ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 善悪の彼岸の物語 本:『混沌の叫び2 問う者、答える者』(パトリック・ネス著)

2009年原著刊行
2012年東京創元社(訳:金原瑞人、樋渡正人)

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 『心のナイフ』に続く英国発YA小説『混沌(カオス)の叫び』シリーズの第2部。
 原題は THE ASK AND THE ANSWER 

 生まれ故郷であるプレンティスタウンを、地球からやって来た入植組の少女ヴァイオラとともに逃げ出したトッド。
 二人は、プレンティスの軍隊に追われながら、数々の苦難を乗り越え、惑星でもっとも大きな町ヘイヴンに到着した。
 「ついに安息の地にたどり着いた!」と思ったのも束の間、すでにヘイヴンは、先回りしたプレンティス首長、転じてプレンティス総統に占領され、ニュー・プレンティスタウンと名を変えていた。

 ――という『猿の惑星』的悪魔的結末で終わった第1部。
 トッドとヴァイオラがくぐり抜けた数々の試練はなんだったのか?
 愛犬マンチーの死はなんのためだったのか?
 それなら最初から逃げ出さないでいたほうが良かったのでは?
 これは、読者であるYA(ヤングアダルト)たちに、世間の厳しさや、権力と闘うことの無益さ、希望を持つことの愚かさを伝えるための計らいなのか?
 いやいや、最後は必ず悪がしりぞけられ、正義が勝つはず!
 それでこそYA小説。

 ――と思いながら、第2部に突入した。
 プレンティス総統に囚えられたトッドとヴァイオラは、別々の処遇を受ける。
 トッドは大聖堂の一室に閉じ込められ監視されながらも、日中は仕事を命じられ、プレンティス総統の息子デイヴィと一緒に、原住民スパクルの収容所の監督をまかされる。
 トッドはどういうわけかプレンティスに気に入られ、特別待遇を受けるようになる。
 一方、ヴァイオラは傷の治療のために送られた施療院で、女性ヒーラーたちの世話を受ける。
 そのリーダーであるミストレス・コイルはただ者ではなかった。
 密かに、プレンティス総統の転覆をはかり、町を取り戻すための算段をはかっていたのだ。
 この状況が、友情以上恋愛未満で固く結ばれていたトッドとヴァイオラを、思いもかけぬ運命に追いやる。

 ミストレス・コイルとその同志は、町を離れ、武器や食料を蓄えておいた軍事拠点に籠り、アンサー(ANSWER)隊を名乗ってテロ攻撃を開始する。
 夜間に町に侵入し、ニュー・プレンティスタウンの重要施設を次々と爆破していく。
 ヒーラーたちに命を救われたヴァイオラは、行き掛かり上、行動を共にせざるを得なくなる。
 そして、プレンティスの軍隊の男たちが、スパイ活動を疑われて収容された男女におこなった虐待の数々を目にし、自発的にアンサー隊に協力するようになる。
 一方、トッドは、プレンティス総統の強いマインドコントロールのもと、次第に良心を麻痺させられ、スパクルたちへの虐待も平気で行えるようになる。
 ますます総統に気に入られ、昇進し、いつしか息子のデイヴィと同格の扱いを受けるようになる。
 総統は、テロリストであるアンサー隊と闘うため、アスク(ASK)隊を組織する。
 トッドとヴァイオラー。我らが若き恋人たちは、敵と味方に別れてしまう。
  なんという展開か!

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Erich RöthlisbergerによるPixabayからの画像

 読んでいて背骨の底のほうからゾクゾクしてくるのは、主人公たちのむごい運命や彼らに次から次へと襲いかかるピンチのためだけではない。
 YA小説の枠を超えた「とてつもない傑作文学を読んでいる」という感が、ひしひしと湧いてくるからである。
 大人向けの小説でもなかなかお目にかかれないくらいに、現代という混沌とした時代を見事に映し出しているのだ。

 たいていの読者は、途中まで、「プレンティス=アスク隊=男性中心社会=悪」と読み、「ミストレス・コイル=アンサー隊=女性中心社会=善」と読むだろう。
 その図式の中では、アンサー隊の行うテロリズムは、悪を倒すための手段と思えば、許容される、と。
 フェミニズムを学んだ読者なら、とりわけ、男性の支配欲と暴力性に抵抗するアンサー隊を応援したくなるかもしれない。
 本シリーズの一つのテーマが「暴力」であることはもはや疑い入れない。
 「YA小説でここまで許されるのか?」と思うほどの暴力描写が続く。(ただし、そこはYA小説、女性に対する性暴力だけは描かれない。大人の読者は行間を読み取ることだろう)

 現実は単純ではない。
 ヒトラーかプーチンかデスラー総統を思わせるプレンティス総統はともかく、アンサー隊のリーダーであるミストレス・コイルもまた、敵の暴力に対して暴力で、奸計に対して奸計で、無慈悲に対して無慈悲で抵抗するうちに、「暴力」の魅力に捉えられていく。
 いつしか敵であるプレンティスと同格の、「目的のためには手段を選ばない」冷酷なカリスマへと変貌していく。
 善と悪という単純な二元論はもはやここにはない。
 いったん「暴力」という“神”を崇拝したら、その信者はすでに「暴力」という名の教会の、祭壇へと続く通路を挟んだ、左右座席の信者仲間でしかない。男も女も関係なく。
 戦争には善も悪もない。
 始まればただ「混沌(カオス)」あるばかり。
 勝者は「暴力」のみ、敗者は「人間性」である。

 対立する国がそれぞれ、自分たちの善を信じ正義を掲げ、戦争を「悪に対する闘い」と定義すれば事足りた、わかりやすい時代はとうに終わった。
 笠井潔がいみじくも『新・戦争論 「世界内戦」の時代』で語ったように、世界はいまや混沌とした内戦状態にある。 
 いや、一国の中でさえ、善と悪が単純に定義し得ないことは、アメリカ映画『ジョーカー』で暴き出されたとおりである。
 そんな世界で、トッドもヴァイオラもひとり善や正義であり続けることはできない。
 YA小説の主人公でありながら、2人とも殺害者となって、暴力の“神”に生贄を捧げていく。
 本作で描かれるのは、「善悪の彼岸」の物語なのである。
 第2部の扉ページには、哲学者ニーチェの次の言葉が掲げられている。

 怪物と闘う者は、自らが怪物と化さぬように心せよ。
 おまえが深淵をのぞきこむとき、深淵もまたおまえをのぞきこむ。

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Gérard JAWORSKIによるPixabayからの画像

 (たかが)YA小説が、ここまで現代の世界的状況を描きとり、そこで生きる人間の矛盾と撞着に陥らざるを得ない生を描いていることに、驚嘆のほかない。
 もっと話題にされ、大人たちにこそ読まれて然るべき本である。
 じゃないと、YA(ヤングアダルト)に置いていかれる。  





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『死刑について』(平野啓一郎著)

2022年岩波書店

 この作家の小説は読んだことがないのだが、ツイッターではよく見かける。
 その政治的スタンスはソルティとほぼ一緒で、作家の中では信頼の置ける人という印象がある。
 死刑についても廃止の立場をとっている。
 本書は、平野が2019年に大阪弁護士会主催の講演会で話した内容が元になっている。

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 京大法学部に在籍していた平野は、もともと死刑存置派(死刑はやむを得ない)だった。
 それが20代の終わりにフランス生活を体験し、死刑反対を当然のこととする文化人と交流するうちに、自らの立場を問い直すようになった。
 30代はじめに犯罪被害者遺族の生をテーマとする『決壊』(2008年)という小説を書いたことで心が変化し、死刑制度に嫌気がさして、死刑反対を明言するようになった。
 以後、死刑廃止を訴えている。

 平野が死刑に反対する理由は、ソルティが解するところ以下の通り。
  1. 冤罪の可能性を払拭できない・・・警察のずさんな捜査や証拠の隠滅や捏造、自白強要の実態がある。(袴田事件が典型的)
  2. 加害者の生育環境が悲惨なことが多い・・・行政や立法の不作為が結果として犯罪者を生み出しているのに、個人のみに責任追及してよいのか。
  3. 死刑は国家による殺人である・・・人を殺してもよい社会のままでよいのか。国の倫理を加害者と同じレベルに堕落させてよいのか。
  4. 犯罪抑止効果に対する疑問・・・死刑による犯罪抑止効果のないことは証明されている。
  5. 死刑囚の反省・教育効果に対する疑問・・・死刑と向き合わせることで加害者を反省させ改悛させるという方法が、人の更生のあり方として正しいのか。恐怖をもって他人を変えようとするのは、生徒への体罰と変わらない。
 どれももっともな意見で、スッと入った。
 むろん、平野は、犯罪被害者に対する社会的な支援の必要性も強く訴えている。
 これまで死刑反対を訴える人たち(人権派弁護士などのリベラル派)の言葉が、なかなか世間に受け入れられなかった理由の一つは、被害者遺族の置かれた苦境を軽視してきたからと述べている。

 死刑について考えていく時、被害者がどこまでも尊重され、被害者を社会的にどう救済していくべきかを考えることはとても重要です。人間に対する優しさという、とても単純だけど、大切な価値観が社会に浸透していくことで、孤立し困窮している被害者を社会が包摂し支えていくことが進んでいくのだと考えます。

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 次に平野は、日本で死刑が支持される理由を挙げている。
  1. 人権教育の失敗
  2. メディアの影響・・・わかりやすい勧善懲悪ストーリーの弊害
  3. 死をもって償う文化・・・切腹に代表される
  4. 宗教的背景が欧米とは異なる・・・「裁きは神のもの」「汝の敵を愛せよ」という文化ではない
  5. バブル崩壊以降の自己責任論の高まり
 1の人権教育についてこう語る。

 人権というものが、欧米の思想において、どのような歴史的な経緯をたどって確立されたのか、そして、どのようにして近代化とともに日本に導入されてきたのか。そういう思想が存在しない社会も有り得た中で、それを尊重する方向を目指して歩んできて、歩み続けようとしている。人間にとって、そのことがどういう意味を持つのか。そうではない世界とどちらがよかったのか。そういうことを考えさせることが、人権についての根本的な教育ではないでしょうか。

 1970年代に埼玉県で義務教育を受けたソルティは、人権教育を受けなかった。
 外部から講師を招いての人権講演会というものもなかった。
 「思いやりを大切に」「人に迷惑をかけないようにしよう」式の道徳の授業があっただけである。
 わずかに高校に入ってから同和教育まがいを1時間受けたが、関連ビデオを視聴するだけのアリバイ的授業(「同和教育やりました」)で、とても人権教育と言えるものではなかった。(通学圏内で起きた狭山事件すら学ばなかった)
 公民や倫理社会の授業では、日本国憲法はじめ西欧史の権利章典やら人権宣言やらも学習したが、それは試験のために暗記する文言以上の意味は持たなかったように思う。
 最近の教育現場についてはよく知らないが、映画『教育と愛国』に描かれているような教育現場への不当な政治的圧力を見聞きするに、人権教育も後退しているんじゃないかと危惧する。
 つまり、多くの日本人は人権教育をないがしろにされたまま、人権のなんたるかを理解しないまま、社会に出てきている。

 ソルティは幸い(?)自らがゲイというマイノリティだったからこそ、社会人となってから差別について考え、人権について学ぶ機会を自ら作って来られたが、そうでもなければ、普通に大過なく生きているマジョリティが人権について学ぶ僥倖はなかなか訪れまい。
  
 国民の人権意識が低いことで一番得するのは、ほかならぬ国家権力という名の支配者層である。
 彼らにとっては、国民が「人のもつ普遍的権利」などという厄介なものに目覚めてしまわないよう、下からあがってくるイッシューはなんであれ、個々人の価値観や道徳観や感情レベルの問題に引き落とし、賛成派と反対派がいつまでも喧嘩してくれている方が都合がよい。
 死刑制度の議論も、同性婚の議論も、同じような沼にハマっているように思う。
 

 
おすすめ度 :★★★★

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● 本:『混沌の叫び1 心のナイフ』(パトリック・ネス著)

2008年原著刊行
2012年東京創元社(訳:金原瑞人、樋渡正人)

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 映画『カオス・ウォーキング』の原作で、3部作の第1部。
 原題の The Knife of Never Letting Go は、「ナイフを決して手放すな」といった意味合いだろう。
 故郷の村プレンティスタウンから逃亡した主人公の少年トッドが、肌身離さず持ち歩くナイフが、最後まで重要な役割を果たす。

 映画との大きな違いは、トッドの年齢設定。
 映画でトム・ホランドが演じたトッドは18~20歳くらいの青年だったが、原作では12歳の少年である。
 トッドが生まれてはじめて見た女性、一緒に逃げることになったヴァイオラも、映画ではトム・ホランドの初恋相手にふさわしく、同じ年頃の女性(演:デイジー・リドリー)であった。が、原作では「女の子」である。
 本作は、少年少女の冒険&成長物語なのである。

 英国発のYA(ヤングアダルト)小説ということで、読む前はちょっと軽んじていたのだが、これが大間違い。
 面白くて、謎めいていて、人間存在や社会や暴力や男女のジェンダーなどについて問いただし、皮肉るような哲学的・社会学的ところもあって、大人でも十分楽しめる。
 いや、大人こそ楽しめる。
 ジャンルは全然違うが、ミヒャエル・エンデの『モモ』みたいな感じ。
 一難去ってまた一難の、先の見えないスリリングな語り口は、スティーヴン・キングを思わせる。
 主人公がスーパースターでも強心臓でも賢くもないところが、かえって読者にイライラ感をもたらし、物語に捕まってしまう。
 第1部上下巻500ページをあっという間に読んでしまった。
 難しい言葉や表現の少ない、大きな活字の読みやすさは、さすがYA小説である。
 数々の国際的な賞をとっているのも納得した。 

 解説を書いている桜庭一樹は、ある場面で、思わず本を閉じて、気持ちが落ち着くまで1時間休んだという。
 きっと、あの場面だろう。
 自分もコーヒーブレイクした。

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おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『テスラ エジソンが恐れた天才』(マイケル・アルメレイダ監督)


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2020年アメリカ
103分

 イーロン・マスクがCEOを務めているテスラ(Tesla)の社名の由来となった、天才発明家ニコラ・テスラ(1856-1943)の伝記(電気?)映画である。
 
 テスラと言えば、直流V.S.交流の文字通り“火花散る”電流戦争はじめ、元雇用主であったトーマス・エジソンとの確執がよく語られる。
 発明の才や後世への貢献度においては両者は互角と言ってもさしつかえないと思う。
 が、現実社会を生きる巧みさやバイタリティにおいては、圧倒的にエジソンが上であった。

 テスラは今で言うならアスペルガー障害か自閉症、かつ強迫性障害であろう。
 対人関係に難があり、極度の潔癖症であり、些末なことにこだわりがあった。
 自分の好きな研究をしたいというのが一番の希望で、金銭や名誉や権威、そして恋愛や家庭にはあまり興味なかったようだ。生涯独身で最後は無一文に近かった。
 自らいくつもの会社を立ち上げ、何百人という従業員を雇い、訴訟王と呼ばれたほど争い好きで、生涯2度の結婚をして6人の子持ちであった大富豪エジソンとは、まったく馬が合うまい。
 2人のライバル関係も、強い敵愾心を抱いていたのはエジソンのほうで、テスラはエジソンの横やりをただ疎ましく思っていたのではないかという気がする。

 本作でも、イーサン・ホーク演じる寡黙で控えめで世間知らずのテスラに対し、カイル・マクラクラン演じるエジソンは、傲岸不遜で押し出しが強く、抜け目ない。
 聖と俗の対比みたいに見えるところも、両者を比較する面白さなのだろう。

 映画自体は、主人公が生きた時代を忠実に再現して描く通常の伝記物とは違い、かなり融通無碍な作り方をしている。
 明らかにCGと分かる安っぽい背景を使ったり、語り手であるテスラの恋人アン・モルガンにインターネット検索させたり、テスラにティアーズ・フォー・フィアーズの「ルール・ザ・ワールド(Everybody Wants To Rule The World )」を歌わせたり・・・。
 教科書的な伝記から離れた斬新な発想という感想と、低予算まるわかりの苦肉の策という感想が、五分五分である。
 個性的魅力と孤独を表現するイーサン・ホークの演技は素晴らしい。

 世界最初の国際的スター女優と言われるフランスのサラ・ベルナール(演:レベッカ・デイアン)をめぐるエピソードも興味深い。
 エジソンが発明した蓄音機に、サラがラシーヌの戯曲の一節を吹き込んでいるシーンが出てくる。(これは史実)
 映画がもう少し早く生まれていたら、サラ・ベルナールの『サロメ』や『椿姫』をスクリーンで見ることができたのになあ・・・・。



おすすめ度 :★★

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● 漫画:『未来歳時記 バイオの黙示録』(諸星大二郎・作画)

2000~2008年集英社『ウルトラジャンプ』発表
2021年集英社文庫

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 バイオテクノロジーによる新種生物の創造が当たり前となった未来世界を描くSF。
 鶏とキャベツを掛け合わせたチキンキャベツ、ジャガイモに豚の遺伝子を組み込んだ肉ジャガ味のブタジャガ、オバサンの顔してオバサンの言葉で井戸端会議する鶏たち、ネズミの遺伝子が入り込んだペンギン(ミッ×ーマウスのようだ)、美しい女性の姿をした雑草、蝶の羽が生えた少女、アンデルセン童話から抜け出したような人魚・・・・。
 怪奇とエロスとグロテスク、ファンタジーとナンセンスの世界が繰り広げられる。
 初期の傑作短編『ヒトニグサ』や『生物都市』、それに『ど次元世界物語』を想起させる点で、原点復帰の諸星ワールドである。
 発想の奇抜さ、豊かな創造力、グロと恐怖の中に差し込まれるペーソスとユーモア、確かで印象に残るデッサンと構図、物語のテーマ性より絵力(えぢから)で勝負しているところなど、衰えることのないこの漫画家の才とモチベーションには感心のほかない。

 それぞれ話としては独立している6つの短編を、幕間劇やCMなどを挿入して、一つの世界につなげて有機的関連をつくる試みも成功している。
 自分を「ロボットの遺伝子が組み込まれた人間」と勘違いしているアンドロイドのサトルの存在が非常に大きい。
 人間に造られたロボットが、自分を人間と思い込み、さらにはロボットの遺伝子が組み込まれた人間と勘違いし、最後には完全にロボット化して動かなくなってしまう(事実は電池が切れたのであろう)。
 道化役としてのこのサトルの存在が、テーマ性を打ち出していないこの作品に、一種の切なさや悲しみをもたらしている。
 バイオテクノロジーの乱用で破滅の道をたどる人間の愚かさを静かに語っている。
 諸星の視線は、それをも自然の定め=無常と達観しているかのようだ。 




おすすめ度 :★★★★

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● 本:『死刑のある国で生きる』(宮下洋一著)

2022年新潮社

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 著者の宮下洋一は、高度生殖医療や安楽死など、人間の誕生と死をめぐる現場を取材し、本を書いている。
 スペインとフランスを拠点とし、欧米諸国を飛び回って取材できるだけの国際感覚、語学力、交渉力、行動力、取材力、そして思弁性を兼ね備えた才能あるジャーナリストである。
 本書の一番の特徴は、人権理念の強い欧米における死刑制度――ヨーロッパでは独裁国家であるベラルーシをのぞき死刑は廃止されている――を取材することで、日本の死刑を巡るさまざまな状況を相対化し、「死刑のある国=日本」で生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけを与えてくれるところにある。
 執筆動機をこう語っている。

 死刑制度が犯罪抑止につながるとか、死刑廃止こそが人権の尊重であるとか、一般的な存続の議論も重要だろう。しかし私が知りたいのは、多くの国々が世界の潮流として、死刑廃止を決めてきた中で、日本がその実現に向かわない理由、そしてその潮流に乗る必要がそもそもあるのかどうかだ。それを各国の現場を取材しながら見極めたい。

 本書でメインに取り上げられているのは、以下のようなエピソードである。
  1. おのれの妻子を殺した44歳の死刑囚との面会、および1年4か月後の処刑の様子(アメリカ)
  2. フランスの死刑制度廃止(1981年9月)に決定的な役割を果たした元・司法大臣ロベール・バダンテールへのインタビュー(フランス)
  3. 勤めている介護施設で11人の高齢者を殺害し、懲役40年を受けて服役中の男の地元の声(スペイン)
  4. 刑を終えて出所した殺害者と、彼に殺された被害者遺族とが、わずか50メートルのところに暮らしている村の様子(スペイン)
  5. おのれの妻子6人を手にかけたものの、犯行当時の記憶を失っている30代の死刑囚との面会(日本)
  6. おのれの義母と妻子を殺した死刑囚の減刑を求め、加害者家族を支える会を立ち上げた地元の人々(日本)
  7. 犯人Aに叔父を殺されたにもかかわらず、その死刑執行に反対する被害者遺族である住職と、同じ犯人Aに家族を惨殺され、「犯人が苦しみ続けるなら死刑でなく終身刑でもかまわない」と言う被害者遺族(日本)
  8. 正当防衛という名目のもと、警察官による「現場射殺」が増えているフランスの現状(フランス)
 いずれのエピソードにおいても、お国事情や事件のあらましなど、理解の前提となる知識を簡潔に上手にまとめる手腕、臨場感ある情景や対話の描写など、書き手としての巧さを感じさせる。
 日本とは異なる風土、価値観を有する異国の事情は興味深い。
 それぞれの現場に出向いて、当事者や周囲の人々の声を聞き、取材をひとつ終えるごとに、揺れ動いていく著者の心境や変化していく視点、深まっていく思考のあとが辿られる。
 死刑制度をどう考えるかは、国により、地域により、文化により、歴史により、なされた犯罪の質により、語る人の立場や思想により、それこそ千差万別。そこに「正しいor 正しくない」という判定は容易に下せない――というのが、本レポートより浮かび上がってくる見解であろう。

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 そんな中、ヨーロッパ各国は死刑廃止に舵を切り、日本は死刑を存続させている。
 最終的に著者は、「日本においては死刑制度はこのまま残したほうがいい」という結論に達したようだ。
 その理由をこう述べている。

 国際社会は日本に対し、死刑を廃止するよう求めている。しかしそれは、文化、宗教、生活様式が異なる国の人々が考える「普遍的価値観」であり、それは日本のそれとは相容れないのではないか。

 日本人は、罪人が罪を自覚して償うのであれば、たとえ死刑が執行されても「浄土へ還る」ことができるという宗教観を有しているように思える。それは、欧米人には理解し難い日本特有の価値観であるのかもしれない。
 その視座からも、日本人にとって死刑とは、罪人が国家によって処刑され、地獄に落ちるというキリスト教的な発想よりも、国家が個人を悔悛させながら、死をもって浄土へ向かわせるという感覚のほうが近いのではないか。

 日本取材を始めた当初から、私は、日本人にとっての正義とは何かについて、考えを深めてきた。それは、国民が生きる価値をどう解釈するのかに関わってくる。欧米のように神を信じる宗教的な社会とは違い、世俗的なありのままの社会で生きる日本人は、個人よりも集団との関係性の中で、その価値を発見し、幸せを見出そうとしているように見える。
 言い換えれば、身内の死は、家族のみならず、集落全体の悲しみにつながる。つまり、殺人犯に対する被害感情は、被害者遺族だけでない多くの人々が感受する。私は、死を語り合う際に、欧米と日本では、その感受の領域に本質的な差があると思っている。

 結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせ、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。

 それぞれの国で、独自の価値観に則った裁きがあれば、それでいいのではないか。

 以上の考察で示されるように、本書は、死刑制度という題材を巡ってなされた日本人論、比較文化論ということもできる。
 個人主義、権利意識の高いヨーロッパでの生活の長い著者の言だけに、傾聴に値するところである。

 一方、ソルティは、この結論は最初から(取材前から)準備されていたのではないかという印象も受けた。
 一つには、エピソードが語られる順番である。
 上記1~8のエピソードは取材した順番通りに時系列で並んでいるので、そこに著者の編集上の作為は認められないものの、このエピソードの順に読んでいったら、読者は、著者と同じ見解(=日本においては死刑制度はやむを得ない)に達しやすいだろうなあと思った。
 もしこれが、8の「現場射殺」のエピソードから始まって、2のバダンデールへのインタビューを経て、1の「処刑現場への様子」で終わっていたら、全体としては同じ内容であっても、そこから著者が達したのとはまったく反対の結論を導き出せそうな気がする。
 つまり、取材の順番(仕事の遂行計画)を決める段階において、著者の中である種のストーリーができていた可能性があるのではなかろうか。
 そもそも、執筆動機に見る通り、最初から著者は「死刑制度の是非」を問うことをテーマとしているのではない。
 日本が、死刑廃止の世界的「潮流に乗る必要があるのかどうか」を問うているのだ。
 「死刑なしでは社会は収まらないのではないか」という問いを長い間もっていたと、著者は述べている。
 してみると、本書の狙いは、日本で死刑制度を残すべきもっともな理由を探すことにあったのではなかろうか。

 あとがきで、思わず目を疑うような箇所があった。

 生まれ育った国の下で、人はその社会に適応する術を身につけ、喜びを見つけたり、正義を見出したりしていく。そして、その国で培われた伝統や文化、制度や道徳を重んじながら暮らしているのである。
 しかし、異国の異質な価値観の押しつけや干渉に譲歩すれば、遅かれ早かれ、国の基盤は揺らいでいくだろう。西洋諸国が提唱する「ヒューマンライツ」(人権)は、全世界に通用する普遍の権利と言えるのか。私は、この点に違和感を持ち続けていた。
(ゴチはソルティ付す)

 普遍的価値としての「人権」に疑いを抱いている。
 これはかなり危険な、そして反動的な思想ではなかろうか。(中川八洋の著作を想起した)
 ことは、死刑制度に対する是非の問題だけでは済まない。
 人種差別、民族差別、女性差別、性的少数者差別、部落差別、障害者差別、高齢者差別、病人差別、言論・表現の自由、集会の自由、信仰の自由、教育の自由、幸福追求の自由、生存権に関わる問題である。
 人権思想の輸入あってはじめて我が国民はこうした差別を弾劾できる言葉を手に入れ、現在あたりまえのものとして行使している数々の権利に目覚めたのである。
 それらを著者は、西洋由来だからと言って、否定したいのだろうか。
 ちょっと理解に苦しむ。
 著者が、人権概念の普遍性について普段から「違和感を持ち続けていた」のであれば、死刑制度についても最初から「結論ありき」だったのではないかという疑いを持たざるを得ない。

 一読者として言わせてもらえば、死刑制度や安楽死について調べたり書いたりするのもよいが、著者にイの一番にやっていただきたいのは、ヒューマンライツ(人権)について違和感を持つようになった経緯に関する自己省察である。
 それを言論・表現・出版の自由を駆使して、ぜひ発表してほしい。

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おすすめ度 :★★★

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● 治兵衛とコンドル :旧古河庭園に行く

 JR駒込駅北口から徒歩12分のところに旧古河(ふるかわ)庭園がある。
 しばらく前から気になっていた。
 瀟洒な洋館と、それを取り巻く何十種類もの薔薇で有名なのは知っていた。
 5月中旬ともなれば、たくさんの薔薇好きで賑わうことも。

 それとは別に、広大な敷地内には日本庭園もある。
 気になったのはそちらである。
 休日の午前中に訪ねてみた。

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開演時間は午前9時から午後5時
入園料は大人150円


 ここは明治時代、陸奥宗光の土地であった。
 どこかで耳にした名前だなあと思ったら、井上馨や大隈重信らと共に、江戸末期の開国から続いていた不平等条約の改正に尽くした人である。
 関税自主権の撤廃とか治外法権の回復とか、世界史で習ったのを覚えている。
 宗光の次男・潤吉が、足尾銅山の経営で知られる古河財閥の初代当主・古河市兵衛の養子になった時に、土地は古河家の所有に移った。
 それまで実子のできなかった市兵衛は、その後芸者との間に男子・虎之助をもうける。
 2代目当主潤吉は早逝し、虎之助が3代目当主となった。
 この古河虎之助が、1917年に本邸として造ったのが、今ある洋館と庭園である。

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設計はジョサイア・コンドル(1852-1920)
鹿鳴館、ニコライ堂、岩崎久弥邸(現・旧岩崎邸庭園洋館)などを設計し、
「日本近代建築」の父と呼ばれた。
1階は見学料(400円)を払って、2階はガイドを予約して観ることができる。
庭園の見えるテラスでアフタヌーンティーを頼めば、
ダウントン・アビー』の登場人物になった気分を味わえる。


 この土地は武蔵野台地の崖線(ハケ)に位置している。
 崖の上の高台に洋館が建ち、傾斜に薔薇やツツジの花壇が並び、低地に日本庭園が広がる。
 日本庭園の周囲は木々で囲まれているので、たまに日本庭園があるのに気づかずに、洋館と花壇だけ見て帰ってしまう来場者もいるそうだ。 
 もったいない話である。
 というのも、この庭園の設計者は、京都無鄰菴の作者・小川治兵衛その人なのである!
 それを知らずにやって来たソルティ、このシンクロニシティにびっくりした。
 青い鳥は案外近くにいたのね・・・。

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浅い池の中を優雅に歩く白鷺
水面に映るマンションが残念

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地下水を汲み上げて作った滝
人工的な気配を排した野趣あふれる景観が治兵衛の理想だったようだ

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こちらは枯山水の滝

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洋館の建つ高台方面を見やる
東山を借景とする無鄰菴には適わないものの、奥行きを感じさせる造形はさすが


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治兵衛は石の使い方が天才的
様々な土地から集めた大小の石を自在に使いこなしている

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園内には巨大な灯籠がいくつかある。
富の象徴(つまりは成金の見栄)だったようで、ちょっとお下品。
施主の要望には名匠・治兵衛も逆らえまい。
木々で隠すなどの工夫の跡がうかがえる。


 関東大震災(1923年)の折に、この庭は被災した2千の人々の避難所になり、当主の虎之助夫妻は敷地にあった温室を壊して仮設住宅を建て、被災者を支援したという。
 コンドル設計の洋館はびくともしなかった。
 イギリス生まれのコンドルは、日本の地震の多さに驚き、耐震性ある建築物について研究していたという。
 戦後はGHQに接収され、返還後30年間の無人状態を経て、1982年に東京都名勝指定、2006年に国の名勝に指定された。
 現在ここの所有者は国である。
 東京都が国から無償で借り受けて一般公開している。

 新緑の頃、薔薇の頃、盛夏の頃、紅葉の頃・・・。
 お弁当を持って、季節折々の庭を訪ねたい。
 こんなに近いんだもん。

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置き物かと思ったら、ほんものだった
まったり












● レニングラードと擬態: クラースヌイ×目白フィル合同演奏会


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日時: 2023年3月11日(土)18:00~
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール
曲目: 
  • キース・エマーソン(吉松隆編): 《タルカス》
  • D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番《レニングラード》
指揮: 山上紘生
オケ: クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団/目白フィルハーモニー管弦楽団

 大田区民ホールに行くのははじめて。
 JR京浜東北線の蒲田駅東口から徒歩3分のところにある。
 この駅の発車メロディはもちろん、『蒲田行進曲』。
 原曲はルドルフ・フリムルのオペレッタ『バガボンド・キング(放浪の王様)』の中の一曲である。
 モダンで美しい区民ホールのファサード(正面)は、今宵の演奏への期待を高める。

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大田区民ホール アプリコ 

 今回は、同じ2018年に旗揚げした2つのアマオケ(クラースヌイ・フィル目白フィル)による合同演奏会。
 舞台上には150名以上の合体メンバーが所狭しと並び、音の厚みと迫力はホールを揺るがさんばかりであった。
 そこにライバル意識こそなかろうが、各パートとも常とは違う顔触れや音色やタッチに刺激し合って、よい相乗効果を生んでいたように思う。
 新しい友人ができたり、恋が芽生えたり、同じパートの尊敬する先輩を見つけたり、楽しみも多かろう。
 それぞれに固有の音や雰囲気や癖をもつであろう2つのオケを見事に融合させ、パワフルにして壮麗なる響きにまとめあげた山上紘生の手腕に感心した。

 この指揮者はダンディというかスマートというか、舞台姿に華がある。
 まるでバレエか社交ダンスでもやっているかのような、無駄のない美しい振る舞いには、思わず惹きつけられる。
 穏やかで子供のように純なる笑顔は、あたかも白鳳仏のよう。
 曲に対する深い理解とデリケートな音づくりは、前回のクラースヌイ演奏会で確認済みであったが、それは聴き間違いや錯覚や偶然ではなかったことが今回証明された。
 こんなデリケートな指揮者がほかにいるだろうか?
 や? ファンになりかけてる?

深大寺釈迦牟尼像アップ (2)
深大寺の白鳳仏

 『タルカス』は、イギリスのロックバンド「エマーソン・レイク・パーマー(ELP)」が1971年に発表した曲で、ヒットチャートの首位を獲得したという。
 火山から生まれたタルカスという怪物が、地上を破壊つくしたあげく、海へと帰っていく物語を、7曲(7つの場面)に分けて描いている。(元祖ゴジラを思わせる)
 今回の演奏は、NHK大河ドラマ『平清盛』のテーマ曲などで知られる吉松隆がそれを編曲したものであった。
 ソルティはロックに詳しくないので、ELPもタルカスも聴いたことがない。
 なので原曲との比較はできないが、少なくとも吉松隆編曲の『タルカス』は、ロックのような、ジャスのような、クラシックのような、それでいてどこか東洋風(清盛風?)の響きも宿された、まさにクロスオーバーであった。
 最後列のパーカッションチームの派手なパフォーマンスに象徴されていたように、重々しさのうちにも躍動感ある、あたかも金剛力士像のような曲であった。(まだ奈良の旅を引きずっているソルティ)
 
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法隆寺の金剛力士像

 交響曲第7番《レニングラード》を聴くのもはじめてであった。
 なるべく虚心坦懐に聴こうと思い、事前に曲について何の知識も入れず、入口でもらったプログラムにも目を通さずに聴いた。
 それぞれの楽章について浮かび上がったイメージは次のようなものであった。
 第1楽章 苦痛と恐怖
 第2楽章 悲嘆と絶望
 第3楽章 鎮魂と浄化
 第4楽章 ファシズムの狂気
 
 終演後に蒲田駅前のラーメン屋で硬めの麺を啜りながらプログラムを開いた。
 この曲を「レニングラード」と呼ぶのは、1941年9月に始まったナチスドイツによるレニングラード包囲の最中に当地で作曲されたからであり、ショスタコーヴィッチ自身がこの曲を「ファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と共産党機関紙『プラウダ』に書いたからであるという。
 独ソ戦をモチーフとした曲だったのだ。
 であれば、ソルティの中で浮かび上がった各楽章のイメージは、それほどお門違いというわけではあるまい。
 つまり、レニングラードに住む人々がナチスドイツによって与えられた「苦痛と恐怖」であり、破壊された街や多くの死者や負傷者を目にした市民の「悲嘆と絶望」であり、亡き者たちへの「鎮魂と浄化」を祈る挽歌であり、「ファシズムの狂気」に対して団結して闘う意志と勇気と最終的な勝利である。
 わかりやすい。
 
 一方、ソルティは、交響曲第5番《革命》をはじめて聴いたときと同様、第4楽章の最後に仕掛けられた「暗→明」への転換をそのまま素直に受け取ることができなかった。
 「勇気・団結・勝利・希望・自由」を表現するポジティブなエンディングとは思えなかった。
 さらには、第1楽章の後半において聴く者を圧倒する、いわゆる「侵攻の主題」の繰り返しは、「他者の言葉にはいっさい耳を貸さず、自らの言動の矛盾や不正を恥も臆面もなく言い逃れする、独善的な権威主義者(どこの誰とは言わないが)の専横」を想起した。
 また、第4楽章の「暗→明」の転換は、狂った社会において“まともな”人々なら当然抱きうる不安や悲嘆や絶望といった“まともな”ネガティブ(暗)が、権力による恐喝と衆愚による同調圧力によって、全体主義の“狂った”ポジティヴ(明)に取り込まれていく悲惨を思った。
 つまり、この「明」は擬態という気がした。

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Marc PascualによるPixabayからの画像

 この「擬態」というのが、もしかしたらショスタコーヴィッチの音楽を理解するキーワードなのではなかろうか?
 スターリン独裁の恐怖社会にあって、ソ連民衆の多くは――少なくとも簡単に洗脳されることのない自己を備えた人は――「擬態」を第二の天性として身につけなければ生きていけなかったはずである。
 それはジョージ・オーウェル『1984』に描かれた全体主義管理社会の歪んだ文化であり、今の中国で起きていることであり、戦前の大日本帝国で起きていたことである。
 鉄のカーテンの向こうにあったソ連の全体主義はなかなかその実態が見えてこなかったけれど、昨今、イリヤ・フルジャノフスキー監督による壮大な野心作、『DAU. ナターシャ』(2020)、『DAU.退行』(2021)などのDAUシリーズで、闇に埋もれた歴史の真実が明らかにされようとしている。

 大衆に多大な影響力を持つ才能ある芸術家として、つねに体制にマークされていたであろうショスタコーヴィッチにとって、「擬態」は自らと家族の命と生活、そして自らの音楽の真実を守るために身につけざるを得ない鎧であったろうことは、想像に難くない。
 「擬態」の中で、いかにして自らの音楽の真実すなわち自らの魂を表現していくかに、彼は生涯、心を砕いたのではなかろうか?
 それが第2の天性となるまでに・・・。
 ならば、この第7番交響曲も、表面上は(体制に向けては)、レニングラードを包囲するナチスドイツに対する恐怖と非難と抵抗と闘いと勝利を描きながらも、それもまた「擬態」であって、本心は巧妙に隠されているのではないか。
 
 今回はじめて『レニングラード』を聴いて、ショスタコーヴィッチの魂がもっとも純なる形で表現されているのは、第3楽章ではないかと思った。
 他の楽章は「擬態」感が強い。
 音楽が語る表面的な“わかりやすい”テーマの背後に、なにか別の意味が隠されているような感を受けた。
 煙幕が張られていると言うか。悪い言い方をすれば、「どことなく嘘くさい」のである。
 むろん、オーケストレーションそのものは、先行する交響曲の巨人であるベートーヴェンやマーラーに負けず劣らずの飛びっきりの匠の技であることは言うまでもない。
 本来ならそのとてつもない技量によって表現されて然るべきもの――ショスタコーヴィッチの魂――が、表現され得ないジレンマというか鬱屈を感じるのだ。

 しかるに、第3楽章は作曲家の魂がストレートに表現されている。
 聴く者は、「ついにショスタコーヴィッチに出会った」という気になる。
 「鎮魂と浄化」というモチーフにあっては、「擬態」をしなければならない理由は何もなかったからと思われる。
 この第3楽章の異様なまでの美しさ、崇高さ、深い悲哀と慈愛、無私なる祈りは、法隆寺の百済観音のよう。
 ここにおいて、第7番交響曲が稀に見る傑作であること、ショスタコーヴィッチが真の天才であることが、まごうかたなく示されている。

 それを教えてくれた山上紘生と2つのオケには感謝。
 名演であった。

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● 大江健三郎氏、追悼

 平和憲法の熱心な護持者で『沖縄ノート』の執筆者であったノーベル賞作家・大江健三郎氏の冥福を祈り、四国遍路にて氏の故郷・愛媛県内子町を歩いた時(2018年11月5日)の記事を再掲載します。



 弘法大師がその下で野宿したという十夜ヶ橋から久万高原に向かう途中に、内子という町がある。
 江戸や明治の伝統的な造りの町屋や豪商の屋敷が今も残るタイムスリップな町並みが、興趣をそそる。
 そこから小田川に沿って二里ほど山の中に入ったところに、大瀬の里がある。
 ノーベル文学賞作家・大江健三郎のふるさとである。

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 燃料店をしていたという実家は今も残っていて、内子ほどではないにせよ、瀟洒な家並みの中にある。

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 二十代の頃、この作家にはまったソルティにとって、ここはいわゆる“聖地“と言える。
 彼の小説(とりわけ初期)の原風景はここにあったのか! と、ワクワクしながら小さな集落を歩き回った。

 その後、また遍路に戻り、しばらく歩いていたら、80才はゆうに越えていると思われる翁に遭遇した。
 道行く遍路にお接待したり、病気や事故で困っている遍路を助けたり、近くの名所まで道案内したり、遍路との交流エピソードの尽きない人だった。
 そんな話を聞いていたら、自然、大江健三郎の話になった。

 なんと翁は、大江の親戚筋だったのである。
 若い頃、大瀬まで店の手伝いに行ったこともあると言う。
 翁曰く、 「とにかく子供の頃から頭が良かった。あんまり出来がいいから、内子の学校まで越境通学していた」
 さもありなん。
 「ノーベル賞取った時はマスコミが押し寄せて、そりゃあ、たいへんな騒ぎだったよ」

 とてつもなく澄みきった小田川のほとりの、この小さな山間の里が一躍脚光を浴び、揺れに揺れた光景を想像し、心がニンマリした。

小田川


文豪を「健ちゃん」と呼ぶ 大瀬老





● 輪廻転生ミステリー 本:『我々は、みな孤独である』(貴志祐介著)

2020年角川春樹事務所
2022年文庫化

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装画:日田慶治 装幀:鈴木久美

 貴志祐介の本はこれで6冊目(検索カテゴリーを立てた)。
 やっぱり面白い。
 奇抜なプロット、緻密なリアリティ、抜群のストーリーテリング。
 いったん読み始めたら、またたく間に作品世界に入り込んでしまい、寝不足必死になる。
 本書も22時半に、布団の中で寝落ちを目論んでページを開いたが最後、気がつけば深夜1時を回っていた。
 このまま読み続けたい。
 でも、明日の仕事が・・・。
 人と会う約束が・・・。
 生皮をはがすような決心で、しおりを挟んで、文庫本を遠くに放り投げた。 

 本小説をジャンル分けするなら、「スピリチュアル・バイオレンス・ミステリー・サスペンス」といったところ。
 スピリチュアル(精神世界)とバイオレンス(暴力)という、両立しそうもない分野が共存しているところに、貴志祐介らしさがある。
 しかも、貴志の描くバイオレンスは、ありきたりの暴力ではない。
 サディスティックで悪趣味な、読みながら身体の末端に痛みを感じるような暴力である。
 ソルティは、あまりに過激な暴力描写は好まないので、正直、途中でげんなりした。
 自らの性器を咥えたメキシコ人の活け造りとか、貴志祐介のファンの一角をなすであろうサイコパスマニアへの読者サービスとしても、下劣で趣味が悪い。
 もう一つのスピリチュアルという要素がなかったなら、その時点でソルティは離脱していただろう。
 
 そう、本書の一番の魅力は、前世すなわち輪廻転生をテーマにしているところ。
 場末のしがない探偵事務所所長である茶畑は、有名企業の正木会長から依頼を受ける。
 「私は前世で切り殺された。その犯人を突き止めてほしい」
 茶畑は内心それを、怪しげな占い師に洗脳された正木の与太話としか受け取らない。
 が、多額の報酬に釣られて仕事を引き受ける。
 正木をそれなりに納得させるエセ物語をつくるため、彼が語る前世について過去の資料を調べていくと、まさに正木が語った通りの出来事が史実として残っていた。
 これは偶然なのか?
 それとも、占い師が正木を操っているのか?
 だとしたら、いったい何の目的で・・・。
 
 そのうちに、茶畑も自分の前世としか思えない夢を見るようになる。
 すべてを見通すかのような瞳を持つ不思議な女性霊能者との出会いと謎の言葉、行く先々で起こるシンクロニシティ、目の前に次々と示されていく輪廻転生のしるし。
 一方、事務所スタッフの失踪事件に絡んで、幼馴染の暴力団員や日本でのコカイン販促を狙うメキシカン・マフィアなどが茶畑に接近し、周囲は暴力的な色合いを濃くしていく。
 身に迫る命の危険を知りながらも、茶畑は最早、輪廻転生の謎を突き止めずにはいられない。
 
 最後は、正木からの依頼も、メキシカン・マフィアと日本の暴力団との抗争も、探偵事務所の経営も、スタッフ女性とのお安くない関係も、すべての伏線が回収されぬまま打っちゃられて、輪廻転生の謎に飲み込まれてしまう。
 壮大なる宇宙意識の前には、人間の命や日々の営為や人類の歴史など、大海の一滴にも値しない。
 そのあたりの強引さというか、読者置いてきぼりのパラダイム変換は、諸星大二郎の『暗黒神話』を思わせる。
 一種の「夢オチ」とも言える漫画チックな結末は、小説としては、貴志の他の作品にくらべると不出来という声もあろう。
 だが、輪廻転生や唯識や非二元といったスピリチュアルテーマに関心あるソルティは、最後まで興味深く読んだ。
 本作で明かされる輪廻転生の仕組みに則れば、弥勒菩薩はすでに現世に生まれ変わっているのかもしれない。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 
 

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