ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『時の重なる女』(ジュゼッペ・カポトンディ監督)

 2009年イタリア映画。

 原題のLa doppia Oraとは「二重の時」の意。
 ふと時計に目をやったときに「15:15」とか「23:23」のように同じ数字がダブっていることがある。それを何か運命的なサインとして捉える人は多いだろう。この物語の主人公ソニアもその一人。重なる数列に運命の岐路を読む。
 いまひとつの意味は「二つの時間、二つの物語」の意であろう。
 ソニアはデートクラブで知り合った恋人グイドと二人きりでいるところを強盗に襲われ、三日間の昏睡に陥る。その間に見た夢(=潜在意識、無意識)が一つの時間。そして、昏睡も含めてその前後に続く日常生活の出来事がもう一つの時間。観る者は二つの時間(物語)を通じて、ソニアの外的状況と内面(深層心理)を垣間見ることになる。
 物語の大部分が実は昏睡状態にあるソニアの夢だったという、ある意味、観る者を馬鹿にしているような構造(=夢オチ)になっているのだが、それで憤慨するかと言えばそうでもない。
 というのも、二重構造にすることで、父親をもグイドをも裏切って悪の道へと走っているソニアの深層心理が浮き彫りにされているからである。
 フロイトを持ち出すまでもなく、夢は見る者の無意識を映し出す。昏睡状態にあるソニアの見る夢は、愛と罪悪感の塊である。親子の縁を切られた父親へのアンビバレンツな思い、グイドを騙している罪悪感、罪が暴かれることへの不安と恐怖、犯罪に利用するためだけに近づいたはずのグイドを愛してしまった困惑と葛藤・・・・。
 ソニアと共に昏睡から醒めたとき、観る者はソニアの心に去来する思いを自分のことのように感じ取ることができる。自分に愛を捧げてくれるグイドの元を離れ、犯罪のパートナーである夫と逃避行するソニアの運命を哀しいものとして受け取ることができる。
 doppia Oraのもう一つの意味は「二重の生活(人生)」だろう。
 自分を幸せにする愛よりも欲を選ぶ女、そう生きざるを得ない女が、ホテルのメイドという偽りの仮面をかぶった偽りの生活の中で‘本当の愛’に出会ってしまったとき、二重の生活が時を刻み始める。
 当然、破綻が待っている。
 それを「自業自得」と突き放すか、「哀しい」と慨嘆するかは見る者の価値観によるだろう。
 が、主役を演じるクセニア・ラパポルトの演技が妙に印象に残ることだけは誰も否定できまい。



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『地球、最後の男』(ウィリアム・ユーバンク監督)

 2011年アメリカ映画。

 DVDパッケージの説明文に「現代の『2001年宇宙の旅』とも称される」と書いてあったので、相当期待して観たのである。
 ‘詐欺’とまでは言わないけれど、‘誇大広告’もいいところ。
 映像はなるほどスタイリッシュで見事なものだ。
 が、ただそれだけ。
 これなら、『月に囚われた男』(ダンカン・ジョーンズ監督、2009年)のほうが断然クールである。
  


評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● もっと光を! 映画:『ルーム205』(ライナー・マッター監督)

 2011年ドイツ映画。

 親元を離れ大学の寮に入ったカトリン(ジェニファー・ウルリッヒ)。新たな出会いと経験が待つ自由な生活に期待をこめて205号室のドアを開く。
 しかし、そこに待っていたのは行方不明となった前の入居者アニカをめぐる忌まわしい秘密と恐怖の心霊体験であった。

・・・・・という話。
それ以上でもそれ以下でもない。
オカルトホラーミステリーとしてはよく出来ている。
CGに頼りすぎずに恐怖を描いているところも好感(?)持てる。
 ドイツの大学生たちの雰囲気や寮生活というものを窺う面白さも味わえる。やはり、日本ともアメリカとも違う。
 全体に暗い画面なのだが、これこそドイツの光なのだろう。
 昔早春のイタリアを旅したときに、ドイツから来た多くの観光客がローマやベニスやミラノのあちこちのピアッツァ(広場)に長い足を投げ出して寝そべって、日光浴していたのを思い出す。
「もっと光を!」(byゲーテ)か。



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● ナタリー・デセイ礼賛! 映画:『椿姫ができるまで』(フィリップ・ペジア監督)

椿姫ができるまで 004 2012年フランス映画。
 渋谷のイメージフォーラムにて観賞。


 現代最高のソプラノ歌手と言われるナタリー・デセイと、気鋭の演出家ジャン・フランソワ・シヴァディエとが、がっぷり四つに組んだオペラ『椿姫』(byヴェルディ)の稽古風景を、ほぼ時間軸に沿って、つまりドラマの流れの順序で撮影し編集したドキュメンタリー。本番の舞台は、2011年のエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演された。

 文学と演劇と美術と音楽と映像とデザインとの総合芸術であるところのオペラの作られていく舞台裏を覗く面白さ、そして各々の分野で才能豊かなプロたちが、共同して一つのものを作り上げていく過程で当然のごとく起こる心理的緊張。「メイキングもの」の醍醐味を存分に味わうことができる。
 とりわけ、現代のオペラでは、本番に至るまではやはり演出家こそが王様なのだと分かる。一家言ある個性的なプロたちの集団をまとめるコーディネート力、そして何世紀も前に書かれた脚本の古臭さを、現代人の感性と心理とでふるいにかけてもなお深い感動を呼び起こすことを可能にする演出(=解釈)のマジック。時代が経るごとに演出家が重要視されていくのも無理ない。
 
 メイキングとしてのみ見てもこの映画はよく出来ていると思うが、それ以上の益がある。
 あたかもオペラ『椿姫』の舞台を丸々観賞したような気持ちにさせてくれるのである。
 一つには、最初に書いたようにドラマの流れに沿って『椿姫』の序曲から幕切れまでの主要な場面と主要な歌(アリア、デュエット、合唱)を見せて聴かせてくれるからである。『椿姫』を読んだことも観たこともない人がこの映画を見ても、どんなストーリーかを言い当てることができるだろう。
 より大きな理由は、タイトルロール(主役)を演じるナタリー・デセイの圧巻の演技と歌にある。稽古でありながら本番さながらの迫真の演技を披露している。
 まさか、『椿姫』のメイキングフィルムを観て涙を流すことになるとは思わなかった。
 
 考えてみれば、本当に凄いことである。
 正しい発声・発音、正確な音程で、譜面どおりに歌うだけでも大変な努力と才能が要る。そこに持って生まれた美しくよく響く声と端麗な容姿とがあれば、地方の劇場でデビューくらいはできるかもしれない。
 頭角を現すためには、声で演技できなければならない。そのためのテクニックを身につけなければならない。それができて、ようやく世界の檜舞台へのパスポートを手に入れたってところだろう。
 歌手(=音楽家)としての本分で言えば、そこまで辿り着けば合格といえるかもしれない。あとは運と経験を積むだけだ。実際、多くの歌手はこのレベルで安定飛行に入る。
 ナタリー・デセイはしかしそこで止まらない。
 女優としても一流なのだ。オスカーを貰ってもおかしくないほどの演技力である。
 抜群の美声と驚異のテクニックと入神の演技。
 世界最高と言われるのも当然であろう。

 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
  
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 子供たちはどこへ消えた 本:『新・忘れられた日本人 辺界の人と土地』(筒井功著、河出書房新社)

忘れられた日本人 2011年刊行。

 昔から自分を惹きつけてやまないお伽噺の一つに『ハーメルンの笛吹き男』がある。
 約束していたネズミ捕りの報酬が貰えなかった仕返しに、町中の子供たちを笛の音で躍らせてどこかにさらって行った男の物語である。
 この話のどこがそれほど自分を惹きつけるのかはっきりしないのであるが、似たようなテーマを扱ったピーター・ウィア監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年、オーストラリア)もやはり同じような感慨を身内に興す。もっとも、後者で神隠しにあうのは少女たちであり、ネズミ捕りに当たるような人物は出てこない。
 神隠し。蒸発。行方知れず。失踪。
 これらの言葉が持つ、不可思議と恐怖と幾分ロマンティックな響きが、妙に琴線に触れる。日常からの逃避願望なのだろうか。山への単独行はこの延長上にあるのかもしれない。
 そう言えば、千葉県茂原で2ヵ月半ものあいだ行方不明になっていた女子高生の事件も興味をそそられる。発見された場所が神社の境内であったということが、まさに「神隠し」という昔からの言い回しを想起させる。

 『ハーメルンの笛吹き男』は1284年ドイツのハーメルンで実際に起きた130人の子供の失踪事件の伝承をもとに作られたものである。この不思議ではあるけれど単純な事件が、年代を経るごとに脚色されていく。誘拐魔としての笛吹き男(パイド・パイパー)がまず登場し、次にこの笛吹き男はネズミ捕りでもあったという変貌を遂げる。この過程には、中世ヨーロッパにおける遍歴芸人に対する差別と、収穫した穀物を襲うネズミの群れに対する人びとの恐怖心とが潜んでいることを解明したのが、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(ちくま文庫)である。
 自分が子供の頃に読んだ『ハーメルンの笛吹き男』はグリム童話だったと思う。そこでは、他の子供達に遅れをとった盲目と足の不自由な子供二人があとに残され、大人たちに仔細を語る役を果たしている。連れ去られた子供たちがその後どうなったか知る由もない。
 ただ、物語はこんなふうに終わっていた。
「ハーメルンを山一つ超えたジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)のある村で、異国の言葉を話す人々がいつからか現れて暮らしている。」


 前段が長くなった。
 筒井功の『新・忘れられた日本人』は、日本の辺界の人と土地を訪ね、埋もれた歴史や語られざる風習や虐げられた人々の姿を、丹念な調査と地道な取材と豊かな想像力とで紙面に甦らせた民俗学的記録である。
 著者は民俗研究家であって学者ではない。書かれたものは、研究としての客観性、正確さを保ちながらも、小説のような味わいがある。つまり文学的である。
 文章のうまさ、わかりやすさは言うまでもないが、調査・取材の対象となる人々との距離のとり方が、科学的(=冷たく事務的)でもなく、扇情的(=差別意識が透けて見える往年のサンカ研究家の三角寛のよう)でもなく、かといって過度に同情的(=お涙頂戴or社会問題として一石を投じたい)でもない。絶妙の距離間と言っていい。
 一方、虐げられた人々に対する筒井のあたたかく哀切なるまなざしは、十分に感得される。それが基音として通底しているこの本は、珠玉の短編小説集といった趣きを呈している。


 語られるのは次のテーマである。
第1章 サンカが過ごした最後の日々
     茨城県のある山村で箕直しによって生計を立てていた一家の物語
第2章 奥会津・三条村略史
     400年以上存在し昭和59年に消滅した奥会津の僻村の来歴
第3章 ある被差別部落の誕生と消滅
     高知県のある村に明治以後に一時だけ生まれ消えていった部落の物語
第4章 「説教強盗」こと妻木松吉伝
     昭和の始めに世間の耳目を集めた説教強盗の波乱の生涯と出自
第5章 葬送の島、葬送の谷
     丹後半島のある漁村で昭和17年まで行われていた変わった葬式の記憶
第6章 朝鮮被虜人の里の400年
   秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に連れて来られた朝鮮の陶工たちがつくった里の栄光と受難

 どの一篇をとっても面白く味わい深い。
 説教強盗のことや朝鮮被虜人からなる陶器の村のことなどくわしく聞いたことがなかったので、誠に勉強になった。京都北端の伊根湾にあるという舟屋の光景も、そのうち見に行きたいものである。 

 舟屋とは、海ぎわに建つ二階家の一階部分が「駐船場」になっている家屋のことである。倉庫のようながらんどうの一階が漁船の収納庫になっているので、ちょっと離れたところからだと家は水の上に浮かんでいるように見える。そういう舟屋が湾を囲んで、すき間なく軒を連ねている。そのような特異な景観を望める場所は、国内ではここ以外にはないらしい。

伊根の舟屋



 このうち、自分が一番興味を掻き立てられ、一読遠いところまで心が連れて行かれたのは、第2章である。 

 昭和59年かぎりで消滅してしまった福島県金山町本名字三条も、その来歴や住民の昔の暮らしを語る文献を全く欠いた村の一つであった。少なくとも400年は存在していた奥会津の僻村は、どんな記録も残さず、いまでは地図の上からも消えたのである。本章は、わずかな手がかりから、この村のかつての姿を想像しようとする試みである。

 筒井は昭和52年の夏に只見川支流にイワナ釣りに向かう際に通り過ぎた三条の様子を記憶に辿る。

 そこは見たところ10戸たらずの、ささやかすぎるくらいの集落であった。気づいたかぎりでは、みな茅葺きの屋根で、曲がり屋と直屋(すごや)があった。それらが未舗装の道をはさんで左右に並んでいた。


 山中深くに孤立した集落というのは、ほかで暮らす者たちの注意を引かずにおかないものらしい。「なぜ、わざわざ、あんなところに」という疑問がわくからであろう。


 筒井は、様々な資料を手がかりにこの村の成り立ちや暮らしぶりを探っていく。
○ 暮らしは何で立てていたのか(産物)
○ マタギ(職業的猟師)が定住した集落だったのか
○ 椀、盆、木鉢、木皿、銚子などをつくる木地集落だったのか
○ 箕作りをしていた記録は何らかの被差別の歴史を暗示しているのか
○ 全戸とも栗田姓であった理由は何か
○ 落人伝説(たとえば平家の)があてはまるのか
そして、
○ 近隣の村人達とは語彙も抑揚もかなり異なった「三条のウグイス言葉」なるものを使っていた意味は何か

 もうおわかりであろう。
 まさにグリム童話の『ハーメルンの笛吹き男』の末尾を彷彿とさせる。
 マタギ説、木地師説、落人伝説を説得力ある論証によって一つ一つ消去していく筒井の推理は、地形を手がかりに飛翔する。 

 三条の起源を考えようとするとき、村の北方にそびえる御神楽岳(1387メートル)の存在が大きな鍵をにぎっているのではないか、これがわたしの推測である。
 御神楽岳は、会津にとっても越後にとっても、きわめて古くからの信仰の対象である聖山であった。

 信仰の山には、いや応なしに参拝者が集まる。御神楽岳にも、いつとも知れないころから、南北二つの登山道が開かれていた。いま南側を例にとると、只見川筋から山頂までは直線距離でも一〇キロはある。標高差で千メートルを超す。とても一気に登れるものではない。これを一日で往復するとなると、かなりの足達者でないと難しいだろう。山に通じない参拝者には、案内人も必要になる。

 そうであるなら、途中に休憩や宿泊ができる建物が欲しいところである。それは緊急の際の避難所にも、案内人のたまり場にも使える。三条は、そのような事情によって成立した集落ではなかったか。

 このあたり、読んでいてワクワクしてくる。
 金田一耕助ばりの推理は続く。 

 御神楽岳信仰は、実は越後から始まった可能性が強い。その何よりの理由は、新潟県の津川盆地や蒲原平野からは同岳が眺望されるのに、会津の方は、どこからも山容を拝することができない点にある。

 そして・・・ 

 もし右の通りであるとすれば、御神楽岳という聖山の存在によって生計の糧を得る生き方も、越後側から始まったことになるだろう。そうして御神楽岳信仰が南側の会津にも波及する、そちらへ移住して登山道の途中に村を構える者が出てくることは、ごく自然のなりゆきである。

 この推測は、三条住民のあいだで語られていた、越後からの移住伝承にもよく合う。また。「三条のウグイス言葉」の由来も、説明できることになる。


 う~ん。お見事。
 『猿回し 被差別の民俗学』でも唸ったが、人間というものがよくわかっている。共同通信の記者をやっていただけある。世間知らずの学者ではこうはゆかない。
 民俗学に必要なのは、「人間」に対する知識なのだとつくづく思う。
 

 三条は、もと御神楽岳の山腹に開かれた宗教集落であり、もっぱら山稼ぎに頼る暮らしに変わったのは信仰が衰えてのちのことであった、これがわたしが想像によってたどり着いた結論である。


 筒井の推理はここで終わっているが、あえて言明を避けたのだろうと思うところを自分が続けてみよう。


 400年前、御神楽岳への篤い信仰を抱いていた数十名からなる一団(講)が、越後から山を越えてやってきた。
 故郷を離れた理由は知る由もない。
 新しい土地に到着し、自分たちの村を拓く。
 さて、なんという名前をつけようか。
 一番有り得そうなことは、自分たちが元々いた場所、すなわち故郷の名前をそのまま付けることである。たとえば、アメリカに移住した清教徒が、ニューヨークやニューイングランドを築いたように。19世紀末にロサンゼルスに移住した日本人がリトル・トーキョーを築いたように。

 三条――。
 この名前が何よりの状況証拠なのではないだろうか。


 と、張り切って推理したところで、くだんの村はとうに消え失せているのであった。


● 奥多摩の大奥:蕎麦粒山(1473m)

 奥多摩町は東京都で一番大きな町であり、行政区画である。東京都全体のなんと1/10(225.63平方キロメートル)を占めている。94%が森林というから、いかに東京にまだ自然が、田舎が、残っているか分かるであろう。
 日原は奥多摩の最西端にある。北は埼玉県秩父に接し、西は山梨県丹波山村に接している。まさに、東京の大奥。
 奥多摩駅からここまで路線バスが走っている理由の一つは、日原鍾乳洞の存在が大きいだろう。都の天然記念物に指定され、関東随一の大きさを誇る自然の芸術は、奥多摩観光の目玉の一つになっている。鍾乳洞が発見されたのは1200年前(平安時代)で山岳信仰のメッカとして人を集めたと言う。(役の行者発見説もある) 
 江戸時代、日原は白箸(正月に使う白木のままの両細の箸)の産地として名を馳せた。第2次大戦後からは石灰石採掘が主産業となり、最盛期には社員寮やダンスホールが立ち並ぶ賑やかな光景が見られたらしい。今はかつてのような賑わいはなく、静かな山歩きを恋いもとめる自分のようなハイカーを積んだバスが到着する一瞬だけ、晴れやかなざわめきが山間に放たれる。


●歩いた日  10月8日(火)
●天気    晴れのちくもり
●タイムスケジュール
08:01 JR青梅線・奥多摩駅着
08:10 鍾乳洞行きバス乗車(西東京バス)
蕎麦粒山20131008 00908:37 東日原バス停着
08:45 歩行開始
11:15 一杯水避難小屋
11:50 三ツドッケ山頂
12:45 仙元峠
13:10 蕎麦粒山頂上
      昼食休憩
14:00 下山開始
15:00 一杯水避難小屋
17:25 東日原バス停着
      歩行終了
17:47 奥多摩駅行きバス乗車
18:14 奥多摩駅着
● 所要時間 8時間40分(歩行6時間40分+休憩2時間)


 終点の鍾乳洞の二つ手前に、蕎麦粒山登山口のある東日原停留所がある。
 バスを降りると、緑の山々に抱かれた山あいの集落の長閑でまったりとした朝の光景に、山登り前の無駄な気負いが抜けていく。日原川の渓流の奥に見えるきれいなおにぎりは六つ石山(1497m)だろうか。

蕎麦粒山20131008 002

蕎麦粒山20131008 003


 表示板にしたがって舗道から登山口へと入るが、いきなり迷ってしまった。山道を登っていくと、どうしても青い屋根の民家に突入してしまう。舗道に戻って別の入り口を探すが、舗道もまた行き止まりになる。
 おかしい。
 もう一度表示板のところから入る。やはり民家にぶちあたる。
 「ひょっとして・・・」と思いながら民家の軒先に侵入すると、そこから家の左側を回って後ろに抜ける道があった。裏手の崖に「一杯水→」という表示がある。
 ちょっとわかりにくいぞ。
 手持ちのガイドブックにも詳しく書かれていなかった。自分のように図図しくない人間は、なかなか人の家の軒先に勝手に入り込めないのである。
 これで約30分のロス。
 
 しばらく杉の植林の中をジグザグ登っていく。10月にしては暑い。あっという間に体は汗だくとなる。
 高度を上げていくと、杉林にカエデやブナが混じりだし、その割合が反転していく。目にやさしい広葉樹のみどりが朝の光をチラチラと反射し、涼やかな秋風を誘ってははぐらかす。「山に来た!」という喜びが湧き上がって来る。
 足元を見ると、一面のどんぐり。帽子をかぶったままなのもあって可愛い。
 日陰に入れば、秋の味覚、きのこ。いろいろな種類がある。

蕎麦粒山20131008 016


 蕎麦粒山20131008 005 蕎麦粒山20131008 004 蕎麦粒山20131008 017

 すわっ!
 数メートル先の木陰から何か黒いものが飛び出した。
 熊か?
 立ち止まって様子を伺う。
 すると、猿が二匹追いかけっこしていた。視界から消えたところで、逃げている一匹は捕まったらしく、大きな悲鳴をあげていた。
 猿でよかった。
 鈴を取りだしてリュックにつける。 

 木々の間から周囲の山々が見えてくると、足取りも軽くなる。
 陽が上り詰めた頃に、一杯水避難小屋に到着。
 
 立派な堅牢な山小屋で、板敷きの貼ってある中は広くて、まず清潔である。
 作業服を着た若いイケメンが二人、清掃作業をしていた。どうやら、小屋の管理を委託されている林業会社の社員らしい。こういう人たちのおかげで、快適安全な山歩きができるというものである。
 感謝。


蕎麦粒山20131008 006


蕎麦粒山20131008 007


 ここから最初の目的ピークである三ツドッケに向かう。
 小屋の入り口の脇にある表示にしたがって登っていく。
 なんだかわかりにくい道である。表示がないのはともかく、正しい道を示すために木に結びつけられている赤テープもない。
 踏み跡らしく見えるところを辿って、登り詰めたところは岩場であった。
 何の表示もない。
 ただ、「山」と刻まれたコンクリートの柱が土に埋まっているばかり。
 ここが山頂か?
 富士山まで望める眺望の良さとガイドブックにあるのに、木々にさえぎられてたいした眺望が得られない。
 不思議に思い、山頂を越えてもう少し先まで行くと、行き止まりであった。
 そこから視線を上げると、数十メートルほど先に、山頂になにやら柱が立っている山が見えた。斜面の一角が切り開かれて、眺めが良さそうだ。
・・・・・。
どうやら道を間違えたらしい。
三ツドッケの三つのピークのうち、主要でないものに登ってしまったようだ。 
ちゃんと道なりに来たつもりだったのに。


蕎麦粒山20131008 008


今さら再挑戦する体力も気力も起きない。
あきらめて、来た道を引き返す。
と、ここでまた道に迷ってしまった。
 さきほど登ってきた道を下りたつもりが、いつの間にか見覚えのない景色に取り囲まれている。
 困った!!

蕎麦粒山20131008 015

 
 原因は二つある。
 登りの時は目の前に続く道しか見えないが、下りの時は他のルートから上がってくる道も見えるから、もっともそれらしい道を選んだつもりでも、登りの時とは違うルートに入り込んでしまうのである。
 山道はどれも同じに見える。登ってきた時の風景をいくら記憶したところで、逆から辿るときは役に立たない。
そして、表示や赤テープがないこと。これは決定的だ。
 ・・・なんて理由を考えていても仕方がない。
 なんとか一杯水避難小屋に戻らなければ。
 とたんに、周囲の風景がよそよそしくなる。
 ちゃんとしたルートを辿ってきたときは、それがどんなに険しかろうが、きつかろうが、親しみ深いものと感じられていた山が、一瞬にして他人の顔になる。
 
 ああ、こんなふうにして人は山で迷い、遭難するんだ。
 こんな大奥では携帯のアンテナはもちろん立っていない。
 ここでもし遭難したら、誰がそれを知るだろう。
 今日、蕎麦粒山に登ることは誰にも話して来なかった。
 バスの運転手も、一緒に停留所を降りた2,3人の客たちも、自分の顔や恰好は覚えていまい。山道では誰とも会わなかった。
 頼りは、小屋で会った作業員二人だ。
 ああ、もしここで遭難して死ぬことになったら、何を一番後悔するだろう。
 
 ・・・なんてマイナスばかり考えていてはいけない。
 しっかりしなければ。
 こういうときは下り続けてはいけない。
 むしろ、さきほどの山頂までいったん戻ってやり直したほうがよかろう。
 そう決めた瞬間、前方数メートル下の草陰にT字型した表示板らしきが見えた。

 助かった!

 そのまま下ると、避難小屋と蕎麦粒山を結んでいる尾根道に出た。
 どうやらさきほどの山頂から斜めに下ってきたらしい。
 ワープして、時間を節約したってことか。


 ちょっと道に迷っただけではあったが、パニックにつながりかねない心細さには、納得ゆく理由がある。
 この周辺で、6月に行方不明者が出ているのである。
 高橋清さん(65)は、今年の6月4日に日原から山に入り、途中数回の目撃を最後に、消息を絶っている。青梅警察署の連絡先の書かれた手作りの看板が、山道のどの表示板にも吊り下げられていて、ふもとからずっとそれを見ながら登ってきたのであった。
 つまり、ここら一体は遭難しやすいのである。
 山(上り下り)を迂回するために山腹に付けられた道を「まき道」と言うが、この蕎麦粒山にいたる間のまき道は、結構険しい箇所が多い。片側が断崖絶壁で、道幅が狭く、しかも路肩が緩んでいる箇所がいくつもあった。
 つくづく過信は禁物である。

蕎麦粒山20131008 013


 蕎麦粒山の山頂はごつごつした岩が立ち並ぶ、なんだか古代の祭祀場みたいな雰囲気であった。眺望は奥武蔵方面に開けているが、あいにく雲が湧き出してきて視界は冴えなかった。
 岩と岩に渡した板切れに座って遅い昼食をとる。
 静かさはこのうえない。
 紅葉シーズン前の平日とはいえ、山中で出会ったのはくだんの作業員を入れて5人ばかり。遭難リスクと背中合わせに手に入れたこの静寂に骨の髄まで浸る。

蕎麦粒山20131008 012


蕎麦粒山20131008 011


 手持ちのガイドブックに乗っている奥多摩の山はほぼ登り切り、蕎麦粒山だけが最後に残っていた。
 それは下山路――と言ってもUターンして往路を戻るのだが――が長いためである。
 自分は右膝に爆弾を抱えていて、登りは平気だが、下りが長く続くと痛みが出てくる。
 いったん発生すると、どんどん痛くなる一方で、速度も落ちる。日の短い季節なら、山中で日没を迎えることになってしまいかねない。
 そうした懸念から、後回しになっていたのであった。
 今回チャレンジしたのは、17時くらいまでは明るさが残る時期であり、膝の調子も悪くはなかったし、翌日も仕事休みだったからである。
 傾斜のゆるい一杯水避難小屋までの復路は問題なかった。
 そこから長い長いヨコスズ尾根を下っている途中で、疼き出した。
 山頂付近で拾った天然の杖とサポーターと途中休憩のおかげで、しばらくは速度も保てた。
 が、広葉樹林が杉林に移り変わるあたりで、あと1時間あまりでゴールという地点で、爆弾がはじけた。
 一足つくごとに痛みが増していく。
 もうこうなると速度を落として、膝を曲げないように歩くしかない。
 だんだんと空が暗くなって、風が冷たくなってくる。
 下山路の長いこと!
 こんなに延々と歩いてきただろうか。
 またしても道を違えたのではなかろうか。
 あるいは、時空に穴が開いていて、SFかホラーのように同じ区間を何度も歩かされているのではないか。
 そう思ってしまうほどに、延々と、延々と、同じような杉木立が続く。
 やっと、登山口にある民家の青い屋根が見えたときのうれしかったこと。
 
 登山口から舗道に降りて、高台から暮れなずむ日原の集落を見下ろす。
 薄暮のブルーに染められて、黒々とした谷の中にゆっくりと沈み込んでいくふうである。
 バス停に到着して10分経つと、あたりは闇に閉ざされた。 

蕎麦粒山20131008 018


蕎麦粒山20131008 021

 
 帰りに寄るつもりであった奥多摩温泉「もえぎの湯」は本日休業。
 青梅線の河辺(かべ)駅で降りて、駅前のタウンビル5階にある「河辺温泉・梅の湯」で疲れを癒す。
 なかなか良い泉質である。

蕎麦粒山20131008 001


● 本:『大人になると、なぜ1年が短くなるのか?』(一川誠×池上彰対談、宝島社)

大人になるとなぜ1年が短くなるのか 2006年刊行。

 このタイトル通りのことを日々感じない大人は少なくないと思う。
 自分も周囲の大人達(特に中高年)とよく話題にする。
「こないだ正月がすんだばかりなのに、もう10月だよ」
「本当にあっという間だよねえ」
「年々速くなっていく気がするねえ」
「この分だと、あっという間に老人だねえ」

 地球の自転も含めた全宇宙の運動が加速度つけて速まっているのではないか。全部が全部速まっているから、中にいる生命(=人間)は比較する対象がないので気づけないだけではないか。
 そんな妄想を抱いてしまうくらい、歳をとるごとに1年経つのが速くなる。
 大体、心理的速度で言えば前の年の約1.2倍ずつ速くなっていて、体感速度で言えば前の年の約0.8倍ずつ1年が短くなっているという感じがする。この計算(365日×0.8×0.8×0.8×・・・・・)で行くと、あと27年で残り日数は0を切る。いや、すでにそういう感じがし始めてから10年以上経っているから、余命15年として、事故とか大病がなければ自分の寿命は65歳を切る。日本の男の平均寿命(79歳)に到底達せず・・・。
 まあ、そんなものかもしれない。
 20代の頃は40歳まで生きられれば御の字と思っていたものだが、なんということなしに不惑を通り過ぎて、三島由紀夫の自害時の年齢(45)も越して、大病も大事故もなく、食いっぱぐれることもなく、こうして生きている。
 今もしタイムマシーンに乗って20代の自分に会うことができたら、こう言ってやりたい。
「大丈夫。何とかなるから」


 本書は、時間学(というものがあるらしい)の研究者である一川誠と、ジャーナリストの池上彰の対談である。肩のこらない、読みやすい、読んだそばから誰かに得た知識を披露したくなる興味深いネタがいっぱいの、通勤途中で読むのに恰好の本である。
 そんなネタを一部紹介。

○ 日本の標準時刻は、東京都小平市にある通信総合研究所に設置された
18台の原子時計の平均値をもとに決められている。
 →自分はまだ明石天文台(東経135度)によって決められているものかと思っていた。

 かつては兵庫県明石市などを通過する東経135度の子午線上での平均太陽時として、天体観測に基づいて計測されていた。現在は、情報通信研究機構が複数のセシウム原子時計・水素メーザー原子時計によって得られる時刻を平均・合成して協定世界時を生成し、これを9時間進めたものを日本標準時として決定している。(『デジタル大辞泉』より)

○ 最近、四色の視細胞を持つ人が発見された。 
 人間の錐体細胞は基本的には、赤錐体、青錐体、緑錐体の三色です。まれに二色しか持たない人もいて、それは一般的には色覚異常といわれています。
 人間以外の多くの哺乳類は青錐体と緑錐体の二色の色覚です。(ソルティ注:だから犬や猫は赤色を認識できない) 人間ももともとは二色で、進化の過程で三色を獲得したといわれていますが、最近、四色の視細胞を持つ人が発見されたんですよ。
 
 四色目の錐体細胞は橙色で、女性の一定数がこの橙色の錐体細胞を持っていると言われています。・・・・・
 そういう人はテレビとかも、三色の錐体細胞を持つ人とは微妙に違った見え方をしている可能性があります。


○ バートランド・ラッセル、かく語りき 

 私たちは過去の記憶を持っていますが、今、自分が持っている記憶というのが現実に起きたことではなくて、5分前に形づくられた記憶のみの存在かもしれないという説もあります。バートランド・ラッセルというイギリスの哲学者が、実は世界は今から5分前に始まったのであって、我々の脳に記憶されている事柄は全部嘘である可能性は論理的には否定できないというようなことを言いました。

○ 11年前の自分は100%別人である 

 我々の身体の物質はおよそ11年周期で入れ替わっています。毎日毎日少しずつ違う自分であるのはもちろんですが、11年前の自分と今の自分とでは物体として完全に違う存在のもので、一年前の自分とは11分の1くらい違う存在ということですね。


○ 大人になると時間の経過を早く感じる理由 

 身体が元気で代謝が活発だと、心理的な時計も速くなり、物理的な時計が1分しかたっていないのに、心の時計は1分20秒くらい進んでしまっているという現象が起こるんです。だから物理的な時間の流れを遅く感じたり、余裕が持てる。
 反対に、病気の時や疲れている時には代謝も落ちていますから、心理的な時計も遅くなります。物理的な時計は1分経っていても、自分の心の時計はまだ40秒くらいしか進んでいないということを感じているんです。
 
 子供の頃時間がゆっくり流れているように感じたのは代謝の活動が活発だったためと、一年のあいだに特別なイベントが多かったからです。大人がこどものような代謝量を増やすことはできませんが、意図的にイベントを多く増やすことで時間を充実させることは可能です。


 宇宙時間の加速化説はやはりナンセンスか。
 これも自説だが、「知らない道は長く感じる」説はどうだろう。
 ある目的地に行くのにはじめての道を歩くとき、行きより帰りのほうが早く時間を感じることはないだろうか。行きは知らない光景ばかり目に入るし、目的地が近いかどうかも分からずに歩くので、目新しさも心細さもあって長く感じる。帰りはいくつかの道標を覚えているので不安は感じないし、ゴールまであとどれくらいかがある程度分かっている。
 つまり、不安や緊張など心理的圧迫が大きいほど時間は間延びするという「ストレス相対性理論」である。
 「子供の頃は良かった」と大人は言いがちだが、よ~く思い出してみよう。毎日毎日、いろいろな不安や心配でいっぱいだったんじゃないだろうか。たとえば、「自分が学校にいる間に家が家事になったらどうしよう」とか、「3時間目の音楽の笛を忘れてしまった。どうしよう」とか、結構些細なことで悩んでいた記憶がある。






● 登戸研究所資料館を訪ねて

・ 何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか
・ 静脈から空気を注射すると、どのようなプロセスを経て悶絶に至るのか
・ 逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどのように変化するか
・ 大きな遠心分離器に入れ、高速で回転させる実験
・ 馬や豚の血液を腎臓に注入
・ チフス菌入り甘味まんじゅう実験
・ A型からO型(血液)への輸血
・ 「イチョウ返し」といって胃と腸の位置を逆転したらどうなるか
・ 右腕と左腕を取り替える
・ 真空管に放り込んで内蔵が出てくるさまを16mm映写機で撮影する

 これ全部、アジア太平洋戦争中に日本人が捕虜に対して行った実験である。
 詳しく言うと、大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部(通称731部隊または石井部隊)において、隊員である医学者たちが、捕虜となった朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等に対して行った人体実験の例である。
 731部隊は、兵士の感染症予防、衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関であった。1933年(昭和8)初代隊長に石井四郎を擁し、ハルビンに設置された。
 上に挙げた実験が本来の目的である細菌戦の準備とは関係なく、医学者たちの好奇心だけで実施されたのを知るとき、そして実験台として使われた捕虜のことを隊員たちが「マルタ(丸太)」と呼んでいたのを知るとき、そのような心性や衝動が日本人の中に潜んでいるのに慄然とする。自分の中にもあるのかと。

 「731部隊展」が、明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館でやっているのをネットで知って出かけてみた。
 場所は小田急線生田駅から歩いて10分、多摩丘陵の高台にある。

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 登校路門から入って急な坂道を登ってすぐのところに神社がある。生田神社と呼ばれているが、もとは1943年に建立された弥心(やごころ)神社で、古事記の天岩戸神話に登場する知恵の神「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀っている。大学キャンパスに祀る神としては、天神様(菅原道真公)と並んで最適の選択であるなあと感心するなかれ。生田キャンパスは登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地に建てられたもので、つまりこの神社は研究の成功=戦勝(=「敵をたくさん殺すための知恵をください」)を願って建てられたものなのである。

 緑豊かなキャンパスに入ると、学生がわんさかいる。
 あたりまえの話だ。が、普段老人ホームで平均85歳の高齢者たちに囲まれているので、こんなにたくさん若い人がいるという目の前の景色がなんだか信じられない。相対性のマジックで、みな子供のように、中学生のように見える。
 いや、実際自分の息子・娘の世代ではあった。
 仲間と楽しそうに歩く学生たちの背後に、現代的な高層ビルディングとヒマラヤ杉が聳え立つ。

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 登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。ここでは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・かく乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)のためのさまざまな秘密戦兵器が開発されました。正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、決して外部にその研究・開発内容を知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
 登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究所でありましたが、敗戦とともに閉鎖されました。その後、1950年に登戸研究所の跡地の一部を明治大学が購入し、明治大学生田キャンパスが開設され現在に至っています。(資料館パンフレットより抜粋)


 キャンパス内には、弥心神社をはじめ、研究所の史跡(戦争遺跡)が点在している。そのうち、第二科の実験棟のあった場所に、当時の建物の設備をなるべくそのまま残す形で復元されたのが登戸研究所資料館である。
 見学は無料。

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 登戸研究所では主に以下のような研究・開発を行っていた。
 第一科 風船爆弾の研究開発
 第二科 生物兵器・毒物・スパイ機材の研究開発
 第三科 偽札の製造
 
 資料館では、それぞれの科で行っていた研究の中味について、部屋ごとに分けて展示している。それぞれの部屋に展示説明のDVDが置かれてるので、職員に解説を頼まなくても概要を理解することができる。

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 風船爆弾の名前だけは知っていたが、本当に実戦に使われたとは知らなかった。
 実際に爆弾を搭載した風船が千葉県の一宮からアメリカに向けて飛ばされたのである。
 9300発打ち上げられて、偏西風に乗ってアメリカ本土に1000発ほどが到着したのである。
 なんだか夢のような、メアリー・ポピンズのようなファンタジー。
 しかも風船の生地が和紙とこんにゃくとでできているときては!
 たしかに、各高度における風の向きや強さの分析、気圧の変化によって風船が膨張爆発するのを抑える技術、途中で(太平洋上で)落下するのを防ぐため錘(砂袋)を自動的に投下する技術、アメリカ本土で爆弾を投擲できるタイミングをはかる技術など、各分野から動員された専門家による高度の知的プロジェクトには違いない。オレゴン州でピクニック(!)中の子供と大人が不時着した風船爆弾に触れて6名が死亡するという成果もあった。放球時の事故で日本の兵士が6名死亡しているので差し引きゼロだが。
 風船爆弾は「最終決戦兵器」として作られたという。ミッドウェーで敗北し、ガダルカナルから撤退し、あとがなかった。和紙とこんにゃくという組み合わせの妙も、真相を言えば、もはや南方からゴムを調達するだけの機動力を失っていたからなのである。
 これが「最終兵器」たる理由は、そもそもの計画が爆弾ではなく生物兵器(牛疫ウイルス)を搭載してアメリカを攻撃するというところにあったようだ。実際、強毒化や生体実験も済んで実用可状態にあったらしい。
 なぜ実際には使わなかったか。 

アメリカからの報復を恐れた陸軍中央の最終的な判断によって風船爆弾に搭載されることはありませんでした。(資料館ガイドブックより)

 賢明な判断である。
 っていうか、「報復を恐れて攻撃を控える」という時点で、すでに敗北宣言も同然じゃないか。
 想像してみよ。
 高度4500mの太平洋上空を何千発もの和紙の風船たちが時速200キロの風に乗って旅するさまを。あるは上空で爆発し、あるは海の藻屑と消え、あるは名も知らぬ南の島に不時着する。昼は冬の(というのは偏西風は冬しか吹かない)日差しに焼かれ、夜は氷点下の星空を行く。二泊三日の旅を終え、無事目的地に到達できるのは1割。
 なんともいじらしい風船たちの旅。
 日本国民の食卓からこんにゃくが姿を消していたこの期間、アメリカは着々と戦争を終結させる最終兵器=原子爆弾の使用のタイミングをはかっていたのである。


 生物兵器や毒物を研究開発する第二科こそは、731部隊と関係の深かったところである。ここで開発した毒物の人体実験、細菌の散布実験が中国で行われたのである。登戸研究所が頭脳、731部隊が手足といったところか。
 戦後まもない東京で、ある事件が起きた。 

1948年1月26日午後3時過ぎ、一人の男が帝国銀行椎名町支店に現れ、近くで集団赤痢が発生したといって16人の行員を集め、予防薬と称する毒物を飲ませ、12人が死亡した。その際に犯人は「厚生省技官松井蔚」という名刺を残した。松井氏は実在の人物で、名刺を交換したものの捜査がすすめられた。捜査本部は、毒物に深い知識を持っていることに注目し、青酸毒物の人体実験をおこなっていた731部隊など旧陸軍関係者の捜査を進めたが、捜査は一転、毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通氏を逮捕した。平沢氏は公判で無実を訴えたが、一審、二審とも死刑判決が出され、1955年5月7日、死刑が確定した。平沢氏は再審を訴えつづけたが、1987年5月10日、獄死した。享年95歳。(「帝銀事件ホームページ 平沢貞通を救う会」より抜粋)

 帝銀事件である。
 このとき使用された毒物というのが、登戸研究所第二科が開発した青酸ニトリル(アセトンシアンヒドリン)であった。
 警察が最初に容疑者として目星をつけていたのは登戸研究所第二科の所員であったS中佐だったが、何らかの思惑(GHQの圧力と言われている)が働いて、その方面の捜査は中止となった。S中佐は事件の翌年に病死している。ブルッ。


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 第二科に勤務していた伴繁雄は、戦後40年間、身内にも自身の研究所での体験を語ることなく沈黙を貫いていた。
 それが、80年代、登戸研究所について調査活動していた高校生のたび重なる訪問を受けているうちに、重い口を開き始める。曰く、「登戸研究所のことは大人の誰にも話したくなかった。君たちが高校生だから話したのだ」
 こうした取り組みが、伴氏をはじめとする元所員たちの心の扉を開いていき、それぞれの体験を語り始める。登戸研究所の保存と資料館の設置を明治大学に要望したのも彼らである。

 資料館の最後の部屋に伴繁雄が高校生に送ったメッセージがある。正確には覚えていないが、大体こんなことだ。

 「自分たちは小さい頃から天皇陛下を神と拝み、お国のために闘うのがあたりまえと育てられてきた。だから、時代の流れの中で逆らえるものではなかった。それをわかってほしい」
 その通りだと思う。
 おそらく、いやきっと、自分も同じような環境に身が置かれたら、伴氏や他の研究所職員や731部隊の兵士たち同様、愛国心と正義感を持って、一人でも多くの敵の殺戮に日々励み、喜びとすることだろう。
 だからこそ、国家というものが、戦争というものが、どれほど狂気と理不尽に満ちているか、人間というものがどれほど無明に閉ざされているかを忘れないために、過去のあやまちを放擲してはならない。

 現在、中国は731部隊跡地を世界遺産登録するための運動を推進している。

731跡地


 
 
 

● 本:『猿まわし 被差別の民俗学』(筒井功著、河出書房新社)

猿回しの民俗学 2013年刊。

 この本は面白い。
 筒井功はほかに『漂泊の民サンカを追って』を読んだが、これも面白かった。
 この作家は、民俗学の面白さを十分に感じさせてくれる。
 それは何かというと、文献や古老への聞き取り、地名や人名、その土地の神社(信仰)や祭事、昔から伝わっている風習やしきたりや伝説などを手がかりとして、ある文化や事物の由来・来歴・いわれ・成り立ち・変容などを探る面白さである。
 綿密な調査と取材、自然な論理展開と鋭い分析力、そして深い人間理解を伴った過去を再構成する想像力。それらが揃った民俗学には、優れた推理小説を読むのと同質の面白さがある。恰好の例として、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)を挙げたい。
 筒井の本もまた推理小説のように謎解きの興味に読者を引き込む。
 しかも、共同通信社の記者をやっていただけあってその文章はわかりやすい。
 
 題材は猿回しである。
 60年代首都圏生まれの自分は、テレビや観光地などでたまに見かける猿を使った芸というイメージしかなかったのであるが、昔は縁起物として正月に家々を回り、家人に芸を見せてご祝儀を得ていた。いわゆる門付け芸である。門付け芸をする猿まわしは、60年代初頭に日本から姿を消したとあるから、自分が知らないのも無理はない。
 その歴史は古く、中国古代の文献『荘子』や『列子』に猿回しをする芸人として「狙公」という言葉が見られるそうである。日本の文献では13世紀成立の『吾妻鏡』『古今著聞集』までさかのぼれるとのこと。
 だが、本来、猿回しの主たる仕事は芸を見せることではなかった。

 これまでに紹介してきた文献類からもうかがえるように、猿まわしという職業者の仕事は、もともとは牛馬の祈祷とくに厩祓いを主としたものであった。


 どうして、猿に馬を守る力がそなわっていると考えるようになったのか、これに納得できる説明を与えることは、実は今日でも非常にむつかしい。ただ、そのような習俗は古くから中国にも東南アジアにもあって、どうやらインドが発祥地らしいということは、ほぼ間違いがない。


 それはともかく、猿は馬の守りになる、馬の病気をふせぎ治すという思想が存在したことは、はっきりしている。のちには大型家畜の牛にも、この考え方は適用されるようになる。その結果、猿を扱う者すなわち猿飼が牛馬の祈祷を職掌とすることになったと考えられる。


 すなわち、猿まわしとは牛馬の祈祷に特化したシャーマンだといえる。これが本質であって、猿に芸をさせて喜捨を乞う芸人の姿は、時代が下ってからの転進である。

 
 この本の表紙に使われている写真(上掲)は、新潟県上越市西本町の府中八幡宮にあった「神馬」と猿の木像であるが、まさに猿と馬との切っても切れない親密な関係を表している。
 大陸から入った「厩で猿を飼う」という習俗がまずあった。著者は日本では10世紀頃から広く見られるようになったと推定している。その後、猿を連れた猿まわしが大名屋敷を訪れてお厩祓いに勤め、祓いが終わってから余興としてお偉方に猿舞を見せるようになる(江戸時代全盛)。維新後になると、正月を中心に各地に出稼ぎして、家々を回って門付け芸をしたり、路上で大道芸をするようになった。
 現代の猿まわしの姿は、この変貌の最終局面(=大道芸)だったのである。
 
 ところで、現在日本でもっとも名前の知られている猿まわしと言えば、村崎太郎であろう。80年代末に「反省する猿(次郎)」のCMで一躍有名になった。以後、文化庁芸術祭大賞を受賞したり、ニューヨーク・リンカーン・センターで公演したり、千葉県市原市に「次郎おさるランド」を開設したり、「徹子の部屋」に出演したり、その半生がドラマ化されてプロデューサーであった栗原美和子と結婚(2007年)したりと、華やかなスター街道を愛猿・次郎と共に歩いてきた。
 自分は栗原美和子の書いた『太郎が恋をする頃までには…』(幻冬舎2008年刊)を読み、はじめて村崎太郎が被差別部落の出身であること、それに、猿まわしという職業が皮革産業や食肉産業のように伝統的に部落特有の仕事とされてきたことを知った。もっとも、山城新吾の『現代・河原乞食考 ―― 役者の世界って何やねん?』(解放出版社)を出すまでもなく、日本の伝統芸のルーツは「河原者」という知識はあった。猿まわしがこれほど古い歴史を持つ伝統芸であるとは知らなかったのである。
 ちなみに、『太郎が恋をする頃までには・・・』は近頃珍しいほど真摯でピュアな恋愛小説である。平成の『破戒』と評されたらしいが、自分はむしろ『ロミオとジュリエット』を、あるいはニコール・キッドマン主演の『白いカラス』(ロバート・ベントン監督、2003年)を連想した。まったくのところ涙なしには読めない。こういう小説こそドラマ化して、近頃のつまらないテレビに活を入れるべきである。
 村崎太郎は妻の本と前後してテレビで出自をカミングアウトした。現在は、本業に加え、部落問題に関する講演や啓発活動なども行っている。


 さて、筒井は猿まわしという職業が「なぜ差別されたか」を最後に検証している。


 遅くとも中世に始まり、そして今日なお日本人を呪縛しつづけている社会的差別の根源は、いったい何に由来するのか。これは被差別部落や中、近世史の研究者のみならず、およそ自らが暮らす社会に多少なりとも関心をもつ者なら、だれしもが意識のどこかに抱いている疑問のように思われる。
 この問いに答えるのは簡単ではない。現在、最も有力とされているのは穢れと清めの両語をキーワードとする説であろう。わたしは、それに対してずっと、しっくりしないものを感じていた。それでは、どうしても説明しきれない事実があるとの思いが消えなかったからである。
 その例として猿まわし差別や、渡し守差別を挙げることができる。


 と、書いているので分かるように、本書での筒井の一番の目的は「猿まわしが差別されるようになった理由」の追求にある。
 筒井の出した結論(=仮説)は興味深い。

 その差別は詰まるところ、呪的能力者の零落であるというのが私見である。ほかの差別にはほとんど言及していないが、ほぼ同様の視点で理解しうると、わたしは考えている。


 猿まわしはもともと共同体のシャーマン(古い日本語で「イチ」という)として、恐れられ祀り上げられていた。
 それが時代を経て、人知が進み、人々の間で神の地位が軽くなっていくとともに零落していった。

 神の零落は、もっとはっきりした形でイチの身に及ぶことになる。畏敬は、それが消えたとき軽侮に転化しやすい。卑近な例を挙げれば、落選した政治家、成績が落ちたスポーツ選手、人気がなくなったタレント・・・・などのたどる道に通じている。
 畏敬と軽侮が入りまじった感情の重心が後者へ移っていくにしたがい、それはやがて差別へつながることになる。


 この部分が著者の鋭い人間観察と深い人間理解の表れだと思う。
 人は、それまで尊敬し恭順の意を表していた人間が何か失望させるような行為を働いたのを知ったとき、必要以上に容赦なくその人間をバッシングするものである。失望して、単に「普通の人」レベルに相手の地位を修正すればいいと思うのだが、以前に自分が捧げていた恭順の意の裏返しとして持たされていた劣等意識や嫉妬が、反転し、一挙にむき出しになり、相手に向かうのである。


 被差別民を指す代表的な呼称の一つに「エタ」という言葉がある。「穢多」と書くので、「穢れにふれることが多い人びと」という意味で生まれた言葉と勘違いされやすいが、実はそうではない。「エタ」という音が先にあって、あとから「穢多」という漢字をあてたのである。
 では、語源は何か。
 筒井はこう推理する。


 エタの本質は呪的能力者にあったと思われる。そうだとすると、エタの語源はイチだということになる。猿や、鹿児島県で蛇の意があるエテも同様であろう。


 イチが転じてエタになった。
 この見解、当たっているのか、外しているのか。
 いずれにせよ、当の猿たちにしてみれば「どうでもいいこと」である。
 きっと、くだらない差別に「回されている」人間たちを見て、手を打って笑っていることだろう。



● 仏教はターミナルに役立つか 本:『死にぎわのわがまま』(高橋卓志著、現代書館)

死にぎわのわがまま 1996年刊行。

 著者48歳の時の本である。
 40代後半は、老いやその先にある死について考え始める時期なのだろうか。
 自分の場合も、30代までは生きることに手一杯で、老いや死は別次元の話であった。老後など四次元世界の話であった。
 40代前半(厄年)に不意に襲ってきた体調の崩れと鬱、中年クライシスをなんとか乗り切って、「もう若いときのようには無理は効かない」と観念したあたりから、周囲にあふれている老いと死の光景が恐れとちかしさを持って感じられるようになった。初期仏教との出会い、介護職として老人ホームに就職・・・と、ここ数年は急速に「老いと死」が自分のキーワードになっている。東日本大震災と福島原発事故の影響も大きい。
 老人ホームで日常的に80~90代の高齢者や認知症患者に接していると、「どう老い、どう死ぬのが幸せなのか」を問わずにはいられない。同じ職員でも20~30代の若い人たちでそこまで考えて仕事している人は少ないようである。


 著者のアイデンティティの核は、臨済宗の禅僧であることだろう。
 長野県松本市の神宮寺に生まれ、住職である父親を師として仰ぎ、仏教系の大学を出て専門道場で修行したのち、副住職となる。地元の檀家相手のお寺の日常業務に勤める一方、ボランティアに関わる。障害者共同作業所の設立、チェルノブイリ原発事故被災者への支援、第二次世界大戦の戦没者を慰霊する南太平洋への旅。一年の半分を飛び回っている自身を「住職」ならぬ「飛び職」と呼んでいる。
 八面六臂の活躍をしている著者がもっとも関心を持ち、問題意識の中心を成しているのは、ターミナル・ケアやホスピスに関する事柄であった。 

 ぼくが直接かかわっているチェルノブイリだけでなく、ルワンダ、ボスニア、カンボジアをはじめとして、現在世界各地で起こっているいのちへの不条理に、また過去の戦争に巻き込まれた人びとそれぞれの不条理に、信州の小さな寺から目を向ける努力をすることは、厳しい状況に置かれた人びとと、いのちの想いを共有することになる。
 本来、寺とか坊さんの役割はそこら辺にあるはずだ。しかし、現在の仏教は、そういった直接的なかかわりを自ら放棄している。人生の凝縮された大切なときであるいのちの終末に、仏教者はほとんど何もしようとしていないし、なす術さえ知らないのが現状だ。また、その後に訪れる重要な別れの儀式である葬式という場を、ものの見事に形骸化させている。この責任は規制の組織に安住し、本来の厳しさを失い、いのちへの働きかけの努力を忘れた現代仏教にあることは間違いない。そしてぼくもその内部の人間であることも事実である。
 こうした現状認識、自己認識をもとに、著者は師である父親があえて関わりを避けていたターミナル・ケアに踏み込んでいく。 
 ターミナル・ケアがひょっとしたら、閉塞された医療の世界や、動脈硬化が激しい仏教界にとって、ダイナミックな変革をもたらすかもしれない、あるいはそうでなくても、規制の価値観とは異なったもうひとつの道を選ぶ起点になるかもしれない・・・


 この本は、「仏教がターミナル・ケアとどう関わることができるか」を模索する著者の真摯な旅の記録であり、読者にもその旅を共にすることを可能ならしめるガイドブックと言うことができる。

 旅の最初で著者は、チェルノブイリ支援活動のときに出会った現地の老人たちのサマショール(わがまま)を描き出す。放射線によって汚染され閉鎖された地域に、「生まれ育った村だから」という理由で、移住を拒み住み続ける老人たち。それを単なる「わがまま」として片付けていいものだろうかという著者の問いは、リビング・ウイル(Living Will=生者の意思)に思考をつなげる。
 病名(余命)告知を望むこと。インフォームド・コンセントを望むこと。医療による延命処置を拒絶し尊厳死を望むこと。病院や施設ではなく在宅での家族に見守られての死を望むこと。やり残したことを叶え、思い残しや悔いがないように、残された時間(=生命)を有効に使うこと。
 リビング・ウィルには、こうした「死にぎわのわがまま」に加え、「死後のわがまま」もある。
 生前に葬儀のあり方を指定すること。戒名を拒否すること。弔われ方(お墓)を選ぶこと。遺書を残し死後の混乱から家族を救うこと。
 著者は、これらの「わがまま」を「人間本来の、根源的な欲求に従ったリクエストである」と考え、肯定すべきものと捉える。 

 リビング・ウィルは多分この国の医療事情や宗教界を大きく揺るがし、そして命の最期を劇的に演出することになるだろうと感じる。
 著者は「いのちへの働きかけ」という観点から、あるべきターミナルの姿を浮き彫りにしようと試みている。それは著者が紹介している「世界をリードするボランティアスピリッツ」の定義、すなわち「慈善」や「奉仕」といった狭いものではなく、「いのちをまもり、いのちを育て、輝けるいのちを讃えること」に則っているのである。
 むろん、このようなターミナルにおける「わがまま=理想」が実現するには、それを可能とするだけの社会的素地がなければならない。戦争や貧困や国家による思想統制や人権侵害があるところでは、人は自由に生きられないのと同様、自由に死ねない。
 第二次大戦の戦没者を慰霊するビアク島やレイテ島への旅の模様を通して、著者は「わがままが拒絶された死」の悲惨さ、不条理に慟哭する。 
 そのとき現地のガイドが、ぼくの足元を指差しながらぼくに言った。「タカハシさん、ボーン、ボーン」。
 ぼくはその言葉の意味がすぐにはわからなかった。ボーン? 骨とは何だ? 何の骨だ? 
 泥水に手を差し込んだとき、ぼくは兵士の遺骨を探り当てていた。
 累々たる遺骨の上にぼくは立っていたのだ。高度経済成長の真っ只中に生まれ育ち、いのちの意味など、あるいは人間の終末や死のことなど、深く考えたことのないぼくの足下に、不条理きわまりない常態ですでに死を遂げた兵士たちの遺骨がある。それをぼくは踏んでいる。身体中を戦慄が走った。小刻みに身体が震えはじめ、その震えは次第に大きくなり、涙があふれた。

 著者の語りは、思弁的なものではない。僧侶ではあるが、経典を基盤とした教化的なものでもない。死をめぐる様々な見聞と、著者自らの体験と、その道のプロとの対話と、ボランティア活動を通して得られた実感と、「飛び職」ならではの幅広いネットワークと柔軟な頭と謙虚な学びの姿勢とによって醸成された、上っ滑りでない肉体化した思想である。そこが好感の持てるところで、また信用の置けるところである。

 著者は、イギリスのホスピスで研修を受け、帰国後はホスピスケアの啓発に努めている医師・内藤いづみに話を聞きにいく。
 内藤は言う。 
 私、宗教家の役目は、「死は恐いものではない」ということを、残された人びとに伝えることだと思うんです。なぜなら私たち医師が死を非常に恐れているんです。死が恐怖なんです。・・・・死は恐くないんだということを、残されたお嫁さんやお孫さんたちが確認して、「ああ、これだけ精一杯看取らせてもらって本当によかった!」という満足感が生まれたら、グリーフワークはうまくいくんです。
 また、ラジオ「全国こども電話相談室」の回答者で有名になった、曹洞宗の僧侶で教育家でもある無着成恭との対話も興味深い。 
 日本人の信仰の対象はお金なんですよ。お金があれば何とかなる、お金だけが信用できる、となると人間の精神構造は全部破壊されるわけです。そこを救うことができるのは仏教だけだとわたしは思うんだけどもね。仏教は経済主義になじまないものなのだ、ということを日本人にわからせなければならない。もっといえば経済主義というのは人格となじまないものなのです。

 日本人は経済的には難民ではないけれど経済主義という立場に立ったときには完全に人間の心を失った難民の状態に置かれているということです。

 あなたの宗教は何ですかという問いかけは、あなたは人間だろう、人間である以上は欲望にきりがないはずだ。その欲望をどのようにコントロールするんだという問いかけになるんです。そのときに、欲望をコントロールできない人間は人間じゃないということが裏にあるわけで、人間の資格というのは、欲望をコントロールする原理を持つものということなんですよ。つまり、欲望をコントロールする原理を持つということは宗教を持っているということですね。そのことがわかんない限り人格の形成というのは成り立たないんですね。
 子供の無邪気な質問にユーモアを持って回答する優しく剽軽なおじさんのイメージしか無かった無着成恭が、こんなに芯の通った仏教者であるとは知らなかった。キリングフィールドで知られるポル・ポト政権下では、寺院は破壊され、仏像の首は打ち落とされ、経典は焚書の対象とされた。無着先生は、カンボジア仏教再興のため、ただ1セット残っていた『南伝大蔵経(トリピタカ)』を印刷し、カンボジアに送るという活動を先頭を切ってやっていたそうである。

 「仏教はターミナル・ケアにどう関われるか」という問いの答えを求める著者の旅は、最後に大きな試練が待っていた。
 著者の師である閑栖和尚、すなわち実の父親の看取りである。 
 中央病院での三日間の検査データは、閑栖和尚の身体にガンが巣くっていることを明らかに示していた。前立腺ガン、しかも顔つきが悪いとされている「未分化ガン」であるという。この時点から閑栖和尚に対して医療チームや家族によるターミナル・ケアが始まったといえる。
 禅僧らしく、「生死を超越した意識を持つこと」を日頃から標榜し、自己探求の修行を積んできた和尚は、告知を冷静に受け止め、今後の治療方針の決定現場にひょうひょうと立ち会い、「与えられたいのちを精一杯生きて」いる自信に満ちていた。
 しかしながら、強烈な痛みが身を貫き、入院を余儀なくされるようになると、死を間近にとらえ、万事にアセリを感じるようになる。
 そこから死の受容に向けての七転八倒=ジタバタが始まる。
 「死にぎわのわがまま」を言い、「死後のわがまま」を息子に命じ、親友との今生の別れに号泣する。このあたり、禅僧と言えどもまったく庶民と変わらない。
 著者は、苦痛に呻き、著者(息子)の胸に顔をうずめ、裸の肩を震わせる父親に対し、成すすべを持たない。 
 ぼくが小さいとき、和尚はいつも颯爽としていた。そして和尚がぼくを子どもと見るよりは弟子と見ていたことを幼い頃、敏感に感じていた。・・・・和尚は、ぼくにとって決して同じ地平には立てない謹厳な師であった。その師が、いますべてをぼくに託している。ぼくの胸の中でなすがままになってしまっている。こころの中を悲しみが吹き抜けた。人間に与えられたいのちの摂理とその有無を言わせぬ残酷さが目の前に展開した。この場を果たして宗教はどうとらえるのだろうか。どう説明し納得させるのだろうか。
 仏教はこんなときこの親子にどういった言葉を投げかけるのだろうか。仏教のインサイダーとしてぼくがいままで学んだ仏教やターミナル・ケアの知識、そして実践は、もろくもしかも簡単にそして完璧に崩れ去った。
 痛みは麻酔薬の注入によって嘘のように退いていく。が、和尚の現実の意識の中に夢が混入し始める。
 最後のわがまま「家に帰りたい」が叶えられるや、すぐに完全な昏睡に入り、三日後に息を引きとる。愛する家族や弟子に見守られながら。

 閑栖和尚の死に方は、著者の考えるターミナルのあるべき姿、ターミナル・ケアの理想的な形をまさに具現したものと言える。 
 序章から終章に至るまでぼくたち家族や弟子、そして心かよわせる人たちが真正面から和尚の死に付き添った。その充足感は死の悲しみを超えた。こういったケースは多分理想的なものであろう。だが願えばできる、そして真摯な生きざまをぎりぎりのところで逃げずにぶつけることで、いのちは輝く。そして癒される。
 それだけに、父親を弔った後の著者の述壊は重く響く。 
 父のエンドステージを見たとき、どう考えても仏教が入り込む余地が見つからなかった。父が禅僧で、僕も禅寺の住職であるのに、仏教が入り込む余地がないというのはおかしいじゃないか、と思われるかもしれないが、本当に入り込めなかったのだ。その理由は多分、こころよい「家族の絆」というものがそれらを必要としなかったからではないかと思う。あえて言えばその絆が宗教なのだと思うのだ。

 父の死は、ターミナル・ケアに仏教がかかわることによって、仏教界のエネルギーを充填しようというぼくの考えがひとりよがりのわがままであったことを気づかせてくれた。

 仏教がもしもターミナル・ケアの現場にかかわることができるとするなら、それは地域の中での寺の日常の仕事を再検討し、こころよい家族関係の構築や、人間関係あるいは人間と自然との協調関係を提起し、実践する提案をすること、そして死とは何かを深く問いかけ、死に向かういのちの存在を認識すること、つまりデス・エデュケーション以外にないのではないかと最近思いはじめている。

 さて、自分は仏教徒であるけれど僧侶ではない。身内の死を看取った経験もない。
 だから、著者のこの結論について何かを言う資格があるとは思えないのだが、「その通りだ」と共感する。
 これまで仏教の「ぶ」の字もかじったことのないターミナルの人間の前に、いきなり袈裟を着た坊さんがしゃしゃり出て、「お釈迦様はこう言ってます」とか「仏教では輪廻転生を説いています」とか「極楽浄土で阿弥陀如来が待っていますから、安心して旅立ちなさい」などともっともらしく言うのは、顰蹙を通り越して、患者や家族を憤死させかねない振る舞いである。たとえ、それが真実であっても、死に逝く者や看取る者が求めているものは別のものである場合が多いからだ。死に逝く者が求めているものを可能な範囲で与えられてこそのターミナル・ケアであろう。であってこそ、人は安らかに死ねる。
 仏教思想や経典の言葉や僧侶の臨在が役に立つとしたら、それは死に逝く者が生前それらに親しんで、それらを生きる指針として、自らのアイデンティティの核として恃んできた場合であろう。仏教だけではなく、キリスト教など他の宗教の場合も同様である。
 つまり、著者が言うところの「デス・エデュケーション」を仏教を通して学び培ってきた延長上に、ターミナルにおける仏教および僧侶の役割も自ずから生じるだろう。
 そこで気になるのは、このデス・エデュケーションが果たして今の日本の仏教にできるのだろうかという点である。

 著者の父親はまじめな禅僧であったが、ターミナル・ケアに関わることを拒んでいた。 

 あるとき、父とターミナル・ケアを話題としたことがあった。父は即座に「おれには無理だ」と断言した。禅坊主としての生きざまを父は自分の寺で具現していた。神宮寺という檀家との大きな交渉を持つてらに住職し、社会とのつながりの重要性を認識していた父ではあったが、日々、自分を磨くことを第一義としていた父には、死に逝くものへの直接的で具体的な支援など考えたことがなかったに違いない。そして、極楽なぞは自分自身の内に在るもので、見もしないことを見てきたように語れるものではない、と言うのは当然だと思う。
 ターミナル・ケアなどというものは、禅の本旨を捨て、社会に迎合した偽善で、自分にはとてもできない、という父の拒絶の言葉である。

 しかしーー自分は思うのだがーー仏教が現代日本人のターミナル・ケアに向き合えなくて、いったい誰が、どの宗教が、どの哲学がそれに向き合えると言うのだろう。
 「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」という仏教の核心こそ、ターミナル・ケアのキーワード足りうるものだ。なぜなら、死の苦しみとは、身体的な苦痛を別にすれば、つまるところ「我(アイデンティティ)」を喪う苦しみにほかならないからであり、「我」というものが幻想に過ぎないということを説くのが仏教の真骨頂であるはずだからだ。
 終末期医療の用語に「セデーション(sedation)」というのがある。薬を使って意識を意図的に落とすことで、肉体的・心理的苦痛を感じなくさせる治療のことを言う。仏教の働きは、薬を使わない、意識を落とさない、心のセデーションなのだと思う。老いと死の心理的苦痛の元凶である「我」を、徐々に、確実に、退治していく。その具体的な方法は、修行によって智慧を開発し、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」が真実であることを確信することである。
 デス・エデュケーションとはそのまま仏教のことなのだ。ターミナル・ケアとはそのまま仏教の謂いなのだ。
 違うだろうか。
 「死にぎわのわがまま」や「死後のわがまま」を自分も著者同様、肯定する。それが許されるような平和で自由な社会を維持することは大切である。
 一方で、「我」が肥大化するのと並行して、「死にぎわのわがまま」や「死後のわがまま」も肥大化するであろうことは想像に難くない。そのぶん、その「わがまま」が叶えられないときの苦しみは大きくなるであろう。

 既存の仏教(大乗仏教)が果たしてデス・エデュケーションできるのだろうか、という自分の懸念は、それらがこうした仏教の本来を見失っているように思えるからである。「阿弥陀如来に念願すれば極楽浄土に行ける」とか「ひたすら念仏を唱えれば往生できる」とか、中世の人間ではあるまいし、だれが本気にできようか。座禅をすれば心は落ち着くかもしれない、禅定に入って神秘体験をするかもしれない。だが、それが「我」という難物を退治する役に立つのだろうか。

 仏教がターミナル・ケアの現場に関わるためには、まず既存の仏教団体および僧侶ひとりひとりが、仏教の本源に還り、八正道を実践し、瞑想修行によって智慧を開発し、ブッダの説いた言葉の真意を自ら確信し、それを自らの生き方のうちに現していく。
 それが本道ではないだろうか。 






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