ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 時には将校のように 映画:『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)

1967年東宝
157分、白黒
原作 大宅壮一編・半藤一利著『日本のいちばん長い日』
脚本 橋本忍

 ポツダム宣言受諾間際の大日本帝国首脳部のごたごたを描いた歴史ドラマ。
 とりわけ、終戦を受け入れられない陸軍青年将校たちが起こした8月14日深夜のクーデター未遂、いわゆる宮城事件がメインに描かれる。

 とにかく全編に漲る緊迫感が凄い!
 ドラマというよりドキュメンタリーのようなリアリティと臨場感に満ちていて、出だしから一気に引きずり込まれた。
 157分をまったく長いと感じなかった。
 政府や軍の様々な組織に属する多数の(実在した)人物が登場する錯綜した話を、見事に捌いた橋本忍の脚本。
 戦時下の空気を再現しつつサスペンスを持続させる岡本のダレのない演出。
 そして、東宝35周年記念作に、ここぞと集められた錚々たる役者陣の白熱した芝居。
 実に見ごたえあった。

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陸軍大臣(三船敏郎)と海軍大臣(山村聡)の火花散るやり取り
その奥に鈴木首相役の笠智衆がおっとり構えている
 
 昭和を代表する人気男優総出演とでも言いたいような顔触れに、斜陽化にあったとはいえ、名門東宝の底力を感じた。
 阿南惟幾(陸軍大臣)を演じる三船敏郎を筆頭に、鈴木貫太郎(内閣総理大臣)役の笠智衆、東郷茂徳(外務大臣)役の宮口精二、米内光政(海軍大臣)役の山村聡、昭和天皇役の八代目松本幸四郎、ほかに志村喬、加藤武、戸浦六宏、高橋悦史、黒沢年男、石山健二郎、藤田進、伊藤雄之助、天本英世、二本柳寛、中村伸郎、小林桂樹、児玉清、加東大介、加山雄三、ナレーターに仲代達矢。
 あたかも、黒澤映画と小津映画の男優陣合体のような贅沢さ。
 (一方、セリフのある女優は新珠三千代ただ一人)
 
 中でも、クーデターの首謀者となった畑中健二少佐を演じる黒沢年男の熱演に驚いた。
 ソルティの中で黒沢年男は、昭和45年(1978)に大ヒットした『時には娼婦のように』のふしだらな大人のイメージと、バラエティ番組の髭面にニッカ帽のボケキャライメージしかなく、役者としての実力を知らなかった。
 本作では、主役の三船敏郎を食うほどの鮮烈な印象を刻んでいる。

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上官(高橋悦史)に決起をうながす畑中(黒沢年男)
 
 また、予科練の少年達を扇動して鈴木首相暗殺を謀る狂気の軍人を天本英世が演じている。
 いつものことながら“面しろ怖すぎる”怪演。
 官邸と首相私邸の焼き討ち事件は実際にあったことで、首謀者の佐々木武雄は数年間潜伏して逃げ回ったのち、戦後は大山量士の名で世間に舞い戻り、「亜細亜友の会」を設立した。
 なんか無茶苦茶な人だ。

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佐々木武雄を演じる天本英世の禍々しさ

 ソルティは宮城事件も首相官邸焼き討ち事件もよくは知らなかったのだが、敗戦を受け入れるってのは実に大変なことだったのだ、とくに軍人にとっては身を切られるようなことだったのだ、と改めて思った。
 冷静な目で客観的に見れば、どうしたって本土決戦なんかできる余力はなく、ポツダム宣言を拒否して抵抗し続ければ、第2、第3の広島・長崎が誕生するのは明白だった。
 それこそ今度は皇居や大本営のある東京に落とされたかもしれなかった。
 そしたら国体護持どころの話ではない。
 思うに、暴走した軍人たちの胸のうちにあったのは、「敗北を認めるくらいなら、日本が滅んでもかまわない」だったのではなかろうか。
 ウクライナとロシアの例に見るまでもなく、戦争は始めるより終わらせるほうがずっと難しい。
 泥沼化は必至である。
 
 本作のクレジットでは原作大宅壮一となっているが、大宅はその名を貸しただけで、実際に執筆したのは当時『文藝春秋』編集者だった半藤一利だった。
 2015年に原田眞人監督の手により再映画化(松竹)されたバージョンでは、原作半藤一利と訂正されている。
 こちらも、役所広司、山崎努、本木雅弘、松坂桃李、松山ケンイチなど実力派豪華キャストを揃えている。
 見較べてみたい。



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● らかんさんに呼ばれて

 「目黒のらかんさん」として知られる五百羅漢寺には行ったことがなかった。
 どうせなら、桜並木で有名な目黒川沿いを歩いて行こうと思い、東急東横線の中目黒駅で下車した。
 ここで降りたのは実に40年ぶりくらい。
 駅前のそば屋で軽く腹ごしらえし、東横線のガード下から品川方面に目黒川を下向した。
 炎天下で直射日光はきびしかったが、川沿いの道は木陰続きで、ときに風が抜けて、心地良かった。

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東急東横線・中目黒駅
学生時代、テニスのサークルでここで飲んで潰れたような記憶が・・・

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「吉そば中目黒」店の冷しかき揚げそば
かき揚げは大きく、そばは喉ごし良く、美味だった

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東急線ガード下より品川方向を見やる
目黒川は世田谷区三宿を起点とし、東京湾に注ぐ
全長およそ8km

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このようなベンチがところどころにあるのがうれしい。
超高齢化時代には欠かせない施設である。

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河岸には美術館や公園、モダンなマンションや小粋なレストランが並ぶ。
なかなかハイブロウな感じ。

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モダンでメタリックな外観にもどこか昭和クラシカルな風情が漂う。

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柊(ヒイラギ)庚申講
地域の古い信仰が垣間見られる
柊は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテンの木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また、節分の夜にはヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。(ウィキペディア「柊」より抜粋)

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目黒区民センター
裏手に目黒美術館がある

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ふれあい橋より上流(渋谷方向)を振り返る
清掃工場の煙突がひときわ高い

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下流(品川方向)
桜の季節の賑わいが目に浮かぶ

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散歩やジョギングに恰好の道

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目黒の名を一躍有名にしたのは「さんま」と「エンペラー」
目黒エンペラーは1973年(昭和48年)12月創業のラブホテル
ラグジュアリーな装飾で一世を風靡した
このお城が見えれば目黒駅は近い
羅漢寺も近い

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天恩山五百羅漢寺
元禄8年(1695)建立、開基は松雲元慶(1648-1710)

 松雲は40歳の時に五百羅漢を彫ろうと発願し、江戸に出て托鉢により資金を集めた。
 時の将軍徳川綱吉などの援助を受けながら独力で彫像し、完成に近づいたところで、像を納めるために堂宇を建てた。
 当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあったのだが、明治41年(1908)に現在地に移転した。
 現在、305体が残っているという。(堂内は撮影禁止)

 五百羅漢とはその名の通り、五百人の阿羅漢(完全な悟りに達した人)の謂いである。
 お釈迦様が亡くなったあとその教えを守り伝えるために、500人の阿羅漢が集い、マハー・カッサパとアナンダが中心となって教えの確認作業を行った。
 いわゆる第一結集である。
 そこに参加した比丘たちを称え敬うことから、五百羅漢像が作られるようになった。
 ソルティもこれまでにいろんな場所で五百羅漢像を見てきたが、とくに印象に残っているのは、秩父の羅漢山と四国遍路第66番雲辺寺のそれである。
 概して、通常の仏像(如来や菩薩や明王など)が生真面目で厳かな顔、あるいは聖人らしい穏やかで慈悲深い顔をしているのにくらべ、五百羅漢は表情も姿恰好も持ち物も非常にヴァリエーションに富み、ユニークで人間らしく、見て面白いのが特徴である。
 それゆえ、庶民に親しまれやすいのだ。

羅漢山1
秩父の羅漢山の羅漢さん

羅漢山2
こんなのもある

雲辺寺羅漢1
四国66番札所雲辺寺の羅漢さん

 目黒五百羅漢寺の羅漢さまにはお一人お一人に名前(〇〇尊者)が付けられ、それぞれ教訓のような「おことば」が付与されていた。
 たとえば、
  • 仲良く睦みあう(衆和合尊者)
  • 道は山のごとく登ればますます高し(山頂竜衆尊者)
  • わけへだてのない心(心平等尊者)
  • 仏も昔は凡夫なり(没特伽尊者)
  • 苦しみから逃げると楽しみも遠ざかる(雷光尊者)
  • 仕事にうちこむ美しい顔(勇精進尊者)
 鑑賞する人は、たくさんの羅漢さんの中から自分が惹きつけられた顔や言葉と出会って、わが身を振り返ったり、心の拠り所にしたり、今後の人生の指針を得たりすることができよう。
 本堂には、羅漢さんのほかに釈迦如来と十代弟子、達磨大師、観音菩薩、地蔵菩薩などの像が所狭しと並んでいた。
 ほどよい室内の暗さ、インド音楽に合わせて流される住職の説法テープ、心を落ち着けたいときには恰好の空間である。
 まろやかでやさしいお顔のお釈迦様の左右に立つ、頭陀第一のマハー・カッサパと多聞第一のアナンダの表情や姿恰好の違いが対照的で面白い。
 カッサパは骨皮筋衛門に、アナンダは上品な美男子に彫られている。

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本堂
本堂に納まりきらない羅漢像は別に羅漢堂に納められている

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再起地蔵

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五百羅漢寺のパンフレットより
ここの羅漢さまは総じて真面目な顔、厳しい顔が多かった。
にしても、500体の修復は大変な仕事だ。

 羅漢寺から路地を通って、目黒不動尊に抜けることができる。
 大同3年(808)慈覚大師・円仁(天台座主第三祖)によって開かれた関東最古の不動霊場である。
 そもそも目黒という土地の名の由来がここであった。
 江戸五色不動と称され、江戸城を中心に5つの方角に5つの不動尊――目黄(東)・目赤(西)・目白(南)・目黒(北)・目青(中央)――があったのだが、現在地名として残っているのは目黒と目白だけである。
 
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目黒不動尊(天台宗 泰叡山 瀧泉寺)

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庶民のアイドル・水かけ不動尊
ヒシャクで狙い撃ちされた顔がすっかり美白化
鈴木その子みたいになっている(えッ、知らない?)

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本堂
円仁が彫ったという本尊の不動明王像は12年に一度、酉年に開帳される。

 帰りはJR目黒駅から列車に乗ろうと思い、目黒雅叙園の横の急な行人坂を登っていたら、途中にある寺にふと惹きつけられた。
 天台宗大円寺とあった。
 山門をくぐって境内に足を踏み入れたら、なんとびっくり、ここにも五百羅漢がいた。
 羅漢寺のヒノキ造りの(かつては金箔で覆われた)ご立派な尊者たちとは違い、野ざらしの石仏である。

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大円寺
寛永年間(1624-1644)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。
羅漢寺より開基は古い。
本尊の木造釈迦如来立像は特定の日にご開帳。

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五百羅漢像
明和9年(1772)江戸市中を焼く大火事があった。
そのとき火元と見られたのが大円寺であった。
五百羅漢像はこの火事で亡くなった人々を供養するために建てられたという。

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こちらの羅漢さんたちはユニークな表情で親しみやすい。

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釈迦如来像が手にしているのは背中を掻くツール――ではなくておそらく蓮の茎だろう。
周囲を菩薩、十大弟子らが囲んでいる配置は羅漢寺本堂と同様。

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マハー・カッサパ尊者
口元のしわが写実的

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大黒様を祀っている七福神のお寺でもある。

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境内にはちょっと変わった石仏があった。
胴体はどこにいったのだろう?

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道祖神
夕日を浴びて照れくさそうな2人。
「もうすぐ夜だね」
「そうね、あなた・・・」

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個人的にはこちらの五百羅漢のほうが「目黒のらかんさん」の愛称に添うような気がした。
説教臭くない、天衣無縫なたたずまいに癒された。

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目黒駅周辺もすっかり開発されたなあ~

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JR目黒駅到着
約4時間の散策、汗をしぼられた。
目黒という街は、古い庶民信仰の上に、昭和バブルの猥雑さと平成のソフィストケイトされた空間が積み重なっている、現代日本の都市の特徴がよく映し出されている。

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羅怙羅(らごら)尊者はお釈迦様の息子
世に言うラーフラである














● 砂上の楼閣 映画:『ドント・ウォーリー・ダーリン』(オリヴィア・ワイルド監督)

2022年アメリカ
122分

 サスペンスホラーSF。
 砂漠の中にあるヴィクトリーという街に、夫ジャックと暮らす専業主婦アリス。
 美しく立派な家、ハンサムで優しい夫、仲の良い女友達、パーティやお稽古事や買い物に追われ・・・・すべてが完璧で絵にかいたような幸福な日々。
 街の男たちは、毎朝高級車に乗って、砂漠の中にある会社に出かけていく。
 そこは社員以外の住民は立ち入り禁止であった。
 夫は、いったいなんの仕事をしているのだろう?
 ヴィクトリー計画とはなんのことか?
 「心配するな、ダーリン」
 ジャックは何も教えてくれない。

 センスのいいスタイリッシュな映像と隠された真相への興味で、最後まで飽きさせない。
 ネタばらしはしないでおくが、ある有名なSF映画のアイデアを彷彿とさせる。
 一見ユートピア、実はディストピアという、ジャ×ーズ帝国のような物語。

 「砂上の楼閣」という言葉は中国の故事から来ているものと思っていたが、そうではなく、聖書の「マタイによる福音書」の中のイエスの次の言葉が由来らしい。

 わたしの言葉を聞いて実践する者は、岩の上に家を建てた賢い男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけようとも、その家はびくともしなかった。
 岩の上に建てられたからだ。
 
 わたしの言葉を聞いて実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけると、その家は倒れて崩壊した。 

 英語では a house built on sand となる。
 ヴィクトリーという街はまさに砂上の楼閣であった。

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

 ここに描かれる幸福像は、夫が働き妻は家事と育児をするという(トランプ元大統領の熱狂的サポーターが求める)50年代アメリカの典型的理想の家庭である。
 その後ウーマンリブが来て、フェミニズムが来て、世の男女関係も夫婦関係も一変したけれど、結局男たちの夢は50年代の「古き良きアメリカ」「パパはなんでも知っている」にあるのだろうか。
 女性監督であるオリヴィア・ワイルドはそう揶揄っているようだ。
 
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『眼の壁』(大庭秀雄監督)

1958年松竹
95分、白黒

 松本清張の社会派ミステリー。
 原作は読んでない。
 小泉孝太郎主演で昨年TVドラマ化されたらしいが、知らなかった。
 よもや、こういう“フカ~い”話とは思わなかった。

 敬愛していた上司が約束手形詐欺にあい、責任を感じて自害した。
 部下の萩崎(佐田啓二)は、新聞記者の友人(高野真二)の助けを借りて、詐欺グループについて調査を開始する。
 行く先々で現れる謎めいた美女・絵津子(鳳八千代)に翻弄される萩崎。
 次々と殺されていく関係者。
 すべての背景には、政治家や右翼のフィクサーが関わる大がかりな犯罪組織があった。

 上の内容だけなら、よくある裏社会絡みの犯罪ミステリー、いわゆるフィルム・ノワール日本版で済むのだが、本作の一番の押さえどころは、くだんの犯罪組織の出自をそれとなく匂わせている点にある。
 清張も大庭監督も作品中でそれとはっきり名指ししなかった(できなかった)ので、気づかない人は気づかないまま観終わってしまうだろうが、本作の底には被差別部落問題が横たわっている。

 萩崎が調査に訪れた信州の村で、硫酸で肉を溶かす工場が出てくる。
 それが本作に使われるトリックの一つで、犯人一味が死体を硫酸で溶かすことによってその白骨化を速め、死亡推定時刻を混乱させたことがあとで判明する。
 このトリックが当時の検屍レベルにおいて成り立ったかどうか知らない。(榊マリコのいる現在の科捜研ではまず無理だろう)
 が、ここで押さえるべきは、食用に適さない屑肉を様々な方法で溶かして油脂や肉骨粉にし、石鹸や家畜の飼料や肥料をつくる、いわゆるレンダリング(化整)の仕事は、長いこと部落産業の一つとされてきたという点である。
 その村こそ、犯罪組織のボスや絵津子が生まれ育った土地だった。

水平社博物館
水平社博物館(奈良県御所市柏原)
部落の歴史や仕事、解放運動の歴史について学ぶことができる

 周囲から厳しい差別を受け、貧しい暮らしを強いられた部落の青年が、正体を隠して(三国人=朝鮮人のフリをしている)都会に乗り込み、才覚をもって身を立て、表では政治家に影響力をもつ右翼のフィクサーとなり、裏では犯罪組織のボスとなる。
 彼の手下となって働く一団こそ、同じ部落出身の仲間たち。
 自分たちを差別する社会や世間に対する複雑な思いを共にする、強い絆で結ばれた同志である。
 
 ウィキ『眼の壁』には、当時清張の小説が部落解放同盟から「差別を助長する」と批判を受け、いろいろやり合った経緯が書かれている。
 原作についてはわからないが、少なくとも本映画については、「差別を助長する」ものとは思えなかった。
 といって、部落問題がそれと判らぬようにうまく隠してあるからではない。
 社会や世間から蔑視され不当な差別を受け疎外され続けてきた人々が、社会や世間に対して恨みを抱き、グレたり復讐の念をもったりするのは、ある意味、当たり前の話であって、それを否定するのはかえって不自然である。
 自身部落出身を公言している作家の角岡伸彦が『はじめての部落問題』(文藝春秋)に書いているように、『なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない』。
 現実に「ある」ものを「ない」と糊塗することでは、問題はいつまでたっても解決しない。
 「ある」ものは「ある」と認め、原因を探り対策を講じていくことが肝要である。
 「眼の壁」とはずばりタブーのことだ。
 タブーをタブーのままにして見過ごすことが、どれだけ当事者を苦しめ、社会をいびつにするかは、いまのジャニーズ問題をみれば明らかであろう。

 本作は、ボスの壮絶死と犯罪組織の解体によって事件が解決し、萩崎と絵津子の恋の成就を暗示させるシーンで終わる。
 萩崎は当然、事件捜査の過程で絵津子の出自を知った。
 でもそれは恋の前には関係ない。
 このラストが暗い物語を救っている。
 
 佐田啓二、鳳八千代、新聞記者役の高野真二、部落の老人を演じる左卜全、いずれも好演である。
 
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佐田啓二と鳳八千代 



おすすめ度 :★★★

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● Jの悲劇 本:『「特攻」のメカニズム』(加藤拓著)

2023年中日新聞社

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 中日新聞に2019年5月から足掛け5年にわたって連載された記事をまとめたもの。
 著者は1981年生まれの中日新聞記者で、大学院生だった時分から特攻の調査・研究を独自で続けてきた、いわばライフワークである。

 (本書は)太平洋戦争末期の陸軍特別攻撃隊を取材テーマに、生き残った隊員や遺族などの証言、日記、手紙などを取材し、個人の生死より国家を優先した戦時下の狂気と恐怖、非人間的な組織の論理を暴いた。さらに、組織優先の論理や風潮が戦後の日本社会に引き継がれ、企業不祥事や過労死など個人が犠牲になる温床になっていると警鐘を鳴らしている。過去の歴史を振り返るだけでなく、現代に生きる私たちが学ぶべき教訓として描かれている。
(中日新聞社編集局長・寺本政司による「まえがき」より)

 たとえば、ブラックバイトや過労死や派遣切り。人を部品か消耗品のように扱う非人間的組織の実態。
 たとえば、2018年に起きた日大アメフト部の悪質タックル事件。タックルを行った当人はコーチからの「命令」と言い、コーチ側はそれを否定する。上からの「命令」なのか本人による「志願」なのかを曖昧にする無責任体質。
 たとえば、100人以上の犠牲者を出した2005年のJR西日本福知山線の脱線事故。当時同社で行われていた、業務でミスした運転士を再教育する「日勤教育」にみるパワハラ、モラハラ、懲罰的な精神論。
 たとえば、安倍元首相夫妻が絡んだ森友事件で公文書の改竄を上司に強要され、自らの命を絶った財務省の赤木俊夫氏。組織上層部の保身によって、忠実で真面目な中間管理職が精神的な破滅に追い込まれていく悲惨な構図。
 たとえば、新型コロナウイルス禍の自粛警察や、マスクしない人や休業しない店に対するバッシング。相互監視と逸脱者への村八分につながる世間の同調圧力。

 著者は、戦後70年以上経った現在起きている数々の事件の背景に、「特攻」という人類史上稀に見る愚かで野蛮な戦術(という言葉すら当たらない愚行)を可能にした、我が国の精神文化、思想、組織体質、社会の空気――つまりは国民性が垣間見られるとしている。
 その通りであろう。 
 特攻こそは、日本というシステムにおける「負」の集積的象徴であり、日本人の究極の欠陥が具現化した徒花なのである。
 特攻の中に日本人が見える。

 理想の勇姿を消耗品扱いする作戦がまかり通ったのは、戦局悪化の責任を回避し、そのツケを前線の兵士に押しつける組織の論理でしかない。上層に向かうほど責任の所在が不明確になり、矛盾のしわ寄せが末端に押しつけられる。それは、今も変わらない日本型組織の特異性と言えるだろう。

日本刀

 本書ではじめて知ったが、特攻に失敗した兵隊――いったん出撃したものの、機体の故障や悪天候などで自爆という目的を果たさないまま帰還した兵隊――を隔離収容する「振武寮」という施設が福岡にあった。
 そこは帰還した特攻隊員の「仕置き部屋」と化し、上官による虐待が日常茶飯だったという。
 こんなひどい話もある。
 「特攻で亡くなった」と大本営が発表した兵隊に対し、天皇陛下が名誉の勲章を授与することになった。ところが、本人が生きて還ってきた。
 いまさら「間違っていました」と取り消すのもまずいと、上官はその兵隊を暗殺する命令を出した。(さすがにこの命令は部下たちの猛反対を受け実行されなかった)
 
 子供の頃から徹底した軍国主義教育を受けた少年兵ほど、特攻に対する抵抗感が低く、「お国のために散る」ことに憧れすら持つ――というのは、まさに洗脳の賜物だろう。
 自我が十分育たないうちに隔離して、組織に都合の良い情報だけを繰り返し注ぎ込む。
 国のために命を捧げる特攻隊を「軍神」と位置づけ、国民がこぞって持て囃す風潮をつくる。
 少年たちは自らが置かれた生贄的境遇を不自然に思うことなく、「神」を演じて戦場に出ていく。

 なんだか、最近話題のジャ×ーズの元少年たちのことを思い出した。
 

 

おすすめ度 :★★★

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● 本:『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向1867‐1945』(池上彰、佐藤優共著)

2023年講談社現代新書

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 彰優(えいゆう?)コンビニよる日本左翼史シリーズ第4弾。
 今度こそ完結編だ。
 明治維新から太平洋戦争までの左翼史を扱っている。
 4冊目ということで、二人の対話も役割分担もスムーズで、概して読みやすいものになっている。
 おそらく、前3冊と合本にして、かなり厚めの新書『日本左翼史』がそのうち刊行されることになるのだろう。
 よい企画だったと思う。

 日本の左翼がいつ誕生したかを特定するのは難しい。 
 板垣退助らによる自由民権運動(1874~)か、秩父事件(1884)か、幸徳秋水や片山潜らによる社会主義協会の設立(1990)か、日本社会党の結成(1906)か、日本共産党の結成(1922)か・・・。
 それはたぶん、左翼をどう定義するかによって変わってくるのだろう。
 マルクス主義に根差した改革(革命)運動という意味でとれば、社会主義協会の設立をもって左翼の誕生と言えそうな気もするが、1917年ソ連成立の影響を受けた、国体(天皇制)の変革を前提にした共産社会に向けての組織的運動という意味でとれば、日本共産党の結成が起点となるように思う。
 1922年には日本で初めての人権宣言である水平社宣言が発表されてもいる。
 この年が、日本左翼史において一つのメルクマールであることは疑いえない。

水平社宣言記念碑
奈良県御所市柏原に建つ水平社宣言記念碑

 いずれにせよ、戦前の左翼史についてはひと言でまとめることができる。
 「弾圧」である。
 開国このかた、欧米の植民地になることを防ぐための国民一丸となっての富国強兵・殖産興業、すなわち近代化を焦眉の急とした大日本帝国政府が、その流れに竿さそうとする動きに対して弾圧を加えたがるのは、わからなくもない。
 また、伝統的国体である天皇制の解体を目指す、背後に人類初の社会主義国家ソ連の影が揺曳する組織に対し、保守的な層のみならず、天皇を敬愛していた国民の大多数が危険なものを感じたのも無理はない。
 ただし、弾圧の仕方は到底、近代民主主義国家にふさわしいものではなかったが。
 その意味では、日本の左翼の真の誕生は、言論・集会・結社の自由が保障された戦後と言えるのかもしれない。

 以下、引用

佐藤 戦前の世直し運動、異議申し立て運動には右翼と左翼に加えて宗教というもう一つの極があり、この三者がときに対立し、ときに相互に重複しつつ展開していったというのが実際のところだと思うのです。

佐藤 自由民権運動は佐賀の乱や西南戦争など明治初期の士族反乱の延長線上にあるものであって、維新政府の「負け組」が仕掛けた単なる権力闘争にすぎない、というのが私の評価です。この運動を左翼の誕生とダイレクトに結びつけるのは無理があるでしょうね。
 
佐藤 右翼は宗教との親和性が高いので宗教と結託し、宗教の力を利用することもできたわけですが、左翼の場合は核の部分に無神論があるがゆえに宗教の活用ということはなかなかできなかった。

池上 廣松渉が『〈近代の超克〉論〉』(講談社学術文庫)でも言っているように、戦前において革命はタブーではなかったし、社会主義も決してタブーではなかった。ただ天皇制の否定だけがタブーでした。


 最後に――。
 本シリーズのそもそもの目的の一つは、「格差の拡大や戦争の危機といった現代の諸問題が左翼の論点そのものであり、左翼とは何だったのかを問うことで閉塞感に覆われた時代を生き抜く上での展望を提示する」というところにあった。
 しかるに、4冊終わってみると、この目的が十分達しられたとは言い難い。
 池上も佐藤も、左翼批判とくに共産党批判の向きが強く、美点よりも欠点をあげつらってばかりいる。
 欠点や過ちを指摘するのはよいが、それを検証してより良い方法論を示し、時代を生き抜く上での「展望を提示する」ところまでは至っていない。 
 読者に託された課題ということか。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『福田村事件』(森達也監督)

2023年日本
137分

福田村事件

 本作は関東大震災100年後の9月1日に公開された。
 なかなか評判になっているようで、9月9日(土)池袋シネマロサでの午後の回は8割くらい埋まっていた。
 どんどん全国拡大し、ロングランしてほしい。
 一人でも多くの人に観てほしい。

 100年前の史実である福田村事件をじっくり丁寧に描いている。
 クライマックスとなる香川の行商9人(胎児含めると10人)虐殺に向かって、その数日前から、舞台となった千葉県野田村の様子を描き込んでいく。
 日本に併合された韓国から帰ってきた夫婦、シベリア出兵で戦死した夫の遺骨を持ち帰る寡婦、デモクラシーを唱える村長を馬鹿にして村を仕切る元軍人たち、蔓延する在日朝鮮人への偏見、女子供とジジババが銃後を守る村や家庭の様子、男尊女卑の家制度、皇国史観が横行する大正末期の世相、軍隊や警察(特高)が威張りくさる軍国主義の風潮、国策に順応するマスコミ・・・。
 どのような背景・前提のもとで、この事件が起こったかを十分に観る者に知らしめる。

 その中に、物語の中心となるべき人物が据えられる。
 片や、朝鮮半島から故郷の福田村に帰国してきた男、澤田智一(井浦新)と妻の澤田静子(田中麗奈)。
 この二人は史実には出てこない創作上の人物であり、映画を観る者の視点、つまり日本人ではあるものの大日本帝国臣民の価値観には完全には染まっていない人間として、観客の感情移入しやすいキャラに設定されている。
 うまい仕掛けである。
 観客は、この智一と静子の二人を通して、事件の推移につき合っていくことになる。

 片や、香川から野田村にやって来た薬売りの一行である。
 大人と子供の総勢15人、中に妊娠した女もいる。
 頼りがいのある親方(永山瑛太)のもと仲良く行商しているが、彼らには人に知られてはならない秘密があった。
 被差別部落の民だったのである。

 前半、滔々と(ややぎこちなく)進んできた流れが、9月1日の関東大震災を機に一気に速度を速め、荒々しさを増していく。
 それまで個々に描かれてきた登場人物たち各々の物語――智一と静子の破綻寸前の微妙な夫婦関係、夫を戦争で亡くした寡婦と渡し守の男との人に後ろ指さされる恋、部落差別を背負いながら生きる行商一行の哀しみと逞しき商魂と強い絆、唯々諾々と国策に従って紙面を作ろうとする上司に抗う女性新聞記者の意気地、東京にいる夫が震災時に朝鮮人に殺されたと聞き悲嘆する若妻、戦争に行っている間に妻が自分の父親と関係したと勘繰る夫、等々――のエピソードが、打ち鳴らされる警鐘とともに香取神社の建つ利根川岸でひとつに収斂し、血みどろの殺戮劇に発展する。
 よくできた脚本である。

 しかし、なんといっても本作最大の魅力にして成功のポイントは、役者たちの熱意だろう。
 主役の澤田夫妻を演じる井浦新と田中麗奈、色男の渡し守を演じる東出昌大、行商の親方を演じる永山瑛太、この4人は甲乙つけがたく素晴らしい。
 いずれも、それぞれの役者人生における最高の演技ではないだろうか。
 演技の技術そのものよりも、この作品に対する、それぞれの役に対するひたむきな思いが彼らの演技を支えて、芝居を本物にする磁力が生じている。
 この磁力がスクリーンの密度を高め、観る者を最後まで引っ張っていく。
 とりわけ、不倫問題によって芸能界を締め出された東出の、逆境によって一皮むけた不逞なる存在感が印象的。
 倫理やら道徳やらを持ち出しバッシングに熱を上げる大衆とそれに迎合する無責任なメディアによって村八分にされた東出ほど、この福田村事件の因を成す群集心理の怖さを身をもって知る者はいまい。
 村の女たちの欲求不満のはけ口にされる軽薄な色男という、いかにも世間が東出に抱くイメージを自ら戯画的に演じながら、狂気にかられる村人たちから行商を守ろうと盾になる。
 東出は本作で本物の役者になったと思う。
 森監督が東出を起用してくれたことに感謝したい。
 本作のリアリティを一気に高める柄本明の起用は言うに及ばず。

香取神社
事件の舞台となった野田の香取神社参道

 ソルティは、森監督が本作を撮るにあたって、どこまで部落問題に踏み込むのか興味津々であった。
 部落問題に触れるのがタブーだからというのではない、
 森監督ほどタブーと向き合って、タブーを破ってきた表現者はいない。
 そうではなく、朝鮮人差別や集団パニックだけでも扱うのに大きなテーマなので、そこに部落差別というテーマを絡ませることで、焦点がぼやける可能性を思ったのである。
 福田村の自警団をはじめとする村人たちが香川の行商を殺害したのは、彼らを朝鮮人とみなしたからであって、彼らが部落民だったからではない。村人は行商たちの素性を最後まで知らなかった。
 つまり、そこに部落差別を組み込む必要はない。
 しかし、史実である以上、まったく部落問題に触れないのも不自然だ。
 どう処理するのかな?――と思っていたら、なんと水平社宣言という裏技を出してきた。
 ・・・・・!
 そうだった。
 関東大震災および福田村事件が起きたのは1923年9月。
 それに先立つ一年前の3月3日、京都で全国水平社が結成された。
 史実がどうだったかは知るべくもないが、全国各地を旅して回る香川の行商たちがどこかで水平社宣言を読み、どこかで活動家の講演を耳にし、歓喜に震え、解放運動に目覚めていたとしても、決しておかしな話ではない。
 それだけに、解放と平等への希望を抱いて行商していた一行が、同じように日本人によって差別されている朝鮮人と間違えられて虐殺されるという顛末は、あまりに酷く、悲しく、絶望的だ。
 「なんで? なんで? なんで?・・・」
 殺戮を目撃し生き残った行商の少年の慟哭に答えられる者はいるのか?

 森監督、本作に希望を盛り込まなかった。
 おそらく、監督の分身は女性新聞記者であろう。
 彼女は福田村事件の惨状を目の当たりにし、記事に書くことを決意する。
 福田村村長は泣いて懇願する。
 「私たちはこれからもこの土地で生きてゆかねばならない。どうか書かないでくれ」
 彼女は答える。
 「書くことでしか、これまで朝鮮人差別を黙って見逃してきた自分を許せない。亡くなった香川の行商たちに償いえない。」
 森監督も本作を撮るにあたって、同じように自問自答したのだろう。

 ラストシーン。
 船で川へと漕ぎ出す澤田夫妻。
 妻は問う。「ねえ、どこへ行くの?」
 夫は答える。「・・・教えてくれ」
 二人の乗った行先わからぬ船は、“新しい戦前”を漂う現在日本の比喩に違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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● 楽園の中の地獄 映画:『野火』(塚本晋也監督)

2015年日本
87分

 塚本晋也の作品はこれがはじめてだが、噂通りたいへん才能ある監督と納得した。
 制作、脚本、監督、撮影、編集に加え、なんと主演までやってのけ、いずれも高い水準の出来栄えである。
 とくに演技がこれほど巧いとは意外であった。

 最近観た市川崑による『野火』と自然比較してしまう。
 脚本つまりシーン構成はほぼ同じと言っていい。
 市川作品(105分)よりセリフが刈り込んであるぶん、引き締まってスピーディーな感がある。
 なによりの違いはやはりカラーであるところ。
 南国(レイテ島)の美しさが際立って表現されている。
 透き通った海、鮮やかで幻想的な夕焼け、原色のエロチックな花々、緑濃き森、蒼い闇に飛び交う夜光虫・・・・。
 撮影が素晴らしい。
 「ああ、ここは戦争さえなければ、兵隊さえいなければ、まんま楽園なのだ。」
 日本の兵隊たちは楽園にあって地獄を生きているのだ、と観る者に教えてくれる。
 
 一方、カラーであることは別の部分で容赦ない効果を生む。
 米軍の圧倒的な武力によって虫けらのごとく殺される日本兵たちの死に様が、実にグロテスクで生々しい。
 血しぶきが飛び、千切れた腕や頭部が散乱し、内臓や脳漿がドロドロと流れ出し、びっしりとウジ虫が蝟集する。
 ここまで凄惨なリアリティは市川作品にはなかった。
 欧米なら年齢制限がつくのでなかろうか。

 市川作品が、生き残った主人公が野火に向かって歩き出すシーン、すなわち米軍への投降を暗示することで終わったのにくらべ、塚本作品では帰国した主人公の戦後の姿も描いている。
 この違いも大きい。
 塚本は主人公の職業を物書きと設定し、作家として世過ぎしながらトラウマに苦しむ男の姿を描く。
 いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だ。
 彼にとって、戦争はまだ終わっていない。地獄は続いている。
 確かにベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争を経た令和の現在、本作を映画化するならそこまで描かなければ意味はなかろう。
 結果、市川作品より悲劇の重厚性は勝っている。

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David MarkによるPixabayからの画像

 楽園と地獄のコントラスト。
 これが市川作品にはない本作のコンセプトであり、一番の仕掛けであろう。
 銃や手榴弾を捨てれば、戦いを止めれば、日本兵たることを捨てれば、「お国や天皇のために戦うことこそ日本男児」という共同幻想から解かれれば、今いる地獄はそのまま楽園に転じる。
 野火を焚いて神に祈る原住民のように、自然とともに生きる平和で豊かでエロチックな暮らしが眼前にある。
 地獄はまさに主人公の頭の中にのみ存在し、戦い殺し合う人間の心のうちにその種を持ち、その根と茎をのばし、その毒々しい花を咲かせる。
 楽園と地獄――それは自然と人間の対峙でもある。
 この世に地獄を作り出すのは、神でも悪魔でも阿修羅でも閻魔大王でもない。
 人間の心なのである。

 本作で主人公が最後まで自らに決して問いかけないセリフがある。
 「なぜ、自分は闘っているのだろう?」
 その問いが奪われたところに、兵士たちの悲劇がある。
 それにくらべれば、カニバリズム(人肉食)なんて、たいしたテーマではない。

 個人的には、市川作品より塚本作品を推したい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 本:『ルポ 死刑』(佐藤大介著)

2021年幻冬舎新書

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 副題は「法務省がひた隠す極刑のリアル」。
 著者は1972年生まれ。
 毎日新聞社、共同通信社での記者活動を経て、現在、共同通信社の編集員兼論説委員を務める。
 
 著者の基本姿勢は死刑廃止なのだと思うが、ここではそれを声高に訴えていない。
 むしろ問題としているのは、副題にある通り、日本の死刑制度の実態が法務省によって徹底的に伏せられていて、国民に正確な情報が伝えられていない点である。
  •  死刑囚はどのような日常を送っているのか。
  •  外部とのやり取りはどの程度許されているのか。
  •  日々なにを思って過ごしているのか。
  •  誰がどう死刑執行日を決めるのか。
  •  どのように受刑者に伝えられるのか。
  •  死刑がどのように行われ、誰と誰が立ち会っているのか。
  •  担当する刑務官はどのような思いを抱えているのか。e.t.c.
 死刑制度の是非はいったん別として、米国では情報を公開することで議論が起き、それだけ死刑制度について考えることができる。一方、日本では密行主義で情報はほとんどなく、死刑が行われながらも議論は深まらない。死刑は国家が合法的に命を奪える究極の権力行使であるのにもかかわらず、多くの人々は無関心という状態が日常化している。 

 我々国民は、死刑に関する十分な情報を与えられないまま、死刑制度の是非を議論する環境に置かれている。
 確かにこれはおかしい。
 国がどのように一人の国民を監禁し抹殺したかを、他の国民たちが知ることができないのは、殺された対象がどんな人間であるかに関わらず、由々しき事態だ。
 国家が一国民に対しどのようなことをなし得るかが不透明にされているからだ。
 民主主義の根幹にかかわる問題である。

 本書では、死刑囚、元死刑囚の遺族、弁護士、刑務官、死刑囚の世話をする衛生夫、検察官、法務省官僚、牧師や神父や僧侶などの教誨師などへのインタビューやアンケートなどをもとに、日本の死刑囚の置かれている状況や彼らの思い、死刑執行までの具体的な段取りが、でき得る限りに描き出されている。
 日本の死刑は絞首刑だが、これは明治6年に作られた法律によるもので、140年変わっていないという。
 科学も医学も薬学も進み、もっと穏やかな殺害方法があるだろうに、「絞首刑は苦痛がもっとも少なく、残虐性なし」と結論付けた1828年の学者論文をもとに、いまだに他の手段を検討することなく続けられている。
 サディストか。
 死刑執行方法見直しの議論は民主党政権時代に持ちあがっていたのだが、2012年末の総選挙で民主党が惨敗し、政権が再び自民党に戻ったことで立ち消えてしまった。
 ときの法相は谷垣禎一、首相は安倍晋三であった。
 
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Heinz HummelによるPixabayからの画像

 ソルティは基本、死刑廃止論者である。
 が、時々、「こいつだけは死刑もやむを得ない」と思わざるをえないような、残虐極まりない卑劣な犯行、個人的に許しがたいと感じる犯罪者が出現し、そのたび心が揺れ動く。
 すぐに思いつくのが、1988年2月に起きた「名古屋アベック殺人事件」であり、同じ年の11月に東京都足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。
 この2つの犯罪の凄惨なまでの残虐さは言語に絶するもので、被害者の受けた恐怖や苦痛や絶望、被害者遺族の受けた打撃や苦痛や喪失感を想像すると、「目には目を、歯には歯を」ではないが、加害者にも同等の苦しみを与えなければ承知できない、「死刑は当然」と当時思った。
 個人的にソルティは、女性が男達によって拉致監禁され、暴行され、強姦を繰り返される類いの犯罪が一番嫌いで、許し難く思うのだ。

 びっくりしたことに、本書にはなんとこの「名古屋アベック殺人事件」の加害者、それも6人の加害者のうちの主犯格Nが登場する。
 一審でNは未成年であったものの死刑判決を受けた。そこまではソルティも知っていた。
 その後、二審での6年余りに及ぶ審議の結果、無期懲役が下り、判決が確定した。
 現在、無期懲役囚として岡山刑務所に収容されていて、著者は数年前からNと面接や手紙のやり取りを行ってきた。
 「そうか。生きていたのか・・・」
 驚くとともに、いまや40代になるNという男の変化に戸惑った。
 服役態度の良い模範囚であり、被害者遺族への謝罪や償いを心がけ、更生の途上にあるらしい。
 35年前のNと同一人物なのかと思わず疑ってしまった。

 それに輪をかけて驚いたのは、被害者女性の父親とNとが文通をしているという事実であった。
 一体そんなことが可能なのか!
 大切な娘をこれ以上ないほど残酷なやり方で殺されて、自ら復讐することも叶わずに、人生を滅茶苦茶にされ、せめてもの慰みの「死刑判決」すら「無期懲役」に減刑されてしまった。
 そんな憎き相手と文通できるこの父親の存在に愕然とした。
 もちろん許しているわけではなかろうが、それとは別に、“人と人として”相手と対峙できる度量というか、精神性に恐れ入った。
 韓国のドキュメンタリー『赦し――その遥かなる道』(チョウ・ウクフィ監督)を観たとき、妻と子供を殺された父親が、その殺人犯の減刑運動をしているエピソードを知って、ぶったまげた。
 それはキリスト教など宗教的バックボーンのある特別な人の場合と思っていたけれど、日本にも同じような人がいたのである。
 この父親がいる以上、ソルティはもはや、「名古屋アベック殺人事件」の犯人を断罪することができなくなった。

観音さま

 世界各国の約7割が死刑を廃止、または事実上廃止しているなかで、日本は少数派に属している。そうした中、米国が連邦レベルでの死刑執行を停止したことから、先進国主体の経済協力開発機構(OECD)加盟国(38ヵ国)で通常犯罪に対する死刑執行を続けているのは、日本だけと言うことができる。

 日本には日本独自の文化や風習や価値観がある、外国の目を気にしてそれに合わせる必要はないと言うのは一見カッコよいけれど、意地を張って国際連盟脱退の二の舞のようなことにならなければよいのだが・・・・。
 あとからどれだけ高くついたことか。




おすすめ度 :★★★

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● ストライキ上等! 映画:『豚と軍艦』(今村昌平監督)

1961年日活
108分、白黒

 米軍基地のある街・横須賀の戦後間もない風景をリアルに切り取った社会風俗ドラマ。
 今村自身はこれを「重喜劇」と呼んだ。
 たしかに、米兵の金に群がるヤクザや娼婦やポン引きが登場し、人殺しやレイプや銃撃戦が繰り広げられるシリアスな「重さ」はあるものの、一方で、黛敏郎のマーチ風音楽に象徴されるテンポの良さと軽快さ、あるいはラスト近くで路地に溢れる豚の大群シーンに見られるような滑稽感もあり、全体として諧謔味に溢れている。
 ちょうど、エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』(1995)のようだ。
 パワーあふれる人間喜劇。

 その重喜劇的諧謔を体現する主役の若者が、ヤクザのチンピラ欣太。演じるは長門裕之である。
 長門は『太陽の季節』(1956)で主役をとったが、あまりいい出来ではなかった。
 演技力どうこうの問題ではなく、湘南の不良お坊ちゃま愚連隊である「太陽族」が、長門のイメージにまったく合っていなかった。
 長門もまた名のある芸能一族に生まれたお坊ちゃまには違いないのだが、下町の御用聞き風の顔立ち(桑田佳祐そっくり!)や、ニヒリズムやダダイズムとは縁遠い、地に足着いた生活臭の濃さが、石原慎太郎の描く太陽族とはカラーが違いすぎた。
 結果的に、脇役の岡田真澄や端役の石原裕次郎の、作品の質と釣り合った存在感に喰われてしまって、代表作にはなり得ていない。
 その意味で、今村監督との出会いは長門にとって非常に幸運であったというほかない。(逆もまた然り。長門との出会いは今村にとっても幸運であった)
 長門裕之という俳優の特質が、まさに今村作品の質と釣り合ったものであることが、ここに証明されている。

 他の役者たちもそれぞれにリアリティある魅力的キャラをふり当てられ、実に人間臭い充実の芝居をしている。
 ヤクザの組員で欣太の兄貴分・鉄次を演じる丹波哲郎のふてぶてしくもクールな存在感、その妻を演じる南田洋子の艶々しさ(本作公開の年に長門と結婚した)、欣太の組員仲間を演じる大坂志郎、加藤武、小沢昭一らの滑稽感ある達者なチームワーク(とりわけサイコパス風の加藤武が秀逸!)、貧しい庶民を演じたら右に出るものがないベテラン菅井きんと東野英次郎。
 そこに、当時まだ高校2年生だった新人の吉村実子が体当たり演技で加わって、ベテランたちに負けない鮮烈な印象を刻んでいる。(吉村実子は吉村真理の妹だとか)

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左から小沢昭一、加藤武、長門裕之、丹波哲郎、一人はさんで大坂志郎
こんがりと焼いた豚肉をみんなで頬張る作中一番の滑稽シーン
このあとにとんでもない事実が発覚し・・・

 ソルティは戦後混乱期の風俗や裏社会の仕組みに詳しくないので、物語の筋は実のところあまりよく理解できなかった。
 が、徹底的にリアルを追求した骨太の作風のうちに、ありのままの人間の欲や情熱や愚かさや醜さや猥雑さやバイタリティがこれでもかと描き出されて、圧倒された。
 戦後80年たって、無菌化・無臭化・IT化・孤立化し、政府やメディアや世間によって牙を抜かれ家畜化した日本人が失ってしまったものが、ここには焼き付けられている。
 



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