ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 野口五郎の謎 本:『日下を、なぜクサカと読むのか 地名と古代語』(筒井功著)

2024年河出書房新社

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 長野県と富山県の境をなす飛騨山脈の中に野口五郎岳(2924m)という山がある。
 はじめてこの名を地図上で見つけた時は冗談かと思った。
 野口五郎も偉くなったもんだなあと思った。

 いまの若い人は知らないだろうが、野口五郎は70~80年代のスーパーアイドル歌手だった。
 西城秀樹、郷ひろみとともに「新御三家」の一人として、世の多くの女性たちの人気を集めた。
 『私鉄沿線』、『甘い生活』、『針葉樹』、『季節風』、『コーラスライン』など名曲も少なくない。
 ひょっとしたら、野口五郎の出身地にある山だから、記念にその名を冠したのかなあと思った。

 が、これは逆であった。
 ちびっ子のど自慢大会の常連だった佐藤靖少年は、歌手デビューするにあたって、「雄々しく逞しい歌手になるように」という願いを込めて、この山から芸名をもらったのである。
 やはり同じ飛騨山脈中にある黒部五郎(2840m)とどっちにするか迷ったというから、芸名を考えた人はかなりの登山マニアだったのだろう。
 ちなみに、野口五郎は岐阜県出身である。

 野口五郎岳の名の由来は、「野口」集落にある「ゴロ」。
 ゴロとは「大きな岩がゴロゴロしているところ」の意で、場所によっては「ゴウラ、ゴウロ、ゴラ」とも呼ばれる。
 箱根温泉の有名な強羅(ごうら)はまさにその一例である。

野口五郎岳
野口五郎岳
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=81900301による

 土地の名前の由来を知るのは面白い。
 由来を探るのはさらに面白い。
 とくに、大昔から継承されている地名は由来が文献に記されていないため、想像や推理で探るほかない。
 「野口」や「強羅」のように地形や土地の特徴から推測したり、名前の音(オン)から大和言葉以外の起源(たとえばアイヌ語や朝鮮語)を想定したり、その土地に伝わってきた古い風習や代表的な生産物に起源を求めたり、いろいろなアプローチがある。
 本書はまさに、文献には見つからない、日本の古い地名の由来を探っている。
 
 著者の筒井功は、民間の民俗研究家。
 机上の文献調査ももちろん怠りないが、自ら車を運転しての現地調査いわゆるフィールドワークに重点を置いているところが、この人の面目躍如である。
 まさに文字通り、“在野”の研究家。
 それゆえ、この著者の書く物は民俗研究レポートであると同時に、日本の辺境をめぐる旅行エッセイみたいなニュアンスを帯びる。
 出かけた先の役所や図書館などで地域資料を調べ、現地の古老をつかまえては古い記憶を引っ張り出す。
 そこからオリジナルな仮説を組み立てていく。
 「足で稼ぐ」探偵を主人公とする推理小説を読むような魅力がある。

 本書で取り上げられている地名、及びその由来についての著者の仮説を一部紹介する。
  • クサカ(日下)=クサ(日陰)+カ(処)→日の当たらないところ
  • ツルマキ(鶴巻、鶴牧、弦巻など)=弦巻(弓に弦を巻く円形の器具)→円形の土地
  • イチのつく地名(市、市場、一ノ瀬など)=イチ(巫女などの宗教者)が住んでいたところ (もちろん「市(マーケット)」や「一番」の意によるところも多い)
  • ツマのつく地名(川妻、上妻、下妻など)=「そば、へり」の意→川べりにある土地
  • アオイヤのつく地名(青山、青木、伊谷、弥谷など)=葬地だったところ
  • サイノカワラ(賽の河原)=サエ(境)+ノ+ゴウラ(石原)→石がゴロゴロしている境界の地
徳島県市場町

 2018年の秋に四国歩き遍路したとき、八十八ある札所の中で、「なんか不気味だなあ」、「ここは出そうだなあ」と思ったところ、参拝した後に“憑かれた”ような重さを感じたところがあった。
 香川県にある71番弥谷寺(いやだにでら)である。
 382mの山の中腹にあり、570段の急な石段を登りきったところにある本堂からは、素晴らしい眺望が得られた。
 弘法大師空海が子供の頃に勉強をした岩窟があることでも有名で、人気スポットになってもおかしくない場所であった。
 が、なんとも言いようのない空気の澱みを感じた。
 訪れたのは一日の巡礼の最後で足が棒のようになっていたので、境内で景色を見ながらゆっくり休憩するつもりだった。
 が、岩窟の中にある納経所で御朱印をもらったら、一刻も早く山を下りなくちゃという気になった。  
 霊感のないソルティには珍しいことであった。

 本書によれば、この山は地元では「死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行われた」そうである。

同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃いものが偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、「弥谷へ参るぞ」と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。(吉川弘文館『日本民俗大辞典』より抜粋、筆者は小嶋博巳)

 弥谷(イヤ+タニ)はまさに葬地だったのである。
 地名の由来を事前に知っていたら、怖くて写真を撮れなかったろう。

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遍路道から望む弥谷山

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山門

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金剛挙菩薩(約6m)

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「いやだに~」と毒づきながら登った石段


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本堂

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水場の洞窟

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大師堂
この中に岩窟がある

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岩窟への入口

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下山してほっとした



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 大正役者の”味” 映画:『気違い部落』(渋谷実監督)

1957年松竹
134分

 きだみのるの小説『気違い部落』シリーズを原作とする。
 きだみのる(1895-1975)は鹿児島県出身の小説家。フランス留学の経験を生かし、『ファーブル昆虫記』の翻訳もしている。
 戦中戦後、東京都南多摩郡恩方村(おんがたむら、現:東京都八王子市)の廃寺に20年ほど籠もるように暮らした。
 そのときの見聞をもとに書いたのが『気違い部落周游紀行』(1948年)で、一躍ベストセラーになった。
 「気違い」扱いされた恩方村の人々にしてみれば、たまったもんじゃない。
 きだに向って鎌を振りかざし、村からの立ち退きを迫ったという。

 恩方村は童謡『夕焼け小焼け』誕生の地でもある。
 作詞の中村雨紅がこの里のお宮の子供であった。
 ソルティは山登りの帰りに寄ったことがあるが、緑豊かな長閑な里といった印象を受けた。
 なお、この小説および映画のタイトル中の「部落」は被差別部落のことではない。
 本来の語義である「集落」の意である。

恩方村の夕暮れ
八王子市恩方

 国立映画アーカイブの2階ホール(310席)はほぼ満席であった。
 95%は中高年男性だった。
 古い邦画を愛する映画マニアにとって、見逃せない作品なのである。
 というのも、一見タブーの2乗のような物騒なタイトルをもつ上、実際に作品中でも放送禁止用語が頻発する本作は、TV放映NGはもちろんのこと、DVDにもなっておらず、旧作専門の映画館でも上映される機会が滅多にないからである。
 のっけから、ナレーターを務める森繁久彌が「きちがい」を連発するわ、犬を撲殺して皮を剥ぎ肉鍋にするシーンは出てくるわ、肺病患者や共産党員(アカ)を差別するセリフは飛び出すわ、セクハラ・パワハラは空気のように当たり前で、“令和コンプライアンス”に違反することだらけである。
 加えて、部落の男どもときたら、博打は打つわ、酒を飲んでくだを巻くわ、殴り合いの喧嘩をするわ、妻がいるのに女工に手をつけるわ、酒に水増しするあこぎな商売はするわ、密猟するわ・・・、片や女どもは寄ると触ると人の悪口を言うわ、猥談するわ、ノーパンでワンピースを着るわ・・・。
 前近代的で閉鎖的な村社会に生きる色と欲と偏見にまみれた男女の姿が、赤裸々に描き出される。
 前半は戯画的かつコミカルなタッチで。
 後半は悲劇的かつシニカルなタッチで。

 昭和30~40年代に首都圏のベッドタウンに生まれ育ったソルティは、こうした地方の“村社会”文化に直接触れたことはない。
 が、TVドラマや映画や小説や漫画を通じて、あるいは地方で生まれ育った知人から話を聞いて、「田舎の暮らしとはそういうものか」と思っていたので、いまさらその実態に驚くことはない。
 むしろ、新鮮な驚きは、昭和の頃の自分なら何とも思わなかったであろう「きちがい」というセリフの連発や犬殺しのシーンにショックを覚え、「これはちょっとマズいんじゃないの?」とドギマギしている、令和の自分を発見したことであった。
 つまり、昭和から平成を通過して令和に至る数十年で、表現の自由に対する自らのしきい値、つまりNGラインがいかに変わったかに気づかされた。
 その変化は、良く言えば、人権意識の向上、ソフィストケイト、紳士化、民度の向上、SDGs理解の深まりってことであるが、反面から見れば、社会に洗脳されて“いい子”になった、表現の自由の範囲を狭めようとする世の潮流に知らず押し流されていた、ということでもある。
 だいたい、戦争映画やホラー映画で人が虐殺されるシーンは平気で観ているのに、一匹の犬が殴り殺されるシーンに、「見ていられない!」「残酷だ!」「許されない!」と思ってしまうあたりが、世間の恣意的なNGラインの設定と、ソルティの洗脳されっぷりを示しているではないか。
 実際、犬撲殺シーンでは、観客席から非難とも悲鳴ともつかない声が上がっていた。

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国立映画アーカイブ

 さすが「国立」を冠する施設だけある。
 フィルムの保管方法が良いのだろう。画質と音声は信じられないくらいクリアであった。(あまり上映されないせい?)
 出演者がみんな上手く、味がある。
 部落一の権力者・良介を演じる山形勲は、高峰三枝子共演『点と線』を観た時も思ったが、岸田首相に似ている。メガネをかけたらクリソツなのではないか。権威を笠にきる俗物っぽい男を好演。
 その取り巻きを演じる藤原鎌足、三井弘次、信欣三らのコミカルな演技は秀逸。
 良介の妻役の三好栄子は、木下惠介『カルメン、純情す』や小津安二郎『おはよう』での怪演ぶりが記憶に残るが、ここでもエグイほどのキャラ立ちで観客を楽しませてくれる。男優なら天本英世にならぶ希有な怪物役者だ。三好栄子特集をどこかで組んでくれないものか。(新文芸坐 or 神保町シアター or ラピュタ阿佐ヶ谷?)
 今井正監督『橋のない川』で名優ぶりを知った伊藤雄之助。ここでも地か芝居か区別つかないような渾身の演技を見せる。演じることに対する凄まじい情熱は、後輩の三國連太郎と比肩しうる。
 若い恋人役を演じる、まぎれもない美男美女の石濱朗と水野久美は、有象無象が跋扈する部落にあって唯一の清涼剤。石濱朗は、美空ひばりとコンビを組んだ『伊豆の踊子』で、水もしたたる美青年ぶりを見せていた。やっぱり、目鼻立ちが菅田将暉を思わせる。
 ほか、うれしいサプライズは、伴淳三郎、淡島千景、清川虹子、桂小金治、もちろんナレーターの森繁久彌。

 『気違い部落』というだけあって登場人物がみなそもそも個性的なのであるが、そればかりでなく、昔の役者の個性豊かさはどうだろう?
 高齢者介護施設で働いていた時に思ったのだが、大正生まれの人は個性的で面白い人が多かった。
 結構わがままで職員泣かせなのだが、どこか剽軽で憎めない。
 風変りなエピソードを持っている人も多かった。
 育った時代の空気というものだろうか。
 そのうち入所者が昭和生まればかりになってくると、日本人から個性とユーモア精神が抜けたような気がした。
 戦後生まれともなると、さらに画一化。
 役者についても当然それはあてはまる。
 本作は、大正生まれの役者たちの“味”の証言とも言える。

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階段に掲示された昔の映画ポスター
 
 前述したように、きだみのるは恩方村の人々から恨まれた。
 が、言うまでもなく、きだが言いたかったのは、恩方村は日本の縮図であり、「気違い部落」とはそのまま日本の姿だということである。
 本作の最後のナレーションでも、「このような部落は日本中どこでもあります」と言っている。
 おそらく、フランス留学で西欧文化に触れたきだは、日本の前近代性をしこたま痛感し、なかば絶望したのだろう。
 たとえば、権力への盲従、談合、根回し、同調圧力、掟、村八分、「なあなあ」主義、本音と建て前の使い分け、組織の無責任体質、男尊女卑の家制度、重要なことは会議でなく料亭や居酒屋で決まる、よそ者を嫌う閉鎖性・・・・e.t.c.
 恋人を結核で亡くし「気違い部落」に愛想をつかした石濱朗が故郷を捨てるラストシーンに象徴されるように、はたして令和日本人は、「気違い部落」の住人であることを止めたのだろうか。
 
 こういった本質的テーマを無視して、「気違い」や「犬殺し」で目くじらを立て(あるいは自己規制して)フィルムをお蔵入りさせてしまう風潮は、まったく好ましくない。
 テレビ放映は無理でも、「観る or 観ない」を一個人が選択できるDVD化はされて然るべきと思う。
 



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 伏線復活 : フィルハーモニア・ブルレスケ 第20回記念定期演奏会

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日時: 2024年7月14日(日)18:30~
会場: サントリーホール
曲目: 
  • ヴェルディ: 歌劇「運命の力」序曲
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
    ソプラノ: 安藤るり
    アルト: 熊田アルベルト彩乃
指揮: 東 貴樹
合唱: 混声合唱団コール・ミレニアム

 今年3回目の『復活』。
 ブルレスケを聴くのも、2016年のシューマン交響曲第1番、2017年のチャイコ交響曲第5番に続いて3回目である。
 指揮はいずれも東直樹であった。
 過去の自分の記事を読み返すと、かなり好印象をもったオケであることが分かる。
 今回もまた好印象、どころか率直に言って、たいへん感動した。
 今年聞いた『復活』の中では、今のところ一番である。

 前プロのヴェルディ作曲『運命の力』序曲から、オケの上手さと東直樹の賢さ、そしてなによりサントリーホールの音響の素晴らしさが感じられた。
 ソルティが取ったのは2階席の一番前列、中央やや左寄りの席。
 パートごとの楽器の音色がしっかりと独立して、玄妙な響きを持って、耳に届いた。
 これは期待がもてる。

 トイレをしっかり済ませたあとの後半。
 第1楽章では、なにより音の粘着性に感嘆した。
 この粘り気は、納豆ともトロロとも違う、接着剤やヤマトのりとも違う、スライムとも違う、鳥もちとも違う、松ヤニとも違う、「ねるねるねるね」とも違う。
 道路舗装に使うアスファルト?
 近くなってきた。
 ああ、コールタールだ。
 コールタールのような、熱と粘度をもった油状の液体である。
 そして、それはとてもユダヤっぽいテイストに満ちていた。
 つまり、長い宗教的・民族的受難の歴史だ。

 第2楽章は地中海の香り。
 ゆったりしたテンポのせいもあって、ここで前プロの『運命の力』序曲との類似を感じた。
 メロディアスで、ドラマチックで、華やか。
 そう、イタリアオペラの世界。
 ロマン派のヴェルディから、ベッリーニやドニゼッティのベルカントに遡り、しまいにはロココのモーツァルトまで聴こえてきた。

 続く第3楽章で、心はイングランドに飛んだ。
 道化師が観客を挑発するかのような、滑稽ながらどこか意地の悪い主要旋律(ブラックジョーク)のあとから、パグパイプが草原の風に乗り、王室行事のファンファーレが豪華に鳴り響き、ヘンデルが顔を覗かせる。
 
 打って変わって、アジアンテイストの第4楽章。
 と言っても、実際のアジア音楽というよりは、『大地の歌』で描かれたアジアである。
 なんだか世界旅行しているような気分になった。

 もうすぐパリ五輪。
 世界各国からさまざまな人種や民族や国民が、エッフェル塔の下に集まる。
 第5楽章はまさにオール・オ-バー・ザ・ワールドの人間讃歌、人生肯定。
 いつものごとく、合唱が入ってからは滂沱の涙と鼻水であった。

 国際色豊かな『復活』。
 それはもちろん、作曲家マーラーの無国籍性、ジャンルを越境する柔軟性、過去の偉大な作曲家たちの影響と彼らへのオマージュのためであろうけれど、同時に、青年時代にフランスで勉強した東直樹という指揮者の国際感覚ゆえではなかろうか。
 楽章が変わるたびにカラーを変化させる、まるでカメレオンみたいな器用さは、日本人指揮者には珍しい才と思った。

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サントリーホール

 ときに、マーラーの2番と3番の最終楽章の感動の秘密は、よくできた推理小説と同じで、「忘れた頃にやって来る伏線の回収」ってところにあると思う。
 心に染み入る印象的な動機(フレーズ)を最初の方で小出しに示しておく。
 そのあと、崩壊したソナタ形式ならではの予測を裏切り続ける混沌とした展開、荒々しいモチーフの衝突と混合、終点のなかなか見えない長距離トラックの爆走で、聴く者を引きずり回し、途方に暮れさせ、迷宮に追い込む。(大江健三郎の『万延元年のフットボール』を想起する)
 いい加減へとへとになってギブアップしそうな瞬間、不意に懐かしの動機がやって来て、迷宮から一気に引き上げ、愛する者たちが待つ光あふれる天上へと導いてくれる。文字通り、“復活”する。
 人間の心理機構を見事に利用した構成の妙(=伏線復活)は、映画で言えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』(たくさんのキスシーンの連続)か、『マイ・フレンド・フォーエバー』(棺の中のシューズ)である。  
 これが泣かないわけがない。

 ブルレスケさん、20周年おめでとう!
 これからもいい音楽を聴かせてください。


 

● 事実は小説より・・・ 映画:『主人公は僕だった』(マーク・フォースター監督)

2006年アメリカ
112分

 原題は Stranger than fiction
 「事実は小説より奇なり」(Truth is stranger than fiction)から取られている。

 税務署に勤めるハロルド(演・ウィル・フェレル)は、真面目一辺倒の独身者で、家と職場を往復する単調な毎日を繰り返している。
 ある日、どこからか女性の声が聞こえてくる。
 それは、あたかも小説家が登場人物を描くように、ハロルドの一挙手一投足や心の動きを描写する女性の声であった。
 専門家の統合失調症という診断を受け入れられないハロルドは、謎の声の正体を探ろうと、文学理論に詳しいヒルバート教授(演・ダスティン・ホフマン)のもとを訪ねる。
 ヒルバートはハロルドに、「聞こえてくる声をすべて書きとめてみろ」と助言し、そこに展開される物語の質の分析を試みる。
 2人が発見した語り手の正体は、現役の女性作家カレン・アイフル(演・エマ・トンプソン)であった。
 カレンの小説では、常に主人公は最後に死ぬ決まりとなっていた。

 現実と虚構(フィクション)が入り混じるメタフィクション・コメディである。
 虚構が現実に忍び込み、現実を支配し、現実を生きるハロルドに脅威を与え、ハロルドはそこから逃れようとあがく。
 逆の見方をすれば、自らの生きる現実が虚構であることを知ったハロルドが、意志の力で虚構を自分の思いどおりに変えようとする。  
 作者とその創造したキャラクターの対決とは、言ってみれば、神様と人間の対決、あるいは定められた運命との対決みたいなもので、面白い仕掛けだなあと思った。

 想起したのは、大学生の時に観たルイジ・ピランデルロの戯曲『作者を探す6人の登場人物』である。
 題名通り、作者が執筆の途中で筆を折ったため、宙ぶらりんで放り出された6人の登場人物が、物語の完成を求めて、続きを書いてくれる作者を探す話である。
 ラストの衝撃は、クリスティの『アクロイド殺し』を読んだ時に匹敵するものだった。
 メタフィクションという言葉を初めて知り、その威力に打ちのめされ、鑑賞後は言葉を失った。
 もっとも、『作者を探す~』は『主人公は~』と違って、悲劇あるいは不条理劇であったが。

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 ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソンというベテラン名優の出演は、お得な気分にさせられる。
 どちらも貫禄十分でありながら、コメディの登場人物として要求される“軽み”を過不足なく体現している。
 ハロルドが、カレンの書いた原稿(=自らの“物語”のラスト=自らの死という結末)をバスに揺られながら読むシーンから、ジョン・シュレンダー監督の名作『真夜中のカウボーイ』(1969)のラストシーンを連想した人は少なくなかろう。
 むろん、「ダスティン・ホフマン」と「死」がキーワードである。

 ハロルドが恋に落ちたアナ役のマギー・ジレンホールは、『ブロークバック・マウンテン』でゲイのカウボーイを演じたジェイク・ジレンホールの姉。
 可愛らしくコケティッシュな趣きが、フランスの女優ジュリエット・ビノシュの若い頃に似ているなあと思った。(間違っても、ここ最近のビノシュではない)

 マーク・フォスター監督とウィル・フェレルのコメディセンスが光る作品である。





おすすめ度 :★★★

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● オオクボレンセキ? NHKドラマ:『クライマーズ・ハイ』

2005年NHK制作
150分
原作:横山秀夫
演出:清水一彦、井上剛

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 JAL123便墜落事故20周年の節目に、原田眞人監督×堤真一主演の映画版に先駆けて、NHKが制作・放映したもの。
 来年で40周年と思うにつけ、月日の速さをつくづく感じる。
 と同時に、520人が亡くなった事故の衝撃の大きさと、いまだ治まることのない事故原因や事故後の対応をめぐる疑惑の噴出ぶりに、いっこうに鎮まらない心をもてあます。
 昭和・平成・令和と60年生きてきて、国内のいろんなニュースに接してきたが、こんな未消化で不快な思いを引き摺る事件はほかにない。
 府中3億円強奪事件(1968)やグリコ・森永毒入り菓子事件(1984)など犯人が捕まらないまま時効となった未解決事件、あるいはオウム真理教地下鉄サリン事件(1995)や薬害エイズ事件(1997年裁判和解)など多数の被害者を出した悲惨な事件はあったけれど、JAL123便墜落事件ほどの不気味さや後味の悪さはない。
 間違いなくそれは、森永卓郎が書いたように、この事件がいまも巨大な政治的圧力によってタブー視されていることと関係している。
 事件の詳細について知れば知るほど、そこに深い闇があるのを感得せざるをえないのだ。

 映画版にしろ、このTV版にしろ、本作の肝となるメッセージをしっかりと受け止めるためには、この闇に触れないわけにはいかない。
 なぜ、「日航全権デスク」を託された主人公悠木和雄は、部下を駆使して掴んだ「事故原因は圧力隔壁の損壊」というスクープの掲載を最後の最後に断念したのか。
 結果として、全国紙に出し抜かれる“ミス”を犯してしまったのか。
 悠木という男の性格、すなわち過度の慎重さ(あるいは優柔不断や臆病)に原因を帰するならば、この物語は単に、「ここ一番で勝負できず、周囲の期待を裏切った男」の失敗譚に終わってしまう。
 同僚にしてライバルの田沢が言うように、「いざとなると腰を引いてしまう悪い癖」がまたしても出たのだと。
 が、そうではない。
 「圧力隔壁の損壊」という事故原因は疑わしい=真相は別にあるということを、悠木という男の振る舞いを通して読者や視聴者に暗示したかった――というのが作り手の隠された意図であろう。
 であればこそ、TV版において、新聞をもらいに社を訪れた遺族母子が悠木に向けて放ったセリフ、「事故で亡くなった人の為にも真実を伝えて下さい」が生きてくる。
 映画版においてラストに映し出されるテロップ、「再調査を望む声は、いまだ止まない」が効いてくる。
 要は、「機体後部の圧力隔壁の損壊」という事故原因を安易に信用せず、寸でのところでスクープを思いとどまった悠木を、“クライマーズ・ハイ”という精神の興奮が引き起こす麻痺状態から「降りてきた」男として描いたのである。

 その意味で、原作者の横山秀夫はもとより、NHKドラマ制作班も原田眞人監督はじめ映画制作者も、「タブーに挑んだ」ということができる。
 とくに、国営放送であるNHKであってみれば、政府公式発表に疑問を抱く現場サイドがなし得るぎりぎりの抵抗が、本作の制作と放映だったのかもしれない。(今回の都知事選のNHK政見放送で、このタブーを堂々と破った泡沫候補がいたのには驚いた。)

宇宙人襲来

 このTV版、第43回ギャラクシー賞などいくつかの賞をもらい、評価が高い。
 実際、非常によく出来ている。
 映画版とほぼ同じ150分の尺で、映画版よりずっと話が整理されて分かりやすく、より濃いドラマが生み出されて、感動を呼ぶ。
 まず、脚本が上手い。
 映画版ではバランスを誤った3つのテーマ――墜落事故の様相、新聞社で働く男たちの群像、谷川岳登山をめぐってあぶり出される父子関係――が、適切な比重をもってバランス良く描き出されている。
 ナレーションや字幕の使用によって、視聴者が混乱しないような工夫もされている。
 映画版ではなんのことやら分からなかったベテラン記者たちの言葉「オオクボレンセキ」が、連続女性強姦殺人事件の犯人大久保清と、あさま山荘で有名な連合赤軍事件のことだと、TV版を観て知った。
 どちらも同じ1971年に群馬県で起きた事件だったのだ。

 北関東新聞社の社長と悠木の母親の浅からぬ関係、佐山とともに事故現場に足を運んだ神沢記者(映画では滝藤賢一、TVでは新井浩文演ず)の精神不安と自殺――両エピソードが省かれているのは、映画版との大きな違いであるが、話をシンプルにするためには、これは削って正解だった。
 このようなスケールの大きな話の場合、原作そのままを決められた尺(約150分)で映像化するのはどだい無理なのだから、どこかを思い切って削らなければならない。
 エピソードを詰め込み過ぎて映像作品としての質が落ちては、元も子もない。
 そこを理解してくれる原作者の存在は、映像化に際して非常に有難いところであろう。

 役者については、映画版に負けず劣らず、TV版も良かった。
 悠木役の堤真一と佐藤浩市のどちらがいいかは好みの問題だろう。
 暑苦しいほどの存在感はTV版の佐藤が一頭地抜いているが、男たちの群像劇として見れば、逆にそこがちょっと鼻につく。
 佐山役は、映画版の堺雅人のほうが若々しい切れがあって印象に残る。
 が、TV版の大森南朋のやさしい顔立ちは、生き馬の目を抜くマスコミ業界で「24時間戦う」昭和の男たちが互いに容赦なく罵り合う、観る者が思わず引いてしまう“喧嘩・パワハラ上等”場面にあって、貴重な癒し効果を生んでいる。
 社長役は、映画版の山崎努が個性際立つキャラを作って気を吐いていたが、出番の少なさを思えばTV版の杉浦直樹の威圧感ある眼差しもエグい。
 TV版の社員たち――岸部一徳、塩見三省、光石研、松重豊、岡本信人ら――は、それぞれが役者自身の個性や顔立ちとかぶるような役柄で、いい味を出している。
 悠木の妻役の美保純だけはちょっと××クソ。

 “ワースト・オブ・ワースト”の異名をとる谷川岳の衝立岩に登るスリリングなシーンは、巨大スクリーンを前提とした映画版こそバエるはずであるが、どういうわけかソルティは、TV版のほうが観ていてゾッとした。
 これはしかし、映画館のスクリーンのために撮られた映像をDVDでテレビモニターで観るよりも、あらかじめTV放映を念頭に置いて撮られた映像をテレビモニターで観るほうが、迫力があるってことなのかもしれない。
 映画とTVドラマでは、キャメラの使い方が違って当然である。 

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谷川岳
KanenoriによるPixabayからの画像


 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● インティマシー・コーディネーターのいない7月 映画:赤い殺意(今村昌平監督)

1964年日活
150分、白黒

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 ガラス壁面に蔽われたビルディングの反射光ですら、焼けるように熱い午後の池袋。
 東池袋駅から歩いてたどりついた新文芸坐の適度な空調と柔らかいシートに包まれ、ほっと一息ついたが、「上映時間150分」という場内アナウンスを耳にして不安にかられた。
 120分でも長く感じる昨今のソルティ。
 最後まで起きていられるかしら?
 ボリウッド映画『RRR』(179分)や岡本喜八版『日本のいちばん長い日』(157分)のような全編みなぎる緊迫感と面白さがなければ、寝落ちのリスクは高い。
 適当なところで一時停止して休憩がとれる自宅での映画鑑賞に軍配が上がる理由の一つである。

 始まってすぐ、白黒画面の画質の荒さと暗さに不安は高じた。
 デジタルリマスターしてないのか。
 見づらい・・・・。
 北林谷栄扮するお婆ちゃんが登場して東北弁でもごもご喋る。
 セリフが分かりづらい・・・・。
 これは寝落ち確定だなと思いながら観ていると、『太陽にほえろ!』のヤマさんでお茶の間の人気者となった露口茂が登場した。
 わ、わかい。
 カッコいい。
 ヤマさん、こんなイケメンだったのか!
 こんなセクシーだったのか!

 鬱屈した表情をした32歳の露口茂が、東北の田舎の村に住む平凡な顔した小太りの女をつけ狙う。
 春川ますみである。
 ソルティの中では、『江戸を斬る』、『暴れん坊将軍』の長屋のカミさんイメージが圧倒的に強い脇役専門女優だ。
 と、刑事のヤマさんが長屋のカミさんを、露口茂が春川ますみを、強姦する。

 !!!

 一気に覚醒した。
 そこからは、画質の荒さもセリフの聞き取りづらさも超えて、ドラマに入り込んだ。

 露口が演じるのは、心臓病持ちの孤独な男、平岡。
 東京でパンパンをしていた母親を亡くし、いまは仙台のストリップ小屋でバックミュージックを演奏している。
 春川が演じるのは、宮城県北の東北本線沿線に暮らす主婦、貞子。
 ただし、主婦とは言っても正式に入籍されておらず、夫吏一(西村晃)との間にできた息子勝は、戸籍上は吏一の父親の子となっている。
 貞子の母は吏一の祖父の妾腹にできた子であった。
 母親亡きあと行く当てのなかった貞子は、吏一の実家で女中として働き、そこで吏一の子を身籠ったのである。
 吏一と貞子は、祖父を同じくする事実婚の夫婦ということになる。
 出自の賤しい貞子は、吏一の一族から下に見られ、ぞんざいに扱われている。
 そのうえ、吏一には貞子とできる前から付き合っている同じ職場の愛人義子(楠侑子)がいた。
 
 家父長制と男尊女卑と村社会。
 いかにも昭和の地方ならではの因循姑息たる風土。
 その中で二重三重に縛られた一人の鈍くさい女が、強姦をきっかけに強く、したたかになっていく過程が描き出される。
 と同時に、女の性を描こうとしているところに、60年代という制作時における本作の話題性はある。
 
 70年代日活ロマンポルノ以前に、女の性をテーマに可能なかぎりの写実表現に挑戦した今村の創作意欲は称賛に値する。
 乳首さらけ出しのオールヌードやそのものずばりの交接シーンこそない(たとえば、強姦シーンは轟音で通過する汽車の映像によって暗喩されている)ものの、性に興味を抱き、男に抱かれることの快楽に囚われていく女性の姿が、リアリティ豊かに描かれている。

 貞子を演じる春川ますみは一世一代の熱演で、これ一作で映画史にその名が刻まれよう。
 十人並みの器量で、愚鈍だが気のいい娘であるこの貞子という役は、若尾文子でもなく、高峰秀子でもなく、岡田茉莉子でもなく、大竹しのぶでもなく、田中裕子でもなく、やっぱり春川ますみだからこそハマる。
 1975年にTVドラマ化(ソルティ未見)で貞子を演じた市原悦子もなるほど適役とは思うけれど、エロの濃度では春川に及ばないだろう。
 春川ますみは、女優になる前、浅草ロック座や日劇ミュージックホールでダンサーとして活躍していたのである。

赤い殺意2
露口茂と春川ますみ

 80~90年代フェミニズムを通過した令和の現在、ここで描かれる「家」制度や男尊女卑が噴飯たるものである、ましてやいかなる形であれ相手の意志を無視したセックスが許されないのは言うまでもないが、60年代の日本の(とりわけ地方の村の)現実の描写としては、決して間違ったものではない。
 大島渚監督『儀式』にも見るように、このような日本があった。
 では、女の性の描き方についてはどうだろう?
 実はそこがソルティの引っかかったところである。

 平岡に強姦された貞子は、身を恥じて自殺を試みるが失敗する。
 一方、貞子を好きになってしまった平岡は、しつこく貞子に付きまとい、会ってくれなければ夫にばらすと脅し、ふたたび貞子を強姦する。
 貞子が身籠ると、それが自分の種と思い込んで、夫を捨てて一緒に東京で暮らそうと迫る。
 強姦魔で、悪質ストーカで、恐喝犯で、完全な自己中人間。
 しかるに、その平岡に抱かれるうちに貞子は“感じて”しまい、次第に平岡に惹かれるようになっていく。
 ここである。

 それが強姦であっても、やられているうちに女は“感じて”しまい、体を重ねるうちに男の匂いを忘れ難くなり、いつの間にか男を愛するようになる。
 この「嫌よ嫌よも好きのうち」、「今に好くなるよ」、「なんだかんだ言って濡れているじゃないか」ストーリーは、ほんとうに女の性の一部であろうか?
 ソルティは女性を強姦したことがないし、女性が強姦されている場面もTVドラマや映画などのフィクションでしか見たことないので断言できないのだが、やっぱりこれは「男にとって都合のいい妄想」であろう。
 たとえ、強姦された女性が強姦した男に従順になったとしても、それは快楽や憐みや愛からではなく、恐怖や絶望によって精神が麻痺したため、あるいは生き延びる方策のため、いわゆるストックホルム症候群である。

 こうした「雨降って地固まる、強姦転じて愛」のような勘違いはどうも男に共有されがちらしく、今村より前に巨匠黒澤明が『羅生門』において、野武士(三船敏郎)に強姦された貴族の妻(京マチ子)の表情の変化において、この種の妄想を表現している。(芥川龍之介の原作『藪の中』はどうだったか覚えていない)
 その後、日活ロマンポルノ(とくにSM作品)やアダルトビデオやアダルトコミックで、男の「強姦転じて愛」妄想は爆発的に映像化され漫画化され商品化され、スタンダードな女の性のあり方の一つとして、世の男たちの脳に刷り込まれてしまったようである。
 だが、それを女の性の“真実”とするのは間違っているし、スタンダードなアダルトビデオのジャンルとして一般化するのは適切ではあるまい。
 そのファンタジーを“真実”と信じた若い男たちが勘違いして、手が後ろに回るリスクも生む。生んでいる。(セックスの最後は顔射で終わるものと勘違いする若者がいるように)

 なぜ、男は「強姦愛」妄想を抱くのだろう? 好むのだろう?
 それを考察すると話が長くなるので、やめておく。
 観点を一つだけ上げるなら、男のセックスが征服欲(サディズム)と結びつきやすいところにある。
 相手を力で征服し、下に組み伏し、馴致させるところに勝利の快楽を覚える気質が、多かれ少なかれ、男という種には存する。
 いわゆるマッチョイズムだ。 

お姫様だっこ

 最近、インティマシー・コーディネーター( Intimacy Coordinator )という耳慣れない言葉をネットで見かける。

インティマシー・コーディネーターは、映画・テレビや舞台など視覚芸術の製作にかかわる職種のひとつ。一般に、俳優らの身体的接触やヌードなどを演出上必要とする際に、演出側と演者側の意向を調整して、演者の尊厳を守りつつ効果的な演出につなげる職種と理解されている。(ウィキペディア『インティマシー・コーディネーター』より抜粋) 

 ドラマ制作現場におけるセクハラやパワハラが欧米で大きな問題となった2017年頃に誕生した職種らしいが、今後日本のテレビや映画や舞台の現場でも欠かせないものとなっていくのは間違いあるまい。
 名匠・巨匠と言われる監督や舞台演出家でさえ、このルールの適用を免れることはできないだろう。

 セクハラやパワハラの概念がなく、一個人が社会に向かって内部告発し“# Mee too”によって味方が得られるSNSもなく、撮影現場における監督の力が絶大だった60年代、しかも役者使いの荒いことで知られる今村昌平監督のロケにあって、主演の春川ますみがどれだけのセクハラやパワハラを被ったことか。
 それを、「売れるためには仕方ない、いい作品を作るためには止むをえまい、この業界で生きていくことを選んだからには文句言うまい」と、自らに幾たび言い聞かせたことか。

 そんなことを想像しながら観ていたら、眠くなる間もなかった。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● モッくんがいたではないか 映画:『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)

2015年松竹
136分

日本のいちばん長い日

 半藤一利著『日本のいちばん長い日』の2度目の映画化。
 1945年8月15日の玉音放送に至る、終戦間際の大日本帝国本営(内閣、陸海軍、天皇)の動向が描かれる。

 実際の戦場を、あるいは8月15日を記憶しているスタッフと役者たちによって制作された岡本喜八版(1967年)と比べるのは酷という気がしないでもないが、映画としての出来は前作にまったく及ばず、いい役者を揃えているだけに残念であった。
 しかし、塚本晋也監督『野火』(2015)が、市川崑監督『野火』(1959)に匹敵する、あるいは後者を凌駕する出来栄えであったことを思うと、作られた時代や作り手の体験の有無を言い訳にすることはできないと思う。
 作り手の才能と技術不足に原因を帰するほかない。

 なにより脚本が良くない。
 これもまた、『砂の器』、『切腹』、『七人の侍』、『八つ墓村』など日本映画史上の傑作を何本も手掛けた天才橋本忍による旧作と比べるのはあまりにも酷であるが、もう少しなんとかならなかったものか。
 『クライマーズ・ハイ』でも感じたが、原田監督は脚本には手を出さないほうがいいと思う。
 物語を構成するセンスを欠いている。
 題材の取捨選択ができず、エピソードを詰め込み過ぎる。
 そのため、どのエピソードも中途半端な描かれ方に終わって、あたかも不発弾のよう。
 例を上げると、宮城事件に呼応して首相官邸を焼き討ちした国民神風隊の佐々木武雄(旧作では天本英世の怪演がエモい!)の扱いである。
 原田版では国民神風隊を結成する経緯がまったく描かれず、最後の最後に松山ケンイチ扮する佐々木が唐突に首相官邸前に出現する。
 歴史を知らない者にしてみれば、「これは誰? どっから出て来たの? なんで官邸に火をつけるの????」であろう。
 松山ケンイチだって、これでは演じようあるまい。
 阿南陸軍大臣(役所広司)の戦死した次男をめぐるエピソードもとってつけたような描かれ方で、観る者に何ら感動をもたらさない。
 上映時間との兼ね合いを見て、エピソードを絞る決断が必要である。

 シーンの配置も良くない。
 複数のエピソードが同時に進行しているとき、各シーンを交互に描くことは普通にあることだが、転換があまりに速すぎて、観る者が感情移入できるだけのゆとりがない。
 阿南大臣の切腹シーンにおいてとりわけ顕著で、あたかもCMがしょっちゅう入るTVドラマのようにシーンが寸断されてしまい、せっかくの役所の渾身の演技が台無しになってしまった。
 観る者のうちになんらかの感動を呼び起こしたいのなら、ある程度の時間の持続が必要である。

 同じことはカット割りにも言える。
 全般にカットが短い上に、撮影方向がめまぐるしく切り換わるので、観ていて疲れるし、キャラクターの表情がしっかりと観る者の記憶に刻み込まれない。
 有名な役者以外は、誰が誰だか見分けつかないうちに映画が終わってしまう。
 なんとなく、『犬神家の一族』など市川崑作品のカット割りを意識しているような気がするが、形だけまねても意味はない。
 ひとつひとつのカットが、なぜこの方向から、この角度で、この距離で、この長さで、この動きでないといけないのか、考えて作っているのであろうか?
 カットの連鎖こそ映画の命であるのに。
 撮影(柴主高秀)や美術(原田哲男)がいいだけに、長回しを入れないのはもったいない。
 原田監督、セッカチな人なのではなかろうか?

 『クライマーズ・ハイ』を観た時も思ったが、とにかく事件の背景をあらかじめ知っている人でないと、ほとんど理解できない作りである。
 悪いことは言わない。
 少なくとも脚本は別の人にまかせたほうがいい。

 役者では、昭和天皇に扮する本木雅弘、鈴木首相を演じる山崎努がいい。
 以前の記事で、ジャニーズ出身の役者ベスト3として、草彅剛、岡田准一、二宮和也の名を挙げたが、モッくんこと本木がいるのを忘れていた。
 本木はもはやジャニーズ出身というのを忘れるほど、役者として自立している。
 それに樹木希林一派というイメージのほうが強い。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 人生の黄金期 本:『70歳から楽になる』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2023年角川新書

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 副題は「幸福と自由が実る老い方」
 
 1980年来日このかた、日本中にテーラワーダ仏教を広めてこられたスマナサーラ長老も、来年で80歳になられる。
 たまに講演会や瞑想会でお姿を見かけるが、相変わらずの説法の冴えに引きくらべ、体力の衰えは隠しようもなく、「しんどそうだなあ」と思うことも度々。
 強気な性格や眼力の鋭さ、しっかりした鷹揚な足取りに見過ごされがちだが、元来、体質的に頑健なほうではなかったのかもしれない。
 老いを実感されている様子が言葉のはしばしにのぼり、そのたびに、「誰にでも平等に老いと死はやってくる」というあたりまえの事実を思う。
 本書の良さは、長老が自らの老いの現実と向き合ったところから生まれた老年論であるところにある。
 執筆時62歳のキケロの老年論とは違う。

 雑踏の新宿駅で気を失って倒れたことや、歩くスピードが遅くなったこと、物忘れが増えたことなど、自らの老いを観察して、ありのままに受け入れている様子が、読み手に伝わってくる。
 同じ高齢の読者には、共感しやすい部分であろう。

 老年論と言えば、五木寛之のよく言っていた林住期が思い浮かぶ。
 もとは古代インドの思想で、人生を「学生期、家住期、林住期、遊行期」の4段階に分けた3番目。
 五木の言葉を借りれば、

世のしがらみや人生の些事に煩わされることなく、読書をしたり、いろいろものを考えたり、瞑想をしたり、自由闊達に生きがいを探すことが許される人生の黄金期。

 五木は50歳から75歳くらいまでを林住期と言っている。
 考えてみれば、必要最低限しか仕事を入れず、人との交遊も控えて、読書や映画・音楽鑑賞や仏道修行(瞑想)や旅行やブログ執筆に時間を割いている現在のソルティは、まさに「林住期的生き方」をしている。
 別に意図してこうなったわけではないが、そうか、いまが人生の黄金期だったのか!

 スマナサーラ長老は、人生を3つのステージに分けて語られている。
  1. いろいろなことを学び、大人になるまで(生まれてから30代半ばまで)
  2. 働き盛りの時期(30代半ばから65歳くらいまで)
  3. 退職し社会の鎖を解いて「人間」になる(65歳以降)
 人生3部作の第1部と第2部では、いろいろ「取る」ことをしてきました。
 勉強して学歴をつける、就職する、結婚する、子どもを持つ・・・・こうして、自分の周りに、たくさんのものを取ってきました。
 もちろん、その「取る作戦」には失敗もあったでしょう。
 進学や就職がうまくいかないこともあったろうし、離婚した人も、望んでいたけれど子どもができなかった人もいるでしょう。
 それはそれでいいのです。みんな、だいたい失敗のほうが多くて、失敗7割で成功3割ならいいほう。人生とはそういうものです。
 このように、たくさんの失敗を重ねながらも「取る」をやって来たあなたは、最後のステージである第3部ではなにをすべきなのでしょうか。
 一番大事なのは、これまでとは違う生き方をすること。すなわち、これまで取ってきたものから「離れる」ということです。

 本書では、どのようにして「取る」人生から「離れる」人生へと移行するか、「離れる」人生を幸福に生きるにはどういった観点や工夫が必要か、第3ステージにおいて我々が目指すべきものはなにかといったことが、平易な親しみやすい言葉で説かれている。
 当然、長老の立場としては仏教的生き方のすすめが要点なのであるが、本書はあまた刊行されている長老の他の本とくらべると、仏教の専門用語(たとえば諸行無常、諸法無我、ヴィパサーナ瞑想といった)がほとんどなく、話題もごく一般的かつ庶民的で、日本の高齢者の現状に即した、“仏教徒でなくても受け入れやすい”語りとなっている。
 仏教ならではと言えるのは、せいぜい慈悲のすすめくらいだろうか。
 そういう意味では、宗教に忌避感ある高齢者(たとえば80代後半のソルティの両親)にも自信をもってすすめられる本である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 本:『性のタブーのない日本』(橋本治著)

2015年集英社新書

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 2019年1月に亡くなった橋本治の全貌は、その作品群があまりに多彩かつユニーク過ぎて、まだ誰にも捕捉されていないようだが、少なくとも、日本の古典に詳しい、かつそのイメージを大きく覆した作家であったことは間違いない。
 1987年に『桃尻語訳 枕草子』が世に出たときの衝撃をソルティは覚えているが、難解で高踏的な日本の古典文学が一気に身近で親しみやすいものに感じられ、才知を鼻にかけた嫌味なインテリ女のイメージが強かった清少納言が、キャピキャピしたミーハー女子大生のように可愛らしく生き生きした存在へと変貌した。
 それは古典が、“姿勢を正して大昔のことを学ぶ”から“今も通じる変わらぬ日本人の姿に共感する”へと変わった瞬間であった。
 その後も、『窯変 源氏物語』や『双調 平家物語』などで、“昔を今につなげる”手腕は遺憾なく発揮された。

 橋本の古典文学の幅広い知識と深い人間理解をもとにした鋭く自在な解釈によって、日本人の性意識や性道徳を縦横無尽に綴ったのが本書である。
 イザナミ・イザナギの性交による国産みが描かれている『古事記』から始まって、『万葉集』、『枕草子』、『源氏物語』、『小柴垣草紙』、『台記』、『故事談』、『稚児草子』、『葉隠』、『仮名手本忠臣蔵』といった、時代時代の代表的な古典文学が俎上に乗せられ、日本人の性と愛をめぐる実態が暴かれていく。
 それは端的に言えば、タイトル通り、「性のタブーのない日本」である。

 明治時代になって、行政府が「風紀」というものを問題にして、性表現に規制をかけた。「猥褻」という概念を導入して取り締まったから、我々は「性的なもの≒猥褻」というような考え方を刷り込まれてしまった。だから、「明治以前の日本に性表現のタブーはなかった」と言われると、思う人は「え!?」と思ってしまう。
 明治時代以前の日本には性表現のタブーはなかったし、性にもほぼタブーはなかった。だから、そういうものを一々数え上げたわけでもありませんが、その昔の日本には「変態性欲」という概念がなかった。
 日本人には性的タブーがなくて、その代わりにモラルがあった。だから、夫のある女が他の男と肉体関係を持つと、女とその相手の男は「姦通」の罪に問われた。

 大塚ひかり著『本当はエロかった昔の日本』(新潮社)や三橋順子著『歴史の中の多様な「性」』(岩波書店)でも、同様の指摘がなされている。
 明治維新からの150年あまりで、少なくとも性意識や性道徳においては、原日本人が本来の姿を喪い、国策によってなかば人工的に作り変えられてしまったことは疑いえない。
 統一協会的・旧民法的な性道徳を振りかざし、「日本を取り戻そう!」と連呼する保守右翼が、いかに付け刃の伝統讃美者であることか。
 
 それにつけても、宇能鴻一郎著『姫君を喰う話』の原案となった後白河上皇作の絵巻『小柴垣草紙』をなんとしても見たいものだ。
 どこかで展示会やってくれないものかしらん。

小柴垣根草紙
『小柴垣根草紙』部分




おすすめ度 :★★★

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● これは一つのギャグハラではないか 映画:『アリバイドットコム2 ウェディング・ミッション』(フィリップ・ラショー監督)

2023年フランス
88分
原題:Alibi.com 2

アリバイドットコム2

 『世界の果てまでヒャッハー!』で監督&役者として類い稀なるコメディセンスを見せたフィリップ・ラッショーの別シリーズ。
 北条司の人気もっこり漫画『シティーハンター』を原作とする『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』(2019)を含むコメディ10作がすでに公開されている。
 ソルティはまだ2作しか観ていないので断言はできないものの、国際的に言って、英国のローワン・アトキンソン(Mr.ビーン)、米国のジム・キャリー以来の天才コメディアンの出現と言っていいんじゃなかろうか。
 着想、脚本、演出、演技、いずれも観客の心をつかんで離さないテクニックと個性的魅力にあふれている。
 エロ系や動物虐待系のきわどい笑いもあるけれど、次から次へと繰り出す少年漫画的なギャグの応酬に、真面目に批判するのも阿保らしくなる。
 というか、“真面目”を手玉に取ることこそ笑いの骨頂である。

 スタイル的には往年のドリフのコントみたいなドタバタ&ナンセンスなのであるが、気持ちよく笑えるのはラショー監督の世界観、人生観が投影されているがゆえだろう。
 それは、多様性に対する理解と人間愛である。
 このあたり、さすが、おフランス。
 しかも、ラショー監督はシリアス社会派ドラマや恋愛ドラマでも十分通用するイケメン。
 ドリフのコントから、一瞬にしてシリアスな家族ドラマあるいはハートウォーミングな恋愛ドラマに転換して、それが不自然でない。
 イケメンはお得である。

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 面白いコメディ映画は、「こうあるべき」という思想に凝り固まった人間、他人の些細な言動にいちいち目くじらを立てる人間には作れない。
 最近では、セクハラ、アカハラ、パワハラから始まって、アルハラ、マタハラ、モラハラ、カスハラ、テクハラ、スメハラ、フキハラ、ワクハラ・・・・と、何でもかんでもハラスメントの対象になってしまう。
 何でもかんでもハラスメントにしてしまう行為に対して、ハラハラ(ハラスメント・ハラスメント)という言葉さえ生まれている始末。
 誰もが自分の言動にも他人の言動にも過敏になり過ぎて、他人を傷つけることにも自分が傷つけられることにも敏感にまたナーバスになり過ぎて、気をつかうことばかりで人間関係が七面倒くさくて仕方ない。
 これじゃ、令和の若者が恋愛も結婚もできない、したくないと言うのも当然だろう。

 たとえば、昭和の頃、ちょっとした猥談は職場の潤滑油みたいな位置づけであった。
 いまや性や恋愛やジェンダーやルックスに関する話題は触れないに越したことがない。
 それが、各々の個性を認め合い多様性と人権を尊重するって方向で、人々の言動やマナーが自発的に改善していくのなら結構なことであるが、どうも日本人の場合、周囲から非難を受けたり陰口を叩かれたりしないように、各々の個性を押し隠し周囲に同調させるという方向に流れがち。
 つまり、互いを牽制し合う形での人間の画一化。
 その結果として、「ハラスメントが減った」というのはちょっと違うよなあと思う。

 言いたいことは、そのような状況おいては、この映画に観るようなユーモアや笑いは生まれないだろうってことである。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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