ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 受動意識仮説の衝撃 本:『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著)

前記事の続き。

心と脳との関係についての3つの見解。

1. 心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論、唯物論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論、唯心論)

 偏見を承知で言うと、1は文系の人が、2は理系の人が、3は宗教系(スピリチュアル)の人が抱きやすい考え方だと思う。
 そして、1と3は、ある意味、魂の存在を信じることや、肉体上の死後の生を夢想することにつながる。2は、「死んだら終わり。はい、それまでよ~。」である。

 自分はどうか。1と3の中間くらいである。(2というわけではない。1のような気もするし、3のような気もするってことだ)
 もちろん、なんらかの根拠があるわけではなくて、「2が本当だったら、なんか嫌だなあ~」と思うからである。
 なんで嫌かと言うと、いまある「私」という意識は肉体によって産み出されたものにすぎず、肉体の崩壊=死とともに消失し、あとには何も残らないというふうに考えることが、「つまらない」「冒涜的」「屈辱的」「人間の尊厳を壊しかねない」「社会的にリスキー」と思うからである。要は「わたしがかわいい」のである。
 「社会的にリスキー」というのは、天国も地獄も来世の存在をも否定することは、「生きている間に好き勝手しよう」という刹那的な考えを蔓延させると思うからだ。21世紀の現代でも、やはり人々の心のどこかには天罰とか因果応報とか自業自得という観念が巣くっている。(例:震災についての石原慎太郎発言) それが、やけになって他人を傷つけたり自殺したりせずに、なんとか最期までまっとうに生き抜くためのよすが、砦となっているからだ。

 しかし、「そう思いたい」という願望や幻想、「そういうふうにしておいたほうが無難」といった方便と、科学的事実とは、分けて扱われなければなるまい。

 前野は、徹底した身的一元論者。2番である。
 茂木健一郎は、著書を読む限り、世に華々しく登場した最初のうちは明らかに2番だったが、徐々にあやしくなってきて「魂」とか言い始めている。今では1番に近いのではないか。(なるほど、この人には文系に対する憧れのようなものを感じる。)
 
 ところで、ここまで、「心」と「意識」を同一のもののように扱ってきたが、前野の見方に従って、次のように分別しよう。これは、脳科学者の松本元の説だそうだ。
 
心を成り立たせる部品は5つ・・・・ 知(知性、知力)、情(感情)、意(意図、意思決定する働き)、記憶と学習、意識 

 これ以外に「無意識」がある。無意識を心に含めるかどうかは微妙なところだ。無意識だけで生きている生物、たとえば微生物に「心がある」とは言いにくい。

 さて、意識とは、「知・情・意・記憶と学習」全体を主体的に統合する作用だと一般に考えられている。これは普段、我々が「私が知る」「私が考える」「私が感じる」「私が意図する」「私が決定する」「私が記憶する」「私が思い出す」「私が学ぶ」と認識していることを考えれば、首肯できるところだ。5つの部品のうち、上の4つはどれも「私」すなわち意識において起こっていると実感できる。

 知・情・意・記憶と学習については、脳科学の進歩によって、ある程度、そのシステムが解明途上にある。少なくとも、脳のどこの部分で働きを担当しているかがマッピングされている。
 一方、意識については、一体どこにあって、どんなふうに働いているのか(どのような生化学的作用が意識を立ち上げているのか)がまったくわかっていない。
 なぜ、科学的な法則で説明可能であるはずの肉体(脳)から、科学的にその存在すら証明できない心(意識)が生まれたのか。どうやってそれは他の部品を統括できるのか。「私」が認識する対象の生々しさ(夕日の赤、鳥の声、お好み焼きの匂い、アイスクリームの甘さ、絹の下着の肌触り、いわゆるクオリア)は一体なぜ、どうやって生まれるのか。「私」という感覚はなぜ、どうやって生まれたのか。
 わからないことだらけである。
 まさに、お手上げ。

 この人類最大の謎の一つに、前野が出した答えが、「受動意識仮説」である。

 自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかな無知な存在。さらに、意識の中でもっとも深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない。

 
 クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのものなのだ。
 
 <私>とは、記憶とも「知」「情」「意」の多様さとも関係なく、ただ単に、ピュアに、「<私>というクオリアは<私>である」、という決まりが脳の中に定義された結果、作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる。 (標題書より、以下同)


 ポイントは、心と体を合わせもった途轍もなく見事な「自分」というシステム全体の、主役であり、主体でもあるとこれまで考えられていたイシキ君について、『いや、そうではない。あいつは実は主役ではなくて脇役に過ぎない。本当の主役はムイシキ君だ。ただ、上演の関係上、都合がいいからイシキ君には自分が主役だと思わせておこう。』というところにある。
 真の主役は、舞台と客席と舞台裏で起こるすべてのことを把握して統括管理している演出家ムイシキ君である。そして、イシキ君の正体はと言えば、演出家の思うがままにしゃべり演じることができる、イケメンだけが取り柄のスター気取りの看板役者のようなもの。

 無意識のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気になっている井の中の「私」というのが、生命の真実なのだ。

 一体全体、なぜ、生命は、自然は、そんなことをしたのか?

 「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。

 生物は進化の過程において、記憶力を発達させてきた。それは生き残るために有利な条件だからだ。サケが生まれ育った川に帰ってくるような本能による記憶装置だけでは、環境の大きな変化に対応できない。敵に襲われた場所と時間と状況を覚えておくことができなければ、予防することができず、また同じ状況を繰り返し作ってしまう。虫歯の痛みを覚えておけなければ、毎食後に歯を磨くという面倒くさい行為をやり続けることができず、健康を害してしまう。
 記憶力が優れている類人猿ほど、高い確率で生き残っていく。
 そして、記憶をエピソードとして、「物語」として脳内に残すことができるようになったのが人間なのである。まさにそのために、物語を体験し記憶に残すために、巧まずして生じたのが「意識」であり、「私」なのである。
 つまり、単に記憶力が向上した結果として、「意識」や「私」が生まれただけであり、そこに何も「ミッシングリング」とか、宇宙人による類人猿ロボトミー(脳手術)を持ち出してくる必要はない、ということだ。

 どうだろう?
 
 コロンブスの卵というか、コペルニクス的転換というか。
 あまりにも単純な説明なので、かえって真実らしい気がしてこないだろうか?
 意識に関するさまざまな難題、ゴルディアスの結び目を一挙に断ち切る説ではないか。
 自分は一読、感嘆の声を挙げた。

 この説のなんともビックリするところは、これがまたしてもブッダが言ったことに符合していることだ。

諸法無我。
「私」というのは幻想に過ぎない。心と体の中のどこを探しても「私」の実態はない。

 ブッダの言葉を現代までそのままの形で伝え続けるテーラワーダ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラはこう述べている。

人は、感じたものは、認識します。そして認識があるから、「私が知った」ということに自動的になるのです。「私は知った」という気持ちは一生続くので、「私」という概念、「私に魂がある」という強烈な誤解が、この「受(感覚)」から生まれるというわけです。この「感じる」というはたらきから、「私」という考え方が出てきます。なにかを感じるから「私はいる」と思ってしまうのです。(『心の中はどうなってるの?』サンガ) 


ブッダ、すげえ~!!
 

 前野がブッダの説いたところと同様の結論に至るのは、もはや不思議でもなんでもない。

あぁ、何十億人もの我が人類は、何千年もの長い時間、死を恐れ続けてきた。それは<私>という存在のこのあまりのはかなさを知らずして、その存在の終焉を恐れていたということだったのだ。なんという無知。
・・・・・私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。

 ただし、前野説と仏法には大きな違いがある。

 ブッダは輪廻転生を伝えた。生まれ変わりのシステムから抜けることを「解脱」と言ったのである。これは、肉体の死後もなんらかの現象が引き続いていることを含意している。ブッダはそれが何であるか言明していないようだが、少なくとも「私」でないことだけは確実である。ともあれ、ブッダは一元論者ではない。
 もう一点。
 前野の説は、「すべてを決定しているのは無意識である」と言い切ってしまうことで、結果的に宿命論に陥ってしまいかねない。なにしろ、「私の意志」すら、私のものではなく、無意識による民主主義的多数決の結果というのだから。人間が向上するも堕落するもすべて無意識のせいになりかねない。
 それとも、無意識は常に個人や社会の向上を、種としての生き残りを目指して良心的に働いているはず、という前野自身の楽観主義のなせるわざか。
 現実の社会を見る限り、どうもそうとは思えない。
 ブッダは、輪廻からの解脱方法として、あるいは幸福への必須条件として修行や智慧や慈悲を重んじた。なぜなら、人間が何の努力もしないで心の赴くがままに(無意識のなすがままに)生きていれば、人も社会も必ず堕落すると考えていたからだ。
 ブッダは宿命論者ではなかったのである。


 ひとつだけ確かに言えることは、前野説を受け入れるための最大の反対者は、二元論者でも唯心論者でもなく、「私(意識、心)」そのものだという点である。
 有史以来、人類が、それこそ古今東西の偉大なる宗教家や哲学者や科学者が、「私」や「心」について考え続けた挙げ句、最後に到達した答えが、「私も意識も心もイリュージョン(錯覚)である。そもそも、そんなことを考えること自体、無意識のしわざであって、残念ながら、あなたはそれに気づかないで、自分が高尚なことを考えていると錯覚しているだけのオメデタい奴にほかならない。」では、あまりにお間抜けではないか!
 いったいどんな卑屈な「アイデンティティ(私)」が、この結末を素直に受け入れられるだろうか?


前野の受動意識仮説。
トンデモ本と取るか、意識の本質に迫る画期的なパラダイム転換の書と取るか。


より深い洞察を期待して、次作を待ちたい。




● トンデモ本か、稀代の名著か 本:『錯覚する脳』(前野隆司著)

 最近、脳と認識に関する本をよく読んでいる。

 ラマチャンドラン博士の『脳の中の幽霊』はスリリングでとても面白かった。オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』、『妻を帽子とまちがえた男』も、良くできたミステリーのように謎に満ちていて好奇心を刺激し、一気呵成に読ませる。
 いずれも脳の損傷やその回復によって知覚や認識がどう変わるかということを、実験結果や患者のエピソードを取り混ぜながら、科学素人にもわかりやすく、面白おかしく教えてくれる。著者の非凡な文才を感じる。

 日本でも、科学畑で文才のある人が目立つ。
 ベストセラー『唯脳論』の養老孟司、「クオリア」で一躍マスコミの寵児となった茂木健一郎、『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一、他にも柳澤佳子や竹内久美子も有名だ。
 文系である自分にとって、最新科学の知見を、学術論文のように専門用語や研究者の論文名を散りばめたオカタいものではなしに、物語風にわかりやすく絵解きしてくれるこれらの作家や作品はとてもありがたい。
 
 前野隆司もまた、これらの科学者兼作家にならんで、脳と知覚・認識・意識の関係についての自説を、わかりやすい喩えと曖昧さのない物言いでもって披瀝する。ところどころ差しはさまれるエピソードからは、著者の率直さや偉ぶるところのない庶民性が伺えて好感が持てる。(家族思いのところとか、納豆が大好物なところとか)

 それにしても前野説は衝撃的である!

 この前野説の内容と、その衝撃の度合いをうまくここに表現できるだろうか?
 まあ、やってみよう。

 実験や研究によって次々と明らかにされてきた脳の働きを踏まえ、昨今の脳科学の知見は、ランボーに言えば、「この世界にあって我々が知覚しているものは、すべて脳が作り出したものである」という方向をたどっている。人間は、五感によって身の回りにあるものを知覚しているが、それをまさに「見ているように、聞こえているように、匂っているように、味わっているように、触れているように」感じているのは、脳の働きによるものだ。

 たとえば、目の前に赤い花がある。
 この「赤い」色を感じているのは視覚であり、目という道具を使って情報を取り入れている。
 だが、実際に網膜が知覚しているのは、いろいろな波長を持つ電磁波(=光)にすぎない。それが電気信号に変換されて、視神経によって脳に情報として伝達される。脳は「この信号ならこの色だな」と判断し、「赤」を人間に見せる(認識させる)のである。
 つまり、「赤」を見ているのは目ではなく、脳なのだ。

 同様なことが、他の感覚についても言える。
 前野が挙げた例で「目から、もとい、耳からウロコ」だったのは、聴覚に関するものだ。

聴覚は、耳から入ってきた二十ヘルツから二万ヘルツまでの空気の振動を検出し、両耳の情報を使って音源の位置を同定するとともに、音色や母音・子音のクオリアを生成するものだ。

 すなわち、「なにが」「どこから」「どのように」聴こえているかを決めているのは、音源そのものではなくて、脳の中の聴覚野のしわざであるということだ。
 すると、こうなる。

 空気の振動は、二つの耳の基底膜の振動に変換され、そこにある有毛細胞で検出されているに過ぎないはずなのに、なんと、会話相手の話し声は相手の口元から聞こえるのだ!

 話し相手の声が相手の口から聞こえるなんて、あまりにも当たり前すぎて不思議にも思わなかったが、考えてみると奇跡的なことなのである。もし、耳の基底膜に、あるいは聴覚野に、なんらかの異常があったら、音源とは別のところから「音」が聞こえる、なんてこともあり得るのかもしれない。幻聴なんてのはそのせいなのではないか。

前野は言う。

 私たちが五感を感じるとき、それは感覚器で感じているのではない。断じてない。脳の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのように見せてくれている。

 これを逆手にとって映画にしたのが、『マトリックス』である。
 すべての感覚を脳だけで作り出せるならば、眠らせた人間の脳を電極につないでおいて適当に脳を刺激し、バーチャルな世界を体験させることができる。本人はまったく気づかない。あたかも自分が「現実に(を)」体験しているかのように感じる。


 『マトリックス』のようなことができるには、脳科学とコンピュータ工学とはまだ数世紀待たなければならないだろう。(それとも、もうすでに我々はどこかの非常に文明が進んだ星に棲む宇宙人の子供の遊んでいるゲーム上のアバターかもしれない。)

 「脳がすべてをつくりだしている」ということが示す衝撃は、空おそろしいばかりである。(タイトルから勘違いしやすいが、養老の「唯脳論」は、これとはまったく違うレベルの話である)
 それは、つまり、我々の周囲に存在するものの本当の姿はわかりえない、ということを意味しているのだ。

「空」ーおそろしいでしょう?

 おそらく、これをもってブッダは「一切行空」と言ったのだろう。般若心経の「色即是空」である。禅なら「不立文字(ふりゅうもんじ)」。認識できないものは、表現できないがゆえに。

 「悟り」とは多分、この認識を超えた「ありのままの世界」を一瞬垣間見ることなのだと思う。
 「何で(何を使って)」「見る(知覚する)」のかは不明であるが。

 
 ここまでも十分衝撃的であるが、別に前野の専売特許ではない。歴史に残っている限りで最初に獅子吼したのは、ブッダである。『スッタニパータ』でこう言っている。

 六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。(『ブッダのことば』岩波文庫)

 ブッダは五感に付け加えて、「意(意識)」を世界を知覚する門としている。この場合、知覚する世界とは外部ではなくて内部(心)である。


 系統的に調べたわけではないが、他にもいろいろな人が指摘している。

無限は感覚の対象にはなりえないからです。まことに感覚を介して無限を知ろうとする者は、実態や本質を目で見たいと願う人間と同じです。感ぜられもせず見もせぬからといって事象を否定する者は、実態や本質そのものを否定せんとする者です。・・・・感覚されうる事物以外のものには感覚は適用されません。(ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』岩波文庫)


視覚実質、聴覚実質が存在しなければ、吾々の周囲の、かかる色彩の美しい、妙音ある世界は暗黒であり、沈黙であるであらう。(デュ・ボア・レーモン『自然認識の限界について』岩波文庫) 


環世界には純粋に主観的な現実がある。しかし環境の客観的現実がそのままの形で環世界に登場することはけっしてない。それはかならず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものが何一つ存在しないのにある作用トーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になるのである。(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』岩波文庫)

 
 「環世界」とは、「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え」を言う。文中の「作用トーン」こそ、「クオリア」のことである。

人間に限らず、あらゆる生命体は自らに与えられた認識装置によって世界を理解するしかない。認識装置に依存する部分の弁別材料無しでは、世界を理解することはできない。・・・・昔の哲学者だったら、こんなふうに言うだろう。「私達は存在を捉えているのではない。捉えたものを存在としてしまっているのだ。」(時枝福治『象のシッポ』新風社)

  もちろん、茂木健一郎も言っている。

私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。(『クオリア入門』ちくま学芸文庫)

 ある意味、ブッダが2000年以上昔に述べたことに、やっと今日の科学が追いついたわけである。
 
 ブッダ、すげえー。

 ここまではいい。
 ここから先が前野理論の真骨頂。

 それは、こうやって感覚器と外界との接触によって集められた情報を、加工し、編集し、系統立てる「脳」と、それを認識する「意識(心)」との関係についての考察から始まる。

 脳と心との関係は、次の3つの論に集約される。

1. 心の正体がなにかはともかくとして、心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論)


 古くから洋の東西問わず議論されてきて、いまだにまったく解明の糸口すら見えていない、この人類最大の問題(ハードプロブレム)について、前野は果敢に挑戦したのである。

この続きは別記事(http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html)で。

TO BE CONTINUED.....

● ダークサイドの魅力? 映画:「リセット」(ブラッド・アンダーソン監督)

2010年アメリカ映画。

原題はVanishing on 7th Street (七番街での消失)

人間が根源的に恐怖する闇(ダークサイド)との闘いを描いたホラーサスペンス。
「黒の怨(Darkness Fall)」、「ダークネス(Darkness)」、古くは「フォッグ」、アメリカにはこの手のものが多い。
初期開拓時代のピューリタンとして、インディアンの棲む夜の森を恐れる民族的記憶のゆえんだろうか。おのれの無意識の暗い側面に蓋をしたがる民族性ゆえんだろうか。夜の森に妖怪を住まわせる日本人とは本質的に異なる。もっとも典型的な作品に、コンラッドの「闇の奥(Heart of Darkness)」がある。映画「地獄の黙示録」の原作である。

この映画の肝の一つは、主役のヘイデン・クリステンセンが若き頃のダースベイダーであること。
であればこそ、最後まで「ダークサイド」に引き込まれまいと奮闘する彼の姿に、別の意味が付与されて、見方が膨らむ。ご丁寧にも今回の役名は「ルーク」ときてる。スター・ウォーズのときと同様、最後にはダークサイドに取り込まれてしまうのであるが。

もう一つの肝は、これが1590年エリザベス一世女王の時世に実際にあった「ロアノーク島住民消失事件」を背景に匂わせているところ。「匂わせている」ってところがポイントである。

北アメリカの東海岸にあるロアノーク島を植民地化したイギリス人達が、いったん島を去って帰国し、3年後に戻ってみたら、住民118名が姿を消していた。戦闘の形跡も無かった。手がかりとして残されたのは、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という文字のみであった。

という事件である。

映画の中で、この事件とのつながりを匂わせているのは2点。一つは、周囲の人々が服や靴だけ残して消失する中、なぜだか生き残った5人の登場人物うちの1人が、この事件のことを前から知っていて、他のメンバーに語るシーンである。もう一点は、ダークサイドの襲撃から車で逃げるルーク=クリステンセンが、目の前の陸橋に大きくペンキで書かれた「CROATOAN」という文字を見るシーンである。

この2点が無ければ、ロアノーク事件との連関性はない。
逆に言うと、この2点によってのみ、ロアノーク事件、あるいは(ロアノーク事件を知らなければ)ハーメルンの笛吹きやメアリ・セレスト号事件など同種の集団消失事件に人々が付与してきた様々なイメージ~不思議、不吉、神秘、恐怖、誘拐、陰謀、侵略、異次元、アブダクション、神隠し、解けない謎~を、映画に重ね合わせ、重層的な意味を持たせているのである。
それは、このストーリーからロアノーク色を抜いて考えてみれば、よく分かる。
ただの、わけのわからない、陳腐な、闇に引き込まれる人間の話である。

襲ってくるものの正体は何か、なぜ襲ってくるのか、捕まったらどうなるのか。
通常なら最後には解明されるこれらの問いに対する回答を、意図的に拒絶し、すでに世間的に十分な意味を獲得しているスター・ウォーズやロアノークの物語のイメージやエッセンスをお借りして、話を膨らませる。

ある意味、利口な、節約主義な映画である。

正体がはっきり分かってしまったら、怪談もホラーもダークサイドも魅力が失せるのである。




評価:C-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 好きな作家を10人挙げよ 本:「感謝だ、ジーヴス」(P.G.ウッドハウス著)

好きな作家を10人挙げよ、と言われたら下のようになる。(順不同)

チャールズ・ディケンズ ・・・・「大いなる遺産」 「デービッド・コッパーフィールド」
ジェーン・オースティン ・・・・・「高慢と偏見」 「エマ」
ヘンリー・ジェイムズ  ・・・・・「鳩の翼」 「ねじの回転」
オスカー・ワイルド   ・・・・・「サロメ」 「ウィンダミア夫人の扇」
E.M.フォースター  ・・・・・「眺めのいい部屋」 「モーリス」
カズオ・イシグロ    ・・・・・「私を離さないで」 「日の名残り」
コナン・ドイル     ・・・・・「バスカービル家の犬」 「ボヘミアの醜聞」
G.K.チェスタトン  ・・・・・「ブラウン神父の醜聞」 「ブラウン神父の秘密」
アガサ・クリスティ   ・・・・・「そして誰もいなくなった」 「アクロイド殺し」

そして、P.G.ウッドハウス、である。

なんと日本の作家が一人も入っていない。
なんと全員、イギリス作家である。ヘンリー・ジェイムズはアメリカ生まれで、最後にイギリスに帰化したが、作風から言っても、作品に取り上げた舞台から言っても、イギリス作家とみていいだろう。

もっと若い頃なら、このリストに、

三島由紀夫
トルーマン・カポーティ
トーマス・マン
江戸川乱歩
エドガー・アラン・ポー
橋本治
大江健三郎

あたりが加わって、10個の枠をめぐってしのぎを削ったことだろうが、これらの作家は今では、若い時代に、若いが故にかかった流感みたいな存在になってしまった。人生いろいろあって、年をくって、世間を知って、いまだに読んで面白い、繰り返し読みたいと思うのは、上記10人だ。

それにしてもなぜイギリスなんだろう?

1. イギリス人のユーモアが好きだから。
2. 階級社会(特に上流社会)を垣間見る面白さがあるから。
3. どんな時でも冷静で自分スタイルを失わないイギリス人を「あっぱれ」あるいは「滑稽」と思うから。
4. イギリスならではの風景や慣習に惹かれるから。
 たとえば、霧と煙に包まれたロンドン、石畳を走る辻馬車、どこまでも続く緑なす田園、優雅なカントリーハウス、午後のお茶、謹厳実直な執事たち、噂好きのオールドミスたち、ガーデニングに精を出す主婦、世間知らずの牧師(ブラウン神父は別)、パブリック・スクールetc.

自分の数え切れない前世のうち、かなり濃厚なそれはイギリス人の時だったのかもしれない、と思う。
だが、何より自分が好きなのはイギリス人のユーモア感覚だ。これはしびれる。

ユーモアというのは、自らを客観視するところに生まれると言う。
絶体絶命のピンチ、思わず赤面する恥辱的な事態、にっちもさっちもいかない四面楚歌、急を要する危機的状況。そんなとき、人は緊張し、我を忘れ、顔はこわばり、体はガチガチ、目の前のことしか考えられなくなる。
まさにその瞬間、ふと自分からはなれ、第三者の目で自分の心と置かれている状況を観察して、自分自身を笑いとばし、状況を楽しむ。少なくとも、状況を受け入れる。
そこで口をついて出る言葉が、ユーモアとなるのだ。
だから、ユーモアは冷静さと対になっている。

そう、イギリス小説と言ったら、ユーモアと階級社会と言っていい。

10人の作家の中で、一番最近(ほんの3年前に)知ったのがウッドハウスである。
これは痛恨だ。こんなに面白い作家をなぜもっと早く知らなかったのだろう。イギリスでは皇室御用達の国民的人気作家だというのに・・・。

数年前から国書刊行会から森村たまきさんの訳でウッドハウスコレクションが出るようになって、今ちょっとしたブームになっている。特に、ちょっと脳みそは足りないが気のいいご主人バートラム・ウスター青年と、頭脳明晰で有能な執事ジーヴスの物語は、少女マンガ化されるほどの人気沸騰ぶり。自分もためしに一冊図書館で借りたが最後、あとは立て続けに10冊ばかり読んでしまった。
それくらい、文句なしに、掛け値なしに、圧倒的に、面白いのである。
こんな面白い本が今までわが国の本屋の一画を占めていなかったのは、ほとんど犯罪と言っていい。
ウッドハウスを読まずに「イギリス人とユーモア」を語るなかれ、ってくらいである。

中身はどの作品をとっても変わりは無い。
カントリーハウスを舞台にした、恋と陰謀と勘違いと主人公のドジが織り成すドタバタ喜劇(スラップスティック)である。読んだ本のタイトルをメモでもして残しておかないと、次に借りるとき、その本を読んだかどうか分からなくなってしまうほど似たり寄ったりだ。
水戸黄門と同じ、偉大なるワンパタン。
むろん、それでいいのである。
そして、黄門様の印籠の役目を果たすのが、ジーヴスの冴え渡る知恵である。


階級社会の面白いところは、本来なら一流大学を出て学者や政治家になってエリートコースを歩いていてもおかしくないほどの頭脳の持ち主が、下流階級に生を受けたばかりに、ちょっと脳みその足りない気のいい青年貴族の執事としての一生を終える、それで満足する、というところであろう。

社会的にはもったいない人材の不登用であるが、ジーヴスは置かれた境遇に愚痴の一つもこぼさない。ほんの1ミリ片方の眉の端を上げるだけである。

すぐには変えることが困難なものにぶつかったときの、もっとも高貴な人間の態度のとり方。
それがユーモアなのかもしれない。





























● アルゼンチン・シンドロームはあるか? 映画:「チャイナ・シンドローム」(ジェームズ・ブリッジス監督)

1979年アメリカ映画。

十代の頃、テレビで観ているはずである(淀川長治さんの日曜洋画劇場あたり濃厚)が、内容はすっかり忘れていた。化学調味料(いわゆる○○の素)を使いすぎた中華料理を食べて具合が悪くなるアメリカ人続出、いわゆる「中華料理店シンドローム」とごっちゃになっていたくらい、すっかり忘れていた。
原発問題がテーマということで話題復活。探してみたら、ちゃっかりお奨めコーナーに陳列されていた。

まず、制作=マイケル・ダグラスに驚く。
調べてみたら、もともと監督志望だったらしく、この作品より前にあの有名な『カッコーの巣の上で』を制作している。オスカーを獲った『ウォール街』や色物サスペンス『氷の微笑』『危険な情事』の印象が強いので、"ちょい悪バブル親爺"のイメージがあったが、年齢からするとヒッピー世代なのだ。この映画の中でも、フリーのカメラマンという役柄のせいもあるが、ロンゲの、いかにもヒッピー上がりの反体制意識むきだしの風貌で登場してくる。実像は、そっちなのだな。もちろん、反原発派だ。

ジャック・レモン『お熱いのはお好き』、ジェーン・フォンダ『バーバレラ』もなつかしい。脇もベテランでしっかり固められていて、役者が揃うと映画は面白いなあ~。
ジェーン・フォンダはこのとき42歳のはずであるが、まだ十分に美しい。今で言うなら、ニコール・キッドマン風の正統派美女。ロジェ・ヴァデムがもう少し長生きしていたら、ニコールも彼の女性遍歴の1ページを飾っていたのかもしれない。

チャイナ・シンドロームとは

原子炉核燃料のメルトダウンによって、核燃料が溶け落ち、その高熱により鋼鉄製の圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すこと。溶融貫通またはメルトスルーとも呼ばれる。米国の原子炉がメルトスルーを起こしたら、高温の核燃料が溶けて地中にのめりこみ、地球の裏側にある中国にまで突き抜けて達する事態になるのではないかということから、チャイナシンドロームという。もちろん、地理上は米国の裏側は中国ではないし、地球を貫くようなことは現実には起こらず、ジョークの一種である。(「知恵蔵」より)



評価:B-

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 

● なぜ日本は負けに行ったのか? 本:「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著)

まず、東京都副知事(2011年8月現在)の猪瀬直樹氏は30代にしてこれだけの仕事をしていたのか、と感心。

昭和16年(1941年)の太平洋戦争半年前に総力戦研究所で実際に行われた、若きエリート官僚チームによる対米戦争シュミレーションの経緯と顛末を、当事者へのインタビューや残された日記、極東軍事裁判における公的な文書を丹念に調べ上げて、事実を積み上げいくことで明らかにしていく。
一方で、現実の国際情勢や日本政府や軍部の動向をわかりやすく並列していき、研究生らがシュミレーションの結果たどり着いた結論(「日本はアメリカに負ける」)が、いかに実際の政治に影響を及ぼすことが無かったのかを浮き彫りにする。厖大な資料を一冊に、簡潔に、過不足無く、まとめ上げる力量はすごい。

よく言われていることであるが、日本は負けるとわかっていながらアメリカと戦争した。
もちろん、「大和魂と神風させあれば勝てる」と思っていた愚かな軍部関係者や右翼連中はいただろう。都合の良い情報ばかりしか流さないマスメディアのいうことを鵜呑みにして、最期まで日本の勝利を信じていた軍人や国民もいただろう。
だが、ちょっとでも当時の欧米の様子、アメリカと日本の圧倒的な資力の差を知っていた者なら、日本が勝てるわけないと知っていたのである。そう、大日本帝国憲法において統帥権を有する昭和天皇でさえ、おそらくは知っていた。(若い頃にアメリカに遊学している) であるから、天皇は、少なくとも対米戦には前向きでなかった、とされている。

なのに、戦争に突入せざるを得なかった。
なぜか?
これが、猪瀬直樹氏の問題提起である。

本書の中でとくにこれが原因とはっきり指摘しているわけではないが、行間から見えてくるもの、そして巻末の勝間和代との対談から、次の二つが挙げられよう。

1.大日本帝国憲法における制度的欠陥
これは、統帥権は天皇にあり、「天皇は神聖にして侵すべからず」であったから、政府も口出しできなかった。実質上、統帥権は軍部にあり、軍部は政府とは別個に作戦を発動できた。つまり、政府には軍部を抑える力がなかったということ。俗に言う「軍部の独走」を招く基盤は、憲法という制度のうちに潜んでいた。

2.日本人の国民性(体質)の問題
誰も決断を下し責任をとる者がおらず、時代の空気にみんなで流されてしまった。

本書の中でもっとも面白い箇所であるが、開戦後に確保できる石油量を算出する場面がある。
戦争には膨大な量の石油が要る。開戦(1941年12月)の約半年前にアメリカからの石油の輸入がストップした時点で、背水の陣が引かれた。唯一の窮余の策は、インドネシアに侵攻し、油田を確保することであった。だが、それもインドネシアから日本まで石油を運ぶタンカーがアメリカ軍に沈められたら、お手上げである。
総力戦研究所の若きエリートたちは、各々の能力と経験によって配役された模擬内閣を作り、この設定において、持てる情報と知力を尽くし様々な角度から検討し、討論を重ね、シュミレーションした結果、「日本は燃料不足に陥って、アメリカに敗れる」と結論したのであった。
まさに、ビンゴ!である。

しかし、戦争するか否かの最終閣議で、実際の政府がはじき出した日本が利用できる石油の量を示す数値は、確たる根拠もないままに大幅に水増し(油増し)されていた。その数値を元に「これならやるしかない」という合意形成がなされたのであった。
つまり、はじめに戦争ありきで、数値はそれをみんなで合意するための手段として利用された(捏造された)のである。読んでいて恐ろしいくだりである。

ここから見えるのは、日本人は事実を元に論理的、客観的に状況を分析し、状況をありのままに受け入れ、そのデータを基に対策を講じ、戦略を立てて実行するということが苦手な民族だということである。(日本には哲学、論理学、科学は生まれなかったのが何よりの証左)

思うに、1より2の理由の方が大きいだろう。というのは、憲法9条の例を見ればわかるように、憲法上の制約なんてのは、平気でどうにでも解釈してしまえるのが日本人だから。

そして、何よりもこの本が今もって重要なのは、戦後70年近く経っても日本人は変わっていないからである。
それが国民性なのだとしたら、そう簡単に変わるべくもなかろう。

それは、今回の福島第一原発事故をめぐる対応に、いや、何よりもここ数十年の原発建設、エネルギー政策をめぐる一連の流れの中にあらわれている。
政府は「東電が安全だといってるから大丈夫」とし、東電は「学者が安全だといってるから大丈夫」とし、学者は「危険だというと仕事が干されるから、大丈夫と言っておこう。どうせ責任とるのは自分じゃないし」とし、東電から莫大な広告料をもらっている、加えて膨大な量の電気を消費しているマスメディアも、「流れに身を任せておくのが一番」と責任回避する。そして、国民は「お上に任せておけば大丈夫」と考える。

行く先に滝壺が迫っているのを知っているのに、いかだの上で仲良く酒盛りしている図、である。

和をもって貴しとなす。(≒誰も責任を取らない)

日本人の国民性がこのようであるのは仕方ない。
100年や200年でこの体質が変えられようか。
であるならば、われわれのリスクマネジメントはこうあるほかない。

日本人は原発を持たない。(われわれは原発を制御できない民である)
日本人は武器を持たない。(われわれは戦争をコントロールできない民である)

日本人が日本人であることを否定して、欧米人のようになろうと体質改善をはかる(国民性の変容を目指す)より、日本人のありのままの性質に見合った政策をとるのが賢明ではなかろうか。













 
 
 


● 映画:フェーズ6(アレックス・パストール監督)

2009年アメリカ映画

TUTAYAでは「モンスター」のカテゴリーに分類されていたが、近未来SF&パニックものといったところ。
致死率100%の未知のウイルスによる感染拡大で人類が滅びていく中、感染を避けるために車で逃走する4人の男女の顚末を描く。タイトルの「フェーズ6」とは、パンデミック(感染拡大)に対する対策レベル(=危険レベル)を表す業界用語である。

4人の主役の一人クリス・パインはどこかで見たことあると思ったら、「スター・トレック」(2009年公開)で、若き日のカーク艦長役をやっている。あのときは、金髪、紅顔の美少年という面立ちだったが、今回は、かなりワイルドで、汗臭さと酒臭さが匂ってきそうな野郎を演じている。それが過不足無くはまっているからには、なかなかの演技派と見ていいだろう。たんなるイケメン俳優では終わらない、そう、うまく年取ったらケビン・ベーコンのようになるんじゃないか。

おまけのお楽しみとしては、「デスパレートな妻たち」を見ていた人には、途中でよく知った顔が出てくる。マーク・モーゼスという名の俳優だが、一目見れば「ああ!」と声を上げるだろう。

物語そのものは、特にこれまでのウイルスパニックものと一線を画すような新機軸は見られず、終わり方も明るいものでない。まあ、最後の最後になって特効薬(ワクチン)発見!!みたいな、ハリウッドハッピーエンドは、かえって陳腐だろうから、それを避けたのは賢明か。

シナリオにだるさはないし、作りも役者も平均レベルには達しているから、退屈しのぎにはなる。クリス・パイン的イケメンが好きな人は楽しめるだろう。



評価:C+

A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドン
ト・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 長野パワースポットツアー(上高地~戸隠~善光寺)

8/25~27、青春18切符とバスを使って上記ツアーを挙行。
天気はおおむね曇りで穂高連峰は見えなかったが、関東地域は大雨だったので、まあ降られないだけラッキーだろう。

25日 
18切符で中央線を下る。最寄り駅から松本まで延々5時間。ほとんで眠って過ごした。
松本から松本電鉄で新島々へ。名前が変わってる。島々(しましま)という地名が近くにあるので、それが元だろうが、こんな内陸地でなぜ島々?

バスで上高地へ約1時間。大正池で下車。ムードのあるところだが、やはり穂高が見えるのと見えないのとでは歴然の差だろう。そこから梓川左岸の森の中を快適なウォーキング。河童橋を過ぎたら、時刻のせいもあろうが、途中のキャンプの学生たちを除けば誰とも会わなかった。その静けさを手にすると、河童橋までの観光地化は興ざめである。


長野パワースポットツアー2012夏 001


18時に明神館に到着。森の中の一軒屋。一番安い相部屋だが、寝台車風に2段ベッドが通路をはさんで左右3つずつ、計12床。各ベッドにはカーテンがついているのでプライバシーは一応保たれている。山小屋によくあるように、自分の寝るスペースを確保するのに苦労なんてことはない。
なぜか来る途中にも宿にも韓国人が多かった。

26日 
明神館に泊まる良さは、朝早く明神池に行くのに便利なこと。6時起床、明神橋を渡り対岸へ。
明神池は穂高神社のご神域。祀ってあるのは穂高見命(ほたかのみこと)、北アルプスの守り神である。水面に漂う霧が幻想的であった。

長野パワースポットツアー2012夏 004


帰りの明神橋では猿の軍団に遭遇。人が近づいても逃げない。橋の欄干を走ったり、川の中をじゃぶじゃぶ歩いたり、お互いに毛づくろいしたり、と見ていて飽きない。
朝食後に宿を出て、梓川右岸を戻る。早起きの泊り客たちとすれ違う。
途中、非常に「気」のあふれる場所があった。梓川に下る清流が木々の間をほとばしるように走る。体の中まで、細胞のすみずみまで、洗われる心地した。


長野パワースポットツアー2012夏 008


11時40分のバスで松本に戻る。そこから長野まで篠ノ井線で1時間。長野県は名前のとおり長い。
途中「姨捨(おばすて)」という恐い名前の駅があった。姨捨伝説も興味深いが、それ以外にもこの駅は面白い。以下ウィキ「姨捨駅」からの抜粋。

標高551mの山の中腹に位置し、全国でも数少ないスイッチバック方式を擁する駅である。当駅のホームから見下ろす善光寺平は絶景として知られ、根室本線の狩勝峠(現在はルート変更により廃止)、肥薩線の矢岳駅と共に日本三大車窓の1つに数えられる。姨捨地区からの景観は上高地や天竜峡、寝覚の床、光前寺庭園と並び長野県下にある国指定の名勝5ヶ所のうちの一つでもある。

日本経済新聞社の2007年アンケート「足を延ばして訪れて見たい駅」の全国第2位にランクされた(1位は北九州市門司港駅、3位が霧島市嘉例川駅で東京駅は4位であった)。

長野パワースポットツアー2012夏 033



長野駅着。周辺でおやきを買って、戸隠行きのバスに乗る。善光寺の裏手からくねくね山を登って人里離れていく。小学生の一団が乗車。騒がしいことこの上ない。おおむね飯綱湖あたりで降りていったが、毎日ここから長野市内に通っているとは感心。

戸隠神社
肌もあらわな戸隠山こそ、天から落ちてきた天の岩戸の扉。神様方はまさに巨人である。この神話は、手塚治虫の「火の鳥」にも描かれている。もっとも、隠れたのは天照大神でなくて卑弥呼になっているが。

長野パワースポットツアー2012夏 016

長野パワースポットツアー2012夏 014

5社祭神
奥社・・・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)。スサノオの命の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった。
中社・・・天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)。岩戸神楽(太々神楽)を創案、岩戸を開くアイデアを出した。
宝光山・・・天表春命(あめのうわはるのみこと)。中社祭神の御子神様。
火の御子社・・・天鈿女命(あめのうずめのみこと)。岩戸の前で舞いをして、天照大神を引っ張り出 すきっかけをつくった。
九頭龍社・・・九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)。元からこの土地を守っていた神様。水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結の神。

宝光社から火の御子社を回って、中社の宿まで歩く。
宿は高山坊。古くからの宿坊である。ここの主人はとても親切な人だった。朝は宿から奥社の入口まで車で送っていただき、行列のできる蕎麦やの予約を取ってくれた。それもそのはず、この方は戸隠神社の神主で、この部落の重鎮らしかった。
「翌日の昼前に中社でお神楽が見られますよ」と勧めてくれたので見に行ったら、楽団の一人として涼しげな直衣姿で横笛を吹いておられた。それが滅法上手い。

長野パワースポットツアー2012夏 022


27日
朝6時に奥社に。
整然と続く杉並木のすがすがしい参道を小一時間歩く。さすがに「気」が違う。
上高地で浴びた「気」が丸く人を包むものとしたら、戸隠の「気」は天から地へと、地から天へと、垂直に人を貫き、震わせる。ビンビン来る。 あるスピリチュアリストによると「戸隠のパワーは人の戸を開ける。つまり、閉ざされた自己を開放させる」という。なんとなくそれが頷けるようなパワーのみなぎりである。この感覚は、オーケストラと共にコンサートホールで第九を歌った後の感覚に近いかも。

長野パワースポットツアー2012夏 013


参拝した後は、神域の森の中をウォーキング。 戸隠の鎮守は水の神だけあって、森のところどころに池がある。それがどれも静かで美しいたたずまいを見せていて、ほとりでゆっくり時を過ごせる。鏡池には湖面にもやが立ち込めていたが、その向こうからあの世の人が現れ出てくるんじゃないかと思うような、幻惑的な雰囲気であった。
宿に戻って朝ごはん。チェックアウトして中社に。

ここの「気」もすばらしい。力強い、熱い「気」がある。とりわけ、拝殿の右の滝のあたりは、清冽な気が満ちていて、立っているだけで身も心も洗われる。

11時過ぎからのお神楽を見学。天岩戸の物語を舞い演じる。
面白いのは、岩戸に模した絵の前で男たちがお囃子に合わせて一通り舞ったあと、最後に出てきたのは小学生くらいの少女4人。つまり、彼女らがアメノウズメノミコト役。村の子どもたちだろう。普段から練習しているのであろう。扇の扱いや袖のさばきなど、なかなかどうして様になっていた。
戸隠神社はもともと女人禁制であった。お神楽も男性だけかと思っていたので意表を付かれた。もっとも、お神楽のそもそもの起こりはこの天の岩戸の物語にあり、主役の天照大神だって、功労者のアメノウズメノミコトだって女性なのだから、女性を讃美してこそ、忌避するのはおかしい。
ただ、今思うと、少女だから(生娘だから)許されるのかもしれない。

中社前にある「うずらや」で戸隠そばを食べる。前夜からわさびせんべいを食べすぎて鼻がおかしくなったのか蕎麦の香りが感じられなかった。

昼過ぎのバスで長野市街に戻る。善光寺を裏から入って本堂へ。人がたくさん。戒壇めぐりも20分待ちとかでやる気をなくす。戸隠の神々しい清浄さとくらべると、善光寺はあまりに俗化され雑然としていて、興ざめであった。パワースポットという点では、善光寺はものの数に入らないだろう。 読経だけして早々に退散する。

長野駅から最後の(5回目の)18切符で帰路に着いた。

今回の旅では、なんといっても戸隠が良かった。地元の人が戸隠の森と伝統を守ろうとする心が感じられた。パワースポットブーム、加えて吉永小百合のJRのコマーシャル(杉の木に耳を押し当てるおばさん)の影響で観光客が押し寄せているらしいが、このまま今の「気」を失わないでいてほしいものである。
 
長野パワースポットツアー2012夏 003




 
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