ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『シンプル・シモン』(アンドレアス・エーマン監督)

2010年スウェーデン映画。

 アスペルガー症候群のシモンは、イケメンで優しい兄サムが大好き。
 でも、シモンの非常識な行動が原因で、サムは恋人から捨てられてしまう。
 落ち込むサムのために、シモンは新しい恋人を見つけてあげようと奔走する。
 
 アスペルガー症候群とは、知的障害を伴わないものの、興味・コミュニケーションについて特異性が認められる自閉症スペクトラム(ASD)の一種である。・・・・・・・・
 アスペルガーの人は、多くの非アスペルガーの人と同様か、またはそれ以上に強く感情の反応をするが、何に対して反応するかは常に違う。彼らが苦手なものは「他人の情緒を理解すること」である。(ウィキペディア「アスペルガー症候群」より抜粋)
 
 他人の情緒(=物語)を理解しないゆえに、トンチンカンな行動をくり返し、事態をますます紛糾させてしまうシモン。でも、心は純粋(シンプル)そのもの。
 そんなシモンが最後にはなんと、物語のなかの物語たる“恋”に目覚めてしまう。
 
 アスペルガーという枷を除けば、普通の楽しい恋愛娯楽映画である。


評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


 
 
 
 

● あまりに映画的な病 映画:『レインマン』(バリー・レビンソン監督)

1988年アメリカ映画。

 ダスティン・ホフマンの‘いかにも上手な’演技があまり好きでなくて、この有名なオスカー作品を観ていなかった。
 社会福祉士養成過程の実習で障害者施設に行くことになり、そこで自閉症の利用者と接することになって俄然興味を持ち、遅ればせながらDVDを借りた。
 むろん、この映画は自閉症患者を描いた作品としてもっとも有名だからである。

 自閉症は、通常生後30ヶ月までに発症する先天的な脳の機能障がいです。 視線が合わなかったり、1人遊びが多く、関わろうとするとパニックになったり、 特定の物に強いこだわりが見られたり、コミュニケーションを目的とした言葉が出ないなどといった行動特徴から明らかになります。 その障がい名から、「心の病気」という誤った印象をもたれがちですが、自閉症は心の病気ではありません。
 自閉症とは、先天的な脳の中枢神経の機能障がいで、自分を取り巻く様々な物事や状況が、定型発達者と呼ばれる私たちと同じようには脳に伝わらないために、 結果として対人関係の問題やコミュニケーションの困難さ、特定の物事への執拗なこだわりを呈するという障がいです。(特定非営利活動法人ADDS-Advanced Developmental Disorders Support-ホームページより抜粋)

 一口に自閉症と言ってもいろいろである。知的障害を伴う人もいれば、通常あるいは通常以上の知的能力をもち社会生活を送っている人もいる。この映画の主人公レイモンド(=ダスティン・ホフマン)のように特定の分野で驚異的な才能を発揮する人もいる。
 最近ではこうしたグラデュエーションのような多様性を表すために、「自閉症スペクトラム障害(Autistic Spectrum Disorder)」と称するのが一般になってきているらしい。
 多様性はあるものの、そこに何がしかの共通した特性が見られるからこそ、「自閉症」という名のもとに統合される。
 共通した特性、すなわち自閉症スペクトラムの診断基準はなにか。
 以下の三つが上げられる。
1.対人関係の形成が難しい「社会性の障害」
2.ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」
3.想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う「想像力の障害」

 レイモンドはまさにこの3つの特徴を兼ね備えている。
 実習先の自閉症患者たちもまったく同様である。「定型発達者」と呼ばれる自分から見れば、一番の特徴と思えるものは、「何を考えているのかわからない」ということに尽きる。彼らの表情や行動から、「いま喜んでいるんだな(手を叩きながら笑顔でそこらじゅう飛び跳ねる)」とか、「いま悲しいんだな(手の甲を噛んで涙を流している)」とか、「いま怒っているんだな(血走った目で壁やいすを何度も蹴る)」とか、「いまパニックに陥っているんだな(自分の両頬を手加減なく血が出るまで叩く)」といった人間の基本的な喜怒哀楽の感情こそ分かるものの、「じゃあ、なんで喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、パニックに陥っているのか」が分からない。彼ら自身、それを他者に説明することもできない。
 いや、そもそも彼らにとって「他者」は存在しているのか。

 自閉症患者は、我々「定型発達者」が共有する「物語」を内面化していない、それをもとに生きていない、というふうに見える。
 この映画で象徴的にそれが表れているのは、最後のシーンである。
 アメリカ縦断の車の旅を通して‘心が通じ合った’かに見える兄レイモンドと弟チャーリー(=トム・クルーズ)は、停車場で別れることになる。チャーリーは住まいと職場のあるロサンゼルスに、レイモンドは子供の頃から過ごしてきた施設に--。
 別れの抱擁を終えて、レイモンドは列車に乗り込む。チャーリーは名残惜しそうに、窓際の席に収まった車上のレイモンドを見やる。
 が、レイモンドはすでに無関心に前を見ているだけで、窓外のチャーリーの存在はすでに蚊帳の外だ。レイモンドに対するチャーリーの思いは一方通行。というより、チャーリーが持っている(我々通常の社会人が持っていることが期待される)‘兄弟愛’という物語を、レイモンドはそもそも共有できないのである。
 上記3つの特徴がその通りだとすれば、それは自閉症患者が、「物語」を形成する能力に欠いているということになるのではなかろうか。
 あるいは、こうも言える。
 自閉症患者は、我々「定型発達者」を苦しめている「物語」の呪縛から解放されている。
 本当かどうかは知らん。
 少し前に話題になった当事者の東田直樹の書いたものを読むと、「物語」を理解する能力はすこぶる高い。というか彼はプロの童話作家なのだ。「物語」を理解するどころか、創作できるのだ。
 彼が特別なのか。それとも、自閉症患者は「物語」を十分理解しているけれど、出力が困難(稚拙)だから理解していないように見えるだけなのか。それとも、これもまた多様性のグラデュエーションのどこに位置するかの問題なのか。
 いずれにせよ、「物語」の呪縛からいい加減脱出したい自分にとって、世間一般の「物語」をはぐらかすかのように見える彼らの行動は魅力的に映るのである。 
 
 自閉症患者は、視覚優位の世界に住んでいると言われる。また、通常の人とは幾分違った‘物の見方’をしているらしい。たとえば、景色や物を全体として見ずに、10円玉くらいの範囲の一点のみしか見えていない。規則正しく流れるもの・並んでいるものに惹かれる。(だから列車がすきなのかな?) キラキラしたもの・光るものが好き。
 
 物語からの解放、視覚優位、クローズアップ、列車愛好、光に対する感受性・・・・。
 こうしてみると、まさに映画的感性そのものではないか。
 自閉症患者は世界を「映画的に」見ているのではないだろうか。
 
 『レインマン』において、観る者はたびたびレイモンドの視界を共有することになる。チャーリーの運転するスポーツカーの助手席からレイモンドが見る景色(=ショット)がしばしば挿入される。
 それはまさに自閉症患者の‘物の見方’なのである。と同時に、ダスティン・ホフマンの過剰な演技でつい物語化――兄弟愛という名の―されてしまいそうなこの作品を、すんでのところで‘映画’に引き留めている鮮烈な楔なのである。
 


評価:B+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 


● 声聴くときぞ秋は・・・ 乾徳山(2031m、山梨市)

●日程  10月10日(土)
●天気  くもり
●行程
08:30 JR中央本線・塩山駅 西沢渓谷行バス乗車(山梨交通)
09:05 乾徳山登山口バス停着
09:10 歩行開始
09:40 乾徳山登山口
10:05 銀晶水
10:50 錦晶水
11:10 国師ヶ原
11:30 扇平
12:30 乾徳山頂上
      昼食
13:00 下山開始
14:20 国師ヶ原
16:00 乾徳山登山口バス停着
      歩行終了
16:08 塩山駅行バス乗車
●所要時間 6時間50分(歩行時間5時間40分+休憩時間1時間10分)

 久々の2000m級の山に登る。
 ケントクサン。
 山頂付近は険しい岩場が続き、垂直な巨岩をクサリや梯子を頼りに登るスリリングなシーンが展開するという。大丈夫か。
 三連休の初日なら多少無理しても休み明けに響くことはあるまい。
 大丈夫だろう。
 同じことを思った人が大勢いたのか、塩山駅前の乾徳山行バス発着所は長蛇の列。終点の西山渓谷を目指す人ももちろんいるのだが、装備を見る限り自分と同じ目的地と見た。
 バス2台に分乗する。
 
PA100032

 乾徳山登山口はバス停から30分ほど歩いたところにある。
 途中の里山の風景に心和み、乾徳神社に登山の安全を祈る。祭神は大山祗命(おおやまづみのみこと)、その名の通り「山ノ神」である。山頂に奥宮があり、かつては修験道の場として栄えたという。


 
PA100033

PA100084

PA100035

PA100036

 登山口から植樹杉の山道となる。
 九十九折の単調な登りを下界の種々の思いにとらわれながら歩きつめると、まず銀晶水がある。冷たい湧き水で顔を洗い、口をゆすぎ、一服する。
 
PA100037

 このあたりから周囲は自然林となる。
 ヒノキの香りが鼻腔をくすぐる。「山に来た!」という実感が湧きあがる。
 だんだんと、下界の思考が薄らいでいく。
 錦晶水は水量の多い湧き水が小川をつくっている。すでに汗びっしょりになっていたので、頭から水をかぶる。
 川原にリュックを下ろし休憩する。同じバスに乗ってきたハイカーたちを先に見送る。
 乾徳山はこの時期、見るべき花がない。紅葉にもまだ早い。
 山中唯一目立つのはマムシグサ。トウモロコシのように密集する緑の実が赤く変貌しつつある。
 
PA100040

PA100039

 国師ヶ原から乾徳山山頂を仰ぎ見る。
 あそこまで登るのか!
 山頂の形容が、中世キリスト教の異端カタリ派の聖山だったモンセギュールを思わせる。と言って自分は写真でしか見たことがないのだが。

 
PA100041


 背の低い潅木がまばらに生える切り立った岩山。目の眩む断崖。峻厳な山容。天に向けられた指先のような山頂の城壁はまた、真の「存在」に登るための台座とも、光を集めるべき聖なる杯とも、これまでさまざまの形容を受けてきた。(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院)

モンセギュール


 無人の高原ヒュッテが立つ国師ヶ原から一登りで扇平に着く。
 ススキの波打つ爽快な原っぱである。
 ここから南方に振り向いて、今日はじめて見る富士山が実に麗しい。
 疲れが一気に吹っ飛んだ。
 爽快な秋風に吹かれて一休み。
 もはや頭は空っぽ、ただ景観を楽しんでいる。
 
PA100047

PA100043

 ここからお待ちかね(?)の岩道に入る。
 巨岩、奇岩の合間を縫っていく。
 その名も髭剃り岩では、好奇心旺盛なハイカーたちは、スパッと二つに裂かれた岩の割れ目をメタボ診断のごとく通り抜ける。割れ目の先は、尾てい骨の震えるような絶壁。あと半月もすれば谷底の紅葉が壮麗なことだろう。
 
PA100049

PA100050

 きつい鎖場は二箇所ある。
 特に山頂直前の鎖場が難関。
 20メートルくらいの垂直の巨岩に垂れた鎖を頼りに、足先で岩の割れ目を探しながら、一人ずつ上っていく。自信のない人のために迂回路はあるが、やはりほとんどの人は挑戦していく。
 まあ、難関と言っても、グループで来た人が崖の途中で振り向いてピース写真を撮ってもらうくらいの余裕はあるのだが・・・。
 鎖のない、道の整備されていない時代は、なるほど苦行の場としては最適だったろう。
 鎌倉から室町時代に活躍した臨済宗の禅僧・夢窓国師(夢窓漱石)は、この山に来て修行したと言われている。京都の西芳寺(苔寺)や天竜寺の庭園の設計で知られるお坊様だが、当地(甲州市)に恵林寺(えりんじ)を開基し、その庭園は国の名勝に指定されている。(どうにも国士無双と間違えやすい名前である)
PA100051

PA100056


 山頂到達!
 
PA100057

 ごつごつした岩ばかりの狭いスペースに、ハイカーたちが密集している。
 紅葉ピークの頃は、山頂から押し出された人が深い谷底にまっさかさまに転落する様が見られるという。(←ウソ)
 360度の景観はただもう拝するばかりの神々しさ。山名同定などする気も起こらない。
 紫雲のなかに幾重にも連なる尾根を蓮華座のようにして、ひときわ高く天空に浮かぶはもちろん霊峰富士。
 いったいこれほど現実感を欠いた浄土風の山が世界にあるだろうか。
 富士山がなければ、間違いなく関東在住のハイカーは半減、どころか1/10減するだろう。

PA100065

PA100061

PA100062
 
PA100071

 岩陰に平らな場所を見つけて昼食。
 山頂は肌寒い。隣で若い男がすすっているカップラーメンがやけに美味しそう。
 奥宮にお賽銭を上げて慈悲の瞑想をする。
 この数ヶ月で溜まった心の澱がすっかり溶け去り、心身ともに澄みきっていく。
PA100066
 
 下山は、上りとは別のルートでさきほどの鎖場を回避する。
 足場のおぼつかない急斜面をひたすら下って、国師ヶ原で行きの道と合流する。
 ここで野生の鹿と遭遇!
 人馴れしているのか、近づいても逃げない。
 
PA100079
 
 あとは来た道をたんたんと戻る。
 静かな秋の山中を無心に歩いていると、ひと際高く「ケーン」と鳴く声がした。
 
 奥山を もみじ踏みわけ 鳴く鹿の
 声聴くときぞ 秋はかなしき
 (猿丸太夫)
 

● 映画:『プリズナーズ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)

2013年アメリカ映画。

 『X-MEN』『レ・ミゼラブル』のヒュー・ジャックマン、『ブロークバック・マウンテン』のジェイク・ギレンホール共演のサスペンスクライムドラマ。
 脚本も演技も演出も及第点に達しているので、長尺(153分)にも関わらず、最後までダレなく面白く鑑賞できた。
 ジェイク・ギレンホールの刑事役がなかなか渋くて良い。『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー監督、2005年)や『ミッション:8ミニッツ』(ダンカン・ジョーンズ監督、2011年)では感じなかったけれど、意外に年ふるごとに名優に近づいていくタイプの役者なのかもしれない。主役よりもバイプレイヤーで光るのではなかろうか。
 今後に期待。
 

評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 



● 喜びのうた ベートーヴェン:第九演奏会(指揮:曽我大介)

日時 10月4日(日)
会場 ミューザ川崎シンフォニーホール
演目 ワーグナー:歌劇『リエンツィ』序曲
    ベートーヴェン:交響曲第九番合唱付
    シベリウス:交響詩『フィンランディア』
指揮 曽我大介
演奏 リベラルアンサンブルオーケストラ
合唱 一音入魂合唱団
 
リベラルアンサンブルおーけすとら

 知人に誘われて、やや早めの第九を川崎まで聴きに行った。
 ミューザ川崎はJR川崎駅のすぐ隣にある新しい立派なビルディング。
 川崎といったら、工場、風俗店(堀之内)、浮浪者といったイメージを長らく持っていたが、10数年ぶりに訪れた川崎は――少なくとも駅周辺は――あまりに明るく、あまりに綺麗で、あまりにゴージャスで、浦島太郎のごとく驚いてしまった。
 その象徴がまさにミューザ川崎。
 いつから川崎は音楽都市になったのだろうかと目を疑うような素晴らしいホール(1997席)と魅力的なラインナップを誇っている。
 
ミューザ川崎
 
 演奏のリベラルアンサンブルオーケストラは、2014年4月に設立したばかりの立教大学交響楽団の卒業生を中心とするアマチュアオーケストラ。
 いったい、この巨大なホールをサマになるくらいに人で埋めることができるのだろうかという懸念をよそに、開演前のホールを見渡してみたら、ほぼ満席に近かった。楽団員や合唱団員の知り合いが多いとは思うが、動員力はたいしたものである。
 演奏は・・・・・。
 実はアマチュアオーケストラの第九を聴くのは初めてだったので、それほど期待してはいなかった。
 が、実に良かったのである。
 何より若い!
 楽団員の平均年齢は30歳そこらではないだろうか。
 その若さが稚拙さにつながらず、音の瑞々しさ、迫力、疾走感につながっている。
 こんなに若々しいエネルギーに満ちた第九を聴いたのは初めてである。
 まるで若鮎の泳ぐかのよう。
 
 それを可能にした立役者は、やはり指揮の曽我大介ではないかと思う。
 こちらも初めて聴く(見る)指揮者であった。
 ウィキによればちょうど50歳ということだが、姿かたちも動きも颯爽として若々しい。
 なにより指揮台での振る舞いのカッコイイこと!
 体全体の表情豊かで、動きも大きくメリハリあって、が~まるちょば(GAMARJOBAT)のパントマイムでも見ているかのようで、思わず見とれてしまう。第4楽章で合唱団に高い音を要求する際の天を指す仕草など、十戒を預言するモーゼもかくやの迫力であった。
 この曽我大介の至極分かりやすい、気合いと霊感あふれるタクトを得て、柔軟性に富む若い団員たちが何の‘我’もなくひたすら演奏したことが、成功の秘密ではないだろうか。
 なんだか聴いたあとに若返ったような気がした。
 
 今日我々が聴いたのは、「青春の喜びの歌」だったのである。









 

 

● ウマオイが絶滅する日

 しばらく前に職場の老人ホームのレクリエーションで、スマホを使った「虫の鳴き声クイズ」をやった。
 こんな要領である。

1. ホワイトボードに童謡「虫の声」の歌詞を書いて、みんなで一緒に歌う。
あれマツムシが 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれスズムシも 鳴き出した
りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり コオロギや(キリギリス)
がちゃがちゃ がちゃがちゃ クツワムシ
あとからウマオイ おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

2. ネットの虫の音WORLDというホームページを開いて、歌詞に出てくる5種類の虫たち(松虫、鈴虫、こおろぎ、くつわ虫、馬おい)の鳴き声を、一つ一つ正体を明かさずに再生する。

3. どの虫かを当ててもらう。

 やってみて実感するのは、上記の歌詞が実によく出来ているってことだ。
 それぞれの虫の鳴き声を見事に擬音語に変換している。
 松虫は、チンチロリン、チンチロリン、と聞こえる。
 くつわ虫は、ガチャガチャッガチャガチャ、と喧しい。
 参加された老人たちは、ほぼ間違いなく答え、コンクリートの室内に響く秋の虫の音を楽しんで、しばし風流にひたった。
 ちなみに、2番の歌詞の冒頭は、「きりきりきりきり キリギリス」が本来だったらしい。
 が、キリギリスは「きりきり」とは鳴かない。「ジージー」と蝉のように鳴く。
 昔は、コオロギのことをキリギリスと読んでいたそうな。
 だから、調子よく韻を踏んで歌えたのである。
 でも今は、言葉の面白さよりも科学的正確さを優先し、「きりきりきりきり コオロギや」と子供たちには教えているようである。
 (といったトリビアも紹介して場を盛り上げる)

 さて、ここで面白いことを発見した。
 ウマオイの鳴き声をスマホの最大音量で再生したところ、あれ不思議やな、全員が「何も聞こえない」と言うのである。何度くり返しても、ひとりひとり耳の近くにスマホを持っていっても同じであった。

 なんと、老人にはウマオイの鳴き声「スイッチョン、スイッチョン」が聞こえないのである。

 人間は年をとると、一般に、高い音から聞こえなくなってくる。
 老人性難聴と言う。
 これを利用して、騒ぐ若者たちを夜の公園から追っ払うために、モスキート音(蚊の羽音のような高い周波数の不快な音、若者にのみ聞こえる)を発する機械を公園に設置した自治体のニュースがちょっと前にあった。(その後どうなっているのやら・・・)
 You Tubeの「耳年齢診断」という動画によると、
 
 10000ヘルツが聞き取れる  →60歳以下の聴力
 12000ヘルツが聞き取れる  →50歳以下の聴力
 15000ヘルツが聞き取れる  →40歳以下の聴力
 16000ヘルツが聞き取れる  →30歳以下の聴力
 17000ヘルツが聞き取れる  →25歳以下の聴力
 19000ヘルツが聞き取れる  →20歳以下の聴力 
 
 モスキート音は17000ヘルツ前後、すなわち25歳以下の若者がターゲットになっていることになる。
 自分は15000までは聞き取れたが、16000は無音であった。
 つまり、30代の聴力ってことだ。
 ビックリ!(実年齢は50代)
 おそらく、若い時分からウォークマンの類いはほとんど使用しなかった。大音量で音楽を聴く・ゲームをする習慣もなかった。騒音が嫌いなのでパチンコ屋にもゲーセンにもディスコ(クラブ)にもめった行かなかった。自然と耳に負担をかけない生活を送っていたのが良かったのだろう。
 そのぶん、目に負担が来てしまったわけだが・・・。

 で、虫の鳴き声の周波数を調べてみた。
 マツムシ  3300ヘルツ
 スズムシ  4000ヘルツ
 コオロギ  5000ヘルツ
 クツワムシ 8000ヘルツ
 ここまでは高齢者でも何とか聞き取れる。(クツワムシは聞こえる人と聞こえない人とに別れた)
 
 問題のウマオイだが・・・
 
 13000ヘルツ!
 高い! 
 
 50代で聞き取れなくなるレベルなのである。(もちろん個人差あり)
 レクの参加者はみな介護保険の被保険者となる65歳以上なので、当然ウマオイは聞こえるべくもない。
 彼らにとって、ウマオイはこの世から絶滅したも同然なのであった。
 いずれそう遠くない日、自分の世界からもウマオイは絶滅するのだろう。今のうちにじっくり味わっておこう。

 ときに、スズムシの鳴き声は電話では聞こえない、というのは有名な話である。
 電話でキャッチできる音の周波数は300~3400ヘルツなので、4000ヘルツのスズムシの鳴き声はカットされてしまうのである。
 だが、上記の通り、スズムシどころか秋の虫たちはほとんど電話に出てくれないのである。



 

● 伝説の名作 本:『弁護側の証人』(小泉喜美子著)

1963年文藝春秋より刊行。
1978年集英社文庫として発刊。
 
弁護側の証人

 「日本ミステリー史に燦然と輝く、伝説の名作」とカバーの謳い文句にある。
 が、どうも読んだ覚えがない。
 確かに自分は昔から海外ミステリー専門なので、本邦のものには疎いし、なかなか食指が動かないのであるが、これだけ自信たっぷりの謳い文句を掲げるミステリーを無視していたのは奇妙である。
 
 読んだのに、お・ぼ・え・て・い・な・い・・・。

 いや、おそらく謳い文句はいささか大袈裟すぎるのだろう。いくらなんでも「伝説の名作」を覚えていないはずがない。期待はずれだったからこそ、忘れてしまったのだろう。
 
 ・・・と思いつつ、読んでみたら、見事にいっぱい喰わされた。(なんのこっちゃ!)
 気楽な文体で書かれた気楽な物語の4/5までを気楽な気持ちで読んで、第11章にかかったときに、はじめて「おや?」と手が止まった。
「どういう意味だ、これは?」
「途中が抜けているのでは?」
「あとから説明が来るのかな?」
 読み進めて、しばらくして、
「えっ!まさか?」
「もしかして、もしかすると・・・」
と、最初のページに戻って、再度ざっと読み直す。
「ゲゲッ! そうだったのか!」
「・・・やられた!」
 
 このトリック、本書が世に出た1963年にはもちろん通じた。
 絶版の後、復刊された1978年にもまだ通じた。
 そして、2015年現在、まだまだ通じている。
 人間の既成概念は強固なものだ。
 同性婚を受け入れられない人間が多いのも無理もない。
 既成概念を巧みに利用し、筆致も入念に、気楽にストーリーを運ぶ作者の手腕に脱帽。 
 そう。気楽さもトリックのうちだったのだ。 

 覚えていないのは、見事だまされたことを忘れたかったからかもしれない。
(本書のカバーデザインもひとつのヒントになっているのだな、明智君) 


● 戦後は終わった! 映画:『地の群れ』(熊井啓監督)

1970年ATG制作。
 
 原作は井上光晴の同名小説。
 熊井哲は『サンダカン八番娼館 望郷』の監督。 

 ともかく暗く、重く、忌まわしさに満ちた映画である。
 「地の群れ」というタイトルが示すとおり、日本社会の最下層を鼠のように蠢く者たちの恥と苦しみと抑圧された怒りと呪い、貧困と差別と絶望と無明とが、全編から漂っている。よくこんな映画が撮れたなあと感心するほかない。表現の自由に関しては今より70年のほうがよっぽど進んでいる。
 
 戦前戦後の佐世保を舞台に、炭鉱、在日朝鮮人、被差別部落、被爆者、米軍基地、水上生活者、アカ(共産党)、強姦、リンチ、暴徒・・・・といったトピックが、何らわかりやすい説明もないままに次々と描き出されていく。(ストーリーを理解するには2回は観なければならない。) 
 日本社会の負の部分を抉り出したという点では、ドキュメンタリー映画『山谷 やられたらやりかえせ』(1985年)に近い。
 しかし、圧倒的に『地の群れ』のほうが暗くて重い。
 なぜなら、『山谷』には労働条件の向上をもとめるドヤ(低額宿泊所)の男たちの連帯と勇気に満ちた闘いがあった。一方、『地の群れ』には差別された者同士の足の引っ張り合いのようなネガティブないさかいがあるばかりで、そこになんの希望も見出せないからである。後味悪い。
 
 物語の最後、主人公の青年・信夫は、生まれ育った被爆者の隠れ住む村・海塔新田を飛び出し、佐世保が包含するすべての負から逃げ出すように、何処へかに向って走り去る。被差別部落を抜け、米軍基地を抜け、港を抜け、河原を抜け、教会を尻目にする。いつのまにか、白い団地が整然と並ぶ新興住宅地にやってくる。樹木に囲まれた美しい公園、ベンチで談笑する子連れの主婦たち、明るく屈託のない笑顔、豊かさを感じさせる整った身なり・・・。これまでの画面にはまったくなかった眩いばかりに清潔なカットが続く。主婦たちは不思議そうに、団地の中を懸命に走りぬける信夫に目を向ける。なかば無関心な目を。
 信夫が駆け抜けたこの二つの世界こそ、「地」と「天」であり、戦中および戦後の貧しい日本から、「もはや戦後は終わった」高度経済成長時代の日本への転換であり、アメリカから輸入された近代消費社会という毛皮によって日本人がいかにしておのが恥部を隠したかの象徴である。
 「地の群れ」を生きる人びとがいなくなったわけではない。『山谷』に見るとおり、それはバブルの頃でさえ、わが国の重低音として地の底から響いていたのだ。多くの日本人はそれを聴かなかった。「暗さ、重さ、忌まわしさ」に蓋をして、「明るさ、軽さ、屈託のなさ」ばかり追求してきた。一億総「躁」状態になっていたのである。
 バブル崩壊、ホームレス増加、雇用の崩壊、格差社会、ヘイトクライムの増加、少子化と高齢者の孤独死、原発事故、安保・・・・・・。
 そのつけが今になって回ってきた。
 --なんて、うがったことを高みから言うつもりは毛頭ない。
 むしろ、自分はこう思う。
 いまやっと、戦後が終わったのだ。
 アメリカナイズされた個人主義の大量消費社会という夢(=呪縛)から解けて、いまやっと、日本人はおのれが抱える「暗さ、重さ、忌まわしさ」を、否認することなく、怯えることなく、地の底に引き摺り込まれることなく、冷静に向き合えるときがやって来たのだ、と。
 戦後70年にしてPTSD(トラウマ)は消失した。
 
 この映画はいまこそ観るにふさわしい。



評価:B+


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 台湾のゲイ 映画;『GF*BF 女朋友、男朋友』(ヤン・ヤーチェ監督)

2012年台湾。

 切なさと一抹の苦さとで胸がかきむしられるような青春映画。
 同じグイ・ルンメイ主演で、男女三人の恋愛トライアングルを描いた同じような設定の『藍色夏恋』(イ-・ツーイェン2002年)のバリエーションというか、別バージョンという感じである。
 『藍色夏恋』は、一人の男(チェン・ボーリン⇒一人のレズビアン(グイ・ルンメイ)⇒一人の女(リャン・シューホイ)⇒最初の男、という♂1:♀2のトライアングルだった。こちらは、一人の女(グイ・ルンメイ)⇒一人のゲイ(ジョセフ・チャン)⇒一人の男(リディアン・ボーン)⇒最初の女、という♀1:♂2のトライアングルである。どちらの作品も台湾でヒットして高評価を得ている。察するに、台湾社会はセクシュアルマイノリティに寛容(少なくとも日本より)なのだろうか。関係ないかもしれないが、台湾人はかつて自国を占領・支配した日本人に対して友好的だと言う。
 大らかな国民性?
 
 『藍色夏恋』が三人の青春時代だけの活写で終わっているのにくらべ、『GF*BF』は戒厳令下にあった1985年から2012年までの激動の台湾社会を背景に、10代から40代に至る三人の変貌を描いている。そのため、後者のほうがより人生ドラマの趣きが強い。と同時に、青春の挫折というテーマが加味されて、大人になることの苦味が鑑賞後に残る。
 
 大学時代の三人が、民主化を求めるデモに参加して盛り上がっているシーンがある。
 日本で言えば、全共闘あるいは今のSEALDsの若者たちを髣髴させる。大義をもって体制と闘うという市民運動的志とは別に、ああいった動乱の中で仲間と夜通し酒を飲みながら議論し喧嘩し、自己を確立し、友情を育て恋愛やセックスを覚えるという青春は、やっぱりそれ自体幸せなのではないだろうか。我々バブルの頃の若者のように、渋谷や新宿や六本木の繁華街やクラブで退屈をまぎらわすために夜通し騒ぐ繰り返しだけの青春(BGMは中森明菜『DESIRE』)よりも、鮮やかに記憶に残る思い出となるのではないか。
 若者たちに‘デモの中の青春’をプレゼントできるのは、大人たちの寛容さであり、社会の成熟さを示しているのではないだろうか。
 そんなことを考えた。
 
 登場人物のなかで、自分(ソルティ)が感情移入したのは、もちろんゲイの忠良(チョンリャン)である。
 ノンケの友人シンレン(♂)を好きになってもそれを打ち明けることができず、シンレンと自分の幼馴染メイパオ(♀)とが結ばれるのを傍らで指を咥えて見ていることしかできず、一人夜の街にセックス相手を探しに出かけるチャンリャン。成人してからは、妻子ある男との秘密の情事にひとり身をこがす。本命のシンレンは、「転向」して地位も金もある男の娘と結婚し家庭を持つ。シンレンの子を宿し断ち切れぬ関係に苦悩するメイパオの哀れな姿を鏡のように見て、チャンリャンははじめて自分のありのままの姿を知る。それは、叶うことない偽りの愛をひたすら渇望する‘倒錯した’おのれの性(さが)であった。
 
 クローゼットのゲイは、クローゼットのゲイとしか知り合えない。
 そこに未来はないのである。
 
 
評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

 

● 本:『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください』(上野千鶴子、古市憲寿共著)

2011年光文社刊行。
上野先生

 同じ社会学者の肩書きを持つ、顔と名前の売れている師弟の対談であるが、プロとしての力量差は歴然である。知識の差、経験の差、業績の差、社会的信用度の差、世間への影響力の差、交友関係の差、社会運動家としての実績の差・・・・。はじめから、同じ土俵に上がってがっぷり四つに組んだ対談は期待できない。新進気鋭の20代(当時)の社会学者が、功なり名を遂げた60代の社会学者に教えを乞う、インタビューして知恵を分けてもらう、というスタンスになるのは仕方ない。
 その意味で、この本の価値の一つは、『おひとりさまの老後』『男おひとりさま道』『ケアの社会学』という著書を持ち、自他共に認める日本の介護問題のオーソリティたる上野千鶴子の胸を借りて、介護のことなど何も知らない(ように見える)古市憲寿が、介護保険制度をはじめとする介護をめぐる‘日本人なら知っておきたい’トピックについて、自らの漠たる介護不安を隠すことなく率直に問いかけ、それに対して上野が懇切丁寧に答えているところにある。
 つまり、‘介護問題’の入門テキストとして――排泄や移乗といった具体的なケアの仕方についてのマニュアルではない――非常に読みやすく、わかりやすく、役に立つものとなっている。
 たとえば、なぜ介護保険制度が必要とされたのか、その基本的な仕組みはどのようなものか、親が自分の介護者として望むのは誰か、親の介護にいくらお金が必要か、良い施設の見分け方・・・なんてことが取り上げられている。
 介護の仕事に携わっている自分(ソルティ)は、興味深く、かつ、いちいち頷きながら読んだ。
 以下、上野の発言から引用。 
 

●介護には親子関係の歴史が反映する。だから、心配になったら、何よりもまず親と話してみること。それに尽きると思う。

ソルティ:介護施設で働き始めてすぐ気がついたことの一つに、「子供は、まさに‘自分が育てられたように’親を介護する」というのがある。叱られて育った子供は、ボケた親を叱りつける。親に振り回されて育った子供は、親(と施設)を振り回す。何くれと干渉されて育った子供は、何くれと親の介護に干渉する。
 

●介護問題の非常に深刻なところは、価格とサービスの質が連動しないこと。だけど子どもはそれを見て見ぬフリをする。なぜかというと、サービスの利用者とは、「高齢者ではなく家族」だから。

ソルティ:介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」の虐待事件を挙げるまでもない。かえって、有料老人ホームほど「高い金を払っているのだから」と利用者も家族も我儘になり、職員のストレスが高まるリスクは高いかもしれない。
 

介護のタブーをまとめておきましょうか。まず若者に対して言いたいのは、介護のために仕事を辞めるのは絶対にダメってこと。・・・・・・・・ 
 それから第二に、できるだけ同居は避ける。なぜかというと、同居したとたん、介護が24時間になるから。別居していれば、介護はパートタイムになる。介護をするなとは言わない。してあげたければ、できる範囲でやったほうがいい。それなら通いで介護をしたらよい。つまり、距離を置くということが大事で、自分の暮らしの場を介護職場にしないっていう選択をするべき。余裕を失ったら、親も子も追い詰められるから。・・・・・・
 最後の一つは、一人っ子の場合。一人っ子の介護負担って、実はすごく重い。介護負担は分散できても、「介護責任」の分散はできないから。親の生き死にに関わる意思決定を、一人でしなければならない。だから、この場合も、親の意向をよく聞いておけば、自分の精神的な負担を減らすことができるよね。 

ソルティ:現在介護職の自分は、親の介護が始まると、「仕事で介護、家でも介護」の介護尽くしの一日になってしまう。なるほど、同居は賢くない。


 ところで、介護問題を中心に上野の根拠確かな知恵と潤沢な情報を引き出すだけなら、なにも古市を対談相手に持ってくることはない。光文社の編集者なり、フリーライターなりが、インタビューしてまとめればそれで済む。プロの編集者のほうが、よっぽど読んでわかりやすいように上手に筋道を立てて話を持っていけるだろう。上野から上手に話を引き出すテクニックもあるだろう。ある程度は事前勉強して臨むだろうから、より深く本質的な話が展開されるかもしれない。
 古市にはそれは望めない。
 そして、そこにこの本のもう一つの価値を見出すことができる。
 
 上野と古市との関係は、ほぼ団塊世代とその子供の関係に相当する。その擬似親子関係による対談だからこそ、団塊ジュニアであり、若者のオピニオンリーダーでもある古市の発言を通して、‘いまどきの若者’のメンタリティを窺い知ることができる。上野の、あたかも物分りのいい聞き上手な母親のような作法が、それを巧みに浮かび上がらせてしまうのである。
 その意味で、この対談の隠された真のテーマは、現代若者像を炙り出すところにあり、真のインタビュアは実は上野のほうなのかもしれない。
 
 何より面白いのは、そのようにして自らが浮かび上がらせた団塊ジュニアのメンタリティを突きつけられて、上野自身が「絶句する」「あっけにとられる」「心胆寒からしめる」「二の句が継げない」「あきれかえる」といった反応に陥っているところである。
 自分の手元には、新進気鋭の社会学者&フェミニストとしてブイブイ鳴らしていた頃の上野の対談集『接近遭遇』(勁草書房、1988年)という本がある。ここで上野は、それこそ当時の日本の知を代表する錚々たる顔ぶれの男達(吉本隆明、浅田彰、金子郁容、鴻上尚史、金塚貞文ら9名)と、まさに同じ土俵に上がってがっぷり四つに組んで渡り合っている。これだけ俊英なる男性論客と対等に議論できるほどの知性と言葉を持った女性論客は、上野以降出現していないのではないかという気がするが、それはともかく、この男性論客の誰一人とて、本書の古市ほどには上野を狼狽させていない。

接近遭遇
 
 たとえば、「親が死ぬのが怖い」という古市の言葉を、上野は理解できない。親が死ぬのは確かに悲しいけれど、同時に「肩の荷が下りる」「重荷が外れる」という解放感があるから、と上野は続ける。

上野 親より先立つのは親不孝だっていう気持ちはないの?
古市 いや、あんまりないですね・・・・。もちろん親不孝だとは思いますけど、親より先に死んではいけないっていう規範よりは、親に先に死んでほしくないっていう気持ちのほうが強いかな。
上野 じゃあ、親が生きてるあいだに自分が死ぬほうがラク!?
古市 ああ、ラクですね。親が悲しむのはわかるんですけど・・・・。
上野 自立したくないって欲望を突き詰めると、親がいるあいだに自分が死にたいって気持ちが出てくる。自分が庇護される側のまま、一生子どもとして生きて、子どものまま死にたい。団塊世代はこういう子どもを育てたのか!
古市 そうかもしれません。親子の庇護関係を変えたくない、親のケアをするほうに回りたくないっていうのが介護不安になっているのかも。・・・・・・・・・・
上野 親子という庇護関係が変わらないうちに、自分が庇護される側のままに死にたいってこと? 寛大なパトロンを一生失いたくない。そのパトロンがパトロンとしての力を持っているあいだに死にたい。こういう子どもを育てちゃったんだ。団塊世代は。怖すぎるわ。

 対談相手が上野ではなくて、たとえば西部邁や曽野綾子や金美齢だったら、「あんた、性根が腐っている!」と机をたたいて憤然と席を立つことだろう。いや、西部や曽野のような保守論客でなくとも、ある世代より上の人間なら、いかりや長介のごとく「ダメだ、こりゃ」と吐き出して、対談をそうそうに切り上げることだろう。(それこそ古市の思う壺なのだろうが・・・)
 
 古市を通じて窺うことのできる‘きょうび’の若者のメンタリティとは何か?
 ジコチュー(自己中心的)――である。

 むろん、古市憲寿という個人のパーソナリティに由来する部分も少なからずあるとは思う。古市と同世代の若者でも、上記の古市の発言に違和感を持ったり、憤りを感じたりする人間はいることだろう。
 しかし、古市の書く本が話題となり、連日のようにメディアに登場して、若者世代のオピニオンリーダーあるいは代弁者として振舞っていることを思うと、やはりかなりの部分、いまの若者のエートス(特徴)を、彼と彼の言葉が代表していることは否定できないだろう。 
 といって、自分(ソルティ)は、古市を批判も非難も否定も断罪も揶揄もしない。できない。古市のさらけ出すエートスは、かつて「新人類」と言われた自分たち世代もかなりの部分共有するからである。ただ、上野が代表している「旧人類」の常識がどんなものかを知っているので、そしてその一部を幾分内面化してもいるので、古市ほど無自覚におのれの欲望をさらけ出さない賢さ(=狡さ)を持っているだけである。だから、古市の発言に心の奥のほうで共感する一方で、上野の狼狽する理由もよくわかる。

 思うに、ジコチューの一番の原因は、新人類(1964東京オリンピック前後の生まれ)以降の世代は、「なにもかもお膳立てされた社会に産み落とされ、それをあたりまえとして育ってきた」というところにある。生まれたときに‘戦後’は終わっていて、焼け野原は消失し、高度経済成長に入って物資は豊かにあり、法や制度は自らの知らないところで機能しており、社会は「ほぼ完成されて」いた。たとえれば、‘旧人類’が「何もない焼け跡から苦労してディズニーランドを建設した、あるいはその現場を間近に見て育った」としたら、‘新人類’以降の世代は「生まれたときからディズニーランドにいた」のである。それ以外の世界を知らないのである。戦争も焼け跡も戦後の復興も、話としては聞いても、それもまたランドの一つの‘時代回顧型アトラクション’のように思えるのである。
 お膳立てされた社会に生まれ育った人間は、当然、自分のために、社会が、親が、周囲が、動いてくれるものととらえる。自分からは何一つ動かないで(アクションを起こさずに)、周囲がやってくれるのを待つのが習性となる。まさに‘バカ殿’である。
 このあたりの事情をよく表している古市と上野のやり取りがある。

古市 ただ意識調査を見ても、政治で社会を変えられると思う人が少ないというのは、日本の若年層の特徴です。政治の領域と、私生活の領域をリンクさせる仕組みが社会に用意されていないのは、問題だと思いますけど。
上野 そういうときに「社会に用意されていない」って言い方が、私にはひっかかる。
古市 自分たちでなんとかしろってことですか?
上野 そうよ。これまでの世代だって作り出してきたんだから、
古市 じゃあ自分たちで作らなきゃいけないんですか?
上野 わお。それ以外に何かある?

 まるで落語か漫才のようである。(って他人事にするな)

 「あとがきに代えて」と題する古市への手紙のなかで上野はこう記している。

 そういうナナメの立場から見た、団塊世代と団塊ジュニアの親子関係は、予想していたとはいえ、いやはや、というほかないものでした。自分と同世代の親の立場から見聞きしていた親子関係と、あなたのように子の立場から耳にする親子関係の証言とは、予想通りに符合し、わたしの世代はなんというジコチューの子どもたち、子ども部屋から永遠に出たがらない子どもたちを育ててしまったのか、と感慨を覚えました。


 上野が古市のジコチュー発言に最後まで忍耐強く誠実に付き合えるのは、上野自身の類まれなる包容力や師としての後進への愛があるからにほかならないけれど、また一方で、古市のような若者を作り出してしまった一番の原因が、自分たち団塊世代の育て方にある、すなわち「全共闘的メンタリティ」にあることを自覚して、痛感しているからである。(橋本治はそれを一言で、「大人はわかってくれない」とくくった。)
 全共闘に敗れ、長い髪を切ってスーツを着て、‘社畜’に転身した団塊の世代は、外見から見ると、自分たちがかつて否定した「大人」になったのだけれど、中味はずっと「全共闘の青年」のままだったのだろう。だから、自分の子どもも「大人」にしたくなかった。できなかった。
 その結果をいま、成人しても自立(自活)できない子供にすねをかじられる、という形で引き受けている。そして、来たるべき団塊介護時代において、どんな形かは推測つかないが、文字通り‘身をもって’引き受けることになる。(そのときまで、自分は介護の仕事を続けているだろうか?)

 子は親の鏡。
 この言葉は、いつの時代でも、どこの国においても、真実である。


 
記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文