ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 富士のお裾分け:倉見山(1256m、山梨県)

倉見山 1月14日に降った大雪(都会では)がまだ残っている可能性を考慮しながら、この時期に日帰りで登れる山を探す。冬は眺望がよいので富士山の見える山。できたら、未踏のところ。
 といった条件を設定し、数冊あるガイドブックをあれこれめくっている瞬間から、すでに山歩きは始まっている。心は山に行っている。

 倉見山は、富士急行線の3駅(東桂駅、三つ峠駅、寿駅)にまたがって線路とほぼ平行に、穏やかなたたずまいを見せて横たわっている。駅からスタートして駅をゴールにできるから、帰りのバスの時刻を気にしなくて良い。富士山との距離は約20キロ、間にはさむ山がない。
 つまり、杓子山や三ツ峠山や石割山と並んで最も富士山に近い山の一つである。眺望は推して知るべし。

倉見山 024●歩いた日  2月3日(日)

●天気    晴

●タイムスケジュール
 8:30 富士急行線・東桂駅
      歩行開始
 8:45 倉見山登山口
11:00 倉見山頂上
11:10 展望台
      昼食
12:00 下山開始
13:10 富士見台
13:40 下山(向原登山口)
14:00 富士急行線・寿駅
      歩行終了

●所要時間 5時間30分(歩行4時間+休憩1時間30分)

●歩数   18500歩


倉見山 001  東桂駅で下車した登山客は自分一人。今日も山独り占めか。
 駅舎は日当たりのいい場所に立つ可愛らしい小屋。日曜早朝ののどかな雰囲気に包まれている。駅前のベンチでは近所に住むらしい老人が朝日を浴びていた。自動販売機で買ったホットコーヒーを飲んで、いざ出発!

 倉見山登山口は長泉院というお寺の墓地の中にある。手を合わせ慈悲の瞑想をしてから敷地に足を踏み入れる。
 東桂からの登山路は山の北斜面にあたる。思った通り、雪がまだ解けずに残っていた。道は雪に埋もれているが、前に登った人の足跡がついているので、それを辿れば迷うことはない。雪に足をとられることもない。ただし、滑らないよう注意する必要がある。一歩一歩足の置き場を確認しながら、ゆっくりと登っていく。大雪後に最初に登った人は大変だったろう。どこが山道だか分からない状態で新雪を踏むのは勇気が要る。
 高度を上げるにつれ、汗ばんできた。途中でノースフェイスのレインウェアを脱ぐ。

     倉見山 003 

     倉見山 005

 
 自分はいつも50分歩いて10分の休憩を取る。このペースだと、疲れを感じる前に体を休め、息を整えることができる。
 休憩する時はザックを下ろし、安定した場所に腰を下ろし、喉を潤し、できるだけ周囲の音に耳を傾ける。風の音、鳥の声、遠くの列車の音、自動車のクラクション、猟銃の発砲音・・・。山の中は意外と喧しいものである。けれど、その喧しさは不快ではない。かえって静謐が引き立つような喧しさである。
 そんなことを考えていたら、どこかからコンコンコンと木を叩くような音がする。
 なんだろう?
akagera5 音のする方に目を凝らしてみると、小鳥が木の幹にとまって嘴で木をつついている。双眼鏡を取り出して焦点を合わせる。
 アカゲラだ!
 官女の袴のごとき下腹の赤い色は間違いない。
 軽快にリズミカルに無我夢中で叩いている。天然の大工さん。
 気がつくと、森のあちらでもこちらでも同じ打音が響いていた。
 それによって静寂が一層高まったのだが、むしろそれは心の静寂なのかもしれない。


 山頂近くの木の間より三つ峠山のゴツゴツした天辺が望まれる。パラボラアンテナが立っているのは御巣鷹山だろう。数年前に見た山頂からの富士を思い出す。

倉見山 007


 頂上までの最後の一登り。
 急な上に、厚い雪が残っていて一苦労。ところどころロープが張ってあるのに助けられる。ロープと木の幹を頼りにどうにか滑らずにすんだ。

 倉見山に登るには、東桂駅下車で北斜面を登るコースと、寿駅下車で南斜面を登るコースの二つが一般である。それぞれ登頂後は、反対の斜面を下りて最初とは別の駅から帰りの列車に乗ることになる。
 今回北斜面を登りに取ったのは、自分の持っているガイドブック(実業之日本社発行『ブルーガイドハイカー中央線沿線の山々』)で紹介されている順路に従ったまでである。
 が、これは大正解であった。
 一つには、先に書いたように、残雪の多い北斜面を登りに取れたからである。同じ雪道ならば下りより登りの方が安全なのは言うまでもない。山頂で出会ったカップルは、寿駅側から登ってきて、自分が登ってきた北斜面を下る計画であると言う。難儀なことだ。思わず「気をつけて」と声がけした。
 もう一つの理由がでかい。
 倉見山は富士山の北にある。だから、北斜面を登りにすると山頂に着くまでまったく富士山が視界に入らないのである。三つ峠や杓子は左右に姿を見せるのに、富士山だけは見えない。
 だから、やっと山頂について、おもむろに目を上げた時に真正面に現れる富士山の圧倒的ないでたちに度肝を抜かれる。
「うわあ~、すごい!!!!」
 叫ぶこと間違いなし。
 山登りの醍醐味まさにここにあり。

倉見山 012


倉見山 009


 これが、南斜面から入ると、最初から富士山が丸見えである。富士山を背にして、あるいは右手にしてずっと登ってくるのだが、途中でいくつもの展望スポットがある。頂上に着く頃には、もう富士山に飽いていることだろう。感動がない。
 倉見山は、絶対東桂から登るべきである。

倉見山 001 山頂でも携帯のアンテナは立つ。
 関西にいる山登り好きの知人に写メで「富士山のお裾分け」する。

 山頂から10分ほど歩いたところに展望台がある。凍りついた残雪に囲まれたテーブルとベンチがいくつか並んでいる。昼食には絶好のスペース。
 目の前に迫る富士山をおかずにしながらの贅沢なランチ。
 空は青々、陽はあたたかい。
 40分ほど独り占めすると、同じく東桂から登ってきた男性が到着した。おそらく、自分の一本後の電車だろう。

 山頂付近で出会ったのは4名。
 下山中は誰とも会わず。
 今日の倉見山は5人のものだった。


 展望台からやや向原方面に下ったところに、山頂や展望台以上の絶景ポイントがある。
 左手前方に聳え立つ富士山から北と西とに流れる長い裾野、右手後方の三つ峠から南へと連なるなだらかな尾根、そして北東側は倉見・杓子・鹿留の山々。その3つの稜線に囲まれた三角形の盆地が富士吉田市。住宅の密集する縁を中央自動車道が蛇のようにのたくっている。
 山に囲まれ、山に見守られ、山と運命を共にせざるをえない人々。
 ここに住む人たちにとって富士山とはどういう存在だろう?
 生まれた時から常に目の片隅にある、あまりに大きい、あまりに美しい、あまりに神々しい山。
 父のような存在だろうか。母のような存在だろうか。神のような存在だろうか。それとも無かったら困るけれど、普段は意識しない空気のような存在だろうか。
 右手の尾根の彼方には南アルプスがまばゆく輝く白頭を覗かせていた。


130203_1201~01130203_1201~02

         倉見山 014

 下山は、目の前に見え隠れする富士山を見ながら、なだらかな道を下る。
 子午線を通過した太陽からの光の反射、大気中の湿度、そして高度の変化によって刻々と姿を変えていく富士山。あとは下るだけという気楽な気分(本当は下りの方が事故りやすのであるが)を満喫しながら、富士山の七変化を楽しむことができるのが、南斜面を下りに取るべき3つめの理由。
 ブルーガイド、さすがだ。

           

倉見山 018



倉見山 016 自分の持っているブルーガイドは2002年発行。そこでは、富士見峠から向原峠を経て向原の集落に下りるルートが紹介されている。それだと、下山してから林道を1時間ばかり歩くことになっている。
 富士見峠から「寿駅→」の道標に従えば、山道をくだった最後に赤い鉄の階段を下りて、車道に降り立つ。すぐそばにシチズンの倉庫が建っている。ここから寿駅までは歩いて20分ほどである。
 このルートが紹介されていないのは、2002年にはまだ整備されていなかったからかもしれない。ガイドブックは新しいのに限る。
 それにしても、シチズン電子の本社がこんなところにあるとは知らなんだ。

      倉見山 019

      倉見山 021

 寿駅は無人駅。
 かつては「暮地(くれち)駅」という名だったのだが、「墓地」と間違われやすいので、改名したのだそうだ。たしかに・・・。

       倉見山 022

       倉見山 023


 中央線藤野駅で途中下車。バスで町営藤野やまなみ温泉に向かう。
 源泉水100%使用、露天あり。大人3時間800円。
 中央線沿線の山登り後によく利用する温泉の一つである。
 日曜の午後だけあって近隣からの家族連れで賑やかであった。
 地場産のそばかりんとうとビールで一日を締める。

倉見山 026





● 山小屋受難 本:『山歩きのオキテ ー山小屋の主人が教える11章―』(工藤隆雄著、新潮文庫)

山登りの掟 001 2007年東京新聞出版局より刊行。
 2011年新潮文庫より発行。

 タイトルどおり、ハイカーに名の知られた人気ある山小屋の主人たちが語る山歩きの掟を、懇切丁寧にコンパクトにまとめている。読み物としても面白い。
 これから山歩きを始めようという人には、歩き方のコツから始まってデビューに役立つ情報が満載であるし、自分のように「趣味は山歩き」と公言できるくらいの人にとっても、「これ一冊ザックに忍ばせておけばいざと言うとき安心」と言える内容がてんこ盛りである。
 たとえば、昨今増えているヤマビル対策とか、応急処置の方法とか、万一スズメバチに刺されたら、毒蛇に咬まれたら、熊と出会ったら、道に迷ったら、雷がなったら、熱中症になったら、ねんざしたら、どうしたらよいか?のQ&Aとか、山道具一覧表も載っている。それに、山小屋の名物主人を紹介するコラムや山小屋を利用したおすすめ山歩きコースの紹介まであって、実に充実した良心的な本である。
 フジモト・ヒデトのカバー装画も素晴らしい。見ているとすぐにでも山に行きたくなる。

 自分は何度か山小屋に泊まったことがあるが、実はそれほど好きではない。
 なぜなら、ちゃんと眠れたためしがないからである。最近では個室のところや部屋は一緒でも個別のベッドがあるところも増えてきているようだが、やっぱり雑魚寝が一般である。はじめて会った人たちと同じ部屋で身を寄せるように寝なければならない。
 ある時など、混雑していたせいか案内されたら男女相部屋であった。自分は二組のカップルの間に挟まれて寝なければならなかった。もちろん、(女=男=自分=男=女)という配置で就寝したわけであるが、自分がゲイだと知ったなら両脇の男たちこそ一睡もできなかったであろう(笑)。
 昔から自分は他人が一緒だとよく眠れないのである。山小屋の消灯時間は早いので、夜が明けるまでの長い長い時を他人のイビキを聞きながら暗闇で身動きもできずにじっとしていなくてはならない。たしかにそれでも身体は休まる。けれど、頭はすっきりしない。自分は寝不足にめっぽう弱いのである。そんな状態で翌日の山歩きをするのは明らかに危険である。わざわざ山小屋に泊まって危険を誘発するのはバカらしい。だから、できるだけ山小屋は利用したくないのである。
 山小屋に収容できる人数と、昨今の登山客の多さを考えれば、雑魚寝は止むを得まいと分かってはいるけれど、せめてカプセルホテルみたいに一人分の個別空間(シェルター)がつくれないものか。カプセルホテルなら自分も結構眠れるのである。
 ならばテント泊にすればいいのだが、そうすると荷物が多くなる。重たくなる。山小屋でテントとテントを張るスペースを貸してくれればいいのだが・・・。
 わがままを言っているようだけれど、自分のように山小屋で眠れない人はかなりいると見受ける。安全な山登りをしたいなら、寝不足は一番の大敵だ。山小屋で寝不足→翌日遭難パターンは数字にならないだけで結構あるんじゃないだろうか。

「山小屋で眠れないような神経のか細い奴は、そもそも山になど来るな!」という山男の声が聞こえてくるような気がする。
 そういう奴ほどはた迷惑なイビキをかくんだよな~。 



 

● 映画:『阿賀の記憶』(佐藤真監督)

 2004年日本映画。

 前記事で取り上げた映画の続編。十数年後の阿賀の様子を撮したものである。

 正直、退屈した。
 映画的作為が前作より目立つ。ドキュメンタリーというより一個のフィクションとして撮ったものと言った方が正解かもしれない。
 一方で、佐藤監督が阿賀と「阿賀に生きる」人々に対して持っている思い入れがあまりに強くて、その人々がいまはそこに居なくなったことに対する感慨があまりに深くて、それが監督ほど思い入れを持たない観る者(多くがそうだろう)には共有されるべくもないことにどうやら監督自身は思い及ばなかったらしく、独り善がりの閉鎖性の強い作品になってしまっている。
 思い入れを観る者に共有してほしいのならば、映画的作為にこだわるのはほどほどにして、もっと物語性を持たせるべきだ。湯気の立つやかんと人の座っていない空の座布団――そこは『阿賀に生きる』に登場した愛すべき老人の特等席だったーーだけの映像を延々と見せられるのは、監督の思い入れをさほど共有していない者にとっては苦痛でしかない。映画的作為が悪目立ちする結果になってしまった。

 プライヴェートフィルムならともかく、これは撮らない方が良かった。亡き佐藤真監督の名誉を守るためなら、入場料を取って上映すべきではない。



評価:D+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 日本人の顔 映画:『阿賀に生きる』(佐藤真監督)

阿賀に生きる 1992年日本映画。

 評判の高いドキュメンタリーを渋谷ユーロスペースでやっと観ることができた。
 新潟・阿賀野川流域に暮らす人々の逞しくも快活な暮らしぶりを描いたものである。


 中心となるのは、三組の老夫婦。
 鮭漁の名人で川べりの田んぼを守り続ける長谷川芳男さんとミヤエさん、川舟づくりの孤高の達人遠藤武さんとミキさん、餅つき職人でおしどり夫婦の加藤作二さんとキソさん。愛すべき老人たちである。
 20年前の作品であるから、いまもうこの人たちはこの世にいない可能性が高い。そのことの意味がまず骨身にしみる。
 というのも、この映画を観ながら湧き上がったのは、「自分はいったい日本を、日本人を知っているだろうか」という問いであるからだ。


 自分は五十手前である。三組の夫婦は祖父母世代にあたる。が、都会の核家族のサラリーマン家庭に育った自分は祖父母のことをよく知らない。一緒に住んでいなかったせいもあるが、父方も母方も自分が成人する前に亡くなってしまったので昔話を聞くことができなかった。父の実家はまさにこの映画の舞台と同じ新潟県で百姓兼大工をしていた。小さい頃夏休みなどに遊びに行った記憶があるけれど、祖父母の暮らしぶりとか土地の文化などに興味を持つべくもなかった。


 いま自分は老人ホームで働いている。昨年ヘルパーの資格を取るために実習先の老人ホームに行った時、車椅子姿の齢八十、九十のじいさん、ばあさんが仰山うごめいているフロアを見て、思わず心の中で叫んだ。
「こんなところにいたのか!」

 そうだった。小さい頃(60年代)は、よれよれになったじいさん、ばあさんが近所の農家の縁側に着物の前をはだけて日がな一日座っているのを見かけたものである。なかばあの世に逝っているかのようにポケーッとして目の焦点も合っていないのに、自分たち子供らが何か危ないことをしていると「そんなことすんじゃねえ」と黄泉からとどろくような大声で叱りつけるのであった。
 いつの間にかこういった老人の姿を近所でも街でも見かけなくなった。街で見かける老人は、列車の中のシルバーシートに腰掛けている人たちや病院の待合室にいる人たち、つまり杖をついたり腰が曲がっていたり若干の故障はあるけれど基本自分で出歩くことのできる「元気な」老人たちである。「老人」「高齢者」と言った場合、自然思い浮かべるのはその人たちであった。
 公的介護が充実する、自活できなくなった老人を施設に入れるのが当たり前になる、というのは、「街の風景から老いぼれがいなくなる」ことであったのだ。そのことに自分は実習先で気づいたのである。
 老人ホームで働いていなければ、自分の知っている老人はほとんど親世代(昭和二桁生まれ)以降に限られてしまったであろう。


 この映画を観ても分かるように、日本人の暮らしぶりは戦後大きく変わった。
 自分の親世代は田舎から都会に出てサラリーマンになる人が多かった。日本人の仕事の本流も、第一次産業(農業、漁業、林業)から、第二次産業(加工業)、第三次産業(情報・サービス業)へと移行していった。それはつまり、何百年と続いてきた職業文化が絶えることを、それを生業としてきた日本人が消えていくことを意味する。
 職業文化こそは、その国の民の本質であろう。それは、生活スタイルをつくってきたものであり、コミュニティをつくってきたものであり、祭りや掟や迷信や流行り唄などの風習を作ってきたものであり、何にもまして「顔」をつくってきたものである。
 そのことを思う時、自分がよく知っている日本人は「第二次産業、第三次産業に従事する、古来の職業文化から断絶された日本人」でしかないことにあらためて気づかされたのである。
 当然、「顔」も違う。


 老人ホームで働いていると、農業や漁業をやってきた人、伝統工芸の職人だった人の「顔」は、明らかにそれ以外の仕事に従事してきた人の「顔」と異なることに気づく。なんというか滋味のある「いい顔」なんである。他の老人同様、認知もあるし徘徊もするし時に声を荒げてこちらの行う介護を拒否することもあるが、何だか憎めない存在なのである。


 この映画の一番の美点は、今や失われてしまった「日本人の顔」をフィルムに焼き付けて残したというところに尽きる。



 追記:佐藤真監督は2006年に自死している。ご冥福を祈る。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
       

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 映画:『塀の中のジュリアス・シーザー』(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟監督)

塀の中のシーザー 2012年イタリア映画。

 一分の隙もない傑作。
 さすがタヴィアーニ兄弟。老いの入舞、白鳥の歌と言ったら失礼か。


 ローマ郊外のレビッビア刑務所で行われている演劇実習。毎年様々な戯曲を囚人たちが演じ、所内の劇場で一般市民に向け披露する。
 今年の演目はシェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』。まぎれもなくイタリア人にとって祖国の英雄である。日本で言ったら、ヤマトタケルか平将門か源義経か織田信長か。原作は知らなくても「ブルータス、お前もか」というセリフは、「あなたはどうしてロミオなの?」と並んで、もっともよく知られているシェイクスピア劇中のセリフであろう。「殿中にござる」と並んで、もっともよく日本人に知られている刃傷沙汰における名文句であろう。


 シーザー暗殺という古代ローマ随一の劇的事件を描いた作品を、末裔であるイタリア人がイタリア語で演じるというところがまず見物、というか聞き物である。
 イタリア語は何と美しくリズミカルで芝居に向いているのだろう。オペラがイタリアで誕生し花開いたことを思えば当然なのだが、感情をきわめて豊かに音楽的に相手に伝えることのできる言語なのだなあと感心する。原作の英語より良いかもしれない。
 イタリア人が演じていることも非常にプラスに感じられる。実際にシーザー暗殺に関わった人たちの風貌や挙措挙動はこんな風だったのだろうなあと思わせてくれる。日本人に日本人特有の動きや表情や姿勢や目つきがあるように、イタリア人にもそれがある。もちろん現代イタリア人と古代ローマ人とでは違っているだろう。でも、他の国の役者が古代ローマ人を演じるよりもやっぱりふさわしいように思うのである。オペラ『蝶々夫人』を見るとき、主役が日本人かそうでないかで全然舞台の雰囲気が違ってくることに似ているかもしれない。 

 血なまぐさいドラマを演じるのが正真正銘の犯罪者たちであるという点がまた面白い。
 陰謀、腹の探り合い、裏切り、仲間割れ、権力争い、二枚舌、大義名分、血で血を洗う殺戮・・・。
 こういった要素がこの劇のエッセンスであるが、これらはまさに演者である囚人たちの半生を彩ってきたものである。それだけに、劇中のセリフの一つ一つがそれぞれの演者の人生とオーバーラップしていく。稽古の最中、ある一つのセリフで過去の出来事を思い出し苦痛で芝居が続けられなくなってしまう。相手役の弄する甘言セリフを、その役者の性格とダブらせてしまい、普段押し殺していた怒りに火がついて稽古場で喧嘩が起こる。
 芝居と現実とが入り混じって、そのたびにリアリティを増していく芝居の質、本物になっていく囚人たちの演技。この演目を選んだ人間の鋭さに感心するが、それよりも何よりもやっぱりシェイクスピアの凄さである。本物の犯罪者に「これとまったく同じセリフを死んだ仲間は言っていた」などと言わせて心のひだに入り込んでしまうシェイクスピアの人間理解、洞察力。よく言われるシェイクスピア複数説も、そのあたりの「何回人生、生きてんだ~?」と思わせる幅広い世間知から導き出されるのであろう。 

 シェイクスピアの凄さに負けず劣らず、囚人たちの役への没入ぶり、芝居への熱中ぶりも凄い。
 獄中の退屈さをつかの間忘れられるという点はあろう。
 が、おそらくそれだけではない。
 元来、才能ある役者と犯罪者には共通したものがあると思う。それは洗脳のされやすさ、自分でない何かに簡単に仮託してしまう「自我」のもろさである。より適確な言葉で言えば「憑依体質」である。この映画はそのことを実証する。稽古が進むに連れ、本番が近づくに連れ、役に同化していき表情まで変わっていく囚人たちの様子は、鏡ノ間で面と向き合いながら役が乗り移るのに身をゆだねる能役者の姿を連想させる。
 演じている間は、自分はシーザーでありブルータスでありアントニウスである。そして役者である。殺害犯でもポン引きでも強盗でもない。犯罪者、社会の落伍者、人生の失敗者、故郷からも家族からも友人からも見放された孤独な男、という現実をしばし忘れることができる。「自分ではない何か」になれる喜びと救いは、彼らにとって強烈なエクスタシーであろう。
 囚人たちのこのつかの間の夢、栄光を支えるかのように、石造りの監獄はあたかも古代ローマの城塞のように、広場のように、路地のように姿を変えていく。モノクロ撮影がそれをバックアップする。


 この映画を老タヴィアーニ兄弟は何故撮ったのだろうか?
 観る者は映画の最後にその答えを知らされる。成功裡に終わった一般市民への公演のあと、看守の手によって独房に戻された一人の役者、一人の囚人、一人の殺害者の口を通して。
 そのセリフこそ、『ジュリアス・シーザー』の中のどの名文句にも劣らないくらいの圧倒的な真実の苦さに満ちている。
 そして、人生における芸術の意味、人類の歴史におけるシェイクスピアやダ・ヴィンチやベートーヴェンの意味を教えてくれる。
 きっとタヴィアーニ兄弟は、自らの長い映画人生を総括したかったんだろう。


 ダニエル・シュミットは『トスカの接吻』(1984年)で、引退した音楽家たちが住む老人ホームを訪れた。シュミットの魔術的なカメラは、灰色の隠遁生活を送っていた老人たちを薔薇色の過去の中に甦らせ、オペラへの愛、芸術への愛、生きることの喜びを回復させてしまう。それはかつて老人たちが持っていたものである。
 『塀の中のジュリアス・シーザー』は、灰色の監獄生活を送っていた囚人たちに、つかの間の喜びをもたらす。
 一方、彼らは芸術を通してはじめて気づくのである。自分たちが人生で手にできなかったものの大きさに。

 彼らが更正しますように。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
           
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● ダニエル・シュミット追悼 映画:『拘禁 囚われし宿命の女』(エウヘニア・ミラ監督)

 2010年スペイン映画。

 ポーやディケンズを思わせるゴシックロマン。
 全編に溢れる映像美。

 というDVDパッケージの文句に惹かれてレンタルした。この種のくすぐりには弱い。
 観ると、なるほど嘘ではない。19世紀のヨーロッパの街並みや風俗が丁寧に再現されている。映像も凝っている。特にラストの教会の階段シーンの演出は、エイゼンシュタイン、黒澤明、ダニエル・シュミットなど巨匠の名前が次々と想起されるほど見事である。
 そうだ! これはダニエル・シュミット風の映画だ。幻想、耽美、ミステリアス、退廃、メロドラマ。シュミットよりは通俗的で饒舌であるが・・・。

 いまウィキで調べて知ったのだが、シュミットは2006年に亡くなったのだな。64歳とはまたずいぶん若い。
 久しぶりに『今宵かぎりは・・・』(1972年)が観たくなった。

 
評価:C+ 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
        

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著、サンガ文庫)

アビダンマ 001 孫悟空(『西遊記』)に出てくる三蔵法師と言えば夏目雅子を思い出す。
 三蔵法師とは名前ではない。モデルとなったのは玄奘(げんじょう)という名の中国(唐時代)の実在の坊さんである。三蔵法師とは「仏教の三蔵に精通した僧侶」を意味する尊称である。

 三蔵とは何か。
 三蔵は仏教の聖典である三つを言う。


経蔵 (sutra) ・・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」。
律蔵 (vinaya) ・・・・ 出家集団(サンガ)の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」。
論蔵 (abhidharma)・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの 。いわば「仏教哲学」。

 上の二つはわかりやすい。読みやすい。
 多くの「経」は、ブッダが庶民に向かって相手のレベルに合わせてやさしく説いたものだから当然である。ブッダはまた、こむずかしい抽象的な議論を好まなかった。「戒」は集団の日常生活を規定するものだから、わかりにくかったら困る。
 「論蔵」はなんだか難しいのである。
 それもそのはず。論蔵はブッダが説いたものではなく、その死後に頭のいい僧侶達によって記述され、まとめられていったものだからである。
 論蔵とはアビダルマ。アビとは「最勝の」と言う意味の接頭辞、ダルマは「ブッダの教え」であるから「ブッダの最勝の教え」という意味である。

お釈迦様は、悟りを開いてから亡くなるまでの四十五年間、いろいろなところでいろいろな相手にいろいろなふうに話しましたが、四十五年間さまざまに説き続けた教えを全部まとめて、その内容は結局どんなものであったか、と学問的にエッセンスだけを取り出してみると、簡単に、明確になります。そのエッセンスを、お釈迦様の教えの基本的論理という意味で、アビダンマと言うのです。


 この本(シリーズ)は、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、会員たちを前にアビダルマの講義をしたものをまとめたものである。
 本があるのは知っていたが、なかなか手をつけようとは思わなかった。ざっとページをめくるだけでも仏教用語がたくさん並んで難しそうであったし、ハードカバーの一冊一冊が厚くて、それが7巻まである。値段も高い。
 何より、知識よりも智慧の方が大切である。座学よりも坐禅である。そうでなくとも「頭でっかち」になりやすい自分なので、興味はあったけれど近づかないようにしていた。

 スマナ長老の教えを受けてヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想をはじめて丸4年。
 毎日熱心にやっていた時期もあれば、だらけていた時期もある。五戒をちゃんと守っていた期間もあれば、自分を甘やかした期間もある。(今は甘やかしている期間だ。特に仕事後、山登り後の酒が止められない)。転職したり体調が変化したりストレスがあったりで、同じレベルの熱心さで瞑想を続けるのは難しい。
 とは言え、4年間続いたのはそれなりに成果を感じているからである。
 体調が良くなった(特に腰痛と痔)。以前より気持ちが安定し、ささいなことで悩まなくなった。怒らなくなった。よく眠れる。頭も冴える。他人の悪口を言ったり聞いたりするのが自然とイヤになり、「ありがとう」という言葉が自然と口をついて出るようになった。人間関係も家族関係もまず良好である。コンビニの店員など見知らぬ人から親切にされることが多くなった(気がする)。年を取ったせいもあろうが、「我ながら落ち着いたなあ~」と思う。若い頃は、晴れた休日など外に(街に)出かけないでいると罪悪感を覚えるほどの落ち着かなさ(ムラムラ感)に衝かれていたが、今はなるべく賑やかなところは遠慮したい。
 一等の成果は智慧につながったことである。
 これは瞑想をはじめて一年経った頃から感じられるようになった。
「ぬあ~んだ。結局この世にはナーマ(認識、心)とルーパ(対象、物)しかないんだ」とか「認識があるから対象が存在し得るんだ」とか、いろいろ見えてきた。
 こういう智慧は本で読むだけでは、頭で理解するだけではダメなのである。身をもって知るには瞑想するしかない。身をもって知ってこそ心は変容するのである。

 智慧が出てくると、今度はその智慧がどのように仏教では説明されているか、どのような言葉でブッダや過去の阿羅漢たちが語っているのかが知りたくなる。或いは、自分はこう悟ったけれど、それが正しいのかどうか確認したくなる。

 どこかに書かれていないのか?
 
 そう思っていたところ文庫版が出た。
 で、やっとアビダンマに手をつけてみようと思ったのである。

 まあ、書いてある、書いてある。
 瞑想をしていて自分が発見したことが、当たり前のように其処かしこに散りばめられている。以前は難しいと思っていた記述が水が砂に染みこむようにすらすらと入って来る。以前ならきっと特に引っかかることなく読み流していたであろう部分で、奥深い意味に気づいてハッと息が詰まる。「そうだったのか~」と唸ることしきり。


 アビダルマってこんなに面白かったのか!
 
 むろん、秘密はスマナ長老の説法にある。長老自身が序文の中で、共著者の藤本晃に感謝してこう言っている。

 「アビダルマ説法」はそれほど難しくはありません。強いて言えば喉が渇くくらいです。人が気楽にやりたい放題、話を脱線させながらおこなった講義を、整理整頓されたまともな本にすることは気が遠くなるほど難しい作業だと思います。

 「やりたい放題、話を脱線させながら」の部分が滅法(笑)面白いのである。スマナ長老の他の本や普段の講演でも時にドキッとするほどストレートな発言に触れる瞬間がある。そのたびに「そこまで言い切ってしまうのか」「初期仏教ってこんなにも過激なのか」と驚く。それ以外の部分は、直截的表現を厭う日本人に合わせてか、在家信者や一般読者を対象としているせいか、オブラートに包んだように曖昧で穏やかな物言いになっている。
 この本でのスマナ長老は、おそらく少人数の気のおけない会員を相手にした講義であったせいだと思うが、自由闊達、融通無碍に仏法を語っている。そこが一番の魅力である。
 とりわけ、本題に入る前の長い長い序章「アビダンマ早分かり」は、仏教の真髄が凝縮された驚くべき部分であると思う。まったく1ページ、1行たりとも疎かには読めない。ポイントにマーカーを引こうと思ったら、全ページ真っ黄黄になってしまいかねない。


以下、引用。


● アビダンマの目的

 ものごとの真理をとことん納得したら、自分がやりたい快楽を追いかける道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。欲望、快楽、知識、名誉、財産、ありとあらゆるこの世のものを目指していく道が、馬鹿馬鹿しく見えるのです。嫌になるのです。本能的に嫌になりますから、それからは自分の意思で、正しい道を歩んでみよう、励んでみようという気持ちが生まれます。
 アビダンマの目的は、修行する気持ちを起こさせること、そして、修行の過程において自分の心をどう理解してどう進むのかと、その道筋を示すことです。 


● 我々が生きている世界は3つだけ

 認識機能(心)があって、認識機能と同時に生まれるありとあらゆる感情(心所)があって、それから、認識機能がそこで機能する物質的な世界(色)があります。

 我々が生きているすべての世界はその三つだけです。世界にはそれ以外何もないのです。


●初期仏教は煎じ詰めれば「認識論」

 人間の問題は認識することから生まれるのですから、認識の範囲の中だけで、心と物質のはたらきを徹底的に分析するのが、初期仏教の立場です。
 
 我々が分かっているのは、眼、耳、鼻、舌、身に触れる色、声、香、味、触という五つのエネルギーだけです。我々が知っている「客観的な世界・宇宙」はその五つだけなのです。その五種類以外の物があるかないかさえ、私たちは知りません。

 生命のはたらきといえば、認識することだけなのです。他のことには何の関係もありません。


●悟り(涅槃)とは

 認識の仕組みが、苦しみ、無常であると分かったら、心が何か変わるはずです。その変わる瞬間に、現象でない状態、現象の超越という状態を、その瞬間だけ体験する。この瞬間が涅槃です。


●我々は変化するものしか認識できない(=諸行無常) 

我々が認識するものは、変化だけです。もし何も変化しないなら、何も認識しなくなります。同じ状態が繰り返し続くだけでも、認識できなくなります。例えば同じ音をずーっと聞いていると聞こえなくなります。同じ味をずーっと味わっていると、その味さえ分からなくなります。変化しないと認識できないのです。


●性格について 

性格を構成しているものは、ほとんどカルマです。・・・ですから人に「あなたの性格を変えてください」と言っても、そんなことはできることではありません。

●「無」について 
仏教で言う無は、物質が物質でいられなくなって、宇宙が消えて、エネルギーがいっぱい溜まっている状態ですから、何もないという意味の無ではない。


●人として生を受けたこと 

悪業や罪を犯せば、人間には生まれることはできません。人間に生まれたということは、前世で間違いなく善いカルマを作ったということなのです。


●自由意思について

人間には、善いことをすることも悪いことをすることも可能です。それは自由だからではなく、悪いことをしようとする原因を抑えると、善いことができるようになり、善いことをしようとする心を育てずにいると、悪いことをするようになるのです。因果法則でそれぞれ違った結果になります。


 繰り返し熟読玩味したい本である。
 文庫版第二巻の発売を修行しながら待つことにしよう。


 それにしても、玄奘が命を賭してガンダーラに求めた三蔵を、日本にいながらこんなに手軽に学習できるとは、我々は何と良いカルマを持っていることか!



● オペラ(映画):ヴェルディ『アイーダ』(METライブビューイング)

 銀座松竹。

 昨年12月にニューヨークメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラの映像化。
 幕間のあわただしい舞台転換の様子や歌い終えたばかりの出演者へのインタビューを盛り込んでいることもあって、ライブ感が伝わってくる。編集でカットされていないので、当夜のメトの観客達が体験したのと同じ時間割(休憩時間も含め)で最初から最後まで一曲見聞きすることができる。これは生の舞台をあとから遠隔地で映像で見る時に生じざるを得ない落差を最小限にとどめ臨場感を出すうまいやり方だ。


 『アイーダ』と言えば、バブルの頃に東京ドーム(!)で見たフィオレンツァ・コソットのアムネリスを思い出す。
 いくら古代エジプトの宮殿を舞台にしたエキストラ数百人のスペクタル大作だからと言って「東京ドームはないだろう」と今では思うが、ある意味面白い時代であった。オペラにとっての命とも言える「マイクロホンを使わない歌手の生の声」を犠牲にしてまで、ゴージャスと成金趣味(たしか本物の象が出てきたような覚えがある)を追求した結果は、案の定惨憺たるものであったが、びっしり埋まった外野席の一角(お隣では親子連れがポップコーンをほおばっていた)から、はるか遠い舞台にうごめく豆粒ほどのアイーダやラダメスにまじって、コソットのアムネリスはなおも強烈であった。マイクロホンを通した偽の声であっても、顔の表情などまったく分からない遠距離であっても、コソットの歌と演技は観客の耳目を聳たせる磁力に満ちていた。千両役者とは彼女のような人を言うのだろう。

 そもそも自分とオペラとの出会いもフィオレンツァ・コソットであった。
 NHKの教育テレビ(芸術劇場?)で放映した藤原歌劇団上演『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作)をたまたま見たのである。1987年のことだ。
 このとき復讐に燃えるジプシー女アズチェーナを演じたのがコソットであった。
 これにはまったく度肝を抜かれた。自分がそれまでオペラに持っていたイメージを完全に覆された。それまでオペラは、演技者としてはデクノボウの太った歌手達がくだらない筋書きに沿って退屈な歌を応酬するものと思っていた。芝居的要素は添え物に過ぎないと。
 コソットはとんでもない名女優であった。一挙手一投足にアズチェーナの魂が宿っていた。目の前で処刑された無実の母親の復讐に燃える娘であり、過って実の息子を殺めた母であり、誘拐した仇の息子を愛してしまう母であり、その息子の死と共に復讐を成就させた女であり。こんなに難しい役どころを驚くほどのリアリティと生命力をもって舞台上に描き出す。一度聴いたら忘れられない大砲のようにとどろくメゾソプラノは、ブラウン管を通してさえ脳天直撃であった。

 初めて聴いたのが『トロヴァトーレ』であったことも今思えば幸いした。
 トロヴァトーレほどオペラの歌の醍醐味が凝縮されて輝いている作品は滅多にない。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンというオペラの代表的な四声が同じくらいの出番を持ち、代わる代わる見事なアリア(見せ場)を披露してくれる。四声が、ソプラノ×テノール、メゾ×バリトン、メゾ×テノール、ソプラノ×バリトン・・・というふうに様々に組み合わせられて、声質の違いによる二重唱の面白さをバランス良く味わえる。しかも第二幕の幕開けのジプシー達のコーラスに象徴されるように合唱もまた素晴らしい。第三幕のテノールの有名なアリア「見よ、燃える炎を」では、クライマックスの高い「ド」(ハイC)が決まるかどうかという手に汗握る興奮が待っている。こんなに面白い、聴きどころ満載のオペラは他にない、と今でも思っている。
 最初に聴いたのが『トロヴァトーレ』でなかったなら、しかもコソットでなかったなら、そのあとオペラにはまることもなかったかもしれない。


 そういうわけで、アズチェーナやアムネリスを聴くたびにコソットの歌唱と引き比べてしまうのである。

 今回のアムネリスは、オルガ・ボロディナという名のロシア出身の歌手。METでは常連のベテランらしい。
 これが素晴らしかった。コッソトほどインパクトのある声ではなくアクも強くないが、歌も演技も一級品。尊大で嫉妬深いが根は純真なエジプト王女アムネリスの複雑な心の内を、歌っていることを忘れるほどの迫真の演技で描き出し、演じていることを忘れるほど見事な歌唱で聴き手に伝えることに成功していた。
 このアムネリスに比べれば、二枚目にして大スターのロベルト・アラーニャのラダメスも、これがメト初出演だという新星リュドミラ・モナスティルスカのアイーダも、ところどころ見事な歌唱を見せてはいたものの、全幕を通して判断した時に一貫性のある人物造型ができているとは言い難く、見劣りがした。(とは言え、一流の歌唱であることは疑いを得ない。)

 ファビオ・ルイージの指揮は歯切れが良く、ダレがない。METのオーケストラはコンピュータのように正確でクリアで流麗である。 

 もう一つ。
カラスCDジャケット 『アイーダ』と言えば、1951年メキシコ公演のマリア・カラスである。
 スカラ座にデビューして間もないまだ20代のカラスが、マリオ・デル・モナコのラダメスを相手にアイーダを歌っているライブ録音が幸運にも残っている。
 このときカラスは第二幕「凱旋の場」のクライマックスの大合唱の最後に離れ業をやってのけた。登場人物全員による大合唱と管弦楽のフォルティシモの分厚い壁を楽々と突き破り、3点変ホ音(ソプラノでも出ない人が多い超絶高音)を朗々と響かせたのである。会場の大興奮ぶりが録音(CD)からも伝わってくる。何度聴いてもゾクゾクする。
 この音はヴェルディの書いた楽譜にはない。カラスはメキシコの観客へのサービスとしてやったのである。むろん、「スカラにカラスあり」と記銘させたかったのであろう。 
 以来、『アイーダ』を聴いていてこのシーンが近づくに連れて、「このソプラノはやってくれまいか」と期待してしまうのである。

 若い日のカラスほどの圧倒的な声量、力強い高音、胆力、負けん気、プリマドンナ魂を持ったソプラノがいつの日か現れないかと期待する。それがオペラという麻薬に溺れてしまった人間の描く夢想なのである。  
 

● 映画:『SHAME シェイム』(スティーヴ・マックイーン監督)

 2011年イギリス映画。

 主人公ブランドン(マイケル・ファスベンダー)は、仕事と睡眠の時以外はセックスのことばかり考えているか、行きずりの女とのセックスを繰り返している30代のハンサムエリート。精力絶倫、エネルギッシュ、スケコマシ、プレイボーイ、ドン・ファンと形容すれば羨ましいような気もするが、正味のところは強度のセックス依存に捕まっている孤独な中年男である。
 彼が求めるのは単純にエロティックな経験であり、肉体的な快感であり、よりアブノーマルな刺激である。相手との親睦やあたたかい触れ合いや結婚・家庭を視野に入れた関係の構築・持続ではない。それを求めるには彼には何かが足りない。あるいは何かが過剰だ。
 そんなブランドンのもとに可愛い妹シシー(キャリー・マリガン)が飛び込んでくる。
 シシーもまたどこか病んでいる。誘われれば簡単に男と寝てしまい、すぐに相手に惚れてしまう。相手に遊ばれていることにも気づかず、幻想の愛情関係にはまってしまう。裏切られ、捨てられて、自傷行為を繰り返す。

 シシーの登場によってブランドンの生活が振幅し始める。

 ブランドンが妹の存在を煙たがるには理由がある。
 二人は、性愛について一見正反対の態度をとっているように見える。ブランドンは一時的で肉体だけの表面的な関係を求め、シシーは長期的な深く濃い関係を求めている。ブランドンから見れば妹は男にだまされやすい愚かな女(マリリン・モンロータイプ)で、自分の生活もコントロールできないダメ女である。
 だが、ブランドンとシシーは「同じ穴の貉」なのである。「依存」という一言で二人はつながっている。
 ブランドンがシシーを敬遠するのは、妹の中に見たくない自分の姿を見るからである。受け入れたくない(二人に共通する)悲惨な過去を見るからなのだ。
 シシーは鏡なのである。

 そういった視点からこの映画を観た時に、ポルノ映画ばりに出てくるあまたのセックスのどれ一つも、エッチでもエロチックでも扇情的でもいやらしくも美しくもないことに観る者は気づく。
 ブランドンがどこかのホテルのベッドの上で行きずりの女二人と汗みどろになっている姿は、あたかも苦行僧のようなのだ。エクスタシーに達する彼の表情は快感のそれよりも苦痛のそれである。ブランドンにとってセックスとは自分を痛めつけるため、自分を罰するための手段にほかならない。
 彼の自虐傾向はとどまるところがない。バーで彼氏のいる女にちょっかいを出し卑猥な言葉を投げかけ、挙げ句の果てに彼氏から殴られる。ゲイでもないのにゲイ達の集うハッテンバに行き、暗がりのなか獣のように互いの体を貪り合う男達に混じって、見知らぬ男にヌいてもらう。
 その姿はまるで小さな男の子が「やっぱり僕ってこんなに悪い子だから、パパとママに嫌われるのも仕方ないんだ」と自分自身に証明しているかのようである。


 シシーもブランドンも容易にはこの筋書きから抜け出すことができない。ブランドンの変容なり癒しなりをそんなに簡単に描く監督など信用できようか。
 その点で、スティーヴ・マックイーン監督は信用できる。(次回作はブラッド・ピットとマイケル・ファスベンダー共演らしい。楽しみだ。)
 この映画の最初と最後のシーンにおいて、ブランドンは同じ地下鉄駅のプラットホームで電車を待っている。それは地下の世界のループから抜け出すことのできない彼の心の軌跡を暗示しているかのようである。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
       
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● マンガ:『永久保怪異談 パワースポット交幽録』(永久保貴一作、ぶんか社)

長久保マンガ 永久保貴一のマンガは面白い。
 絵やコマ割りはそれほど上手くないが(特に最初の頃はひどかった)、代表作『カルラ舞う』に見られるように、綿密な調査と取材、着想の奇抜さ、国枝史郎の伝奇小説ばりの独特の忌まわしい雰囲気と幻想性、そして社会において虐げられてきた民への熱い共感から生まれる善悪の二元論を超越した哀しみの視点が読む者を惹きつける。
 もちろん、純粋に超能力対決を軸とするアクションとして読んでも楽しい。

 創作マンガの他にも、作者の身辺で次々と起こるスピリチュアルにして怪奇な事件を描くこの『怪異談』シリーズもまた面白い。
 永久保自身には霊能力は無いようだが、そういった人々を周囲に集める才能があるらしい。永久保の妻が幼少より霊体験に事欠かない人であり、生まれた娘も「栴檀は双葉より芳し」、生い先楽しみな(?)「不思議ちゃん」ぶりを発揮して、ネタの提供元として父親孝行している。
 こうした永久保サークルの中でやはり一番凄い人物と思われるのが、師匠Hさんである。二人はひょんなことから知り合い、酒の席を通して意気投合し、その後Hさんは永久保の霊的アドバイザーとしてマンガに登場し、様々な助言やレクチャーをする。子供の頃から怪異な現象を経験し、「気」の修行をしてきたHさんは、相当の『気』の読み手・使い手であるらしく、気によって酒の味を変えることなどお茶の子さいさいである。
 ある時などは、人気絶頂のさなか新宿四谷にある所属事務所のビルから飛び降りて命を絶ったアイドル歌手O・Yの除霊を永久保と一緒にしたりする。(それによると彼女は世間で言われているように大物男優との失恋の痛手で亡くなったのではなく、あまりの忙しさに精神的に参っていたということだ。)

 そんなHさんによる『気』の講座が今回も秀逸である。



●水子の霊なんていない。

 中絶した人って腰にコリのある人が多いんですよ。
 体にコリがある所は気の状態も悪くなってます。
 で、女の人の意識はコッてる腰にどうしたって向いてきます。
 その時「私が子供を中絶したから…」ってイメージを持ち腰に意識を集中すると不健康な気がどんどん腰まわりにたまります。
 この女の人の不健康な気で作られた子供を「水子の霊」と呼ぶ霊能者さん多いです。


●カウンセリングは相手の話を聞くだけでいい。

 自分の悩みを誰かに聞いてもらって全部吐き出す。話すことによって自分の悩みが整理され、悩みの原因が見えてくる。
 そこからなんです! 自分がこれから何をすればいいのか考えられるようになるのは・・・。
 カウンセリングで一番重要なのは、相談者が自分で解決策を考えられる心の状態にもっていくこと。


●人相について

 怒ってばかりいる人と笑ってばかりいる人じゃ、顔の使う筋肉が違う!
 どういう生き方をしてきたかで顔は変わってくるんです。脳みそをどう使ってるかでも変わります。


●意識を後頭部の首に近い所に集中すると自分を客観的に見やすい。

 自分を客観的に見られるようになると、自分の意識、脳のいたるところで起こる雑念、勝手に聞こえる声、考えぬいた思考・・・。その他もろもろ全部ひっくるめ、総体としての自分を意識できるようになってくる。


●パワースポットで得られるものは「ツキ」 

 パワースポットに行くだけじゃ運は開けない。運はそう簡単に変わらないですよ。
 大雑把に言うと運は人との出会いだな・・・。どういう人とつき合うことになるのか。仕事にしろ家庭を持つにしろ。
 開運につなげるなら(パワースポットに行ったあと←ソルティ補足)人に会うこと。特に初めて会う人に・・・。パワースポットのいい気をまとった状態で人に会えば、とても気持ちのいい人間に感じてもらえる。逆に悪い気を放っている人間とは縁がつながりづらい。
 第一印象の影響は長く続くよ~。

 て具合で含蓄のある言葉が並ぶ。

 Hさんによると、「幽霊」と呼ばれるものの大半は、生きている人々が作った「気の塊」だそうである。


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