ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『毒の恋 7500万円を奪われた「実録・国際ロマンス詐欺」』(井出智香恵著)

2022年双葉社

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 んまあ面白い!!
 詐欺の被害者の手記を「面白い!」と言ったら語弊があるかもしれないが、著者は有名な漫画家すなわちプロのクリエイターなので、この場合の「面白い!」は最大の誉め言葉となろう。

 井出智香恵と言っても、男性諸氏は知らない人が多いと思う。
 1948年生まれ。もとは『りぼん』などの少女マンガ誌でお目々キラキラの少女マンガを描いていた。(代表作『ビバ! バレーボール』)
 80年代にバブルと共に巻き起こったレディスコミックブームで大ブレイク。「レディコミの女王」と呼ばれ、最盛期は年収1億を超える超売れっ子となった。
 彼女の描いたレディコミ作品でもっとも有名なのは、大映制作でTVドラマ化された『羅刹の家』(1998年テレビ朝日系列)である。
 きつい姑を演じた山本陽子の鬼気迫る演技、意地悪な義理の姉を演じた伊藤かずえのはまりぶり、ワラ人形を手に牛の刻参りにひた走る加藤紀子の勘違いな熱演、そして、忘れちゃいけない来宮良子のおどろおどろしいナレーション。
 大映ドラマ屈指の怪作と思う。
 
 人の心の表も裏も知り尽くしたような作品を数々発表してきた井出智香恵が、70歳になった2018年、ネットを使った国際ロマンス詐欺に引っかかり、約3年5ヶ月もの間、言われるがままに相手の男にお金を送り続け、結果的に7500万円を失ったというのだから、これが面白くないわけがない。
 しかも、相手の男が世界的に有名なハリウッドスターのマーク・ラファロ(現在55歳)に成りすまし、井出はそれを本物と信じ込んでしまい、甘い言葉にだまされて結婚の約束を交わし、15歳も年下の男に貢いでしまったというのだから、これが面白くないわけがない。
 有名マンガ家、ハリウッドスター、老いらくの恋、年下の男、国際恋愛、ネット詐欺、ブラックな匂いのする黒服の男たち、スーツケースいっぱいの黒塗りの紙幣、電子送金の罠、雨後の筍のごと続々と登場するわけのわからぬ仲介者たち、雪だるま式に膨らむ借金、差し押さえ警告・・・・。
 よくもまあ、こうまで劇画的な展開が続くものよ。
 よくもまあ、こうも徹底的に騙されたものよ。

マーク・ラファロ
マーク・ラファロ
 
 7500万円という被害額の大きさに我ら庶民は驚くが、年収1億を超えたことがある井出の金銭感覚は、庶民とはちょっと違っているかもしれない。
 たださすがに、息子や娘(次女)に何百万も借金させての金策、公共料金やアシスタントの給料を未払いにしての偽マークへのたび重なる送金は、非常識というか、頭のネジが抜けていたというほかない。
 「恋は盲目」と言うけれど、家族を含め周囲の誰も暴走する本人を止められなかった、周囲の誰の言葉も本人はまともに聞こうとしなかったのは、井出自身のワンマンで頑固な性格もあったようだ。
 もちろん、40歳でDV夫とやっと離婚したあと、ずっと子育てと仕事一筋で生きてきた井出が、70の声を聞いて、「失われた時間」を取り戻したい、最初の結婚で得られなかった「女としての幸福」を味わいたいと思ったのも無理はない。
 そこに目をつけて、井出の性格や懐具合も見抜いて、あの手この手で金の無心する輩の手口の巧みさよ。
 孤独癖あるソルティもまかり間違えば同じ目に遭うやもしれない。
 (まあ、金のない相手に目をつける愚かな詐欺師もおるまいが)

 最終的に井出は、容赦なく物を言うのでそれまで借金するのを遠慮していた長女にも借金を願い出る羽目になる。
 そこから長女の詮索と追及が始まって、ようやっと自らが騙されていたことに気づく。
 目が覚める。
 失恋と詐欺被害の二重ショック。
 ズタズタになったプライド。
 失われた信頼。
 70歳にしてこの痛みは耐え難かっただろう。

 しかし、そこからがプロ表現者の本領である。
 自らの痛い経験が世のため人のためになる、かつ面白い作品となることに気づき、この手記を発表し、NHKのドキュメンタリーに出演し、マンガ化をはかる。
 すべての体験がマンガに活かされ、作品として昇華できる幸せ。
 それを可能ならしめる技術と才能と経験値。
 雷は落ちるべきところに落ちる。

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マンガ版『毒の恋』

 別記事で、役者としての吉永小百合の残念さについて書いたが、本作を映画化するなら、ぜひ吉永小百合に井出役をやってもらいたい。
 年齢的にもぴったりだ。(吉永は井出より3つ年上)
 自ら(と周囲)が作り上げた美しい幻想に破れ、過酷な老いの現実に向き合うプロットこそ、サユリストという牢番を蹴散らし、吉永小百合をメルヘンという檻から救い出す最後のチャンスになるんじゃないか。
 偽マーク役は、本物のマーク・ラファロに頼んだら最高の話題作りになる。
 監督は、小百合の魔力が通じない女性監督かゲイの監督がよい。
 伊藤かずえを長女役で。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損












● 自選・海外ミステリーベスト10 本:『英国古典推理小説集』(佐々木徹 編訳)

2023年岩波書店

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 推理小説の生みの親はアメリカのエドガー・アラン・ポーで、1841年発表の『モルグ街の殺人』をその嚆矢とするのが通例である。
 その後、1890年にコナン・ドイルが名探偵シャーロック・ホームズを生み出して大成功を収めたことが、本格推理小説時代の幕開けとなった。
 1910年登場のG.K.チェスタトン作『ブラウン神父シリーズ』を経て、1920年代から30年代のいわゆる「黄金時代」が到来する。
 英国のアガサ・クリスティ、ドロシー・セイヤーズ、F.W.クロフツ、米国のヴァン・ダイン、ディクスン・カー、エラリー・クイーン等々。
 本書は主として、ポーからドイルにバトンが渡される間、すなわち19世紀後半に英国で発表された推理小説を集めたものである。ホームズ誕生以前ということになる。
 ただし、収録された8編のうち1編はポーと同時期のもの、2編はドイル以後のものである。
 発表順に並べると。
  1. チャールズ・ディケンズ作『バーナビー・ラッジ』第一章より抜粋(1841)
  2. ウォーターズ作『有罪か無罪か』(1849)
  3. チャールズ・フィーリクス作『ノッティングヒルの謎』(1863)
  4. ヘンリー・ウッド夫人作『七番の謎』(1877)
  5. ウィルキー・コリンズ作『誰がゼビディーを殺したか』(1880)
  6. キャサリン・パーキス作『引き抜かれた短剣』(1893)
  7. G.K.チェスタトン作『イズリアル・ガウの名誉』(1911)
  8. トマス・バーク作『オターモゥル氏の手』(1929)
 「魅力ある名探偵」、「手がかりのフェアな提示と推理の積み重ねによる真相究明」、「意外な犯人やトリック」といった黄金時代に完成した本格推理小説の型からすれば、まだ黎明期といった感のある作品が並ぶ。
 この中で、文学的価値や考古学的価値抜きでミステリーとして今も十分に読むに値するのは、7のブラウン神父が登場する『イズリアル・ガヴの名誉』と8の『オターモゥル氏の手』くらいであろう。
 7の意外な動機は今でも十分に風変わりで面白い。
 8は当時なら最後に明かされる意外な犯人に読者はビックリ仰天だったのかもしれないが、海千山千の現代のミステリー読者にしてみれば、最初に描かれた犯行直後にずばり犯人を言い当てることができるだろう。ただし、作品の完成度は高い。
 他の作品たちは、率直に言えば、今なら発表するレベルに達していない。出版不況の現在は特に。
 3の長編『ノッティングヒルの謎』は構成がしっかりしていて、スピリチュアルな風味もあり、力作には違いない。が、報告書スタイルの形式が事務的で読みづらく、せっかくの物語の興を削ぐ結果となっている。作者のフリークスの本職が弁護士であったためと思われる。
 また、チェスタトンからどれか一作選ぶとしたら、ソルティなら、『古書の呪い』か『折れた剣』あたりを選ぶかなあ~。

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 最後に、ソルティが選ぶ海外本格ミステリーベスト10(順不同)は以下の通り。
 一作者一作に限った。
  • 『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティ)
  • 『ブラウン神父の童心』(G.K.チェスタトン)
  • 『シャーロック・ホームズの冒険』(コナン・ドイル)
  • 『ナイン・テイラーズ』(ドロシー・セイヤーズ)
  • 『偽のデュー警部』(ピーター・ラヴセイ)
  • 『女には向かない職業』(P・D・ジェイムズ)
  • 『幻の女』(ウィリアム・アイリッシュ)
  • 『薔薇の名前』(ウンベルト・エコー)
  • 『月長石』(ウィルキー・コリンズ)
  • 『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア・ローザック)
 エラリー・クイーンが入っていないのが我ながら不思議。
 どういうわけか、クイーンの作品は内容が記憶に残らないのである。
 代表作と言われる『Yの悲劇』『Xの悲劇』より、かえって夏樹静子の『Wの悲劇』のほうが鮮明に覚えている。
 三田佳子のおかげか?




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 

 

● ノンストップ激流下り 映画:『RRR』(S・S・ラージャマウリ監督)

2022年インド
179分
テルグ語、英語

 封切り作品を映画館で観たのは久しぶり。
 これは映画館で観て正解だった。
 3時間の長尺がまったく苦にならない、1900円の料金も全然高いと思わない、ノンストップの強烈エンターテインメント。
 最初から最後まで、これほど頭をカラっぽにして純粋に楽しめた映画は、『スターウォーズ』か『レイダース/失われたアーク』以来かもしれない。

 ときは20世紀初頭、ところはインド。
 大英帝国の植民地にされ、民衆は圧政に苦しんでいた。
 森に狩りに来たインド総督スコット・バクストン夫妻に幼い妹を連れ去られたビーム(=N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア)は、妹を取り戻し総督に復讐するため、村の仲間と共にデリーに向かった。
 一方、幼い頃から英国軍と闘うための戦士として育てられたラーマ(=ラーム・チャラン)は、大量の銃を手に入れるため、デリーの警察官となり、総督府の武器庫に侵入する機会をうかがっていた。
 無敵の強さと不死身の肉体を誇る二人は、ひょんなことから知り合い、大親友となる。
 しかし、ラーマは、総督の命を狙う正体不明の男(実はビーム)の捕獲を命じられていた。

 メインテーマは、男の熱き友情。
 背景を成すのは、「打倒英国、インド独立!」の愛国心昂揚ドラマと、奇想天外でダイナミックな戦闘シーンの数々。
 もちろん、2人のヒーローには相思相愛の可憐な美女がいて・・・のメロドラマ要素。
 家族愛で観客の涙を絞るのも忘れない。 
 とびきり愉快なゲスト出演は、インドの森からやって来た猛獣たち――虎、豹、馬、鹿、毒蛇。
 最後に、インド人の魂たるヒンズー神話『マハーバーラタ』を重ね合わせ、インド映画と言えば無くてはならないゴージャスでカラフルで軽快至極な歌と踊りで盛り立てる。
 この満艦飾というか、満漢全席というか、大満貫というか、すなわち、ザ・インド!
 ボリウッドの勢いの凄さをまざまざと知る。

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 「ああ、この映画をインドの映画館で観たかった」と何度思ったことか!
 そう、ソルティは二十歳の頃(80年代初頭)、インドを旅したときカルカッタの映画館に入った。
 飲酒の誘惑とたたかう中年男の話で、それほど面白くはなかった。(むろん、言葉は分からなかった)
 それでも、観客たちの熱かったこと!
 ちょっとした場面での拍手喝采や野次は当たり前。
 スクリーン(の俳優たち)に向かって、舌を打つわ、説教するわ、警告するわ、叫ぶわ、怒鳴るわ、大笑いするわ、かと思えば、鼻をすするわ、嗚咽するわ、しまいには立ち上がって近くの席の者と何か言い争いするわ・・・・。
 映画そのものより観客のほうが数倍面白かった。
 日本の観客の礼儀正しさとは雲泥の差。(どっちが雲でどっちが泥かは知らない)
 インド人が今もまだあの頃と変わらないのであれば、本作を観た彼らの反応は想像に余りある。

 さらに、本作を観たイギリス人の反応も知りたい。
 これだけ英国およびイギリス人を悪者に仕立てた作品が、はたしてイギリスでどう評価されたのか、イギリス人はどんな感想を持ったのか、気になるところである。
 ただし、悪役のスコット・バクストン総督を演じたレイ・スティーヴンソン(本作封切りの翌年に58歳で亡くなった)、及び総督夫人キャサリンを演じたアリソン・ドゥーディは、敵役としてキャラが立っており、風格ある素晴らしい演技である。
 敵が憎々しげで強大であるほどに、ヒーローがヒーローたり得て、観客の共感を呼ぶのである。

 それにつけても、前々から不思議に思っていたのだが、インド映画の主役を張る人気男優は中年ばかり。
 本作の2人の主役N・T・ラーマ・ラオ・ジュニアとラーム・チャランも、40歳近い。
 鍛え上げてはいるけれど、どうしたって中年にしか見えない太い腰と濃い顔立ちの髭面の男が、左右並んで仲良くダンスを踊るシーンは、本邦のジャリタレや韓国のK-POPイケメンアイドル、そして日本風“チョイ悪親爺”を、一瞬にして場外に吹き飛ばす強烈なインパクトと重量感がある。
 アクの強さこそ、男の意気地ってか?

 客席は満席であった。
 今年、満員の劇場で映画を見たのは、『愛のコリーダ』に次いで2度目。

ガンガー
「ガンジスの水を飲んだ者は必ず再びインドの大地を踏む」と言う。
ソルティもまた行く機会があるのだろうか?





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール監督)

1937年フランス
114分、白黒

 数十年ぶりに観た。
 はじめて観たのは高田馬場にあったACTミニシアターだったと記憶する。
 20代だった。

 そのときビックリしたのは、この話の舞台となっているのは第一次大戦中のドイツの捕虜収容所なのであるが、捕えられているフランス兵はじめとする連合国軍の捕虜たちが、ドイツ軍に丁重に扱われていることであった。
 「ホントかよ~」と思った。
 戦争中、敵軍に捕まった捕虜が受ける仕打ちや待遇は、悲惨で残酷なものという先入観があった。拷問を受けたり、塹壕掘りなどの強制労働を強いられたり、レイプ(男による)などの辱めを受けたり、あたかもキューブリック監督の映画『スパルタカス』に出てくる古代ローマの奴隷たちのような境遇に置かれると思っていた。
 ドイツの収容所と言えば、なによりまず、ユダヤ人大虐殺で悪名高いアウシュビッツが思い起こされるし、また、大学時代に読んだ森村誠一著『悪魔の飽食』の衝撃――第二次大戦中の満州で大日本帝国陸軍731部隊が外国人捕虜に対しておこなった人体実験のインパクト――もあった。
 捕虜収容所=地獄、と思っていたのである。

 しかるに、ドイツ軍に捕えられたフランス軍のマレシャル中尉(ジャン・ギャバン)とボアルデュー大尉(ピエール・フレネー)らが受けた待遇は、ホテル客並みの厚遇とは言えないまでも、そこそこ紳士的であり、残虐非道なものではなかった。
 むろん、脱走や反逆行為をしないよう、四六時中監視下に置かれ、塀の中に閉じ込められるのは捕虜である以上、致し方ない。脱走すれば、撃たれたり、殴られたり、独房に入れられたりもする。
 が、食事も寝床も保障され、故国からの手紙や仕送りも許され、トランプや読書や絵画などの娯楽も認められ、祝祭日には女装や仮装しての大掛かりな演芸ショーも開催できる。
 日常的に不条理な暴力にさらされているわけではない。
 第二次大戦中の日本軍のジャワ島捕虜収容所を描いた大島渚監督『戦場のメリークリスマス』にくらべれば、天国のようなもの。

 その答えは、1899年のハーグ陸戦条約、すなわち戦時国際法にある。
 このハーグ陸戦条約の第2章には、捕虜(当時俘虜と訳された)の扱いについての取り決めが書かれている。
 たとえば、

  • 第4条 俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。俘虜は人道をもって取り扱うこと。俘虜の身に属すものは兵器、馬匹、軍用書類を除いて依然その所有であること。
  • 第7条 政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し、これを捕らえた政府の軍隊と対等の取り扱いを受けること。
  • 第18条 俘虜は陸軍官憲の定めた秩序及び風紀に関する規律に服従すべきことを唯一の条件として、その宗教の遵行に付き一切の自由を与えられ、その宗教上の礼拝式に参列することができる。
  • 第20条 平和克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。
 (ウィキペディア『ハーグ陸戦条約』より抜粋)

 日本の場合も、少なくとも日露戦争や第一次大戦の折には、捕まえたロシア軍やドイツ軍の捕虜を、条約にしたがって「人道的に」扱ったことが記録に残っている。
 日本で最初のベートーヴェン第9の全曲演奏は、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で行われた。
 収容所長であった松江豊寿の寛大で人情あふれる人柄とともにその経緯を描いたのが、マツケンこと松平健主演『バルトの楽園』(2006年)である。

 本作は、ハーグ陸戦条約下の捕虜収容所だからこそ成立し得た人間ドラマなのである。
 連合国側に属する多様な国籍や人種(フランス人、イギリス人、黒人、ユダヤ人など)、多様な階級に属する人々(貴族も庶民も)が、捕虜収容所であればこそ、寝所を共にし、同じ釜の飯を食い、冗談を言い合い、脱走計画を協力し、友情が育まれる。
 対戦中のドイツの将校とフランスの将校とが、同じ貴族の身分であえるがゆえに、互いに敬意をもって接し、同じテーブルで食事もする。(面白いのは、同じフランス人でも階級のちがう者同士より、国籍が違っても同じ階級の者同士のほうが、互いを理解し合えるという点である)
 だが、せっかく生まれた友情も、戦争の中では長続きしない。
 各々が国家を背負い、軍律に縛られ、使命を持って軍服をまとっている以上、なすべきことはなさねばならない。

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左より、ピエール・フレネー、 ジャン・ギャバン、
マルセル・ダリオ、 エリッヒ・フォン・シュトロハイム

 ボアルデュー大尉のおとり犠牲作戦により、脱走に成功したマレシャル中尉とローゼンタール中尉は、スイスとの国境に向かって逃亡する。
 その途上、小さな娘と暮らすドイツ人女性エルザ(ディタ・パルロ)にかくまってもらい、穏やかで満ち足りた数日を過ごす。
 軍隊生活で長いこと女日照りだったマレシャルと、夫を亡くしてからずっと孤独をかこっていたエルザは、クリスマスの夜に結ばれる。
 その翌朝の、男女それぞれの晴れ晴れした顔がおかしい。
 ルノワールってお茶目なところある・・・。
 
 愛を交わし合ったものの別れは必定。 
 マレシャルはエルザに約束する。
 「この戦争が終わったら必ず迎えに来る。そしたら一緒にパリで暮らそう」
 マレシャルとローゼンタールは、苦難の末、国境を越えてスイス領に入る。
 無事逃げおおせた!
 が、これからどこに行く?
 もちろん、2人に選択肢などない。
 ふたたび軍に戻る以外に・・・・。

 「いつの日か、戦争のない平和な世が来るだろう」
 フランス人マレシャルの言葉に、ユダヤ人であるローゼンタールはこう答える。
 「それは、大いなる幻影だ」





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● あえてゲイ殺しの汚名を着て 本:『ヨルガオ殺人事件』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2020年原著刊行
2021年創元推理文庫(山田蘭・訳)

 いまや世界の本格ミステリー界の大御所とも言えるホロヴィッツ。
 ひとつの小説の中に別の小説を丸ごと放り込む、というアクロバティックな入れ子構造が見事に功を成し、一読で二つの本格ミステリーが楽しめた傑作『カササギ殺人事件』の続編が本作である。

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 本作もまた、英国人編集者スーザン・ライランドが8年前にヨルガオホテルで起きた殺人事件の解明に取り組むというメインプロットの中に、名探偵アティカス・ピュントが活躍するアラン・コンウェイの3作目のミステリー『愚行の代償』が丸ごと投入されている。
 アラン・コンウェイは、スーザンがデビューの時から担当していた作家で、国際的ベストセラー作家となったものの、9作目発表後に急死した。
 読者は、入れ子構造の外箱と内箱をなす二つのミステリーにおいて、探偵役のスーザンやアティカス・ピュントとともに犯人探しを楽しむことができるわけだが、むろん、この凝った形式には必然的理由がある。
 外箱すなわち「スーザンやアラン・コンウェイの住む“現実世界”」で起きた殺人&行方不明事件を解明する鍵が、内箱のフィクション『愚行の代償』の中に隠されている。8年前の事件の真犯人を知る故アラン・コンウェイは、ある理由から、犯人を警察に告発する代わりに自作にヒントを散りばめたのであった。
 ホロヴィッツのパズラー魂と巧緻なプロットには毎回のことながら舌を巻く。
 しかも、外箱のミステリーも、内箱のミステリーも、揃って本格推理小説として、あるいはエンターテインメントとして、一定の水準に達していて面白い。
 クリスティやクロフツやチェスタトンなど、ミステリー黄金時代の作家たちに匹敵する驚くべき才能である。

 素人探偵ソルティによる犯人当ては、一勝一敗であった。
 内箱の『愚行の代償』の犯人は当てることができたが、外箱の“現実世界”の犯人は分からなかった。
 素晴らしい読書タイムを与えてもらえたので、文句をつけるほどのことではないが、若干、キャラ設定的に気になるところはあった。
 “現実世界”でスーザンが行方を捜しているセシリーは、星占いの好きな夢見がちの一途な女性という設定なのだが、そのキャラクターからはちょっとあり得そうもない行動をしている。
 星の導きで出会った運命の人との結婚式を数日後に控えたセシリーが、はたしてすでに一緒に暮らしている婚約者の目を盗んで、×××の中で×××と×××するか・・・?
 しかもその結果、×××までしてしまい、×××するか・・・?
 どうも納得いかない。

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Tú AnhによるPixabayからの画像画像
 
 ときに、ホロヴィッツの小説の特徴の一つとして言えるのは、ゲイの登場人物が多いという点である。
 これまでに読んだものの中では、シャーロック・ホームズ物のパスティーシュである『モリアーティ』をのぞくすべての作品で、ゲイが登場していた。
 なにより、アティカス・ピュントの生みの親である作家アラン・コンウェイもゲイ(という設定)であり、本作でスーザンが調べることになった8年前の殺人事件の被害者も、SM趣味ある遊び人のゲイである。
 このゲイ濃度の高さはなにゆえ?

 おそらく、長いことメディア業界で仕事してきたホロヴィッツの周囲にはカミングアウト済みのLGBTがあたりまえに多く存在していた(いる)こと、そして、ホロヴィッツがアライ(LGBTを支援する人)であることが大きいのだと推測する。
 あるいは、英国ではすでに、複数の人物が登場する現代小説やドラマを書いたら、そこにゲイやレズビアンが出てこないのは不自然――というほど、LGBTの存在が可視化されているのだろうか?
 むろん、黄金時代のミステリーにはLGBTの姿はない。
 (欧米ミステリーにはっきりした形でLGBTが登場するのは、1955年マーガレット・ミラー著『狙った獣』が嚆矢ではないか?)

 ソルティが英国を訪ねたのは、2000年。
 当時のLGBTをめぐる社会的状況は、日本のそれとさほど違いはなかったように思う。
 やはり、ここ20年の変化が大きかったのではないか?(英国では、2014年に同性婚が法制化されている)
 その間、日本では、旧統一協会の息のかかった保守系議員や学者らによる性教育バッシングが安倍政権のもと勢いを増し、我が国のセクシュアルライツ(性と生殖に関する権利)は後退し続けた。 
 ホロヴィッツの小説を読むたびに、“失われた20年”および彼我の国民性の違いを思う。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 小百合マジック 映画:『北のカナリアたち』(阪本順治監督)

2012年東映配給
130分

 『どついたるねん』、『』、『闇の子供たち』の阪本順治監督の名前に釣られて借りたのだが、吉永小百合主演という点に一抹の不安があった。
 結果から言えば、不安が当たってしまった。
 阪本監督にして、“小百合マジック”を打ち壊せなかった。
 すべてを小百合色に染め上げ、お涙頂戴の美しいお姫様物語に変えてしまう“小百合マジック”。
 恐るべし。

 もっとも、本作は日本アカデミー賞の12部門で優秀賞をとるなど、評価は高い。
 音楽、撮影、照明では最優秀賞をとっている。
 役者では特に、吉永小百合と森山未來が数々の賞をもらっている。
 これを駄作と感じるソルティのほうが一般から離れているのかもしれない。
 
 森山未來以外にも、満島ひかり、勝地涼、宮﨑あおい、小池栄子、松田龍平、仲村トオル、柴田恭兵、石橋蓮司、里見浩太朗と、華も実力もある俳優陣をこれだけ揃えているのに、各役者たちはそれぞれが役を理解してリアリティある演技をしようと頑張っているのに、そのすべての努力が、吉永小百合ひとりの存在によってメルヘンに収斂されていく酷さ。
 吉永小百合演じる小学校の元先生と森山ら若手役者6人が演じる元生徒たちが、白雪姫と6人の小人たちに見えてくるファンシー感。
 リアリティのない、はじめにプロットありきの脚本(原作は湊かなえの『二十年後の宿題』)にも問題はあると思うが、やっぱり、脚本も演出も撮影も音楽も照明も他の役者の演技も、すべてが小百合に引きずられてしまったのが一番の原因であろう。
 本作の前に、NHK制作の最も新しい『犬神家の一族』を録画していたのを観た。
 犬神松子役の大竹しのぶ、犬神竹子役の南果歩、両女優の圧巻の演技を堪能したあとだったので、なおさら、小百合の演技の数十年変わらぬスタイリッシュな浅さが悲しかった。  
 
 『キューポラのある街』、『伊豆の踊子』、『あゝひめゆりの塔』など日活時代の小百合は、可愛いだけでなく、溌剌として人間的魅力にあふれている。
 どのあたりからマジックの世界に住むようになったのか。
 気になるテーマではあるけれど、それを追っていくとソルティもまたマジックにかかってしまいそうだ。
 日活の小百合だけで止めておこう。

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Christine DAUTINによるPixabayからの画像



おすすめ度 :


★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著)

2013年原著刊行
2016年岩波書店(松本妙子・訳)

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 『戦争は女の顔をしていない』の著者によるインタビュー集。
 社会主義国家ソ連を生きた人々、および1991年崩壊後の元ソ連を生きる人々の声に耳を傾け、およそ過去100年のロシア≒ソ連の歴史を、庶民視点から浮き彫りにしている。
 タオルでくるんで枕にしたら気持ちいいだろうなあ~と思うほどの小口の厚さに、読む前からくじけそうになった。
 が、いざページを開いてみたら、一つ一つのエピソードの想像を超える凄まじさに啞然とし、生々しい語りに呪縛され、あれよあれよと読み終えてしまった。
 語るべきことを持った人が良い聴き手を前にしたときに起こる、封じ込めていた記憶と感情の奇跡的な蘇生が、今まさにその時代その場を生きて目撃しているかのような証言の迫力となって結実している。
 過去100年、ロシアの大地を幾度も揺るがした動乱と、庶民が流したおびただしい血と涙の量に言葉を失った。

●過去100年のロシア(ソ連)史概略
1917年 ロシア革命起こる。ロシア帝国(封建制)の崩壊。
1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)誕生。
1934年 スターリンによる大粛清が始まる。
1941年 独ソ戦(~1945)
1945年 東西冷戦始まる。
1953年 スターリン死去。
1962年 キューバ危機。
1979年 ソ連軍のアフガニスタン侵攻。
1985年 ゴルバチョフ大統領による改革運動(ペレストロイカ)始まる。
1986年 チェルノブイリ原発事故発生。
1989年 冷戦終結。
1991年 共産党解体。ソ連消滅。ロシア連邦発足。
1994年 ロシア軍のチェチェン侵攻。
2000年 プーチンが大統領就任。
2022年 ロシア軍のウクライナ侵攻。

 年表を見るだけでは動乱の質が分かりづらいので、いまモスクワ近辺で暮らす5世代のロシア人男性を例にとってみよう。
 1950年生まれのアレクセイを軸に置き、彼の上下2世代、アレクセイの祖父からアレクセイの孫までを設定してみる。
 便宜上、5人とも25歳で後継ぎとなる長男をつくり、60歳まで生きたとする。

祖父(1900~1960)
ロシア帝国に誕生。青春の頃、ロシア革命を経験、史上初の社会主義国家誕生に胸躍らせる。共産党員となり理想国家建設のため、過酷な労働に励む。30代半ばの時に始まったスターリンの粛清では友人や親戚が処刑される。晩年は社会主義に幻滅しロシア帝国時代を懐かしむも、家族を守るため本音を隠したまま死去する。

父(1925~1985)
革命後のソ連に誕生。子供の頃より熱心な共産党シンパ。スターリンの粛清の際、反体制の疑いある親戚や隣人を次々と密告し、党に表彰される。青春の頃、独ソ戦に参加し、多くのドイツ兵を殺戮し、勲章をもらう。生涯スターリンを英雄と仰ぐ。

アレクセイ(1950~2010)
冷戦最中のソ連に誕生。父の影響でアメリカをはじめとする西側諸国に強い敵対心を持つ。29歳の時、アフガニスタン侵攻に従軍し、敵弾を受けて帰国。その後は障害と窮乏に苦しむ。41歳の時、共産党解体とソ連消滅。ロシア連邦国民となる。“弱肉強食”の資本主義の世界に馴染むことができず、晩年はアルコールに溺れる。

息子(1975~2023)
ソ連に誕生。10歳の時にペレストロイカ始まる。16歳でソ連消滅。ロシア連邦国民となる。大量に押し寄せてきた西側の嗜好品に目を奪われる。時代遅れの不用物と共産主義を罵倒。友人らとジーンズの卸しを手がけて成功し財を成すも、ウクライナ侵攻の影響で経営破綻、失業する。現在48歳。

孫(2000~2023)
ロシア連邦に誕生。物に囲まれた裕福な子供時代を送る。父親との関係悪化で家を出て、モスクワで不良生活を送る。22歳の時にウクライナ戦争に志願、現在戦場で闘っている。共産主義についても、ウクライナとロシアがもともと同じ一つの国であったことも知らない。現在23歳。

 すべての世代が、戦争か国家規模の革命か、その両方を体験している。
 国が生まれ消滅し、体制が引っくり返り、価値観や文化がガラリと変わり、戦争や内紛が絶え間なく続き、一人の圧政者が亡くなると新たな圧政者が現れ・・・。
 なんとせわしないことか。
 当然、世代間断絶もすごいものになる。
 たとえば、アレクセイの父親とアレクセイの息子とでは完全に話が合わないだろう。互いを理解するのは難しい。
 日本で言えば、明治維新前後や太平洋戦争前後のギャップに相当するものが、各世代間で生じている感覚だろう。

 本書には、ロシア帝国時代に生まれ、インタビュー時(90年代)には87歳だった元共産党員の男の話(「べつの聖書とべつの信者たち」)が収録されている。
 貧しいロシアの家に生まれ、共産主義に触れて「平等と団結」のユートピアを夢見、革命に参加する。レーニンに心酔するも、スターリン「粛清」では知人の密告から自らと妻が刑務所に収容され拷問を受ける。それでも独ソ戦に志願して闘い、勲章をもらう。名誉軍人として晩年を過ごすつもりが、ソ連崩壊。生涯、信じ捧げていたものが無に帰した。
 この男の生涯はそのまま映画化したいほどドラマチックで、筏で激流を下っているような目まぐるしさと危険に満ちている。
 一冊まるごと読むのが億劫だという人は、この証言だけでも読んでみてほしい。 
 慄然とするはずだ。  

 わたしの祖国は、十月革命。レーニン、社会主義・・・・。わたしは革命を愛していた。党は、わたしたちにとっていちばん大事なものだ。70年間党員です。党員証はわたしの聖書だ。

ソ連共産党の旗
ソ連共産党の党章

 一つの家族の、一人の人間を時系列で追ってもそこに凄まじいドラマがあるのだが、ソ連の場合、世代により、党における立場により、民族により、住んでいる土地(共和国)により、まったく異なる体験をしている点も見逃せない。
 とりわけ崩壊後のソ連では、チェチェン紛争に代表されるような民族紛争が各地で勃発した。
 ルーツは異なっても同じソ連の国民として、数十年同じ村で仲睦まじく暮らしてきた人々が、ある日を境に、「民族が違う」「国が違う」「宗教が違う」という理由だけで殺し合いを始める。
 その残酷さ、わけのわからなさは、日本人にはなかなか想像及ばないものである。
 実際、ソ連から独立したタジキスタンやアゼルバイジャンなどで当時起きたことの証言を読んでいると、まだスターリン独裁下の“管理された平和”のほうがマシだったのではないかとすら思うほど。

 圧倒的な一人の暴君の行う恐怖政治によって管理されないと、民族や宗教や言語や文化の異なる多様な人々が平和裡に暮らせないとは、なんと悲しいことだろう。
 逆に言えば、個人のアイデンティティが、特定の国家や民族や宗教や文化や主義や価値観に固着し妄信しそれらと同一化している限り、つまりは条件付けから解かれない限り、他者との共生は永遠に不可能だということ、地上から闘いが無くなる日が訪れることはないということを、本書は裏書きしている。

 世に巣食うさまざまな“物語(虚構)”に囚われた人間たちの底知れない無明をまざまざと感じ、おのれの無明を振り返らざるを得ない読書体験であった。


以下、いくつかの証言より引用。

戦争と刑務所。このふたつがロシアの重要なことばなんです。ロシアの!
ロシアの女にはまともな男がいたためしがない。女は、いつもいつも治しているんです。男を少しだけ英雄とみなし、少しだけ子どもとみなしている。そうやって救っているんです。

父は人間ではなく、思想の一部だった。祖国はひたむきに愛すべきもの。無条件に。子ども時代、ずっとそう聞かされていたんです。命は祖国を守るためだけに与えられていると・・・・。

ぼくのいってることが、わかりますか。
人は幸福になる気がないんです、人は戦争への覚悟ができている。寒さと雹への。
ぼくはしあわせな人間に出会ったことがない、三か月になるぼくの娘のほかには、だれにもね・・・・。ロシア人は幸福になろうとしていないんです。

もしかしたら、あれ(ソルティ注:スターリン時代)は刑務所だったのかもしれない。でも、わたしにはあの刑務所のなかのほうがあたたかかった。 

ロシアでは5年ですべてが変わりうるが、200年ではなにも変わらない。

林檎の花
林檎の花




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損











● 「イエ」という桎梏 映画:『儀式』(大島渚監督)

1971年創造者、ATG
123分、カラー

 大島渚目当ての国立映画アーカイブ通いも3回目。
 今回は18:50からの上映だった。
 夜の銀座は久しぶり。
 早めに着いて、アーカイブそばの舗道のベンチでチョコクロを食べながら読書していたら、勤めを終えたビジネスパースンたちが足早に通り過ぎていった。
 なんか自分、もう定年した気分。

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 『儀式』は大島監督の作品の中で、『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』とならび評価が高い。
 キネ旬1位をとっている。
 家父長制共同体の象徴である地方旧家の乱脈なる血縁関係、冠婚葬祭の儀式のたびに集う成員それぞれの葛藤や衝突を通して、日本の戦後史そのものを描いた傑作という触れ込み。
 『犬神家の一族』以上の複雑な人間関係が繰り広げられているらしいので、あらかじめ登場人物表とキャストを頭に入れて臨んだ。

 まず、カラーであることに意外な感をもった。
 71年ならカラーでも全然おかしくないのだが、なぜか白黒だと思っていた。
 ポスター(上記)のせいだろうか?

 次に、やはり人間関係が分かりづらい。
 一回観て、ジェノグラム(家族関係図)が書ける人がいるとは思われない。
 誰と誰が親子で、誰と誰が兄弟で、誰と誰が一緒に暮らしているのか、よく分からない。
 それを観客に説明する気も初めからないようで、観る者は各自が想像で補うしかない。
 せいぜいが、家長たる桜田一臣(佐藤慶)と妻しづ(乙羽信子)を中心とする戦前の世代、一臣の息子たちで戦争に取られた世代(戸浦六宏、小松方正、渡辺文雄)、幼少の頃の戦争記憶をわずかにもつ主人公・満州男(河原崎健三)や従妹である律子(賀来敦子)の世代――戦前・戦中・戦後の3世代が登場して、それぞれの時代のカラーの違いが知られるばかり。

 一族内で自殺があったり、殺人があったり、事故死があったり、結婚式の日に花嫁が逃亡したりと、『犬神家』ばりにいろいろな事件は起こるのだが、その背景や動機や真相はしかと語られず、なんだかよく分からないストーリー。
 セリフも全共闘のアジビラのように、あるいは不条理劇のように、“芝居”がかっていて不自然さが目立つ。
 全編を支配する異様な緊張感と、姑息因循たる家父長制や建前重視の日本的形式主義を揶揄するブラックユーモアはさすが大島である。

 正直、とても大衆的人気を博するとは思えず、キネ旬1位は不思議としか言いようがない。
 当時、こういった小難しくて高踏的な装いの映画が人気を集めたのだろうか。
 いまの若者だと20分と持つまい。(それだけ日本人が古いイエ制度から解き放たれたということか)
  
 家長を演じる佐藤慶の傲岸不遜ぶり、乙羽信子の底意地悪そうな佇まい、そして青年(中村敦夫)の筆おろし(成人儀式)をご指南する小山明子の色っぽさが、印象に残った。


 

おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 聖ペテルブルグ : 府中市民交響楽団 第87回定期演奏会


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日時: 2023年5月14日(日)
会場: 府中の森芸術劇場 どりーむホール
曲目: ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
指揮: 大井剛史

 ちょっと前に漫画版『戦争は女の顔をしていない』を読み、今は同じスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ作の『セカンドハンドの時代』を読んでいる。
 前者は第2次世界大戦中の独ソ戦に関するソ連の女たちの証言集、後者は共産主義時代のソ連および1991年ソ連崩壊以降に起きたことに関する、かつてソ連邦に属した様々な人々による証言集である。
 重要なのはいずれも庶民の声であること。
 ソルティは近現代ロシア史を庶民の視線から学んでいる最中なのである。

 過去100年ソ連で起きたことを体験者の声を通して振り返ると、唖然とし、愕然とし、呆然とし、しまいには暗澹たる気持ちになる。
 日本だってこの100年、戦争や占領や暴動や災害やテロなどいろいろあったに違いないが、ソ連にくらべれば穏やかなものである。
 とくに戦後の日本は、もしかしたら、人類史上稀なる平和と繁栄と自由と平等とが実現された奇跡的空間だったと、のちの歴史学者は語るかもしれない。
 ロシアのウクライナ侵攻が国際的非難を浴びていて、ソルティも一刻も早いロシアの完全撤退とプーチン政権の終焉を望むものだけれど、しかし、近現代ロシア史を知らずにこの戦争を安易に語ることはできないのではないかと思う。
 なんといっても、ロシアとウクライナはもとは同じ一つの国であり、ロシア人とウクライナ人は同じソヴィエト国民だったのだ。

 同じように、近現代ロシア史を知らずに、ショスタコーヴィチを鑑賞することは難しいのではないかと思う。
 少なくとも、今はまだ・・・・。
 『セカンドハンドの時代』には、スターリン独裁体制下を生き延びた人々の証言が数多くおさめられている。
 徹底的な言論・思想統制、密告奨励、不当逮捕、強制収容、シベリア流刑、拷問、虐殺・・・・。
 恐怖と圧迫と洗脳と諦念と擬態と黙殺と。
 厄介なのは、スターリンは独ソ戦でナチスドイツに勝利した英雄でもあることだ。
 スターリンを讃美し、スターリン時代を懐かしがる老人が今もロシアに残っているのである。
 ソ連国民は、他国のヒトラーを退けるために、自国のヒトラーを受け入れざるを得なかった。 
 ショスタコーヴィチの音楽を、こうした酷すぎる歴史の現実から切り離して、純粋音楽として指揮したり、演奏したり、聴いたりすることは、あまりに脳天お花畑の仕草に思われる。
 スターリン体制下あるいはKGBによって拉致や拷問や処刑された命に対する軽侮のように思われる。
 当の作曲家だってそれを望んじゃいまい。

 そしてまた、聴く者が過去100年のソ連の歴史と庶民の生活について知れば知るほど、ショスタコーヴィチの音楽は深みを増す。
 作曲家が楽譜に描き込んだ、恐怖や苦痛や不安や苦悩や絶望や悲しみ、あるいは夢や懐旧の念や死者への祈りや平和への願いや愛、あるいは全体主義にたいする批判や嫌悪や抵抗――それらが聴く者の胸の奥に届き、倍音をもって(つまりは対ドイツのそれと対ソヴィエトのそれ)響くのである。

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府中の森芸術劇場
 
 今回ライブ2度目となる『レニングラード』
 それぞれの楽章について、次のような章題を思いついた。
  • 第1楽章 ファシズムは最初、軽快なマーチのリズムに乗って、親しみやすい正義の顔してやって来る。
  • 第2楽章 今さら嘆いても遅い。夢じゃない、これが我々の現実だ。
  • 第3楽章 死者だけが戦争を終わらせることができる。
  • 第4楽章 人間は学ばない。喉元過ぎれば熱さ忘れる。
 演奏は第1楽章が一番良かった。
 小太鼓の単調なリズムから始まる「侵攻の主題」において、単純なメロディが繰り返されるたびに加わる楽器が増えていき、次第に狂気の色を濃くしながら盛り上がっていく様は、各楽器のソロ奏者の安定した技術とオケ全体のバランスの良さに支えられ、背筋がゾッとなるほどの迫力とリアリティがあった。
 
 ちなみに、現在レニングラードという都市はない。
 ソ連崩壊と共に、レーニンは神棚から引きずり降ろされてしまった。
 革命前のロシア帝国時代の旧名「聖ペテルブルグ」に戻っている。

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府中の聖地、大国魂神社




● 定と吉蔵 映画:『愛のコリーダ』(大島渚監督)

1976年日本、フランス
104分

 国立映画アーカイブ開催中の大島渚特集にて鑑賞。
 『飼育』のときは空席があったが、今回はソールドアウト。
 さすがエロのちから。
 もっとも、この作品、『戦場のメリークリスマス』と並ぶ大島渚の最大の話題作にしてヒット作のわりには、なかなか上映されないということもある。
 貴重な鑑賞機会なのだ。
 かくいうソルティも今回が初であった。

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 1936年5月に東京で発生した阿部定事件を描いたものなので、スキャンダラスなのは先刻承知。
 何と言っても、愛する男を行為の最中に絞め殺して、切断した陰茎を肌身離さず持ち歩いた女の話である。
 性愛描写と猟奇性は避けることはできない。
 しかるに、本作の話題はもっぱら、主演の藤竜也、松田暎子が撮影において「本番」をしたこと、それが共同制作のフランス始めいくつかの海外諸国ではノーカット無修正で観ることができる、というところに集中していたように記憶する。少なくとも昭和時代は・・・。
 「芸術かポルノか?」という煽り文句が盛んに唱えられていたが、大方の観客(とくに男の)にとってはポルノ目的だったのが正味なところではなかろうか。
 ウィキの『愛のコリーダ』を見ると、そのあたりの事情がよくわかる念のこもった解説ぶりである(笑)
(そもそも、芸術とポルノは対立する概念か、ポルノであっても芸術たりうるのではないか云々・・・というメンドクサイ議論は止めておく)

 観始めて間もなく、「やっ、これはポルノじゃん」と心の中でつぶやいた。
 徹頭徹尾、阿部定(松田)と石田吉蔵(藤)のセックスシーン。
 たいした筋書きもドラマもなく、出会った2人がお互いの体に溺れ、昼も夜もところかまわず盛んにまぐわい続けるさまが、延々と描かれる。
 大方のピンク映画のほうが、まだドラマがあるし、セックスシーン自体も少ない。

 ある意味、これは「究極のポルノ映画」と言ってもいいのかもしれない。
 テーマは「人間の性」そのものであるし、死に接続する愛というバタイユ的究極に触れているし、前貼りをつけない本番という点で究極のリアル演出であり、なによりこれが史実をもとにしているという点で究極の現実でもある。 
 おそらく、性愛をテーマにして、これ以上の映画はつくれないだろう。
 これに比べれば、ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』がソフトポルノに思えるほど。
 
 途中で退屈したという点でも「ポルノだなあ」と思った。
 最初のうちこそ、藤竜也(35)と松田瑛子(24)の若々しい肉体と大胆なセックスシーンに驚かされ、興奮もあったが、ずっとそればかり見せ続けられていると、しまいにはウンザリしてくる。
 他人のセックスを見せ続けられるのは面白くない。
 どんな刺激的な映像であれ、ドラマがないと結局飽きるのだ。
 言ってみれば、勝ち負けのつかないスポーツ競技を見ているようなもの。 
 よもや大島の映画で欠伸をこらえなければならないとは思わなかった。
 もっとも、究極の性愛ってやつが、還暦間近のソルティにはもはや理解できない、理解したくもない、動物的徒労としか思えないのだが・・・・。

 映像そのものは大島の美意識が散りばめられて、見るべきものはある。
 料亭の座敷における2人の祝言のシーンなど、着物や和室のしつらいなど一見純日本的でありながら、ゴーギャン風の色彩があふれて、「大島はカラーも上手い」と再認識させられた。
 一方、男優にせよ女優にせよ、裸体を美しく撮ろうという狙いは最初からなかったようで、そこは変に芸術ぶっていなくて好感持てる。
 
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コリーダとはスペイン語で「闘牛」のこと
 
 2人の行為はエスカレートしていき、殴ったりつねったり刃物で脅かしたり、暴力的な味を添えることで、さらなる快楽を得ようとする。
 首絞めと陰茎切断のクライマックスまであと少し。
 「やっと、終わる」
 「それほどたいした映画じゃなかったなあ」
 ――と思っていたら、唐突に、これまでまったく出てこなかった外界が登場した。
 雪の降りしきる朝、たくさんの日の丸が振られる中を、軍服を着た若い男たちが行進する。
 出兵を見送るシーンである。
 その隊列とすれ違いながら、兵隊たちには目もくれず、逆方向へひとり歩いていく着物姿の石田吉蔵。
 これまでの定との愛欲場面ではいっさい見せなかった、いや映画が始まってから観る者がついぞ目にしなかった、真剣な、思いつめたような吉蔵の表情がアップされる。
 ほんの1分たらずのシーン。
 
 ここで観る者はハタと気づくのである。
 ああ、いまは日中戦争真っ只中だったのだ。
 1936年(昭和11年)とは2.26事件が勃発し、東京に戒厳令が敷かれた物騒な年だった。
 兵役法の下、20歳から40歳の男子は赤紙が来るのを待っていた。
 大日本帝国のため、天皇陛下のため、大和魂を示すために。
 
 吉蔵はなぜ遊んでいられる?
 命を懸けて大陸に向かう男子たちを尻目に、仕事も家もほっぽり出して、なぜ女とセックスにかまけていられる?
 ――当時42歳の吉蔵は兵役を免れていたのである。
 ここで、本作に別の視点が加わる。
 定という女の「狂気の愛」というテーマのほかに、吉蔵という男の語られざる屈辱が・・・・。
 
 一日に何度も女をイかすことができる鋼鉄のペニスを持つ自分を、社会は闘える男として認めてくれない。
 もう“終わってしまった”男と烙印を押されている。
 こんな屈辱的なことがあるか!
 
 この視点から見ると、吉蔵の尽きることを知らないコリーダ(闘牛)のような精力の誇示は、男たることの必死の証明のように映る。
「自分は終わってなどいない。まだまだ十分闘えるブル(雄牛)なんだ!」
 自ら了解し、定の好きにさせた結果としての絞死もまた、「大陸でなくとも、戦場でなくとも、男のままで逝くことはできるんだ」と嘯いているかのよう。
 吉蔵は“男として”死んでいく道を選んだのである。
 
 すると、定による陰茎切断はまったく違った意味合いを帯びて、観る者の前に立ち現れてくる。
 去勢すなわち、「男であること=マチョイズム」の否定。
 戦争する性、闘うことを好む性、イエを守る性、大きな理念のために自らを犠牲にすることを美学とする性、他者を排撃する性――それが男根によって象徴される男性性である。
 定は、自分では自覚することなく、男性中心社会に刃を翳したことになる。
 (そういえば、2人のセックスはいつも定が上の騎乗位である)
 
 ここまで読み込んでやっと、「ああ、これは大島渚の映画だ。阿部定事件に材を取った反マチョイズム、反ナショナリズムの映画でもあるのだ」と、ソルティは合点がいった。

 場内最後列には女性専用席が用意されていた。
 男対女は9対1くらいの割合だったろうか。
 面白く思ったのは、女性客が笑う場面で男性客はまったく笑っていなかったこと。
 逆に、最後の陰茎切断のシーンでは、男性客のみが一斉に息を詰めた。
 女性の感想を聞きたいものだ。

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国立アーカイブ4Fにある図書室
『キネ旬』バックナンバーなど映画関係の資料が揃っている




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