ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● アマデウス鎌倉版 本:『仏師成朝と運慶 猜疑の果てに』(西木暉著)

2012年島影社

成朝と運慶

 この本は面白かった。
 源平合戦のあった平安末期~鎌倉初期の史実をもとにした歴史小説としての面白さ。
 仏像を造ることを生業とする仏師たちの生きざまを描いた芸道小説としての面白さ。
 老年に差しかかった一人の男の波乱の半生と心の軌跡を描く人間ドラマとしての面白さ。
 それらが、綿密な下調べと巧みな構成と抑制の効いた文章のうちに融合され、いったんページを開くと、またたく間に物語の世界に入り込んで、あっという間に読み終えた。

 物語の主たる舞台となっているのが、現在の静岡県伊豆であることも大きい。
 主役である仏師成朝(じょうちょう)がそこで手掛けているのは、北条時政に依頼された願成就院の仏像なのである。
 ソルティは願成就院に行ってきたばかりで、あのあたりの地理や地形や風景が記憶に残っているので、物語を頭の中でビジュアル化しやすかった。
 大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読んだ時も思ったが、物語の舞台となった土地を訪ね歩いていることは、読書を数倍面白くする。
 この小説の登場人物たち――成朝とその弟子たち、運慶、源頼朝、北条時政、大江広元ら――が、自分が歩いたのと同じ道を歩き、同じ川を渡り、同じ山に登り、同じ景色を眺め、同じ温泉に浸かり、同じ仏像を拝んだのだと想像するのは楽しい。
 しかも、『万延元年』の場合とは違って、こちらは歴史上の実在人物である。

DSCN7386
伊豆長岡

 ここで、仏像に詳しい人、あるいはソルティの記事を読んでくれた人は、
「えっ? 言ってることおかしくない? 願成就院の仏像を造ったのは運慶のはずだろう?」と思うに違いない。
 そのとおりである。
 文治2年(1186)に北条時政の注文に応じて願成就院の仏像たち――阿弥陀如来坐像と両脇侍、不動明王立像と両脇侍、毘沙門天立像の7体と伝えられる――を彫り上げたのは、運慶を頭とする慶派仏師である。成朝ではない。
 成朝がかかわったという記録もない。
 成朝がかかわったことが確認されている鎌倉関係の仏像は、源頼朝の依頼に応じて文治元年(1185)に造った勝長寿院の本尊(おそらく阿弥陀如来)だけであり、それは失われてしまった。

 運慶の彫った仏像がいまも全国に30体ほど残っていて、多くが国宝に指定され人々の称賛を集めているのにひきくらべ、成朝の作品は一つも残っていない。
 だが、成朝こそは、平安後期に和様彫刻を完成させた偉大なる仏師定朝(代表作:宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像)の血脈を継ぐ「奈良仏師」派の棟梁であり、運慶とその父康慶は(技術的にはともかく社会的には)その配下で仕事をしていたのである。
 成朝と運慶――同時代を生きた2人の仏師の圧倒的な格差がこの小説の骨子をなしている。
 「猜疑の果てに」という副題が匂わす穏やかでない空気も、願成就院の造仏をめぐる架空設定も、その格差からくる成朝の劣等感を因として生じている。
 この小説は史実をもとにした、“現実にあったかもしれない”フィクションなのである。

DSCN7423
願成就院

 平安後期、大仏師定朝の後裔は、院派・円派・奈良仏師の3派に別れ、互いに有名寺院の造仏の機会を求めて競い合っていた。
 治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちによって灰燼に帰した東大寺と興福寺の復興事業が始まると、3派の対立はそれぞれを庇護する上級貴族や寺僧らの思惑も絡んで、予断の許さないものになる。
 奈良仏師の棟梁である成朝は、齢50を超えたというのに、これまでに大きな業績を残しておらず、同じ工房の先輩仏師である康慶はまだしも、その息子で自分より年下の運慶の才能と熱意に気圧され、忸怩たる思いを抱えていた。
 そこに、平氏討伐の狼煙を上げた鎌倉の源頼朝直々の依頼が飛び込んで来た。
 鎌倉に来て、父の菩提を弔うために建てた勝長寿院の本尊を造ってくれ。
 「興福寺復興という大切な仕事が待っている今、棟梁が奈良を離れるべきではありません」
 引き留める康慶の言葉を振り切って、成朝は弟子を連れて東国に向かった。
 素晴らしい仏像を造り、頼朝はじめ東国の武者たちを驚嘆させ、奈良仏師の未来を拓くために。
 そして、仏師としての栄誉を手に入れ、周囲を見返してやるために。

DSCN6527

 読んでいて想起するのは、ミロス・フォアマン監督『アマデウス』(1894)である。
 ウィーンの宮廷楽長で作曲家であったサリエリが、新星のごとく出現した年下のモーツァルトの“神に愛された(AMADEUS)”天才に驚き、嫉妬に苦しみ、ついにはモーツァルトを毒殺する。
 凡人芸術家の――と言ってもサリエリだって当時のヨーロッパ楽団の頂点に立つほどの相当才能ある音楽家である――天才芸術家に対する嫉妬と畏敬の念、そこから生まれた絶望や憎悪を描いた傑作であった。

 もちろん、サリエリ=成朝、モーツァルト=運慶である。
 20代で円城寺大日如来像(国宝指定)を彫り上げ、その若々しく新鮮な作風で世間をアッと言わせた運慶。
 自由闊達な行動とあふれんばかりの生命力でどこにいても人の輪の中心になってしまう運慶。
 成朝がほのかな恋心を抱いた手伝いの少女に声もかけられずモタモタしているのを尻目に、運慶はさっさと彼女を孕ませてしまう。
 運慶を見るたびに、成朝は劣等感に悩まされる。
 劣等感は嫉妬に、嫉妬は猜疑心に変わる。
 成朝は、康慶・運慶親子が工房を乗っ取ろうと企んでいるのではないかと邪推する。

 著者は、成朝のいじけた心のうちを、ペンによって丹念に且つくっきりと彫り出していく。
 あたかも慶派スタイルそのもののような容赦ない写実主義で。
 とりわけ、誇れるようなことを何も成し得ないまま老年に達しつつある男の心情が、精緻に描き出されており、アラ還のソルティは身につまされる思いがした。
 成朝は、これと言った代表作を持っていなかった。
 伝統ある奈良仏師の棟梁の身でありながら、一流仏師として世間に認められるための僧綱(官位)を持っていなかった。(院派や円派の棟梁はもちろん、康慶も持っていた)
 妻子もいなかった。
 財もなかった。
 ないないづくしの人生だったのである。
 人生の終わりに近づいて(当時は50歳過ぎたら老人だろう)、過去を振り返って後悔にさいなまれ煩悶する成朝の姿は、いわば「老人クライシス」。

人は必ずどこかで自分の過去をつぶさに振り返り、大きな後悔を抱くときがやってくる。そのときこれまで他人に何と言われようと正しいと思ってきたことが次々に裏返り、まるで白い碁石が黒い碁石にかわってしまうようなことがある。

人にはやはり体力と知力に富み気力あふれる時期というものがある。その時期に、一つのことに集中し様々な誘惑にも耐えながら必死で努力する。それが何にも代えがたいことなのだ。
 
 少なくない中高年読者の共感を呼ぶことだろう。
 マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』(2022)に登場するヴァイオリン弾きのコルムを思い出した。

DSCN7319

 頼朝から受けた仕事を無事終えた成朝に、こんどは北条時政が仕事を依頼する。
 自分が建てた伊豆の願成就院の仏像を造ってくれ。
 喜び勇んで引き受けた成朝であったが、平氏の都落ちを受けて、時政は頼朝の命を受けて京に赴くことになる。
 造仏はいったん中止となった
 落胆した成朝は奈良に帰ることを考えるが、そこに甲斐の武将安田義定から造仏の依頼が入る。
 放光寺の金剛力士像を造ってくれ。
 成朝ら一行は富士の裾野をめぐって甲斐国入りする。
 仏像は完成したが、大きな代償が待っていた。
 ある雪の朝、成朝は脳梗塞を起こして倒れてしまう。
 半身にマヒが残る状態で、思い通りの仏像が造られようか・・・。

 どこまでも運のない男・・・。
 (ちなみに、放光寺は周防正行監督×本木雅弘主演『ファンシーダンス』のロケ地となった真言宗のお寺である。)

 奈良仏師が請け負うべき興福寺の仕事に対し院派から横やりが入ったという知らせを聞いた成朝は、今度こそ奈良に戻らなければと決心する。
 しかし、タイミングの悪いことに、京の役目を終えた北条時政が伊豆に戻って来た。
 願成就院の仕事を再開せよと迫る。
 困り果てた成朝は、自分の代わりとなる仏師の名を時政に告げた。
 大仏師康慶の実弟子、相応院勾当運慶。
 京にいるときに運慶の大日如来像を見て感銘を受けていた時政は、その名を聞いて上機嫌になる。
 成朝は引き留められることもない。

 運慶の伊豆到着を喜ぶ弟子たちの姿を前に、成朝は表面上は棟梁らしい振る舞いをしながら、またもや嫉妬と猜疑に襲われる。
 サリエリはモーツァルトに毒を盛った。
 成朝は――成朝は、運慶に陰険な罠を仕掛けて、伊豆をあとにした。
 その罠が逆に、運慶をしてこれまでにない斬新な仏像の様式を生み出させしめ、鎌倉時代の造仏界を席巻し江戸時代まで続く日本最大の仏師の流派(=慶派)を誕生させるきっかけになろうとは夢にも思わずに。

DSCN7068

 著者の西木は、元中学校の社会科教員をしていたという。
 さすが、歴史についても造仏についても非常によく下調べしてあり、生徒に教えるようにわかりやすく書けている。
 本作は、映画にしたら面白いと思う。
 成朝は、運慶は、康慶は、快慶は、頼朝は、北条時政は、後白河法皇は、どの役者が演じるといいだろう?
 配役を考えると楽しくなる。
 ソルティが、伊豆の旅で訪れたかんなみ仏の里美術館ではじめて出会い、その腕前に感動した仏師実慶も、成朝に忠実な、頼りになる弟子として登場している。
 たしかに、伊豆に残った実慶が、願成就院の仕事を手伝った可能性は高い。

 本作でひとつだけ残念に思った点を上げるなら、成朝があまりにみじめで忍びない。
 主人公として可哀想すぎる。
 
 奈良に戻った成朝は、造仏を続けた。
 建久5年(1194)、興福寺中金堂弥勒浄土像の造仏により僧綱(法橋)を得たことは、公家三条実房の日記である『愚昧記』に書かれているらしい。
 その後のことはよく分かっていない。

 であるなら、いっそ成朝を出家させ、本当に僧侶にしたら良かったのでは?
 麻痺の残った足を引きずりながら、ひとり全国行脚し、各地で民衆の頼みに応じて経を読み、祈りを捧げ、貧者や病者を扶け、村々の小さなお堂の仏像をつくり続ける。
 自らの名前を残すことなく。

DSCN4500


 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● コンドームの語源 本:『ルパン対ホームズ』(モーリス・ルブラン著)

1908年原著刊行
2015年早川書房

IMG_20250621_075808

 この本、当然読んでいるはずと思ったが、ストーリーをまったく覚えてなかった。
 認知症を疑うレベルで覚えていない。
 なんでだろう?
 ・・・・解説を読んで、分かった。
 本書の原題は、ARSENE LUPIN CONTRE HERLOCK SHOLMES 「アルセーヌ・ルパン対ハーロック・ショームズ」
 シャーロック・ホームズ(SHERLOCK HOLMES)のまがいものなのであった。
 パスティーシュですらない。

 これは、当時生存していたコナン・ドイルから、勝手なキャラの使用についてクレームが入ったため、名前を変更せざるを得なかったから。
 相棒のワトソンはウィルソンに変えられている。
 それに伴ってか、二人の性格や間柄も、ドイルの原作とはずいぶん変えられている。
 ショームズ(=ホームズ)は驚くほど勘が鈍くて冷淡だし、ウィルソン(=ワトソン)は愚かすぎる。
 まるで、本舗ホームズ&ワトソンのイメージを貶めるために書かれたかのようで、シャーロキアンの一人として、気分がよろしくない。
 前回は、読む前にあるいは読んでいる途中で、「タイトルに偽りあり」と気づいたので、読むのを止めたのであろう。
 
 実際、シャーロキアンからすると噴飯物の内容で、これを読んだドイルがどれほど怒りくるったことか想像に難くない。
 仕返しに、『ホームズ対カルーセル・リュパン』なんて作品を書いて、ルパンを滅茶苦茶コケにしたら面白かったろうに、英国紳士であるドイルはそんな卑劣なまねはしないのであった。
 一応、ドイルに敬意を払って、あるいは各国のホームズファンの恨みを買わないよう、知恵くらべそのものは引き分けといった按配に終わる。(ショームズはルパンが奪った宝石を取り戻すのには成功するが、ルパンの逮捕には失敗)
 が、キャラクターの魅力では圧倒的にルパン圧勝である。
 相変わらず、ダンディで大胆で活気にあふれ、女にモテモテ。
 どんな高価な宝石よりも女心を盗むのに長けている。

 主役は当然ルパンなのでルパンに分があるのは仕方ないけれど、そればかりでなく、“ホームズ v.s. ルパン”のたたかいには、“英国代表 v.s. フランス代表”といった趣きが伴う。
 つまり、フランス読者は、どうしたって英仏の長い歴史上の因縁を踏まえて、本書を読むことになる。
 英国とフランスの関係は、「もっとも近くて影響し合う国であると同時に、もっともライバル視してしまう国」、ちょうど日本と韓国(朝鮮)みたいな感じだろうか。(すると、ドイツが中国か?)
 そのライバル意識は、コンドームの語源を巡って、英国は「フランスの地名コンドンにある」とする説を主張し、フランスは「イギリスの医師コンドームの名から来ている」と主張し、互いに不名誉(?)を押し付け合うという笑い話まで生んでいる。
 フランスの読者たちは、ホームズもといショームズが、ルパンに一泡吹かされて英国にすごすご帰っていくラストに喝采を上げたことだろう。(今もそうか)

condom-3112057_1280
BrunoによるPixabayからの画像

 ソルティは、小学校低学年の頃にルパンと出会い、すっかりファンになった。
 図書室にあったポプラ社のルパンシリーズを読破して、そのあと、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズにはまった。
 怪人二十面相は、“日本版ルパン”なんだろうなあと思いつつ、本家とは違った残酷で恐ろしいキャラに、子供なりに彼此の文化の相違を思った。
 乱歩をあらかた読み尽くしたあたりで、ホームズの初登場作『緋色の研究』を手に取って、推理小説の面白さに目覚めた。
 どちらかといえば冒険小説&スリラーに近いルパンや少年探偵団シリーズとは違って、観察と知識と論理を駆使して謎を解いて真犯人をつきとめていくというスタイルが新鮮にして格好良かった。
 自分の小遣いでルーペを買って、しばらく探偵のまねごとをした。(パイプを咥えるのはまだ早いが、ホームズのかぶっていたキャスケットが欲しかった)
 女嫌いの変わり者だが、正義感強く友誼に篤い、ホームズのキャラにも惹かれた。
 ルパンはいつの間にか過去のヒーロー(恋男?)の一人に降格した。

 日本では、ホームズとルパンのどちらが人気あるのだろう?
 ネットで見つけたあるアンケートによれば、6対4でルパンのほうが人気高いようだが・・・。
 もっとも、ネット世代(=若い層)はルパン好きが多い、というバイアスがあるかもしれない。
 “ホームズ or ルパン?”の回答と“犬派 or 猫派?”の回答をかけた4類型で、回答者の基本的性質が判別できるような気がする。
 ソルティは、もちろん、“ホームズ×猫派”である。

cat-on-a-blue-background-5031754_1280
99mimimiによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★

★★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 若尾文子と三島由紀夫 本:『美徳のよろめき』(三島由紀夫著)

1957年講談社
1960年新潮文庫

IMG_20250618_105056

 初読である。
 「美徳のよろめき」というタイトルからソルティがいつも連想するのは、若尾文子であった。
 本作が映画化されたときに主演の倉越節子を演じたのは、若尾ではなく、月丘夢路である。TVドラマでは、川口敦子(1961)、藤谷美和子(1993)が演じている。
 若尾が主演した三島作品は、『長すぎた春』、『お嬢さん』、『獣の戯れ』の3作であり、いずれも若尾の代表作たりえなかった。
 ほかに、三島由紀夫と共演で『からっ風野郎』というヤクザ映画の珍品に出ているが、これは三島原作ではない。

 若尾文子はむしろ、谷崎潤一郎と相性が良かった。
 『瘋癲老人日記』、『卍』、『刺青』は、いずれも若尾文子の魅力全開の傑作である。
 これらの作品の中で、若尾は、「自らの若さとセックスアピールを武器にその虜になった男や女を手玉にとる」キャラクターを演じている。
 つまり、谷崎のようなマゾヒストにとって、理想の“女王様”である。

 20歳のときに出演した『十代の性典』がヒットし、若尾は一躍人気女優の仲間入りしたが、その際に「性典女優」という有り難くないニックネームを奉られた。
 若尾自身はその名称を嫌ったようだが、その後、溝口健二監督『祇園囃子』、『赤線地帯』によって鍛えられ本格的な女優への道を歩むようになってからも、エロチックなイメージは常にまとわりついていた。いや、むしろ、濃厚になったというべきか。
 今度は、「確信犯的に」そうしたイメージを自らの“売り”にしたようにさえ思える。

 ソルティが女優としての若尾文子をいつ認識したのかよく覚えていないのだが、思春期の頃には、「性的な匂いのする、PTAに嫌われる大人の女優」と位置付けていた。
 休日の昼下がりにテレビ東京あたりで放映された水上勉原作×川島雄三監督『雁の寺』を、こっそり観たせいかもしれない。(同じ水上なら小柳ルミ子主演『白蛇抄』のほうがエロかった)

 一方、若尾文子には着物の良く似合う大和撫子風“耐える女”のイメージや、黒川紀章によっていみじくも譬えられた“バロック”風貴婦人のイメージもあり、大女優として侵しがたい気品を備えていた。
 三島作品に適合するのは、若尾のこの気品あるたたずまいである。
 淑女や貞女と言うにふさわしい美しい女性が、ふとしたきっかけで道を踏み外し、秘められていた女の情念を暴発させる。
 このギャップ(=美徳のよろめき)こそ、若尾文子という日本を代表する映画女優の持ち味であり、かつ三島作品の女主人公の典型であると思うので、ソルティは若尾にこそ、『鹿鳴館』の朝子、『愛の渇き』の悦子をスクリーンで演じてもらいたかったのである。(浅丘ルリ子の朝子や悦子も悪くはなかったが)

IMG_20250615_145544
  
折り目正しい家庭に育った有閑夫人のほんの火遊びが、いつの間にか本気の恋にかわっていく。彼女は妊娠・堕胎するところまで行くが、運よく、破綻が来る前に身を引くことができた。

 単純化すれば、これだけの話である。
 令和の現在なら物語の種になりえようもない、陳腐な不倫妻ストーリー。
 本作が刊行された1957年では、相当スキャンダラスに受け取られたのだろうか?
 この本はベストセラーとなり、「よろめき」という言葉が流行ったというから、夫の浮気は「男の甲斐性」でも、妻の浮気は――「不倫」と言う表現は80年代以降である――世間的には許されない、マスメディアの格好の餌食になり得る、それゆえ話題沸騰のテーマであったのだろう。
 ソルティが十代の時分(70年代)、芸能ニュースを騒がせたゴシップの一つに、藤間紫の不倫騒動があった。彼女は、藤間勘十郎という立派な亭主がいて一男一女をなしているにもかかわらず、16歳年下の市川猿之助と関係を持ち、同棲するに至った。
 世間の藤間紫に対するバッシングの凄まじいことったらなかった。
 80年代になるとバブル景気とフェミニズム旋風の中、女性の性の解放が進んだ。  
 テレビでは『金曜日の妻たちへ』はじめ人妻不倫ドラマが大流行りした。そこでは、“不倫”とは名ばかりで、ホイホイと浮気する人妻たちに罪悪感や背徳感などほとんど感じられなかった。
 世間には、「不倫してこそ女は磨かれる」と言わんばかりのファッション感覚すら漂っていた。(バブル期トレンディドラマの人気男優だった石田純一の「不倫は文化だ」も当初は名言扱いだったはず)
 「美徳」も「よろめき」もすっかり死語になったのである。

 本書の解説で山田詠美も触れているが、令和の現在のほうがよっぽど人妻の不倫に対する世間の目は厳しい。
 不倫が発覚した女性有名人に対するバッシングのさまは、一周回って60~70年代に戻ったかのようである。
 CMを下ろされたり、ドラマを降板したり、芸能生命を絶たれかねない勢いである。
 もっとも、浮気した家庭持ちの男性有名人に対する目もずいぶんと厳しくなったので、その点では男女平等になったと言えるかもしれない。
 要は、性道徳に関する世間の目が硬化した(ように見える)のである。

 その原因や背景を考察するのは一筋縄ではいかない作業なので別の機会に譲るが、現代の性を巡る言論空間(特にSNS)の面白いと思う点を一つ上げると、旧統一教会を代表とするような保守的・父権主義的な価値観を持つ人のコメントと、セクシュアルライツ(性の人権)やフェミニズム(女性の権利)を訴える革新的・平等主義的な価値観をもつ人のコメントが、妙に一致するように見えることである。
 たとえば、前者の「純潔を守り、家庭を大切にせよ」という理念から発しられたコメントは、後者の「男の浮気やDVを批判し、女性と子供の権利を守る」という理念から発しられたコメントと、表面上は一致する。
 100字前後の短いコメントからは発言者の思想背景まで見えないので、「この人はどういう立場の、どういった所属の人だろう?」と頭をひねること度々である。

IMG_20250511_150514

 話がどんどん『美徳のよろめき』から逸れていく(笑)。
 本作、途中までは面白かった。
 主人公の節子と不倫相手の土屋とが“男女の関係”に至るまでが面白くて、そこから先は妙に理屈っぽさが勝って、「三島の悪いところが出ているなあ」という感がした。
 節子が、自らの恋の悩みを相談しに、酸いも甘いも知り尽くした年長の男女の一対を訪れる場面なんか、小説と言うより論文のような生硬さである。
 『美しい星』しかり、『音楽』しかり、『仮面の告白』しかり、『禁色』しかり、『豊饒の海』しかり、三島の長編小説は、後半になると質や勢いが落ちる傾向がある。(戯曲はこの限りでない)
 本作でも、心臓を鷲掴みされるような見事な比喩やレトリックは、ほぼ前半に集中していた。たとえば、
  • 節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。(P.16)
  • 冬の明け方の白い空は石女を思わせた・・・・(P.40)
  • 美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞のように仲良くさせる・・・(P.75)
  • どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。(P.57)
 『美徳のよろめき』の節子は、あまりものを深く考えない、考えられない、状況に流されやすい、お人形さんのような女性である。(不倫相手の子供を孕む可能性を考えていないあたりが抜けている、というかキャラとしてのリアリティが薄弱。)
 それゆえに、一瞬の「よろめき」で事は済み、退屈な日常に復帰できた。
 思うに、若尾文子が演じてきた女性たちは、日常を打ち壊して、常識的世界を超えてしまう強さとしたたかさを秘めていた。
 節子は若尾文子の役ではなかった。


P.S. 現在、若尾文子映画祭が角川シネマ有楽町で開催中である。未見のものを何本か観たい。
  


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 愛・燦々 : オーケストラ・ルゼル 第31回演奏会

lezele31

日時: 2025年6月14日(土)
会場: 杉並公会堂大ホール
曲目: 
  • シベリウス: 交響曲第7番
  • チャイコフスキー: バレエ「白鳥の湖」抜粋
  • (アンコール)チャイコフスキー: バレエ「くるみ割り人形」よりトレパーク
指揮: 和田 一樹
語り: 和田 美菜子

 シベリウス7番は初めて聴いた。
 微妙~。
 楽章が一つしかなく全体20分ちょっとで交響曲らしくない、ってのは別になんとも思わないが、曲自体が、支離滅裂と言うか、中途半端と言うか、堂々巡りと言うか、すっきりした態をなさず、聴いていて欲求不満におちいった。
 交響詩『春の歌』を思わせるような非常に美しい、シベリウスらしいパッセージもあって、そこは北欧の風景が一瞬立ち上がる。が、長続きせず、またしても混沌の海に飲まれてしまう。
 ある意味、マーラーの交響曲のような、めまぐるしく曲調やテンポの移り変わる“サーカス的混沌”を目指したのかなあと思ったけれど、どうなんだろう?
 北欧生まれのシベリウスには、マーラー的混沌は似合わない。
 失礼を承知で言うが、指揮の和田はともかく、オケの面々はこの曲をどれだけ理解して演奏していたのだろう?
 それがソルティの正直な感想だ。

 ――と思ったのも、後半の『白鳥の湖』がとても素晴らしく、オケが完全に曲を理解し、演奏を楽しんでいるさまがビンビン伝わって来たからだ。
 前半とは音のつやもパワーも違った。
 もちろん、この有名なバレエ曲のいくつかのピースが耳に馴染んでいる観客側の期待度やノリの良さ、和田美菜子によるナレーションを付けてドラマ仕立てにした点も大きい。
 おかげで、すべての曲において、風景が立ち上がった。
 ドラマの内包する感情や雰囲気ごとにまったく的確な曲をつくり、聴く者の心を沸き立たせるチャイコフスキーの天才が歴然とした。
 明暗、緩急、美醜、軽重、哀楽、動静、それにナポリ風やフラメンコ風やチャルダッシュ風と、バラエティに富んだ曲調を見事に表現し分ける和田の手さばきも光った。
 ソプラノ歌手の和田美菜子のナレーションは、声が美しくてよく通ることは予期していたが、声優をやってもおかしくないくらい、声の演技が上手かった。
 オデット姫やジークフリート王子や王子の母后を巧みに演じ分け、聴衆を物語に引き込んだ。

 こういったナレーション形式の『白鳥の湖』を聴いたのは初めてだったが、とても良い趣向と思う。
 これなら、ふだんクラシックに馴染みのない人も楽しむことができるし、小中学生の課外音楽授業にも最適である。
 ソルティはこれまでバレエにはあまり興味なかったのだが、今回これを聴いて、「一生に一回くらいバレエ観に行こうかなあ」などと思ってしまった。

 本公演の最大のクライマックスは、有名な「白鳥の主題」でもなく、黒鳥オディールによる32回転のグランフェッテでもなく、王子と悪魔ロットバルトの激闘でもなく、ジークフリート王子によるオデット姫への愛の告白シーンであった。
 ここで、なんと和田一樹は、指揮棒をマイクに持ち替えて、ジークフリート王子になり切って、オデット姫へ愛の告白をやってのけた。
 「ぼくはあなたを愛すると誓います!」
 ナレーション役の和田美菜子とは実際の夫婦であるので、あたかもプロポーズの再現と言った場面であった。
 いやあ、当てられた。

IMG_20250614_153729
杉並公会堂










● 慶派をめぐる伊豆の旅(後編)

 朝5時に目が覚める。
 1時間瞑想。  
 露天風呂独り占め。
 宿の庭を散策。

DSCN7399
夜中に一雨あったらしい。
天気予報では午後からまた雨になるという。

DSCN7398
9時過ぎにチェックアウト。

DSCN7403
千歳橋から守山を望む。
あそこまで歩く。
晴れてなくて良かった

DSCN7407
途中にある眞珠院(曹洞宗)

DSCN7406
ここには源頼朝との恋に破れ、真珠ヶ淵に身を投じた伊東祐親の娘八重姫の供養塔がある。『鎌倉殿の13人』ではガッキーこと新垣結衣が演じていた。

DSCN7405
八重姫の木像

DSCN7409
守山に抱かれた願成就院

DSCN7410
文治5年(1189)北条時政が、頼朝の奥州征伐を祈願して建立したと伝えられる。
その後は北条氏の氏寺となった。

DSCN7422
真言宗のお寺である。
このお大師様、颯爽としている。

DSCN7412
北条時政(1138-1215)のお墓
『鎌倉殿』では坂東彌十郎が好演していたが、ソルティの中では『草燃える』の金田龍之介のイメージが強い。

DSCN7423
大御堂
外国人の男性が案内&解説してくれた。

 寺院建立にあたって、時政は30代の運慶に作仏を依頼した。
 運慶は、現在大御堂にある阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動明王像、制吒迦童子(せいたかどうじ)像、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像などを造立した。
 その力強く大胆な造形と人間味は、平安後期の仏像の模範であった定朝様(宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像が典型)とは一線を画すものであった。
 これによって、運慶を始めとする慶派は東国の武士たちに贔屓にされ、鎌倉時代に隆盛を極めることになる。
 5体いずれもはんぱないオーラを放つ存在感に満ちた傑作であるが、とくに毘沙門天像が優れていると思う。(5体とも2013年に国宝指定を受けた)

 大御堂の背後に宝物殿がある。
 北条時政の肖像彫刻、北条政子地蔵、両界曼荼羅、上記仏像の中に見つかった木札(そこに時政の発願により運慶が造ったことが記されていた)などが展示されている。

DSCN7413
本堂前の庭
予想を超える素晴らしい仏像との出会いに、すっかり満足した。
来た甲斐あったな。

DSCN7418
五百羅漢
地元の石工さんの指導・手伝いのもと、羅漢づくりに挑戦できる。
眼鏡をかけた羅漢やゴルフクラブを持った羅漢など、ユニークで面白い。

DSCN7415
これはむしろオーソドックス羅漢

DSCN7424
願成就院の隣にある守山八幡宮
治承4年(1180)、この地で頼朝は平家追討を祈願し挙兵。手始めに山木判官平兼隆を討った。

DSCN7426
やっぱり、本殿は山の上にあるのね。

DSCN7425
わざわざ登らなくても良かったのだが・・・。
まあ、足腰を鍛えるためとしよう。

DSCN7431
三島駅に戻って、駅前の寿司屋で刺身定食(1800円)を注文。
今回の旅の一番の御馳走。

 雨が降ったら、まっすぐ帰るつもりでいたが、どうやら持ちそう。
 せっかくなので、前々から気になっていた「かんなみ仏の里美術館」に行くことにした。

DSCN7432
JR函南駅
ここからタクシーで5分の山里にある。

DSCN7434
かんなみ仏の里美術館
2012年に開設された函南町立の美術館。
函南町桑原区で古くから大切に拝まれてきた仏像24体を保管・展示している。

 洞窟のように暗い展示室に入った瞬間、別次元に連れて行かれた。
 「まったく、こんな山里に、よくもまあ、こんな素晴らしい仏像たちが眠っていたものよ!」と、驚いたのなんの。
 もとい眠っていたわけではなく、里人たちに篤く信仰されていたのであるが・・・。

 慶派の仏師と言えば、慶派の祖である康慶(運慶の父)をのぞけば、運慶と快慶が2大巨頭。
 そのほかは、運慶の長男の湛慶(京都・三十三間堂の千手観音菩薩像)、3男の康弁(奈良・興福寺の龍燈鬼像)、4男の康勝(京都・六波羅蜜寺の空也上人像と東寺の弘法大師像)あたりの名が、その代表作とともに上げられることが多い。
 しかし、ここに実慶という仏師がいたのである!

 実慶は康慶の弟子で、運慶や快慶と同年代と推測されている。
 関東中心に活躍していたらしく、ほかに伊豆修禅寺の大日如来像(毎年11月に開帳される)を残している。 
 
 実慶作の阿弥陀如来像、勢至菩薩、観音菩薩の美しいことったら!
 前に立つや、思わず、「うつくし~!」と声に出てしまった。
 慶派ならではの力強い写実性と厳しい表情は備えながらも、奈良・薬師寺金堂の薬師如来三尊像のようなエレガンスをまとっている。
 両脇菩薩のなめらかな腕のラインなどは、奈良・中宮寺の菩薩半跏像のようである。
 明らかに、実慶は、治承4年(1180)に平重衡によって焼かれる前の東大寺や興福寺、および法隆寺や薬師寺の白鳳・天平彫刻たちを学んでいる。
 また、流れるような衣文(ドレープ)の絵画的な美しさや、如来が乗っている蓮華座の細やかな意匠などは、運慶よりむしろ、快慶(京都・醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像)に通じるところがある。
 3者の上下関係はわからないが、実慶はちょうど運慶と快慶の交接点に位置しているかのように思われる。

 阿弥陀三尊の右側に居並ぶ十二神将も面白い。
 3体が平安時代、4体が鎌倉時代、5体が室町時代以降の作なので、時代ごと様式変化を探るのも一興。
 ソルティはもっとも人間っぽい顔をして動きの静かな因陀羅大将が気に入った。

DSCN7380

 実慶の阿弥陀三尊も十二神将も玉眼――目の部分をくりぬき、内側から水晶をはめ込む技法――がほどこされている。
 周囲が一様に明るかったり暗かったりする場所では目立たないのだが、ここの展示室のように暗い場所で、仏像の顔に懐中電灯を向けるや、玉眼が浮き上がり、鋭い光を放つ。
 数世紀の眠りからいま目覚めたかのように、表情が一変するのである!
 その効果はすさまじく、とりわけ阿弥陀如来像などは、悟りきった穏やかな慈顔と思ってそれまで観ていたものが、光を差し向けるや否や、像の前に立つ者におのれの罪業の深さを自覚させ反省させるかのような厳しさを示す。
 昼の光ではわからない。
 夜の闇でもわからない。
 蝋燭の光が揺らめく夜の堂内においてのみ、仏たちはその真の姿を、煩悩に苦しむ者たちの前に現したのではないかと想像する。 
 これはぜひ懐中電灯持参で拝観してほしい。(受付でも貸してくれる)

IMG_20250614_094600
受付でもらったパンフレット
左が実慶作の阿弥陀如来像、右が平安中期の薬師如来像

DSCN7433
この美術館は展示内容も展示の仕方も素晴らしく、スタッフの方々も親切で、(望むなら)懇切丁寧に解説してくれる。
仏像好きなら、至福の時間を過ごせること間違いなし。

DSCN7435
仏像を守って来られた桑原の人々に感謝。

DSCN7420
今回も気づきと驚きいっぱいの良か旅であった。
 


 
おわり








 

● 慶派をめぐる伊豆の旅(前編)

 全国に運慶の作ったとされる仏像は相当数ある。
 うち運慶作と確定しているもの、及び、かなり確実なものは、合わせて28体ほど。
 数えてみたら、ソルティはうち12体をこれまでに拝観していた。
 2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」に行っていれば、まとめて22体が観られたらしいのだが、その頃はまだ仏像マニアではなかった。
 これから機会を見つけて、運慶仏を(快慶仏も)めぐっていこうと思っている。
 旅の楽しみが増えたことひとつとっても、奈良大学に入学して良かった!

 まずは、静岡県伊豆長岡の願成就院。
 ここには、確定されている運慶仏が5体ある。
 伊豆の温泉にゆっくり浸かって、運慶をじっくり見る。
 それだけが目的の贅沢な一泊列車旅を企画した。

●1日目
 三嶋大社
 三島市立公園・楽寿園
●2日目
 願成就院
 かんなみ仏の里美術館

DSCN7359
JR三島駅
あいにく曇天で富士山は見えなかった。
が、晴れていたら真夏日(30度越え)確実、外歩きはきつかったろう。

DSCN7360
三嶋大社
ここは初めての参詣。
創建は不明だが、1300年以上の歴史をもつ。
祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)。後者はいわゆる恵比須様である。

DSCN7361
神池と厳島神社
境内は広々と気持ちいい。

DSCN7363
舞殿と本殿
意外と参拝者が多くてびっくり。

DSCN7364
本殿正面の千鳥破風

DSCN7365
破風の下の彫刻
天岩戸神話か? 中央がアマテラス(天照大神)のように見える。

DSCN7366
境内にある神鹿園(しんろくえん)
大正時代に奈良の春日大社から「神様の使い」として譲り受けたという。

DSCN7368
バンビちゃんとおかあさん(おとうさんか?)

DSCN7375
三島は、富士山の伏流水がいたるところで湧き出る水の都。
清流の流れる街の抒情は、井上靖や太宰治ほか文豪たちの称賛のまとであった。
「三島」の地名の由来は「水澄み(みすみ)」ではなかろうか?――などと妄想する。

DSCN7376
三島市立公園・楽寿園
明治23年に小松宮彰仁親王の別邸としてつくられた。
昭和27年三島市の所有となった。
入園料大人300円だが、学生証提示で無料だった!

DSCN7377
小浜池
溶岩の間から出る湧き水の池だが、周囲の開発の影響で近年は渇水状態が続いている。野鳥の観察にはいいところである。

DSCN7381
約1万年前の富士山の噴火で流れ出した溶岩のあと

DSCN7382
伊豆箱根鉄道駿豆線に乗る

DSCN7383
伊豆長岡駅
駅前は閑散としている。

DSCN7384
千歳橋を渡る。

DSCN7385
狩野川(かのがわ)

DSCN7402
源頼朝も入ったという1300年の歴史を持つ温泉地。
そう、源氏&北条氏ゆかりの地なのである。

DSCN7392
源氏山(約150m)の周囲に温泉宿が立ち並んでいる。
まずは源氏山(約150m)に登る。

DSCN7387
展望広場に到着。

DSCN7386
右手に、伊豆長岡駅・千歳橋を見下ろす。

DSCN7391
左手に、明日行く予定の願成就院。
地図によると、あのこんもりした山(守山)の裏側にあるようだ。

DSCN7393
下山して、今夜の宿にチェックイン。

DSCN7394
やっぱり、弘法さまでしょ。

DSCN7401
きれいで落ち着いた雰囲気の館内。
階段に昇降用リフトが付いており、バリアフリー対策も十全。(職業柄、そういうところが目についてしまう)
ラドン温泉と岩盤浴で、しこたま汗をかいた。
休憩室の電動マッサージチェア(無料)で“無重力揉みほぐし”を体験。
おかげでぐっすり眠れた。

DSCN7395


後編につづく。





● シチュエーション・コメディの傑作 :『ルーシー・ショー』コレクション

米国:1962~68年CBSで放映、カラー
日本:1963~66年TBS系列で放映、白黒

IMG_20250610_185515

 本作はソルティが生まれた頃に日本で放送され、高視聴率を記録した。
 当然リアルタイムでは観ていない。
 すでにアメリカではカラー放送だったが、日本でカラーテレビが一般家庭に普及したのは1970年の大阪万博前後なので、日本での放映は白黒にならざるをえなかったろう。
 もちろん、吹替えである。
 その後、日本で再放送された記録がない。
 ある種、幻のコメディドラマとなっていた。
 ソルティが子供の頃に人気を博したアメリカのコメディドラマは、何と言っても、『奥さまは魔女』に尽きる。
 日本人とは違うアメリカ人(西洋人)の笑いのツボを、あのドラマで学んだ。

 登場人物たちの激しい動きのドタバタぶりを楽しむスラップスティック・コメディに対し、脚本や演出を重視し、状況設定(シチュエーション)が生み出す食い違いや不条理さが笑いの要素となっているコメディをシチュエーション・コメディ(situation comedy)という。
 たとえば、バスター・キートンやチャップリンの映画は前者にあたり、『奥さまは魔女』、『アリー my love』、『SEX & CITY』は後者にあたる。
 日本の例で言えば、ドリフの『8時だよ、全員集合』やビートたけし&さんまの『俺たちひょうきん族』は前者にあたり、『男はつらいよ』や三谷幸喜の『やっぱり猫が好き』は後者にあたる。
 日本人は、どちらかと言うと、わかりやすいドタバタ喜劇が好きで、シチュエーション・コメディの傑作は少ないように思う。
 もっともソルティは、NHK大河ドラマを除けば日本のTVドラマをここ30年観ていないので、確証はない。

 シチュエーション・コメディの元祖にして傑作が、この『ルーシー・ショー』及びその前身である『アイ・ラブ・ルーシー』(1951~57放映)と、『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』(1957~1960年)である。
 主演は同じルシル・ボール。
 当時のハリウッドで飛ぶ鳥を落とす勢いの人気女優だった。
 彼女のコメディエンヌとしての類まれな才能が完全に開花したのが、ルーシー・シリーズだったのである。

IMG_20250511_150652

 ルーシー・カーマイケル(演:ルシル・ボール)は、2人の子供を持つ寡婦。
 街の銀行で副頭取の秘書をつとめている。
 ドジでおっちょこちょいで、有名人好きのミーハーで、物怖じしない度胸の持ち主で、思い立ったらすぐに行動するノリの良さ。
 彼女の回りでは常に、奇想天外な事件が起こる。 
 副頭取のムーニー(演:ゲイル・ゴードン)は、ルーシーの無能ぶりに頭を抱え、失敗するたびに怒鳴り続け、何度も解雇を言い渡すのだが、そのたびにルーシーは奇跡的な運の強さで苦境を乗り越える。

 25分×全98話あるうち、本DVDに収録されているのは20話。
 どの一編もすこぶる面白く、脚本の巧みさや役者の演技の上手さに感嘆しきり。
 ルシル・ボールとゲイル・ゴードンの掛け合い漫才のような息の合った芝居が実に楽しい。
 この2人の天才コメディアンが日本で知られていないのは、実に不可解な話である。

 当時の人気スターが、特別ゲストとして出演している。
 ソルティが名前と顔を知っていたのは、西部劇の大スター、「アメリカの良心」ジョン・ウェイン。
 よもやジョン・ウェインのコメディ演技を観られるとは思わなかった。
 それだけでも、このDVDを購入(中古で1200円)してよかった。
 毎晩1話ずつ観ることに決めていたが、夜が来るのが待ち遠しかった。
 60年経っても古くならない笑いがここにはたんとある。 

 しばらく時間を置いて、また視聴しよう。





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『「高慢と偏見」殺人事件』(クローディア・グレイ著)

2022年原著刊行
2025年早川ポケットミステリー

IMG_20250609_210302~2

 世界中のジェイン・オースティン推しのために書かれたパスティーシュ。
 『高慢と偏見』、『エマ』、『マンスフィールド・パーク』、『分別と多感』、『説得』、『ノーサンガ・アビー』といったオースティンの代表作の主人公たちが総出演で、しかもミステリー仕立て。

 ジョージ&エマ・ナイトリー夫妻の暮らす豪壮な屋敷で開かれたハウスパーティーの最中に、招かざる客としてやって来た「あの男」が撲殺される。
 あの男――ジョージ・ウィッカムである!
 これだけで、オースティンファンは本書を手に取らずにはいられまい。

 オースティン作品のパスティーシュは、これまでに、『ベンバリー館 続・高慢と偏見』(エマ・テナント著)、『高慢と偏見 と ゾンビ』(ジェイン・オースティン&セス・グレアム・スミス著)の2冊を読んでいる。後者は、バー・スティアーズ監督の手によって映画化されたが、抱腹絶倒の面白さだった。

 オースティンの造形した登場人物は、一人一人が非常にユニークでキャラ立ちしている。
 それがパスティーシュしやすい理由であろう。
 読者にしてみれば、原典から飛び出したキャラたちのその後の活躍や関係性の変化が見られるのは無上の喜びである。
 原作から200年経って、作者の手を離れてキャラが自由に動き回る。
 まさに作家冥利に尽きることだろう。
 
 ミステリーそのものはたいした出来ではない。
 あざやかな推理や驚きのトリック、真犯人の意外性を期待していたら、肩透かしをくらうだろう。
 そもそも殺されるのがウィッカムじゃ、犯人探しにも身が入るまい(ごめんよ、リディア)。
 むしろ本作は、一種の心理ドラマとして楽しめる部分が大きい。 
 原典では結婚という”ありきたりのハッピーエンド”に終わったそれぞれのカップル(夫婦)たちのその後の関係性が殺人事件によって浮き彫りにされるあたりとか、『高慢と偏見』のフィッツウィリアム&エリザベス・ダーシー夫妻の不器用な息子ジョナサンの成長と初恋(もどき)エピソードであるとか、義兄のソドミー(男色)を受け入れられないバートラム牧師の葛藤であるとか、著者の高い文学性を感じる。

 世の中には2種類の人がいる。
 オースティンを読んだ人と、読んだことのない人だ。 




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● お化け煙突 映画:『煙突の見える場所』(五所平之助監督)

1953年新東宝
108分、白黒

煙突の見える場所
左より、田中絹代、高峰秀子、芥川比呂志、上原謙

 椎名麟三原作の下町ヒューマンドラマ。
 タイトルの煙突とは、かつて東京都足立区の隅田川沿いに存在した東京電力・千住火力発電所の煙突のこと。1926~1963年まで稼働していた。
 見る場所によって煙突の数が1~4本に変化したことから、「お化け煙突」と呼ばれたという。
 実際、映画の中で隅田川を渡る列車(常磐線 or 京成電鉄)の車窓から、この煙突が4本から1本へと変化していく様子が映し出されている。
 視点によって姿を変える不思議なランドマークだったのである。

 この煙突が見えるあたりは、東京の中でも貧しい地域であった。
 隅田川の土手下にバラックのような木造の家が隙間なく立ち並ぶ。
 ラジオの音、子供の騒ぐ声、宗教一家の読経や太鼓の音、夫婦喧嘩・・・・隣近所の物音が筒抜けで、プライバシーなぞ無いに等しい。
 子供のいない夫婦(上原謙と田中絹代)は家の2階に若い男女の下宿人を置いているが、2人の部屋は襖一つで仕切られていて、女性(高峰秀子)は男性(芥川比呂志)の侵入を防ぐため、襖の内側から心張棒(つっかい棒)をしている。
 そこからそれぞれが、お化け煙突に見守られながら、バスや電車で職場へ向かう。足袋屋の会計、競輪場の場内券売り、お役所の税の徴収、商店街のアナウンス。

 ストーリーそのものよりも、昭和20年代の東京の下町風景が興味深かった。
 家屋や家の中の様子、商店街や競輪場の光景、人々の服装、隅田川の土手からの眺めなど、戦後の焼け野原と昭和30年から始まった高度経済の狭間にある、絶望と希望の中間にある日本の庶民の暮らしがここに写し取られている。
 ありがたいことに、HDリマスターによる復刻版なので、画面は驚くほど鮮明である。
 失われた時代を記録する装置としての映画の意義を感じた。

 ストーリーもまたこの時代ならではで、知らない間に家の中に置かれていた赤ん坊(捨て子)をめぐる騒動が中心である。
 捨て子が多かった子供余りの時代だったのだ。(令和の今では考えられない)
 赤ん坊の正体や処置、実の親探しをめぐって、上原と田中演じる夫婦と、高峰と芥川演じる若いカップルが、右往左往し、感情をぶつけ合い、愁嘆場を演じる。
 最終的には、“雨降って地固まる”式に大団円で終わるので、喜劇と言っていいだろう。

 上記4人の役者の中では、税の徴収をする公務員を演じる芥川がいい味を出している。芥川龍之介の長男である。
 田中絹代は、この映画の作風からすれば、演技過剰でやや重い。
 脇役で、坂本武、三好栄子、浦辺粂子らが出ているのが嬉しい。

 視点によって姿かたちが変わる。
 “お化け煙突”を人間の比喩として用いているのだろう。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 千人の交響曲 :オーケストラ・ハモン 第50回記念演奏会

hamon50

日時: 2025年6月1日(日)15時~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目: G.マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
     ソプラノ: 中川郁文
     ソプラノ: 冨平安希子
     ソプラノ: 三宅理恵
     アルト : 花房英里子
     アルト : 山下裕賀
     テノール: 糸賀修平
     バリトン: 小林啓倫
     バス  : 加藤宏隆
指揮: 冨平恭平
合唱: Chorus HA'MON、ジュニア合唱団・Uni

 奈良大学通信教育の試験を終えた自分へのご褒美として、この贅沢なコンサートのチケットを用意しておいた。
 重荷が取り払われ、軽くなった心と頭で、ファウストと一緒にいざ天上に赴かん!

IMG_20250601_163825~2
すみだトリフォニーホール

 冨平恭平&オーケストラ・ハモンは、昨年4月に同じマーラーの交響曲第2番『復活』を聴いている。
 2年続けて、大ホールを借りての独・合唱付き大曲に挑むチャレンジ精神と体力が素晴らしい。
 1階席の1/3(1/2か?)ほどを占める大舞台に、大編成のオケと、総勢200人を超える合唱隊と、8人のソリストが立ち並ぶさまは、圧巻であった。
 ソルティは、3階の最後尾に陣取った。

 演奏は輝かしく、オケも歌も言うことなかった。
 とくに、テノールの糸賀修平が良かった。
 高音域がやたら多く、宗教的な熱っぽさと敬虔さが求められる難しいパートを、張りのある美声で歌い切った。
 その声はホールの後ろの壁までしっかり届いた。

 この曲をライブで聴くのは2回目。
 前回は、齋藤栄一指揮&水星交響楽団で、場所は同じすみだトリフォニーホールであった。
 正直言うと、ソルティはまだこの曲の真価に目覚めていない。
 どうもツボにはまらないのだ。
 他のマーラーの交響曲にくらべると、薄っぺらい気がして仕方ない。
 オケと合唱の規模のデカさや使われる楽器の多彩さ、それにゲーテ『ファウスト』のクライマックスを材としたドラマ性は、それだけで聴衆を惹きつけるスペクタクルに満ちている。
 が、それがかえって、「俗受け狙い」「虚仮おどし」という印象をも与えずにはいない。
 とくに、ソルティは、第1部の讃美歌が「讃歌のための讃歌」といったベタっぽさ、「仏つくって魂入れず」的な上っ面感を聴きとってしまう。
 単に自分がクリスチャンではないからだろうか。

 第2部の『ファウスト』はソルティの“青春の一冊”なので、感動しないわけないのだが、残念ながらドイツ語が分からない。
 ベートーヴェン『第9』や、マーラーなら第2番『復活』あるいは第3番であるならば、合唱部分のドイツ語が分からないことは、曲を観賞する上で特段ネックにならない。オケと歌唱が融合して、歌声もまた楽器の一つのように聴けるからだ。歌詞が理解できないことは鑑賞上のマイナスにならない。
 しかるに、『千人の交響曲』の第2部は歌こそが主役であって、『聖書』や『ファウスト』はもちろん、ドイツ語の微妙なニュアンスも含めて歌詞が分からないことには、容易には入り込めない世界を作っているように思われる。
 つまり、この曲の真価を知るためには、ドラマの理解が前提として必要なのではないかと思うのだ。 
 そのため、紗のカーテンを通して曲を聴いているかのような感がどうにも拭いえないのである。

 キリスト教世界観を理解することなしに、『聖書』も『ファウスト』も読んだことなしに、この曲に感動できる人は幸いである。

IMG_20250601_163414









記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文