ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 田中絹代と市原悦子の共通項 映画:『お遊さま』(溝口健二監督)

 1951年大映。

 見るべきは田中絹代の気品ある姉様ぶりと、宮川一夫のカメラ。どちらも際立った瑞々しさと風格がある。この二人は日本映画の至宝として、あまたの名匠や名優を措いても「いの一番」に殿堂入りすべき二人であろう。

 それにしても、飛びぬけて美人でも華があるでもない田中絹代がなぜこうも存在感があるのだろう。
 美しさという点では、映画の中の妹・お静役の音羽信子の方が「べっぴん」だろう。だが、観る者は劇中の慎之助(堀雄二)同様、お静よりも後家である姉のお遊(田中絹代)に惹きつけられる。
 もちろん、田中の演技の巧さがある。宮川のカメラマジックも預かって力ある。

 観る者を惹きつけて止まないのは、実は田中絹代の喋りにあるのではないだろうか。
 あの余分な力がいっさい入っていない自然な(自然のように聞こえる)なだらかな口調と、声音に含まれる郷愁をそそるような深い滋味ある響きこそ、彼女の魅力の秘密にして武器ではなかろうか。同じタイプの女優を挙げるなら・・・そう、市原悦子である。
 市原が『まんが日本昔話』のナレーターとしてその真価を示したように、田中の語り口もまたどこか昔話の語り部のような響きがある。それは、観る者(聴く者)を母親の膝で物語を聞いた幼子の昔に戻す。幾重の時代も受け継がれてきた日本の庶民の哀しみと貧しさと大らかさを耳朶に甦らせる。
 その快楽に惹きつけられない者があろうか。
 幼くして母親を亡くした慎之助が惹かれるのも無理はない。

 我々は映画の中の役者を見るときに、どうしても視覚的魅力にこだわってしまうけれど、サイレント映画でない以上、聴覚的魅力というものも実は馬鹿にならない。気がつかないだけで、役者の魅力の半分は占めているのである。
 いやいや、映画の中だけではない。日常生活においても、自分で思っている以上に、声の魅力、口調の魅力、話し方の魅力に我々は影響されているはずである。
 
 史書によると、クレオパトラは確かに美女であった。けれど、周囲の男たちの心をとらえたのは、彼女のまろやかな話し声と、人の話を楽しそうに聞いてくれるその笑顔であったという。

 田中絹代や市原悦子はまさに「声美人」なのである。




評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 本:『なぜ、脳は神を創ったのか?』(苫米地英人著、フォレスト出版)

なぜ、脳は神をつくたのか なんと言っても本のカバーに記された著者プロフィールの量に圧倒される。
 老眼には厳しすぎる細かいポイントで43行×25字=1000字びっしり、苫米地氏の輝かしい経歴とこの世における成果の数々がここぞとばかり刻まれている。同じようなプロフィールは、ドクター中松と深見東州に見た覚えがある。
 だからなんだ、というわけではないが、自身をここまでアピールする人間に反感とは言わないまでも胡散臭さを感じてしまうのは、日本人である証拠だろうか。それとも単なる羨望か。こういった燦然としたプロフィールを見ると、イソップに出てきた他の鳥の羽根で自らの体を飾り立て自慢していたカラスの話を思い出すのである。
 いずれにせよ、著者のなんたるかはその著書が何よりも語ってくれよう。

 一読、苫米地氏の言っていることには同感できるものが多かった。(なんのこった!)
 自らの主義主張を押しつけるというものでは全然なく、客観的・論理的に神とは何か、宗教とは何か、宗教の役割とは何か、といったことを、いくつかの興味深いエピソード(広島・長崎に原爆を投下したエノラゲイには実は乗員達の心の安定をはかるべくカトリックの神父が乗っていたなど)を織り交ぜ、分かりやすく説明している。

 著者の意図はどこにあるのか。

 本書では、
・ なぜ、人は宗教(信仰)を求めてしまうのか?
・ なぜ、幸せを求める信仰心が人殺しにつながるのか?
これらのことを、脳科学、認知科学、分析哲学の視点から解明し、これからの時代、宗教に頼らなくてもいい幸福な生き方を探っていきたいと思います。

 
 著者は、人が宗教(信仰心)を求めてしまう3つの理由を挙げている。

① 人間が(自分自身が)不完全な情報システムであることを自覚して、完全な情報システムに対する憧憬や畏怖の念が生まれるから。
② 自分が持つ自我と情動を祖先から受け継いだものととらえ、祖先崇拝(シャーマニズム)が生まれるから。
③ 死への根源的な恐怖によって、死後の世界に対する何らかのストーリーが生まれるから。 

 完全な情報システム(=神、主義、思想)に対する信仰心が宗教現象を生み出していくが、組織化した宗教は政治や戦争に利用され、世の中を混乱に貶めていく。キリスト教徒もイスラム教徒もそれぞれの「神の名のもとに」闘って殺戮を繰り返している現況を見れば、宗教というものが人類にとっていかに愚かな、危険なおもちゃであるかが分かろうものである。

 苫米地はそこでニーチェばりに「神は死んだ」と述べ立てる。
 いや、苫米地が血迷って勝手にほざいているのではない。現代数学でそのことが証明されていると言う。

 宗教哲学者のパトリック・グリムは、1991年にグリムの定理を発表し、神は存在しないと証明しています。
 彼の証明は、数学で記述されているのですが、簡単に言葉でまとめれば、「神を完全な系として定義するとゲーデル=チャイテンの定理により、神は存在しない」という非常にシンプルなものです。

 グリムの定理が発表された1991年は、神が正式に死んだ年だといわなくてはなりません。

 次なる疑問はこうなる。

 我々は神(信仰心)なしで生きられるのだろうか?

 ここで苫米地が持ち出してくるのは、釈迦=仏教である。

 およそ2500年前に、釈迦は、「ブラフマンはいない」と唱えました。人々がみな神を信じ、その権威のもとに生きていた時代に、その存在を真っ向から否定したのです。

 ブラフマンとは、当時インドで支配的であったバラモン教において「宇宙の根本原理」とされる究極で不変の存在である。

 釈迦は、神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決してしまいました。
 神を必要とする理由のひとつは、部分情報である人間が完全情報に憧れることです。そこで、釈迦が「完全情報はこの世にありません」といえば、あこがれは消えてしまいます。
 また、死を恐怖する人に対しては、「死んだら、その怖がっている君はいないんだよ」の一言で終わりです。


 釈迦の教えは、神が人間に寄せる無条件の愛といった、人間の心に強烈に突き刺さる幻想を売り物にはしていません。むしろ、人間にまとわりつくそうした幻想を徹底的に剥ぎ取り、その足かせや頸木から自由になることを教えています。
 その意味で、宗教的には非常に貧弱かもしれませんが、神の存在が科学によって正式に否定されたいま、思想的には非常に強烈な生命力を放ちつつあります。

 まさに革命的なブッダの思想は、今もテーラワーダ(いわゆる小乗仏教)に伝え続けられているが、その昔根本分裂によって分かたれ生まれた大乗仏教が、中国を経て日本に到来する間に、いかに変貌したか、なぜ変貌したかを分析している章は非常に面白い。日本の仏教では読経と苦行が重視されているが、そのどちらもブッダは重視しなかった。ブッダが出家達に勧めたのは瞑想であるが、この肝心な瞑想のノウハウは日本には伝えられなかったのである。

 さて、人々が宗教にたよらない世界、精神的に完全に自由である世界、絶対的な唯一の価値が存在するという幻想が否定された世界において、なにが一番大切か。
 苫米地は語る。  

 私が真っ先にイメージする世界は、餓死する人間が1人もでない世界です。
 日本国憲法をはじめ、たいていの国の憲法で保障されていることに、生存権があります。これをまず。世界的に保障することです。
 そして、もうひとつ必ず保障しなければならないのは、機会の均等です。

 ここにいたって、苫米地英人という人物が極めてグローバルな視点を持つ、博愛主義者であることが知られる。
 プロフィールの長さだけのことはある人なのかも・・・・・。



● 映画:『エボリューション』(アイヴァン・ライトマン監督)

 2001年アメリカ。

 SFコメディ。宇宙から飛来した謎の物体に宿る未知なる生命体は、瞬く間に単細胞から多細胞へ、昆虫、植物、無脊椎動物を経て、魚類、両生類、爬虫類へ、そして大型化し空飛ぶ恐竜や猿人類に・・・・。
 と、生命の進化(evolution)が猛スピードで成し遂げられていく様子がCGで描かれていくのが見物である。それぞれの生物のデザインも凝っていて面白い。
 増殖していく新生物たちは凶悪な性質を持ち、このままだと地球は乗っ取られてしまう。
 そこで、我らがヒーロ達は立ち上がる。

 出世作『ゴースト・バスターズ』同様、このヒーロー達がちょっと抜けていたり、ださかったり、ファンキーだったり、ドジだったり、親しみが持てるところがライトマン監督の独壇場である。中でも、黒人の研究者ブロック役のオーランド・ジョーンズとちょっとネジが緩んでいる消防隊志願者ウェイン役のショーン・ウィリアム・スコットがいい味出している。ここでもまたジュリアン・ムーアは巧い。

 ライトマン監督はSFとコメディの絶妙なバランスをとることに成功している。
 楽しい映画である。



評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭に行く

 5/12土曜日、テーラワーダ仏教協会主催のウェーサーカ祭に参加した。(渋谷区立文化総合センター大和田)

 ブッダの誕生・成道・入滅という三つの偉大なできごとを記念するイベントで、テーラワーダ仏教諸国(タイ・ミャンマー・カンボジア・スリランカ・ラオスなど)では最も神聖で盛大な法要とされている。
 日本では4月8日がブッダの誕生日とされ、甘茶を誕生仏に注ぐ花祭りが行われているが、テーラワーダでは誕生・成道・入滅の3つともが5月(インド暦のウェーサーカ月)の満月日に起きたと伝えられ、国の祝日になっているのである。

 参加するのは4回目になる。
 いつの間にか毎年恒例の行事になってしまった。このイベントに参加することで、マンネリに陥りがちな瞑想修行にカツを入れ、新たなエネルギーを充電するのである。

 参加者は200名くらいだったろうか。例年より若干少ないような気がする。
 いつものように、日本の大乗仏教各宗派の僧侶達とテーラワーダの僧侶達とが客席の間を縫って入場し、舞台に上がる。
 面白いのは、舞台左右に居並んだ二つのグループの僧侶達を客席から見ていると、ずいぶんと雰囲気が違うのである。
 日本の僧侶達は、大方黒い法衣を着て金色の袈裟をまとっている。座禅を組むように背筋をピンとのばして椅子に座り、長時間でも微動だにしない。宗派は違っても統一された規律を感じさせ、整然として見事である。読経の声もきれいに揃っている。
 一方、テーラーワーダ(主にスリランカの僧)の僧侶達は、日本では目立つことこの上ない派手なオレンジ色の袈裟をまとい、大きな団扇を手にしている。椅子にべったりと腰掛け、大切な儀式の最中とは思われないほどくつろいでいる。熱いのか団扇で顔をあおっている者もいる。隣の僧侶と耳打ちしている者もいる。読経は各人てんでばらばら、節を一つに合わせようという思いもないようだ。
 これだけパッと見ると、日本の僧侶達のほうがカッコいいし、格が高そうに、精神的にランクが上のように見える。普段の修行の成果がこういうところに顔を覗かせるのかと思ってしまう。
 しかし、これは国民性というものだろう。日本人はやはり、規律と統一を美しいと感じるし、儀式の中に美や崇高さを見出したがる傾向がある。告別式がいい例である。
 だが、外面の美や崇高さが内面のそれと連動しているかと言えば、そういうわけではない。    
 例えば、規律と統一と言えば軍隊だろうが、軍隊にスピリチュアルな高さを求める者は三島由紀夫のような倒錯者をのぞけばよもやおるまい。
 加えて、仏教の悟りの第一段階である預流果(よるか)を得た人の特徴として「戒禁取(かいごんしゅ)」がある。特定のしきたりや行にこだわるのは意味がないと悟ることである。迷信や占いの類い、儀礼、典範、作法、禁忌などがナンセンスとわかって、それらにとらわれないのである。
 今回日本に招かれた舞台上のテーラワーダの長老達は、少なくとも預流果は得ておられるだろうから、こういった儀式(法要)に臨む際も、日本人のようにしゃちほこ張って生真面目に振る舞うことはないのであろう。

 さて、余興として、カンボジアの古典舞踏を鑑賞したあと、休憩を挟んで、行事の目玉であるスマナサーラ長老の記念法話を聞く。
 今日のテーマは「在家はどのように生きればよいのか」。
 ブッダと、そのいとこであるマハーナーマとの対話を記録した経典から説かれる。

 マハーナーマの上記の問いに対して、「それは素晴らしい質問です」と褒め讃えたあとブッダは次のように答える。
 
「5つのものを育てなさい。」
 
1.信(確信・納得)
 これは「信仰」ではない。仏教は信仰するものではない。物事を客観的に徹底的に自分で調べて納得することである。

2.精進
 決して怠け者にならないように。人間はほうっておくと怠けるようにできている。

3.念(気づき)
 いつも気づきを保てるように。

4.定(集中力)
 集中力が現れるように励みなさい。心が混乱した人間にならないように。

5.智慧
 無知の人間にはならないように。
 
「そのための6つの実践方法があります。」
 
1.仏を念じる
 と言っても、「南無阿弥陀仏」などのいわゆる念仏ではない。完全に悟った人、真理に達した人(如来)のことをいろいろ調べ、その人のようになりたいと励むこと。

2.法を念じる
 ブッダの説いた法(ダンマ)について自分で観察する。

3.僧を念じる
 ブッダ同様、真理に達した阿羅漢達のことをいろいろ調べ、その人達のようになりたいと励むこと。

4.戒(道徳)を念じる。
 汚点なく、隙間なく、自分が戒律を守っていることを観察する。

5.チャリティを念じる。
 自分の普段行っている布施行為、寄付行為、ボランティアなどを観察する。

6.神々のことを念じる。
 この神はキリスト教やイスラム教にみる一神教の神ではない。仏教にはその種の神はいない。経典に出てくる神は、人間とは別次元(天界)に住む生命のことで、創造者でも完全無欠でもない。それなりの力は持っているが、悟りに達しておらず、凡夫同様、ブッダに教えを乞う存在である。だから、神を念じるとは「祈る」ことではない。
 経典を読むと、ある神が生前どのような良い行いをしたおかげで、死後天界に行けたかが書かれている。こうした神の行いを観察して、善行為をつくるよすがにしなさいということ。


 ウェーサーカらしいテーマの法話だったのだが、はじめたばかりの仕事(介護)の疲れで眠くてたまらなかった。もったいない。
 テーラワーダの僧侶達による最後の祝福の読経もあたかも子守歌のように心地よく・・・・・。

 


● ダイナミズムを演じる女優 映画:『夜の女たち』(溝口健二監督)

 1948年松竹。

 溝口健二はフェミニストだろうか?
 社会派だろうか?

 もちろんこの質問は反語である。
 溝口健二はフェミニストでも社会派でもない。


 『祇園囃子』『赤線地帯』そしてこの『夜の女たち』と並べると、どの作品も共通して、(男)社会の中で弱い立場に置かれ虐げられている悲惨な女たち―売春婦―を描いているので、一瞬、溝口は「女の味方」であり、こういった不平等で残酷な社会に対して現実を示すことで一石を投じているのだと思いたくなる。
 しかし、『西鶴一代女』を挙げるまでもなく、溝口はこういった女たち、女性群像を好んで描いているのである。つまり、「転落する女の姿」に対するフェチズムがあるのではないかと思うのだ。
 であるから、これらの映画に出てくる女たちが売春業から足を洗って更正する姿は決して書き込まれることはなく、一等底に落ちた地点で物語は終わるのである。女たちを更正させようと目論む善意の人々のかけ声のなんとしらじらしいことか。溝口は更正を信じていないかのようである。
 しかるに、なぜか不快な印象を与えないのは、溝口がこれらの女たちに向ける視線にはまぎれもない愛情と讃嘆の念が宿っているからである。自分が愛し讃美するものの転落する姿を悦ぶというのは倒錯に違いない。それとも、転落してはじめてその女を愛することが可能となるのか。としたら、溝口の劣等感は強烈である。

 例によって、田中絹代が圧倒的に見事である。
 きまじめな戦争未亡人が、ひょんなことから夜道で客を獲るパンパンに身を落としていく、その変わり様をまったく不自然を感じさせず、いずれの役をもリアリティを持って演じている。これを観ると、小津安二郎が『風の中のめんどり』においていかに田中絹代を生かせなかったかが非常に良くわかる。どちらも普通に暮らしていた未亡人が春を売らざるをえなくなるという設定であるのに、小津には溝口のようなダイナミズムが感じられない。そう、小津が描いたのは「喪失」であって「転落」ではなかった。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5091416.html )
 そして、田中絹代はなによりダイナミズムを演じる女優なのである。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『その男は、静かな隣人』(フランク・カベロ監督)

 2007年アメリカ。

 原題はHE WAS A QUIET MAN.
 犯罪が起こった時に犯人を知る隣人たちがテレビカメラに向かってよく言うセリフである。日本語にするなら、「大人しそうな人でしたよ」ってところか。
 この「大人しそうな」男の内面を描いた映画である。

 カメラも良く、テンポも良く、諧謔精神に富み、退屈することなく観られる。
 しかるに、後味が悪い。
 最近よくある「夢落ち」もの。つまり、話の流れのある一点(映画の一場面)で時間は止まっていて、それ以降画面に流れるストーリーは主人公の夢や妄想や白昼夢であった、それが結末に至って暴露される、という構成。
 物語につきあう側からすると、「夢落ち」はある意味反則だと思うので、よほど巧い使われ方をしないと、落胆するか頭に来てしまう。「ここまで観る者を引っ張っておいて、その決着はないだろう」と感じてしまうからだ。
 今まで観た映画の中で「夢落ち」が巧く機能していると思ったのは、『未来世紀ブラジル』(1985年)、『オープン・ユア・アイズ』(1997年)、『パッセンジャー』(2008年)、『ステイ』(2005年)なんかである。いずれも「夢落ち」というトリックが、単なるトリックのためのトリックになっておらず、物語のテーマや主人公の置かれている心理状況と強く絡み合った現象として位置されているので、結末が分かった時に、謎が解けたカタルシスと同時に物語のテーマや主人公の心理がより一層観る者に伝わる仕組みとなっている。
 この『その男は、静かな隣人』は、そう言う意味で、「夢落ち」が失敗しているように思う。それまで延々と語られ、観る者がつきあわされてきた「ほのぼの恋愛サクセスストーリー」が、実は主人公ボブ(クリスチャン・スレイター)が死ぬ前の一瞬の間に頭の中で描いた「夢」だったということを知った時に、あまりいい気持ちがしないのだ。
 なぜなら、観る者は最初のうちこそ、鈍重でオタッキーで野暮ったい窓際会社員ボブに反感を持つとは言わないまでも好意を抱かないけれども、ボブが身体障害者となったヴァネッサ(エリシャ・カスバート)とつきあい始めるあたりから、ボブの不器用さと純情ぶりに共感を持ち始めるからである。つまり、ボブに感情移入し、応援している自分に気づくようになる。これは、クリスチャン・スレイターの演技が素晴らしいからである。そしてたぶん、観る者はこの不器用なボブの後ろに、麻薬や痴漢や拳銃不法所持などの不始末を重ね続ける不器用な役者クリスチャン・スレイターの姿を重ね合わせる。応援したくなるのが人情ではないか。
 そこに来て「すべては夢でした」はあんまりだと思うのである。

 作り手の狙いとしては、競争社会の落ちこぼれが抱えたストレスと精神の病みが一縷の望みのごとく紡ぎ出す妄想と、その絶望的な末路を描くことで、現代社会の不条理を伝えたかったのだろう。
 が、現代社会の不条理というもはや陳腐なテーマを伝えるのに「夢落ち」が許容できるかという点は於くとしても、クリスチャン・スレイターはミスキャストであろう。

 


評価: C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● ミッドウェー再び 本:『日本人と「日本病」について』(岸田秀×山本七平対談、文春文庫)

日本人と「日本病」 唯幻論を説く精神分析学者・岸田秀と従軍経験のある歴史学者・山本七平との対談。
 1980年に刊行しているから、すでに30年以上の歳月が過ぎている。この間に日本にはいろいろなことがあった。個人が起こした事件は除いて、すぐに思いつくものを挙げるだけでも、


 日本航空123便墜落事故(1985)
 リクルート事件(1988)
 大喪の礼(昭和天皇の逝去)(1989)
 バブル景気とその崩壊(87~91年)
 PKO協力法の成立(1992)
 阪神・淡路大震災(1995)
 オウム真理教(1995)
 薬害エイズ裁判(1997)
 自衛隊イラク派遣(2003)
 政権交代(自民党から民主党へ)(2010)
 東日本大震災・津波・福島原発事故(2011)


 こういった日本全体を巻き込み、日本人のほとんど全員に影響を及ぼしたような大事件をその因果関係やその当時の風景(世論、人々のふるまい、空気、対処の仕方など)と共にふりかえってみると、やはりそこには日本人が持っている国民性が共通して浮かび上がってくることに気づく。
 そしてそれは、ここ30年に限らず戦後を通して、いや戦前・戦中も維持されてきたものであり、遡れば文明開化や江戸時代のペリーの来航にまで、さらに遡れば中世、古代、弥生・縄文時代まで源をたどることができる。それでこその国民性である。
 その国民性が吉と出るか凶と出るかは、日本の場合、多くは外国との関係によって決まってくる傾向にある。鎖国が可能な極東の島国、という条件がこの国民性を滋養した一つの大きな要因であるが、それは同時に、外国との折衝を持たず一国のみですべてがマネジメントできている間ならばこの国民性はうまく働くということである。
 しかし、ペリー来航以降に見るように、外国(近代欧米国家)との「取るか取られるか」の弱肉強食の猟場に引きずり込まれると、この国民性は不利に働く。
 そこで、明治政府は温州みかんにレモンを接ぎ木するが如く、日本の国民性の上に無理やり近代西欧的な価値観やスタイルを接合させた。あるいは、中国の纏足のように、近代西欧文化という枠組みに日本人を合わせようとした。

 精神分析の徒である岸田によれば、この無理強いこそが、日本人を精神分裂病に招き、バンザイ突撃やカミカゼ信仰に象徴されるような太平洋戦争時の奇矯なふるまいや、先にあげたような重大事件に際してはからずも露呈するような、近代国家の視点からすると「不可思議きわまりない」日本国家及び日本人のふるまいの原因となっている。むろんそれは、今も続いている。

 欧米諸国が内的な必然性を持って、すなわち「内側から」自発的に、近代国家への道を歩んでいったのにくらべ、日本は何ら内的必然性を持たないままに、「外側から」無理やり近代国家に仕立て上げられていったところに悲劇があった。たとえは悪いが、性欲の自然な高まりと異性への関心の増加によって最初の性交に至るのと、性欲もまだ湧かず異性への関心もまだないのに無理やりレイプされてしまったのとの違いであろうか。
 可哀相な我が日本よ・・・。


 だが、もし黒船が来なかったら、開国要求や植民地にされる危機がなかったのなら、日本人は太平の江戸時代の末に近代欧米化への道を自発的に歩んだのであろうか?


 おそらく、違ったであろう。
 なぜならば、前近代の欧米諸国とペリー以前の日本とでは、まったく精神構造が違っていたからである。
 この彼我の違いを岸田と山本七平が述べている部分を適当にピックアップすると、


山本 日本人の社会には神がいないんですね。人間と人間とがいて、お互いの間で相手の立場に立って話し合うわけです。


山本 日本の社会では話し合いさえつけば、ほかのことはどうでもいいのであって、いわば無原則ですよね。ところが彼ら(ソルティ注:イスラム、欧米)は神との間の契約があるから原則だらけで、きわめてうるさい。たとえ個人と個人の間で約束しても、それが神との契約に反していたら、人との約束を破棄しても当然です。

岸田 日本では原則がないというのが原則なんです。


岸田 ・・・日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っているわけですね。


岸田 向こうの(ソルティ注:欧米の)社会とか集団とかはみんなそうですね。家族という血のつながりを断ち切った者たちが、全然別の明確な原理にもとづいて別のレベルで新たな集団を形成するんですね。


山本 日本では何かの集団が機能すれば、それは「共同体」になってしまう。それを擬制の血縁集団のようにして統制するということじゃないでしょうか。


岸田 ヨーロッパ人の自我は神に支えられ、日本人の自我は人間関係に支えられているという違いがあるわけですが、ここが違っているのですから、当然、何が自我の崩壊の不安を呼び起こし、何が恐ろしいかということが、ヨーロッパ人と日本人とでは違っているわけです。ヨーロッパ人にとって恐ろしいことは、神との契約、神の戒律に背いて神の怒りを買うことですが、日本人にとって恐ろしいことは、人々に迷惑をかけ、人々から非難され、見捨てられることです。


  これらをまとめてみると、次のようになる。

           日本                       欧米
 個を超越する  人と人との関係(和)       神
 組織の在り方  擬制血縁による共同体      機能集団(分担と役割)
 関係の基本   話し合い(その場の空気)    契約
 人を縛る     世間の目              法
 原則は      ない                 ある  
 近代的自我   脆弱                 強い

 これでは同じ土俵に上がっても勝負にならない。組織のあり方ひとつ見ても、近代兵器を使った戦争に勝てるはずがない。太平洋戦争で日本は惨敗するが、その原因として岸田も山本も日本とアメリカの戦力の差、物量の差以外のものを指摘する。

岸田 日本軍とヨーロッパやアメリカの軍隊との大きな違いがそこにありますね。日本では、軍隊というのも共同体になるから、共同体の秩序原理が働いて合理的な作戦がとれなかったということがありますね。

岸田 ・・・日本軍は陸海軍とも補給という現実のレベルのことに重きをおいていなかったんですね。日本軍は、現実のレベルではなく、主観的な気分のレベルで戦争をやっていたとしか言いようがない。勇気というものを自己目的化して、退却や降伏に拒絶反応をしたのも、気分のレベルで戦っていたからですね。


岸田 なぜ(日本の戦術は)戦略思想どおりに展開しなかったんでしょうか。
山本 それは確固たる思想がなかったということと、やっぱり日本は共同体ができてしまうんです。大鑑巨砲屋、水雷屋、飛行機屋とそれぞれコミュニティをつくって、自分の存在を主張するもんだから、それぞれバランスをとらねばならず、それで結局、どうにもならなくなった。・・・大体において、確固たる見通しに立って、将来はこうなるんだからこうすべきだという発想がないんだから。(下線ソルティ)
 

 最後の一文は、まさに日本の国民性の最大の欠陥=「日本病」を衝いている。日本には政策というものがない。戦後の日本の政府がやってきたのは、起こってしまった事件に対して不器用に事後処理するだけである。いまの福島原発事故を見るがいい。
 そして、いま50年後、100年後の日本のエネルギー問題について真剣に考えていかなければならないのに、いまだに原状復帰を目指しているありさまだ。
 おそらく福島原発事故は、太平洋戦争でいえばミッドウェーで大敗を喫したのにあたるだろう。日本の敗北がほぼ確定した時点(1942年)である。このときに降伏していれば、その後の本土決戦や沖縄戦、広島・長崎原爆被害を含む何百万という命は失われなかった。日本が侵略したアジア諸国の何千万人にいたっては言うまでもない。しかし、軍部はすでに冷静な判断を失っていた。否、もとから冷静な判断があれば開戦に踏み切らなかったであろう。このあたりは猪瀬直樹に詳しい。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4699834.html
 原発をなおも遮二無二、推進しようとする政財界の動きは、まるで自滅へと突っ走った太平洋戦争時の軍部のようである。過去のトラウマを無意識に強迫的に再現しているのだろうか。

 このような「日本病」をどう治療していくかという点に対談は及ぶ。
 マッカーサーが「日本人の精神構造は12歳」と言ったのを引き合いに出して、岸田はこう述べる。

 もし日本人がまだ子供であるとして、これから精神発達をとげて大人になってゆくとすれば、そのときの大人というものの基準は、欧米の大人の基準とは違った、日本人独自の基準でなければならないと思いますよ。子供から大人になるといったって、日本人を動かしている原理や行動規範の内容が変わるわけではありません。・・・・
 大人と子供の違いは、自分の行動規範をどれほど自覚し、相対化しているか、その通用する限界をどれだけ知っているかにある。たとえば欧米人が自分の行動規範を普遍的だと思いこみ、これが日本人にも通用するときめてかかっているとすれば、その点で彼は幼児的なわけです。これから日本人は、さまざまな外国人の行動規範との関係において、自分の行動規範の違い、相対性、限界を知り、従来のように無意識的にそれに引きずられて何かをやらかしてしまうのではなく、自覚的に自分の行動規範に基づいて行動できるよう、努力すべきではないでしょうか。日本人は日本文化の行動規範によってしか行動できないんですから。それが日本人として大人へ成長するということだと思うんですよ。 

 30年前の対談とは思えない。


● 悟りはどこにある? 本:『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)

奇跡の脳 脳卒中によって左脳の機能の多くを失ったアメリカ在住のエリート神経解剖学者の体験記である。単なる闘病記と異なるのは、彼女が脳に関するプロフェッショナルな研究者であるがゆえ、自分の身に起こっていることを科学者の目で観察し、分析し、推論し、表現できる能力に恵まれていること、そのため一人の患者の体験談を超えて、人間の脳の機能を知る上での興味深いケースとなっている点である。
 母親との二人三脚による賢明にして懸命なリハビリの模様や、周囲からのあたたかいサポートを受けて社会復帰するまでの軌跡も感動的ではあるけれど、何より興味深いのは、左脳の機能を失ったときに彼女に起こった現象そのもの、そして回復の途上で左脳が復活する時に彼女に起こった現象そのものである。


 ある朝、目が覚めると同時に、著者は左目の裏から脳を突き刺すような激しい痛みを感じ、異変に気づく。

(何が起きてるの?)
 わたしは自問します。
(これと似たようなことを体験したことって、あった? こんなふうにかんじたことって、今までにあった? これって偏頭痛みたいな感じ。あたまのなかで、何が起きているの?)
 
 集中しようとすればするほど、どんどん考えが逃げていくかのようです。答えと情報を見つける代わりに、わたしは込み上げる平和の感覚に満たされていきました。わたしを人生の細部に結びつけていた、いつものおしゃべりの代わりに、あたり一面の平穏な幸福感に包まれているような感じ。・・・・・・・
 左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。

 驚くべきことに、左脳の制御から解かれて右脳中心で世界と関わることによって、悟りの境地に達したのである。 

 わたしは生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構築物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。自分が、たった一個の「分子の天才」と形容できる知性から始まり、細胞群が群がる生命の集合体になったことを、誇りに思いました。・・・・そして痴呆状態の知恵により、自分のからだの生物学的な設計のすばらしさからして、それが貴重で壊れやすい贈り物であることを悟ったのです。このからだは、わたしという名のエネルギーが三次元の外部の空間に広がってゆく扉なのです。

 このような不思議な体験を理解するには、右脳と左脳の違いを知る必要がある。脳の専門家である著者が同書の中で説明しているところを大ざっぱにまとめると、次のようになる。


左脳の働き
○ 時間の概念を司る。過去、現在、未来を作り出す。
○ 細部にこだわる。あらゆるものを分類し、比較し、組織化し、記述し、判断し、批判的に分析する。
○ 迅速に大量の情報を処理する。
○ 言葉を司る。定義し、分類し、伝える。
○ 入ってくる刺激に対してパターン化された反応をみせる(パターン認知)。思考パターンのループをつくる。
○ 境界をつくる。
○ 「わたし(アイデンティティ、自我)」を造る。絶え間なくおしゃべりすることで、人生の細部を何度も反芻する。
○ 「物語」をつくる。最小限の情報に基づいて外の世界を理解しようとする。
○ 道を踏みはずさず具体的に行動できる。
○ 完全主義者
○ 「正しいor間違っている」「良いor悪い」で判断する。
○ 財務や経済を重視

右脳の働き
○ 瞬間ごとに周囲の空間を把握し、空間との関係を築く。
○ 現在の瞬間以外の時間を持たない。「いま、ここ」の意識。
○ あらゆることが相対的なつながりの中にある。境界をつくらない。
○ 自発的、気まま、想像的、芸術的、自由奔放、好奇心旺盛
○ 他人に共感する、感情移入する、人類みな兄弟
○ 言葉のないコミュニケーションが得意
○ 変化に対して柔軟に対応できる。
○ 楽天的、社交的、直観的
○ ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認める
○ あらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい
○ 深い安らぎと平和の感覚
○ 人間性を重視
 
 こうやってまとめていると、左脳はずいぶんと頑なでつまらないヤツという感じがする。右脳は子供っぽく、左脳は大人っぽいという気もする。人間はもともと右脳優位だったものが、成長するにつれて左脳優位に変わってゆくのだろうか。

 左脳を損傷した著者は、上記の左脳の働きのほとんどを失ったのである。
 身体上の障害はもちろんのこと(通常左脳が傷つくと右麻痺が起こる)、言葉も理解できなければ喋ることもできない。数字も理解できない。「合衆国の大統領は誰か?」「1+1は?」に答えることができない。三次元でものを見る(奥行きの概念を持つ)ことができず、色も見えない。赤ちゃんに戻ったような感じだろうか。このあたりの記述は、坪倉優介著『記憶喪失になったぼくが見た世界』(朝日文庫)を思い起こさせる。(→ブログ記事http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5192951.html

 著者は、手術とリハビリによる回復への道を選択するのだが、もっとも困難だったことは、「回復する」という意志を持ち続けることであった。いったん、悟りの境地を味わった者がそこから抜けるのは容易なことではなかろう。左脳を回復させるとは、ある種の楽園喪失なのである。

 左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静かな場所にたどり着いたの?」へ変える必要がありました。
 この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

 このような洞察を周囲に伝えようという使命を持って回復への道を一歩一歩たどり始めた著者は、左脳が甦っていくのに連れて、待ちかまえていたように待っていた古い馴染み深い「自我」と遭遇する。

 何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。・・・・・・
 回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。 


 左脳が持っている言語中枢と物語作家としての機能がもたらすマイナス面の最たるものとして、彼女は「マイナスの思考パターンにつながろうとする」ことをあげている。
 これは頷ける見解である。
 自分の思考を、それにのめり込まないで客観的に観察し続けていると、連想ゲームのように一つの事柄から別の事柄へと思考がとりとめもなく移っていき、多くの場合、怒りか欲望かのループにはまることが分かる。意識していないと、思考は手垢のついたソフトを勝手にダウンロードし始め、負のプログラムを起動してしまうのである。それが生化学的な反応を体内に呼び起こし、行動に結びついてしまったら、もう後には引けない。というか、たいていの我々の行動はこの通りに進む。これが、我々の『条件付けられた生』のOS(オペレーションシステム)なのだ。
 このOSは、遺伝的な(先天的)モジュールと成育環境によって作られた(後天的な)モジュールとの組み合わせでできている。OSが幸福な明るいものであれば一般に幸福な明るい人生になるだろうし、不幸な暗いものであればそのような人生になるであろう。OSの上にいかに優れた機能満載のソフトを載せようが、OSに不備がある以上、結局はどこかで狂いが生じてくる。
 この不毛なループから脱出するためには、まずこの構造自体に気づき、OSの不備を認めること。そして、余分なアプリケーションソフトをはずし、OSのプログラムを調べ、バグを取り除き、誤ったコマンドを削除し、正しいコマンドに書き換えねばならない。
 だが、一番重要なのは、「気づくこと」である。

 冷静な第三者の目で脳の話を聞くためには、それなりの訓練と忍耐が必要になるでしょう。しかしいったん、そのことに気づいてしまえば、あなたは、物語作家が捏造する厄介なドラマやトラウマを自由に超えて行かれるようになるのです。

 脳卒中の前まで、自分なんて、脳につくられた「結果」にすぎないんだと考えていました。だから、押し寄せる感情にどう反応するかに口出しできるなんて、思ってもみなかったのです。頭では、認知的な思考を監視し、変えることができることには気づいていました。でも、感情をどう「感じる」かに口を挟めるなんて、まったく思いもよらなかったのです。


 著者は、左脳の絶え間ないおしゃべり、人を不幸に導きかねない思考のループを切断し、幸福感の源泉たる右脳にアクセスするための方法をいろいろ伝授している。
 それらのほとんどは、面白いことに、仏教における瞑想の極意と重なる。
 瞑想とは、左脳のおしゃべり(=思考)をストップさせる訓練なのかもしれない。

 おそらく、悟った人々は、いつも右脳中心で生き、必要な時にだけ必要な程度、左脳を働かせることができるのであろう。




● アメリカ映画とはなにか?  映画:『非情の罠』(スタンリー・キューブリック監督)

 1960年アメリカ。

 巨匠キューブリックの2作目の長編映画。
 まず、完成度の高さに驚く。とても新人監督によるものとは思われない大胆な省略法がそこかしこに見られる。
 一例を挙げると、デイビー(ジャミー・スミス)が知り合ったばかりのビンセント(フランク・シルヴェラ)に自らの過去を打ち明けるシーン。デイビーが父親と姉とにまつわる悲しい物語を語っている最中、画面に映るのはバレリーナであったデイビーの姉が客席の見えない暗い舞台で一人踊る姿ばかり。過去の物語の回想シーンを流すのでもなく、語っているデイビーの切なげな表情や聞いているビンセントが次第にデイビーに惹かれていく表情を映すのでもなく、二人がいる部屋の中や街路を映すのでもない。二人の主人公が惹かれあっていくという、ストーリー的にはもっとも重要な「おいしい」シーンをわざとはずしてしまう大胆さと通俗を嫌う作家性がすでに発揮されている。

 キューブリックはアメリカ生まれ。この映画はアメリカで作られて、舞台はシカゴ。落ち目のボクサーとギャングに囲われた美女との恋愛と救出をめぐっての派手なアクション、といったいかにもアメリカ風のストーリーである。なのに、なぜだかアメリカ映画っぽい感じがしない。
 この映画に限らず、キューブリックの作品はどれをとってもアメリカ映画っぽくない。『ロリータ』(1962年)以降はイギリスに移住しイギリスでの制作となったから、アメリカ映画っぽくないのも当然と思われるが、この作品を見て分かるように、実際にはアメリカで撮っている時分からすでにアメリカ映画っぽくないのだ。
 なぜだろう?
 永年の疑問であった。

 では、いったいアメリカ映画っぽさとは何を指すのだろう。
 自分の中のアメリカ映画のイメージを作り上げているものはなにか。


 チャップリン、ジョン・フォードを筆頭とする西部劇、オーソン・ウェルズ、ヒッチコック、ミュージカル、スペクタクル映画、マイホーム至上主義、コッポラ、スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、スーパーマンからブルース・ウィリスに至る一連のヒーローたち・・・。


 これらの共通項は何かといえば、「娯楽」と「善に対する信頼」である。
 商業主義であるが故になにより大衆に受けることを優先とする。制作者の視線は大衆をこそ向いていなければならない。ジョークにさえなっている「全米」大ヒットなどという文句はまさにそれを裏付けている。
 そして、全米=大衆が望むものは常に「善」の勝利なのである。たとえ、映画の最後で善が負けるときでも、それは物語全体が悲劇か不条理劇かの体をなしていなければ許されないのである。
 おそらく、アメリカ人の感性にとって、もっとも耐えられない日本の物語は永井豪の『デビルマン』であろう。そこでは、善を代表するデビルマンこと不動明が、悲劇でもなく不条理劇でもなく、サタンの化身である飛鳥了に打ち負かされていく。(その上に飛鳥了は同性愛的感情を不動明に抱いているのだ!)

 キューブリックの作品は、この「娯楽」と「善への信頼」という二つを欠いている。

 もちろん、『非情の罠』にしろ、『シャイニング』や『2001年宇宙の旅』にしろ、観る者を飽きさせない語りのテクニックはふんだんにある。面白くないわけがない。
 しかし、キューブリックの視線は大衆に向いているというより、過去の偉大な監督たち、あるいは同時代のライバルと目される監督たちに向いているような気がする。つまり、プロのための映画という感じが強い。
 愛されることより評価されることを望んでいたのかもしれない。
 そして、「善への信頼」。これは『フルメタル・ジャケット』や『博士の異常な愛情』を持ち出すまでもなく、キューブリックには皆無といっていい。一説によると、キューブリックは無神論者であったとか・・・。


 キューブリックが最も敬愛する作家はチャップリンだったという。チャップリンこそは「娯楽」と「善への信頼」の最大信奉者にして表現者であったことを思うと、これは面白い矛盾だなあと思う。撮影技術や演出上のテクニックは別にして、キューブリックの作品のどこをどう探したらチャップリン的なものが見られるのだろう?
 自分にはないものだからこそ愛していたのだろうか?

 チャップリンはユダヤ人であった。
 キューブリックの両親もユダヤ人であった。
 キューブリック自身は無神論者であった。つまり、ユダヤ人ではない
 興味深いことである。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『ミザリー』(ロブ・ライナー監督) 

 1990年アメリカ。

 『黒蜥蜴』と言えば、原作者の江戸川乱歩でもなく、戯曲化した三島由起夫でもなく、何十年と主役を演じ続けている美輪明宏の名前が出てくる。今となってはまるで美輪明宏のために書かれた小説、美輪明宏のために翻案化された芝居という感がある。
 実際、大胆不敵で知略に富み、「美」を何よりも愛する美貌の女賊は、メディアの中の美輪明宏のイメージそのものなので(美輪は「組合員」であっても「賊」ではないが)、乱歩も三島ももとから美輪本人をモデルにしたのではないかと思うくらい、役と演者が一体化している。
 取材の中で話していたが、美輪はこの黒蜥蜴=緑川夫人について、その完全な過去を詳細に述べられるという。どこで生まれ、どんな育ちで、初恋がいつで、処女を失ったのがいつで、そのときの相手はだれで、最初に犯罪に手を染めたのがいつで・・・・という事細かな履歴が頭の中に入っているのだそうである。
 まぎれもなく、美輪の黒蜥蜴にリアリティをもたらしているのは、この役中人物の背景に対する徹底的な理解と共感であろう。


 役者が映画あるいは舞台で一人の人物(人格)を演じることになった際に必要とする情報量は、もしその人物を血の通った生きたリアルな存在として観る者に感じさせようと意図するのならば、相当なものになるであろう。
 たいていの場合、原作となった小説や戯曲や脚本の中で書かれている情報は、ほんの一部に過ぎない。そこから演者が想像し、自らの体験やいろいろな見聞を重ね合わせ、人物像をふくらましてキャラクターを作り上げていく、すなわち「役作り」するわけである。
 こうしたことは、もちろん、演劇の始まった当初から役者達にとって、当たり前に行われていたことであろう。
 けれど、時代を追うごとに、大衆の人間理解が深まり、人格形成に関する学問上(主として精神分析学や心理学)の知見も高まり、大衆が「過去のトラウマ」なり「虐待の連鎖」なりという概念を知ってしまった現代ほど、スクリーンや舞台上の人物像のリアリティに対する目が厳しくなっている時代はないと言ってよいであろう。
 このような性格を持ち、このような場面でこのような表情でこのような振る舞いをし、このような科白をこのような調子で口にするのは、この人物がこういった過去を持ち、こういった体験を重ね、こういった感情のプールを持っているからです、と観る者に納得させなければならない。そういう説得力のある演技をしなければならない。
 おそらく、シェークスピアの生きた時代に「ハムレット」をどれほど巧みに演じ、どれほど多くの喝采を浴びた一流役者でさえも、現代の真面目で真剣なハムレット役者ほどには、ハムレットの成育歴について想像を巡らせていないであろう。
 フロイトやユングが出現し、大衆が心の問題について学んでしまってからというもの、とくに幼少時の成育環境がいかに性格形成に影響を及ぼし、大人になってからの本人の思考や行動を規定するかということを、世上を騒がす犯罪事件における容疑者の動機を推定するマスコミの文脈で馴染みのものとなってしまってからというもの、大衆は犯行の背景に隠された容疑者のトラウマを思いやるのがクセとなったのである。ハムレットの優柔不断な言動にも、なんらかの幼少時の体験なり親子関係の不具合なりを想定しないでは済まなくなったのである。

 いまや、単なる極悪人、単なる殺人鬼が存在できなくなった。純粋な悪が成り立たなくなった。
 あの『羊たちの沈黙』のレクター博士でさえ、最終的には少年期に家族を惨殺されるという忌まわしい過去を持たされずにはいなかった。あまりに早熟で鋭敏な神経を持つ少年が、凄まじい過去の体験を経たがゆえの、「ハンニバル・レクター」誕生というわけだ。


 この『ミザリー』も同様である。
 なんと言っても、オスカーに輝いたキャシー・ベイツの迫真の演技が観る者を始終圧倒する。原作は未読であるが、小説の中に出てくるアニー・ウィルクス以上の怖さ、不気味さ、リアリティを生み出しているのは間違いない。看護婦かつ殺人鬼のアニーの演技があまりに真に迫っているので、捕らわれた小説家かつ病人であるポール・シュナイダー(ジェームズ・カーン)の恐怖に怯える演技がなんだか演技に見えず、本当にキャシーそのものを怖がっているかに見えるほどだ。

 DVDの特典映像の中で、キャシー・ベイツはこんなことを語っている。
 「私と監督のロブとは、アニーのゆがんだ性格は少女の頃に父親から性的虐待を受けたためという見解をもっていた。」


 そのような悲惨な過去、思い出したくないがゆえに、思い出せないがゆえに、抑圧しているがゆえに、成人してからコントロールできない突発的な怒りに襲われて犯罪を呼びいけてしまう忌まわしい過去を持つキャシー。
 おそらく、原作ではこのようなキャシーの過去は書かれていないだろう。(性的虐待はスティーブン・キングが取り上げそうにないエピソードなので。)
 アニーを単なる精神異常者や熱狂的なストーカーや生まれついての邪悪な魂という紋切り型あるいは「怪物」から救い上げて、恐いけれどもどこか哀れな女性という印象を観る者に抱かせるのは、まさにこうしたキャラクターの掘り下げと理解、それを表情や体の動きやセリフや口調を通して観る者にわかりやすい形で変換できる演技力の賜なのである。

 「雨が嫌い」とアニーが不安げに辛そうな表情で窓の外を眺める時、彼女が聴いているのは、おそらく少女の頃に最初に父親にレイプされた晩の屋根を打つ雨の音なのだ。そんなふうに感じさせるほど、キャシー・ベイツの演技は見事である。単なるホラー映画が、虐待というトラウマを背負った女性の顛末を描いた悲劇に変わる。
 これは原作を超えた離れ業である。

 スティーブン・キングの映画化された作品の中では、『シャイニング』(キューブリック監督)のジャック・ニコルソンと並ぶ怪演であるのは間違いない。




評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


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