ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ハングオーバー 最後の反省会』(トッド・フィリップス監督)

2013年アメリカ映画。

 ハングオーバー・シリーズの第3作。
 頼りがいある冷静なフィル(=ブラッドレイ・クーパー)、生真面目でパニクりやすいスチュ(=エド・ヘルムズ)、イケメンで友達思いのダグ(=ジャスティン・バーサ)、そして‘イッちゃってる’アラン(=ザック・ガリフィアナキス)の親友4人が、毎度毎度面倒な事件に巻き込まれ、次々と襲い来るハプニングにきりきり舞いし、命の危険にさらされながら、いちかばちかの度胸と厚い友情と運の良さとで苦難を乗り越えるドタバタコメディ。
 本シリーズでザック・ガリフィアナキス同様、吹っ切れた‘怪演’により人気に火がついたレスリー・チャウ(=ケン・チョン)も一層パワーアップして舞い戻ってきた。
 脚本とキャラクターの面白さで、3匹目のドジョウとは言え、ドタバタコメディとしてはまずまずの出来。期待を裏切らない笑いが待っている。
 でも、4作目は要らないな。
 これでオーバーで正解。


評価:C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

      「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 映画:『異人たちの棲む館』(フェルザン・オズベテク監督)

2012年イタリア映画。

 原題はMagnifica Presenza(素晴らしき住人)

 役者になることを夢見るピエトロは、親戚のマリアを頼ってローマにやって来た。昼間はオーディション、夜はパン屋でバイトの日々。ゲイである。一人暮らしを始めるべく古いアパートに移り住むが、そこには戦時中に活躍した劇団の幽霊たちが棲んでいた。ピエトロと幽霊たちの奇妙な同居生活が始まる。

 オカルトコメディといったところだが、幽霊たちの存在(?)の謎が解明される最後に、シリアスで物哀しいドラマが待っている。
 戦時の芸術の脆さを描いた林海象の『夢見るように眠りたい』(1986年)や、同じく正体不明の役者たちが現実世界をかき回すルイジ・ピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』を思い出した。こういう類いの作品は基本好きである。
 ストーリーに関してはもう一押し欲しかった気もする。
 幽霊たちの謎は解けるが、主人公ピエトロがこの不思議な邂逅によってどう変わったのかが描かれない。都会のストレスに病んで幻想を抱くようになった(と周囲にはうつる)ナイーブな青年のままで終わってしまう。宙ぶらりんな終わり方という印象を受ける。
 だが、昔日の大監督フェデリコ・フェリーニの作品(たとえば『そして船は行く』とか)を持ち出すまでもなく、過酷で退屈な‘現実’から逃避し、甘美でやさしい‘幻想と夢’のうちに住み続けることが、イタリア的なハッピー・エンディングなのかもしれない。戦後イタリアでヴィットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニなどのネオレアリズモ(新現実主義)の傑作群が生まれたのは、逆に言うと、本来の国民性の基盤は反レアリズモということなのだろう。効率と競争、スピードと消費の資本主義社会とうまく折り合って‘明るく前向きに生きる’というアメリカンな価値観は、イタリア人とは到底なじまないのだろう。

1986年、マクドナルドがイタリアに進出し、ローマのスペイン広場に1号店を開いたが、アメリカ資本のファストフード店に対する反発は大きく、この際に起こった反対運動が、伝統的な食文化を評価する「スローフード」運動に発展した。やがて食文化のみでなく、生活様式全般やまちづくりを見直す動きに広がった。(ウィキペディア「スローライフ」より抜粋)
 


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
 
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● クールでドライ 本:『迷いと確信 大乗仏教からテーラワーダ仏教へ』(山折哲雄、アルボムッレ・スマナサーラ対談)

迷いと確信2007年サンガ刊行。

 日本でテーラワーダ仏教を教え続けて20年以上になるスマナサーラ長老は、これまでにいろいろな著名文化人と対談を重ねている。
 ざっと思いつくままに上げてみるだけでも、
① 玄侑宗久(臨済宗僧侶、作家)
② 立松和平(作家)
③ 鈴木秀子(聖心会シスター、評論家)
④ 南直哉(曹洞宗僧侶)
⑤ 有田秀穂(脳生理学者、医師)
⑥ 夢枕獏(作家)
⑦ 香山リカ(精神科医、評論家)
⑧ 瀬戸内寂聴(天台宗僧侶、作家)
⑨ 養老孟司(解剖学者)
⑩ 小飼弾(プログラマー、実業家)
 錚々たる顔ぶれである。
 自分がもっとも面白く読んだのは、④南直哉との対談『出家の覚悟』と⑩小飼弾との対談『働かざるもの、飢えるべからず』(ともにサンガ発行)である。
 対談相手によって、話されるテーマや雰囲気や話の難易度はずいぶん異なる。
 一般に、僧職相手の場合がもっとも話の密度が濃く、仏教用語が飛びかうためもあって難しく、丁々発止のやりとりが炸裂している印象がある。どうしても、大乗仏教V.S.テーラワーダ仏教の構造になってしまうし、無常や無明や輪廻転生や悟りなど仏教の真髄に触れる対話になってくるから、そこは乗る船は違えども同じ仏弟子同士、切るか切られるかの真剣勝負である。読者はそこに面白みを感じ、かつ学ぶわけである。

 宗教学者として著名な山折哲雄(父親が浄土真宗本願寺派の僧侶であったらしい)との充実した対話が楽しめるこの本もまた、ブッダその人や仏法に関わる話題はむろんのこと、日本仏教の歴史や現状、現代日本社会の諸問題、仏教的な見方やライフスタイルが日本人の生死にどう役立ってくるか・・・といったことを縦横に語り合っていて興味はつきない。
 特に「仏教カウンセリングの実践」と題した第三章において、①‘妄想ループ’が人の苦しみをつくり出していること、②それは認識の欠陥(=無明)によって起こること、③それを断ち切るためには観察(ヴィパッサナー瞑想)が有効であること、をまことにシンプルに語って、全編中もっとも対話--というか言葉の真の意味での‘問答’――が白熱し、ページをくくる手が震える。いわば、この本のキモである。
山折:    無明はどこから来るのですか。
スマナサーラ: どこからも来ません。
山折:         人間であれば、必ず無明ですか。
スマナサーラ:  「生命であれば」無明です。
山折:         存在それ自体が無明であると。
                   では、存在をそのままの形にしている限り、悟れないことになる。
スマナサーラ:  存在は正当化すると悟れません。  

 上記のすべての対談において共通して言えるのだが、スマナサーラ長老の語りの論理的なことにはほとほと感心する。
 これは、ギリシア論理学と並び称される強靭な論理学の歴史と体系を誇るインド文化圏(スリランカ)に長老が生まれ育ったことに由来するのだろう。元来、理知的で科学的な頭脳の持ち主(理系)でもあるのだろう。その上で、客観的に事実に基づいて観察することを重視するテーラワーダ仏教のマスターなのだから、これは本邦のちょっとやそっとの学者や評論家では敵うところではない。
 上記のどの対談を読んでも、スマナ長老の語りが圧倒的に明晰で論理的で、事実と事実でないものを伝えるときの言葉の配慮が行き届き、十二分にクリティカルシンキングおよび弁論のトレーニングが為されているのが感じられるのにくらべ、日本人の対談相手は全般、情緒的で直感的で、どこまでが実際のデータ(テキストや統計など)にもとづいた意見(事実)で、どこからが伝聞や憶測で、どこからが本人の体験や考えなのかの区別があいまいである。「そのときそのときの気分で思いついたことを話している」といった印象すら受ける。
 日本語の特質のせいでないことはもはや明らかである。
 スマナ長老のセリフのはしばしにそうした特徴は伺われる。
○ その場合はデータがないと研究になりません。
○ 論理的にはその可能性があったといえます。しかし、それにはデータを出して調べなければならない。
○ 私の個人的な経験で言えば、できない人の方が少ないです。
○ どうやって死後を言えるんでしょうか。仏教は厳密に論理的な世界です。過去世は歴史だから言えるんです。来世はまだ現象化していないから。言えるはずがありません。
○ それはインドで書かれた経典でないから、私は勉強していないのでわからないんです。
○ それは日本人の問題であって、それに私が答える必要はないと思います。
○ 山折:阿難尊者の優しい穏やかな表情というのは、わが国の平安時代から鎌倉時代にかけての代表的な釈迦仏とか阿弥陀如来仏とか大日如来と非常によく似ていると言っていいかもしれない。その点では単に、美男におわす、だけではないのではないか。
 スマナサーラ:遺伝的に言えば、顔、形はお釈迦様に似ていないとだめです。兄弟ですから。
 まったくクールでドライである。(ビールの宣伝か)

 さて、二日間にわたる対談の最後に山折はこう慨歎する。
 スマナサーラさんのお話を伺って、つくづく思ったことが一つだけあるんです。それは、同じ仏教といいながら、テーラワーダ仏教の伝統というのは、一種の「確信の仏教」、つまりブッダの生き方を確信する人々の仏教だ、ということです。それに対して大乗仏教とは、誤解を招きやすい言い方になりますが、「迷いの仏教」ではなかったのかと。「確信の仏教」対「迷いの仏教」。これがテーラワーダ仏教と日本の仏教の大きな違いではないかということです。
 今まさに日本における仏教というのは、この「迷いの仏教」の伝統の中で迷いに迷っているという感じがします。とはいっても、それは必ずしも悪いことじゃないんです。ただ、その重点の置き方は大きく違っている。人間生きるか死ぬかという問題についても、テーラワーダ仏教の側からは、つねに確信する者の声や響きが聞こえてくる。だからこそまさにテーラワーダ仏教なのでしょう。(ソルティ注:テーラワーダとは「長老」の意) これに対して大乗仏教というのは、常に大衆の側に立って考え続けてきた。迷わざるを得ないわけです。その究極の状態に日本の仏教はきているのかもしれない。

 この潔さは、山折氏の学者としての、あるいは一人の人間としての謙虚さや柔軟性を十二分に示していよう。
 と同時に、氏が大乗仏教の研究者ではあっても僧侶ではないところにも拠るのかもしれない。
 いずれにせよ、パラダイムを変える力をもつ大胆にして鋭敏な洞察である。



 





● ソウルメイト 映画:『ジェイン・エア』(フランコ・ゼフィレッリ監督)

1996年フランス、イタリア、イギリス、アメリカ合同制作。

 シャーロッテ・ブロンテ(1816-1855)原作の英国上流社会‘かいま見’小説。
 と言うとまるで「家政婦は見た」みたいだが、貴族の館に勤めることになる主役のジェイン(=シャルロット・ゲンズブル)の職業は家庭教師である。そして、市原悦子と派遣先の主人が恋に陥ることはまずないが、ジェインは風変わりな館の主人であるロチェスター(=ウィリアム・ハート)と恋に陥る。
 原作発表当時(ヴィクトリア朝)は、この女主人公の造型は「これまでにないもの」として世間に衝撃を与え、多大な反響を呼んだらしい。家庭教師として自立し、主人と対等に会話し、最後には身分を越えた恋を貫いて、火災で障害をおったロチェスターのもとに走るジェインの姿は、当時としては異色だった。また、ジェインは美人ではない。これも当時の小説としてはあまりないことだった。フェミニズムのはしりと言えるのかもしれない。(フェミニスト=不美人という意味ではない、念のため。)
 だが、いま我々がこの小説を読み、この映画を観るときに、こういったことはほとんど関係ない。ジェインのような女主人公はいたるところに見つけることができよう。ジェインの言動や決断に新鮮な衝撃を受ける現代人はいないだろう。
 それでもなぜこの小説がいまもかく読み継がれ、これまでに4回も映画化されるほど人々の心を捉えているのか。
 それは一つには最初に書いた英国上流社会‘かいま見’の面白さである。
 世界中のどこにもない英国貴族社会独特の伝統、風習、しきたり、豪華、優雅、邸宅、庭園、マナー、ウィットや皮肉に満ちた会話、装束、骨董品、つやびかりする家具調度・・・・。といった現代一般庶民の手の届かない世界を‘かいま見’る楽しみ。監督のフランコ・ゼフィレッリは、あの貴族監督ヴィスコンティの助手をつとめていただけあって本物志向である。安心して‘かいま見’の快楽に身を投じられる。
 いま一つの理由は、言うまでもなく、恋愛小説としての「ジェイン・エア」である。
 ジェインとロチェスターの間には、身分の違いだけでなく、いくつもの障壁が立ちはだかっていた。一度はあきらめた恋であった。その障壁を乗り越えて--ご都合主義の部分もあることは否めないが--ついには結ばれる二人を見ていると、「赤い糸」とか「魂の絆」とか「ソウルメイト」という言葉が浮かんでくるのである。
 現代人が希求しているのはこれなのだろう。
  
 最近、SMAPの稲垣吾郎が半同居人であるヒロくんのことをカミングアウトして話題になった。ヒロくんは妻子もち50代の会社経営者、週に二日は稲垣の自宅マンションの専用部屋に寝泊りする仲だという。二人が知り合ったのは都内のワインバーで、「ワインと共に友情も深まっていった」・・・。
 インタビューでヒロくんはこう答えている。「彼ほど一緒にいて違和感なくなじめるというのは、奇跡的かもしれないですね」
 稲垣は言う。「ヒロくんは精神的な恋人みたいなもの」
 SMAP関係者は言う。「二人はソウルメイト」

 ソウルメイトが異性であるとは限らないのである。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 健康幻想 本:『看護覚え書』(フロレンス・ナイチンゲール著、現代社)

看護覚え書1869年刊行。

 よもやナイチンゲール(1820-1910)の本を読むとは思わなかった。人生わからぬものである。
 本書は、生涯で150冊を超える本を書いたフロレンス・ナイチンゲールの代表作  Notes on Nursing の邦訳である。現代でも看護師を目指す者の必読書となっている――のかどうか知らん。
 が、人間相手に‘介護’をやっている者ならば、介護職を目指すものならば、ぜひ手に取りたい本の一つである。当時、看護と介護は分かたれていなかった。この本で書かれていることの多くは、現代では看護よりもむしろ介護の領域にあてはまる。
 介護の仕事をしている自分は、この本の「看護」という言葉を「介護」と変換し、「看護婦」という言葉を「介護職」と変換して読んだ。今でも十分通用する、勉強になる(=仕事の役に立つ)ことばかりである。
 あたりまえだ。
 150年前のイギリスであろうと、2015年の日本であろうと、看護や介護の対象となるのは人間であり、ミス・マープル(アガサ・クリスティの創造したお婆ちゃん探偵)の口癖の通り、人間性というものは時代や場所が違っても基本的に変わらないからである。

 本書でナイチンゲールが随所で繰り返し強調していて、頭にこびりついてしまうのは、‘換気の重要性’である。ナイチンゲール女史は、まるで「新鮮な大気フェチ」であるかのように、窓を開けて屋内の空気を外気と同じように新鮮に保つことの必要を訴える。

良い看護が行われているかどうかを判定するための規準としてまず第一にあげられること、看護者が細心の注意を集中すべき最初にして最後のこと、何をさておいても患者にとって必要不可欠なこと、それを満たさなかったら、あなたが患者のためにするほかのことすべてが無に帰するほどたいせつなこと、反対に、それを満たしさえすればほかはすべて放っておいてよいとさえ私は言いたいこと、――それは《患者が呼吸する空気を、患者の身体を冷やすことなく、屋外の空気と同じ清浄さに保つこと》なのである。

 よっぽど当時の英国の室内は、空気の循環が悪く、汚れていたのだろう。(確かに、西洋の石造りの家屋は元来気密性が高い。)
 本書を読んでからというもの、自分もまた働いている介護施設で、2、3時間に一度は窓を開けて風通しを実行するようになった。冬の冷気もなんのその、寒がりな利用者にはその間一枚重ね着してもらっている。暖房代がもったいない気もするが、利用者の健康には変えられない。ナイチンゲールのお墨付きである。

 他にも、普段の仕事の中で「うんうん、その通り」とうなずくような記述がいっぱいあった。
 
病人の背後から、あるいはドア越しに、あるいは遠くから、あるいは病人が何かをしている最中には、けっして彼に話しかけてはならない・・・

 車椅子から立ち上がって歩き出す認知症の利用者は多い。自分の歩行能力を過信している(あるいは歩行能力が低いことを失念している)ので、立ち上がる=転倒リスク大である。
 車椅子から立ち上がった利用者を、職員がすぐに駆けつけられない距離に見かけた場合、絶対にやってはいけないのは、「声をかけること」である。「○○さん、立ち上がらないでください」とか「○○さん、危ない!」などと大声を出して、その声にびっくりした利用者が転倒してしまい、骨折→救急搬送→衰弱死という事故が実際にあった。転倒を防ごうとして、かえって転倒を引き起こすきっかけを作ってしまったのである。
 これは手痛いミスだ。その職員はしばらく落ち込んでいた。
 適切な対応は、立ち上がった利用者を発見したら、声を出さずに素早く静かに忍び寄って、まず両手でしっかり身体を支えることである。


・・・・・・患者が自分に関する話題から一刻も早く逃げ出そうとして黙然として何も語らず、ただシェークスピア劇の登場人物よろしく「ええ!」「はい!」「さあ!」「そう!」などとばかり受け答えしているようなばあいは、患者は友人たちの思いやりの無さに気が滅入ってしまっているのである。患者は、友人たちに取り囲まれていながら、孤独をかみしめているのである。彼は、自分に対する愚にもつかない励ましや言葉の洪水から解放されて、たった一人でもよいから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなに有り難いことだろうと思っているのである。そのような相手になら「もう二十年は生きられますよ。それが神の御意です」とか「まだまだ元気に働けますよ」などしつこく喋り立てる連中を抜きにして、自分の願いや今後のことなどを打ち明けて話すことができるであろうに、と思うのである。

この世で、病人に浴びせかけられる忠告ほど、虚ろで空しいものはほかにない。それに答えて病人が何を言っても無駄なのである。というのは、これらの忠告者たちの望むところは、病人の状態について本当のところを知りたいと言うのではなくて、病人が言うことを何でも自分の理屈に都合のよいように捻じ曲げること――これは繰り返して言っておかなくてならない――つまり、病人の現実について何も尋ねもしないで、ともかくも自分の考えを押しつけたいということなのである。

 一般に人は、「元気で健康=善、勝ち」「病気で無気力=悪、負け」と思い込んでいる。
 いわゆる、健康幻想である。
 だから、病気で弱っている人を見ると、「早く元気になって」と励まし、一般的な健康法(よく食べ、よく眠り、よくダし、規則正しい生活をするe.t.c)を持ち出し、独自の健康法(民間療法やらサプリメントや怪しげな呪いの類いe.t.c)を持ち出して、「こうすればいいよ」「そんなことはしないほうがいいよ」などと忠告したくなる。当人は善意からやっているつもりなのだが、実のところは、病気で弱っている人を見るとほかならぬ自分自身が言い知れぬ不安、不快になるからである。その証拠に「もう死にたい」とか「これ以上生きていてもどうしようもない」という言葉が病人の口から出ようものなら、すぐさま否定するか言葉に詰まってしまう。本音をこぼして否定された病人は、もう二度と同じ相手には本音を語らなくなるだろう。
 看護職や介護職は一般人以上に健康幻想を持ちやすい。
 仕事柄、当然と言える。看護(介護)する相手に、健康になってもらうこと、快癒してもらうこと、リハビリしてADL(日常生活動作)が向上すること、在宅復帰してもらうこと、最後までできるだけ自立して尊厳を保って過ごしてもらうこと、そのサポートをすること――それが、我々の務めであり、そのために給料が支払われているからである。
 だが、年を取れば転倒しやすくなるのと同様、年を取れば、いつでも、いつまでも、‘元気で健康’とはいかなくなる。老いて・弱って・病んで・死んでいくのは、生物としてのつとめ、避けられない条件である。認知症含め知力や精神力もまた同様に衰える。ベクトルを元に戻すことはスーパーマンでもできない。元に戻そうとエネルギーを注げば注ぐほど、そうはいかない現状に落胆することになる。
 これから先の人生が待っている回復力のある若い人たちをも相手にする看護職ならまだしも、高齢者を相手にする介護職は、健康幻想から解き放たれる必要があろう。我々は、老いて・弱って・病んで・死んでいく者の伴走者なのである。
 人生の何十年もの先輩である高齢者を励ます、ましてや忠告を与えるなど不遜以外のなにものでもあるまい。介護職に許され、かつ与えられた最大の特権にして貢献は、人生の終盤を生きている人々と「共にいること」であろう。
 
この世の中に看護ほど無味乾燥どころかその正反対のもの、すなわち、自分自身はけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力を、これほど必要とする仕事はほかに存在しないのである。――そして、もしあなたがこの能力を全然持っていないのであれば、あなたは看護から身を退いたほうがよいであろう。看護婦のまさに基本は、患者が何を感じているかを、患者にたいへんな思いをして言わせることなく、患者の表情に現われるあらゆる変化から読みとることができることなのである。


 さすがナイチンゲール。
 繰り返し読み返したい本である。



 

● 映画:『聖衣』(ヘンリー・コスター監督)

1953年アメリカ映画。

 聖衣とは、イエス・キリストが処刑されたときに着ていた衣のこと。
 古代ローマ帝国の護民官(官僚)であるマーセラス(=リチャード・バートン)は、時の帝王ティベリウスの後継ぎであるカリギュラの不興を買いエルサレムに飛ばされる。そこで出会ったのは、神の子として人民から崇められ慕われているイエス・キリスト。マーセラスは、ピラト総督の命によりイエスを磔刑に処する。そのときから彼の心の苦しみが始まる。

 マーセラスの回心とキリストへの帰依が主たるテーマであるが、『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー、1959年)のように‘主’との感動的な遭遇シーンがあるわけでなし、手に汗握る戦車競争シーンが用意されているわけでなし、なんか中途半端な筋立てである。
 しかも、主役を務めるリチャード・バートンとジーン・シモンズに華がないのは致命的。二人とも容姿は整っているし、誰もが認める演技達者である。だが、少なくともこうした歴史超大作で主役を張れるほどの華がない。リチャードはやはりリズ・テーラーあってのアントニウスだし、ジーン・シモンズにいたっては代表作が思い浮かばない。

 CGを使わないセット撮影の贅沢とそれを可能にした50年代ハリウッド=アメリカの威信を実感する映画である。それ以上ではない。

 にしても、イエス・キリストとカリギュラ帝が同時代に生きていたとは知らなかった。
 カリギュラと言えば、自分の世代ではなんと言ってもティント・ブラスの映画『カリギュラ』(1980年)である。表は歴史超大作の顔をして、その実はまったくのハード・コア・ポルノ。ぼかしのないスクリーンを見ようと、日本から大勢の男達が「カリギュラ観賞ハワイツアー」に参加したのが記憶に残っている。
 その後しばらくしてから日本で再映された‘ぼかし入り’を某成人映画館で観たのだが、「別にどうってことはなかった。」(いつだってそうだ。「チャタレイ」も「エマニュエル」も「エーゲ海に捧ぐ」もなんであんなに騒いだのかよくわからん。)
 ‘猥褻’というのが「陰毛が見えた」とか「陰部がバッチリ見えた」とか「挿入場面のアップ」とか「乳首が見えなければ脱いだことにならない」いった即物的・肉体的レベルにおいて語られるのは、本当に小学生レベルだと自分は思うのだが・・・。
 世の男どもよ。『マドモアゼル』を観なさい。
  
 
評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● いちやクンとの一夜♥ :落語二ツ目勉強会(池袋演芸場)

池袋演芸場とき  2015年1月27日(火)18時~
ところ 池袋演芸場
演目  「猫と金魚」    柳家花いち
     「たまげぼう」   柳家かゑる
     「三方一両損」  柳家鬼〆
     「鮑のし」     柳家喬の字
     「妾馬」      柳亭市弥

 晩飯を食う店を探して池袋西口(東武側)をウロウロしているところ、演芸場の前を通りかかり、何かに惹かれるように入ってしまった。入場料(木戸銭)1000円という価格も魅力であった。
 これまでプロの噺家によるナマの落語は見たことあるし、吉本のなんばグランド花月にも足を運んだことはある。だが、落語専門館いわゆる‘寄席’に入るのは人生初めて。
 体が笑いを必要としていたのか。
 それとも・・・・。

 途中からの入場。地下2階への階段を下りるとロビーには今やっている高座の音声が漏れ聞こえている。
 そっと扉を開けて場内を見渡すと、驚いたことに場内(93席)は8割がた埋まっていた。
 平日の夜でもあるし、現在落語がそんなに人気だなんて思っていなかった。それに、本日は「二ツ目勉強会」と銘打っている通り、前座と真打ちの中間に位置する「一人前ではあるがまだトリをつとめる力量はない。『笑点』をはじめとするテレビ出演にもそう簡単にはお声がかからない」若手たちの勉強会。落語ファンはともかく一般には名前や顔の知られている演者はいないはず。
 ?????
 空いている席を探す。舞台向かって右側、いわゆる上手の後ろのほうに腰かける。
 
 現在かかっているのは3人目の柳家鬼〆という若手の落語家。
 タカ&トシの片方のようないがぐり頭の威勢のよいアンチャン。口角泡を飛ばし一所懸命つとめている。ネタ(三方一両損)の内容も知らないし、途中からなので、いまひとつノレない。
 場内を見渡す。
 中高年が多いのは予想していたが、意外にも女子高校生と見まがうような若い女性もちらほらいる。勤め帰りのサラリーマン、OL、カップルの夫婦(愛人?)、しきりにメモを取る常連らしき人々。時折笑い声が上がって、なるほどさすが寄席。映画館とも芝居小屋ともコンサートホールとも異なるリラックスしたムードである。
 仲入り(休憩)をはさんで、残り二人の出番。
 
 柳家喬の字(やなぎやきょうのじ)。
 ちょっとふてぶてしい、と言うかしたたかな顔つきの実力派。
 演目に入る前の客席との‘波長あわせ’いわゆる‘まくら’がうまい。「自分の出番中にいつも携帯電話が鳴るんです」といった日常的な話で親しみ感・一体感を作り出す。そこからおもむろに演目に入る。
 うまい。
 声の出し方、登場人物の演じ分け、抑揚、大小、緩急、間の取り方。
 表情の変化、無駄のない・観る者を疲れさせない動き、扇子の使い方。
 最初から最後まで客を飽きさせないリズムを知っている。
 日夜、相当研究を重ね、稽古を積んでいるのだろう。
 さすが二ツ目である。
 調べてみると、彼は柳家さん喬の門下で、もともとはなんと(!)福祉畑で働いていた。福祉施設で8年間勤務し、介護福祉士・ケアマネ・社会福祉士を持つ三冠王、自分(ソルティ)の先輩である。ボケ役の上手いのも頷ける。しっかり認知症老人を観察していたのだろう。レクリエーションの名人だったことだろう。
 老人ホームや自治体主催の介護予防教室等でも講演(落語や漫談)をしているらしい。次は、そういったネタを聞きたいものだ。
 
 柳亭市弥(りゅうていいちや)。
 四代目柳亭市馬(りゅうていいちば)の弟子である。
 喬の字がかなり出来が良かったので、「このあとに出るのはつらいだろうな」と思った。
 お囃子にのって現れたのは、なんとまあ、紋付はかま姿も初々しい、人の良さそうなイケメン。しっかりして頼りがいがあるというより、支えてあげたくなるような母性本能をくすぐるような、いいとこの坊ちゃんタイプあるいは与太郎タイプ。
「へえ~、彼がトリか、大丈夫かな・・・」(すでに母性本能くすぐられている)
 ‘波長あわせ’はうまい。自分の足りなさ加減をネタにして笑いをとっていく。観客を味方に引き入れる。

 喬の字が技巧と計算の努力家とすれば、市弥は素材と才能に恵まれた天才肌ではないだろうか。
 たぶん、喬の字は何をやっても常に質の高いレベルの高座が保てると思う。安定した笑いを生み出せると思う。一方、市弥は技術も客席との駆け引きもうまいことはうまい。が、それ以上に何か神がかり的なものを感じさせる。噺の最高潮の場面で、どうも登場人物が市弥に‘憑依’しているのではないかと思わせるような、役への没入が感じられる。その瞬間こそ、市弥がもっともオーラに包まれる時であり、観客が演者の姿以外まったく目に入らなくなる時である。(目がはなせない!)
 演目の「妾馬」は、殿様に見初められて輿入れし目出度く懐妊した妹に会いに行く、やくざでちょと抜けている兄貴・八五郎の話である。礼儀も作法も口の利きかたも知らない貧乏長屋の八五郎が、立派なお屋敷に出向いて殿様にお目にかかり、ご馳走になる。この対極的な世界のギャップが笑いを生み出す。
 八五郎が普段呑んだことのないような極上の酒を口にしたあたりから、‘憑依’は始まる。
 お坊ちゃま風情(世田谷生まれ、玉川大学出身、広告代理店で働いていた)で、31歳(1984年生まれ)にしてあどけなさの残る市弥が、貧乏で酒飲みで礼儀知らずで不調法な(だが母親と妹思いの)八五郎として、まったく違和感ない。八五郎がそこにいてくだを巻いているのに観客はつきあってしまう。
 なぜなら八五郎の心が演じられているからである。
 これは計算や稽古ではなかなかできないことであろう。
 喬の字が姫川亜弓とすると、市弥は北島マヤである。(だから、彼の欠点はおそらくうまく仮面がかぶれなくなった時であろう。)
柳亭市弥 噺が済んだあと、客席の中年女性が舞台上におひねりを乗っけていた。特定ファンがついている。若い女子たちもそうなのだろう。
 
 この容姿。この芸。
 おじさん(ソルティ)もすっかりファンになってしまった。
 また、会いに行くからな~。
  (from 紫の薔薇族の人) 

紫の薔薇

  
    

● 阿羅漢がいっぱい:鐘撞堂山(330m)&羅漢山(247m)

●日程  1月24日(土)
●天気  晴れ
●行程
鐘付堂山&羅漢山 02612:00 東武東上線・寄居駅
       歩行開始
12:30 曹洞宗天正寺
13:00 大正池
13:30 鐘撞堂山の頂上
       昼食休憩
14:10 下山開始
14:40 円良田(つぶらだ)湖
15:00 羅漢山の頂上
       五百羅漢めぐり
16:00 曹洞宗少林寺
16:30 かんぽの宿寄居(温泉)
       歩行終了
17:30 秩父鉄道・波久礼(はぐれ)駅      
●所要時間 4時間30分(歩行時間3時間20分+休憩時間1時間10分)

 冬の日だまりハイキングもオツなもの。
 寒さと早い日没のデメリットをうまくかわせば、他の季節には得られない抜群の展望と人の少ない静かな山歩きを楽しむことができる。そのうえで最後に温泉があれば言うことなし。
 今回は、駅から駅へとたどるコースなので、帰りのバスの時刻を気にかけないで、ゆっくりした散策が満喫できた。寄居町の昔懐かしい昭和の家並み、のどかな里山風景、低山ながらも見事な展望を誇る鐘撞堂山、愛嬌ある表情と仕草がなんとも微笑ましい五百羅漢、そして展望風呂のある温泉・・・。短時間で盛り沢山のアトラクションが詰まったおすすめコースであった。

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鐘付堂山&羅漢山 005 寄居駅北口を出るとすぐ目の前にスポーツセンター風の立派な建物がある。こんなデカイ町役場って見たことない。町民全員(約35,000人)が押しかけても収容できるのではなかろうか。
 正門のところに「部落解放都市宣言の町」と書かれた大きな立看板があった。埼玉県のこのあたり(北部)は被差別部落が多かったのである。1993年の総務庁調査によると、全国の同和地区総数は4,442、そのうち関東は572、埼玉県は274となっている。よく言われるように部落は西のほうに多いのであるが、埼玉県の274という数字は県別ランキングで、福岡606、広島472、愛媛457、兵庫341、岡山295に次いで第6位である。このことは埼玉県民の多くは知らないと思う。生まれも育ちも埼玉である自分もまた、40歳を超えるまで知らなかった。教わらなかった。

 子供の頃よく見た懐かしい民家(平屋、トタンの外壁、瓦屋根、ガラスの引き戸玄関、勝手裏のプロパンガス)が立ち並ぶ道を山の方へと向かう。
 高台にある曹洞宗天正寺の鐘を慈悲の瞑想をしながら撞く。大晦日にはここから除夜の鐘が寄居の町に鳴り響いたことだろう。
 うららかである。

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 大正池に向かう途中、民家が途切れるあたりに「希望の園」という看板があった。精神障害者の社会復帰のために国内最初(1970年)に創設された施設(グループホーム)とのこと。コースを外れ建物を見学する。なんとなくアメリカの教会を思わせる小ぎれいな、親しみやすい外観である。入口につながれた番犬(?)が人なつこく、足にじゃれついてきた。こうした辺鄙なロケーションにあることの意味に思いを致す。
 ホームページは http://itp.ne.jp/ap/0485810625/

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 夜来ると恐そうな、こじんまりした大正池を越えると山道に入る。炭焼き小屋の脇を通って、一登りで鐘撞堂山登頂。
 低山でありながら胸のすくような展望が広がっている。
 それもそのはず。ここは戦国時代、小田原北条氏の所有する鉢形城(寄居駅南側にある)の見張り場だったのだ。事あるごとに鐘を突いて合図をしたことから鐘撞堂山という名前がついたのである。今はむろんお堂こそないけれど、名前の由来となった鐘が山頂に設置され「お一人様一回」撞けるようになっている。

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 山頂からは、西は両神山、城峰山など秩父の山々が連なる黒い影から浅間山の真っ白い頂がぬっと顔を出す。北は苗場山と谷川連峰が白く輝く。東は熊谷市を足下に遠く筑波山まで一望する。南は寄居町はもちろん関東平野をまるごと収めて、双眼鏡で見ると新宿や池袋の高層ビルが確認できる。見えないのは富士山くらい。冬日ならではの好展望に「来た甲斐あった!」
 晴天の土曜日で山頂は賑わっていた。なかでも高齢女性たちの元気なこと。山頂でいきなり合唱を始める。
 山には山の、うれいあ~り~♪ 

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 昼食を済ませ、下山。
 途中で見かけたグロテスクな木の幹をご神体とする神社。
 なんだろな、これ? 不思議?

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 円良田湖は、静かなひっそりした湖。この時期訪れるのは釣り人だけのようだが、4月になれば花見客がどっと来るようだ。
 湖畔の東屋で休憩していたら、どこからか現れた一匹の猫。人なつこくて、足に擦り寄ってきたり、膝に飛び乗ってきたり、地べたに寝転んで腹を見せたりと、まるで「飼い主募集中!」といったアピール攻勢。
「う~ん、飼いたい! けれど、いまのアパートじゃ飼えない。ごめんよ」

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 羅漢山頂上には釈迦像と十六羅漢、文殊・普賢菩薩が祀られている。
 ここで20分の瞑想。

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 ここから山麓の少林寺まで、五百羅漢が路傍に並ぶ。
 これが実に面白い。
 羅漢とは正しくは阿羅漢のこと。仏教で最終的な悟りに達して解脱(これ以上輪廻転生をしない)を果たした修行者のことを言う。大乗仏教の日本では、この‘羅漢’の意味がよく知られておらず、位置づけも低いのだが、本来出家者の目指すは仏陀でも菩薩でもなく、この阿羅漢なのである。釈尊を別にすれば、羅漢こそもっとも尊き存在である。
 ‘五百’というのは適当で、数が多いという意味合いで語呂の良さから付けられたネーミングだろうと思っていたが、つづれ折の道の片側をほぼ等間隔で埋めつくしている石像は確かに百や二百ではすまない。五百以上あるかもしれない。
 羅漢さんたちの表情や仕草は、実にユニークでユーモラスで見ていて飽きない。穏やかな表情、笑っている表情、とぼけている表情、ねぼけたような表情、呆けたような表情、姿勢も仕草も持ち物もいろいろである。が、共通して言えるのは、こ難しい顔をしていない。哲学者のような深刻な顔をしているのは一つもない。連想したのは小学校低学年の教室である。いろいろな顔つきの子どもたち――笑い顔、泣き顔、はなたれ小僧、悪戯そうな顔、いつも眠そうなヤツ、お茶目なヤツ、ひょうきんなヤツ――である。悟りを開いた羅漢さんは、子どものように自由闊達で天衣無縫なのである。実際そんなものかもしれない。(いま自分が勤めている老人ホームにも、この羅漢さんのモデルになりそうな認知症の男性高齢者がいる。彼の恵比寿様のような表情と奇想天外なふるまいは、いつも周囲を笑いの渦に巻き込み、場をなごませる。)

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 少林寺から秩父鉄道波久礼駅に向かう。
 民家の垣根のロウバイが香しい。

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 かんぽの宿寄居は日帰り入浴800円、露天風呂つきのアルカリ性単純温泉。浴場から見下ろす夕暮れの山村の風景に一日の疲れがほぐされる。
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 こうして一日を振り返ってみると、ストレス解消と体力保持の山歩きにもかかわらず、不思議と自分の関心の対象にそこここで出会っている。部落差別、精神障害者差別、仏教、そして猫・・・。
 自分では自覚していない部分で、自分を動かしている‘なにか(因縁?)’があるようだ。


● 映画:『それでも夜は明ける』(スティーヴ・マックイーン監督)

2013年アメリカ・イギリス映画。

 『SHAME シェイム』の監督によるアメリカの奴隷制をテーマにした歴史ドラマ。
 第83回アカデミー賞の作品賞を受賞している。 

1841年、ニューヨーク州サラトガで‘自由黒人’として妻子と共に平和に暮らしていたヴァイオリン奏者であるソロモン・ノーサップ(=キウェテル・イジフォー)は、奴隷斡旋者の甘言に乗せられて故郷を離れワシントンに出向く。その晩、薬漬けにされたソロモンは、気がつくと手枷足枷はめられ監禁され、そのまま南部の綿農園に奴隷として売られてしまう。それから身元が保証され解放されるまでの12年間、彼を待ってたいたのは過酷な奴隷生活であった。

 まず、‘自由黒人’というのにちょっと驚いた。
 が、奴隷制度に対して異を唱える北部の州では、自由な身分の黒人たちが存在していたのである。この映画の時代背景である1840年時点、合衆国における黒人の人口比率は17%、そのうち13.4%が自由黒人であった。(逆に言うと、黒人の9割近くが奴隷だった)

 この映画は、愛する家族と共に幸福な生を送っていた男が、一夜にして地獄へと突き落とされた衝撃のストーリーである。
 なにが衝撃的と言って、この話が実話であるという点に尽きる。
 これは、1853年に発表されたソロモン・ノーサップによる奴隷体験記『Twelve Years a Slave(12年間の奴隷生活)』をもとに制作された映画なのである。
 ソロモンは、あらゆる権利を剥奪され、他の黒人たちと共に南部ルイジアナ州の農園で酷使される。オーナー家族や支配人への絶対服従、日の出から日没までの過酷な労働、容赦ない暴力と罵倒、不衛生な住居、性的虐待、プラットという名前に変えさせられてオーナーの都合で物品のように左から右へと売られる。それは家畜同然いや家畜以下の生であった。

 アメリカ独立宣言(1776年)?
 全ての人間は平等に造られている?
 生命、自由、幸福の追求の権利?
 関係ない。
 人権はあくまでも「人」の「権利」であって、黒人は「人」ではなくて「物」だったのである。

 キリスト教?
 隣人愛?
 神の前の平等?
 関係ない。
 そもそも奴隷制を肯定する根拠として持ち出されたのはほかならぬ「聖書」であった。
 映画の中でも、最初にソロモンを買ったバプティスト派の聖職者ウィリアム・フォード(=ベネディクト・カンバーバッチ←イギリスBBC製作のテレビドラマ「シャーロック」でホームズを演じて人気沸騰)が奴隷たちを庭に集めて聖書を読み、説教するシーンが出てくる。
 なんたる滑稽! なんたる倒錯!
 
 ソロモンが解放され手記を発表したのは1853年。
 その前年にストー夫人が『アンクル・トムの小屋』を著した。
 南北戦争が始まったのが1861年。
 リンカーンによる奴隷解放宣言が1863年。
 合衆国憲法修正第十三条の成立により公式に奴隷制度を終わったのは1865年。今からちょうど150年前である。
 このような野蛮な文化がほんの150年前まで存在していたのである。
 アメリカには、日本を含む他国の過去の歴史における人権侵害や虐待をとやかくいう権利も資格もまったくないはずである。
 一方で、黒人大統領誕生をわずか150年で実現させてしまう--オバマは奴隷の子孫ではないらしいが――ところは、変化(Change)の許容に対するアメリカ人のすごいところである。30年前、自分は日本で女性総理大臣が誕生するより、アメリカで黒人大統領が誕生するほうが100年は遅いと踏んでいたのだが・・・。

 製作者および出演者として、ブラピが関わっている。




評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『LIFE!』(ベン・スティラー監督)

 2013年アメリカ映画。

 原題は The Secret Life of Walter Mitty(ウォルター・ミティーの秘密)
 監督・主演は『ナイト・ミュージアム』シリーズでお馴染みのベン・スティラー。
 原作は1939年に発表されたジェームズ・サーバーの短編小説『虹をつかむ男』。


 コメディ冒険ファンタジーと言ったところだろうか。 
 リストラにおびえ、ヒーローにして恋愛勝者たる自分を白昼夢する冴えない中年男ウォルターが、ひょんなことから、海・山・空の本物の冒険に巻き込まれ、少年の頃夢見ていた世界を体感し、しまいには声もかけられなかった社内の意中の女性と結ばれる。
 ワクワクした人生に必要なのは、ほんのちょっとの勇気――‘いつもの自分、いつもの習慣’を捨て去る無分別――というのがテーマである。
 
 確かに、人は歳をとるにつれて保守的になる。変化を嫌うようになる。
 どうなるか先の予測のつかない変化に身をさらすよりも、それがどんなにつまらなかろうと、因循姑息の毎日にどれほど窒息しそうになっていようとも、ひたすら現状維持を望む。
 精神科医の春日武彦がいみじくも書いていたように、 

 人間は基本的に驚くほど現状維持と排他的傾向へのこだわりが強く、状況の変化を望むよりは、けっきょくは「今のまま」を選びたがり、多少の不幸には平気で甘んじてしまうものである。

 人間の変化に対する恐怖と忌避感の根幹には、死に対する恐怖――とりわけ「自分(アイデンティティ)の死」に対する恐怖がある。
 だから、日常の退屈で臆病な‘自分’を嫌悪する一方で、それが崩壊することを怖れ、知らぬ間に過去からの経緯を守ろうとして保守化していくのである。
 この傾向を打ち破るだけのインセンティヴとなりうるもの--その一つが恋愛なのであろう。
 
 この映画、ダイナミックな自然を捕らえた映像も美しく、語りもスマートで、テンポも軽やかで、役者も揃っている。主人公の母親を演じるシャーリー・マクレーンと、神出鬼没のカメラマンを演じるショーン・ペンがいい味出している。とくに、シャーリー(=『アウト・オン・ア・リム』)が出てくると、どうしたって精神世界的な色合いが濃くなってしまうのは避けられまい。


 

評価:B-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


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