ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 娘による父親殺しの行く先は? 映画:『dot.ドット』(ジェイミー・バビット監督)

 2005年アメリカ映画。

 原題は『The Quiet(静寂)』。

 愛する父親を交通事故で失った少女ドットは、ショックから耳が聞こえなくなってしまう。孤児になったドットは、両親と住むいとこのニーナの家に引き取られる。
 ドットの静寂の周りで、事件が起こり始める。

 まず、ドット役のカミーラ・ベルが光っている。  
 ウィキによると、

カミーラ・ベルカミーラ・ベル(Camilla Belle、本名:カミーラ・ベル・ルース、Camilla Belle Routh1986 年10月2日 - )は、アメリカ合衆国女優。 2010年12月14日、米映画専門サイト Independent Criticsが発表した2010年度版の 「最も美しい顔トップ100」で1位になった。

 ということだが、実際、黒髪に陶器のような白い肌、どことなく哀しげな瞳、横顔のラインが高貴で美しい。存在感も演技力もある。いまのところメジャーな作品での主役はないようだが、これからが楽しみな女優である。

 この作品は一言で言うと、「娘による父親殺し」の物語である。
 ドットは、いとこのニーナが実の父親ポールに性的虐待を受けているのを知る。ニーナの苦しみを黙って(quietly)見ていられなくなったドットは、ついにある晩、ニーナに暴行を加えようとするポールを背後からピアノ線で絞め殺す。
 
 現象的には、ドットが殺めたのは血のつながらない義理の父であるが、これは殺意を持ちながらも実行にうつせなかった実の娘ニーナの肩代わりをしたのであり、ニーナによる父親殺しと言ってよいだろう。
 一方、失った父親との思い出の中に閉じこめられて周囲との関係を拒絶しているドットは、ニーナの父親を殺すことで、自らの心の中の父親(あるいは父という理想)を殺して思い出の殻を破って言葉を取り戻す。

 二人の娘によるそれぞれの「父親殺し」。

 これまでの映画の中で、ほとんど見られなかったテーマであろう。
 息子による父親殺しの物語は掃いて捨てるほどある。それによって、男は一人前の「男」として自立する。娘による母親殺しの物語は聞かないが、女は子供を産み自らが母親になることによって一人前の「女」となるので、特に実の母親と闘う必要がない。
 同性の親を殺す、あるいは同性の親からの束縛のくびきを打ち破り成長する。このテーマは西洋の物語の類型として馴染みである。(物騒な誤解を避けるために言うと、「殺す」とは文字通り命を奪うこと(だけ)ではなく、親を「理解する、乗り越える、同じ人として見られるようになる」という視点の変化の比喩である。)

 一方で、息子による母親殺し、娘による父親殺しは、あまり問われてこなかった。異性の親を殺す必要性が考えられなかった。必然性がなかったのであろう。
 その意味するところはなんだろうか?

 フロイト的に言えば、子供にとって異性の親との関係は、将来の自らのパートナーとの関係のリハーサルというか、依存関係の原型を造るものである。男の子は母親の胸から離れて、女の恋人の乳房に吸い付く。女の子は父親の手から離れて、男の恋人の手に抱かれる。それは、依存相手を差し替えるだけの、成長と言うにも足らない文化様式の一つである。
 だが、それによってこの社会、この異性愛社会は回ってきたし、回っているのである。

 それぞれの父親を殺したあと、ニーナとドットの二人が仲良く並んでピアノを弾く姿に、レズビアニズムの匂いを感じとったのはいきすぎだろうか。
 そう思って、ジャイミー・バビット監督についてウィキで調べてみた。

『Lの世界』シーズン4&5の監督チームに加わる。自身の長編映画『Go!Go!チアーズ』(’99)と『Itty Bitty Titty Committee』(’07)や、ドラマ『アグリー・ベティ』(’06)、『NIP/TUCK マイアミ整形外科医』(’03)、『ゴシップ・ガール』(’07)などの監督のひとりとしても知られる。14年来のパートナーで映画プロデューサーのアンドレアと、人工授精でふたりの女の子を出産。2007年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にもゲストとして招かれた。


 我ながら自分の直感が怖い。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 変換ミス 映画:『リバーワールド』(カリ・スコグランド監督)

 2003年アメリカTV映画。

 原作はアメリカのSF作家フィリップ・フォセ・ファーマーの同名の人気小説。未読だが、SF界でもっとも権威のあるヒューゴ賞に輝いているし、ストーリーのダイジェストからも相当に面白い小説と思われる。

 リバーワールドは、ネアンデルタール人から21世紀の人類、合わせて360億人(5歳以下の子供を除く)が、死んだすぐ後に復活した世界(惑星)である。宇宙飛行中に不時着してしまった主人公がこの世界の謎を解かんとする。歴史上の人物たち(例えば、マーク・トウェインと皇帝ネロ)が同時代に存在し、交流を深めたり、闘ったり・・・。というアイデアは秀逸で、機会があったら原作を読みたいものである。

 しかし、この映画は原作の名を貶めるひどい出来。
 テレビ放送用に制作されたという点を差し引いても、あまりに杜撰で、薄っぺらく、下手な演出が目立つ。
 トールキン『指輪物語』 → ピーター・ジャクソン『ロード・オブ・ザ・リング』
 松本清張『砂の器』   → 野村芳太郎『砂の器』
ほどの質の高い変換はそうそう望めないことは分かっている。
 けれど、ここまでひどいと原作者がかわいそうである。



評価: D+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 



  

● 失われた40年 本:『恍惚の人』(有吉佐和子著、新潮文庫)

120210_0552~01 この作品が最初に出版されたのは昭和47年(1972年)。
 なんと40年前である。
 今の高齢者が元気で働き盛りで、日本経済も財政も安定していて、バブル到来もその破綻も予期してなくて、阪神大震災も東日本大震災も知らず、消費税も導入されていない。オイルショックや公害問題などいろいろ事件はあれど、今から見れば「豊かな、牧歌的な」時代。
 そのときに、有吉佐和子は、医療や保健衛生や食生活の向上の結果として訪れた寿ぐべき長命の影に次第に姿を現わしつつあった老いの問題、介護の問題について問題提起し、来たるべき超高齢社会について警鐘を鳴らしたのであった。
 慧眼というべきだろう。

 それから10年後、昭和57年に書かれた森幹郎氏の本書の解説の中に、次のような文章がある。 


 今度、十年ぶりに本書を読み返した。まず強く感じたのは、内容的にはちっとも古くなっていないということである。痴呆の老人をめぐる問題はそのころより社会的な深刻さを増していると言ってもよい。その意味で、本書は、ますます今日性を強めていると言えよう。

 
  驚くことに、30年たった今(2012年)も上記の解説はそのまま生きている。(なんという寿命の長さ!)

 もちろん、介護の社会化を目指す介護保険の導入(2000年)という大きな転換はあった。
 日本全国に高齢者のための施設が増え、介護福祉士をはじめヘルパーも増えた。
 最新の科学的知識や蓄積された経験をもとに、介護に関する知見や技術も日進月歩で向上している。
 人権に関する意識、男女平等に関する意識も高まった。
 全般的に見れば、日本の介護事情はすこぶる良くなったと言っていいだろう。

 一方で、少子高齢化に歯止めがかかる気配もなく、年金はすでに破綻している。
 バブルの頃の羽振りの良さを伝えるエピソードがホラ話に聞こえるほど、経済は冷えきっている。国債は膨らむばかり。そのうえに、東日本大震災である。
 福祉予算をどう捻出していくか、高齢者をどう養っていくか、前途はまったく明るくない。

 本当に日本人はいったいこの40年間何をしていたのだろう?


 長年連れ添った妻の死と共にボケが始まり徘徊するようになった義父・茂造の介護に右往左往する昭子は、困じ果てて役所の老人福祉担当者と会う。
 しかし、期待していた老人ホームへの入所は、圧倒的な施設不足で、まったく見込みがない。昭子は茫然とする。 


 はっきり分かったのは、今の日本が老人福祉では非常に遅れていて、人口の老齢化に見合う対策は、まだ何もとられていないということだけだった。もともと老人は、希望とも建設とも無縁な存在なのかもしれない。が。しかし、長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老耄が待ち受けているとしたら、では人間はまったく何のために生きたことになるのだろう。
 

  もう一度言う。
 40年前の文章である。

 この作品が古くならないのは、しかし、上記の文章の前半に指摘されているように、「人口の老齢化に見合う対策」が取られていないという政治上、財政上、制度上の無策、怠惰、いい加減、福祉の欠如の体質が、40年前の日本および日本人と、現在の私たちとが、いささかも変わっていないからだけではない。
 後半部がポイントである。

 すべからく人間は老いて弱って死ぬ。
 結婚しようが、子供を作ろうが、仕事で成功しようが、金持ちになろうが、有名になろうが、ゴールは誰でも「老、病、死」である。何もこの世から持っていくことはできない。
 いったい何のために生きているんだろう?

 入居金ウン千万円、きれいで立派な介護付き老人ホームのよく陽のあたるリビングで、車椅子に乗った昼食後の老人たちが、何もすることがない手持ち無沙汰の折に、ふとこの問いが頭をかすめる限り、この作品が古くなることはないだろう。

 

●  映画:『ターネーション』(ジョナサン・カウエット監督)

 2003年アメリカ。

 いったん見始めた映画を途中で切り上げるのは、なかなか決断の要るものだ。
 「これから面白くなってくるかもしれない」「ここまで見たのだから、途中で止めたらもったいない」「最後まで観なければ批評する資格がない」・・・・など、見続けるための理由が頭をよぎってくる。

 「カンヌが熱狂、サンダンスが絶賛、アメリカ映画評論家支持率92%」というすこぶる評価の高い=ゆえに観る前の期待も高かったこの作品について、まさか途中で退屈するとは思わなかった。しかも、主人公の青年は自分と同じセクシャルマイノリティなのに・・・。

 ターネーション(TARNATION)は「天罰、神の呪い」ということらしいが、別に「酷評」という意味もある。カウエット監督、あらかじめ予防線を張っておいたのか。大衆にこんなにも熱く受け入れられるとは思っていなかったのだろう。
 そう思うのも無理はない。なにしろ、監督自身の壮絶な半生を、監督自ら出演しドキュメンタリータッチで描いた、まったくの個人史だから。

 このような「自分語り」の映画は、日本でも90年代中頃から流行りだしたように記憶している。だいたいが、映画学校で卒業制作を課された学生が「自分をテーマにしてみました」みたいなノリで作られて、その多くは凡庸な作品で終わるのだろうが、中には題材の新鮮さや切り込みの鋭さとで評判になったものもある。覚えているもので『ファザーレス』(茂野良弥監督、1999年公開)がある。

 近代の芸術家の表現とは、どうにもしようのない生きづらさを抱えている自己の魂の咆哮であり、遺書であり、死なないための自己表現である。とりわけ、デビュー作にその傾向が濃厚に情熱をもって表れる。映画ではないが、三島由紀夫『仮面の告白』とか村上龍『限りなく透明に近いブルー』とか。(だから、作家はデビュー作を越えられないと言われる。)
 つまるところ、いかなる芸術作品も「自分語り」に過ぎないのだが、それを技術や表現スタイルで調理し、ある程度普遍的な意味を持つところまで練り上げていくのが、芸術表現というものだろう。

 『ターネーション』を観ていて思わず呟いてしまったのは、「なんで見ず知らずのあんたの人生を見せられなければならないのか? 他人の人生になんか興味ねえよ。」
 が、そのあとですぐに気がついた。自分がいつも「好きこのんで」映画で観ているのは、まさに他人の人生そのものではないか。他人の人生に興味がなければ、とても映画なんか観られるわけがない。ドラマなんか観られるわけがない。
 そうなのだ。自分はジョナサン・カウエットという青年の人生に興味がないわけではない。それは、一風変わった刺激的な出来事の連続であるし、カウエット自身が大変な美少年→ハンサムだというビジュアルの楽しみもある。
 興味がないのは、「自分語り」そのものなのだ。それは、酒場で目の前の男が滔々と「自分語り」を始めたのにつきあわされていると思えばいい。
 その男に恋しているとか、何か下心があるとか、自分と同じような境遇で共感できるとかというのでなければ、とてもそのようなナルシシズムにつきあっていられないってのが本音だろう。
 
 『ターネーション』が多くの観客(と批評家)に迎えられたのは、なぜだろう?
 プロデュースしたガス・ヴァ・サント(『エレファント』『ミルク』)、ジョン・キャメロン・ミッチェル(『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』)の後光か。
 ジョナサン・カウエットのルックスか。(これはバカにできない。ジョナサンがもし醜かったら、この作品はまったく鑑賞に堪えないだろう)
 まさか観客(と批評家)がジョナサンの半生に共感したとも思えないが・・・。
 となると、自分自身を手術台に乗せて、自分自身がメスを握り、徹底的に自分と家族を解剖した、その勇気と大胆さと表現することへの飽くなき情熱ゆえか。
 ああ、そうか。技術とスタイルを追うことに躍起になって活力を失った映画界への覚醒の一発になったのかもしれない。

 カウエット監督のその後の動向が入ってこないのが気になるところである。



評価:C-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」        
         ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」        
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● アメリカ映画に見る成熟の証 映画:『リトル・チルドレン』(トッド・フィールド監督)

 2006年アメリカ映画。

 国の成熟度というのは、その国で作られた映画の質にもっとも敏感にあらわれるのではないか。
 実際は文学の質なのかもしれないが、小説はほとんど読まないので何とも言えない。
 ただ一般に、映画の方が文学より大衆的=興業的であることが期待されるので、ヒットした映画を見れば、その国の大衆が達している心境のようなものを探ることができる。大衆的ならテレビこそとも思うが、テレビはどの国においても一様に下劣である。
 もっとも、なにを持って「成熟」というかは、意見の分かれるところであるが・・・。

 アメリカ人というのは、基本的に単純でわかりやすい世界観を持っている。一言で言うなら、「二項対立。自分は正しい。」
 善と悪、正義と不正、光と闇、勝者と敗者という二項対立の世界の中で、自分は常に「善であり、正義であり、光の側に組し、勝者である」という根拠なしの確信を持っている。否、持っているだけでは足りない。その確信をバネに、異なる価値観を持つ他の国の人々を教導し、洗脳し、改宗させる使命があると思っている。それに歯向かう敵を攻撃し、支配する権利があると思っている。まことにお目出度い国民である。
 敵と目されるのは、時代によって替わる。インディアンであったり、ソビエトであったり、共産主義者であったり、テロリストであったり、悪の枢軸であったり・・・。それはまるで「自分は正しい」というアイデンティティを保つために、二項対立の相手、つまり敵を必要としているかのようである。
 この国民性の根底にあるのは、むろん、キリスト教であろう。すなわち、神と悪魔、天国と地獄。そして、伝道することを使命とするメシアニズム。

 キリスト教を信仰する国々の中で、なぜアメリカだけがこのように単純な世界観を21世紀まで保ち続け得たのであろうか。
 それはアメリカが対外戦争に負けたことがなく、アメリカ本土が戦場になったことがないことによるのかもしれない。
 喧嘩に負けたことのないお山の大将。

 伝統的にアメリカ映画(ハリウッド映画)もその世界観を反映し、基本的に、明るく、前向きで、単純で、わかりやすい。「ダークサイド」なんて言葉を臆面もなく使っちゃうのは、アメリカ映画だけである。

 1999年公開の『アメリカン・ビューティ』と『マグノリア』を観たとき、「あっ、アメリカ人も変わってきたなあ~」と思った。これまでのアメリカ映画、オスカー作品にはない深さ、複雑さ、苦さが感じられた。これらの作品は、より複雑で神意のはかりがたい世界の様相というものに触れている。そこでは、自分のいる位置こそが世界の中心であるという自信も驕りも錯覚もない。

 2001年の貿易センタービルの倒壊以降、アメリカ国民はブッシュに先導されて、本来の「二項対立。自分は正しい」をほとんど強迫症的執拗さで主張し、聖戦へと突入した。
 ゆくりもなくそれは、大義なき戦いとなり、政治的かけひきとなり、非人道的な侵略に墜したが、がむしゃらな攻撃に傾斜していくアメリカ人の有様を見ていると、本当に恐れているのは敵ではなく、「自分は正しい」というアイデンティティの崩壊なのではないかと思われた。

 一方、映画人たちはより冷静に事態を見つめていた。
 もはや、現代では、二項対立のわかりやすい世界観など無用である。というよりむしろ、それこそが世界にとって有害である。
 『クラッシュ』(2004)、『バベル』(2006)、そして『ダークナイト』(2008)。
 これらの作品は、明らかに伝統的なアメリカ人の世界観に楔を打ち込むものであった。

 『リトル・チルドレン』もまた、この系列に連なる良作である。
 登場人物の誰も、善人でもなく、悪人でもなく、ただ欲と弱さを抱える人間であるに過ぎない。
 そんな大人たちが、なんてことのない日常生活の中で、ふれあい、すれ違い、愛し合い、憎み合い、現実のやりきれなさに懊悩し、ひとときの夢を見る。 
 複数の人物のリアリティのある心理と行動が、お互いの知らぬところで連関し合って、表にあらわれない因果の網を紡いでいく。そして、これ以上なく緊張の高まった最後の瞬間に、その網がつと人々の頭上に降りてきて、それぞれが落ち着くべきところに落ち着いていく。そのカタルシスが心地よい。

 現象を深く見たとき、世界は複雑で多様性に満ちており、遠く離れて見える事象同士の符合、連関、響き合いがもたらす物事のなりゆきは、人の浅はかな思惑をはるかに超越している。それを「神の見えざる手(配剤)」とか「神意はかりがたし」と呟いてもいいのだが、いくつもの系で同時多発的に起こる原因と結果の連鎖の空隙に、不意に訪れる癒しの一瞬を「恩寵」と呼んでもいいのだが、やはり二項対立の一方である神の名は出したくない。

 縁起と因縁、そして慈悲。
 『リトル・チルドレン』で観る者が感得するのは、これである。
 
 


評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」 
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
   


 
 

● 本:『くじけないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川SSC新書)

くじけないこと こういうタイトルの本を書店で手に取り買ってしまったのは、自分が今まさに「くじけ」そうになっているからである。
 「何に?」と言えば、現在通っているホームヘルパー2級を取るための介護の学校というかカリキュラムにである。


 初めの頃は、何十年ぶりかの学校生活にワクワクし、はじめて知る介護の世界にも、世代の異なる様々なバックグラウンドを持つクラスメートにも新鮮な思いを感じ、そこそこ張り切って通っていたのだが、だんだんしんどくなってきた。


 原因の一つは、体力・気力の低下である。
 6時間同じ教室に閉じ込められて机に座っていること(もちろん休み時間はある)が、これほどしんどいとは思わなかった。よく中学・高校時代は来る日も来る日もこれをやっていたなあと感心する。その上、放課後には部活動なんかもやっていたのだから、元気がありあまっていたのだろう。
 当初は、授業がすんだら週二回はジムとプールに通って体力づくりを、週一回はボランティアを、などと目論んでいたのだが、ひと月もせずに挫折してしまった。
 とにかく、疲れるのである。
 頭はぼうっとして授業がなかなか吸収できないは、目は老眼入ってきてしょぼしょぼするは、肩は凝るは、腰は痛むは、風邪はひくは、満身創痍である。夜になると、両足にびっしょり汗をかいて夜中に起きてしまう。朝目覚めてもすっきりしない。どころか寝る前より疲れを感じている。更年期障害なのかもしれない。
 年を取ることのしんどさをまさに自分の体で学んでいる。

 もう一つは、集団生活の息苦しさ、うざったさである。
 もともと集団生活は苦手だったのだが、どうも忘れていたらしい(苦笑)。
 自分と同年代が半分、自分より若いのが半分くらいのクラスであるが、若者のノリについていけない。ついていきたいとも思わないし、ついていかなければいけないわけでもないが、授業中の私語はあたりまえ、実技でのおふざけはあたりまえ(ふざけすぎて設備の一部を壊したりする)、まるで中学校からそのままやって来たような感じなのである。「男っていつまでたっても子供?」なんて目を細めているレベルじゃない。
 見ているとどうも、今の30代あたりを境目に授業態度が変化しているような気がする。確かに40代の自分の学生時代はまだ先生の力が効いていて、授業中は簡単に私語できない空気があった。今の先生は本当にたいへんだろうなあ~と思う。
 小中学校とは違って、誰に強制されたではなく、自分から望んで介護を学びに来ているのだから(就職につながる死活問題なのだから)ちょっとは真面目に学べばいいのに・・・というのは通用しない。真面目とか真剣であることが「カッコ悪い」という風潮があるようだ。
 おそらく、彼らが生まれた頃から「お笑い」ばかりになってしまったテレビの影響が強いのだろう。何かにつけ冗談を言わなければならない、ウケなければならない、沈黙に耐えられないというある種の強迫観念に支配されているかのように思われる。
 一方で、いわゆる「空気を読む(KY)力」はなるほどたいしたものである。周囲の状況や雰囲気をとっさに読んで、そこに自分を合わせていくのがうまい。孤立しないように、浮かないように気を使う。

 こういった力学が作用している教室の中では、本当に重い悩みを抱えている人やマイノリティは生きづらいだろうなあ~と推測できる。いや、実際には、誰もが何らかの悩みや不安を持っているはずなのだが、そうした他人の暗さや重さや弱さと向き合うスキルというか根性というか耐性を欠いているような気がする。それは、逆に言うと、運命のいたずらで自分がもしそういう立場になったとき、非常に弱いということだ。自分自身の重さや暗さと向き合うことができないし、周囲を信じ助けを求めることもできないからだ。
 そう言えば、ちょっと前にNHK教育テレビで「一番の親友には自分の悩みを打ち明けられない」という十代の声を聴いた。むしろ、顔も名前も知らないネット上の相手のほうが安心して何でも相談できるのだという。
 老人介護なんて、つまるところ人の弱さ・暗さ・重さと向き合う仕事だと思うが、大丈夫なんだろうか?

 とは言うものの、そうした息苦しさ、うざったさを感じてしまうのは、自分もその力学の中に埋没している証拠である。私語を注意するでもなく、おふざけをたしなめるでもなく、クラスの中で「どこまで自分を出すか」考えている自分がいる。
 やれやれ・・・。 


 くじけることは、自分の考えたこと、あるいは思い込みにしがみついた瞬間に起こります。なぜなら、物事はもともと思い通りにいかないものだからです。
 では、自分の思考から、どのように離れればいいのでしょう。
 思いつめて出した結論ではなく、客観的に自分の立場や考え方を捉えてみることです。そうすると、今まで見えていなかった解決策が見つかったりするものです。

 この世で何が完璧ですか。変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。
 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。これが、くじけない方法です。


 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。


 すべてが無常であることを知り、楽しみがその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。


 キーワードはやはり「無常」。
 固定的なものは一つもなく、すべてが変化する。
 うまく成し遂げたところで、それもまた崩れる。
 失敗したところで、それもまた過ぎ去る。
 人との出会いも然り。

 考えすぎるからくじけそうになるのだろう。
 結果にこだわるから不安になるのだろう。
 自我を張るから疲れるのだろう。
 目の前のことをできる範囲で、結果に頓着せず、できれば楽しんで、片付けていくよりない。

 

● 世界よ、驚け!浮世絵:『歌川国芳展』(六本木、森アーツセンター)

120126_2328~01 国芳の没後150年にあたって開催された記念展。
 
 とにかく「凄い!」
 「凄い!」の一言に尽きる。

 ゴーギャンもびっくりの色彩感覚。
 ミケランジェロものけぞる大胆な構図。
 ジョットーも嫉妬する愛敬のある表情や仕草の数々。
 ダ・ヴィンチもおののく緻密で正確なデッサン力。
 レンブラントも真っ青の多作ぶり。

 江戸時代にこれほどの画家が本邦にいたことを誇りに思う。
 西洋絵画に伍して遜色ない。どころか、迫力(生命力)ではキリスト教圏の画家を凌駕している。

 魚や動物の絵がどれも見事なのだが、国芳が好きだったという猫の絵が実によく生態を観察していて、猫のとぼけた感じを描き出していて微笑ましい。

 1500円払って、絶対に損はない。

 

●  映画:『ヴェネツィア・コード』(ティム・ディスニー監督)

 2004年ルクセンブルク・オランダ・スペイン・イギリス・アメリカ・イタリア制作。

giorgione_tempesta01 原題は『TEMPESTA(嵐)』。
 ルネッサンスの巨匠ジョルジョーネの代表作にして、ヴェネツィア(ベニス)はアカデミア美術館所蔵の西洋絵画史上最も議論かまびすしい作品。
 この作品の盗難をめぐって、水の都ベニスを舞台に繰り広げられる連続殺人と贋作事件と運命的な恋とをミステリー仕立てで描いた映画である。

 まず、画面の美しさを讃えなければなるまい。
 それもそのはず。ベニス&世界的名画、である。美しくなければウソである。美しくなければ撮る意味がない。
 しかも、美しいだけでなく、ベニスという古都が持つ類いまれなる魅力―張り巡らされた水路、迷路のように入り組んだ街路、靴音の響く石畳、噴水のある広場、そこかしこに息づく暗がり、いくつもの瀟洒な橋、ゴンドラ、海に浮かぶ蜃気楼のごとき鐘楼、そして、マントと仮面の彩りとが旅人を中世にタイムスリップさせるカーニバル。こうした道具立てを上手に使って、ミステリーと恋という二つの物語をからませながら盛り上げていく。たいした手腕と感心する。
 そう、真の主役はベニスと言えるかもしれない。

 となると、やはり持ち出したくなるのは、ヴィスコンティ『ベニスに死す』である。
 世界的に有名な作曲家が旅先のベニスで出会った美少年タジオの虜となり、街を襲うコレラもものともせず少年の追っかけを敢行。ついには罹患し、浜辺で少年を眺めながら息絶えていく。テーマは、自然の「美」の前に屈する芸術、「愛」の前に投げ出す人生。

 『ヴェネツィア・コード』もまた、腕のいい絵画鑑定士(元画家)が出張先のベニスで出会った美女の虜となり、殺人犯の濡れ衣を着せられながらも危ない橋を渡り続け、女のためにまっとうな人生から転落し、最後には命を落としてしまう。彼が選んだのも芸術より人生より「愛」であった。『ベニスに死す』の高踏的な文学性(原作がトーマス・マンだから当然だが)とくらべると、センセーショナルで俗っぽくはあるが、狙うところは一緒であろう。

 人生の成功者となるよりも破滅的な愛を、平凡な日常の気の遠くなるような繰り返しよりもつかの間の甘美なる陶酔を。そんな選択を人にさせてしまう、そんな心の奥の願望を表に引っ張り出してしまう力が、ベニスという街にはある。
 それこそがベニス最大の謎であろう。

 ミステリーとしては底が割れていて、最後に明かされる真犯人に驚きもしなければ、盗まれた絵画をめぐる謎に『ダヴィンチ・コード』のような奇想天外な解釈が用意されているわけではない。
 そこはいいのだが・・・・。

 人生が破滅しても悔いはないと主役の鑑定士に思わせるほどの「運命の女」とやらが、ジョルジョーネの『嵐』に描かれている女はもとより、『ベニスに死す』のタジオの魅力にもまったく及んでいないのが、残念至極である。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」  
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

●  三国連太郎、礼讃! 映画:『飢餓海峡』(内田吐夢監督)

 1964年東映作品。

 昭和30年代生まれの自分は、三国連太郎と言えばTBSドラマ『赤い運命』の島崎を思い出す。
 当時人気絶頂の山口百恵の父親役(実際には血はつながっていないことがあとから判明する)で前科のある殺人犯を、三国連太郎は素か芝居か分からないほどの入魂の演技で表現し、自分のような百恵ちゃん目当ての視聴者をさえ毎回惹きつけてくれた。
 三国の演じる島崎は、どう見てもうさんくさい日陰者で、カッとしたら何をするかわからないような暴力性と、常に周囲に怯えている小動物のような神経質な一面と、人を絶対に信用しない疑り深さと、自分が得することにおいては俊敏に器用に立ち回るずるがしこさとを兼ね備えた、複雑なキャラクターであった。そのうえ三国は、ドラマ内では説明されることのなかった島崎の悲惨な生い立ちを暗い冷めた目つきと粗暴なふるまいとで十二分に感じさせ、百恵ちゃん演じる娘・直子の献身的な愛情によって次第に心が揺れ動き、自らも愛に目覚めていく過程を全く不自然なく演じきった。
 おそらく日本のテレビドラマ史上、最高の犯罪者役だと思う。三国の数多い出演作の中でも代表作と言っていいのではないだろうか。

 今、『飢餓海峡』の三国を見てはじめて、「ああ、島崎の原型はこの映画の犬養太吉だったんだなあ。『赤い運命』を観ていた大人の視聴者の多くは、きっと島崎の影に三国連太郎を媒介として犬養の姿を見ていたのだろうなあ」と納得する。
 犬養もまた想像を絶する悲惨な過去の犠牲者であり、殺人事件の加害者であり、遅れてやってきた愛を素直に信じ受けとることのできない不器用な男である。
 ただし、役の完成度から言えば、島崎の方が上を行くと思う。

 犬養役は、脚本のせいもあろうが、行動の背景にある動機がいまいち理解できない部分がある。そもそも行動そのもの(犬養が結局何をしたのか)が謎のまま終了してしまうのだから、無理もないのだが・・・。 
 犬養が一緒に逃亡した仲間二人を海の上で殺害したのかどうかは重要なポイントである。そこが郷里の母親に仕送りを欠かさない孝行息子である彼が、悪に手を染めるか否かの分かれ目だったのだから。
 もし、捕まった犬養(=樽見)が自供したとおり、仲間殺しが正当防衛であったのならば、次のポイントは残された金を持って船から逃げるところになる。犬養という主人公が、もはや引き返せない道を選んでいく、その心理の変化を見せるドラマ的に最も重要な「おいしい」箇所を、あえて謎のままにして観る者に示さないのは、どうなのだろう?
 すでに一度意図的に殺人を犯している手で後年家を訪ねてきた八重を殺めたのか。それとも、盗みこそはしたけれど故意に人を殺めたことはなく、八重を殺したのが犬養の初めての殺人なのか。その違いは大きいと思う。
 演じる三国の解釈もどちらともとれるような演じ方であった。
 観る者の想像におまかせしますってことか?
 犬養太吉という主人公のキャラクター設定がもともとあいまいで、三国も後年の島崎を演じた時ほどの自由な表現を監督からまかされなかったのかもしれない。

 その点をのぞけば、良くできた面白い映画である。
 伴淳三郎、高倉健、藤田進、左幸子、加藤嘉。どの役者も渋くて、存在感が抜群で素晴らしい。
 良い役者には「暗さ」が必須であるとつくづく思う。



評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 
 
  
 

● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

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