ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 古代史"トンデモ”ミステリー 本:『アマテラスの暗号』(伊勢谷武著)

2020年廣済堂出版

IMG_20250123_094851

 人気沸騰の古代史ミステリー。
 主人公は日本人の父とイタリア人の母を持つアメリカ人のケンシ(賢司)。
 最近までゴールドマンサックスで働いていた40代の男である。
 ある朝、ニューヨーク市警から一本の電話が入る。
 「あなたのお父さんが宿泊していたホテルで何者かに殺されました」
 子供の頃に別れたきり40年以上会っていない父親は、なにか大切なことをケンシに伝えるために、日本からやって来ていた。
 ケンシは父親の殺された理由を解明するため、元同僚3人とともに日本へ旅立つ。
 父親・海部直彦は、元伊勢と呼ばれる籠(この)神社の第82代宮司であった。

 伊勢神宮諏訪大社、出雲大社、籠神社、下鴨神社、大神神社・・・・・。
 日本各地の由緒ある神社を駆けめぐり、そこに仕込まれた父親からの暗号メッセージを順に読み解きながら、ケンシは日本書記にも古事記にも書かれていない日本誕生にまつわる秘密に近づいていく。
 だが、その秘密を先に手に入れるべく、暗躍する組織があった。
 殺し屋を使ってケンシの父親を手にかけた組織は、今度はケンシをつけ狙う。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮・内宮
祭神はアマテラスオオミカ三

 2003年に刊行され世界的ベストセラーになって映画化されたダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』の日本版といった趣き。
 日本の古代史や神道や神社、トンデモ本に興味ある人は楽しめるのではないかと思う。
 ソルティは神社仏閣めぐりが趣味で、マンガ版『古事記』や映画『日本誕生』など古代史も好きなので、それなりに面白く読んだ。
 ただし、これが伊勢谷のデビュー作というだけあって、小説としての出来は芳しくない。
 構成にも章立てにも人物描写にも不手際が目立ち、リアリティに欠け、叙述は乱雑で、ご都合主義がはなはだしい。
 『ダ・ヴィンチ・コード』と比較するのは、ブラウンに失礼であろう。
 アイデアそのものは面白いのだから、もっと巧みな書き手によって読みたかった。あるいはマンガならちょうど良かったかもしれない。
 実のところ、読みながら連想したのは『ダ・ヴィンチ・コード』ではなく、諸星大二郎の『暗黒神話』だった。 
 古代遺跡をめぐる少年の探索が宇宙的&仏教的結末に逢着する驚天動地の傑作『暗黒神話』を思わせる着想の奇抜さと飛躍的展開は、トンデモと分かっていても心躍るものがある。

暗黒神話

 登場人物に語らせるセリフの端々から、伊勢谷が保守右翼の愛国者であることが伺われる。
 たとえば、下鴨神社の神職であった男・小橋のセリフ。

 宗村、いい加減気づけよ。合理が一体、なにをもたらしたっていうんだよ。おまえのような合理崇拝の先にあったのは、文化や価値や道徳を破壊し、自由の名のもとに自由を抑圧し、寛容の名の下に他の意見を封殺してきたリベラルと称する全体主義や宗教さえ否定した共産主義じゃないか。日本人の力を削ぐために昔は神社で行われていた地域のミーティングを、戦後神社から切り離して日本中に公民館を建てまくったのは、ソ連にシンパシーを感じていたアメリカのリベラルだってことをおまえも知っているだろ?・・・(中略)・・・
 なにも俺は不合理や反合理まで擁護するつもりなんて毛頭ない。でもいいか、非合理がおまえの好きな合理を守っているんだよ。伝統こそが自由や価値や道徳を守る最後の砦なんだよ。これこそがおまえがまだ気づいていない、気づこうともしない、あるがままの真実だ。

 まったく、保守右翼の良心たる中川八洋先生のお言葉そのもの。
 おそらく伊勢谷は、アメリカにあってはトランプ推しの共和党支持者、日本にあっては自民党右派で、同性婚にも選択的夫婦別姓にも女系天皇にも反対の立場と思われる。
 そこで面白いのは、この小説の根幹をなす謎=日本誕生の真相が、伝統重視の国粋主義者からしてみたら、それこそトンデモない設定だろうという点である。
 日本人が中国大陸からやってきた騎馬民族の後裔だとか、朝鮮からやって来た渡来人と原住のアイヌ民族とのハーフだとかいうならまだしも、シルクロードを渡ってやって来た〇〇〇人の血統を引いていて、日本の神様のおおもと=アマテラスの正体は〇〇〇だというのだから。
 やっぱり、伊勢谷はたんなる右翼じゃないのかも。

 ともあれ、本書を読んでいたら、神社めぐりがしたくなった。
 今年は数十年ぶりに出雲大社に行きたいな。

izumo-1405172_1280
出雲大社
マサコ アーントによるPixabayからの画像
  


おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● LGBTもっこりアクションコメディ 映画:『シティーハンター 史上最香のミッション』(フィリップ・ラショー監督)

2019年フランス
93分

cityhunter

 『世界の果てまでヒャッハー!』(2015)、『アリバイドットコム2 ウェディング・ミッション』(2023)で、コメディメイカーとしての力量を証明し続けているフィリップ・ラショー監督。
 ソルティもすっかりファンになった。
 間違いなく、いま世界で一番笑わせてくれる映画監督である。

 ラショーは、北条司作画『シティーハンター』の大ファンであるらしく、映画化するのが夢だったという。
 もちろん、主役の冴羽獠を演じるのはラショー自身である。
 舞台をフランスに移し、冴羽獠ならぬニッキー・ラーソンの名で、もっこり活躍している。

 ソルティが『シティハンター』を読んでいたのは、はるか3、40年むかし――そんなになるのか!――つまりリアルタイムで読んでいた世代なので、原作をまったく覚えていない。
 どうも『キャッツ♥アイ』と混戦している。
 なので、本作がどれくらい原作にもとづいているのか分からない。
 当時流行ったDCブランド風のジャケットに細目のパンツ、無類の女好き(エロ好き)というキャラクターはそのまま踏襲しているようだが。
 時代の要請か、さすがに“もっこり”そのものを示すシーンはなかった。

 本作は、『シティハンター』=冴羽獠の香りを漂わせるラショーのオリジナル作品ととらえるほうがいいと思う。
 ラショーの見事な脚本と冴えた演出とずば抜けた演技力あってこその面白さだからだ。
 実際、家で一人きりで映画を観ていて爆笑するなんて滅多ないことを、この作品は可能にしてくれる。
 バカリズムももっとラショーから学んでほしい。

tent-5887142_1280

 ラショーのコメディセンスの冴えの一端を紹介したい。
 冒頭シーンで、ラショー演じるニッキー・ラーソンと敵役のファルコン(海坊主)は美容外科のクリニック内で大立ち回りする。
 麻酔をかけられた手術中の男が真っ裸でベッドに横たわっている両脇で、二人は激しいバトルを繰り広げる。
 バトルのあおりを喰らって、患者の男を乗せたベッドは窓を突き破って街路に飛び出してしまい、ちょうどクリニックの前を通過していたバスのフロントに乗り上げてしまう。
 そのバスに乗っていたのは修道尼たちであった。
 修道尼と裸の男の組み合わせ。
 聖と俗の対比から笑いを生み出す。
 これは洋画で昔からあるお笑いを引き出す一つの型である。
 フィリップ・ド・ブロカ監督『まぼろしの市街戦』(1966)でもそういったシーンがある。

 裸の男を目の前にした修道女たちは、目を丸くして驚き、各人各様の反応を示す。
 ここまでは昔のコメディ映画の演出と変わらない。
 と、バスの奥のほうに座っていた若い修道尼がスマホを取り出して、写メを撮る。
 カシャッ!
 いっせいに振り返って彼女を非難の目で見る他の修道女たち。
 現代風である。
 ここまではおそらく、三谷幸喜やバカリズムでもできるだろう。

 ラショーがすごいのは、そこからもう一捻りするところ。
 若い修道女にこう言わせるのだ。
 「わかったわよ、あとでシェアするから」

the-nun-band-1512797_1280

 本作は、肌にスプレーすると、その匂いを嗅いだ相手が香りの主にメロメロになってしまう、いわゆる惚れ薬が物語の鍵をなしている。
 薬の効果を信じようとしないニッキーを納得させるために、薬の持ち主兼依頼者の中年オヤジは自らの体に媚薬をスプレーし、ニッキーに匂いを嗅がせる。
 すると、無類の女好きであるはずのニッキーが、目の前の中年オヤジにメロメロになってしまう。
 つまり、ニッキー=冴羽獠は、なんと男に“もっこり”してしまう。
 ニッキーは中年オヤジとのさまざまな恋愛シチュエイションを妄想し、デートに誘う。
 つまり、ホモネタ満載なのである。

 LGBTQの人権が唱えられる昨今、コメディで扱うにはなかなか難しい素材なのだが、当事者の一人(ゲイ)であるソルティが観ていてもイヤな気はしない。
 とんねるず&フジテレビの保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)にくらべれば、全然セーフである。
 これはやはりフランス人であるラショーの根本的な人権感覚の反映なのだと思う。
 そのネタがマイノリティである当事者を「馬鹿にしているか」「下に見ているか」「憐れんでいるか」「差別しているか」、大方の当事者は敏感に察するものなのである。
 とんねるずは、明らかに男性同性愛者を下に見て、馬鹿にして、笑いを取ろうとしていた。
 ラショーは、同性愛もまた異性愛と変わらぬ愛のあり方なのだと示すべく、中年オヤジに袖にされた(相手はヘテロなので仕方ない)ニッキーの失恋シーンをご丁寧にも描き出す。
 その悲哀と笑いの絶妙なバランスは、とんねるずがこの先50年かけても身に付けられないものである。

 たぶん、原作者である北条司にもまたこの芸当はできないと思う。
 ラショー監督は、冴羽獠の人間的デカさをさらに押し広げることに成功したのである。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『戦争宗教学序説 信仰と平和のジレンマ』(石川明人著)

2024年角川選書

IMG_20250118_204811

 戦争宗教学って言葉、初めて聞いた。
 著者は1974年生まれの宗教学者。キリスト教の家庭に生まれ育ち、幼い頃から戦争映画や戦闘機の模型や銃の玩具に夢中になったという。
 自然、宗教と戦争の結びつきに関心を抱くことになったわけである。
 本書は、戦争・軍事と宗教の関係をさまざまな角度から考察したものである。
 はじめて知ったことが結構あり、面白く読んだ。
 著者は「はじめに」でこう記している。

 本書は、いわゆる宗教戦争の歴史をまんべんなく網羅するものではない。また、一定の方法論から宗教と戦争の関係を体系的に分析するものでもない。ここで目指しているのは、宗教的な軍事や軍事的な宗教を観察しながら、私たち人間の、理想と本音、限界と矛盾、正気と狂気、愛とエゴイズムなど、良くも悪くも人間的としか言いようのない部分を直視して、それが私たちの現実なのだと受け入れることである。

 第1章「軍事のなかの宗教的なもの」では、武器や武具にみられる宗教的要素について紹介している。
 たとえば、アメリカ製の自動小銃の照準器に聖書の一節を示す略号(JN8:12=ヨハネによる福音書8章の12節)が刻まれていたとか、日本の戦国時代の武将の兜の立物に「南無妙法蓮華経」の文字が象られていたとか、戦艦大和には奈良県天理の大和(おおやまと)神社から分祠された神棚が祀られていたとか、大日本帝国の軍旗が「天皇の分身」として奉戴されていたとか、洋の東西問わず、そうした例は枚挙のいとまない。
 また、戦場におもむく兵士たちが、おみくじやお守りや占星術や験かつぎの小物など宗教的・呪術的な力を頼りにした例が挙げられている。日本の場合、千人針や五銭硬貨(四銭=死線を超える)や十銭硬貨(九銭=苦戦を免れる)がよく知られている。
 面白いところでは、第1次大戦中の西洋では、赤ん坊が生まれた時に胎盤とともに出てくる卵膜が海難除けのお守りとして海軍の兵士たちにもてはやされたという。

千人針
千人針
 第2章「戦場で活動する宗教家たち」では、西洋の従軍チャプレン、日本の室町・戦国時代に活躍した陣僧、大日本帝国軍で戦地に派遣された従軍僧について取り上げられている。
 第2次大戦中、グリーンランドの米軍基地に向かっていたアメリカ陸軍の輸送船が、ドイツの潜水艦による魚雷を受けて沈没した。このとき、自らの命を犠牲にして乗組員を最後まで励まし助けた4人のチャプレンは、いまでも「永遠のチャプレン」として聖人のごとく語り継がれており、切手のデザインにもなっているという。
 一遍上人を宗祖とする時宗の僧侶が多かったという陣僧のことや、戦地で葬儀・布教・慰問をおこなった従軍僧のことなど、その実態をほとんど知らなかったので興味深く読んだ。

 第3章「軍人に求められる精神」、続く第4章「宗教的服従を説いた軍隊」では、しばしば軍事のなかで重視される「精神」や「士気」に着目し、極端な精神主義に傾いた大日本帝国軍の実態とその背景にあったものを推察している。 
 ここが本書の白眉と言える。

 宗教には社会や集団の団結を強化する機能がある、というのは古くから指摘されていることだが、実際問題として、士気を高め、結束を強めるために、軍隊において広義の「宗教」はなくてはならないものだったのだ。宗教を真剣に、切実に必要としていたのは、実は聖職者よりも軍人だったと言っても過言ではないかもしれない。文字通り、生き残るために必要だったのである。

 宗教は戦争に大いに“役立つ”。国家レベルで然り、個人レベルで然り。
 それは、洋の東西や時代の違いを問わない人類の普遍的現象である。
 だが、戦前の日本においては、とくに国家レベルで宗教(神道)が戦争のために活用され、精神主義的傾向が顕著であった。
 たとえば、日の丸特攻隊無駄な行軍による犬死に、退却を嫌いあくまで前進・攻撃にこだわる無謀な戦略、「生きて捕虜となる辱めを受けず」、一億玉砕、「〽みごと散りましょ、国のため」・・・・。
 そこには、科学的合理的なものが何もなかった。
 そもそも、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』で暴かれたたように、敗けると分かっていた日米戦を始めた段階で、合理性はどこかにうっちゃられた。
 あたかも日本人は、元寇の際に生まれた神風神話を信じ、江戸時代の武士道を貫いて、アメリカに向かっていったようである。
 その理由を著者は次のようにまとめている。

 日本軍の精神主義的傾向の背後にあったのは、すでに見てきた通り、「天皇の軍隊」という位置付け、風紀・軍紀を維持せねばならないという課題、そして日露戦争の経験など、さまざまなものがあった。だが1920年代半ばから30年代にかけて、軍人は自分たちの軍隊を理想通りに改造することができない現実を突きつけられたため、なおさら精神論的な文句をならべて気勢を張るようになってしまったのである。

 すなわち、
  1. 大日本帝国軍がそもそも天皇の軍隊いわゆる皇軍(神の軍隊)として組織された。
  2. 長い鎖国の江戸時代からやって来た民衆によって近代的な軍隊をつくるには、道徳的教育から始めなければならなかった。
  3. 主要会戦が一日で決した日清戦争に対し、長期化し戦死者数も跳ね上がった日露戦争においては、戦場の指揮や部隊の統制が困難になる傾向が見られた。兵士ひとりひとりの戦闘意志、士気や攻撃精神を高めなければならなかった。
  4. 大正デモクラシーの時代、社会に反戦ムードが広がり、軍人は疎まれ、軍事予算が縮小された。ときは第一次大戦直後で、軍の近代化を推し進めることが必須であったのにもかかわらず、それが叶わなかった。結果として、近代兵器以外の要素=精神力に依存せざるを得なくなった。
 1~3の理由は納得するのに困難はないが、4のような理由が存在し得るとは思わなかった。
 これは言ってみれば、国民の求める平和主義が、必要な軍備強化を妨害したため、軍事力の弱点を精神力でカバーせざるを得なかった、ということである。
 「武器がなくとも気合で勝て!」みたいな・・・。
 この4の理由が妥当なのかどうかソルティには即答できない。
 が、ここから著者が示唆しようとしているのは、過去の日本のことでなく、現代の日本のことであろう。
 左翼の平和主義や反戦思想が、憲法改正や自衛隊の日本軍への格上げや軍備増強や徴兵制や核の保有を妨害するから、日本は心許ない日米安保に頼らざるをえず、かえって国として弱体化し平和が危険にさらされている、と暗に言いたいのだろう。
 次のように述べている。

 戦争が終わると、人々はもうかつてのように「必勝への信念」は叫ばなくなった。しかし、その代わりに今度は「平和への信念」を叫ぶようになった。そして、かつての拠り所であった「大和魂」の代わりに、今度は別の魂として「憲法九条」があらわれた。つまり「戦争」に対する姿勢がそのまま「平和」に対する姿勢にスライドしただけで、結局は信念や信条や心意気のようなものでどうにかしようとする傾向はそのまま受け継がれてしまっているように見えるのである。・・・(中略)・・・軍国主義から平和主義に「回心」したつもりだけれども、単に服を着替えただけで、中身の人間は実はまだ同じような目つきをしているのではなかろうか。

 先の大戦において「大和魂」で日本を守れなかったように、「憲法九条」では日本を守れない。だから科学的合理的に世界状況を分析し戦略を練って軍備増強をはかれ、ということである。
 物心つく頃より戦争映画や武器が好きだった著者らしい言明だなあと思う。

 隣人への愛を説き、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい」と言ったキリストの教えと、隣人を憎み大量に殺戮する行為である戦争は、原理的には相容れない。
 だから、キリスト教家庭に育った著者の心中に「信仰と平和のジレンマ」が生じているのだろうと推察される。
 なんとかしてその矛盾を受け入れ、ジレンマを解消したいという思いが、本書の行間から滲み出ている。

IMG_20240823_133634~4

 最後に、ソルティが一番驚いた文章を挙げる。
 
 宗教は「平和」を祈り求めるものだが、戦争・軍事も最終的には「平和」を目指している。少なくとも関係者はそのように自覚している。

 えっ! そうなの!?
 それが世間一般の常識なの?
 軍事関係者、宗教関係者、政治家、学者たちの自覚なの?

 ソルティは生まれてこの方、そんなこと一度たりとも思ったことがない。
 ソルティにとって戦争とは、単に欲望の追求であり、男のマウンティング合戦である。
 平和が目的だなんて1ミリも考えたことはない。
 ソルティにとって宗教とは、ひとりひとりの信者においては「心の安心(あんじん)」の杖であり、組織の長においては権力の源泉であり、国家においては人民をコントロールする道具でしかない。
 「平和が目的」と言えるのは、せいぜい個人の心のレベルにおいてのみと思っている。

 戦争も宗教も、ソルティの中では人類の発明した「愚行」としか思っていないので、両者間にはなんの齟齬も対立も生じず、ジレンマもない。(ソルティ自身はテーラワーダ仏教の徒ではあるが、実のところそれを一般的な意味での宗教とも信仰とも思っていない)

 ソルティは戦争と宗教について誤った見方をしているのだろうか?
 あまりに人間不信が過ぎ、ひねくれているのだろうか?
 平和主義者の看板を下ろさなければならないのか?

原爆ドーム



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)

2023年アメリカ
180分

オッペンハイマー

 原爆開発を目的とするマンハッタン計画の主導者にして「原爆の父」と呼ばれたJ.ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)の半生を描いた伝記映画。
 第96回アカデミー賞において、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞などを受賞した。

 多くの人にとっては、難しすぎる映画と思う。
 主たる時間軸が3つあり、以下の3つの物語が入れ替わり立ち替わり語られるので、話が錯綜して分かりにくい。
  1. オッペンハイマーの半生を振り返る物語・・・・病的な学生時代~著名な物理学者らとの出会い~理論物理学者として有名になる~マンハッタン計画に参加~広島・長崎原爆投下~罪悪感に襲われる
  2. 1954年オッペンハイマー事件・・・・赤狩り時代、政治家ルイス・ストローズの策謀によりソ連のスパイと疑われ、聴聞会にかけられ、公職追放となる。
  3. 1959年の連邦議会の公聴会・・・・ルイス・ストローズが閣僚として適正か否かを審議する公聴会が開かれ、結果不適格とされる。
 2番目の物語はひと昔前の家庭用ビデオのような粗い画質のカラー映像、3番目の物語はモノクロ映像と、画質に違いがあるので、注意深く見れば異なる時代の異なる物語が並行して語られているのだと気づくことはできる。
 が、ある程度の事前知識がないと、2と3の場面は何をやっているのか見当がつかない。
 アメリカ人の知識層なら、2のオッペンハイマー事件や3の公聴会の制度について知る人も多いのだろうが、そうでなければ話についていくのは難しい。
 そのほかにも、この映画を十分に理解するにはかなりの知識が要る。
 現代物理学史や有名な物理学者のプロフィール(アインシュタイン、ハイゼンベルク、ニールス・ボーアが登場)。
 第二次世界大戦の推移(とくに日米戦)。
 マンハッタン計画と広島・長崎原爆投下。  
 米ソ冷戦と核開発競争。
 赤狩り、FBI、アメリカの政治制度。
 
 ソルティは2回見てやっと全体像を理解することができた。
 悪い映画ではないが、これがアカデミー作品賞受賞ってどうなんだろう?
 あまりに大衆から離れ過ぎていやしないか?
 アメリカの観客の何%が、この映画を一度見ただけで理解できたのか、気になるところである。
 評価の高さの背景として、ロシア×ウクライナ戦争とイスラエル×ハマス戦争の勃発が、核戦争に対する全米の危機感を煽ったことが大きかったのではなかろうか。 
  
 もちろん、質は高い。
 クリストファー・ノーランの映像はいつもながら美しい。
 役者の演技も一級である。
 オッペンハイマー役のキリアン・マーフィーは、アカデミー主演男優賞も納得の繊細な演技。広島・長崎原爆投下の被害状況を知ってから、がらりと顔つきを変えている。
 野心に満ちた成り上がり者ルイス・ストローズを演じるロバート・ダウニー・Jr.も、助演男優賞納得の好演。オッペンハイマーV.S.ストローズは、いわば、モーツァルトv.s.サリエリみたいな関係だろうか。凡庸な人間が天才に抱く賞賛の念と嫉妬と劣等感が表現されている。
 ほかにも、マット・デイモン、ジョシュ・ハートネット、ラミ・マレック、トム・コンティ(アインシュタイン役)、ケネス・ブラナー(ニールス・ボーア役)、ゲイリー・オールドマン(トルーマン大統領役)など、主演級のベテラン役者が出演している。
 これらの役者の凄いところは、それぞれが演じている人物になりきって、役者自身の地が目立たないところである。
 高度のメーキャップ技術のせいもあろうとは思うが、マット・デイモンやケネス・ブラナーやトム・コンティやゲイリー・オールドマンなどは、最後まで本人と気づかなかった。
 日本の俳優は、「なにをやっても〇〇〇(名前が入る)」という人が結構多い。石原裕次郎とか吉永小百合とか笠智衆とか木村拓哉とか。
 海外の俳優はどれだけスターになって顔が売れても、いったん芝居となるとスター性を引っ込めて役になりきるところがプロってる。(トム・クルーズやブラッド・ピットは例外か)

 「原爆の父」となったオッペンハイマーはのちに罪悪感に苦しめられたらしい。
 だが、オッペンハイマーがやらなければ、誰か別の科学者が原爆を開発したのは間違いない。
 アメリカがやらなければ、どこか別の国(ソ連か?)が原爆をどこかの国に投下し、その効果を確かめたであろう。
 また、日本がポツダム宣言受諾を拒否し続けたことで、みずから原爆の悲惨を招いてしまったことも否定しようのない事実である。
 日本人にとっての悲劇は、唯一の被爆国となったという歴史的事実について、単純にアメリカばかりを責められないという点にある。
 
原爆ドーム





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● IT的安楽椅子探偵 本:『ロスト・ケア』(葉真中顕 著)

2015年光文社文庫

IMG_20250112_095910

 第16回日本ミステリー文学大賞の新人賞に輝いた社会派本格ミステリー。
 「はまなかあきら」と読む。

 「社会派」と言えるのは、高齢者介護問題がテーマになっているからである。
 高齢の親の介護を抱え、心身ともに行き詰った息子や娘たち。
 お金があれば、介護付きの有料老人ホームに入れて厄介払いする負担を軽減することができる。
 その余裕がなければ、介護保険を利用していろいろなサービスを導入して、なんとか回していくしかない。
 しかし、介護保険でできることには限界があり、利用者が払うのは1~3割相当分とはいえ、たくさんのサービスを使えば月々の費用は馬鹿にならない。

 たとえば、介護保険を使って入れる介護老人福祉施設(いわゆる特養)の場合、一番重い要介護5の人の施設サービス費は、1割負担で月々25,410円(多床室)まで抑えられる。
 しかし、これに居住費と食事代が必ず付く。一日当たり2,300円、月々70,000円は取られる。
 プラス理美容代や娯楽費などの日常生活貨約10,000円が加算される。
 結局、毎月10~12万円の入居費用がかかる。
 しかも、医療費は別である。
 年金がこの額を上回る親あるいは十分な貯蓄のある親ならばよいが、そうでなければ、負担は子供世代にかかる。
 低所得者層にとっては、死活問題である。
 かといって、働いている子供が、親と同居して介護するのはたいへんである。
 とりわけ、親が認知症を発症していて、常時の見守りが必要な場合、その苦労は並大抵ではない。
 介護保険サービスでは到底カバーできない。

 そういったケースにおいて、子供が親を、あるいは夫が妻を、虐待し殺害する事件が後を絶たない。いわゆる、介護殺人である。
 本作の真犯人は介護職の人間で、介護殺人すれすれの数多くの悲惨な現場を見ているがゆえに、「善意から」要介護高齢者を殺害していく。自然死に見せかけて。
 親が殺されたことを知らない息子や娘たちは、悲しみの一方で、内心「救われた」と思い、重い荷物を取り除かれて、新しい人生を始めていく。
 一人暮らしのある老女は、ホームレスにならないために、万引きを繰り返す。
 捕まって刑務所に入れば、三食出て、風呂にも入れて、病気も診てくれる。光熱費もかからない。見守りもあるから安心だ。
 刑務所を無料の老人ホームとして利用しているのである。
 犯人の真の動機=作者の狙いは、このような社会状況に一石を投じるためであった。
 社会派と冠される所以はここにある。

 一方、本格派である所以は、連続殺人事件があり、捜査官たちの推理があり、驚きのトリックが仕込まれているからである。
 とくに、統計学とコンピュータを駆使した推理は初めて接したが、興味深い。
 いわば、IT的安楽椅子探偵である。
 トリックについては、まんまと引っかかった。
 介護殺人というテーマがあまりに重く、またケアマネである自分にとって身近な問題でもあるので、トリックが仕掛けられている可能性を考える余裕がなかった。

digital-marketing-1433427_1280
AS PhotograpyによるPixabayからの画像

 社会派ミステリーと本格ミステリーという、一見水と油のような二つのジャンルを見事に融合させた秀作である。
 同じ介護殺人を扱った久坂部洋著『介護士 K 』(角川書店)より、テーマが明確に打ち出されており、よくできている。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● BRAVISSIMO! 豊島区管弦楽団 第98回定期演奏会

toshima-orch98

日時: 2025年1月11日(土)18:00~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • ベルリオーズ: 序曲『海賊』Op.21
  • ドビュッシー: 『海』~管弦楽のための3つの素描
  • リムスキー=コルサコフ: 交響組曲『シェヘラザード』
  • (アンコール) グリエール: バレエ音楽『赤いけしの花』より「ロシア水兵の踊り」
指揮: 和田 一樹

 2025年最初のコンサートは大当たりであった。
 やはり、和田一樹&豊島区管弦楽団はやってくれる。
 1時間半かけて錦糸町の会場まで足を運んだ甲斐があった。

IMG_20250111_162434

IMG_20250111_162658
すみだトリフォニーホール

 和田のコンサートではいつものことだが、1曲目からすでにギアがトップに入っている。
 出だしから「おおっ!」と驚き、居ずまいを正し、舞台に集中し、音楽に入り込む。
 この「つかみはバッチリ!」こそが、他の指揮者を秀抜する和田の音楽の特徴である。
 1曲目から「ブラボー!」が飛んだ。 

 ホールの音響の良さのためもあろうが、豊島区管弦楽団の音のクオリティが以前より1ランクか2ランク上がったような気がした。
 まるで、団員がこの年明けに際して、自分の楽器をより高価なものに一斉に買い替えたかのように思われた。
 ソロ(独奏)もトュッテ(全奏)も危なげなく、柔軟性もあり、見事に尽きる。
 日本のアマオケのレベルを引き上げている筆頭は間違いなくこのオケである。
 和田はいろいろなオケで振っているけれど、やっぱり本領を発揮するのはこのオケである。
 指揮者と団員との信頼関係と理解の深さが音に表れている。
 指揮台の和田の動きも、少年漫画の主人公のように軽やかにして自在。
 団員に愛されていることがよく分かる。 

 2曲目は中休みといった態。
 なんとなくの印象だが、和田と印象派音楽のドビュッシーは合わない感じがする。
 和田の“陽キャラ”資質が向いているのは人間的感情に満ちたドラマチックな音楽であって、海や月光といった自然風景を描写する音楽ではどこか物足りない感がある。
 もちろん十分に素晴らしい演奏なのだが、1曲目と3曲目の寒気がするほど素晴らしい音楽の中では凡庸に響いた。

 3曲目の『シェヘラザード』はフィギユアスケートのプログラム使用曲として用いられることが多い。
 2011-12年のシーズンでは、当時国民的アイドルであった浅田真央がこの曲を使って滑っていた。
 ただ個人的には、この曲を聴くと安藤美姫(2006-07シーズン)の演技を思い出す。
 この曲のエキゾチックで耽美的な雰囲気が似合うのは、浅田真央でなく安藤美姫であった。
 その耽美さを引き出したのは、コンサートマスター花井計のヴァイオリンソロ。
 十全なテクニックで、美しく官能的な響きと繊細さを表現し切った。
 和田の楽譜の読みと構成力の卓抜さは、なんというか、指揮者というよりプロデューサーか映画監督のようで、「この曲はこんな名曲だったのか!?」と驚嘆させられた。
 作曲家としての活動が、曲の再構築を可能にしているのかもしれない。
 コーダ(終結部)の壮麗さときたら、ヴァーグナーの歌劇を思い起させるレベルで、思わず椅子から身を乗り出した。

 ソルティは2階席の中央あたりに座っていて、舞台からの距離はおそらく30mくらいだった。
 しかし、3曲目では楽章が進むにつれ、その距離が縮まっていった。
 20m、15m、10m・・・・。
 最終楽章では、指揮台の上で舞う和田とオケの姿が5mくらい先にあった。
 音楽への没入が高まるにつれ、小柄な和田が大きく見えた。
 こんな体験は、10年以上前に所沢で佐渡裕の『第九』を聴いた時以来。
 広いホールをただ音楽のみが支配していた。

 BRAVISSIMO!

IMG_20250111_204833

P.S. 今年度の和田&豊島オケは、4/29にブルックナーの第5番を、9/20の創立50周年記念演奏会ではなんとマーラーの『復活』をやるという! スケジュールを開けておかなくっちゃ!


 



● なんなら、奈良7(奈良大学通信教育日乗) 一勝一敗

 昨年中に提出した2つのレポートが返って来た。
 11月に出した平安文学論は「再提出」、12月に出した文化財学購読Ⅰは「合格」であった。

 自分としては、平安時代の結婚制度と文学をテーマとする平安文学論のほうが、好きなテーマであり普段からの読書で馴染みある分野でもあったので、合格する自信があった。
 〈優・良・可〉の〈優〉は難しくとも、〈可〉には引っかかるだろうと踏んでいた。
 「再提出」の通知を受けて、数日へこんだ。
 最も得意とする科目で〈不可〉ならば、それ以外の科目はなおさら、一発突破困難と思ったのである。
 なかなか再提出のための再勉強をする気にならず、また新たに3科目の勉強を開始する気にもならず、しばらく怠けていた。
 早くも最初の壁にぶち当たった。

ジャングルの中のぬりかべ
どすこい!

 年末年始の休みが明けて、再提出のための勉強をやおら再開したところに、文化財学購読Ⅰの合格通知が届いた。
 それでちょっと浮き上がった。
 二連敗だったら、モチベーションがやばかったかもしれない。
 ソルティは昔からテスト関係には強いほうなので、それがかえって、失敗に弱い性格をつくったのかもしれない。

 しかし、すべての科目にすんなり一発合格して、簡単に進級・卒業できるのも、考えてみたらつまらない。(最初の学生時代はまさにそうであった)
 ある程度の壁があって、苦労や呻吟や落ち込みや懈怠があって、OBからの支援や仲間との励まし合いがあって、気を取り直しての再チャレンジによって無事履修してこその勉学の喜びというものがあろう。
 そしてまた、たとえ合格しなかったとしても、学んだ事実は変わらず、学びで得られた知見や経験や充実感は失われるものではない。
 目的はあくまで学びそのものにあるのだ。

 しばらく放っておいた平安文学論のレポートを、冷静な目で読み返してみたら、説明の足りないところがあるのに気づいた。
 自分の中で分かっているつもりになっていたがゆえに、叙述が粗略になり、論述の根拠が不明確な部分があった。
 平安時代の貴族の恋愛や結婚について何も知らない人がソルティのレポートを読んだら、わけが分からないであろう。
 むしろ、「文化財購読」のように何の前提知識も持たない白紙のような題材のほうが、構成を丹念に考えて文章を一から組み立てなければならないので、読んでわかりやすいレポートが書ける。
 なまじ余計な知識があると、かえって見えないものがあると知った。

 そんなわけで、平安文学論のレポートを書き直して再提出したところである。
 文化財購読Ⅰのほうは、これで学科試験を受ける資格が得られた。
 試験の出題内容はあらかじめ通知されているので、2月か3月の奈良大学でのスクーリング時の放課後に受けるべく、おいおい準備しようと思っている。
 今年の春は奈良から始まる。

奈良の鹿




● 武器でなく楽器 本:『戦場のタクト』(柳澤寿男著)

2012年実業之日本社

IMG_20250109_074850~2

 昨年末に聴いた板橋の「第九」の指揮者の自叙伝。
 読みやすく、面白く、感動的だった。
 これまでも、歌手や指揮者など音楽家の自叙伝を何冊か読んだが、彼らに共通して言えるのは、みんなとっても「感動屋」で「直感的」で「行動派」。
 子供のころから実に感動しやすく、よく泣き、よく驚き、よく共感し、感受性豊か。
 いったんなにか閃いたら、余計なことを考えず、すぐ行動にうつす。
 人のふところに入るのが上手い。
 典型的な右能人間なのだと思う。
 音楽は右能優位と言われるのと相関しているのかもしれない。

 小澤征爾に憧れて指揮者を目指し、佐渡裕に飛び込みで弟子入りし、大野和士や井上道義に可愛がられ引き立てられ・・・・と、指揮者を志す日本の若者なら誰もが羨むような経歴。
 その成功の要因は、もとからの音楽的天分や、異国の貧乏アパートで蛍雪の灯りで楽譜の勉強をする努力家であることもさりながら、人との縁に恵まれ、その縁を“自分の為でなく、他人の為、社会の為、音楽の為”に生かそうとするところにあるのだと、本書を読んで理解した。
 平和ボケしぬるま湯につかった極東の国の片田舎に生まれ育った一青年が、なにを好んで“ヨーロッパの火薬庫”たるバルカン半島に孤軍飛び込み、民族紛争の荒波に直面し、民族共栄のための音楽活動に従事することになったのか。
 人の運命というのは不思議なものだとつくづく思う。 
 そして、異なった言語、異なった宗教、異なった文化、異なった慣習をもつ多民族の心を、ひとつにまとめる音楽の力は実に偉大と思う。
 武器でなく楽器、武装でなく女装。 

ブレーメンの音楽隊

 平和ボケしぬるま湯につかった日本人は、ヨーロッパ各国やアメリカが日々直面している民族問題を、これからしこたま経験することになるのだろう。
 これまでもアイヌ民族や在日コリアンの人権問題が唱えられてはきたものの、大半の日本人にとっては「自らの生活に累を及ぼさない」レベルの“無視できる”問題だった。
 日本人の労働人口が増えない限り、そして日本人が今現在の生活レベルを維持したいと願う限り、今後、多様な民族の入国を押しとどめるのは難しいだろう。
 日本各地で、他民族との衝突の起こる可能性がある。
 埼玉県川口市のクルド難民問題など、すでに前哨戦は始まっている。
 我々がバルカン半島の歴史や柳澤の経験から学ぶことは大きい。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 牛歩の神たち

1月5日(日)晴れ
恒例の高尾山薬王院、初詣。
暗い中、5時過ぎに家を出る。
熟れた柿のような朝焼けが、中央線の後方の空を染める。
7時に京王高尾山口駅に到着。
友人と合流する。

IMG_20250105_070713
京王高尾山口駅
周辺がすっかり広くきれいになった

IMG_20250105_071125
ケーブルカー麓駅
行きはケーブル、帰りはリフトがおすすめ
いずれも大人片道450円

山頂駅に着くと、きりりとした早朝の空気に身が引き締まる。
さすがにまだ外国人観光客の姿はない。
薬王院へ向かう参道からは、黄金色にけぶる大都会が望めた。

IMG_20250105_072348


IMG_20250105_091841
薬王院本堂
中に入って護摩法要を受ける。
コーチに率いられた地元の少年野球チームのユニフォームが目立っていた。
こんなふうにして、日本人は幼いころから、神仏に祈って験をかつぐことを学んでいくのだ。

IMG_20250105_091756
本尊は飯縄大権現(いづなだいごんげん)
不動明王の化身とされる

高尾お札
終了時に拝受した3000円の御護摩札
奉納金額によってサイズが変わる

IMG_20250105_085709
高尾山頂(600m)

IMG_20250105_084629
正月の富士山はひときわ神々しい

IMG_20250105_090150
新宿ビル街、横浜ランドマークタワー、相模湾、江の島が一望の下

IMG_20250105_094456
同じ標高のスカイツリーも地平線上におぼろに佇立
チマチマした人間界を天狗の高みから鳥瞰できる高尾初詣の良さ
明日からまたそこで働く

IMG_20250106_185454
おみくじは「吉」
七福神が牛に乗って来るという

七福神

今年も健康で安穏に暮らせますように
生きとし生けるものが幸福でありますように


















● 大トリックの元祖 本:『狩場の悲劇』(アントン・チェーホフ著)

1885年原著発表
1955年新潮社より邦訳
2022年中公文庫

狩場の悲劇

 『アクロイド殺し』(1926)の大トリックの先鞭をつけるドゥーゼの『スミルノ博士の日記』(1917)の文庫化を喜んでいたところ、なんと同じ中公文庫から、両作をさらに遡るくだんのトリックの元祖であるチェーホフの本長編が刊行されているのを知った。
 素晴らしいぞ、中公文庫!

 さっそく手に入れて読んだら、これがまあ面白いのなんの。
 ロシア小説の登場人物名を覚える煩わしさもなんのその、ノンストップで読み切ってしまった。
 『桜の園』、『かもめ』、『ワーニャおじさん』などの古典名作劇で知られるチェーホフの新たな一面に驚かされた。
 チェーホフは短編小説の名手としても知られ、その中には何篇かの推理小説が含まれている。
 本作は、チェーホフ唯一の長編小説であり、しかも後になってチェーホフ自身の手によって闇に葬られた(著作目録からはずされた)殺人ミステリーなのである。

 チェーホフが本作を自分の履歴から削除したがった理由ははっきりとしないが、おそらく、医師として働き始めたばかりの25歳の時に寸暇を惜しんで書かれた本作が、十分に“文学的”ではないと思ったのであろう。
 たしかに、『桜の園』や『かもめ』のような高尚なところは全然ない。
 純粋な恋愛ドラマ+犯罪小説の通俗エンターテインメントと言っていい。
 それだけに、英国古典ミステリーの傑作であるウィルキー・コリンズの『白衣の女』(1860)や『月長石』(1868)を連想させる面白さなのである。
 大トリックの元祖という探偵小説史上の栄誉は抜きにしても、本作を世に出さないのはそれこそ“犯罪的”。
 まったく、早川書房や東京創元社は何をしていたのか?

130331_1305~01

 本作を履歴から削除したがったところを見ると、チェーホフ自身は、本作のトリックの独創性や探偵小説史上における意義に気づいてはいなかったのだろう。
 不思議と言えば不思議である。
 しかるに、本作が書かれたのは、シャーロック・ホームズやブラウン神父が登場する前であり、探偵小説を書く際のルールと言われる『ノックスの十戒』や『ヴァン・ダインの二十則』が発表されたのは20世紀に入ってからなので、本作発表当時はそもそも「トリック」という認識自体が薄かったのかもしれない。
 チェーホフが英訳され始めたのは20世紀初頭である。
 おそらくアガサ・クリスティはチェーホフを読んだであろうし、『かもめ』や『桜の園』も劇場で観ていたと思うが、正式な全集から削られた『狩場の悲劇』は知らなかった可能性が高い。
 クリスティが大トリックの前例に気づかなかったのも無理はない。

 当然、ソルティは『スミルノ博士』を読んだ時と同様、すでにトリックも犯人も知った上で本作を読んだ。
 やはり世界の文豪である。
 トリックや犯人を事前に知っていることが、本作を読む価値や愉しさをいささかも薄めなかった。
 それどころか、犯人を事前に知り、犯人の性格を把握し、犯人の視点や気持ちを追いながら本作を読むことによって、面白さが倍増した。
 つまり、探偵小説というよりも心理小説としての面白さが濃厚なので、問題のトリック云々はさほど重要な要素には思えなかったのである。
 そこが、トリックこそが主役であるクリスティの『アクロイド殺し』とは異なるところで、やっぱりチェーホフの文学性を証明してあまりない。

 本作の真犯人の性格の特異性――ロシア的な享楽性と激情性、自己中心性と異常な自尊心の高さ、魅力的な風貌の結合――は、どこか『異邦人』のムルソーやヴィスコンティの『イノセント』のトゥリオを思わせるサイコパスティックな面があり、近現代人の一つの典型として非常に興味深い。
 また、チェーホフが認知しなかった子供であるにもかかわらず、本作にはチェーホフの重要な主題のひとつである「ロシア帝国末期の上流社会の精神的腐敗と俗物性」が極めて鮮明に描かれており、登場人物の一人であるアレクセイ・カルネーエフ伯爵の道化さながらの愚昧と転落ぶりには同情を禁じ得ないほどである。

 ソルティは、『アクロイド殺し』という超人気作との絡みで本作を手にしたのであったが、それなくとも本作は単独に読まれて十分に面白い。
 司直の手をまんまと逃れた真犯人のその後が気になって仕方ない。
 本作の価値は、『アクロイド殺し』のトリックの先鞭をつけたというだけでなく、『異邦人』(1942)やアンドリュー・ガーヴの『ヒルダよ、眠れ』(1950)などのサイコパス犯罪小説の前触れとなったところにもあるのではなかろうか。

130331_1202~01


 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文