ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● オペラライブDVD:ロッシーニ作曲『チェネレントラ』


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収録日時 2008年1月
会場 リセウ大劇場(バルセロナ)
キャスト
  • アンジェリーナ: ジョイス・ディドナード(メゾソプラノ)
  • ドン・ラミーロ: ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
  • ダンディーニ: デイヴィッド・メナンデス(バリトン)
  • ドン・マニーフィコ: ブルーノ・デ・シモーネ(バス)
指揮 パトリック・サマーズ
オケ リセウ大劇場交響楽団
合唱 リセウ大劇場合唱団
演出 ジョアン・フォント

 「チェネレントラ」とイタリア語で言うと、なんのことやら見当つかないと思うが、なんのことはない、「シンデレラ」である。
 17世紀フランスの詩人シャルル・ペロー版の童話が知られているが、むしろいまや、ディズニー作と思っている人が多いのではなかろうか。
 ソルティが子供の頃読んだ童話集の中では「灰かぶり姫」と題されていたと記憶する。

 ロッシーニの作曲した39のオペラの中でも、『セヴィリアの理髪師』と並んで人気が高く、上演回数の多い作品である。
 誰もが知っている楽しくわかりやすいストーリーに、ロッシーニならではの諧謔とスピード感に満ちた聴く者を興奮させる音楽が満載なので、オペラ初心者が観るには向いていると言えよう。
 ただ、166分という上演時間をやや冗長に思うかもしれない。(もう少し切り込んで140分くらいに収めれば、もっとテンポが良くなるのになあ)

 『チェネレントラ』のライヴ映像記録の定番にして最高峰は、なんと言っても、チェチリア・バルトリが主役をつとめた1995年11月のヒューストン・グランドオペラである。
 驚異的なテクニックで今に続くロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となったチェチリアの最盛期の声と、シンデレラの継父ドン・マニーフィコ役のバス歌手エンツォ・ダーラの滑稽にして存在感ある演技――往年のTBS人気ドラマ『寺内貫太郎一家』の小林亜星を思わせる――は、何回見ても引き込まれる。
 頭の上に植物の鉢を乗せた意地悪な姉妹(クロリンダとティスベ)の対照的な体型の取り合わせも愉快だった。
 これを凌ぐ『チェンレントラ』の舞台は現れないだろうと思っていたのだが、うれしい誤算、どんな分野にも前人を凌駕する新しい才能は生まれてくるものである。

 ただ、本作の凄さの一番の要因は、タイトルロール(主役)ではない。
 ジョイス・ディドナードはもちろん難のつけようない見事な歌唱で、その美貌と美声と優雅なたたずまいはシンデレラそのものである。コロラトゥーラの切れ味はチェチリアのほうが上回っているかもしれない。
 ほかの主要な歌手たちもヒューストン版の同役の歌手たちと互角に渡り合っている。ドン・マニーフィコはエンツォ・ダーラの方がマンガチックな滑稽味あって面白いと思うが、これは好みの問題だろう。
 本ライブの芸術的価値および記録的価値を高めているのは、王子ドン・ラミーロ役のファン・ディエゴ・フローレスに尽きる。

 このときフローレスは35歳。まさにオペラ歌手として最盛期。
 張りのある美声、磨き上げたベルカントのテクニック、貴公子そのものの凛々しい立ち居振る舞い、甘いマスク、周囲に漂う大谷翔平ばりのフェロモン・・・これほど御伽噺の王子様にピッタリの歌手はそうそういまい。
 とりわけフローレスの十八番たる超絶高音の力強さと輝きたるや、「キング・オブ・ハイC」パヴァロッティも衝撃と嫉妬で痩せるんじゃないかと思うほど。
 シンデレラの意地悪な姉妹たちは、女性の本音を探るために従者のフリをした王子ドン・ラミーロをけんもほろろに鼻であしらい、王子のフリをした従者ダンディーニに色目を使い積極的にモーションをかける――というのが本来の筋書きであるが、このフローレスを前にしたら、たいていの女性は、王妃の地位よりもイケメン従者の妻を選ぶんじゃなかろうか。(おっとセクハラチックな昭和発言)
 フローレスに与えられた「現代最高のテノール」という称号の偽りでないことを知るには、本作を観るに(聴くに)如くはない。
 
 本作はまた、演出が面白い。
 明るく人工的な原色を多用したカラフルでポップな衣装や小道具、トランプの騎士のような家臣たちの制服とたたずまい、舞台狭しと走り回るネズミたち(男性役者が扮している)、鏡や影絵の使用。
 「不思議の国のアリス」の世界を思わせるファンタスティックな舞台となっている。
 シンデレラの住む古い屋敷はともかく、王子様の住む宮殿内をネズミがちょこまか走り回るのは不自然だし、ちょっとうるさい気がするのだが、最後まで見ると、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちる。
 御伽噺はあくまで御伽噺なのであった。
 
 ウィキ「シンデレラ」によると、1900年(明治34年)に坪内逍遥が高等小学校の教科書掲載用に翻訳した際、題名は「おしん物語」だったとな。
 
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2018年11月香川県観音寺にて撮影




● あの頃の生き方を 本:『転生の魔』(笠井潔著)

2017年講談社
2022年文庫化

 主人公はアメリカ帰りの70代の私立探偵飛鳥井ナントカ(下の名前は不明)。
 シリーズ4冊目となる本作で初めて接した。
 タイトルに惹かれたのだが、残念ながら輪廻転生がテーマではなかった。

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 ミステリー作家としての笠井潔の力量は、名探偵矢吹駆シリーズの『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』で確認済みであったし、社会評論家および思想家としてのスタンスや彫りの深さは『8・15と3・11 戦後史の死角』、『新・戦争論 「世界内戦」の時代』で織り込み済みであった。
 ソルティは、“遅れてきた”キヨシファンを自認している。

 昔から本格ミステリーとペダントリー(衒学趣味、蘊蓄がたり)は相性が良い。
 黄金時代のヴァン・ダインとか世界的ベストセラーになったウンベルト・エコー著『薔薇の名前』とか、本邦なら小栗虫太郎や中井英夫や京極夏彦など、ペダントリー型ミステリーは枚挙にいとまない。
 その中にあって、笠井潔のペダントリーはユニークさにおいて突出している。
 笠井の場合のそれは、圧倒的な教養や学識のひけらかしによって探偵あるいは作家の優秀性を読者に知らしめるためだけでもなく、物語の主筋から読者の目をそらすことでトリックを覆い隠すためだけでもなく、マニアックな専門用語やオカルトなど非日常的言説の奔流によって雰囲気を醸して物語的効果を高めるためだけでもなく、たんに枚数を稼ぐためだけでもない。
 そのペダントリーの本質は、団塊の世代の社会運動家のちには思想家としての笠井潔自身の、人生をかけた凄まじい思想闘争の過程で産み落とされた月足らずの胎児たちである。
 つまり、笠井潔の思想の破片が物語のあちこちに散らばっている。
 逆に言えば、自らの思想を簡潔かつ効果的に表現し読者に伝達したいがために、ミステリーという形式を選んだという気さえする。
 これは笠井のライフワークと言われる矢吹駆シリーズにおいて特に顕著な特徴であろうが、本シリーズも例外ではない。
 「解説にかえて――笠井潔入門、一歩前」で批評家の杉田俊介が書いているように、飛鳥井シリーズの特徴は、本格探偵小説と政治・社会思想とハードボイルドが「モザイクのように組み合わさっている」ところにある。
 その政治・社会思想こそが笠井ミステリーにおける“血肉を伴った”ペダントリーなのである。

 その意味で、伝奇ロマンである『ヴァンパイヤー戦争』シリーズこそ未読なので分からないが、少なくとも笠井ミステリーは、読者を選ぶ。
 おそらく、ヴァン・ダインや中井英夫や京極夏彦よりずっと厳しく、読者を選別する。
 本格推理小説ファンの中でも、政治思潮や社会改革とくに戦後の内外の左翼運動に関心があり、国家権力に抵抗するためデモや署名活動などに参加したことのあるような読者こそ、選ばれた“キヨシ推し”であろう。
 って、ソルティではないか!

 60代の女性山科三奈子から飛鳥井が受けた依頼は、人探しであった。2015年7月15日国会議事堂前で行われた安保関連法案反対デモの動画を見た山科は、参加者の中に43年前に行方不明になった友人の昔のままに若い姿を発見したという。彼女は転生者なのか?
 半信半疑で依頼を引き受けた飛鳥井は、左翼活動盛んなりし43年前のクリスマスに、とある大学構内で起きた女子学生蒸発事件の真相を探る羽目になる。
 飛鳥井は、いまや高齢者となったかつての活動家たちをひとりひとり訪ね歩き、過去の事件の再構成を試みる。

 『サマー・アポカリプス』や『オイディプス症候群』同様、本作も単純に推理小説として読めば、それほど高いレベルにあるわけではない。
 トリックも特段凝っているわけでなく、真犯人や動機も意外性に富んでいるわけでもなく、探偵の推理が卓抜なわけでもない。(謎の出し方のうまさは抜群だ)
 ソルティをページに釘付けにし、下りるべき駅を乗り過ごしてしまったり、コーヒー一杯で暗くなるまでマクドナルドに留め置いたり、朝刊配達のバイクの音に我に返り慌てて本を閉じ枕に頭を落としたりと、強烈な磁力を発揮したのは、やはり笠井潔の思想性である。
 それすなわち、若い頃に革命を夢見て徒党を組んで闘った「左」の若者たちが、連合赤軍あさま山荘事件に象徴される決定的誤謬と挫折を経て、自分をどう“総括”し、どう社会と折り合いをつけ、どうその後の人生を展開してきたか。80年代のバブル景気、90年代のソ連崩壊やオウム真理教事件、2000年代の9.11同時多発テロやアフガニスタン紛争、2010年代の東日本大震災や安倍政権の横暴とどう向き合ってきたか。さらには、分断と凋落の進む現在の日本をどう見ているか。――ということへの関心である。
 いまだに革マル派を名乗り、赤いビラを配っている団塊世代。
 事あるたびに国会議事堂前に足を運び、シュプレヒコールを上げる団塊世代。
 就職を機に転向し、企業戦士として働き、退職して暇をもてあます団塊世代。
 若い時マルクスにかぶれたものの、マイホームをもって自民党支持になった団塊世代。
 政治運動から足を洗い、新興宗教に入信した団塊世代。
 そして、ラディカリストを自認し、「世界国家なき世界社会」を唱える笠井潔。 
 変わってしまった者と、変わらないままの者。
 その違いはどこにあるのだろう?
 解明すべきミステリーはそこにある。

 あの頃の生き方を あなたは忘れないで
 (荒井由実『卒業写真』)

 この小説の面白さは、老境を迎えた団塊の世代の一つのスケッチになっているところにある。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 戦争という名のオセロ名人 映画:『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督)

2002年フランス、ドイツ、イギリス、ポーランド
150分
 
 ナチスドイツの行ったホロコーストの生き残りであるユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)の体験記をもとに作られた作品。
 カンヌグランプリや米国アカデミー賞の監督賞、主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)を獲っている。
 ポランスキー監督の父親もまたユダヤ系ポーランド人であり、一家はゲットーに押し込められたのち、強制収容所送りとなった。
 父親の機敏な計らいで、ポランスキー少年だけが強制収容所送りを免れたが、母親はアウシュビッツで殺された。
 つまり、本作品の主人公の半生は、ポランスキー監督自身のそれと見事に重なる。
 ポランスキーが生涯かけてどうしても撮りたかった映画であったことは間違いない。
 それだけに渾身の出来栄えとなっている。
 
 事前知識のなかったソルティは、本作を、反戦メッセージあふれる一人の芸術家の伝記映画と想像していた。反戦映画には違いないが、フィクションを織り交ぜたスピルバーグ風の感動エンターテインメントだろうと。
 が、実際にはこれはドキュメンタリー(記録映画)に近い。
 ナチスドイツ時代にポーランドに住むユダヤ人が体験した地獄の日々をありのままに追ったもので、観る者の感情をいたずらに揺り動かすような作為的な演出はほとんど見られない。

 ひとたび戦争が始まるや、日常が非日常に変わるのは、あっという間。
 それまで堅固に思えていた常識や法や倫理が崩れ、非常識や理不尽や暴力に取って代わるのは、瞬時のこと。
 戦時にあっては、法も人権も正義も権利もSDGsも市民運動もSNSによる抗議もヒューマニズムも、最早なんの役にも立たない絵空事と化し、ただただ暴力を後ろ盾にした権力が大手を振るう。
 パワハラやセクハラやジェンダー差別や環境問題や表現の自由を訴えられるような“贅沢”は許されない。
 映画の最初の方で、ナチスドイツがユダヤ人が持てる資産について制限を加えるシーンがある。一家族2000グロッシュまでと。(正確な単位は覚えてません)
 シュピルマン一家は余分の紙幣を家の中のどこに隠すかで口論する。
 このとき彼らは、二度と家に帰れなくなることも、家自体が破壊されてなくなることも、一同が集まって顔を合わす日が二度とやって来ないことも、想像していなかったのである。
 戦争は、いかなるオセロ名人よりも素早く、白を黒に引っくり返していく。
 現在、日本人の日常を支える平和と安全と権利が、どれだけ薄氷の上に築かれていることか!
 
 主演のエイドリアン・ブロディは確かに素晴らしい。
 大きな手と長い指、ユダヤ系の顔立ち、それに感受性豊かな表情が、迫害されたピアニストとしてのリアリティを生んでいる。オスカーも当然のはまり役。
 助演男優(女優?)賞を与えるべきは、やはりピアノである。
 戦火においてシュピルマンの演奏するピアノ曲は、役者より雄弁に様々なことを物語る。
 とりわけ、爆撃された廃墟に響くショパンのバラード1番が効いている。
 音楽の持つ力をありありと感じるが、比喩でなく実際に、シュピルマンの命を救ったのはピアニストとしての名声と人気と腕前であった。

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Manlio MiglioliによるPixabayからの画像 

 第2次大戦終戦から80年近く経つ。
 シュピルマンは2000年に亡くなった。
 ポランスキーは90歳になった。
 ホロコーストの証言者はどんどん減っていく。
 本作は歴史上の事実としての記録的価値があると同時に、人類がどこまで愚かに、残虐に、悪魔的になれるかを物語ってあまりない。
 ただ救いがあるとすれば、廃墟の屋根裏に隠れるシュピルマンを見逃したドイツ将校の存在と、本作の制作にドイツが関わっている点であろう。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 
 

● 本:『気づきの瞑想実践ガイド』(チャンミェ・サヤド―著)

2010年原著刊行
2018年サンガ発行(訳:影山幸雄、影山奨)

気づきの瞑想実践ガイド

 悟りに至る瞑想と言われるヴィパッサナー瞑想に関するわかりやすく丁寧なガイドブック。
 マハーシ・サヤドー著『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社1995年発行)、ウ・ジョーティカ著『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』(新潮社2006年発行)と並び賞されるべき、読みしたがうべき名著である。訳も適確で良い。
 著者のチャンミェ・サヤドーは、1928年ミャンマー生まれのテーラワーダ仏教僧。マハーシ・サヤドーから瞑想指導を受けたという。

 副題「ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集」が示すように、本書は、1998年オーストラリアのブルーマウンテン洞察瞑想センターで行われたチャンミェ長老による瞑想指導において、一般の(出家者でない)参加者を前に語られた法話である。
 これから瞑想修行を始めていこうという初心者にとっても、すでに日々瞑想実践を行っていて様々な気づきや疑問が湧き上がっている中級者にとっても、瞑想習慣が長きにわたるも様々な理由から現在壁にぶつかっている人(ソルティだ)にとっても、非常に役に立ち、励みとなる書である。
 とくに、瞑想が深まるにつれて瞑想者が発見していく智慧について、かなり具体的に順を追って述べられている点が本書の美点と思う。

 思考は心の状態であり、永続せず、常に変化しています。思考は現れては消え去ります。しかし、時々思考が長時間続いていると考えてしまうことがあるかと思います。実際には、思考はひとつではなく、連続する思考のプロセスが、次から次へと現れては消えているだけです。これは思考のプロセスであり、ひとつの思考は1秒の100万分の1も続きません。生じたら、あっというまに消え去ります。そしてひとつ思考が消え去ると、もうひとつの思考が生じて、すぐに消え去ります。
 しかし私たちは思考のプロセスを細かく分けて識別することができません。ひとつの思考がずっと続いているかのように考えます。そのため、その思考を私、私の物、人、生命とみなします。考えるのは「私」、「私は何かを考えている」と考えます。こうして人ないし自分という誤った見方が生じます。(本書より)

 上記の一節を読んで、推理小説の生みの親であるエドガ・アラン・ポーの小説を思い出した。
 まさに、史上初の推理小説であり、名探偵第1号であるオーギュスト・デュパンが初登場する『モルグ街の殺人』である。

 物語の語り手である「私」はひょんなことからデュパンと知り合い、その天才に魅了されて同居することになる。
 ある晩、二人は連れ立ってパリの街を黙って歩いていた。
 すると突然、デュパンは、「私」がそのとき心の中で考えていたことをズバリと言い当ててみせる。
 驚愕する「私」に対し、デュパンは種明かしを披露する。
 デュパンは、ある瞬間からの「私」の思考の連想過程を、「私」の目線や表情や仕草から推理し、順次追っていたのであった。

 日常における我々の思考は、連想作用によって、Aという思考からBという思考に、Bという思考からCという思考に、鎖のようにつながっていく。
 たとえば、

 道路脇にラーメン店の看板を見た ➡昨日食べた「サッポロ一番」を思い出す ➡テレビで見た「札幌の雪まつり」のニュース ➡今年は雪が少ない ➡スキーに行けないかも ➡スキーと言えばアルペン ➡“冬の女王”広瀬香美 ➡離婚した相手は誰だっけ? ➡大沢なんとか ➡離婚と言えば羽生結弦はどうして・・・・以下続く。

 ――といった具合いに思考は、半ば無意識のうちに、無責任かつほぼ自動的に進行していく。
 その流れは私の経験や知識や性格やそのときの気分や体調に影響を受けるけれど、私(=意識)のコントロール下にはない。
 思考は勝手に無意識から材料を取り出して、おのがプロセスを進んでいくだけだ。
 私の意志とは関係なく・・・。

 そのとき、隣りを歩いていた友人から聞かれる。
 「いま何考えている?」
 「いや、羽生結弦の離婚についてだよ」
 ・・・なんて、いかにも時事ネタに聡いフリなんかしてみるけれど、本人はラーメン店の看板がそもそものきっかけだったことにまったく気づいていない。
 
 自らの思考をつぶさに観察してみると、思考というものが実にいい加減で、主体性も一貫性もなく、周囲の状況に左右されやすく、様々なものに条件づけられていることが分かる。
 思考だけではない。
 気分や感情も意志も記憶もまた同様である。
 
 自らの心――気分、気持ち、感情、思考、意志、信念、記憶――は「あてにならない」。あまり信用するな。いわんや感覚においてをや。
 それが、ヴィパッサナー瞑想がソルティに教えてくれたことの一つである。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ガラ携の脱皮

 寝る前にアラームセットしようとガラ携を手にしたら、画面が真っ黒。
 「あれ? いつの間に電源切ったかな?」と思い、電源ボタンを押したが明るくならない。
 電池切れかと思い、充電して寝た。
 アラームはスマホを使った。(2台使いなのだ)

 朝、ガラ携を確認したらまだ真っ黒。
 電源ボタンを押してみても変化がない。
 あれ? どうしたんだろ?
 そのとき、誰かからのメールが着信する音がした。
 生きている!
 スマホからガラ携に電話をかけてみたら、呼び出し音が響いた。
 どうやら液晶画面の故障らしい。
 「そう言えば、昨晩、机の上に置いてあったガラ携を床に落としたっけ?」
 たいした高さからではなかったし(1mくらい)、厚手の絨毯の上に落ちたので、気に留めなかった。
 それまでも山登り時にズボンのポケットから地面に落とすようなことはたまにあったけれど、全然無事だったので、ガラ携の強度を過信していた。

 今さらであるが、画面が出てこないとなんの操作もできない。
 電話機能は使えるけれど、アドレス帳からかけたい相手の番号を検索できないし、メールも打てない、送れない。
 相手から送られてきたメールも、かかってきた電話も、どこの誰からか、わからない。
 むろん、アラーム機能も留守録も電卓も乗換検索もできない。
 携帯電話はまったくのところ画面に依存しているのだ。
 
 ネットで近隣のauショップを検索し、翌日の朝一番の予約を入れた。
 故障修理はまず無理だろうから、機器交換あるいは機種交換を想定した。
 保険に入っていたかどうかはっきり覚えていないので不安だったが、契約時の資料を探すのも面倒。
 自分の契約内容をauのホームページの会員ページから確認できるはずだが、そこに入るためには au ID とパスワードが必要。
 それが分からない。覚えていない。
 ほんとうにメンドクサイ時代だ。
 便利になったのか、不便になったのか・・・。
 ソルティは基本IT音痴なのだ。
 
IT音痴
 
 翌朝、職場に事情を話して出勤が遅れることを伝え、ショップに向かった。
 若い男のスタッフは、パソコン上でソルティの顧客情報を確認したあと、こちらの渡したガラ携をちょっと確認し、言った。
 「これはもう使えませんので交換が必要です。新しい機種に変えると数万円かかりますが、お客様は故障紛失サポートに入っておられますので、まったく同じ機種でよければ安く交換できますよ」
 良かったー!
 「それでお願いします」
 その後、KDDIの故障紛失サポート配送センターのスタッフと電話をつないでもらい、担当者から説明を受けた。
 「故障紛失サポートは年2回まで利用できます。今回が1回目となります。代金は税込みで2,750円になります。これまで使っていたものと同じ機種の新しい携帯電話とガイドブックを、本日中にクロネコヤマトでご自宅にお届けします。代金は来月の請求時に上乗せします」
 「はい、わかりました。よろしくお願いします」
 なんと、簡単なこと!
 しかも今日中に届けてくれるとは!
 ソルティは2日や3日や一週間くらい携帯がなくとも困るような生活はしていないが、「スマホ命!」の若者たちや日々仕事で携帯を駆使している人なら、一秒でも早い対応はありがたいことだろう。
 また、これまでと同じ機種というのにも安心した。
 せっかくいろいろな操作を覚え、手に馴染んだのに、別の機種だとまたイチから覚えなおさなければならない。
 昭和のオジサンはものぐさなのだ。
 そうそう、大切なことを聞くのを忘れた。
 「前の携帯のデータを新しい携帯に移せますか?」
 「それはご自身で前もってどこかに保存していなければできません」
 「・・・・・」
 
 IT音痴で昭和のオジサンでものぐさなソルティは、そんな器用な(メンドクサイ)ことはしていない。
 すなわち、前のガラ携に入っていたおよそ10年分のアドレス帳も画像もメール履歴も、ぜんぶパアになった。
 スマホのほうはネット検索やアプリ使用が主なので、アドレス帳の類いは使っていない。もちろん、紙媒体での記録もない。
 頭の中が真っ白・・・・
 
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 ――ということはなかった。
 むしろ、なんだか重荷が取れたようなスッキリ感があった。
 「なるほど、そういうことなんだな」という納得感があった。
 というのも、ガラ携の故障を知ったのが、自分の還暦の誕生日だったからである。
 「すべてをまっさらにして、ゼロからスタートしなさい」
 なにかの啓示のように思ったのである。
 
 たぶん、秋葉原あたりの店に行けば、なんらかの方法で壊れた携帯からデータを取り出して、新しい携帯に移転することができるのかもしれない。
 が、わざわざそこまでやるつもりもない。
 必要な人脈はほうっておいても再生するだろう。
 
 さきほど、古いガラ携からSIMカードを抜いて、届いたばかりの新しいガラ携に挿入し、初期設定を完了した。
 画面が復活した!
 やったー!
 おお、さっそく数日遅れのHappy birthday メールが着信した。
  B兄ィ、わたしを覚えていてくれたのネ。
 「忘れていいのよ♪」(by谷川新司&小川知子)とは申しません。

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エロイム・エッサイム 古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし
(深作欣二監督『魔界転生』より) 


※この記事を読まれたお知り合いの方、件名に名前を記して電話番号とともにソルティのauアドレス(@ezweb.jp)まで送っていただくと助かります。登録します。
 


● 北関東のある町で 映画:『暴力の街』(山本薩夫監督)

1950年大映配給
111分、白黒

 1948年に実際にあった事件をもとにした社会派映画。
 有力な町会議員と警察とヤクザ組織が結託して街を牛耳り、ヤミ取引等の不正を行い、住民がおびえて暮らす某県東篠町。
 一人の新聞記者の書いた告発記事がきっかけとなって、暴力団追放・行政刷新の住民運動が徐々に広がり、町民大会が開催され、闇が暴かれ、町が浄化されていく過程を描く。
 なにを隠そう、某県とはわが故郷埼玉県であり、東篠町とはいまの本庄市のことである。
 この事件は本庄事件としてウィキペディアにも載っている。
 ちなみに、不正と闘った新聞記者とは朝日新聞の岸薫夫記者である。

 本庄市は埼玉県の北端に位置し、利根川をはさんだ向こうは群馬県伊勢崎市である。
 古くは中山道の宿場町として栄え、織物で有名な町だったようだが、ソルティはとんと知らなかった。
 だいたいソルティのような東京寄りの県南に住んでいる者は、親戚でもいない限りわざわざ県北に行く機会も動機もない。(小学校の社会科見学で行田に古墳見学に行ったくらい)
 同じ埼玉というよりも、群馬や茨城や栃木と込みの「北関東」という別文化に属しているような感覚がある。
 つまり、暴走族、頭文字D、トラック野郎、工藤静香、深夜のコンビニやパチンコ店にたむろするジャージの若者・・・・いわゆるヤンキー文化。
 なので、今回はじめて本庄事件を知っても別段驚くことはなく、「昔から“やんちゃ”な風土だったんだな~」という印象を強めることとなった。
 いや、現在の本庄市は平和な住みよい街だと思います、きっと。

 出演陣がバラエティに富んでいる。
 主役の岸記者(北記者と名を変えている)に原保美、歌人・原阿佐緒の息子である。
 支局長に“たらこ唇”志村喬。
 町民の敵となる町一番の権力者に三島雅夫。
 そのほか池部良、宇野重吉、三條美紀、中條静夫、根上淳、船越英二、大坂志郎、殿山泰司、滝沢修、高堂国典と、実力ある個性的バイプレイヤーたちが揃っている。
 三島雅夫はどこかで見た顔と思ったら、小津安二郎『晩春』で、再婚して若い嫁をもらったばかりに紀子役の原節子に、「おじさま、不潔よ!」と敵視されてしまうチョビ髭の親爺である。本作では、ほんものの敵役、ふてぶてしい憎まれ役に徹している。

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左より、船越英二、原保美、池部良、志村喬

 人権と民主主義を謳う日本国憲法が公布されたとはいえ、旧態依然とした封建的風土の根強く残る時代、ましてや戦後の混乱期である。
 こうした腐敗は、本庄のみならず、日本のあちこちの街で起きていたのだろう。
 保守系町会議員とヤミ取引を行う織物業者と警察署長と検事と報道機関が、座敷に芸者を呼んでの飲めや歌えやの乱痴気騒ぎ。
 こういう光景は、まさに昭和ならでは。
 ネット社会の現在では一発アウトだろう。

 映画では触れられていないが、本庄事件における朝日新聞の告発キャンペーンをGHQ(埼玉県軍政部)がバックアップしていたらしい。
 朝日以外の報道機関は、街の有力者の背後に保守系の国会議員が潜んでいたので、口をつぐんでいた。
 もちろん、1948年の日本はまだGHQ占領下にあった。
 GHQという“錦の御旗?”がついていたからこそ、朝日新聞はくじけずにキャンペーンを完遂でき、この町民運動は成功したんだろうか?
 としたら、ずいぶん皮肉な話である。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 仏教セミナー: 佐々木閑氏講演『これからの時代のためのブッダの教え』

日時 2023年11月18日(土)
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル内)
主催 日本仏教鑚仰会

 8年前中野サンプラザで聴けなかった佐々木氏の話。
 ようやく目の前で聴くことができた。
 『科学するブッダ 犀の角たち』、『仏教は宇宙をどう見たか』など、氏の本には啓発されるところ大である。

 会場の新国際ビルには初めて来たが、有楽町のこのあたりの変わりように驚いた。
 ソルティの記憶の中では灰色のビルディングの並ぶ殺風景なイメージしかなかったのだが、街路樹の続くレンガ敷きの路上にテーブルが置かれ、休日を思い思いに楽しむ人々が往来する様子は、まるでカルチェラタンのよう。カルチェラタン行ったことないのだが。
 あっ、岸恵子!(ウソ)

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左の建物が会場となった新国際ビル

 冒頭一番、佐々木氏は「これからの時代」を「今日よりも明日が悪くなる時代」と断言した。
 改めて言われるまでもなく、多くの日本人が感じていることだろう。
 少子高齢化、慢性化した不景気、広がるばかりの所得格差、国際競争力の低下、値上げラッシュ、地方の衰退、軍備増強、無縁社会に孤立する人々・・・。
 外を見れば、ウクライナ×ロシア戦争、イスラエル×ハマス戦争、気候変動による災害、ナショナリズムの興隆、分断する国際社会・・・。
 戦後日本人が享受してきた「豊かさと安全」が崩れようとしている。

 一方、世界的な潮流として価値観の大きな変容が見られる。
 「より多くの物を手に入れることが幸福」という資本主義イデオロギーの不毛に気づき、商業主義の洗脳から目覚めた人々は、新たな価値観のもと、これまでの生き方を変えようとしている。
 そんな時代にますます重要度を増すのが仏教である、と佐々木氏は説く。

 世間における幸福とは「欲求の充足、夢の実現」。これは私たちが生物として持っている本能的思考。「虹の向こうの夢を追い求める気持ち」が人類を発展させ、そして多くの人を苦しめてきた。(当日講師配布資料より抜粋、以下同)
 
 「欲」を三毒――三つの悪しきもの、残り二つは「怒り」と「無知」――の一つとし、すべてを捨て去っての出家をすすめたブッダの教えが、資本主義と相反するものであるのは間違いない。
 大乗仏教宗派や仏教まがいの新興宗教の中には、この根本が崩れて、お布施という名の集金活動に熱心なところも見受けられるが、本来の仏教は「欲望の充足でなく、欲望を持たない状態を目指す」。
 そして、人の抱く究極の欲望が「永遠の命」である。
 仏教が、キリスト教やユダヤ教やイスラム教と決定的に異なるところは、後者3つが来世信仰すなわち「天国で永遠の幸福のうちに生き続ける私」という、自我(あるいは魂)の存続を最高到達点とするのにくらべ、仏教は(少なくとも原始仏教は)「この世であろうと、あの世であろうと、生き続けることは苦しみであるから、二度とどこにも生まれ変わらないようにしよう」という涅槃寂静をゴールとする。
 また、神や教会などの外部に救いを求めず、あくまで修行によって「自分の力で自分を変える」。
 仏教がいかに既存のほかの宗教と異なることか!
 もっとも、佐々木氏は言う。

 欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もない。
 どちらの人生を選ぶかは、人それぞれの状況が選択の基準になる。
 ただし、欲求を追い求める人生には、「快楽」と「苦」とがつきまとう。

 佐々木氏の講義(=説教)は、基本的にテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説くところと同じ。つまり、原始仏教そのもの。
 阿弥陀様の本願とか、弥勒菩薩の救済とか、称名念仏による極楽往生とかを信じる人々にとっては、梯子をはずされて谷底に突き落とされるようなショッキングな内容である。
 以前、日蓮宗のお寺がスマナ長老を迎えて法話を開催したことがあったが、そのときの会場の凍り付いた空気をソルティはよく覚えている。
 本来の仏教は、身も蓋もないほど、人々の抱く生ぬるい幻想をひっぱがす鋭利な刃物なのである。
 ただ、大学教員である佐々木氏の語りは流暢でユーモアがあり、表情や仕草も多彩で、穏やかな雰囲気を発していた。
 時折、鋭い眼光を放つ瞬間もあり、世間向けの仏教伝道者としての顔と、深い学識と思想を湛えた研究者としての顔と、使い分けているのだろうと察しられた。
  
 休憩時、70歳以上が9割がた占める会場を見やりながら、ふと思った。
 こういった話を佐々木氏の教え子である(サトリ世代と言われる)令和の若者たちは、どんなふうに聴くのだろう?
 経済成長と所有資産の拡大こそが幸福と疑わない多くの昭和世代とは、また違った受け取り方をするのだろうか?
 日本におけるテーラワーダ仏教の今後はどうなっていくのだろう?
 
 休憩後、スマホを確認していた佐々木氏から、池田大作の死を教えられた。

(仏教は)社会を変えることで人を救うのではなく、人を救えない社会で苦しむ人たちを受け入れる受け皿、その目的は、社会の片隅で永く存続すること。


※本記事は実際の講義内容のソルティ流解釈に過ぎません。あしからず。



● 言いっこなしよ! 本:『三つの棺』(ディクスン・カー著)

1935年原著刊行
2015年早川書房(訳・加賀山卓朗)

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 これぞ本格推理小説の王道、これぞミステリー黄金時代の精髄。
 寝不足覚悟で深夜まで早川ミステリー文庫や創元推理文庫に没頭した高校時代に戻ったような気にさせられた。
 不可能犯罪(密室)、容疑者の群れ、名探偵と相棒の軽妙なやりとり、隠された過去、恋や冒険のロマンス、神秘的ムード、推理小説談義、張り巡らされた伏線、鮮やかな推理・・・。
 ソルティが推理小説に求めるすべてが揃っている。
 これぞ現役最高の推理作家アンソニー・ホロヴィッツにつながる英米ミステリーの伝統である。

 『火刑法廷』はラスト5ページのオカルト結着にいたく落胆したが、本作は日常の物理法則に則った合理的解決が示されており、ソルティの中で「ディクスン君、名誉回復」といった思いがした。(●●を使ったトリックは両作ともに共通している)
 本作は英国を遠く離れたトランシルヴァニアに事件の発端がある(それがタイトルの由来)。
 トランシルヴァニアと言えば吸血鬼ドラキュラの本拠地、オカルチックな雰囲気に不足はない。
 過去のおぞましい犯罪が時空を超えて現在英国につながるという趣向は、シャーロック・ホームズのデビュー作『緋色の研究』(byコナン・ドイル)を想起させた。

 英米ミステリーの面白さの一つは、国際色豊かなところにある。
 英国の場合は、広大な植民地を有し“日の沈まない国”と言われた大英帝国時代の名残があるし、もともと移民国家である米国は人種のるつぼである。
 残念ながら、日本のミステリーに求めようないのがこの国際色。
 三谷幸喜が脚色した和製『オリエント急行殺人事件』はよく出来ていたが、この壁だけはどうにも乗り越えようがなかった。
 
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AlexaによるPixabayからの画像 

 読後しばらくして冷静に考えてみると、「いったい真犯人は何を無駄なことやっているんだろう?」という気がしないでもない。
 上手くいくかどうか分からない大がかりなトリックをぶっつけ本番でやるよりも、単純に人のいない街角で相手を刺殺し、アリバイ証明を共犯者に頼むほうがよっぽど確実安全だったろうに・・・。
 それは言いっこなしか。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 「ウミウシ映画」殿堂入り :『MEN 同じ顔の男たち』(アレックス・ガーランド監督)

2022年イギリス
100分

 観ているうちに「一体、なにこれ?」と頭の中が疑問符だらけになり、予想のしようもない明後日方向のシュールな展開にあぜんとし、見終えた後もなんと人に説明していいか分からない類いの、ジャンル分けを拒む映画――それがウミウシ映画である。

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Kevin Mc LoughlinによるPixabayからの画像

 本作も、英国の瀟洒なカントリーハウスと美しい森を舞台にした、オーガニックでナチュラルでヒーリング系な映像(と音楽)から始まるので、スローフードやSDGS志向の女性観客をターゲットにした、傷ついた女性の心の回復物語と思っていた。
 たしかに、主人公の女性(ジェシー・バックリー)は恋人に別れ話を切り出し、言い争いの末に男は女を殴り、女は男に最後通牒を突きつけ、絶望と怒りから男は女の目の前で飛び降り自殺し、女は自らを責め苛むことになった。
 孤独と静寂と美しい自然とが、彼女の心を癒し、新しい出会い&人生が始まるのだろう。

 と思いきや、チン×ンぶらぶらの裸の男の出現を機に、物語はサスペンスホラーへと突入する。
 人里離れた森の邸にたった一人で住む若い女性を、男たちは放っておかない。
 どこかオタクっぽい家主の男、ストーカーまがいの裸の男、精神不安定な若者、下心みえみえの神父、男尊女卑丸出しの警官。
 おかしなことに、彼らはみな同じ顔をしている。
 そのあたりからストーリーは現実を離れ、悪夢かSFか、さもなくば主人公の妄想?――のオカルトファンタジー領域に入っていく。
 深夜の邸に一人、家を取り囲む男たちの気配に怯え、包丁を握りしめる主人公。
 やはり最後はスプラッタホラーになるのか?

 と思いきや、裸の男がギリシア神話のサテュロスのような恰好をして現れたとたん、物語は完全に「ウミウシ」領域に飛躍する。
 一体、なにこれ?
 予想すらしなかった展開にあぜんとしつつ、本来なら神聖であるべき営みのグロテスク映像に観る者の思考は麻痺させられる。

 すべては主人公のトラウマが生んだ妄想なのか?
 それともMEN(男たち)は実在したのか?
 この映画をどう解釈したらよいのか?

 ・・・・ウミウシとしか言いようがない。
 
 あえて言うなら、ソルティはジェンダーバイアス・ホラーとでも言いたい気がした。
 女にとって、理解できないMEN(男たち)の行動は十分ホラーになり得るという。
 
 一人五役でMEN(男たち)を演じ分けるロリー・キニアという役者が凄い!
 途中まで、それぞれ別の役者が演じているのかと思っていた。
 英国舞台出身俳優の実力をまざまざと知る。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『「ひかりごけ」事件 難破船長食人犯罪の真相』(合田一道著)

2005年新風舎

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 ひかりごけ事件?
 聞いたことない。
 そもそもヒカリゴケって?

 ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物である。その名が示すように、洞窟のような暗所においては、わずかな光をよく反射するため金緑色(エメラルド色)に光るように見える(発光生物ではない)。
 (ウィキペディア『ヒカリゴケ』より抜粋)

ヒカリゴケ
ヒカリゴケ(『四季の山野草』より) 

 『ひかりごけ』は、昭和作家の武田泰淳(1912-1976)が昭和29年(1954)に発表した小説である。
 “実際の事件”を題材に創作されたこの作品は、世間の話題を集めロングセラーとなり、文学作品としても高く評価され、武田の代表作の一つとなった。
 劇団四季はじめ数度の舞台化、オペラ化、熊井啓監督×三國連太郎主演で映画化(1992)もされている。
 知らなかった。

 “実際の事件”とは、副題にあるように、難破船の船長が乗組員である18歳の少年の屍肉を食って生き延びたというものである。
 昭和19年(1944)1月、すなわち敗戦間際のことであった。

1943年、陸軍所属の徴用船が厳冬の北海道・知床岬で難破。生き残った船長と乗組員の少年の二人は、氷雪に閉ざされた飢餓地獄を体験するが、やがて少年は力尽きて餓死、極限状況のなか、船長はついに少年の屍を解体して「食人」する。遭難から二か月、一人生還した船長は、「奇跡の神兵」として歓呼されるが、事件が発覚すると、世界で初めて「食人」の罪で投獄された――。(本書裏表紙の紹介文より)

 この事件に衝撃を受けた武田泰淳は、北海道に取材し作品化したのであるが、もともとの事件にヒカリゴケは出てこない。
 船長と少年が猛吹雪のなか命からがら避難したのは――すなわち事件の現場となったのは、知床半島の突端に近いペキンノ鼻の浜辺に立つ番屋(夏場にウニや昆布を獲るため漁師が泊まり込む小屋)であった。
 武田は事件現場を番屋から洞窟の中へと置き換えた。そこに繁茂していたのがヒカリゴケであった。
 武田はヒカリゴケに象徴的な意味合いを与え、作品タイトルにした。
 この小説が有名になってしまったゆえ、「ひかりごけ」事件という名で語られるようになったのである。
 
ひかりごけ(新潮文庫)
 武田泰淳作『ひかりごけ』(新潮文庫)

 武田の作品は、もともとの事件を題材にはしているが、あくまでフィクションであって、事実からかけ離れている。
 ソルティ未読だが、本書によれば一番異なるのは、「船長が少年を殺して肉を食った」、つまり「食うために少年を殺した」という筋立てになっているところ。
 この改変により、一番被害を受けたのはほかならぬ元船長だった。
 『ひかりごけ』を読んだ人、舞台を観た人の多くは、それをそのまま事実として受け取った。
 結果、元船長は、「食人」の罪に加え、殺人者の烙印まで負わされるはめになった。 
 いくら文学のためとはいえ、非道なことをしたものである。
 服役し罪を償った一人の男のその後の人生を狂わせてしまったのだから。
 執筆にあたって武田は、元船長に話を聞くどころか、会ってもいないという。
 モデル代くらいは印税から支払って然るべきだ。

 本書は、ジャーナリストで北海道新聞編集委員(本著刊行当時)をつとめる合田が、元船長との15年の交流を通してやっとのこと聞き出した事件の真相や、丹念な取材調査によってあぶり出した周辺事情をまとめている。
 第一部『裂けた岬』(ペキンノの語源はアイヌ語の「裂けた岬」)では、元船長の独白という形で事件の全容が語られる。
 持ち船と共に軍の徴用を受けての出航、北千島(いわゆる北方領土)への輸送の仕事、知床沖での遭難から番屋への決死の避難、飢餓地獄と少年の死、食人に至る経緯、自力での脱出からの救出劇、「奇跡の神兵」の栄誉から食人鬼への転落、逮捕と裁判、獄中生活、世間から身を隠すようなその後の暮らし、消えることない罪障感・・・。
 実際の体験者でなければ出てこないような言葉、想像では及ばない心身の感覚や意識の様相、余人には決してうかがい知れない心の闇など、リアルなモノローグに引き込まれる。
 第二部は、小説『ひかりごけ』誕生の経緯とその影響、一億玉砕の敗戦間際に起きた本事件をめぐる捜査・裁判・報道の歪みの実態、元船長のその後の人生などが描かれる。
 事件当時29歳だった元船長は、網走刑務所での約1年間の服役後、残り47年間の人生を重い十字架を背負って生き続け、昭和64年(1989)、昭和の終わりと共に亡くなった。


モレイウシ湾の少し上の海に突き出たところがペキンノ鼻(by google map)


 もちろんソルティは元船長に同情的である。
 番屋から一番近い民家までは何十キロも離れていて、外は体感気温マイナス30度の氷の壁。
 凍死するか、餓死するか。
 番屋にもとからあった少ない食べ物を食い尽くしたあとに訪れた飢餓地獄は、たった3日の断食修行で音を上げたソルティには、想像のしようもない。
 大岡昇平『野火』に出てくる日本兵のように、生きている人を殺してその肉を食らうのは問題外だが、死んだ人間の肉を食ってなぜ悪い?
 魂の抜けた死体は物体に過ぎない。
 今の裁定なら間違いなく「緊急避難」にあたり、無罪となるのは確実である。

緊急避難
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。(刑法37条1項)

 そればかりでなく、厳寒の僻地に孤立し助けも呼べない絶望状態に追いやられたうえ、飢餓に陥った元船長は「心神喪失」あるいは「心神耗弱」にあった。
 となれば、責任能力が如何され、不起訴あるいは減刑されるのが道理である。
 そもそも日本の法律には昔も今も「食人罪」の規定がない。
 元船長の犯した行為は、せいぜい「死体遺棄」または「死体損壊」でしか問われない。

 本書第二部で合田が明らかにしているが、昭和19年当時も刑法には「緊急避難」の規定はあった。精神障害者の犯した犯行についての不起訴あるいは減刑規定もあった。
 釧路区裁判所の判決文には、「氷雪に閉ざされた僻地で食糧も食べ尽くし、飢餓に迫られ、生命の危難を避けようとして犯したことは明らか」とある。つまり、十分「緊急避難」が成り立つ。
 なのに、元船長に下った判決は懲役1年、執行猶予なしだった。
 その事情を合田は、次のように推断している。

 船長が釧路区裁の一審で有罪にならねばならなかったのは、すでに述べた通り、軍部が人骨箱の発見により事件が白日の下に晒されたのに驚き、「なかったことにする」としたいわば無罪判決を自ら破棄して、「天皇の軍隊に隷属する軍属ゆえに、人食いが無罪であってはならない」と方針を急転させたことによる。

 そもそも最初に元船長が救出された時点で、軍部は何があったか察知していた。
 というのも、太平洋の島々で『野火』のようなことが頻繁に起きているのを軍部は当然知っていたのである。
 たとえば、ニューギニア第18軍司令官、安達二十三(はたぞう)中将は、次のような「緊急処断令」を出していたという。

「刑法には規定されていないが、なにびとといえども、人肉をそれと知りながら食したる者は、最も人道に反した者として死刑に処す。(但し敵の人肉はその限りにあらず)」 

 最後まで国民に実際の戦況を隠していた軍部が、前線の日本兵士のこのような惨状を内地に漏らすわけがない。「天皇の軍隊」が仲間の肉を食うなんてもってのほかだ。
 だから、事を荒立てないよう、元船長に対する追求はあえてしなかった。
 ところが、番屋の持ち主である地元の漁師が、雪解けとともに小屋を見に行ったところ、人骨が詰まっている木箱や小屋内に多量の血痕を発見し、びっくり仰天、警察に知らせた。 
 事件は表沙汰になり、元船長は逮捕された。
 法廷に引き出された元船長は、食人の事実をあっさり認めてしまった。
 困ったのは軍部である。
 本来なら「緊急避難」が適用され無罪になるところだが、「天皇の軍隊」という美名を守るため、有罪にせざるを得なかった。
 軍部が司法に介入したのである。
 
 戦前・戦中の軍部の力は圧倒的だったから、このくらいの干渉は朝飯前であったろう。
 と同時に、ここで「緊急避難」を認めてしまうと、太平洋の島々で今まさに起きている日本兵による食人も許さざるを得なくなる。
 軍部としては、さすがにそれはできなかったのではないか。
 結果的に、戦地において食人した日本兵はお咎を受けなかった一方、銃後の日本において食人した元船長が罪に問われる、というアンバランスが生じた。 

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 SvenKirschによるPixabayからの画像

 ソルティは、元船長の食人行為は、命をつなぐため仕方なかったと思うし、無罪であって然るべきと思う。
 懲役1年は不当である。
 ところが、なんとも傷ましいことに、当の本人は懲役1年を「軽すぎる」と不服とし、「死刑になってもあたりまえ」と思っていたのである。
 法律には罰則既定のない「食人」という行為を、元船長はそれこそ殺人以上に許せないものと感じ、生涯自らを責め続けた。
 アルコールに溺れ、2度の自殺未遂を起こしてもいる。
 15年間の付き合いでもっとも信頼を得たであろう合田が、いくら言を尽くして(仏教譚まで持ち出して)説得しようとも、本人は自らを決して許さなかった。
 ここに、「食人」という行為の、法律の範疇にはおさまらない原罪性がある。
 人類の根源的なタブーといってもいい。
 戦後になって武田泰淳の『ひかりごけ』によってはじめて事件を知った世間が衝撃を受け、話題沸騰したのも、それゆえである。
 いつだって、人殺しよりも人食いのほうがスキャンダラスだ。
(元船長が自らを許せなかったのは、「食人」という“罪”だけではなく、おそらく、「自分一人生き残ってしまったこと」の悔恨や、乗組員を守るべき立場にありながらそれができなかったことの罪責感が大きいと思う。)

 日本には、穢れを忌む文化や風習が古くからある。
 死は穢れの最たるものである。
 屍肉を喰らうなど、生涯消えない穢れを身にまとったようなものであろう。
 また、日本人には遺体や遺骨に対する強い愛着がある。
 日航機123便墜落事故の際の日本人遺族と外国人遺族の違いに見るように、あるいは戦後何十年経っても外地で戦死した遺族の遺骨を探そうとする人々がいることから分かるように、日本人の遺体観・遺骨観には独特なものがあるようだ。
 それは日本人の宗教観につながる。

 アンデスの聖餐? ああ、アンデス山中に墜落した飛行機の搭乗者が、死んだ人の肉を食べて生きたという話だね。ローマ法王が神の名において許したって話? ありゃ外国のことでしょう? わしのやったこととは一緒にならないよ。
 なぜ一緒にならないかっていうのかい? 日本人だからさ。日本には日本の道徳思想ってもんがあるんだよ。許されていいもんと、どうしても許されないもんがあるんだよ。あんなことやって許すだなんて、外国人とは違うんだよ。(第一部『裂けた岬』より元船長の語り)

 自分だったらどうするだろう?
 元船長と同じような状況に置かれたら、十中八九、ソルティも食人すると思う。
 相手を殺してまでとはさすがに思わないけれど、実際のところ分からない。
 逆に、もし自分が相手より弱ってしまい、先に死ぬことが明らかな場合、「俺が死んだら、この肉を食って生き延びてくれ。決して、あとになって自分を責めるな。俺の分まで生きることをもって供養としてくれ」と言えたらカッコよいけれど、「お前なんか死んでも食いたくねえよ」と言われたら、落胆死するかも・・・。
 まあ、そんな状況に置かれないことを祈りつつ、今日の食卓に感謝しよう。



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