ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 涼快・滝めぐり:西沢渓谷(1390m、山梨県山梨市)

 JR中央線の駅の構内に貼ってあった西沢渓谷のポスターに惹かれ、メモっておいた。「森林セラピー基地」と謳っているからには相当の‘気’の良さが期待できそう。
 気がかりは人混み・・・。
 平日を選んで、いざ出発!

●日程  8月1日(金)
●天気  晴れときどき曇り、のち雷雨
●標高  1390m(標高差290m)
●行程
10:21 JR中央本線山梨市駅・西沢渓谷入口行きバス乗車(山梨市営バス)
11:20 西沢渓谷入口着
      歩行開始
12:10 三重の滝
13:10 七ツ釜五段の滝
14:10 西沢渓谷終点
      トロッコ道
14:40 大展望台
      昼食休憩
16:15 西沢渓谷入口
      歩行終了
16:25 山梨厚生病院行バス乗車
17:23 JR山梨市駅着
●所要時間 4時間55分(歩行時間3時間55分+休憩時間1時間)

 山梨市駅発1便のバス(9:12)に乗ろうと計画していたのだが、中央線はダイヤが大幅に乱れていた。どこかの駅のホームから転落した人がいたとか。
 最近多いな。
 1便に間に合わないと判断し、特急列車(あずさ3号)をキャンセルして各駅停車でのんびり山梨市駅に向かう。ゆっくり読書ができた。
 山梨市駅はなんにもないところだ。
 ウエイトリフティングの大会があるらしく、駅前広場には案内所のテントが張られていた。そこの女性から西沢渓谷の案内パンフをもらう。

西沢渓谷 001


 2便のバスはガラガラ。終点の西沢渓谷で降りたのは自分一人だった。
 ポスターの効果があまり出ていないようである。
 もっとも、夏休みとはいえ土日やお盆でなければこんなものか。
 終点で降りるときに運転手が言った。
「雨具持って来たかい? 午後から雷雨になるから気をつけて。」
 ギクッ。
 天気予報では30%の降水確率。確かに山間部は雷雨やにわか雨の可能性とあった。
 今のところ真夏の強い日差しが降り注いでいるけれど、どうなることか。頭の中を昨年の瑞牆登山の冷たい記憶がよぎる。

西沢渓谷 002



紅葉の頃 西沢渓谷は秩父多摩甲斐国立公園内に位置し、国内屈指の渓谷美を誇る。笛吹川の上流にあって、毎年4月29日の昭和の日を山開きとし、新緑、避暑、紅葉で人を集め、11月末に通行止めとなる。昭和37年から人力によって開発が始まったというから、比較的新しい行楽地と言える。自分もポスターを見るまでは聞いたこともなかった。
 約4時間で一周できるように遊歩道や案内標識が整備され、大小さまさまな滝や周囲の山々の展望を楽しみながら森林浴できる。
 案内パンフによると、渓谷内のマイナスイオンの最高値は1立方センチあたり18000個(方丈橋付近)とある。都会の生活空間では100~200個、山梨の生活空間では500~1000個だから、抜群の癒し効果である。もっとも、マイナスイオンという物質は科学的に特定されておらず、人体への効果との因果関係も立証されておらず、「似非科学」という説もある。
 
 まずは、遊歩道を少し行ったところにある山の神に今日の無事安全を祈る。

西沢渓谷 003


 ブナ、トチノキ、ミズナラなどの緑が目にやさしい。日差しを遮ってくれて肌にもやさしい。
 人の姿はまばら。
 二俣吊り橋からの光景は、広々として気持ちいい。
 降るようには思えない。

西沢渓谷 004

西沢渓谷 005


 大久保の滝を遠くから眺める。

西沢渓谷 007


 渓流を目指して谷を下りていくと、底の方に緑に囲まれたコバルトブルーの池が出現する。心が沸き立つような色合いは、サファイヤか、はたまたエリザベス・テイラーの瞳のよう。
 三重の滝に到着。(マイナスイオン値17000)
 池のように見えたのは滝壺であった。

西沢渓谷 008


西沢渓谷 011


 ああ、来て良かった!

 一瞬にして、心も体も別次元に運ばれる‘気’の凄さ。
 これまで歩きながらも心を曇らす雑念(失恋の痛手と未練)に囚われていたのだが、一気に妄想が消えうせ、「今、ここ」に意識が集中する。
 マイナスイオンの効果云々は分からないけれど、自然の威力は科学的数値なんかで到底測れない。精神に及ぼす影響は主観的なものだから。
 
 木々の間から空を見上げると、片や入道雲が細胞分裂を繰り返すようにぐんぐんと膨れ上がり、片や黒い雲が流れてきた。
 バスの運転手の言ったことがどうやら当たりそうな気配。
 もうちょっと持ってほしいのだが。
 奥の手を出すか。
 慈悲の瞑想をし、念を空に放つ。
 しばらくすると、雲の合間から再び太陽が顔を覗かせた。
 
 ここからはずっと渓流沿いの歩きとなる。
 ごつごつした岩が並ぶ足元は、よそ見していると、意外に危ない。
 しかし、いくつもの滝と、思わず飛び込みたくなるほど美しく澄んだ滝壺と、軽快な調べを奏でる渓流の連続に、つい足元に注意を向けるのが疎かになる。一度濡れた岩に滑って尻餅をついてしまった。 

西沢渓谷 012


西沢渓谷 013


西沢渓谷 015


 マイナスイオン最高値の方丈橋を渡って、いよいよコース最大の目玉である七ツ釜五段の滝に対面する。
 いやあ。
 豪壮にして麗しく優美な姿は何にたとえよう。
 男性的であると同時に女性的な。
 リボンの騎士か。
 オスカルか。
 その名の通り、上部から五段の滝がそれぞれに美しい滝壺をつくりながら、最後の落差50メートルの瀑布へと連動している。
 日本の滝100選に選ばれるだけのことはある。

西沢渓谷 018


西沢渓谷 020



 渓谷歩きの最後は急な登りが待っている。
 ここで一挙に高度を上げて、山腹につけられたかつてのトロッコ道の址を行く。
 先程そばを通った滝壺を、今度は上空から見下ろす。
 緑とブルーの配色が爽やかで神秘的。

西沢渓谷 024


西沢渓谷 030


西沢渓谷 031

 

西沢渓谷 025


 渓谷めぐりと山歩きの両方が楽しめるとは贅沢このうえない。
 大展望台からは、鶏冠山(とさかやま、2,115m)、木賊山(とくさやま、2,468m)、破風山(はふさん、2,318m)などがよく見える。
 ここで遅い昼食とする。

西沢渓谷 026

 
 空はすでに一面雲に覆われているが、どういうわけか太陽のところだけぽっかりと穴が開いたように雲が途切れている。
 少し足を速めたほうがいいかもしれない。

西沢渓谷 032


 大岩の上に祀られた山の神を拝み、下りの近道をたどって、無事一周を終える。
 バス停到着は、発車時刻10分前だった。

 帰りのバス(乗客3名)に乗って5分もしないうちに、待ち構えていたように空は薄墨の雲で覆われて、路面は一瞬にして黒くなった。

ホントかよ。
 
 



     
     
 
 

● 終わりよければ 映画:『終の信託』(周防正行監督)

2012年東宝。

 尊厳死(安楽死)がテーマの‘重~い’作品である。
 この答えのない難しい題材を、144分の長さにわたって真摯に、丁寧に、しっかりと、緊張感を持続させて描き切った周防監督の力量は、賞賛に値する。やはり、現代日本の最もすぐれた映画監督の一人である。
 主演の草刈民代は、夫である監督の薫陶よろしく、「ここまで演れる人だったのか!」と目を見張るほどの熱演、好演。『Shall we ダンス?』(1996年)での女優デビューから16年、女優としてとても良い成長を遂げてきたのが証明されている。篠田正浩―岩下志麻、吉田喜重―岡田茉莉子に継ぐべき夫唱婦随のコンビネイションであろう。
 
安楽死とは、
①患者本人の自発的意思に基づく要求に応じて、患者の自殺を故意に幇助して死に至らせること(積極的安楽死)、および、②患者本人の自発的意思に基づく要求に応じ、または、患者本人が意思表示不可能な場合は患者本人の親・子・配偶者などの自発的意思に基づく要求に応じ、治療を開始しない、または、治療を終了することにより、結果として死に至らせること(消極的安楽死)である。

積極的安楽死を認めている国は、スイス、アメリカ(オレゴン州、ワシントン州)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクなど。日本では刑法上殺人罪の対象となる。一方、消極的安楽死は、日本を含め世界諸国で容認されている。
                          (ウィキペディア「安楽死」より引用抜粋)


 先日、知り合いの看護師から聞いた話である。
 彼女はALS(筋萎縮性脊索硬化症)患者のいる病棟で働いていた。体も口も動かせなくなったALS患者は、文字盤を使い、瞳の動きで意思表示する。それを解読し、家族や見舞客に通訳するのが彼女の特技だったそうである。
 ALS患者は、病状が進行したある時点――自発的な呼吸ができなくなる時点――で、人工呼吸器をつけるかどうするか決定しなければならない。
 つけなければ死ぬことになる(消極的安楽死)。
 つければ数年生き延びることになるが、最終的には瞳すらも動かせないトータリー・ロックト・イン・ステイト(完全閉じ込め状態)が訪れ、周囲とのコミュニケーションがいっさい図れないまま、寝たきりで最期を迎えることになる。
 いったん呼吸器をつけたらはずすことはできない。当然本人にははずすことが機能的にできないし、医者や家族など周囲の人間がそれをすると殺人になってしまう(積極的安楽死)。
 彼女の担当していたあるALS患者は人工呼吸器をつけないことを望んだが、家族が反対し(決心することができずに時間切れとなって)、結局つけさせられてしまった。
 その後しばらくして、病室で患者と家族の対話を通訳していた彼女は、次のセリフを患者の家族に伝えなければならなかった。
「ど・う・し・て・こ・ろ・し・て・く・れ・な・か・っ・た」

 尊厳死(安楽死)をどう考えるべきか。
 いまのところ自分でもよく分からない。
 ただ、積極的安楽死の容認賛成派の主張のうち、次の一文は妙に納得する。
「生命の継続・延命を強要し、心身の耐え難い苦痛を継続させることは虐待や拷問であり、死生観の強要である」


 仏教では、死ぬ間際の意識の状態が次の転生先を決めるとする。
 苦痛に七転八倒し、周囲の人間を恨み、怒りに満ちた心の状態で死ぬのは、当然良いことではない。どんな酷いところに転生するか分かったもんじゃない。
 そのような死に方をもたらした人たちもまた、計り知れない業(カルマ)を背負うことになろう。


 最近思うのは、「命の大切さゆえに」生物としての生命を何としても長らえさせるべき、というのはかえって「命」に対する軽侮であり、「命が大切だからこそ」その終焉も尊厳あるものにすべきでないか――ということである。
 ただし、その際の当事者の自己決定が、周囲の愛と理解と、最善の医療的・福祉的対応に保障されていることが前提であるが・・・。


All's Well That Ends Well
(終わりよければすべて良し)
    ―シェイクスピア―



評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」 

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● 本:『日本の未来』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ新書)

日本の未来 2014年刊行。

 副題は「アイデアがあればグローバル化だって怖くない!」
 日本在住30年以上になるスリランカ出身の初期仏教のお坊さま(長老)から見た、日本という国と文化、日本人。その現状と問題点が率直に、縦横無尽に、語られる。
 そして、仏教の智慧に裏打ちされた日本の明るい未来への指針とアドバイスが、親身に、ユーモアたっぷりに、告げられる。

 取り上げられるテーマは実に多彩。
 日米関係、日中関係、日朝関係、靖国参拝問題、ゴミ問題、原発問題、開発問題、軍備武装と自衛隊、TPP問題、東京オリンピック開催、出生前診断・・・・。
 スマナサーラ長老の日本及び日本人に関する知識と理解の深さには感嘆せざるをえない。


以下、引用。

●仏教の人間は、将来や未来のことを心配しない、悩まない、そういう訓練をします。だからといって、いい加減ではありません。何も考えずに行動したりはしません。将来のことをまじめにいろいろ考えはします。これまでの状況から、将来のことをなんとなく読んだりもします。予測できないわけではなく、むしろ、仏教の智慧がいくらかでもあれば、将来について的確な見通しがもてたりするものです。
 しかし、だからといって、将来のことをあれやこれやと気にはしません。逆に、心配したり憂えたりしないよう、気をつけています。
 仏教は、「今、しっかり生きてみなさい」と教えます。今の時間を、何の失敗もしないで、後悔するはめにならないように、「ああ、よかった!」と思えるように生きてみれば、すべての問題は解決します。いつも、テーマは「今」だけなのです。

●日本人が世界のリーダーになってくれたらありがたいのです。日本人には、その資格があるのです。本当はアジアの国々が、中国さえもそう期待していたのです。日本人は最低でも、アジアのリーダーシップをとってくれるだろう、と。それを裏切ったのです。それで今、その結果を受けているのです。・・・・・・・
 リーダーシップとは自我を張らないことです。人の心配をするのです。人の幸福を願うのです。

●たった一人でも慈悲の実践をすると、周りが幸せになります。慈悲の実践とは世界平和とか、そんなちっぽけなことのためにやるものではないのです。すべての生命が平和で豊かで、お互い仲よく生きるための道なのです。慈悲の実践をすると、人間や地球上の生命だけではなく、神々まで豊かになる。「神々に守られますよ」と、お釈迦様ははっきりおっしゃっています。

● 映画:『もうひとりのシェイクスピア』(ローランド・エメリッヒ監督)

 2011年イギリス・ドイツ合作。

 シェイクスピア別人説をモチーフにした歴史サスペンス。
 英国エリザベス絶対王政時代のコスチュームプレイと、ゲイとして有名なエメリッヒ監督の好むイケメン群像が楽しめる。

 シェイクスピア別人説は、人類史上最高の劇作家であるウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の作品が別人によって書かれた――というものである。史実上のシェイクスピア(とされる人物)の育ちや経歴を見ると、アノ間違いなく「世界遺産」の上位五指に入る膨大にして崇高な傑作群を生むほどの教養や語学力を身につけられたはずはない――というのが根強い別人説を生む原因となっている。

 真の作者として有力な候補は三名。
1. フランシス・ベーコン・・・経験主義、帰納法で有名な政治家・哲学者
2. クリストファー・マーロー・・・同時代の劇詩人。シェイクスピアと生年が同じで、最期は他殺体となって見つかった。(この映画にも登場する)
3. エドワード・ド・ヴィア・・・第17代オックスフォード伯。政治よりも文学を愛好する貴族。

 この映画は、3のオックスフォード伯こそ真のシェイクスピアであるという説に基づいて創られている。
 脚本はよく練られている。が、登場人物達の若い頃と現在とが頻繁にスイッチするので、誰が誰だか分からないのは難点。映像はエメリッヒらしい美意識と格調とが横溢。最後の最後で明かされる衝撃の事実も(史実ではないだろうが)、ギリシャ悲劇のようで面白い。エリザベス役のヴァネッサ・レッドグレイブも女王らしい威厳を醸している。全体に肩の凝らない娯楽作品に仕上がっている。

 シェイクスピアと言えば、思い出すのは小学校時代の学芸会である。
 演劇クラブに所属していた自分は、全校生徒を前に体育館のステージで『リア王』を演じたのである。脚色もほぼ自分がやった。
 このときの自分の役は、なんとリア王の三人娘の一人で、冷淡で強欲な長女ゴナリルだった。妹のネグリジェをドレスに仕立て、母親のカツラを借りて、人生最初にして(おそらくは)最後の女装であった。思う存分役になりきって、次女のリーガンと共にけなげで可憐な末娘コーデリアをいたぶったものである。
 リア王を演じたのは、クラブの部長だった上級生の女子であった。傲慢で尊大で貫禄があってリア王にぴったりだった。
 男子児童が女性を演じ、女子児童が男性を演じ・・・。今思うと、かなりキッチョで、クールで、恥知らずな舞台であった。
 何より大胆だと思うのは、『リア王』を喜劇に変えてしまったのであった。

評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● ありのままの私、になるの? 講演:「どうして仲良くできないの?」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ)

 7月12日(土)中野ゼロで開催されたテーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 テーマ(副題)は「差別と区別の違いを知る」

 開口一番、スマナ長老が発したのは次の英文。

  Mankind is born to kill.
  人は殺すために生まれてきた。

 いつもながら大胆な発言、大胆な人である。
 しかし、初期仏教を学び瞑想を日課とするようになって数年の自分は、もはやこの程度の発言で度肝を抜かれることはない。
 これは言葉を変えて言えば、「人間は無明に閉ざされている」ということだろう。
 無明の原因は無知で、無知の最たるものは「自我が存在する」と思っていることである。
 自我というのは常に「自分は正しい」と思っている。
 当然だ。他者との違いのうちにしか「自分」は存在しないからである。「自分」が存在する限り、その「自分」はいつも「他者」を必要としつつ否定する。
 つまり、born to kill だ。
 だから、人間は生まれつき区別するようにできている。
 スマナ長老は言う。
 「区別に感情が入ると差別になります。人は感情に支配されているので、すべての区別が自動的に差別になってしまうのです。」
 区別を差別にしないためにはどうしたらよいか。
 感情に支配されないこと。理性(智慧)で生きること。慈悲を育てること。
 そのためにはどうしたらよいか。
 ヴィッパサナー瞑想で智慧を育てること。慈悲の瞑想ですべての生命を慈しむ心を育てること。
 講話の結論がいつも修行の励行に結びつくのがスマナ長老の話である。というか、まことの仏教である。

 今回、刺激的で面白かったスマナ発言。

● 仏性とはすべての生命に備わっている無明です。

 仏性は大乗仏教の創り出した概念である。ブッダは仏性なんて言っていない。「一切衆生悉有仏性」は妄想である。スマナ長老、当然仏性の存在を否定するのかと思っていたら、「すべての生命が本来は悟っている(仏である)というのは間違い。あえて仏性を定義するならば、それは無明でしょう。」と言う。
 なんて大胆な!
 が、なるほど。
 生命は無明ゆえに輪廻転生しながら生存し続ける。すべての生命に備わっているものを挙げるとしたら、それは確かに「無明」である。


● 「自分に正直に生きる」のはとんでもないこと。

 --と言ったスマナ長老の一言からの連想。
 『アナ雪』の大ヒットは、主題歌に一因があろう。「ありのままの、わたしに、なるの~♪」というフレーズが、若者たちの心をとらえたのだと思う。
 ありのままの私。
 このフレーズ、実は自分もよく使ってきた。
 セクシュアル・マイノリティの自助&支援活動の中で、もっとも良く唱和され見聞きする標語の一つだから。
 ゲイやレズビアンであることを家族や友人に隠し、ヘテロセクシュアルを演じ、自己否定して生きてきた当事者が、仲間によってエンパワーされ自己肯定し前向きに生きていく(カミングアウトする)ことを決意する心情が、「ありのままの私」という表現に托される。
 それは大切な概念であり、プロセスである。
 セクシュアル・マイノリティだけではない。世間や社会や家族からの有形無形の圧力に屈して「偽りの自分」を演じ続けている人々がいる。自分でもそれが「偽りの自分」であると気づかない人々がいる。そのうちに仮面が素肌に張り付いてしまって、仮面が素面になって、本当の顔がどこかに消えてしまう。
 人は自分を肯定できないときは、他人も肯定できない。自分を大切にできない人は、他人も大切にすることができない。(慈悲の瞑想の一番初めに「私の幸福」を念じるのは、そういう意味からではないかと推測している。)
 だから、ブッダが看破したように「自己」が蜃気楼のように実体のないものであるとしても、いったんは自己を肯定し、「ありのままの私」を受け容れることは重要だと思う。

 しかし、それとは別次元で「ありのままの私になる」は微妙な問題をはらんでいる。

 多くの場合、「ありのままの私」で意味されるものは、「子供の頃の無邪気な自分=欲望に忠実な自分」である。
 社会や世間によって毒されていない「子供の頃の無邪気な自分」が善良なものであるなら、言い換えれば、本人が愛のある、賢明な庇護者のいる家庭に育ったならば、「ありのままの私」にはそれほど害はないだろう。そこに還元することは本人をも周囲をも幸せにするかもしれない。
 一方、子供の頃の環境がいびつなものであり、それが本人の性格形成に深いところで影響を及ぼしているのなら、「ありのままの私」に戻ることは本人にとっても周囲にとっても危険であろう。

 不当な抑圧や人としての尊厳を踏みにじるような矯正には大いに反逆すべきである。
 が、「人が社会の中で、他者や社会に関わって、生きている」ということをないがしろにするような扇動は、ちょっといただけない。
 どうも最近の「ありのままブーム」を見ていると、自由奔放に欲望のまま生きることが「本当のあなたらしさ」というニュアンスを感じる。
 その裏に、羊(ディズニー)の皮を被った狼(アメリカンな資本主義)の陥穽を感じる、と言ったらうがちすぎ、もといヘソ曲がりだろうか。



 

● 映画:『カルテット!人生のオペラハウス』(ダスティン・ホフマン監督)

 2012年イギリス映画。


 『卒業』『真夜中のカーボーイ』『トッツィー』『レインマン』の名優ダスティン・ホフマンの初監督作品。
 名優必ずしも名監督ならず――だから、あまり期待しないで観た。引退したオペラ歌手たちが暮らす老人ホームが舞台ということだから、「アリアの名曲を聴ければ良いかな」「英国の老人ホームの様子が窺えるかな」くらいの気持ちで・・・。

 意外に良かったのである。
 ホフマン監督は、同じく俳優出のクリント・イーストウッド監督ほどの職人レベルには達していないが、手堅い演出、丁寧な絵づくり、役者の魅力を引き出す能力で、娯楽映画の合格点に達している。ワーグナー歌いで名を馳せたソプラノ歌手のギネス・ジョーンズはじめ、引退したプロの音楽家たちがたくさん出演しているのが見所なのだが、たくさんの個性的な登場人物を上手に捌いている。音楽の使い方、挿入の仕方も巧みである。
 イギリスの名優たち――マギー・スミス、トム・コートネイ、ポーリーン・コリンズ、マイケル・ガンボンら――の演技も深みがあって、魅力あるキャラクターづくりに成功している。
 
 自分は老人ホームで働いているが、利用者の退屈は大きな課題である。
 この映画の舞台となるホームのような、音楽のある生活、芸術の香りのする空間、音楽への共通の愛で結ばれた仲間たちとの交流、表現する喜びに溢れた日常――これは幸せな老後の風景と言えないか。
 
  人生は短し
  芸術は長し



評価:B-

+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 阿修羅の如し 孫正義伝 本:『あんぽん』(佐野眞一著、小学館)

あんぽん2012年発行。

 「あんぽん」とは安本のこと。安本正義という名前で日本に帰化した男が、もとの韓国姓に改姓して、孫正義になった。
 ソフトバンクの創業者にして社長、日本で五指に入る大富豪、脱原発を唱え私財100億円を投じて自然エネルギー開発に取り組む、稀代の変革者である。
 東北大震災の折りの俊敏かつ積極的な救援活動は、並み居る政治家を恥じ入らせるに十分すぎるものであった。

 この本は、一人の野心溢れる青年起業家が成功するまでの道のりを描いた通常の伝記やサクセスストーリーとは異なる。でなければ、サクセスストーリーにも企業経営にもITの将来にも政治的駆け引きにも興味のない自分のような読者が、あえて手に取ろうとは思わなかったであろう。
 本書が他の伝記と違っているのは、これが在日朝鮮人の昭和・平成史と読めるところである。

 孫正義の父方の祖父と母方の祖父(ともに朝鮮人)は、日本の鉱山で働いていた。母方の祖父は強制連行に近い形で朝鮮から連れて来られ、筑豊の炭鉱で最も危険な仕事をやらされた。孫正義の母親の弟(叔父)は、国鉄職員を希望したものの出自をもとに断られ、やはり鉱夫となり1965年に炭鉱爆発事故で亡くなっている。孫正義の両親(在日2世)は、佐賀県鳥栖駅前の朝鮮部落で養豚や密造酒づくりで何とか生計を立てていた。孫正義は、豚と酒の匂いの充満するその路地で生まれ育ったのである。
 貧困からの脱出をはかる孫の父親・三憲には事業の才覚があり、金貸し業で財を成した後、九州最大のパチンコチェーン店のオーナーとなる。むろん、それ以外の事業で在日が伸し上がるのは不可能に近かったろう。
 きわめて貧しい幼少時代のあと、きわめて豊かな少年時代を経て、幼少期から抜群に利口で意志の強かった孫正義は、実業家の道を選んで、自由の空気に触れるべく単身アメリカに行く。あとはもうサクセス街道まっしぐら。在日3世にして花形産業の青雲児に、ITやエネルギー政策を手綱に日本の未来を左右する存在にまでのし上がったのである。
 この本をサクセスストーリーと言うのであれば、それは孫正義一個人のサクセスストーリーではなくて、三世代にわたる在日朝鮮人のサクセスストーリーである。孫正義が在日の星と仰がれるのも無理はなかろう。
 が、単なるサクセスストーリーに終わっていない。
 著者は、孫正義という男が、三世代にわたる「血と骨」の在日朝鮮人一家の中で、どのように作られたかを検証している。未来を熱く語り周囲の人間を惹きつけ巻きこんでいく孫正義の類まれなるパーソナリティの形成を、血縁・文化・民族的背景に探っている。
 一人の個人を創っているのは、その個人の誕生からあとに起こった出来事だけではない。むしろ、誕生前に起こった有形無形のことの結果として、個人は運命づけられる。著者のそんな考えが紙面から立ち現われて来るようだ。

 著者の佐野眞一もまた毀誉褒貶ある人だ。
 作品が高く評価されている一方で、剽窃事件を起こしたり、『週刊朝日』の橋下徹人格否定記事でバカをしている。おそらく、この伝記でやったようなことを橋下徹に対してもやりたかったのではないかと推測するが、相手が悪かった。在日朝鮮人問題と部落問題じゃ、歴史も深みも異なる。


 著者は、孫の父親はじめ、出会えるかぎりの様々な関係者に出会って、話を聴いている。韓国にまで飛んでいる。その徹底した取材ぶりはプロと言うにふさわしい。
 次第に明らかになってくる孫正義のルーツに、日本の近代の闇を見ると言ったら大げさであろうか。
 もっとも、在日朝鮮人の来歴および家庭環境を、孫一家に代表させることは間違いであろう。もっと穏やかな、平凡な家庭のほうが圧倒的に多いはずである。
 孫正義の父親のキャラクターの濃さ、取材過程で登場する親類たちのアクの強さ(孫の叔父は元ヤクザ、孫の祖母は子豚に自らのおっぱいを吸わせていた)、親類縁者の魑魅魍魎のごとき争い、男たちの激しやすさ、粗暴なふるまい、そして朝鮮人差別・・・。こういったあまりにも濃すぎる情念の坩堝から、ITという無機質な産業の覇者が登場するという、ある種不可思議な、ある種納得のいく運命の皮肉。
 一見、優しそうで穏やかそうな孫正義の表情の背後には、虐げられてきた在日朝鮮人の怨みと怒りと哀しみと復讐心と、自分を育ててくれた日本という国に対するアンビバレントな思いと、朝鮮・韓国という国に対する複雑な思いと、貧困の中にあった親族の愛と助け合いの思い出と、裕福の中に発現した親族の裏切りと罵りあいの醜悪さと、震災被災者に対して発動されたような非利己的な自発的な愛と、それらもろもろが、天才脳のサイバー空間を四六時中、経巡っているのかもしれない。

 そう言えば、孫正義は興福寺の阿修羅像に似ている。

仏像は語る



● 映画:『闇のあとの光』(カルロス・レイガダス監督)

 2012年メキシコ・フランス・ドイツ・オランダ制作。

 第65回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。
 元弁護士で国連でも働いたという新進気鋭のメキシコ人監督(1971年生まれ)の問題作である。
 『チョコレート・ドーナツ』を銀座で見たときに、ロビーでチラシを手にして、なんだか非常に気になったものだから、渋谷ユーロスペースに足を運んだ。


 なんとも不思議な映画である。
 一応、一つの家族――攻撃性を内に秘めた父親、きれいな母親、小さな可愛い娘、まだ指しゃぶりを卒業していない無邪気な息子――をめぐる日常を描いた、悲劇に通じる物語なのだが、物語はあちこちに飛ぶし、脈絡も説明もないし、登場人物同士の関係が分かりにくいし、SFやホラーを思わせる不条理なシーンが突如出てくるし、雷鳴とどろく牧場の長回しにイライラさせられたかと思えばポルノ映画ばりの過激な乱交シーンが出てきてバッチリ覚醒させられる。
 変な映画。
 そのうえ、カメラはまるで視覚異常を起こしたように、スクリーンの中心から一定距離の円の中ははっきりと映されているが、その外側はぼやけている。観ている自分の目が悪くなったんじゃないかと、まばたきを繰り返した。こんな技巧は観たことがない。 
 
 レイガダス監督は既存の映画文法を壊そうとしている。
 新しい表現の可能性を探っているのは間違いない。
 その意味で、本邦の天願大介『魔王』と通じるところがある。
 「物語の筋なんかもうどうでもいい。この魅力的な映像をずっと見させてくれ」
 そう思える瞬間があったのは事実だが・・・。

 

評価:C-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 

 

● 仏直して魂入れる 本:『仏像は語る』(西村公朝著、新潮文庫)

 1996年刊行。

仏像は語る

 著者は仏師・仏像修理技師にして、天台宗の僧侶。2003年に88歳で亡くなっている。
 美術院国宝修理所に所属し、京都・三十三間堂で十一面千手観音千体像の修理に携わったのを皮切りに、日本全国の仏像を修理してきた。
 本書では、著者の長い仏像修理人生において体験した様々な興味深いエピソードが語られている。一つ一つの語りが興味深く、文章にユーモアと味わいがあり、謙虚でまっすぐな著者の性格が表れている。
 不思議な糸に引かれるように、中学の美術教師から仏像修理の道へと入り込んでいって、無事戦地から戻って復職し、しまいには廃寺同然だった京都・愛宕念仏寺の住職になって寺を再建してしまう著者の人生は、まさに仏縁に導かれているとしか言いようがない。謙虚さはその自覚から来るのであろう。
 戦地(中国)に4年間もいたにもかかわらず、著者は敵兵を一度も見たことがなく、もちろん弾一発も撃たないですんだと言う。つまり、人殺しをしないですんだのである。
 人を殺した手で仏像をつくったり、修繕したりすることは、到底できないだろう。
 まるで本土で修理を待つ仏像たちが西村を守ってくれたかのよう。


 はじめて知った面白い話はいろいろあるが、仏像に御魂を入れる話(開眼)、抜く話(撥遣)が興味深かった。 

 仏像が仏像になるためにはある儀式が必要です。仏像を造ったからといって、すぐにそれが仏の法力を発揮するわけではありません。仏像が完成して、祭壇に安置し、御魂入れの儀式、つまり開眼式というものを行なって、はじめて仏像は本来の仏像になるのです。

 仏像に御魂を入れるのは僧侶の役目であるが、その御魂をしっかりと仏像に結びつけるのは信者の信仰の力だそうだ。


 信者と仏の関係が真剣であればあるほど、いかに仏像そのものが壊れていても、御魂はその全身に、すみずみまで入りこんでいるのです。仏像の修理はごく頻繁に行なわれていますが、しかし修理するからといって、御魂が抜けているわけではありません。ですから修理するときには、まず御魂を抜いておかなければなりません。そうしないと御魂のある仏像に直接鑿をあてることになってしまうからです。

 撥遣式のやり方は、これも宗派によって異なりますが、天台宗の場合ですと、御魂を自分の手の中に取り上げてそれを空中に散らし、本宮へ帰っていただく、というやり方をします。手の中に取り上げるとは、まず両手を合掌の形にします。これは蓮華の蕾の形です。次に両親指と両小指はくっつけたままで他の指を開き、蓮弁が八葉にひらいた形にします。その八葉の蓮華の上に、これから修理する仏の御魂を乗せたと観想して、本宮へ帰っていただくのです。そして、
「あなたは今までここに御魂を宿し、私たちに多大なご利益を与えて下さいました。しかし長年の歳月の間に、あなたが宿っていた館が破損してしまいました。そこで修理をして完全なお姿にしたいと思います。その間、御魂は本宮へお帰り下さい。修理が終わりましたら必ず勧請いたします。お呼びいたします。そして開眼の式を行ないます。その後は今まで以上のご利益を私たちにお与え下さい」というような意味の誓いの言葉を唱え、さらに「オン、アソハカ」と呪文を唱えて、八葉の蓮華上に乗せたと観想した御魂を空中に散らします。

 そして、修理が終わった後に、再び御魂を入れる法要を行なうのである。


 御魂とは何なのだろう?
 迷信、気のせいと片付けてしまえば済むのだけれど、修理技師である西村には「抜けているか抜けていないか」が当然分かるのだろう。


 永久保貴一の漫画『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅①』にも、主人公たる秋月慈童が二十年間封鎖していたお堂の本尊の魂抜きをして、開眼しなおすエピソードが出てくる。大体、上記の記述と同じような方法を用いている。

 世の中にはどうもまだ良く分からない、不思議なことがある。

 
P.S.今日テレビでたまたま観たが、起訴後、刑が確定しない段階で保釈金を支払って身柄の拘束を解く制度がある。この保釈金は本人に返還される、ということを自分は知らなかった。てっきり、国庫に没収されるものだと思っていた。まだ良く分からないことがある。
 

● ハリウッドの流行? 映画:『恋するリベラーチェ』(スティーブン・ソダーバーグ監督)

 2013年アメリカ。

枝付き燭台

 原題はBehind the Candelabra(枝付き燭台のかげに)
 枝付き燭台とは右の写真のような蝋燭立てである。この映画の主人公である実在の人気ピアニスト、リベラーチェ(1919-1987)が自らのピアノに枝付き燭台のデザインをあしらったところから来たタイトルである。同時に、枝付き燭台によって象徴される成功した大スターのゴージャスできらびやかな表の生活の背後に隠された、ファンの知らない裏の顔を描く、という意味合いもあろう。
 映画の原作は、リベラーチェの秘書兼恋人であったスコット・ソーソンの同名の回想録。

 リベラーチェの活躍した時期は1950年代から80年代前半にかけてであるが、あまり日本では知られていない。自分もこの映画ではじめてリベラーチェという名前(と存在)を知った。80年代に日本中の女性をとりこにしたリチャード・クレーダーマンの貴公子然とした風貌と物腰にくらべると、派手でこれ見よがしで金ピカ趣味のリベラーチェは当時の日本人には受け入れ難かったのかもしれない。80年代後半のバブルの頃ならまだしも・・・。

 天才ピアニストで観客を楽しませることにかけては一流のエンターテイナーであったリベラーチェの秘密とは、①ゲイであったこと(若い男をとっかえひっかえしていた)、②エイズで亡くなったこと、であった。
 エイズ罹患は本人の生きている間はひた隠しにされていた。亡くなった後に司法解剖が入って明るみに出されたのである。と同時に、彼がゲイであったことも、生前から大枚はたいて必死に秘密を封じこめてきたマネージャー達の奮闘もむなしく、世間に知られるところとなった。この時代(80年代)、「エイズで死んだ芸術家=ゲイ」は鉄板の方程式だったからである。

 映画はしかし、セクシュアリティの問題、カミングアウトの問題、エイズの問題には深く入り込まずに、リベラーチェとスコットの二人の男の関係――出会い、熱愛、伴侶、すれ違い、亀裂、破局――に焦点を絞って、純粋な恋愛ドラマとして描いている。
 その意味では、もしこれが有名な男性(or女性)スターとその付き人である女性(or男性)の恋愛模様を描いたストーリーだったとしたら、まったくのところ陳腐なものになったであろう。男同士の恋愛という設定だからこそ、まだ語る価値がある。
 つまり、異性間であろうと、同性間であろうと、人が人を好きになり、必要とし、求め合い、永遠の愛を願い約束し、しかるにそこに到達するのは極めて困難であり、結局孤独に立ち戻らなければならない――という愛の輪廻は変わらない。それがこの映画から学びうるテーマである。

 リベラーチェを演じたマイケル・ダグラス。『蜘蛛女のキス』(1985年)のウィリアム・ハートに比肩できるような見事なオカマ演技である。やっぱり、この俳優は反体制のヒッピー出だけある。
 恋人のスコットを演じるは、名優マット・デイモン。リベラーチェに愛される金髪碧眼のドリアン・グレイばりの美青年から、ヤクにはまり嫉妬と絶望に苦しむ見捨てられた恋人までを、何ら気負いなく違和感なしに演じている。
 二人が仲睦まじげにからんでいるシーンでは、これが『ウォール街』の強欲な投資家と『ボーン・アイデンティティ』の凄腕の暗殺者とはまったく思えない。
 一昔前なら、こういった(ホモセクシャルの)役を演じることは、アメリカの男優にとって「清水から飛び降りる」ほどの勇断、というかまったくの愚挙であり「ありえない」ことだった。それが今や、ヒース・レジャーとジェイク・ジレンホールが『ブロークバック・マウンテン』(2005年)でケツを掘るカウボーイを演じ、フィリップ・シーモア・ホフマンが『カポーティ』(2005年)を演じ、ショーン・ペンが『ハーヴェイ・ミルク』(2008年)を演じ、コリン・ファースが『シングルマン』を演じ、レオナルド・ディカプリオが『J・エドガー』(2011年)を演じ、もちろん直近では『チョコレート・ドーナツ』(2012年)でのアラン・カミングの力演がある。
 ハリウッドの男優たちはこぞってゲイの役をやりたがっているようである。



評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


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