帰り道、空を見上げると、北斗七星、北極星、オリオン、カシオペア、白鳥座・・・・久しぶりに見る満点の星に平和な一年を願った。

DSCN5766
荒川(巴橋から)


 元日には、市街地の広がる秩父盆地から荒川に架かる秩父公園橋を渡り、長尾根丘陵の展望台に登って武甲山参拝し、秩父ミューズパークの広がる尾根を越えて、小鹿野町まで歩いた。
 昨年の夏に歩いた札所32番法性寺から33番菊水寺への巡礼路に合流し、ようばけを右手に見送りながら、星音の湯でゴール。
 明治17年(1884年)に秩父事件の義士たちが取ったのと逆コースである。
 足の痛みも出現せず、これで今年、両神山に挑戦する自信がついた。


IMG_20230102_163329


PANO_20230102_020408
長尾根丘陵の展望台からの風景

DSCN5798
小鹿野町にて両神山を望む

DSCN5806
星音の湯
16時半に入ったが、結構混んでいた

DSCN5808
湯上りに、秩父名物・豚肉の味噌漬け定食を堪能する


 この一年、生きとし生けるものが幸せでありますように!




 
 

● 野辺の花が私にささやきかけた 本:『沖縄ノート』(大江健三郎著)

1970年岩波新書

IMG_20221228_123048


 個人的に2022年一番良かったのは、沖縄戦跡めぐりをしたことだ。
 人生の中でもやって良かったことの上位に入る。
 なにがそんなに良かったのか説明するのは難しい。
 強いて言えば、行かなければならない場所に行き、見聞きしなければならないものを見聞きし、知らなければならないことを知り、祈るべき人たちのために祈ったという、かねてからの気がかりをようやく解決したという安堵感である。
 沖縄戦を知り、沖縄の戦跡とくに言語を絶する惨状を呈した南部の海岸を自分の足で歩いたことで、自分もやっと日本の歴史につながったという思いがした。

 しかるに、なぜにもっと早く訪れなかったのか。
 アラ還になるまで待たずとも、広島原爆ドームや長崎平和祈念公園を訪れた20~30代の暇あれば旅していた頃に、あるいは仕事で沖縄を訪れる機会のあった40代の頃に、沖縄戦跡も行けたじゃないか。
 ひめゆりの塔は1989年には開館していた。平和の礎(いしじ)の除幕式は1995年だった。
 行こうと思えばもっと早く行けたはずである。
 戦争を厭い平和を願う気持ちは人並みにずっとあったのだから・・・。 

IMG_20221203_160945
  
 沖縄戦跡に足が向かなかった理由、沖縄戦や沖縄問題に関心が行かなかった理由はいろいろあるのだが、大きいところではまず自分の問題で手一杯だったというのがある。
 「ゲイ」というセクシュアリティと向き合い、仲間と出会い、疎外感を払拭し、内面化されたホモフォビアに気づき、ありのままの自分を受け入れ自己肯定する――それだけで青春のあらかたを費やしたのである。
 ソルティは30代初めからHIV/AIDSに関する市民活動に関わってきたが、性や差別の問題と強く結びついて感染者の支援や予防啓発活動に関わることが自らの問題の解決にもつながるからこそ、この問題に携わってこられたのであり、それ以外の人様の困りごとや社会問題にまで関心を抱き何らかの行動をする余裕はなかった。
 自分が問題を抱えているのに他人の問題に首を突っ込むのは賢明ではあるまい。 

 いま一つの理由は、本土に生まれた日本人の一人として、沖縄問題に“うかつに”関わることにより「罪責感」に襲われそうな予感があった。
 バブル絶頂期に青春を過ごしたノンポリ新人類らしく、社会人になってもソルティは政治経済や国際問題や近代史にはまったくの門外漢であり続けた。
 けれど、さすがに沖縄の米軍基地にまつわる理不尽な事件の数々はニュースなどで耳にしていたし、本土との格差(本土による差別)は知っていた。
 日米安保のもと勝者アメリカから敗者日本に、防衛の名において押しつけられる負担の多くが沖縄に課せられていて、その犠牲の上に本土の人間があぐらをかいているという構図は認識していた。
 また、沖縄戦において、すでに背水の陣にあった大日本帝国司令部が、沖縄を本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石」「防波堤」とした事実も、そのためにひめゆり学徒隊をはじめとする多くの一般住民が戦争に巻き込まれ、「鉄の暴風」と言われた激しい攻撃に身を晒し、あたら命を失ったことも聞きかじっていた。
 それゆえに、本土の人間である自分にとって罪責感なしに沖縄問題に関わること、自己嫌悪せず沖縄戦を学ぶことはあり得ないという予感があったのである。
 若い頃のソルティはくだんの事情で自己肯定感が低く、たやすく自己嫌悪や自己否定に陥りやすかったので、さらなる罪責感を上乗せすることで精神的安定を保てなくなる可能性大であった。
 そんなわけで、沖縄は実際の距離以上に遠くにあったのである。
 
DSCN5588
ひめゆりの塔

 本書はノーベル文学賞作家の大江健三郎が、沖縄返還を目前に控えた1969~70年に記したエッセイである。
 大江は当時35歳。代表作とされる『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』を上梓し、海外作家との交流が増え、名実ともに日本を代表する若手作家の一人であった。
 60年日米安保においては石原慎太郎、浅利慶太らと共に反対の声を上げ、65年には『ヒロシマノート』を書き、反戦・反核・反天皇制の反体制の作家として気を吐いていた。
 当然本書も、反戦・反米・反基地・反自民の力強いメッセージがあふれていると思うところ。
 が、本書を覆いつくす一番のムードは、まさに本土の人・大江健三郎の罪責感であり、自己嫌悪・自己卑下なのである。

 僕はやがてこの、日本人らしく醜い、という言葉を、単なる容貌の範囲をはるかにこえて、認識してゆくことになった。そしてそれは沖縄こそが、僕をそのような認識にみちびいたのだと、そしてその認識が、より多くのことどもにかかわって僕を、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないのか、という無力な嘆きのような、出口なしのつきあたりでの思考へと追いやっているのだと、あらためて僕のいま考える、そもそもの端緒であった。(ゴチはソルティ付す)

 この「日本人とはなにか、このような日本人でないところの日本人へと自分をかえることはできないのか」という問いは本書でたびたび繰り返される。
 『沖縄ノート』は、1972年の沖縄返還を前に、本土と沖縄とアメリカの三角関係にあって過去の因縁により生じている様々な問題を、本土出身の護憲派の作家が沖縄の人々の立場に身を置いて論じている一種の社会評論ではあるけれど、それ以上に、大江自身が「沖縄を核として、日本人としての自己検証をめざす」と言っているように、日本人論の向きが強い。
 それもかなりネガティブな日本人論である。

 日本人とはなにか、という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに、それもおそらくは中心的なものとして、日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。

 ・・・・沖縄についていくらか知識を確かにするにしたがって、ますます奥底の償いがたく遠ざかる恐ろしい深淵について思わないではいられなかった。その深淵がなぜ恐ろしいのかといえば、それは、日本人とはこのような人間なのだと、自分自身の疾患からふきあげてくる毒気をもろにかぶってしまうような具合に、眼のくらむ嫌悪感ともども認めざるをえない、凶まがしいものの実質を、内蔵しているところの深淵にほかならないからである。

 日本人のエゴイズム、鈍感さ、その場しのぎの展望の欠如、しかもそれらがすけてみえる仮面をつけてなんとか開きなおりうる、日本の「中華思想」的感覚・・・・・。

 この百年間において、沖縄の人間の事大主義が発揮される現場には、それこそ形影相伴うごとくに日本人がいた。日本人の政治家が、官僚が、商人が、学者がいた。それは沖縄の民衆の事大主義にちょうどみあうだけの、ほかならぬ事大主義的性向の日本人がそこにはいりこんでいたということである。事大主義は、沖縄の人間と日本人とのあいだに張りつめられたロープのごときものですらあったというべきであろう。・・・・・
 ただ、沖縄の人間が、その事大主義についてはしばしば自覚的であったのに対して、本土の日本人は、沖縄の人間の劣等感を踏み台にすることで、かれ自身の事大主義に頬かぶりする逃げ道をえたのである。

 どうだろう?
 日本嫌悪、日本人否定のオンパレードである。
 ちなみに、事大主義とは、「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」(小学館『大辞泉』より)のことを言う。
 大江健三郎のパーソナリティという面はかなりあると思う。
 大江自身、自らの感じ方・考え方の底に、「ペシミスティックに、危機的な深い淵へおちこんでゆこうとする」傾向があることを認めているし、それこそが大江健三郎という文学者のデビュー当時からの特性ではあった。
 また、連載中の本エッセイを読んだ本土の友人たちから「被害妄想の徴候」があると指摘されたことも記している。
 それはまさに、令和の保守右翼の人たちが口を酸っぱくして批判する「祖国を愛し誇りを持つことできない自虐史観に侵された戦後日本人」の最右翼ならぬ最左翼であろう。

DSCN5581
平和の礎(いしじ)
 
 しかるに、本書が刊行された70年当時の日本では、大江のような意識の持ち方は今よりずっと一般的だったはずだ。
 それは保守右翼の言う「自虐史観教育」を受けた人が多かったからではなく、それとは逆の「忠心愛国教育」を子供の頃に受けて戦争を体験した人が多くいたからであって(1935年生まれの大江もその一人であろう)、その国家的洗脳こそが一億玉砕という過ちに日本を導いたことを痛みをもって記憶し反省していたからである。
 その事情は、戦争を知らない世代、すなわち「自虐史観教育」を受けた世代の比率が増すにしたがって、むしろ日本全体が右傾化しているのを見れば知られよう。
 大江健三郎と認識を同じくする日本人は、70年代には全共闘の若者たちを含め日本人の相当数を占めて主流に近いところにいたはずであるが、それが半世紀を経て、どんどん数が減って、どんどん“左”に追いやられていった。
 安部元首相の国葬反対デモに参加していたのが「かつての団塊世代の高齢者ばかり」などと揶揄され、あたかも“アカ”に扇動されたマイノリティの遠吠えのように喧伝される始末・・・。

 この『沖縄ノート』をソルティはかなり共感をもって読んだし、現在でも十分通用し読まれるべき内容――なぜなら沖縄問題は解決していないのだから――と思ったけれど、保守右翼は論外として、どうだろう、令和日本人(沖縄の若い世代も含めて)の中には、「半世紀も前の終わった話だろう?」あるいは「なんで本土の人間が罪責感を持たなければいけないの?」と、大江の回りくどく難解な文体ともども退ける者が多数いるのではなかろうか。
 大江健三郎と座標上の対極に位置する安倍元首相や日本会議の面々、雑誌『Hanada』に寄稿する論者のような「愛国者」たち、辺野古基地建設の反対運動する人々を高見から馬鹿にするひろゆきや高須某などの言動を見聞きするにつけ、そして彼らに誘発されたネトウヨのコメントを目にするにつけ、ここ半世紀の日本人の変容を思わずにはいられない。
 少なくとも、ソルティが日本人を誇りに思えない最たる原因は、歴史認識と弱者への想像力を欠いた上記の保守右翼の面々の陋劣な品性にある。
 
 この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。
 沖縄からの限りない異議申立ての声を押しつぶそうと、自分の耳に聞こえないふりをするのみか、それを聞きとりうる耳を育てようとしないこと、それはおなじ国家犯罪への新しい布石ではないのか。

DSCN5577
平和の火


 閑話休題。
 ソルティが今回沖縄戦跡めぐりをした直接的なきっかけは、ドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』を観たことにある。
 で、『沖縄戦』を観るきっかけとなったのは、吉永小百合主演の『ひめゆりの塔』であり、『ひめゆりの塔』を観るきっかけとなったのは、同じ吉永小百合主演の『伊豆の踊子』であった。日活時代の小百合サマの可憐な魅力に参って作品を追っていたのだ。
 『伊豆の踊子』を観たいと思ったきっかけは何かと、記憶を過去のブログ記事に探っていったら・・・・これが驚き、夏の秩父の巡礼路で出会った道端の花だったのである。
 名も知らぬピンク色の可愛い花である。

DSCN5306
のちにサフランモドキという名を知った

 この花を見たときに吉永小百合を連想し、夏の秩父の巡礼路が伊豆の天城越えと重なった。
 その時には自分が今年中に沖縄戦跡めぐりをするなんて、まったく予想だにしていなかった。(今思えば、「ハイビスカスに似ているなあ」と思ったことも沖縄へつながっていたのかもしれない)
 なので、ある種の罪責感混じりの義務感にかられて「行きたい」と意志したわけではなく、こういった因縁によって自然と「行くことになった」のである。
 むろん、ロシアによるウクライナ侵攻や7月の参院選で自民党が圧勝したことが、日本の戦争傾斜への危機意識を高め、ソルティの背を押したのは間違いない。(「全国旅行支援」という国家の政策を利用して、沖縄戦跡に行ってやろうじゃないか!という魂胆もあった)
 現地ではいろんな物事が自然とうまく運んでいるような感覚があった。
 物事は起こる時には起こるべくして起こるものだなあ~と、スピリチュアルな感慨に打たれた一件である。
 
IMG_20221228_122926
 沖縄みやげの琉球グラス
これで古酒やワインを飲むと格別


  
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文