ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 若尾文子が怖すぎる! 映画:『妻は告白する』(増村保造監督)

 1961年大映作品。

 しとどに雨の降る午後のオフィス。
 机を並べる同僚たちとの会話。
 と、女子社員の声がする。
 「幸田さん、お客様です」
 部屋の入り口に目をやると、そこには喪服と見まがう黒ずくめの着物に身を包み、ずぶぬれになった髪を振り乱し、ドアの影から上目づかいにひたと男を見つめる女の姿。
 床にポタポタとしずくが垂れて・・・。

 この若尾文子の鬼気迫る演技に背筋がぞっとしない男に幸いあれ。
 職場に突如ヤクザか妖怪が現れたとて、これほど心肝を寒からしめるものではない。
 それくらい恐い。

 明らかに増村監督にはこのような女につかまって振り回された経験があるのだろう。
 ちょっと前なら中森明菜、今ならさしずめ沢尻エリカか・・・。いわゆる魔性の女。
 美しく魅力的でどこかあぶなっかしい。少女のように純粋なふうでもあり、老獪で計算高いふうでもあり。言ってることは本当のようでもあり、ウソのようでもあり。
 平成の精神科医ならば、まずこう診断を下すであろう。
 境界性人格障害。

 登山中の良人殺しの罪を問う裁判という謎とサスペンスをはらむ舞台装置を用いて、一人の真面目な心やさしい青年・幸田修(川口浩)が、被告にして魔性の女・滝川彩子(若尾文子)との切るに切れない関係にはまって破滅していく様を描き出す。
 愛に飢えている女が若い男の愛をもとめて「鬼にも蛇にも」なっていく過程を巧みに描ききった増村監督もすごいが、それに応えた若尾の演技も申し分ない。本当に若尾文子は美しいだけの女優じゃないんだと、この一作を見れば十二分に納得できる。着物の襟から覗く白いうなじも官能的ったらありゃしない。
 
 物語の最後で、幸田は、滝川に出会う前からの婚約者である理恵(馬渕晴子)にも捨てられる。理恵は言う。
 「本当に人を愛したのは奥さん(滝川)だけよ。私もあなたも誰も愛してなんかいない。」
 この言葉によって、幸田との関係の破綻に絶望し薬を飲んで自殺した滝川彩子の愛の強さ、純粋さが賞揚されるような錯覚、幸田の臆病さと冷たさとが非難されているような印象を観る者は持たされるけれど、本当のところどうなのだろう?

 滝川彩子の死に方を見てみよう。
 傘も差さずに(なぜ?)突然訪ねていった幸田の会社のトイレで、持ち歩いていた青酸カリを飲んで自殺。夫の死でおりた生命保険500万円の証書とともに、しっかりと「幸田宛ての」遺書をしたため。その内容は「保険金は、あなた(幸田)と婚約者の理恵さんとの幸せのために使ってください。」

 だれがそのような気色の悪いお金に手をつけられようか。
 彩子と二人での新生活のためにさえ、彩子の元の亭主の保険金を使うのを拒絶した幸田なのだ。(それが二人の仲違いの原因となったのである。) まして、幸田のほとんど目の前であてつけるように自殺した(私は幸田に殺されましたと社内中に広めているようなものではないか!)彩子からのたっぷりの罪悪感付きのプレゼントを、幸田が受け取れるわけがない。
 そんなことくらい想像できない彩子の想像力の欠如こそ恐ろしい。自分を拒否した幸田に対する復讐だろうか? いや、そうではあるまい。自分に都合のいいようにしか人の心を解釈しない(できない)彩子の徹底した自己中心性のなせるわざなのだ。
 それこそ実におぞましい。(実に哀れだ!)

 彩子の亭主がなかなか離婚に応じようとしなかったのも、幸田(と我々観る者)が彩子の口から知った以上の何かしらの理由があるのではと勘ぐってしまう。ちょうど、沢尻エリカとなかなか別れようとしない高城某のように・・・。

 このような女に魅入られてしまったら、男はどうすればよいのだろうか?

 最初から関わらないのが得策には違いないが、危険を見抜けるほど目が肥えるにはそもそも痛い目にあうことが必要だ。美しく魅力的で、そのうえ不幸な結婚をして夫に虐げられているときたら、どんな男が同情せずにいられようか! ちょっと優しく振舞って女の気をひいたが最後、あとは、女の手管にかかってなすがままである。気づいたときには引くに引けないところまではまりこんでいる。
 やっと危険を察知して下手に「NO!」を言うと、女は命というネタを使ってこちらに脅しをかけてくる。つまり、自殺をほのめかす。ちらつかす。これが狂言かというとそうでもなく、今回のように冗談ですまなくなることもあるので実に厄介である。だいたい、自分の命を担保に相手をコントロールするくらいタチの悪いものはない。
 この無間地獄からのがれるには、どこかではっきりと女に「自分にはできない!」を突きつけるしかないのだが、これこそ男が一番苦手とするセリフなんである。

 結局、女に振り回されて心身とも消耗して「もう無理だ、ごめん」と相手に伝えるか(マッチバージョン?)、今までの優しさをかなぐり捨て逆上して相手と同レベルで醜い闘いを続けるか(高城バージョン?)、あるいは、死ねばもろとも世間も仕事も捨てて相手と行けるところまで行く決意を固めるほかない(石田吉蔵バージョン=阿部定の情死の相手)。
 三番目の男は、女から見たら最高に「いい男」なのかもしれないけれど、愛にそこまでエネルギーを(自分を)投資できる男が少ないのは確かである。
 というより、それができる男は、女と釣り合うくらいの深い心の闇(病み)を抱えているような気がする。

 とは言え。
 このような人間がいてくれるからこそ、退屈でつまらない日常がつかの間輝くのかもしれない。保守化し固定化する一方の自我が、巻き込まれることで破壊され、新たに生まれ変わることができるのかもしれない。
 その意味で、自分はこの種の人をこう呼ぶことを提案したい。

 トリックスター症候群。


 
評価: B+
 
 
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『チェックメイト』(エリック・テシエ監督)

 2009年フランス映画。

 希望の映画学校への入学が決まり、ルンルン気分で(いつの流行語だ!)自転車で走っているところ、目の前を黒猫が横切る。急ブレーキで転倒。ケガした手を洗うためにたまたま入った最寄りの家で、監禁されている瀕死の男を発見。
 結果、ヤニックもまたその家の主人ジャックに捕らわれることになる。
 だから、「他人の家に勝手に入ってはいけない」ってあれほど言ったのに。(聞こえてないか・・・。)

 よくある展開である。
 定石通りならば、この主人はこれまでにすでに何十人も拉致監禁殺害している異常性格者にして残虐な殺人鬼であり、家の地下にはこれまで殺した男や女の死体や骸骨がゴロゴロと塁をなしている。捕らえられた獲物は、必死に逃げだそうとあの手この手を使って奮闘するが、いいところまで行っては捕食者に見つかっておじゃんになる。そのうち、肉体だけでなく精神的にも衰弱し、幻覚が見えたり幻聴が聞こえたり・・・。
 というところであるが、実際まさにその通りに展開するのだから、マンネリズムに通常なら退屈しそうなものである。
 
 定石の退屈さ、凡庸さからこの作品を切り離しているのは、フランスならではの軽妙なエスプリがところどころ効いていて、思わず吹き出すとまではいかないけれど、日本やハリウッドの同種の作品ならば主人公の陥った状況の過酷さにこっちも緊張して固唾を呑んで観てしまうところ、なんだかサンドイッチマンのコントでも聞いているような不条理な笑いに口元が緩むのである。

コント1 
 監禁されたヤニックをジャックが夕食に誘う。一緒に階下に降りていくと、そこにはジャックの妻モードと娘二人がくつろいでいる。絵に書いたようなありきたりの家族の日常風景。隙を見て逃げようとしたヤニックを、ジャックが止めようと殴りつける。それを見たモードのセリフ。
「あなた、子供たちの前ではしない約束よ」

コント2
 2階から飛び降り逃げようとするヤニックを、娘のミッシェルが庭で待ち伏せしていて、バッドでヤニックの足を何度も殴りつける。それを見て怒るジャックのセリフ。
「無用な暴力はいかんと言ったろ。部屋に行ってろ。今夜はテレビはなしだ」

コント3
 翌朝、甲斐甲斐しくヤニックの足の手当てをするジャック。ミシェルを連れてきて、ヤニックに詫びを入れさせる。
「許してくれ。娘に悪気はないんだ」

 と、こんな調子である。
 人を平気で殺す殺人鬼でありながら、妻や娘に尊敬される父親で、平凡なタクシードライバーで、親切なんだか残酷なんだか、異常なんだかまともなんだかよくわからない、というジャックの不条理な性格が、こうした不条理な笑いを生んでいるのであり、ヤニック同様、観ている我々も混乱の極みに置かれる。

 が、この不可解さには理由がある。
 ジャックには、神の命のもと自分が正義を行っているという確固たる信念があり、悪人を見つけ出して退治することを自分の使命と信じているのである。であればこそ、彼には彼なりのルールがある。
「無用な暴力、無用な残酷さは罪である。殺すときは一気にとどめを刺すべし。」
 家族も共有しているこの信仰をのぞけば、あとはまったく普通の家庭なのである。拉致監禁中のジャックがまるで客人であるかのように同じテーブルで夕食をとり、一家団欒し、食後は父と娘はチェスを行い・・・。
 このへんてこなギャップがこの作品の一番の見所であろう。

 チェスの達人であるジャックは、ヤニックに告げる。
 「一回でも私に勝ったら、君は自由だ」
 そうして、二人は毎晩チェスをするようになる。
 負け続けるヤニック。監禁されて他に気を紛らすものがないことも手伝って、ヤニックは次第に勝負にのめり込んでいく。
(絶対にジャックに勝ってやる!)
 しまいに、それは妄執となる。せっかく逃げだす機会をモードがつくってくれたのに、ヤニックはそれを拒絶し、ジャックとの勝敗をつけるために家にとどまる。

 ヤニックがどうしてもジャックに勝ちたいと思うのは、単にチェスの魔力に引き込まれたとか、負けず嫌いであるとか、男の意地とか、ジャックを打ち負かしてジャックの信仰の間違いを正したいとかいうのではなく、ジャックの後ろに自分の支配的な父親の姿を見るからである。ジャックに勝つことは、ヤニックが個人として自立するための通過儀礼なのである。
 なるほどなあ~、やっぱり欧米人のエディプス・コンプレックスって強いんだなあ~。
 
 かくも父親像が確固として強く立ちはだかるのは、キリスト教徒の欧米人は、父親の後ろに「神」を見るからなのだろう。
 近代的自我の確立が神を倒すことから始まったことを思えば、この構造は手に取るようにわかりやすい。
 
 最後のゲームでは、ヤニックがいいところまで行ってジャックを破れるかと思いきや、邪魔が入って結局決着がつかないまま終わってしまう。事件は警察に知られるところとなり、ジャックは捕まり、ヤニックは自由の身となる。
 しかし、精神的にはヤニックはなお捕らえられたままである。
 倒すべき神がいないモラトリアムの牢獄にー。
 
 思ったより深い作品である。



評価: C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 映画:『天国と地獄』(黒澤明監督)

日本映画150 1963年東宝。

 手元にある文藝春秋編『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年発行)によると、『天国と地獄』は22位にランクされている。黒沢の作品では、
『七人の侍』(1位)
『生きる』(3位)
『羅生門』(4位)
『用心棒』(17位)
『酔いどれ天使』(18位)
に継いで6番目である。
 100位までになんと13本がランクインしているのだから、いかに黒澤作品が日本人に愛されているのかがわかる。ちなみに、同時代に活躍した巨匠達を見てみると、溝口健二7本、木下恵介6本、小津安二郎5本である。
 このアンケートの回答者は、文春が選定した映画好きを自認するマスコミ関連の業界人372名であるから、それなりのバイアスはかかっていよう。が、黒澤明こそが日本映画史上最大の監督であり、それを超える者はいまだに(永久に)現れていないという評価が動かし難いところなのであろう。 


 『天国と地獄』も実際文句のつけようがない。
 このレベルの作品を生涯に1本撮っただけでも、その監督の名前は永く映画史に刻まれることだろう。脚本、演出、撮影、演技、どれをとっても標準をはるかに凌駕し、第一級の娯楽作品に仕上がっている。本当に巧い。本当に面白い。
 前半の家の中の一室だけでドラマが進行する演劇的な手法は、ヒッチコックの『ロープ』(1948年)を思い出させる。おそらく、あれが黒澤の頭の中にはあっただろう。言葉の応酬と役者の演技、そしてカメラワークだけで緊迫感を生み出していく手腕には舌を巻く。三船敏郎の重厚な骨のある演技には惚れ惚れする。
 一転して、捜査陣の推理と犯人の追跡を描いていく後半では、ミステリーの醍醐味を十分に味わうことができる。警部役の仲代達矢もいいが、たたきあげの刑事らしい無骨さと逞しさと愛敬とをふりまく「ボースン刑事」こと石山健二郎が光っている。
 トーンの対照的な前半と後半とをつなぐ文字通り「橋」における身代金引き渡しのシーンこそ、日本映画いや世界映画における鉄橋シーンの白眉と言える。鉄橋周辺の空間の広がり、列車の走るスピード感をいっさい殺すことなく、何台ものカメラの使用によって角度を変えつつ切り替わっていくショットの生み出す緊張感は、登場人物(警察側)の心理状態とからんで、絶大な効果をもたらす。息を詰めて観るほかない。
 実際、その後の日本のすべての推理・刑事ドラマの原型は、映画・テレビ問わず、この一作にあると言っていいだろう。


 瑕瑾の見あたらない作品であるけれど、あえて難を言えば、エンドシーンがちょっと肩すかしな感じがした。
 誘拐犯である竹内(山崎努)と、脅迫され身代金を払った権藤(三船)との刑務所での対面シーンにおいて、物語はクライマックスに達する。見ている我々は、何らかの両者の対決あるいは犯人側の真情の吐露を期待する。なぜなら、そこに至るまでのドラマの中で、なぜ竹内が犯行を行ったのかがはっきりとは示されないからである。
 もちろん、「貧困=金」が動機ではある。
 地獄(スラムまがいの地区にある竹内のアパート)から天国(丘の上の瀟洒な権藤の邸宅)を来る日も来る日も眺め続けていた竹内が、権藤に対して嫉妬し、劣等意識をかき立てられ、やがて憎むようになるのはわからなくもない。金持ちに対する憎悪や貧富の差を生む社会に対する憤りが、いかにも金持ち然とした権藤に集約されることも不自然ではない。
 しかし、竹内も病院で働くインターンであるからには医者の卵、エリートである。いまは安い給料でこき使われているかもしれないが、末はドクター、前途有望である。しかも、どこかの院長の娘あたりをたらし込むことだってできそうなほどハンサムだ。
 そうした輝かしい将来を棒に振って、失敗するリスクの大きい誘拐脅迫のみならず、死刑になりかねない殺人にまで手を染める必要がなぜあるのか?
 竹内には、語られていない悲惨な過去、強烈な何らかのコンプレックスがあるに違いない。左手の深い傷はそれを暗示しているに違いない。それが最後には何らかの形で明らかにされることを期待していたのである。
 が、結局、竹内は刑執行を前にして自ら面会を希望したにもかかわらず、権藤を前に虚勢を張り続ける。内面は見せない。来たるべきものに怯え、身を震わせ、最後には絶叫して看守に連れ去られていく。また、警察署内の会議の席でも、竹内の生い立ちとか家族関係とかが語られるくだりはない。
 一体、竹内とはどういう人物だったのだろう?
 山崎努は、どういう解釈を持って竹内を演じたのだろう?

 同じ推理ドラマの傑作『砂の器』(1974年松竹、上記アンケートでは13位)と比較したとき、犯人の動機についての描写の浅さは歴然である。
 もっとも、黒澤が撮りたかったのは、純粋に推理&サスペンス娯楽作品だったのであり、山崎努(=竹内)に求められていたのは普通に「悪」役なのだ、と言われればそれまでだが・・・。
 それとも、リアルタイム(63年)でこの映画を観た世代は、あえて説明してもらう必要もないほどに、竹内の置かれている状況の悲惨さ、己のキャリアや将来を棒にふってまで金持ちを憎み犯罪行動に走らざるを得ない苦悩に対する、暗黙の共通理解のようなものを持っていたのであろうか。

 今は「天国」の側にいる権藤の前歴が靴職人であったことが何らかの暗示になっていると読むのは、いささか考え過ぎか?




評価:
 A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった


「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『おひとりさま介護』(村田くみ著、河出書房新社)

おひとりさま介護 001 上野千鶴子のヒット本にあやかった二匹目のドジョウならぬ三匹目、四匹目のドジョウではあるが、中味はいたって真面目で、つぼを押さえており、個性的。文章も読みやすく、介護に関する様々な情報が得られる点でも有益である。さすが『サンデー毎日』の記者。
 「個性的」というのは、著者の正直さに由来する。
 突然自宅で倒れ嘔吐を始めた母親(74歳)を救急車で病院に搬送し、医師に「ここ1日がヤマ」と宣告されたあとの著者の弁。

 しかし、「ここ1日がヤマ」と言われていたのに、2日経っても3日経っても「ヤマ」はきませんでした。
 そう、私は「ヤマがくる」ことをどこかで願っていたのです。
 父が死んで母が扶養家族になってから、2人の力関係は逆転してしまいました。まだ、母の身の回りの世話まではしていませんでしたが、目に見えてやつれていく母を見ていて、これからの生活はかなり負担が増えることを、なんとなく恐れていたのです。「助かってほしい」という気持ちとは裏腹に、「これで母の面倒を看なくてすむ」という気持ちを私は抱えていました。助からないことに安堵しているもうひとりの自分がいたのです。

 
 長い眠りから覚めた母はというと、私たちが「お母さん」と呼びかけても、「どなた様ですか」。娘の顔がわからないのです。目を開けても視点が定まらず、「キョトン」とした表情で意味不明な言葉を発するのです。
 その様相を見て、私は母が死の淵から生き返ったと喜ぶと同時に、「これはエライことになる」と血の気が引いてしまいました。

 
 著者をエゴイスティックというのはたやすい。
 けれど、いつまで続くか分からない介護地獄を予感した、30代働き盛り&まだまだ遊び盛りの娘の率直な感想ではないだろうか。

 かくして、食べ歩きと海外旅行とを謳歌していた「おひとりさま」の青春の日々が一瞬にして消え去り、何もかもが未知である介護の世界に、多忙な記者の仕事をしながら、足を突っ込まざるを得なくなる。


 そこで知った厳しい現実の数々に驚き怒り落胆しあきれかえりながら、また、軽度の認知症を発病した母親のこれまで想像もしなかった奇矯なふるまいやヒステリーに振り回されて介護ウツに陥りながら、介護保険はじめ様々な制度や裏技を活用することを覚え、最終的に母親をケアハウスに入居させることに成功(?)する。

 このあたり、別記事で紹介した松本ぷりっつ『笑う介護。』(→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5338578.html)と似たような展開である。(あちらは父親を介護する娘の奮闘ストーリだが。)
 松本が最終的には介護を前向きにとらえようと意欲し読者にも勧めるのに対し、この著者は自ら言うように「マイナス思考な人間」なので、なかなかハッピーな気分にはなれない。

 介護の本を読むと、「介護をするとあなたの世界がひろがります」「誰かに感謝をすると良い気持ちになります」と書かれています。
 私はいまだに介護をして良かったと思ったことがありません。
「自分の人生は終わったも同然」
「なんで自分ばかりが親の面倒を看なければならないのか」
「生まれ変わったら人間だけはイヤだ」・・・・。
 介護を始めた当初は、1日24時間そんな気持ちでした。最近はそこまで思い詰めていませんが、その気持ちがすっかりなくなったわけではないのです。


 正直でよろしいなあ~。
 この文章を、同じような気持ちを抱きながらも表面上は懸命にとりつくろって現在進行形で家族の介護をしている人が読んだら、「ああ、こんな非情なことを思うのは自分だけではないんだ」と安堵して、自分自身を責めたり罰したりする手をゆるめるかもしれない。
 ポジティブ思考もいいが、「そう思わないといけない」と努力目標になってしまうと、かえってマイナスな影響を生み出す。と言ってネガティブ思考もそのままではつらい。ネガティブ思考の自分をたまには笑うくらいのゆとりがあるのが、ちょうどよいのかもしない。


 一回きりの人生が、自分が選んでつくった「子供のために」犠牲になるのならともかく、「親のために」犠牲になるというのは、なかなか受け入れられるものではない。それも、ある程度自分が人並みのこと(結婚、出産、育児、仕事上の成功、財産の形成、家を建てる、後進を育てるe.t.c)をやり終えたあと、例えば定年退職したあとにそれがやって来るのならまだしも、30代40代というのは、まさにいま自分の人生を作り上げている最中である。そこで、親の介護のために仕事を辞めざるを得なくなりキャリアがストップしてしまったら、結婚や出産する機会を逃してしまったら、今度は自分が年老いたときにニッチもサッチも行かなくなる可能性がある。悪循環である。
 仕事と介護、結婚と介護、子育てと介護の両立が可能なところまで、介護の社会化を持っていかなければ、次世代が育たない。

 しかし、著者が介護を負担だと思う気持ちが抜けないのは、決して著者の「マイナス思考」でも、恩知らずからでも、若者気分が抜けきらない未熟さのせいでも、自分の老後を心配するからでも、老親との関係の難しさのためでもない。
 この本の中で一番見事に真実を突いているな、さすがプロの記者の目だなと思った文章がこれだ。
 

    介護が負担だと思う原因は、金銭的な不安がつきまとっているからです。
 

 介護の社会化が叫ばれて介護保険が導入されたはいいが、まだまだやっぱり介護にはお金がかかる。介護される者が長く生きれば生きるほど、お金がかかる。
 軽くない負担を背負った子供が「一体いつまで続くのだろう(生き続けるのだろう)」とこっそり思ってしまったり、これ以上子供に負担をかけさせたくないと思う親が「一刻も早く死にたい」と願ったりするのも無理のない話である。その状況下で「自立支援でいい介護」なんてできるわけがない。

 もし消費税率を上げるのであれば、ぜひ介護に関する経済的不安を軽減する方向に税金を投入してほしいものである。すべからく人は老い、死ぬのだから、これは正真正銘、誰もが平等に恩恵を受ける公平な税の使い方であろう。


● ファントムはどこにいる? ミュージカル:『オペラ座の怪人』(ロイヤル・アルバート・ホールinロンドン)

オペラの怪人 001 アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル『オペラ座の怪人』の25周年記念公演が、昨年10月にロンドンで行われた。そのときの記録映像を吉祥寺バウスシアターでスクリーン上映するというので、風邪をおして出かけた。

 ガストン・ルルー原作『オペラ座の怪人』は、ブライアン・デ・パルマ『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)のような翻案作品も含めると、なんとこれまでに10回も映画化されている。これほどリメイクされている作品は他にないだろう。舞台のほうは、ロンドンでは『レ・ミゼラブル』に次ぐミュージカル史上第2位の22年、ニューヨークでは21年の史上最長ロングラン公演記録を現在も更新しているという。
 史上最強、もっとも人々から愛されているミュージカルであることは間違いない。ルルーも『黄色い部屋の謎』よりも有名な作品になろうとは、よもや推測していなかっただろう。推理作家ルルー最大のどんでん返しかもしれない。

 そんな文字通りの「モンスター」ミュージカルの記念公演に、イギリス演劇界&音楽界が威信をかけないはずがない。歌い手といい、踊り手といい、オケといい、舞台装置といい、美術といい、特殊効果を駆使した演出といい、あらゆる要素が最高度に揃えられて、スクリーンを通してからでもその質の高さ、豪華絢爛さ、目も眩むようなイリュージョンの魔術的効果、圧倒的な迫力が伝わってくる。劇場でライブで観たら、腰が抜けるほど衝撃を受け、感動するに違いない。一般に感情をあらわに出さないと言われるイギリス観客たちが、熱狂し、総立ちで惜しみない拍手と「ブラヴォー」を贈っている様子からも、それが十分にうかがえる。
 幕が下りた後は、恒例のようにカーテンコールが続くが、さすが25周年、制作スタッフの紹介から始まって、作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェバーが出てきて挨拶するわ、歴代のファントム5名が出てきてサラ・ブライトンと一緒にテーマ曲を熱唱するわ、最後は紅白歌合戦ばりに舞台袖から仕掛け花火が発射されるわ、まあゴージャス極まりない。
 観劇の余韻など一気に吹っ飛んでしまった。
 ・・・・。

 ストーリー展開も見どころ聴きどころも結末も知っていて、ところどころ退屈な部分もあるこの作品に、今さら涙するだろうかと思いながら観ていたのだが、やっぱりていもなくやられてしまった。ファントムの苦悩が吐露される最初のシーンで。

 産みの母親にすら疎まれた醜い顔を仮面で隠し、世間の水準をはるかに凌駕する学識と音楽の才能と器用さとを持ち合わせながら見世物小屋で糧を得ざるをえなかったファントムの半生は、苦悩の凝縮と言っていいだろう。エレファントマンですら、実の母親の愛を受けることができたのに・・・。
 人間にとって最初の関係性の作り相手である母親(父親あるいは養父母でもいいが)から愛を拒まれたとき、人は後年いかに才能やお金に恵まれようとも自分自身を肯定することができなくなる。自分で自分を愛することができないとき、周囲からの愛を受け入れることもできない。「こんな自分を愛するなんて、こいつはおかしい。嘘をついているに違いない。なにか下心があるに違いない。」と解釈するからである。
 だから、ファントムのクリスティーヌに対する愛もまた、その裏返しで、「音楽の美にともに身をささげる」という大義名分に隠された条件付きの愛である。ファントムに怯え、幼馴染のラウルの手を取ろうとするクリスティーヌに対して、ファントムが「歌を教えてあげたのに、なぜ自分を裏切る?」と怒り嘆く真意は、「歌を教えてあげるかわりに、自分を愛してくれ」ということである。
 ファントムの苦悩は、第一義にはその醜い容貌のためであるけれど、二義的には無条件に彼を受け入れ愛してくれる胸に抱かれたことがないことに起因する。ただ音楽だけが、彼の容貌に関係なく、彼を受け入れ、支え、慰め、力づけ、夢見させる力を持っていたのであろう。

 人々は、そうした彼の苦悩を観る(聴く)ために、わざわざ安くない金を払って劇場に、映画館に足を運ぶ。DVDを購入する。
 なぜだろう?
 人の不幸は蜜の味というように、他人の苦しむ姿を見て自らが優越感にひたるためか、自らの幸運を確認し安堵するためか、身内にかきたてられた同情や憐れみをもって己が優しさに酔うためか・・・。
 それもあるかもしれない。
 しかし、この作品が25年間というもの、これだけ多くの観客を魅了し、今もロングランを続けていることを思うとき、次のように結論せざるを得ない。

 苦悩こそが人間の魂の奥底を領する主人であり、苦悩こそがすべての人が理解し共感しうる最たる感情であり、それゆえ苦悩こそが芸術家が表現すべき第一のものである。

 もちろん、他人の幸福にも人は共感できる。人が喜びにあふれている姿を見ることは、嫉妬に駆られていない限り、一般に気持ちのいいものである。
 ただ、それは周りの者の心を深く揺り動かすだけの力は持っていない。人はどこかで幸福はつかのまのものだと知っているし、幸福な人は「ほっておけばいい」ので、人と人とを結びつける働きも弱い。
 一方、他人の苦しみは人を動かし、人と人とを結びつける働きをする。一つの同じ苦しみを通して人と人とが出会った時、人はお互いが「大いなる苦しみの生」という同じ条件下に投げ出されている同じ人間であることを知る。
 その悟りが、どういうわけか芸術家を使嗾(しそう)し、芸術表現を生み出させる衝動をよぶのである。

 クリスティーヌの無償の愛を受けて苦悩の癒されたファントムは、お得意の手品で持って、舞台から、我々の前から消え去る。
 否、我々ひとりひとりの胸の奥に還って、次なる蘇生の日まで眠りにつくのである。



● 映画:『レイク・マンゴー』(ジョエル・アンダーソン監督)

 2008年オーストラリア映画。

 家族と出かけた湖で行方不明となり、数ヵ月後に水死体で見つかった少女の死の謎をたどる物語。
 全編が記録による回想という体裁を取り、過去の出来事がすべてが終結した現在の視点から、さまざまな記録媒体を駆使して語られていく。テレビ、カメラ、カセットテープ、ホームビデオ、VHSテープ、携帯電話の動画・・・。録画や録音を通して、少女の謎はだんだんと明らかにされていくのだが、一方、記録することで生み出されていく「魔」がある。少女の霊が撮影されたテープに取り込まれていくのである。
 オーストラリアの美しい自然を写し取ったインサートショットを差し挟みながら、思春期の少女の心の脆さ、はかり知れなさをオカルティズムと融合しつつ、客観的に(記録ゆえに当然そうなる)淡々と描いていて好感は持てるのだが、肝心の少女の胸のうちが曖昧なままに終わっていて、いささか拍子抜けの感を否めない。少女が霊となって現れるのは、「家族に本当の自分の姿を知ってもらいたかったから」というドラマ内の説明がそのとおりであるなら、もう少し、少女の心が明かされる必要があろう。つまり、彼女に「何があったか」ではなくて、彼女が起こったことをどう感じ、どう思っていたかを。
 でないと、やっぱり「犬死に」という印象しか残らない。
 それとも、明かされなかった、家族に十分に理解されなかったがゆえに、最後のシーンに見るように、少女の霊は成仏することなく、屋敷に残ったということなのか。

 

評価: C-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

●  白鳥(レダ)の歌 本:『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著)

神話の力 アメリカの著名ジャーナリストであるビル・モイヤーズが、神話学の大家ジョーゼフ・キャンベルに、神話をめぐる様々なテーマについてインタビューする。裏表紙の解説に「驚異と感動の名著」とあるが、まさにその通り。人生でぜひとも読んでおきたい本の一冊と言っていい。しかも、読みやすく、面白い
 それだけのパワーを宿しているのは、なんといってもキャンベルの人間性が十全に引き出されているからであり、その点で聞き手としてのビル・モイヤーズの卓抜さ、そして二人の間にある信頼と親愛の深さを称え上げなければなるまい。この対談の翌年に83歳でキャンベルが亡くなっていることを思えば、これはまさに白鳥の歌なのである。


 神話とは何か。神とは何か。世界中にある神話の共通基盤は何か。神話によく出てくるテーマとは? 男の神と女の神との違いは? 神話の意義は? これからの神話の行方は? 
 神話学への興味から、こういった問いを抱えてぺーじをめくることもできる。むろん、キャンベルから適切な答えを得られるだろう。
 しかし、この本の類いまれなる意義は別のところにある。
 それは、「神話とは何か云々」とは別に、キャンベルという一人の人間が神話と人生とから何を学んだかが、驚くほどの率直さで語られていること。
 そう、キャンベルという人間こそが、キャンベルという個性において種を宿し、花開き、熟し、見事に結実した思想とその言葉のきらめきこそが、読み手を惹きつける。

 思わず線を引いたキャンベルの言葉。(赤字はソルティのコメント)


○ 人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは<いま生きているという経験>だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
 
 たしかに、<いま生きているという経験>の最中には、人は決して「生きる意味」なぞ問わない。たとえば、震災や戦火に見舞われているようなとき。たとえば、恋愛の真っ直中にいるとき。


○ あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。それからそれは他の神話と衝突し、相互関係を持ち、やがて合体して、より複雑な神話になるのです。でも、現代は境界がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは万物に仏性があると見ています。

 「万物に仏性」は大乗仏教の謂いだ。仏教が人間だけでなく「生きとし生けるものすべて」に対して慈悲喜捨を持つよう説いているのは確かである。

○ 個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界の宇宙(コスモス)との関わり方。それをすべての神話は語ってきたし、この新しい神話もそれを語らなくてはなりません。

 「大人とは何か、成熟とは何か」―そこが曖昧で不透明になってしまったのが、いまの日本社会である。成長についての新しい神話(物語)が必要なのかもしれない。


○ 生はその本質そのものと、その性格において、恐るべき神秘です。殺して食うことによって生きるという、この生きざまのすべてが。しかし、多くの苦痛を伴った生に対して「ノー」と言うこと、「そんなものはないほうがよかった」と言うのは、子供っぽい態度です。

 ブッダが喝破したように「生きることは苦であり、すべては無常」である。その認識の次に、「では、どう生きていくか」が来る。ナチスのユダヤ人強制収容所を生き延びたヴィクトール・V・フランクルの著作『それでも人生に「イエス」と言う』を思い起こす。


○ もし自分の至福を追求するならば、以前からそこにあって私を待っていた一種の軌道に乗ることができる。そして、いまの自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ・・・・・。そのことがわかると、自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。


 これぞ精神世界の黄金律。


○ 英雄はなにかのために自分を犠牲にするーこれがその倫理性です。一方、別の見方からすれば、その英雄が自らを捧げた思想が許し難いものだということだって、もちろんあります。相手側の立場から判断すればそういうことになる。が、だからといって、なされた行為に本来備わっているヒロイズムは損なわれません。

 伊藤博文は日本人にとって英雄だが、韓国人にとっては極悪人。彼を暗殺した安重根(アン・ ジュン・グン)は抗日運動の英雄である。


○ 私たちの意識は、自分こそ万事を取りしきっていると思っていますね。しかし、そうじゃない。意識は人間全体の中では二次的な器官であって、それが主人になってはいけないんです。意識は肉体を備えた人間性に従属し、それに仕えなければ。もし意識が支配者になってごらんなさい、意識して政治的意図だけで生きるダース・ベーダーみたいな人間になりますよ。

 ここでいう意識とは、「自我」または「思考」のことだろう。前野隆司『脳はなぜ心をつくったのか』を想起した。(→ブログ記事。http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4973785.html )

○ いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。

 「生きた世界ならば、どんな世界でもまっとう」
 これはすごい文句だ。近代的進歩主義価値観をひっくり返す。我々は、つまり、どんな瞬間でもすでに完全な世界に生きているし、生きることができる。自分がいきいきと生きさえすれば。


○ 最終的には人生は偶然で成り立っている。例えば、あなたの両親が出会ったことも! 偶然、あるいは偶然のように見えるものを通して、はじめて人生は理解できる。そこでの課題は、責任を追及したり説明したりすることではなくて、立ち現れてきた人生をどう扱うかということです。


○ 西洋の伝統の最善の部分には、生きた実体としての個人を認め、それを尊重することが含まれています。社会の役割は個人を啓発することです。逆に、社会を支えるのが個人の役割だという考えは間違っています。 


 「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」(1961年ジョン・F・ケネディの大統領就任演説)


私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多く  のプロトプラズムにほかなりません。(モイヤーズ:まさか・・・・・まさか、そんな。) ちょっと待ってください。純粋な生は、ひとつの目的を持っているとは言えません。まあ見てごらんなさい。生は至るところで無数の違った目的を持っているんです。しかし、あらゆる生命体(incarnation)は、ある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。そのためにはどうすればいいか。私の答えは、「あなたの至福を追求しなさい」です。あなたの無上の喜びに従うこと。あなたのなかには、自分が中心にいることを知る能力があります。

 プロトプラズムとは、細胞の中の原形質のこと。「生きることに目的はない」というキャンベルの衝撃的な言葉に、ビルが一瞬絶句するところが面白い。そのあとに、「生には使命がある」と続く。これまた、下記のフランクルの言葉と相通ずる。

 「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」からです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳、春秋社)


 これ以上、何も言うことはない。
 あたかも、インドのグルか、禅の師か、『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービーのような含蓄ある言葉の数々。
 折に触れ、繰り返し手にとって、再読したい本である。








● 本:『男おひとりさま道』(上野千鶴子著、法研)

男おひとりさま道 男も女も年を取ったら同じ。肉体も頭脳も衰えるし、社会的な役割も失っていく。孤独も死の不安も同様にある。ようやっと、訪れた男女平等。
 と言いたいところだが、やはりジェンダー差が歴然とある。

 姉妹書(兄妹書?)の『おひとりさまの老後』と比べて読むと、つくづく「男」がひとりきりで年を取るのは難しいと感じる。
 経済的な面では、一般に現役時代から収入の多い男のほうが有利かもしれないが、それ以外の面で、男が女に勝てるものはほぼない。勝つとか負けるとか言っている時点で、己が男たるゆえんか(笑)。

 しかし、冗談ではない。
 現役時代、仕事ひとすじで来て家庭のことはすべて妻にまかせてきた男が、定年退職したあと、妻に離婚あるいは死別されたら、どうなるか。
① 家庭のことができない。掃除も料理も洗濯もままならない。
② 人間関係を失う。仕事以外の人間関係を築いてこなかったツケが回ってくる。今から友達を作ろうにも作り方がわからない。続かない。
③ やることがない。仕事一筋で趣味もなければ、「毎日が日曜日」は、日々退屈地獄となる。
 
  その上、娘や息子らとも疎遠になっていたら、病気に冒されたら、下手すると「ゴミ屋敷で孤独死」もあり得る。
 そうならないようにするにはどうしたらいいか。
 痒いところに手の届くように、具体的に懇切丁寧に指南してくれるのが、この本である。


 いまどき離婚するカップルは珍しくないし、どんなに仲の良い夫婦でも同時に死ねるわけではない。妻のほうが先立つこともざらだ。再婚という手もあるけれど、それ相応の財産と人間的魅力とがなければ、男やもめに来てくれる女性を見つけるのは難しいだろう。そうなると、「年老いて男ひとり」は避けられない。でなくとも、自分みたいに非婚シングルのまま年を取る男もこの先どんどん増えるだろう。
 男が「おひとりさま」で生きていく、生きられる技術を身につけておくのは必須と言えよう。


 著者の提唱するメニューの中で、面白いと思ったもの。


1.「おひとり力」をつける。

 これは、ひとりでいることがちっとも苦にならず、むしろ至福を感じることができる能力。そのためには、一人きりでも楽しめる趣味や娯楽やライフワークを持つことが鍵である。
(自分の場合、おひとり力はかなりのポイントだと思う。一人でできる趣味ばっかり持っている)


2.弱さの情報公開

 本文から。

 男が女とちがうのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだ。弱さを認めることができない弱さ、といおうか。これが男性の足をひっぱることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。 

 そう。自分の弱さを認められなければ、他人に「ヘルプ」と言うことができない。いざというときに助けてもらえない。「強い」男を演じ続けるのも大概にしなければなるまい。

3.友人を作るなら「選択縁」


 選択縁とは、血縁でもなく、地縁でもなく、社縁でもない、自ら選べる縁。

 (選択縁は)志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準などで、あらかじめスクリーニングされているから、打率が高い。よりすぐりの釣り堀のなかで、気の合う相手を選べばよい。 

 
 要は、趣味の友達であったり、ボランティア仲間であったり、同じ宗教の徒であったり。
 言うまでもなく、そうした縁につながるよすがをある程度若いうちから持っていることが有利となろだろう。五十の手習いはものになるが、七十の手習いはなかなか厳しそうだ。
 そして、選択縁づきあいに成功するための「七戒」というのが白眉である。

 その1 自分と相手の前歴は言わない、聞かない
 その2 家族のことは言わない、聞かない
 その3 自分と相手の学歴は言わない、聞かない
 その4 おカネの貸し借りはしない
 その5 お互いに「先生」や「役職名」で呼び合わない
 その6 上から目線でものを言わない、その場を仕切ろうとしない
 その7 特技やノウハウは相手から要求があったときだけ発揮する

 なんだかまるで「オタク」の交流ルールみたいである。オタク男には結構楽しい老後が待っているのかもしれないな~。
 この七戒がわざわざ披瀝されるのは、「男」が他人とのつきあいにおいて思わずやってしまう過ちが、この七つの反対の行動ということだ。
 ご同輩よ、気をつけよう!

 
 著者にとって、男が良いおひとりさまの老後を過ごそうと思うのなら「男」の鎧を脱ぎ捨てなさい、つまり「男を下りる」に限る、ということになろう。
 確かに、「下りた」ところで、金玉がついている以上、男は男にかわらないのだ。それがもはや役に立たないものであったとしても・・・。
 筋金入りのフェミニストの面目躍如たる結論だとは思う。男の幸福を願う著者の愛も感じる。

 けれど、バカは死ななきゃ治らないっていうからな。

 バカのまま死ぬのも「おひとりさま道」と覚悟するのもありだろう。


● 「男」という綱渡り 映画:『王の男』(イ・ジュンイク監督)

王の男 2005年韓国映画。

 16世紀の李氏朝鮮の宮廷が舞台のいわゆるコスチュームプレイ(歴史劇)。
 壮麗にして広壮な宮殿、豪華絢爛な調度の数々、目もあやなる衣裳。
 そこにうずまく嫉妬と陰謀と秘密。
 しかも、なにやらボーイズラブ的な、ジュネ的な、薔薇族的な、「組合」的な匂いが立ち込めて・・・。
 と来たら、おのずから期待せざるを得ない。

 一刻も早く観たいと思いながら、こんなにも見逃し続けたのは、昨今の韓流ブームのせいである。ドラマも歌もフィギアスケートも「韓国、かんこく、カンコク」の嵐なので、正直辟易しているのである。昨年の紅白の出場歌手もやたら韓国グループが目立っていた。在日出身の日本人歌手を含めたら、相当数の出場者が朝鮮系だったのではないだろうか。
 芸は韓国なのか?

 さて、この映画、韓国で大ヒットという評判を裏切らず、非常に面白かった。
 役者の魅力、キャラクターの魅力、舞台背景の魅力、映像の魅力、ストーリーの魅力があいまって、物語世界にすっかり入り込むことができた。
 映画というのは、莫大な金のかかる、無くてもいいような娯楽の最たるものだから、それにこれだけの人的・物的・精神的投資ができる現在の韓国のパワー、勢いを感じざるを得ない。

 この映画の最大の魅力は、コンギル(イ・ジュンギ)というキャラクター設定にある。
 美しく、やさしく、芸達者で、一見弱々しく、周囲の、とりわけ男達の庇護欲をそそる女形芸人。若かりし美輪明宏か玉三郎か。マツコデラックスってことは間違ってもない。
 コンギルをめぐる二人の男、幼馴染で芸の相方のチャンセン(カム・ウソン)と、第10代朝鮮王朝国王のヨンサングン(チョン・ジニョン)の「恋のさやあて」こそが見ものである。
 と言っても、そこに肉体上の同性愛はない。コンギルは、食べるためか、快楽のためかは問わず、男と寝ることができる男である。真性の同性愛者と言っていいだろう。(性同一性障害かもしれんが・・・・)
 しかるに、チャンセンもヨンサングンも同性愛者ではない。二人の男ともコンギルと添い寝こそするけれど、男と女のようにして愛し合うシーンはない。これは何も韓国の映倫コードのためではないだろう。二人がコンギルに求めているものは、男が「女」に求めているものとは違うのである。
 肉体的な関係を介在しない、プラトニック(文字通りプラトン的)なものだからこそ、それぞれの男のコンギルへの恋慕は、それぞれにとって他と代えがたい貴重なものとなり、互いの嫉妬は大っぴらに口に出せない性質のものであるがゆえに厄介なものとなる。
 この複雑な様相は、コンギルの位置に普通の「女」を持ってくると明白になる。
 コンギル(役の設定)がチャンセンの妻だったら、妹だったら、恋人だったら、物語はもっと単純に理解され、二人の男の心理も手に取るように観る者に読み取られるだろう。
 ただ、その場合、映画自体は感動的かもしれないが、ありきたりなものとして、たいした印象は残さないであろう。夫婦愛、兄妹愛、男女の愛、そこには何も新しいものがない。男は「男」としてふるまい、女は「女」としてふるまい、一人の女をめぐる二人の男の攻防があるだけ。

 コンギルが「男」であることによって、この物語は「恋愛もの」から「男を問う物語」へと変貌している。
 狂うほど慕う相手が「女」だったら、「男」はあたりまえに伝統的な「男」のままである。相手が女形とは言え、まぎれない「男」であるがゆえに、チャンセンとヨンサングンのそれぞれの「男」が問いかけられ、揺さぶられ、あばかれる。コンギルは、「男」という固い砦に投げ込まれた時限爆弾みたいなものなのである。
 その結果、ヨンサングンは自らの孤独と悲しみと内に押し殺した怒りとに向き合い、それを発散せざるを得なくなった。暴君の誕生である。
 一方、チャンセンはコンギルとの間に長年育みつづけ、王によって引き裂かれたことで初めて認識が迫られることになった名状しがたい感情を、「芸」という共通する生きがいによって昇華させる。
 クライマックスシーンで「生まれ変わっても芸人になりたい」と絶叫する二人の真意は、「生まれ変わってもお前と一緒になりたい」にほかならない。

 三人の「男」が微妙なバランスを保ちながら、ぎりぎりのところで「男」を演じていく。その緊迫感と怖いもの見たさとが、強烈な磁力を生んで観る者を呪縛する。あたかも、映画の最初と最後に出てくる綱渡りのシーンのように。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 怒りと欲 本:『怒らないこと2』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ発行)

 怒らないこと2012年最初に読んだ本。

 自分もかなりのスマナファン、もといブッダファンであるのは認めるにやぶさかでない。

 この本はベストセラーとなった『怒らないこと』の続編であり、この本自体もベストセラーとなった。
 そのことにちょっと驚いた。
 スマナ長老のいずれかの著書が遅かれ早かれベストセラーリストに載るであろうことは予想していたが、それが『怒らないこと』であるとは思わなかった。
 世の中の人は、それほど日々「怒って」いるのであり、怒る自分を「どうにかしたい」と思っているがゆえのベストセラーなのであろうが、周囲がそんなふうであるとは思っていなかったのである。
 一昔前は、路上でも電車内でも飲み屋でも顔を真っ赤にして怒っている人、声を荒げて喧嘩している人を頻繁に見かけたものであるが、ここ最近目にすることがほとんどなくなったし、職場を含む自分の周囲で感情をむき出しにして怒る人も少ない。引きこもりがちな自分の生活のせいもあろうが、日本人はよく言えば「冷静に、我慢強く、おとなしく」、悪く言えば「無感情に、内向的に、臆病に」なっているように思われる。
 なによりも自分自身、最近ほとんど「怒った」という記憶がない。

 愚痴を言う、ケチをつける、皮肉を言う、批判する、イライラする、ムッとする、あきれる、ということは多々ある。これらも、もちろん「怒り」には変わりない。が、自分の中で抱えきれなくなるほどの感情には肥大しない。直接的にその原因となった対象に向かって、感情的なふるまいとなって跳ね返ることもない。暖炉に花瓶を投げつけたスカーレット・オハラや、ちゃぶ台をひっくり返した星一徹がよほど新鮮である。
 自分の中に怒りをため込んで、便秘状態になっているのに、そのことにすら気づいていないのかもしれない。いや、もっと悪いことに、行き場のない怒りのエネルギーが自己破壊に向かっている可能性だってある。
 くわばら、くわばら。

 大体、昔から他の人が「怒り」を感じるような場面で「哀しみ」を感じることの方が多かった。
 また、怒ってもそれが長続きしない。怒りの感情を自分の中に持ち続けている気分の悪さに自分自身が参ってしまうからだ。復讐や敵討ちは自分には向かない。愛する家族を殺害された遺族が、犯人の死刑を求めて、何もかも投げ打って残りの人生をかけて闘いに身を投じる姿は、無理もないと思うし、事件の真相と犯人への適切な処遇を求めることには大いに同感するけれど、怒りという原動力でそれをやり続けることは自分にはおそらくできないだろう。
 怒るのにも才能があるのかもしれない。

 自分にとって問題の多いのは、いつでも「怒り」よりも「欲」であった。
 欲に振り回されて、ずいぶん人生を棒に振ってきたと思う。まあ、「人生とは結局、欲に振り回されることである」と言えないこともないが・・・。

 であるから、この本の中で、スマナサーラ長老がこう述べているのにヒヤっとさせられた。

 「怒り」のバージョン違いに「欲」というものがあります。「苦」を感じると「怒り」が起こりますが、そのとき、「これがなくなってほしい、こうなってほしい」と希望します。この「ほしい」に焦点のあたった感情が「欲」です。
 たとえば、お金がない状態でいるとします。「なんでお金がないんだ」と思っているあいだは怒りの感情です。それが、「大金持ちになりたい」というふうに先を意識すると「欲」になります。今の状況・現実に焦点をあてると「怒り」です。その現実がなくなった状況を妄想すると「欲」です。現在を見るか、将来に期待するかという差で、怒りか、欲が生じるのです。

 つまり、自分には「怒り」が少ないのではなくて、「怒り」が「欲」に変じているだけということだ。しかも、現実を見ていないというおまけまでつく。
 う~む。とすると、「怒り」を長く抱えていられない性分が、かえって「欲」を強めているのかもしれん。

 新年早々のショック。




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