ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● やっぱり名作! 本:『皇帝のかぎ煙草入れ』(ディクスン・カー著)

1942年原著刊行
1961年創元推理文庫(井上一夫訳)

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 高校時代に読んだとき、かぎ煙草入れ(snuff box)というものがどういうものか分からなくて、いま一つぴんと来なかった。
 それを言えば、そもそも「かぎ煙草」というのも日本人には馴染みのうすい風習である。

 ウィキによれば、コロンブスの新大陸航海の際にフランシスコ会の修道士がカリブ諸島からスペインに持ち帰ったのが、ヨーロッパに煙草が広まる端緒だったそうだ。
 またたく間に庶民の間に広まった葉巻や紙巻き煙草やパイプ煙草に対し、上流階級で好まれたのが、細かく砕いた煙草の葉を直接鼻腔内に吸い込む「嗅ぎ煙草」。
 18世紀にはヨーロッパの王室や貴族をはじめ、ネルソン提督ウェリントン公爵、アレキサンダー・ポープ、サミュエル・ジョンソンなど、数多くの著名人に愛用されたという。
 もちろん、皇帝ナポレオンもその一人だった。

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WikimediaImagesによるPixabayからの画像

 砕いた煙草を中に詰めてポケットに入れて持ち運びできる密封性の高いケースが「かぎ煙草入れ」。
 ケースの表面に肖像や風景を描いたものや、金、銀、宝石をあしらったものなど、贅を凝らしたものが競って作られた。
 当然、ナポレオンの使っていたかぎ煙草入れともなると、骨董的価値は高い。

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すず製のかぎ煙草入れ
コンドームケースとしても使える(⌒-⌒)
M.
によるPixabayからの画像

 ストーリーもトリックも真犯人の正体もすっかり忘れていた。
 約45年ぶりに読んで、面白さにびっくり!
 かのアガサ・クリスティを脱帽せしめたというトリックや話の構成、「かぎ煙草入れ」を使った解決の糸口も見事ながら、ストーリーが奇抜で先の展開が読めず、ハラハラするような人間ドラマ(恋愛ドラマ、家族ドラマ)が凝縮されていて、単純に普通の小説として面白い。
 美しく魅力的な主人公イヴが、周囲の人間の悪意とあり得ない偶然の連続で殺人事件の容疑者に仕立てられていくサスペンスは、ページをめくるのがもどかしいほどの吸引力を放つ。
 イヴをめぐる男たちの欲望や嫉妬やプライドや小狡さがひとつひとつ暴かれていき、最後にはイヴが真実の愛にたどりつくプロットは、ちょっとしたハーレクインロマンス。
 恋愛小説の名手でもあったクリスティが本作を激賞したのは、本格推理小説としての出来栄えだけではなく、人間ドラマとしての巧みさのせいもあったに違いない。
 一見、純真な好青年そのものだが一皮めくれば・・・・イヴの婚約者トビイ・ロウズの人物造型など、令和日本の現代でも普通にいそうなリアリティ。 
 やはり、カーの長編小説の中では本作がトップ1、少なくともトップ5に入るのは間違いないと思う。

 トリックと真犯人については、3分の1ほど読んだところでソルティは直感した。
 高校時代のうぶなソルティなら騙されただろうが、古今東西ミステリー数百冊読破のいまは、作者の手の内を見抜くのにさしたる苦労はない。
 と言って、その先は読むまでもないという気にはさせないところが、カーの筆力の凄さ。
 筆力と言えば、本作にはクリスティのある名作を彷彿させる文章上の仕掛けがある。
 いったん読み終えて真犯人を知ってからもう一度読み返すと、カーの叙述の巧みさに痺れる。
 読者は、あるパラグラフと次のパラグラフの間に、ある文章と次の文章の間に、書かれていない重要な事柄があったことを、最初に読んだときはちっともそこに注意を払わず通過していたことを、知ることになろう。
 作者にしてみれば「してやったり」だ。

 本作の最大の欠点は、「かぎ煙草」ならぬ「鍵」の問題だろう。
 同じ鍵を、同じブロックに建てられた6つの家の玄関ドアで共有しているという設定は、いくらなんでも不自然すぎる。
 そんな家など買いたくないし、買ったとしてもすぐに鍵を取り換えるのが常識だろう。

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SchluesseldienstによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 蒲田で味わう : Orchestre de SAVEUR 第3回演奏会

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日時: 2024年8月24日(土)
会場: 大田区民ホール アプリコ大ホール
曲目:
  • シューマン: 交響曲第3番「ライン」
  • ベートーヴェン: 交響曲第3番「英雄」
指揮: 山上紘生

 Orchestre de SAVEUR は、2022年結成のアマオケ。
 SAVEUR とはフランス語で「味わい」を意味するそうだ。
 練習を「サボ~る」と掛けているのかなと思ったが、発音は「サブール」らしい。
 旗揚げ時から山上が指揮をしている。
 山上の音楽哲学が良く表現され、味わえるオケと言っていいだろう。
 山上はほかに、ボヘミアン・フィルハーモニッククラースヌイ・フィルハーモニー、オーケストラ・ノット、Orchestra Largoの常任指揮者的立場にあるようだ。
 アマオケ業界事情はよく知らないが、売れっ子と言っていいのではないか。
 指揮者としての才能はもとより、見るからに穏やかで優しそうな人柄が、人気の理由ではなかろうか。
 パワハラNGの昨今の風潮は当然音楽業界にも及んでいるだろう。

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 演奏レベルはかなりのものだった。
 息の合ったトゥッティ(総奏)の輝かしく張りのある音と切れ味、ソロ(独奏)における技巧の高さと安定性。
 山上のコミュニケーション力が優れているのか、秘められたカリスマ性ゆえなのか、あるいは砂に水が沁み込むようなオケメンバーの飲み込みの良さのためなのか、指揮者とオケとが一体となって最初から最後まで統一されたフォームを維持していた。
 3回目にしてこの完成度はすごい。

 1曲目は『ライン』(SNSではなくて、ライン川のことだ)。
 実はシューマンはどこがいいのかよく分からない作曲家だった。
 オーケストレーションではベートーヴェンの二番煎じみたいな印象があり、ブラームスやドヴォルザークやチャイコフスキーのようなメロディメイカーでもなく、個性がよくわからなかった。
 が、今回はじめて「おっ、いいじゃん!」と思った。
 第3楽章、第4楽章の深い陰影ある宗教性は、シューマンの個性というか人生観を匂わせているように思った。
 山上の指揮が、これまで関心なかった作曲家の良さに気づかせてくれたのは、ショスタコーヴィチについで二人目である。

 2曲目の『英雄』。
 曲自体があまりに素晴らしいので、アマオケ平均レベルの演奏で十分感動する。
 山上&サブールは平均以上だったので、感動は大きかった。
 なにより、聴いているこちらのチャクラを刺激する音波の威力がはんぱない。
 舞台から放たれた音波が、丹田のチャクラ、胸のチャクラ、喉のチャクラ、額のチャクラを直撃し、ビリビリと震わせ、固い扉をこじ開け、体内に侵入する。
 それによって、体内に詰まっていた“気”の塊が解きほぐされ、活性化し、さまざまな感情の澱みを解放しながら、周囲に揺らめく透明の煙となって湧き上がり、消えていく。
 脳内ルクスが上がり、心身が浄化される。
 丸1日間部屋にこもって瞑想したのと同じ効果が、ほんの1時間足らずで達成され、鍼治療受けた後のように心身が整った。
 ソルティが山上の指揮するコンサートに足を運んでしまうのは、このチャクラ・マッサージによる“整い”効果ゆえである。

 同じ効力は和田一樹の指揮でも実感される。
 本日は、18時から県立神奈川音楽堂で和田一樹指揮によるベートーヴェン交響曲第2番(オケはEnsemble Musica Sincera ←横文字の使用はそんなにカッコいいか?)があった。
 JR蒲田から桜木町へ、京浜東北線によるベートーヴェン行脚を予定していたのだが、『ライン』と『英雄』を十分“味わい”、満腹になったので行くのは止めた。
 雷雨の予感もあった。

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午後4時のJR蒲田駅


● 愚者の楽園 本:『哲学者の密室』(笠井潔著)

1992年光文社
2002年創元推理文庫

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 お盆休みは例によって4泊5日の秩父リトリートをした。
 今回携えていった本が、『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』と本文庫であった。
 本書はとにかくブ厚い。
 小口45ミリ、1000ページを優に超える。
 普通の文庫ミステリーの3~4冊分はある。
 そして、かなり難解。
 日本のミステリー作家ではもっとも難解な笠井潔の作品の中でも、もっとも難解で重厚である。
 まとまった時間がある時に、腰を落ち着けて一気に読むのでなければ、なかなか読み通せないと思い、リトリートまで待っていた。
 宿の密室に一人こもって完読した。

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 途中まで読んで驚いた。
 なんとまあタイムリーでヴィヴィッドな小説であったことか!
 ソルティは本書の内容について、事前にほとんど知らなかった。
 『バイバイ、エンジェル』、『薔薇の女』、『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』など素人探偵矢吹駆シリーズのミステリーであること、マルティン・ハイデガーをモデルにした哲学者が出てくるらしいこと、密室殺人が扱われることの3点をのぞいては。
 読むにあたって、文庫の裏表紙や扉ページに書かれている内容紹介にも目を通さなかった。
 もちろん、ハイデガーを読んだこともなく、どんな哲学を提唱したのか、どんな経歴を持つ人物だったのか、まったく知らなかった。

 驚いたわけは、本書の殺人事件の背景をなすのがナチスのホロコースト、すなわち強制収容所におけるユダヤ人大虐殺だったからである。
 『ナブッコ』といい、『ソドムとゴモラ』といい、呼ばれたようにタイムリーでヴィヴィッドな作品に巡り合ってしまう。
 無意識のなせるわざか。
 むろんタイムリーでヴィヴィッドとは、イスラエルによるガザ地区侵攻と民間人虐殺を踏まえての謂いである。

 舞台は1970年代のパリ。
 成功した実業家フランソワ・ダッソーの屋敷で殺人事件が発生。
 被害者は数日前にパリに着いたばかりのボリビア人旅行者ルイス・ロンカル。
 後頭部を強打され、背中から心臓を鋭利な刃物で貫かれていた。
 しかるに部屋は完全な密室であり、凶器は見当たらなかった。
 捜査に関わることになった矢吹駆とナディア・モガールは、ロンカルの正体がナチスのコフカ強制収容所の元所長であること、事件当夜ダッソー家に招かれていた客たちがかつてコフカ収容所に収容されていたユダヤ人関係者であったことを知る。

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アウシュビッツ強制収容所
Dimitris Vetsikas
によるPixabayからの画像

 構成は3部に分かれている。
 第1部は1970年代初夏のパリ。ダッソー家での三重の密室殺人事件の謎が提出され、犯行動機に第2次世界大戦時のナチスのホロコーストが関係していることが匂わされる。
 第2部は1945年真冬の第三帝国ポーランド領にあるコフカ収容所。所長ロンカルの冷酷な管理の下、各地から連行された多くのユダヤ人が、あるはガス室に送り込まれ虐殺され、あるは強制労働に従事していた。ロンカルはユダヤ人女性ハンナを小屋に囲って性的奴隷にしていた。
 ソ連軍の侵攻を前に撤退が決まった収容所において突如勃発した爆破事件と囚人脱走。その最中に発生したハンナ射殺事件の謎が提出される。これもまた三重の密室であった。
 第3部はふたたびパリに戻る。ナディアと矢吹それぞれの推理が語られ、すべての謎が解明される。そこには20世紀最大の哲学者の秘密が隠されていた。

 四半世紀はなれた二つの時代に起きた三重の密室事件の謎を解き、それぞれのトリックと真犯人を暴くという点で、まぎれもなくゴージャスな本格推理小説である。
 不可能犯罪が提出される、事件現場の見取り図が掲示される、容疑者たちの事件前後の行動が時系列で整理される、プロの刑事や素人探偵らの推理合戦が白熱する、事件現場でトリックの実現性が検証される、名探偵の鮮やかな推理が事件を解決に導く・・・・。
 本格推理ファンのツボを押さえた笠井の小憎らしいほどのサービス精神に感激する。
 そう、これこそ本格推理の醍醐味。
 ページをめくる手が進む。
 
 と思いきや、打って変わって重厚なテーマが顔をのぞかせる。
 ナチスのホロコーストという人類史上未曾有の悲劇は、どうしたって重厚な語りにならざるをえない。読む者は重苦しい気持ちを抱かざるを得ない。
 強制収容所の地獄を生き延びたユダヤ人とその子供たち、収容所で働いていた元ナチス党員、同じユダヤ人でありながら仲間を監督する仕事をしていた囚人頭(カポ)、青年時代に対独レジスタンス活動に身を投じたフランス人、ナチスに加担していたドイツ人哲学者・・・。
 戦後数十年たっても決して拭い去ることのできない苦痛や怒りや恐れや悲しみや罪悪感や恥が、登場人物それぞれの心にわだかまっている。
 コフカ収容所でカポをしていたダッソーの父親は、脱走後に生き延びてフランスに帰国、戦後は実業家として成功した。晩年になって彼が自宅内につくったコフカ収容所のパノラマセットの描写には鬼気迫るものがある。
 
 ずしんと心が重くなるホロコーストの物語に輪をかけて、ページをめくる手を重くするのが時々出てくる哲学談義。
 20世紀哲学の雄マルティン・ハイデガーをモデルとしたマルティン・パルバッハ、同じくエマニュエル・レヴィナスをモデルとしたエマニュエル・ガドナスという人物が登場し、現象学的存在論やら死の哲学やら技術文明批判やら革命論やら、小難しい議論が繰り広げられる。
 推理小説と思想小説の融合。
 これぞまさに笠井ミステリーの真骨頂なのである。
 哲学の素養を欠き、ハイデガーもレヴィナスも読んでいないソルティには、高すぎるハードル、いやそれは3000m級の山登りに近い。
 リトリート中でなければ、途中挫折した可能性大であったろう。
 本格推理ファンでも、本書を読み通すことのできる者は限られるのではなかろうか。

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 推理小説としてみた場合、二つの密室殺人のうち、第1部(70年代ダッソー家)については見事で、ソルティはトリックを思いつかなかった。犯人も当てられなかった。
 ただ、屋敷の滞在客はみな共通の犯行動機を持った強い絆で結ばれた仲間なので、『オリエント急行殺人事件』のように“全員が犯人”という二番煎じの真相はないとしても、犯人をかばうための口裏合わせは当然想定していいだろう。
 それぞれの証言は最初から当てにならない。犯行前後の各人の行動は信用し難い。 
 どの証言も信用できないなら、分かっている確実な証拠から推理を組み立てるという作業が成り立たず、そこは推理小説としては弱い部分かなあと思った。

 第2部(1945年コフカ収容所)の密室事件については、設定自体に無理があり、ご都合主義な感が強いように思った。
 ユダヤ人が大量にガス室に送り込まれ、犬のように殺される現場にあって、ひとりのユダヤ人情婦ハンナの死の謎をめぐって大騒ぎすることのバランスの悪さはとりあえず置くとしても、密室の設定自体が不自然。
 真犯人が、ロンカルにハンナ殺しの罪を着せたいのならば、ハンナを密室に閉じ込めて自殺にみせかける意図が不明。他殺体とわかるようにさらして置くのが自然であろう。
 小屋にやってきてハンナの死を知ったロンカルもまた、小屋の外から鍵をかけられて(死体と一緒に)閉じ込められてしまう。
 ロンカルが中から小屋の鍵を開けられない以上、ハンナ(の死体)とロンカルが中にいることを知る第三者が外から鍵をかけたと推測するのが自然だろう。
 ハンナ殺しの真犯人はその第三者であって、ロンカルは罠にはめられたと考えるのが無理のない推定だろう。
 ナディアら探偵たちが本来推理すべきは、第三者が足跡を残さずに小屋から立ち去った方法であり、第三者が誰なのか、である。
 ところがなぜかナディアらは、ロンカルがわざわざトリックを使って中から小屋の鍵をかけて、自身をハンナの死体と一緒に密室に閉じ込めたと断定する。
 思考回路のおかしさにちょっとついていけない。
 また、真犯人はかつてハンナを愛した男だったわけだが、復讐相手であるロンカルをその場で射殺しなかった理由もよくわからない。
 収容所の爆破騒動と囚人脱走のどさくさに紛れてロンカルを射殺してもバレはしなかったろうに。(なんて言ったら、その後の物語が成立しないが・・・)
 いろいろな疑問は生じたものの、第2部についての犯人の推測は当たった。(ほとんどの読者は推測がつくと思うが) 

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naobimによるPixabayからの画像

 思想小説としては・・・・まあ満腹になった。
 パルバッハ(ハイデガー)哲学のいろいろなテーマが取り上げられていて、目も眩むような高踏的言説のオンパレードにくじけそうになったが、中心となっている命題はおおむね理解できた。
 「人間はいつか必ず死ぬ。その事実を直視し、自分の使命を見つけてそれに果敢に立ち向かえ。限られた「生」を尊厳を持って本来の自分を生きよ。目的もない生ぬるい日々を享楽にまみれて生きる豚になるな。英雄となれ。」
 というのがパルバッハの「死の哲学」の肝で、元ナチの真犯人も矢吹駆もパルバッハに深い影響を受け、そのように生きんとしてきた。
 ところが、ホロコーストという無名のユダヤ人の大量の死体を前にして、真犯人が抱いていた「死の哲学」は瓦解する。というのも、「二十世紀の世界を襲った底知れない凡庸の地獄を、戯画的なまでに典型化した場所が収容所」だったからだ。
 かつてマルクス主義革命に身を投じ挫折した体験を持つ(らしい)矢吹もまた、「死の哲学」の正当性に揺らぎを感じている。
 なんと言っても、パルバッハの哲学こそがドイツ国民の英雄志向を煽り、ヒトラーの登場を用意し、ナチスの蛮行を可能にしたからである。パルバッハ自身、ナチス党員であった。
 しかるに、戦後になってパルバッハは、「自分が支持していたのは初期の頃のナチスであって、長いナイフの夜(レーム事件)以降のヒトラー独裁となったナチスは認めていない。ホロコーストについて知ったのは戦後になってからだ」とうそぶき、自らの哲学の過ちを認めようとしなかった。
 その嘘が、コフカ収容所元所長ロンカルの所持していたある証拠によって暴かれ、パルバッハの欺瞞が徹底的にさらけ出される。
 つまるところ、「死の哲学」の断罪が思想小説としての本書の主題である。
 むしろ、笠井の書きたかったのはこちらであろう。
 笠井自身が、若い時に左翼運動に傾倒し、挫折し転向した経歴を持つからだ。(その苦い体験を“自己批判”的に描いたのが処女作『バイバイ、エンジェル』である)

 「死の哲学」の断罪という本書の主題に触れてソルティが自然と想起したのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』であった。(本書と同じ年に刊行されている!)
 フクヤマによると、人間を行動に駆り立てる気概(自尊心)は歴史を動かす大きな要因の一つであるが、民主主義と自由主義経済の登場によって「歴史の終わり」が宣言されたとき、気概はその発散場所を失った。
 あとに残るは、闘うべき大義を見つけられずに気概を失い、欲望を満たすことを日々の目的とする「最後の人間」である。 
 
 「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか?(三笠書房刊『歴史の終わり』より抜粋) 

 パルバッハが唱えた「死の哲学」とは、まさに気概の賞揚、大義への自己犠牲、尊厳ある生と死のすすめである。その対極に来るのは、「数と公共性が最終的に勝利した愚者の楽園」の中で「最後の人間」として生きることである。 
 「歴史が終わった」平和な世の中で「終わりなき日常」に耐えられない者たちは、気概を発散できる場所を求めて革命運動やテロリズムや戦争を待望する。矢吹駆の宿敵であるニコライ・イリイチのような扇動者に洗脳されて、“誤った”大義に絡めとられていく。『バイバイ、エンジェル』のアントワーヌ青年のように。
 矢吹は語る。

どうしても世界に意味を感じられない、平和な時代に窒息しそうだ、本当の人生を見つけることができない。そうした解消されないニヒリズムは、抗いえない猛烈な力で、青年を必然的にテロリズムの方向に押しやる。

凡庸なものを嫌悪する青年が、魂の真実や生の輝きを渇望して、死の観念の蟻地獄に落ちてしまう。

 本書の真犯人もまた、「死の哲学」に殉じるかたちでその生を全うした。
 彼にはそう生きるよりほかに選択がなかった。
 一方、「死の哲学」をパルバッハともに断罪した矢吹駆は、はたしてこの先どう生きていくのだろうか?
 彼とっては凡庸で無意味でしかない「愚者の楽園」と、どうつきあっていくのだろうか?
 ナディアとの恋愛の可能性はあるのだろうか?
 この探究にこそ、本シリーズの意義が、すなわち笠井潔のライフワークがあるのだろう。

 今回のリトリートに、本書と道元の解説本を持っていったところに、不思議な符牒いや因縁を感じた。

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秩父武甲山


おすすめ度 :★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2024年佼成出版社

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 曹洞宗祖師の道元禅師が著した『正法眼蔵』の冒頭に置かれている「現成公案」を、テーラワーダ仏教の僧侶であるスマナサーラ長老が解説している。
 と言っても、75の文章からなる「現成公案」の全文ではない。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり」、「たき木、灰となる」、「風性常住、無処不周なり」、「同事といふは、不違なり」など、いくつかの有名なパラグラフ(節)が選ばれているほか、同じ『正法眼蔵』の中の「山水経」と「菩提薩埵四摂法」、および道元禅師の語録である『永平広録』からも一部採られている。
 現成公案(げんじょうこうあん)とは、「禅宗で自然のままに完成されている公案。常に一切の上に仏法が現れていること。」(小学館『大辞泉』)の意。
 スマナサーラ長老は次のように定義している。

「現成公案」とは、「わたしたちの目の前に現れているものは、そのまま真理を表している」ということを言っているのです。

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 数ある大乗仏教の経典や思想書の中でも最も難解とされ、その解釈において仏教研究者や禅僧の間でも議論百出たる『正法眼蔵』を、かつて小乗仏教と揶揄されたテーラワーダ仏教の僧侶が読み解いている。そのことがまず驚きである。
 同じ仏教とはいえ他宗派の僧侶が、曹洞宗の“聖典”である『正法眼蔵』を解説するなど、日本仏教界あるいは日本仏教学会の常識ではなかなかできることではあるまい。
 本家本元にとってみれば、「縄張りを荒らされた」みたいな感を抱くのではないかと、悪名高き日本の縦割り社会の一員であるソルティは思ってしまうのである。
 が、スマナサーラ長老には『般若心経は間違い?』(2007年宝島社刊行)という極めて過激で挑発的な本を出した前歴があり、日本的な忖度とはいっさい無縁なのである。
 それはおそらく、スリランカ出身であるということに加え、「テーラワーダ仏教こそが約2500年前から受け継がれてきたブッダの真の教えである」という確信と自負によるのだろう。
 その盤石な視点から日本の大乗仏教各派の教えを調べ、本来の仏教との同異を指摘することができるわけで、挑戦を受けた大乗仏教各派にとってみれば戦々恐々、容易には論駁しがたいものと想像される。

 とは言え、本書でスマナサーラ長老は『正法眼蔵』もとい道元禅師を批判したり、間違いを指摘したりしているわけではない。
 そこは『般若心経』に対する場合とは異なっている。
 次のように言っている。

 道元禅師は真理を知りたいだけの人でした。だから、日本の歴史で唯一のお坊さんといえると思います。道を求め続けたほんとうに真面目なお坊さんであったと思います。

 テーラワーダ仏教の僧侶として道元禅師を見ると、仏道をしっかり歩んでいるえらい先輩のお坊さんとして見えるんですね。

 禅師には新しい宗派仏教をつくろうという意図はまったくなく、ただひたすらブッダの正法を伝えていきたい、といった思いだけがあったことでしょう。

 高評価である。
 そもそも日本に初来日された折、スマナサーラ長老は駒澤大学で道元禅師を研究したと、どこかで読んだことがある。
 たくさんの“日本仏教”の祖師の中から、空海でも最澄でも栄西でも親鸞でも一遍でも日蓮でもなく、道元を選んだのにはそれなりの理由があったからに違いない。

 一方、道元禅師の限界にも言及している。
 たとえば、「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」という『現成公案』の一節に関して、「自己を忘るるとは解脱の境地を語ったもの」と説明したあとで、

 自己がなくなる。物や人が突然姿を消す、消える、存在しなくなるんです。
 同時に、森羅万象も消えてしまいますよ。
 見事な順番で道元禅師は語ったんですよ。
 しかし残念なことに、それをどう実践するかというところまで道元禅師は教えていないんです。
 
 つまり、悟りとはどういうものかを道元禅師は知っていたけれど、そのための方法論を持っていなかったということである。
 これは、スマナサーラ長老と曹洞宗の僧侶である南直哉氏が対談した『出家の覚悟』(サンガ、現在絶版)という本の中でも指摘されていた。
 道諦(悟りへの道)の教えが伝わらなかったこと。それが大乗仏教の祖師たちを苦しめた最大の障壁であった。

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 本書を曹洞宗の僧侶や研究者、なにより草葉の陰(あるいは天界)の道元禅師が読んだらどう思うのか気になるところである。
 すべてをパーリ経典(阿含経典)に説かれたブッダの言葉によって読み解いていくスマナサーラ長老。本日も通常運転である。

 以下、引用。

本来のブッダの教えは、「信仰」ではありません。信心あるいは信仰を求めるものではありません。要するに、「自分とは何なのか、生きるとは何なのか」、それを自分自身で発見することです。

自分の心を観察するためには思考はいらないんです。心を観察するためには、できるだけ思考を停止したほうがいいんですね。
たいせつなのは自分の心の動きを観察することです。それが「自己をならう」ということになります。

一人ひとりの人生が禅なんです。
そこに自分はいない。他人もいない。
ただ単に現象が、そのままあらわれているだけ。
だから人生が全部、禅そのもの。


  サードゥ、サードゥ、サードゥ。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『ステキな金縛り』(三谷幸喜脚本&監督)

2011年東宝、フジテレビ
142分

ステキな』金縛り

 崖っぷち弁護士のエミは、妻殺しの容疑で逮捕された男を助けるため、被告のアリバイを証言できる落ち武者の幽霊を、証人台に立たせようと奮闘する。

 どうやってこういった奇抜なアイデアを思いつくのやら。
 目玉となるアイデアさえ生まれたら、あとは三谷にとってお茶の子さいさいなのだろう。
 笑ったり、泣いたり、セリフや演出や役者の演技に感心したりしているうちに、142分が過ぎた。

 弁護士役の深津絵里も検事役の中井貴一もよいが、何と言ってもこのコメディの成功は落ち武者役の西田敏行にある。
 西田以上にはまる役者が思い浮かばない。
 裁判長役の小林隆もいい味出している。
 脇役の魅力を引き出す三谷の上手さは、市川崑に似ている。

 前記事で、これまで日本になかった三谷作品のコメディカラーを『奥さまは魔女』に比したけれど、本作を見て合点がいった。
 三谷は、『或る夜の出来事』『我が家の楽園』などで知られるフランク・キャプラに心酔している、つまりスクリューボール・コメディに影響を受けたのだ。
 ほかに、ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938)やエルンスト・ルビッチ『ニノチカ』(1939)などがよく知られている。
 面白いはずだ。 

スクリューボール・コメディ(Screwball comedy)は1930年代初頭から1940年代にかけてハリウッドでさかんに作られたコメディ映画のサブジャンル。常識にとらわれない登場人物、テンポのよい洒落た会話、つぎつぎに事件が起きる波乱にとんだ物語などを主な特徴とする。「スクリューボール」は当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこでオチるか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。(ウィキペディア『スクリューボール・コメディ』より抜粋)

 西田演じる落ち武者・更科六兵衛が、証拠物件として、主家である北条氏から拝領した陣羽織を自ら裁判長に提出するシーンで一番笑った。
 この間合いこそ、三谷カラー。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 本:『世界はありのままに見ることができない』(ドナルド・ホフマン著)

2019年原著刊行
2020年青土社(訳・高橋洋)

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 非常にスリリング、かつ啓発的、かつ面白い、かつ難しい本であった。
 難しさの理由は二つ。

 一つは、本書が最先端の科学イシューを扱っているからで、進化生物学を基盤としつつ、神経科学、脳生理学、遺伝学、宇宙物理学、相対性理論、量子力学、色彩工学、情報理論など様々な科学分野を自在に横断し、いきおい科学用語や科学理論が科学者の名前とともに頻繁に出てくるからである。
 しかも、著者が自らの理論を説明するのにもっぱら利用するのが、インターフェースとかアイコンとかデスクトップとかファイルといったコンピュータ用語。
 科学オンチ、ITオンチの文系人間であるソルティには敷居が高い。
 
 今一つの理由――多くの読者にとってはこっちのほうが乗り越えがたい敷居かもしれない――は、本書で著者が主張しているテーマが、我々が普通に抱いている直観(世界把握)に反するからである。
 それはちょうど、天動説をあたりまえと思っている16~17世紀の人々が、「いや、動いているのは地球だ。地球は自転しながら公転している」という地動説を聞かされた時に感じたのと同様レベルの「バカらしさ、わけのわからなさ、受け入れ難さ」を読者にもたらす。
 つまり、本書は読者の認識に「コペルニクス的転換」を迫るのだ。

 本書を手に取って、「おや?」とすぐに気づくが、プロフィールが掲載されていない。
 著者ドナルド・ホフマンのプロフィールだけでなく、訳者の高橋洋のそれも載っていない。
 たいていの本のカバーや奥付には著者プロフがあり、とりわけ名の知れた学者先生の書いた本なら、錚々たる輝かしき履歴が、高い学識&教養をうかがわせる顔写真とともに掲載されるのが常である。
 日頃それに慣れている本好きにしてみれば、「どこかにあるはず」と本をひっくり返しプロフを探してしまうのも無理なかろう。(探してみた)

 訳者のプロフがないのは原著者のそれがないからに違いない。原著者がプロフを載せていないのに、訳者だけが載せるわけにはいくまい。
 おそらく、ドナルド・ホフマンは確信犯的にプロフを載せることを拒絶したのだろう。
 そこにまさに、「プロフィールを先に読むことによる先入観や固定観念を持って本書に臨んでほしくない」、「あらゆるバイアスから自由になって、書いてあることを虚心坦懐に精査してほしい」という著者(と出版社?)の思いを汲み取ったのだが、うがち過ぎ?

 本書でドナルドが読者に迫る「コペルニクス的転換」とは何か。
 それを上手く言い表しているのが、邦題『世界はありのままに見ることができない』である。
 原題のTHE CASE AGAINST REALITY は「対リアリティ裁判」といった意で、アメリカの科学者が一般大衆向けの本を書くときにやりたがる、ちょっと気の利いたジョークを狙ったネーミング――代表的な例がSelfish Gene「わがままジーン=利己的遺伝子」――だと思うが、これを上記のように邦訳したのはグッジョブ!

 あなたがスプーンを見ているあいだ、それは存在している。だが目を離すやいなや、スプーンは存在しなくなる。何かが存在し続けるのは確かだが、それはスプーンではないし、時間と空間の内部に存在するのでもない。スプーンとは、あなたがその何かとやり取りする際に構築するデータ構造、すなわち適応度利得と、その獲得方法をめぐってあなた自身が作り出した記述なのだ。
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qwer6695571によるPixabayからの画像

 いったい何を言っているのやら、首をひねる人も多いと思う。 
 これはソルティ流に解釈すると、認識と存在の関係を語っている。
 我々人類を含む地球上に存在する生命(種)は、各々に備わっている知覚(=認識システム)を通して外界を見ている。つまり、それぞれの生命が見ている(受け取っている)世界の姿は異なっている。
 いかなる生命(種)も、「ありのままの世界(存在)」を認識してはいない。

 なぜ、そういうことが起こるかと言えば、生命の至上目的は「生き残って子供をつくること」にあるからで、それぞれの生命は与えられた環境の中でその目的を果たすために“最適化”されている。生き残って子供をつくるために役立つ遺伝情報が、ほかのすべてに優先されて、子孫に受け継がれていく。
 当然、知覚(=認識システム)も然り。
 「ありのままの世界」(本書では「実在」と訳されている)を認識することは二の次、三の次であって、優先されるべきは、環境にうまく適応し自然淘汰(種としての絶滅)を免れるために役立つ知覚(=認識システム)を備えることである。
 同じ趣旨のことが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)に書かれている。

 ダーウィン由来の進化生物学から導き出されたこの理論を、著者はFBT(Fitness Beats Truth)定理と呼んでいる。

FBT定理:少なくとも(N-3)/(N-1)の確率で、適応度戦略は真実戦略を絶滅に追いやる。

 FBT定理は「空間、時間、形、色調、彩度、明るさ、肌理、味、音、におい、運動などの知覚の語彙は、実在をありのままに記述することができない」という結論を導く。

 それぞれの生命(種)がやっているのは、与えられた知覚(=認識システム)によって、ありのままの世界(実在)という素材から、種ごとの固有の“世界”を作り出すことである。
 ソルティ流にいえば、我々は存在しているものを認識しているのではなく、認識したものを存在させている。

 ここでの知覚の働きを、ドナルドはパソコンのデスクトップ画面のようなインターフェースにたとえ、知覚のインターフェース理論(ITP)と呼んでいる。

 インターフェースは自然選択によって形作られ、生物種ごとに、さらには同じ生物種でも個体ごとに異なりうる。

 ITPの主張によれば、進化は私たちの感覚を、人間の必要性に調整されたユーザーインターフェースになるよう形作ってきた。インターフェースは実在を隠し、私たちが生きる生態的地位のもとで適応的行動を導く。時空は私たちのデスクトップ画面であり、スプーンや星のような物体はホモ・サピエンスが持つインターフェースのアイコンなのである。空間、時間、物体に対する私たちの知覚は、真正たるべく、すなわち実在を開示したり再構築したりするために自然選択によって形作られたのではない。子供を生み育てるのに十分な期間生き残れるよう形作られてきたのだ。

 FBT理論によれば、人間の感覚が自然選択によって形作られたのなら、私たちは実在をありのままに見ていない。ITPによれば、私たちの知覚は人類固有のインターフェースをなす。また知覚は実在を隠し、子どもを生み育てることを支援する。時空はこのインターフェースのデスクトップ画面であり、物体はそのなかのアイコンである。
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DeactivatedによるPixabayからの画像

 驚くべきことに、我々が外界に見ている物体のみならず、時間や空間さえも!「実在=ありのままの世界」ではないと述べている。
 ここまで来ると最早、映画『マトリックス』に出てくる、ポッドの中で脳に電極をつながれ、コンピュータによって作られた仮想現実を“本物と信じて”生きている人々とさして変わりない。
 我々が体験している“世界”はバーチャルリアリティであり、夢とよく似た脳内現象だと言っているに等しい。

 「それはちょっと言い過ぎだろう」とさすがに思ったが、ドナルドは本気である。
 どころか、量子論やホログラフィック原理、あるいはホーキング博士のトップダウン宇宙論など最先端の理論物理学の成果によれば、「時空は存在しない」という命題は絵空事ではなくなりつつあるのだと言う。
 現代科学はそこまで来ていたのか!

 著者がFBT定理(適応>真実)の証拠の一つとして採用しているのが、錯覚である。
 何もないところに線を見たり図形を見たり色を見たり、一つの図形が見方によって向きを変えたり、同じ一つの色が周囲に置かれた色との関係によって異なった二つの色に見えたり、あるいは、同じ人物が履いている同じ型のジーンズが、尻ポケットのデザインや縫い目の曲線一つで一段とセクシーに見えたり・・・さまざまな錯覚の例が紹介されている。
 錯覚は、我々の知覚が“事実”をいかに歪めてしまうかを示す恰好の例なのである。
 カラーページもあって、この章はとても面白い。

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(本書中のカラーページより)

 人類を含む生命の形質や機能のすべてを、種の存続のための自然淘汰の結果とする、すなわち進化生物学に還元させるドナルドの言説には、ソルティはやや強引なものを感じる。
 子供をつくることだけが、人類の唯一の存在理由であり目的なのか!――という問いが反射的に浮かんでくるのは、ソルティがゲイで子供を持たないからだけではあるまい。
 「それを言っちゃあ、おしまいよ」という寅さんのセリフがどこからか聞こえてくる。
 つまり、それだけが目的なら、人類は動物となんら変わりなく、つまらない存在である。
 人類が作り上げてきた文化や文明に対する侮辱のようにすら感じられる。
 そもそも、「子供をつくるため」だけなら、人類にこれほどの知能は必要なかったろう。

 人類が、「生きるとはなんぞや?」といった哲学や本書のように“不都合な真実”を暴いてしまう科学を持つこと自体が、ドナルドの示す「生の目的」の反証のように思われる。
 というのも、難しいことを考えたり、生きる意味をあれこれ悩んだりしない人間のほうが、ばんばん子供を作るだろうから。(十代のヤンキーのように←偏見?)
 「なぜ?」という問いをもつ生命が作り出されたことは、人類の使命というか大自然の目的に単なる種の存続以上のものがあることを含意しているのではなかろうか。

 それとも、「なぜ?」という問いを持ったがゆえに、人類は地上の生物間の生存競争に敗れ絶滅する運命にあるのだろうか?(少なくとも、西洋近代哲学&科学にかぶれることなく、アッラーの命じるがままに子供をつくるムスリムのほうが、生き残る可能性が高いのは確かである)

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Muzammil Ibn MusthafaによるPixabayからの画像

 さて、最後に残された問題は、ずばり、「実在とはなにか?」である。
 知覚(=認識システム)を超えたところにある“何か”
 見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることも、心に描くことも、それについて考えることも、言葉にすることも、まったくできない“何か”
 “何か”とはなにか?
 ここに至って、話はスピリチュアリズムに、とりわけ仏教に近接する。 
 すなわち、
  •  諸行無常=世界は変化し続ける
  •  諸法無我=世界は実体を持たない
  •  因果法則=世界は因縁でできている(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を参照のこと)
  •  不立文字=悟りは文字や言葉で表せない
  •  解脱=輪廻転生(認識する生命体として生まれ変わること)から自由になる
  •  涅槃寂静=解脱したあとの境地
 思うに、仏教の悟りとは、正しい修行の果てに認識システムが一瞬壊れ、ひょいと「実在」を垣間見てしまうことなんじゃないかなあ。

 著者は、実在を説明するのに、コンシャスリアリズム(意識的実在主義)という用語を用いている。

 コンシャスリアリズムは、「時空や物体ではなく意識こそが根本的な実在であり、それは意識的主体のネットワークとして定義される」

 コンシャスリアリズムは、いかなる物体も意識を持たないと主張する。私が岩を見ると、岩は私の意識的経験の一部となる。しかし岩それ自体に意識はない。私が友人のクリスを見ると、私は自分が作り出したアイコンを見るが、アイコンそれ自体は意識を持たない。私が持つクリスのアイコンは、意識的主体の豊かな世界に臨む小さなポータルを開く。

 すべては意識であるというは、なんだか唯識論にとっても近い。
 というか唯識論そのもの?
 意識的主体=阿頼耶識? 
 仮に、この意識的主体を「神」と言ってしまえば、「神は万物の創造主」、「すべては神の御手のうちにあり」、「神は我々一人一人の中にあらします」、「神は一にして一切である」と表現することもできそうだ。
 最先端の科学ロケットの向かう先に、結局、人類は「神」を発見するのだろうか?
 それが「生の目的」ってことがありうるだろうか?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● イ・ソンギュンを悼む 映画:『王様の事件手帖』(ムン・ヒョンソン監督)

2017年韓国
114分
原題:The King's Case Note

王様の事件手帖

 舞台は15世紀の朝鮮。
 国家は、一族代々資本を握り、陰で政治を操る官僚たちに支配されていた。
 彼らに暗殺された兄王のあとを継いだ国王イェジョン(演:イ・ソンギュン)は、持って生まれた卓抜なる頭脳と身につけた剣の腕、なにより高邁不羈の心をもって、国を改革しようと努めていた。
 地方からやって来た新人史官のイソ(演:アン・ジェホン)は、抜群の記憶力と忠誠心が買われ、王の秘書兼用心棒に抜擢されるが、ドジばかり踏んでしまう。

 ホームズとワトスン、というよりジーヴズとバーティのような凸凹コンビが、怪事件に挑み、推理によって謎を解き明かし、陰謀をたくらむ陰の勢力やその手先と縦横無尽のバトルを繰り広げる。
 文句なく楽しめる歴史劇&娯楽ミステリーである。
 男同士の主従コンビという点で、どうしてもちょっと前に見た『バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版』(西谷弘監督、2022年)と比較してしまうのだが、すべてが段違いのレベルで、制作費の多寡は言い訳にならない。
 それが証拠に同じ2022年には、どう見ても制作費1000万円いかないと思われる『MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(竹林亮監督)が公開されているからである。
 日本の映画制作関係者は『MONDAYS』を観て、頭を丸めなければならない。 

 『王様の事件手帖』は、カンヌグランプリを獲った『パラサイト 半地下の家族』(2019)出演で世界的スターとなったイ・ソンギュンを主役に据え、豪華なロケセットや迫力あるVFXも見物で、かなりの予算をかけていると思われる。
 が、そればかりでなく、脚本や演出もよく練られていて、イ・ソンギュンとアン・ジェホンの息の合ったコンビネーションも楽しい。
 とくに、ドジでちょっととろいが、ここ一発大事なところで底力を発揮するイソ役のアン・ジェホンがいい。
 日本の俳優なら、矢本悠馬が適役だろう。
 敵対する勢力の手先を演じるキム・ヒウォンも渋くて味がある。 

 イ・ソンギョンは2023年12月17日に48歳で亡くなった。
 警察に麻薬使用の疑いがかけられていた最中であり、自殺と推測されている。
 この凸凹コンビによる続編が見たかったな。



おすすめ度 :★★

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● 荒川区民オペラ第22回公演:ヴェルディ作曲『ナブッコ』

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撮影するソルティが映り込んで面白い絵柄となった

日時: 2024年8月12日(月)14時~
会場: サンパール荒川(大ホール)
指揮: 小﨑雅弘
演出: 澤田康子
キャスト
 ナブッコ  : 野村 光洋(バリトン)
 アビガイッレ: 柳澤 利佳(ソプラノ)
 ザッカーリア: 鹿野 由之(バス)
 イズマエーレ: 秋谷 直之(テノール)
 フェネーナ : 河野 めぐみ(ソプラノ)
 アンナ   : 東 幸慧
 アブダッロ : 黒田 大介
 ベルの司祭長: 上野 裕之
荒川オペラ合唱団
荒川区民交響楽団

 『ナブッコ』は、好きなオペラの一つである。
 初めて舞台で聴いたのは、1988年9月のミラノスカラ座来日公演。会場はNHKホールだった。
 当時、スカラ座の音楽監督になって間もないリッカルド・ムーティの『ナブッコ』が評判をとっていた。
 とくに、第3幕の奴隷たちの合唱『行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って』がことのほか素晴らしく、気難しい観客の多いスカラ座で大喝采を博しアンコールされたとメディアを通じて伝わって来た。(ネットのない時代である)
 そのムーティが日本でも『ナブッコ』を振るという。
 頑張ってチケットを獲った。

 そのときのタイトルロール(ナブッコ役)はバリトンのレナート・ブルソン、準主役ともいうべきアビガイッレはリンダ・ローク・ストランマーというソプラノ歌手だった。
 王座を追われたナブッコが哀れな囚人に転落してからのブルゾンの歌と演技が圧倒的な印象を刻み、ほかの歌手については覚えていない。
 ただ、スカラ座合唱団の合唱は、噂以上、想像以上に素晴らしかった。
 低音から高音まで、ピアニシモからフォルティシモまで、どのレンジにおいても一糸の乱れなく、天女がまとう羽衣のように柔らかく艶々しかった。
 『行け、わが想いよ』では最後のバスの重低音がNHKホールの空間に飲み込まれるように消えた後、延々と拍手が続いた。アンコールしてくれるんじゃないかと期待したほどだった。

 イタリアの第二国歌と言われるこの名曲以外にも聴きどころはたくさんある。
 ソルティは、第2幕冒頭のアビガイッレのレチタティーヴォ『運命の書よ』からアリア『かつては私も幸せだった』を経てカバレッタ『黄金の王冠を戴いて』のダイナミックな流れが好きで、マリア・カラス録音のものをたまに聴く。出だしのメロディーが、『庭の畑でポチが鳴く』を連想させるアリアの美しさと哀切さにはいつも心かきむしられる。
 第2幕のクライマックスで、ナブッコから開始され、アビガイッレ、ザッカーリア、フェニーナと順に加わり、四重唱から大合唱に展開していく『避けられぬ怒りの時が』も興奮させられる。ドニゼッティ作曲『ルチア』の有名な六重唱と並ぶ名シーン、名アンサンブルだと思う。

 そんなこんなで今年の荒川区民オペラが『ナブッコ』と知って楽しみにしていた。
 JR山手線大塚駅で都電荒川線に乗り換えて延々40分、庚申塚や飛鳥山公園や荒川遊園地や町屋を通って荒川区役所前駅で下車。
 やっぱりチンチン電車はいいなあ~。
 これで168円はお得である。

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都電荒川線・荒川区役所前

 会場(975席)は6~7割くらいの入りだった。
 ソルティは2階右ブロックの最後列に近い席を取ったが、ネット予約したときは埋まっていた目の前のブロックがごっそり空いていた。
 まとめてチケットを購入したグループが事情で来られなかったのだろうか?
 コロナがまた流行っているからなあ。
 こういう場合に、当日でも座席変更できるといいのに・・・。

 勇ましい序曲に続いて幕が上がり、ナブッコ王に虐げられる人々の合唱が始まった瞬間、あることに気づいた。
 「そうだ、これはバビロン捕囚の物語だった!」
 つまり、紀元前6世紀にナブッコ(ネブカドネザル2世)が統治する新バビロニア王国に攻め込まれ、神殿を破壊され、捕虜として連行され、バビロニアへの移住を強制されたユダヤ民族の受難の物語だった。
 イスラエルのガザ地区侵攻と民間人虐殺が世界中から非難されている折も折、なんとまあ皮肉なことか!
 アブラハムの放浪、出エジプト、バビロン捕囚、アウシュビッツ・・・かつての被害者がいま加害者としか言えなくなっている現状にあって、それが大昔の物語とはいえ、ユダヤ民族の受難に心を寄せるのはなかなか難しい。
 いったいなぜ、わざわざこのオペラを選んだのだろう?

 ――と不思議に思ったが、今回イスラエルのガザ地区侵攻が始まったのは2023年10月7日。国際世論がイスラエル批難に傾いたのは年末にかけて。
 オペラ公演には長い準備期間が必要だ。
 今年の演目はそのときにはすでに決まっていたのかもしれない。
 まあ、こんなことが気になるのはソルティくらいかもしれないが・・・。

 ときに、『ナブッコ』が日本でなかなか上演されないのは、それが硬派の歴史ドラマであること以上に、準主役であるアビガイッレを歌えるソプラノが少ないからであろう。
 本来、鋼のように重く強靭な響きと、蝶々が舞うように柔らかで軽やかな響き、この両方を兼ね備えたソプラノ・ドラマティコ・タジリタのために作られた役なのである。
 が、この声の持ち主(マリア・カラスがその一人だった)が滅多に出現しない。
 そこで、たいていの場合、後者の声質が犠牲となって、鋼のように重く強靭な響きをもつドラマティック・ソプラノによって歌われることになる。
 体格のせいか肺活量のせいか声帯のせいか知らん、日本人の声はやっぱり小さくて線が細く、昔からドラマティック・ソプラノ自体が少ない。
 役柄的に多少声がか弱くても許容できる『蝶々夫人』や『椿姫』はなんとか歌えても、猛女烈女が主役で激しい感情表現が必要とされる『マクベス(夫人)』、『トゥーランドット』、そしてアビガイッレは歌える人が限られてしまう。
 その意味では、今回アビガイッレを歌った柳澤利佳は頑張ったと思う。
 声の足りない部分を、女王らしい毅然たるたたずまいと鋭角的表現で補っていた。

 声量の点でいえば、イズマエーレを演じたテノールの秋谷直之が圧巻であった。
 ホールの最後列までびんびんと届くヴォリュームと力強さは、欧米の歌手にひけをとらない。恵まれた声の持ち主である。

 ザッカリーアを歌った鹿野由之も、朗々としたよく通る声と貫禄ある立ち姿で、舞台を引き締めていた。
 抑制の効いた丁寧な歌い回しにベテランの味を感じた。

 今回一番の敢闘賞はナブッコ役の野村光洋。
 風邪か流行り病か、体調の悪さ、喉の不調は歴然としていた。
 本番で、ここまで苦しそうな歌唱を聴いたことがない。
 代役(11日にナブッコを歌ったバリトン)を立てられない訳があったのだろうか。
 だが、最初のうちこそ失望感に襲われたものの、「声が裏返らないか、かすれないか、音程をはずさないか」、とハラハラしつつ聴いているうちに、次第に心の中で応援している自分に気づいた。
 歌い手のもがき苦しむ姿が、ちょうど神の逆鱗にふれて雷に打たれ、正気を失い、アビガイッレによって王位を奪われ監禁されてしまうナブッコの、哀れな老人の苦しみとオーバーラップしていた。
 最後までよく頑張った。

 荒川区民オペラのなによりの美点は、庶民ならではの親しみやすさ。
 手作り感たっぷりの舞台衣装、眼鏡をかけた古代の男たち、赤ん坊を抱えて座席案内するスタッフの姿、カーテンコールでの達成感に満ちた合唱団の誇りかな表情、いずれもが「人が協力して物を作る喜び」という創作の原点を思い起こさせてくれる。
 その感動が、来年もまた来ようという気にさせるのだ。

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サンパール荒川
どうもサンポールと言い間違えてしまう







● 本:『ブッダの瞑想修行』(石川勇一著)

2023年サンガ新社

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 「ミャンマーとタイでブッダ直系の出家修行をした心理学者の心の軌跡」という副題そのままの本である。
 あえて補足するなら、ミャンマーとタイは、中国を通じて日本に伝わった北伝仏教(いわゆる大乗仏教)ではなく、スリランカを通じて東南アジアに伝わった南伝仏教(かつて小乗仏教と卑称された)の国であり、そこでは約2500年前に説かれたブッダの教えが、サンガ――律(規則)を持った出家者の集団――というシステムによって現代まで脈々と伝えられてきた。
 「ブッダ直系の出家修行」とはそのサンガの一員になるということである。

 著者の石川勇一は1971年生まれ。
 修験道やアマゾンでのシャーマニズムの行者体験を持ち、臨床心理を実践するカウンセラーであり、心理学を教える大学教授であり、山中湖の近くに法喜楽堂という修行道場を主宰するスピリチュアルティーチャー(導師)である。
 肩書は賑やかなれど、石川にとって最も重要なアイデンティティを一言でくくれば、原始仏教徒ということになるだろう。
 本書は、原始仏教徒である在家の男が、テーラワーダ仏教の本場の国に渡航しておこなった短期間の出家体験を記したものである。
 2014年1~3月ミャンマーの「パオ森林僧院モービ支部シュエティッサ僧院」、および2020年1~3月タイの「プラプットバートタモ寺院」がその舞台である。

 昨今、日本でもテーラワーダ仏教を学ぶ人が増えているので、タイやミャンマーやスリランカといったテーラワーダ仏教国における日本人の出家体験記も珍しくなくなった。
 たとえば、ミャンマーで出家し17年間の比丘生活を送った西澤卓美(出家名ウ・コーサッラ)による『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』(2014年、サンガ)など、読みやすく面白かった。
 が、前世紀までこの手の本は稀少だった。
 もはや古典的地位を占めているものとして、人類学を学ぶ大学院生だった青木保が約6ヶ月の出家体験を綴った『タイの僧院にて』(1979年)がある。
 ソルティは、テーラワーダ仏教に出会う前の2000年頃にこれを読んだ。
 そこには、日本の仏教とも、お寺とも、坊さんとも全然違う、タイの仏教があり、寺院があり、出家者の姿があった。
 加えて、初詣かお葬式か法事の時しかお寺に行かず、普段はお坊さんと密なかかわりを持たなくなった多くの日本人とはまったく違う、タイの在家信者の姿があった。 
 同じ仏教国でも日本とタイではずいぶん違うんだなあと興味深く読んだ。

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読み直したい一冊

 一方、当時はオウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)の影響甚大で、社会全般に宗教に対する忌避感がとても強かった。
 ソルティも、宗教とは「迷信深く、何かに依存しないと自らを保てない人の阿片」という、いささか“偏った”イメージを抱いていて、無神論者・無宗教者を軽い優越感をもって自認していた。
 なので、『タイの僧院にて』を読んでも、文化人類学的あるいは比較文化論的あるいは旅行ガイドブック的な興味以上のものは持てなかった。
 そもそも著者の青木もまた、「テーラワーダ仏教に感銘を受けそれを深く学ぶため」に、あるいは「瞑想修行して煩悩を減らすため」にタイ行きを決心したわけではなく、文化人類学者(の卵)としての異文化への興味、及び、モラトリアムにぐずっていた自身を「冒険によって再生」させることを期しての出家修行だったので、そこに仏教の真髄に触れるような記述は少なかったように記憶する。
 結果的には、タイでの出家修行は青木青年に通過儀礼とおぼしき深甚な変容をもたらすことになり、そこに読者は爽やかな感動を覚える。
 つまり、『タイの僧院にて』の面白さは、文化人類学レポート+ビルディングスロマン(教養青春小説)ってところにあった。(青木保氏がその後仏教徒になったかどうかは不明)

 それに対して、石川勇一の出家の目的はまさに、「仏教を深く学び瞑想修行によって煩悩を減らす」ことにあり、本書の記述内容はその一点に向かって絞られ、構成されている。
 石川自身のスピリチュアル修行遍歴、テーラワーダ仏教との出会い、ミャンマーやタイで出家修行しようと思った動機といったセルフヒストリーはもちろんのこと、渡航までの具体的な手続きや準備、各僧院での出家儀式やサンガの日常風景、修行仲間の僧たちの横顔、そして何より、各種の瞑想方法に関する知見や洞察、自身の修行の進展や成果が、非常に細やかにわかりやすく、「ブッダに握拳なし」の言葉通りに率直に書かれている。
 さらに、臨床心理学やトランスパーソナル心理学の専門家ならではの夢分析や自己分析も本書の魅力の一つとなっている。
 巻末に付けられている「ブッダの教えを理解するための基本用語解説」も、きわめて適確な内容で、読者が仏教をより深く理解するのに役立つとともに、瞑想修行で石川が確かめた智慧や至った境地がいかなるものであったかを反映するものとなっている。
 テーラワーダ国での出家を考えている読者にとっても、普段“ブッダの瞑想”を実践する者にとっても、恰好のガイダンスとなるのは間違いない。

 それにしても、『タイの僧院にて』は79年に出版された本だが、どうやら半世紀近く経っても、タイのお寺の様子、サンガの日常、出家者に対する在家者の敬愛の念はほとんど変わっていないようだ。
 この伝統の堅持ゆえに、約2500年前のダンマ(ブッダの教え)が継承されてきたのである。
 すべてが無常の世にあって、珍しく、かつ、貴いことである。

 以下、引用。

 修行者は、欲望を満たすことによる喜びとは異なる、欲望から自由になったことによる清らかな喜びを知るがゆえに、修行を続けることができるのです。ただ苦しいだけならば、ほとんどだれも修行を続けることはできないでしょう。修行には確かに忍耐は必要ですが、優れた清らかな喜びがあることを知れば、さらにやる気が出てくるものです。

 人間として体験できることの中で、出家修行は最上だろうと思います。それは解脱につながる出世間の正しい修行だからです。世間のいかなる体験も、出世間の体験には及びません。

 人生は無意味なことでとても忙しいので、修行をしない理由を見つけることは簡単です。しかし、言い訳ばかりをして生きるほど虚しいことはありません。本当に意味あることを見つけたら、あとはやろうと心に決断すれば、きっと機会は得られるでしょう。

 サードゥ、サードゥ、サードゥ。




おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『記憶にございません!』(三谷幸喜監督)

2019年
127分

記憶にございません
 
 三谷幸喜が天才であることは、最初期の仕事である『やっぱり猫が好き』(フジテレビ、1988-1990)をリアルタイムで観ていて察知した。
 「ああ、日本にこれまでにないタイプのコメディ作家が出てきた」と思った。
 落語風でもドリフ風でも吉本新喜劇風でもない、どちらかと言えば『奥さまは魔女』に近い欧米風にソフィストケートされたお笑いである。

 その後約20年、ソルティは“テレビ&映画離れ”してしまったので、三谷の名を一躍高めた田村正和主演『古畑任三郎』シリーズも、NHK大河ドラマ『新選組!』や『真田丸』も、大ヒットした映画『THE 有頂天ホテル』(2006)や『ザ・マジックアワー』(2008)も観なかった。
 このブログを書くようになってやっと、フジテレビ制作のドラマ『オリエント急行殺人事件』や映画『12人の優しい日本人』(中原俊監督)をDVDレンタルし、また、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をリアルタイムで観て、三谷の昔と変わらぬコメディセンスの冴えと役者使いの上手さを確認した。
 これからおいおい過去作をさらっていきたい。

 本作もまた役者使いの上手さが際立つ。
 主演の総理大臣役の中井貴一を取り囲む、秘書役のディーン・フジオカと小池栄子、妻役の石田ゆり子、官邸料理人の斉藤由貴、刑事転じてSP役の田中圭、黒幕官房長官役の草刈正雄、すさんだフリーライター役の佐藤浩市、けばいニュースキャスター役の有働由美子など、それぞれのタレントの新たな魅力を引き出し、見せ所をきちんと作ってあげるあたりが、役者たちが発奮し、三谷の次作にも出たいと思う理由であろう。
 自然と常連化し、チームワークも良くなる。
 撮影現場の雰囲気の良さは画面やスクリーンを通して視聴者に伝わるので、とくにコメディドラマではチームワークは重要である。
 小池栄子と斉藤由貴と有働由美子のコメディエンヌの才には瞠目させられた。

 野党からの追及に対し「記憶にございません!」を連発する悪徳総理大臣が、演説中に頭に石をぶつけられて記憶喪失になるというアイデア、それがきっかけとなって誠実な男に生まれ変わるというプロットも面白い。
 ほどほどに日本の政治や政治家に対する風刺も効いているし、なにより漫画的なご都合主義がかえって楽しい。
 政治ドラマをリアリティもって扱うと、どうしても話が暗く毒々しくなるので、このくらいの「ありえねえ~」塩梅がコメディにはちょうどいい。
 ポテチでもつまみながら気楽な気持ちで観て笑える作品である。 

 しかるに、「ありえねえ~」のおふざけ演出が、公開数年後、シリアスになってしまった。
 2022年7月12日の安倍元首相暗殺事件、2023年4月15日岸田首相襲撃事件である。
 両事件の犯人がこの映画を見て犯行を思いついたとはよもや思わないが、2022年7月以降の公開だったら、この映画はお蔵入りになっていたかもしれない。

 この映画のように、あのとき安倍さんに当たったのが小石で、それをきっかけに安部さんが誠実な政治家に生まれ変わっていたのであれば良かったのに・・・。

 

 
おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





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