ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 優しい雨だれ、あるいはリスペクト for MAO & YUTAKA :ニューイヤーコンサート2026

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日時 2026年1月18日(日)15:00~
会場 埼玉会館・大ホール
曲目
  • チャイコフスキー:歌劇 『エフゲニ・オネーギン』より“ポロネーズ”
  • チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ長調 op.23
  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18
  • アンコール:尾崎豊 『I LOVE YOU』
ピアノ: ジョージ・ハリオノ
指 揮: 太田弦
管弦楽: 東京交響楽団
  
 チャイコフスキーとラフマニスキーの一番有名なピアノ協奏曲のカップリング。
 なんて贅沢でファビュラスなプログラムだろう!
 それをチャイコフスキー・コンクール第2位の24歳のイケメン英国人ピアニストが演奏し、プロオケ総なめの赤丸急上昇の若手指揮者が指揮するとあっては、期待しないほうが無理というもの。
 開演1時間前に会場に到着し、静かなスペースを見つけて奈良大学通信教育『考古学概論』の勉強をしていた。

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埼玉会館

 1曲目はインスツルメント。
 太田弦の指揮は、2017年10月のOB交響楽団との共演、2019年10月の慶応ワグネル・ソサエティー・オーケストラとの共演、過去2回聴いている。
 精密機械のような精度と正確さ、ゴブラン織のタペストリーのような繊細で美しい仕上がりが、太田の持ち味と感じた。
 久しぶりに聴いて、その印象は間違っていなかったことを確認した。
 きびきびと正確に、繊細な配慮をもって、オケを先導していく。

 2曲目のチャイコは、ジョージ・ハリソンもといジョージ・ハリオノという英国人ピアニストの指鳴らし(ウォーミングアップ)という感じ。
 テクニックの高さと、“優しい雨だれ”とでも形容したい奏者の性格の表れのような音色と、日本人受けする貴公子然とした穏やかな風貌が、刻印された。
 途中、“優しい雨だれ”が脳を叩くマイルドな感触に気持ちよくなって、ウトウトしてしまった。

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Sue RickhussによるPixabayからの画像

 休憩後のラフマニノフ。
 圧巻であった!
 この曲の第1楽章を聴いて、2014年2月ソチ・オリンピックの浅田真央のフリーの演技を思い起こさない日本人がはたしているだろうか?
 マーラーの交響曲第5番第4楽章を聴けばヴィスコンティ『ベニスに死す』が想起されるように、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』を聴けばキューブリック『2001年宇宙の旅』が想起されるように、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章は、浅田真央の魂のスケーティングと完全に一体化してしまった。
 オケの上手さやピアニストの腕前を超えて、その記憶が感動を呼び起こす。
 前席の御婦人連がハンカチで目を抑えていたが、やはり、ソチの真央を思い出したのだろう。
 ソルティもウルッと来た。

 第2楽章で、ハリオノの実力が完全に開示された。
 強い音も弱い音も、速い音もスローな音も、すべて“優しい雨だれ”で統一されているのだが、雨の色にヴァリエイションがあった。
 曲調に合わせて、雨の色が七変化した。
 無色透明のH2Oから、クリスタルに、銀色に、黄金に、虹色に、エメラルドに、真珠色に。
 同じピアノ、同じ指先から紡ぎ出されているとは信じ難い多様さがあった。
 ラフマニノフの音楽の美しさの真髄に触れた思いがした。

 第3楽章では、太田弦の実力と成長ぶりが開示された。
 正直ソルティは、太田弦が、なぜこんな若くしてプロオケを次々と振れるのか、不思議で仕方なかった。
 指揮者の世界の序列とか出世街道というのがよく分からないのだが、ソルティが高く評価し贔屓する和田一樹だって、40歳になってやっとメジャーなプロオケから声がかかるようになったというのに、太田弦ときたら20代でNHK交響楽団や読売日本交響楽団をはじめ日本の有名オケと共演し、地方のプロオケの首席指揮者なんかに抜擢されている。
 指揮者界のサラブレット?
 強いバックがついている?
 過去2回聴いた太田の指揮に別に不満があるわけではないけれど、落語家が「前座見習い」から始まって、「前座」から「二ツ目」を経て、少なくとも10年は修行してやっと「真打ち」になれるのと比べると、指揮者の出世街道は分かりにくいなあ。

 ともあれ。
 第1、第2楽章では、ハリオノのピアノを十全に引き立たせるべく抑えた音作りに終始していたものが、第3楽章でオケが前面に乗り出し、ゴブラン織のタペストリーの中に“優しい雨だれ”も編み込んでしまった。
 すなわち、太田弦の音楽の中にハリオノを吸収し、見事なアンサンブルを成立させた。
 「これがプロオケを唸らせる実力か・・・・」
 6年間の太田の成長ぶりに刮目した。

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 アンコールは、なんと尾崎豊の “I LOVE YOU”
 これが実に繊細で美しく、切なかった。
 ソルティは世代的に、尾崎豊にも彼の曲にもほとんど惹かれなかったのだが、ハリオノのピアノを聴いてたら自然と泣けてしまった。
 貴公子風イケメンの上に、観客の琴線をつかむ賢さ。
 この男はきっと日本で人気沸騰するね。
 そう予言する。

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浦和駅前のネオンサイン 











● ここでは時間が御馳走 映画:『お坊さまと鉄砲』(パオ・チョニン・ドルジ監督)

2023年ブータン、フランス、アメリカ、台湾
112分

お坊様と鉄砲

 『ブータン 山の教室』でデビューした監督の2作目。
 前作同様、ブータンの地方村の自然に囲まれたのどかな風景と、昔ながらの落ち着いた暮らしぶりが描かれている。
 いいなあ~。

 ソルティは還暦を過ぎた今、海外旅行には興味薄れているのだが、ブータンだけは行ってみたいなあと思う。
 首都ティンプーは、ドルジ監督の前作で描かれていたように、近代化が進んで、もはや日本の都市と変わらない有り様のようだが、田舎に行けば“昔の日本”にタイムスリップした感覚を味わえるんじゃないか。
 “昔の日本”がいつ頃なのか、しかと分からぬが。
 1980年代には、「台湾に行けば“昔の日本”と出会える」という謳い文句を旅行雑誌によく見かけた。
 ホウ・シャオシェンの映画を観ながら台湾に憧れたものだ。(結局、行く機会を逸した)
 2018年秋に四国遍路で出会った台湾の青年の話では、台湾では開発が進んで環境破壊が社会問題になっているとのこと。
 “昔の日本”も失われてしまったかもしれない。
 
山肌掘削
愛媛県の遍路道で見た景色

 本作は2006年のブータンの山奥の村が舞台。
 前年に第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが、退位と選挙制による民主化(立憲君主制)への移行を表明したため、2007年にブータン初の総選挙が行われることになった。
 選挙や議会がどういうものか想像もつかない村人たちのために、役人たちは地方を回って模擬選挙を実施する。
 そこで起こる混乱やハプニングをユーモラスなタッチで描いた作品である。

 模擬選挙の実施を前に、村中から敬われている老僧はひとつの決断をし、弟子に申し付ける。
「鉄砲を2丁用意せよ」
 弟子は山を下りて、村中を巡って、鉄砲を探す。
 一方、銃コレクターの米国人は、南北戦争時代の古い鉄砲を村人が所有していることを知り、破格の高値でそれを買おうと試みる。
 鉄砲は、老僧を敬愛する持ち主によって、無償で弟子に手渡された。
 弟子に先起こされた米国人は、彼を追って山に登り、老僧がとり行う儀式に参列することになる。
 いったい、老僧は何を考えているのか?
 儀式とは何なのか? 

 まず、西洋人をはじめとする世界各国の人々が命をかけて闘って勝ち取ってきた民主主義が、ブータンでは国王から与えられたというところが面白い。
 国民の多くは国王に対する深い敬愛の念を持ち、今の制度や生活に満足していた。
 取りたてて変化は望んでいなかった。
 上から与えられた民主主義なのである。
 君主制と民主制、どっちが国民にとって良かったのか。
 結果はこれから先に見えてくるのだろう。

 ブータンの仏教も興趣深い。
 国民の多くはチベット仏教を信仰している。
 チベット仏教は、テーラワーダ仏教(小乗仏教)、大乗仏教、密教、タントラ、土着のボン教、転生活仏(ダライ・ラマ)などをごった煮した「仏教の総合デパート」みたいな、よく分からないものなのだが、とりわけ、インドの後期密教に由来するタントラ色(性的要素)の強さが、現代日本人からするとビックリ仰天である。
 ブータンではいまも男根信仰が一般的で、力のシンボルとして、あるいは魔除けとして、男根を家の外壁に描いたり、簡素化したオブジェを軒先に吊るしたりすると言う。
 本作においても、老僧がとり行う重要な儀式の際に、立派な男根のオブジェが用いられる。
 このオブジェの最終的な行方には吹き出した。

金精大明神
秩父巡礼で通った金精大明神
日本でもかつては男根信仰がよく見られた

 本作を観たあと、TVで現在建設中のリニア中央新幹線の映像を観た。
 最高時速500kmに及ぶ超電導磁気浮上式リニアモーターカーで、東京ー名古屋間を40分で結ぶ。
 開業は2037年以降の見込みという。
 移動経過そのものが旅の楽しみの一つであるソルティにしてみれば、東京-名古屋を40分で移動することに「何の意味があるの?」という感じしか持てない。
 原則トンネル内を走るので、外の景色もほとんど見られない。(時速500kmでは富士山も楽しめまい)
 「いや、仕事で使えるでしょ?」と言う声もあろうが、インターネットやZOOMがある現在、高い経費を払ってわざわざ移動したり出張したりする必要があるのだろうか? 

 はたと気づいた。
 ソルティが求めている“昔の日本”とは、つまるところ、「時間の豊かさ」を意味しているのだ。
 なにものにも追われない、ゆったりとした濃密な時間。
 過去にも未来にもせかされない「今ここ」の生。
 目の前の相手だけが大切な、一期一会のこころ。
 茶道に通じるようだが、なんのことはない、誰でも知っている子供の頃の日常である。
 最適化とか効率とか費用対効果とか役に立つ付き合いとか、そういった功利的な概念に冒されない世界でこそ味わえる時間の豊かさ。
 この映画に出てくるブータンの田舎の人々は、そういう時間を生きているのである。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損














● なんなら、奈良24(奈良大学通信教育日乗) 豊臣兄弟の手柄?

 昨年12月半ばに受けた書誌学の試験結果が郵送されてきた。
 無事、合格(80点)。
 ほっとした。

 事前に提示されている5つの設題のうち、当日出題されたのは「初印本と後印本の区別の方法について述べよ(出題番号9)」だった。
 もちろん、ソルティは5つの設題すべてについて自分なりに回答を作成し、がむしゃらに暗記して試験に臨んだ。
 が、5つの中で一番自信が持てない回答がまさに9番だった。
 字数は500字に届かず、答案用紙の1/3も満たない。
 これで大丈夫だろうか?
 試験直前、「9」という数字が板書されたのを見たとき、「あちゃー!」と心の中で叫んだ。
 記憶したままを書き写すほかなかったが、20分ほどで終えてしまい、試験会場から一番早く退出した人間になってしまった。
 正直、合格するかどうか自信がなかった。
 高尾山初詣(DA・I・KI・CHI!)が効いたのかもしれない。

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高尾山頂から

 今回、書誌学を学んで初めて知り、「へえ~」と感心したことの一つは、豊臣秀吉と活字印刷との関係であった。
 日本の印刷は古来、版木に文字を左右逆に彫ってその上に墨を塗り、料紙を置き、バレンでこすって印刷する、いわゆる製版印刷が主流であった。
 室町時代になって活字印刷が始まるのだが、そのきっかけを作ったのが秀吉の朝鮮侵攻(1592文禄の役&1597慶長の役)だったのである。
 秀吉の武将である小西行長、加藤清正らが、書物や工人とともに銅活字を略奪してきたのが、日本における活字印刷の端緒となった。
 これを古活字版と言う。
 ちなみに、活字印刷とは、1字ずつ独立した文字を彫刻し、これを配列組み合わせて原版にし、印刷する方法である。

 実は、活字印刷の流入にはもう一つ別のルートがあった。
 天正18年(1590)、布教のために長崎にやって来たスペインやポルトガルのキリスト教宣教師たちもまた、活字印刷機・アルファベット活字・付属器具・印刷技師を持ち込み、印刷を始めた。
 これをキリシタン版と言う。
 よく知られるように、徳川家康は厳しい禁教対策をとった。
 慶長18年(1613年)に出されたキリスト教禁止令により、キリシタン版は姿を消すことになり、以後は古活字版のみが定着した。
 キリシタン版は、宣教師やキリシタン学校の教師用の教科書(『平家物語』や『後漢朗詠集』などの文学書もあった)と、修道士や信徒用の宗教書など、禁止までの約20年間に50点に及ぶ書籍が印刷されたと思われるが、現存するのは約30点のみである。

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江戸時代の踏み絵

 秀吉のもたらした古活字版は、江戸時代初期に隆盛を極め、徳川家康自らが銅活字を鋳造し出版事業を行ったほか、『日本書紀』、『万葉集』、『伊勢物語』、『竹取物語』、『枕草子』、『古今集』、『太平記』などが初めて出版され、多くの人が日本の古典に触れる機会をつくった。
 また、印刷出版が商売として成り立つ基礎がつくられ、京都の本屋新七をはじめとする本屋が生まれた。
 これが、昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で描かれた寛政期の蔦屋重三郎ら出版プロデューサらの輩出につながるのである。(もっとも、古活字版は50年ほどで廃れたので、『べらぼう』に出てきた本は、基本的に製版印刷の袋綴である)

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徳川家康鋳造の銅活字

 今年の大河ドラマはまさに『秀吉兄弟』。
 豊臣秀吉と秀長の天下取りまでの苦難と兄弟愛が描かれる。
 秀吉の朝鮮侵攻と活字印刷のはじまりも描かれるかなあ~と思ったが、調べてみると弟・秀長が亡くなったのは、天正19年(1591)、朝鮮侵攻の前年である。
 秀長は朝鮮侵攻に関わっていないのであった。
 ドラマで朝鮮侵攻まで描かれるか分からない。 
 秀吉の右腕で、ただ一人直言できるいさめ役であった秀長が生きていれば、秀吉の無謀な朝鮮侵攻はなかったかもしれない。
 でも、その場合、古活字版は登場しなかった。
 日本の印刷の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。

 奈良大学で歴史文化財を学ぶようになって得た特典の一つは、大河ドラマを見る楽しみが格段と増したことである。
 とくに今回は、秀長を演じる仲野太賀と、秀吉を演じる池松壮亮の両人とも、演技が達者(かつイケメン)なので、見ごたえがある。

飛雲閣
京都の飛雲閣(国宝)
秀吉が建てた聚楽第の一部を移築したものではないかと言われる。






























● 映画:『けものがいる』(ベルトラン・ボネロ監督)

2025年フランス・カナダ
146分

けものがいる

 原題は La bete
 フランス語で「獣」の意。
 ヘンリー・ジェイムズの『密林の獣(The Beast In The Jungle)』という小説が元ネタだというが、原作とはまったく別物と考えていいだろう。

 本作はいろいろな映画を思い起こさせる。
 一番近いのはウォシャウスキー姉妹(もと兄弟)の撮った『クラウドアトラス』ではないかと思う。
 つまり、輪廻転生をテーマにした人間ドラマなのである。

 3つの時代が行き来され、ガブリエルという名の女性と、ルイという名の男性の、互いに強く惹かれ合いながら結ばれることのない関係が描き出される。

 まず、20世紀初頭のパリの上流社会。
 人形制作会社の社長夫人でピアニストのガブリエルと独身貴族のルイは、パーティでの再会をきっかけに何度も逢瀬を重ね、関係を深めていく。
 しかし、ガブリエルの抱える精神的問題――自分も世界もやがて破滅するという予感――や人妻という立場がネックとなって、2人は結ばれることのないまま、人形工場の火災に巻き込まれて死んでしまう。

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SecouraによるPixabayからの画像

 次は、2014年のロサンゼルス。
 売れないモデルのガブリエルは、30歳にして童貞のルイにストーカーされる。
 ガブリエルはルイを受け入れようとするが、自らの人生や社会を呪うルイの心をほぐすことはできず、仮住まいの豪邸のプールでルイに射殺されてしまう。

 2025年、なにか破滅的なことが人類に起こった。(これはくわしく語られない)
 その結果、人間社会はAI管理社会に移行し、人類の多くはAIに仕事を奪われる。
 感情を制御することのできる人間だけが高等な仕事を与えられ、それができない人間は単純労働しか与えられない。
 感情を制御するためには、DNAを浄化することによって前世から持ちこしたトラウマを取り除く作業が必要で、それには専用の装置に入って、自らの前世を追体験しなければならない。

 2044年、単調な仕事に飽き飽きしたガブリエルは、やりがいある仕事を得るためにDNA浄化を考える。
 が、自らの感情を失ってしまうことに大きな不安を覚える。(感情を失えばもちろん恋もできなくなる)
 そんなとき、自分と同じく職探しをしているルイと出会う。
 DNA浄化を決断したガブリエルは、装置の中で自らの前世をたどり、繰り返されるルイとの関係を記憶によみがえらせる。
 20世紀初頭のパリで、2014年のロスで、前世で幾たびも出会い、互いに惹かれ合い、結ばれる直前まで行きながら、それぞれの不安や自信の欠如や恐れから成就することのなかった恋の相手だったことを知る。
 それを知ったいま、何百年の時を超えてついにルイと結ばれる時が来たと喜びにときめくガブリエルだったが・・・・・。

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Hello Cdd20によるPixabayからの画像

 20世紀初頭のシーンは、上流社会の贅沢な生活ぶりとそこで交わされるウィットに富む会話のさまが、ヴィスコンティの『イノセント』やアラン・レネの『去年マリエンバードで』を想起させる。
 オペラ『蝶々夫人』やシェーンベルクの音楽などが言及されるなど、全体に文芸調である。この部分はヘンリー・ジェイムズの小説世界にもっとも近い。
 1910年1月に起きたセーヌ川氾濫によるパリ水没など、実際の事件を取り入れてリアリティを高めている。

パリの洪水

 2014年のシーンは、ストーカーにつけ狙われる若く美しい女性というプロットのため、『サイコ』を筆頭とするサイコサスペンス映画の様相をみせる。
 ここでも、2014年8月に起きたマグニチュード6のロサンゼルス地震をサスペンスを高めるのに利用している。

 2044年のシーンは、近未来という点でSF仕立てである。
 科学(AI)が人類を支配する社会、人類の感情が平板化しロボット化する社会という点で、『マトリックス』や『ガダカ』あたりを連想する。
 DNAに書き込まれた前世のトラウマを取り除き、感情に振り回されない人間になることが求められるという設定が、あたかも、瞑想修行によって悟りをひらき「欲(貪)」と「怒り(瞋)」と「無知(痴)」によって駆動する輪廻転生からの解脱を目指す仏教の言説をなぞっているようで、面白かった。
 たしかに、仏道を徹底するところに恋愛は成立しない。 
 人間的感情を捨象したところに仏教の悟りはあるからだ。
 その意味では、ジブリの『かぐや姫の物語』とも符合する。

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 コスチュームプレイとサスペンスとSF、そして恋愛とスピリチュアル。
 1つの作品で5つの映画を観たようなオトク感がある。
 写実に富みながらもスタイリッシュな映像も見ごたえ十分。
 同一のセリフやシチュエイションを3つの時代で共起させ、輪廻転生の不可思議を感じさせる脚本もよくできている。
 おそらく、一度観ただけでは設定や構成がわかりにくく、無駄に長いと感じる人も多いかと思う。
 が、観るたびに作り手が仕組んだ仕掛けを発見するパズルのような映画と思う。
 ソルティは気づかなかったが、主役の2人(ガブリエルとルイ)以外にも、3つの時代に共通して登場する転生者、すなわち同じ役者がいるのではないかと思う。 
 そもそも、「けもの」とはいったい何なのだろう?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● もしもチェロが弾けたなら : 新交響楽団 第272回演奏会

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日時: 2026年1月12日(月)14:30~
会場: 東京芸術劇場コンサートホール
曲目:
  • 坂田 晃一: 管弦楽のための「詩篇」― “Don’t Stop Talking About Them”―世界初演
  • マーラー : 交響曲 第3番 ニ短調
      アルト: 池田 香織
指揮: 矢崎 彦太郎
女声合唱: 東京アルカイク・レディースシンガーズ
児童合唱: 東京少年少女合唱隊

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 昨今、アマオケの演奏会においても、錦糸町トリフォニーホール(約1800席)やミューザ川崎シンフォニーホール(約2000席)、そしてこの池袋芸劇(約2000席)のような都内有数の大ホールが満席になることが多い。
 アマオケの質の向上や営業努力もさることながら、クラシックファンが増えているのは――少なくとも都会では――間違いないように思われる。
 また、仏像展や絵画展などに行っても混雑していることが多く、「いつの間に日本人はこんな文化度の高い国民になったのだろう?」と思ったりする。
 考えてみるに、人口の多い団塊の世代が次々と定年を迎え、文化活動に余暇を当てる人が増えたからなのかもしれない。
 ソルティが20年前から続けている山歩きも、ここ数年、一挙に仲間が増えた感がある。
 とくに平日単独行の男性高齢者が増えた。
 平日の登山者が多くなったことは、山中ひとりぼっちの孤独と静寂が得られ難くなった面がある一方、心強くもある。
 加齢による体力低下に加え、最近のクマ騒動もあって、平日の単独行が怖くなったのだ。
 「熊出没注意‼」の標識の下でお弁当を広げていた時代が懐かしい。

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 ほぼ満席の東京芸術劇場。
 2階センターブロック上段の一番前列に席を取った。
 舞台全体がよく見える。
 音も極めて良かった。
 以前、芸劇の3階席ではあまりいい印象を受けなかった。
 2階席は、ステージから音がじかに飛び込んできて、全身が音に包まれ音波にもみくちゃにされる感覚が得られた。
 実際、今回のマーラー交響曲第3番は、細かいところがどうのこうのよりも、「マーラーという巨大な波に乗って、大海原を滔々と周遊」した気分であった。
 
 第1楽章から、音波は頭蓋骨を突き抜けて脳を振動させた。
 電子レンジに入れた冷凍食品のように、脳は震え、熱を帯び、分子構造を変え、固体から液体になって、頭蓋骨の隙間から脳ミソがとろけ出すかのようであった。
 第2、第3と楽章が進むにつれ、音波の矢は額、胸、腹部と的を移し、突かれたチャクラが口を開き、中から沸き上がる“気”によって体の輪郭がおぼろになった。
 第4楽章のアルトの独唱も効いた。
 いつもは他の楽章に埋もれがちな第4楽章が、これほど際立ったのははじめて。
 独唱者の池田香織がイゾルデやブリュンヒルデなどを歌えるワーグナー歌いであることも大きい。
 強靭で芯のしっかりした意志的な響きが、背骨から尾骶骨へと振動を伝え、骨盤底にあるムーラダーラチャクラに気を集めた。
 第6楽章はもはや音による全身マッサージ。
 客席がそのまま温浴施設にあるマッサージチェアに変貌したかのごとく、全身の筋肉や神経の緊張がほぐれて、気力がよみがえり、免疫値が上がった――ように思えた。
 すっかり音に蹂躙された“オケ初め”であった。

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 今回初めて知ったのだが、新交響楽団のチェロパートの中に、なんと坂田晃一がいた!
 坂田晃一と言えば、昭和時代に活躍した作曲家で、NHK朝ドラ『おしん』、大河ドラマ『おんな太閤記』、『春日局』、アニメ『母をたずねて三千里』、TBS『東芝日曜劇場』などのテーマ曲のほか、西田敏行『もしもピアノが弾けたなら』、杉田かおる『鳥の詩』、ビリーバンバン『さよならをするために』など昭和歌謡の名曲&ヒット曲を数多く作った才人である。
 ちなみに、ソルティがもっとも好きな曲は、山本達彦の歌った「アゲイン」である。 
 よもや、アマオケの楽団員の一員としてチェロを弾いているなんて、想像もしなかった。
 それもこれも、今回の前プロが坂田晃一作曲『管弦楽のための「詩篇」』であったがゆえに、曲が終わった際に指揮の矢崎がチェロパートの先頭にいた坂田を観客に紹介したがゆえに、知った事実である。
 プログラムによれば「2016年から入団」とのこと。
 ソルティは2016年以降、新交響楽団のコンサートに6回足を運んでいるが、まったく気づかなかった。
 御年83歳。東京芸大の学生時代はチェロをやっていたらしいから、みんなと一緒に音楽を作っていた若かりし頃に戻る思いであろう。
 青春、アゲインだ。

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芸術劇場2階から見渡す池袋駅西口






● キュートな神たち :静嘉堂@丸の内「たたかう仏像」展

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 JR東京駅丸の内南口から徒歩5分、皇居のお濠に面した明治生命館1階に静嘉堂(せいかどう)@丸の内はある。
 三菱2代目社長岩崎彌之助と4代目社長岩崎小彌太の親子によって創設・拡充された文庫美術館で、国宝7件、重要文化財84件を含む約6500件の東洋古美術品と約20万冊の古典籍を所有している。
 静嘉堂の母体はいまも世田谷区にあるらしいのだが、創設130周年を迎えた2022年10月より、現在の丸の内明治生命館にて展示活動を始めたとの由。
 ソルティは、昨年日比谷図書文化館で見つけたチラシで、その存在を知った。
 1月2日から開催されている「たたかう仏像」展に足を運んでみた。

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明治生命館(重要文化財)
1934年(昭和9)竣工。
古典主義を採り入れた我が国近代洋風建築の代表作。
設計は岡田信一郎。
背後に建つのは明治安田生命ビル。

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明治生命館1階ホワイエ
ここで1杯1000円のコーヒーを飲むのもオツなもの。

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静嘉堂@丸の内入口
休日だったので混んでいた。
じっくり観るならウィークデイ(月曜休館)がおすすめ。

 今回は、四天王・十二神将・不動明王など甲冑を身につけ怒りの表情を見せる 「たたかう仏像」をテーマに、彫刻・絵画・刀剣などが4部屋に分かれて展示されている。
 さらに、仏像の鎧のルーツと言われる中国・唐時代の神将俑も紹介されている。  
 こちらは17年ぶりの展示とのこと。
 ちょうど学芸員さんの特別レクチャーがある日だったので、鑑賞前に見どころを聴くことができた。

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中国・唐時代(7世紀後半)の神将俑
俑(よう)とは、中国の墓の中に納められた人型の副葬品。
もっとも有名なのは、秦始皇帝陵の兵馬俑である。

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唐時代(8世紀)の神将俑

神将俑
奈良大学のスクーリングで訪れた天理参考館でみかけたこの2人。
野球拳をしているかと思ったが、墓を守る神将俑だったのね。

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秦始皇帝陵兵馬俑
Allan LeeによるPixabayからの画像

 ここの収蔵品の中でもっとも貴重とされているのは、南宋時代(12~13世紀)に建窯で作られた曜変天目という名の茶碗であろう。
  ソルティは陶器についてまったくのド素人なのでその価値がよくわからないが、プルシアンブルーの見込み(茶碗の内側部分)に玉虫色に輝く泡状の斑紋が散らばって、あたかも星雲や銀河を宿す宇宙空間の如き美しさ。
 完全な形で残っているのは日本に3碗しかなく、もちろん国宝指定されている。
 一見の価値あり。(これだけ撮影NGであった)

 ソルティが一番惹かれたのは、鎌倉時代につくられた十二神将立像。
 もともと京都・浄瑠璃寺の三重塔内にあって、平安時代に作られた薬師如来像を囲んでいたらしい。
 それが明治時代に流出し、所有主を転々としたあげく、現在、トーハク(東京国立博物館)に5体、静嘉堂に7体あるとのこと。
 像の素晴らしさから一時は運慶作ではないかと議論が盛り上がったが、修復作業中の平成29年(2017)、静嘉堂にある亥神像の頭部背面から墨書銘が発見された。
 そこには「安貞二年 八月、九月」と書かれていた。
 運慶が亡くなったのはそれより5年前の貞応2年(1223)なので、運慶作ではないことが証明されたのである。
 しかし、運慶作であろうがなかろうが、素晴らしさは変わりない!
 運慶以後の鎌倉彫刻の写実性と迫力を備えながらも、人間らしい、というか童子のような自由奔放な感情の発露とキュートさが感じられる。
 ソルティは、運慶の三男・康弁がつくった興福寺国宝館の木造天燈鬼・龍燈鬼立像を連想してしまった。
 康弁でないとしても、運慶の息子、孫たちによってつくられた可能性は高いと思う。  

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寅神
すべてヒノキの寄木造である

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卯神
頭上にそれぞれの干支(えと)の動物を乗せている。

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午神
今年の干支です

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え~と?

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酉神
「エイ、エイ、オー!」
歯や舌の緻密な表現が、先秋、東京国立博物館で開催された興福寺北円堂展の広目天を思わせる(康弁作と考えられている)。

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亥神

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矢が曲がっていないか確かめている。
実に人間っぽい表情と仕草ではないか。

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なんと! 兜を外すことができる!
この頭の中に墨書銘があったのか・・・

 今回展示されなかった残り2体と、東博にある5体の十二神将像も観てみたい。
 しかし、休日とはいえ、あんな混んでいるとは思わなかった。
 若い人も多かった。
 仏像人気ってほんまもんなんだ。
 次回は、空いているウィークデーに行こう。
 一杯1000円のコーヒーもおごってみよう。

コーヒー














 







● 本:『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』(エヴァン・トンプソン著)

2020年原著刊行
2024年Evolving(藤田一照+下西風澄・監訳、護山真也・訳)

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 本書は、欧米の仏教シーンで主流となっている仏教モダニズムに対する批判書である。
 仏教モダニズムとはなにか?

仏教モダニズムは特に西洋において支配的な仏教の流れで、伝統的なアジア仏教の形而上学的・儀式的要素を軽視する代わりに、個人的な瞑想体験を強調し、仏教がキリスト教、イスラーム、ヒンドゥー教など他の有神論的な宗教とは違って合理的で経験的なものだという考え方を喧伝しています。
 
 そのよくある指標として、たとえば、次のような特徴が上げられる。
  • 「仏教は科学と親和性が高い」、「仏教は心の科学」、「仏教は宗教というより哲学」といった仏教の“宗教性”を否定する言説。
  • 座禅やマインドフルネス瞑想の重視――これらが脳の働きを変えることは科学的に裏付けられており、その実践により、ストレスの軽減や集中力の向上をはじめとする様々な有益な効果が期待できる。
  • 仏教例外主義――仏教はほかの諸宗教より優れている。
 要は、前近代までの伝統的仏教から神秘的要素をできるだけ抜き去り、近現代の価値観に合致する形に変えて、多くの人に受け入れやすいものにした仏教ということである。
 なので、ここで批判されているのは伝統的仏教ではない。

 著者のエヴァン・トンプソンは1962年アメリカ生まれの哲学者で、認知科学、心の哲学、現象学、異文化哲学などを専門としている。
 本書には、著者が自らの生い立ちを語っている部分がある。
 エヴァンの父親ウィリアム・トンプソンは、一種の宗教的コミューンであるリンディスファーン協会の創設者であった。

リンディスファーン協会(1972–2012)は、文化史家ウィリアム・アーウィン・トンプソンによって組織された非営利財団であり、多様な知識人のグループで、「新しい惑星文化の研究と実現」を目的としていました。

リンディスファーン教義は創始者ウィリアム・トンプソンの教義と密接に関連しています。リンディスファーン思想の一部として言及されているのは、ヨガ、チベット仏教、中国伝統医学、ヘルメティシズム、ケルトアニミズム、グノーシス主義、カバラ、地相術、レイライン、ピタゴラス派、古代神秘宗教など、多くの精神的・秘教的伝統です。
(ウィキペディア「リンディスファーン協会」より抜粋)

 エヴァンがどのような環境の下で生育したか、想像する手がかりになろう。
 教育は自宅で受けていたため、同年齢の子供と付き合う機会は限られていたようだ。
 当時、協会では禅仏教や瞑想が流行っていた。
 エヴァンも自然と仏教に親しみを覚えるようになり、ナーガルジュナ(龍樹)ヴァスバンド(世親)、ダルマキールティ(法称)、ツォンガパなどの仏教哲学を学ぶようになり、大学の卒業論文には日本の哲学者・西谷啓治をテーマに選ぶ。 
 その後、認知科学者との出会いから、1991年に『身体化された心――仏教思想からのエナクティヴ・アプローチ』(工作舎)という本を共著で出版した。これは、仏教哲学や瞑想が、認知科学と関連することを明らかにした最初の学術書だそうである。
 2001年には「心と生命研究所」の仕事に携わり、ダライ・ラマと科学者・哲学者らとの対話の場を設けるなどしている。
 また、机上の学問だけでは飽き足らず、何年間も瞑想実践を積んだことが記されている。

 経歴から分かるのは、エヴァンが非常に仏教に詳しい人間であり、瞑想の実践者でもあること。そして、彼こそが欧米における仏教モダニズムの旗手の一人であったという事実である。
 つまり、本書はエヴァンによる自己批判の書であるとも解される。
 原題の Why I Am Not Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」には、そのようなニュアンスが含まれているのである。
「仏教徒あるいは仏教僧になっても全然おかしくないような道を自分はずっと歩んできた。でも、自分は最終的に仏教徒にはならなかった。その理由をここで告白するよ。」

琴弾八幡宮の黒猫

 本書で展開される仏教モダニズム批判の中味を完全に理解するのは、難しい。
 ソルティは2回読んだが、理解できたのは8割くらいで、残り2割はチンプンカンプンだった。
 というのも、ここでエヴァンが批判のツールとして用いている認知科学、現象学、伝統的な仏教哲学について、ソルティはあまりに疎いからである。
 エヴァンは、仏教モダニズムを象徴する典型的な本として、進化心理学の見地から仏教の正しさを説いたロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』(原題:WHY BUDDISM IS TRUE)を取り上げて、容赦なく叩いている。
 その手さばきは快刀乱麻の如しなのだが、科学ジャーナリストのライトが書いた進化心理学の説明は理解するのにさほど苦労は要しないのに、哲学者であるエヴァンの書いた批判は難解で理解するのが難しい。

 それは単純に、ソルティの哲学・科学・仏教哲学に関する素養が欠けているためである。
 俗に「読書百遍、意おのずから通ず」と言うけれど、文中で用いられている言葉や概念に関する基本的知識がなければ、何度読み返そうが、あるレベル以上の理解は無理である。
 と言って、本書の内容を完全に理解するために、たとえば今から現象学について勉強するのも億劫なので、8割の理解で良しとするほかない。
 その8割の理解でエヴァンの言わんとしていることをソルティ流にまとめるならば、次のようになる。
  • 仏教モダニズムは科学とは言えない。それは、宗教と科学に関する誤解から成り立っている。
  • 人間の行動のすべてを脳の働きによって説明するのは間違いである。また、坐禅や瞑想が脳に作用し脳を変容させるという科学的根拠は疑わしい。
  • 仏教は涅槃や悟りに対する信仰であり、「超越的なものに対する感覚を育み、日常的経験を超えたものへの感性を醸成する」という点で宗教にほかならない。キリスト教やイスラム教など他の宗教にくらべて、例外的に優れているわけではない。
  • コスモポリタニズム(あらゆる人間が宗教や民族にかかわらず単一の共同体に属しているという思想)に貢献するために、仏教例外主義は排されなければならない。
 エヴァンはこう語る。

なぜ私は仏教徒になれなかったのか。これまで何年にもわたる自分自身の経験をより大きな歴史的な視点からふりかえってみて、ようやく私はその理由にたどりついた。私はもとから伝統的なテーラワーダ仏教や禅仏教、チベット仏教の僧院に入る気持ちを持ち合わせていなかったため、自分が仏教徒になれるとすれば、仏教モダニストになる道しかなかった。だが、ふたを開けてみれば、仏教モダニズムには哲学的な問題が山積していたのである。

琴弾八幡宮の白猫

 本書は、Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」という問いに対するエヴァンの個人的理由の提示であると書いた。
 それは自動的に、次のような問いをソルティに突きつけることになった。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 ソルティは、もう20年近くテーラワーダ仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想を続けている。
 いったい、それはなぜなのか?

 実は、恥ずかしながら本書で初めて知ったのだが、仏教モダニズムの起源は、欧米ではなくアジアにあった。それも、ミャンマーやスリランカなどのテーラワーダ仏教国に端を発しているとされている。

仏教モダニズムは、19世紀、20世紀のアジアで、当時隆盛していた仏教の改革運動と、西洋伝来の宗教や科学、および政治的・軍事的な支配が遭遇するなかで誕生した。特にビルマ(ミャンマー)とセイロン(スリランカ)の仏教改革運動の担い手たちは、イギリスの植民地主義と宣教師たちが伝えるキリスト教に対抗すべく、国家宗教としての仏教を再度主張することを試みた。彼らの主要な戦略のひとつは、仏教を近代世界に適した唯一の科学的な宗教として提示することだった。仏教モダニズムは、自分たちの考えが仏教にもとからあった本質的なものだと示しているが、そのような形態の仏教を強力に形づくったのは、プロテスタントの価値観であり、ヨーロッパの啓蒙主義の価値観だったのである。

 ソルティは、主として日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老から仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想の指導を受けた。
 テーラワーダ仏教を奉じる他のお坊様の本(たとえばタイ出身のポー・オー・パユットの『仏法 テーラワーダ仏教の叡智』や、ミャンマー出身のウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』など)を読んだこともあれば、講話や瞑想指導に参加したこともある。
 が、根幹をなしているのは、スマナサーラ長老を通訳とするお釈迦様の教えである。
 スマナサーラ長老はスリランカ出身の僧侶である。
 ということは、仏教モダニズムの流れを汲んでいる可能性があるだろう。
 たしかに、ソルティが初めて読んで感銘を受け、渋谷区幡ヶ谷にあるゴーターミー精舎を訪れるきっかけをつくったスマナサーラ長老の本のタイトルは、ずばり、『仏教は心の科学』(宝島社)であった。
 ソルティもまた、仏教モダニズムに冒されているのだろうか?

 然り。その傾向は多分にある。
 当ブログの仏教タグに収録されている過去記事を見れば、それは明らかである。
 テーラワーダ仏教の科学性を称えたり、ヴィッパサナ瞑想が脳に及ぼす効果を喧伝したり、唯一神や魂の存在を説かない仏教の脱“迷信”性をもって他の宗教より優れていると匂わせたりしている。
 エヴァンから見たら、ソルティは“立派な”仏教モダニストであろう。
 ただ、誤解のないように言えば、これはスマナサーラ長老の教えの影響というより、テーラワーダ仏教と出会ったことで得られた喜びがあまりに大きかったので、「ひいきの引き倒し」のような現象が生じてしまったせいである。
 本来なら、テーラワーダ仏教を持ち上げるために、科学を持ち出す必要もなければ、他の宗教を貶める必要もない。 
 とりわけ、他の宗教を信仰する人とのコミュニケーションを阻害する「(テーラワーダ)仏教例外主義」的言動は慎まなければならない。

 一方、これだけは言える。
 ソルティは仏教モダニズムにかぶれてテーラワーダ仏教を信仰しているわけでもなければ、ヴィッパサナ瞑想を実践し続けているわけでもない。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 それは、テーラワーダ仏教が、現世において、智慧を開発し、心の苦しみを失くすことに役立っているからである。
 それは自分の中で体験的に実証されているから、否定しようがない。

 瞑想を始めた頃は、「悟りたい」「特別な自分になりたい」という動機こそあったけれど、20年近く経った今では、「智慧を得ること。それによって日常生活で生じる苦しみを減らすこと」が一番の修行理由となっている。
 「悟りたい=悟れない」という呪縛からようやく解放され、日々たんたんと瞑想を実践している。

 これから老いが進むにつれ、若い時にはわからなかった様々な苦しみの種が待ち受けているであろう。
 ブッダの教えとヴィッパサナ瞑想は、それと立ち向かう際の護符のようなものだと思っている。
 なので、現在自分が学んでいる仏教が「仏教モダニズム」なのかどうかは、どうだっていい。
 生きていく上で役に立つか、立たないかが、重要なのである。
 ただし、苦しみを失くすのに役立つ最強の武器が、神でもキリストでも阿弥陀信仰でも祈りでも聖書でも真言でも呪術でも滝行でもなくて、自らの瞑想修行によって獲得した智慧であるという点において、仏教もといテーラワーダ仏教は他の宗教とは一線を画しているとは思う。

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 さあ、これでエヴァンに問いを投げ返すことができる。
 Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」
 エヴァンの問いは、つまるところ、「仏教がエヴァンにとって益するものがなかった」ということを裏書きしている。
 カリスマ的な父親のつくった宗教的コミューンにおける禅仏教との出会いも、大学での仏教哲学の学びも、ダライ・ラマとの対話も、何年間にもわたる瞑想実践も、エヴァンの役に立たなかった。少なくとも、人生を生きていく上での護符や杖とするほどの価値をそこに見い出すことはできなかった。
 そういうことだろう。
 エヴァンはそれを仏教モダニズムのせいにしているけれど、はたしてそれだけが理由なのだろうか?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● アニメ開拓宣言 映画:『AKIRA』(大友克洋監督)

1988年日本
124分、アニメ  

AKIRA

 1月3日にNHK教育で放映されたものを録画視聴。
 20代の時にリアルタイムで劇場で観たような気もするのだが、内容をまったく覚えていなかった。
 ソルティはアニメ映画がそれほど好きでなかったし、バイクや戦車や戦闘機などメカニックにも興味持てないし、大友の描く世界は暴力的・マッチョ的匂いが感じられたので、惹かれなかったのだろう。

 ただし、1980年に発表された『童夢』だけは例外で、漫画という視覚芸術のもつ表現の豊かさと、ストーリー(いわゆるネーム)の形づくる文学性とが、日本漫画史上最高の完成度において結実したのがあの作品だと、今でも思っている。
 大友克洋の名前は『童夢』とともに残るであろう。

童夢
双葉社発行

 公開から38年経ってあらためて観た『AKIRA』には驚かされた。
 なんと言っても映像表現の凄さである。
 CGによる高度で自由自在な動画制作が可能となった今においても、まったく古さや稚拙さを感じさせない。
 88年の段階で、日本のアニメはここまでのレベルに達していたのかと驚嘆させられた。
 現在、世界各国から若者たちが日本にやって来るが、彼らの動機には「日本のアニメが好きだから」「子供の頃から観ていたから」というのが非常に多い。
 ソルティのまったく聞いたこともないような日本製のアニメの名前やキャラクターの名前を彼らが嬉しそうに口にするのを見ると、冗談のような気がしてしまう。
 日本のアニメの国際化(とくにネット時代に入ってからの)に対する自分の不明を突きつけられる。
 まさにその先鞭をつけたトップランナーが、この『AKIRA』と宮崎駿作品なのだろう。
 現在活躍する海外のクリエイターのどれだけ多くが、少年少女時代に『AKIRA』を観て、衝撃を受け、映像の道を進むきっかけとしたことか。
 その意味で、日本アニメ史における記念碑的作品と言っていいのだろう。

 ただし、最初から最後まで映像の凄さには驚嘆させられたものの、プロット的には不完全燃焼というか、尻切れトンボというか、『童夢』ほどの衝撃はなかった。
 作画のリアリティほどには、ストーリーのリアリティは担保されておらず、ラストに近づくにつれ、どんどん話が荒唐無稽のご都合主義になっていき、登場人物たちの心理もよくわからない突発的なものになっていく。
 まるで少年漫画のよう・・・・・
 ――ってこれは漫画だった。

  そう、ソルティがその昔アニメから“卒業”したのは、ストーリーのリアリティの無さ、単純で紋切り型のキャラクター、悪と正義の対決といった平板な世界観に飽いたからだった。
 以来、実写映画専門になった。

 しかるに、アニメもここ数十年でずいぶん変わった。
 大人の鑑賞に堪える――という言い方はいささか“差別的で”好きでないが――観た後に深い余韻を残すアニメも数多くある。
 たとえば、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)、『かぐや姫の物語』(2013)、もちろん『もののけ姫』、『風立ちぬ』などの宮崎駿作品・・・・。
 今年はアニメ映画をもっと開拓して行こう。



おすすめ度 :★★★★

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● DA・I・KI・CHI ! 高尾山薬王院初詣

 恒例の高尾山薬王院初詣。
 今年は世間一般が仕事始めとなる5日(月)に出かけた。
 ソルティは基本テーラワーダ仏教徒なので、日本の大乗仏教しかも密教である 真言宗は関係ないのだが、年の初めに高尾山の清新な空気に触れて、生きとし生けるものの幸福を、多くの参拝者と一緒に願うのは悪くない。
 家で飲食にふけりながらゴロゴロとテレビを観ているよりは、健康にも良い。
 朝8時に京王高尾山口駅で友人と待ち合わせ。
 ケーブルカーで山頂駅に登り、9時からの護摩法要に参列した。

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今年は午(うま)歳。どうも「牛」と読んでしまう

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東京スカイツリーと相模湾を望見

高尾山薬王院
薬王院本堂
平日の9時台は空いていた
外国人を一人も見かけなかった

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開山は行基菩薩(天平16年=744年)
東大寺大仏造立のための勧進に尽くした僧である
奈良では空海より行基が尊い

行基
近鉄奈良駅前の行基菩薩像

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天狗は本尊・飯綱大権現さまの眷属

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山頂から見た富士山
尊い!
近隣の部活高校生がたくさんいた

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知る人ぞ知る福徳弁財天
薬王院の裏手の洞窟におわします

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昭和天皇即位の年に築かれたという
岩に穿たれた防空壕のような5mほどの洞穴である

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一番奥におわします
弁財天は七福神のひとりで、音楽・福徳・学芸の神様
今年も奈良大学通信教育の勉強がはかどりますよ~に!

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帰りはリフトで下山
気持ちいい~

極楽湯
ふもとの極楽湯で温泉はじめ

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DA・I・KI・CHI !









 

● 本:『「あの戦争」は何だったのか』(辻田真佐憲著)

2025年講談社現代新書

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 著者は1984年生まれの評論家・近現代史研究家。
 今年42歳だ。

 自分より年下の人間が、ITや競馬について語っていたり、ファッションや映画について蘊蓄を垂れていたり、古代史や仏教史について本を書いていたとしても、別に何とも思わないのに、昭和史とくに“あの戦争”について語っていると、「お前に何が分かる?」というエラソーな気持ちになってしまうのは不思議なものである。
 ソルティだって、十分、“戦争を知らない子供たち”の一人であるのに。
 それこそ著者は、「戦争を知らない子供たち」ですら知らない子供たちである。

 おそらく、「実際に昭和を生きてきた」、「“あの戦争”を戦った人々のナマの声をずっと聞かされていた」、「昭和天皇を知っていた」という年の功(功なのか?)による身体記憶が、そういう上から目線を形づくるのであろう。
 ソルティの祖父世代(大正生まれ)は従軍経験者、父母世代は疎開体験者であり、折に触れ、戦時中の話を聞かされた。
 昭和時代には“あの戦争”に関連したドラマやドキュメンタリーが数多く作られた。
 街に出ると、傷痍軍人もとい戦傷病者の姿をたまに見かけたものである。

 84年(昭和59年)生まれだと、親世代は完全に戦後生まれ、祖父母世代は幼児記憶として戦争を知っているあたりであろう。
 昭和天皇崩御時はまだ4歳。
 戦争のようなheavyな話題が思いっきり避けられたバブル期に生を受けた世代で、選挙権をもつ頃(2004年)の首相は小泉純一郎、もっとも長く知っている首相は安倍晋三である。

 言いたいのは、“あの戦争”との距離感がソルティ以上の世代とはかなり違うということである。

 それは年の経過という当たり前の現象であって、平成生まれだろうがミレニアム世代だろうが、だれであれ、“あの戦争”を自由に語る権利がある。
 ソルティもたびたび当ブログ内で“あの戦争”について取り上げているが、ひょっとしたら、それを目にした年長者がネットの向こうで、「お前に何が分かる?」とつぶやいているかもしれない。
 “あの戦争”と日本人との距離は、どんどん遠ざかっていく一方なのである。

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沖縄本島南部のギーザパンダ(慶座集落の崖)
米軍からスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼ばれた

 そのことは、現内閣周辺に見られる好戦的気運の高まりという危険な兆候をもたらす一因となっているのは間違いない。
 「日本は核を持つべき」などという、昭和時代だったらその一言で公職辞職に追い込まれるような発言を、官邸幹部高官がオフレコとはいえ平気でするようになったのも、台湾有事などという世界情勢の変化以上に、“あの戦争”との距離感の広がりがもたらしたものである。
 米ソの対立が激しかった“冷たい戦争”の頃だって、有事は常にあったのだから。
 
 一方、“あの戦争”を史実や史料をもとに、より客観的・国際的・長期的な視点から分析し語ることのできるスタンスが得られるようになったのも、距離感の広がりゆえであろう。
 距離感の近い人は、どうしても個人的記憶というバイアスに影響されてしまうので、主観的・狭量的・短期的な物語を形成しやすいからである。

 1984年生まれの著者が書いた本書の意義は、その点に集約されよう。
 つまり、戦後左翼の好むGHQ(戦勝国)視点の物語(右翼言うところの“自虐史観”)でもなく、戦後右翼の好む大東亜共栄圏という物語(左翼言うところの歴史修正主義あるいはオヤジ慰撫史観)でもない、脱“昭和”世代の近現代史すなわち「われわれの物語」を提出しているのである。
 左右の不毛な対立にいい加減うんざりした若い世代が、まったく新しい「物語」を自分たちの未来のために作り出そうとする試みは、推奨して然るべきと思う。

 米国をはじめとする他国の歴史展示――ソルティ注:著者は海外の歴史博物館などを取材し一章を当てて紹介している――を手がかりにするならば、われわれが日本の歴史を語る際にも、「100点か0点か」といった極端な発想にとらわれる必要はない、という視点が重要になる。
 日本では、右派と左派がしばしばそうした二項対立に陥ることで、歴史論争が硬直し、建設的な対話が困難になってきた、しかし、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない。・・・・中略・・・・

・・・いま求められるのは、あの戦争を孤立したできごととして語るのではなく、幕末・明治維新以来の近代史全体のなかに位置づけ直すことだろう。
それは、日本の過ちばかりを糾弾することでも、日本の過去を無条件に称賛することでもない。過ちを率直に認めながら、そこに潜んでいた“正しさの可能性”を掘り起こして現在につなげる、言い換えれば「小さく否定し、大きく肯定する」語りを試みることである。それこそが、われわれの未来につながる歴史叙述ではないだろうか。

 この著者の試みが上手くいっているかどうかは、読者それぞれが読んで確認してほしいところである。
 ソルティ自身は、日本の近代史の「どの部分をどう否定し、どこをどう肯定するか」についての記述が具体性に欠けていると思ったけれど、それは本書が試論あるいは提言という性格のものであるため、あるいは紙幅の都合によるのかもしれない。
 今後、著者や後続の史家の中でさらに研究され、議論され、具体化され、熟していき、「われわれ(脱昭和世代)の物語」として形成されていくのだろう。
 平和の意志、反戦思想だけは強く持して、それをやっていただけたらと願っている。

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平和祈念公園にある平和の灯

 ときに、歴史叙述とはまた別のところで、ソルティが“あの戦争”から学ぶ大きなものがある。
 日本人の国民性である。
 戦争という非常事態、命にかかわる緊急事態だからこそ、国民性の根幹が露わになる。
 平和な時には曖昧にぼやかされている、あるいは美点として指摘されるような、“集団としての日本人の特質”が、先鋭化されて発現する。
 それは日本だけでなく、他の国でも同様である。
 ドイツ人の国民性はナチスドイツ時代において最も露わにされたし、アメリカ人の国民性は9・11直後において最も端的に世界に伝わった。

 そうした観点から“あの戦争”を振り返った時、日本人の国民性としてしばしば指摘されるのが、著者も本書で言及している「司令塔の不在」すなわち「リーダー欠如の無責任体質」であり、もっとも重要なことを「空気で決める」非合理性であり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「寄らば大樹の陰」の同調圧力に弱い集団主義である。
 ミステリー作家としても有名な笠井潔は、それを厳しく批判し、ニッポン・イデオロギーと名づけた。
 
 残念ながら――というか致し方ないことではあるが、この体質=国民性は“あの戦争”の時も、あれから80年経った今も、少しも変わっていないと思う。
 むしろ、昨今の排外主義の高揚や多様性に対する無理解の言説をみるに、あるいはLINEやSNSなどスマホ依存にはまった若い世代をみるに、令和の日本人のほうがニッポン・イデオロギー度が高まっているんじゃないかとソルティは危惧している。
 つまり、戦争になったら、日本人はまた同じことを繰り返すだろうと――。

 “あの戦争”を肌身で知っていた昭和の先輩たちは、そのことをよくわかっていた。
 だからこそ、たとえ“自虐史観”と揶揄されようが、声を大にして、非戦・護憲を訴えていたのだと思う。
 “あの戦争”の物語を新たにつくっていく脱昭和世代の心に留めておいてほしいのは、そのことである。
 

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