ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 笑顔の破壊力 映画:『手をつなぐ子等』(稲垣浩監督)

1948年大映
85分、白黒
脚本 伊丹万作
撮影 宮川一夫

 スクリーンにおける杉村春子と言えば、小津安二郎監督『晩春』、『東京物語」、『麦秋』3部作の名演が眼前に浮かび上がる。
 演技なのか地なのか見分けがつかないほどの自然さで、どこにでもいそうな、お節介でお喋り好きで生活臭たっぷりの庶民のおばちゃんに扮していた。
 新劇で活躍していた杉村を小津が起用したのは、1949年『晩春』が最初であった。
 「先生、どうして私を?」と尋ねた杉村に対して、小津はこう答えたという。
 「『手をつなぐ子等』の芝居がとても良かったからさ。自然でね。」
 何十年も前にこのエピソードを聞いた時から、『手をつなぐ子等』がずっと観たかったのだが、なかなか上映される機会に巡り合わなかった。

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 9/22~28まで池袋の新文芸坐で「名匠稲垣浩、再発見」と題した特集が組まれていた。
 片岡千恵蔵主演『番場の忠太郎 瞼の母』(1931)の弁士付き上映、三船敏郎主演でヴェネチア映画祭グランプリに輝いた『無法松の一生』(1958)、森繁久彌と原節子が夫婦役を演じた『ふんどし医者』(1960)、そして『手をつなぐ子等』など、全8作品が上映された。
 すべてを観たかったけれど、そうもいかない。
 9.27国会議事堂前での安部元首相国葬反対デモの帰りに、念願の『手をつなぐ子等』の最終上映に間に合った。

 主人公は脳に障害のある小学生の寛太(初山たかし)。今でいう知的障害児である。
 他の生徒の勉強の邪魔になるということで、いくつもの学校をたらい回しにされ、両親(香川良介、杉村春子)は困り果てている。
 頼み込んでようやく入れてもらった学校には、松村先生(笠智衆)という情熱的で心やさしい教育者がいた。
「寛太君を仲間として受け入れることができるかどうかで、君たちの人としての真価が試される」
 松村の言葉に、生徒たちは寛太を差別したり虐めたりすることなく、友達としてつきあう。
 ようやく学校の楽しさを知って、朝一番に登校するようになった寛太。
 だが、そこに乱暴者のガキ大将である金三が転入してきた・・・・。

 知恵遅れだけど純真な心をもつ寛太を愛し、心配する両親の姿が、なんとも切ない。
 なるほど、杉村の演技は自然この上なく、息子を思って密かに目を拭う母のたたずまいは、観る者の同情を集めずにはいない。
 やさしく控えめで働き者、一昔(ふた昔?)前の日本の理想の母親像を作り上げている。
 この杉村の演技を見て、『晩春』他のざっかけない庶民のおばちゃん役を当てた小津安二郎の慧眼を思う。

 松村先生役の笠智衆は、本人の生まれもっての人柄の良さやちょっととぼけた味わいが、そのまま活かされる役を当てられると、うまくハマる。
 それ以外の場合、「あまり上手い役者でないかも・・・」という事実が露呈してしまう傾向にある。
 むろん、ここでは前者である。

 この映画のなによりの成功のもとは、寛太を演じた初山たかし少年の起用である。
 いったいどこから見つけて来たのか。
 本当に知的障害がある子供なのか。
 演技だとしたら、とんでもない天才子役である!
 周囲の悪ガキ達にだまされても虐められても、そのことにまったく頓着せず、あけっぴろ気で無邪気な笑顔を見せる。
 その笑顔のなんとも可愛いこと!
 なんとも癒されること!
 この世に敵の戦意を喪失させ武装解除させてしまう秘密兵器があるとしたら、それは寛太の笑顔である。
 映画データベースによると、阪妻主演・伊藤大輔監督『王将』(1948)にも「長屋の寛ちゃん」という役で出演しているが、役者にはならなかったようだ。
 
 令和のいま、本作をポリティカル・コレクトネスの目で評価したら、いろいろと引っかかるところがあるものと推察される。
 また、いじめっ子が寛太の無垢さにあって改心するという筋書きの陳腐さというかご都合主義、障がい者を「聖なるもの」として捉える紋切り型も、NHK朝ドラ『ちむどんどん』ほどではないにせよ、批判を浴びるかもしれない。
 それでもなお、74年前の本作が呼び起こす感動は決して褪せることはないし、寛太の笑顔を見るために、このさき何度も観たいと思う一本である。


手をつなぐ子等
笠智衆と初山たかし
(DVD発売されてました



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 仏教セミナー『坐禅に学ぶ身心の調い』(藤田一照×細川晋輔対談)


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芝増上寺と東京タワー

日時 2022年9月24日(土)14:00~15:30
会場 大本山増上寺 慈雲閣ホール
講師 藤田一照(曹洞宗僧侶)、細川晋輔(臨済宗僧侶)
主催 一般社団法人 日本仏教讃仰会

 首都圏に長いこと暮らしながら、芝増上寺には一度も行ったことがなかった。
 NHK『ゆく年くる年』でよく登場するお寺である。
 有名人の葬儀が行われる場所としても知られていて、最近ではむろん、安倍元首相が7月12日に弔われた。
 ここで日本仏教讃仰会主催のセミナーが2年ぶりに開かれる、しかも講師の一人は機会あったら話を聞きたいと思っていた藤田一照氏。
 台風通過後の不安定な空模様であったが、行ってみた。

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増上寺大門

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三解脱門
三つの煩悩(貪・瞋・痴)を解脱する門の意


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本殿
本尊は阿弥陀如来像

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法然上人
増上寺は浄土宗の七大本山の一つ

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本殿から見た浜松町

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会場となった慈雲閣

 広い境内の一角にある慈雲閣1階ホールが会場。
 参加者は50~60名であった。
 藤田一照氏は1954年生まれの68歳、細川晋輔氏は1979年生まれの42歳。
 親子ほど違う年齢差、禅僧としての経験の違い、あるいは知名度なんかもあって、対談とは言え、全般的には藤田氏の坐禅観を細川氏が合の手を入れながら引き出して展開する、といった流れであった。

 実際、藤田氏は話上手で、知識はもちろん米国での長い布教生活など話の引き出しが多く、話しぶりにもアメリカンな率直さを感じた。
 細川氏によれば、藤田氏の坐禅観は伝統的なそれとは大分異なっていて、「いま禅業界(?)に革命を起こしている」のだという。
 
 タイトルにある「身心の調い」というところから話は始まった。
 この「調い」は、「整い」とは違って、英語で言えばharmonize あるいは balance に近い。
 身心を制御(control, regulate)して自己をあるべき理想に近づけようとするのではなく、身心と周りとの関係の調和をはかる営為だという。
 悟りを求めて一心不乱に修行するのが伝統的な坐禅イメージとするなら、「あらゆるものとの関係性の中にある自分の身心に気づく」といったイメージになろうか。
 
 続いて、「健康」とはなにかという話。
 細川氏によると、「“けんこう”はもともと“堅剛”と書いた。それに“健康”という字を最初に当てたのは白隠禅師」とのこと。
 その振りを受けた藤田氏は、「健」「康」という漢字が、「手に筆をまっすぐ持っている」さまを表した象形文字から生まれたと解説し、健康を「本来の働きがしっかり現れている体と心」と定義した。
 坐禅とは、身心を調えて健康になること、すなわち、本来の働きをしっかり有らしめることなのだ。

 次に、藤田氏が今の坐禅観にたどりつくようになった経緯が語られた。
 野口体操や鍼灸や漢方との出会い、アメリカ生活で実践したボディワークやマインドフルネス。
 東洋と西洋の身体観、身心観がバックボーンとなったとのこと。
 なるほど、藤田氏はマインドフルネスの唱導者ティク・ナット・ハンの本を訳している。
 
 最後に、坐禅によって調えるべき3つについてまとめられた。
  1.  調身・・・・大地とのつながりの調和の探究
  2.  調息・・・・大気とのつながりの調和の探究
  3.  調心・・・・六感(眼耳鼻舌身意=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心に触れるもの)とのつながりの調和の探究
 坐禅は自己と周囲との「関係の調律」なのであるが、言うまでもなく、自己も周囲も一瞬一瞬変動している(諸行無常である)。
 つまり、一坐一坐が毎回、未知の探究になる。
 だから、坐禅は標準化もマニュアル化もできない。

 話を聴きながら思い起こしたのは、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(2021年NHK出版)であった。
 量子の奇妙な振る舞いの説明として「関係論的解釈」を唱えた画期的な書であるが、その中で著者は、関係論的解釈と古代インドの仏教学者ナーガルジュナ(龍樹)の「空の思想」を結び付けていた。

一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(『世界は「関係」でできている』より)

何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。
(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「龍樹」項より)

 「互いに作用し合う存在の広大な網=空」の中に自己投棄する――それが坐禅の極意ということか。


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本堂内部


※本記事は講座を聴いたソルティの主観的解釈に過ぎません。実際の講座の主旨とは異なる可能性大。あしからず。

















● 9.27安倍元首相国葬反対デモ@国会議事堂

 国葬モドキが行われている武道館から、およそ2キロ離れた国会議事堂前に13:40に到着。
 すでに正門に続く両並木の歩道は人でいっぱい。
 通り道をつくるため歩道の幅が半分に区切られて、参加者スペースが狭くされているのがもどかしい。
 ソルティは、8.31デモの時と同じ、議事堂の左翼側の最前列に場所を取った。

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 開始を待っていると、様々なプラカードや幟を掲げた人が目の前を通り過ぎていく。
 やはり手作りの物には味がある。

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 14時スタート。
 野党代表や憲法学者、従軍慰安婦の支援者、在日ミャンマー人の活動家、浄土真宗僧侶、カトリックの作家、演劇人、田中優子法政大学前総長等々、今回も多方面からの色々なスピーチが続いた。
 このスピーカーの多様性が意味するものは、ただ一つ。
 ここ数年の安倍元首相の民主主義を無視した強権政治に、みんな怒っていたのだ!

 一番びっくりしたのは、伝説的フォーク歌手・小室等の登壇。
 詩人の谷川俊太郎『死んだ男の残したものは』や中原中也『サーカス』の詩に曲をつけた歌など、何曲かギター片手に歌ってくれた。
 かなりのお歳だと思うが、しっかりした声と息で、朗々と歌いあげた。さすがプロ!
 中で、「あれ?この歌はたしか往年の人気時代劇『木枯し紋次郎』のテーマソングでは・・・?」と、思わず懐かしさが込み上げてくる歌があった。
 スマホで調べてみると、上条恒彦が歌った『だれかが風の中で』は、作詞が市川崑監督夫人で脚本家の和田夏十、作曲が小室等であった。
 知らなかった。
 この人の登場で、なんか空気は一気に70年安保に戻ったような感があった。(と言ってソルティは当時まだ小学生だったが・・・)

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 その間も参加者はどんどん増えていき、最終的には15,000人に膨れ上がった。
 8.31のデモの時の3倍以上だ。
 中高年ばかりでなく、学生など若い人の姿も見られた。
 世代を超えた輪が広がっている感触がある。
 ソルティはデモというものに参加するようになって四半世紀以上経つが、今回のデモに最も雰囲気が近いと思ったのは、90年代半ばに日本中でうねりが起こった薬害エイズ訴訟支援である。
 あのときは本当に、老若男女が、右と左の立場も超えて、一丸となって国に対して怒りの声を上げた。(デモの群衆の中には、小林よしのりや櫻井よしこの姿もあった)

 国葬が終わったからと言って、問題が解決したわけではない。
 統一協会との癒着、2020東京オリンピックを巡る汚職、追及すべきことは沢山ある。
 どうやら政治の季節がまた到来したようだ。
 

 
 

● 市民憲法講座:『憲法と国葬について考える』を聴く


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日時 2022年9月24日(土)18:30~20:30
会場 文京区民センター(東京都文京区)
講師 石村修(専修大学名誉教授・憲法ネット103)
主催 許すな!憲法改悪・市民連絡会

 ソルティが安倍元首相の国葬に反対する一番の理由は、「国葬するにふさわしい人と思えない」に尽きる。
 統一協会と、自民党安倍派を筆頭とする国会議員たちとの癒着を推し進めた親玉だったのだから、国を挙げて国税を丸々使って葬儀するなんて、とんでもないことである。
 それがなくとも、「モリ・カケ・サクラ」の疑惑は払拭されないままだ。
 安倍さんが日本のために他にどんないいことをしていたとしても、差し引きすればマイナスだろう。
 大平首相の亡くなった時のように、自民党と内閣で送れば十分だと思う。

 決定過程にも大きな問題がある。
 日本国憲法下では日本国の象徴である天皇だけに認められている国葬を、長期政権を維持した首相とは言え、法的には我々と同じ一国民に過ぎない人間に適用するにあたって、閣議決定のみで決めるというのはあまりにおかしい。
 それなら、日本国民の誰でも――山口組組長でも山上徹也容疑者でも志位和夫共産党委員長でも森喜朗元首相でも――閣議決定だけで国葬できることになってしまうではないか。
 岸田首相は、内閣府設置法4条を盾に「法的根拠がある」としたいようだが、そこまでの権限を内閣に与えたつもりはない。
 その人が「国葬にふさわしいかどうか」を決めるのはあくまでも国民であるべきだ。
 であるなら、民意の代表である国会にかけるのが自明の理。
 内閣は民意の代表ではない。
 現在与党が過半数を占める国会にかけたら、「安倍元首相の国葬」は賛成多数で可決されるかもしれないが、その場合、こうまで国民の反対の声が大きくなることはなかったであろう。
 民主主義尊重の手続きを怠ったところは容認できない。

 しかしながら、対象が安倍元首相ではなく、ソルティが個人的に「国葬するにふさわしい」と思える人――たとえば中村哲医師(2019年12月4日逝去)とか緒形貞子(2019年12月22日逝去)とか――であった場合を想定したとき、決定過程の不自然さを今回のように追及するかと訊かれたら、正直のところそうでもないかもしれない。(こうしたダブルスタンダードは本来よろしくない)
 つまり、ソルティの反対理由の最たるものは、やはり、「安倍元首相は国葬にふさわしい人物ではない」という点にあるのだ。
 で、こんな人物評定みたいなことをしなくちゃならないのは、安倍昭恵さんはじめ悲しみにくれている遺族のことを思うと、ほんとは嫌なんである。
 故人の悪口なんか大っぴらに言いたくない。
 多くの国民がそうせずにはいられないような状況を作ってしまった点で、現内閣は大いなる失策をしたと同時に、安倍元首相及び遺族を無用に傷つけてしまったと言うべきだろう。

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 いくぶんに主観的な安倍元首相の人物評・政治家評はともかく、客観的な法的根拠については、実際のところどうなんだろう?
 それが気になって、物凄い雷雨の中、本講座を聴きに行った。
 文京区民センターは、地下鉄春日駅・後楽園駅のすぐ近く。
 参加者は30名弱であった。

 国葬の定義(「国家が主催して、国家がすべての費用を支払う葬儀」)から始まって、明治維新以降の国葬の歴史、大正15年に制定された「国葬令」の中味、日本国憲法施行以降の国葬の事例、そして法的根拠の如何などが、配布資料をもとに語られた。
 初めて知って驚いたのが、大久保利通(明治11年)、岩倉具視(明治16年)、明治天皇(大正元年)、昭憲皇太后(大正3年)らに並んで、大正8年に李太王、大正15年に李王の元韓国皇帝2人が国葬されていたことである!
 これは、当時朝鮮半島が日本の植民地になっていて、2人の国王が日本政府の傀儡だったことによる。朝鮮半島支配に利するべく、国葬を悪用したわけである。
 この史実、日本はもとより韓国の歴史教科書にも載っていないそうだ。

 さて、法的根拠を議論する上でポイントとなるのは、1947年日本国憲法施行とともにそれまであった「国葬令」は効力を失ったのだが、その際、新たに法律を作らなかった点である。
 ここで「国葬に関する法律」というのを作って、「誰を対象とするか、どうやって決定するか」など委細決めておけば、その後の混乱は生じなかった。
 その法律を制定しなかったので、その後、皇室典範が適用される昭和天皇崩御(1989年)の場合を除く貞明皇后(大正天皇后)・吉田茂元首相・香淳皇后(昭和天皇妃)の逝去に際して、法的根拠を曖昧にしたまま「準国葬」とか「国葬の儀」といったネーミングでごまかした「国葬モドキ」が実施されたのである。
 もっとも重要なことを曖昧にして(棚上げして)おいて、いざとなったらあたふたとし、場当たり的な対応でごまかす――これは日本人の悪い癖であろう。
 いずれにせよ、答えは明らか。
 明確な、万人が納得できる法的根拠は存在しない。

 加えて石村氏は、9/27の安倍元首相の国葬が「実体的憲法違反」になる可能性に関して、以下の5つを指摘した。(配布資料より抜粋)
  1. 平等原則違反(憲法14条)・・・国葬の実施は、人の死に価値順列をつけることにより、国民を等しく扱うものではない。
  2. 財政立憲主義違反(同83条)・・・国葬の実施は、金額が多いこと、緊急性が薄いこと、法令に根拠がないことを考慮して、国会の審議・議決を必要とする。
  3. 国民の内心の自由の侵害(同19条)・・・国葬が実施されることに伴い、行政機関、地方自治体、私的団体によって、国民に一定の強制行為が促されるおそれがある。この行為がなされた場合には、思想・良心の侵害があったとして、損害賠償の請求が求められる。
  4. 政教分離違反(同20条3項)・・・国葬の実施と絡んでなんらかの宗教的な要素が介在した場合には、国民の信教の自由が侵害され、国家が特定の宗教を助長したものとして、政教分離違反になるおそれがある。 
  5. 国葬への反対行動への規制(同21条)・・・国葬当日、会場周辺にて反対行動を行うことが制限された場合、特定の内容の危険性のない行為まで根拠なく制限することは、表現の自由侵害となりうる。

 最後に、石村氏は次のように聴衆に投げかけた。
「そもそも、国家が先頭に立って何かをするというやり方は、いい加減止めた方がいいのではないでしょうか? その最たるものが戦争ではないでしょうか?」

 故人が国葬にふさわしいか否かを問うのでもなく、国葬の決定に法的根拠があるか否かを如何するのでもなく、大喪の礼を含めた国葬そのものの是非を問うという視点。
 ソルティは、そこまでは突き詰めていなかったな・・・・・。

 9月27日は半休取って、国会議事堂前に詰めるつもりでいる。

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● ドキュメンタリー映画:『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(太田隆文監督)

2019年青空映画舎、浄土真宗本願寺派
105分
ナレーション:宝田明、斉藤とも子

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 戦死者20万656人。日本で唯一の地上戦が行われ、県民の4人に1人が死亡した沖縄戦。
 それはどのように始まり、どのように終わったのか。
 どれほどの悲惨と残虐と苦しみがあったのか。
 これほど多くの民間人が犠牲になった背景にはいったい何があったのか。
 沖縄戦体験者12人の証言と専門家8人による解説、そして米軍が撮影した記録映像を用いて、時系列でわかりやすく克明に描いている。

 下手な解説やコメントはすまい。
 これはぜひ観てほしい。
 国家というものがいかに狂気なシステムになりうるか、ファシズム下の学校教育がどれだけのことを成し遂げるか、人間がどれほど無明に閉ざされているか、嫌というほど実感させられる。

 ソルティはこれまでに仕事で1度、観光で2度、沖縄に行っている。
 しかし、沖縄戦の関連施設を訪ねることはなかった。
 ひめゆりの塔、対馬丸記念館、沖縄陸軍病院跡、佐喜眞美術館・・・・。
 一度は行っておくのが、沖縄を本土決戦のための時間稼ぎの防波堤として利用した「やまとんちゅう(本土の人)」の義務だろう。

 ナレーションをつとめた宝田明(2022年3月逝去)は、ハンサムでダンディな俳優として知られたが、戦後満州で11歳まで過ごし、自身もソ連兵の銃弾で瀕死の重傷を負った過去があるという。
「なぜに子供たちは、親を奪われねばならなかったのか」
「なぜに子供たちは、実の親の手で殺されなければならなかったのか」
 ラストシーンの慟哭そのものの語りはそれゆえであったか。

 懼れるべきは、他国に攻撃される可能性なのか?
 それとも、自国がファッショ化し、自国に心を殺される「今ここにある危機」なのか?


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多くの子供達が本土疎開のために乗った対馬丸は
アメリカの潜水艦によって撃沈された





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『クイーン』(スティーヴン・フリアーズ監督)


2006年イギリス、フランス、イタリア
104分

 エリザベス2世女王の国葬がつつがなく終わった。
 伝統に則った盛大で格式ある葬礼、弔問に訪れた多くの国民の悲しみと喪失感、亡き女王の偉大さをこぞって称えるマスコミ――それらをテレビやネットニュースで観ていて、「さすが大英帝国」と思ったけれど、一方、なんとなく違和感というか空々しさを感じもした。 
 1997年8月31日に起きたダイアナ妃の交通事故死直後の英国マスコミのセンセーショナルな報道や、それに煽られた一般市民のふるまいを覚えている人なら、きっとソルティと同じようなことを感じたと思う。
 「あのときは、あんなにエリザベス2世を非難し、憎み、罵倒していたのに!」
 「王室廃止の声さえ上がっていたのに!」

 そう。スキャンダルまみれなれど、その美貌と博愛精神と人の心を一瞬でつかむ魅力とで人気絶大だったダイアナ妃の非業の死に際して、英王室とくに元姑であるエリザベス2世が何ら弔意を示さなかったことで、大騒動が巻き起こったのだ。
 本作は、その一部始終をクイーンエリザベス2世の視点から描いたものである。

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ヘレン・ミレンとマイケル・シーン

 エリザベス2世を演じているのは、ロンドン生まれのヘレン・ミレン。
 本作で数々の女優賞を総なめにしたが、それももっともの名演である。
 君主としての威厳と気品のうちに英国人らしいユーモアと忍耐力を備え、国家と国民に対する強い責任感と、突然母親を失った孫(ウィリアム王子とヘンリー王子)はじめ家族に対する愛情を合わせ持った一人の女性を、見事に演じている。
 その威厳は、ヘレンの父親がロシア革命の際に亡命した貴族だったせいもあるのだろうか。
 
 時の首相であるトニー・ブレアに扮しているのはマイケル・シーン。
 顔立ちは本物のトニーによく似ている。
 左翼政権を率いた野心あふれる男の精悍さより、母性本能をくすぐる甘いマスクが目立つ。
 
 ソルティはエリザベス2世をテレビで見るたびに、亡くなった祖母を思い出したものである。
 冷静で強情なところ、ハイカラでファッショナブルなところ、職業婦人として自立していたところ(祖母は看護婦長であった)、賢明で物知りなところ、目鼻立ちにも似通ったところがあった。
 久し振りに祖母を思い出した秋分の日。
 
エリザベス2世
エリザベス2世の冥福を祈る
 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 


 

● 映画:『ひめゆりの塔』(今井正監督)

1953年東映
130分、モノクロ

 ドキュメンタリー映画の俊英、今井正監督による本作は、吉永小百合主演による1968年版(舛田利雄監督)とくらべると、やはりドキュメンタリー色が強く、全編リアリズムにあふれている。
 それはドラマ性が弱い、すなわちエンターテインメントとしてはいま一つということでもあるが、いったいに、「ひめゆり学徒隊の史実をエンターテインメントで語ることが許されるか!」という思いもある。
 物語の背景や人物関係がわかりやすく、随所に感動シーンがあり、映画として楽しめるのは68年舛田版。一方、豪雨の中での担架を抱えた部隊移動シーンや米軍による無差別爆撃シーンなど、「超」がつくくらいの写実主義に圧倒され、戦争の怖ろしさや悲惨さに言葉を失うほどの衝撃を受けるのが53年今井版である。

 出演者もまた、スター役者を揃えた舛田版にくらべると、本作でソルティがそれと名指しできる役者は、先生役の津島恵子と生徒役の香川京子以外は、藤田進と加藤嘉くらいしかいなかった。
 クレジットによると、渡辺美佐子、穂積隆信も出ているらしいが、気づかなかった。
 脚本は水木洋子、音楽は古関裕而である。
 当時、沖縄はまだ返還されていなかったので、東映の撮影所の野外セットと千葉県銚子市の海岸ロケで撮影されたという。(ウィキペディア『ひめゆりの塔』より)

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生徒たちと川遊びに興じる先生役の津島恵子
 
 すでに島の上空も海上も米軍にすっかり埋め尽くされているというのに、「大日本帝国は総攻撃により敵を撃退する。勝利は近い」と最後の最後まで国民をだまし続け、もはや敗戦が隠せなくなるや、「捕虜になるよりは国のために潔く死ね」と、国民を突き放す大本営。
 統一協会との癒着を隠し続け、安倍元首相の国葬を断行する今の自民党と、どこが違うのか!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 9.19大集会「さようなら戦争 さようなら原発」デモに行く

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 関東地方にも台風が接近中。
 午前中は地元も都内も大雨だったので、行くか止めるか迷ったが、正午すぎたら雨が止んで空が明るくなってきた。
 急いで身支度をして、家を出た。

 JR山手線を原宿駅で降りると、明治神宮前から集会場所の代々木公園野外ステージまで続く長い列ができていた。
 到着すると、ステージではプレコンサートが始まっていた。

 会場を埋め尽くす人、人、人。
 風にはためくカラフルな幟(のぼり)、思い思いのメッセージが書かれたプラカード。
 主催者発表では13,000人参加とのこと。
 やはり、安倍元首相の国葬問題がオールド左翼たちの心に火をつけた模様。

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 13:30から始まった集会は、
  • 野党各党の国会議員
  • 作家の落合恵子
  • 改憲問題対策に取り組む弁護士
  • 国葬反対を訴える若者グループ代表
  • 労組関係者
  • 福島原発反対運動の代表
  • 辺野古基地反対運動の代表
  • ルポライターの鎌田慧  
 など、15名くらいがスピーチした。
 聞いていて「上手いな」と思うスピーチのポイントは、「簡潔な言葉、声の強弱と抑揚の変化、聴衆を引き込む“間”の活用、結論を先に言う」であると思った。
 その間、雨は降ったり止んだりしていたが、強く降ることも、長く続くことも、なかった。
 直前までの大雨を思うと、お天道様が味方してくれているような気がした。

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ソルティお手製「国葬反対アンブレラ」

 15:00から待ちに待ったデモ行進。
 原宿コースと渋谷コースに分かれた。
 ソルティはLGBTパレードで勝手知ったる渋谷コースを選んだ。
 公園通り→渋谷ハチ公前→明治通り→神宮通り公園前、と歩く。 
 NHKホールの脇で出発を待っていると、狐の嫁入り(天気雨)となった。
 我々の本気度を試しているのか、お天道様よ!?

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デモの出発を待つ参加者たち

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 歩き始めるや雨はすっかり上がって、渋谷の街に若者があふれ出した。
 中高年ばかりのデモ行進を奇異な目で見ている様子。
 LGBTパレードの時は、手を振って笑顔で応援してくれたものだが・・・。
 でもね、戦争に取られるのはわしらジジババではない、君たちなんだ!

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 「原発反対!」
 「戦争反対!」
 「国葬反対!」
 「憲法改悪、絶対反対!」
 「原発は原爆だ!」
 「子どもを守れ!」

 シュプレヒコールがビルの谷間にこだました。

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● 謎の石像の正体 ~深大寺&祇園寺探訪~

 深大寺の国宝・釈迦如来仏に会いたくて、台風前の曇天を調布に出かけた。
 今回は深大寺から1キロほど離れたところにある同じ調布市内の祇園寺にも足を延ばす。
 もちろん、深大寺蕎麦に舌鼓を打つことも予定のうち。

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寺の周囲の小屋はみな蕎麦屋である

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深大寺門前
14時半頃に着いたので人出は一段落していた
 
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本堂
おみくじは「吉」であった

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おびんずるさまもコロナ予防
 
 国宝・釈迦如来仏の由来は、貴田正子著『深大寺の白鳳仏』に詳しい。
 深大寺を開基した満功上人の腹違いの弟である高倉福信が、武蔵から京に上って大出世し、聖武天皇や光明皇后や橘諸兄の愛顧を得てこの見事な仏像を賜わり、故郷で僧侶していた兄に手渡した――というのが、貴田の説であった。
 加うるに、最初に仏像が納められたのは深大寺ではなく祇園寺、と貴田は推理する。
 その裏には、満功上人の生誕地と言われる祇園寺こそは、高句麗系渡来人であった一族の菩提寺であり、調布地域を開拓した渡来人たちの生活と信仰の中心であり、おそらくは深大寺より先に創られたであろう、という読みがある。
 いずれにせよ、ブロンズの滑らかな曲線と上品な輝き、童子のように可愛らしい佇まい、両性具有的なアルカイックな微笑み、実に魅力的な仏像である。

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銅造釈迦如来倚像
 像高83.9cm
 飛鳥時代後期(7世紀後半~8世紀初頭)

 参拝を終えて、お待ちかねの蕎麦タイム。
 門前の店に飛び込んだ。

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ざるそば(1050円)

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店内から見える弁天池

 胃袋が落ち着いたところで、祇園寺へと向かう。
 曇ってはいるが湿度が高く、汗だくになった。

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虎狛山祇園寺
(東京都調布市佐須町2丁目)

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本堂

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周囲の風景

 祇園寺もまた深大寺同様、天平年間(729~749)に満功上人よって開かれたお寺である。
 もともとは法相宗であったが、平安に入って天台宗に改宗し、現在に至っている。
 法相宗から天台宗への移行は、日本仏教史上最大の論争が徳一(法相宗)と最澄(天台宗)の間に繰り広げられたものであることを思うとき、すごい飛躍というか寝返りに映る。
 やはり時代の趨勢は無視できなかったのか。


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明治41年に板垣退助が境内に植えた松

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こんなとこまで秩父事件の余波が来たとは・・・!
自由と民権を愛する当地の人々の姿が浮かぶ

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当時の住職(中西悟玄)の息子・中西悟堂の歌碑
悟堂は僧侶にして「日本野鳥の会」の創設者である
当寺で坐禅修行の日々を送ったことが知られる

 参拝後、本堂前の御影石のテーブルでしばし休む。
 整然として静かで、落ち着くお寺である。
 天台宗ではあるが、座禅会などもやっているようであった。

 1キロ強歩いて、京王線・布田駅に。
 本日の探訪はこれにて終了。
  
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野川

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京王線・布田駅


 ――と思いきや、真の探訪はここからであった。

 祇園寺でソルティが一番注意を惹かれたのは、山門入ってすぐのところにある石像であった。
 神社の狛犬のごとく、左右一対で置かれている。
 見た目どうも和風ではなく、朝鮮風。
 花崗岩の摩滅具合から見て、せいぜい遡っても100年くらい前のものか。

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本堂向かって右側

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向かって左側

 すぐに思い浮かんだのは、朝鮮半島の村落に見られる将軍標(チャングンピョ)。
 日本の道祖神みたいなもので、村落の境界を示すとともに外敵を防ぐ魔除けである。
 天下大将軍と地下女将軍の男女の将軍が対になっているのが特徴で、埼玉県の西武池袋線・高麗(こま)駅の駅前広場にあるトーテムポールがよく知られる。(県民以外は知らないか)

高麗駅 (3)
 西武新宿線・高麗駅前の将軍標

 渡来人ゆかりのお寺だけのことはあるなあと感心したが、やはり当てずっぽうはいけない。
 なんの像か確かめたい。
 帰宅してからネットで調べてみたら、いろいろな説が載っていた。
  1. 将軍標説
  2. 深沙大王説(深大寺開山の謂れとなったインドの神様。『西遊記』の沙悟浄である)
  3. 七福神の福禄寿説(祇園寺は「調布七福神めぐり」の一つになっている)
  4. 満功上人の父母を記念するために作った説(これはソルティ推測)
 2と3の場合、像が2体あることの説明が必要だろう。
 お寺に直接電話して聞いてみようと思ったところ、ある記事を見つけた。
 深田晃二という人が書いた『朝鮮石人像を訪ねて(1)』というレポートである。
 神戸にある「むくげの会(無窮花会)」の機関誌『むくげ通信230号』(2008年9月発行)に掲載されたもので、当会は1971年1月に設立された「朝鮮の文化・歴史・風俗・言葉を勉強する日本人を中心としたサークル」との由。
 このレポートにまさに祇園寺の石像のことが書かれていた。
 抜粋する。

 寺の住職に由来を尋ねると、「戦前か戦中に付近の山にあった4体をこの寺に運んだと聞いている。2体は市立郷土博物館に移した」とのこと。
 引き続き2駅先の調布市立郷土博物館に向かった。年配の職員に由来を聞くと、「昭和49年にこの博物館はできた。そのとき祇園寺から2体移設した。調布一体は昔は別荘地帯で銀行や企業の保養所がたくさんあった。祇園寺の住職から以前聞いた話だが、“付近の山”という所は今、北部公民館のある場所で池貝鉄工の別荘があった場所だ。そこで装飾用に置かれていた物であろうとのことだった。」という。4体が2体ずつに別れた事情は判明したが、最初の4体をいかにして入手・所有したのか不明のままである。

 近所の別荘の装飾用に用いられていたとは!
 深田氏によると、「日本の各地には半島から渡ってきたと思われる石人像や石羊などが数多く見られる。これら朝鮮石造物は王陵や士大夫の陵墓の前の墓守として建てられたもの」だという。
 士大夫とは文武官すなわち高級官僚のことである。
 石人像には文人像と武人像があり、「故人が文人であった場合は文人石像を、武人であった場合は武人石像を建てる」。
 文人像は冠をかぶり笏(しゃく)を手にし、武人像は鎧を着て刀を持っている。
 祇園寺の石像は明らかに文人像である。

 よもや朝鮮の墓守り人とは思わなかった。
 祇園寺の本堂裏手には墓地がある。半島からの渡来人ゆかりのお寺という点も合わせて、二重の意味でふさわしい場所に移設されたわけである。
 驚いた。

 深田氏の『朝鮮石人像を訪ねて』は、2008年9月から2022年7月まで同機関誌に連載されていた。
 全75回である。
 驚くべき知的好奇心と研究熱心さ、そして各地を取材するフットワークの軽さ。
 ソルティも定年後はかくありたいものである。
 記事のアップロードに感謝!

秩父巡礼4~5日 133
無窮花(むくげ)

 同記事を読んで、はっと胸を射抜かれ、考えさせられたことがあった。
 なぜ日本にこれほど多くの朝鮮石造物があるのか。
 それは日本が朝鮮を占領していた時代(1910~1945)に、日本人が朝鮮半島から工芸品や文化遺産を略奪し持ち帰ったからである。
 その数は、少なくとも100,000点に上るという。
 たとえば、初代朝鮮総督の寺内正毅は、書画1855枚、書物432冊、2000に及ぶ工芸品を集め日本に持ち帰った。
 大英帝国がインドやアフリカの植民地から数々の財宝を力づくで奪い本国に持ち帰ったのとまったく同じことを、大日本帝国もやっていたのである。
 当時の富裕層は、そうした略奪品を植民地の役人や民間収集家から買い取り、自らの屋敷や別荘に飾ったのであろう。
 胸糞悪い話であるが、これまで考えたことなかった自分にも腹が立った。

 日本人の所有者の中には後になって、自らのコレクションを韓国に返還した立派な人もいる。
 上記記事によれば、2001年7月には三重県に住む会社経営者である日下守氏が、所有していた約70点の石造物を韓国に返還したことが、米TIME誌に掲載された。
 また、日本に現在ある朝鮮石造物のすべてが略奪されたものというわけではなく、正当なルートで購入・譲渡されたものや、戦後インテリアとして新たに国内で造られたものもあるようだ。

 文字が刻印されていないこれらの石像は、故郷を離れると由来が分からなくなってしまうのが普通。
 おそらく祇園寺の石人像もまたその一つであるが、使命ある持ち場(墓)から連れ去られ、海峡を越え、人から人の手に渡った最後に、ここ祇園寺――古代朝鮮半島からやって来て調布を拓き、数々の技術を日本に伝えた渡来人が眠る寺――に安息の地を得て本来の使命を果たしているわけで、その不思議な因縁は、深大寺の国宝・釈迦牟尼仏の来歴に勝るとも劣らない。


朝鮮石人像(秩父美術館)
秩父美術館にある朝鮮石人像
文人(左)と武人(右)
やっと正体がわかった!



















● トランス波、襲来!? 『装いの力 異性装の日本史』展(松濤美術館)


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 コロナ世になってはじめての渋谷。
 ミキ・デザキのドキュメンタリー映画『主戦場』を見に行って以来だから、3年ぶりか。
 あれから日本の政治状況はずいぶん変わったが、渋谷駅周辺の変わりようにもぶったまげる。
 来るたびに新しい高層ビルが増えていく。
 渋谷交差点の四方八方から押し寄せる人波と、波をかき分けて進む船の舳先のような109ビルのたたずまいは、相変わらずであった。

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渋谷駅ハチ公口

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渋谷交差点と109ビル

 109の右側の坂を上がって東急デパートの左手の道を10分ほど歩けば、渋谷区立松濤(しょうとう)美術館に着く。
 今日は、9/3から開催されている上記の展示が目的。
 ちょうど三橋順子『歴史の中の多様な「性」』を読んだばかりで、グッドタイミングであった。
 今回の展示は「多様な性」の中でも、とくにトランスジェンダーに焦点を当てたものと言うことができる。
 新しい奇抜なモードの発祥地であり、LGBTパレードが毎年開かれる渋谷という街に、まさにピッタリの催し。
 土日は予約が必要なほど混みあうらしいが、ソルティが行ったのは平日の昼間だったので、存分に見学することができた。
 が、それでも館内の人の列は途絶えることなかった。
 トランス波、来てる~!


 闘いにあたって女装したヤマトタケルや武装した神功皇后の逸話がある神代の昔から始まって、王朝時代の男女入替え譚である『とりかえばや物語』やお寺の稚児さん、木曽義仲の愛妾にして女武士・巴御前、江戸時代の若衆(陰間)や歌舞伎の女形、村の祭礼における男装女装の習俗、そして文明開化から現代までのトランスジェンダーの歴史が、絵巻物のように紐解かれる。
 絵画あり、古文書あり、写真あり、武具や衣装あり、マンガや動画あり、オブジェありのバラエティ豊かな展示であった。

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2階フロアのオブジェ
現代のトランスジェンダーたち

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 マンガの例としては、手塚治虫『リボンの騎士』のサファイア、池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカル、江口寿史『ストップ‼ ひばりくん ! 』が挙げられていた。
 どれもTVアニメ化されるほどの人気を得た。
 自分が幼い頃から異性装アニメを普通に観て育ってきたことに、今さらながら気づかされる。(付け加えるなら『マジンガーZ』のアシュラ男爵・・・)
 それはなるほど我が国の庶民レベルでのトランスジェンダー“表現”に対する寛容度を示すものに違いない。
 が同時に、日常空間におけるジェンダー規定の厳格さをも意味しているのだと思う。
 つまり、男と女の差がきっぱりと分かれている社会だからこそ、そこを越境する主人公の非日常的振る舞いが視聴者を惹きつけるドラマになり、感動を呼び得るのである。

 非日常を許容する日常、あるいは非日常(ハレ)によって刷新される日常(ケ)――みたいなものが日本文化の伝統として、また社会維持の仕掛けとして、存在したんじゃないか。トランスジェンダー的なものはその触媒として働いたんじゃないか、と思う。
 
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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 王家の紋章 映画:『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴェイ監督)

1968年イギリス、アメリカ
137分

 原作はジェームズ・ゴールドマンの戯曲。
 12世紀のイングランド国王ヘンリー2世(1154-89)を主役とする歴史劇。

 権謀術数と暗殺と戦闘シーン満載の派手な歴史大作かと思ったら、なんのことはない、ヘンリー2世一家の家族ドラマだった。
 ヘンリー2世と妃エレノアの間に生まれた3人の息子リチャード、ジェフリー、ジョンに、フランス国王フィリップ2世やヘンリーの愛人アレースが絡んで、愛と不信と欲とプライドが錯綜するハタ迷惑な家族バトルが勃発する。
 まあ、もともとブロードウェイの舞台にかかっていたのだから、このくらいのサイズが順当であった。

 とは言え、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩が『渡る世間は鬼ばかり』のような単なる内輪もめで終わらないところが、支配者の支配者たるゆえん、王家の王家たる宿命である。
 たとえば、兄弟のうち誰が一番親に愛されるかは、庶民の家庭ならせいぜい遺産相続のトラブルで済む話だが、これが王家だと誰が次の国王(=支配者)に指名されるかという、国家の未来と国民の運命を左右する大問題となる。
 同様に、夫が糟糠の妻を捨てて若く美しい愛人に走るのは、庶民レベルなら家庭裁判所での愁嘆場(または修羅場)くらいの話で済むが、これが国王夫妻ともなると、ローマ法王の許可が必須な宗教問題へと発展する。
 広大な領地と巨額な財産と圧倒的な権力は得られても、あたりまえの普通の家庭の幸福は絶望的に得られない一家の悲喜劇が描かれている。
 
 まあ、とにかく出演者の面々が豪華極まる!
 ヘンリー2世には『アラビアのロレンス』、『ラストエンペラー』のピーター・オトゥール、王妃エレノアには米国アカデミー主演女優賞を4回も獲得しているキャサリーン・ヘップバーン、リチャード王子には『羊たちの沈黙』、『日の名残り』のアンソニー・ホプキンス、フランス国王フィリップには第4代ジェームズ・ボンドとなったティモシー・ダルトン。
 アンソニー・ホプキンスは本作が映画デビューで、当時31歳。なんと同性愛者の王子という設定である(実際のリチャード1世がゲイであったかどうかは不明)。
 つまるところ、本作の見どころのすべては名優たちの演技合戦に集約される。
 とりわけ、ピーター・オトゥールとキャサリーン・ヘップバーンの共演シーンでの斬るか斬られるか丁丁発止の応酬は、スリリングかつユニークであると同時に、西洋演劇における高度の演技術の模範とも言えよう。
 
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キャサリーン・ヘップバーンとピーター・オトゥール

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アンソニー・ホプキンスとティモシー・ダルトン
2人はかつて男色関係にあったという設定である


 ところで、『冬のライオン』とは晩年のヘンリー2世という意味で、彼がイングランド王室紋章にライオンのデザインを採用したことによる。
 これが現代の英国国王の紋章にも受け継がれている。
 
イングランド国王紋章(ヘンリー1世)
ヘンリー1世時代の紋章

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現在の紋章
エリザベス2世の冥福を祈る



おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 実朝はゲイだった? 本:『歴史の中の多様な「性」』(三橋順子著)


2022年岩波書店

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 この本、面白かった。
 著者がいみじくも「あとがき」で書いているように、「文化人類学、民俗学、社会学、地理学などのごった煮」風なのであるが、それがかえって、特定の専門分野の研究書にありがちな硬直と無味乾燥から免れる結果を生み、幅広い読者の楽しめるものに仕上がっている。
 日本を含むアジアの歴史の中に多様な「性」が存在してきたことを、令和日本人に知ってもらうためには有益なことである。
 そもそも「性」というテーマを語るのに、上記のような専門分野はどれもあまりにも間口も奥行きも狭すぎる。

 欧米では「セクソロジー(性科学)」という学問分野が確立していて、セクソロジスト(性科学者)という専門研究者が大学などで、性医学、心理学、生物学、性教育などの研究や講義を実践している。
 日本の大学に「セクソロジー」を専門とする学部や専攻があるのかどうか、ソルティは聞いたことがない。(講義レベルではあると思うが)
 本書で著者が扱っているテーマは、どちらかと言えば理系的アプローチの「性科学」とは異なり、文系的アプローチによる「性文化現象学」とでも名付けたいような、まったく新しい領域である。
 文化人類学、民俗学、歴史学、地理学、社会学、文学、芸術、そして性科学などを横断しまた統合する「性文化現象学」――これこそ、「性」の多様性の長い歴史と伝統を誇る我が日本が、世界に先駆けて開拓・創造できる学問分野なのではなかろうか。
 
 著者の三橋順子は1955年埼玉県生まれの性社会文化史研究者(←という肩書をつくるほかなかったのだろう)
 自身トランスジェンダーすなわち「性別越境者」として生きてきた人である。
 最近よくマスコミに上るLGBTの「T」である。
 
 「トランスジェンダー」には二つの定義がある。まず、現象・行為としては、社会によって規定されたジェンダー、とりわけ性別表現を越境することである。その場合、越境が男女の間を行ったり来たりする時限的なものか、男性から女性へ、あるいは女性から男性へ行ったきりの永続的なものかは問わない。
 また、人物として定義する場合は、誕生時に指定された性別とは違う性別で生活している人となる。この場合も、その理由は問わない。

トランスジェンダー
オードリー・タン
世界で最も有名なトランスジェンダーの一人


 本書では、『日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』という副題通り、実にさまざまな時代、さまざまな地域の「通常(多数)とは違った」ジェンダーやセクシュアリティをもつ人びとの様相が語られている。
 例を挙げると、
  • 平安時代の上流貴族で、自ら耽る同性間セックスの模様を日記(『台記』)に細かく記した藤原頼長(1120-56)
  • 薩摩藩(鹿児島県)の青少年組織「兵児二才(へこにせ)」組において、江戸時代から明治初期まで伝わってきた男色の習俗
  • 江戸時代の最強力士であった谷風梶之助(1750-95)が実は女性であった、という伝承が残る九州の里
  • インドのサード・ジェンダー(第三の性)で現代も存在する「ヒジュラ」の実態
  • 清朝時代の中国に存在し「芸能・接待・売春」を専らとした女装の美少年「相公(しゃんこん)」
  • 朝鮮半島における移動芸能集団「男寺党(ナムサダン)」における男色文化
 江戸時代の陰間とよく似た、芸能と売春を兼ねた女装の少年たちが、インドや中国や朝鮮やタイ(「カトゥーイ」と呼ばれる)にも存在した(している)のである。
 日本の場合、陰間以外にも、年長の男が少年を愛でる男色は、中世の僧侶や武士たちの間で広く習慣化していたことは良く知られる。
 トランスジェンダーについても、古くは『古事記』に登場するヤマトタケルの女装譚に始まり、各地の祭りにおける女装の伝統、歌舞伎の女形、宝塚の男役、美輪明宏、カルーセル麻紀、はるな愛、マツコ・デラックスに至るまで、日本は性別越境者に「やさしい」文化であり続けた。
 著者によると、「夜の街を安全に歩ける」「レストランに入っても追い出されない」「仲間が集まれるお店がある」日本は、韓国や欧米から来た女装者にとって「パラダイス」なのだという。
 もちろん、その背景には古来神道や仏教が、同性愛や性別越境を禁じたり否定したりする教えをもたなかったことにある。
 
 欧米のキリスト教圏のトランスジェンダーたちは、アジア地域(日本を含む)のように伝統的・土着的なサード・ジェンダー文化の基盤を受け継ぐことができず、異性装や同性間性愛を禁じるキリスト教の宗教規範と命がけで闘いながら、社会の中で一から自らのポジションを作っていかざるを得なかった。 

 日本という国の素晴らしさの一つ、日本人のユニークネス、そして欧米文化をはるかに凌駕する“先進性”は、性の多様性に対する受容精神にこそあるのではなかろうか。
 俗に言う、大らかな性である。

 そう思うと、いったい我々日本人にとっての「保守」とは一体なんなのか、ということに思い及ばざるを得ない。
 現在の保守右翼たちが掲げる「美しい国、日本」の偶像は、文明開化から戦前までの日本の姿にある。すなわち、大日本帝国だ。
 その「儒教的かつキリスト教(西欧)的」倫理にもとづく性観念・性道徳・家族像が彼らの守りたい価値なのである。(まさにそこが統一教会の教義と合致するところだった!)
 だが、それは長い日本の歴史の中のたった80年足らずの期間(1867~1945)のことに過ぎない。
 保守右翼が忌み嫌い押し潰そうとする、多様なセクシュアリティやジェンダーのあり方を認めようとする多くの民の声こそ、古来日本の伝統や日本人本来の感性につながる、本当の「保守」なのである。


P.S. 現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、どうやらゲイという設定で、彼の思い人はいとこで三代執権となった北条泰時(坂口健太郎)らしい。
 三橋も書いているように、この時代「男色」という行為はあっても、「男色者あるいは同性愛者(ゲイ)」というセクシュアル・アイデンティティは存在しなかった。
 おそらくは、LGBTやBLファンの視聴者をあてこんだ脚本家・三谷幸喜のサービスであろうが、大河ドラマの主要人物に悩めるゲイキャラが当てられるのはじめてではなかろうか。
 今後の展開が期待される。(と言っても悲劇的結末が決まっているのだが・・・)

源実朝
右大臣源実朝
松岡 映丘(1881-1938)作



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● おやじ、涅槃で待つ TVドラマ:『悪魔が来りて笛を吹く』

1977年TBS系列
約45分×全5回
脚本:石森史郎
演出:鈴木英夫

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 『犬神家の一族』で華々しいスタートを切った古谷一行=金田一耕助の『横溝正史シリーズ』中の一作。
 1979年東映制作の映画版では、西田敏行が金田一耕助を演じ、物語のキーパーソンとなる元華族の椿秌子(あきこ)を演じた鰐淵晴子の妖艶な美しさが圧巻であった。
 本作では44歳の草笛光子が秌子を演じている。
 艶めかしさ、妖しさは鰐淵に適わないものの、乳母日傘のお嬢様育ちの鷹揚さに加え、繰り返される血族結婚がもたらす遺伝的脆弱からくる精神不安を見事に演じきっていて、さすがの貫禄。
 草笛のベッドシーンは非常に珍しいと思うが、堂に入ったものである。

 数十年ぶりに見ての嬉しい驚きは、モロボシダンこと森次晃嗣が刑事役で出演していて、古谷=金田一とのツーショット連発なこと。
 刑事役、実にお似合いでカッコいい。
 一緒に須磨や淡路島に行き調査するシーンは、二人のヒーローの顔合わせの妙が、郷愁をそそるばかりの野外ロケと相俟って、陰惨この上ない物語の数少ない息抜きとなっている。

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古谷一行と森次晃嗣

 椿家の令嬢・美禰子を演じる檀ふみも、清楚な品あって好感持てる。
 演技の上手さにも目を瞠らせるものがある。
 ほかに、原泉、観世栄夫、長門裕之、加藤嘉、江原真二郎、三崎千恵子、野村昭子、長門勇など錚々たるベテランたちが脇を固めており、昭和時代のドラマの質の高さは何よりも役者によって担保されたのだと実感する。

 特記すべきは、犯人役の沖雅也。
 ソルティの中ではやはり、『太陽にほえろ』のスコッチ刑事のクールなイメージが強いが、どこか影のある美青年であった。
 1983年に31歳の若さで飛び降り自殺し世間に衝撃を与え、そのとき残された遺書の文句、「おやじ、涅槃で待つ」は話題になった。
 「おやじ」とは沖の所属した芸能プロダクション社長で、養子縁組により沖の「父」となった日景忠男のことである。
 沖の死後に日景が著書でカミングアウトしたことで知れ渡ったのだが、日景と沖は恋愛関係にあった。
 それは当時、好奇心と嘲りと嫌悪をもって語られるスキャンダル以外のなにものでもなかった。
 もちろん、本作放映時(1977年)、世間はそんなことはつゆ知らなかった。
 沖雅也は女性人気抜群の若手実力派だったのである。

 こうしていろいろな事情が判明したあとで本作を観直したとき、沖雅也という俳優の悲しく途絶した人生と本作の真犯人・三島東太郎のあまりに不遇な人生とが重なり合って、言いようのない悲劇的味わいがそこに醸し出されている。
 とくに、ラストシーンで三島が自らの正体を満座のもとに告白するくだりでは、沖の芝居は演技を超えたリアリティを放ち、あたかも沖自身の肉声、魂の叫びのようにすら聞こえてくる。
 見続けるのがつらいほどだ。
 日景忠男は2015年に亡くなった。
 二人が涅槃で再会できたことを願うばかりである。

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脱衣し背中の「悪魔の紋章」を見せる三島東太郎(沖雅也)

 ところで、本作の導入部では、戦後まもなく発生し日本中を震撼とさせた帝銀事件をモデルにした天銀堂事件なるものが語られる。 
 つまり、本作の時代設定は1947年(昭和22年)である(横溝の原作は1954年刊行)。
 本作の放映、すなわち中学生のソルティがリアルタイムで茶の間で観たのは1977年のこと。
 ちょうど30年前の日本を舞台とするドラマを観ていたことになる。
 それで改めて驚くのは、1947年の日本人の生活様式と1977年のそれとは、ほとんど断絶がないという点である。
 当時観ていて理解できなかった風習やシステム、違和感を感じるような登場人物のセリフや振る舞いは、ほとんどなかった。
 1977年の時点でも、遠い場所にいる人との連絡手段は電話や手紙であり、警察への犯罪の告発は匿名の投書であり、家で音楽を聴きたいのならレコードプレイヤーであり、ニュースは主に新聞から取り入れ、淡路島に行くなら列車と船であった。
 翻って、2022年の中学生がこのドラマを観たとき、そこにどれだけの連続性を感じるだろうか?
 電話機やレコードプレイヤーを見たことも触ったこともない、ニュースはインターネットから、音楽を聴くならスマホで、という日本人にとって、このドラマが時代劇のごとくアナクロに映ることは間違いあるまい。

 ことは、文明の利器だけの話ではない。
 現在、本作を原作通りにTVドラマ化することは難しいと思われる。
 というのも、ここで真犯人の主要動機を担っているのが、兄と妹の近親姦だからである。
 近親姦は「神をも畏れぬ忌まわしき行為」「犬畜生に劣る行為」であり、近親姦で生まれた子供は「生まれてはならない化け物」「畜生以下」「悪魔」である、という昭和時代のスティグマがこのドラマの根幹を成しており、近親姦によって生まれた子供が、自分をこの世にもたらした父と母に復讐する――という物語なのである。

 実際のところ、近親姦は世間で思われているよりずっと頻繁に起こっており、若い頃に近親の男から被害を受けた実の娘や姉妹や孫娘や姪の数は、声を上げられないだけで、少なくないだろう。
 中には、中絶することができないまま、出産に至るケースもあろう。
 そうした女性被害者や生まれてきた子供たちの存在を思えば、近親姦のスティグマをいたずらに強化する本作は、今となっては時代遅れというだけでなく人権侵害の色が濃い。

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 思うに、人の持つ基本的な世界観、価値観の核は、およそ20代までに形成されてしまうのではないか。
 ソルティも昭和時代の価値観をかなり内面化している。
 そのことは昭和時代に作られたドラマを楽しんだり読み解いたりするには役立つのだけれど、令和の今を生きるにはそれなりの自己覚知が必要だ。
 かつては30歳の年の差でも、同じ日本人なら同じ文化に属しているがゆえ、ある程度以心伝心が通じた。
 いまは10歳の年の差だって以心伝心は通じないと心得るべきだろう。


 古谷一行さんの冥福をお祈りします。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 本:『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷』(池上彰、佐藤優共著)


2022年講談社現代新書

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 池上、佐藤両氏による戦後『日本左翼史』シリーズの三巻目にして完結編。
 敗戦から新左翼の誕生まで(1945-1960)の『真説編』、日米安保闘争から連合赤軍あさま山荘事件まで(1960-1972)の『激動編』に次いで、本編では、新左翼の失墜、労働運動の高まりと衰退、大量消費社会の到来、そしてソ連の崩壊と冷戦終結がもたらした左派陣営への打撃と現在まで続くその余波、が語られている。

 ソルティが小学校高学年くらいからの話なので、まさにリアルタイムで見て生きてきた日本なのだが、やはり知らないことが多かった。
 子供の頃、ストライキという言葉が頻繁に飛びかって、それになると会社員だった父親がなぜか仕事を休んで家にいたので、「ストライキっていいなあ」と単純に思ったものだ。
 国鉄のストライキ(順法闘争)――当時公務員であった国鉄職員はストライキ権を持っていなかったので、法に違反しない形での労働停滞闘争をした――が原因で起こった1973年の上尾駅事件、首都圏国鉄暴動など今回はじめて知った。

 赤羽駅ホームにいた約1500人の乗客が勤労の順法闘争により下り列車に乗車できなくなったことに激怒し、電車停止中に運転士を引き摺り下ろして電車を破壊し始め、赤羽駅での列車運行がすべて停止してしまったのです。その影響が山手線など他の路線にも及んだことで、上野、新宿、渋谷、秋葉原、有楽町など合わせて38駅でも同時多発的に暴動が起きてしまいました。
 上野駅ではいつまで経っても電車が発車しないことに怒った乗客が列車に投石して運転士を引き摺り下ろし、改札事務室や切符売り場を破壊。危険を感じた職員たちが逃げ出し無人状態となった駅で放火騒ぎが起きました。(池上による「首都圏国鉄暴動」の解説)

 日本人、熱かったなあ~。
 というより、今ならそこまでして会社に行こうとは思わないだろう。
 国鉄のストライキがある前の晩には多くのサラリーマンが会社に泊まり込んだため、都内の貸し布団屋が大繁盛したとか、まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな笑い話である。
 エコノミック・アニマルと言われ、愛社精神の強い当時の日本人ならでは、である。
 
 それで思い出したのだが、90年代初めにイタリア一周旅行したとき、南イタリアの小さな駅で列車が止まったまま、なかなか出発しない。
 発車時刻を1時間以上過ぎて、やっと車内放送があった。
 何を言っているかわからなかったので、同じコンパートメントの学生風のイタリア青年に片言の英語で尋ねてみたら、「ショーペロだ」と言う。
 ショーペロ?
 イタリア語でストライキのことであった。
 予告もなく急にストライキが始まって、そのまま乗客は立ち往生。
 でも、誰一人騒いだり、怒ったり、駅員に詰め寄ったりすることはなく、困っているふうにも見えない。「やれやれ」と言った風情で、オレンジなど食べている。
 なんて暢気な国民性だ!と感心した。
 結局、3時間待っても列車は動きださず、その街に泊まるはめになった。
 アンコーナという街だった。
 ドーモ(教会)のある丘から見た夕焼けは、生涯見た最も美しい景色の一つであった。

イタリアの夕焼け


 副題にある通り、現在の左翼は「理想なき混迷」にある。
 マルクス主義に則った「プロレタリア革命による共産主義社会の設立」という夢の残滓に漂っている。
 池上はこう述べる。
 
現在の左翼の元気のなさというか影響力の弱さは、もはや彼らが「大きな物語」を語り得なくなってきていることにあるかもしれませんね。「いずれ共産主義の理想社会が到来する」という、かつて語られていた「大きな物語」を語り続けるのが難しくなっている。

 その通りであろう。
 実際、今の共産党員の中に、それが武力だろうが無血だろうが選挙によるものだろうが、「革命による共産主義社会の設立」を本気で目指している人が、いったいどれくらいいるのだろう? 
 一度党員アンケートを取って公表してほしいところである。
 とは言え、本来の「物語」の代わりに、「平和=憲法9条護持」や「暮らしの安定」を党是として掲げて、冷戦終結後の逆境を乗り越えてきたその戦略性と組織力の高さはたいしたものだと思う。
 社民党(旧・社会党)が青息吐息の状態であることを思えば、自民党を筆頭とする保守勢力に対抗できる最後の砦としての日本共産党の意義は決して小さくはない。
 それだけに、社会主義・共産主義なんていう世迷言から一日でも早く脱却してほしい、とソルティは願っている。

共産主義者
よろしく!


 ときに、本書の発行は2022年7月。
 佐藤優による「あとがき」に付された日付も2022年7月であるが、そこでは安倍元首相の銃殺事件について触れられていない。おそらく、7月8日以前に書かれたのであろう。
 もし、池上と佐藤の対談が7月8日以降に行われたのなら、本書の内容はずいぶん違ったものになったのではないか、少なくとも最終章はまったく異なった展開となり、まったく異なった終わり方をしたであろう。
 この一日を境に、日本の政治状況はどんでん返しと言ってもいいほど変わってしまった。
 特に、日本の右翼(保守勢力)の内実がよくわからない不気味なものに転じてしまった。
 「愛国、天皇主義」を御旗に掲げてきたはずの自民党右派とくに安倍派が、「反日、反天皇主義」のカルト教団と深く結びついてきたことがあからさまになって、世の中がひっくり返ってしまった。

 目的を失って漂流しているのは左翼だけではない。
 右翼もまた漂流、いや転覆してしまった
 三島由紀夫がこの様を見たら、どんなに激怒することか!

 おそらく、しばらく前から「右翼、左翼」といった対立概念で説明できるような時代はとうに過ぎていたのだろう。
 一部の篤い宗教信者はのぞいて、右も左も誰もみな本気で「大きな物語」など信じていなかったのだ。
 「右翼と左翼」という物語の終焉――それが安倍元首相銃殺事件が白日のもとに晒した、令和日本の現実なのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『あゝひめゆりの塔』(舛田利雄監督)

1968年日活
125分、白黒

 太平洋戦争終結間際の沖縄でのひめゆり学徒隊の悲劇を描いたドラマ。
 石原裕次郎主演の日活映画や『二百三高地』、『零戦燃ゆ』などの戦争大作、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどで知られるヒットメーカー舛田利雄監督の手堅く迫力ある演出が際立つ。
 戦争ノンフィクションと人間ドラマとエンターテインメントの見事な融合である。

 主演の吉永小百合はじめ、浜田光夫、和泉雅子、二谷英明、渡哲也、乙羽信子、東野英治郎、中村翫右衛門などスター役者が揃って、1971年にロマンポルノに移行する前の日活最後の輝きといった趣きがある。
 藤竜也や音無美紀子や梶芽衣子(当時の芸名は太田雅子)もどこかに出ているらしいが気づかなかった。

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ひめゆり学徒隊に扮する吉永小百合(左)と和泉雅子(右)

 物語後半からは、B29による米軍の凄まじいじゅうたん爆撃に圧倒される。
 観ていて、日本軍相手ならまだしも民間人を容赦なく攻撃する米軍に対する憤りは当然感じるものの、それ以上に強いのは、このように民間人に多数の死者を出しても戦争をやめようとしない軍部に対する怒り、日本という国家に対する怒りである。
 サイパンを取られた時点で(本当はもっと前から)日本の敗戦は誰の目にも明らかだったのに、なぜそこで停戦講和に持ち込まなかったのか?
 本土決戦など言葉だけのきれいごとで、実際には本土蹂躙に等しかった。
 沖縄戦はじめ、本土爆撃、広島・長崎原爆投下・・・・どれだけの民間人の命が犠牲になったことか!

 昨年のコロナ禍での2020東京オリンピックでも、このたびの安部元首相国葬でも、日本という国は一度始めたことを止めることができない。
 その遂行がすでに無意味と分かってからも、益より害が大きいことが明らかになっても、国民の大多数が反対しても、政府は「聞く耳をもたない」。
 それは単純に、決めた予算の執行にかかわる問題とか関連企業の儲けとか政治家たちにわたる賄賂やリベートとか、そういった金銭的理由だけではない気がする。
 もっと根本的なところで、方向転換して改める力を欠いている。
 過ちを認められないエリートたちの宿痾なのか。
 それとも、合意形成の段階での曖昧な手続きが、いざ事態がまずくなったときに責任を引き受ける者の不在を招くのか。

 いずれにせよ、支配層の過ちのツケを払うのはいつも庶民であり、支配層は都合が悪くなるとコソコソと逃げ隠れる。
 ソルティが、戦争映画を観ていつも感じるのは、支配層に対する怒りである。
 敵対する国民――たとえばこの映画においてはアメリカ兵――に対する怒りではない。
 今回のロシア×ウクライナ戦争でも、各国の支配層と結びついたどれだけの軍需産業が儲けをふところにほくそ笑んでいるかと思うと、虫唾が走る。

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 吉永小百合は、日焼けも泥まみれや汗まみれも、ボロ着も歪んだ泣き顔も辞さない体当たりの熱演。
 沖縄の歌や踊りもそつなくこなしている。
 この役をたとえば十代の大竹しのぶがやったら、ずっとリアリティある圧巻演技になったろうなあ~と思うが、ひめゆりの名にふさわしく華があるのは小百合である。
 
 作家・石野径一郎による同名の原作は、1953年と1982年に今井正監督によって、1995年に神山征二郎監督によっても映画化されている。
 機会があったら見較べたい。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『セールスマン』(アスガル・ファルハーディー監督)

2016年イラン、フランス
125分

 第89回アカデミー賞外国語映画賞はじめ数々の国際級映画賞を獲得しているミステリーサスペンス。
 監督はイラン出身なので、舞台はおそらくテヘランだろう。
 2018年に公開されたババク・アンバリ監督によるホラー映画『アンダー・ザ・シャドウ』同様、すっかりアメリカナイズされた現在のイランの都市生活が描かれている。
 
 タイトルの由来になっているように、劇団に所属する主人公夫婦が現在演じている芝居がアメリカ作家アーサー・ミラーの『セールスマンの死』であるあたりからして、いまのイランが急激な西洋化によって遭遇している社会問題が、まんまアメリカ的であることが象徴的に示されている。
 観終わってから気づいたが、本作には登場人物が「アッラー」を称えるセリフやイスラム教徒ならではの祈りのシーンがなかった。

テヘラン
欧米化著しいテヘランの街

 教師エマッドと妻ラナは小さな劇団に所属している仲の良い夫婦。
 引っ越したアパートメントで新しい生活が始まった矢先、侵入してきた何者かにラナは暴行され、大ケガを負ってしまう。
 ラナは警察に届けることを拒否する。
 怒りのぶつけどころないまま犯人探しをするエマッドは、犯人が部屋に置き忘れた車のキーを手がかりに、ついに容疑者をつきとめる。
 それは思いもかけぬ相手であった。

 ストーリー自体は取り立てて奇抜なところはない。
 大都会ではよくある事件の一つであろう。
 犯人の意外性も驚くほどのものではない。
 単純にミステリーサスペンスとして評価した場合、凡庸な出来と言える。
 本作の評価の高さは、登場人物たちの心理描写がこまやかで、一つ一つのセリフや行動にリアリティがあり、全般丁寧に撮られている点であろう。
 他の男に暴行された妻と、それを知った教養ある夫。
 両者の揺れ動く心理と関係性の変化を見事に演じきった役者も素晴らしい。
 深みある人間ドラマとなっている。

 おそらく、西洋化する前のかつてのイランの男ならば、他の男に“汚された”妻を許さないだろう。「お前が油断しているから、こんなことが起こる」と責め立てるであろう。
 暴行した男を見つけたら、それこそただでは済まさないであろう。
 目には目を、歯には歯を、である。
 社会も男の復讐劇を称賛こそすれ、非難することはないだろう。
 アッラーには復讐の神の名もある。

 高校教師であり『セールスマンの男』を演じられるほどに現代西洋的教養や価値観を身につけたイスラム男のアイデンティティは、もはやかつての伝統文化の枠内にはおさまりきれない。
 ラストシーンで妻を襲った真犯人と対峙し、本来なら正当であるはずの復讐を果たすことに惑うエマッドの逡巡には、伝統的価値観と新しい西洋的価値観に引き裂かれるイランの知識人の現在が見事に活写されている。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● マザームーンの嫁 本:『わが父 文鮮明の正体』(洪蘭淑著)

1998年文藝春秋
林四郎訳

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 原題は In the Shadow of the Moons――My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family 「月の影――文鮮明一家における私の半生」 
 
 洪蘭淑(ホン・ナンスク)は1966年韓国生まれの女性。
 もっとも初期からの文鮮明の弟子であった両親の間に生まれ、15歳で文鮮明の長男・文孝進(ムン・ヒョウジン)と娶わせられる。もちろん、本人たちの意志や好みは関係なく。
 その後、アメリカの豪邸で文鮮明一家の傍らで姑の韓鶴子(ハン・ハクチャ)、いわゆるマザームーンに侍女のように仕えながら、10代で4人の子供を産む。
 統一教会後継者候補の妻という、世界中の信者が羨むような輝かしい地位と贅沢極まりない生活を手にしながら、彼女は不幸だった。
 その一番の原因は、夫・孝進のアルコールとドラッグ漬け、派手な女性関係、そしてDV(家庭内暴力)。
 1985年8月のある朝、ついに彼女は4人の子供を連れて屋敷を抜け出し、文一家とも統一教会とも袂を分かつ。

 これはフィクションではない。
 なので、こう言ってしまうと語弊があるが、「とんでもなく面白かった!」
 読んでいる間、「事実は小説より奇なり」という言葉が何度も浮かんだ。
 むろん、いま最もタイムリーでビビッド(鮮明)な話題であるからだが、それを抜きにしても、周囲の望むとおりに流されるまま生きてきた一人の従順な女性が、間違いに気づき、自らの頭で考え行動することを覚え、やがて自立するまでの半生を綴った成長ドラマとして読む価値が高い。
 カルト宗教や家庭問題やDVなどさまざまなテーマを含む内容の濃さ。
 教会および夫からの脱出劇というクライマックスに向けてページをめくる手が止まらない。
 文藝春秋は今こそ本書を文庫化して再発売してはどうだろうか。

壺1


 著者自身は文鮮明の長男の妻であり、著者の兄は文鮮明の長女の夫である、ということから明らかなように、長年、洪一家と文一家は密接な関係にあった。
 著者の父親・洪成杓(ホン・ソンピョ)は、統一教会を支える巨大ビジネス帝国の最初の敷石となった一和(イルファ)製薬の社長だった。
 著者はまた、文鮮明夫婦やその10人を超える子息子女たちと、14年間生活を共にしてきた。
 つまり、もっともよく文一家の実像を知る外部から来た人間というわけで、それだけにこの内幕暴露は信憑性が高い。
 教会の核である文一家の非常識きわまる実態や、中心に近づけば近づくほどに歪みと狂気が増す教会の出鱈目ぶりや怖ろしさが暴き出されている。

 今焦眉の「2世問題」もある。
 著者はまさに生まれついての信者であり、長じてから誰かから信仰を強制されたのでも、拉致監禁されて洗脳されたのでもない。
 統一教会の教義が当たり前である環境に生まれ育ち、文鮮明がメシアであることを小さい頃から疑うことなく受け入れてきた。

 私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?
 確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失――息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待――を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。

 うがった見方をすれば、夫・孝進の目にあまる不品行やDVが彼女の“生まれついての洗脳状態”を解くのに役立ったわけで、それがなければ彼女はいまも教会にとどまって「マザームーン2世」になっていた可能性も否めない。
 
 ドメスティック・バイオレンスの典型的な事例としても読む価値が高い。
  • DVがどんなふうに始まり、激化していくか。
  • 被害者である妻が、加害者である夫を「私の力で救ってあげる」と勘違いする心理の綾。
  • なぜ被害者はそこから逃げようとしないのか、あるいは逃げられなくなるのか。
  • 被害者がようやく事態を客観的に見られるようになり、逃げだす決心をするまでの過程。
  • 被害者に周囲のサポートや法的・経済的支援が必要な理由
 本書を読むと、こういったことが手に取るように分かる。
 孝進は単に男尊女卑、亭主関白の風潮が強い韓国の夫というだけではなかった。
 著者が信仰する宗教組織の絶対君主のような教祖の息子で、次期リーダー候補でもあった。
 そこには結婚の当初から圧倒的な上下関係があったのである。

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 家族というテーマもある。
 いまや誰もが知るように、統一教会の教義の中心は「家庭至上主義」である。
 一対の純潔な男と女が、メシア文鮮明によって主宰される合同結婚により結ばれて、妻は夫に尽くし、夫は妻を守り、互いに相手を裏切らず、信者となるべき沢山の子供をつくり、愛情のうちに育てる。いわく、「家族とは、愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」。
 日本の戦前を思わせる男女観、結婚観、夫婦観、家族観がそこに見られる。
 当然、婚前交渉や浮気や不倫はもちろんのこと、夫婦別姓や同性婚はとんでもない悪魔的所業となる。

 ここでこの思想についての是非を論じることはしない。
 言及したいのは、こうした思想を説きまわった文鮮明が、まったく自らの教えと離反する行為ばかりしていたことである。
 本書によれば、文鮮明とマザームーンは13人の子供をもったが、いずれも生まれるそばから側近に預け、自らの手で育てることをしなかった。
 子供たちはあり余るお金で贅沢し放題、文夫妻の愛顧を得ようとする周囲の信者たちにかしずかれ、悪いことをしても叱られることも責任を取らされることもなく、つまるところ暴君のように育つ。
 また文鮮明は浮気を繰り返し、婚外子をもうけている。

 その息子孝進は十代の頃から見境なく女遊びをし、結婚してもまったく治まることがなかった。生まれてきた子供の誕生日も学年も知らない。
 孝進はアルコールとドラッグ漬けになり健康状態が悪化、著者との離婚が成立した後、40代で亡くなった。
 DV加害者として許されない人間であると思う一方、可哀想なところもある。
 両親から必要な愛情やしつけを受けることなく甘やかされて育ち、次代のメシアとして周囲から過重な期待が寄せられて、その孤独とプレッシャーは半端なかったであろう。
 ここにあるのは、虐待の連鎖であると同時に、典型的な「機能不全家庭」の姿である。
 これが教会の言う「愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」の最高モデルだった。
 著者が、この環境にいながら自らの4人の子供を愛情をもって育て上げ、文家の家風に感化させなかったことを誉めたたえたい。

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 もう一点、我々日本人にとって看過できないテーマがある。
 日本が教会に対して果たし続けてきた役割である。

 日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。19世紀、日本の天皇は神聖を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の1945年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
 したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることになんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。

 文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復讐以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の35年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。

 文鮮明および統一教会の基本ポリシーは「反日」「反共」。
 これは文鮮明自身が、子供時代に植民地政府である大日本帝国から様々な迫害や抑圧を受けたこと(たとえば朝鮮の全家庭には家に神棚と御真影を祀るよう命じられた)、青年時代に平壌で宣教を始めたときに共産党当局から睨まれて拷問を受け強制収容所送りとなったこと、が大きな要因となっているようだ。
 つまるところ、戦前・戦中に日本が朝鮮人に対して行った様々な所業が、回り回って、後年、日本の信者たちが韓国人である文鮮明に対して多大な賠償を払い続けなければならない結果となったわけで、その巡りあわせに因果応報という言葉すら浮かんだ。

 とは言え、安倍元首相を殺害した山上容疑者の場合をあげるまでもなく、家庭を崩壊させるほどのあこぎな集金活動や、人格を崩壊し親兄弟を分裂させる洗脳システムは、基本的人権尊重を掲げる法治国家としてとうてい見逃すことのできるものではない。
 本書で明らかにされた文一家の実態くらい、「宗教」や「平和」や「家族愛」という言葉からかけ離れたものはない。
 純潔と清貧と自己犠牲の心でもって教会に奉仕し、文一家を「神の家庭」と仰ぎ見ている末端の真面目な信者たちがあまりに哀れである。
 洪蘭淑はこう指弾する。

 統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とペテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞞である。

 文鮮明は2012年に亡くなった。
 その息子たちが相次いで亡くなったり会と対立して離反したりで、現在80歳近いマザームーンが頼朝亡き後の北条政子の如く、君臨している。
 その後継者はいまだ決まっていない。

壺4




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● 8.31 国葬反対デモに行く

 久しぶりにデモに行った。
 コロナ世になってからはじめてである。
 感染力の高いオミクロンが爆発している中、都心に行って人混みに雑じるのは避けたいところだけれど、このデモばかりは行かなくては、と思った。
 4回目のワクチンは打った。
 マスクをして、その上から眼鏡タイプのフェイスシールドをして、人と喋らないようにしよう。
 人の密集していないところで静かにデモに参加しよう。
 そう考えて、18時に国会議事堂に足を運んだ。

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国会議事堂の左翼側に場所をとる

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道路の反対側(右翼側)にステージ

 さすがに8月も終わり。
 日中こそ残暑厳しかったが、夕刻になると都心にも涼しい風が吹き、暑くもなく寒くもなく、外の集会にはおあつらえ向きであった。
 あちこちからやって来た個人や団体で議事堂前の並木道はまたたく間に埋まった。
 主催者発表によると4000人の参加。
 パッと見、50代以上がほとんどのようだった。

 反原発デモの時はもっと若い世代が多かった。
 やはり桜田淳子を知っている世代と知らない世代とでは旧・統一協会に対するイメージが違うのだろうか。
 考えてみれば、今の20代――下手すると30代も――は95年にあったオウム真理教事件すら記憶にないわけで、宗教カルトの怖ろしさがピンとこないのかもしれない。
 もっとも今日は平日。休日ならばもっと若い世代や家族連れの参加もあるかもしれない。
 
 参加者の士気を高めるちょっとしたギターコンサートのあとに、集会は始まった。
  • シュプレヒコール・・・「国葬反対」「モリカケサクラを忘れるな」「歴史の改竄、許さない」「統一協会、癒着を許すな」等々
  • 日本共産党・小池晃のスピーチ
  • 社民党・福島みずほのスピーチ
  • 立憲民主党・阿部知子のスピーチ
  • NPO法人「mネット 民法改正情報ネットワーク」スタッフのスピーチ
  • NPO法人「アジア女性資料センター」スタッフのスピーチ 
  • 上智大学の政治学者・中野晃一のスピーチ
 小池、福島両氏のスピ―チはさすがに上手かった。簡潔にして迫力がある。
 二つのNPO法人が訴えたのは奇しくも同じテーマで、ずばり「ジェンダーとセクシュアリティ」。
 選択的夫婦別姓制度、同性婚法制化、学校における性教育・・・・これらの政策が、旧・統一協会の教義と結びつくような形で自民党とりわけ安倍派によって否定され、推進を阻まれてきた経緯が語られた。
 そうなのだ。旧・統一協会の自民党への浸透が深まるほどに、性教育バッシングは強くなった。
 当時HIV関連のNPOで働いていて、学校にエイズ教育の講師として行くことの多かったソルティは、それを肌で感じていた。
 小学校でエイズの話をするとき、「エイズは輸血や母子感染によってうつります」以外の感染経路の話はしてくれるな、というところが多かった。

 アジア女性資料センターのスピーチで傾聴すべきは、「たとえ旧・統一協会の影響がなかったとしても、これらの政策を日本で推進するのは難しい。それは、我が国にはいまだに男性上位の異性愛者中心社会という枠が根強くあるからで、ジェンダーやセクシュアリティについての認識が大きく変貌しようとしている現在、保守層をはじめ不安を感じている人が多くいる」との発言。
 デモに参加していた男たちは神妙に聞いていた様子。
 中には「国葬の是非とは関係ないじゃないか」と思った人もいたかもしれない。

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配布されていたポスター

 こうした左派のデモにおいて、様々な反権力的活動をしている団体が「ここぞとばかり」にそれぞれの活動情報や近々開催するイベントのチラシを参加者に配布するのは、いつものことである。(クラシックコンサートの入場時を想起する)
 ソルティも有楽町線・永田町駅から国会議事堂前に行くまでの数百メートルで、20枚以上のチラシを渡されるがままに受け取った。
 沖縄問題、ウクライナ問題、憲法9条問題、「日の丸・君が代」問題、講演会『江戸から見た人権』チラシ(講師は『カムイ外伝講義』の田中優子氏)、福島原発による放射線被害の問題、革マル派(まだやってる!)のアジビラ・・・・等々。
 面白かったのは、「レイバーネット日本川柳班」という団体が配布していた「世直し川柳かわら版」。
 秀逸なのをいくつか紹介する。

 カネと票掴み壺から手が抜けぬ
 国葬は国を葬ることなんか
 信じる者救われなかった夏の空

 最後にもう一度みんなでシュプレヒコールをして19時過ぎに解散した。
 9月27日まで国葬反対デモが続く。
 でき得る限り参加したい。


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月(MOON)の光に浸る国会議事堂

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皇居の外堀と日比谷のビル





● 70年代の中坊 映画:『博多っ子純情』(曽根中生監督)

1978年松竹
94分

 70年代の博多を舞台に中学生男子の日常を描いた青春ドラマ。
 原作は長谷川法世の同名コミック。

 ソルティはまさに70年代に中学時代を送ったので、「周囲の男子はまさにこんな感じだったな」という感慨を深くした。
 もちろん、埼玉のベッドタウンと博多とでは文化が違う。
 博多と言えば、博多どんたくであり、夏の祇園山笠であり、路面電車であり、博多人形であり、明太子であり、海援隊であり、男尊女卑の風土という印象が強い。
 本作は上記のような博多の名物・文化が物語の骨格をなしており、風土愛を感じさせるものとなっている。

 令和の現在の視点からすれば、ずいぶんと受け入れがたいシーンやセリフも多い。
 男尊女卑的、ジェンダー差別的、父権的なセリフであるとか、公衆浴場で女児の裸を映すシーンであるとか・・・・。
 70年代を生きていた当時は「普通」に思っていたことの多くが、半世紀近くでずいぶん NG になったのだとつくづく思う。
 「普通」の少年になれなかったソルティにしてみれば、マッチョイズムを讃えるような事象が NG になって良かったと思う反面、失われた文化に対する郷愁や愛惜のようなものもあるから複雑だ。 
 いずれにせよ、昭和は遠くなりにけりだ。
 令和の博多っ子はどんなジェンダー観を持っているのだろう?

 主役の郷六平を演じているのは光石研。
 オーディションで選ばれたそうだが、適役である。
 この映画の成功の要因の一つは光石少年を発見したことによる。
 男らしさと優しさ、ガサツさとナイーブさ、少年と大人とが入り混じった微妙なバランスを体現している。
 ガールフレンドの小柳類子役は松本ちえこ。
 松本ちえこと言えば、資生堂バスボンのCMでブレイクし一躍アイドルの仲間入り、レコードもヒットした(代表曲『恋人試験』)。
 その後、妊娠疑惑騒動が持ち上がって人気は急下降、ヌード写真集を出したり、日活ロマンポルノに出演したりと踏ん張っていたが、いつの間にか名前を見なくなった。
 今回初めて知ったが、2019年11月17日に大動脈瘤破裂のため60歳で亡くなっていた。

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光石研と松本ちえこ
 
 思春期の美しさ、博多という町の美しさ、いやいや、やっぱり映画であることの美しさを讃えるべき名編である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● けったいな水産ホラー 映画:『ブルー・マインド』(リーザ・ブリュールマン監督)

2018年スイス
101分

 女性監督による作品。
 ジェーン・カンピオン監督『ピアノ・レッスン』とウィノナ・ライダー主演『17歳のカルテ』を思わせる女子映画で、そこに往年の高部知子主演のTVドラマ『積木くずし』(最高視聴率45.3%!)とそこはかとないレズビアニズムの香り、さらにはカフカ『変身』とアンデルセンの某童話を合体させた感じ。
 つまり、まったく既存の物語におさまりきらない奇妙な映画である。
 レンタルショップのホラーコーナーに置いてあったのだが、これは『ボーダー 二つの世界』や『バクラウ 地図から消された村』とともに、ソルティが作った「ウミウシもの」という新ジャンルに放り込みたい。

ウミウシ


 主役の少女が金魚を食べるシーンで、大女優・小川眞由美を思い出した。
 岩下志麻との対談で語られていたことだが、何かの映画の撮影中、生きた金魚を口に入れて噛み切った小川の芝居を見て、共演していた志麻サマは「卒倒しそうになった」という。
 小川が、「金魚って意外と骨があるのね」と笑いながら返していたのがさすが!
 小川眞由美という女優の役者魂を示すエピソードである。 
 そうそう、『積木くずし』で不良少女を演じた高部知子の母親役が小川であった。
 高部知子はニャンニャン事件と呼ばれたスキャンダルを起こして芸能界失脚、その後、精神保健福祉士の資格を取って、現在は依存症患者のカウンセラーとして活躍している。
 不良少女と呼ばれた過去を乗り越え、見事に新しい人生を切り開いた。

 映画とまったく関係ないことを書いているが、つまり、なんとも評価しようのない、ネタバレなしには説明しようのない、けったいなホラーなのである。
 ジェンダー差別するわけではないが、思春期の女性の生理や感性を通してのみ理解し得る作品なのではなかろうか。
 男の鑑賞者にはたぶん、金魚ほどにも咀嚼できない。






おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

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