ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● プロトタイプ寅さん 映画:『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎監督)

1963年松竹
99分

 渥美清と言えば「寅さん」であるが、ソルティは山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズをこれまでに3本しか見ていない。
 20代の頃に旧作2本と新作1本を観て、どうにも面白さを感じられず、「これは自分向きじゃない」と早々に退却してしまった。
 なので、渥美清という役者の魅力がいま一つ分からないでいた。
 彼をテレビで観ることはほとんどなかったし、映画も寅さん以外で記憶に残っているのは同じ松竹の『八つ墓村』(1977)の金田一耕助くらいである。
 公開当時、渥美の金田一耕助について原作者の横溝正史が、「自分のイメージする耕助にもっとも近い」とコメントしたのを覚えているが、個人的には石坂浩二や古谷一行のイメージがあまりにも強く、ふっくらして動きの鈍そうな渥美の耕助は、演技の巧さは別として、違和感があった。
 それに、あの作品の主役は小川真由美という気がする。
 (そう言えば、今年の正月に観たシネマコンサート『砂の器』に、渥美は田舎の映画館の支配人役で出ていた。近くの席から「あっ、寅さん!」と声が上がった)
 
 本作でやっと喜劇役者としての渥美清の魅力を知った。
 ここで渥美が演じているのは、三度の飯がちゃんと食えて風呂にも入れる軍隊を天国と思う「情が厚くて純朴で寂しがり屋の風来坊」山田正助である。
 「なんだ、寅さんそのものではないか」と思うが、それもそのはず、ウィキによれば「この作品がフジテレビの関係者の評判を得て『男はつらいよ』の構想が練られた」とのこと。
 山田正助は寅さんの原型なのだろう。

 たしかにチャーミングである。
 「憎み切れないロクデナシ」を地で行く、放っておけないキャラ。
 素の渥美とどこまでかぶるか知るところでないが、ここでの渥美の演技は自然体で、元来持っている人柄の良さが、やんちゃでがらっぱちなキャラクターと見事に結合して、愛おしさ満開である。
 ソルティが観た『寅さん』は、すでに国民的人気のもと松竹のドル箱として正月とお盆の年2回興行が定着してからの作品で、ある意味、マンネリ化が始まっていたのだと思う。
 最初の頃のフレッシュな寅さんを観たら印象が変わるかもしれない。
 
 昭和初期の軍隊生活を主軸としたコメディ。
 共演の長門裕之とのコンビネーションも良い。
 どこかで見たことのある懐かしい顔が出ているなあと思ったら、若き日の桂小金治。
 ソルティは落語家としての小金治は知らず、TV『アフタヌーンショー』の名司会ぶりと『それは秘密です!!』の「ご体面コーナー」における手放しの泣きっぷりが記憶に残っている。今でも、織田信成を見るたびに桂小金治を思い出す(泣)
 名コメディエンヌ藤山直美の父親・藤山寛美や「裸の大将」画家の山下清の出演も見どころ。

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左から、長門裕之、桂小金治、渥美清

 考えてみると、『男はつらいよ』シリーズは第1作が公開された69年から遺作となった95年まで、昭和40年代から平成6年まで27年間の日本の姿を連続撮影しているわけで、記録フィルムとしての価値も高いのではないかと思う。
 とりわけ、寅さんが旅好きなおかげで日本のあちこちの地域の風土・文化が撮られていよう。
 失われた日本、変わっていった日本を、マドンナをつとめた女優の若かりし姿と共に確かめるのも一興なんじゃないか、と最近思っている。

 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ほとけは何故西からやって来たのか? 本:『深大寺の白鳳仏』(貴田正子著)

2021年春秋社

 東京三鷹にある深大寺の釈迦如来像が平成29年(2017)9月に国宝指定された。
 その一ヶ月後、ソルティは新そば目当てに深大寺を訪れ、拝顔することができた。
 思ったよりずっと小ぶり(83.9㎝)で可愛らしいお釈迦様であった。
 さび色に鈍く光るブロンズのなめらかな質感が、たおやかな顔立ちや体や衣装の柔らかな線とマッチして、美しかった。

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 この像は7世紀後半の白鳳時代に作られたもので、関東以北でもっとも古い仏像と言われている。
 数百年深大寺にあったにもかかわらず、いつの間にか同じ境内にある元三大師堂の縁の下にしまい込まれ、忘れ去られ、世間に発見され衝撃を巻き起こしたのは明治42年(1909)10月のことだった――という来歴の突飛さも話題である。
 仏像愛好家の間では、その美しさから白鳳三仏の一つに数えられている。
 すなわち、
  • 奈良・新薬師寺の香薬師如来立像(旧国宝)
  • 奈良・法隆寺の夢違観音像(国宝)
  • 東京・深大寺の釈迦如来倚像(国宝)
 著者の貴田によると、白鳳時代の仏像の特徴は直前の飛鳥時代にくらべ、「丸顔、入定相の目(半眼)、可憐な小さな鼻、口角が水平、写実主義が進みプロポーションが人体に近づく」というもので、「世界に誇る日本独自の“かわいい文化”の起源」とのこと。
 なるほど、深大寺の釈迦如来像は童子のように可愛い。

 上記の白鳳三仏のうち新薬師寺の香薬師如来像は昭和18年(1943)に盗まれ、現在行方不明になっている。国宝指定を受けていないのはそれ故だ。
 なんという罰当たりな人間がいることか!
 実は、ソルティの実家の産土神社もまた、祭神を象った像が盗まれて久しい。
 「神様を盗む人間などいるはずがない」という地域住民に対する神社の信頼が裏目に出たのだろう。 
 (祠の中に扉に鍵もかけず置かれてあった)
 最近はちょっと珍しい仏像や神像の画像が“インスタ映え”を狙ってネットで出回る時代だから、それを見つけて、良からぬ動機を抱いて外からやって来た者がいたのでないかと思う。
 早く返してくれ~! 

盗まれた宇賀神さま
行方不明中

 香薬師如来像はいまも行方知れずなのだが、盗まれた時に取れたのか、かろうじて右手だけが現場に残された。
 が、この右手もいつの間にか行方が分からなくなっていた。
 産経新聞の記者時代から香薬師如来像の行方を追い続けてきた貴田(1969年生)は、あふれんばかりの仏像愛と情熱と執念でこの右手探索に乗り出し、ついにその在りかを突き止め、平成27年(2015)に65年ぶりに新薬師寺に戻すのに一役買った。
 貴田は別の著書でその経緯をくわしく記しているが、本書もまた歴史ロマンであると共に仏像ミステリーである。

香薬師寺像の右手
同じ著者による
香薬師像の右手発見の経緯を描く

 では、深大寺の釈迦如来像に関するミステリーとは何か?
 言うまでもない。
  1.  なんで白鳳時代を代表する国宝級の素晴らしい仏像が、当時は未開の蛮地である関東のこんな草深い寺に存在するのか?
  2.  なぜそれが明治になるまで人知れず埋もれていたのか?

 関東随一の天台古刹、深大寺でもっとも著名といえば、なんといっても本書主役の「深大寺像」である。天平5(733)年とされる寺の開創よりも古く、関東最古の傑作白鳳仏である。
 繰り返しになるが、深大寺像について、その伝来を記した寺史はいっさい存在しない。

 見つけ出した考古学者の柴田常恵の回顧録によると、寺の梵鐘調査に訪れていた柴田ら三人が梵鐘の拓本をとり、帰り支度をはじめながら元三大師堂に回った。そばにいた年配の寺務員に「古い寺だから写経の大般若などないか」などと尋ねると、その寺務員は「たいしたものはない」と返しつつ、縁の下に仏像があることを教えた。柴田が二人がかりで引っ張り出してみると、あまりに見事な仏像で驚いたという。

 深大寺の創建は天平5年(733)、満功上人によると言われている。(762年の説もあり)
 大陸(高句麗)からの渡来人である福満が当地の豪族の娘と恋に陥り、娘の親の猛反対を押し切って二人は結ばれた。その助けをしてくれたのが深沙大王(じんじゃだいおう)であったことから、二人の間に生まれた満功上人はのちに大王を祀った。それが深大寺という名の謂れである。ちなみに、深沙大王とは『西遊記』に登場する沙悟浄のことらしい。
 一方、深大寺の如来像はその造りから、白鳳三仏の他の二像と同じ工房で作られた可能性が非常に高い。
 つまり、関西で生まれたのだ。
 それが、なぜ、いつ、誰の手によって関東に運ばれたのか?

深大寺
深沙大王堂

 貴田は国会図書館に何度も通い、様々な文献にあたり、実地調査を行い、仏像研究家や関連する寺の住職や同好の士との議論を重ね、自ら年表を作成し、謎の解明に向けて邁進する。
 その何かに憑かれたような情熱とふるまい、そして随所で起こる不思議な偶然のさまは、森下典子著『前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って』(光文社、1995年)を想起させた。
 つまり、スピリチュアル・ミステリーの色合い濃く、書き手のワクワク感が読み手にも伝わってくる。


 貴田は、福満のいま一人の息子、満功上人の腹違いの弟に焦点を当てる。
 少年の頃に武蔵野から京に上り、持って生まれた才覚一つで出世の階段を駆け上がり、聖武天皇と光明皇后と孝謙(称徳)天皇の篤い信頼を得て生涯重用された一官僚、高倉福信がその人である。 
 当時、関東に深い縁を持ち、貴重で高価な仏像を手に入れられるほど中央政府に入り込んだ人間は彼以外にいないという。
 貴田探偵は、高倉福信が何らかの縁で手にした釈迦如来像が福信から兄の満功上人に渡り、深大寺に納められた――という至極納得いく仮説を立て、それをもとにさらに調査を進め、福信に仏像を託した人物および仏像の造られた由来にまで推理を深めていく。
 このあたり、上質な本格ミステリーのようなスリルと満足度が味わえる。
 
 ソルティは本書で高倉福信という人物をはじめて知った。
 深大寺のそばにある祇園寺(調布市)の重要性もまた。
 近いうちに深大寺像に会いに行き、深大寺そばに舌鼓を打ちたいものである。

 「如何なるか是れ祖師西来意」
 「庭前の蕎麦」



深大寺そば



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 
 

● I'll be back ! 映画:『ダニエル』(アダム・エジプト・モーティマー監督)

2019年アメリカ
100分

 統合失調症の青年を主人公とするサイコ・サスペンス。
 ティム・ロビンス&スーザン・サランドンの息子マイルズ・ロビンスと、アーノルド・シュワルツネッガーの息子パトリック・シュワルツネッガー、大スターの2世共演が見どころ。
 2人とも美形で、演技も悪くない。 
 
 精神障害を抱える母親に育てられたルーク(=マイケル・ロビンズ)は、孤独な幼少の時分に空想上の友達ダニエルを作って遊んでいた。が、ダニエルの本性に危険を感じた母親は、ルークに命じ、ダニエルをドールハウスに閉じ込めさせた。
 大学生になったルークは精神不安に陥り、自らの手でダニエル(=パトリック・シュワルツネッガー)を呼び戻してしまう。
 ダニエルの協力で自信と安定を得たルークは生気を取り戻し、しばらくは若者らしい日々をエンジョイする。
 しかしダニエルは次第に本性を現し始め、ルークの行動は破壊的なものになっていく。 

 「幼い時の空想上の友達」というネタは、『クワイエット・フレンド』など欧米の映画に昔からよく使われる。
 日本を含むアジア圏ではあまり馴染みないように思う。
 個人主義やプライベート空間が重視される西洋文化ならではの現象ではなかろうか。
 あるいはキリスト教文化と関係あるのか?

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 本作では、想像上の友達ダニエルはルーク少年の隠された裏の人格であり、いったん意識下に閉じ込められたものの、大人になったときにきっかけを得てふたたび顕在化した――という解釈で進行する。
 ルークのカウンセラーをはじめ他者から見た時それは統合失調症という病気と映るが、ルークの主観においては人格を乗っ取ろうとする悪魔とのリアルな闘いになる。
 もっとも、当初はルークの目にしか見えなかったダニエルは、クライマックスではカウンセラーやルークの恋人の前にも実体としてその姿を現し、直接的な暴力を振るう。
 すなわち、サイコサスペンスとして始まったものがオカルトホラーになる。
 ルークは、二重人格や統合失調症ではなく、悪魔憑きだったのである。
 この脚本はちょっと安易でシラけてしまった。
 (それとも、科学的な精神医療に対する宗教界からの反駁か?)
 
 映像的にときどき素晴らしいショットも見られるのだが、全般に画面が暗すぎる。
 観ていて疲れる。



おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ちばの里山・結縁寺を歩く

 ここもまた、筒井功著『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』を読んで訪れたいと思った。
 聞けば(公財)森林文化協会によるにほんの里100選に選ばれているという。
 その名の示す通り、古いお寺が中心となって数百年続いてきた農村である。
 開発が急ピッチで進んでいる印西地区の中にあって、結界で守られているかのように昔のままの姿が
残されているというのが興趣をそそる。
 暑くなる前に訪ねることにした。

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北総鉄道・千葉ニュータウン中央駅南口MAP
左上に結縁寺がある

日時 2022年4月16日(土)
天候 くもりのち晴れ
行程
11:30 北総鉄道・千葉ニュータウン中央駅
     歩行開始
11:50 ニュータウン大橋
12:30 結縁寺着~熊野神社~谷津めぐり
13:20 松崎台公園、昼食(40分)
14:50 頼政塚
15:20 結縁寺、休憩(20分)
16:00 名馬塚
16:15 にんたまラーメン、軽食(30分)
17:40 真名井の湯
     歩行終了
所要時間 6時間10分(歩行4時間40分+休憩1時間30分)

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北総鉄道・千葉ニュータウン中央駅
北総鉄道に乗るのは人生初めて
沿線の開発ぶりに驚いた!
千葉県の中心は千葉市や船橋市でなく
今やこっちなのか?


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駅前広場
高層マンションやショッピングモールが立ち並ぶのに
人がいないのが不思議


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線路沿いに設置された太陽光パネル

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ニュータウン大橋を渡る
これは川ではなくて調整池

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ニュータウン大橋と駅周辺を振り返る

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池の周囲に気持ちのいい緑地が広がる
しかし人がいない

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東京キリスト教学園を目印に進むとわかりやすい
時折打ち鳴らされる鐘の響きがなんともゆかしい

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このあたりから風景ががらりと変わる
令和からいきなり昭和40年代以前に突入した感じ

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畑中の道と学園の鐘楼

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道路を挟んでくっきりと時代が異なる
(多々羅田町付近)

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自家製野菜の販売所

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多々羅田の守り神・道祖神

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多々羅田を抜けると森に入る

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見事に育った孟宗竹
森を抜けて坂を下りたら・・・

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晴天山・結縁寺
神亀年間(724~729)に行基が創建したと伝えられる
重要文化財に銅造不動大名王立像を擁す
蓮池と木々に囲まれた素朴なたたずまいは癒し効果抜群!

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現在の本堂は2005年に新築されたもの
シンメトリカルで美しい

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本堂横に小さなお堂が・・・

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ハイハイ、今回もあなたが呼んだのですね
真言宗豊山派のお寺でした

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境内はさして広くないが、きれいに掃除されて気持ちいい
いつまでもいたくなる

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境内から池を望む
この光景、デジャヴュあった

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蓮の見頃は7月中旬くらい
きっと極楽浄土のようだろう

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池をはさんで寺を見る
中ノ島に弁財天が祀られている

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熊野神社

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祭神はむろん熊野権現


 ここから「にほんの里100選」に選ばれた風景を歩く。
 結縁寺の特徴は谷津(谷戸、谷地とも言う)と呼ばれる地形にある。
 これは高台に無数の細い谷間が複雑に切り込んだもので、谷底が湿地であるため水田に適している。
 こんもりした古墳のような雑木林とその間隙を埋める76ヘクタールの水田。  
 大昔からほとんど変わっていないであろう日本の伝統的景観や歴史遺跡を逍遥する。

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これから田植えシーズン

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心に沁み入る懐かしさ
子どもの頃、近くの農家までラジオ体操に通った夏の朝を思い出す

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泥道もまた良きかな
肩の力がふうわりと抜けていく

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湧き水豊かな湿地帯なので水はけが大事

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ほらごらん、蜃気楼のような21世紀を

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広々した松崎台公園で昼食
ウグイスの鳴き声を子守歌に草の上でゴロ寝

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数十年前どこにでもあった風景がこんなに貴重になるなんて・・・

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顔の筋肉がゆるみだす
ゆったりと流れる時間は身体に直接作用する
ウクライナで起きていることが夢のよう・・・

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田植えの頃、刈り入れの頃、また来たい

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要所要所にある道しるべ
訪れる人の少なくないことを示す

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頼政塚

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源頼政は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した武将
鵺(ヌエ)退治の勇者としても知られるが、こんな最期だったとは・・・

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高台の住宅地にあるお堂

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森の中にあった「車塚」

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森の中の道

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結縁寺に戻ってきた
20分瞑想し、別れを告げる

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名馬塚
源頼政の首を運んだ馬が葬られている

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観音の頭部に馬が乗っている

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おっ! なんだか馬そうな旨そうな気配

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大蒜たっぷりのコクあるスープと自家製玉子麵(680円)
美味でした

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来た道を戻る

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鈴蘭の花盛り

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締めはニュータウン中央駅近くの温泉
海が近いわけでもないのに塩辛い湯だった


 令和から平成、昭和、大正、その昔・・・・へと時間を遡っていくような散策であった。
 結縁寺に入ったとたん、空気の色と時間の流れが違っていた。
 まさに結界の中に入り込んだような感覚。
 意識の次元も変わるような気がした。
 連休前のせいか訪れる人も少なく、静かで平和な里歩きを楽しめた。

 願わくば、自然と静寂と弘法大師を愛する人が訪れてくれますように。
 ここでは一日、スマホを忘れて過ごしてほしい。







  


















● トンネルを抜けるとBLがあった 本:『少年』(川端康成著)

1948~49年初出
2022年新潮文庫

 宇能鴻一郎の『姫君を喰う話』に続く新潮文庫のスマッシュヒット。
 編集部に世相に敏感で勘のはたらく人間がいるに違いない。

 日本の誇るノーベル文学賞作家の自伝的BL小説という意外性と大正浪漫の香り。
 旧制中学の寄宿舎という“お約束”も魅力の一つである。
 ソルティはこの小説あるのを知っていたが、川端康成全集に収録されて図書館の倉庫に眠っていたので、あえて借りて読もうという気も起らなかった。
 濃紺の背表紙をもつ新潮文庫・川端康成シリーズの一冊に入って書店に並ぶということは、やはり格段に手に取りやすく、読みやすくなる。
 帯のアオリも明らかにBLファンを狙った確信犯。

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 川端青年が愛したのは、同じ寄宿舎の3年後輩である清野という少年であった。
 大正5年(1916年)から一年間、同室となった清野と肌を触れ合って眠るほど親しくなり、卒業後も手紙のやりとりを交わしていたが、清野が大本教の熱心な信者として信仰の道に入るようになった大正9年を最後に会わなくなった。
 川端が18歳から22歳の出来事である。(当時は数え年だったから、今で言えば17歳から21歳のみぎり)
 出世作となった『伊豆の踊子』との恋が芽生えた天城越えの旅は19歳の秋のことであるから、川端は生まれついての同性愛者(少年愛者)あるいは両性愛者というわけではなく、女性との恋愛に乗り出す前に、美しく(女性的な)同性との模擬的恋愛を体験した――といったところかもしれない。
 もっとも当時(明治・大正期)男子学生の間で男色は珍しいものではなかった。

 おそらく、これを読んだBLファンはちょっと落胆するのではないか。
 読む限りにおいて、川端と清野の間には互いの肌の接触や接吻以上の関係はなく、恋愛物語に欠かせないトキメキや戸惑いや恍惚や落ち込みや疑心暗鬼や嫉妬やその他もろもろの感情が細やかに描き出されているわけでもない。
 肝心の清野の美しさについても、のちに『雪国』で示されたような詩才を駆使して表現されることもない。
 つまり、“キュンキュン”度は低い。
 愛情の濃さというかマニアック性についても、稲垣足穂の少年愛にくらべれば、おままごとのようなものである。(ただ、BLファンの審美眼はフンドシ親父の稲垣足穂はとうてい受け入れがたいだろう) 

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稲垣足穂
(かなりボカしています)

 ソルティはBL的な面白さより、青春期の川端康成の内面を示すモノローグに興味が湧いた。
 当時の日記がそのまま引用されている部分に、ほとばしる若さが見られるのだ。

 今日も朝から学校に出て何を得て来たのかと思うと、ほんとうに悲しくなる。学校の教えに異教徒のような日を送りながらも、ずるずると五年間もひきずられ、卒業間近まで来てしまった。・・・・・・・
 尚この上続く学生生活が同じような幻滅に終りはしまいかと不安にとらわれてならぬ。
 ああ、私にゆるされた生命のすべてを燃焼しつくしてみたい。

 私はもっともっと愛に燃えた少年たちとルウムをつくりたい。

 肉体の美、肉体の美、容貌の美、容貌の美、私はどれほど美にあこがれていることだろう。私のからだはやはり青白く力がない。私の顔は少しの若さも宿さず、黄色く曇った目が鋭く血走ると言ってもいいくらいに光る。

 図画の時間S君にも話したように、私は高等学校を経て帝国大学に進むのなら、いっそ文学の学者になってしまおうかと思っている。創作の天分の疑いがだんだん増してくるにつれ、最近私の心はそんな方へ傾きかかっていることも事実である。


 劣等感、将来への不安、自己不信、欲求不満、情熱的な生への憧れ・・・・。
 後年、文章家として芸を極め枯淡の境地に達しているかのような、あるいは虚無と諦念のうちに「美」を除いた世俗を放擲したかのようなイメージある文豪にも、こんなナイーブで情熱いっぱいの時代があったのか・・・・・と新鮮な感を持った。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『法螺吹き友の会』(G・K・チェスタトン著)


2012年論創社(井伊順彦・訳)
収録作品
『法螺吹き友の会』(1925年初出)
『キツネを撃った男』(1921年初出)
『白柱荘の殺人』(1925年初出)
『ミダスの仮面』(1936年執筆)

法螺吹き友の会


 「ブラウン神父シリーズ」で有名なG・K・チェスタトンによる表題の長編小説、および3編の短編ミステリーからなる。
 短編の一つ『ミダスの仮面』はブラウン神父物のミステリーで、チェスタトンの秘書だった女性の屋根裏部屋から発見され、著者の没後半世紀以上たった1991年に発表されたという。(初訳は1998年)
 それ以外の作品はこれが本邦初訳である。

 よくもまあ本書を刊行してくれたなあと出版社の心意気に感心する。
 論創社という名はあまり聞かないが、長谷部日出雄著『新版 天才監督 木下惠介』(2013年)を出してくれた有り難い版元であった。
 同社のホームページを見ると、大手出版社が手をつけないようなニッチでユニークな書籍が並んでいる。
 入手困難な名著の復刻、現代戯曲、戦前の日本の推理小説、ディクスン・カーやクロフツなど黄金時代の未訳の海外ミステリーなど、なかなかに食指をそそるラインナップ。
 出版不況と言われるこのご時世に、コンスタントに新刊を出し続ける体力の秘密はどこにあるのだろう?

 さらに本書について言えば、「ブラウン神父物の新たに発見された短編の単行本初収録」というキャッチは確かにあるけれど、表題作である『法螺吹き友の会』が邦訳に(というか英語以外の言語の訳出に)向いているとは言い難いうえ、内容的にも決して読みやすいものではない。
 『吾輩は猫である』のような高踏ユーモア小説というべきで、ミステリーを期待して手に取ったら肩透かしを食らうのでご注意。
 
 原題 Tales of the Long Bow は、long bow という語が brow the long bow「ほらを吹く」という慣用句として使われることから『ほら吹きの話』という意味合いで間違いないのであるが、これにはオチがあって、話の最後に小作農による権力への抵抗(一揆のような)というエピソードがあり、ここで農民たちによって使われる武器が long bow つまり「長い弓」なのである。
 つまり、字義通り「長い弓の話」となる。
 このように、この小説の一番の特徴は、英国人なら誰もが知っている英語の慣用表現が、字義通りの意味に使われるところに意外性や面白さを引き出す点にある。
 ほかにも、white elephant「不用品、厄介なもの」、pigs fly「現実にありえないこと」、set the Thames on fire「世間をあっと言わせる」などの慣用句が出てくる。
 日本語に置き換えて例を挙げるなら、「あいつはいつも味噌も糞も一緒にする」と言ったら、本当に味噌汁に糞を入れて出してきた、ギャフン――といった感じか。
 それ以外にも、英語ならではの洒落や地口、英文学からの引用などが縦横無尽に繰り出される。
 英語を母国語とする教養人ならきっと抜群に面白いだろうし、作者の機知やユーモアや造詣の深さに感心するところだろう。
 だが、これを日本語で読むとなると・・・・・。
 翻訳者の井伊順彦は頑張ったと思うが、この本の邦訳には最初から乗り越えがたい壁があろう。

乗り越えがたい壁

 チェスタトンの難渋で回りくどい文体もまた、ブラウン神父物で慣れているソルティでさえ、時に苛ついた。
 ミステリーならまだしも政治や文化を語りだすと、とても高尚過ぎて(あるいはチェスタトンの保守思想に閉口して)興ざめしてしまう。 
 創元推理文庫や早川書房が手を出さなかったのも理解できる。
 よくまあ本作を出版したものよ。

 一方、3つの短編は面白かった。
 チェスタトン・ミステリーの特徴であるどんでん返しがどれも効いていて、「さすが!」と思った。
 中でも『白柱荘の殺人』がよく出来ている。
 読み終えた後に、もう一度最初から読み返したくなるのは必至。
 一見難渋で回りくどい文体が語り口の巧さに転じるところに、すなわち文体そのものがトリックの重要な構成要素となっているところに、チェスタトン・ミステリーの秘密があるのは間違いない。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『四畳半襖の裏張り』(神代辰巳監督)

1973年日活
69分

 ソルティが性に目覚め、巷の性情報に対し興味津々たるティーンエイジャーの時分、「猥褻」と言ったら、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』と永井荷風の『四畳半襖の下張り』であった。
 どちらの小説も「猥褻か否か」が法廷で争われた結果、猥褻図書とみなされ、完全な形での公開を阻まれていた。

 当時(昭和40~50年代初頭)、どこの本屋にもエロ本が並び、父親の買ってきたスポーツ新聞や週刊誌を開けば巻頭ヌードグラビアや風俗情報が紙面を埋め、宇能鴻一郎センセイや川上宗薫センセイの過激なポルノ小説がイラスト入りで掲載され、繁華街を歩けば裸の女性が大写しになったポルノ映画館の看板が普通に目に入った。
 令和の今から思えばそんなエロ天国のような昭和末期にあって、なおも「猥褻」と言われ発行を阻まれている小説があることが驚きであった。
 どれだけ凄い内容なのだろうと好奇心を募らせたことを覚えている。(問題個所が削除された形で出版された『チャタレイ夫人の恋人』は大ベストセラーになっていた)

 その後、時代の風潮を受けて、どちらの作品も完全な形で読めるようになった。
 もちろんソルティはさっそく読んだけれど、ご想像通り、「なんでこれが発禁処分?」と苛立ちを覚えるほどに、どうってことない内容であった。
 チャタレイ夫人の情事は、かまきり夫人やエマニュエル夫人のアヴァンチュールにくらべれば、修道女のオナラのようなものであった。 

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 本作は『四畳半襖の下張り』の映画化で、『赫い髪の女』と並ぶ神代辰巳監督および女優・宮下順子の代表作であり、1971年から17年間続いた日活ロマンポルノの頂点をなす傑作と言われている。
 先ごろ、田中登監督『(秘)色情めす市場』(1974)が第78回ベネチア国際映画祭のクラシック部門に選出されたというニュースがあったが、日活ロマンポルノには実際、名作・傑作がたくさんある。
 神代辰巳や田中登のほかにも、曾根中生・小沼勝・石井隆・崔洋一・周防正行・相米慎二・滝田洋二郎・村川透・森田芳光など、その後日本映画界の第一線で活躍した(している)監督たちを産みだした、また育てた功績も大きい。

 まぎれもなく性は人間の主要な一部であり、それなくして人は生まれず、それなくして人は生めず、それなくして人の世は成り立たないのだから、ありのままの人間を表現することを志す芸術家にとって性を描くことが一つの使命となるのは当然である。
 それは猥褻とか女性蔑視という観点からだけでは捉えきれない、捉えてはならない人間の営為である。

 話が大きくなった。
 本作、なにより映像の美しさが際立っている。
 大正時代の遊郭が、写実的ではなく幻想的に、幻燈のようなおぼつかなさで描かれている。
 登場する男女のこまごました性遊戯や苦界を生きる遊女たちの日常は、一応リアリスティックに描かれているものの、それが生々しい現実や社会問題として観る者に迫ることはなく、ある種の滑稽と虚無のうちに淡々と語られてゆく。
 一方、遊郭の外では、米騒動が起き、打ちこわしが起き、世界大戦が起きている。
 この世の動きとはまったく関係ないところで行われる男女の「性」の追究のさまが、そのうち観る者のうちに逆転現象を起こし、外で起きている事件こそが幻想であるような錯覚をもたらすに至る。

 性にはたしかに、そのような究極の個人性の発露とでも言うべき面がある。
 社会が性を管理したがるのは、おそらくそれゆえなのだろう。

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主演の江角英明と宮下順子



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 310円、310円・・・ オペラDVD:ビゼー作曲『カルメン』


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収録年 1987年2月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ポール・ミルズ
キャスト
 カルメン: アグネス・バルツァ(メゾソプラノ)
 ドン・ホセ: ホセ・カレーラス(テノール)
 エスカミーリョ: サミュエル・レイミー(バリトン)
 ミカエラ: レオーナ・ミッチェル(ソプラノ)

 80年代後半に一世を風靡したバルツァ&カレーラスの黄金コンビによる『カルメン』。
 1986年にKDD(現:KDDI)のCMで俳優の斎藤晴彦(2014年没)が「310円、310円・・・」といった宣伝文句を早口で歌ったのを覚えている人も少なくないと思う。あの替え歌の原曲が『カルメン』序曲であった。
 あのCMで斎藤晴彦は大ブレイクを果たしたが、背景にはバブル到来を象徴するようなオペラブーム、そして『カルメン』ブームがあった。
 ソルティは「バブル」と言うと、この狂騒的でありながら破滅の予感を孕んでいるカルメン序曲が浮かんでくる。

 このコンビの成功は、バルツァとカレーラスがこれ以上にないハマリ役だったことが大きい。
 ギリシア生まれのバルツァの激しそうな性格(ほんとはどうか知らないが)と人目を引く個性的な顔立ちと鋭角的な声の表現、スペイン生まれのカレーラスの純朴で生真面目なイケメンぶりと熱情たっぷりの歌声。
 魔性の女カルメンと彼女に玩ばれる元兵士ドン・ホセにそれぞれぴったりであった。(カレーラスときたら名前まで役と同じである)
 もちろん、2人の歌唱と演技もすばらしく、ふられた男がふった女を激情に駆られて刺し殺すという三面記事にありがちな陳腐な色恋沙汰を、ギリシア悲劇かシェークスピア劇のような深みある運命劇にまで押し上げている。
 2人の相性の良さも抜群である。

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アグネス・バルツァとホセ・カレーラス

 ドン・ホセ役は、カレーラスの親友でありライバルでもあったプラシド・ドミンゴも得意としていた。
 1978年ウィーン国立歌劇場のカルロス・クライバー指揮『カルメン』のライブDVDで、ドミンゴはエレーナ・オブラスツォワ相手にドン・ホセを歌っていて、これが相当に凄い。
 ドミンゴはホセになりきっていて、舞台上のカルメンであるオブラスツォワが本気でドミンゴを恐がっているかのように見える。
 ドミンゴは1984年公開の映画『カルメン』(フランチェスコ・ロージ監督)でも、ジュリオ・ミゲネス・ジョンソン相手にドン・ホセを演じているが、これもまたカッコよく素晴らしかった。
 個人的には、都会的な洗練と母性本能をくすぐる甘さを持つカレーラスのドン・ホセより、真面目と執着が表裏一体のストーカー気質を匂わすドミンゴのドン・ホセのほうが、リアリティにおいて勝っているのではないかという気がする。
 ただ、ドミンゴとバルツァが組んで成功するかと言えば、たぶん難しかっただろう。
 2人の個性が強すぎて、互いに食い合ってしまい、芝居そっちのけで主役の奪い合いに転じそうだ。
 最後はほんとうに舞台上でドミンゴがバルツァを刺しかねない。
 あるいは逆か(笑)

 エスカミーリョ役のサミュエル・レイミー、ミカエラ役のレオーナ・ミッチェルも、堂々たる歌いっぷりで、総客席4000というメトロポリタン歌劇場の大向こうをうならせるに十分な美声と声量である。
 エスカミーリョは、色男で闘牛士で子供たちのヒーローで女にモテモテの上に、『闘牛士の歌』という世にも名高いアリアを与えられている。
 すべてのオペラのバリトン役の中で最も得な役回りと言える。
 篠沢紀信か葉加瀬太郎のようなヘアスタイルのジェイムズ・レヴァインも若々しく、力が漲っていて、迫力あるしかしきめ細かい演奏を紡ぎ出している。
 
 『カルメン』ライブ記録の決定版という位置づけを今も失っていない名盤である。

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左から、カレーラス、レヴァイン、バルツァ、レイミー






● あぶないあぶない 映画:『顔』(阪本順治監督)

2000年松竹
123分

 本作は、1982年(昭和57年)8月に発生し1997年(平成9年)7月の犯人逮捕によって決着を見た、松山ホステス殺害事件の犯人・福田和子の15年にわたる逃走劇を下敷きに作られている。
 が、福田和子という人物をそのまま描いたノンフィクションというわけではなく、まったく別の創作物としてとらえるべきだろう。
 くだんの事件は、本作を生み出す際のアイデアなりヒントなりになったのは間違いないし、映画を売り出す際にはキャッチ(話題性)として寄与したであろうが、本作の主人公である吉村正子(藤山直美)と福田和子をダブらせるのは、おそらく間違っている。

福田和子記事
1997年7月29日愛媛新聞記事
福田和子の生涯はすさまじくも哀しい

 『どついたるねん』や『王手』など硬派な作風で知られる阪本監督が本作で描きたかったのは、犯人逮捕までの経緯を週刊誌的な好奇な目でスリリングに追った実録犯罪ドラマではなく、引きこもりだった中年女性が“犯行をきっかけに”やっと外の世界と接点を持ち始め、人づき合いの喜びと哀しみを知り、失われていた青春を取り戻そうとする文字通り“死に物狂い”の奮闘劇なのである。
 30歳を過ぎてから自転車や水泳に初挑戦するヒロインの姿に、観る者が感動するのはそれゆえである。
 その意味で本作は、『どついたるねん』や『王手』同様、人生の荒波を不器用に生きる市井の庶民の物語には違いない。
 浪花版『嫌われ松子の一生』といったところであろうか。

 主役の藤山直美の熱演というか猛演、脇を固める佐藤浩市、豊川悦司、渡辺美佐子、大楠道代(素晴らしい!)、國村隼、岸部一徳らの好演、それぞれの役者の個性や巧さを存分に味わえる。
 どんな端役であっても生かすことができるってのは、すぐれた監督の要件の一つであろう。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 春の踊り子たち

 先だって利根運河を歩いたときに、運河の土手にヒメオドリコソウ(姫踊り子草)が群生しているのを見かけ、記事にも上げた。

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ヒメオドリコソウ(学名:Lamium purpureum)
シソ科、ヨーロッパ産で明治期以降に日本に入ってきた
(言われて見ればシソの色)

 この川端康成チックなゆかしい名前は、花の形が「笠をかぶった踊り子」を思わせるからということだが、上記の写真からそれがわかるだろうか。
 ソルティはかなり苦しい比喩と思った。(そもそも花が小さ過ぎ) 

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 先日、20度を超えた陽気に誘われて家の近くを散歩していたら、ヒメオドリコソウがあちこちの道端に咲いているのに気づいた。 
 
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 最初の画像と比べると、紫蘇色のクリスマスツリーのような葉形が崩れて、白っぽい花がすっかり満開となっているのがおわかりになるだろう。
 花をアップする。

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 花が身を起こすように立ち上がっている。
 踊り子というより、ゴルフ場にいるキャディのおばさんのように見える。
 「そこは3番アイアンね」

 ではこれなら?

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 笠をかぶり扇子を手に広げた踊り子たちとしか見えない!
 そろいの薄紫の着物が美しい。
 花笠音頭がどこからか聞こえてくる。

   目出度目出度の 若松様よ
   枝も
   チョイチョイ
   栄えて葉も茂る
   ハー ヤッショ マカショ
   シャンシャンシャン

 名前の由来に十分納得した。




  

 






  

● K 本:『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(國分功一郎著)

 木島泰三著『自由意志の向こう側』を読んでスピノザに関心を持った。
 スピノザは無神論者であり、自由意志の存在を否定したという。
 原典を読むのは大変なので、スピノザの思想を簡潔に解説している本はないものかと探したところ、本書にあたった。
 著者の國分功一郎は、1974年千葉県生まれの学者。専門は哲学・現代思想。
 プロフィールに見る鋭角的な顔立ちが、いかにも頭脳明晰といった印象。

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スピノザ[1632-1677]
オランダの哲学者。初めユダヤ教を学んだがやがて批判的見解を抱き、教団から破門されて学問研究に専念。唯一の実体である神はすなわち自然であるとする汎神論を主張し、精神界と物質界の事象はすべて神の2属性の様態であると説いた。また、事物を神との必然的関係において直観することに伴う自足感を道徳の最高の理想とした。主著「エチカ」「知性改善論」など。(出典:『小学館デジタル大辞泉』) 

 上記の説明を読むと、スピノザが無神論者というのは正確でなく、汎神論者ということらしい。
 神即自然(この世界すべてがそのまま神のあらわれである)という考えが、世界を創造した超越的な唯一絶対神を信仰するユダヤ教やキリスト教の教えと反するがゆえ、無神論者と非難されたのである。
 自らがそこで生まれ育った揺籃たるユダヤ教を否定し、教会のみならず親族やコミュニティからの八分さえ恐れることなく、名利も追わず、一途に真実を求める男。
 なんてかっこいいヤツ!

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そう?

 國分はスピノザの思想の歴史的位置づけと現代的意義について、次のように書いている。

 やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。
 そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も十分にありうることを知る大きなきっかけになるはずです。(本書より。以下注記ないものは同じ)

 こんなふうに紹介してくれると、スピノザ理解の助けになる。
 スピノザの難しさは、言葉や言い回しや理論の難しさというより、我々の頭の中のOS(オペレーションシステム)を取り換えなければ何を言っているか分からないといった類いの難しさなのだ。
 そしてそれはスピノザの面白さでもある。
 木島泰三も書いていたが、スピノザを読むことで、自らに「認識のコペルニクス的転換」が生じる可能性がある!
 本書は、平易な言葉により、身近な「たとえ」を適宜用いながら、ポイントを絞って、スピノザの思想を紹介している。
 書名に偽りはない。スピノザ入門書としておススメである。

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 やはりソルティが一番気になるのは、スピノザの自由意志に関する見解である。
 没後に刊行された主著『エチカ』の中で、スピノザは次のように述べている。

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第2部定理35備考)

 言い換えれば、「我々の行動は無意識によって決定されているにもかかわらず、我々はそれを自らの自由意志によって決定したと勘違いしている」ってことになろう。

 また、次のようにも述べている。

 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(第2部定理48)

 これは仏教の因縁の教えそのものであり、自由意志論争における立場の一つである「因果的決定論」そのものであり、ユヴァル・ノア・ハラリの言うアルゴリズムそのものである。
 スピノザは明らかに自由意志の存在を否定するハード決定論者である。

 では、我々には自由がないのか、いや、そもそも何をもって自由と言うのか?
 スピノザはこの問いについても答えを用意している。

 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第1部定義7)

 スピノザ(と國分)は、自由を「自らが原因となって何かをなすこと」すなわち「能動であること」と定義し、能動について話を進めていくのであるが、ここから先は本書にゆずるとして、ソルティが上記の文章でハッと思い当たったのは、20世紀が生んだ最高の賢者と言われる人の言葉であった。
 クリシュナムルティ(1895-1986)である。

 自分の思考が記憶の反応であり、記憶が機械的であるということを極めて明確に理解しなくてはなりません。知識はいつまでたっても不完全なままであり、知識から生じた思考はいかなるものであれ、限られています。そのような思考は部分的であり、決して自由ではありません。ですから、思考の自由というものは全く存在しないのです。しかしながら、思考プロセスではない自由を発掘し始めることは可能です。そしてその自由の中では、精神はそれ自体が受けているあらゆる条件づけ、それ自体に作用するあらゆる影響に単に気づいているだけなのです。
(クリシュナムルティ著『四季の瞑想』、コスモス・ライブラリー発行)

 クリシュナムルティは、人間は歴史や社会や風土や文化や宗教や教育やしつけやその他もろもろのものによって「条件づけられて」いるのであって、その条件づけからなされた一切の行為に真の自由はない、と説いた。
 人が自由を得るのは、あるいは自由な行為が可能となるのは、もろもろの条件付けに気づいた洞察がもたらす解放によってのみであり、そこには意志や欲望はもちろん思考や感情の出番はない。
 クリシュナムルティは、そうした解放の後にも「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るとも言っている。
 それは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 スピノザの言う「自己の本然の必然性」という言葉と共鳴するものを感じる。

 さらに、クリシュナムルティはスピノザ同様、既存の神や宗教を徹底的に批判した無神論者であった。
 が、「あるがままのものが聖である」という言葉に見られるように、スピリチュアルなものを否定はしなかった。彼の自然に対する愛はつとに有名である。
 ある意味、汎神論に近いのではないかと思う。

 クリシュナムルティをとっかかりとして、スピノザの思想に近づけるのではなかろうか?
 ――という感触を持った。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 利根運河の春を歩く(後半)~運河駅・江戸川往復~

 野菜たっぷりラーメンを食べて、すっかり満腹となった。
 ここまで4時間近く歩き続けて、2年半前に骨折した左足くるぶしに痛みが生じていた。
 「ここで中止しようか」という思いも一瞬浮かんだが、限界を知るいいチャンスと思い直し、続行。

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ふれあい橋のすぐ先に立つ運河交流館
時間があれば寄りたかった

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このあたりは運河水辺公園として市民に親しまれている

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運河に渡した木橋よりふれあい橋を振り返る

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桜攻勢はまだまだ続く

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運河大橋(県道5号)

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地平線が見える平野がまだあったのか・・・

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ついに放水口に到着!

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江戸川だあ!
利根川取水口から8.5㎞、2時間20分(休憩のぞく)を要した

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江戸川は埼玉県・東京都から千葉県を分かち、東京湾に注ぐ
つまり千葉県は、江戸川・利根川・太平洋・東京湾に囲まれたアイランド(島)なのだ

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河川敷では開発が進む
 
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放水口の岸辺で釣り糸を垂れる太公望

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放水口より運河を振り返る

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江戸川の対岸は埼玉県吉川市


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ここにも桜の園があった
休憩して足をマッサージ(限界近し)

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右岸に回って運河駅へ戻る
彼方に筑波山が見えた

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〽菜の花畑に入り日薄れ

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不思議な光景に見えますが・・・
(ゴルフの練習場です)

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おや、これはなんだ?

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利根運河・四国八十八霊場
大正2年(1913)運河開削工事の犠牲者の慰霊と地元住民の交流を目的として建立。
運河沿いに四国八十八の札所を模した参拝所が点在し、巡礼することができる。
ここには十七札所がまとまっている。

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結局、今回もこの方に呼ばれたのか・・・・

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運河沿いの窪田酒造
明治5年(1872)創業。いまも地元の酒米を使用している。
代表銘柄「勝鹿」

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窪田味噌・醤油工場
大正14年(1925)創業。野田の醤油はキッコーマンとキノエネだけではなかった。

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東武アーバンパークライン・運河駅に無事帰還


 連続15kmの歩行は、骨折以来の最高距離であった。
 帰りは左足を引きずって歩く始末で、翌日はほぼ一日、足を休めていた。
 連日の長距離歩行はまだ難しいようだ。
 が、今年中の登頂を企図している秩父の武甲山(1304m)も両神山(1723m)も総歩行距離10㎞くらいなので、もう少し鍛えれば挑戦できそうだ。

 一つ気づいたことがあった。
 利根運河の完成は1890年(明治23)、関東大震災および福田村事件があったのは1923年(大正12)である。当時の福田村一帯はまさに運河の開通の恩恵を被っていたのである。
 一方でそれは、つながった利根川と江戸川を利用して、たくさんの見知らぬ人々がこの農村にやってくるようになったことを意味する。中には香取神社や円福寺を詣でる人もいたことだろう。
 この事件を最初に知ったとき、ソルティは、“よそ者”に慣れていない閉鎖的な農村で起こった悲劇という印象を持ったけれど、たぶんそれは事実とは異なる。
 震災の直後に朝鮮人暴動の噂が広がったとき、村人たちは川を上って来るいつもの“よそ者”を恐れたに違いない。
 利根運河の開通が、事件の一つの因をなしていた可能性を思った。

 それにしても、どこに行っても弘法大師と出会うのは不思議なほど。
 いや、弘法大師がそれだけ庶民に愛されていることの証左なのだろう。

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 おんあぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まに
 はんどまじんばら、はらぱりたやうん

 不空真実なる大日如来よ 
 偉大なる光明により
 暗き世を明るく照らしたまえ
 (光明真言)












● 利根運河の春を歩く(前半)~利根川から運河駅まで~

 福田村事件のあった三ツ堀・香取神社をあとにし、利根川の土手を下流へ向かう。
 左手に広がるゴルフ場を横目に、40分ほど歩けば利根運河にぶつかる。
 この運河もまた、筒井功著『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』に登場し、興味を引かれた。

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運河の水量を調節する水門
高低差のため、利根川から江戸川へと流れる

 利根運河は、利根川と江戸川を結ぶ全長約8.5キロの水路。
 オランダ人技師ムルデルの設計・監督のもと220万人もの労働者を動員し、1890年(明治23年)に完成した。
 当時、一日平均100隻もの船が通航し、利根川流域の村々と江戸との間の人や物資の輸送を担った。
 大正期に入ると運輸の中心は貨物列車が占めるようになり、また度重なる洪水被害の影響もあって船運は衰え、昭和16年(1941)の台風被害で事実上運航不可能となった。
 現在、四季折々の風情豊かな運河沿いの道は、散歩やジョギングやサイクリングを楽しむ人々に愛され、2019年には文化庁選定の「歴史の道100選」に選ばれている。

 利根川取水口から江戸川放水口まで、利根運河を歩いてみた。

日時 2022年4月2日(土)
天候 晴れ
行程
12:05 香取神社前バス停
     歩行開始
12:10 香取神社、円福寺
13:10 利根川土手
13:50 利根運河・利根川取水口
14:00 北部クリーンセンター下
     休憩(20分)
14:40 市立柏高校
15:30 桜並木
     休憩(10分)
16:00 東武アーバンパークライン・運河駅
     昼食(30分)
17:10 利根運河・江戸川放水口
     休憩(20分)
17:50 利根運河大師
18:25 東武アーバンパークライン・運河駅
     歩行終了
所要時間 6時間20分(歩行5時間+休憩1時間20分)
歩行距離 約15㎞

 まずは、利根運河の地図上の位置を確認。

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利根運河の位置1
千葉県の左肩にあり、茨城県(守谷市)と埼玉県(吉川市)をつなぐ

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利根運河の位置2
かつて利根川流域から江戸川流域に物資を運ぶには、
二つの川の分岐点である境町あたりまで上らなければならなかった。
それが大幅に短縮されたわけである。

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利根運河の位置3
運河の北側が千葉県野田市、南側の右半分が柏市、左半分が流山市。
東武野田線(アーバンパークライン)と交差する地点が運河駅。

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地形図
流域で建物が密集しているのは運河駅周辺。
農地や未開発の土地が多い。


 まずは、水門から流れを遡って、利根川取水口にレッツ・ゴー!

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突きあたりの土手の向こうが利根川

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いまは二つの樋管によってかろうじて流れがつながっている

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坂東太郎こと利根川
奥に見えるは利根川橋

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利根運河取水口
先ほどの樋管に通ず

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利根川対岸は茨城県守谷市

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ここで運河を渡る
以降、運河の左岸を歩きます

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整備されていない、道なき道がしばらく続く

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藪の中のウグイスの声を聴きながらしばし休憩
(北部クリーンセンターあたりの土手下)

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姫踊り子草(ヒメオドリコソウ)
花の形が笠をかぶった踊り子の姿を思わせることからその名が付いた

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出番です!

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さきほどの水門を反対側から見る

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振り向けば桜と鉄塔
千葉にはまだまだ土地がある

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柏市立柏高等学校
グラウンドでは野球の試合が行われていた

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自転車で下校する高校生ら
この素敵な風景がいつの日か彼らの思い出に。

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城の越排水樋管
運河の水は飲料水、農業用水、工業用水として利用されている

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運河の利根川近くは、人手が入っていない野趣あふれる風情が続く

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おお!
運河には桜が良く似合う
(まだ序の口です)

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関東は夜から土砂降り。
今年最高にして最後の花見日和であった。

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対岸のホテル
休憩2時間2800円は高いのか安いのか
ソルティには見当つきません

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国道16号線柏大橋を後方に見る
(振り返り撮影が多いのは、お日様に向かって歩いているので逆光を避けるため)

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うわっ!!
こんな光景が待ち受けているとは思わなんだ
(流山市に入っています)

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知られざるポイントなのか、人がそれほど出ていなかった

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青空と桜と菜の花のコントラストが鮮やか

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対岸には東京理科大学野田キャンパス

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ふれあい橋と東武アーバンパークライン鉄橋

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東京理科大学を望む
このように素晴らしい環境で学生生活を送れるとは幸せだ

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運河駅近くのラーメン店で遅い(16時!)昼食
取水口から運河駅周辺までお店がなかった

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野菜ラーメン850円
一日分のお野菜はしっかり採れました



後半へ続く















  
 

 

● 福田村事件の追憶

 筒井功の『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』の中に大正12年(1923)に起きた福田村事件の記載があった。
 関東大震災の時に発生した「朝鮮人暴動」という流言飛語に乗せられて起きた、地域住民による集団暴行殺害事件で、被害者となったのは朝鮮人ではなくて、香川県から行商に来ていた被差別部落の住民たちであった。
 一行15名のうち、6歳、4歳、2歳の幼児3名を含む男女9名が、鳶口や竹槍や日本刀で襲われて、その場で絶命した。女性の一人は妊娠中だったので、胎児を含めると10名が殺されたことになる。

 この血みどろの殺戮劇があったのは、千葉県東葛飾郡福田村三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)の香取神社周辺で、当地での行商を終えた一行は利根川を渡って、隣の茨城県に向かう途中であった。
 そこで渡し場の船頭とのちょっとした諍いがもとで足止めを食らい、集まってきた村人たちに「朝鮮人ではないか」と問い詰められたあげく、恐怖と怒りから我を忘れ狂気と化した男たちによって惨殺されたのである。
 
 ソルティは少し前に加藤直樹著『九月、東京の路上で』ほか、朝鮮人虐殺に関する本を読んでいたこともあり、一度現地を訪ねてみようと思った。

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東武アーバンパークライン・野田市駅

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駅前にあるキッコーマンの工場

 「東武アーバンパークライン」という、かつての「E電」と同じ運命をたどりそうな、いっこうに馴染みそうもない愛称を奉られた「東武野田線」の野田市駅からバスに乗る。
 野田は千葉県内で銚子と並ぶ醤油のふるさと。業界最大手のキッコーマンと白醤油部門では業界最大手のキノエネ醤油が所在する。
 駅を降りたら醤油の香りがぷんぷん――ということはなかった。

 香取神社前まで「まめバス」という愛称をもつ可愛いコミュニティバスに乗り約20分。
 市街地を過ぎると、古くからの農村風景と郊外バイパス沿線の無味乾燥な風景が入り混じった、どこにでもある光景が広がる。
 利根川の土手が見えてきたら目的地は近い。

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香取神社前バス停
野田市駅からコミュニティバスで100円

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のどかで平和な風景が広がる

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香取神社はバス停から歩いてすぐのところにあった

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香取神社と隣接する円福寺(神仏習合の時代は別当寺だった)

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香取神社
千葉県香取市の香取神宮を総本社とし、経津主神(フツヌシノカミ)を祀っている。
経津主神は刀剣の威力を神格化したものと言われる。
まさか村人たちに神が乗り移ったのか?


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拝殿と本殿が分かれている本格的な造り

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境内には日露戦争の記念碑なども建っている

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鳥居の内側から参道を見る
一行15名のうち生き残った6名は、針金で鳥居に縛られていたという。
殺された9名は、参道の途中にあった茶店の床几に座っていた。
想像するに、鎮守様の境内にいた人間にはさすがに地元民は手が出せなかったのではないか?

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円福寺(真言宗豊山派)

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円福寺境内に見かけた九地蔵
一般に、輪廻転生する六道(天界・人界・阿修羅道・餓鬼道・畜生道・地獄)に合わせた六地蔵が普通。
九体ある(しかも左の三体は子供のように見える)ことに、九人の犠牲者との関連はあるのか?
お地蔵様自体は、明治初期の廃仏毀釈の影響が見られるので、相当古い時代(江戸時代以前)のものに思われる。


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少し離れたところに円福寺の霊園がある

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この境内に福田村事件の被害者を祀る慰霊碑があるらしい
(ソルティは気がつかなかった)

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香取神社、円福寺の裏手が利根川
河川敷ゴルフ場のはるか彼方に名峰・筑波山が霞んで見える

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広々した空間が気持ちいい利根川の土手

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前方に見えるは常磐自動車道の利根川橋

 このように今なお風光明媚でのどかな土地で、かくも残虐非道な振る舞いが行われたことに驚くばかり。
 来年(2023年)は、福田村事件100周年にあたる。
 オウム真理教信者の日常を描いた『A』『A2』や『放送禁止歌』等の作品で知られるドキュメンタリー作家の森達也が、この事件の映画化を企図しているとのことで、最近キックオフイベントが行われたとのニュースを読んだ。
 いったいどんな作品になるのか期待大であるが、ひとつだけ留意したいのは、現在三ツ堀に住んでいる人々には、何の責任も罪もないってことである。

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亡くなられた犠牲者の冥福を祈る



 

 

● アプリーレ・ミッロの時代 オペラDVD:ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』


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収録年 1991年1月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ピエロ・ファッジョーニ
キャスト
 グスタフ3世 :ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
 レナート :レオ・ヌッチ(バリトン)
 アメリア :アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ウルリカ :フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
 オスカル :ハロライン・ブラックウェル(ソプラノ)

 ヴェルディ中期の傑作。
 スウェーデンの啓蒙絶対君主であったグスタフ3世(1746-1792)の暗殺という史実に材を取っている。

 国力増強に努めるとともに社会福祉に力を入れ国民の人気を集めたグスタフ3世は、一部貴族から反感を持たれていた。ある晩ストックホルムのオペラ座で開催された仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれ、それがもとで命を落とした。犯人として捕まったのは、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵であった。

 本作は、この史実をもとにしながら、グスタフ3世と忠実な部下であり親友でもあるレナート(アンカーストレム伯爵がモデル)、そしてレナートの妻アメリアの三角関係を創作し、暗殺の動機を政治的なものから痴情的なものに転換している。
 すなわち、グスタフとアメリアの関係を誤解したレナートが、華やかなる仮面舞踏会の会場でグスタフを刺し殺すという恋愛悲劇である。
 レナートは、妻として自分を裏切ったアメリアより、友として自分を裏切ったグスタフのほうが許せなかったのだ。
 その直前にグスタフは身分を隠して女占い師ウルリカのところに行き、将来を占ってもらう。
 ウルリカは言う。「おまえは身近な人間の手で殺される」
 この予言が実現してしまったわけで、いかにも大時代的なベタな設定だなと思うが、なんとこれもまた史実で、ウルリカは実在の占い師で暗殺予言も実話らしい。

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 全体にヴェルディらしいドラマチックで重厚な曲調で、アリアや重唱や合唱の出来も良い。
 中だるみのない緊密な音楽構成は、中期の傑作として上げられるのももっとも。

 運命のいたずらで、レナートはグスタフとアメリアが深夜二人きりで会っている現場を目撃してしまう。二人の間に肉体関係はなかったのだが(身も蓋もない言い方でスミマセン)、レナートはてっきり自分がコキュされたと思い込む。
 しかもバツの悪いことに、現場にはグスタフの命を狙う貴族たち一味も潜んでいて、一部始終を見られてしまう。
 この衝撃のシーンにおいて、ヴェルディは、貴族たちの「ハハハ」というレナートへの嘲り笑いを歌にした軽妙な音楽を入れる。 
 もっとも悲劇的なシーンに、もっとも喜劇的な音楽をぶつけて、ドラマをさらに盛り立てるヴェルディの天才性には唸らされるばかり。

 世界のメトである。
 オケや合唱はむろん、出演歌手たちも当時の最高峰を集めて、間然するところがない。
 パヴァロッティは声の素晴らしさは言うまでもないが、王様の衣装が実に良く似合って、あの髭面がイケメンに見える。
 レオ・ヌッチの形式感ある立派な歌唱、抑えた演技は好ましい。
 オスカル役のハロライン・ブラックウェルの明るいコロラトゥーラソプラノと軽快な動きは、暗く陰惨な作品の雰囲気を緩和してくれる。
 そして、アメリア役のアプリーレ・ミッロであるが・・・・

 ソルティが人生ではじめて観たオペラのライブは、1988年メト来日公演の『イル・トロヴァトーレ』(NHKホール)であった。
 このときの指揮者はジュリアス・ルデール。
 予定されていたキャストは以下のとおりだった。
  • レオノーラ:アプリーレ・ミッロ
  • ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
  • マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ
  • アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
 オペラ好きならもうお分かりだろうが、オペラ史に残る名演フィオレンツァ・コソットのアズチェーナが聴きたかった・観たかったのである。
 しかし、理由は忘れたが、直前にコソットが来られなくなって、急遽代役が立てられた。
 ソ連(!)から駆けつけた名歌手エレナ・オブラスツォワがアズチェーナを歌った。
 安くないチケットを買い、字幕を見ないで済むようリブレット(台本)を読みこなし、CDで聴きどころを繰り返し聴き、準備万端整えていたのに、一番の目的が果たされずがっかり・・・・ではあったが、さすが世界のメト、やっぱり素晴らしい舞台だった。
 コソットの不在という大きな穴を埋めてくれた一番の功労者は、しかし、エレナ・オブラスツォワではなかった。
 メトの有望新人ソプラノとして赤丸急上昇のアプリーレ・ミッロだった。
 当時まだ20代だったのではなかろうか。
 よく通る豊麗な声と深い響きが合わさった、まさにヴェルディのヒロインにぴったりの声だった。
 とりわけ第4幕第1場のレオノーラのアリア『恋は薔薇色の翼に乗りて』は絶品で、彼女の歌声によって、昭和バブル期のNHKホールから、月の輝く中世ヨーロッパの古城にタイムスリップしたかのような感覚を抱かされた。
 あの世の主役はミッロだったと思う。

 ソルティの素人判断はともかくとして、ミッロは非常に期待されたソプラノだった。
 もちろんすでにメトのプリマには到達していたのだが、それ以上の存在になる、オペラ黄金時代(1950年代)のテバルティやカラスの域まで行くのではないか、とさえ言われていた。
 本ライブでも、大先輩であるパヴァロッティやレオ・ヌッチにまったく引けを取らない堂々たる歌唱で、ヴェルディの音楽に内包するドラマ性と抒情性を見事に表現しきっている。
 声のコントロールも巧みである。
 これで20代とは!
 たしかに末恐ろしい。

 その後、ソルティがミッロの歌声を生で聴く機会を持ったのは、1992年1月ローマ・オペラ座だった。
 イタリア旅行中のローマでミッロのリサイタルがあると知り、当日券を買った。
 久しぶりに聴くミッロは調子悪そうで、声がよく出ていなかった。
 ライブの途中で、彼女自身が客席に向かって、「今日は風邪をひいて声の調子が良くありません」と弁明しなければならないほどだった。
 その後、ミッロの名前を聴く機会は急速に減った。
 どうも80~90年代初頭がピークだったようだ。
 喉を壊したのだろうか?
 それとも、キャスリーン・バトルに虐められた?

ローマオペラ座
ローマ・オペラ座
 
 本DVDは、デアゴスティーニ発売「DVDオペラコレクション」(2009年創刊)の一枚で、ブックオフで500円で購入した。
 世界的歌手が出演する伝説のオペラライブを収録したLD(レーザーディスク)が1万円以上して、それを観るためのLDプレイヤーが10万円以上した時代を知る者にとって、こうしてワンコインで画質も音響も良い映像ソフトを手に入れられて、自宅の低価格DVDプレイヤーで気軽に視聴できるのは奇跡のようである。







● 本:『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』(木島泰三著)

2020年講談社

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 いやあ、難しかった。
 おのれの読解力の限界に挑戦するような読書体験であった。
 自分は文系だなんてよく言えたものだ。
 遺伝(生まれ)か環境(育ち)かは知らず、脳の構造や頭の働きにはどうにもならない壁があるってのを痛感した。

 もちろん最初から哲学書と分かってはいた。
 山口百恵の引退ラストソングを思わせるようなノスタルジックでパセティックなタイトルに警戒心を解いて、おもむろに読み始めたものの、文意を理解し論理を追うのに手こずった。
 自由意志の有無をめぐる昨今の議論は興味深いし衝撃的でもあるので、もっと“一般向け”にわかりやすく書いてくれたら・・・・・と願わざるを得なかった。

 内容を的確にまとめるのも紹介するのも自信がないので、読書感想文レベルで素直に思ったことを記す。
 まず、著者の木島泰三は西洋近世哲学を専門とする研究者(1969年生まれ)ということなので「哲学者」と言っていいと思うのだが、現代の哲学者には科学的素養が不可欠なのだということを改めて感じた。 
 哲学とは、「人間はなんのために生きるか?」とか「人間はどう生きるべきか?」といったことを問う学問と思うが、その肝心の「人間」がそもそもどういう存在であるかを把握する上で、現代科学(とくにダーウィン以降)の知見がもはや欠かせないのである。
 進化論、遺伝子学、脳科学、心理学、動物行動学、果ては宇宙物理学や量子力学まで、「人間存在」を科学の言葉で解明できる部分が少なくない、という現実がある。
 その意味で、本書も哲学書でありながら科学書の趣きもある。
 現代の哲学者はたいへんだ。

 次に、本書全体の特徴を言うなら、「自由意志の問題を考察する上で最低限知っておきたいトピックをほぼ網羅した見取り図を描いている」ということになろう。
 古代ギリシャのソクラテスやデモクリトスに始まって、リチャード・ドーキンスの『利己的遺伝子』やベンジャミン・リベットの実験に至るまで、哲学史と科学史をたどりつつ、この問題に関する幅広い議論や説や様々な論点を整理・紹介してくれている、たいへんな労作である。 
 ソルティは、最先端の科学が自由意志の存在を否定する(ように見える)ことに関心を抱き、興味の赴くまま関連本を読んできたのであるが、そもそも自由意志の問題は哲学史において、古代から議論白熱の主要トピックの一つだったのである。
 その視点がソルティにはまったく抜けていたということに気づかされた。

 とはいえ、それも仕方ない。
 本書でも記されているように、近代科学の勃興をみるまで、自由意志の問題はおおむねキリスト教神学の中で取り上げられてきたのであった。
 
 こういう全能の唯一神を中心に据えるようになったヨーロッパ思想において、自由意志の問題は何より、神の全能性と人間の自由をどのように調停するのか、という問題として取り組まれてきた。これは人間の運命を気にかけ、それを左右しようとする人格的存在と自由意志との関係という問題であり、典型的な「運命論」の問題である。 

 つまり、ソルティが関心を持っている「自由意志の存在の有無を科学的に如何する」というテーマとはおのずから次元が異なる。
 全能の唯一神をはなから想定していない者にしてみれば、まったく関係ない議論である。
 
 一方、著者が本書でもっとも議論を尽くして強調している「運命論」と「因果的決定論」との違いは重要なポイントであり、現代の自由意志論争においても関係ないとは言えない。
 (人間についての)因果的決定論とは「自然法則に適った何らかの過程が意志を決定している」という意味で、簡単に言えば「ドミノ倒しのような原因と結果の法則は、人間の思考や感情や行動を含めたすべてに適用される」ということである。
 著者はこれを「運命論」とは明確に区別されるべきと主張している。

 運命論と因果的決定論との最大の区別はどこにあるか。それは、因果的決定論は目的論の要素を含まない思想であるのに対し、運命論が本質的に目的論の一形態として解される思想であるというところにある。つまり運命論によれば将来の「運命」があらかじめ定まっており、それを実現させる「ために」という、終着点(テロス)の指定が不可欠の要素として想定されている。あるいはそれは、「どこへ?」という問いかけと抜きがたく結びついている。

 たとえば、いま科学者が「自由意志は存在しない」とか「我々の思考や行動を決定しているのは無意識であり、意識は傍観者に過ぎない」と言ったときに、「ならば、我々の運命はあらかじめ決まっていて、何をしても無駄なのか?」とつい悲観的になってしまう人がいるかもしれない。
 が、人の運命をあらかじめ定めているような偉大な神なり宇宙的プログラマーなりは存在しないので、悲観したり捨て鉢になったりする必要はないよということである。
 たしかに、この違いをわきまえることは重要であろう。

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 現在、自由意志の有無をめぐる議論は、次の3つの立場に分かれるという。
  1. 自由意志原理主義(リバタリアン)・・・自由意志はある!
  2. ハード決定論(因果的決定論)・・・自由意志はない!
  3. 両立論・・・1と2は両立できる?
 詳しくは本書にゆずる(ゆずらざるを得ない)が、著者の立場は、たとえこの先、2のハード決定論が科学的に完璧に証明されたとしても、それで人生をあきらめる必要もないし、自らの定めた目的に向かって努力やチャレンジするのを「無駄」と切り捨てる必然性もないよ、ということのようだ。(ひどい雑なまとめ!)

 もう一点。
 因果的決定論の最たるものは、おそらく仏教それも初期仏教であろう。
 「是あれば彼あり、是なければ彼なし」の因縁の教えは仏教の中心教義である。
 また、仏教で「意志」という概念にあたるのは「行(サンカーラ)」だと思うが、ブッダは人間を構成する五蘊(色・受・想・行・識)のいずれもが「無常であり、無我であり、苦である」と説いた。
 「行(=意志)は幻想である。それは“わたし”ではないし、そこに“わたし”はいないし、そこを離れた外部にも“わたし”はいない」と言った。
 こうしたブッダの教えが、最先端の科学の知見と符合するところが多いというのが、ソルティがそもそもこのテーマに関心を持った理由であった。

 木島は西洋哲学専門なので、本書には仏教に関する論考が入っていない。
 しかし、自由意志の問題に関する見取り図を作るなら、やはり仏教に触れないわけにはいかないと思うし、仏教が「決定論をめぐる哲学史」においてどういう位置を占めるのか、自由意志についてブッダはどうとらえていたか、非常に気になるところである。
 
 著者は『エチカ』を著したオランダの哲学者スピノザ(1632-1677)に多大な影響を受けた模様。
 唯一絶対神を否定したスピノザの思想は「歴史上もっともラディカル」と言われている。
 私見だが、歴史上もっともラディカルな思想は、スピノザでもマルクスでもなく、ブッダだと思う。
  
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スピノザ
気になるが、ソルティに読めるだろうか?




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『利根川民俗誌 日本の原風景を歩く』(筒井功著)

2021年河出書房新社

 江戸時代後期、千葉県布川に赤松宗旦という医者がいた。
 晩年に、地元布川を中心とする利根川流域の歴史・風俗・動植物を紹介する図説入りの本を書いた。
 それが『利根川図志』(1858年刊行)である。

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 本書は、利根川流域を転々と移り住んできたという筒井が、宗旦の『利根川図志』に倣って、自らの興味の赴くままに、岸辺の町や遺跡や風物を訪ねて紹介したものである。
 民俗紀行エッセイといった感じであろうか。

 坂東太郎もとい利根川は、新潟県と群馬県の境にある大水上山(1,831m)に水源を発し、群馬県を縦断し、埼玉県の上辺をなぞり、東北本線栗橋駅の北で渡良瀬川と合流したあと、茨城県と千葉県の県境を作りつつ、銚子(犬吠埼)で太平洋へと注ぐ。
 全長は322km、信濃川に次いで日本で2番目に長い。
 
 本書で対象とされるのは、渡良瀬川との合流地点から下流部分について。
 主たる町の名を上げれば、古河・野田・坂東・我孫子・取手・布川・印西・成田・香取・潮来・神栖・銚子。
 我孫子から銚子までは、JR成田線沿線となる。

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 こういう本は、実際に現地を足で巡りながら読むのが一番面白いのであるが、さすがにそれはたいへんなので、昭文社『スーパーマップル 関東道路地図』を手元に置きながら、取り上げられる町の地図上の位置を利根川や鉄道との関係で確かめつつ、読んでいった。
 おかげで、ちょっとした旅行気分が味わえた。
 JR一筆書きツアーで何度か成田線には乗っていて沿線風景も目にしているが、この路線では下車したことがないので、非常に興味深かった。
 
 題材は幅広い。
 赤松宗旦や柳田邦男の住んだ家や家族の話、非定住民たちのテント集落があった森、変わった土地の名前の由来、利根川の流れの変遷や度重なる水害、“風俗壊乱(乱交)”の祭りの伝承、平将門伝説、宝珠花にあった遊郭、昭和40年代初期まであった霞ヶ浦の帆曳き網漁、工業団地に化けた砂丘、銚子半島と紀州和歌山とのつながり・・・等々。 
 まさに「町に歴史あり」「川に歴史あり」といった話のオンパレードで、民俗学の面白さを堪能した。

 読んだら、どうしても訪ねてみたくなった場所があった。
 花粉シーズンがおさまったら出かけようっと。





おすすめ度 :★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 清張センセイの女性観? 映画:『わるいやつら』(野村芳太郎監督)

1980年松竹
129分
原作:松本清張
脚本:井手雅人
音楽:芥川也寸志、山室紘一
撮影:川又昴

 何度かテレビドラマ化されている犯罪サスペンス。
 たしかに、ベッドシーン含め男女のドロドロを執拗に描くインドア的“火サス”プロットは、映画よりテレビドラマのほうがふさわしい。
 いくら当時一番人気の清張だからと言って、なんでもかんでも映画化すればいいってもんじゃなかろうに・・・と正直思う。
 スクリーンにふさわしくない題材まで映像化してしまったことが、清張映画の質のアンバランスを生んだ一つの原因であろう。
 『砂の器』コンビである芥川也寸志の音楽、川又昴の撮影、佐分利信・緒形拳・梶芽衣子をはじめとする錚々たる名優陣をもってしても、本作を凡作から救うには至らなかったようだ。

 見どころを上げれば、5人の旬の女優たち――松坂慶子、梶芽衣子、神崎愛、藤真利子、宮下順子――の美女競演というところだろうか?
 愛の水中花・松坂の最盛期の美貌、女囚サソリにして修羅雪姫・梶の画面から滲み出る風格、日活ポルノでならした宮下の凄みある艶技、それぞれ印象に残る。
 だが、これらの女性たちと愛し憎み合い、犯罪がらみのドロドロを演じることになる当の相手が片岡孝夫であることに、いまいち納得がゆかない。
 片岡孝夫も当時人気沸騰だったけれど、なぜあんなに騒がれたのか、この映画からは見当つかない。
 刑事役で出ている緒形拳のほうが、よっぽど母性本能くすぐりでジゴロめいている。
 まあ、個人的好みの問題か。

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左より、梶芽衣子、神崎愛、松坂慶子、藤真利子、宮下順子

 この作品に限らず、松本清張にはどうも女性のみにくい面をあげつらったストーリーが多い気がする。
 欲深く、エゴイストで、見栄っ張り、したたかで、男性をすぐ支配したがり、“おんな”を使うことに長けていて、感情的で、しつこくて、美しい仮面の下に魔性を秘めている。
 清張には女性不信なところがあったのか?
 



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 



  

● 漫画:『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』(諸星大二郎・作画)

初出2002~2005年『ネムキ』
2006年朝日ソノラマ
収録作品
『Gの日記』
『トゥルーデおばさん』
『夏の庭と冬の庭』
『赤ずきん』
『鉄のハインリッヒ または蛙の王様』
『いばら姫』
『ブレーメンの楽隊』
『ラプンツェル』

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 『ネムキ』というのは『眠れぬ夜の奇妙な話』の略で、2012年12月廃刊となったコミック誌である。
 「オモシロ不思議いっぱいの少女コミック誌」というキャッチフレーズが表すように、読者は圧倒的に若い女性が多い。

 『少年ジャンプ』を中心に少年誌や青年誌で数々の傑作を発表し、多くの男性読者を獲得してきた諸星大二郎が、女性向けコミック誌にも作品を描いていること、しかもその内容がまさに「オモシロ不思議いっぱい」でありながらも現代を生きる若い女性たちの琴線に触れるであろうものであることに、びっくりした。
 発表する雑誌のカラーや読者層を意識して描くのがプロの漫画家の使命であり実力の見せ所であるとはいえ、諸星がこれほどまでに柔軟で幅広いテーマを自在に描ける書き手であるとは思わなかった。
 
 グリム童話を下敷きにした、いわゆる質の高いパロディの創作というだけではない。
 読者の共感を得られるべく、女性を主人公としているというだけではない。
 なんと、これらの作品群の核となるのがフェミニズムだからである。
 諸星がフェミニズムを描ける男性漫画家である――しかも1949年生まれの団塊の世代のヘテロ男子である!――ことに驚かされた。
  
 ただその予感はあった。
 初期の作品である『赤い唇』(1974年)では、魔物の力を借りてペルソナ(仮面)の下の真の自分をさらけ出すことに“成功”した女子中学生・月島令子が、男性教師や男子生徒たちを女王様の如く圧倒する様が描かれていたし、奇妙なSF短編『男たちの風景』(1977年)では、女たちが若く美しい男たちを追い回し、男たちが出産し“父性愛”に目覚めるという、地球とは逆転した文化をもつ不思議な惑星マクベシアが舞台となっていた。
 主要発表媒体であった少年コミック誌における描写の限界や、青年コミック誌の読者層への忖度(つまり受けを狙ったテーマの選定)によって気づかれにくい面があったのかもしれないが、諸星大二郎には性やジェンダーの常識を問うような作品が散見される。
 意識的か無意識的かは知らないが、通常のマッチョイズムや男尊女卑的な性役割に対する違和感を持っている人なのではなかろうか。
 でなければ、本作に収録されているようなフェミ色の強い作品群を、「出版社の依頼を受けたから」「読者層に合わせて」というだけで即座に描けるものではないと思う。

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 収録作品はどれも、主人公の女性たちの意志の強さ、自立心の高さ、「自分の欲しいものは周囲に頼らず自分で手に入れる」タフネスなしたたかさが目立つ。
 読者は、本のタイトルになった『トゥルーデおばさん』のヒロインに、自らの才能と適性を知った少女が家族や世間の縛りを断ち切って、思い定めた職(生き方)にかける覚悟と勇気を見るだろう。
 『鉄のハインリヒ あるいは蛙の王様』のヒロインに、自らの野望の実現のために、頭を使い、自分の命令を何でも聞いてくれる強靭な味方を手に入れ凱旋するシングルマザーの姿を見るだろう。 
 髪長姫『ラプンツェル』では、支配的な母親(いわゆる毒親)から解放される若い女性の心の彷徨をともに経験するであろう。
 いずれも実に現代的な女性を巡るテーマと言える。
 
 絵そのものが発揮する衝撃力こそ初期の作品に及ばないが、人間年をとるとどうしても毒気が抜けるので、これは仕方ないところである。(かつての諸星なら、たとえば泉に囚われた蛙の王様などは、もっとおぞましく不気味に描けたであろう)
 いっときグリム童話の残酷性を目玉にしたエッセイやホラー風漫画が流行ったが、それらとは次元の異なるグリムパロディであり、諸星の天才をまたひとつ証明するものであるのは間違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 2022秩父・春のお彼岸リトリート(後編)

 最終日はまずまず晴れたので山歩きした。
 秩父札所巡礼時を含め3度目となる琴平ハイキングコース。

●歩いた日 3月20(日)
●天気   曇り時々晴れ
●タイムスケジュール
12:30 秩父鉄道・影森駅
    歩行開始
12:40 大渕寺(秩父札所27番)
13:00 護国観音
    昼食(20分)
13:40 円融寺奥ノ院・岩井堂(秩父札所26番)
14:00 東屋 
    休憩(10分)
15:20 野坂寺(秩父札所12番)
16:00 カフェ「木亭」
    歩行終了
●所要時間 3時間30分(歩行3時間+休憩30分)
●標高   399m(最大標高差165m)

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秩父鉄道・影森駅スタート

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札所27番大渕寺
曹洞宗のお寺。裏手の崖を登ると・・・

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護国観音
昭和10年(1935年)建立、高さ16.5m
足下のナップザックで大きさを実感してください

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眺望をおかずにおにぎりを食べる
至福のひととき

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札所26番円融寺・岩井堂
清水の舞台や山寺(立石寺)を思わせる江戸中期の建築

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岩井堂に奉納された額絵
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する畠山重忠ゆかりの寺
(重忠を演じているのは中川大志)

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生きとし生けるものが幸せでありますように


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崖の上に建つ修験堂
この険しい丘陵は修験道の地でもあった

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行者たちはこの岩を這い上がったのだろう

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ピーク(399m)付近から見える武甲山の尾根

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武甲山山頂

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岩の多い静かな山道を進む

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下山して里山風景に癒される。振り返ると・・・


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梅が見頃であった

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札所12番・野坂寺
臨済宗のお寺。四季折々の花が美しく、清涼な気の満つるパワースポット

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臼を引く女性像
境内のお堂の中にある木彫り十三尊仏は地元の公務員さんが
母親の成仏を願い、仕事のかたわら独学で彫り上げたという
臼を引く母親の像には作り手の愛と感謝が籠められている

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街中に古風なカフェを発見

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その昔養蚕をしていた蔵を改装した店内は雰囲気抜群!

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コーヒーとレアチーズケーキが足の疲れを忘れる美味しさだった
こういった素敵なお店との出会いも旅のよろこび

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秩父鉄道では春から秋の間、SL(蒸気機関車)を走らせている

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ボーッという汽笛の音が旅情をかき立てる
(秩父鉄道・寄居駅付近)


今回も良いリトリートであった。
































 

 

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