ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● ミッドウェー再び 本:『日本人と「日本病」について』(岸田秀×山本七平対談、文春文庫)

日本人と「日本病」 唯幻論を説く精神分析学者・岸田秀と従軍経験のある歴史学者・山本七平との対談。
 1980年に刊行しているから、すでに30年以上の歳月が過ぎている。この間に日本にはいろいろなことがあった。個人が起こした事件は除いて、すぐに思いつくものを挙げるだけでも、


 日本航空123便墜落事故(1985)
 リクルート事件(1988)
 大喪の礼(昭和天皇の逝去)(1989)
 バブル景気とその崩壊(87~91年)
 PKO協力法の成立(1992)
 阪神・淡路大震災(1995)
 オウム真理教(1995)
 薬害エイズ裁判(1997)
 自衛隊イラク派遣(2003)
 政権交代(自民党から民主党へ)(2010)
 東日本大震災・津波・福島原発事故(2011)


 こういった日本全体を巻き込み、日本人のほとんど全員に影響を及ぼしたような大事件をその因果関係やその当時の風景(世論、人々のふるまい、空気、対処の仕方など)と共にふりかえってみると、やはりそこには日本人が持っている国民性が共通して浮かび上がってくることに気づく。
 そしてそれは、ここ30年に限らず戦後を通して、いや戦前・戦中も維持されてきたものであり、遡れば文明開化や江戸時代のペリーの来航にまで、さらに遡れば中世、古代、弥生・縄文時代まで源をたどることができる。それでこその国民性である。
 その国民性が吉と出るか凶と出るかは、日本の場合、多くは外国との関係によって決まってくる傾向にある。鎖国が可能な極東の島国、という条件がこの国民性を滋養した一つの大きな要因であるが、それは同時に、外国との折衝を持たず一国のみですべてがマネジメントできている間ならばこの国民性はうまく働くということである。
 しかし、ペリー来航以降に見るように、外国(近代欧米国家)との「取るか取られるか」の弱肉強食の猟場に引きずり込まれると、この国民性は不利に働く。
 そこで、明治政府は温州みかんにレモンを接ぎ木するが如く、日本の国民性の上に無理やり近代西欧的な価値観やスタイルを接合させた。あるいは、中国の纏足のように、近代西欧文化という枠組みに日本人を合わせようとした。

 精神分析の徒である岸田によれば、この無理強いこそが、日本人を精神分裂病に招き、バンザイ突撃やカミカゼ信仰に象徴されるような太平洋戦争時の奇矯なふるまいや、先にあげたような重大事件に際してはからずも露呈するような、近代国家の視点からすると「不可思議きわまりない」日本国家及び日本人のふるまいの原因となっている。むろんそれは、今も続いている。

 欧米諸国が内的な必然性を持って、すなわち「内側から」自発的に、近代国家への道を歩んでいったのにくらべ、日本は何ら内的必然性を持たないままに、「外側から」無理やり近代国家に仕立て上げられていったところに悲劇があった。たとえは悪いが、性欲の自然な高まりと異性への関心の増加によって最初の性交に至るのと、性欲もまだ湧かず異性への関心もまだないのに無理やりレイプされてしまったのとの違いであろうか。
 可哀相な我が日本よ・・・。


 だが、もし黒船が来なかったら、開国要求や植民地にされる危機がなかったのなら、日本人は太平の江戸時代の末に近代欧米化への道を自発的に歩んだのであろうか?


 おそらく、違ったであろう。
 なぜならば、前近代の欧米諸国とペリー以前の日本とでは、まったく精神構造が違っていたからである。
 この彼我の違いを岸田と山本七平が述べている部分を適当にピックアップすると、


山本 日本人の社会には神がいないんですね。人間と人間とがいて、お互いの間で相手の立場に立って話し合うわけです。


山本 日本の社会では話し合いさえつけば、ほかのことはどうでもいいのであって、いわば無原則ですよね。ところが彼ら(ソルティ注:イスラム、欧米)は神との間の契約があるから原則だらけで、きわめてうるさい。たとえ個人と個人の間で約束しても、それが神との契約に反していたら、人との約束を破棄しても当然です。

岸田 日本では原則がないというのが原則なんです。


岸田 ・・・日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っているわけですね。


岸田 向こうの(ソルティ注:欧米の)社会とか集団とかはみんなそうですね。家族という血のつながりを断ち切った者たちが、全然別の明確な原理にもとづいて別のレベルで新たな集団を形成するんですね。


山本 日本では何かの集団が機能すれば、それは「共同体」になってしまう。それを擬制の血縁集団のようにして統制するということじゃないでしょうか。


岸田 ヨーロッパ人の自我は神に支えられ、日本人の自我は人間関係に支えられているという違いがあるわけですが、ここが違っているのですから、当然、何が自我の崩壊の不安を呼び起こし、何が恐ろしいかということが、ヨーロッパ人と日本人とでは違っているわけです。ヨーロッパ人にとって恐ろしいことは、神との契約、神の戒律に背いて神の怒りを買うことですが、日本人にとって恐ろしいことは、人々に迷惑をかけ、人々から非難され、見捨てられることです。


  これらをまとめてみると、次のようになる。

           日本                       欧米
 個を超越する  人と人との関係(和)       神
 組織の在り方  擬制血縁による共同体      機能集団(分担と役割)
 関係の基本   話し合い(その場の空気)    契約
 人を縛る     世間の目              法
 原則は      ない                 ある  
 近代的自我   脆弱                 強い

 これでは同じ土俵に上がっても勝負にならない。組織のあり方ひとつ見ても、近代兵器を使った戦争に勝てるはずがない。太平洋戦争で日本は惨敗するが、その原因として岸田も山本も日本とアメリカの戦力の差、物量の差以外のものを指摘する。

岸田 日本軍とヨーロッパやアメリカの軍隊との大きな違いがそこにありますね。日本では、軍隊というのも共同体になるから、共同体の秩序原理が働いて合理的な作戦がとれなかったということがありますね。

岸田 ・・・日本軍は陸海軍とも補給という現実のレベルのことに重きをおいていなかったんですね。日本軍は、現実のレベルではなく、主観的な気分のレベルで戦争をやっていたとしか言いようがない。勇気というものを自己目的化して、退却や降伏に拒絶反応をしたのも、気分のレベルで戦っていたからですね。


岸田 なぜ(日本の戦術は)戦略思想どおりに展開しなかったんでしょうか。
山本 それは確固たる思想がなかったということと、やっぱり日本は共同体ができてしまうんです。大鑑巨砲屋、水雷屋、飛行機屋とそれぞれコミュニティをつくって、自分の存在を主張するもんだから、それぞれバランスをとらねばならず、それで結局、どうにもならなくなった。・・・大体において、確固たる見通しに立って、将来はこうなるんだからこうすべきだという発想がないんだから。(下線ソルティ)
 

 最後の一文は、まさに日本の国民性の最大の欠陥=「日本病」を衝いている。日本には政策というものがない。戦後の日本の政府がやってきたのは、起こってしまった事件に対して不器用に事後処理するだけである。いまの福島原発事故を見るがいい。
 そして、いま50年後、100年後の日本のエネルギー問題について真剣に考えていかなければならないのに、いまだに原状復帰を目指しているありさまだ。
 おそらく福島原発事故は、太平洋戦争でいえばミッドウェーで大敗を喫したのにあたるだろう。日本の敗北がほぼ確定した時点(1942年)である。このときに降伏していれば、その後の本土決戦や沖縄戦、広島・長崎原爆被害を含む何百万という命は失われなかった。日本が侵略したアジア諸国の何千万人にいたっては言うまでもない。しかし、軍部はすでに冷静な判断を失っていた。否、もとから冷静な判断があれば開戦に踏み切らなかったであろう。このあたりは猪瀬直樹に詳しい。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4699834.html
 原発をなおも遮二無二、推進しようとする政財界の動きは、まるで自滅へと突っ走った太平洋戦争時の軍部のようである。過去のトラウマを無意識に強迫的に再現しているのだろうか。

 このような「日本病」をどう治療していくかという点に対談は及ぶ。
 マッカーサーが「日本人の精神構造は12歳」と言ったのを引き合いに出して、岸田はこう述べる。

 もし日本人がまだ子供であるとして、これから精神発達をとげて大人になってゆくとすれば、そのときの大人というものの基準は、欧米の大人の基準とは違った、日本人独自の基準でなければならないと思いますよ。子供から大人になるといったって、日本人を動かしている原理や行動規範の内容が変わるわけではありません。・・・・
 大人と子供の違いは、自分の行動規範をどれほど自覚し、相対化しているか、その通用する限界をどれだけ知っているかにある。たとえば欧米人が自分の行動規範を普遍的だと思いこみ、これが日本人にも通用するときめてかかっているとすれば、その点で彼は幼児的なわけです。これから日本人は、さまざまな外国人の行動規範との関係において、自分の行動規範の違い、相対性、限界を知り、従来のように無意識的にそれに引きずられて何かをやらかしてしまうのではなく、自覚的に自分の行動規範に基づいて行動できるよう、努力すべきではないでしょうか。日本人は日本文化の行動規範によってしか行動できないんですから。それが日本人として大人へ成長するということだと思うんですよ。 

 30年前の対談とは思えない。


● 悟りはどこにある? 本:『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)

奇跡の脳 脳卒中によって左脳の機能の多くを失ったアメリカ在住のエリート神経解剖学者の体験記である。単なる闘病記と異なるのは、彼女が脳に関するプロフェッショナルな研究者であるがゆえ、自分の身に起こっていることを科学者の目で観察し、分析し、推論し、表現できる能力に恵まれていること、そのため一人の患者の体験談を超えて、人間の脳の機能を知る上での興味深いケースとなっている点である。
 母親との二人三脚による賢明にして懸命なリハビリの模様や、周囲からのあたたかいサポートを受けて社会復帰するまでの軌跡も感動的ではあるけれど、何より興味深いのは、左脳の機能を失ったときに彼女に起こった現象そのもの、そして回復の途上で左脳が復活する時に彼女に起こった現象そのものである。


 ある朝、目が覚めると同時に、著者は左目の裏から脳を突き刺すような激しい痛みを感じ、異変に気づく。

(何が起きてるの?)
 わたしは自問します。
(これと似たようなことを体験したことって、あった? こんなふうにかんじたことって、今までにあった? これって偏頭痛みたいな感じ。あたまのなかで、何が起きているの?)
 
 集中しようとすればするほど、どんどん考えが逃げていくかのようです。答えと情報を見つける代わりに、わたしは込み上げる平和の感覚に満たされていきました。わたしを人生の細部に結びつけていた、いつものおしゃべりの代わりに、あたり一面の平穏な幸福感に包まれているような感じ。・・・・・・・
 左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。

 驚くべきことに、左脳の制御から解かれて右脳中心で世界と関わることによって、悟りの境地に達したのである。 

 わたしは生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構築物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。自分が、たった一個の「分子の天才」と形容できる知性から始まり、細胞群が群がる生命の集合体になったことを、誇りに思いました。・・・・そして痴呆状態の知恵により、自分のからだの生物学的な設計のすばらしさからして、それが貴重で壊れやすい贈り物であることを悟ったのです。このからだは、わたしという名のエネルギーが三次元の外部の空間に広がってゆく扉なのです。

 このような不思議な体験を理解するには、右脳と左脳の違いを知る必要がある。脳の専門家である著者が同書の中で説明しているところを大ざっぱにまとめると、次のようになる。


左脳の働き
○ 時間の概念を司る。過去、現在、未来を作り出す。
○ 細部にこだわる。あらゆるものを分類し、比較し、組織化し、記述し、判断し、批判的に分析する。
○ 迅速に大量の情報を処理する。
○ 言葉を司る。定義し、分類し、伝える。
○ 入ってくる刺激に対してパターン化された反応をみせる(パターン認知)。思考パターンのループをつくる。
○ 境界をつくる。
○ 「わたし(アイデンティティ、自我)」を造る。絶え間なくおしゃべりすることで、人生の細部を何度も反芻する。
○ 「物語」をつくる。最小限の情報に基づいて外の世界を理解しようとする。
○ 道を踏みはずさず具体的に行動できる。
○ 完全主義者
○ 「正しいor間違っている」「良いor悪い」で判断する。
○ 財務や経済を重視

右脳の働き
○ 瞬間ごとに周囲の空間を把握し、空間との関係を築く。
○ 現在の瞬間以外の時間を持たない。「いま、ここ」の意識。
○ あらゆることが相対的なつながりの中にある。境界をつくらない。
○ 自発的、気まま、想像的、芸術的、自由奔放、好奇心旺盛
○ 他人に共感する、感情移入する、人類みな兄弟
○ 言葉のないコミュニケーションが得意
○ 変化に対して柔軟に対応できる。
○ 楽天的、社交的、直観的
○ ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認める
○ あらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい
○ 深い安らぎと平和の感覚
○ 人間性を重視
 
 こうやってまとめていると、左脳はずいぶんと頑なでつまらないヤツという感じがする。右脳は子供っぽく、左脳は大人っぽいという気もする。人間はもともと右脳優位だったものが、成長するにつれて左脳優位に変わってゆくのだろうか。

 左脳を損傷した著者は、上記の左脳の働きのほとんどを失ったのである。
 身体上の障害はもちろんのこと(通常左脳が傷つくと右麻痺が起こる)、言葉も理解できなければ喋ることもできない。数字も理解できない。「合衆国の大統領は誰か?」「1+1は?」に答えることができない。三次元でものを見る(奥行きの概念を持つ)ことができず、色も見えない。赤ちゃんに戻ったような感じだろうか。このあたりの記述は、坪倉優介著『記憶喪失になったぼくが見た世界』(朝日文庫)を思い起こさせる。(→ブログ記事http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5192951.html

 著者は、手術とリハビリによる回復への道を選択するのだが、もっとも困難だったことは、「回復する」という意志を持ち続けることであった。いったん、悟りの境地を味わった者がそこから抜けるのは容易なことではなかろう。左脳を回復させるとは、ある種の楽園喪失なのである。

 左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静かな場所にたどり着いたの?」へ変える必要がありました。
 この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

 このような洞察を周囲に伝えようという使命を持って回復への道を一歩一歩たどり始めた著者は、左脳が甦っていくのに連れて、待ちかまえていたように待っていた古い馴染み深い「自我」と遭遇する。

 何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。・・・・・・
 回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。 


 左脳が持っている言語中枢と物語作家としての機能がもたらすマイナス面の最たるものとして、彼女は「マイナスの思考パターンにつながろうとする」ことをあげている。
 これは頷ける見解である。
 自分の思考を、それにのめり込まないで客観的に観察し続けていると、連想ゲームのように一つの事柄から別の事柄へと思考がとりとめもなく移っていき、多くの場合、怒りか欲望かのループにはまることが分かる。意識していないと、思考は手垢のついたソフトを勝手にダウンロードし始め、負のプログラムを起動してしまうのである。それが生化学的な反応を体内に呼び起こし、行動に結びついてしまったら、もう後には引けない。というか、たいていの我々の行動はこの通りに進む。これが、我々の『条件付けられた生』のOS(オペレーションシステム)なのだ。
 このOSは、遺伝的な(先天的)モジュールと成育環境によって作られた(後天的な)モジュールとの組み合わせでできている。OSが幸福な明るいものであれば一般に幸福な明るい人生になるだろうし、不幸な暗いものであればそのような人生になるであろう。OSの上にいかに優れた機能満載のソフトを載せようが、OSに不備がある以上、結局はどこかで狂いが生じてくる。
 この不毛なループから脱出するためには、まずこの構造自体に気づき、OSの不備を認めること。そして、余分なアプリケーションソフトをはずし、OSのプログラムを調べ、バグを取り除き、誤ったコマンドを削除し、正しいコマンドに書き換えねばならない。
 だが、一番重要なのは、「気づくこと」である。

 冷静な第三者の目で脳の話を聞くためには、それなりの訓練と忍耐が必要になるでしょう。しかしいったん、そのことに気づいてしまえば、あなたは、物語作家が捏造する厄介なドラマやトラウマを自由に超えて行かれるようになるのです。

 脳卒中の前まで、自分なんて、脳につくられた「結果」にすぎないんだと考えていました。だから、押し寄せる感情にどう反応するかに口出しできるなんて、思ってもみなかったのです。頭では、認知的な思考を監視し、変えることができることには気づいていました。でも、感情をどう「感じる」かに口を挟めるなんて、まったく思いもよらなかったのです。


 著者は、左脳の絶え間ないおしゃべり、人を不幸に導きかねない思考のループを切断し、幸福感の源泉たる右脳にアクセスするための方法をいろいろ伝授している。
 それらのほとんどは、面白いことに、仏教における瞑想の極意と重なる。
 瞑想とは、左脳のおしゃべり(=思考)をストップさせる訓練なのかもしれない。

 おそらく、悟った人々は、いつも右脳中心で生き、必要な時にだけ必要な程度、左脳を働かせることができるのであろう。




● アメリカ映画とはなにか?  映画:『非情の罠』(スタンリー・キューブリック監督)

 1960年アメリカ。

 巨匠キューブリックの2作目の長編映画。
 まず、完成度の高さに驚く。とても新人監督によるものとは思われない大胆な省略法がそこかしこに見られる。
 一例を挙げると、デイビー(ジャミー・スミス)が知り合ったばかりのビンセント(フランク・シルヴェラ)に自らの過去を打ち明けるシーン。デイビーが父親と姉とにまつわる悲しい物語を語っている最中、画面に映るのはバレリーナであったデイビーの姉が客席の見えない暗い舞台で一人踊る姿ばかり。過去の物語の回想シーンを流すのでもなく、語っているデイビーの切なげな表情や聞いているビンセントが次第にデイビーに惹かれていく表情を映すのでもなく、二人がいる部屋の中や街路を映すのでもない。二人の主人公が惹かれあっていくという、ストーリー的にはもっとも重要な「おいしい」シーンをわざとはずしてしまう大胆さと通俗を嫌う作家性がすでに発揮されている。

 キューブリックはアメリカ生まれ。この映画はアメリカで作られて、舞台はシカゴ。落ち目のボクサーとギャングに囲われた美女との恋愛と救出をめぐっての派手なアクション、といったいかにもアメリカ風のストーリーである。なのに、なぜだかアメリカ映画っぽい感じがしない。
 この映画に限らず、キューブリックの作品はどれをとってもアメリカ映画っぽくない。『ロリータ』(1962年)以降はイギリスに移住しイギリスでの制作となったから、アメリカ映画っぽくないのも当然と思われるが、この作品を見て分かるように、実際にはアメリカで撮っている時分からすでにアメリカ映画っぽくないのだ。
 なぜだろう?
 永年の疑問であった。

 では、いったいアメリカ映画っぽさとは何を指すのだろう。
 自分の中のアメリカ映画のイメージを作り上げているものはなにか。


 チャップリン、ジョン・フォードを筆頭とする西部劇、オーソン・ウェルズ、ヒッチコック、ミュージカル、スペクタクル映画、マイホーム至上主義、コッポラ、スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、スーパーマンからブルース・ウィリスに至る一連のヒーローたち・・・。


 これらの共通項は何かといえば、「娯楽」と「善に対する信頼」である。
 商業主義であるが故になにより大衆に受けることを優先とする。制作者の視線は大衆をこそ向いていなければならない。ジョークにさえなっている「全米」大ヒットなどという文句はまさにそれを裏付けている。
 そして、全米=大衆が望むものは常に「善」の勝利なのである。たとえ、映画の最後で善が負けるときでも、それは物語全体が悲劇か不条理劇かの体をなしていなければ許されないのである。
 おそらく、アメリカ人の感性にとって、もっとも耐えられない日本の物語は永井豪の『デビルマン』であろう。そこでは、善を代表するデビルマンこと不動明が、悲劇でもなく不条理劇でもなく、サタンの化身である飛鳥了に打ち負かされていく。(その上に飛鳥了は同性愛的感情を不動明に抱いているのだ!)

 キューブリックの作品は、この「娯楽」と「善への信頼」という二つを欠いている。

 もちろん、『非情の罠』にしろ、『シャイニング』や『2001年宇宙の旅』にしろ、観る者を飽きさせない語りのテクニックはふんだんにある。面白くないわけがない。
 しかし、キューブリックの視線は大衆に向いているというより、過去の偉大な監督たち、あるいは同時代のライバルと目される監督たちに向いているような気がする。つまり、プロのための映画という感じが強い。
 愛されることより評価されることを望んでいたのかもしれない。
 そして、「善への信頼」。これは『フルメタル・ジャケット』や『博士の異常な愛情』を持ち出すまでもなく、キューブリックには皆無といっていい。一説によると、キューブリックは無神論者であったとか・・・。


 キューブリックが最も敬愛する作家はチャップリンだったという。チャップリンこそは「娯楽」と「善への信頼」の最大信奉者にして表現者であったことを思うと、これは面白い矛盾だなあと思う。撮影技術や演出上のテクニックは別にして、キューブリックの作品のどこをどう探したらチャップリン的なものが見られるのだろう?
 自分にはないものだからこそ愛していたのだろうか?

 チャップリンはユダヤ人であった。
 キューブリックの両親もユダヤ人であった。
 キューブリック自身は無神論者であった。つまり、ユダヤ人ではない
 興味深いことである。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『ミザリー』(ロブ・ライナー監督) 

 1990年アメリカ。

 『黒蜥蜴』と言えば、原作者の江戸川乱歩でもなく、戯曲化した三島由起夫でもなく、何十年と主役を演じ続けている美輪明宏の名前が出てくる。今となってはまるで美輪明宏のために書かれた小説、美輪明宏のために翻案化された芝居という感がある。
 実際、大胆不敵で知略に富み、「美」を何よりも愛する美貌の女賊は、メディアの中の美輪明宏のイメージそのものなので(美輪は「組合員」であっても「賊」ではないが)、乱歩も三島ももとから美輪本人をモデルにしたのではないかと思うくらい、役と演者が一体化している。
 取材の中で話していたが、美輪はこの黒蜥蜴=緑川夫人について、その完全な過去を詳細に述べられるという。どこで生まれ、どんな育ちで、初恋がいつで、処女を失ったのがいつで、そのときの相手はだれで、最初に犯罪に手を染めたのがいつで・・・・という事細かな履歴が頭の中に入っているのだそうである。
 まぎれもなく、美輪の黒蜥蜴にリアリティをもたらしているのは、この役中人物の背景に対する徹底的な理解と共感であろう。


 役者が映画あるいは舞台で一人の人物(人格)を演じることになった際に必要とする情報量は、もしその人物を血の通った生きたリアルな存在として観る者に感じさせようと意図するのならば、相当なものになるであろう。
 たいていの場合、原作となった小説や戯曲や脚本の中で書かれている情報は、ほんの一部に過ぎない。そこから演者が想像し、自らの体験やいろいろな見聞を重ね合わせ、人物像をふくらましてキャラクターを作り上げていく、すなわち「役作り」するわけである。
 こうしたことは、もちろん、演劇の始まった当初から役者達にとって、当たり前に行われていたことであろう。
 けれど、時代を追うごとに、大衆の人間理解が深まり、人格形成に関する学問上(主として精神分析学や心理学)の知見も高まり、大衆が「過去のトラウマ」なり「虐待の連鎖」なりという概念を知ってしまった現代ほど、スクリーンや舞台上の人物像のリアリティに対する目が厳しくなっている時代はないと言ってよいであろう。
 このような性格を持ち、このような場面でこのような表情でこのような振る舞いをし、このような科白をこのような調子で口にするのは、この人物がこういった過去を持ち、こういった体験を重ね、こういった感情のプールを持っているからです、と観る者に納得させなければならない。そういう説得力のある演技をしなければならない。
 おそらく、シェークスピアの生きた時代に「ハムレット」をどれほど巧みに演じ、どれほど多くの喝采を浴びた一流役者でさえも、現代の真面目で真剣なハムレット役者ほどには、ハムレットの成育歴について想像を巡らせていないであろう。
 フロイトやユングが出現し、大衆が心の問題について学んでしまってからというもの、とくに幼少時の成育環境がいかに性格形成に影響を及ぼし、大人になってからの本人の思考や行動を規定するかということを、世上を騒がす犯罪事件における容疑者の動機を推定するマスコミの文脈で馴染みのものとなってしまってからというもの、大衆は犯行の背景に隠された容疑者のトラウマを思いやるのがクセとなったのである。ハムレットの優柔不断な言動にも、なんらかの幼少時の体験なり親子関係の不具合なりを想定しないでは済まなくなったのである。

 いまや、単なる極悪人、単なる殺人鬼が存在できなくなった。純粋な悪が成り立たなくなった。
 あの『羊たちの沈黙』のレクター博士でさえ、最終的には少年期に家族を惨殺されるという忌まわしい過去を持たされずにはいなかった。あまりに早熟で鋭敏な神経を持つ少年が、凄まじい過去の体験を経たがゆえの、「ハンニバル・レクター」誕生というわけだ。


 この『ミザリー』も同様である。
 なんと言っても、オスカーに輝いたキャシー・ベイツの迫真の演技が観る者を始終圧倒する。原作は未読であるが、小説の中に出てくるアニー・ウィルクス以上の怖さ、不気味さ、リアリティを生み出しているのは間違いない。看護婦かつ殺人鬼のアニーの演技があまりに真に迫っているので、捕らわれた小説家かつ病人であるポール・シュナイダー(ジェームズ・カーン)の恐怖に怯える演技がなんだか演技に見えず、本当にキャシーそのものを怖がっているかに見えるほどだ。

 DVDの特典映像の中で、キャシー・ベイツはこんなことを語っている。
 「私と監督のロブとは、アニーのゆがんだ性格は少女の頃に父親から性的虐待を受けたためという見解をもっていた。」


 そのような悲惨な過去、思い出したくないがゆえに、思い出せないがゆえに、抑圧しているがゆえに、成人してからコントロールできない突発的な怒りに襲われて犯罪を呼びいけてしまう忌まわしい過去を持つキャシー。
 おそらく、原作ではこのようなキャシーの過去は書かれていないだろう。(性的虐待はスティーブン・キングが取り上げそうにないエピソードなので。)
 アニーを単なる精神異常者や熱狂的なストーカーや生まれついての邪悪な魂という紋切り型あるいは「怪物」から救い上げて、恐いけれどもどこか哀れな女性という印象を観る者に抱かせるのは、まさにこうしたキャラクターの掘り下げと理解、それを表情や体の動きやセリフや口調を通して観る者にわかりやすい形で変換できる演技力の賜なのである。

 「雨が嫌い」とアニーが不安げに辛そうな表情で窓の外を眺める時、彼女が聴いているのは、おそらく少女の頃に最初に父親にレイプされた晩の屋根を打つ雨の音なのだ。そんなふうに感じさせるほど、キャシー・ベイツの演技は見事である。単なるホラー映画が、虐待というトラウマを背負った女性の顛末を描いた悲劇に変わる。
 これは原作を超えた離れ業である。

 スティーブン・キングの映画化された作品の中では、『シャイニング』(キューブリック監督)のジャック・ニコルソンと並ぶ怪演であるのは間違いない。




評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 官僚達のメルトダウン 本:『プロメテウスの罠』(朝日新聞特別報道部編、学研)

プロメテウスの罠 副題は「明かされなかった福島原発事故の真実」。
 朝日新聞に2011年10月3日から2012年2月6日まで連載された記事をまとめたものである。
 6部構成になっており、原発の近くに住みながら正確な情報を知らされず疑心暗鬼のまま逃げ惑う被災者たち、「余計な動きをするな」と釘を刺さんばかりの国の研究機関を辞職して現地に飛び込んだ研究者、放射線の拡大範囲を示すSPEEDI(放射能影響予測システム)のデータを官邸に報告しなかった原子力安全・保安院、自身広島で被爆し内部被爆の危険について訴える医師、チェルノブイリの子供たちの被爆調査をしたため当局に別件逮捕された学長、外部に飛び散った放射線は東電の所有物ではないと裁判で主張する東電、そして地震発生後5日間の管首相を中心とする官邸のあたふたぶり。
 様々な視点、様々な角度から、未曾有の原発事故を検証する。
 とりわけ、最終章の「官邸の5日間」は、地震発生後、次々と誘発する福島原発のトラブルと後手後手に回る政府の対応が、緊迫感を持って描き出され、我々が投げ込まれていた一触即発の危機的状況に今更ながら背筋の凍る思いがする。
 いや、訂正しよう。我々が投げ込まれて「いる」危機的状況と。

 どのエピソードも衝撃的な事実ばかりなのだが、自分が驚きを通り越してあきれかえってしまったのは、第三章「観測中止令」である。

 原発事故発生後の3月31日、各地で異常な高さの放射能数値が報告されるさなか、気象庁の気象研究所に勤務する青山道夫に、放射能の観測中止令がメールで届けられた。
 気象庁の放射能観測は、アメリカのビキニ環礁での水爆実験(第5福竜丸被曝事件)があった1954年に始まった。世界で最も長い期間にわたるデータを有する環境放射能の観測システムである。国際的な評価も高い。
 それをなぜ、よりによって今、やめなければならないのか。

 命令の主は、気象庁本庁企画課であった。理由は、
 「文部科学省が予算を配分してくれない。」
 「福島原発事故に対応するため、関連の予算を整理すると文部科学省から通達があった。」

 確かに急を要する事態に経費が膨れ上がり予算を圧迫したのは確かだろう。
 しかし、放射能の観測は優先順位から言ってトップに来るべきものであることは素人でも分かる。予算額は4100万円に過ぎない。

 青山は、文部科学省に直接確認を入れる。すると、同省原子力安全課から返事があった。
 「気象庁から放射能調査研究費は必要ないとの回答をいただいています。」
 「予算を緊急の放射線モニタリングに回したいと、財務省が言ってきたのです。」

 いったい、だれが本当のことを言っているのだろうか。気象庁か文科省か。だれが予算の締結を決めたのか。文科省か財務省か。例によって責任の押し付け合いだ。

 いや、この際どっちでもいい。もっと上からの(原発村の政治家たち)命令であるかもしれない。
 問題は、文科省の官僚も、気象庁の官僚も、いま放射能観測をやめることになぜ唯々諾々と従ってしまうのかという点である。ここには自分の判断、知恵というものがない。
 「ちょっと待てよ。これで本当にいいのか?」と疑問を呈する者が、末端の青山に至るまで一人もいないとはどういうことだろう?
 判断せずに、政治家や上層部の言う通りに着実に業務をこなすことが自分たち官僚の役割と割り切っているのか。

 気象庁企画課の担当職員は言う。
 「放射能観測は気象庁本来の業務ではないですから、優先度は低いのです」

 国民の命や健康を守ることよりも、省庁間の業務の縄張りを守ることが優先であると言わんばかりの言いぐさ。これを倒錯と言わずになんと言おう。

 官僚諸氏は、確かにIQが高かろう。勉強も良くできたろう。作業効率も高かろう。東大出も多かろう。
 しかし、明らかになにか大切なものを欠いている。人間として大切な何かを。
 省庁に入所した時から欠いていたとは思えない。おそらく、非人間的な官僚システムと激務の中で摩滅していくのだろう。ライバルとの激烈な出世競争の中で失っていくのだろう。自分勝手でスタンドプレー好きな政治家達の右に左に揺れ動く言動に振り回されて疲弊していくのだろう。

 薬害エイズを起こした頃とちっとも変わっていない。
 いま救わなければならないのは、官僚たちのメルトダウンである。


● 茉莉子、みたび 映画:『秋津温泉』(吉田喜重監督)

 1962年松竹。


 原作は藤原審爾の同名小説。舞台のモデルとなったのは、岡山県津山の山間にある奥津温泉。風光明媚の静かな温泉地である。約30キロ離れたところに、横溝正史『八つ墓村』の冒頭シーンでなぞられた日本犯罪史上もっとも凄惨と言われる津山30人連続殺人(1938年)の現場がある。


 時代は戦後。
 主人公の周作(長門裕之)は結核病みのうだつのあがらない文士くずれで、女に心中を持ちかける太宰治のような優柔不断な男。死にかけたこの学生を助けたことから、生気溌剌たる旅館の娘・新子(岡田茉莉子)は、結ばれることない恋に煩悶し、あたら青春を無駄にし、山里に朽ちていく。10代から30代まで、一人の女の半生を適確に演じた岡田の巧さ、美しさに目を奪われる。

 憂鬱な文学青年である周作は、若き新子に心中をもちかける。新子は問いかける。
 「私のこと好き?」
 「ああ」
 「それなら一緒に死んであげる」
 二人の心中は失敗する。

 17年後、結婚せずに一人で守ってきた温泉旅館を手放し、若さと希望を失った新子は、妻帯して東京の出版社に勤める周作に心中を持ちかける。周作は言下に断る。
 「なにを馬鹿なこと言ってるんだ。」
 結果、新子は自分の腕を切り、一人で流れに身を晒す。

 これは、時を経て様相を変えていく男と女の関係を描いた「大人の」映画であるが、最後に浮かび上がるのは、男のずるさ、身勝手さである。その意味では、この作品以降の『水に書かれた物語』や『情念』などに続く吉田×岡田フェミニズムの密やかな出発点となっているのかもしれない。愛に身を捧げて老いた女が自由になる道は「死」しかない、そんな時代の不自由が、着物姿の岡田のきつく締めた帯に託されているようだ。

 マイナス点は音楽。
 林光という名だたる作曲家を起用したことが裏目に出てしまった。この音楽はうるさすぎる。自己主張しすぎて、物語の背景たることを忘れている。挿入の仕方もよくない。音楽がないほうがいいのに・・・と思うシーンが多々ある。
 あるいは、重厚悲壮な音楽を仰々しく挿入しないことには、岡田茉莉子という女優の発散する「生」のバイタリティが強すぎて、役柄の上でさえ自死を選ぶことの不自然さを覆い隠せないという深慮からだろうか。


 確かに、岡田は人を殺す役は似合っても、自殺する役は似合わない女優である。




評価: B-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『江戸川乱歩の陰獣』(加藤泰監督)

 1977年松竹。

 藤純子主演の傑作『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970年)はじめ、任侠映画で名高い加藤泰のフィルモグラフィの中で、この作品は毛色が変わっているといってよい。『陰獣』は、江戸川乱歩の数多い探偵小説の中でも、もっとも官能的で隠微で猟奇的な色合いの濃い作品である。
 しかし、ここでも加藤泰の独自のスタイルは十二分に発揮される。ギョッとするほどのローアングル。例えば、テーブルの下から、テーブルの背面をアップに大きくとらえながら、その左右にテーブルで語る人物の顔を配置する。現実では、このアングルでこの構図で人を見上げることがあり得るのは飼い猫くらいだろう。光と影と色彩の人工的でありながら生々しいタッチも健在である。
 加藤泰の奇抜なスタイルが、物語の変態性にうまくマッチしている。

 いくら水戸黄門で大衆的な人気を得ようが、『明日のジョー』で矢吹丈の声を演じようが、①ジャニーズ出身、②『犬神家の一族』のスケキヨ、③そしてこの作品、の3点セットによって、あおい輝彦の変態性は今後もぬぐい去られることはないだろう。


 それにしても、陰獣とはなんのことだろう?
 乱歩の造語だろうか?
 倒錯した性癖の持ち主を陰獣と言うのならば、世の中は陰獣ばかりだろうに・・・。



評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 


 
 

● ジュリアン・ムーアの顔 映画:『NEXT-ネクスト』(リー・タマホリ監督)

 2007年アメリカ。

 2分先の自分の未来が見える男(ニコラス・ケージ)が、核弾頭によるテロを阻止するためにFBI(ジュリアン・ムーアら)に協力する。
 サスペンス&アクションと言ってよいのだが、最後まで見るとサイキック&ラブファンタジーと訂正したくなるかもしれない。
 ニコラスもジュリアン・ムーアも達者な役者であるし、脚本も凝っているし、最初から最後まで楽しく観られる。悪くない。


 それにしても、ジュリアン・ムーアという女優は本当に出演作が多い。
 92年の『ゆりかごを揺らす手』からほぼ毎年のように映画に出演し続けている。一年に4本という年もある。いったいどうスケジュールをこなしているのだろう? いつ休んでいるのだろう? なんでこんなに立て続けに出るんだろう? 莫大な借金でもあるのか?

 しかも、『めぐりあう時間たち』(2002年)や『エデンより彼方に』(2002年)のような文芸調ドラマから、ジョディ・フォスターの代役で彼女を一躍有名にした『ハンニバル』(2001年)や『フォーガットン』(2004年)のようなスリラー、SF(『ブラインドネス』2008年)も、ホラー(『シェルター』2009年)も、コメディ(『ビッグ・リボウスキ』1998年)も、もちろんアクションもこなしている。
 どの作品においても失敗と言える演技、はまっていない役柄がない。
 これはすごいことである。

 彼女は美人ではない。
 特徴のある顔立ちだが、ジュディ・フォスターの代役として選ばれたことで分かるように、どっかの誰かに似ていると観る者に思わせてしまう、二番煎じの顔なのだ。自分は彼女を見ると、ジョディとマドンナとメルリ・ストリープをダブらせて(トリプらせて)しまう。

 あまりに次々と出演する器用貧乏さと、二番煎じの顔立ち。
 それが彼女にとってマイナスに働いているような気がする。
 さもなくば、とっくにオスカーを獲っている女優であろう。

 じっくり腰を落ち着けて、ヨーロッパ映画にでも出たら彼女の類い希なる名優ぶりが発揮されると思うのだが・・・・。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 


 
 

● 人生行路の半ばに・・・。 映画:『できごと』(ジョゼフ・ロージー監督)

 1967年イギリス映画。

 この作品は、一言でいえば、男の「中年クライシス」を描いたものである。
 中年期の二人の男、大学の哲学の教授であるスティーヴン(ダーク・ボガード)と、同僚で友人でもあるチャーリー(スタンリー・ベイカー)の揺れ動き、惑い悩む心情を、とても素晴らしくリアルに描いているので、逆に中年でも男性でもない鑑賞者にとっては、つまらない、よくわからない作品かもしれない。
 この作品がビンビンに胸に迫るあなた。あなたはまさしく中年男です。


 中年クライシスとは、海外ではミッドライフ・クライシス(midlife crisis)と言われる立派な(?)病気である。


 一般的には、この危機を経験するのは、30代から50代くらい。仕事においてそれなりの実績を上げ立場を築き、家庭においても平穏な暮らしを送っている。はたから見ればなんの不満もなさそうな状況にある人が、あるときふと、「自分の人生はこれでいいのだろうか」とか、「こんなふうに、敷かれたレールに乗った人生を送ることが幸せだと言えるのだろうか」とか、「自分は妻/夫を本当に愛しているのだろうか」とかいった疑問を抱き始める。
 (日経ビジネスオンライン http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100617/215000/

 日本ではバルブがはじけた90年代中頃から、マスコミに登場するようになった言葉であるけれど、そもそもは(例によって)カール・ユングあたりが指摘した概念であるらしく、欧米では60年代頃から社会問題として浮上してきたようである。(もっと起源をたどれば、ダンテだと思う。「人生行路の半ばで、気がつくと私は暗い森に足を踏み入れていた。」(『神曲』冒頭)
 67年当時の日本人が観てもチンプンカンプンだったであろうこの映画は、ある意味、まさにいまの日本においてタイムリーと言えよう。

 ジョゼフ・ロージーは、「常に待たれている作家」なのだ。

 大学教授として功成り名を遂げて、立派な家を持ち、美しい奥さんと可愛いこども達に恵まれて、端から見たらなんの不満も不足もなさそうな哲学の教授が、若く美しい女子学生の出現をきっかけに、ふと自らの人生の虚妄を覗き込み、突飛な行動を起こす。それが、「生きるとはなんぞや」なんてことを古今東西の賢者から学び尽くし、日常的に学生達に教えている哲学の教授であるところに、作り手の皮肉を感じる。

 ダーク・ボガードの演技は、あいかわらず深みがあり、観る者を最初から最後まで惹きつける。天性の役者だ。



 
評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
  

● 自己の正体 本:『ブッダの脳』(リック・ハンソン、リチャード・メンディウス著、草思社)

仏陀の脳 著者のリック・ハンソンは神経心理学者、リチャード・メンディウスは脳神経学者である。この科学者二人が本書で目指したのは、「満足感や親切心、心の平安などを生み出す神経回路をいかにすれば活性化できるかを、最新の脳科学の知見に基づいて明らかにし、実際の手法と一緒に提示すること」である。(イントロダクションより)
 すなわち、ブッダのような脳を持ち、ブッダのように安らいで幸福に生きるにはどうすればよいかを、科学的な知見をたよりに説明、披露している。

 内容的には、巷にあふれているスピリチュアル本とさして変わらない。
 「自分自身への思いやりは苦悩を和らげる」とか、「良いものを取り入れるのは大切なことだ。それは肯定的な感情を育み、あなたの心身の健康に多くの益をもたらす」とか、「あなたにとっての聖域やエネルギーを充電できる場所に、避難所を見出してもらいたい」とか、効果的なコミュニケーションのポイントとか、冥想の効用とか、この手のものを読みなれている人にとっては(自分だ!)、何も目新しいものはない。
 この書がそれらたくさんのスピリチュアル本と違うのは、上記のような言説の根拠として科学を持ち出しているところにある。

 あなたの心の中で起こることは一時的にも、永続的にもあなたの脳を変える。ともに発火する神経細胞はつながり合う。あなたの脳内で起こることは、あなたの心を変える。なぜなら、脳と心は一つの統合されたシステムだからだ。

 現代人は科学に弱い。統計数字やデータを持ち出されると、安易に信用する傾向がある。ダイエットや化粧品のCMを見ても、白衣を着た医学博士のお墨付きがいかに商品の効能に関する信頼性を視聴者に呼び起こすか分かろうものである。
 それだけに科学を悪用すると恐いことになる。公的機関の出す統計やグラフなどは、裏に何らかの魂胆が隠されていることがあるので(例えば、官僚達が天下りする先の法人をつくるためのありもしない問題のねつ造など)、気をつけて見ていかないとだまされる可能性がある。メディアリテラシーは市民の必須科目である。

 ま、しかし、宗教含めスピリチュアル的なものに対して、「うさんくさい」「あぶない」「女子供の暇つぶし」「偽善っぽい」「絵空事」etc.といったイメージを抱いている人間が、科学的な裏付けにより少しでも見方を変えることにつながるのであれば、結構なことである。
 そして、物理学にせよ、脳科学にせよ、心理学にせよ、最新の科学の指し示す方向が仏教に近接してきていることはどうやら間違いないようである。

 この本でもっとも興味深い部分は「自己」の存在基盤に関しての記述であった。

 要するに、神経学的な観点から言うと、統一された自己という日常的な感覚はまったくの幻想だということだ。一見、一貫して固定されているかに見える「わたし」は、実際には、発達する過程で、固定された中心をもたない下位システムやそのまた下位のシステムによって作られる。経験の主体が存在するという基本的な感覚は、無数のさまざまな主観的な経験の瞬間によって作り上げられるのだ。

 脳の中では、自己に関連する活動は統一されずに、妨げられ、混合される。それらは一時的で変わりやすく、持続しない。また、状況の変化に左右される。単に自己感覚があるから自己が存在するとは言えないのだ。実のところ、自己とは虚構の人格なのである。なぜそのような人格が必要なのかと言うと、ときに現実であるかのように振る舞うことが有益だからだ。したがって、必要な時にはどうか自己の役割を演じてもらいたい。ただし、世界とダイナミックに絡み合った一人の人間としてのあなたの方がどんな自己よりも生き生きとして興味深く、有能で非凡だということを忘れないでもらいたい。

 
 明らかに仏教の無常論、無我論である。
 このブログでも取り上げた前野隆司氏の著書『脳はなぜ心をつくったか』(参照→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html)でもほとんど同じ結論に達している。


 スピリチュアルの世界で良く言われる言葉がある。
 「自己がなければ、問題もない。」


 自己は問題を必要とする。問題に依存する。
 生き続けるために、ありもしない問題を立ち上げて、それから解決するための主体の存在意義を強調する。
 自己とは、天下り官僚みたいなものかもしれない。


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