ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 山吹と無名戦士 大高取山(376m)

 手元のガイドブックによれば、この山は「体力、技術」の初級レベル。
 かかとの骨折後のリハビリにはちょうどいいと思い、ハイキング気分で出かけたのだが、とんだ誤算であった。
 山登りのしんどさは、山の高さではなく傾斜によって測るべし――という黄金律を叩きこまれていたはずなのに、ガイドブックの甘言にだまされた。1000mを超える山でも、ここより楽なところはいくらでもある。
 思いがけない急斜面にすっかり息が上がり、下山後に生じた骨折部の痛みと足の引きずりは、翌日の今も続いている。
 それでもやっぱり・・・・・山はいい。

登山日 2021年10月20日(水)
天気  晴れ、風やや強し
行程
09:00 JR越生線・越生駅
    歩行開始
09:25 越生神社
09:45 世界無名戦士の墓(15分stay)
10:15 西山高取(262m、15分stay)
11:00 高取山頂上(376m、10分stay)
11:30 幕岩展望台(295m、30分stay)
12:50 桂木観音(10分stay)
14:00 オーパークおごせ
    歩行終了
所要時間 5時間(歩行3時間30分+休憩・見物1時間30分)
最大標高差 310m


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JR越生駅
埼玉県入間郡越生町にあり、越生線と東武東上線が乗り入れている
 朝のこの時刻、降りたのは4~5名

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なんと、越生は江戸城を築いた戦国の武将太田道灌の生誕地なのであった。
 落語にもなっている有名な山吹の逸話もここ越生が舞台とか。
 
 狩りに出た道灌がにわか雨にあい、雨具を借りに一軒のあばら家を訪ねたところ、娘が山吹の枝を差し出した。
 七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき
という古歌にかけて雨具はないと断ったのだが、道灌にはそれが分からない。家来に解説されて、「余は歌道に暗い」と反省し、のちに立派な歌人になった。
(佐藤光房著『東京落語地図』、朝日新聞社刊より抜粋)

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 山吹の品種のうち、昔から日本に栽培されている八重ヤマブキが実を結ばない
「実」と雨具の「蓑」をかけた駄洒落であるが、
じつはこの故事、後世になって作られたらしい


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 越生神社
八幡神社、日吉神社、八坂神社、稲荷神社などいくつかの神社が合祀されている
祭神は大物主命、すなわちオオクニヌシノミコトである
登山の無事を祈る

 車道を一登りすると、世界無名戦士の墓に着く。
 白亜の屏風のようなデザインが目を惹く。
 この階段、高齢者は登るのが大変だろう。

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越生町の医師長谷部秀邦氏が発起人となって昭和30年(1955年)に落成
第二次世界大戦で亡くなった世界60余か国251万の兵士を慰霊・追悼している
 展望塔からの景色は「これを見るためだけでも来てよかった!」と思うほど

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 右端に白く光る西武球場ドーム(所沢)から、新宿・池袋の高層ビル群、
スカイツリー、さいたま副都心、左端におぼろに霞む筑波山(茨城)まで、
関東平野150度を見渡すことができた

 墓の横手から山道に入る。
 ここからが険しかった。

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 西山高取
 木のベンチで一服
 ここから尾根までまた急登続き

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 石灰岩の露頭
チョークの原料である

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 高取山頂上

 着いた!

 ガイドブックでは眺望が得られないとあったが、東面の木々が伐採されて、正面に筑波山が丸見えであった。
 今日は昼食を持参しなかった。栄養補助食品をパリパリ。

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 山頂を離れ、眺望の良いという幕岩展望台に寄り道。
 が、眺望自体は無名戦士の墓にかなわない。
 昼食をとるには絶好の場所。

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 ベンチで30分ほど昼寝する。
 形を変えながら流れる雲をボーっと見る。
 こういう時間が自分には必要なんだと、つくづく思う。

 四国遍路を思い出させる鈴(りん)が聴こえてくる。
 と、やおら木々の陰から男が出現。
 最近山登りを始めたという71歳。心筋梗塞をやって健康の大切さに目覚めたとか。
 本日山中で会ったのは中高年男性ばかり5名であった。
 
 さあ、あとは下るのみ。
 が、足に負担がかかるのも、転倒して負傷しやすいのも、登りでなく下りであることも山登りの常識。
 ステッキを使って注意深く下山。


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桂木観音

 養老3年(719年)、紫雲に曳かれて当地を訪れた行基上人が、観音のお告げを受けて山中の大杉を用いて彫像したという伝説がある。
 無人の寺だが立派な鐘楼があった。
 生きとし生ける者の幸せを念じながら、一回撞かせていただいた。

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観音が降り立った山

 携帯はところどころ圏外。
 都会のIT生活で電磁波の溜まった身体を、杉木立がデトックスしてくれる。
 鳥のさえずりを耳に、馬の背を吹き抜ける秋風に身をまかせれば、ネット空間の浮薄さが募るばかり。
 真のリアリティは秋の里山にある。

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左右が崖となっている馬の背

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 昨今のグランピング&キャンプ流行を受けて開設された。
 もちろん、日帰り入浴もできる。
 岩露天風呂にゆっくり浸かって、足をもみほぐした。
 缶ビールとスナックを買い、リラックスエリアでくつろぐ。
 
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窓からの景色
紅葉時はきれいであろう

 無料送迎バスで越生駅に戻る。
 駅前広場には太田道灌の像が建っていた。

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大河ドラマ主演を狙っている
演じるとしたら誰かな?

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 越生駅のホームからすでに世界無名戦士の墓が見えていたのに気づく。
 “無名”とは、亡くなった兵士の名前が分からないという意味ではなくて、「位階を超越し、一切無名平等にお祀りする」という意味からの命名。
 すばらしい見識だが、やっぱり戦士の墓がないのに越したことはない。
 彼らは故国の家族のもとに戻れなかったから、ここにいるのである。
 
 七重八重 花は散れども 山吹の 身の一つだに なきぞ悲しき


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● 鍋の水は熱くなっている 漫画:『この世界の片隅に』(作画:こうの史代)

初出:双葉社『漫画アクション』2007年12月号~2009年2月号
2011年コミックス発行

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 昭和9年(1934年)から昭和21年(1946年)に亘る、広島県の海沿いの街に暮らす一女性、浦野すずと家族をめぐる物語。
 原爆の投下された昭和20年8月6日に向かって、そしてポツダム宣言受諾の8月15日に向かって、物資の不足に苦しみ、空襲警報におびえ、愛する家族や友人を戦火に失い・・・と、傍目には(現代日本から見ると)地獄のようなしんどい日々でありながらも、明るくドジでのんびりした主人公を中心に平凡でささやかな日常を営む庶民の姿が描かれる。
 北川景子、松本穂香をすず役としてこれまで2度テレビドラマ化され、2016年にアニメーション映画として公開された。ソルティ未見である。

 作者のこうの史代は1968年生まれなので、すずは作者の祖母世代にあたる。
 よく昔のことを調べて絵に描いていると感心した。
 まるで、さくらももこと『ちびまる子ちゃん』の関係のように、作者の子供時代の記憶をもとに描いた作品のように思えるほど、生き生きした実感と豊かなリアリティがある。
 『YAWARA!』、『MONSTER』、『20世紀少年』の浦沢直樹を柔らかく幻想的にしたようなタッチの画風も、温かみがあり読みやすい。
 ちょっと抜けていて絵をかくのが得意な主人公すずは、作者の分身なのではなかろうか。

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 このたびのコロナ騒動でつくづく思ったことの一つは、突如として非日常的な出来事がやって来ても、人はこれまで通りの日常生活をたんたんと続けようとし、いつのまにやら非日常を日常に取り込んでしまうのだなあ~、ということである。
 最初のコロナショックに見舞われた時こそ、戒厳令のようなものものしい空気が満ちて、街路や飲食店や列車から人が消え、宇宙服のような完全防備の通行人も見かけたものだが、人々が徐々にコロナウイルスの正味のリスクと予防手段を学び、繰り返される報道に飽き飽きしてしまえば、長年続けて習慣になっている日常生活が取り戻されていく。
 三度三度飯を食って、クソして、眠って、働いて、遊んで、人と会話して飲んで、家事をして、恋をして、ふられて、結婚して、出産して、子育てして、喧嘩して、仲直りして・・・・という日常生活(ルーチン)は腰の強いものだなあと思う。
 しばらく前までは、毎夕報告される感染者数の増加に蒼ざめていたものだが、最近ではなんだか「我々は数値をコントロールできる」という妙な自信さえ、世間に漂っている感がする。
「第六波よ、来るなら来い!」みたいな・・・・。
 むろん、ワクチンのおかげが大きいが。

 茹でガエル理論というのがある。
 水を張った鍋に入れられたカエルは、鍋が火にかけられて水の温度が次第に上がっても、そのまま鍋の中に居続け、しまいには熱湯で焼け死んでしまう。
 急に熱湯に入れられたら驚いて飛び出すが、水からはじめて、ぬるま湯、熱湯と徐々に慣らされていくと、逃げる機会を逸してしまう。
 それと同じように、日常生活の中に非日常的な事柄が少しずつ紛れ込んでくると、一時は違和感を持ちはするものの、日常の持つ強さがそれを飲み込んでしまい、非日常だったものが日常になる。免疫ができる。
 次は、最初より強度の高い非日常がやって来る。免疫のできた日常は、今度はそれをも飲み込む。より免疫が強くなる。
 そうやって、昔ながらの日常生活を送っているつもりが、気づかぬうちに、最初の日常とはまったくかけ離れた非日常の日々を不思議とも何とも思わないで送っている。
 戦時下の生活とはそんなものだったのではないだろうか?
 原爆が落とされたときに、玉音放送を聞いたときに、人々ははじめて、自分たちがはじめにいたところからずいぶん遠くまで来てしまったことに、国にだまされて連れて来られたことに、気づいたのではなかったろうか?

茹でガエル
 
P.S. 茹でガエル理論は俗説であって、実際にはカエルは鍋から逃げるらしい。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

  

● Q.E.D. 本:『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男著)

2014年ワック株式会社

 関東大震災における朝鮮人虐殺を否定する意見が、昨今ネットを中心にかまびすしいと言うが、どうやら否定論の最大論拠になっているのがこの著書であり、否定論者の急先鋒がこの著者、加藤康男とその妻・工藤美代子であるらしい。
 加藤康男は1941年東京生まれの編集者、ノンフィクション作家。
 出版元のワック(WAC)は、1996年に設立された出版、映像制作などをメインと主業務とする会社で、高市早苗、ケント・ギルバート、渡辺昇一、山口敬之などの本や、月刊誌『WiLL』を発行している。


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 ソルティは、『関東大震災「虐殺否定」の真相』(渡辺延志著)および『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)という虐殺“認定”論者の本を続けて読んできた。(虐殺“肯定”論者と言うと別の意味に取られかねないので、虐殺認定論者=「虐殺はあった」と認める立場をとる者、と定義する)
 否定論者 V.S.認定論者。
 喧嘩両成敗ではないが、ここは公平に反対側の意見にも耳を傾けるべきだと思って本書を借りた。
 「虐殺はなかった」という主張が果たしてどのくらい正当性があるのか、説得力を持っているのか、できるだけ虚心坦懐に読んで検討してみるのも一興と思った。

 先だっての記事で、この問題の論点を次のように整理した。
 関東大震災の直後、
 ① 朝鮮人による犯罪(放火、暴行、殺人、井戸に毒投入など)はあった
 ② 朝鮮人による犯罪はなかった
 ③ 日本人による朝鮮人虐殺はあった
 ④ 日本人による朝鮮人虐殺はなかった 

 これまでの共通認識は、「②犯罪はなかった」→「③虐殺はあった」である。朝鮮人による犯罪というデマに踊らされパニックになった一部日本人が、罪のない朝鮮人を虐殺したというものである。
 本書で加藤康男が主張しているのは、「①犯罪はあった」→「④虐殺はなかった」である。朝鮮人による犯罪――とくに日本の社会主義者と結びついた抗日運動家によるテロリズム――が実際にあったのであり、地域の自警団をはじめとする勇敢な人々は、不逞な朝鮮人や危険な社会主義者から地域や国を守るために止む無く武器を手に立ち上がった。それは断じて虐殺ではない、というものである。
 
 いずれの方角から調査しても、関東大震災時に日本人が「朝鮮人虐殺」をしたという痕跡はないのである。
 あったのは、朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛による死者のみである。


井戸


 加藤康男の論理を検討してみよう。

 まず、「④虐殺はなかった」について。
 「虐殺はあった」という証言がたくさんあり、歴史の教科書にも史実として載っている以上、新たに「虐殺がなかった」という論を立てて証明するためには、すでに発表されている数多くの「虐殺があった」という具体的な証言を一つ一つ反証を挙げて否定していかなければならないはずである。「虐殺がなかった」という目撃証言など集めようがないのだから、「虐殺があった」を否定するほかない。
 そして、“虐殺”を否定するためには、日本人による朝鮮人殺しが純然たる正当防衛であったことを証明しなければならない。つまり、殺した相手が「朝鮮人かつ犯罪者(テロリスト含む)」であったことを証明しなければならない。
 しかるに、本書ではまったくこの作業が行われていない。たとえば、『九月、東京の路上で』で挙げられている、どの朝鮮人殺害事例についても子細に検証すべく俎上に載せられてはいない。
 この時点ですでに、「④虐殺はなかった」説は宙に浮いている。

 次に、「①テロリズムを含む朝鮮人の犯罪があった」ことを証明するためには、具体的な目撃証言が必要である。
 これは別に、特定の地域に住む数人の証言といった限定的なものであってもよいと思うが、実在する人物(実名)による直接証言が必要であろう。匿名者の発言を載せた新聞記事や伝聞では駄目である。犯罪を立証するのに、新聞記事や伝聞情報を証拠に上げる検察などいない。
 だが残念ながら、ここでも納得いく証明はなされていない。
 朝鮮人の犯罪として著者が挙げる事例は、新聞記事や伝聞情報ばかりで、実名と所属を出して「私は見た!」とはっきり語っているケースが見出せない。

 思うに、政府による戒厳令が敷かれた震災直後なら、あるいは治安維持法(1925年~)があった戦前・戦中までなら、顔と名前を出して目撃証言する者がいなかったことは理解できる。
 しかし、表現の自由が認められた戦後になっても、震災時における「朝鮮人の犯罪」の目撃証言が一つも出てこないのはおかしなことである。(逆に、「朝鮮人虐殺」の目撃証言は次々と出てきたのに・・・)
 とりわけ、著者が言うような「国家転覆(昭和天皇暗殺)を狙ったテロリズム」という大謀略があったのなら、なおさら証拠文書や証言記録が歴史研究者あたりから上がってきそうなものである。
 ここでもまた、「①朝鮮人の犯罪はあった」は証明しきれていない。

 念を入れて証明して然るべき2つのポイントをさらりとかわして、その代わりに著者が紙幅を費やしているのが、大正時代の朝鮮半島の情勢説明であり、社会主義者と結託して抗日運動する過激な朝鮮人テロリストたちの暗躍ぶりである。
 「日韓併合して天皇陛下の恩恵のもと朝鮮の近代化を推し進めてあげたのに、それに反発して独立を叫ぶ、ましてや抗日運動するなんてけしからん!」という著者の憤懣がみなぎっている。
 朝鮮人テロリストの無節操と恐怖を読者に伝えようという心積もりからの記述なのだろうが、ソルティは逆効果と思った。
 どこの国の民衆が、国体と自治権と伝統ある王朝を奪われて黙ったままでいられるだろうか?
 「朝鮮人の犯罪」に対して武器を持って闘うのが正当防衛ならば、日本人の「乗っ取り」に対して武器を持って闘うのも正当防衛と言えないだろうか?


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李氏朝鮮第4代国王世宗(セジョン)
Y.H LeeによるPixabayからの画像


 さらに、本書において著者が「朝鮮人虐殺はウソっぱち」とする決め手として自信満々打ち出しているのは、震災時の在日朝鮮人の人口に関する検証である。
 曰く、「虐殺認定論者は、虐殺された朝鮮人の数を、2607人とか6419人とか2万人以上とか言っているけれど、当時東京近辺にいた朝鮮人の数から推察してみれば、それが見当はずれな大風呂敷なのは明らかだ。だから虐殺認定論は成り立たない」というのである。
 この具体的な数字を上げての証明は、伝聞や新聞記事とは違って科学的で実証性が高い手段と思えるので、どんなものかちょっと紹介したい。

 まず、著者は震災当時、もっとも被害が大きかった東京や横浜にいた朝鮮人の数を9800人と推定する。この数値が正しいかどうかは正直わからない。もっと多かったという説もある。ただ、ここでは数字が問題ではなく、著者の論理の進め方が興味深いので、数値の正確さにはこだわらないことにする。
――A.9800

 次に、震災で亡くなった朝鮮人の数を1960人と推定している。これは、震災時の日本人の死亡率は15%だが、在日朝鮮人は一概に貧しくて、壊れやすく燃えやすい家に住んでいたであろうから、日本人より5%高く見積もって死亡率20%とし、総数の9800人に0.2を掛けた数値である。
――B.1960

 次に、暴徒化した日本人の見境ない攻撃から朝鮮人を保護するために、軍や警察は急遽、各地の収容所に朝鮮人を連行した。その数は6797人と分かっている。
――C.6797

 A-(B+C)=1043人

 すなわち、京浜地区において虐殺された(とされる)朝鮮人の数は、最大値を取ったって1000人がいいところで、虐殺認定論者の上げる数値には全然届かない。(著者は、この1000人のうち800人程度がテロリストだったと決めつけている)
 
 当時、在日した人口から、彼ら(ソルティ注:虐殺認定論者)の言う「虐殺」人数を引けば、震災による朝鮮人の死者はゼロになってしまう。その一点に誰も目を向けてこなかったのが、この九十年だった。


 金田一さん、見事な推理です!
 と拍手を送りたいところだが、この計算には奇妙な点がある。
 関東大震災の被害の90%を占めたのは、東京市(いまの東京23区)と横浜市であった。当時の両市の人口はあわせて262万人。うち死亡者(行方不明含む)は約9万5千人。死亡率は3.6%になる。
 これは著者の用いた日本人の死亡率15%には程遠い。
 15%という数字は一体どこから出てきたのだろう?

 答えは簡単。
 死亡率は地区によって大きな開きがあるのだ。同じ東京市でも、岩盤の硬い山の手と、海に近く人口密度の高い下町とではまったく被害の大きさが異なった。15%というのは、もっとも被害の大きかった本所区(現在の墨田区の南部)、深川区(現在の江東区の北西部)を合わせた数値なのである。
 著者が死亡率15%(さらに朝鮮人バイアス載せて20%)に設定したのは、この両区に朝鮮人が多く住んでいたからと言う。
 だが、9800人の朝鮮人の何%が両区に住んでいたのか、震災の起きた日中の就業時間帯に何人が本所と深川にいたのか、そこは検討されていない。
 朝鮮人9800人全員がゲトーのように両地区に起居し働いていたということが前提にならなければ、全数に0.2を掛けるのはナンセンスである。
 いや、ソルティも当時、朝鮮人がどこに住み、どこで働いていたかなんて知らない。
 ただ、震災当時、京浜地区のすべての在日朝鮮人が両区にいたなんてあり得ないだろう。B.1960はもっと少ない数値になるはずだ。

 そもそも、「朝鮮人が襲撃する」というニュースは9/1の震災当夜、横浜から始まったという。
 著者自身、横浜における目撃者の談話として、「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、略奪をほしいままにするは元より、婦女子二、三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」と書かれた新聞記事(9月5日付、河北新報)を、朝鮮人テロの証拠の一つとして上げている。
 この2000人の朝鮮人は、いったいどこから湧き出したというのだろう? 
 阿鼻叫喚の本所と深川から、一瞬にして横浜にテレポーテーションしたのか?
 
 とてもとてもこの論理では、ミステリー読書歴40数年、読破数百冊のソルティは説得され得ない。

Q.E.D.(証明終わり)

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ウチのかみさんも納得しませんよ!
PrawnyによるPixabayからの画像画像
 


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 北朝鮮にも雨が降る 映画:『クロッシング』(キム・テギュン監督)

2008年韓国
107分、朝鮮語

 DVDパッケージの解説を読むと、「北朝鮮の現実、脱北者の姿を描いたフィクション」とあったので、悲惨で重苦しいドキュメンタリータッチの社会派ドラマを予想していた。
 が、最初の数シーンで印象が変わった。
 まぎれもない“映画”である。

 貧困や病気や暴力などの悲惨な現実を映しながらも、ただならぬ美しさと背筋がざわざわするようなフィルムの手触りがそこにあった。
 語り口や撮影や演出もうまい。
 キム・テギュン監督の作品を観るのはこれがはじめてだが、韓国のスピルバーグと言っても遜色ない才能を感じた。

 北朝鮮ナショナルチームの元サッカー選手キム・ヨンス(=チャ・インピョ)は、結核で妊娠中の妻の薬を手に入れるため中国に密入国するが、公安につかまってしまう。人権団体の助けによりなんとか強制送還を逃れ韓国に渡ったものの、その間に故国に残された妻は亡くなり、一人息子ジュニは路頭に迷ったあげく収容施設に入れられてしまう。
 妻の死を知ってショックを受け、自らを責め、神(イエス)をののしるヨンスであったが、せめて息子を韓国に呼び寄せようとブローカーに依頼する。
 ブローカーの差し金で収容施設から救い出されたジュニは、国境を越えて中国に入り、モンゴルの砂漠に解放される。
 ジュニは父親との再会を願って、ただひとり砂漠を歩き出す。

 クロッシング(crossing)というタイトルはおそらく、「横断、縦断、越境」すなわち「国境を超える」意であると同時に、キム親子の心のつながりであるサッカーの「クロス(センタリング)」であり、さらには「十字を切る」すなわち「神への祈り」を含意しているのではなかろうか。
 はたして、息子と会いたいというヨンスの祈りは届くのか?
 父と子の再会は果たされるのか?
 二人はふたたびドリブル練習できるのか?


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父を探して砂漠をさすらうジュニ少年


 とにかく主人公の少年ジュニを演じるシン・ミョンチョルが凄い。
 これだけ観る者を泣かせる少年の演技は、往年の名作『穢れなき悪戯』のパブリート・カルボ、『誰も知らない』の柳楽優弥、『マイ・フレンド・フォーエバー』のブラッド・レンフロ、そして『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』の野原しんのすけ――くらいではないか。
 ソルティの涙腺は少なくとも4回は崩壊した。

 というと、お涙頂戴のあざといドラマと思うかもしれない。
 だが、豊かな国に生まれ育った観客たちの“上から目線”の皮相な見方や醒めたコメントをはねのけるに十分な、あまりにむごい北朝鮮の現実があり、その中で家族とともに生き延びようともがく庶民の姿がある。
 なんと言っても、国自体が強制収容所なのである。


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収容所からの脱走者を捕らえる北朝鮮の兵士


 この映画が製作されたのは2008年で、当時の最高指導者は金正日(キム・ジョンイル)。
 それからすでに13年が経っている。
 今もこの映画に描かれているような庶民の生活が続いているのだろうか?
 それとも、金正恩(キム・ジョンウン)のいや増す狂気とコロナ禍により、地獄化が進行しているのだろうか?
 気になるところである。

 江戸時代の百姓なら、隣国の現実、世界で起こっている悲劇など知らないで太平楽に生きられた。
 現代では、ミャンマーの内紛もアフガニスタンの混乱も新疆ウイグル自治区のジェノサイドも、情報はリアルタイムの映像付きでスマホを通して飛び込んでくる。某バーガーチェーンのクーポン券と横並びに・・・。
 世界の悲惨を知らないでハッピーに生きるか。
 知って多少の後ろめたさや抑鬱気分とともに生きるか。
 あるいは、知って無視してハッピーに生きるか。
 我らはいずれかを選択しなければならない時代に生きている。



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『派遣添乗員ヘトヘト日記』(梅村達著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 このシリーズを手に取るのもこれで5冊目。
 ケアマネ翻訳家交通誘導員マンション管理員、いろいろな業界の内幕を楽しませてもらっている。(あとは介護職員、メーター点検員、タクシー運転手が残っている)

 書き手が20~30代の夢と野望あふれる若手ではなく、第一線で活躍するバリバリの40~50代でもなく、いくつかの業界で荒波をくぐって来て人生の酸いも甘いも知った60~70代の人間であることが、本シリーズのユーモアとペーソスまじりの渋い味わいを生んでいる。
 それぞれの現場で、取引先との関係に苦慮しながら、舞い込んでくるクレームに追われ頭を下げながら、低賃金や時間外就労などの劣悪労働条件をぼやきながら、一歩引いた大人の目でもって業界と人間と自分自身とを観察しているあたりが、やっぱり「亀の甲より年の功」という気がする。
 だから、それが3Kと呼ばれるような仕事であっても、派遣や非常勤であっても、悲壮な感じはしない。
 伊波二郎によるヘタウマ感あるイラストがまた、本シリーズ人気の理由であろう。
 ソルティは図書館で借りているが、どの本も予約待ちのことが多い。

 今回の書き手は、団体旅行の添乗員を15年以上やっている60代後半の男。
 映画制作、塾講師、フリーライターなどの世界を渡り歩いてきたという。
 国内旅行、国外旅行、修学旅行、社員旅行、日帰りツアー、関連イベント手伝い等々、いろいろな現場で著者が見聞きした愉快なエピソード、旅行先で起こった様々な珍事やヒヤヒヤや思いがけない感動、委託元である旅行会社との気を遣うやり取り、楽しく読ませてもらった。

トラベルトラブル


 ソルティも旅行好きなほうであるが、成人してからは団体旅行というものに参加したことがない。
 あらかじめスケジュールが決まって、時間と行く先が自由にならないというのが性に合わない。旅先では気分次第で動きたい。
 それに、団体旅行は人気の高いスポットをめぐることが多いので、どこ行っても混雑する。これがまたストレスである。
 国内国外問わず、圧倒的に閑散期をねらった一人旅が多かった。
 
 しかるに、年をとったらそう言ってもばかりいられないかもしれない。
 足腰が弱って、頭も働かなくなり、宿の予約や飛行機の手配など自分で段取り付けるのも億劫になり、加えて人恋しくなってくれば、団体旅行の便利さと賑やかさが好ましく思われてくるのかもしれない。
 これまで添乗員さんの世話になることはなかったけれど、今後はあるかもしれない。
 その時には旅の終わりに添乗員さんにあたたかいねぎらいの言葉の一つでもかけてあげよう。

 コロナ禍で一年半以上の旅行自粛が続く中、添乗員の仕事も閑古鳥だったろう。
 本作の印税が少しでも著者の生活の助けになっていればよいのだが。
 (――って図書館で借りたお前が言うな!)



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 100枚のチラシ:読売日本交響楽団コンサート

日時 2021年10月10日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区池袋)
演目
  • シベリウス:交響詩〈フィンランディア〉
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
  • シベリウス:交響曲第2番
指揮:沖澤のどか
オケ:読売日本交響楽団
ピアノ:ペーター・レーゼル

 実に1年9ヶ月ぶりのクラシックコンサート。
 昨年1月20日に同じ東京芸術劇場で聴いたチャイコフスキー第6番『悲愴』を最後に、すっかり生オケ離れしていた。
 一昨年12月に踵の骨を折って松葉杖生活が続いていたせいもあるが、メインの理由はもちろんコロナである。
 昨年3月頃よりエンタメ業界はまさに「悲愴」に突入した。
 なんと長い冬であったろう!

 久しぶりに生オケを聴きたいなあと思って、クラシック専門情報サイトをググったら、間近で見つけたのが本公演であった。
 ベートーヴェンにシベリウス。
 冬からの復活を祝うには最適なプログラムではないか。
 早速予約を入れようとしたら、結構席が埋まっていた。
 みんな待ち望んでいたよね~。

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東京芸術劇場


 コンサートホールに入るときは、入口でスタッフにチケットの半券をもぎってもらい、本日のプログラムと一緒に他のコンサートの案内チラシを大量にもらうのがお決まりである。
 今回は、スタッフにチケットを見せたら自ら半券を切って、置いてある箱に入れる。その先のテーブルに積み重ねてあるプログラムと案内チラシの束を自分で取る。
 セルフサービスだ。
 いつもならほとんどがゴミ箱行きになるのでもらうのを迷うチラシの束であるが、今日はなんだか嬉しくて、いそいそと手に取った。
 これまで見たことないほど大量のチラシも、クラシック業界に生きる人々の復活の喜びと今後への意気込みと思えば、家に持って帰って一枚一枚有り難く拝見する気になる。

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なんと100枚あった


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 席は客席中央の一番後ろ。
 舞台と全体を見渡すにはベストな位置である。
 8割がた埋まっているようであった。

 ソルティは、クラシックコンサートで良い演奏に出会うとチャクラがうごめく
 音波があちこちのチャクラを刺激し、その部位の気の流れを良くする。
 すると、会場のルクスが上がったかのように、周囲に光を感じる。
 体も心も生まれ変わったようにリフレッシュする。
 良い演奏は針治療や整体に匹敵する効果があるのだ。
 1年9ヶ月ぶりの生オケで体はどんな反応を示すだろうか。
 期待大であった。

 しかるに、今日はなぜかチャクラが大人しかった。
 ペーター・レーゼルによる木漏れ日をそのまま音符に変換したかのような至芸のピアノ演奏も、2019年プザンソン国際コンクール覇者の期待の新人・沖澤のどか&ベテランぞろいの読響によるシベリウスの豊穣世界も、「素晴らしい、さすがだ」とは思いはしたけれども、音波は胸のチャクラを突きはするものの、それ以上入り込む力がなくて、感動には至らなかった。(拍手喝采は凄かった)

 たぶん、演奏の質の問題ではなくて、一年9ヶ月のブランクでソルティのチャクラが固く閉じてしまったのだろう。
 どこにいるか分からないコロナウイルスに対する恐怖、自分が感染する・他人に感染させるんじゃないかという不安や緊張、医療先進国にあって入院できずに自宅で病死した人のニュースを耳にしたときの怒りと絶望、自粛生活に慣れてしまったがゆえの心身の柔軟性の低下・・・・こういったものが知らず知らず心身に影響を与え、頑なにしてしまったのではなかろうか。
 来場者全員マスクして発話は禁じられているものの、間隔を開けずに隣の人と接している状態に、どこか落ち着かないものを感じながら聴いていたのだから。
 細胞が、神経が、心の琴線が、音楽をやわらかく受け止める用意が整っていないような気がした。

 もとのようにチャクラが活性化するまで、もうちょっと時間がかかりそうだ。


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帰宅する人々
シベリウス好きはおしゃべりしないように思う








● 日本人だけじゃない? 本:『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)

2014年、ころから発行

 「九月、東京の路上で」何があったか?
 日本人による朝鮮人・中国人のジェノサイド(大量虐殺)があった・・・・。
 約100年前(1923年)の話である。

 本書は、リアルタイムで現場を見た人々の証言に、周辺状況が把握できる解説を付け加えて、時系列に並べたものである。
 取り上げられている場所も、品川、四ツ木、神楽坂、上野公園、池袋、高円寺、熊谷、寄居、習志野など、東京・埼玉・千葉と多所に亘っている。
 表紙の絵は、関東大震災直後に小学4年生が描いたもので、一人の朝鮮人を武器を持った日本人が大勢で追跡しているところらしい。

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 本書を読んでいる間、ソルティの気持ちは深~く落ち込んだ。鬱がぶり返すのではないかと思ったほど。
 震災時の朝鮮人虐殺の話は、これまでもあちこちの本で読んでいた。が、単発だったので全体像は見えなかった。
 本書のようにまとまったものを読むのは初めてであった。
 結果、「ジェノサイド」という言葉が決して誇張ではない様相に、ショックを受けた。

 日本人ってなんだろう?
 なんという残虐な国民なのか?
 なんと附和雷同しやすいメンタルか?

 落ち込みの理由は自虐的気分におちいったからである。日本人というアイデンティティに誇りを感じられなくなりそうだったからである。

 いやいや、日本人だけではない。デビ夫人亡命後のインドネシア人だって、ポル・ポト政権下のカンボジア人だって、奴隷制時代のアメリカ人だって、ベトナム戦争時の韓国人だって、一介の庶民による庶民への虐殺行為はあったはず。特別なことじゃない。

 そう考えて気をとり直したけれど、それはまったく言い訳にも説明にもならないことは自明の理であった。
 
 夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました。私たちは三尺あまりの棒を持って其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました。わすれたがあのだいろくの原と云ふ所は二百人に死んでいたと云ふことであった。
(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児による作文)

 子供たちも含めリアルタイムを生きた人々の証言は、生々しいまでに率直で、映像喚起力があり、作為的なところがない。
 本書には、芥川龍之介や折口信夫や千田是也など著名人の証言も載せられている。
 これだけの証言を前に、「虐殺はなかった」と言うのは自己欺瞞としか言いようがない。
 罪に罪を重ねるような破廉恥は止してほしいものである。

 著者は、「虐殺はなぜ起こったか」という章を設けて、次のように考察している。

 突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。

 だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。
 その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり、4年前の三一独立運動以降、日本人はいつか彼らに復讐されるのではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。そして防衛意識に発した攻撃が「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していったのだろう。

 しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政であり、軍である。

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1906年サンフランシスコ大地震(M7.9)の情景


 「まえがき」によると、本書が生まれたきっかけは、朝鮮人が多く暮らす新大久保(新宿区)に生まれ育った著者が、2012年から始まった在特会(在日特権を許さない市民の会)によるヘイトスピーチを目にし、怒りを感じ、抗議行動に参加したことにある。
 2000年代に入ってからの石原慎太郎都知事による「三国人」発言、在特会の活動、ネットにあふれる嫌韓コメント・・・・、関東大震災で朝鮮人ジェノサイドを引き起こした“空気”は今もこの国に漂っている。

 関東大震災は過去の話ではない。今に直結し、未来に続いている。 

 然り。
 ソルティも、今回のコロナ禍で各地で起こった感染者差別や風評被害、秋篠宮長女の結婚に対するバッシングの嵐を鑑みるに、「日本人は変わっていない、変わらない」とつくづく思う。
 一言で言えば、日本人の国民性のネガティヴな面の一つは、「匿名を隠れ蓑にしたいじめ体質」である。

 いや、日本人だけじゃない日本人だけじゃない日本人だけじゃない・・・・。
 虚しく繰り返す秋。


P.S. 関東大震災時に千葉県福田村で起こった香川の行商グループ虐殺事件を、森達也が映画化するという。震災100周年の2023年公開を予定している。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ノーベル漫画賞ってないのか : 『諸星大二郎展 異界への扉』

 最近すっかりファンになった諸星大二郎展が三鷹でやっているというので行ってみた。
 デビュー50周年記念だという。

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案内チラシ

 会場は中央線JR三鷹駅南口の目の前にあるCORALというビルの5階にある三鷹市美術ギャラリー。
 はじめて足を運ぶ。
 ネットで調べたら、密を防ぐためか予約制になっている。もっとも空いていそうな平日の開館直後(10時~10時半)の枠を選んだ。

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三鷹駅南口

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CORAL

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会場入口

 1970年のデビュー作『ジュン子・恐喝』から現在連載中の『西遊妖猿伝』まで、B4大の原画がカラーページも含めて約350点、迷路のように仕切られた展示室にずらりと並んで、圧巻であった。
 ソルティがここ最近読んで感銘を受けた文庫版の『暗黒神話』、『壁男』、『彼方より』に収録されていた傑作群のワンシーンも見つけることができ、縮小サイズで発行された印刷物と原画との違いが興味深かった。
 塗ったばかりのような黒々したベタ、緻密な描線、迫力ある効果線、一つ一つの吹き出しに手作業で貼った写植文字(セリフ)の凹凸、そして編集者が原稿に入れたさまざまな校正記号が一つの作品が出来上がるまでの苦労と情熱とを感じさせる。(実はソルティ、昭和時代に編集の仕事をしていました)
 
 やはり、原寸で見ると諸星の絵の上手さ、漫画家としての技術の高さに驚嘆する。
 正確なデッサン、丁寧な細部処理、ペンの使い分け、人や物体の造形力、構図、コマ割りなど、基本的なところがしっかりしている。
 その安定した基礎の上に、独創的にして大胆な発想と個性的なタッチと唯一無二の世界観が、豊富な知識(美術、歴史、民俗、生物、神話、哲学、宗教e.t.c.)と卓抜なるストリーテリングを伴って、作品として結実するのだから、しかも、残酷なまでに浮き沈みの激しい漫画界にあって半世紀ものあいだ質の高い作品を生み続け、新しいテーマや描法にも果敢にチャレンジし、幅広い世代の読者を楽しませ続けているのだから、これはもう国宝級、いや世界遺産、ノーベル漫画賞ものである。
 
 2時間じっくり堪能したあと、受付に戻ってムック『文藝別冊総特集 諸星大二郎』とカオカオ様キーホルダーを買った。

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 これから、『妖怪ハンター』や『マッドメン』や『諸怪志異』や『栞と紙魚子』などが自分を待っていると思うとワクワクする。
 展示は10/10まで。 

P.S. 展示の最後のほうにあったダ・ヴィンチばりの裸の美少年の絵にはたまげた。諸星センセイ、ついにBL漫画にチャレンジか!?
 


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 沢尻エリカを待ち望む 映画:『パッチギ !』(井筒和幸監督)

2005年シネカノンほか制作
119分
日本語、朝鮮語

 1968年の京都が舞台の青春恋愛ドラマ。
 朝鮮高校の番長リ・アンソン(=高岡蒼佑)の可愛い妹リ・キョンジャ(=沢尻エリカ)と、鴨川を間にはさみ事あれば対立する日本の高校の真面目な一生徒・松山康介(=塩谷瞬)の「ロミオとジュリエット」まがいの、甘酸っぱくも苦い恋愛が描かれる。
 もちろん、背景に横たわるのは近代以降の日本による半島侵略であり、在日コリアンの受けてきた苦難の歴史である。

 容易には語りえない重苦しい題材を扱いながら、笑いと涙とアクションシーンを散りばめ、全体に爽やかなエンターテインメントに仕上げた井筒監督の手腕が光る。
 この監督のなによりの凄さは、出演するすべての役者の良さを存分に引き出してしまうところであろう。
 3人の主役――沢尻エリカのキュートな美しさ、高岡蒼佑のニヒルな優しさ、塩谷瞬の朴訥としたひたむきさ――はむろんのこと、アンソンの弟分役の尾上寛之、朝鮮高校のスケ番役の真木よう子、高校の先生役の光石研、ほかにキムラ緑子、前田吟、笹野高史(好演!)、ケンドーコバヤシ、オダギリジョー、余貴美子、大友康平など、すべての役者がそれぞれの見せ所を与えられ、ほんの数カットに過ぎなくとも印象に残る芝居をみせてくれる。
 一度井筒に使われた役者は、きっと次も出演したいと思うのではないか。

 いろいろ思うことはあるが、本作に関してはなんと言っても沢尻エリカの一本勝ちである。
 チマチョゴリを着た彼女の美しさには、国籍や人種や民族といったハードルを平気で飛び越えさせる力がある。
 この力ゆえに、日本の真面目な高校生が、よりにもよって朝鮮高校の番長の妹に一目惚れして一点突破(パッチギ)してしまうわけで、その力学が働かなければ物語は動きださない。
 沢尻エリカのたたずまいは、そこに十分な説得力を与えている。
 女優としてこれだけいい素材の持主なのだから、やっぱり復帰してほしいものだ。
 井筒監督の手によって再生されることを祈りたい。
 
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在日コリアンの少女を演じる沢尻エリカ 




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 地獄のアルゴリズム 本:『虐殺器官』(伊藤計劃著)

2007年早川書房

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 近未来戦闘SF。

 世界各国の要人の暗殺を任務とする米国の青年シェパード大尉は、“虐殺の王”という異名を持つ同国人ジョン・ポールの捕獲指令を受ける。
 ジョン・ポールは元は国防総省で言語の研究をしていた人間であったが、サラエボで妻子を核爆弾で失ったのがきっかけで、以後、後進諸国の中枢に入って不穏な動きをするようになった。彼が行くところ、必ず政治は乱れ、内戦や民族虐殺が勃発する。
 戦闘員として育てられた少年少女をはじめとし、なんら躊躇いも感情もなしに敵を撃ち殺すことに長けたシェパード大尉は、自らの麻痺した良心をいぶかしみながら、ジョン・ポールの行方を追う。

 印象としては、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(原作はジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』)へのオマージュといった感じ。
 シェパード大尉=ウィラード大尉(=マーティン・シーン)、ジョン・ポール=カーツ大佐(=マーロン・ブランド)である。
 違いとしては、『地獄の黙示録』の舞台は大国間(冷戦下の東西)の覇権争いを背景とするベトナム戦争で、戦車や銃や爆弾といった20世紀の武器が使用されていた。
 一方、『虐殺器官』においては先進大国間の争いはすでに終焉し、対テロの闘いが中心となっている。大国はいまや戦争を民間委託できる経済行為の一つのごと扱っていて、そこで使用される輸送機や装備や武器はIT技術や工学の進歩により、味方の安全性と敵に対する殺傷力のいずれもが最高度に発揮されるよう計算された効率の良いものになっている。
 つまり、一方には個人のプライバシーや自由と引き換えに得た高度のITセキュリティと物質的豊かさを享受するポストモダン的アルゴリズム社会があり、逆の一方には昔ながらの搾取と貧困と独裁と民族対立に苦しむ伝統的アナログ社会がある。前者は後者を搾取する。
 『ひとはなぜ戦争をするのか』の解説で養老孟司が「テロリズムの正体」として指摘していたのはまさにこれで、ポストモダン的アルゴリズム社会に対する伝統的アナログ社会の憤懣がテロとして立ち現れるというのである。まともに闘ったら敗けるのは明らかだから・・・。
 その点で、本作は近未来SFとは言いながら、もうほぼ現代世界そのもの。現代世界の誇張描写による戯画化といったほうがふさわしいかもしれない。

 そのような世界の中で、ジョン・ポールはなぜに後進諸国を渡り歩いて虐殺を準備するのか?
 どういった手段でもって人心を操り、虐殺への道をつけるのか?
 その動機とトリックがなかなか興味深い。
 
 著者の伊藤計劃は本作が作家デビュー。
 武器一般や脳科学や国際政治に関する専門知識が必要であろう本作を、たった10日で書き上げたというから凄い。
 ミリタリーオタクだったのかもしれない。
 「だった」と過去形にするのは、34歳でガンで亡くなっているからである。
 自らの命の限りを見続けていたことが、本作に見られるような哲学性を生んだのかもしれない。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ウミウシもの2 映画:『バクラウ 地図から消された村』(クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアーノ・ドルネレス監督)

2019年ブラジル、フランス
131分、ポルトガル語、英語

 『ボーダー 二つの世界』(2018)に奉った「ウミウシもの」という新ジャンル枠を、本作にも捧げたい。
「いったいこれはなんの映画なの?」という、戸惑いと驚きと奇天烈感に満たされる作品である。
 宗教(カルト)コミュニティ映画のように始まり、LGBTQ映画のような多様性のニュアンスが立ち込め、それが不意に犯罪・スプラッタ映画の残虐シーンに突入し、サイコパスホラーの色を帯び、ガンマンが跋扈する西部劇のような展開を経て、村人総出の百姓一揆のごとき戦闘バトルでクライマックスを迎える。
 悪徳政治家の卑劣な企みから「おらが村」を守りぬいた住民たちの勇気と団結の物語と言えば聞こえはいいが、村人の中には世間で「殺しのプロ」と恐れられる凶悪犯はじめ前科者、娼婦や娼夫、オカマやヌーディストもあたりまえに(なんら差別を受けずに)暮らしていて、勧善懲悪とも言いかねる。
 なんとも不思議な味わいの映画。
 
 80年代LGBT映画の傑作『蜘蛛女のキス』で世界デビューした往年の美女ソニア・ブラガが、無頼なレズビアンの医師役で出演。圧倒的存在感をみせている。
 
 
蜘蛛女のキス
『蜘蛛女のキス』におけるソニア・ブラガ



おすすめ度 :★★★

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● ほすぴたる記その後25 台風の予兆(事故後1年10か月)

 左足かかとの骨折からもうじき丸2年となる。
 普段の生活ではとくに不便は感じない。
 仕事はデスクワーク中心で、休日も走ったり飛んだりするわけではないので、たいてい足のケガのことは忘れている。
 朝起きてすぐの時だけ、足首に固さを感じ、階下へ降りる際に手すりを使った斜め降りになってしまうくらい。

 ただ、天候によって足の痛みがぶり返すことがある。
 曇りの日、雨の日は、シクシクした痛みを覚える。
 古傷がうずくというやつだ。
 それは寒気や湿気のせいとずっと思っていたが、どうもそうではなくて、気圧と関係あるようだ。
 低気圧が近づくと不調になる。
 気象病というやつである。

 このたびの台風も、近づくにつれ足がうずき出した。
 日中でも職場の階段を降りるのがぎこちなくなった。
 ソルティの場合、足のうずきだけでなく、低気圧になると体がだるくなり眠くて仕方ない。あくびばかり出る。
 人によっては頭痛やめまいや耳鳴りを起こす人もいるようで、頭痛―るという専門予報サイト(アプリ)もあるくらいなのだ。

 気象病は自律神経と関係が深いらしい。
 気圧の急激な変化は、自律神経に影響を及ぼし、交感神経と副交感神経のバランスが崩れやすくなる。
 すると、全身の血管や神経が過剰に刺激される。
 それが頭痛や関節痛の起こる原因のようだ。
 ストレスなどで自律神経失調気味になっている人は、もろ影響が出やすいのだ。

 骨折のおかげで、天気の崩れるのを予知できるようになった。

 しかし、ねむい・・・・

台風







● 本:『関東大震災「虐殺否定」の真相』(渡辺延志著)

2021年ちくま新書

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 およそ100年前の1923年9月1日に起きた関東大震災の直後、混乱に乗じた朝鮮人が暴動を起こし、「建物に放火した」、「井戸に毒を入れた」、「婦女を暴行した」、「各地でダイナマイトを手に破壊活動を企んでいる」といったデマ(流言)が飛びかった。デマを信じた一部の日本人らは徒党を組んで、朝鮮人を見かけるやこれを捕らえて虐殺した。

 ――というのが、これまで一般に言われてきたところである。
 ソルティも、いつからか、あるいはどういった媒体からかは覚えていないが、この言説に接し、「そんな酷いことがあったのか」と歴史的事実の一つとして神妙に受けとめてきた。
 住井すゑのベストセラー『橋のない川』にはそのあたりの記述が見られるし、筒井功の『差別と弾圧の事件史』にも香川の行商が朝鮮人と間違われて虐殺された福田村事件(千葉県)が取り上げられている。1997年阪神・淡路大震災のときも、2011年東日本大震災のときも、「決して繰り返してはならない」教訓として、この話題が再燃したのを覚えている。
 しかるに、近年、「朝鮮人のかかる犯罪はデマではなく実際にあった」、「日本人による朝鮮人虐殺の事実などなかった」という意見が出回っているそうである。特にインターネットで顕著らしい。
 ソルティはそういったサイトには立ち寄らないのでよく知らないが、「南京大虐殺はなかった」、「従軍慰安婦の強制連行はなかった」に続いて出てきた、国粋主義的な価値観を持つ人たちの「なかったことにしたい」シリーズの新しいトピックという印象をもった。
 次はきっと、「731部隊はなかった」あるいは「福島第一原発事故はなかった」あたりだろうか・・・・。
 いずれにせよ、「国際社会がまともに相手にするはずはない」と思っていたのだが、本書によると、米国ハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授が関東大震災を取り上げた論文を書き、それが英国ケンブリッジ大学出版局が刊行する本に掲載されることになった。その中でラムザイヤー教授は、「朝鮮人による犯罪はあった」、「日本人によって殺された朝鮮人の数は言われているほど多くなかった」と論じているという。
 発行のあかつきには、国際的権威に基づく意見として流布するのは想像に難くない。
 ちなみに、同教授は2018年安倍政権時代に旭日中綬章をもらっている。

ケンブリッジ大学
ケンブリッジ大学


 本書は、このラムザイヤー教授の論文に対する検証がきっかけとなって生まれたものである。
 著者の渡辺延志(のぶゆき)は元朝日新聞記者で、明治以来の日本と朝鮮半島の関わりを調査し、『歴史認識 日韓の溝』(ちくま新書)という本を書いている。
 渡辺は、ラムザイヤーの主張の論拠となっている関東大震災直後の各紙新聞記事を丹念に探し集め、震災取材経験を持つ同業者の目でそれを読み解き、当時の国際状況や国内事情も視野に入れ、「朝鮮人の犯行」に関する公式調査による報告書にも当たりながら、“実際に起こったであろうこと”を再構成している。
 マグニチュード7.9、死者・行方不明10万人以上、全壊家屋10万棟以上という未曽有の災害の凄まじさ、逃げ惑う人々の混乱とパニック、交通機関や電話など連絡手段が断たれた中での危険きわまりない困難な取材と他社より一刻も早い報道に命を懸ける記者たちの姿、そしてどこからともなく現れたデマとそれに踊らされ常軌を逸した行動に走る者たち・・・。
 パニック&ホラー映画を観ているようなサスペンスと衝撃に、海千山千の新聞記者ならではの鋭い洞察と解析が光る社会派ミステリーの味わいが重なる。
 ページをめくる手が止まらなかった。
 
 仙台駅における水も漏らさぬ警戒ぶりは物凄いほどで、列車の着するごとに鮮人は居らぬかと鳶口(とびぐち)、棍棒を持った自警団員がホームに殺到して目を光らし、少しでも怪しいと見ればこれを取り囲んで打倒せんとする有様で仙台駅頭は殺気漲っている。民衆の興奮はもっともながら、群集心理の附和雷同から無闇矢鱈に騒ぎ廻り、何等罪なき良民を傷つくるが如き行為は謹まねばならぬ。現に鮮人と思い誤られた立派な日本人が群衆の威嚇に極度に恐怖し逃走したとして、朝鮮人だ殺して了いと喊声(かんせい)を揚げて追いまくり、一名は警察官が身をもって保護し事なきを得たが、他の一名は何者かに鳶口を背部に打込まれ二ヶ所に重傷を負い、中央篤志会の手当を受けて仙台座に収容された。
(『河北新報』に掲載された9月5日前後の避難民の目撃談) 

鳶口
鳶口(とびぐち)

 
 著者は、ほかならぬ新聞報道が「朝鮮人の犯罪」というデマを積極的に広め、それを読んだ人々に事実と思わせてしまったことを検証する。
 いわゆるフェイクニュースだ。
 
 だが、新聞記者としてその場に自分がいたならと考えると、やはり同じような記事を書いただろうと思えてならない。聞いた話の内容が本当に事実なのかを確認する手段はない。だが、語っている人たちに嘘をつく理由が考えられない。数多くの人に話を聞けば聞くほど、内容は似通っている。全国どこの新聞であっても、一本でも多くの記事を載せたいという段階だった。
 
 一方、このフェイクニュースには2種類あり、震災直後の報道陣が事実を確認しないままにデマを信じて流した“早とちり”によるもの以外に、官から意図的に流されたものもあったことを突き止める。
 震災から少したって、朝鮮人虐殺のニュースが国際問題となりつつあるのを懸念した政府は、意図的に震災直後の朝鮮人の犯罪を捏造し、マスコミを通じて世にリークしたのである。
 それは、「日本人による朝鮮人虐殺は不可抗力あるいは正当防衛であった。なぜなら、朝鮮人が最初に不届きな事件をあちこちで起こしたから」という体面(言い訳)をつくるためであった。
 このあたりは今日まで続く権力による情報操作の闇を感じさせる。
 
 ともあれ、「朝鮮人の犯罪」というフェイクニュースは悲しいことに広まっていった。
 しかし、それがただちに「相手かまわぬ朝鮮人の殺戮」という非道につながったのには、なにかしらの理由が必要だろう。上の引用にみるように、武器を持たない単独の朝鮮人(と間違えられた日本人)でさえリンチの対象となったのだから。百歩譲って、朝鮮人に恐怖や怒りを覚えたとしても、ただ捕まえて縛っておくだけでは済まなかったのだから。
 なぜ、虐殺は起こったのか?
 中心となった自警団員とはどういう人たちだったのか?
 ここでは詳らかにしないが、渡辺の説にはソルティを震撼とさせるものがあった。

軍人墓地


 最後に、この問題の論点を単純化して整理する。
 関東大震災の直後、
  ① 朝鮮人による犯罪(放火、暴行、殺人、井戸に毒投入など)はあった
  ② 朝鮮人による犯罪はなかった
  ③ 日本人による朝鮮人虐殺はあった
  ④ 日本人による朝鮮人虐殺はなかった 

 震災直後に大方の人々が抱いたのは、①→③である。各新聞社が「無責任に」、政府が「意図的に」流した情報もこの道筋に拠るものであった。つまり、「③虐殺」は、「①犯罪」に対する正当防衛だという見方である。
 その後、①は公式に否定された。
 以降、ソルティはじめ大方の日本人が学んできた常識は、②→③である。つまり、「③虐殺」は、デマを信じ込んだ日本人の愚行であった。渡辺もまたこの前提に沿って本書を記している。
 ラムザイヤー教授が約一世紀後の今になって突如として言い出したのは、よもやの①→③への逆戻り。しかも、「③虐殺」を矮小化するニュアンスを打ち出している。
 そして、最後にネットを中心に近年見かけるようになったのが、①→④である。「なかった」ことが問題化し100年間語られてきたというアクロバティックな理屈。(ここまで来たら、②→④まであと一歩。頑張れ!)
 
 もっとも、ソルティも当時そこにいたわけではない。
 自分が②→③という図式を常識と思うようになったのは、活字やテレビや伝聞など他者によって作られた情報がもとで、自分の目や耳で確かめた事実ではない。
 多かれ少なかれバイアスがかかっている。
 本書もまた、著者の渡辺が“元朝日新聞記者”ということが一つのバイアスと取られる可能性大である。
 人は、自分の見たいものを見るし、信じたいものを信じる傾向がある。
 渡辺自身もまた、本書「おわりに」でこう記している。
 
 社会に力を持つフェイクニュースとは単なる嘘ではないことを思い知った。多くの人々が信じて疑わない嘘なのだ。社会や人々の中に、信じ込む背景が、待ち望む思いがある嘘だといえるのかもしれない。
 
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P.S. ラムザイヤー教授の論文だが、その後、ケンブリッジ大学出版当局から改訂の要求を受けて大幅に書き直したそうだ。関東大震災に関する部分はほとんど削除したらしい。なんだよ!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 昭和のステゴザウルス 本:『ひとはなぜ戦争をするのか』(アインシュタイン&フロイト著)

1932年7~9月の往復書簡
2000年花風社刊行
2016年講談社文庫(浅見昇吾 訳)

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 20世紀を代表する物理学者と心理学者がこのような手紙をやりとりしていたとは、ついぞ知らなかった。
 訳者あとがきによれば、当時この往復書簡は刊行されはしたものの、翌年のナチズム政権誕生後の激動の中で埋もれてしまったらしい。
 アインシュタインもフロイトもユダヤ系であり、ナチスの魔の手から逃れるため、前者はドイツからアメリカへ、後者はオーストリアからイギリスへ亡命している。
 第二次世界大戦の渦中、影響力の大きい二大天才によるこのようなテーマの著作が陽の目を見るのが難しかったことは、想像に難くない。
 ドイツでもオーストリアでも、アメリカでもイギリスでも、むろん日本でも、戦争に異議を唱えてはいけない時代だったのである。
 本邦での出版は2000年が初めてとのこと。

 文通のきっかけは、国際連盟がアインシュタインに寄せた依頼。
 「誰でも好きな方を選び、いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交わしてください」
 この依頼に対してアインシュタインが選んだ相手が、23歳年上の精神医学の巨人ジークムント・フロイトであり、選んだテーマが、「人間を戦争というくびきから解き放つことができるのか?」というものだったのである。

 往復書簡には違いないが、両者のやりとりは一回こっきりで、難しい物理学用語も心理学用語も使われていない。
 戦争の原因を、国際政治的あるいは宗教・民族的あるいは地勢・資源的な観点から読み解いているわけでもない。
 3、40分もあればさっと読み終える、極めてわかりやすい内容である。 
 本文庫には、二人の手紙のやりとりに続いて、浅見昇吾による『訳者あとがき』、解剖学者で『バカの壁』で有名な養老孟司による解説『ヒトと戦争』、ひきこもりの研究で知られる精神科医の斎藤環による解説『私たちの文化が戦争を抑止する』の三本が収録されている。
 これら付録のほうが本文より分量が多く、テーマが複雑なくらいである(とくに養老による解説)。

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 手紙の内容を簡潔にまとめる。
 まず、アインシュタインもフロイトも「戦争が起こるのは、人の本能に破壊欲求があるから」という点で一致をみる。フロイトは、それは人間にある「死の欲動(タナトス)」が外の対象に対して向けられたものであると専門的説明をする。
 フロイトは続ける。
 人間の攻撃性を完全に取り除くことはできないので、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよい。「死の欲動」の反対にある「生の欲動(エロス)」を呼び覚ませばよい。
 
 人と人との間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。 

 単純に言えば、「死の欲動」とは憎しみ、「生の欲動」とは愛である。
 汝の敵を愛せよ――。
 しかし、物事はそんなに単純でないことはフロイト自身、分かっている。
 大衆の感情を掻き立て心の絆を作る行為そのものが、戦意高揚にもっとも効果あることは、ほかならぬナチスが立証している。
 タナトスはエロスを利用する。(逆に、エロスもまたタナトスを利用する。たとえば三島由紀夫)
 フロイトは別の戦争抑止策を提言して、書簡を終える。
 
 文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!
 
 心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方――これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。

 このフロイトの回答に対してアインシュタインがどう思ったのか、納得したのかしなかったのか、希望を得たのか失望したのか、そこが分からないのは残念至極である。
 ただ、第五福竜丸の被爆事件がきっかけとなって彼が死の直前に書き上げた『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年)の最後で、こう記している。
 
 私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

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 啓発的かつ面白いのは、養老孟司による解説である。
 養老は、二人の議論で扱われなかったこととして、次の三点を挙げる。
  1. 当時の政治情勢
  2. 人口問題と戦争との関係
  3. 情報あるいはITの技術が戦争にもたらす影響
 1と2はともかく、3はもちろん二人の議論に取り上げられるべくもない。
 二人もよもやここまでIT技術と武器開発が進み、たとえばドローンの遠隔操作によるポイント爆撃といったように戦争の形態が変わるとは想像していなかっただろう。
 今回の新型コロナウイルスがそうなのかどうかは知らないが、実戦よりも確実に楽々と大量の敵の命を奪って社会を崩壊させる生物兵器の恐ろしさには思い及ばなかったであろう。
 二人が手紙のやりとりした当時と現代とでは、社会は大きく変わってしまった。
 養老は述べる。

 パソコンとスマホに代表されるITは日常生活を変えた。そこでは新しい社会システムが創られた、あるいは創られつつある、といっていいだろう。現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば「ひとりでにできる」、あるいは「自然にできてしまった」という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。「アルゴリズムに従って創られる」面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。

 このあたりは、『ホモ・デウス』においてユヴァル・ノア・ハラリが詳述している通りで、神の死とともに始まった近現代の「人間至上主義」が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元する「データ至上主義」に、変わりつつある。
 そういった人類史における大転換期にあって、戦争はいったいどうなっていくのか?
 テロリズムはどう解釈されうるのか?
 この観点から読み解いていく養老の洞察力が冴えて、一読に値する。

 ユヴァルはアルゴリズム的社会において、戦争は――少なくとも国家間の大きな戦争は、廃れていくと予言している。
 養老もまた、「ほとんどが局地戦」になるだろうと述べている。
 それが本当であるならば、ソルティも「IT音痴の旧世代」あるいは「昭和のステゴザウルス」として静かに世を去っていくのもやぶさかでないのだが・・・。

昭和のステゴザウルス



 最後に、二人の議論にも養老の指摘にもかからなかった今一つの論点を上げる。
 それはジェンダー視点である。
 「ひとはなぜ戦争をするのか」という問いそのものに、すでにバイアスがかかっている。
 なぜなら、この場合の「ひと」とは MAN すなはち「男」のことであろうから。
 戦争をするのは、戦争を好むのは、どう見たって「女」よりも「男」である。
 戦争の種は、ホモサピエンスの「男」の性質(マチョイズム)に埋め込まれている。
 アインシュタインもフロイトも養老孟司も、そこに思いが及ばない。
 「バカの壁」ならぬ「男の壁」がそこにある。

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 秋の秩父リトリート&くるみ蕎麦

 連休と有休を利用して、4泊5日の秩父リトリートを決行した。
 コロナ禍になって3回目となる。
 もう、暇があれば秩父に足が向いている。
 秩父34札所巡りを結願してから、秩父と縁ができてしまったようだ。

 今回も、NO テレビ、NO スマホ、NO アルコール、NO 会話、NO エッチ、NO 過食の環境設定で、瞑想&読書&散歩の孤独でストイックな日々を過ごした。(本は仏教書持参)
 大概の人にとってはおそらく苦痛でしかないであろうこの環境を、むしろ快と感じるこの頃なのだから、ソルティも半聖半俗というか、修行マニアというか、隠居寸前というか・・・・変わり者なのだろう。
 自分にとってはもはや苦行ではなくて、楽行なのだ。
 コロナやワクチンや政権争いや皇室スキャンダルでかまびすしい世間から、いっとき身を離すのが嬉しい。
 一日中、マスクをしないで過ごせるディスタンス度が心地良い。 

 今回は散策中に秋の花々を愛でることができ、喜びもひとしおであった。
 年をとるにつれ、花が好きになる。
 それも、誰に待たれることなく今年も咲いてくれる、道端の小さな花が愛おしい。


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曼殊沙華が満開であった(札所16番前)

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秋桜もいまが盛り

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朝顔はいまや秋の花

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桔梗は秋の七草の一つだが、実際には初夏から咲いている

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 秩父は戦災を受けなかったので、古くからの建物があちこちに残っている。
 それらを見つけるのも楽しい。
 やはり年をとるにつれ、伝統的な日本建築の美しさに惹かれていく。


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大林宣彦監督の映画に出てきさうな・・・

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散歩途中よく猫と出会う 

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荒川河川敷に降りてみた
いまはBBQ禁止になっている

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左奥に武甲山を望む

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秩父公園橋を見上げる


 毎朝、宿から秩父神社まで歩いて参拝するのが日課。
 これが実に気分いい。
 早朝の秩父盆地に憩うさわやかな大気、悠然と町を見守る武甲山の雄姿、柞の杜(ハハソのもり)に囲まれた秩父神社の神聖にして清冽なる気。
 参拝後に境内のベンチで小一時間も瞑想すると心身はこの上なく、清らかに鎮まる。
 この清らかさ、なにものにも代え難い。
 それは、欲望が満たされた時に感じるような「天にも昇る」幸福感ではないけれど、それよりずっと安定していて、自ら作りだすことができるので依存性もなく、失うことの不安や恐れもない。
 決して特別なものではなく、心が妄想に(過去や未来に)かまけてさえいなければ「今ここ」で実現しうる穏やかな静謐。
 足すことでなく引くことで、求めることでなく捨て去ることで見出せる、遠慮がちな至福である。 

 自分がずっと求め続けていたのはこれだったんじゃないか!

 ハハソの森のどこかで、コノハズクが「ブッポウソウ、仏法僧」と鳴いていた。


秩父神社
秩父神社本殿



 最終日、秩父鉄道皆野駅から出ている無料シャトルバスに乗って、秩父市下吉田にある星音の湯(せいねのゆ)に足を延ばした。
 山と畑に囲まれた隠れ家的温泉。
 バスを降りたらどうもデジャヴュがある。
 地図を見て気づいた。
 秩父札所33番から34番への道筋にある。
 巡礼したとき、この横を通っていたはずなのだ。


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広々と解放感あるロケーション

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 平日の午前中で、露天風呂独り占めできた。
 肌がつるつる(ヌルヌル?)してくる泉質もすばらしいが、檜づくりの日本家屋に囲まれた水音ゆかしい中庭が風流であった。
 おりしも十五夜、ススキやお団子が供えられていた。


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擂ったクルミ入りのつゆにつけて蕎麦を食べるのが秩父風
もちろん、わらじカツは定番






● 映画:『異邦人の河』(李学仁 イー・ハギン監督)

1975年緑豆社
115分、白黒

 在日2世の若者のアイデンティティをめぐる葛藤を描いた青春ドラマ。
 主演は往年のロックバンド、キャロルのジョニー大倉(2014年62歳で没)。
 この映画出演を機に、自身が在日2世(朴雲煥 パク・ウナン)であることをカミングアウトした。
 つまり、演じる本人と役柄とがモロ重なっている。
 演技の上手下手はおいといて、勇気と覚悟と解放感をもって熱い思いを胸に演じているのは確か。
 瑞々しい素朴な表情が光っている。
 映画評論家の町山智浩によると、ジョニー大倉はカミングアウトがきっかけでラジオのレギュラー番組を下ろされたという。
 75年当時、在日をめぐる我が国の状況はそんなものだったのだ。
 
 恋人役の在日の少女を当時19歳の佳那晃子(当時の芸名は大関優子)が演じている。
 なんつー、美少女!
 若き日の松坂慶子似の目鼻立ちのくっきりした高貴な顔立ちは白黒画面に映える。
 デビュー2作目なのに演技も素人臭い感じはなく、ジョニーをリードしている。
 元来備わっているこの風格が、後年『魔界転生』のガラシャ夫人好演につながったのだと納得。
 
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佳那晃子とジョニー大倉


 李学仁監督についてはよく知らないが、白黒映画をここまできれいに効果的に撮れる技術は並ではない。
 構図や光の使い方にも工夫がある。

 本作では、1963年から1979年まで16年に及んだ朴正煕(パク・チョンヒ)政権下での大韓民国の実情が背景をなしている。
 朴大統領は、民主化を弾圧し独裁者と呼ばれた。(その娘は韓国初の女性大統領となったものの不祥事で罷免された朴槿恵 パク・クネである)
 ソルティは韓国の政治史についてまったく門外漢なのだが、小学生だった当時、『ユンボキの日記』という韓国の貧しい少年の物語を読んで、あまりの悲惨さに胸が詰まったのを覚えている。
 チューイングガムを売ってつくったお金でうどん一玉を買い、病弱の父親と3人の弟妹で分け合うとか、そんな話だった・・・・
 思えば、あれが朝鮮文化との最初の出会いだった。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 天城越えず 映画:『あした来る人』(川島雄三監督)

1955年日活
115分、白黒

 原作は、井上靖の同名小説。
 青春を過ぎたものの世間的になかなか落ち着かず、それぞれの幸せを求め続ける男女4人(月丘夢路、新珠三千代、三橋達也、三國連太郎)と、すでに老境に差しかかった社会的成功者である男(山村聰)、都合5人が織りなす抑制の効いたメロドラマである。
 “抑制の効いた”というのは、少なくとも「不倫」という言葉が市民権を得た80年代以降なら、平気で肉体関係を持ったであろうような絶好のシチュエーションで、この5人の男女は欲望を抑えるからである。
 たとえば、月丘夢路演じる美しき人妻と三國連太郎演じるやもめのカジカ(鰍)研究家は、お互いに惹かれ合っているにもかかわらず、二人きりになった伊豆の旅館で一線を越えることはない。
 この時代、『天城越え』(by 石川さゆり)はまだ遠い。
 5人の関係は面白いように複雑に入り組んでいるので、もし各々がおのれの欲望に忠実に従って倫を越えてしまえば、ぞっとするような愛憎の修羅場がそこに出現し、来るべき「あした」は地獄となるであろう。
 一線を越えるというハードルは、この時代、まだまだ高かったのである。


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伊豆の海をバックに月丘夢路と三國連太郎

 別に選んでレンタルしたわけではないけれど、ここにも三國連太郎が出ていた。
 男盛り28歳、どのカットを取っても「絵になる」。
 西欧人の血が混じっているのでないかと思うような彫りの深い美形。 
 ジャン・コクトーが観たら、ほうっておかなかったのでは・・・。




おすすめ度 :★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『アンチグラビティ』(ニキータ・アルグノフ監督)

2019年ロシア
111分

 ロシア発のSFアクション映画。
 アンチグラビティは「反重力」の意だが、原題 Koma はロシア語で「昏睡」の意。
 事故や病気や投薬によって昏睡状態になった人が赴く、各自の記憶の断片をもとに合成・創造された奇妙な世界が舞台となる。
 つまり、『エルム街の悪夢』、『マトリックス』、レオ様主演の『インセプション』と同型の、意識下のヴァーチャル世界をリアルに生きる者たちの話である。

 Koma(昏睡)世界の住人には「リーパー」と呼ばれる共通の敵がいて、その恐ろしき怪物との闘いが主筋の一つをなしている。
 この怪物の正体が、脳死患者の記憶が創造したイメージであるというのが、なんとも微妙である。
 脳死患者は本作を観て「差別的だ!」と抗議できないだけに・・・。
 
 今一つのテーマは、「現実世界と Koma 世界、どっちに生きるのが幸福か?」という問いかけである。
 Koma 世界の住人たちは、現実世界でそれなりの理由があって昏睡状態に陥る羽目になったわけで、昏睡から“幸運にも”目覚めたときに待っている現実は、決してなまやさしいものではない。
 たとえば、交通事故が原因で頭を打ち昏睡に至った者なら、目が覚めたときに、一生不自由になった身体や変わり果てた容貌や様々な人間関係・現実社会のしがらみに直面しつつ、その後の人生を生きていかなければならない。
 であるならば、五体満足で思い通りの自分になれる Koma 世界に生きるほうが幸福ではないか?
 
 本作はCGを駆使した高いビジュアル効果が売りのアクション映画――たしかに見事な驚異的な映像の連続である――なので、そこらへんはあまり深く追及されていない。
 が、真剣な考察に値する問いと言えよう。
 その点で、同じロシア――というよりかつてはソ連だった――の名監督アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(原作はポーランド作家スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』)を思い出した。


夢と現実



おすすめ度 :★★

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● いつか見た変な夢 漫画:『壁男』(諸星大二郎著)

2007年双葉社文庫名作シリーズ
初出
『壁男』1995~1996年
『ブラック・マジック・ウーマン』1979年
『鰯の埋葬』1991年
『会社の幽霊』1992~1993年
『夢の木の下で』1997年
『遠い国から』1978~1998年

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 『暗黒神話』、『自選短編集 彼方より』に次ぐ、3冊目の諸星ワールド参入。
 もうすっかりこの世界の虜となった。

 なんという奇抜な想像力!
 CGのなかった時代、まさに漫画でなければ表現できないモチーフであり発想である。
 その意味で、極めて「漫画的」な作家と言っていいのだろう。
 『彼方より』を読んで、つげ義春、伊藤潤二、赤塚不二夫、永久保貴一などを想起したと書いたけれど、今回は、安部公房(「壁男」の実存的意味)、古賀新一(「ブラック・マジック・ウーマン」のサバト風景)、レイ・ブラッドベリ―(「夢の木の下で」の幻想性)、星新一(「遠い国から」の怪奇と寓話性)などを連想した。
 つまり、読んでいるとなぜか「奇妙でおっかないけれど、どこか懐かしい」といった気分にさせられる。
 それは、悪夢というほどではないけれど、変てこりんな夢を見たときの目覚めの感覚に似ている。
 夢の中では、自分もたまに諸星大二郎になっている。

 CG全盛の現在、『壁男』や『夢の木の下で』あたりは映像化されても面白かろう。
 個人的には『遠い国から』に出てくる、驚くと団子虫のように地べたに丸まってしまう民族ピロン人に笑った。

ダンゴムシ



おすすめ度 :★★★★

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● この秋、テレビドラマ化! 本:『日本沈没』(小松左京著)

1973年光文社
2006年光文社文庫

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 上下巻合計400万部の大ベストセラーにして、日本SF界の金字塔である本作をついに読んだ。
 むろん、映画のほうは、森谷司郎監督、小林桂樹、丹波哲郎、いしだあゆみら出演の1973年版を観ているし、小林桂樹、村野武範、由美かおるらが出演した1974年のテレビドラマ版も観ている。
 なにせ小学生の頃で、火山が噴火し、地割れした日本列島が海に沈んでいく特撮シーンくらいしか記憶に残っていない。
 樋口真嗣監督、草彅剛、柴咲コウ共演の2006年版の映画は観ていないが、同じ年に封切られた『日本以外全部沈没』(樋口真嗣監督)は劇場まで見に行った。期待外れだった。
 この秋(10月10日より)TBS系列にて、小栗旬、松山ケンイチ、杏ら共演で再ドラマ化されるとか。
 小松左京リバイバルが起こっているのかもしれない。

 刊行から半世紀近く経って読んでみて、まったく古びた感がないのに驚く。
 それどころか、いよいよもって迫真性が高い。
 それもそのはず、1973年の日本人はいまだ、阪神・淡路大震災も、東日本大震災および福島第一原発事故も、今回のコロナ禍も経験していないからである。
 本作で小松が無尽の想像力を駆使して描き出している大地震や津波による都市の被害、災害下における日本人の振る舞い、緊急事態宣言下で起こるパニックや一部暴徒による利己的行動・・・。
 2021年の日本人はそれらを経験として知っている。
 自然災害によって生じる物理的被害のありようも、社会・経済的被害のありようも、「日本人」という民族的特質が絡んださまざまな心理的現象のありようも知っている。
 それが本書で、あたかも予言のように披瀝されているのを見る。

 子供の頃『日本沈没』を観たときは、“現実にはありえない”世紀末的スペクタクルとして作品を楽しむことができた。当時流行った『ノストラダムスの大予言』や『復活の日』も同じである。
 しかし、2021年の今、本作を読んでいるとデジャビュー(既視感)に襲われる。
 すでに起こったことの記録や検証のように思える。
 「今ここにある」危機を映しているように思える。
 なんたって、緊急事態宣言が形骸化する「今」なのだ!

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Sofia TerzoniによるPixabayからの画像


 知の巨人たる小松左京の博覧強記、徹底した取材・調査力、科学や工学に関する深い造詣、驚くべき斬新なアイデアとそれを科学的に裏付けることのできる理論構築力、そして専門家にしか理解できないような難解な事柄をきちんと盛り込みながらも読者をつかんで離さないストーリーテリングの巧みさ。
 天才とはこういう人のことを言うのだろう。

 今回、初めて知って驚いたのだが、小松左京は理系出身ではなかった。
 プロフィールに京都大学文学部イタリア文学専攻とある。
 イタリア文学専攻のSF作家だったとは!
 意外な気もしたが、読んでいるうちに「なるほど」と首肯できるところもあった。
 単なるカタストロフィ・パニック以上の文学性、哲学性が光っている。
 文章や描写もまた、非常に気高く美しい箇所が散見される。
 未曽有の悲劇において露呈される日本人の姿を描き出すことを通して、ある種の文明批評、日本人論にもなっている。
 そもそも、『日本沈没』も『復活の日』も一種の“地獄めぐり”であり、そこにイタリアの大作家ダンテの『神曲』が投影されている。
 煉獄の試練をへて“神的なもの”に至る――それが小松の終生のテーマだったのかもしれない。


 以下、引用。

 ――災厄は、何事につけても、新旧のラジカルな衝突をいやがる傾向にあるこの国にとって、むしろ人為的にでなく、古いどうしようもないものを地上から一掃する天の配剤として、うけとられてきたようなふしがある。
 この国の政治も、合理的で明晰で図式的な意志よりも、無意識的な皮膚感覚の鋭敏さに、より多くのものを負うてきた、この古くからの高密度な社会における政治においては、誰一人意識的にそうするわけではないにもかかわらず、結果的には、災厄を利用するという国民的な政治伝統がそなわっているみたいだった。(上巻154ページ)

 ――「大衆社会」というのは、全体的に「統制」をきらい、統制側も弱腰で「緊急事態」に対する心がまえのない、抑制のきかない社会だった。ふつうの時はいいが、いったん社会全体が危機におちいると、いたるところに、贅沢で、わがままで、傲慢になった人々によって、混乱と無秩序がひき起こされる。(上巻382ページ)

 長い鎖国――明治大正昭和も、一般民衆にとっては、一種の鎖国だった――を通じて培われた、抜きがたい「同朋意識」が・・・天皇の一声で戦争をやめ、戦後、政府、軍閥を口先では、はげしくののしりながら、十三名のA級戦犯刑の時、後ろめたさと内心の痛みを感じさせたような、「政府―指導者」との、郷党意識をはるかに越える一体感、「共同体感覚」――むしろ、子が親に、「最後は何とかしてくれる」と思い、そう思うことでつながりを保証するような「国に対する甘え」の感覚が、今もなお、大部分の民衆の心の底に根強く、わだかまっており、それが彼らに、「危機における従順と諦念」の基本的行動様式をとらせていた。(下巻219ページ)

 日本人は・・・ただこの島にどこかから移り住んだ、というだけではありません。あとからやって来たものも、やがて同じことになりますが・・・日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは・・・この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村、先人の住み残した遺跡と一体なんです。日本人と富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が・・・島が・・・破壊され、消え失せてしまえば・・・もう、日本人というものはなくなるのです・・・・。(下巻373ページ)


 最後に――。
 本作で小松が(周到にも?)言及や解釈を避けた日本人のアイデンティティが一つある。
 天皇である。(作品の中では沈没前にスイスに移住)
 小松左京は天皇制をどう思っていたのだろう?

錦の御旗



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