ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● なんなら、奈良22(奈良大学通信教育日乗) 大学生のためのレポート・論文術

 考古学概論のレポートを提出しホッとしているところ。
 何を書いたらいいのか分からなかった白紙状態から、テーマを見つけて、構成を考えて、材料を探し、資料を読み込んで、なんとか文章に仕立て、間違いがないか何度も読み返し・・・・。
 奈良大学通信教育部行きメールの送信ボタンをクリックしたときは、我が子をサバイバルキャンプに送り出す母親のような気分だった。

boy-1822621_1280
Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

 レポート作成にあたって、本文に苦労するのは常のことであるが、意外に頭を悩ませるのは引用の仕方である。
 既刊の図書や新聞記事からの、あるいは先行論文からの引用は、ちゃんと引用元を表示しないといけない。
 それをしないと、剽窃や盗用になってしまう。
 著作権侵害になってしまう。
 なので、レポートの最後に引用文献や参考文献を列挙するのであるが、その表記の仕方がいまいちよくわからない。

 考えてみたら、学術レポートを書くのは実に40年ぶり。
 すっかり書き方を忘れているのも無理ない。
 しかも、ソルティは英文科の学生だったので、卒論は英文提出だったのである。(いま思うとなんと無謀な!)
 10年ほど前に社会福祉士の資格を取るために通信教育を受けたときも、レポートはどっさり(1年半で33本!)書いたが、テキストを要約すればいいレベルだったので、他の文献からの引用は必要なかった。
 日本語のレポートや論文の場合、どうやって引用表記すればいいのか?

 いや、そんなに悩むことないっしょ?
 【筆者の名前、本のタイトル、出版社、刊行年、引用ページ】
 でいいでしょうに――と思うところだが、40年前と格段に状況が変わった。
 インターネットの登場である。
 いまや、ネット上の記事というか資料からの引用・参照が当たり前の時代である。
 たとえば、今回の考古学概論レポートの場合、6つのサイトの記事を参照した。
 国立大学が2カ所、大手新聞社が1カ所、有名民間企業の外郭団体が1カ所、国立研究法人が1カ所である。
 一応、“怪しくない”=信頼性が高いと思われるサイトを選んだけれど、どうなんだろう?
 選ぶ基準が難しい。
  • ネット上の記事ならどれでも引用していいのか? たとえば、Wikipediaや他者ブログはどうなのか?
  • 著作者(たとえばブログ主)の許可を取る必要はあるのか?
  • 図表や画像も引用(コピペ)していいのか?
  • 末尾の引用(参照)文献一覧にどうやって表記するのか?
  • 論文などが pdf. でそのまま掲載されている場合、「ネットで読んだ」ことを示すべきなのか?
  • 論文を作成した後に、引用した記事が削除されてしまったらどうするのか?
 等々、よくわからないことが多い。
 〈論文 引用方法〉とネットで検索すると、大学関係はじめいろいろな記事が上がってきて丁寧に引用方法を教えてくるが、サイトによって言ってることが違うので、ますます混乱してしまう。
 そんなわけで、やっぱり昭和世代。最後は本に頼りたい。
 小笠原喜康著・近藤たかし作画『マンガでわかる 大学生のためのレポート・論文術』という本を見つけた。
 2002年に刊行されてから累計で50万部のロングセラーになっているそうだ。

IMG_20251114_182015~2
2020年講談社発行版

 たしかに、とても読みやすい。
 知りたいポイントがわかりやすくまとまっている。
 論文の書式やレイアウトや段落のつけ方といった基礎の基礎から、文献・資料の集め方、引用・参照のルール、わかりやすい文章をつくるコツ、論文の基本的な組み立て方など、初心者には大助かりの、痒いところに手が届く内容である。
 とりわけ、ネットを使った先行論文の検索方法や関連図書の探し方、ネット資料の表記の仕方が書かれているのが嬉しい。
 それによると、ネットからの引用の記載の基本は、以下の通り。
  1. 資料のある場所のURLを記載。
  2. 記事に日付がある場合にはそれを記載。
  3. 記事の取得日(アクセスした日)を必ず記載。
  4. 可能な限り、サイトの管理者・情報提供者を記載。
例.
 “なんなら、奈良20(奈良大学通信教育日乗)入学まる1年”(2025-09-   
   27掲載),『ソルティはかた、かく語りき』,  
   https://saltyhakata.livedoor.blog/archives/10437061.html
   (2025-11-15取得)

 検索した記事の中には、「サイトの最新更新日を記載すること」と書かれているものもあったが、本書ではそこまで求めていない。
 最新更新日って最近のサイトではほとんど記載されていないし、調べるのは結構手間がかかるみたいだし、日付がたくさんあっても混乱するだけなので、今回の提出レポートには付さなかった。
 なにせ、ネットからの資料の入手は新しい事態なので、上記以外はっきりしたルールが決まってはいないようだ。
 つまるところ、レポートや論文を読んでくれる先生の意向に合わせるのがベストなのだろう。

奈良大学旧校舎破風「學」
奈良薬師寺内にある南都正強中学旧校舎(奈良大学の前身)








● 本:『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード著)

1966年初演(エジンバラ)
1969年日本初演
2017年ハヤカワ演劇文庫

IMG_20251114_092429~2

 イーサン・ホーク主演『ハムレット』を観たら、この戯曲が読みたくなった。
 作者自身の手で1990年に映画化されたものは、前に観ている。
 ローゼンクランツをゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンをティム・ロスが演じていた。

 この戯曲の成功はひとえにその独創的なアイデアにある。
 タイトルの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、この2人が端役で登場するシェークスピア作『ハムレット』の最終場面のセリフそのまま。
 もともと端役であるローゼンクランツとギルデンスターンを主役に持ってきて、主要人物であるハムレットやオフィーリアやクローディアスが脇に回る。
 一方、ストーリーや設定や上記主要人物たちのセリフは原作と変わらないので、ローゼンクランツとギルデンスターンは『ハムレット』内で与えられている出番において決められたセリフを言うとき以外は、自分たちが何をしていいのか分からない。
 それどころか、自分たちがどこで生まれ、どういう過去を持ち、何の仕事をしているのか、何が目的で生きているのか、どこに住んでいるのか、も分からない。
 ただ、かつてハムレットの御学友であったことと、王の命令は絶対であることのみ、分かっている。
 作者シェークスピアから与えられている2人の情報はそれだけ。
 台本によってすべてが縛られているからである。 

 ある朝、2人は伝令によって叩き起こされ、クローディアス王の命令によりデンマークに呼び戻される。城に上がると、ハムレット王子が思い悩んでいる理由をそれとなく探るよう王に命じられる。
 その務めを果たさないうちに、ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」のご乱心。危機を感じたクローディアスは、暗殺を企図し、ハムレットをイングランドに送る。ローゼンクランツとギルデンスターンは王に命じられるまま、監視役としてハムレットに同行する。
 王の魂胆を見抜いたハムレットは、裏をかき、旅の途中でデンマークにとんぼ返り。残された2人はそのままイングランドに向かい、クローディアスからの親書をイングランド王に届け、ハムレットの代わりに暗殺されてしまう。

 要は、脇役という存在が、いかに作者に軽く扱われ、十分な人物背景が与えられず、都合の良い駒として動かされているかということを、「主・脇」を逆転することによって明らかにしているわけだ。
 それがあたかも、自らのアイデンティティを疑う不条理劇の主人公のように見えるのが面白い。
 なぜこの世に生まれてきたのか、ここで何をすればいいのか、自分は何がしたいのか、答えが出ないままに予告もなく世を去っていかなければならない我々(舞台の観客)の姿を振り返らせるのである。
 
 もっとも、この戯曲の成功によって、ローゼンクランツとギルデンスターンは、生みの親であるシェークスピアが到底予測もつかなかったくらい有名になってしまった。
 ハムレットやクローディアスのような英雄的な死が与えられず、虫けらのように意味なく殺される2人は、ある意味、カフカの小説の主人公のようで、現代の民主主義的感覚で見れば、ハムレット以上の悲劇存在である。
 しかも、その生を、何千回も、何万回も、繰り返さなければならない。
 世界のどこかで、『ハムレット』が上演される限り。 
 輪廻転生の比喩のようだ。

 今日もどこかで、ローゼンクランツとギルデンスターンは蘇っては死んでいる。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 名前の出てこない俳優No.1 映画:『あ、春』(相米慎二監督)

1998年日本
100分

IMG_20251108_150659

 神保町シアターで開催中の「藤村志保特集」の一本。
 未見であった。
 シアターの入口で40代くらいの見知らぬ男に呼び止められた。
 「チケット、1000円で買ってくれませんか?」
 急な用事ができて鑑賞できなくなったのだと言う。
 1000円という額は、ソルティが活用できる学生入場料金と変わらないので別にトクにはならないのだが、人助けと思って購入した。
 正規の大人料金は1400円である。
 
 藤村志保はどちらかと言えば地味な女優で、一番の代表作はデビュー作『破戒』(市川崑監督)ではないかと思う。(芸名の藤村は、島崎藤村から取っている)
 60年代大映時代劇の“刺身のツマ”的ヒロインをはじめ、脇役としての活躍がメイン。
 本作でも、主役をつとめる佐藤浩市の義理の母親役で、脇をしめている。
 女優対決では、実の娘で佐藤浩市のメンタルな妻役の斉藤由貴はともかく、出番のずっと少ない緋牡丹お竜こと藤純子こと富司純子の艶やかな存在感の前には、かすみがちである。
 そういった控え目な、カスミ草のような風情がいいというファンも多かろう。
 演技は確かである。

 演技という面では、佐藤浩市。
 やっぱりいい。
 ある日突然目の前に現れた、幼い頃に死んだと思っていた父親(演・山崎努)に振り回される平凡な入り婿サラリーマンを、リアリティ豊かに演じている。
 観る者に登場人物の心のうちを自由に想像させてくれるような、“演じ過ぎない”塩梅がいい。
 演じ過ぎていないのに、一癖も二癖もある不良親父に扮する山崎努の怪演に喰われていない。
 映画(スクリーン)の演技というのは、演劇(舞台)の演技とは違うのだと、つくづく思う。
 この演技のクオリティや存在感を目にすると、血は争えないと思う一方、昨今の佐藤浩市の使われ方の“もったいなさ”思わざるを得ない。
 三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』(2008)でコメディに挑戦し、新境地を開いたのは良かったけれど、その後も続く三谷作品への出演作を観ていると、「本来の佐藤浩市ではない。役者・佐藤浩市は三谷作品におさまりきれない」という気がしてしまうのだ。
 ついでに、吉永小百合との度重なる共演も、佐藤を“殺している”のではないかと危惧する。
 佐藤浩市の魅力を生かせる監督あるいは企画がなかなかないってのが原因かもしれない。

 好きな俳優であり、三國連太郎という名優の息子であり、顔立ちも濃いので、絶対に忘れることのない役者なのだが、不思議なことにソルティにとって、「どうしても名前が覚えられない」役者No.1である。
 「名前が覚えられない」というより、「名前が出てこない」のである。
 顔は思い浮かぶし、三谷作品含めいくつかの出演作(役柄)も上げられるし、父親は三國連太郎で息子(寛一郎)もまた役者をやっていて、競馬やキリンビールのCMにも出ていて・・・・とプロフィールはいくらでも出てくるのに、名前が出てこない。
 どうしてなんだろう?
 しばらく考えて出した答えは、サトウコウイチという名前のもつイメージと、本人の持っているイメージが一致しないという理由。
 サトウコウイチって、ソルティ的には「爽やか系優等生」のイメージがある。
 サイダーのCMにでも出てきそうな。
 それと実物の佐藤浩市の醸し出す“ちょっと重たくて陰のある”雰囲気にギャップがある。
 これが、たとえば「犬神浩市」だったら絶対忘れないと思う。
 
 1998年公開のこの映画、バブル崩壊後の平成につくられたわけだが、匂いは昭和である。
 ざらざらしたフィルムの質感や、古い家屋や店舗をロケに用いたせいもあろうが、季節感がよく出されている点が大きい。
 薔薇の剪定、節分、春雷、春雨、ひな祭り、桜吹雪、鯉のぼり・・・。
 『あ、春』というタイトルからすれば当然なこととはいえ、日本映画において庶民の生活を描くには、季節を感じさせることはとても大切だったのだと改めて思った。
 人の生き死にが季節とともにあったのだ。

IMG_20240407_175542

 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

















● 映画:『Playground/校庭』(ローラ・ワンデル監督)

2021年ベルギー
72分、フランス語

 「小学生の頃が一番楽しかった」
 「あの頃に戻りたいなあ」
 ――なんて、つい思ったり口にしたりするけれど、よくよく思い出してみれば、実際には日々学校ではいろいろな出来事があって、楽しいことばかりではなかった。
 午後の音楽の時間に使うリコーダーを持ってくるのを忘れて午前の授業中ずっと「どうしようか」思い悩んでいたり(ヒステリックな女の先生だった)、クラスのイジメっ子に「明日100円持ってこい」と脅かされたり、下校中にズボンの尻が破れてしまったのをバレないように歩くのに苦労したり、お気に入りの消しゴムがなくなった次の日に同じ消しゴムを前の席の人が使っているのを見たり、放課後に大便が我慢できなくなってクラスから離れた校舎の個室を使っていたら、上から覗いた上級生に冷やかされたり・・・・。
 どれもこれも大人の目から見たらささいな出来事だが、子供にとっては小さな心臓がバクバクするような、しんどい出来事だった。
 クレヨンしんちゃんみたいに面の皮が厚かったり、ちびまる子ちゃんみたいにやり返すことができたり、磯野カツオみたいにマイペースで要領のよい性格だったら良かったのだが、ソルティは気が小さくて、恥をかくのが嫌で、人に相談できないタイプの子供だったのである。
 公立の小中学校はいろいろな背景ある家庭からやって来る、いろいろな生活レベル・知的レベルの子供が集まる、まさに社会の縮図のようなところである。
 大学進学率の高い地域の高校に入って、自分と同じような知的レベルの、乱暴でも野蛮でもない同級生に囲まれて、ようやっと修羅場をくぐり抜けたような気がしたものだ。
 そのぶん、突拍子もない面妖な事件が減ってつまらなくなりはしたが・・・。

 総じて、学校時代は子供にとっての“世界”はそこだけで、嫌なことがあっても逃げるという選択肢が考えられず、またたとえ選択肢が与えられたとしても、そこから逃げることで人生から脱落するような怖さが先立って、たとえ苦しくとも“世界”にへばりつこうと頑張ってしまう。
 親をはじめとする周囲に弱みを見せまいとこらえてしまう。

小学生男子

 本作の原題はまさに Un monde(世界)。
 子供たちの作りだす“世界”が、子供視点で描かれている。
 「校庭(Playground)」という邦題は上手い。
 小学校に入学したばかりの7歳の少女ノラが日々体験する出来事が、手持ちカメラによる撮影によって、生々しい臨場感と子供の背丈から見る世界の狭隘感をもって、映し出される。
 そこで描かれるのは、ソルティの小学生時代の体験なんか屁と思えるほどの残酷な天使のテーゼ。
 ひとりぼっちで弁当を食べる泣きたいほど心細い時を経て、一緒に遊ぶ友達ができて、やっと学校に馴染めてきたノラが目撃したのは、優しくて頼りになる、大好きなお兄ちゃんが日々虐められている姿であった。

 戦場は、ガザ地区やウクライナやミャンマーに行かなくとも見つけることができる。
 地域の小学校の校庭で日々繰り広げられている。
 地獄は日常に潜んでいる。
 “世界”の縮図がここにある。

 本作は第74回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損











● 本:『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHKスペシャル取材班)

2025年NHK出版新書

IMG_20251109_074012~2

 現在、NHK教育テレビで『3か月でマスターする古代文明』という教養番組が放送されている。
 各回約30分×全12回のシリーズで、以下のようなライナップである。

  第1回 衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”
  第2回 メソポタミア 都市は“最終手段”だった?
  第3回 ヒッタイト “鉄の帝国”のヒミツ
  第4回 エジプト ピラミッドと黄金が王国を変えた
  第5回 インダス 王も武器もない文明
  第6回 中国 “交雑”が生んだ王朝
  第7回 原シルクロードと中央アジア 交流と繁栄
  第8回 ギリシャとミケーネ ネットワークが育んだ“民主政”
  第9回 オセアニア 巨大化する石像の謎
  第10回 マヤ 多様性を王国の力に
  第11回 アンデス1 ナスカ・地上絵 文字なき世界の道しるべ
  第12回 アンデス2 初めに神殿ありき

 11/09現在、第6回まで放映済みである。
 ちょうど、奈良大学通信教育学部で「考古学概論」のレポートに取り組んでいるソルティにしてみれば、なんつう Good Timing !
 毎回録画し、欠かさず視聴している。
 ここまでに観ただけでも、「なんだか考古学が凄いことになっている・・・」という実感がひしひしと湧いて来る。
 数十年前にソルティが歴史の授業で習ったことや、歴史ドキュメンタリー番組を見て吸収してきた情報が、どんどん塗り替えられていくような印象。
 つまり、歴史認識のパラダイムシフトが起きている !?

 第1回に出てきたトルコのギョベックリ・テペは、農耕が始まるはるか前、約11,000年前につくられた狩猟採集民の巨大遺跡。
 青銅器も鉄器もない時代にキツネやサソリやワシなどの動物が彫られた最大5.5mのT字型の石柱が何本も並び、文明の存在を感じさせる。
 世界最古の文明はBC3000頃のメソポタミア文明じゃなかったのか!

 第3回に出てきたヒッタイト。
 古代ギリシャのスパルタと並ぶ強大な軍事力を誇る「鉄の帝国」と習ってきたのに、実際には鉄の大量生産はなかったという。
 右翼が好むような帝国主義の単一民族国家かと思っていたら、多民族、多文化、多言語、多宗教の20世紀後半のアメリカみたいな国で、世界最初の和平条約をエジプトと結び、死刑が回避される寛容な統治だったという。

 第5回のインダス文明のモヘンジョダロにも驚いた。
 整備された道路や大浴場や上下水道が備わった数万人が暮らす都市であったにもかかわらず、王様や軍隊や神殿の存在を匂わせる遺物や遺跡がまったく出てこないという。
 いったいどうやって統治していたのか?

 農耕革命⇒人口増と貧富の差拡大⇒都市化と権力者の登場⇒国家と文明の誕生、という流れを常識的に思っていたのが、ひっくり返された感。
 面白いのは、古代遺跡の解釈をするときに、考古学者を筆頭とする近現代人が、自らの生きている時代の風潮や価値観に影響されてそれを読んでしまう、というナビゲーター(考古学者の関雄二)の指摘。
 たとえば、ヒッタイト=鉄の帝国というイメージは、20世紀前半ヨーロッパ列強の帝国主義や戦後日本の鉄工業重視の復興の機運が、誤った解釈を生む一因となった。
 すなわち、時代の価値観というバイアスがかかってしまったのである。
 考古学は、遺物や遺構や遺跡といったモノを分析し、そこから物語を読んで過去を再構成する学問だが、モノを読むときに読み手の性格や思想傾向や信仰や人生観や期待や欲望などが絡むと、思わぬ誤読をしてしまう。
 歴史解釈の難しさを思った。

pompeii-4053847_1280
MartaによるPixabayからの画像

 江戸時代から続く邪馬台国論争や、ヤマト王権の成立すなわち天皇制の始まりに関する議論もこれと同じで、読み手のバイアスに左右されるところが大きい。
 最初の天皇は神武と信じている人は、どうしたって(おそらく)4世紀に成立したヤマト王権との時間的齟齬に直面するはずだが、そこは進化論を認めないキリスト教原理主義者と同じような脳の硬直が起こっているのだろう。
 邪馬台国が九州か畿内かについても、当地の人間にしてみれば死活問題(大げさか)、卑弥呼クッキーや邪馬台ラーメンの存亡に関わる。
 だいたい、日本の歴史学や考古学の人気も、古代史の謎の解明に負っているところが大きい。
 中には、「このまま場所が特定されないまま、いつまでも謎であってほしい」と思っている人もいるかもしれない。

 最新科学の活用とグルーバルヒストリーの研究成果を謳っている本書も、結局のところ、謎の解明には至っていない。
 卑弥呼の墓ではないかと議論されている奈良県の箸墓古墳に、上空からレーザー光線を当てて赤色立体図を作成、古墳の構造に迫る!/「空白の4世紀」に築かれた奈良県の富雄丸山古墳から国内最大の蛇行剣(全長237cm)を発見!/鳥取市にある青谷上寺地遺跡から出土した大量の人骨のDNA解析をして、埋葬された人たちのルーツをたどる!・・・等々、古代史研究の最前線の様子が描き出されてワクワクしないこともないが、結局、「いちばん率のいいのは古墳をあばくことだよな」と思わざるを得ない。
 それができない理由としていつも挙げられるのは「宮内庁が禁じている」だが、宮内庁にそこまでの権限があるのか疑問に思う。
 国の最高決議機関である国会で「調査する」と決めてはなぜいけないのだろう?
 たしかに、先祖の墓が採掘されるのは皇室の人々にとっては不快に感じるかもしれないが、そもそも先祖かどうかも分かっていないのだ。
 どこのだれかが分かっていない墓なのだから、皇室云々は関係ない。
 むしろ、古墳をあばいたら、皇室や宮内庁はじめ保守右翼にとって都合の悪い事実が判明することを恐れての禁止なのか、と邪推してしまうのも仕方あるまい。
 よもや、ピラミッドならぬ古墳の呪いを恐れているとも思えないが・・・・。
 
DSCN7350
天武・持統天皇陵
鎌倉時代の盗掘によって暴かれ尽くした




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● To be or Not to be 映画:『ハムレット』(マイケル・アルメレイダ監督)

2000年アメリカ映画。
112分

ハムレット2000

 原作はもちろんシェークスピアの『ハムレット』。
 舞台が中世のデンマークから現代アメリカに置き換えられているのは、DVDパッケージの解説を読んで事前に知っていた。 
 人物関係やプロットは原作そのままに、設定やセリフを現代風にアレンジしているのだろうと思っていた。
 が、驚いたことに、セリフはほとんど原作まんま。
 シェークスピアの書いた初期近代英語を現代英語に変えただけである。

 そんなこと可能なのか?
 いろいろと意味的な不自然が生じてくるだろう?
 ――と思ったけれど、そこはうまく工夫している。
 たとえば、ハムレット王子の将来治めることになる“デンマーク”を、ハムレット青年が将来継ぐことになる大企業“DENMARKE”に変換している。
 だから、ハムレットが学友のローゼンクランツとギルデンスターンに向かって投げかける、「なぜ、君たちはデンマークに送られて来たんだ?」というセリフがそれなりに符合するという具合。
 まあ、英語のヒアリングが苦手なソルティは、日本語字幕をたよりに観るので、セリフの意味的な不自然さは気にならないのだが。(日本語字幕はそれなりに現代社会に合うよう脚色されているので)
 むしろ、単純に、シェークスピアの書いたセリフが持っている高貴さやリズムの面白さが、音楽でも聞くように味わえた。

 To be or not to be, that’s question.

 「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」から始まるハムレットの独白には、時代や地域に関係なく、一度でも自死を思ったことがある者なら誰にでも共感できる真理の響きがある。
 やっぱり、シェークスピアって凄い!

 役者が豪華メンバーかつ演技達者で驚いた。
 主演のイーサン・ホークは、『テスラ エジソンが恐れた天才』(2020)でもアルメレイダ監督と組んでいた。舞台もこなせる実力派である。
 ハムレットの叔父クローディアス役は、『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』シリーズや『デスパレートな妻たち』で有名なカイル・マクラクラン。甘いマスクがカッコいい。
 ハムレットの亡き父親(亡霊)役は、劇作家にして名優のサム・シェパード。渋くてカッコいい。
 ポローニアス役はハリウッドが誇るコメディアンのビル・マーレイ。
 ハムレットの母親ガートルード役のダイアン・ヴェノーラ、オフィーリア役のジュリア・スタイルズも役にはまって良かった。
 シェークスピアの難しいセリフ回しを見事にこなせるのは、皆、舞台の基礎が身についているからなのだろう。

 ハムレットを、ファザコンの映像オタクで統合失調症患者的に解釈したアルメレイダ監督の演出と、スタイリッシュな映像も、見る価値あった。
 一番驚いたのは、ハムレットが自分の部屋でひねもす流している映像の中に、ティク・ナット・ハンが出てきたこと。
 ハンの有名な Interbeing(相互共存)の説法が突然流れてきて、思わず姿勢を正した。

 To be or not to be, that isn’t question.
 Just “interbeing”.

 在るのでも、無いのでもない。
 「共に在る」のです。

 ――という、監督の投げかけた禅問答だったのかな?

DSCN6419




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

復活ラムスール

日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

IMG_20251103_132234

 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

IMG_20251103_154741
終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

● 令和の「砂の器」 映画:『盤上の向日葵』(熊澤尚人監督)

2025年日本
123分

IMG_20251031_100429

 天才棋士を主人公とするミステリーサスペンス。
 原作は柚月裕子の同名小説。
 2019年に千葉雄大主演でNHKでドラマ化されたらしい。
 知らなかった。

 山中で発見された男の白骨死体が胸に抱いていたのは、名工の彫ったこの世に7組しか存在しない将棋の駒。
 ベテラン刑事石破(演・佐々木蔵之介)と、かつてプロ棋士を目指していたが挫折した部下の佐野(演:高杉真宙)の懸命な捜査が、駒の持ち主を洗い出す。
 それは、彗星のごとき現れた気鋭の棋士、上条桂介(演・坂口健太郎)だった。
 圭介の過去を探る石破と佐野の旅は、父親に虐待された圭介の壮絶な子供時代に行き当たる。
 父・上条庸一(演・音尾琢真)は行方知れずだった。
 将棋界をリードする七冠の天才・壬生芳樹と挑戦者圭介とのタイトル戦が迫るなか、死体の身元が判明する。
 “鬼殺しのジュウケイ”と異名をとった元アマ名人・東明重慶(演:渡辺謙)がその人であった。
 圭介と重慶の間になにがあったのか?
 消えた圭介の父親はどこにいるのか?

 令和の『砂の器』というネット上のコメントを観て、映画館に足を運んだ。
 よもや『砂の器』に肩を並べられるほどの作品は、今さら作れないと知りながら・・・。
 
 たしかに、刑事ものミステリーというジャンルや“宿命”という重いテーマのみならず、プロット的に両作はよく似ている。
 『砂の器』が〈天才作曲家+悲惨な子供時代(父親の業病と差別)+過去と決別するための殺人〉であるならば、『盤上の向日葵』は〈天才棋士+悲惨な子供時代(父親からの虐待と呪われた血)+過去と決別するための殺人〉という布置。
 両作とも、日本各地を巡り歩く2人の刑事の捜査模様と、世間的な成功と称賛を手に入れた容疑者の姿とが、交互に描かれる構成を取っており、栄光からの転落がラストに待っている。
 悲惨な子供時代を演じる子役の印象的な眼差しも共通している。
 撮影と音楽はさすがに、川又昻と芥川也寸志・菅野光亮を擁した『砂の器』に及ばないが、ドラマを邪魔することなく、無難な水準である。
 テンポは断然、令和の平均的日本人の感覚に合わせた『盤上の向日葵』のほうがスピーディーで、退屈している暇がない。
 早指し同士の対戦のようにサクサクと話が進んでいく。
 一方、長考同士の対戦のような、『砂の器』のゆったりしたストーリー展開は、令和の若い世代には馴染まないかもしれない。
 テレビドラマやネットドラマとは違って、余白を味わえるのが映画の醍醐味なのだが・・・・。

 『砂の器』では、人間ドラマの合間に映し出される四季折々の日本の風景こそが、もうひとつの主役であった。
 『盤上の向日葵』もヒマワリ畑をはじめ季節感を出すべく頑張っているけれど、やはり、現代日本映画に季節感や風土色を盛り込むのはもはや容易ではないってことを、本作は示唆している。
 『砂の器』の森田健作の汗がどれだけ多くのことを語っていたか。

鰯雲
 
 さて、役者である。
 『砂の器』においては、父親・加藤嘉、息子・加藤剛、刑事・丹波哲郎、田舎の巡査・緒形拳がそれぞれ魂のこもった演技を披露して、観る者の心を鷲掴みにした。
 とりわけ、ハンセン病のため故郷を追われる男を演じた加藤嘉のそれは、一世一代の名演というにふさわしい。

 『盤上の向日葵』では、賭け将棋をなりわいとする真剣師を演じる渡辺謙、同じく真剣師で人生最後の対戦にのぞむ兼埼元治役の柄本明、この2人の役者としての凄みに圧倒される。
 2人が大金を賭けて5番勝負するシーンは、将棋の対決というより演技対決といった迫力。
 駒を打つ音とともに、2人の頭上で交差する白刃の音が聞こえてくるかのよう。
 『国宝』といい、NHK大河ドラマ『べらぼう』といい、今年は渡辺の当たり年だった。

 圭介を虐待するダメ親父役の音尾琢真(おとおたくま)、それと対照的に圭介を保護する元校長役の小日向文世もいい。味がある。
 音尾琢真という役者ははじめて知った。
 大河ドラマ『どうする家康』に出ていたらしいのだが、気づかなかった。

 このベテラン4人の濃い演技に圧されて、主役の坂口健太郎はちょっと割喰った感がある。
 脚本のせいもあると思うが、渡辺謙に喰われがち。
 ナイーブな表現のできるいい役者だと思うが、この役に限っては、坂口の持って生まれた清潔感が足を引っ張っているような気がした。
 同じ二枚目で誠実な性格で知られた加藤剛が、『砂の器』で深い業を背負った野心的な音楽家になりきっていたのと比較すると、坂口の演技には何かが足りない。

 昔からいい役者には「陰」が必要と言う。
 森雅之しかり、市川雷蔵しかり、三國連太郎しかり、仲代達矢しかり、高倉健しかり、石原裕次郎しかり、松田優作しかり、松山ケンイチしかり・・・・。
 無いものねだりかもしれないが、若い頃は好青年役しか似合わなかった三浦友和がどんな役でもこなせるバイプレイヤーになったのだから、坂口にも期待したい。
 
 ソルティは将棋指しではないので、将棋マニアの目で観たらもっと深い意味合いをもったシーンに気づかなかった可能性がある。
 将棋マニアの友人に勧めて、感想を聞いてみるかな。

AI将棋




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損












● 焼けた運慶仏 本:『運慶講義』(山本勉著)

2025年新潮社

IMG_20251028_171003~3
表紙は円成寺の大日如来像

 過去に足を運んだ高野山金剛峰寺、半蔵門ミュージアムに加えて、この一年間だけで、興福寺、東大寺、六波羅蜜寺、超国宝展(奈良国立博物館)、願成就院(伊豆)、瀧山寺(岡崎)、興福寺北円堂展(東京国立博物館)、浄楽寺(逗子)とめぐって、いま時点で運慶作と言われている国内の主要な仏像はほぼ踏破した。
 残っているのは、栃木・光得寺の大日如来坐像と神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像だが、前者は現在東京国立博物館に保管されているようだし、後者は破損はなはだしく通常展示はされていないようなので、そのうち機会あれば拝観したい。
 今年はソルティにとって運慶元年とでも言える一年になった。
 これもそれも奈良大学歴史文化財学科の学生になったがゆえである。
 来年は快慶元年になりそうな予感・・・・。

 そんなタイミングで出会った本書は、まさに運慶仏の総復習にピッタリの充実内容であった。
 著者の山本勉(1953~ )は運慶研究の第一人者で、現在、半蔵門ミュージアムの館長、鎌倉国宝館長をされている。
 栃木・光得寺の大日如来像(1986年)も、半蔵門ミュージアムの大日如来像(2003年)も、たまたま像の存在を知った山本が現地調査に入って運慶作と判定し、その後の驚嘆すべき展開――クリスティーズのオークションで真如苑が約14億円!で落札――につながった経緯があり、いわば、埋もれていた2体の運慶仏を世に送り出した生みの親である。
 「運慶に選ばれた男」と言ってもあながちはずしてはいないだろう。

 本書は、山本の運慶研究の集大成であり、学者人生の総括といった趣きのある渾身作である。
 運慶の手がけた仏像が、時系列でくわしく説明されており、ひとりの偉大な芸術家の成熟が専門的見地からたどられていると同時に、古代から中世に転換する激動の時代を自由闊達に生きたひとりの男の生涯が浮き彫りにされている。
 研究書という側面もあるので、これから運慶や仏像を学ぼうというビギナーには難しいきらいもある。
 が、ひとつひとつの仏像について、造像の背景や技法上の工夫が解説され、あわせて山本の磨き抜かれた審美眼による批評がほどこされ、仏像鑑賞のポイントを学ぶに役に立つ、いわば、「運慶仏鑑賞ガイド決定版」として手元にあって損はない一冊である。

運慶
六波羅蜜寺の運慶肖像

 ときに、運慶仏について、ソルティはしばらく前から気になっていることがあった。
 水上勉著『金閣炎上』を読んで、昭和25年(1950)に修行僧林養賢の放火によって焼失した金閣寺舎利殿の中に、建立者である足利義満の肖像彫刻とともに、観音菩薩像、阿弥陀如来像、勢至菩薩像、地蔵尊像(いずれも木像)があり、そのうちの観音菩薩像は運慶作と伝えられていたと知った。
 仏像はすべて舎利殿とともに灰燼に帰したので、いまとなっては運慶作かどうか調べようがない。
 が、もしこれが本当に運慶がつくった仏像であったとしたら、一体いつどういう事情でつくられ、どういう経緯で金閣寺にやってきたのだろうか?
 実際に、運慶仏であった可能性はあるのだろうか?

 本書には、運慶が関わったことが文献史料で裏付けられている造仏の仕事の全容が漏らさず記されている。
 ありがたいことに巻末には「運慶年表」も掲載されている。
 年表には、「運慶に直接関係する事項」が、典拠の記載とともに、時系列で整理されている。
 さて、運慶の仕事履歴に観音菩薩像の造像はあるだろうか?

 二つあった!
 一つは、正治3年(1201)愛知県岡崎の瀧山寺の寛伝僧都からの依頼でつくった源頼朝追善のための聖観音。息子の湛慶とともに取り組んでいる。
 これは現在も瀧山寺に現物があるので、金閣寺のそれとは関係ない。
 いま一つは、承久3年(1221)北条政子が高野山金剛三昧院を建立した際、その本尊として納めた聖観音。
 本書によれば、

『帝王編年記』には、承久3年(1221)に北条政子が実朝のために高野山に金剛三昧院を建立し、その本尊は正観音(聖観音)で、御身に(身内)に実朝遺骨を籠めたことが記される。この観音像は鎌倉末期の『信堅院号帳』によれば「実朝大臣殿の御本尊」で雲慶つまり運慶の作だという。

 すなわち、孫の公暁によって暗殺された息子実朝を偲び、北条政子が金剛三昧院を建てた。その本尊として、生前実朝が運慶に作らせた観音像を祀ったということになる。(下記※参照)
 しかるに、現在の金剛三昧院の本尊は愛染明王であって、観音菩薩ではない。
 ネットで調べた限りでは、金剛三昧院にも、高野山にも、運慶作の観音菩薩像なるものは見当たらない。
 高野山の運慶仏として知られているのは、霊宝館にある八大童子像6体のみである。
 実朝の遺骨を籠めた観音像、“実朝観音”は何処に消えたのだろう?
 高野山の奥の院に絶対秘仏として隠されているのか?
 金剛三昧院が元徳2年(1330)に焼失したときに一緒に焼かれてしまったのか?
 明治の廃仏毀釈の折に、二束三文でどこかに売られてしまったのか?
 あるいは・・・・高野山から洛中に、金剛三昧院から金閣寺に、実朝観音が移された可能性はあるのだろうか?

金閣寺2

 金閣寺を建てた足利義満をはじめとする足利将軍家と高野山金剛三昧院に、なんらかの因縁はあったのか?
 ――これがあったのである!

室町時代になると足利尊氏が金剛三昧院の僧、実融に帰依したことを契機として室町幕府は高野山を保護するようになり、その後も各将軍の参詣が相次ぐ。中でも康応元年(1389)の三代将軍義満の高野参詣は、空前絶後の規模であったといわれる。(『高野町歴史的風致維持向上計画』より抜粋)

当院の本尊は愛染明王という仏様で、憤怒の相という、怒ったようなお顔をされています。・・・(中略)・・・愛染明王像は、源頼朝公の等身大の念持仏で、仏師・運慶の作であると伝えられています。本尊の脇には源頼朝公・北条政子、足利尊氏公、その弟の足利直義公のお位牌が安置されています。(『金剛三昧院ホームページ』より抜粋)

 愛染明王像が運慶作というのは、さすがに眉唾である。
 菩提を弔うのに愛欲の象徴である愛染明王がふさわしいかどうかという点はおいといても、金剛三昧院の愛染明王像は運慶の作風とは相容れない。本書で山本もまったく触れていない。
 一方、足利尊氏と直義の位牌があることは、足利家と金剛三昧院の関係の深さを十分物語る。
 さらに、

金剛三昧院所蔵の「六巻書」には、鎌倉幕府・室町幕府や、その有力者たちが金剛三昧院に宛てた文書が多数収められている。「六巻書」各巻は、足利尊氏や義満ら、歴代の足利将軍の花押が冒頭に据えられているのが特色で、足利将軍が、金剛三昧院に荘園支配の権利にかかわる文書の効力に“お墨付き”を与えたことになるという。(ラジオ関西トピックス「ラジトピ」ホームページ、2024年5月8日の記事より)

 寺領である荘園の権利を守るために、金剛三昧院が足利将軍の庇護を恃むのは無理からぬところである。
 片や、源頼朝と共通の先祖・源義家をもつ足利将軍家が、源氏の末裔としての血統を誇るべく、源頼朝や源実朝の菩提を弔った金剛三昧院を贔屓するのも然るべきところである。
 金剛三昧院と足利将軍家には深いつながりがあったのだ。

 もし、足利義満を崇敬する足利将軍の後継が、金閣寺舎利殿の義満像と並べて祀るために、大仏師運慶のつくった実朝観音を強く所望した場合、金剛三昧院はこれを断れるだろうか?
 それなりの好条件と引き換えに譲り渡すこともあり得るのではないか。
 たとえば、焼けた金剛三昧院の再建と引き換えに・・・。 

 昭和25年の夏、林養賢が舎利殿とともに焼却した観音菩薩像が、運慶作の実朝観音だったとしたら・・・・。
 実朝はまたしても出家に襲われた  
 妄想は膨らむばかり。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(鎌倉)
実朝暗殺の舞台となった


※この引用文中の「実朝大臣殿の御本尊」についての解釈で、著者の山本勉氏より「誤読」とご指摘いただきました。ソルティは最初、「実朝の死後に政子が運慶につくらせた観音像」と解しそう記しました(10/29)が、そうではなくて、「実朝が生前運慶につくらせた観音像」を政子が金剛三昧院に祀ったとのこと。然るべく訂正いたしました(11/5)。謹んで山本勉氏に御礼申し上げます。

 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損













● 傾聴の効用

 午後のコンサートが終わった後、某駅前のファミレスに寄った。
 日曜だったので混んでいたが、店の一角に電源コンセント付おひとりさま専用席があり、一番端っこが空いていた。
 店の一番奥にあたる隣りのテーブル席には、妙齢のオバサマ4人が、罪のない無責任なおしゃべりを楽しんでいた。家に帰ったら、夕餉の支度が待っているのだろう。
 ドリンクバーを注文し、図書館で借りた考古学の本にしばらく集中した。
 奈良大学通信教育のレポート作成のためである。

 章の終わりでドリンクバーに立ったときに気がついた。
 いつの間にか、隣りにいたオバサマ連中は帰ってしまって、3人の男と入れ替わっていた。
 普段着の70代くらいのインテリ風の白髪の男と、30~40代のスーツ姿の男2人であった。
 これはどういった関係のトリオなのか?
 なんとはなしに会話に耳を傾けた。

drink_bar

 3人はクラシック音楽の話をしていた。
 さては、さっきのコンサートに行ったお仲間か? テーブル席が空くのをいままで入口で待っていたのかな?
 親しみと好奇心が湧き、本の文字を追いながらも、テーブル席側の片耳はダンボ状態になった。
 コンサートの感想披瀝はすでに終わったらしく、いまは年長の白髪の男の独壇場であった。
 どうやら彼は芸大出身らしく、若い頃は音楽家を志していたようで、クラシック音楽にも業界事情にも詳しかった。
 プロの道には進まなかったが、ピアノの腕前は相当なもののようで、近々に地元のカフェを借り切って独演会を開くという。良かったら君らも聴きに来ないか?
 若い2人は二つ返事で了承し、白髪の男から連絡先を受け取った。年長の男の博識や人脈の広さに感嘆の声を上げ、抜群のタイミングで相槌を打ち、さらなる蘊蓄を引き出す。
 師匠と弟子?
 先輩と後輩?
 かつての上司と部下?
 編集者と執筆者?
 3人の関係が読めなくてもどかしい気もしたが、それよりむしろ、若い2人の傾聴能力の高さに感心した。
 いまどきこれだけ人の話をさえぎらずに聴ける男も珍しい。
 相槌、オウム返し、共感のことば、パラフレーズの使用、適宜な沈黙・・・・傾聴のテクニックが身についている。
 ひょっとして、ソルティと同じ相談関連のひと?
 2人の男はトイレやドリンクバーなどで席を離れるときも代わる代わる行き、残った一人が聞き役を引き取り、会話の流れを途絶えさせない。
 白髪の男の口はますます滑らかになり、話の内容もどんどんプライベートなものになっていく。
 海外にいる息子家族の話、学生運動していた頃の話、持病の話、亡くなった友人や妻の話・・・・。
 「もうこの先そんなに長くないから、あとはこうやって好きなことをして過ごしたい」
 「コロナの時みたいに、いつ何があるかわからないからな」
 「生きていれば、こういう楽しい出会いもあるしな」

 と、ここでこれまでひたすら聞き役に徹していた2人のうちの1人が、おもむろに切り出した。
 「やっぱり、だれだって最後は心細くなったり、不安になったりしますよね。そんなときに、心の支えになるものがあるのとないのとでは大違いです。ぼくたちがお手伝いできると思うんです」
 すかさず、もう1人の男が手元のカバンからパンフレットようなものを取り出すのが見えた。
 あっ、保険の勧誘か!
 顧客候補と営業マンか。
 自分の鈍感さにあきれた。
 
 差し出されたパンフレットを見て、白髪の男ははじめて我に返ったごとく押し黙った。
 いままでと違うトーンが声に現われた。
 「いや、自分は・・・・。自分も、今までいろんなところに行って、いろんな人の話を聞いているから。もうそういうの必要ないんだな」
 若い1人が切り返す。
 「どういったところに行かれたんですか?」
 「それはもういろいろ。仏教系もあるし、キリスト教系もあるし、スピリチュアル系もあるし、自分なりに西洋哲学や東洋思想を勉強したし・・・・。」
 「それでなにか結論が出ましたか?」
 「・・・・・」
 保険の勧誘ではなく、某新興宗教団体のリクルートだった。

 そこからは攻守変わって、スーツの2人が白髪の男を説得するモードに転じた。
 白髪の男が持ち出した意見(=勧誘を断るための言い訳)をひとつひとつ理屈と能弁をもって棄却し、矛盾があれば追及し、それまでに聞き出していた白髪の男の苦労話を持ち出してそれに役立ちそうな会の教えを諄々と説き、入信したことで運が向上した第三者の具体的な事例を滔々と語り、白髪の男のためにドリンクバーから飲み物を取ってきて・・・・。
 はじめのうちは勢いよく「自分には必要ない」と主張していた白髪の男も、若者2人の攻勢に押され、だんだんと声に力がなくなり、さっきまで自信に満ちていた表情はかげりを帯びてきた。
 これまでずっと話を真剣に聞いてもらっていた手前か、白髪の男も無下な態度で席を立つこともできないようであった。
 そもそも、最初からテーブルの壁際のほうに白髪の男が一人で座り、通路側に2人の若い男が陣取ったので、押し込められているような形勢ができあがっていた。

 まだまだ3人の会話は続きそうな気配。
 窓の外はすっかり暗くなった。 
 家で夕食が待っているソルティは、本をリュックに押し込み、席を立った。
 最後に振り返ってみたとき、白髪の男は心なしか涙目になっていた。

DSCN7542

 





記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文