ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 人生行路の半ばに・・・。 映画:『できごと』(ジョゼフ・ロージー監督)

 1967年イギリス映画。

 この作品は、一言でいえば、男の「中年クライシス」を描いたものである。
 中年期の二人の男、大学の哲学の教授であるスティーヴン(ダーク・ボガード)と、同僚で友人でもあるチャーリー(スタンリー・ベイカー)の揺れ動き、惑い悩む心情を、とても素晴らしくリアルに描いているので、逆に中年でも男性でもない鑑賞者にとっては、つまらない、よくわからない作品かもしれない。
 この作品がビンビンに胸に迫るあなた。あなたはまさしく中年男です。


 中年クライシスとは、海外ではミッドライフ・クライシス(midlife crisis)と言われる立派な(?)病気である。


 一般的には、この危機を経験するのは、30代から50代くらい。仕事においてそれなりの実績を上げ立場を築き、家庭においても平穏な暮らしを送っている。はたから見ればなんの不満もなさそうな状況にある人が、あるときふと、「自分の人生はこれでいいのだろうか」とか、「こんなふうに、敷かれたレールに乗った人生を送ることが幸せだと言えるのだろうか」とか、「自分は妻/夫を本当に愛しているのだろうか」とかいった疑問を抱き始める。
 (日経ビジネスオンライン http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100617/215000/

 日本ではバルブがはじけた90年代中頃から、マスコミに登場するようになった言葉であるけれど、そもそもは(例によって)カール・ユングあたりが指摘した概念であるらしく、欧米では60年代頃から社会問題として浮上してきたようである。(もっと起源をたどれば、ダンテだと思う。「人生行路の半ばで、気がつくと私は暗い森に足を踏み入れていた。」(『神曲』冒頭)
 67年当時の日本人が観てもチンプンカンプンだったであろうこの映画は、ある意味、まさにいまの日本においてタイムリーと言えよう。

 ジョゼフ・ロージーは、「常に待たれている作家」なのだ。

 大学教授として功成り名を遂げて、立派な家を持ち、美しい奥さんと可愛いこども達に恵まれて、端から見たらなんの不満も不足もなさそうな哲学の教授が、若く美しい女子学生の出現をきっかけに、ふと自らの人生の虚妄を覗き込み、突飛な行動を起こす。それが、「生きるとはなんぞや」なんてことを古今東西の賢者から学び尽くし、日常的に学生達に教えている哲学の教授であるところに、作り手の皮肉を感じる。

 ダーク・ボガードの演技は、あいかわらず深みがあり、観る者を最初から最後まで惹きつける。天性の役者だ。



 
評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
  

● 自己の正体 本:『ブッダの脳』(リック・ハンソン、リチャード・メンディウス著、草思社)

仏陀の脳 著者のリック・ハンソンは神経心理学者、リチャード・メンディウスは脳神経学者である。この科学者二人が本書で目指したのは、「満足感や親切心、心の平安などを生み出す神経回路をいかにすれば活性化できるかを、最新の脳科学の知見に基づいて明らかにし、実際の手法と一緒に提示すること」である。(イントロダクションより)
 すなわち、ブッダのような脳を持ち、ブッダのように安らいで幸福に生きるにはどうすればよいかを、科学的な知見をたよりに説明、披露している。

 内容的には、巷にあふれているスピリチュアル本とさして変わらない。
 「自分自身への思いやりは苦悩を和らげる」とか、「良いものを取り入れるのは大切なことだ。それは肯定的な感情を育み、あなたの心身の健康に多くの益をもたらす」とか、「あなたにとっての聖域やエネルギーを充電できる場所に、避難所を見出してもらいたい」とか、効果的なコミュニケーションのポイントとか、冥想の効用とか、この手のものを読みなれている人にとっては(自分だ!)、何も目新しいものはない。
 この書がそれらたくさんのスピリチュアル本と違うのは、上記のような言説の根拠として科学を持ち出しているところにある。

 あなたの心の中で起こることは一時的にも、永続的にもあなたの脳を変える。ともに発火する神経細胞はつながり合う。あなたの脳内で起こることは、あなたの心を変える。なぜなら、脳と心は一つの統合されたシステムだからだ。

 現代人は科学に弱い。統計数字やデータを持ち出されると、安易に信用する傾向がある。ダイエットや化粧品のCMを見ても、白衣を着た医学博士のお墨付きがいかに商品の効能に関する信頼性を視聴者に呼び起こすか分かろうものである。
 それだけに科学を悪用すると恐いことになる。公的機関の出す統計やグラフなどは、裏に何らかの魂胆が隠されていることがあるので(例えば、官僚達が天下りする先の法人をつくるためのありもしない問題のねつ造など)、気をつけて見ていかないとだまされる可能性がある。メディアリテラシーは市民の必須科目である。

 ま、しかし、宗教含めスピリチュアル的なものに対して、「うさんくさい」「あぶない」「女子供の暇つぶし」「偽善っぽい」「絵空事」etc.といったイメージを抱いている人間が、科学的な裏付けにより少しでも見方を変えることにつながるのであれば、結構なことである。
 そして、物理学にせよ、脳科学にせよ、心理学にせよ、最新の科学の指し示す方向が仏教に近接してきていることはどうやら間違いないようである。

 この本でもっとも興味深い部分は「自己」の存在基盤に関しての記述であった。

 要するに、神経学的な観点から言うと、統一された自己という日常的な感覚はまったくの幻想だということだ。一見、一貫して固定されているかに見える「わたし」は、実際には、発達する過程で、固定された中心をもたない下位システムやそのまた下位のシステムによって作られる。経験の主体が存在するという基本的な感覚は、無数のさまざまな主観的な経験の瞬間によって作り上げられるのだ。

 脳の中では、自己に関連する活動は統一されずに、妨げられ、混合される。それらは一時的で変わりやすく、持続しない。また、状況の変化に左右される。単に自己感覚があるから自己が存在するとは言えないのだ。実のところ、自己とは虚構の人格なのである。なぜそのような人格が必要なのかと言うと、ときに現実であるかのように振る舞うことが有益だからだ。したがって、必要な時にはどうか自己の役割を演じてもらいたい。ただし、世界とダイナミックに絡み合った一人の人間としてのあなたの方がどんな自己よりも生き生きとして興味深く、有能で非凡だということを忘れないでもらいたい。

 
 明らかに仏教の無常論、無我論である。
 このブログでも取り上げた前野隆司氏の著書『脳はなぜ心をつくったか』(参照→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html)でもほとんど同じ結論に達している。


 スピリチュアルの世界で良く言われる言葉がある。
 「自己がなければ、問題もない。」


 自己は問題を必要とする。問題に依存する。
 生き続けるために、ありもしない問題を立ち上げて、それから解決するための主体の存在意義を強調する。
 自己とは、天下り官僚みたいなものかもしれない。


●  茉莉子ふたたび 映画:『情念』(吉田喜重監督)

 1967年松竹。

 『水で書かれた物語』の岡田茉莉子があまりにも美しかったので、同じ頃の作品をまた借りてきた。

 やはり、美しい。

 横顔の美しさが際立っている。筋の通った鼻梁の先の形のいい鼻の穴が日本人離れしている。父親譲りの美貌と言うが、岡田時彦は外国人の血が混じっていたのではないだろうか。チューリップのつぼみのような肉感的な唇も魅力的である。若尾文子とも藤純子とも違う艶やかな花が、ここに咲いている。その魅力をあますところなく引き出す吉田の演出の腕も冴えている。

 目の眩むような明るい日差しの中を、白い日傘を傾けながら着物姿の岡田が遠くから陽炎に包まれて歩いてくるとき、観る者はそれまで見るのを無意識に拒み、なおざりにしていた何かが遂にやって来たのを感じる。世にも美しい使者の姿して。それは待ち望んでいたような、忌避していたような、人の心を落ち着かなくさせる何かである。

 驚くのは、岡田の美しさだけではない。実に達者な演技者である。こんなに難しいテーマの、こんなに難しい役柄を完璧な理解と度胸をもって演じている。信頼するパートナーである吉田喜重監督の指示に従って言われたとおり演技しているだけなのか、それともプロデューサーとしての手腕も確かな岡田自身の知性の高さのあらわれなのか。いずれにせよ、二人の水も漏らさぬ呼吸の合い方は、演出と演技との最高水準の和合と言っていいだろう。

 それにしても、男である吉田監督がなぜこんなふうに女というものを撮れるのか、それが不思議である。女を撮る名匠といえば溝口健二がいるが、吉田監督は溝口でさえ追究できなかった女のたもとに乗り込んでいる。すなわち、女の「性」に。なんでこんなことが可能なのだろう?
 吉田監督は非常に二枚目であるが、若い頃から相当もてたがゆえに女を知り尽くした結果だろうか。
 この作品から連想するのは、D.H.ロレンス『チャタレイ夫人』である。美しく上品な女主人公が、障害を持つ夫との性生活に満足できず、森番メラーズとの性愛に燃える。
 岡田演じる主人公織子もまた、愛のないエリートの夫との夜の営みに満足できず、自分を激しく求めるゆきずりの労務者(高橋悦史)との情交に身をさらす。
 チャタレイ夫人は、ロレンスの分身であったという。織子は吉田監督の分身なのだろうか。吉田と岡田茉莉子と織子は三位一体なのだろうか。

 自らのイメージを大切にしたい銀幕の女優にとって、性欲にもだえる人妻の役などなかなかやれるものではない。恋愛というオブラートがあればこそ、格好がつくのである。それでさえ吉永小百合や原田知世にはできなかった。
 岡田茉莉子は、美しいだけのお人形さんでいるようなタマではなかった。美貌の後ろに隠れたこの人の野望だか表現欲だかアプレな気質だかが、面白いと思う。単に、日本のヌーベルヴァーグの旗手と言われた吉田に追従しただけとは思えない。また、そんな従順なだけの女性を、吉田が生涯のパートナーにしなかったであろうことも確かだ。
 
 吉田と岡田。二人の関係性こそが最大の謎にして魅力かもしれない。



評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

●  ダーク・ボガード礼讃! 映画:『召使』(ジョセフ・ロージー監督)

 1963年イギリス。

 ず~っと観たいと思っていた『召使』が家の近くのTUTAYAに入荷した。念ずれば通ず。
 ここの店のラインナップはちょっと面白い。溝口健二作品がかなり充実していて10本くらいある。ウルトラマンシリーズの演出で名を馳せた一方で、性をテーマとするエキセントリックな作風で今もカルト的な人気がある実相寺昭雄監督のATG時代の作品『無常』『曼荼羅』『哥(うた)』などもある。誰が入荷担当なのか知らないが、かなりマニアックな、同好の士にはうれしい目利きがいたものである。
 しかも、旧作レンタルはこれから100円と来た。10本借りても1000円である。ますます夜更かししてしまいそう。

 期待にたがわず、風変わりな面白い作品であった。ジョセフ・ロージーはやっぱり変わっている。
 『緑色の髪の少年』(ブログ記事参照→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5310636.html)もそうであったが、表面上にあるストーリーの後ろに隠されたテーマやモチーフのあるところが、作品に独特の曖昧さともどかしさと秘密めいた匂いとを与えている。それはともすれば「いかがわしい」と名指されてしまいそうだが、ロージー作品の持つ格調の高さと洗練された映像表現によってきわどいところで汚名を免れている。(「いかがわしい」は汚名か?) 
 観る者は、一つ一つのシーンやショットに隠された意味を、暗号を解読するように探る楽しみに引き込まれるのである。
 もっとも、表面上のストーリーだけで納得してしまうことも可能だ。
 この作品も、たとえば、「他人の世話になることに慣れすぎてしまった青年貴族が、有能で狡猾な召使の手玉に取られて墜落していく物語」と観たとおりに解釈することもできる。そこから、上流階級の腐敗というテーマを引き出すこともできれば、英国の階級社会の歪みとその是正の必要というプロパガンダを導き出すこともできる。ロージー監督が「赤狩り」でアメリカを追われているだけにこの解釈は好まれやすいと思われる。あるいは、虐げられた下層階級による上流階級や階級社会に対する隠微な形での報復と取ることもできよう。あるいは、キリスト教徒ならこう読むかもしれない。悪の化身である召使ヒューゴが、主人であるトニーの善良にして清らかなる魂を穢して、己れと同等の位置すなわち地獄まで引きずり落とす物語、と。
 こんなふうにいろいろな読み方を可能にさせる、見方によっていろいろな解釈ができる余地を残しているところが、この作品の魅力である。(他のロージー作品もたぶん同じだろう)。その点で、ロージーの作品は英国の大作家ヘンリー・ジェイムズに似ていると思うのである。

 『召使』を観ていてどうしても連想してしまうのは、ジェイムズの傑作小説『ねじの回転』である。舞台は同じイギリスの上流階級の屋敷、天使のように美しく純粋な屋敷の子供たちに悪影響を及ぼす邪悪な召使たちの幽霊。女家庭教師の奮闘もむなしく、子供たちはついに悪の手に染まって・・・・。
 『ねじの回転』もまた、その解釈を巡って昔から喧々囂々たる議論がなされてきた作品である。作者の意図はなんなのか? 召使たちはいったい子供たちに何を教えこんだのか? そもそも霊などいなくて、すべては家庭教師の妄想ではないのか。
 ある意味、最後まではっきりと真相を示さず、読者に想像の余地を与えて終わるところに作者のたくらみはあるのだろう。『エヴァンゲリオン』が主人公碇シンジたちが置かれている世界の状況をあえて謎のままにしてストーリーを進めることで「引き」を作っているように、すべてが明るみに出て読み解かれてしまったら、ファンの好奇心も満足して、作品から離れてしまう。(それにしても『エヴァ』は「引き」が長すぎて、かえって「どうでもよくなってしまった」。傑作として終われるタイミングを逸してしまったように思う。)

 『召使』でロージーは何を隠したのか。
 語られない、表だって語ることのできない何が画面に織り込まれているのか。
 手がかりとなるシーンがある。

 それまでうまくいっていたトニーとヒューゴの主従関係が、ある夜の出来事をきっかけに壊れてしまう。トニーが婚約者ヴェラと外出している隙をねらって、ヒューゴは愛人である女中のスーザン(トニーには妹と偽って紹介していた)と、トニーの部屋のベッドで愛し合う。外出を切り上げて帰宅したトニーらは、召使二人の関係を知ってショックを受ける。スーザンと「できて」いたトニーは、そのこともヴェラに知られることになり、二重三重のショックである。
 トニーは怒鳴りつける。
「二人ともこの家から出て行け!」
 ヒューゴが出て行ったあとのトニーは腑抜けになってしまう。家も散らかり放題、酒びたりの日々が続く。ヴェラとの関係もなぜか修復しようとしない。
 酒場から帰ったトニーは、重い足を引きずって屋敷の階段を上り、以前スーザンの使っていた女中部屋に入り、スーザンの使っていたベッドに身を投げて、布団を掻き抱く。まるで恋しい相手を求めるように。
 と、カメラはベッドの脇の壁に貼ってある写真をなめ上げるように映していく。そこには、隆々たる筋肉を誇示している裸の男たちの写真が貼ってある。

 このシークエンスは一瞬で終わってしまうので、見逃してしまう人、意味に気づかない人が多いだろう。
 だが、これはトニーの秘められたセクシュアリティを指し示す重要な(重要か?)シーンであろう。
 もちろん、関係のあったスーザンの部屋に淋しいトニーの足が向かうのは不自然ではない。スーザンの使っていた部屋の壁に裸の男達の写真が貼ってあるのも、下品で自らの欲望に忠実なスーザンであってみれば別段おかしなことではない。(屋敷を出て行ったあともそのままになっていることをのぞけば。)
 しかし、このシーンでこれらの写真をアップで映し出すロージーの意図はあからさまである。
 ありていに言えば、トニーはバイセクシュアルあるいはかなり色濃いホモセクシュアルであろう。トニーは、美男の召使ヒューゴに世話されること(=自分の意志をあずけること)に何よりの快楽を見出している。だから、ヒューゴを嫌った未来の妻であるヴェラが何を言おうとも、ヒューゴを手放そうとしない。ヒューゴが屋敷を出て行ったあと、ヴェラとよりを戻そうとすればできたはずなのに、そうすれば屋敷も元通りきれいに片付くのに、ヴェラに自分の世話を任せることだってできたはずなのに、トニーはあえてその選択をしようとしなかった。
 トニーは、ヒューゴに恋しているのである。トニーにしてみれば、ヒューゴとスーザンの関係を知ったことは、スーザンの裏切り以上に、ヒューゴに裏切られたことがこたえたと思われる。
 一方、召使のヒューゴはどうか。
 トニーから向けられる恋慕を利用して、屋敷や財産をのっとろうとたくらんでいるのか。トニーを破滅させることにたちの悪い快楽を見出してるのか。たんに自分とスーザンが自由に振舞える居場所をキープしたいだけか。おそらく、他の屋敷に奉公しているときにもスーザンと組んでやってきたように。
 そこはよくわからない。
 しかし、どうもヒューゴ自身もトニーとの異常な(笑)関係にとり憑かれているように見える。それは恋愛感情というよりも、自分より上流の、自分より若い男を思いのままにできるサディスティックな欲望に酔っているのかもしれないが。(そう見えてしまうのは、ダーク・ボガート自身にゲイの噂がつきまとっているためもあるだろう。)

 さて、この解読が正しいのかどうかはわからない。
 自分のセクシュアリティや価値観にひきつけて、かなり偏向しているのは承知している。
 だが、この観点で作品を見直したときに、普通ならば見過ごしてしまうちょっとしたセリフや間合いやシーンが意味深いものとして立ち現れてくるのに気づくだろう。
 たとえば、トニーとヒューゴが最初に出会うシーン。トニーはヒューゴに料理以外の何を頼みたかったのか。あの微妙な間合いの意味は何か?
 たとえば、トニーとヴェラの間を引き裂くようなヒューゴの振る舞いの意味は?
 たとえば、帰ってきたヒューゴとトニーの唐突と思える関係の変化。いきなり、ノックもなしにパジャマ姿のヒューゴの寝所に飛び込むトニー。紳士とはとうてい思えない振る舞いである。(いつからそんなフレンドリーになったのか?)
 たとえば、同じ食卓でまったく同じ服装をしてディナーを取りながら二人が語るシーン。二人ともにあった軍隊での「経験」とは何か?
 たとえば、二人が隠れんぼうしているシーン。猫なで声を出しながら隠れ場所に迫ってくるヒューゴの接近に、官能に打ち震えるようなトニーの表情の意味は?(そもそも大の男が二人、隠れんぼうしていること自体が怪しいけれど・・・。)

 召使を演じるダーク・ボガードは、丁重至極な典型的な英国の召使から、その皮をはいだところに現れるセックスアピールぷんぷんたる野卑な下層の男、トニーを支配しているつもりで自らも快楽の虜となり関係にはまり込んでいく複雑な心理、それらをあますところなく表現している。

 現在ならば、こうした隠喩表現は要らないだろう。主人と召使のゲイセックスは、腐女子もといヤオイちゃんたちの熱狂的に愛好するテーマの一つであり、映像表現においてもなんらタブーは存在しない。日本でもイギリスでも。
 もし、いまロージーがもう一度『召使』を撮ったら、どんな作品になるだろうか。
 秘すべきもの、隠すべきものが存在しないがゆえに、ロージー独特の曖昧さともどかしさと秘密の匂いが失われて、センセーショナルではあるけれど、つまらないもの、味気ないものになるのだろうか。



評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 人生に後悔しないために。映画:『ミスター・ノーバディ』(ジャレッド・レト監督)

 2009年フランス、カナダ、ドイツ、ベルギー。

 2092年、人類は科学技術の発展の末に、ついに永遠の生を手に入れた。
 その恩恵に浴することを拒否し、最後のモータル(死すべき人間)となった
118歳の老人ニモは、世界の注目を浴びる中、記者を前に自分の人生を振り返る。
 しかし、それは複数の人生からなるパラレルワールドであった。

 スタイリッシュな映像の美しさ。
 SFX技術の見事さと巧みな語り口。
 全体にセンスがよく、楽しめるものに仕上がっている。
 テーマそのもの「あのとき別の選択をしていたら、その後の人生はどうなっていただろう?」も、誰にとっても興味深いもので、選択の瞬間に戻っては何度もやり直されるニモの人生に「この選択の結果はどうなるんだろう?」という好奇心を持ってつきあってしまう。

 そう。ニモの語る複数の人生はどれも、「あのとき別の選択をしていたら」の「あのとき」から始まる枝のように分かれていくストーリーなのである。

 父と母が離婚した。どちらについていくべきか。父か母か。
 3人の女の子と恋をした。だれと結婚すべきか。エリスかアンナかジーンか。
 
 どの選択をしてもニモの人生は、あまり幸福にはつながらない。仕事に成功し、金持ちになり、プール付きの豪邸をもち、家族に囲まれても、虚しさに襲われて過去の選択を後悔している。

 さて、いったいどれが本当のニモの人生だったのか。ニモは記者をからかっているだけなのか。それとも、本当にパラレルワールドで複数の人生を送ってきた超能力者なのか。

 種明かしはここではしない。
 要は、どの選択にも、どの人生にも、意味がある。間違った選択、間違った人生なんかない。
 ということを伝えたいらしい。「らしい」というのは、そのあたりのテーマの収斂の仕方が曖昧というか散漫なのである。
 そこが惜しい。


 後悔とは「しなかった」ことに対する後悔である、という文句がある。
 名言であると思う。
 「した」ことであとで生じる後悔より、「しなかった」ことで生じる後悔の方がつらいかもしれない。まあ、何を「した」かにもよるが・・・。まさか人殺しを「しなかった」ことで後悔するとは思えない。
 おそらく後悔する人は、どんな人生を送っても、世間がうらやむどんなに良い境遇を手に入れても、そこで後悔するであろう。

 一番いい方法は、いっさい後悔をしないと決めることである。
 そのための一番いい方法は、「今に生きる」ことである。

 118歳までには、そうなりたいものである。



評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!








 

● 第五福竜丸展示館(夢の島)&本:『矛盾』(大石又七著) 

第五福竜丸展示館 013 新藤兼人の映画『第五福竜丸』のDVDの付録で、東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」について紹介していた。
 恥ずかしくも自分はその存在を知らなかった。夢の島にも行ったことがない。
 ネットで詳細を調べ、さっそく行ってみた。
 有楽町線の新木場駅から歩いて10分のところにある。


第五福竜丸展示館 002

 なぜ福竜丸がこの場所にあるかと言うと、1951年のアメリカの水爆実験で被害を受けた後、文部省に買い上げられ、放射能の減り具合を確認した後、「はやぶさ丸」と名前を変えられて、東京水産大学の練習船として使われた。1967年に廃船となりエンジンだけ抜き取られて、夢の島に捨てられたのである。
 68年NHKが福竜丸の「今」を放送。それを観た一視聴者の武藤宏一氏が、朝日新聞に船の保存を呼びかける投書をしたのがきっかけとなって署名運動が始まり、75年展示館開設にこぎつけたのである。

 展示館の空間いっぱいに福竜丸の堂々としたご老体がドック入りしている。甲板や船の中には入れないが、付設の階段を上がって舷側から甲板の上を眺めることができる。
 船の周囲には、福竜丸の説明や被曝事件の経緯、当時の新聞記事や航海日誌、死の灰を入れた瓶、放射線を測ったガイガーカウンター、被爆した船員達の写真、全国から集まった反核の署名(当時人口8千万人のところ3千万人の署名が集まったという!)など、当時の模様を知る様々な資料に加えて、核の脅威を伝えるパネルや被爆者の手記などが展示されている。

第五福竜丸展示館 009


第五福竜丸展示館 010 第五福竜丸展示館 011


第五福竜丸展示館 012 第五福竜丸展示館 006

 第五福竜丸事件と放射線被曝の恐ろしさが世界に知られるところとなって、世界中で原水爆禁止運動が盛り上がった。その高まりの中で、哲学者バートランド・ラッセルと、アインシュタインを含む10名の科学者(日本の湯川秀樹も入っている)とが世界に提示したのが「ラッセル=アインシュタイン宣言」である。この和訳文も掲示されている。
(こちらを参照→「日本パグウォッシュ会議」 http://www.pugwashjapan.jp/r_e.html

 ところで、ナチスの迫害を恐れアメリカに亡命したアインシュタインは、ルーズベルト大統領に「原子爆弾をつくるのは理論的に可能」と手紙を送って原爆開発に協力しているのである。
 何を今さら反省しやがって・・・と文句の一つも言いたくなる。
 おそらく亡くなる前に自らの罪悪感を解消したかったのだろう。(この宣言文の発表を待たずに亡くなっている。)
 もっとも、アインシュタインがやらなくても他の科学者が開発したのは確実ではある。

 第五福竜丸事件は、アメリカの水爆実験による被害以外のなにものでもない。
 だが、戦勝国であるアメリカ政府は日本政府に圧力をかけ、事件をうやむやにした。いや、もっとひどいことは、日本政府の方から、アメリカの持つ原子力技術の提供や原子炉供与を交換条件に、責任追及と賠償請求を放棄してもよいと持ちかけたのではないかと推測されることである。被害者にはほんのわずかの見舞金だけが支払われただけであった。医療的な補償を受けるに必要なための被爆者認定もされていない。日本政府とマスメディアは、この事件を封印すべく情報操作をしてきた。

矛盾 このあたりの事情は、第五福竜丸の元乗組員であり、事件の生き証人であり、子供たちに事件のことや核の恐ろしさについて伝え続けている大石又七氏の著書に詳しい。(展示館で販売している。)
 読んでいると、実に恐ろしい心地がしてくると同時に、不可解な思いが頭をもたげる。

 無辜の国民の命を売ってまで、金銭欲、権力欲に取り憑かれる人々のトラウマとはどんなものなのだろう?


 当時の乗組員達は3分の2がすでに死亡。そのほとんどが輸血のために感染したC型肝炎による肝機能障害が原因と思われる。生き残っている人も相当な高齢である。(大石さんも喜寿を迎えている。)


 展示館の横のマリーナには、たくさんのヨットやボートが春の日差しを浴びて係留していた。

第五福竜丸展示館 014

● 映画:『第五福竜丸』(新藤兼人監督)

 1959年近代映画協会、新世紀映画制作。

 この作品を観ている途中、急に寒気に襲われ体の震えが止められなくなった。風邪ではない。
 マグロをもとめてミクロネシアに漁に出た第五福竜丸の23名の乗組員たちが、3月1日の早朝、洋上はるか遠くに明るく輝く光のショーを、寝起き姿のほとんど裸に近い恰好で並んで目撃しているシーンで、ぞっと寒気が走ったのである。その数分後に爆音が鳴り響き、キノコ雲が起立する。

 今でこそ我々は、キノコ雲が原水爆の爆発に附随する現象であることを知っているし、放射線被曝が相当の範囲にまで及ぶことも知っている。もし、現在の船員が同じ場面に遭遇したら、すぐに救助信号を発して甲板から船底に退避するだろう。
 しかし、当時(1951年)の焼津の漁師達は、そんなこと知らなかった。

 1時間後に空がかき曇って、白い粉雪のようなものが降ってきた。強い放射線を放つ、いわゆる死の灰である。もちろん、船員達はその恐怖も知らない。甲板やマストに降り積もる灰の中、何の防御もせずに作業を続ける。灰を浴びた食料を帰港の日まで食べ続ける。
 結果、23名全員が重い放射能症にかかり、数ヶ月後、無線長だった久保山愛吉が脳症を発症して亡くなった。

 ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験。
 この作品は、実際にあった事件を映像化したものである。

 カメラは、家族らに見送られて福竜丸が焼津港を華々しく出立する場面からはじまって、船内での男達の活気ある生活ぶり、荒々しい漁の様子、被曝する瞬間、帰港してから事件がマスコミに知られ騒がれるまでの経緯、船員達の悪化する症状、病院内での生活、日米の医療者の対峙、船員と家族らの関わり、そして全国民が注視する中の久保山愛吉の死までを、急がずに、あおらずに、淡々と描き出していく。ナレーションも、説明ゼリフも、過剰な演技も、凝った演出も、音楽による盛り上げも、主義主張の押しつけもない。焦点は、あくまでも、漁師達の被った被害の様子に置かれている。
 その謙虚なまでのつつましさが、かえって事件のリアリティを浮き上がらせている。この悲劇の持つ意味をえぐり出している。そこには観る者がなんらかの「物語」を仕立てて味わうべき余地などもはやないのだ。
 若者達の未来の剥奪、家族の別離、被爆者への偏見と励まし、医療者の奮闘と絶望、国民的な関心と反核運動の高まり、日米関係の不均衡が生み出す様々なレベルの情報操作、犠牲者の死・・・・。どのエピソードも元来なら観る者の感情移入を許し、物語に酔いしれる快楽(=娯楽性)をくれるに十分な要素を持っている。スピルバーグなら、ここからどれほどの感動の波を作り出し、観客の涙を絞り出させることだろう。
 しかるに、新藤兼人は律儀に娯楽になりきることを拒絶するのである。感動的ドラマも政治的意味づけも、気軽に生みだし味わうことを許さないような潔癖さを保つのである。


 そして、それは正しい。
 我々が紡ぐいかなる「物語」も、地上にある何万発という核兵器(+何百基とある原発)の前では死の灰一片ほどの重さも持たないのだから。我々は、死刑台の上でマタタビに酔って踊っている猫みたいなものなのだ。

 イギリスの小説家アーサ・ケストラーはこう述べた。

 有史、先史を通じ、人類にとって最も重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく1945年8月6日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は「個としての死」を予感しながら生きてきた。しかし、人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は「種としての絶滅」を予感しながら生きていかねばならなくなった。


 核は共同幻想(=物語)を崩壊させるに十分な力を持つ。国という幻想、主義という幻想、宗教という幻想、民族・人種という幻想・・・。
 実に皮相で、逆説的なのだが、核の前でやっと人類は一つになった。
 一つの運命共同体に。

 


評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」 
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『レコード~シッチェス別荘殺人事件』(フェルナンド・バレダ・ルナ監督)

 2010年スペイン映画。

 たまには、退屈しのぎになるだけの、頭を空っぽにしてワインでも嘗めながら、そこそこ楽しめるホラーが見たいと思うことがある。それを期待して、この作品を借りた。

 期待に違わず、75分飽きずに過ごさせてもらった。
 それで十分だ。
 人に薦められるものではない。


 この手の映画をよく観ている人なら、途中で犯人が誰かは分かるだろう。
 それはまあいい。
 最後まで観て気になるのは、死んだのは誰なのかという点である。

 惨劇が明るみになってからのシーンで、メディアが「別荘で4人の死体が見つかった」と言っている。
 シッチェス家の3人の子供は明らかに殺された。悲惨な遺体も映される。
 あと一人は誰なのだろう?


 父親か? 惨劇が起きる前日に、急な仕事でマドリッドに行ったことになっているが、実際は殺されたのか。
 母親か? 3人の子供の無残な姿を見て、ショックで自分の手を切ったのか。
 第一発見者カルロスか? 警察に通報したとき、館にはまだ殺人犯が潜んでいて、その刃にかかったのか。

 それとも・・・・。

 4人ではなくて、4つの死体という意味か?(翻訳の間違いか)
 井戸の中のペットの犬を勘定しているのか。


 はっきりと描かれていない。
 が、それが分かったからといって、作品の質が上がるわけでも、のどに引っ掛かった小骨が取れるようなスッキリ感が得られるわけでもないのだが・・・。



評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 神々しき人、原節子 映画:『日本誕生』(稲垣浩監督)

 1959年東宝。

 神社巡りが続いているせいか、日本神話への関心が高まっている。
 その昔、ポプラ社の古典文学全集『古事記物語』(高橋正巳著)を読んだので、大体の有名なエピソードは頭に入っているが、なにしろ子供向けなので性愛描写はとんと記憶にない。ギリシャ神話の例に見るように、神々のまぐわい(性愛)は神話の核である。とりわけ、多産を言祝ぐ日本神道にあって性は重要である。
 そんなことを思いながら、気になっていた『日本誕生』をレンタルした。182分あるこの映画をテレビ用に編集したものを昔観たような覚えがある。

 CG全盛の現代で、一昔前の特撮技術はきっとちゃっちく見えて笑ってしまうだろうと思っていたのだが、なんのなんの、改めて日本の特撮技術のクオリティの高さを思い知った。ゴジラやウルトラマンを生んだ円谷英二が全面協力しているのだから当然である。手間ひまかけて、創意工夫を凝らして作り上げたのだという心意気に何より感動してしまう。
 それに、特撮やセットを生かすも殺すも監督の腕と役者の力量次第なのだということが良く分かる。どんなにCG技術が向上して臨場感ある迫力ある映像が生み出されようが、演出と演技のレベルが低ければドラマとしてのリアリティはまったく備わらない。それは、評判の芳しくない昨今のNHK大河ドラマを見れば歴然である。


 とにかく役者の顔ぶれが凄い。東宝映画1000本目の威信をかけただけある。
 ざっと挙げるだけでも、三船敏郎、田中絹代、原節子、杉村春子、司葉子、中村鴈治郎、東野英治郎、宝田明、志村喬、鶴田浩二、左卜全、乙羽信子、エノケン、三木のり平、天本英世・・・・。どこに誰が何の役で出てくるかを確かめるだけでも存分面白い。
 しかも、重要な役どころを、三船敏郎(ヤマトタケル、スサノオの二役)、杉村春子(神話の語り部の老婆)、田中絹代(タケルの叔母で伊勢神宮の斎王)、原節子(アマテラス)、司葉子(タケルの妻)、東野英治郎(タケルの敵方の大伴一族の長)という華のある演技派が押さえているので、話がしまること。ドラマにリアリティをもたらすのは役者なのだとつくづく思う。


 音楽もまた素晴らしい。
 子供の頃からゴジラや大魔神で聞き馴染んでいる伊福部昭だが、古代という舞台に似つわかしい曲を、ヤマト、熊襲(中国・朝鮮風)、東国(アイヌ風)と民族ごとにふさわしい調子で書き分けて、物語に燦然たる効果を与えている。


 『日本誕生』というタイトルに内容的に誤りはないが、本筋は日本古代の英雄ヤマトタケルの物語である。
 父王に遠ざけられ、熊襲征伐や東国征伐を命じられ、最後は大和に帰る途上で客死し、白鳥になったこの英雄のドラマチックな逸話を中心に、ところどころに日本神話の有名なエピソード(イザナミ・イザナギの国産み、天の岩戸、スサノオのヤマタノオロチ退治など)をはさんでいく構成は、長尺を飽きさせない工夫が見られる。
 とりわけ、原節子がアマテラスを演じる天岩戸シーンが魅力的。この役にこれほどピッタリ合う女優は、日本の女優の歴史を見渡しても他に見つかるまい。吉永小百合では威厳に欠ける。岩下志麻では幻想性に欠ける。京マチ子では気品に欠ける。山田五十鈴では明るさに欠ける。次点で山本富士子、別次元で坂東玉三郎、美輪明宏か。「神々しさ」を演じるのは、美貌と演技力だけでは無理なのだということが分かる。
 岩屋の前で踊り狂うアメノウズメを乙羽信子が、岩戸を開くタズカラノミコトを第46代横綱の朝潮太郎が演じているのも見所である。


 ヤマトタケルの物語には、日本男児の理想が描かれている。それは、いわゆる近代的な「男らしさ」とは微妙に異なる。
 たとえば、タケルは父親に愛されないことを悲しみ人目もはばからず大きな声で泣き喚く。熊襲征伐に際しては女装する。妻に対しては実に細やかな愛情を振り向ける。
 この魅力的なヤマトタケルを世界の三船がこれまた魅力的に演じている。大らかな感情表現、部下たちへの深い愛情、高いこころざし、平等を愛する心、あくまで正直であくまで潔い。そのうえ剣さばきの見事なこと。こんなふうに日本男児を演じられる風格と技量のある俳優がいまでは思いつかない。
 
 人と人とが嫉妬し差別し争いあう世の中に、ヤマトタケルは慨嘆する。
「今の世の中では思いを音にしたらみな哀しい調べとなる。天岩戸を開いたような、あの大らかな笑いに満ちた高天原の調べがこの地上には必要だ。それが日本人本来の心なのだ。」


 これがこの大作にかけた制作陣の心からの思いなのであろう。
 1959年、今から50年以上も前の願いである。



評価: B-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● 昇仙峡&弥三郎岳(1058m)を歩く

 昇仙峡は、読売新聞が創刊135周年(2009年)を記念して企画した「平成百景」で第2位に選ばれている。
 上位20を挙げると、こうなる。

  1 富士山 
  2 昇仙峡 
  3 知床 
  4 十和田湖・奥入瀬(おいらせ)川
  5 合掌(がっしょう)造り 
  6 京都の寺社
昇仙峡120410 015  7 姫路城 
  8 上高地 
  9 函館の夜景
 10 尾瀬 
 11 高千穂峡
 12 宮島 
 13 甲府盆地の夜景
 14 秩父夜祭
 15 縄文杉 
 16 東京タワー
 17 美瑛(びえい)の丘
 18 釧路湿原 
 19 白崎海岸 
 20 伊勢神宮

 半分くらい行っていない(見ていない)。まだまだ旅は続くな。
 自分としては学生の時分に行った北海道大雪山の層雲峡が圧倒的な感動であった。それを超える感動は海外の名所・名跡も含めてまだない。30位にも入っていないが、おそらく1987年にあった崩落事故(死亡3名、重軽傷者6名)のイメージと、以降立ち入りが制限されたことによるのかもしれない。

 昇仙峡へは甲府駅からバスで30分ほどで行ける。アクセスのいいところが人気のポイントであろう。
 天気は上々。この日、甲府の気温は24度に達した。

10:25 甲府駅発(山梨交通バス)
10:54 昇仙峡口着。ウォーキング開始。
     長瀞橋~愛のかけ橋~羅漢寺~石門~仙娥滝
昇仙峡120410 01213:20 ロープウェイふもと駅着
13:30 パノラマ台
13:50 弥三郎岳登頂。昼食
15:00 パノラマ台。下り開始。
     白砂山~白山~刀の抜き石
17:15 天神森バス停。ウォーキング終了
17:50 バスに乗る
18:20 甲府駅着

所要時間 6時間(うち休憩時間 1時間)
 

昇仙峡120410 042 この時期の平日は人が少ない。昇仙峡口でバスを降りたのは自分一人だった。たいていの人はゴールである仙娥滝の上まで行き、そこから下って滝の周辺の渓谷を楽しむようだ。

 昇仙峡は、荒川が花崗岩を侵食したことにより形成された全長5キロの渓谷である。岩壁に生うるは松の木ばかりなので、空の青と川の碧と松の緑、そして岩壁の灰色だけの、単調な色彩の世界が続く。暖色系の映らなくなった壊れたカラーテレビを見ているかのようである。

 観光客用トテ馬車が通る道路から見下ろす川底には、様々な形をした巨岩がゴロゴロしていて、特徴のある形状から名前の付いているものも多い。オットセイ岩、五月雨岩、松茸石、熊石というように。言われてみれば確かにそう見える。(写真は熊石)

昇仙峡120410 011昇仙峡120410 003

 途中にある愛のかけ橋は、「この橋を二人で渡ると愛が結ばれるという言い伝えがあります」という説明版が立てられている。しかし、橋桁には「竣工は昭和61年」とある。言い伝えねえ~(笑) 橋の下の岩で休んでいたオシドリもやらせ?

 大正14年に時の東宮が行啓されたときの碑があった。昭和天皇である。このあとすぐに即位されたわけだから、青春の日の最後の楽しい一時をここで過ごされたのかもしれない。

昇仙峡120410 006昇仙峡120410 008

昇仙峡120410 009



 気持ちのいい、楽しい渓谷散歩のゴールは仙娥滝が待っていた。
 轟音が聞こえる滝の近くの遊歩道の曲がり角を曲がったとたん、「気」が変わった。ヒヤッとする冷気と共に清浄な気の中に体ごと突入した。マイナスイオンかなにか知らぬが、やはり滝の偉力はすごい。一瞬にして別世界、別心地である。
 30メートルの高さを激しく落ちる水の流れは、一瞬たりとも同じものではない。瞬間瞬間、滝は更新を繰り返している。滝壺にかかる虹もまた同じ。一瞬として同じ虹はない。いや、虹そのものが実体としてそこにあるわけではない。細かい水しぶきに屈折、分散、反射する太陽光がその正体である。が、太陽光も一秒たりとも同じものではない。ここには現象だけで成り立っている物質世界(この世)の本質が垣間見られる。

 我々は滝をいつも下(滝壺)から、あるいは中間地点から見ることが多いけれど、ここの滝は上から、つまり滝が始まる地点、川が滝となって落ちていくスタート地点を見ることができる。実際に見てみると、あっけないものである。引力の法則により水が落ちていくだけの話。


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 ロープウェイでパノラマ台に上る。南アルプスの白い輝きがまぶしい。空気に溶け込んではいるが富士山もよく見える。

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 ここから山歩きの開始。
 まず、尾根道を15分ばかり歩いて弥三郎岳(羅漢山)へ。

 山頂(下写真)は手すりも柵もロープもない狭い滑らかな岩の上。怖いったらありゃしない。足をすべらせたら一巻の終わりである。風の強い日は本当に危険であろう。
 しかし、360度の展望は素晴らしい。二等三角点の柱石の周りにはなぜか硬貨が散乱している。羅漢寺山というもう一つの名前のためであろうか。
 ここでおにぎりを食べる。

昇仙峡120410 033

 

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 パノラマ台まで戻って下りに入る。
 傾斜のきつくない、道標のしっかりした、歩きやすい道である。まだ芽吹いてさえいない木々の合間から、周囲の奇怪な山塊や遠方にかすむアルプスの山々やはるか下方の家々や道路やダムが見える。これがこの時期の登山の魅力である。
 もちろん、人も少ない。途中で会ったのはドーベルマンを連れた中年夫婦だけであった。

 花崗岩でできた山の頂きは風化が激しく、石が粉々に砕けて、最後には砂になってしまう。白砂山、白山という名前通り、山頂に突如として松林のある白い砂浜が出現する。この砂浜は青い空を海としているのである。
 荷物を降ろし砂浜に座って、しばし瞑想する。

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昇仙峡120410 037



 途中で拾った天然の杖の助けを借りながら、下ること2時間。最初にバスを降りた昇仙峡入口に着地した。
 色彩の単調な山の世界にいたせいか、ふもとの花が美しい。黄すいせん、コブシ、椿。あでやかな色彩が疲れを癒してくれた。

昇仙峡120410 038 昇仙峡120410 040

昇仙峡120410 039 昇仙峡120410 041


 帰りのバスの窓から、山の合間に光の柱が立っているのを見た。
 なにかいいことあるのかな~。

 乗り換えの高尾駅では桜が満開であった。

昇仙峡120410 044



高尾の桜120410




 家に帰ると先日面接した老人ホームの採用通知が届いていた。


 
  


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