ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『友達・棒になった男』(安部公房著)

1987年新潮文庫
収録作品
『友達』(1967)
『棒になった男』(1969)
『榎本武揚』(1967)

IMG_20260519_170656

 安部公房の戯曲ははじめて読む。むろん、舞台を観たこともない。
 『砂の女』、『箱男』といったSFチックで寓意風の奇妙な小説で知られる作家が、いったいどんな芝居を書いたのだろう?
 ――と思ったら、やっぱり、寓意風の奇妙な作品だった。

 収録されている3作の中では、『友達』が抜きんでている。
 どこからか突然現れた9人家族(祖父、父母、息子3人、娘3人)に家を乗っ取られる平凡な男の話。
 この家族の正体や意図が明かされないだけに、否、かれらが「隣人愛によってひとりぼっちの人を救う」という使命を帯びて行動しているらしいだけに、底知れぬ怖ろしさが募る。
 単に物盗りが目的であるのなら、一般的理解の範疇におさまるのだが・・・。
 男は、家の管理人や警察やフィアンセに助けを求めるが、だれも男の話を本気にせず、助けになってくれない。 
 そのうちに男は諦めモードになって、9人家族との奇妙な同居生活が始まる。
 そして・・・・

 日常を不意に襲う非日常。
 その非日常にいつのまにか慣れて、それが日常になっていく。
 ――というプロットは、『砂の女』に重なるところがある。
 なんだかコロナ禍を思い出した。
 我々日本人が、どれだけすんなりと黙食や黙浴や黙席といった「新しい日常」に馴染んでいったことか。 
 9人家族とは、母体に寄宿し、内側から母体を破壊し変容させていくウイルスみたいなものか。
 あるいは、人を“ひとりぼっち(=個人)”にさせておかない「世間」という怪物の比喩か。
 いろいろな読み方ができて面白い。

 ソルティは、正体不明のこの9人組の姿に、ルイジ・ピランデルロ作『作者を探す6人の登場人物』(1921年初演)を想起した。
 『友達』は約60年前、『作者を探す6人の登場人物』は100年以上前の作である。
 どちらの作品も、現在上演しても十分通用し、観る者に衝撃を与える。
 やっぱり、安部公房は凄い。
 1994年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞は、三島由紀夫の短命(1970年、享年45)と安部公房の急死(1993年、享年69)に依るところが大きかったのであろう。

IMG_20260516_172802

 安部公房はソ連(現ロシア)をはじめとする共産圏の国々で高い評価を受けた。
 それはおそらく、SFチックな設定を用いて閉塞状況に陥った人間の姿を描く安部の作品が、全体主義管理社会の中で生きる人間たちの寓意のように解されたからだろう。
 そこでは個人の尊厳や表現の自由は、徹底的に否定される。
 スターリン時代のソ連やチャウシェスク時代のルーマニアがその典型である。
 先頃ついに日本初公開されたピョトル・シュルキン監督のポーランド〈暗黒SF4部作〉もまた、全体主義管理社会(その実体は独裁政権である)の実相を描いていた。

 90年代に起きた世界的な民主化の機運から一周して、いま世界は“新しいスターリズム”の勃興が危惧される状況にある。
 安部公房がふたたびブームになるのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● はだかで馬に乗るごとく : 学習院輔仁会音楽部管弦楽団 第65回定期コンサート

IMG_20260517_134736

日時 2026年4月17日(日)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
曲目
  • マーラー: 花の章
  • ドヴォルザーク: 序曲「謝肉祭」
  • リスト: 交響詩「マゼッパ」
  • ブラームス: 交響曲第4番
指揮:平石 章人

 和田一樹&豊島オケのブラームス1番で感動できなかったのが悔しく、再挑戦。
 今度はブラームス4番。
 学生たちの張りのあるフレッシュな響きが、ソルティの蒙をひらいてくれるかもしれない。
 2階席舞台向かって右手に陣取った。
 
 1曲目のマーラー「花の章」は、昨年12月に亡くなった金管トレーナーの北村源三氏を偲んでの追悼演奏との由。「花の章」がトランペットソロが主導する曲であるためであろう。
 舞台上には、北村氏の遺影が置かれていた。 
 もともと交響曲第1番の第2楽章として構想されていたもので、美しくつややかなメロディは文字通り“花”のよう。
 しょっぱなから夢見心地にさせられた。
 これは幸先いいぞ。

IMG_20260516_172912

 2曲目も素晴らしい。
 ドヴォルザークはマーラーに次いでソルティが好きな作曲家。
 やはり、中間部に差し込まれた美しく神秘的なメロディに陶然となった。
 学習院オケはチームワークがいい。
 現役学生とは思えない統一感。

 3曲目のリストの『マゼッパ』ははじめて聴いた。
 マゼッパ?
 度の強いイタリアのお酒?
 それはグラッパ。
 猛々しい風変わりな曲だなあ。戦意高揚的な・・・・。
 休憩時間にプログラムを読んで、「へええ~!」と心の中で声を上げた。
 マゼッパとは、実在したウクライナの政治家にして軍人イヴァン・マゼッパ(1639~1709)のことで、この曲はマゼッパの若き日のエピソードをもとにしたものという。
 プログラムによると、

ポーランド王の小姓であったマゼッパが貴族夫人と不倫関係になり、怒った伯爵によって裸で野性の馬に縛り付けられ、荒野へ放逐されたという物語である。

 なるほど、猛々しいわけだ。
 マゼッパは馬が力尽きて倒れるまでの三日間を耐え抜いた。
 瀕死のところをウクライナのコサックの娘に救われる。
 やがて、ウクライナ諸部族の王になり、領土拡大に貢献したという。
 曲は一変し、華々しいファンファーレによって幕を閉じる。
 〈不倫バレ⇒拷問⇒救出⇒英雄誕生〉とは、なんて過激でドラマチックな半生だろう!

マゼッパ
 シャセリオー「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」
1851年、油彩、カンヴァス(by wikimedia commons)

IMG_20260517_145818~2
池袋駅西口方面

 休憩後のブラ4。
 第1楽章の途中で股間のチャクラがビクッと動いた。
 「あっ、来るかも・・・!」
 が、すぐに閉じてしまった。
 しばらくしてまた、ビクッ。
 また閉じた。
 音波はチャクラを刺激し、体内への扉を叩くも、長続きせず消えてしまう。
 結局、最後までこの調子で乗れなかった。
 音によるチャクラマッサージこそ、感動の秘訣なのに!
 ブラームスの曲の発する音波は、どうやら質的に自分とは合わないようだ。
 オケや指揮者のせいでないのは、前半のマーラーとドヴォルザークのときの反応で証明されている。
 ソルティは、もっと音楽に蹂躙されたいのだよなあ。
 裸で荒馬に乗せられるごとく。

IMG_20260517_154801

 



● 原子マグロは買いません 映画:『億万長者』(市川崑監督)

1954年青年俳優クラブ制作
83分、白黒

億万長者

 政治家と官僚の汚職、原水爆問題、悲惨な貧困家庭など、50年代当時の日本をからりとしたタッチで描くブラックコメディ。
 安部公房が脚本にクレジットされていて驚いたが、ウィキによれば、実際には安部の書いた脚本は採用されず、市川の妻である和田夏十が書き直したらしい。
 『億万長者』というタイトルから、一獲千金を手にした庶民の話、あるいはセレブの豪奢な生活ぶりを連想したが、むしろ真逆の内容。
 タイトルは、戦後の庶民の貧困ぶりを揶揄っているのだろう。

 主役の税務職員を演じる木村功。
 この人はだれかに似ているとずっと思っていたが、本作で気がついた。
 ユースケ・サンタマリアである。
 放射能を極端に恐れる男という設定なのだが、実際に、木村が軍隊に召集されているときに広島にいた父母が被爆し、亡くなったという。
 木村という役者のもつ翳りの由来は、そこにあったか。

 子沢山の芸者役の山田五十鈴がいい。
 コメディからシリアスや悲劇まで、文芸調から時代劇まで、どんな役でもこなせる演技力と存在感は、他の女優に替え難い。
 自室での原爆開発を目論むマッド・サイエンティストのような女を演じる久我美子も、常にない役柄で面白い。
 ほかに、伊藤雄之助、信欣三、高橋豊子(とよ)、岡田英次、加藤嘉、左幸子、北林谷栄、西村晃、原泉など、個性咲き誇る昭和の役者たちの競演が楽しい。

 市川の演出は可もなく不可もなく。
 軽快なテンポをのぞけば、まだ後年の(『ぼんち』、『黒い十人の女』、『破戒』、『雪之丞変化』、『犬神家の一族』など)市川印のスタイルの確立は見られない。

 本作公開の1954年は、ビキニ環礁における第五福竜丸被爆事件があった年(3月1日)である。
 ラストシーンでの、子沢山の貧困一家が、どこかで拾ってきたマグロをみんなで食べて死んだというくだりは、漁船の被爆と風評被害を前提としたブラックジョークである。

幻視マグロ
アサヒグラフ』 1954年3月31日号



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 眼には眼を!? 映画:『シンプル・アクシデント 偶然』(ジャファル・パナヒ監督)

2025年フランス・イラン・ルクセンブルク合作
103分
IMG_20260512_184056

 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したサスペンススリラー。
 前評判が高いのが気になって、ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞。
 土曜夕方の回で5割くらい入っていた。

 結論から言えば、「確かに面白いけれど、前評判はあおり過ぎ」と思った。
 販促チラシにある「魂が震える衝撃のラスト」、「これほど素晴らしい映画を見たことがない(マーティン・スコセッシ)」、「渦巻く重厚なスリルと深遠なミステリー」、「社会派サスペンスの最高峰」といった文句は、ちょっと持ち上げ過ぎ。
 まあ、映画の過大広報は、「全米○○○!」をはじめ、今に始まったことではないが・・・・。

 ソルティが仙台にいた90年代初頭、渡辺文樹監督の自主制作映画『ザザンボ』が、繁華街にある市民会館で上映されたことがあった。
 上映日の数日前から、街中の電柱という電柱に、毒々しい手書き文字を添えた宣伝ポスターが張りめぐらされた。
 具体的な言葉は忘れたが、「嘔吐者、続出!」とか「怖い、怖い!」とか「見たら一生後悔する!」とか、美しく穏やかな杜の都にふさわしくない過激な言葉が並んでいた。
 渡辺文樹という監督を知らなかったソルティは、当時住んでいた家が市民会館の近くだったこともあって、当日足を運んだ。
 びっくりしたことに、1000席以上の大ホールが満員であった。
 それも中学生や高校生の姿が目立った。
 
 『ザザンボ』は、1992年に福島県田村郡三春町で起きた中学生の自殺事件の真相を追うドキュメンタリーである。
 作品内で渡辺が匂わせた真相については物議を醸したみたいだが、映画自体はどちらかと言えば地味なつくりで、ホラー的なところもスプラッタ的なところもエログロ的なところもなかった。
 何を期待したのか知らないが、「はめられた」と気づいた中高生たちが、不満と退屈から途中でざわめき出したのが可笑しかった。(ソルティも同じ穴のムジナか・・・)
 あとから知ったのだが、渡辺はあちこちの町で、この手を使って客集めをしていた。
 まったく人騒がせな男である。
 数年後、『バリゾーゴン』というタイトルの渡辺の新作がまたしても仙台にやってきた。
 同じような光景が町中に見られた。
 今度はソルティも足を運ばなかった。

DSCN8312

 本作はイランが舞台。ここ数十年のイランの政治状況が背景にある。
 時の政権への抗議活動をしていた人々が逮捕抑留され、刑務所内で看守「義足の男」から拷問を受け、人生を狂わされた。
 数年後、なんとか社会復帰し、平穏な生活を送っていたところ、ある事故がきっかけで、かつての看守らしき(?)男と再会する。
 復讐心燃え上がる被害者たち。
 「義足の男」を車内に拉致監禁し、連れ回すことになった。

 ソルティはイランの政治情勢に詳しくない。
 もう少し背景を知っていたら、より深く、より面白く、観られたのかもしれない。
 ただ、中心テーマはイランの政治や社会を描くところにあるのではない。
 もっと普遍的に、“復讐と許し”と言っていいだろう。
 重く深刻になりがちなテーマだが、それをイスラム的庶民感覚とドタバタ喜劇風ユーモアをまじえて、スリリングに描いている。
 「予測不能な物語」というチラシ文句だけは過大広報ではない。
 ラストシーンの解釈は、観る者ひとりひとりに託されている。
 これをどう解釈する人が多いかで、世の復讐の連鎖が止まるか否かが占われている。
 
 高評価の背景には、いまのイラン・アメリカ・イスラエル情勢に対する国際映画界の強い憂慮と平和への願いがあるのだろう。

IMG_20260512_185431
 有楽町のゴジラ


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● なんなら、奈良32(奈良大学通信教育日乗) 日本史の復習

 文化財学購読Ⅱのスクーリングで藤原京の広大な跡地に立った時、「こりゃあ、日本史をやり直さないといかん」と痛感した。
 古代史における藤原京の占める比重が、知らないうちに爆上がりしていた。

藤原京跡
藤原京跡
右手に耳成山を望む

 考えてみれば、40年以上前の大学入試で日本史を勉強して以降、日本史を学ぶ機会を持たなかった。
 時代劇や戦国物のドラマやゲームには関心なかったし、NHK大河ドラマも初回から最終回まで通して視聴したのは、佐久間良子がねねを、西田敏行が秀吉を演じた1981年『おんな太閤記』が最後で、それ以降は追っていなかった。(2022年『鎌倉殿の13人』からは毎回視聴している)
 ある時代の特定のテーマについて、あるいは特定の人物について、興味を持ち歴史関連本を読むことはあったが、日本史を通して復習することはなかった。
 そのため、この40年間で日本史教科書の記述がずいぶん変化していることに疎かった。
 当然、新たな発見や研究成果によって、40年前に身につけた知識は古くなっていたのである。
 一番驚いたのは、鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変わっていたことだろうか。

源頼朝肖像

 これでは、せっかく奈良大学で過去の文化財や文学や出来事について学んでも、新しい酒を古い革袋に入れるがごとく、とんだ勘違いをしかねない。
 とり急ぎ、大きく変わった点についてのみ、吉川弘文館発行『ここまで変わった日本史教科書』でさらった。

DSCN8292
秩父武甲山

 このゴールデンウィークは秩父でリトリートした。
 毎度の読書や瞑想や散策に加え、一日のうち数時間を日本史の復習に当てようと思い、受験生時代にお世話になった山川出版の日本史教科書を購入し、持って行った。
 社会人のためにとくに編纂された2017年発行のテキストである。
 ただ読むだけではなかなか身につかないと思い、簡単な入試用の問題集も用意した。
 頭にハチマキの受験生に戻った気分で机に向かい、疲れたら初夏の秩父を歩いて、目と頭を休ませた。

IMG_20260503_223805

IMG_20260503_223902

 たしかに、いろいろ変わっていた。
 隔世の感ってやつ。
 が、むしろ、忘れてしまったことのあまりの多さにあきれた。
 とくにソルティの場合、鎌倉時代の後半あたりからの記憶がおぼろで、楠木正成がどういう人物か、応仁の乱の原因は何だったか、江戸時代の三大改革は何か、明治以降の主な首相の名前と事績など、イチから学び直すことばかりであった。
 これで文化財歴史学科の学生とは、お恥ずかしい・・・・。

 一般に、社会人学生が現役の学生にかなわないところは、まさにこの点であろう。
 現役学生諸君は、高校の授業と受験勉強で学習したばかりの最先端の知識を土壌にして、大学ではそこに新たな種を捲けるのだから。
 WINDOWSだってヴァージョンアップしなければ、新しいソフトは読み込めない。
 40年前のOSではどうしようもない。
 
DSCN8300


DSCN8305

 今回新たな目で日本史教科書を読んで、ハタと気づいたことがあった。
 40年前の学生時代は、日本史を「自分とは関係ない“他人事”」のように読んでいた。
 今現在(10代の)自分がいる地点=昭和50年代の日本と、そこで習っている過去数千年の日本の歴史とが、断絶している二つのもののように見えていた。
 それはおそらく、歴史の勉強を“試験のために”仕方なくやっている――人名や年号などを暗記するのが最優先――というスタンスだったためだろう。
 “現在”との関係で歴史を見るという学び方ができなかったのだ。 

 が、理由はそれだけではない。
 自分のいる昭和50年代の日本が、“出来あがった社会”に思えていた。
 平和で、豊かで、治安が良くて、大人たちはみな懸命に働き、子供たちはみな学校で学び、おおむね判で押したような規則正しい一日や一年が繰り返され、学校卒業後の人生のルートも生まれや学歴であらかた決まってしまうように思えた。
 空前の景気に日本中が浮かれたバブルの頃などは、リッチでイケイケの日本がこのまま永遠に続くものと思われた。
 ロッキード事件やリクルート事件に代表されるような政財界の腐敗や自民党内の派閥争いはあるものの、日本史の授業で学ぶような大きな内乱や対外戦争や極端な貧困や差別や独裁政権はすでに文字通り過去の話で、ある種の“達成”が果たされた地点に自分たちがいるものと感じられた。

 その思いに拍車をかけたのが、1989年に起こったベルリンの壁崩壊や中国天安門事件、91年のソ連解体とそれに続いて起こった東欧社会主義国の民主化である。
 それは、自由主義経済と国民主権を楯の両面とする「リベラルな民主主義」の勝利宣言と映った。
 いわゆる、歴史は終わった

DSCN8304

 それが間違いであったことを、2000年以降の国内および国外の状況は知らしめている。
 金一族の独裁下にある北朝鮮はともかくとして、誰が、現在の中国やロシアやイスラエルやアメリカ!の姿を思い描けただろうか。
 誰が、西欧諸国のナショナリズム(自国ファースト)と排外主義の高まりを予知しえただろうか。
 誰が、憲法9条や基本的人権の改悪を臆面もなく訴えるリーダーを、日本国民の多くが支持する日が来ることを予想し得ただろうか!
 “歴史の終わり”など幻想もいいところだった。
 それをして「お花畑に住んでいた」と言うなら、まさにその通りであろう。

DSCN8269

 今回、日本史の教科書を読んでいて最もヴィヴィッドに感じたのは、明治維新による近代化からアジア・太平洋戦争に至るまでの歴史の流れが、敗戦後のGHQによる民主化(日本改造)から令和現在に至るまでの流れと、よく似ている点であった。
 外圧による徹底的な欧化の洗礼を受けて、国を挙げて「脱亜入欧」に取り組んできた日本。
 変わり身の早さと言えば聞こえはいいが、あたかも過剰適応したアダルトチルドレンのように欧米に追従し、どこかに無理が蓄積されていた。
 そのバックラッシュとしての国粋主義の高まりが、やがて社会全体の右傾化へとつながっていく。
 この流れが、明治維新後と太平洋戦争後とで二重写しのように思われたのである。
 すなわち、
  • 黒船=マッカーサー
  • 近代化=民主化
  • 列強の仲間入り=GNP2位の経済大国への成長
  • 第1次世界大戦後の好景気=バブル景気
  • 大正デモクラシー=フェミニズムをはじめとするマイノリティ運動
  • 1920年代の金融恐慌=バブル崩壊からの不況
というように。
 いまはちょうど、国外では国際連盟成立後の国際協調が行き詰まりを見せ、国内では政党内閣にかげりが見え始める頃合い、昭和初め頃の空気感だろうか。
 いみじくもタモリが「新しい戦前」と言ったのも頷ける。
 歴史は繰り返す。 

DSCN8311

 昭和6年、“軍部の独走”による柳条事件(かつて柳条事件と習った)が勃発、満州事変へと拡大し、2・26事件を経て、日本は日中戦争の泥沼へとはまり込んでいく。
 この“軍部の独走”というのが、40年前に近現代史を習った時の決まり文句だった。
 独走する軍部をだれも止められなかった。悪いのは軍部だ、と。
 しかるに、最新の教科書では次のような記述がほどこされていた。

かねてから“満蒙の危機”を国民に強くうったえていた多くの有力新聞は、満州事変がおこるといっせいに日本軍の行動をたたえる記事や写真で紙面をうめつくした。このようなジャーナリズムの活動をつうじて、満州事変における軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論がつくりだされた。若槻内閣の不拡大方針は失敗し、軍部をおさえることができないまま、1931(昭和6)年12月、内閣総辞職に追いこまれた。(P.321)

 軍部の独走は確かにあったが、政府はそれをおさえ込もうとしていた。
 それができなかったのは、好戦的なマスメディアのキャンペーンであり、それに乗せられた圧倒的な国民の声だったのである。
 大正14年に成立した普通選挙法(25歳以上の男子すべてに選挙権を付与)により、時の内閣を選ぶ権利が国民に存した以上、戦争責任の大半は国民にあったと言うべきだろう。
 そこもまた、令和の現在と変わりない。
 ソルティが、現首相の支持率70%というマスコミ報道を憂慮せざるを得ない所以である。

DSCN8309

















  

● 伊藤若冲「動植綵絵」 PART2 @トーハク

 前回の15幅に続き、残り15幅を観に行った。
 大型連休中とは言え、平日だったので、ゆっくり観ることができた。

KIMG0068
東京国立博物館 表慶館

 KIMG0048

DSCN8332
今回は外国人客が目立った。
そもそも、いまの若冲人気の立役者は、日本人ではなく、アメリカの美術収集家ジョー・D・プライス(1929ー2023)。2006年に東京国立博物館で開催された『プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展』で人気に火がついた。

DSCN8328


DSCN8315


DSCN8314


DSCN8313


DSCN8322


DSCN8318
Phoenix(フェニックス)=不死鳥

DSCN8319
手塚治虫の“火の鳥”を想起させる色っぽさ

DSCN8331
スズメたちの語らいが聞こえてくる

DSCN8327
コイ科のオイカワと思われる。
ヤマベ、ハエなどとも呼ばれる。
色描写の見事さ!

DSCN8335
タケノコ貝の一種か?
若冲の絵には風変わりな生き物が散見する。

DSCN8321
謎の水中生物
AIの見立てでは、古生代カンブリア紀に生息していたハルキゲニア。
But,若冲がそれを知っていたとは想像つかない。
一体、どこからモデルを得たのだろう?

DSCN8338
続いて本館へ

 現在、アイルランドのチェスター・ビーティー卿(1875–1968)の膨大なコレクションの中から、選りすぐりの日本の物語絵25点を特別展示中(~7/20)。
 絵巻物好きにはたまらない逸品ぞろいである。

IMG_20260509_010329


DSCN8349
『竹取物語』の一コマ(17世紀、紙本着色)
お婆さん、若い!
翁が鎌でなく刀剣持っているのも、いとをかし。 

DSCN8350
『源氏物語』より、若紫発見シーン(17世紀、紙本着色)
少女を垣間見(覗き見)している光源氏。
このあと自宅へ拉致し、妾にする。
清水の舞台みたいな邸が愉しい。

DSCN8354
『平家物語』より「富士川の戦い」
鳥のはばたきを敵来襲と勘違いして逃げ惑う平家方の武者たち。

どの絵も保管状態が良く、色あざやか。
日本から流出したおかげで戦災を免れたか。

DSCN8358
伊藤若冲筆『乗興舟』(江戸時代)
若冲は晩年、相国寺の僧・大典顕常とともに京都から大坂まで淀川下りをした。
その楽しい思い出を共作でかたちにした版画巻。
やっぱり、2人はLOVELOVEだったんだろう。

DSCN8357
大典が詩文を書いた

DSCN8355
終点の天満橋に「若冲」の落款あり

トーハク庭

 トーハクは広い庭もあって、緑も多い。
 弁当持って一日過ごせる。
 来るたびに発見がある。
 還暦にして博物館の愉しさに目覚めた。

DSCN8345
聖徳太子16歳像(鎌倉時代、木造)














● ALTAがない! :豊島区管弦楽団 第101回定期演奏会

豊島オケ101回

日時 2026年5月6日(水)14:00~
会場 新宿文化センター大ホール
曲目
  • ヨハネス・ブラームス: 『悲劇的序曲 作品81』
  • エドワード・エルガー: 独創主題による変奏曲(エニグマ変奏曲)
  • ヨハネス・ブラームス: 交響曲第1番 ハ短調 作品68
  • 〈アンコール〉 エドワード・エルガー: 威風堂々 第1番
指揮 和田 一樹

 ブラームスの交響曲とはどうも相性が悪い。
 これまでほとんど感動したことがない。
 率直に言って、「堅苦しく、遊び心にかけて、つまらない」と思ってしまう。
 なので、メインプロがブラームスの交響曲である演奏会は自然と避けてしまうのが常なのだが、今回は別である。
 いろいろと驚かしてくれることの多い和田一樹&豊島オケのコンビだからだ。
 これまでのマイナスイメージを払拭してくれるかもしれない。
 久しぶりに新宿駅で下車した。

 あれ? ALTAがない!
 ビルのあった場所が、歯が欠けたように空間になっている。

MVIMG_20260506_164324~2
新宿駅東口

 7階のALTAスタジオでやっていたタモリ司会の『笑っていいとも!』(フジテレビ)が2014年3月で終了し、その後、しばらくしてスタジオ自体がなくなったのは聞いていた。
 が、ビルの解体は知らなかった。
 ウィキによると、現在三越伊勢丹の運営になっているが、営業赤字のため2025年2月で閉館、昨年4月より解体工事が始まったという。
 またひとつ、昭和遺産がなくなった。
 駅前を行きかう令和の若者や多国籍の外国人たちにとっては、なんの感興も湧かないだろうが・・・・。

IMG_20260506_132318~2
新宿文化センター

 1曲目から「ブラボー!」が飛んだ。
 ソルティ同様、根強い和田&年増豊島ファンがいるんだな~。
 たしかにテクニックと安定感は玄人はだしである。
 しかるに、残念ながらやっぱり面白くない。
 まだブルックナーのほうが面白いよなあ~、とブルヲタが聴いたら憤激するようなことを思う。

 2曲目エルガー『エニグマ変奏曲』によって、その思いはさらに強まった。
 エルガーの面白いこと!
 同じ一つの主題を趣向を変えて14回繰り返す、しかもそれぞれが作曲家自身の家族や友人の性格や特徴を反映させた人物描写になっている。
 遊び心あるなあ~。
 実に楽しい。
 ソルティは、ティンパニーが縦横無尽に暴れる7曲め、ゴシック建築のごとく壮麗にして堂々たる9曲目、晩秋の森の清澄さを思わすチェロの甘美なる12曲目が良かった。
 
 メインの交響曲第1番。
 やはり、「ブラボー!」が飛び交った。
 それに十分値する良い演奏だったと思う。
 だが残念ながら、やっぱり乗り切れなかった。(途中、気が遠のいた)
 和田&豊島オケにして駄目なら、救いはないかもしれない。
 というか、和田とブラームスってなんか合わないような気がする。
 和田って、見るからに遊び心満載の男だし。

 その意味で、今回はアンコール曲『威風堂々』が一番良かった。
 会場のオーラを一気に明るくし、帰途の足を軽やかにする完璧フィニッシュ。
 
 ブラームスよりブルックナー開眼のほうが早いかもな。

IMG_20260505_094635






  

● 牧歌的ミステリー 本:『死はすぐそばに』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2024年創元推理文庫
山田蘭・邦訳

IMG_20260504_155303

 ホーソーン&ホロヴィッツのH2コンビによるミステリー第5弾。
 第4弾『ナイフをひねれば』まで読んで、肝心の探偵役ホーソーンの魅力にかげりを感じ、コンビの関係性も愉快に思えなくなっていたので、第5弾に手を出すか迷った。
 が、GWに気軽に読める本格ミステリーを一冊選ぶとなれば、やっぱりホロヴィッツに手が伸びてしまう。
 読みやすさ、筋の運びの上手さ、適度の軽さとミーハー性、伏線回収の心地よさ、現代性など、コナン・ドイル、クリスティ、クイーン、ディクスン・カーなど黄金時代の作家たちを追慕する本格ミステリーファンの好みに通暁している。
 イヤミスや社会派ミステリーやサイコサスペンスのような後味の悪さを残さない、五月の風のような爽やかな娯楽性、それは“牧歌的ミステリー”と言うにふさわしい。
 期待通りの楽しい読書タイムが持てた。

 読み始めてすぐ「あれ?」と気づくが、本作はこれまでの4作と違って三人称スタイルがとられている。
 つまり、ホーソーンの傍らに控えその捜査活動を実況する“できの悪い”助手ホロヴィッツの手記、という形をとっていない。
 これは今回語られる殺人事件が、ホロヴィッツとホーソーンが出会う前にホーソーンが関わった事件、すなわち過去の物語だからである。事件はすでに終わっている。
 探偵役としてホーソーンは登場するが、助手はホロヴィッツではない別の人物である。
 助手ホロヴィッツは過去の事件についての本を書くために、ホーソーンから当時の話を聞き、資料をもらい、数年後の事件現場をひとりで取材に行く。
 前4作で見られた事件解決に至るまでのH2コンビのとげとげしいやりとりがない。
 おかげで、いささか不愉快に感じられつつあった2人の関係性にかかわる描写が減り、かつまた、ホロヴィッツ以外の助手(相棒)を相手にした時のホーソーンの態度が常よりマイルドなのを知って、ホーソーンの印象もちょっと持ち直した。
 (助手としてでなくて)創作者としてのホロヴィッツが、今回意図して三人称スタイルにしたのかどうかわからない。
 が、よいタイミングでの軌道修正と思った。

 日本の読者にとって一番の驚きは、作中で本邦のミステリー作家である島田荘司と横溝正史について言及されていることだろう。
 密室殺人に関する話題の中で、すぐれたトリックの考案者として2人の名前と代表作が上げられる。
 日本のミステリーファンにとってうれしいこと限りない。
 ひょっとしたら、これは日本語版だけのSpecialサービスであって、アメリカ版にはアメリカの推理作家とその作品が、ドイツ語版にはドイツの推理作家とその作品が、中国版には中国の・・・・が、上げられているのかもしれない。
 それに関して言えば、実は、ソルティが本作を最後まで読んで、「趣向的に一番近いなあ」と思ったのは、京極夏彦の代表的シリーズのなかの一作であった。
 ホロヴィッツがそれを読んでいるのかどうか知らないが、今からそれを読んで本作との類似に気づいたら、「ちっ、やっちまった・・・・」と舌打ちすることだろう。

leolo212-spider-web-9302026_640
Antonio LópezによるPixabayからの画像

 ソルティの悪いクセで、どうしてもミステリーを読むとアラ探しをしてしまう。
 本作の密室トリックはいまひとつの出来。
 だいたい警察(鑑識)が、真犯人が密室から抜けだすのに用いたトリック(痕跡)に気づかぬはずないと思う。
 本作の最大の欠陥は死体の処理方法だろう。
 これ以上は言えないが、あまりに杜撰すぎて、作家ホロヴィッツが真犯人に与えた性格とは合致しないこと甚だしい。

IMG_20260414_150833



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『人類学者が教える性の授業』(奥野克巳著)

2025年ハヤカワ新書

DSCN8268

 早川書房が新書参入したのを本書ではじめて知った。
 2023年6月に創刊し、すでに60冊以上出ているようだ。
 著者の奥野については、『人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレスト』(亜紀書房)でそのユニークな存在を知った。
 本書は、2019年に立教大学で開講した「セックスの人類学」の授業を基にしたもので、まえがきで次のように記している。
 
 性を人類学的に考えるとは、私たちの「当たり前」を括弧に入れ、異なる文化や他の生き物たちの行動と照らし合わせながら、人間の性を見つめ直す試みです。本書では、さまざまな生き物の行動や文化習慣を通じて、性にまつわる工夫と実践を紹介します。そこからまずは、私たちが抱えがちな性愛の問題や生きづらさをほぐし、新しい風を吹き込むことができればと思います。

 さまざまな時代、さまざまな地域の文化や風習をフィールドワークする人類学者は、当然、多様な性文化を見聞する機会が多い。
 だが、それを調査研究して発表するのは、なかなか勇気のいることだろう。
 ソルティは90年代に、性人類学者のキム・ミョンガンが『週刊ビッグコミックスピリッツ』に連載していたエッセイを面白く読んでいた。
 動物界と人間界の多様な性行動を紹介する文章は、何をもって正常と言い、何をもって異常と言うのか、ソルティの固定観念を揺さぶった。
 フェミニズムブームの影響もあってか、当時はそういった記事をよく目にしたものである。
 2000年代に入って、統一教会勢力(むろん自民党議員を尖峰とする)による“行き過ぎた”性教育バッシングが起こり、「性を自由に語ること」に対するバックラッシュが社会全般を見舞った。
 その余波はいまも続いている。
 なので、本書の登場は、どこか懐かしいような、記憶の底に埋もれた金鉱を探り当てるようなこそばゆい感じがあった。

 90年代半ば仙台にいた頃、ゲイやレズビアンの仲間と一緒に、多様な性の存在を訴える広報誌を発行したことがあって、そのときにつけた会報の名前が『ぼのぼ』であった。
 本書でも取り上げられているように、ゴリラやチンパンジーと同じ類人猿ショウジョウ科に属するボノボは、群れのコミュニケーションを円滑にするために、オス同士、メス同士でも普通にセックスする習性をもつ。

 ボノボは性に余念がなく、ありとあらゆる性交渉を行いますが、印象深いのは、2頭の若いオス同士でディープキスをすることがあります。こうした熱烈なキスが、いつの間にか、ケンカの真似事になったり、追いかけっこの遊びに変わったりするのです。ドゥ・ヴァール(ソルティ注:オランダの動物行動学者)によれば、ボノボにとって、ディープキスのようなエロティックな接触は、それ以外の行動と切れ目なくつながっています。それが、ボノボの日常なのです。
 私たち人間は日常的な行為と、性的な行為を分けています。多くの場合、セックスは非日常的な特別な行為である場合が多いでしょう。しかし、ボノボはそうではありません。彼らにとって、社会生活とセックスは、完全に結びついていると言えます。

 逆に、一頭のおとなのオスだけが群れのすべてのメスを支配し交尾する、いわばハーレム集団をつくるオナガザル科のハヌマンラングールの例がある。
 オス同士は群れのボスになる権利を巡って激しい闘争を行う。
 前のボスを倒して新たにハーレムの主となったオスは、前のボスが作った群れの中の子どもたちを次々と殺していく。
 結果的に、自らの子ども(遺伝子)だけが残る。

猿の一夫多妻

 同じ霊長類であるボノボとハヌマンラングールでもこれだけ性行動には違いがある。
 地球上で有性生殖が始まってから、つまりオスとメスという性が生まれてから、いかに多様な性行動が生まれては消えていったことか。
 人類もまた自然が生んだ生命のひとつであり、進化の法則のもとに生息しているのだから、人類の性を考えるには、まず、「生物(自然)としての性」、すなわち、「人類史を動物との連続性から見て、過去から未来へと貫く生物進化的視点」から捉えることが必要だ、と奥野は述べる。
 これが縦軸である。

 一方、横軸は「文化としての性」、すなわち、「さまざまな地域で実践される多様な性文化を比較する比較文化的視点」である。
 たとえば、高地ニューギニアのサンビア社会では、少年の通過儀礼として儀礼的同性愛が行われる。
 7~10歳前後の少年たちは、年上の若者たち(おおむね15歳以上)にフェラチオし精液を飲む。
 15歳になると、今度は精液を与える側に回る。
 精液の授受を通して、生まれたままでは不完全な男子が、生殖能力や戦闘能力を備えた一人前の男になると信じられているのである。
 男子は結婚するまでは女性と交わらない。
 近代西欧的概念で言うならば、サンビア社会の男たちは、結婚するまでは同性愛(ゲイ)、結婚すると両性愛(バイセクシュアル)、子供ができると異性愛(ヘテロセクシュアル)と、時期によってセクシュアリティを変えていく。

 あるいは、南米ベネズエラのバリ社会の例。
 バリの女性は結婚後、妊娠が発覚すると、複数の愛人と関係を持つようになるという。
 子どもが生まれると、生物学的な父親とは別に、愛人たちは「第二の父親」となり、生まれた子どもに対する食料の分配の義務を負う。共同親権みたいな感じか。
 これは、食料の調達手段が男性だけに許されているにもかかわらず、男性の人口比率が少ないため、女子供が餓死しないように生み出された生存戦略とされている。

DSCN8263

 このような文化や風習を聞くと奇っ怪に感じるかもしれない。
 が、日本人もまた、令和の感覚からすれば奇っ怪な性愛文化を有していたことは、歴史が証明している。
 平安時代の貴族の男たちは、女の顔も姿も声も知らずに恋文を送り、結婚した。その結婚も、女のもとに三夜通い続けなければ成立しなかった。
 だから女たちは、男の誠意や人柄を確かめるべく、つれない返事を歌で送って男をじらし、男を燃え立たせたのである。 

 あるいは、布教のため来日した伴天連たちを仰天させた日本古来の男色文化
 僧院で、戦場で、お茶屋で、男たちは愛を語り肛門性交し、稚児や念弟をめぐって喧嘩し、あるいは死によって結ばれることを願って心中さえした。
 ジャニーズ騒動以降、未成年を対象とする同性愛は(異性愛も)許されないものとなったが、ちょっと前までは『少年愛の美学』なる本がふつうに書店で並んでいたのである。

 セックスの人類学を考える上では、縦軸としての生物進化的視点(生物としての性)と、横軸としての比較文化的視点(文化としての性)、両方のアプローチで捉えることが大切、と奥野は力説する。
 それぞれのアプローチにおいて奥野が紹介する興味深い事例に驚いたり感心したり、飲み会で披露する恰好のネタを仕入れるようなつもりで楽しく読み進めていった最後の最後に、その深い意図に気づかされる。
 取り上げられるのは、いまもアフリカ大陸各地で見られる女子割礼/女性器切除(FGM)である。

 女性や女児の健康被害や命の危機という視点から、そして男性による女性の「性の支配」というフェミニズム的視点から、年端の行かない少女が自己決定しないままに強制的に行われる女子割礼/女性器切除は重大な人権問題とされ、西洋社会から強い非難を浴びてきた。
 しかし、当の風習をもつアフリカなどいわゆる発展途上国、第三世界の女性たちから、「あなたたちに私たちの文化を批判されたくない」と反発された。
 西洋的価値観の押付けとみなされたのだ。 

 ここで問われるのは、「健康」「安全」「人権」を至上とする近代西洋社会の価値体系によって、それとは別の伝統的価値体系によって生き残ってきた社会を、一方的に批判・審判・裁断することの正当性である。
 そしてそれは、19世紀の人類学の学問的態度、すなわち、「西洋こそが最も進んだ社会であり、未開と呼ばれる社会もいずれ西洋社会に近づいていく」という自文化中心主義的発想と、その傲慢を反省したところから生まれた20世紀以降の人類学、すなわち、「未開と呼ばれた文化・社会にも固有の体系的・理性的かつ深遠な思考があり、それぞれ固有の価値を有する」という文化相対主義との対立である。

MVIMG_20260414_152015~2

 日本は明治維新このかた、とくにアジア・太平洋戦争で敗北を喫して以降、アメリカをはじめとする近代西洋社会の価値体系を受け入れて、まがりなりにも先進国の末席に連なってきた。
 一夫多妾の招婿婚も、男色文化も、昔話の語り草となった。
 だから、多くの日本人は、女子割礼/女性器切除に対しても西洋的価値観に則って、これを「人権侵害」「性暴力」と判断する傾向にある。
 もちろん、ソルティもそのひとりである。
 でもその日本人だって、一夫多妾や男色文化に対する西洋諸国からの批判に対しては、「お恥ずかしい」「廃止します」と素直に受け入れられても、「天皇制は人権侵害だから即刻廃止すべき」という批難に対しては、冷静には耳を貸さないだろう。
 内政干渉と大いに反発するであろう。
 どこの国だって、どこの民族だって、自らが祖先から受け継いで大切に守ってきた伝統文化について、よその国からとやかく言われたくないのである。
 いくら普遍的・人道的な理由が持ち出されようとも、介入された側からすれば、それは理不尽な暴力ととらえられかねないのである。

 では、どうしたらいいのか?
 女子割礼/女性器切除の問題は、よその国の固有の文化・風習だからほうっておくべきなのか?

 あらゆる文化の優劣をつけずに、相手の文化の価値観を尊重するという考えが、文化相対主義の理念です。それは時に相手の価値を尊重するあまり、「私は私」」「あなたはあなた」という過度の相対主義に陥ってしまい、相手の文化やその価値を手付かずの状態で突き放してしまうことで、無理解なままに放置してしまうことになるのです。しばしばこれを「文化的アパルトヘイト」とも呼びます。人類学者・浜本満の整理によれば、本来、文化相対主義は人類学における他者=異文化理解のための「理解と対話の出発点」として試みられたにもかかわらず、逆に「理解の停止と対話の断念」を正当化するレトリックとしても使われてきたのです。
 また、・・・(略)・・・他者の文化や社会を昔から今、未来に至るまで固定的で変わらないものと見なしてしまう可能性もまた、文化相対主義的思考の落とし穴として指摘できます。文化・社会を固定的なものと見なし、人間の行為の意味を当該地域の文化によってあらかじめ決めつけて語る文化決定論に陥ってしまう危険性もありうるのです。

 横軸の比較文化的な視点では、それぞれの固有文化のセックスのあり方がただ示されるだけで、私たちはそれを自分たちとは異なる文化として突き放して理解することに終始してしまう恐れがあります。結局、どんなにめずらしいセックスの習慣を見聞きしたとしても、私たちのセックスに対する価値基準はそのままで、単に保存されてしまうだけなのです。
 しかし、ここに縦軸としての生物進化的視点と合わせて考察をしていくならば、人間自体を問うことになります。人間のことを考えるためには、人間を超えたレベルで比較し分析する必要があるのです。だからこそ、本書では15億年前を出発点とし、生物進化という悠久の時のなかで、セックスがどのように今日の人類に見られるようなかたちに生成変化してきたのかを見てきました。そのとき、生物としての人間にとって、何が自然で何が不自然なのかが改めて問われることになります。・・・・(略)・・・・多文化でなく、多自然的な視点に立つことで、文化相対主義が取りこぼしてしまった問題を問うことができるのです。(ゴチックはソルティ付す)

 90年代にソルティが読んだ性人類学の記事では、ここまでの深掘りはなかった。
 人類学も進化しているんだなあ。
 
ぼのぼ
ボノボ





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 


● CUTEな偉人 講演会:『9条という希望~中村哲のしごと』

日比谷図書文書館
日比谷図書文書館

日時 2026年4月29日(水、祝)14:30~
会場 日比谷図書文書館・地下ホール
演者 西谷文和(ジャーナリスト)、山岡淳一郎(ノンフィクション作家)
主催 デモクラシータイムズ

 日比谷図書館に本を返しに行った時、館内の掲示で数時間後にこの講演会あるを知った。
 当日申込み可だったので、奈良大学通信教育の勉強を途中で切り上げて参加した。
 約200名収容のホールは8割以上埋まっていた。

 ペシャワール会の医師でパキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事した中村哲は、2019年12月4日に亡くなった。73歳だった。
 今回の講演は、西谷がアフガニスタンで取材撮影した中村の活動風景をスクリーンに映しながら、西谷と山岡が補足説明し、中村哲の残した足跡を追い、その人物像に迫るものであった。
 ソルティは、『アフガニスタンの診療所から』(筑摩書房)という中村の書いた本を以前読んだことがあり、銃弾に倒れたあとに制作されたドキュメンタリーも観ている。
 アフガニスタンの砂漠に用水路をつくり、不毛の大地を畑や森に変え、移住してきたムスリムたちのためにモスクや学校を建て、何十万人もの生計の資をつくり命を救った中村の偉大な仕事は知っていた。
 だが、こうやって改めて、アフガンの荒れた大地で蝶のように軽やかに現地人の間を動き回る小柄な中村の姿を目にし、褐色の土地が緑の森に変わっていくさまを見ると、底知れない凄さに圧倒される。
 本人自身はまったく、「俺は偉大な仕事をやり遂げた」みたいな自負や得意気や慢心がなく、ゲーセンのUFOキャッチャーでもするかのように楽し気に自ら重機を操って地面を掘削し、趣味の日曜大工の延長気分で建物を設計し、飄々としている。
 そこに偉人という言葉は似つかわしくない。

 中村は、15歳の時に自ら望んでキリスト者になったという。
 根っからの信仰の人であるがゆえの博愛精神であり、意志の強さであり、エゴの薄さであり、裏表のない明朗さなのだと思う。
 パコルと呼ばれるアフガン帽をかぶったチョビ髭の中村の笑顔は、なんだかロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』に出てくる野辺を無邪気に走り回るブラザーたちを髣髴とさせる。
 そう、「偉人」という言葉が似つかわしくないのはCUTEだからだ。

アフガンの中村哲
『アフガニスタンの診療所から』より

 ソルティはまた、奈良時代の僧侶である行基を連想した。
 仏教が鎮護国家のためにあり、国家が僧侶を認定し管理し、経典や仏像を作成し、布教を独占するのがきまりだった当時、行基は禁を破って野に出て、民衆たちに仏の教えを説いた。
 同時に、貧しい人を助けるために布施屋と呼ばれる無料の宿泊所を作り、治水工事や架橋工事などの社会事業を行った。
 朝廷からのたびたびの弾圧にもめげることなかった。
 大乗仏教の教えに則って広く民衆を助ける、いわゆる菩薩行に専心した僧侶として、ほかに空海、空也、親鸞、一遍、良寛、それにその名をほとんど知られていない叡尊と忍性などがいるけれど、先鞭をつけて、のちの遁世僧たちのモデルになったのは行基である。
 こうした利他の精神を極める人は、イスラム教だろうがキリスト教だろうが仏教だろうが関係なく、宗派や教義を超越した境地に達するのだろう。
 ムスリムに愛されたクリスチャンの日本人、という中村のユニークさの秘密はそこにあると思う。 

行基像
行基菩薩像@高尾山

 中村が15歳でクリスチャンになったきっかけの一つとして、講師の山岡は、その前年(1960年)に起きた伯父・火野葦平の自死を挙げていた。
 可愛がってくれた伯父の死――敗戦を境に、“兵隊作家”の栄誉から“戦犯作家”の汚名に突き落とされたすえの死の選択――は、思春期の中村に少なからぬ衝撃を及ぼしたであろうことは想像に難くない。
 ひょっとしたら、中村の活動の底のほうに、愛する伯父の無念を晴らしたいといった思いもあったのかもしれない。

 「どうして、中村に生前、国民栄誉賞やノーベル平和賞をあげなかったんだ!」と、ソルティは不平の一つでも言いたくなるが、当の本人はおそらく、「そんなもの、どうだっていい」と思っていたことだろう。
 とくに、憲法9条を改悪せんとする国家がくれる栄誉賞なんて、中村にとって、アフガンの牛の糞ほどの価値もなかったろう。
 9条堅持を訴え続けた中村は、“お花畑”の住人ではなかった。
 無からお花畑を作った人なのだ。
 
neovidio-field-5924218_640
Ovidiu NegreaによるPixabayからの画像








 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文