ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● これぞイギリス式 本:『銀河ヒッチハイク・ガイド』(ダグラス・アダムス著、河出文庫)

銀河ヒッチハイクガイド 1979年出版。2005年河出文庫発行。

 中学生の頃、実家で祖母と『奥様は魔女』を観ていたときのことである。
 楽しそうに観ている自分に祖母が聞いた。
「テレビの中で笑っている声がする場面で、やっぱり面白いと思う?」
「うん、面白い」と自分は答えた。
 祖母は感心したような顔をした。
「おばあちゃんには、どこがおかしいのかさっぱりわからないよ。」

 祖母がお笑いやジョークを理解できない堅物だったわけではない。『笑点』や漫才番組や『八時だよ、全員集合!』を観て声を立てて笑っていたから。彼女が理解できず共感できなかったのは、アメリカ人の笑いのツボやユーモアセンスだったのである。そのことに自分は逆に驚いた。
 そう言えば、父母もまた『奥様は魔女』を一緒に観ても笑いはしなかった。サマンサの繰り出す魔法はもとより、ダーリンとエンドラ(黒柳徹子似)の丁々発止の掛け合い、愛すべきハガサ叔母さんのドジぶり、隣人のグラディス夫妻のとぼけた会話など、自分が笑っているときでも両親は黙って見ていた。
 確かに、『奥様は魔女』の面白さと、『八時だよ、全員集合!』や『時間ですよ』の面白さは別物であった。分析はできなかったが子供心にもそれは気づいていた。前者が言葉の応酬から生まれるおかしさであるのにくらべ、後者はいわゆるドタバタのおかしさである。が、それだけではない。落語や漫才は形の上では前者に入るが、笑いの質という点ではやはり『奥様は魔女』よりは『時間ですよ』に近い。というより、日本人の笑いの原点をつくっているのが落語や漫才なのだろうから、後発のドラマやバラエティがその流れを汲むのは当然である。
 なぜ、祖母や両親が理解できないアメリカンジョークを子供である自分は楽しめるのであろう?
 『奥様は魔女』が何度も(子供枠である)夕方に再放送されている現実を考えると、自分以外にこのドラマを楽しんで観ている子供たちが大勢いるのは明らかであった。
 となると、世代の差ということになる。
 小さい頃(60年代)から浴び続けてきたアメリカ文化の洗礼がこうした笑いに対する感性をつくったのであろうか。それは大人になってからでは遅いのであろうか。
 そんなことを中学生なりに考えたのであった。


 マイケル・J・フォックス主演の『ファミリー・タイズ』やレオナルド・ディカプリオ出演の『愉快なシーバー家』や『アーリーmy love』を持ち出すまでもなく、アメリカンジョークは今では多くの日本人に浸透している。今では『奥様は魔女』を面白く観ていた世代によって日本のテレビ番組や映画は制作されているはずである。
 ・・・のわりには、どうしてこうもつまらない番組や映画ばかりなのだろう。アメリカンジョークの面白さが分かる、というのとそれを創りだすというのはまったく別次元の話なのだろうか。三谷幸喜はわりとそれに近いところをやって成功していると思うが・・・・。

 さて、この本はイギリス人の作者によるSFコメディである。
 2005年に映画化されて、その出来映えはかなりのもんである。
 今回はじめて原作を読んだ。
 で、『奥様は魔女』と祖母の一件を思い出したのである。

 この本の面白さを理解できる日本人がどれくらいいるのだろう?

 イギリス人の笑いのツボというのもまた、日本人のそれとはもちろん、アメリカ人のそれとも異なる。同じ西洋で、アメリカはイギリスから独立したのだから根っこは同じで感性も近いはずと思うのであるが、やっぱり違う。イギリスの方が醒めている。シニカルである。自虐的である。乾いている。文字通り「痛快」である。『ミスター・ビーン』が代表である。
 自分が好きなのはイギリス人の笑いであるが、これはまだまだ日本人に受け容れられているとは言い難い。これを受け容れるためには、何かアメリカ的なものを捨てなければならない。ポジティブシンキングとか底抜けの陽気とかファミリータイズ(家族の絆)とか人類愛とか・・・。

 なんとも痛快なのは、アメリカ人(ブルース・ウィリスやバットマン)が最後まで必死に守ろうとする地球と人類を、ダグラス・アダムスは最初の数ページで何のためらいもセンチメントもなく消滅させてしまうのである。これ以上の自虐はあるまい。いっそ清々しい。
 そこから物語は始まる。
 主人公のアーサー・デントにはもはや帰るべき故郷もなく再会すべき家族もなく守るべき価値もない。宇宙の大海原(という言い回しもよく考えると矛盾だが)をペテルギウス人とヒッチハイクするハメになったアーサーの姿は、『銀河鉄道999』の鉄郎とどれだけ懸隔あることか! 
 意味のない世界を生きるのに必須なのは、武器でも愛でも哲学でも芸術でも希望でもなく、ユーモアそして「一杯のお茶」なのである。






 
 

● 愛のないセックス、または映画:『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』(ガイ・リッチー監督)

  2011年アメリカ、イギリス制作。

 ロバート・ダウニー・Jr=ホームズ、ジュード・ロウ=ワトソンによるコンビの続編。監督は前作同じガイ・リッチー。
 前回同様、ユーモアとスピードとスリル満点の展開である。ミステリーと謎解き部分が弱いのが残念であるが、推理の鮮やかさというのは文章にはできてもなかなか絵にはしにくいものだし、派手さはないから、どうしてもアクション中心になるのだろう。
 ただ、昨今のアメリカ映画の特徴だと思うが、あまりに展開が目まぐるしくショットの切り替えが速すぎる。観ていて疲れてしまう。ショット数を数えたら相当なものだろう。タルコフスキーやベイルマンやテオ・アンゲロプロスの映画の10倍近くあったりして・・・。
 
 たまにケーブルテレビでアメリカ製のドキュメンタリーを見るが、ショットがめちゃくちゃ速い。目まぐるしく画面が替わる。3秒と同じ画面が続くことはない。で、あっという間に一番組が終わってしまう。余韻も残像も味わいもない。そう、ドラマもドキュメンタリーもまるでCMみたいに感じる。
 今の時代、このくらいのスピード感と変化がなければ、視聴者を惹きつけておくことができないのであろう。退屈な映像によって途中でチャンネルを替えられては困るからだろう。それが映画にも波及している。CGによる映像の演出化が拍車をかける。とにかく、目先を次々と替えて展開を速くすることで、集中力も忍耐力も無い視聴者をつなぎとめるわけだ。鶏と卵のようなもので、視聴者はますます集中力と忍耐力を失っていく。
 こうした傾向の背景にあるのは、やっぱりテレビゲームだろう。テレビゲームの映像速度とCG効果と物語展開の速さ(ずさんさ)に慣れてしまった新世代の視聴者にとって、一時代前のテレビドラマ(たとえば『北の国から』とか山口百恵の「赤いシリーズ」とかNHK大河ドラマとか)は、じれったく退屈に感じることだろう。「この続きは一週間後をお楽しみに!」なんて、わざわざ張った網に穴をあけて視聴者という魚を逃がすようなものである。

 視聴者が求めているのは、もはやドラマではない。単なる感覚刺激なのだ。物語は、感覚刺激を準備するための、あるいは正当化するためのダシに過ぎないのである。
 既存の「物語」の中にどっぷり浸かってベタな喜怒哀楽している他者の姿を観るのは確かに鬱陶しくて阿呆くさい(例『渡る世間は鬼ばかり』)。けれども、「物語」を紡ぐことから逃避して感覚刺激に走るのは、幼児への退行という気がする。愛のないセックスみたいなものだ。

 モリアティ教授を演じるジャレッド・ハリスが如何にも天才肌の黒幕といった感じで素晴らしい。 
 

評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 仏教介護宣言 本:『看護と生老病死』(井上ウィマラ著、三輪書店)

看護と生老病死 2010年刊行。

 この先、自分のバイブル的存在(経典的存在?)になりそうな本である。
 出家の経験ある著者による「仏教」と「看護」とを結びつけた本なのであるが、自分が今、そしてこれからやろうとしていることは「仏教」と「介護」とをリンクさせることであり、「看護」という言葉をすべて「介護」という言葉に置換すれば、この本に書いてあることはそのまま自分の目標となり、導きとなり、後ろ盾となり、励みとなるからである。


本書は仏教の教えと瞑想的実践の本質を看護の臨床現場に手渡してゆく試みです。(「まえがき」より)

 その場合、「仏教」と言うのは、日本に古くから伝わる「大乗仏教」ではない。自分が軸足を置いて学び修行しているのは上座部仏教、釈迦の教えを現代までもっとも忠実に伝える、いわゆる「テーラワーダ仏教」である。
 著者の井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し瞑想修行を行ってきた。その後、西欧諸国での瞑想指導や仏教研究を経て還俗。現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で、スピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築と教育に取り組んでいる。
 井上の拠り所とする仏教はまさにテーラワーダである。


 現在自分は老人ホームの介護職をしているが、介護は看護より時間的にも距離的にももっと濃く対象となる相手の傍らにいる仕事である。看護の第一の目的が病気の治癒にあるなら、介護の目的は生活支援にある。西洋医学がメインの現代では、看護はどうしても手術や薬剤の投与に代表される、人間を生理機械として見立てた即物的なものになりやすい。自然、相手を見る視点も心より体優先になりやすい。一方、介護は、排泄や入浴や食事やレクリエーションなどをのサポートを通じて相手の心の声を聴く仕事である。
 また、老人介護の仕事は、病や死や親しい人との別れといった人生の危機に直面している人々との関わりである。認知症という、アイデンティティ(自我)の崩壊に苦しむ人々との関わりである。
 介護現場にこそスピリチュアル視点の導入が重要であり喫緊だと思っている。
 仏教系のビハーラ、キリスト教系のホスピスは日本にもいくつか存在しているが、ターミナルに至るもっと以前から、必要な介助を受けながら、老いと病と死とつき合うための教育の場があってもいいはずだ。

 老人介護の現場に仏教的視点や瞑想実践を取り入れることの利点は何か。
 何よりもまず、それが「老病死」の苦しみを和らげることである。
 

 仏教心理の視点から老年期について考えるとき、何かを獲得することによる幸せから手放すことによる幸せへの転換がどれだけできているかということがポイントになります。それまではできて当たり前だったことが加齢と共にできなくなってくること、すなわち自立や自律の喪失という現実と向かい合わねばならなくなるからです。
 
 ブッダの教えの根幹は「四聖諦」として表現されています。諦とは真理の意味で、四つの聖なる真理とは、生老病死の苦しみをありのままに知ること、その苦しみの原因を見いだして手放すこと、苦しみの消滅である涅槃を実体験すること、苦しみの消滅に至る実践の道を歩むことです。看護という臨床現場は生老病死のすべてを抱えています。それゆえに、生老病死の苦しみを見守るブッダの大いなる視点を看護の現場に応用することは、患者と看護者とが病苦を契機として共に苦しみからの解放に向かって歩むための灯を得ることになるのではないかと思うのです。

 
 老病死の苦しみは、むろん身体上のものであるが、より大きいのは心の苦しみであるのは言うまでもない。身体上の苦痛は最近では鎮痛剤などを使ってかなり軽減されるようになってきている。
 心の苦しみを作りだしている最大の原因は「自我への執着」である。
 仏教の「諸行無常」「諸法無我」「因縁」という教えこそ、この「自我への執着」という病に対するカンフルだと思う。
 
 無我とは、自我のないことではありません。人生は自我の思い通りにはならないという現実を受け容れて、試練に直面しても絶望して行き詰まってしまうことなく、試行錯誤しながら生き抜いてゆくしなやかな自我の強さを養うことです。
 
 認知症患者へのケアは、仏教の無我を実践的に深く理解するための重要な機会となり得ます。「私」という観念の成り立ちとその崩壊をありのままに見つめ、「私」という観念を手放す悲しみの道のりにそっと寄り添ってゆく学びです。
 
 次に、テーラワーダ仏教に伝わる瞑想法であるヴィパッサナー瞑想は、「今ここ」の自分の体や心に起きている現象を逐次認識する(実況中継する)のを特徴とする。自らをありのままに見て受け容れる作業である。
 修行の本来の目的である智慧の開発や解脱とは別に、この瞑想の実践は認知症の予防になるのではないかと推測している。
 と言うのも、認知症とは、「今現在の自分の状況を受け容れられないことから起こる自己否認」ではないかと思うからである。
 テーラワーダの伝わる国々(ミャンマーやタイやスリランカ)での、あるいはテーラワーダのお坊さん達の認知症の割合を知らないので何とも言えないが、もしこの推測が当たっているのなら、高齢化が猛スピードで進む日本にとってヴィッパサナー瞑想の普及は福音と言える。

 老人ホームで働いていて、利用者が日がな一日何もやることがなくてしんどそうにしているのを見ていると、「瞑想を知っていれば退屈しないのに…。」といつも思う。
 瞑想には目的がある。最終目的である「悟り」が啓けなくとも、智慧が開発される。それはワクワクするような面白いことである。効用もある。深い呼吸は身体にも心にも良いのは証明済み。免疫力を高めるというデータもある。心が満たされれば対人関係もスムーズになる。人生の最後の時間を誰にも邪魔されずに瞑想修行に充てられるなんて幸せではないか。介護を受けながらでも最後まで張り合いを持って生きられるではないか。(仏教では死ぬ時の心のありようが、次の転生先を決めると言われている。)

 また、ビハーラやキリスト教系のホスピスのように、施設全体がある特定の宗教を基盤として運営され、利用者が同じ宗教に学ぶ仲間であるのならば、そこには自然と助け合いの精神が生まれるだろう。介護を必要とする者同士が、お互いに助け合い、足りないところを補い合い、教え合い、学び合う場が生まれる。それこそ「サンガ」である。それは、社会や家族の軛を離れ、人生の最後を過ごすにふさわしいコミュニティたりうるはずである。

 一方、介護する側にも利点がある。
 一つには、職場がそのまま慈悲と智慧の学びの場、発揮する場になることである。何と言っても、助けを必要としている人が目の前にいるのだ。
 一つには、「老病死」と向き合っている老人達と関わることで、自らの修行の場となることである。
 
 私たちが生老病死という人生の現実にどのように対応するかというパターンは、私たちがどのような家族の中で育ってきたかという生育歴に強く影響されます。そこには、ある特定の感情パターンや思考パターンが親から子へと世代間を伝達されています。仏教では因縁と呼んでいるものです。私たちはそこに小さな意味での輪廻の姿を見ることができます。
 看護現場で困難に出会った時、自分が陥りやすい行き詰まりのパターンに遭遇した時、それは自分の生育歴を振り返ることが求められている時であり、輪廻する世代間伝達の悪循環に気づき、手放し、新たな良い循環を創造してゆくチャンスでもあるのです。こうした意味で、看護の現場は、微細なレベルでの輪廻パターンに気づき、手放し、新たな係わり合いの可能性を創造する総合的な智の実践の場でもあります。
 
 つまるところ、修行とは「自らを知る」ことにほかならない。
 介助を必要とする老人達と関わることによって生じた怒りや戸惑いや哀しみや虚しさや喜びや苦手意識をありのままに認めて、その感情の起こった背景や由来を探り出し、自我の構造を暴き出すのである。

 また一つには、仏教はターミナルケアを射程に入れる教えである。
 死に向かってゆく相手に対し、どのように接していくか、どのような言葉をかけていくか、どのように耳を傾けていくか。相手の表情や振る舞いや言葉から触発される自身の感情をどのように受けとめ、コントロールし、燃え尽きることなく介護を続けていくか。仏教は、瞑想は、役に立つはずである。(実際、いま役に立っている。)
 
 仏教的視点をもった看護では、死の間際の意識のあり方を大切に支援するという仕方で、そうした宗教的選択に寄り添いたいと思います。これはいかなる宗教を信じる人たちに対しても平等になされるべき仏教の基本的視点です。
 人が人生の最後に何を見るかを強制することはできませんし、強要すべきではありません。何を信じ、何を見て死んでゆくにしても、その人の死の間際の意識のあり方を大切にすること、すなわちできるだけよい状況で、不安や恐れなく、安心や感謝や喜びや希望に囲まれて、最後の景色を見つめて通過してゆくことができるようにケアすることが大切なのです。
 そうすることで、死を敗北として避けるのではなく、健康な人生の一部として自覚的に死を受容して生き抜いてゆけるように支援する医療や看護が可能になってゆくのです。

 今自分が働いている施設で、いきなり仏教的要素を取り入れるのは難しいだろう。職員にも利用者にもいろいろな宗旨の人がいるし、宗教には無関心あるいは反感を抱く人もいることだろう。それぞれの利用者の抱く信仰と儀式(お経を読むなど)を尊重するのがせいぜいである。介護保険という公金が投入されている関係上、特定の宗教色を目立たせるのも難しいだろう。(それもおかしな話なのだが。)
 だが、今施設にいる老人達は、神棚や仏壇を家に祀ってきた人がほとんどである。特定の宗派に強い信仰が無くとも、神仏に対する崇拝の念・畏敬の気持ちは持っている人が多い。施設の中に仏像を飾った仏間や神棚くらいあっても良さそうだと思うのだが・・・。朝夕に手を合わせるだけでも、心が格段落ち着いてくると思う。辛い時、悲しい時、寂しい時には、人生経験が薄いわりに大きな顔してのさばっている若輩の介護士なんかに話を聞いてもらうよりは、よっぽど拠り所になると思う。


 今は個人レベルで、介護する際のこちらの心の持ち方の土台(OS)として、仏教を役立てている。そのうち、より深いレベルで仏教と介護とをリンクさせていけたらよいなと思っている。



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● 映画:『ビフォア・ザ・レイン』(ミルチョ・マンチェフスキ監督)

 1994年マケドニア、フランス、イギリス共同制作。

 マケドニアの田舎の美しく幻想的な風景は、一瞬、そこがこの世の楽園であるかのような錯覚をもたらす。月明かりの下に眠る山村の素朴な表情は、平凡だが平和で穏やかな暮らしが日々営まれているような印象を与える。
 しかし、一皮むけば、そこにはロンドンや東京やグアム(!)同様、激しい憎悪と敵意、不寛容と暴力とが巣くっている。
 映像が美しければ美しいほど、人の心の歪みと醜さとが際立ってくる。
 世界は暴力に満ちている。苦に覆われている。
 人は無明に閉ざされている。

 この映画は、語り手法に特徴がある。
 三つのパートに分かれていて、それぞれが一人の主人公をめぐる愛と死別の物語である。
 第一部は、マケドニアの若い修道僧キリルが、修道院に逃げこんできた少女ザミラと出会い、密かに愛を育む。二人は新天地を目指し村をあとにするが、途中で追っ手に捕まってしまう。キリルの目の前でザミラは銃殺される。
 第二部は、ロンドンで編集の仕事に携わるアンが、カメラマンの愛人アレックスとの別れを経験する。妊娠を知り、とあるレストランで夫ニックと別れ話をしているところで事件が突発し、ニックはアンの目の前で銃殺される。
 第三部は、故郷の村に帰ってきたアレックスの物語。平穏な生活を望んでいたのに村では人種対立が起きて一触即発の状態にあった。かつての恋人は今では敵方となっていた。その娘がアレックスの従兄弟を殺してしまったのをきっかけに暴動が起こる。元恋人に懇願されたアレックスは、自分が盾になり娘を逃がしてやる。その少女こそはザミラであった。

 時系列で整理すると、第二部の前半が一番最初に来る。次に第三部、第一部と続き、最後が第二部の後半になる。
 つまり、実際に物事が起こった順序と、映画として語られる順序が違うのである。
 一見、物語は複雑に錯綜しているように見えるが、それほどでもない。アラン・レネ監督の『去年マリエンバードで』に比べれば、よっぽど単純である。
 こうやって語る順序を意図的に組み替えることで、物語全体に円環構造が生まれている。自らの尻尾をくわえる蛇のように、映画の最後まで来ると最初につながるのである。それは暴力の連鎖というテーマをより深く観る者に浸透させる。暴力の円環から永遠に抜け出すことのできない人間存在の無明を浮き彫りにする。
 そしてまた、キリル、アン、アレックスを主人公とした三部仕立てのオムニバスにしたことが目覚ましい効果を生んでいる。
 我々は普段自分自身を主人公としたドラマを生きている。自身の人生ドラマの中から退場していった人(別れた人)についてはその後どうなったか知らないことが多い。もはや関係が無くなったと思ってしまう。
 だが、世界は入り組んでいる。因縁は計り知れない。
 別れた人間がどこかよその土地で継続している人生ドラマは、回り回って自身と再び関係しているのかもしれない。第二部の後半で編集者のアンが扱う戦場写真の中に、「観る者」はある写真を発見する。それは、人種対立の犠牲となった少女ザメラの遺体と、その傍らで呆然と座り込むキリルを撮った写真である。アンはもちろん、キリルのこともザミラのことも知らない。愛人のアレックスがザメラが逃げるのに命を張ったことも、もしかしたらザメラはアレックスの娘だったかもしれないことも、知るよしもない。アンとアレックスの関係は表面上は切れてしまったからである。
 

 我々は、自らの人生ドラマの主人公となって、いわば縦割りの「生」を生きている。
 だが、本来の世界のありようは、個人の意識や物語を越えたところに不可思議な連関の糸を張り巡らせ、同時性(シンクロニシティ)の鐘を響かせながら時々刻々紡ぎ出され更新される「WWW」なのである。
 
 この作品は1994年のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得している。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
       
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 春来襲!秋山二十六夜山(972m、山梨県上野原)

●歩いた日  3月9日(土)
●天気    晴
●タイムスケジュール
 8:28 中央本線「上野原」駅発、山梨急行バス乗車
秋山二十六夜山 002 9:13 「浜沢」バス停着
      まんじゅう屋「つるや」
 9:30 歩行開始
10:00 あずまや
10:30 眺めの良い露岩
11:20 登頂
      昼食・昼寝
13:00 下山開始
14:10 「下尾崎」バス停
14:20 「寺下」バス停
      歩行終了
14:48 山梨急行バス乗車
15:30 「上野原」駅着

●所要時間 4時間50分(歩行2時間30分+休憩2時間20分)

秋山二十六夜山 015


 なんともゆかしい名前の山である。
 二十六夜というのは新月(朔)から数えて26番目の夜のことである。古く(一説によると平安時代)から、この夜の月の出を待って山頂付近でまつりを行う慣習があったことから、この名が付いたらしい。
秋山二十六夜山 001 二十六夜の月は有明の月。夜明け前に月が昇ると、全員で月を拝みながら無病息災や農作物の豊作、養蚕の成功などを祈願したと伝えられている。この地域(秋山村)ではその名残である二十六夜碑あるいは十三夜碑をあちらこちらの路傍で見かけることができる。

 たまたまこの山に登ろうと思い立ったのであったが、あとから調べてみると、なんと3月9日はまさに二十六夜にあたっていた。しかも、旧暦の1月26日である。正月二十六夜の月を拝むと幸運が訪れるという。
 今回も山に呼ばれていたとしか言いようがない。

秋山二十六夜山 003 浜沢バス停で降りたのは自分を含めて4名。今日も静かな山歩きが楽しめそうだ。
 3人はさっさと近道を使って姿を消してしまったが、自分はバス停の近くのまんじゅう屋「つるや」に寄る。
 上野原は江戸時代から酒まんじゅうで有名である。「つるや」のまんじゅうは通常の3倍くらいの大きさ(150円)を誇る。素通りできるわけがない。店内を覗くと、立派な石の竈から勢いよく吹き上げる炎の上で、大きな鉄鍋がふつふつと湯気を上げている。店先の床几に腰掛け、地元の人の方言会話を聞きながらゆっくりと頬張る。程良い甘さの粒あんが美味しい。

秋山二十六夜山 004 エネルギーを充填し、歩行開始。
 バンガローが建ち並ぶキャンプ場を抜けて山道に取りつく。いきなりの急登、しかもほぼ直線である。これがずっと山頂近くまで続く。アキレス腱が痛くなった。途中途中で適宜に休憩を取るのが利口である。ちょうど良い具合に30分ごとに、気持ちの良い風が抜ける東屋、眺めの良い露岩と現れる。露岩からは、白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)が望めた。

秋山二十六夜山 006


 途中、非常に危険なところがあった。
 右側は表面が滑らかな(つかみどころのない)大岩がせり出し、左側は急斜面の崖、その間を人一人やっと通れるくらいの幅の山道が3メートルほど続く。ただでさえ注意が必要な箇所なのに、なんと岩の影になっている道全体に厚い氷が張っている。試しに片足を置いてみると見事に滑る。普通に歩いたら間違いなく崖に落ちるだろう。
 どうやって向こう側に行くか?
 10分ほど呻吟し、まずリュックを下ろし向こう側にほうり投げ身を軽くしてから、抱きつくように岩に捕まって腰を低くし、一歩一歩足の置き位置を確かめカニ歩きしながら、どうにか脱出した。
 思い出したのは、小さい頃に見たジュール・ベルヌ原作の冒険映画『地底探検』の1シーンである。あのとき感じたハラハラドキドキが山登りの趣味につながっているのだな。

秋山二十六夜山 008 山頂はそれほど広くない。木々に遮られて眺望もいま一つ。
 だが、春風の爽やかな陽当たりの良い、気持ちの良い空間である。
 反対側から登ってきた中高年の一団が賑やかであった。
 山頂近くに雑木林の広場がある。その一角に卵を立てたような形の二十六夜碑があった。この広場で昔の人は月の出を待って酒を飲み博打に興じたのであろう。
 その姿を思い浮かべつつ、誰もいない広場の片隅で昼食を広げる。
 今日は、おにぎり(しゃけと昆布)、ゆで卵、漬け物、イワシの缶詰、緑茶。
 腹がふくれたら、空を仰いで横になる。
 至福の時・・・。

秋山二十六夜山 010

秋山二十六夜山 007 秋山二十六夜山 009


 最近とある会合で知り合ったSの姿を思い浮かべる。
 結ばれる確率はゼロに近いが、思うのは勝手だからな~。と言うより、「勝手に思ってしまう」のだ。
 旧正月二十六夜詣での威力はどんなもんだろう?

 ぽかぽかの陽光にあたって一眠りしたら13時になっていた。
 1時間40分も山頂にいた。
 もっとも帰りのバスが午後は一本しかないので、早く降りすぎても仕方ない。

 下山はつづら折りが続き、登りほど急ではない。
 下りきったところに沢があるが、今は水が枯れている。
 というか付近一帯崖崩れか地滑りでもあったようで、崩れた岩や木の残骸で流れが断ち切られている。四方八方に枯枝が散乱し、森の中のあちこちに裸の岩が捨て置かれたように周囲との調和無く転がっている。
 全体に「山が崩壊している」という印象。無惨な光景であった。
 信仰が廃れると、こんな風になるのだろうか。


秋山二十六夜山 011


 バスの時刻まで時間があるので一区間歩く。
 寺下のバス停の前にも立派な二十六夜碑が建っていた。
 碑の下に座って、秋山村の日常風景を眺める。
 家の改築をしている男達の姿が目に入る。建築屋に頼まず自分たちの手で建て増ししているらしい。息子、父親、祖父、ご近所さん(?)、いろいろな世代の男達が上野原弁であれこれ言い合う姿が面白い。


秋山二十六夜山 016


秋山二十六夜山 017



 帰りは藤野駅で下車し、やまなみ温泉に浸かる。
 露天にいた3人の男が「会派がどうの」「地域活性化がどうの」「パーティーがどうの」と盛んに話していた。どうやら相模原の市会議員らしかった。
 聞いていると、「前の相模原」という言葉が会話のはしばしに出てくる。
 そう、1955年に誕生した藤野町は、2007年に相模原市に編入されたのであった。
 (風呂の入口にかけてある大きな凧はそのときの記念のものらしい。)

 風呂上がりの生ビールの一杯と共に、下界に降りてきたなあと感じた瞬間であった。

秋山二十六夜山 018



● 映画:『ミケランジェロの暗号』(ヴォルフガング・ムルンベルガー監督)

 2011年オーストリア映画。

 原題はMein bester Feind「我が最良の敵」
 『ダ・ヴィンチ・コード』の向こうを張って二匹目三匹めのドジョウ狙いの邦題である。
 ミケランジェロが描いたモーゼの素描(400年前にバチカンから盗まれたという設定)を巡って、ナチスドイツと決死の駆け引きをするユダヤ人画商の息子を主役とした娯楽サスペンス。――という説明が過不足なく言い切っている。


 この物語には三つのストーリが絡んでいる。
 一つ目は、くだんの幻の絵画の在り処を探すミステリーであり、その熾烈な争奪戦。最も『ダ・ヴィンチ・コード』に近い部分である。
 二つ目は、裕福なユダヤ人画商の息子ヴィクトル(モーリッツ・ブライプトロイ)と、一家の使用人の息子でヴィクトルとは25年間共に暮らしてきたドイツ人の親友ルディとの愛憎・確執の物語。原題はここから来ていよう。
 三つ目は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害の物語。

 三つの流れを絡ませて、ユダヤ人にとって最も過酷な時代に、親友に裏切られ、恋人を奪われ、アウシュビッツで父親を殺されながらも、「一休さん」ばりの機知で幾度も生命の危機を潜り抜け、最終的には友(=敵)を出し抜いてフィアンセと絵画を手に入れることに成功した男の物語を小気味良く描こうとしているわけである。
 その意図はわかるが、「かなり無理があるなあ~」という気がする。


 まず、一つ目のミステリー部分であるが、謎が凡庸である。絵画の隠し場所がポイントなのだが、これが見抜けない者がいるだろうか。「木を森の中に隠す」じゃないが、これを見つけ出せないナチスの輩はよっぽど馬鹿じゃなかろうか。あまりの意外性のなさは、かえって意外であった。
 二つ目の友情ドラマについては、描き方があまりに粗雑過ぎる。ルディは25年間お世話になってきたユダヤ一家を、幼馴染の親友をナチスに入党することで裏切るわけである。それなりの心のドラマがあってしかるべきである。それがまったく描かれない。
 なるほど、ルディとヴィクトルは同じ女性レナ(ウーズラ・シュトラウス)を好きになり、レナは権力を笠に着るドイツ人のルディでなく、身ぐるみはがされる宿命にあるユダヤ人ヴィクトルを選ぶ。それはルディがヴィクトルを憎む理由の一つにはなるかもしれない。しかし、それならそれで嫉妬から憎悪に至る心の過程が描かれるべきである。
 ルディの半生を描くだけでも深い人間ドラマ足りうるはずなのに、それをあっさりと片付けてしまう。あまりにも不自然、というかお座なり。
 三つ目のユダヤ人迫害は、映画に扱われる古今東西のテーマのうちもっとも重いものの一つと言える。ヴィクトルの両親はアウシュビッツに収容される。父親は殺されてしまう。ヴィクトル自身も今や虫けらのような存在である。十分シリアスである。
 しかし、シリアスさが伝わってこないのである。父親を殺されたヴィクトルの怒り・悲しみ、婚約者をルディに奪われた怒り・苦しみ、たくさんの同胞を虐殺された怒り・無念さ、ナチスドイツへの憎しみ・恨み、自身の無力への苛立ち、未曾有の悲劇を前にした絶望と神への懐疑と信仰の揺らぎ・・・。当時のユダヤ人なら抱いたであろう感情がヴィクトルからはほとんど感じ取れない。ヴィクトルは本当にユダヤ人なんだろうか?と思ってしまうほどだ。


 これは役者の演技の拙さというより、設定そのもの、脚本自体の拙さのせいだ。
 それぞれ一つだけでも十分語り甲斐のあるストーリーを一緒くたにしてしまったところ、つまり盛り込みすぎ、欲張りすぎたのが失敗の一因。
 しかも、それらのストーリーの比重が違いすぎてバランスが悪い。盗まれた絵画ミステリーとしての軽やかな娯楽性と、親友の裏切りやアウシュビッツの惨劇といった重いシリアス性とは一緒くたにできなかろう。たとえて言えば、「南京大虐殺を舞台に従軍慰安婦A子がラストエンペラー(愛新覚羅溥儀)の所有していた秦の始皇帝の秘宝を探す娯楽ミステリー」なんて感じだ。
 ラストで絵画を手に入れたヴィクトルが母親とフィアンセ共々、あっけにとられるルディを尻目に得意満面に立ち去るシーンなど、虐殺された父親や同胞の悲劇や恨みを背負っていないかのような颯爽とした表情のヴィクトルが鉄面皮か薄のろに見える。

 なぜこんな不具合が起こったのか。
 筋の面白さ、巧みさを優先して、人間の心理をなおざりにしてしまったからである。
 『ダ・ヴィンチ・コード』のように、純粋に絵画ミステリーに焦点を絞って、背景ももっとフィクショナルなものにしておけば良かったのに・・・。

 カメラを回す前の時点での失敗である。


評価:D+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 本:『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(春日武彦著、朝日新聞出版)

老いへの不安 2011年発行。

 信じ難いことに、自分は初老期に位置しているわけである。五十代も終わりに近づいている。老人となるのを目前に控えているーーだがそれにしては貫禄もないし、深みもない。落ち着きもなければ他人に年輪を感じさせることもできない。言葉にも態度にも説得力を欠き、欲望は未だに生々しく、枯淡の境地には程遠い。

 どうやって「きちんと」歳を取ったらいいのか分からないのである。しかも自分の周囲を見回し、世代の近い人間を眺めてみても、彼らも上手く老人になれそうに思えない。

 と、慨嘆する著者による「老い」をめぐるモノローグ。
 書店に並んでいる良くある「老い方指南」みたいな鬱陶しいもの(曾野綾子に代表される)ではないのが好感持てる。「功成り名を遂げた六十手前の有能な精神科医にしてこのザマか。春日がこれほど惑うなら一般人が途方に暮れるのも無理はないではないか」という妙な安堵感を与えてくれる。


 著者が「うまく」歳を取る鍵を探るために利用した手持ちの駒は、幼少の頃からこれまでに出会ってきた「カッコいい、粋な」老人たちの思い出であり、いろいろな小説に描かれている年寄りの姿である。様々な老人たち、老いのカタチを掲げて、ああでもないこうでもないとあれこれ寸評しながら、著者自身の求める「老い」のカタチ、そして「老いとは何か」の輪郭を描いていく。 
 輪郭であって中味でないのは仕方ない。実際に自らが老いと対峙するその日まで、結局「老いとは何か」分からないのだろう。他人の語る「老い」は、それがいくら当事者の口から発しられたものであろうと、結局他人のものでしかない。その意味では、「幸せ」と同様かもしれない。

 初めてこの著者の本(『病んだ家族、散乱した室内』医学書院)を読んだとき、何より印象に残ったのは著者の「偏屈」であった。
 で、2冊目を読んで「やはり自分の印象は正しかった」と思った。
 春日自身が十分自覚している。

おそらく、わたしは老いていくに従って、偏屈で意地悪で寂しい老人となっていくであろう。ひと筆描きの描写で事足りそうな「いやなじじい」で片付けられてしまうだろう。
 
 当方だって人間関係が面倒なあまりに子供を儲けなかったし、友人だって驚くほど少ない。携帯電話は持ち歩かない(番号メモリーも、妻の携帯と当方の勤務先の二つしか登録していない)。仕事と散歩以外は引きこもった生活だし、小鳥よりは鉱物の結晶のほうがもっと心が慰められる。もっとも猫だけは例外だが。

 なんだか自分(ソルティ)と重なる部分が多くて苦笑してしまう。

 一方、この本を読んでいて妙に引っかかった部分がある。
 いろいろな小説の中に出てくる「老人」を原文を引用しながら紹介するにあたって、春日はまず作者を紹介する。多読家である春日が取り上げる作家たちは世間的には知られていない人が多い。吉行淳之介や井上靖や橋本治はともかく、塩野米松とか中原文夫とか高井有一とか聞いたことのない(当然読んだことのない)作家の名前が次々と出てくる。
 春日は読者の便宜をはかって、それらの作家について簡単に紹介してくれる。
 その際に、どういうわけか「芥川賞受賞歴がある」とか「芸術院会員である」とか、なんか世間的に座りのいいプロフィールを必ず付すのである。

 高井は昭和七年、東京都出身。いわゆる「内向の世代」の作家として括られ、このグループには・・・・(略)・・・・などが含まれる。芥川賞のみならず谷崎潤一郎賞や野間文芸賞など受賞歴は華やかで、現在は日本近代文学館理事長。

 一回や二回なら普通に流せるが、毎回この調子なんである。なんだか春日自身が世間的価値に追従している俗物みたいに思えて、いささか鼻白む。「芥川賞」も「芸術院会員」も、タレントの「二科展入選」というプロフィール同様、「どうでもよいこと」というのが「偏屈者」たる者のスタンスではないかと思うのである。(自分が「理想的な偏屈者」の勝手なイメージを抱いているせいもある。他人に勝手に抱かれるイメージを裏切るからこその「偏屈」なのだから。)
 これは「世の中にはこういう素晴らしい埋もれた作家がいるのだよ」と無知な読者に啓蒙したい一心から来る文学愛好家の世間的価値への不請不請の「歩み寄り」であろうか。
 それとも、春日自身が「芥川賞」に対するオブセッションを抱いているのだろうか。
 としたら、まだまだ十分若い。

老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこととは違うのだろうか。難儀なこと、つまり鬱陶しかったり面倒だったり厄介だったり気を滅入らせたり鼻白む気分にさせたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。
 難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面ではないかとわたしは思っていたのだ。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積して害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。
 だから老人は鬱屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。



● 宿敵はワトソン 映画:『シャーロック・ホームズ』(ガイ・リッチー監督)

 2009年イギリス・アメリカ共同制作。

 主要キャラクターの設定をコナン・ドイルから借りているが、ストーリー自体はまったくのオリジナルである。同じストーリーを、そのために新しく創造したキャラクター達で演じたとしたら、これほどの面白みも人気も出なかっただろう。ホームズ、ワトソン、アイリーン・アドラー、レストレード警部、モリアティ教授、ハドソン夫人・・・。ドイルの創造したキャラクターの尽きせぬ魅力と彼等に対する読者の熱い人気が、この作品を成功に導いたのは間違いない。その意味で成功の60%以上はドイルに帰すべきである。


 推理とアクションとサスペンスと友情ドラマとCGと19世紀ロンドンの風景とをバランス良く楽しめる。
 ワトソン役のジュード・ロウが良い。ホームズの引き立て役として愚鈍で愚直な男として設定されることの多いワトソンのイメージを一新する色男ぶり。下手すると主役のロバート・ダウニー・Jr.を食いかねない魅力を打ちだしている。いや、もしかしたらこれまでのホームズもの史上もっとも魅力に富んだワトソンかもしれない。
 宿敵モリアティとの闘いがテーマとなる第2作はすでに作られたが、第3作はどうだろう?
 そろそろロバートがへそを曲げるのではないだろうか?
 ワトソンが目立ちすぎるのも考えものだ。



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『ハングオーバー!!史上最悪の二日酔い、国境を越える』(トッド・フィリップス監督)

 2011年アメリカ映画。

 前作の大ヒットを受けて予算アップしたのだろう。今回はタイ・バンコクを舞台にしたバチェラーパーティーご一行様の大暴れ。
 だいたいPART2やPART3が出来映えの点で最初の作品を超えることはまれである。続編につきまとうマンネリズム(お約束ごと)と一作目の成功に気をよくした役者達が気合いを入れすぎるがゆえに生じるキャラの誇張化は、固定ファンを喜ばす一方で、作品としては新鮮さの欠如をもたらす。
 が、この作品は一作目と同レベルの面白さに達している。
 監督の才気、脚本の妙もあるが、一番の魅力はやはりアランことザック・ガリフィナーキスの演技にある。彼が登場した瞬間からマンネリズムの空気が消え失せてしまう。2作目でもアランはやっぱり新鮮である。
 アランが出てくるシーンでは、目は自然とアランに行ってしまう。よく演技に関しては「子供と動物にはかなわない」と言われるが、ザック(と脚本家)はアランの精神年齢を10歳くらいで止めているのだろう。風変わりで異常で変態でトラブルメイカーなのに愛らしさを感じざるを得ないのはそのためなのだろう。
 立ち上がったオットセイのような体型ですら愛らしい。




評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
   
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● シェイクスピアと紫式部 映画:『から騒ぎ』(ケネス・ブラナー監督)

 1993年アメリカ・イギリス共同制作。

 原作はシェイクスピアのMuch Ado About Nothing
 まんま「から騒ぎ」である。
 惚れ合っている二組の男女が結ばれるまでのすったもんだをイタリアの片田舎を舞台に陽気に描いたコメディである。

 お互いに惚れ合っているのだから「好きだ」「私も」・・・で結ばれれば簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。二人を引き裂く陰謀があったり、誤解があったり、両人のプライドがあったり、意固地な性格があったりして、当人同士も周囲もヤキモキする。
 また、そうした波乱や障害がなければそもそも「物語」は生まれない。あらゆる「物語」は、まさにMuch Ado About Nothing「意味のない大騒ぎ」である。
 もちろん、「人生」という物語も同じである。シェイクスピアは『マクベス』にこう語らせている。
 

Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.  
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。 
 
 このようなある種の「虚無」の地点から人生や世間や周囲の人間たちの紡ぐドラマを観ていたのがシェイクスピアである。
 凄いとしかいいようがない。
 一方、この「虚無」からこそ、あれだけ豊かな深みのある物語が生まれ得たとも言える。「物語」を超越した地点にいて、冷めた目であらゆる「物語」の機構を読み抜いたのであろう。神の視点から人間を見るように、自在に「物語」を創り得たのであろう。
 先般亡くなった名女優山田五十鈴が、親友が夫を亡くし嘆き悲しんでいるのをじっと観察して演技の参考にしたという話を、中野翠がどこかに書いていたが、才能ある芸術家というのはどこか透徹した目で世を見ているのかもしれない。
 中世から抜けたばかりの産業革命前の時代。まだイギリスが封建的で牧歌的な空気を宿していて人々が陽気で暢気だった時代。そしてまたエリザベス一世の絶対王政で世界の覇者となったイケイケバブリーな時代。そんな時代に一人そんな境地にいたというところが本当に凄いとしかいいようがない。時代の寵児というより、時代の「超」児=異端者だ。
 日本で比肩できる人物を挙げるとすれば紫式部をおいてない。

 シェイクスピア作品の映画化は難しい。
 そもそもが舞台のために書かれた脚本である。それをそのまま使って映像化するのは無理がある。セリフ自体がまた冗長で古めかしくて「芝居がかって」いる(あたりまえだ)。
 閉鎖された非日常空間である舞台の上なら映えるものも、日常生活同様の開放された空間と日常生活を凌駕する視点の自在さを有する映画ではリアリティを欠く危険がある。それでもシェイクスピアに敬意を示してか、たいていの場合、脚本を映画用に書き換えるということをしない。この映画もおそらくセリフはほぼ原作そのままであろう。
 すると、監督の演出手腕が見所となる。
 ケネス・ブラナーは非常に才能豊かな演出家であることを証明している。実に巧く映像化している。舞台用に書かれた本であることを忘れさせるくらい、演出とカメラ回しとテンポの付け方が巧みでダレがない。ドン・ペドロ(デンゼル・ワシントン)が仲間ともども凱旋するのを村中で迎える最初のシーンなどは、まさに映像でなければ表現できないリズムとお色気を生み出して、村人の喜びの爆発する様を描ききっている。この芝居には欠かせない、舞台はイタリアだがこの時代のイギリスにも欠かせないラテン的な明るく陽気で享楽的な雰囲気が横溢している。モーツァルトの『フィガロの結婚』を聴いているかのようだ。
 しかも、ケネス・ブラナー自身が主役の一人、恋する男を演じている。これがまた実に巧い。本当に才能ある人だ。 
 マイケル・キートンの演技もトンでいて笑える。『ビートルジュース』しかり、独特な体の動きと喋り方によって奇天烈な人物を造型するという点で、ジョニー・ディップ(=ジャック・スパロウ)に先んじている。
 ブレイク前のキアヌ・リーブスの暗い眼差しもまた魅力である。

 『から騒ぎ』は2012年にジョス・ウィードン監督により再映画化されている。
 DVD化されると良いのだが・・・。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」      

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」          
        「ボーイズ・ドント・クライ」
          
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


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