ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● ブッキーの無駄遣い 映画:『黒衣の刺客』(ホウ・シャオシェン監督)

2015年中国、台湾、香港
106分
中国語

 『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989)のホウ・シャオシェン(侯孝賢)はソルティの最も好きな映画監督の一人であるが、ここ30年とんと追っていなかった。個人的には『悲情城市』で頂点を極めたという印象がある。
 撮影本数も2000年に入ってからグッと減って、この『黒衣の刺客』は8年ぶりの新作という。(その後は今のところない)
 
 映画史に残る名監督の8年ぶりの新作で、カンフー系のアクション時代劇という触れ込みで、第68回カンヌ国際映画祭の監督賞を獲り、日本からはブッキーこと妻夫木聡が出演しているというのに、話題になったという記憶がない。
 なんでだろう??と思いながら観たのだが、答えは簡単。
「つまらなかった」

 8世紀の群雄割拠の中国が舞台というだけでも歴史をよく知らない者には背景がわかりにくいのに、登場人物の関係性がややこしく、同じような民族衣装をまとった役者の顔も見分けがつかず、筋書きもつかみづらく、登場人物が何を考えどう感じているのか捉えにくい。脚本(監督自身による)が不親切なのだ。
 そこにホウ監督ならではの緩慢で濃密な時の流れを映したカットが続くので、何度か寝落ちするところであった。

 最後まで見続けられたのは、やはり映像の素晴らしさに尽きる。
 中国王宮ドラマの色彩の美しさはもとより、風、火、水、木、煙、光といった自然の揺らぎを敏感に捉えて映し出す手腕は、監督デビューの頃から変わらずに健在であった。
 映画を観る至福が一方にあり、ドラマに入り込めない苛立ちが一方にある。

 独自のスタイルを持つ監督が自他ともに認める巨匠となり、周囲の人間が誰も忠言できなくなる、監督も周囲の助言に耳を傾けなくなると、えてしてこういった独りよがりに陥りがちである。
 このつまらなさは世のカンフー系アクション映画に対する冒瀆であろう。
 芸術映画というならまだ許せる気もするが・・・。


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どういう役柄かいっこうにわからない中国人?の妻夫木聡
(とりえず大監督の作品に出演できて良かったね)



おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● バトルの悪魔的魅力 オペラDVD:モーツァルトの『魔笛』

指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:グース・モスタート(オリジナル演出:ジョン・コックス)
ステージデザイン:デイヴィッド・ホックニー
キャスト
 パミーナ : キャスリーン・バトル
 夜の女王 : ルチアーナ・セッラ
 タミーノ : フランシスコ・アライサ
 パパゲーノ : マンフレート・ヘム
 ザラストロ : クルト・モル
1991年2月メトロポリタン歌劇場におけるライブ収録
180分

 モーツァルトのオペラは劇場で聴くならともかく、家でDVDやCDで鑑賞していると退屈してしまうことが多い。
 とくに『魔笛』は、彼の作品中もっとも有名なものの一つで夜の女王のアリアやパミーナとパパゲーノによる「男と女の愛の二重唱」など、聴きごたえのある素晴らしい歌もあるのだけれど、積極的に視聴したい気分にはなれない作品である。
 作られた時代的に仕方ないと分かってはいるものの、男尊女卑、人種差別な内容には毎度辟易させられるし、フリーメイソンを賛美していると言われる筋書きも上から目線の教条的な感じで、面白みに欠ける。
 ドラマツルギーにおいても、近現代の起伏に富みスピーディな、視聴者を飽きさせないドラマにくらべると、のったりと緩慢でまどろこしく、「ここはカットしてよ!」と思わず言いたくなる場面が多い。 
 と言うと、「オペラは演劇ではない、音楽だ!」という声が聞こえてきそうだが・・・。

 このDVDを借りようと思ったのは、キャスリーン・バトルがパミーナを歌っているからである。
 性格に難があり毀誉褒貶さまざまなプリマドンナなれど、やっぱりソルティはバトルの歌声には魅かれる。
 そもそもソルティのオペラ開眼、クラシック道参入の端緒となったのは、86年にバトルが出演したニッカ・ウヰスキーのテレビCMであった。下世話に言えば、「筆おろしの相手」みたいなもんである。
 あれから35年、いろいろな歌手を知り、多くのオペラやリサイタルを聴き、CDやDVDを集めてきたけれど、今でも普段もっとも頻繁に棚から取り出してプレイヤーにかけるのはバトルのCDである。
 ヘンデルアリア集、モーツァルトアリア集、同じソプラノ歌手ジェシー・ノーマンとの共演ライブ、この『魔笛』でも共演している指揮者ジェイムズ・レヴァインのピアノ伴奏によるザルツブルグ・リサイタルなど、どれもすこぶる魅力的である。

 よく聴く理由の一つは、バトルの歌が「~ながら作業」に向いているというところにある。パソコンに向かって事務作業やブログ記事作成、部屋の片づけをする、寝転んで本や漫画を読む、そんなときのBGMにちょうどいいのである。その意味ではエンヤといい勝負。
 これがマリア・カラスでは絶対ダメである。カラスの歌声ほど「~ながら」に向かないものはあるまい。どうしても肝心の作業の手を止めてカラスの作るドラマチックな世界に入り込んでしまう、あるいは、作業に集中しようとすれば決して美しくはないその歌声が邪魔になる。
 バトルの歌声は作業の邪魔にならない。作業効率を高める。
 むろん、単なるBGM以上でもある。
 なんといっても耳に心地いいのだ。
 白大理石のようにつややかで、千歳飴のように甘く、森の中の小川のように清冽で、野辺の花のようにやさしく儚げで、小鳥のように軽やかで愛らしい。
 この『魔笛』ライブの3年後にバトルはあまりに度を越した我儘ゆえメトロポリタンを首になった。
 歌い手の歌声と性格のギャップをこの人ほどあからさまに見せてくれる人はおるまい。

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ソルティが所有するバトルのCD


 期待通り、素晴らしいパミーナである。
 パパゲーノとの重唱や第2幕の悲嘆のアリアはまさに絶品で、天上的でたおやかな歌声には陶然とさせられる。
 歌声ばかりでなく、容姿もスタイルも表情も立ち居振る舞いもすこぶる魅力的で、裏事情を知らなければ“まるで女神のような女性”と勘違いしてしまうこと請け合い。天使に扮する3人の少年たちとの共演シーンなど、「私は子供好きで子供にも愛される優しいお姉さんなのよ」的なオーラを醸し出している。
 しかし、裏事情を知っている者からすると、共演者がどれだけバトルに気を遣っているか、その激しい気性にビクビクしているか、勝手な振る舞いや要求にうんざりしているか、重唱ではバトルの小さな声をかき消さないように自らの声を仕方なくセーブしているか、といったあたりを見つけ出そうとしてしまう。それもまた一興である。

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子供の表情がこわばっているように見えるのは気のせいか?
 
 バトルのみならず、超絶技巧を見せる夜の女王のルチアーナ・セッラ、ライオン・キングの如き貫禄たっぷりのザラストロのクルト・モル、剽軽で単純なパパゲーノを演じるマンフレート・ヘムも素晴らしい歌を披露している。
 ステージデザインをアメリカ在住の有名なアーティストであるデイヴィッド・ホックニーが手掛けている。ポップでメルヘンチックで美しい舞台美術も見物。
 
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夜の女王に扮するルチアーナ・セッラ
『銀河鉄道999』のプロメテウス(メーテルのお母さん)のよう


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ザラストロ役のクルト・モル
体のでかい人は黙っていても存在感があって得だな
しかし手がデカい


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デイヴィッド・ホックニーによるデザイン



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 蒲田調 映画:『隣の八重ちゃん』(島津保次郎監督)

1934年松竹
77分

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 俗に蒲田調と言われる小市民の日常を切り取ったドラマ。
 島津保次郎(1897-1945)作品を観るのはこれがはじめて。
 二十歳の原節子主演で『嫁ぐ日まで』を撮っている。
 フィルムが残っているならぜひ観たいものだ。
 本作のクレジットでは助監督として豊田四郎と吉村公三郎、撮影の一員として木下惠介の名が上がっている。後進を育てる名人だったのだろう。
 
 出てくる俳優で見知っていたのは、『一人息子』など小津安二郎作品の常連であった飯田蝶子くらい。
 八重役の逢初夢子、岡田嘉子、高杉早苗も名前だけは聞いたことのある伝説の女優といったイメージ。とくに岡田は共演男優との駆け落ちや妻のいる共産主義者とのソ連逃避行など、スキャンダルで名を売った。
 八重の幼馴染で思われ人の恵太郎を演じる大日向伝(おおひなたでん)は、阿部寛のような正統派美男子。のちにブラジルに渡って牧場経営し巨万の富を築いたというから面白い。
 当時の役者の奔放さ。 
 
 昭和初期の東京近郊の住宅地の風景がなんともゆかしい。
 午後から銀座に映画を見に行ったり、近くに大きな土手があるところからして、隅田川か荒川近辺なのではないかと思うのだが・・・。

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 大学をさぼって早帰りした恵太郎が自宅の鍵が閉まっているのを見て、隣の八重の家に勝手知ったる我が家のごとく上がり込み、昼食をよばれるシーンがある。
 父親の仕事の関係で大陸行きが決まった八重の家の引っ越しを、恵太郎一家が総出で手伝い、みんなで見送るシーンがある。 
 昭和40年代くらいまでの日本は、東京近郊でもこんなふうだったなあ。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー著)

2016年原著刊行
2019年フィルムアート社

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 著者は1960年イギリス生まれのアーティスト。
 トランスヴェスタイト(異性装愛好者、※普通訳語として使われる「服装倒錯者」という言葉は好ましくない)である。日本で言えば、森村泰昌のような存在か。ゲイではない。
 幼少の頃から伝統的なマスキュリニティ(男性性、男らしさ)を押し付けられることに違和感を覚え苦闘していた彼による「脱・男らしさ」のすすめである。
 多くのゲイが社会に巣くうマッチョイズムによって抑圧され差別され自己否定に陥ってきた(いる)のは昨今知られてきたし、理解や支援も進んできたと思うが、実のところ、ヘテロの男自身もマッチョイズムによって苦しめられて馬鹿を見ている。
 そのことを縷々説いている本である。

 男性のことを、深みがなくて、短気で、柔軟性がなく、変化しない存在として片付けるのをやめよう。何しろ彼らは女性と同じ脳をもっているのだ。問題は、現在の男性の性役割に締め付けが強いことだと思う。男性は常に、無意識に監視してしまうのである。健全に変化を起こすには、差異を許容することが重要だ。男性は、他の男性に対しても自分に対しても、男らしさの基準に達していないという理由で責めるのをやめるべきだ。・・・(略)・・・新しい柔軟な男性は、新たなジェンダーの性役割に適応するだけでなく、さまざまな文化、階級、民族、宗教でも適応できなければならない。

プール


 ときに、ソルティは週3回ほど家の近くのスポーツクラブのプールに通っている。
 曜日と時間によっては、水中運動(アクアエクササイズ)のレッスンと重なることがあり、自分が水中ウォーキングしたり泳いだりしている隣のコースで、数十人の受講者がプールサイドに立つコーチの指導を受けながら、軽快な音楽に合わせて水しぶきを跳ね上げているのを見かける。
 場所柄、通勤帰りよりも地域の人が多いので、60代以上のおばさまで占められている。
 男は一割満たない。

 数ヶ月通っているうちに、数種類のエクササイズプログラムがあって、3人のコーチがいることがわかった。わかりやすくニックネームをつける。
 ① 静香ちゃん・・・20代後半とおぼしき美人で内気な感じの女性。
 ② 睦男くん ・・・30代くらいの無愛想で傲慢な感じのするマッチョな男性。
 ③ 陽子さん ・・・40~50代に見える溌剌としてスタイルのいい女性。

 一番人気は③の陽子さんで、彼女の元気な掛け声や躍動感ある動き、レッスン終了後の受講者とのコミュニケーションを見れば、人気の高さももっともと頷ける。受講者との年齢が近いことも大きいのかもしれない。
 次の人気は①の静香ちゃん。男性参加者の割合が一番高いのはわかりやすい。丁寧な指導でやさしい声掛けも魅力的だが、海千山千のおばさま受講者との会話がどうも苦手のようである。
 ②の睦男くんは「なぜこの人がコーチの仕事を?」と傍で見ていて思うほど、毎回面白くなさそうな表情で指導している。岡田准一ばりのイケメンで水泳で鍛えた均整の取れたガタイも見事、普通ならおばさま人気一番と思えそうなのに、水中にいる受講生のソーシャルディスタンス度は高い。つまり人気がない。男の受講者は皆無である。

 コーチ自身が楽しんでいるか、自らの仕事を愛しているかがポイントである。
 体を動かすこと、人に教えること、人と交流することを楽しんでいるコーチの放つオーラは、水中にいる受講者に容易に伝わり、受講者の表情や動きに素直に現れる。レッスン効果もきっと高いことだろう。
 
 数週間前、新たなコーチが加わった。
 「この人、初顔だな。誰か休んだコーチの代わりかな?」と思っていたが、どうやら臨時ではなく、理由は分からないが睦男くんが辞め、その“後釜”らしい。
 後釜氏は40代くらいのテディベア系の男で、ぷよぷよしたお腹まわりといい、後頭部の照りといい、まったくアスリートっぽくない。睦男くんとは正反対のタイプである。体の切れも動きもスポーツというより盆踊りのようなユルさ。
 しかし、後釜氏の人気はうなぎのぼりで、あっという間に静香ちゃんも陽子さんも抜いて、参加者多数の人気プログラムになってしまった。

 後釜氏は口が悪い。レッスンの合間に、悪口すれすれのジョークをお客様である受講者に投げかける。「はい、短い脚を精いっぱい伸ばして!」とか平気で言う。
 プールサイドに椅子を用意していて、自分が疲れてくると「ちょっと一休み」とか言って腰掛けて、そのまま口頭指導している。
 なのに、おばさまたちはジョークに笑い、コーチのいい加減な態度に怒ることなく、楽しそうに指導に従っている。マドンナやレディ・ガガといったノリのいいBGMに遅れることなく水中での激しい動きを次々とこなし、まるでシンクロナイズド・スイミングの選手たちのよう。60代超え(中には80代もいる)とはとうてい思えない。
 楽しんでいることが表情からも動きからも笑い声からも伝わってきて、彼女らが放つキラキラしたオーラはプールサイドを明るくする。
 
 この奇跡の秘密はなんのことはない。
 後釜氏、オネエなのである。
 
 おばさまたちのオネエ好き、中高年女性をやたら元気にさせてしまうオネエの威力には驚くばかりである。
 ソルティ思うに、おばさまたちは“彼”のうちに、「定年退職したものの趣味もなく家事もできず、他人とコミュニケーションとるのも苦手で、ただ家でゴロゴロしている亭主」とは違った男性像を見ているのではなかろうか? 
 最近では後釜氏のレッスンに参加する中高年男性も増え始めている。
 結局、Gay(陽気)であることがなによりの健康の素なんである。 

二つのジェンダー



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 50年前の四国遍路 映画:『旅の重さ』(斎藤耕一監督)

1972年松竹
90分

 少女が四国遍路する話というので借りてみた。
 懐かしい景色が観られるかな~と思って・・・。
 
 が、残念ながら少女の歩いている場所が四国のどこなのかほとんど見当がつかず、画面に映し出される美しい自然風景や家並みにも見覚えがなかった。
 主人公の少女が歩いた70年代初めの四国と、ソルティが歩いた2018年の四国とでは、あまりに変貌著しく、わずかに高知の海岸沿いの岩塊そそり立つ光景だけが、「こんな感じのところを通ったな」と思い返すのみであった。
 南国ならではの明るい光だけは、半世紀近く隔てても変わりなかった。


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今ではこのように舗装されていない道自体が少ない


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愛媛の段々畑(少女は逆打ちしている)


叶崎光景
2018年の遍路で歩いた高知の海岸(足摺岬の西側)

 家庭環境に悩んだ16歳の少女が、自宅のある愛媛の新居浜を出発し、一人巡礼の旅に出る。
 途中、白装束のお遍路と出会い、道々お接待を受け、ふらりと入った街(松山あたりか?)の映画館では痴漢に遭い、ドサ回りの役者連中と数日過ごす間に一座の男に襲われ、女にレズビアニズムを仕込まれる(若い女性の遍路行はかくもスリリングである)。
 高知の海辺の町で栄養失調に倒れた少女は、魚の行商をしている中年の男(=高橋悦史)に助けられ、介抱を受けるうちにいつしか男女の仲になっていく。

 主役の高橋洋子はこれがデビュー作。
 応募者2000人近いオーデションで秋吉久美子と競って勝ち取ったという。
 撮影当時18歳。
 素朴で健康的で瑞々しい。
 砂浜での全裸シーンやレズビアンシーンにも果敢にチャレンジしている。
 この2年後に熊井哲監督『サンダカン八番娼館 望郷』に抜擢され、女衒にだまされてボルネオの娼館に売られる「からゆきさん」を、やはり体当たりで演じている。
 女優としてたいへん恵まれたスタートを切ったのである。


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主役を競った秋吉久美子と高橋洋子
秋吉にとってもこれがデビュー作となった

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高知の容赦ない陽射しと青い海は遍路を解放的にする
(ソルティも実は全裸で泳ぎました


 旅芝居一座の座長を三國連太郎が演じている。
 上手さは言うまでもないが、息子の佐藤浩一との相似にびっくりした。

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三國連太郎(当時39歳)


 よしだたくろうの『今日までそして明日から』をBGMに、野宿もいとわず自然の中を歩き、いろいろな人との出会いを重ねて自分探しをする少女の姿は、まさに60~70年代のヒッピー文化を彷彿とする。
 70年代初頭の日本の地方の風景が切ないほど美しい。
 こんな豊かな旅はもうできない。
 日本列島改造計画やバブルを通過して国土はすっかり変わってしまったし、日本中どこにいてもインターネットから逃れられない。
 たとえば、見知らぬ美しい少女が砂浜で全裸になっているところを見かけたら、スマホを取り出して隠れて撮影する不届きな輩がいることだろう。
 そして、それをSNSに投稿するだろう。
 またたく間に少女のヌードは世界中に配信されて拡散し、多数の「イイね!」を獲得し、その砂浜はどこで、どこの海か、映っている少女はどこの誰なのか、特定する者が現れることだろう。
 翌日には、少女を一目見るために(あわよくば性的欲望を満たすために)、全国から暇な男たちが四国遍路に押しかけるやもしれない。
 少女は旅を続けることができなくなるであろう。
 
 今や、“旅行”はできても“旅”は難しくなった。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 21世紀の仏教経典 本:『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2015年原著刊行
2018年河出書房新社より邦訳発行(柴田裕之訳)

 『サピエンス全史』は、人類の過去から現在までを俯瞰し、とりわけ3~7万年前に起きた認知革命によって人類が虚構(物語)を共有できるようになったことが、人と他の動物を分かつ決定的な進化(退化?)につながったことが説かれていた。
 続編となる本書では、人類の過去の歩みと傾向、および現在飛躍的な進歩を遂げている科学と IT 分野の現状を踏まえ、人類の行く末を予測している。
 前著同様、ユヴァルの博覧強記と具体的でわかりやすい事例を挙げて解説・論証する説得力、そしてブラックジョーク風ユーモア満載の語り口に圧倒される。


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 ホモ・デウス=ホモ(人間)+デウス(神)=神人――というのが、ホモ・サピエンス(賢い人間)たる我々が今後目標とするであろう存在のあり方だ、というのがユヴァルの予測である。
 人類は何万年以上もの間、「飢餓・疫病・戦争」の3つに苦しめられてきたが、21世紀を迎えてようやくそれらを克服できるようになった。(コロナワクチン開発の速さと高い効果を見よ!)
 次に人類が目指すべきは次の3つ――「不死・至福・神性」であり、それこそはまさに数千年の昔から神の属性と考えられてきたものである。
 これに到達するために最大限活かされるツールが、遺伝子工学や脳科学を中心とする生命工学(バイオテクノロジー)であり、膨大なデータを瞬時に解析・処理・記憶・応用できる I T(コンピュータ―テクノロジー)である。

 21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、武器の生産にだけ使われるわけではない。21世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人との間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。21世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 ソルティは早々に絶滅しそうです(笑)
 ちなみに、アルゴリズムとは

計算や問題解決の手順のこと。定められた手続に従って計算していけばいつかは答えが得られ、それが正解であることが保証されている手続である。
(小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』より抜粋)

 クローン人間の創造とかIDの付いたコンピュータチップを体内に埋め込むとかには眉を顰める自分であるけれど、たとえば、近眼と老眼に悩んでいる目、数十年付きあってきて今後確実に悪化の一途をたどるであろう腰痛、地肌が透けて見える頭髪の過疎化を、安価で完璧に治してくれる再生医療があったとしたら、あるいは、行きたいところにはどこでも安全に快適に最速で連れていってくれる自動運転車があったとしたら、やっぱりそれを利用したいではないか。
 人間の欲望と資本主義経済を基盤とする、ユヴァル言うところの“自由主義的人間至上主義”は、実現可能なことで利益を生むものならなんだって実現していく道を選ぶ。
 もちろん、そこには倫理という壁が立ちはだかるが、残念なことに神は数世紀前に死んでしまった。

 本書では、最先端の生命工学やコンピューターテクノロジーを活用したビジネス(主としてアメリカで起こっていること)の事例が紹介される。
 30年前ならSF小説かトンデモ科学の本の中にしかお目にかかれなかったような荒唐無稽・奇想天外なアイデアが、すでに実用化されつつあることに驚きと慄きを覚えざるを得ない。
 キアヌ・リーブス主演『マトリックス』は88年の映画だが、あそこで描かれていたヴァーチャル・リアリティの技術――脳を電極に繋がれた人間たちが透明ポッドの中で仮想世界を現実と思いながら生きる――は、もう手の届くところまで来ているのだ。

 映画では主人公ネオはその欺瞞に気づき、カプセルから脱出してコンピュータと闘う。
 その姿に鑑賞者は共感し応援するけれど、カプセルの中と外と、いったいどちらが幸せなのかは保証の限りではない。
 というのも、コンピュータは人間の感じる幸福感の正体をビッグデータを通じて解析し、それを生み出すような脳への電気刺激や薬物を適宜与えることができるからだ。
 ネオの奮闘によりカプセルから抜け出した群衆が、助けてくれたネオに集団で襲いかかり殺戮する可能性だってある。
「なんで、起こしたんだ!?」


バーチャルリアリティ


 ユヴァルは示唆する。
 生命工学と IT の進歩は人間を神のごとき万能な存在に近づけるかもしれない。
 が、一方、人間の存在価値を剥奪してしまうかもしれない。
 一つには、自由意志や自己の幻想性を徹底的に知らしめることで。
 一つには、コンピュータの能力が人間のそれをはるかに凌駕し、人間から仕事を奪うことで。
 と同時に、「私」以上に「私」のことをよく知っているコンピュータが、「私」に変わって常に最適な答えを提供してくれるようになるがゆえに。

 18世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を超えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。ところが20世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスを開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

 生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 昨今のニコラ・テスラ再評価の理由がこれで理解できよう。
 二コラは人間がアルゴリズムであることをいち早く見抜いていたのだ。
 (現在、イーサン・ホーク主演の伝記映画が公開中である!)
 
 ユヴァルは、神の死とともに始まった近現代の人間至上主義が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元するデータ至上主義に変わっていく未来を予測している。

 データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、18世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。ロックやヒュームやヴォルテールの時代に、人間至上主義者は「神は人間の想像力の産物だ」と主張した。今度はデータ至上主義者が人間至上主義者に向かって同じようなことを言う。「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズムの産物にすぎません。」 18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義者が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

 これは、人類の過去と現在とを十分に研究・検討したうえでの未来予測である。
 ノストラダムスの大予言のような根拠のない言説とは違い、蓋然性の高い未来図と言えるだろう。
 むろん、まったく予期しない第三項が生じるかもしれない(たとえば世界同時多発発電所破壊テロとか)。あるいは、ユヴァルがこういった予測を立てて全世界に向けて発表したこと自体が予測を変貌させる結果につながるかもしれない。(観察すること自体が結果に影響を与える量子力学の観察者バイアスのように)
 コロナウイルスの発生同様、なにが起こるか分からないのがこの世の中だ。
 
バタフライ効果



 本書は内容自体が衝撃的と言っていいものであるが、実はソルティがなにより衝撃を食らったのは、上巻の扉を開いて目次のあとに来る献辞ページを見た瞬間であった。
 こう書かれていた。

 重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に 

 ゴエンカってまさか、あのゴエンカ?
 下巻の巻末にある謝辞を見ると、こう書かれていた。

 ヴィッパサナー瞑想の技法を手ほどきしてくれた恩師サティア・ナラヤン・ゴエンカ。この技法はこれまでずっと、私があるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう。

 間違いない。
 瞑想業界で有名なあのゴエンカ師である。
 ユヴァルは、ヴィッパサナー瞑想(俗にマインドフル瞑想と呼ばれる)の実践者だったのである!
 それも15年以上もの!(ソルティより長い)
 つまり、仏教徒かどうかは知らないが、かなり深く仏教を学び理解しているのは間違いない。
 ブッダの重要な教えであるところの「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、縁起、輪廻」を言葉の上の知識としてではなく、智慧として掴んでいる可能性が高い。上記の「ヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた洞察力」とは、そういう意味に違いあるまい。
 だとしたら、自由意志や自己が幻想であることも、アルゴリズム(=「これあるゆえにそれがある。これなきゆえにそれがない」)とはすなわち「縁起」や「輪廻」の別称であることも、科学や IT の勉強を通してではなく坐禅によって悟っているのかもしれない。
 本書や『サピエンス全史』が、仏教の智慧を有するイスラエル在住のユダヤ人のゲイの学者によって書かれた意味は大きい。

以下、引用。

 歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始める。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 虚構は悪くない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。
 だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にすべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけ取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だがけっきょく、それはすべてただの物語にすぎない。


 現代科学が我々に見せるありのままのこの世の風景は、きわめて仏教的である。
 本書では触れられていないけれど、人間至上主義の先に待っているのはデータ至上主義(この世のすべては現象の生起消滅に過ぎない)であると同時に、人類がホモ・デウスならぬホモ・ブッダとなる一縷の可能性なのかもしれない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● コロナではない、それは・・・  映画:『ステイ・ホーム』(ロベルト・デ・フェオ監督)

2019年イタリア
108分

 幼い頃に自動車事故で父親を失い、自らは車椅子生活となった少年サミュエル。
 使用人に囲まれながら、広大な森の中の屋敷に母親と二人で暮らす。
 「外は危険、家の中が一番」と聞かされ続け、生まれてから一度も敷地の外に出たことはない。
 ある日、外の世界から一人の少女デニーズがやって来て、使用人の一人となる。
 快活で美しいデニーズに心を奪われたサミュエル。
 デニーズを虐げる母親に憤りを覚え、ある夜、デニーズと共に屋敷をあとにする。

 一見、支配的で精神異常の気のある母親の束縛から、恋に目覚めた思春期の息子が自立する物語と読める。
 それは間違いないのだが、ラストで話がひっくり返る。
 原題 Il nido は「巣」の意だが、それは母鳥が必死で雛を守る巣であると同時に・・・・。


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 母親役のフランチェスカ・カヴァリンという女優が素晴らしい。
 凛とした美しさのうちに、狂気に近い母の愛、怖れと哀しみを表現している。
 イタリアのニコール・キッドマン(@『アザーズ』)といったふう。
 
 色彩感覚と画面の照りはまさにイタリア映画である。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『世界から戦争がなくならない本当の理由』(池上彰著)

2019年祥伝社

 本書では、第一次大戦以降に世界で起こった内戦・外戦について述べられている。
 むろん数え上げたらキリがないので、ほんの一部に過ぎないが。

1939~1945年 第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争含む)
1945年~1949年 インドネシア独立戦争
1948年~1973年 中東戦争
1950年~ 朝鮮戦争
1960年~1975年 ベトナム戦争
1962年 キューバ危機
1968年 プラハの春(チェコ事件)
1969年~1998年 北アイルランド紛争
1971年~1992年 カンボジア内戦
1975年~2002年 アンゴラ内戦
1979年 中越(中国×ベトナム)戦争 
1979年~1989年 ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻
1983年 アメリカのグレナダ侵攻
1980年~1988年 イラン・イラク戦争
1989年~2001年 アフガニスタン内戦
1990年~1991年 湾岸戦争
1991年~ ソマリア内戦
1991年~2000年 ユーゴスラビア紛争
2001年~ アメリカのアフガニスタン侵攻(対テロ戦争)
2003年~2011年 イラク戦争

 これはもうほとんど趣味か依存症の領域だろう。
 人類はほんとうに戦うのが好きだ。

 本書のタイトルに対する池上の答えは、「人間は過去から(歴史から)学ばないから」というものである。
 ソルティならもっと直截に「人間はアホだから」と言う。

 おそらく人類が過去をどれほどしっかり学んでも、戦争はなくならないだろう。
 各民族・各国民・各信者は、自分たちが聞きたい過去しか耳に入らないし、欲する歴史しか学ぼうとしない。アイデンティティが絡んでいるのだから。
 過去をいろいろな角度から客観的に学び反省できる奇特な人でも、現在の怒りや欲望に打ち勝つのは難しい。
 戦争がなくならないのは、ずばり人間が「欲・怒り・無知」から逃れられないからである。

 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の中で著者のユヴァル・ノア・ハラリは、人間が他の動物とは異なる道を歩むことになった決定的なきっかけとして「認知革命」という概念を上げている。
 国家、宗教、民族、金、歴史、自我・・・・e.t.c. 現実にはないものを“さも実在するかのように”信じ込んで取り扱えるようになった「認知革命」こそが、人間が戦争をやめられなくなった最大の要因であろう。
 認知革命を遂げたことにより、人間は湧きおこった欲や怒りを動物のように一瞬にして完結するという芸当ができなくなった。
 自分をより大きな力強い(と思える)ものに仮託するクセがついた。
 集団で欲や怒りを引きずるようになってしまった。
 ホモ・サピエンスはそのように造られている。
 
 結論として、戦争を無くすためには人間が人間であることを止めなければならない。
 

宇宙人襲来
あるいは外圧か?


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★     読み損、観て損、聴き損


● 本:『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(ワンナン著)

2021年彩図社

 本書の表紙カバーにでかでかと載った著者の顔写真を見て、どう感じるだろう?
 中国人であることは分からないかもしれない。
 13年間ムショにいた男というのも分からないかもしれない。
 一見、人懐っこそうな顔立ち。
 賢そうな額。
 意志の強そうな顎の線。
 人生の辛酸が刻まれた深い皺。
 凄みのある風貌は、長く海風に吹かれた漁師か、数々の建築現場をかんな一つで渡り歩いてきた凄腕の大工のようにも見える。
 しかるに、カメラ(=読者)にひたと向けられた両の瞳をのぞき込むと、長年蓄えられた怒りと悲しみと絶望、簡単には人を信じない用心深さとある種の冷酷さ、瞬時に相手の正体を見抜く眼光の鋭さ、そしてどんな相手でも飄々と受け入れるであろう懐のふかさを読み取ることができよう。
 「修羅場をなんども潜り抜けてきた人だな」と直感する。

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 怒羅権(ドラゴン)は、東京都江戸川区葛西に暮らす中国残留孤児の2世や3世の少年たちが1980年代後半から徒党を組むようになり、88年に命名し誕生した。
 初期メンバーは12人、90年代前半の全盛期には府中や八王子にまで勢力が拡大し、800人の大所帯になったという。
 日本人の作る上下関係の厳しいピラミッド型の組織とは違い、上下関係の希薄な、ゆるやかなつながりのチームで、中国人らしい“今の瞬間の絆を大切にする精神”が息づいていたという。
 それが「反社」を取り締まる警察にしてみれば、親分やヘッドをあげれば組織が瓦解する既存の暴力団や暴走族とは異なる摘発の難しさにつながっていたのである。
 汪楠(ワンナン)は初期メンバーの一人であり、おそらく最も勇猛果敢で、最も知能が高く、最もよく稼いだ男である。
 
 1972年中国吉林省生まれ。
 日本好きな父親に強引に連れてこられ、14歳より日本に暮らすようになる。
 怒羅権と暴力団の両方に関わって悪事を働いていたが、28歳のときに逮捕され、岐阜のLB級刑務所に収監される。
 2014年出所後は犯罪の世界に戻らないことを決意し、全国の受刑者に本を差し入れる「ほんにかえるプロジェクト」に力を入れている。 

 ソルティは90年代を仙台で過ごした。
 怒羅権についてはよく知らなかった。
 怒羅権と名乗る在日中国人の若者たちが都心でひどく暴れ回っているというのは聞き知っていたが、「そんなこともあるだろう」くらいの感覚であった。
 よもや、ソルティの古くからの馴染みである池袋の文芸坐(現・新文芸坐)が組織拡大の拠点になっていたとは!
  
 本書を読んで、90年代の東京の荒れ具合というのを実感した。
 ソルティは80年代半ばから都内で一人暮らしをしていたが、91年に「東京はあまりに変だ。このまま東京にいたら自分がダメになる」と思って、仙台に越した。
 バブル絶頂期の東京があまりに異様なものに思えたのである。
 人々は「24時間闘えますか!」の覚醒剤常用者のような総躁状態、ゴールドラッシュ時の西部開拓者のような欲に目がくらんだ脱抑制状態にはまり込んで、人間としての(生物としての)あたりまえの感覚を失っていた。
 「明るさ・軽さ・浪費」がひたすら推奨・追求され、その反対の「暗さ・重さ・倹約」が軽蔑・忌避された。ネアカ、ネクラなんて言葉が流行った。
 ひとりの人間には陽の部分もあれば陰の部分もある。社会には陽の当たる層もあれば陰を背負わせられる層もある。
 ひたすら陽の面だけを追求していれば、いつかはきっと陰の面が浮上して、社会に対して復讐を開始するだろう。
 そんなことを思って、東京を離れた。 
 いや、自分の中の陰の部分が危険信号を出していたのかもしれない。
 オウム真理教の一連の事件や怒羅権の出現は、まさにバブル時代の日本人(とくに都会人)が抑圧してきた陰の部分の報復だったのだろう。
 
 90年代前半に怒羅権のニュースを聞いて「そんなこともあるだろう」と思ったのは、もちろん在日中国人(や在日朝鮮人)の境遇を知っていたからである。
 怒羅権はもともと、「日本社会で孤立していた中国残留孤児の子孫たちが生き残るため、自然発生的に生まれた助け合いのための集まり」だったという。
 同調圧力の強い日本社会でいじめや差別を受け、一袋500円の大量のパンの耳を仲間で分け合うような貧困(ときはバブルだ!)を舐め、教師をはじめ周囲の大人たちからの不等な扱いに苦しむ若者たちの鬱屈したエネルギーが、怒りとなって暴発するのは火を見るより明らかである。
 
 少なくとも私も仲間たちも、非行少年にはなりたくなかったし、ましてや刑務所に入るような人間になるとは、あの頃は思っていませんでした。
 私の犯した犯罪は私が自発的に実行したもので、これを時代のせいや環境のせいにすることは許されません。しかし、あまりにも多くの望まない現実が私たちに振りかかり、その現実に抗うためにもがいた結果として、いつしか暴力がアイデンティティとなり、犯罪を通じてしか他者とのつながりを持てなくなっていったのもまた事実なのです。
 そのようにして自分の歴史を振り返ってみると、私たちは負の存在で、負の遺産しか生み出せなかったのかもしれないと分かっていても、これまでの歩みを全否定できない自分がいます。それは自分が自己中心的な人間だからでしょうか。もしかすると、もう生きるためには肯定するしかないと思っているからなのでしょうか。 

 本書では、著者のおこなってきた数々の喧嘩の模様や犯罪の手口が結構詳しく書かれている。捕まった後に求められて披露した錠前破りの手口などは、その場の警察官や刑務所関係者を蒼ざめさせたという。
 また、内側から見た裏社会や刑務所の実情も描かれ、そこで一目置かれて人脈を広げていく著者の人心掌握術と器の大きさが伺える。
 これほど賢くて器用で肝っ玉が据わっていて、人を集め動かす力のある人物が、もし最初から日本社会に正当に受け入れられ真価を発揮していたら、どれだけ社会にとって益になることだろう!
 一部の人間を疎外することで一番損害を被るのは当の社会であることを、我々は知らなければならないだろう。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● ほすぴたる記その後24 両神山に向けて(事故後1年半)

 左足踵骨の骨折から1年半。
 リハビリ通院を終えてから8ヶ月が経った。
 よほど長い時間歩き続けない限り、痛みを感じることはない。

 日常生活で骨を折ったことを意識するのは、朝起きた最初のうちだけである。
 夜中に固まってしまった足首を床に着けて立ち上がり、廊下を歩いて階段を下りるまでの一日最初の5分がネックである。
 左のかかとを上げて爪先だけで体を支えることが難しいので、両足交互にまっすぐスムーズに歩くことができない。
 横歩きで階段を下りている。
 たぶん、これは後遺症として残り続けるのだろう。
 (寝床から起き上がる前に、足首を回す、爪先を十分ほぐす、足指を動かす、足の裏をたたく、屈伸するなどすれば硬さは解消するので問題ない)
 
 それ以外、生活上の不都合はない。
 一年前できなかった手すりなしの階段の下り、左足だけの爪先立ち、走る、あぐらをかく(坐禅)、正坐、30分以上続けての歩行もできるようになった。
 雨が降っている日や寒い日などは神経痛のような痛みが生じるかと思ったが、いまのところ大丈夫である。もっと歳を取ると分からないが・・・・。

 自主的なリハビリとして、週3回スポーツクラブに通って水中ウォーキング30分と水泳15分をしている。(まあこれは趣味のうち)
 通勤駅ではエスカレータでなく階段を利用している。
 休日は1時間近い散歩時間をつくっている。
 ケガする前と明らかに変わったのは、こういったリハビリを続けていれば患部に問題は生じないけれど、リハビリを怠ると悪化するってこと。
 つまり、そこだけ老化が早まったような感じだ。

事故後75日の足
事故後75日
まるで豚足!

事故後150日の足
事故後150日
血管が現れてきた

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現在(事故後550日)
右足と変わらない


 ケガした時やっていた介護現場の仕事はさすがにもう無理と判断し、しばらく前から同じ介護でも事務系に転職した。
 運動量が激減した。
 体重が4キロ以上増えた。
 それが足首にも膝にも腰にも負担となる。
 いまは意識的に歩くようにしている。
 一般に、3Kと言って忌避される介護の仕事だが、これほど「よく歩き、よく筋肉を使い、よく声を出し、よく汗をかき、よく会話し、よく笑う」仕事はほかにあるまい。
 無理さえしなければ、無理さえさせられなければ、感染症のリスクさえなければ、健康には(ダイエットにも)いい仕事なのだと思う。
 ちなみに、ソルティは高齢者と接する介護関係者なので一般よりワクチンを早く打てる見込み。
 
 いまの目標は、秩父の両神山(1723m)である。
 山頂までの往復で6時間半かかる。休憩入れたら8時間半だ。
 これがクリアできれば、完全復活と言っていいだろう。
 とくに登りよりも下りが問題である。
 これから毎回少しずつレベルを上げた山歩きにトライしていきたい。
 待ってろよ、両神山!
 
両神山


両神山2

 

● リアル若者たち 映画:『日本春歌考』(大島渚監督)

1967年松竹
103分

 上京し大学受験を終えたばかりの高校生たちの数日間を描く青春ドラマ。
 と言っても時代は学園紛争直前、ベトナム戦争や日米安保反対の声がかまびすしい政治の季節。
 そして、監督は『青春残酷物語』の大島渚である。
 元千葉県知事・森田健作主演の明るく爽やかな青春ドラマのようにはどうしたってなりようがない。
 実際、本作中にはベトナム戦争反対を訴える男女の学生たちが、キャンプファイヤーを囲んでギターを鳴らしながら森田健作もカヴァーしたザ・ブロードサイド・フォーの『若者たち』を合唱するシーンが出てくるが、主人公の少年たちはこの輪の中に入ることはなく、性に飢えた目つきと妄想でいっぱいの脳みそを抱えながら「ひとつ出たホイの良さホイのホイ」と春歌を口ずさみつつ街をうろついている。
 その意味では、左翼思想にかぶれ平和や友情や未来を語る当時の楽天的な青年群像に、日本古来の猥雑な文化(春歌)を対置させた大島流の風刺映画と言えるかもしれない。
 性の飢餓の前には政治がなんだ!というリアル・・・・。

 大島監督は空間の扱いが滅法うまい。
 奥行き表現や空間の中の人や物の配置の妙が日本人離れしている。立体的なのだ。
 また、『太陽の墓場』でも示したように、いかに残酷な話であろうと、いかにどぎついアブノーマルな場面であろうと、品格を失うことはない。洗練されている。
 後年、国際的な評価(とくにフランスで!)を得るようになったのは、この空間性と洗練によるところが大きかったのではなかろうか。

 主演の高校生を演じるのは荒木一郎
 撮影当時23歳、高校生にはまったく見えない(笑)
 1966年『空に星があるように』でレコード大賞新人賞をとった歌手でもある。
 とりたててハンサムというのではないが、印象に残るふてぶてしい面構えである。

 大島の妻である小山明子の若い頃ははじめて観た。
 非常にムードのある女優。

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 ほかに、伊丹一三(のち十三と改名)、串田和美、宮本信子、吉田日出子が出演している。伊丹と宮本はこの映画がきっかけで付き合いはじめ結婚に至ったという。

 こんな小難しく政治的な装いの映画が、制作を許され、全国上映され、それなりに評判を呼んだ時代があったというのが不思議な気がする。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 天才ニコラ・テスラの秘密

 『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)に出てきた天才科学者ニコラ・テスラが気になって、彼に関する本を2冊読んだ。
 日本では90年代にちょっとしたテスラ・ブームがあったらしく、その後もテレビのドキュメンタリーや科学番組などでたびたび取り上げられたらしいが、ついぞ知らなかった。

①  ニコラ・テスラ著『ニコラ・テスラ 秘密の告白』(成甲書房、宮本寿代訳、2013年)
②  新戸雅章著『知られざる天才ニコラ・テスラ』(平凡社新書、2015年)

 ①  はテスラ自身の残した二つの手記――1919年刊行『私の発明:ニコラ・テスラの自叙伝』と題する自伝、および1900年刊行『人類エネルギーを増加させるには』と題する論文――の合本である。もちろん、『秘密の告白』という怪しげなタイトルはテスラ自身がつけたものではない。
 成甲書房という出版社は陰謀論、超常現象などのジャンルを得意とするらしく、他にも天童竺丸著『シオンの議定書』、副島隆彦著『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、羽仁礼著『永久保存版 超常現象大事典』、後藤よしのり著『間違いだらけのオンナ選び』なんていう、“いかにも”な本を出している。
 表紙のニコラ・テスラの謎めいた眼差しといい、この科学者の日本での受け入られ方を象徴するような一冊である。
 ただ、中味はトンデモなところはなく、テスラの生涯や発明の裏話と共に、その人となりや思想や科学的ヴィジョンの一端が伺える真面目な内容である。


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 ②  は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者と言える新戸雅章(しんどまさあき)による評伝である。
 こちらは、生まれ故郷のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)や終焉の地アメリカはもちろんのこと、今やヨーロッパでも発明王トーマス・エジソンと並び称される高い評価と人気を得ているにもかかわらず、日本ではまだまだ知名度が低いテスラについて、「より広く深く知ってもらおう」という著者の思いがビンビン伝わってくる力作である。
 これ一冊読めば、ニコラ・テスラについて一通りのことが分かるし、他人にも自信を持って“ニコラ語り”することができよう。
 新戸は1948年神奈川県生まれ。テスラ研究所所長をつとめる。


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 ニコラ・テスラとは何者か?
 ① よりプロフィールを引用すると、

1856年7月9日~1943年1月7日。発明家。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、無線送電システム(世界システム)を提唱した。また、地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで空間からエネルギーを無限に得られる仕組み(フリーエネルギー)を構想していた。8ヵ国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通、生涯独身を貫いた。

 我々が現在使っている電気は、エジソンが発明した直流システムではなく、テスラが発明した交流システムである。つまり、電気を主要インフラとする現代文明はまさにテスラの築いた土台の上に成り立っている。
 テスラさまさまなのだ。
 ②の新戸によると他にも、

 蛍光灯や水銀灯、ネオンサインなどの放射照明、無線電信、電子レンジ、ラジオ、テレビのリモコン、車の電子キー、航空機やロボットの無線操縦、ワイヤレス給電システムなどは、いずれもテスラが発明したか、原理を提供したものである。
 まことに我々は、テスラのアイデアの中に日々の生活を送っているのだ。

 これほどの恩人がなぜ正当に評価されて来なかったのか?
 新戸の本から察するに、ナイアガラの滝の水力を利用した壮大なる実験で交流システムを成功させ、かつての師エジソンをうち破って国際的な名声と評判を得たのであるが、その後(人生後半になって)、上記の「世界システム」とやらに固執したあたりから現実離れの様相を呈し、逆にテスラの特許を利用した後輩科学者が次々と実用的な発明を世に送り賞賛を浴びるようになり、次第に「過去の人」となっていったようだ。
 石炭や石油はもちろん、水力・風力・原子力にも頼らないフリーエネルギーを空間から取り出し、そのエネルギーを無線で世界中に瞬時に送るという「世界システム」は、当時も(今も?)あまりにも突飛すぎているし、既存のエネルギー業界にしてみれば何としてもその実現を阻みたいアイデアに違いあるまい。逆風必至。
 そのうえ、観客の度肝を抜く派手な放電ショーを各地で繰り返して魔術師のようにみなされ、殺人光線や人工地震発生装置開発の噂も独り歩きし、山師かいわゆる「マッド・サイエンティスト」の如くみなされていったようだ。日本で長らくオカルト文脈で語られることが多かったのはそのためであろう。
 また、同時代の発明家であるエジソンやマルコーニのように商魂たくましくなかったところも、世間から忘れられやすい一因だったのかもしれない。(最後は困窮のうちにホテルの一室で亡くなった)


ナイアガラ
 

 さて、天才と言えば奇癖や奇行がお約束である。
 テスラもまた歴史上の天才たちに負けず劣らず、たいそうクセが凄かった
  • 人の髪には触れられない。
  • 女性のイヤリングが嫌い。
  • 歩くときには歩数を数える。
  • 食べる前にスープ皿、コーヒーカップ、食べ物の体積を測らないと、美味しく食べられない。
  • 同じ行動を繰り返す。そのとき必ず3の倍数回しないと気が済まない。
  • 設計図を書かずに頭の中で装置を完璧に組み立てて、一気にアウトプットできる。
  • 極度の潔癖症。
  • 幼い頃から、たびたび幻視、幻覚、幻聴に襲われた。
 一種の強迫性障害あるいは自閉症のようにも思われる。
 生涯独身であったのは、こういった事情もあったのかもしれないと新戸は推測している。(ゲイ説もあり)
 
 今回、ニコラ・テスラについて調べてソルティが最も興味深く思ったのは、実は彼の発明に関するエピソードでも、華やかな交友関係でも、奇癖や奇行でも、毀誉褒貶さまざまな生涯でもなかった。
 上記の通り、テスラは幼い頃より幻覚に悩まされていたのだが、現れる心象(イメージ)はいつも現実との区別がつかないほどのリアリティを持っていた。
 自分の見ているものが現実のものなのか幻覚なのか分からないことが、彼を不快にも不安にもした。
 そこで、彼は何らかの心象が目の前に現れたとき、それがどうやって出現したのかを観察する習慣を“第二の天性”のごとく身に着けた。
 その結果、あることに気づく。

 実は、あるものの心象が目の前に現れるとき、事前にそれを思い出させるようなものを見ていたのだ。初めのうちは、ただの偶然だと思ったが、まもなくそうではないと確信するようになった。心象が目に見える前に、意識的に見るのであろうと無意識のうちに見るのであろうと必ず、何かの光景が思い浮かんでいたのだ。

 次に私が気づいたのは、実際に前もって何かを見た結果として何かの心象が浮かぶのだが、それと同じような方法で考えも浮かんでくるということだ。そこでまた私は、その考えを抱くきっかけを突き止めたいと思うようになった。

 これだけではない。自分の動きはどれも同じように突き動かされているせいなのだとまもなく気づいた。これまで私が一つひとつ考え、行動を起こすことで歳月を重ねながら行ってきた継続的な探究も観察も実証もすべて、私が動力を与えられた自動機械(オ-トマシン)だから、外部から感覚器官への刺激にただ反応し、それに従って考え、行動し、運動しているゆえであることを示していたのだし、今でも日々示している。そのことに私は十分納得した。自分の動き、考え、あるいは夢がもともと何の影響を受けたせいなのかが突き止められなかったのは、人生のなかで一度か二度しかなかった。

 私たちは自動機械(オートマシン)であって、私たちを取り巻くものの力で完全に制御されている。コルクのように水面に放り投げられているのに、外部からの刺激を受けた結果を自由意志だと誤認するのだ。運動やほかの行動は常に生命維持のためのもので、見かけ上は互いに無関係であるようだが、見えない絆で結びついている。

 なんと、ここでニコラ・テスラは、「人間は無意識によって動かされている自動機械に過ぎない。自由意志は錯覚だ」と言っているのだ。
 ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で示唆したこと、トニ・パーソンズや阿部敏郎などのノン・デュアリティ(非二元)の覚者らが述べていること、ブッダが因縁や諸法無我という言葉で説いたことと同じ、すなわち「自我の否定」である。
 これこそまさに「秘密の告白」の名に値する ‼

 上記の哲学を持つがゆえに、ニコラ・テスラは人間とまったく同じ機能を持つ自動機械、いわゆる A I ロボットの制作が可能と考えたのである。
 つまり、ソルティという一人の人間の“様々な刺激に対する外的内的な反応パターン”を徹底的に調べ上げて精密なプログラムをつくり、それを優れた工学性を備える A I ロボットにダウンロードすれば、ソルティそっくりの反応パターンを示すソルティ2が生まれる。
 次に、ロボットを動かすエネルギーの問題であるが、ここで空間から無限に取り出せるフリーエネルギーを利用すれば電力は必要ない。ロボットが壊れない限り、動作し続ける。フリーエネルギーは人間で言うところの「命」に相当しよう。
 最後に、ソルティ2に一つの指令(自己参照回路)を組み込む。
 
 COGITO ERGO SUM (我思う、ゆえに我あり)
 
 ソルティという人間とソルティ2というロボットの違いはどこにあるだろうか?
 
 ニコラ・テスラは人間を創造しようと考えていたのだ。
 おそるべし、二コラ。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 映画:『ナンシー』(クリスティーナ・チョー監督)

2020年アメリカ
86分

 ヤフーの映画レビューを見ると、「だまされた!」的な苛立ちや失望を表明するコメントが多い。
 それは、巧みなプロットに「だまされた!」ではなくて、サイコサスペンスと思って借りたのに普通のヒューマンドラマだったという肩透かしだ。
 確かに、レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあるし、「いかにも」サイコっぽいDVDジャケットだし、「ナンシー」というタイトルもまた『エルム街の悪夢』のヒロインかナンシー関を連想させるし(早見優『夏色のナンシー』というのもあるが)、なんたってサンダンス映画祭出品である。
 ソルティも、てっきりサイコサスペンスだと思ってレンタルした。
 もっとも、作品の出来そのものは悪くなかったので、苛立ちや失望は感じなかったが。
 先日観た『ナイチンゲール』でも同じ錯覚というかトリックに引っかかった。
 たぶん、普通のドラマとして出すよりサスペンスとして売ったほうが買い手の反応がいいことからの販売戦略なのだろう。


ナンシー (2)

 ビッチで病弱な母親と二人きりで暮らす30代のさえない娘ナンシー。
 四六時中スマホやパソコンにかまけ、SNS上で架空の人物になって見知らぬ相手とのフェイクな関係を楽しむのが趣味。
 ある日、母親を失ったばかりのナンシーは、30年前に行方不明になった幼い娘を探しているリンチ夫妻のTVニュースを観る。CGで予想された娘の30年後の顔立ちが自分と瓜二つだった。
 ナンシーは夫妻に連絡を取り、「自分があなた方の娘なのではないか?」と告げる。

 話のメインは、夫妻の家に愛猫とともにやって来たナンシーが、DNA鑑定の結果が出るまで彼らと一緒に暮らす間の三者三様の気持ちの揺れ動きである。
 ナンシーを実の娘と信じたくて、かいがいしく世話する妻エレン。
 信じたいけど疑いがぬぐいきれない夫レオ。
 一方、ナンシーの過去は観る者にはっきりと示されないので、ナンシーの話のどこまでが本当でどこからが作り話なのかが分からない。
 ナンシーは嘘と知りつつ(DNA鑑定でばれることを知りつつ)夫婦をだましたのか?
 それとも、自分でも「もしかしたら?」という一抹の希望のもとに、夫婦のもとにやって来たのか?
 あるいは、ナンシーもまた悲惨な過去や受け入れがたい現在から逃れるために、自分で自分をだましているのか?
 そのあたりは観る者の解釈にゆだねられている。

 孤独なナンシーを演じるアンドレア・ライズボロー、ビッチな母親役のアン・ダウド、娘を失った父親役のスティーヴ・ブシェミ、同母親役のJ・スミス・キャメロン。
 この4人の演技が甲乙つけがたく素晴らしい。
 脚本、映像もレベルが高く、カットの処理も巧みである。
 良い意味で「だまされた!」という印象を持った。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● LGBTとスパイ 映画:『裏切りのサーカス』(トーマス・アルフレッドソン監督)

2011年イギリス、フランス、イタリア
128分

 GEO(ゲオ)のサスペンスコーナーに置いてあったスパイ物なので、サーカスを隠れ蓑にした国際的な犯罪組織をめぐる捕物帳かと思った。江戸川乱歩まがいの・・・・。
 そのうちに大テントが出てきて象やピエロや空中ブランコの美女が客席を賑わすなか、追う者と追われる者の手に汗握るアクションシーンが始まると思っていたら、どこまで行ってもオフィス街から離れることはなく、スーツ姿の地味なオヤジたちのやりとりが続く。


サーカスのテント


 裏切られた(笑)
 サーカスとは、かつての英国秘密情報部 M I 6の通称だったのである。
 原作はスパイ小説で有名なジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。
 ソルティはジョン・ル・カレは読んでいない。

 全般に丁寧なつくりで映像センスも良く、英国らしい落ち着いた品がある。
 役者の重厚感も素晴らしい。
 しかし、難解である。
 前もって原作を読んでいる人ならともかく、一度見るだけでストーリーを理解できる人は多くないだろう。
 007やジェイソン・ボーンのような分かりやすいスパイアクションを期待して観始めると、途中で脱落しかねない。
 
 東西の冷戦構造を背景にしたイギリスとソ連のスパイ合戦というあたりはすぐに理解できるが、スパイ物はその性質上、隠された人間関係や秘められた過去のエピソード、正体不明な人物、複雑な政治情勢などが錯綜するので、よほど整理して手際よく語っていかないと、観る者は混乱するばかりである。
 なのに、この映画は説明が不親切なのだ。
 誰と誰がどういう関係なのか、誰が誰の指令で動いているのか、よく分からない。
 時間軸もあちこち飛ぶので、物語の流れが把握しにくい。
 場面も次々変わる。
 説明ゼリフがほとんどないのはリアリティ重視の観点から悪くないとは思うが、ナレーションもなければ、シーンの時や場所を教えてくれるキャプションもつかないので、物語を頭の中で組み立てるのに困難が生じる。
 たとえば、これを主人公の諜報員スマイリー(=ゲイリー・オールドマン)の回想譚という設定にすれば、スマイリー自身に適宜ナレーションを入れさせ、状況や人物について解説や注釈を入れることができる。
 そうすれば、観る者にとって分かりやすいものになったはず。
 ハリウッドだったらそうしたかもしれない。
 そういう手段を取らず、あくまでリアルタイムの話に徹したところが、ヨーロッパ映画らしいと言えなくもない。
 すなわち、観る者の読解力に挑む作品である。


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ゲイリー・オールドマン


 その最たるものが、この作品に含まれるLGBT色だろう。
 時代が時代(1960~70年代)なのでそこははっきりと明示されていないが、この映画にはゲイやバイやレズビアンが登場する。
 多くの鑑賞者はそこに気づかないのではなかろうか?
 ほんの数カット、ほんの数行のセリフで、それは暗示されているので、勘のいい人でないと見過ごしてしまうであろう。
 たとえば、スマイリーの腹心の部下ピーター・ギラム――演じているのは『SHERLOCK(シャーロック)』で有名になったベネディクト・カンバーバッチ――はゲイである。スマイリーに「身辺の整理をしろ」と言われて、教員をしている男性の恋人に別れを告げるシーンがある。
 それこそほんの数カットとセリフ2つ、3つである。
 それでもこれはまだ分かりやすいほうで、M I を首になった元ソ連分析官コニー・サックスはレズビアンであろうし、ハンガリーで狙撃されて障害者になった M I 工作員ジム・プリドーはゲイであり、M I 幹部の一人ビル・ヘイドンとかつて恋仲にあったことが匂わされる。
 そのビル・ヘイドンは男も女もOKのバイであろう。
 この映画自体が、隠されたLGBT映画と言えるかもしれない。
 クローゼットという点で、スパイとLGBTは近親性があるのだ。

 役者の顔触れも壮観。
 主役のゲイリー・オールドマンの渋さ、ビル・ヘイドン役のコリン・ファースの艶やかなオーラと演技の巧さ、『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』で実力のほどを世界に知らしめたトム・ハーディはここでは金髪の美青年である。M I のリーダーを演じるジョン・ハートの前身はあの懐かしき『エレファント・マン』だ。身長163cmのトビー・ジョーンズは特異な容貌で印象に残る。


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男も女も魅了するコリン・ファースの笑顔
 

 トム・ハーディ演じる M I 工作員とロシアの女スパイのエロティックシーンはあるけれど、二人が結ばれることはなく、全般に男ばかりの味気ない世界である。
 それがなぜか米国のようにマッチョな感じにならないのが英国の不思議なところ。
 米国の男は社会で幅を利かせるために金と力を必要とするが、階級社会の英国では男のステイタスは生まれたときにある程度決まってしまうからだろうか。
  
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(池上彰、佐藤優対談)

2020年角川新書

 「外務省のラスプーチン」と言われた佐藤優と、「難しいことを分かりやすく伝える才人」池上彰との対談。
 ラスプーチンネタが続いたのは偶然?必然?

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 佐藤優については、その昔鈴木宗男絡みで逮捕、有罪判決を受けたこと以外は、敬虔なカトリック信者であること、漫画家・西原理恵子とのタッグで週刊新潮でコラム連載していたことくらいしか知らなかった。
 著書を読むのは初めてである。
 大変な博学、引き出しの多さ、記憶力の主であるのは間違いない。
 情報番組では“物知りの大家”みたいな池上彰をほとんど圧倒する勢いで喋りまくっている。
 専門分野である宗教や外交問題を切り口にして、AIのシンギュラリティ問題やヨーロッパで勢いを増しているヴィーガニズム(完全採食主義者)、ナショナリズムや民族主義、ISやオウム真理教などのテロリズム等々、池上がテーブルに乗せる素材を次から次へと分析し、掘り下げ、独自の世界観の中に織り込んで呈示していく。
 対談というより、10歳年上の池上がインタビュアのようにすら見える。
 
 佐藤と池上の知識の差、教養の差、宗教性の差、世相の読み具合の差と、読む者はつい勘違いしてしまいそうだが、これはそうではないだろう。
 聴き手としての池上がすぐれているがゆえに、佐藤は思う存分自説を繰り広げることができたのだ。
 佐藤の話しぶりはほうっておくと受け手の理解度を意識しない独り語りのようになるところがあり、池上が舵を取らなければおそらくテーマは拡散し、受け手は混乱し、まとまりがつかないことだろう。
 つまり、ここでの池上は迂遠にして専門的な佐藤の言葉を、わかりやすく嚙み砕いて読者に伝える編集者のような役割を果たしている。
 
 以下、佐藤の発言より引用。

 実は仏教でもイスラム教でも神道でも、エキュメニカルな思考・行動をする人と、ファンダメンタルな人と、両方がいます。そのファンダメンタルな人のごく一部に、暴力を使って他者に自分たちの思考を強要する、あるいは暴力によって他者を排除しても構わないと考える人たちがいるのです。ところが、その人たちの思考には、きわめて共通した面白さ――敢えて「面白さ」と言います――があります。それはまず、自分たちの宗教のために自分の命を捨てる覚悟ができていること、そして命を捨てる覚悟があると、途端に他者の命を奪うことに対するハードルが低くなることです。

 日本人は自分を無宗教だと思っている人が多いのですが、それはいわば「無宗教という思想」なのです。無宗教という白いキャンバスのような場所は、簡単に色に染まる傾向があります。思想を作る人間が、もし説得力のある論理を語り始めたら、白いキャンバスはたちまちその思想で染まってしまうわけです。

 静かに進む神道国教化の動きに抗せるのは、無神論的な自由主義者ではなく、プロテスタントのキリスト教徒や創価学会会員など、自らの価値観の基礎に信仰を置く人々だと思う。

 公明党が政権与党に加わっている意義をはじめて感じた。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 福沢かづという生き方 本:『宴のあと』(三島由紀夫著)

1960年新潮社より原著刊行
2020年新潮文庫新版

 1959年(昭和34年)におこなわれた都知事選出馬者(元外務大臣・有田八郎)をモデルにしたことで日本初のプライバシー裁判となった作品として有名だが、こういったセンセーショナルなアオリ文句は、もういい加減、解説からはともかく帯などの紹介文からは削られるべきだろう。
 60年以上も前の事件であるし、有田八郎と付き合いのあった現役政治家はもうこの世にいないのだし、もちろん三島由紀夫も。
 三面記事のようなアオリ文句が、この作品を三島が手すさびに書いた、男が主人公の政治(腐敗)小説のように読者に誤解させ、本来の価値を翳らせてしまいかねない。
 この作品が、海外でかえって高く評価されているのは、まさにそうした事情によるのではないか。

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 この小説の素晴らしさは、福沢かづというヒロインの魅力につきる。
 おそらく、三島の全作品中、『鹿鳴館』の朝子、『サド侯爵夫人』のサン・フォン伯爵夫人、『黒蜥蜴』の緑川夫人に並ぶ個性豊かな魅力キャラである。
 日本の小説を見渡しても、これだけ情熱的で行動力にあふれ、傍で見ていて面白くて愛らしいヒロインはそういないだろう。
 読み始めたら、小説のプロットとかテーマとか文学性なんかは二の次で、よく泣き、よく動き、よく働き、よく愛し、よく装う、天真爛漫なかづの魅力に惹かれてしまう。
 保守派の政治家や高級官僚の利用する一流料亭の女将としての華やかさと気風の良さ、革新派の夫・野口雄資のためドブ板選挙を厭わず精力的に手伝う行動力と人心掌握。
 映画化したらどの女優がこの役にふさわしいだろうか?とずっと考えながら読んでいた。

 ウィキによると、成瀬巳喜男のメガホン、山本富士子のかづ、森雅之の野口雄資という顔触れで企画があったらしいが、プライバシー裁判のせいで流れてしまったとの由。
 なんともったいない!
 なるほど着物の似合う美貌の山本富士子は一流料亭の女将として申し分なく、貫禄も十分だ。
 が、夫の選挙のために駆けずり回る行動力とパワー、買い物中の主婦の足を止めてマイクの前から離さない田中真紀子のような庶民に訴えるカリスマオーラーは、上品な山本では足りない気がする。
 いろいろな女優の顔を思い浮かべた結果、「この人なら」というのに当たった。

 岡田茉莉子である。
 美貌と情熱、行動力と気風の良さ、言うことなかろう。
 岡田茉莉子と仲代達矢のコンビだったらピッタリだったと思う。

岡田茉莉子
岡田茉莉子


 バロックのような華麗なる修辞と心理分析に長けているがゆえに、ややもすると人工的な印象がつきまとう三島作品の中にあって、本作は題材の性質上もあって過度な修辞も精密な心理分析も抑えられている。
 それがかえって作品全体に自然なタッチをもたらし、三島の修辞抜きの素の文章のうまさが引き立ち、余裕綽々たる洒脱な風情さえ漂っている。
 ときに差し込まれる比喩の見事さ。

夜になって冷たい風が募って、空にはあわただしい雲のゆききの奥に、壁に刺した画鋲のような月があった。

何か野口のベッドには、吹きさらしのプラットフォームのような感じがある。それでも彼は、かづよりも寝つきがいいのである。 

かづの心はありたけの嘘を考えていた。陽気な言いのがれは彼女の天分の一部で、どんな窮地に立っても、狭い軒下をくぐり抜けて飛ぶ燕のように、たちまち身をかわすことのできるかづなのに、この場合に限って何も言わないことこそ最良の言いのがれだろうと思われた。

・・・彼は今一刻も早く、残り少ない自分の人生を不動なものにしたくてうずうずしていた。もう修理や改築や、青写真の書き直しや、プランの練り直しはご御免であった。彼の心も肉体も、すでにあらゆる不確定に堪えなかった。フルーツ・ジェロのなかの果物の一片のように、身をおののかせながら、少しも早くゼラチンの固まってくれる時を待っていた。

 本作を『鹿鳴館』のように、男の論理と女の情念の擦れ違いの物語、男の理想と女の現実との相克を描いた一種の恋愛劇と読むことは可能であろう。
 『サド侯爵夫人』のように、男にひたすら尽くすことに情熱を傾けてきた女がふとしたはずみで男に愛想をつかして捨て去る話と読むこともできよう。
 あるいはまた、かづが「政治と情事は瓜二つ」と直感で見抜いたように、日本の政治の浪花節的な性質=非論理性に対する三島自身の風刺と読むことも可能であろう。
 しかしながら、読み終わって残るのは、福沢かづの愛すべき驕慢ぶりと“水盤にたっぷりと湛えられた乳のような”白い肌である。
  



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティ著)

1944年原著刊行
2004年早川書房

 ミステリーの女王クリスティのミステリー以外の小説の中で最も有名な一作。
 昔読んだのだが、すっかり内容を忘れていた。
 読み始めたら止まらない、かっぱえびせんのようなストーリーテリングはここでも健在。
 1時間強で読み上げてしまった。

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 誰からも羨まれる絵にかいたような理想の家庭、理想の妻、理想の母親、理想の人生を歩んできたつもりの主人公ジョーン・スカダモア。
 ある時、バグダッドからロンドンへの旅の途中で天候により足止めを食らい、なんにもない砂漠の真ん中で数日過ごす羽目に陥る。
 気を紛らわすものがない、話す相手もいないありあまった時間の中で、ジョーンは人生で初めて自分自身と向き合うことになり、それまで自分が見ようとしなかった残酷な真実に気づかされていく。

 解説を早川書房最大のヒットメーカーたる作家栗本薫(2009年没)が書いている。
 本書が栗本自身の生まれ育った家庭を想起させ、まったく他人ごとではないがゆえ、「哀しくて恐ろしい」印象を抱かされたと述べている。
 それが示唆するように、本書のテーマは時の経過によって古びることのない人間性の一面=自己欺瞞を扱っている。
 「あるべき」自分や他人をひたすら求める者が、「ありのまま」の自分や他人を受け入れることも愛することもできず、結果として体裁はいいが中味のない偽りの人生を送ってしまうのだが、それに自ら気づかないように振舞い続ける。
 昨今の中高年ひきこもり問題や押川剛が『「子供を殺してください」という親たち』などで提起した家庭内暴力家庭の根底にあるもの――通俗道徳信奉の弊害と通じている。

 『春にして君を離れ』はクリスティが長年あたため続けてきた素材で、書き上げるのに3日しか要さなかったという。
 ジョーンが残酷な真実にひたひたと近づいていくサスペンスと息詰まるような展開は、『そして誰もいなくなった』におさおさひけをとらない。

 クリスティは奇想天外なトリックで世間を仰天させた『アクロイド殺し』を出版した同じ年に、11日間の謎の失踪をしている(当時36歳)。
 最愛の母親の死、夫の愛人問題がきっかけではないかと言われている。
 ソルティは、この失踪の背景にはジョーン同様の(栗本薫同様の)、クリスティの自身への気づきがあったのではないかと推測している。(クリスティの母親は相当な教育ママだったらしい)



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 大映三大女優・美の饗演 映画:『女経』

1960年大映
100分、カラー

 3話から成るオムニバス映画。
 タイトルの「女経」とはどういう意味かと思ったら、なんと!

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第一話 「耳を噛みたがる女」 (監督:増村保造 撮影:村井博)
 トップバッターは若尾文子。
 だるま船に暮らす色っぽくしたたかなホステス紀美を演じている。
 「おんな」を使って男を振り回す、まさに若尾らしい役どころ。
 だるま(達磨)船とは幅が広い木造の和船で、昭和初期頃に貨物の運送に使用されていたが、のちに港湾労働者を中心にその中で水上生活する者が増えていった。
 小栗康平監督の映画『泥の河』(1981)は、大阪の安治川で水上生活する昭和30年代の家族の話を扱っているが、東京でも隅田川で見られたらしい。
 80年代にはなくなったという。
 紀美が最初の婚約者に捨てられたのは、水上生活者であったことによる。
 リアリティを追求する増村演出がここでも光っている。

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若尾文子(公開当時27歳)


第二話「物を高く売りつける女」 (監督:市川崑 撮影:小林節雄)
 掛け値なし「日本一」の美女と謳われた山本富士子が、不動産業界を舞台にやはり「おんな」を武器に詐欺を働く。
 これほどの美女に引っかからない男がいようか。
 カモにされる相手は船越英二、2時間ドラマの帝王・船越英一郎の父親である。
 着物姿の山本の艶やかなこと!
 市川崑の演出は、金田一耕助シリーズを彷彿とする。

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山本富士子(当時29歳)


第三話「恋を忘れていた女」 (監督:吉村公三郎 撮影:宮川一夫)
 ラストを飾るはグランプリ女優の京マチ子
 京都で修学旅行生相手の旅館やバーを営む商売一筋のやり手の女将。
 それが昔の恋人と再会することによって「おんな」を取り戻し変わっていく。
 『羅生門』、『雨月物語』、『破戒』の宮川一夫のカメラとともに、『安城家の舞踏会』でも見せた吉村演出が素晴らしい!
 京マチ子もただ美しいだけでなく、ラストの橋の場面など非常に「おんな」っぽく撮れている。
 3話のうち、これがベスト。

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京マチ子(当時36歳)


 3人の女に共通するのは、美しい外見の裏にある“したたかさとがめつさ”であろう。
 「きれいなバラには棘があるから気をつけよ、ご同輩」というのが男性観客に説く女経の骨子に見える。
 だが、彼女たちの“したたかさとがめつさ”の背景には、男社会で学のない女が一人、身を持ち崩さずに凛として生きていくことの難しさがある。
 枕営業が横行した昭和時代なら特に。
 
 1960年の観客と2021年の視聴者とでは、観るべきものが異なって当たり前。
 またそれを可能にするのが名作と言われるゆえんであろう。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ラスプーチンの長さ 本:『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)

2021年祥伝社新書

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 副題「歴史と伝承が息づく13話」
 約30年間ヨーロッパに住み続けてきた著者二人が、多くの国や地域を訪れるなかで触れてきた地域特有の風習や有名な伝説、怪奇事件を取り上げている。
 各話につけられたタイトルを羅列すると、
  1. 自殺を誘発する曲『暗い日曜日』
  2. 火事を招く絵『泣く少年』
  3. 実在した「呪いの人形アナベル」
  4. 最強の心霊現象・エンフィールド事件
  5. バチカンが正式に認めたファティマの奇跡
  6. ドッペルゲンガーを目撃した有名人
  7. 650人の処女を生贄にした伯爵夫人
  8. 21世紀に暴かれた、切り裂きジャック
  9. ルートヴィッヒ2世の幽霊
  10. 怪僧ラスプーチン暗殺の謎
  11. 天才科学者ニコラ・テスラの未開発技術
  12. 現代によみがえった吸血鬼
  13. ユダヤ教の人造人間ゴーレム

 映画や小説や漫画の題材にもなった有名な話ばかりである。
 ソルティがよく知らなかったのは、2の「泣く少年」の逸話(ネットで検索したら問題の絵はどこかで観た覚えがあった)、11の天才科学者ニコラ・テスラの業績、それにラスプーチンのペ×スの長さについてくらいだろうか。

 交流電流、電動機、蛍光灯、無線装置などを発明し世界的にはエジソンを凌ぐ天才とみなされているニコラ・テスラの名が、日本ではほとんど聞かないのが不思議である。
 彼が考案した、エネルギーが無料になる「世界システム」や、軍艦を敵のレーダー上から消すことができる「レインボー・プロジェクト」などは、莫大な利権や武器開発に関わる畏れるべき発明であり、国家や大企業の絡む巨大な陰謀が見え隠れする。
 まるでオカルト映画かSF映画のような不思議きわまる「フィラデルフィア実験」についてはそのうち調べてみたい。

軍艦


 バチカンの歴代法王を震え上がらせ40年以上封印されてきたファティマ第3の予言は、2000年に時の法王ヨハネ・パウロ2世の決定により正式発表された。
 ソルティが子供の頃は、世界の怪奇事件を扱った子供向けの本や漫画、オカルト系番組には必ずと言っていいほど取り上げられ、見聞きするたびに不安と好奇心とが入り混じった気分にさせられたものである。
 なのに、正式発表された頃(30歳を超えていた)にはまったく興味を失っていて、内容も確かめなかった。
 その前年(1999年)に「ノストラダムスの大予言」が外れたことで、一気にオカルト熱が冷めたのだったか?
 よく覚えていない。

 本書を読むと、「ファティマの奇跡」は1973年にほかならぬ日本の秋田の修道院のシスターの身の上にも起っていたそうだ。
 ある日、笹川シスターの前に聖母が出現しメッセージを伝えたのだが、その内容がファティマ第3の予言と同じだったという。
 そう言えば、秋田にはイエス・キリストの墓があるという伝承があった。
 いや、青森だったか?
 ラスプーチンのそれの長さと同じくらい、どうでもいい話だ。


 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● マチョイズムの旗手 本:『太陽の季節』(石原慎太郎著)

2002年幻冬舎
収録作品初出
『太陽の季節』1955年
『処刑の部屋』1956年
『完全な遊戯』1957年
『乾いた花』1958年
『ファンキー・ジャンプ』1959年

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 石原慎太郎が20代の時に書いた5編が収められている。
 自身「あとがき」で記しているとおり、石原個人の青春メモリアルであり、かつ戦後日本のある一時代(昭和30年代)の先鋭的な若者の風俗をとらえた小説、いわゆる青春風俗小説と言ってよかろう。
 その意味では、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠広『ぼくって何?』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、田中康夫『なんとなくクリスタル』などと同列に論じることができる。
 ただし、青春小説と言ったときに多くの人が抱くようなイメージ――恋、友情、ライバル、挑戦、挫折、裏切り、喧嘩、孤独、絶望、見栄、反抗、葛藤、初体験、自己陶酔、成長e.t.c.――はここにはない。爽やかさとも甘酸っぱさともほろ苦さとも縁遠い。
 石原の描く青春は、「酒と女と喧嘩と退屈しのぎの愚行」で埋められた青年たちの自堕落な日々の記録であり、愛なきSEXと暴力と無法のはびこるダークで無軌道な世界である。
 それは後年の女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989)の少年たちや、 90年代渋谷界隈を闊歩したチーマ、それに昨今話題の半グレあたりの手口や行動を先取っているかのようで、本書はあたかも戦後の青少年犯罪の見本市あるいは先触れのようである。
 当時、石原の小説が世間の注視と非難の的になったのも頷ける。
 サド侯爵ほどの確信犯、快楽犯ではないものの、反倫理・非ヒューマニズム・不健全に貫かれているのは確か。
 よくもまあ都民はこんなダークな小説を書く人間を都知事に選んだものよ(笑)!
 
 一方で、これらの作品に書かれていること=主人公の青年たちがやっていることは、作品発表のほんの十数年前まで日本軍が植民地や戦地でやっていたことと変わらない。一部の兵士たちは徒党を組んで「愛なきSEXと暴力と無法」に勤しんでいたのである。
 戦争が終わって新憲法が作られて日本がどうにか貧しさを脱し、まがりなりにも平和で文化的な国になったからこそ、ここに描かれる青年たちの蛮行が悪目立ちしたのである。
 なので、太平洋戦争時の戦地における父親たちの蛮行が、戦後の平和な日本社会においてリアルな戦場を知らない子供世代によって繰り返されただけ、と見ることも可能だ。
 その観点から読むと、青春小説という枠を超えて、「男」という性の持っている生物的かつ社会的欠陥、実存的悲劇に触れている作品群と言うこともできよう。
 障子に怒張したペニスを突き刺すことでしか己のアイデンティティを保てない種族の悲哀である。
 石原文学とは、明らかにマッチョイズムの世界である。
 
男根岩
 
 
 石原文学で描かれる「男」たちは、反倫理・反社会・反文化的な行為の中に己のアイデンティティを見出そうとする。
 それがあたかも既存の体制すなわち大人たちが作った社会や法や文化や様々な決まりごとからの解放を希求する自由の戦士のような印象を彼らに付与し、言葉や理屈よりも行動を尊ぶ非インテリ性とあいまって、若い読者たちに「カッコイイ」と思われたのではなかったろうか。
 若者というのはいつだって既存の文化や体制を嫌うものだから。
 行動に飢えているものだから。
 支配からの卒業を叫ぶものだから。

 人間が生きてるってのは考えることか動くことかどっちが先だ? 俺は思うんだがお前に一番欠けてるものは勇気だと思うな。もっと思いきって何かに徹底してみな、そうすりゃ顔色もも少しは良くなるぜ」(『処刑の部屋』主人公克己のセリフ)
 
 ただし、克己ら主人公たちが反倫理・反社会・反文化的な生き方をするのは、別段、権威に対するレジスタンス(抵抗)とか革新思想にかぶれてのことではない。そこは、石原の子供世代にあたる全共闘の青年たちとは微妙に異なる。
 克己らはただ「自分がやりたいことをやっている」だけだ。
 少なくとも自分ではそう思っている。
 
 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。(『処刑の部屋』冒頭の詞書)
 
 「俺はな、手前がなぜそんなことをやるのか考えてみるなんざまっぴらだ。やりたいからやるんじゃねえか。それだけで沢山だ。妙な理屈で自分を誤魔化すのは下らないと思うな。自分のやったことがどんな意味があるかなんざ今止まって考えたって出て来るもんじゃないぜ、やれるだけやりたいことをしてみてその内にわかって来るんだ」(『処刑の部屋』克己のセリフ)
 
 反モラルを標榜するように見えて、実は克己らもまた自分なりのモラルを持っている。
 それが「やりたいことをやる」だ。

 やりたいことをやったその先に何があるのか、何が見えてくるのか、石原はこれらの作品において何も語っていない。
 が、三島由紀夫との対談における石原の言葉から察するに、それは「僕が本当に僕として生きていく自由」であろう。
 僕が本当に僕として生きていく自由は「やりたいことをやる」中にこそある、というわけだ。

私は久し振りに、三年前、あの男を刺した直後に感じた、満たされた放心を体の内に感じていた。それは何であれ自分の肉体に繋がった仕事をやり遂げた後のあの心持良さだった。 少なくともその時、私たちにとって世界は可能なものだった。私は、自分という奴を生きるに足りるものに感じることが出来ていた。(『乾いた花』主人公・村木のモノローグ)


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 法も制度も世間も顧みることなく「やりたいことをやる」を貫けば、人は社会からドロップアウトしてアウトローになる。
 だが、それで自由に近づいたかと言えば、おそらく否だろう。
 「やりたいことをやる」とは、結局、本能や遺伝的気質や育ちによって条件づけられた“自分”を生きることにほかならず、理性や文化や法や世間という安全弁を解いて、より深いところで因縁に支配されるのを自らに許しただけなのである。
 いわば幼児返りだ。
 そう、石原文学の「男」たちに共通するもの、そして戦後の青少年の犯罪に共通する特質は「幼稚性」だと思う。
 もはや明らかなことであるが、マチョイズムの特徴の一つは幼稚性にある。


 収録されている5編のうち、『太陽の季節』と『処刑の部屋』には感心した。
 表現に生硬さや紋切り型が見られる『太陽』よりも、『処刑』のほうが完成度は高いと思う。
 他の3編は、売れっ子作家&スターになった石原が時間に追われて書き殴ったといった印象で、台本でも読んでいるようなスカスカ感だった。
 『乾いた花』に関しては、舞台となる賭場独特のルールと雰囲気とが文章では表現しにくいことは別にしても、篠田正浩監督・加賀まりこ出演の映画のほうが数段すぐれている。
 映画の出来が原作を上回った典型例と言える。

 生物的・社会的失敗作としての「男」の存在のあり方を、自らを手がかりとしてもっと深く突きつめていたなら、石原慎太郎はきっと後世に残る文学者になったであろう。ちょうど映画界におけるクリント・イーストウッド監督のように。
 彼にその勇気がなかったことが残念である。



おすすめ度 :★★

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     読み損、観て損、聴き損


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