ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督)

2013年イギリス、ルーマニア
106分

 ディストピアSFの金字塔『未来世紀ブラジル』(1985)のテリー・ギリアムによる、やはり未来の管理社会を舞台としたSF&哲学ドラマ。

 哲学ドラマと言うのは、テーマが“生きる意味、存在の意味”といった壮大なところにあり、タイトルにある“ゼロ(0)”とは、宇宙のブラックホールであり、ビッグクランチ(=ビッグバンの逆)であり、仏教的な“空”や“無”を意味しているかのように見えるからだ。

 己れの存在する意味、生きる理由について懐疑にとらわれた主人公コーエン(=クリストフ・ヴァルツ)が、世界を管理支配するコンピュータを相手に孤軍奮闘するさまを、ギリアムならではのポップでサイケデリックな映像、コミカルかつ難解なプロットで描いている。

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 映像はさすがに凄い。
 『不思議な国のアリス』のような独特な世界が構築され、一見の価値がある。
 一方、テーマそのものは宙に浮いてしまって、存在を肯定しているのか否定しているのか、よくわからないままに終わっている。
 まあ、答えの出ない問題ではあるが・・・。
 「存在の意味を問うなど無意味。答えは愛」と安易に落とし込めないあたりが、ギリアム監督のプライドなのだろう。
 (ソルティ思うに、「答えは愛」が正解なのだろう。まあ、「愛」というより「生殖」だが・・・。すべての生命の使命がとりあえずそこにあるのは間違いあるまい)

 観ている間は全然気がつかなかったが、『サスペリア』や『少年は残酷な弓を射る』のティルダ・スウィントン、『クラウド・アトラス』や『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』のベン・ウィショー、それにマット・デイモンが出演していたらしい。
 これら主役級スターをチョイ役で使えてしまうあたり、さすが大監督である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 水平社100周年 本:『橋のない川 第五部』(住井すゑ著)


1970年新潮社

 第五部は水平社が設立された直後の小森部落の様子や世間の反応が描かれる。
 歓喜の声を上げ闘志と希望に満ち溢れる部落と、世の秩序を転覆するものとして水平社を恐れ快く思わない世間と。
 その対立の中で、地域の小学校での差別事件に対する糾弾を行なった畑中孝二をはじめとする小森の青年ら7人は、それを騒擾罪とみなした当局に逮捕され、五条監獄に70日間収監されてしまう。
 しかし、それは小森のみならず全国の部落民の団結と闘志をいよいよ強める焚き付けとなり、各地に水平社の支部が作られ、機関紙『水平』が発行され、全国少年・少女水平社や全国婦人水平社も誕生していく。
 そんな折、関東大震災が起こる。

 長い間虐げられてきた部落の人々が声を上げて立ち上がっていく本巻は、読んでいて胸が熱くなるシーンが多い。
 とりわけ、普段は大人しくて優しい孝二が、騒動の調停役を買って出た国粋会の今川忠吉――地域の顔役で土建の親方、すなわち権力側の番犬である――に面と向かってこう告げるシーンは、胸がすく思いがした。

 これから二十年、或いは三十年先になるかもしれませんが、教育勅語は必ず消えて失うなる日がくるのです。けれども水平社宣言は、絶対に消えて失うなる日はありません。それは人の世を支配する権力は必ず滅ぶが、働く人間に滅びがないのが歴史の教訓で、水平社宣言はこの働く人間の血と涙の叫びだからです。

 関東大震災の記述にハッとしたが、水平社設立は震災の前年の大正11年3月3日、すなわち西暦2022年である。
 来年は、水平社創立100周年にあたるのだ。
 コロナが落ち着いたら、この物語のモデルとなった舞台を歩いてみたい。
 リニューアルオープンされる水平社博物館にも行ってみたい。


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● 漫画:『外天楼』(石黒正数・作画)

2011年講談社KCDXから発行
2015年講談社文庫

 散歩の途中に寄った、漫画とエロDVD専門の古本屋にて100円で購入。
 作者の名前も作風も知らず、江口寿史風のすっきりした絵に惹かれて買ったのだが、これがびっくりの傑作であった!

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 中学生男子の涙ぐましいエロ本購入作戦という、いまや古臭すぎるベタなネタから始まって、コミカルで捻りのきいたミステリー短編が並ぶ。
 一話一話は読みきりだが、舞台や登場人物が微妙に重なっているので、連作物と分かってくる。

 最初のうちは、星新一風の肩の凝らないSF&ミステリーショート漫画という感覚で楽しく読んでいたら、最後の最後に不意打ちを喰らわされた。
 そして、一話ごとにその都度、設定とストーリーが生み出されネームが練られているかと思っていた各編が、実は最初から、数十年にわたる大きな人間ドラマの一コマとして描かれていて、あちこちに用意周到に伏線が張られて、最後の“非”人間ドラマのカタストロフィーにつながっていたことが判明する。
 見事な構成力と画力は、大友克洋の傑作『童夢』を思わせる。

 こんな漫画家がいたんだ!



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『東京流れ者』(鈴木清順監督)


1966年日活
83分、カラー

 デビュー間もない渡哲也主演の任侠アクション映画。
 鈴木清順の独特の美学と、日本が世界に誇る木村威夫の美術により、非常にモダンで芸術的でスタイリッシュな映像に仕上がっている。
 木村威夫は同じ清順の『ツィゴイネルワイゼン』、林海象監督『夢見るように眠りたい』、三國連太郎監督『親鸞 白い道』などを担当している。
 
 二十代半ばの渡哲也のカッコよさが光る。
 暗闇から聞こえてくる口笛、咥えタバコ、得意の空手をいかした立ち回り、清潔な角刈り、低音のしびれる歌声、女に用はない。あくまで硬派で、あくまで義理堅く。
 デビュー時についたこのイメージのまま、歳を取って、最後まで行ったのだなあ。
 
 当時、吉永小百合・和泉雅子と並ぶ日活のトップ女優であった松原智恵子の彫像のような品ある美しさも光っている。
 クラブ歌手の役でソプラノを披露しているが、歌は別人だろう。
 
 出番は多くないものの“ダンプガイ”二谷英明もカッコいい。
 グリーンのジャンパーをこんなふうに粋に着こなせる日本の男はなかなかいないだろう。
 後年、朝日テレビのドラマ『特捜最前線』で見せた包容力がすでに備わっている。
 
 たまに60年代日活映画を観るのも悪くないな。
 それにしても、本作のシュールな絵を観てつくづく思うのは、鈴木清順にこそ『黒蜥蜴』を撮ってほしかった。
 

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 渡哲也と二谷英明
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 6

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

まさに「いま・ここ」で、生を深く、ありのままに見つめてください。
いまとここそのものには、物語はありません。
まさしく「いま・ここ」で起こっている何かについて、物語を作ることができますか?
「いま・ここ」に、物語は存在しないのです。
存在するのは、ただ生成消滅する諸感覚だけであり、無媒介の感覚だけなのです。
(標題書p.499)

 ソルティは本を読むのと映画を見るのが好きである。
 若い頃からそうだった。
 物語に毒されているのだ。
 日本人の読書離れ、映画離れが言われて久しいけれど、「じゃあ、ソルティのようには読書や映画鑑賞をしない人々が、物語から解放されているのか?」と言えば、そんなことはまったくない。
 親のしつけや学校教育から始まって、テレビ、新聞、雑誌、漫画、ゲーム、流行歌、街じゅうに溢れる広告、ネット上のコメント・・・・・物語は無辺に広がって、それらを無自覚に受け入れる人々を洗脳しまくっている。
 世界は物語であふれている。

 これが現代情報社会の宿痾と必ずしも言えないのは、未開社会の部族にも、たとえば神話や掟や風習という形でそれなりに物語は存在し、内部の人々を良くも悪くも縛りつけているからだ。
 たとえば、遺伝的弊害を回避するインセスト・タブー(近親姦禁忌)は“良い”物語であろうし、女性器切除は“悪い”物語と言える。
 違うのは、現代社会では物語の種類と量が膨大になって、人々がそれに毒される時間が増えてしまったことだろう。
 未開社会の人々が大自然という厳しい現実と日々向かい合わざるを得ないのにくらべ、自然を克服しつつある文明社会の人は、一日のほとんどを物語の中に生きられる。


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ComfreakによるPixabayからの画像


 物語とは何か?
 「いま・ここ」に存在しないファンタジーである。

 たとえば、恋愛ほど人が物語の毒にはまっているさまを示すものはなかろう。
 愛する人のちょっとした言葉やしぐさや眼差しを、いかに曲解し、大袈裟に受け取り、妄想たくましくして、一喜一憂することか。
 自分で勝手に相手との物語を作り上げ、浮かれたり、患ったり、有頂天になったり、思い悩んだり、落ち込んだりすることか。
 自分にとって都合の良い物語を信じ込んで相手に夢中になり、ふたを開けてみたらとんだ勘違い、事実とのグロテスクなまでの乖離に、「舌かんで死んじゃいたい!」と自らの愚かさを呪ったことのある人は、決して少なくないだろう。

 あるいは、男なら誰だって(と一括りにすると反発来そうだが)、マスターベーションにおける妄想を伴った快楽と、射精後に来る「いま・ここ」の現実(=3㏄の精液の処理)の落差を知らぬものはいないだろう。
 “賢者タイム”とはよく言ったものである。

 物語とは、別名、記憶であり、空想であり、妄想であり、追想であり、後悔であり、想像であり、幻想であり、解釈であり、予断であり、不安であり、忖度であり、ファンタジーであり・・・・・・。
 つまるところ、思考である。
 
 ある意味、人間と動物との違い、あるいは大人と幼児との違いは、「物語を持つか持たぬか」というところにある。
 動物は物語を持たない。常に「いま・ここ」に生きている。
 「いま・ここ」の感覚と本能に基づいて、食欲、生殖欲、睡眠欲、現実的な危険の回避に追われて生きている。
 幼児もまた物語を持たない。
 「泣いたカラスがすぐ笑った」という言葉が示す通り、瞬間瞬間の感覚と本能と気分だけにコントロールされて生きている。
 地球上に生息する何百万という生物の中で、幼児を除く人間だけが、「物語を持っている、その中を生きている」というのは、よく考えると空恐ろしいことである。

 いや、だから人間は素晴らしいのだ、万物の霊長なのだ。
 ――という意見もあろう。
 たしかに、物語には人を動機づけ、狩り立たせ、力づけ、勇気をあたえ、未知なるものへ挑戦させ、団結させ、感動させ、退屈を紛らわし、創造させ、生きる希望をもたらしてくれるパワーがある。オリンピックを例に挙げるまでもない。
 物語のない社会、物語のない人生ほど、無味乾燥なものはあるまい。
 一方、人と人とを切り離し、誤解させ、憎しみや恐れを生み、競わせ、差別や迫害や戦争のもとを生みだすのも物語である。
 宗教や主義や民族という物語が、どれだけ人類の歴史を残酷に彩ってきたことか!
 物語は諸刃の剣なのだ。

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 人類が長い進化の時を経て物語を持てるようになったのは、「時間」を持ったことと関係していよう。
 記憶と想像、つまり過去と未来を手に入れて、はじめて物語が生まれたのだ。
 それはきっと、火や言語の獲得と同様、我々の遠い祖先が厳しい環境の中で生き残るのに役立ったからこそ、人類の性質として備わったのだろう。
 言語と物語の誕生によって、世代から世代への情報伝達が容易になり、生き残るための知識が蓄えられたことは想像にかたくない。

 元来、生き残るために獲得された性質の一つであるはずの物語(形成能力)が、いつのまにか、人が「いま・ここ」の現実を生きることを阻む方向に働くようになり、人は物語に取り込まれ、過去と未来の中を生きるようになった。
 それは、ネットゲームの主人公(アバター)の活躍するドラマを、自らの人生と勘違いしているゲーマー青年と、架空を生きているという点では何ら変わるところがない。

 過去は、過ぎ去って、今はない。
 未来は、未だ来たらず、ここにない。
 現実にあるのは「いま・ここ」だけなのだ。

 マインドフルネスとは、瞬間瞬間の感覚に意識を置きつづけることで「いま・ここ」にあり続ける実践である。
 物語からの解放なのだ。

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 ソルティ自身のスタンスを言えば、物語に毒されていることは重々承知しているものの、それを100%拒絶するのも阿呆らしいと思っている。
 そもそも遺伝的あるいは後天的に植え付けられた物語(形成能力)をゼロにするなどできるべくもなく、社会生活を送って他人とコミュニケートする以上、物語を無視するなど不可能である。(それができるのは完璧なサイコパスだけだろう)
 と言って、もういい加減、ありもしないファンタジーにかまけて「いま・ここ」の生を取り逃し続けるのはごめんこうむる。

 物語とは適当につきあうのが良い。
 ブログで本や映画について書くのは、襲いかかる物語に無防備に身をさらして蹂躙されないよう、物語に対して免疫をつけるためのワクチン接種のようなもの。
 ――と自己韜晦をはかっている(苦笑)











● 人間に光あれ 本:『橋のない川 第四部』(住井すゑ著)

1964年新潮社

 動乱の第三部にくらべると、第四部はこれといった大きな社会的事件も主人公・畑中一家の生活上の変化もなく、平穏無事な展開と言える。
 もっとも、長男誠太郎のロシア出兵と無事帰還、小森部落内に公衆浴場ができる、部落から大阪に働きに出た若い男女の心中事件といった出来事は起こるのだが。

 この巻の焦点は、部落の人々が権利意識と社会不正に目覚め、それがだんだんと高まっていく様子を描くところにあろう。
 くだんの公衆浴場開設についても、それをお上からの有難い恩賜と受け取り、衛生環境を向上することで部落民に対する世間の偏見をなくしていこうという部落内の融和穏健派に対し、畑中家の次男孝二をはじめとする若者たちは容易に与することなく、部落差別を温存する社会と闘って社会を変えてこそ本当の意味での“解放”はあると議論を深めていく。
 その全国的な盛り上がりが、1922年(大正11年)京都における全国水平社の創立大会へとつながっていく。

 本巻では創立大会直前までの畑中一家と小森部落の日常風景が丹念にたどられるが、ここでついに小森部落の真宗寺院の跡取り息子である村上秀昭が、実在の社会運動家西光万吉をモデルとしていることが明らかとなり、本巻の最後は秀昭(=万吉)が書いた「水平社宣言」の草稿を孝二たちが読むところで終わる。
 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ

 
桂冠旗
水平社創立当時の桂冠旗
西光万吉によって考案された


 いよいよ話も佳境、次の巻に入るのが待ち遠しいところであるが、本巻を読んでふと気になったことがある。
 部落の人々が権利意識に目覚めるのも、あるいは同時代の貧しい農民や工場労働者が格差社会に怒り米騒動やストライキを頻繁に起こすようになるのも、1917年ロシア革命とそれによって広まった共産主義の思想によるところが大きいという点である。
 少なくとも作者である住井すゑはそうした観点から物語を書いている。
 これは住井の思想信条(共産党びいき?)も関係しているのかもしれないが、やはり時代的に見ても、共産主義の影響こそ、当時の日本庶民の権利意識を目覚めさせるのに大いに力あったのであろう。
 つまり、普通「人権」と言えば、ロックやルソーやモンテスキューらによって思想的基盤が用意され、フランス革命やピューリタン革命やアメリカ独立宣言などの市民革命により民衆が勝ち取った成果というイメージがあるけれど、日本の場合は、その西欧的人権思想が大衆の間に広く浸透し深く根づく暇のないまま、共産主義思想すなわち“階級闘争による平等社会の実現”という政治経済的欲求のほうが専横してしまったのではないか、ということである。
 きびしい差別を受けていた部落民のようなマイノリティはともかく、はたして一般大衆のどれだけが、「人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない」人権の根幹を理解していたのだろうか。
 
 森喜朗の女性蔑視発言とかコロナ禍における感染者差別とか、いまだになかなか根づかない日本人の人権感覚を鑑みるに、そして、「人権」を口にするとたちまち「左の人」と決めつけられてしまう不可解さを思うに、明治維新後の日本人の近代人としての思想形成史の中に、なにか抜け落ちているものがあるのではないかという気がするのだ。




● JR多度津駅構内食堂

 2018年秋に四国歩き遍路をしたときに、香川県のJR多度津駅前にあるホテルトヨタに泊まった。

 この駅は、別格17番神野寺(満濃池)、金毘羅さま、75番善通寺、76番金倉寺といったJR土讃線に沿った縦の札所ラインと、別格18番海岸寺、77番道隆寺、78番郷昭寺、79番天皇寺、80番国分寺といったJR予讃線に沿った瀬戸内海沿いの横の札所ラインが交わる地点にあり、歩き遍路にしてみれば、一つの章を終えて次の新たな章が始まる中継点――みたいなイメージがある。
 満濃池からの縦のラインを打ち終わり、多度津駅のコインロッカーに大きな荷物を預け、3キロほど離れた別格18番海岸寺を打ち戻り(往復)し、「もう今日はここらが限界」とホテルにチェックインした。

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JR多度津駅

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 シャワーを浴びて一服し、「さあ夕食」と思ったが、あいにくホテルの食堂は閉まっていた。
 ならば、駅構内のコンビニで弁当でも買ってこようかと、夕暮れの駅前広場を横切っていると、線路沿いの小屋の壁に「食堂」とだけ書かれた看板を見つけた。
 矢印にしたがって奥へ進むと、「日替り定食500円」と書かれた札が入り口に貼ってある。
 場所が場所だけに、体裁が体裁だけに、おそらくJR職員のための食堂なのだろうと見当がついた。
 こういう所は、“安くてボリュームたっぷり”と相場が決まっている。
 ここで夕食をとることにした。


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 期待どおりボリューミイだった。
 味は普通だが、讃岐名物のうどん、揚げ物3点、おにぎりと稲荷ずし、これで500円なら大満足である。
 ずいぶんとエネルギーをもらった。
 開店したばかりで店内は空いていたが、制服姿のJR職員のほかに、近所の親子連れらしきも見られ、地元民に愛されているのだろうなあと思った。
 よもやここが、鉄道ファンでは有名な“JR多度津駅構内食堂”であるとは知らなんだ。

 JR四国の多度津駅の構内食堂(香川県多度津町栄町3丁目)が3月末で閉店することがわかった。乗務員や駅員らのための「社員食堂」だが、四国の鉄道発祥の地とも言われる拠点の駅構内にあり、鉄道ファンや地域住民にも長年愛された。JR四国は建物の老朽化が理由と説明しているが、関係者からは惜しむ声が上がっている。(中略)
 食堂の裏手には、れんが造りの給水塔がある。国の登録有形文化財に指定されている、この大正期の建造物などをカメラに収め、食堂にも立ち寄る全国各地からの鉄道ファンも後を絶たない。
(朝日新聞デジタル 令和3年1月23日の記事より)

 上の写真の食堂の奥に見える煙突のようなのが給水塔らしい。
 この給水塔も壊されてしまうのかな?

 くちくなった腹を撫でながら駅前広場をホテルへ向かうと、夕映えの讃岐の山々が翌日の快晴を告げていた。
 「明日も元気に歩くぞ!」
 そう思った。
 

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 JR職員や地元民や鉄道ファンのみならず、何千という歩き遍路にとっても、思い出深い、有りがたい、元気が出る食堂であったのは間違いなかろう。








● 自粛警察の末路 映画:『ゼイカム-到来-』(ジョニー・ケバーキアン監督)

2018年イギリス
91分

 SF異生物ホラーサスペンス。
 原題は Await Further Instructions 「次の指示を待て」

 何より怖いのは、2018年に作られたこの映画が今のコロナ社会を予言しているかのような点。
 異なるのは、人類を襲ってくるのが新型コロナウイルスではなく、イカのような触手を何本も持った謎の知的生命体であること。
 この最強のエイリアン(ソルティ命名「メタリック星人」)に目をつけられた一家の受難を描く。

 クリスマス休暇に何年ぶりかに実家を訪れた長男ニックとインド系移民の恋人アンジー。
 ニックの母親は二人を温かく迎えるも、超保守的なニックの祖父と父親トニーはアンジーを見て露骨に嫌な顔をする。
 そこへ長女で妊娠中のケイトが夫のスコットを連れてやって来る。ケイトもまた頭のいいアンジーに対するコンプレックスが隠せない。
 熱心なクリスチャン一家の排他的空気に耐えられなくなったアンジーとニックは、翌朝早く、実家を出ようとする。
 が、時すでに遅し。
 家屋はまるごと何者かの手によってメタリック質の壁で厳重に封鎖され、ネットも電話もラジオもつながらず、一家は閉じ込められてしまう。
 「緊急事態発生。ステイホームして次の指示を待て」
 テレビモニターに現われる指示は政府のものなのか。それとも・・・・・? 

 といった異常なシチュエーションで、一家は、「ステイホームによる自粛」、「汚染された食べ物の廃棄」、「正体不明のワクチンの接種」、「家族の中の感染者の隔離」・・・・と、だんだんとグレードアップしてゆく当局からの指示に戸惑いながらも従ってしまう。
 冷静で科学的思考をもつニックとアンジーはそれらの指示に疑いを抱き、黙って従うことに抵抗を示すが、一家の主人たることに強迫的なこだわりをもつ権威主義のトニーは、当局の指示を鵜のみにし、強引に家族を従わせていく。
 このあたりの家族それぞれの振る舞いが、まさにコロナ禍の社会の人間模様を映しているかのよう。  
 すなわち、
 祖父と父親トニー・・・・・権力に盲従するマチョイズムの自粛警察
 母親と婿のスコット・・・・自分の意見を持たず、権威に逆らえない右顧左眄の人々
 長女ケイト・・・・感情的衝動的で容易にパニックに陥いる人々
 長男ニックとアンジー・・・・冷静に理性的に判断し振舞おうとする一部の人々
 
 一家の中では、自粛警察のお父さんトニーが、実に怖い。
 子供の頃から父親(ニックの祖父)に馬鹿にされ続けていた憤懣がここに来て爆発し、この未曽有の危機をかえって家族内での自らの権威と支配を高めるために用いようとする。
 その結果、すさまじい家庭内暴力をまねき、外からのメタリック星人の攻撃を待つまでもなく、一家は勝手に内部崩壊していく。
 敵は外にいたのではなく、内部に育っていたのである。
 お父さんは最後にはメタリック星人に寄生されて、文字通り、手足となって動くようになる。
 「私を敬え」と叫びながら、息子のニックとアンジーを斧で殺戮する。

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メタリック星人に寄生されたお父さん


 ただ一人残されたのは、死んだケイトのお腹の中にいた赤ん坊。
 クリスマスの夜に生まれた男の子であった。

  ハレルヤ!



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







● ウミウシもの 映画:『ボーダー 二つの世界』(アリ・アッバシ監督)

2018年スウェーデン・デンマーク合作
110分

 これは10年に1本のとんでもない映画。
 解説を、論評を、評価を、比較を拒む、なんとも言い表しようのない“はじめて”の映像体験が味わえる。
 似たような映画を上げることすらできない。
 あえて上げれば、主人公ティーナの風貌から、ジーラ博士が登場する『猿の惑星』シリーズかジェームズ・キャメロン監督『アバター』(2009)であろうか。

 どういうジャンルに属するか決めることすら困難である。
 サイキックなのやら、差別がテーマの社会問題系なのやら、LGBT物なのやら、SFなのやら、怪奇ホラーなのやら、犯罪物なのやら、恋愛なのやら、スピリチュアルなのやら、ミュータントなのやら、哲学なのやら、エログロなのやら・・・・。
 今まで作られてきた何万本の映画によって形成されたジャンル概念を吹き飛ばしてしまう破壊力。
 「いったい、これは何なの!?」という叫びが出るのを押しとどめながら、鑑賞した。
 ウミウシものとでも名付けようか。


ウミウシ


 ある意味、これまでのメロドラマに対するアンチテーゼというか、ハリウッド流恋愛映画に挑戦状を叩きつけたというあたりが、もっとも当たっていそうな気がする。
 すなわち、「美男美女が運命的な出会いをし、互いの孤独を埋めるように惹かれ合い、すれ違いや勘違いを繰り返した末、嵐の夜に薪の燃える小屋でついに結ばれ、澄んだ池の中で裸で向かい合って濃厚なキスを交わし、美しい森の中を追いかけっこしては草の上に倒れてはげしく愛し合う。ところが男には女に隠していた暗い秘密があり、そのため犯罪事件に巻き込まれ当局に追われ、二人は結局別れなければならなくなる」――という“ありきたり”のメロドラマに対するアンチテーゼである。
 この映画の基本プロットはまさに上に書いたとおりで、ただ一つ違うのは、「二人は美男美女ではなかったのです」ということである。
 もしこれをハリウッドの美男美女(たとえば往年のニコール・キッドマンとトム・クルーズ)を起用してやったとしたら、凡庸過ぎて、陳腐すぎて、ありきたり過ぎて、「観て損したな」と思うのは必定である。
 二人の主人公が、男でもなく、女でもなく、美男美女でもなく、「美女と野獣(♂)」でもなく、「美男と野獣(♀)」でもなく、スタイル抜群でもなく、上品でもなく、賢くもなく、リッチでもなく・・・・すなわち、メロドラマにとうてい耐えられるようなヴィジュアルでも、恋愛映画の主役をはれるようなキャラクターでもないという点において、逆にすべてのハリウッド式メロドラマの偏移性・差別性(=美に対する異常な信仰ぶり)が暴露されてしまった感がある。
 
 観始めたころは「醜い」としか思えなかった主人公ティーナが、話が進むにつれだんだんと目に馴染んできて、観終わるころは「愛らしい」とさえ思えるようになっている自分を発見する。
 観る者は、物心ついてからメディアによって植え付けられている「ヴィジュアル信仰」に気づかされることになる。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 5

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは求めているからそれを得ている。
 不幸を求めているからこそ、私たちは不幸なのです。
 しかし、私たちはそれを否認している。
 ただ幸せを求めているのだ、と私たちは言う。
 しかし、「幸せ」という言葉によって、言われているものは何でしょう?
 欲望を満たすこと?
 もし本当にそれを求めていなければ、私たちは自由なのです!
 (標題書P.417)

 不幸を求めているから不幸?
 そんな馬鹿な!

 ――と思う人も多いかもしれない。
 誰だって幸せを求めて生きているはずだ。
 マゾでもない限り、誰が好きこのんで自らの不幸を求めるだろうか?

 ウ・ジョーティカ師の言葉には重層的な意味合いがあるように思う。
 一つには、私たちが普通に考えかつ求めている幸せとは、「欲望の満足」であるという点である。
 お金がほしい、友だちがほしい、恋人がほしい、子供がほしい、仕事がほしい、持ち家がほしい、別荘がほしい、洋服がほしい、車がほしい、宝石がほしい、地位がほしい、名誉がほしい、権力がほしい、健康がほしい、美貌がほしい、若さがほしい、永遠の命がほしい・・・・。
 欲望の達成を「幸せ」と考えるならば、それを求めている間は当然「不幸せ」になる。
 達成したあかつきに得た「幸せ」は、一瞬の満足ののち、目減りし魅力を失っていく。
 獲得した物は変化し、いつかは壊れ、失われていく。
 そのうえ、「欲望を達成する」という行為自体が生き癖となってしまっているので、次の新たな獲物を作り出さないことには虚しさに襲われるばかり。
 すると、「幸せ」は永遠に先送りされる。
 欲望を満たすことは「幸せ」にはつながらない。

 今一つには、私たちは、表面的でわかりやすい上のような欲望とは別に、自らが無意識に欲しているもの(状況)というのがあって、いつか必ずそれを具現化してしまうというほどの意味合いである。
 これはなかなかわかりにくいところである。特に、欲望に向かってまっしぐらの、イケイケバンバンの若い頃は・・・・。
 たとえば、覚醒剤を隠れてやっていた有名人がついに警察に捕まったときに、「ホッとした」とか「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」と本音を漏らすことがある。
 そういうときに彼らの内面で働いているのは、一見不幸の極みに見えるようなそういう状況――逮捕され衆目にみじめな姿をさらし、家族や友人や仕事や名声や信用や財産やらを失うというような状況――を、心のどこかで望んでいたことに対する“気づき”ではないかと思うのである。
 つまり、覚醒剤に手を染めなければならないくらいまで無理のある生活、虚飾にみちた日常、上げ底の自分が、逮捕によってやっと破綻し“ありのまま”の自分に戻れたという思いが、「ホッとした」というセリフになるんじゃなかろうか。
 意識の上では華やかなスターの「自分」を目指して我武者羅に生きてきたけれど、無意識が望んでいたものはもっと別の「自分」であった。

 あるいは、何らかの事情で自分を卑下しているとき、人は手に入れた幸運や成功を素直に受け取れず、自分がそれにふさわしいと思えなくなる。
 「こんな自分が幸福であってよいはずがない」という罪悪感は、それにふさわしい状況をおのずから身の回りに作り出してしまう。
 スピリチュアルでよく言われるところの「思いは現実化する」。
 
 言いたいのはつまり、多くの人は本当に自分が望んでいるものを知らないで生きているのではないか――ということである。
 そこに気づかせてくれるきっかけが「不幸」や「逆境」であるとしたら、人は心のどこかでそれらの訪れを待っているとさえ言えるのではなかろうか。

 三島由紀夫がやはり天才だなと思うのは、彼が40歳のときに発表した『サド侯爵夫人』の中にこんなセリフがある。

いいえ、私が自分で望んでいたものが、この年になってだんだんわかってきました。ずっと若いころには、私もあなたと同じように、そんな二種類の思い出を望んでいるような気がしていました。・・・・ヴェニスと、仕合せと。・・・・でも私の思い出に残ったものは、私の琥珀の中に残った虫は、ヴェニスでもなければ仕合せでもない。ずっと怖ろしいもの、言うに言われないものでした。若い私が望むどころか、夢にさえ見なかったもの。でも、今では少しずつわかってきました。この世で一番自分の望まなかったものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず一番望んでいたものなのです。
(新潮文庫『サド侯爵夫人』) 

 この戯曲を20代で読んだ時、ソルティはこの三島特有の典雅で才気に富んだ逆説に非常に感銘を受けた。
 が、その真に意味するところはまったく分かっていなかった。
 三島がこれを書いた年齢も、三島が自決した年齢もとうに越えた今、このセリフを非常にリアルなものに感じるのである。

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● 一本とられた! 本:『モリアーティ』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2014年原著刊行
2015年KADOKAWA(駒月雅子訳)

 やられた!
 一本とられた!

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 というのが読後の心の叫びである。
 『カササギ殺人事件』や『メインテーマは殺人』といった本格推理小説の名手ホロヴィッツゆえ、「なにか奇抜なトリックが仕掛けられているに違いない」と思いながら読み始めたのに、見抜けなかった。
 思わず、二度読みした。

 トリックを見抜けなかったのにはそれなりの理由が(言い訳が)二つある。
 一つには、この小説はタイトルが示すように、先行作の『絹の家』同様、ホロヴィッツ2作目のシャーロック・ホームズもののパスティーシュなのであるが、本格推理小説というよりも犯罪スリラーの色が濃厚なのである。
 スコットランド・ヤードのジョーンズ警部とピンカートン探偵社のチェイス調査員がタッグを組んで、アメリカからイギリスに進出してきた悪の組織を追い詰めるというのが基本プロットで、ところどころジョーンズ警部によるホームズまがいの鋭い推理披露シーンはあるものの、大枠としては真犯人探しのミステリーではなく、“勧善懲悪”の犯罪小説といった趣である。
 角を曲がるたびに景色が変わるように、展開が目まぐるしく、バッタバッタと人が殺されていく。
 主役の二人が敵に頭を殴られ気絶し、冷凍庫に閉じ込められるといった、お決まりの絶体絶命シーンも設けられている。
 「この先どうなるんだろう?」というハラハラドキドキ感が先立ち、筋を追うことにかまけ、じっくりと小説の構造というか作者の企みを考える余裕がなかったのである。
 たとえてみれば、迫力満点のプロレスの試合が目の前に展開されているときに、「八百長」という言葉がまったく浮かんでこないようなものである。

 八百長・・・・。
 そう、今一つの理由は、本作で仕掛けられているトリックは、ある意味、八百長まがいだからである。
 フェアかアンフェアか?と聞かれたら、「アンフェアだろうな・・・」というのがソルティの正直な感想である。
 ネタばらしになるので詳しくは書かないが、よもやこういったトリックを仕掛けてくるとは思っていなかったので、読み始めた最初の頃に一瞬その可能性も浮かびはしたものの、想定の外に追いやってしまった。
 ならば、アンフェアだから失敗作か? 駄作か? 読む価値ないか?――といえば、そんなことはない。
 本作の一番の特徴にして魅力は、「アンフェアなのかもしれないが、ま、いいではないか」と進んで許容してしまいたくなるところにあろう。

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 なんと言っても、面白い。
 ホームズ&ワトスンを模したジョーンズ&チェイスの名(迷?)コンビぶり、レストレード警部含むスコットランド・ヤードの面々や名作短編『赤毛連盟』の主犯たちやモリアーティ一味の残党など原作おなじみメンバーの出演、ホームズとモリアーティが死闘を繰り広げたライヘンバッハの滝や馬車が走る19世紀ロンドンの風景など、パスティーシュならではの楽しさ満載である。
 ストリーテリングの巧みさと随所にさしこまれるユーモアはホロヴィッツの独壇場。
 そのユーモアですら伏線の一つであることがのちに明らかになるにいたっては、シャッポを脱ぐよりない。
 なんという腕の立つ作家か!
 ホロヴィッツは、日本の作家で言うなら、東野圭吾と貴志祐介と筒井康隆をブレンドして3で割ったような感じであろうか。
 これだけ楽しませてくれれば、文句はない。
 
 最後の最後でトリックが明らかになった時、ホームズものを愛する読者の多くはおそらく、「アンフェアなのも無理はない」と不承不承納得するであろう。
 フェアを期待するのがそもそも間違っていたと思うであろう。
 それだけの“悪”に出会うからである。
 泥棒被害に遭った時、相手が名もない出来心からのコソ泥だったら頭にも来ようが、アルセーヌ・ルパンであったら、どうだろう?
 むしろ名誉と思うのではなかろうか。
  


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 歪みの象徴 本:『天皇制と部落差別』(上杉聰著)

1990年三一書房

 住井すゑ著『橋のない川』の時代設定は、明治後期から水平社宣言がなされた大正11年。
 有史以来、日本がもっとも著しく天皇制による国粋化をはかった時代と言っていいだろう。
 そうした極端な時代において、天皇制と部落差別の関係が浮き彫りにされたさまを住井は描いている。
 本書で上杉はその歴史的根拠を探っている。

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 まず、著者は天皇制をこう定義している。

 「古代中国から輸入された支配制度と、排除を利用した支配制度が結びついたもの」と、大まかにいってよいのではないかと思う。これが始まるのは、推古朝(592~628年)の聖徳太子の改革のころからであり、「大化の改新」(645年)後に成立したものであった。 

 天皇制の始まりを、『古事記』や『日本書紀』に出てくる第1代神武天皇に、あるいは欠史八代(2代~9代)をのぞいた第10代崇神天皇に置いていない点に留意したい。
 確かに、天皇という名称が使われたのは大化の改新以後の天武朝からと言われている。
 
 本書では、天皇制を支える三つの軸として、
  1. 「神国日本」、「アジアの盟主」といった日本版中華思想というべき世界観(アジア観)
  2.  家制度や男系による家督相続システムにより身分の固定を図る戸籍制度
  3.  神道にもとづく「けがれ」観および荘園制度進展により生じた排除のシステム
を上げて、それぞれの観点から、部落差別が生まれ、固定化し、持続していった経緯を究明している。
 3.の排除のシステムとは次のようなものである。

 古代的な民衆支配が崩壊した後、それに代わる天皇制の支配の方法は、荘園制の進展に対応しつつ、一方で荘園の外部にいる人びとへの差別を強化し、他方で内部にいる農民の位置を制度的にも観念的にも高める方式が採用された。荘園制から外れた河原や坂などに住み、自由に生き、活動する人びとに対する神道・仏教の諸観念を動員した差別意識の強化が、こうしてはかられることになった。
 天皇制の公領で始まったこの「排除」のシステムは、以後、各荘園領主に「便利」な支配秩序として受け入れられ、全国化する。また農民自身も、自立化を進めるにしたがって、このシステムに深くとらえられ、やがて、自分たちを被差別部落と明確に区別する意識が生まれ、自己を天皇の子孫と考えるなどの思想が浸透する。(ゴチックはソルティ付与)
  
 上記の天皇制の公領で始まったというのが一つのポイントで、著者は部落差別の源流を平安時代中期の京都に起きた史実にもとめている。
 天皇家の京都の守護神である鴨御祖神社(下鴨神社)の周囲に住んでいた「濫僧」「屠者」と呼ばれる人々を「ケガレ」ゆえに追放し、そののち彼らに京都市中の死人の清掃を担わせた。この「濫僧」「屠者」こそは「穢多」「非人」の前身という。
 いったん社会から排除した者を、なんらかの形で(たとえば、3Kのような人の嫌がる仕事を押し付けるといった形で)社会と関係づけるところに、被差別部落が発生する土壌が用意される。
 このあたりの記述は、中世ヨーロッパに見られた特定の職業の人々への差別について、歴史学者の阿部謹也が述べた説を連想させる。

 心の底で恐れを抱いている人びとが、社会的には葬られながら、現実に共同体を担う仕事をしているという奇妙な関係が成立したのです。このような状況のなかで、一般の人びとも、それらの職業の人びとを恐れながら遠ざけようとし、そこから賤視が生じるのだと私は考えます。(『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也著、ちくま文庫)

中世の道化師

 
 明治4年(1871年)の賎民廃止令(「解放令」)以後も、現代に至るまで部落差別が続いてきた社会的要因として、著者は上記の「戸籍制度」とともに、資本主義社会における日本的経営スタイルを指摘している。いわゆる、終身雇用制度に象徴されるものである。
 「社員は家族」の終身雇用制度のもと、『部落地名総鑑』を悪用した就職差別などがなぜ起こったのかを解き明かしていく過程で、日本社会が背負ってきた「負」あるいは「歪み」がえぐり出されていく。
 「社員は家族」であればこそ、その中に穢多・非人が紛れ込むのを厭うたのである。
 逆の見方をすると、人々が「自由・平等・個人の権利」をモットーとする近代民主主義の価値観を当り前のものとするようになったがゆえに、社会構造の中にしぶとく生き残っている前近代の“常識”や、大衆の中にしぶとく生き残っている前近代の“意識”が、「負」や「歪み」としてあらわになってきたのであろう。

 本書の最終章では、解放令の直後に各地で勃発した零細農民らによる部落解放反対一揆(穢多狩り)の凄まじい残虐ぶりが描き出されていて、読んでいて言葉を失う。
 これまで自分たちの下にいて優越感を与えてくれた相手が、近代思想に目覚め「平等、権利」を主張するようになるや、正気を失うほどの憤りにかられるさまは、フェミニズムに目覚めた妻をカッとなって殴るDV夫を思わせる。

 ある村では、「おまえたち、随分偉そうに振舞うているじゃないか。もし昔の穢多に戻るというのだったら許してやる。しかし、今までどおりに偉そうに振舞うんだったら、村も焼く、おまえの命もない」といって竹槍を突きつけるわけです。それに対して「穢多でようござんす。命だけは助けてください」――。わずか20戸や30戸の村です。そこに1000人もの周りの村民が竹槍をもって、なかには鉄砲までももって襲ってくるんです。これに抵抗できるわけはないですよね。みんなそうやって詫び状を、涙ながらに書いて出すわけです。


 「自由・平等・個人の権利」を当事者に許さない天皇制こそは、前近代の遺物の最たるものである。
 すなわち、日本の “歪みの象徴” である。
 これを現代民主主義のなかにどう位置づけるのか、あるいはどう位置づけないのか、がいまも問われているのだろう。
 

菊のご紋

 

おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 昭和初期の天城越え 映画:『有りがたうさん』(清水宏監督)

1936年松竹
76分、白黒

 原作川端康成というのにちょっと驚いたが、なるほどこれは『伊豆の踊子』と同じ、静岡県伊豆半島を舞台とする話なのであった。
 天城街道を走る路線バスの道中で起こる様々な人間ドラマを描いたロードムービーである。
 タイトルの「有りがたうさん」はこのバスの運転手のあだ名で、道をよけてくれる人や動物たちに運転席から彼が投げかける挨拶なのである。
 演じるは27歳の上原謙、さすが正統派美男子である。


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上原謙(肩ごしの美女は桑野通子)


 天城街道は下田街道ともいい、東海道の三島を起点に伊豆半島を南下し、天城峠を越えて、温泉や海水浴で人気の下田に至る道である。
 言うまでもなく、松本清張、石川さゆりの『天城越え』の舞台。
 本作では、下田を出発したバスが、半島東側の風光明媚な海岸沿いを走り、川津桜で有名な川津から内陸に入り、山間の険しい崖沿いの道を上り、旧天城トンネルを抜けて湯ヶ島に至るあたりまでの昭和初期の光景が楽しめる。
 道路はもちろん舗装されていないし、信号も横断歩道もガードレールもない。


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旧天城トンネル


 のほほんとした軽快なBGMは、『遠き山に日は落ちて』や『冬の星座』の訳詞で知られる堀内敬三で、全体、清水監督ならではのコメディタッチのユーモラスな作りとなっている。
 が、バスの乗客や街道ですれ違う旅人の置かれている環境は、必ずしも明るいものではない。
 東京に売られてゆく娘、トンネル工事に駆り出される在日朝鮮人、事業に失敗し娘二人を売った父親、不景気にあえぐドサ回りの芸人たち・・・・。
 川端の原作では、東京に売られてゆく娘はともに旅する母親の“せめてもの情け”のはからいにより、好きな運転手と一夜を過ごすらしい。
 そこまで描くとさすがにコメディタッチとはいかず、上原謙のスター性も守れなかったであろう。
 本作では一線は越えていない。


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 4

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちはみな、それぞれ異なった仕方で精神的に病んでいるのです。
 完全に健康な身体というのは存在しません。医者はそのことを知っています。
 完全に健康な精神さえ、存在はしないのです。
 しかし、それはあなたが狂っているという意味ではありません。あなたはただ正常、つまり正常に不健康なのです。
 あなたがこうした種類の、距離を取る洞察智をつければ、あなたの心はたいへん健康になります。
 本当に健康になるということは、本当に明晰な理解を得るということです。精神的に健康になるためには、他の道はありません。
(標題書P.263)


 最近、巷でよく聞く言葉に「HSP」というのがある。
 Highly Sensitive Person(ハイリ―・センシティブ・パーソン)の略で、非常に繊細で敏感な人のことをさす。俗に「繊細さん」と呼ばれている。
 アメリカの心理学者エイレン・アーロン博士が提唱した概念で、人口の15~20%が該当するそうだ。
 HSPは病気ではなくて生まれ持った気質で、次のような特性が挙げられている。
  1. (物事を)深く処理する
  2.  共感力が高い
  3.  過剰に刺激を受けやすい
  4.  ささいな刺激を感知する
 こうした特性ゆえ、非HSPの人にくらべて敏感に感じたり過剰に気づいたりするため、精神が疲れてしまい、生きづらさを感じることになる。

 「モロ自分やん!」と思ったそこのアナタ!
 正解です。
 「自分をHSPだと思っている日本人は53%に達する」というデータもありますから(笑)。
 むろんソルティもHSPです。

繊細さん

 何が言いたいのかというと、「学者先生め、またこうやって新しい“心の病”を作り出しやがって・・・・」というぼやきである。
 フロイト以降、どれだけ“心の病”が生み出されてきたことか!

更年期障害、 月経前症候群(PMS)、 アルコール依存症、 適応障害、 自律神経失調症、 摂食障害(過食症・拒食症)、 不眠症、 双極性障害(躁うつ病)、 うつ病、 認知症、 パーソナリティ障害、 統合失調症、 発達障害、 高次脳機能障害、 自閉症、 心的外傷後ストレス障害(PTSD)、 強迫性障害、 パニック障害、 睡眠時無呼吸症候群、 慢性疲労症候群、 ADHD(注意欠陥・多動性障害)、 アスペルガー症候群・・・・・e.t.c.

 こういった症状に悩み苦しんでいた当人にとっては、「自分が他の人と違っておかしかったのは病気のせいだったのだ。自分を責めなくてもいいんだ。病名がついて良かった!」という解放感と安心感を得て、それなりに開発され手順化された治療につながっていくのであろうし、それなりに治療効果もあるのだろう。
 が、一方、新たな“心の病”の誕生は、心理学者や精神科医ら“心の治療”にたずさわる人々の出番を増やし、飯のタネや利権の温床となることも否定できない。
 アルコール依存症なんて、昔は単なる“大酒のみ”で通っていたはずだ。
 HSPも“ナイーブな人”で通っていたはずだ。
 
 何が言いたいのかというと、こうまで“心の病”だらけになると、「いったい何らかの“心の病”に該当しない人間っているのだろうか?」という疑問が生じるのである。
 ここに100人の人間がいて、うちHSPが50%、更年期障害が30%、認知症が14%、うつ病が6%、統合失調症が1%、アルコール依存症が0.9%・・・・と数えていったら、すべての日本人(少なくとも大人)はなんらかの“心の病”にかかっていることになりはしないだろうか?
 逆に言えば、“健康な心”をもっている大人っているのだろうか?

 そもそも、何をもって“健康な心”と言うのだろう?
 厚労省の定義は以下のごとし。

 こころの健康とは、世界保健機関(WHO)の健康の定義を待つまでもなく、いきいきと自分らしく生きるための重要な条件である。
 具体的には、自分の感情に気づいて表現できること(情緒的健康)、状況に応じて適切に考え、現実的な問題解決ができること(知的健康)、他人や社会と建設的でよい関係を築けること(社会的健康)を意味している。人生の目的や意義を見出し、主体的に人生を選択すること(人間的健康)も大切な要素であり、こころの健康は「生活の質」に大きく影響するものである。
厚労省ホームページより抜粋)

 仏教の定義はもっと単純である。
 悟らない限り、人はみな精神的に病んでいる。
 最終的な悟りに達した阿羅漢だけが“健康な心”を備えている。
 なぜなら、阿羅漢には自我がないからである。
 自我こそが“心の病”の元凶である。

 なるほど、自我のない子供は心を病まない。
 成長して強固な自我を育てるほどに、人は精神的な病に陥りやすくなる。
 精神的な病の多くは、自我と社会との軋轢によって生じるからだ。
 
 なので、「私は病気である」と言うのは間違い。
 「私」が病気である。
 
 
 

● 高尾スピリチュアルDay

 毎年恒例の高尾山初詣。
 昨年は足のケガで行けなかった。
 今年もコロナで無理かなあ~と思っていたところ、高尾に住むある女性から展示会のお誘いをいただいた。ブログを通じて知り合ったツクシさんである。
 高尾山のふもとにある喫茶店「ふじだな」で、1月中「つくし作品展」を開催しているという。
 
 前回(2017年1月)の展示会ではお目にかかれなかった。
 今回はお会いしたいと思い、往復の交通機関の“密”を避けるべく日程調整し、平日の午前中に行くことにした。
 そのあと、喫茶店近くの蛇滝口から高尾山に登り、薬王院に参詣し、下山後に高尾極楽湯に浸かる。
 ラッシュ前には余裕で帰宅できよう。
 
 ソルティの職場は高齢者や病人と関わることが多いので、定期的に職員全員へのコロナ抗原検査を実施している。
 PCR同様、鼻に綿棒を突っ込む検査で、ほぼその時点でのステイタス(感染の有無)を知ることができる。
 ちょうど前々日に検査を受けて陰性をもらったばかりであった。
 愛する高尾にウイルスを持ち込む心配はないし、他人にうつすこともない。
 自分がどこかで貰わないようにだけ注意すればよい。
 
 JR中央線高尾駅北口から小仏行きのバスに乗る。
 リュックを背負ったハイカーがちらほらいて、席はすっかり埋まった。
 風は冷たいが、空は澄み渡り、陽射しには春のやわらぎが感じられる。
 裸の木々の間から冬の山々のすっきりした稜線が楽しめる、絶好のハイキング日和である。
 蛇滝口を過ぎ、裏高尾バス停で下車。
 「ふじだな」は目と鼻の先にある。

 壁に飾られた自作に囲まれて、ツクシさんはすでに店内で待っておられた。


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喫茶店ふじだな
八王子の水を使ったコーヒーが美味しい

 
 ブログで知り合ってかれこれ4年以上になるのに、お会いするのはこれが初めて。
 が、なんだか初めて会ったとは思えないのが不思議であった。
 4年の間にお互いのブログを訪問し、それぞれの近況や関心の所在はなんとなく知っていたし、たまにコメントのやりとりもあったけれど、齢五十過ぎていまだ人見知りのソルティ、初対面の人と話すのが得意ではない。
 しかも、ツクシさんは“全米”で活躍されたプロのイラストレーター。
 ホームページに掲載されている作品の数々を見れば、その豊かで個性的な才能と旺盛な創作力は歴然としている。
 会う前は、なんだか採用面接に向かう新卒学生のようにドキドキしていた。
 ところが、出会った瞬間、まったく壁を感じなかった。
 (各テーブルに設置された透明な壁は仕方あるまい)

 次から次へと話題は転換し、話は弾んだ。
 やっぱり一番熱いテーマはスピリチュアリティ。
 スピリチュアルな話題というのは、それに関心のない人にとっては、「あやしい」「いかがわしい」「ちょっとイっちゃってる?」「あぶない」「現実離れ」と思われがちなので、なかなか日常会話に乗らないものである。
 ネット上はともかく、オフの場で話せる相手を見つけるのはなかなかに難しい。
 ましてや、会ったばかりの人にそうしたテーマを投げかけるのはキヨブタ(清水の舞台)の勇気を必要とする(笑)
 それだけに、「この人、スピリチュアルOK」と分かったときは、俄然、熱く語り合ってしまうのである。
 なぜなら、スピリチュアリティこそは、その人のアイデンティティや価値観や世界観の核をなしているからである。
 というわけで、ツクシさんはすでに2巡目に入っているという「奇跡のコース」について、ソルティは仏教やヴィパッサナ瞑想(=マインドフルネス瞑想)について、共通したところや異なるところの確認やら、それらが各自の物の見方や生活にどういう影響を及ぼしたかなど、自在に語り合った。
 この、いきなりお互いの存在の深いクレパスに切り込んでいくスリリングな感覚は、三年前に四国遍路したとき宿で出会ったお坊さんとの会話以来であった。


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ツクシさんの作品(案内状より)
高知産の楮(こうぞ)和紙をちぎって描いた高尾の自然
素朴であたたかな味わい

 時節柄、長居は控えるつもりであったが、気がつけばお昼を回っていた。
 一緒に喫茶店を出て、平和な裏高尾の道をゆく。ツクシさんの家は近くにあるらしい。
 別れた後でふと気づけば、蛇滝登山口をはるかに過ぎていた。
 話に気を取られていた。というより、久しぶりのスピリチュアルトークに興奮し気もそぞろだったようだ。(こんなときのマインドフルネスなのに・・・・)
 

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チョロチョロの蛇滝(左上あたり)
いまの時期は水が少ない

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 山登りをあとに持ってきたのは正解であった。
 人気のない蛇滝の道場のお堂に腰掛けて、しばらく瞑想していたら、すっかり心が落ち着いた。
 むろん、体もデトックス効果ですっきり。
 高尾山の裏梯子とも言うべき急な九十九折りの道を登って、一気に薬王院参道に出る。
 足の調子もいい。

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薬王院
おみくじは吉であった!

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山頂付近の日陰は雪が残っていた

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山頂ひろばより富士山を望む
案の定、空いていた

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裏高尾方面の山なみ

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リフトで下山

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極楽湯の食事処にて


 今年もスピリチュアルな一年になりそうだ。


 

● 映画:『サイバー・ハック』(ロイス・ゴーサッチ監督)

2017年アメリカ
88分

 サイバーパンクSFサスペンスといった感じのB級映画。

 ファッショナブルでクールな映像と、クリス・メイソンという名の白皙青眼イケメン新人俳優は“買い”だが、人類存在の意味を問うといったテーマは大風呂敷を広げすぎ。
 脚本も88分では整理しきれず、観る者の理解を拒む。
 『マトリックス』と『新世紀エヴァンゲリオン(テレビ版)』を足したような哲学風味は個人的には好きなのだが、残念な作品になってしまった。

 「世界を救わなければ」と思うあなたの頭ン中が一番の問題、とその昔橋本治(だったか?)が書いていたのを思い出した。


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クリス・メイソン


 

● GOTOトラブル 本:『橋のない川 第三部』(住井すゑ著)

1961年新潮社より

 第三部に入って、物語は大きく政治性、時代性を濃くする。
 ときは大正7年(1918年)。
 第一次世界大戦のさなか、ロシア革命が勃発し史上初の社会主義国が誕生。
 その騒ぎに乗じた日本政府(寺内正毅内閣)はシベリア出兵に踏み切る。
 国内では、富山の主婦らによる打ちこわしを端に発した米騒動が広がり、一方、最終的には死者39万人(当時日本人口は5500万人)に至ったスペイン風邪が流行する。

 そんな世相の中、大阪の米屋で番頭を務める畑中家の長男誠太郎は、主家の娘安田あさ子と結婚の約束を交わすも、徴兵検査で甲種合格となって兵に取られる。
 祖母ぬい、母ふでと小森部落に暮らす次男孝二は、大逆事件を起こした幸徳秋水の著書との出会いにより人権思想にめざめてゆく。
 孝二は、兄への手紙でこう書く。

 僕は教室でしばしば考えました。“なんでわしらには天皇のために死ぬ義務があるんやろか。もし先生がいうように、六千国民がみな君のために「死ぬ」義務を負うていて、死ぬことが一番立派やというなら、別にむつかしい勉強で苦労することは要らぬやないか。”と。
 僕は今にしてわかります。八年間の教育は、人間として教え育てるために設けられたものではなく、人間を奴隷に鍛冶するために過ぎなかったのです。ですから日本人すべてが、実は義務の重荷を背負うた奴隷で、人間として生きる権利を持つ者は一人も居ないことになります。そう言えば大臣や大将や官吏も、その肩書によってそれぞれ何かの職権を持ちはしますが、人間として生きぬく権利や、その権利を主張する自由は全然持ち合わせないのではありますまいか。いや、それよりも、僕は世間の人たちが自分で自分をはっきり人間として考えたことがあるのかどうか疑わずにはいられません。もし自分が人間だということがわかれば、僕たち小森にうまれた者も、また同じく人間だということがわかる道理です。

 ここには人権思想の根幹をなす「先天性」と「普遍性」とが謳われている。
 人権とは、すべての人間に対して“生まれつき平等に”付与されているものであるという考えである。
 この根本理念あればこそ、人は、自らとは違い自らが理解も共感もできず自らが厭わしくさえ思う、他の人種や国籍や性別や身分や職業やセクシュアリティや犯罪歴や思想などをもつ人間たちの人権をも、進んで守らなければならないのだ。
 他人の人権の危機は、人権の根本理念そのものの危機であり、それはとりもなおさず、自分の人権の危機を意味するからである。
 自己の人権を大切にしたいからこそ、他人の人権も大切にしなければならない。
 ここでもまた、人は、自分に与えることのできるものだけを他人にも与えることができ、他人に与えることのできないものは自分にも与えることができない。

 コロナ差別が吹き荒れる今、そして国民の意思や人権を無視した政策(とも言えぬGOTOトラブル)が横行する現在、なぜ、自分が『橋のない川』を読んでいるのか、ここに来て見えた気がする。


百姓一揆
いらすとやさん、いつもお世話になっています






● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 3

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 より能率的であることを学んでください。一つのことにおいてだけではなくて、あなたが行う全てのことにおいてです。 
 そして、能率的であるためのいちばんの方法は、落ち着いて安らいだ状態でいることです。
 もし急いでいて、落ち着きを失っていたら、何事を行うにもより多くの時間がかかることになります。

 通勤列車の中でシートに腰かけて、夢中になってミステリーを読んでいる。
 駅に到着し、ドアがプシューっと開く。
 「〇〇~、〇〇~」
 うわの空で聞いていたアナウンスが、数秒たって、意識に上がってくる。
 ハッと、そこが降車駅であることに気づく。
 焦って、しおりを本に挟み、ジッパーの空いているデイバッグに投げ入れ、肩ベルトを片一方の肩だけに掛けて、ドアへと急ぐ。
 そのとたん、口の空いたままのデイバッグから、ペットボトルが落ちて車内を転がってゆく。
 ほかの乗客の注視を浴びながら追いかけていると、今度は小物入れが落ちる。
 発車ベルの響く中、二つを拾い上げて、ドアの閉まる直前に降車する。
 セーフ!

 こういった間抜けな展開が意外に多いソルティ。
 ペットボトルや小物入れが落ちない時は、降車したしばらく後に、帽子を座席や帽子掛けに忘れてきたことに気づく。
 すべては焦るがゆえの失敗・・・。

忘れ物


 実際のところ、列車のドアの空いている時間(≒停車時間)は20~30秒である。
 結構長いんである。
 少なくとも、本をゆっくり閉じて、デイバックに納め、ジッパーをしっかり閉めて、肩ひもを両肩に掛けてデイバッグを背負い、それから立ち上がって、座席を振り返って忘れ物はないかを確認し、ゆっくり歩いて列車を降りてもまだ余裕があるほど、十分に長い。
 そのことをソルティは、足をケガして松葉杖で列車移動しているときに、はっきりと知った。
 鉄道会社は当然、足腰の悪い高齢者や障害者、ベビーカーを押す若いママ&パパたちが、焦らず安全に乗降者できるほどの時間は見ているのである。
 座席で上着と靴を脱いで弁当を広げているという行楽モードならともかく、通勤モードで焦る必要などまったくない。
 
 焦りは、人を失敗に導く大きな原因の一つである。
 大事な試験のとき、車を運転しているとき、期限までに書類を作成しなければならないとき、人との待ち合わせに遅れそうなとき、やることが一杯あって何から手をつけていいかわからないとき・・・・。
 誰もが思い当たることがあろう。
 重要な場面でこそ焦りは生じるものだが、その焦りが物事の能率を下げ、持っている能力の発揮を妨げるのだから厄介である。
 焦らなければ全然問題なく片づけられることが、焦って落ち着きをなくすゆえに失敗する。
 
 そんなときに「大きく深呼吸する」というのが昔からよく言われている手であるが、より効果の高い手が、マインドフルネス瞑想(ウィッパサナ瞑想)である。
 ウィッパサナ瞑想によって、今現在生じている感覚や動きや感情や思考を観察すると、その観察するという行為自体が、人を時間から解放し、「落ち着いて安らいだ状態」にする。
 その状態で物事にあたると、心と頭脳と体がコンピュータのように最適化されて、やるべきことが明瞭に見え、淡々と進められ、その時のその人の最高に近い能力が発揮される。
 これは知っていて損はない。

 ソルティ自身の経験で言えば、ウィッパサナ瞑想をするようになってからここ数年の間、3回の大きな資格試験を受けた。
 2回は国家試験(介護福祉士、社会福祉士)、1回はケアマネ(介護支援専門員)の試験である。
 いずれの場合も、試験当日、開始直前までウィッパサナ瞑想をやっていた。
 おかげで、まったく焦ることがなかった。
 緊張はしたが、それはアスリートがよく口にする「良い緊張」であった。
 いずれも無事一発合格することができたが、たとえ合格しなかったとしても後悔はなかったであろう。
 なぜなら、その時に自分が持っていた能力は最大限発揮したという思いがあったからである。
 試験終了後、「やれるだけはやった」と素直に思えた。
  
 まったく、ソルティのような緊張しやすく焦りやすい“小物”にとって、この瞑想は福音である。



●  おっさんずラブ犯罪編 映画:『さらば友よ』(ジャン・エルマン監督)

1968年フランス、イタリア
115分

 アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソン共演のフィルム・ノワール(犯罪映画)。
 公開当時33歳のアラン・ドロンの翳りゆく美しさと、39歳のブロンソンの深まりゆく渋さとが拮抗し、いずれも主役、いずれも引き立て役となって、観る前に想像していた以上の素晴らしいタッグとなっている。
 スタイリッシュな映像、巧みな脚本、洒落たセリフも良い。
 
 クリスマスの夜に二人が大企業の金庫破りを試みる犯罪映画ではあるけれど、お間抜けなことに金庫の中は空っぽ、その上、二人して金庫室に閉じ込められるドジを踏む。
 何をやっているんだか。

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ドロン 「先輩、そろそろ上がりますか?」
ブロンソン 「いや、まだまだ」

 しかし、これが本作のミソなのであった。
 メインは金庫室の暗がりの中での二人の男の濃密な時間を描くことにあり、おそらく、このシーンが撮りたいが為にすべての設定と筋書きが作られたのだと思う。
 要は、タイトル通りに男の熱き友情がテーマであり、二人のセクシーな男優の鍛えられた裸の肉体を並べるところに狙いがある。(うまい具合に空調が壊れ、二人は服を脱がざるを得なくなるという確信犯ぶり)
 そもそも話そのものが、ブロンソン演じる傭兵が、会ったばかりのドロン演じる軍医にしつこくつきまとうシーンから始まる。
 “おっさんずラブ”っぽい。
 しかも、ドロンをだまし苦境に陥れる二人の美女はレズビアンの関係にあるようで、なんだか犯罪映画を隠れ蓑にしたLGBT映画のようである。
 
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ブロンソン 「よく頑張ったな」
ドロン 「先輩にはかないませんよ」

 2015年に『さらば友よ』と、同じフランス映画の『エマニエル夫人』(!)とをカップリングしたブルーレイ・DVDが発売されたらしい。
 なんつう組み合わせ!
 本作の“いけない”エロチシズムに目覚める人も多いのではなかろうか(笑)
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』(春日太一著)

2018年文藝春秋

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 映画史研究家・春日太一による岩下志麻へのインタビュー。
 岩下の出演した映画(一部テレビ)の代表作について、ほぼ時系列に沿って、当時を振り返っていく。
 映画撮影時の個人的な生活事情、演技上の苦労や発見、監督や共演者との様々なエピソード、それぞれの作品や役柄に対する思い入れや自己評価など、簡潔ながらもポイントを抑えたやりとりが交わされる。
 なので、本書は岩下志麻の女優としての歴史や功績をたどっているばかりでなく、岩下志麻の自分史でもあり、一人の女優が見たおよそ1960~2000年の日本映画界史であり、岩下と春日の共同作業による一個の映画評論でもある。

 インタビュアの春日の映画に関する知識や記憶も凄いが、ひとつひとつの問いに対し、客観的な視点を持って的確に、大らかに、気品をくずさず答える岩下の知性も素晴らしい。
 気の強い女、狂った女を演じて見事な女優なので、素顔もまたそれに近いデモーニッシュなところ、エキセントリックなところ――たとえば山田五十鈴とか太地喜和子とか加賀まりことか桃井かおりのような――があって、インタビュア泣かせなのではと思ったら、まったく違った。
 理知的で、穏やかで、サービス精神豊かな人なのである。
 考えてみたら、岩下志麻には旦那の篠田正浩以外の男との浮いた話がない。
 役の中で、女としてのもろもろの欲望を発散していたのかもしれない。

 インタビュアの春日は、専門的になりすぎず、ミーハーにも陥らず、かといって表面的になることもなく、絶妙なバランスで問いを発し、岩下の話を引き出している。
 ソルティのような映画好きが、まさに聞いてほしい(=知りたい)と思うポイントを外さずに、相手(岩下)に失礼にならぬ範囲で触れていくインテリジェンスが光る。
 『悪霊島』の自慰シーンは岩下自身の提案だったとか、『この子の七つのお祝いに』の増村演出とは合わなかったとか、『心中天網島』では自ら5000枚のチケット売りもしたとか、『疑惑』の桃井かおりの「あんたの顔って見ればみるほど嫌な顔しているね」はアドリブだったとか、面白いエピソードにワクワクした。

 映画とは関係ないけれど、岩下に訊いてほしかった問いがある。 
 「岩下は森茉利をどう思っていたか?」――である。
 森鴎外の娘である作家の森茉利(1903-1987)は、かつて『週刊新潮』に『ドッキリチャンネル』というエッセイを連載していた。
 その中で森は、たびたび岩下志麻を痛烈に批判していた。
 「岩下志麻は美人を鼻にかけている」、「岩下志麻は高慢ちき」、「演技もまずい」といった案配で、実のところ、批判というより悪口に近かった。
 それを読みながら、「こんなことを書かれて、岩下志麻はどう思っているのかなあ?」と、なぜかハラハラしたのである。
 二十歳の時分であったが、志麻サマのファンになりかけていたのだろう。
 

 
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