2012年島影社
この本は面白かった。
源平合戦のあった平安末期~鎌倉初期の史実をもとにした歴史小説としての面白さ。
仏像を造ることを生業とする仏師たちの生きざまを描いた芸道小説としての面白さ。
老年に差しかかった一人の男の波乱の半生と心の軌跡を描く人間ドラマとしての面白さ。
それらが、綿密な下調べと巧みな構成と抑制の効いた文章のうちに融合され、いったんページを開くと、またたく間に物語の世界に入り込んで、あっという間に読み終えた。
物語の主たる舞台となっているのが、現在の静岡県伊豆であることも大きい。
主役である仏師成朝(じょうちょう)がそこで手掛けているのは、北条時政に依頼された願成就院の仏像なのである。
ソルティは願成就院に行ってきたばかりで、あのあたりの地理や地形や風景が記憶に残っているので、物語を頭の中でビジュアル化しやすかった。
大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読んだ時も思ったが、物語の舞台となった土地を訪ね歩いていることは、読書を数倍面白くする。
この小説の登場人物たち――成朝とその弟子たち、運慶、源頼朝、北条時政、大江広元ら――が、自分が歩いたのと同じ道を歩き、同じ川を渡り、同じ山に登り、同じ景色を眺め、同じ温泉に浸かり、同じ仏像を拝んだのだと想像するのは楽しい。
しかも、『万延元年』の場合とは違って、こちらは歴史上の実在人物である。
ここで、仏像に詳しい人、あるいはソルティの記事を読んでくれた人は、
「えっ? 言ってることおかしくない? 願成就院の仏像を造ったのは運慶のはずだろう?」と思うに違いない。
「えっ? 言ってることおかしくない? 願成就院の仏像を造ったのは運慶のはずだろう?」と思うに違いない。
そのとおりである。
文治2年(1186)に北条時政の注文に応じて願成就院の仏像たち――阿弥陀如来坐像と両脇侍、不動明王立像と両脇侍、毘沙門天立像の7体と伝えられる――を彫り上げたのは、運慶を頭とする慶派仏師である。成朝ではない。
成朝がかかわったという記録もない。
成朝がかかわったことが確認されている鎌倉関係の仏像は、源頼朝の依頼に応じて文治元年(1185)に造った勝長寿院の本尊(おそらく阿弥陀如来)だけであり、それは失われてしまった。
運慶の彫った仏像がいまも全国に30体ほど残っていて、多くが国宝に指定され人々の称賛を集めているのにひきくらべ、成朝の作品は一つも残っていない。
だが、成朝こそは、平安後期に和様彫刻を完成させた偉大なる仏師定朝(代表作:宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像)の血脈を継ぐ「奈良仏師」派の棟梁であり、運慶とその父康慶は(技術的にはともかく社会的には)その配下で仕事をしていたのである。
成朝と運慶――同時代を生きた2人の仏師の圧倒的な格差がこの小説の骨子をなしている。
「猜疑の果てに」という副題が匂わす穏やかでない空気も、願成就院の造仏をめぐる架空設定も、その格差からくる成朝の劣等感を因として生じている。
この小説は史実をもとにした、“現実にあったかもしれない”フィクションなのである。
平安後期、大仏師定朝の後裔は、院派・円派・奈良仏師の3派に別れ、互いに有名寺院の造仏の機会を求めて競い合っていた。治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちによって灰燼に帰した東大寺と興福寺の復興事業が始まると、3派の対立はそれぞれを庇護する上級貴族や寺僧らの思惑も絡んで、予断の許さないものになる。奈良仏師の棟梁である成朝は、齢50を超えたというのに、これまでに大きな業績を残しておらず、同じ工房の先輩仏師である康慶はまだしも、その息子で自分より年下の運慶の才能と熱意に気圧され、忸怩たる思いを抱えていた。そこに、平氏討伐の狼煙を上げた鎌倉の源頼朝直々の依頼が飛び込んで来た。鎌倉に来て、父の菩提を弔うために建てた勝長寿院の本尊を造ってくれ。「興福寺復興という大切な仕事が待っている今、棟梁が奈良を離れるべきではありません」引き留める康慶の言葉を振り切って、成朝は弟子を連れて東国に向かった。素晴らしい仏像を造り、頼朝はじめ東国の武者たちを驚嘆させ、奈良仏師の未来を拓くために。そして、仏師としての栄誉を手に入れ、周囲を見返してやるために。
読んでいて想起するのは、ミロス・フォアマン監督『アマデウス』(1894)である。
ウィーンの宮廷楽長で作曲家であったサリエリが、新星のごとく出現した年下のモーツァルトの“神に愛された(AMADEUS)”天才に驚き、嫉妬に苦しみ、ついにはモーツァルトを毒殺する。
凡人芸術家の――と言ってもサリエリだって当時のヨーロッパ楽団の頂点に立つほどの相当才能ある音楽家である――天才芸術家に対する嫉妬と畏敬の念、そこから生まれた絶望や憎悪を描いた傑作であった。
もちろん、サリエリ=成朝、モーツァルト=運慶である。
20代で円城寺大日如来像(国宝指定)を彫り上げ、その若々しく新鮮な作風で世間をアッと言わせた運慶。
自由闊達な行動とあふれんばかりの生命力でどこにいても人の輪の中心になってしまう運慶。
成朝がほのかな恋心を抱いた手伝いの少女に声もかけられずモタモタしているのを尻目に、運慶はさっさと彼女を孕ませてしまう。
運慶を見るたびに、成朝は劣等感に悩まされる。
劣等感は嫉妬に、嫉妬は猜疑心に変わる。
成朝は、康慶・運慶親子が工房を乗っ取ろうと企んでいるのではないかと邪推する。
著者は、成朝のいじけた心のうちを、ペンによって丹念に且つくっきりと彫り出していく。
あたかも慶派スタイルそのもののような容赦ない写実主義で。
とりわけ、誇れるようなことを何も成し得ないまま老年に達しつつある男の心情が、精緻に描き出されており、アラ還のソルティは身につまされる思いがした。
成朝は、これと言った代表作を持っていなかった。
伝統ある奈良仏師の棟梁の身でありながら、一流仏師として世間に認められるための僧綱(官位)を持っていなかった。(院派や円派の棟梁はもちろん、康慶も持っていた)
妻子もいなかった。
財もなかった。
ないないづくしの人生だったのである。
人生の終わりに近づいて(当時は50歳過ぎたら老人だろう)、過去を振り返って後悔にさいなまれ煩悶する成朝の姿は、いわば「老人クライシス」。
人は必ずどこかで自分の過去をつぶさに振り返り、大きな後悔を抱くときがやってくる。そのときこれまで他人に何と言われようと正しいと思ってきたことが次々に裏返り、まるで白い碁石が黒い碁石にかわってしまうようなことがある。
人にはやはり体力と知力に富み気力あふれる時期というものがある。その時期に、一つのことに集中し様々な誘惑にも耐えながら必死で努力する。それが何にも代えがたいことなのだ。
少なくない中高年読者の共感を呼ぶことだろう。
マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』(2022)に登場するヴァイオリン弾きのコルムを思い出した。
頼朝から受けた仕事を無事終えた成朝に、こんどは北条時政が仕事を依頼する。自分が建てた伊豆の願成就院の仏像を造ってくれ。喜び勇んで引き受けた成朝であったが、平氏の都落ちを受けて、時政は頼朝の命を受けて京に赴くことになる。造仏はいったん中止となった落胆した成朝は奈良に帰ることを考えるが、そこに甲斐の武将安田義定から造仏の依頼が入る。放光寺の金剛力士像を造ってくれ。成朝ら一行は富士の裾野をめぐって甲斐国入りする。仏像は完成したが、大きな代償が待っていた。ある雪の朝、成朝は脳梗塞を起こして倒れてしまう。半身にマヒが残る状態で、思い通りの仏像が造られようか・・・。
どこまでも運のない男・・・。
(ちなみに、放光寺は周防正行監督×本木雅弘主演『ファンシーダンス』のロケ地となった真言宗のお寺である。)
奈良仏師が請け負うべき興福寺の仕事に対し院派から横やりが入ったという知らせを聞いた成朝は、今度こそ奈良に戻らなければと決心する。しかし、タイミングの悪いことに、京の役目を終えた北条時政が伊豆に戻って来た。願成就院の仕事を再開せよと迫る。困り果てた成朝は、自分の代わりとなる仏師の名を時政に告げた。大仏師康慶の実弟子、相応院勾当運慶。京にいるときに運慶の大日如来像を見て感銘を受けていた時政は、その名を聞いて上機嫌になる。成朝は引き留められることもない。
運慶の伊豆到着を喜ぶ弟子たちの姿を前に、成朝は表面上は棟梁らしい振る舞いをしながら、またもや嫉妬と猜疑に襲われる。
サリエリはモーツァルトに毒を盛った。
成朝は――成朝は、運慶に陰険な罠を仕掛けて、伊豆をあとにした。
その罠が逆に、運慶をしてこれまでにない斬新な仏像の様式を生み出させしめ、鎌倉時代の造仏界を席巻し江戸時代まで続く日本最大の仏師の流派(=慶派)を誕生させるきっかけになろうとは夢にも思わずに。
著者の西木は、元中学校の社会科教員をしていたという。
さすが、歴史についても造仏についても非常によく下調べしてあり、生徒に教えるようにわかりやすく書けている。
本作は、映画にしたら面白いと思う。
成朝は、運慶は、康慶は、快慶は、頼朝は、北条時政は、後白河法皇は、どの役者が演じるといいだろう?
配役を考えると楽しくなる。
ソルティが、伊豆の旅で訪れたかんなみ仏の里美術館ではじめて出会い、その腕前に感動した仏師実慶も、成朝に忠実な、頼りになる弟子として登場している。
たしかに、伊豆に残った実慶が、願成就院の仕事を手伝った可能性は高い。
本作でひとつだけ残念に思った点を上げるなら、成朝があまりにみじめで忍びない。
主人公として可哀想すぎる。
奈良に戻った成朝は、造仏を続けた。
建久5年(1194)、興福寺中金堂弥勒浄土像の造仏により僧綱(法橋)を得たことは、公家三条実房の日記である『愚昧記』に書かれているらしい。
その後のことはよく分かっていない。
であるなら、いっそ成朝を出家させ、本当に僧侶にしたら良かったのでは?
麻痺の残った足を引きずりながら、ひとり全国行脚し、各地で民衆の頼みに応じて経を読み、祈りを捧げ、貧者や病者を扶け、村々の小さなお堂の仏像をつくり続ける。
自らの名前を残すことなく。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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