ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 山道を歩きながら考えた:高尾山(599m)・城山(670m)

111130_1021~01●11月30日(水)晴れ、風なし、小春日和

●ルートとタイムスケジュール
10:10 京王線・高尾山口駅着
      歩行開始
11:45 高尾山頂上着
12:30 城山山頂上着
13:30 下山開始
14:30 小仏バス停着
      歩行終了
14:40 京王バス乗車
15:00 JR高尾駅着

●所要時間 4時間20分(=歩行3時間+休憩80分)


 小春日和、紅葉シーズン。そして、高尾山はミシュラン三つ星の名山。都心からのアクセスも良く、山頂近くまでケーブルカーやリフトで気軽に上れる。登山道も歩きやすく整備されている。薬王院をいただく信仰の山としても名高い。人気があって当然の山ではある。
 しかし、平日にも関わらず、なんと人の多いことか。
 京王線の高尾山口から登山口となるケーブルカー清滝駅までの小道は、まるで日曜日の竹下通り、もとい巣鴨地蔵通りであった。
 そう、万全の登山スタイルに身を包んだ「毎日が日曜日」な高齢者グループに、山道はすっかり占拠されたのである。
 
 これが高齢社会か・・・。

 山登りできる体力と元気と仲間がいることは素晴らしいことである。
 総じて彼らはお金がある。靴もヤッケもスティックもザックも、アウトドアショップで売っている本格的なものばかりだ。1000円のジョギングシューズ、1500円のデイバッグ、ユニクロのコットンパンツで、どんな山でも登ってしまう自分とは大違いである。プロ仕様としか思えないゴージャスなカメラを抱えて動き回っているおじいさんもよく見かける。(この記事の写真はすべてau携帯で撮影)
 まあ、パンプスにタイツ姿の若い女性、ベビーカーを押しながら山道を登ろうとするヤンママ集団・・・。あきれるほど山をなめている若者たちに比べれば、彼らの山に対する態度は立派である。

 高尾山の登山路では琵琶滝の脇を通って渓谷を遡る6号路がもっとも人気が高い。森と水を十二分に楽しめる気持ちのいいコースである。自分も大抵このルートをとる。
 しかし、今日は数珠つなぎのように前にも後ろにも人が続く。なんと11月いっぱいは混乱を避けるため、登り専用になっていた。こんなことは他に富士山くらいしか考えられまい。
 予定を変えて、琵琶滝の横の階段を上って、森を横断し、3号路に変更することにする。いきなり登りが続くが、案の定、人は少なくなった。ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら、高度を上げていく。
 ところが、3号路は崖崩れのため通行禁止。いったん表参道(1号路)に出て、浄心門(写真)のところで、4号路に入る。
 いろいろなルートがあって、植生や景色の違いを楽しめるところが高尾山のもう一つの魅力である。 

 山頂近くのトイレは改修工事をしていた。ミシュランに載ってから、山のあちらこちらで整備が進んでいる。新しい展望台や階段ができ、東屋ができ、ところどころ道が広くきれいになった。
 それはいいことなのだが、木々の間から見える建設中の圏央道のグロテスクさは、どんなに山自体をきれいにしたところでどうなるものではない。環境や生態系の破壊も気になる。

111130_1116~01 111130_1147~01 

 
 高尾山頂はまるで花見会場のような賑やかさであった。腰を下ろす場所を見つけるのも一苦労。
 紅葉を天井に一息ついていると、隣りで昼食を取っている高齢者グループの会話が耳に入ってきた。

 「Aさん、三日前に亡くなったんだってさ」
 「へえ、いくつだったっけ?」
 「75歳」
 「え~、まだ若いのにねえ。なんで死んだの?」
 「肺ガンだって」
 「ああ、ずいぶんと煙草吸ってたもんね。Bさんと同じだ。」
 「違うよ。Bさんは脳梗塞だよ」
 
 これが高齢社会か・・・・。

 天気は西から下り坂。富士山は見えなかった。

111130_1235~01 高尾山から城山への道は、尾根とは言え、上り下りが続き、短い距離のわりには疲労する。
 しかし、山頂は高尾より断然城山がいい。
 広々として、眺めも東西に開けている。
 都心側の崖の突端に、新しく木彫りの天狗の像が立っていた。
 微妙・・・。

 昼食にする。
 ここで最大のお楽しみは、城山茶屋のなめこ汁(250円)。
 なめこと豆腐のたっぷり入った醤油仕立てのあつあつの汁をいただくと、実に幸福な気分になる。
 こんなにおにぎりと合うものが他にあるだろうか。
 おそらく、下界で同じものをいただいても同じ感動はないだろう。
 はるばる時間と体力かけて登ってきて、心晴れる眺めを見下ろしながらこその美味である。
 
 ああ~、登ってきて良かったあ~。

 下山はあっという間。
 高尾駅から送迎バスに乗って「ふろっぴい」で温泉に浸かる。
 湯上がりに生ビールをぐいっと飲み干して、無事山登りが終了。

 それにしても・・・。
 数年後には団塊の世代が定年を迎える。
 彼らもまたどっと山に繰り出すことだろう。
 アクセスの良い人気のある山はどこも渋滞になるかもしれない。
 静かな山歩きを楽しみたい自分のような人間にとっては災難である。

111130_1350~01 これもそれも高齢社会ゆえ、仕方あるまい。

  

 
 

 



  

● 日本映画最良の布陣 映画:『破戒』(市川昆監督)

 1962年、大映制作。

 キャスト・スタッフの顔ぶれがすごい。
 主演の市川雷蔵は、生真面目な暗い眼差しが被差別部落出身の負い目を持つ瀬川丑松に過不足なくはまっている。正義感あふれる友人の土屋銀之助役に若き長門裕之。なるほどサザンの桑田そっくりだ。解放運動家・猪子蓮太郎役に三國連太郎。白黒の画面に映える洋風な凛々しい風貌が印象的。後年、三國は自らの出自(養父が非人であった)をカミングアウトしたが、抑制されたうちにも思いの籠もった品格ある演技である。中村鴈治郎、岸田今日子、杉村春子、『砂の器』ではハンセン病患者を名演した加藤嘉、落ちぶれた士族になりきった船越英二、この映画が女優デビューとなった初々しい藤村志保(原作者の島崎「藤村」+役名「志保」が芸名の由来だそうだ)。錚々たる役者たちの素晴らしい演技合戦が堪能できる。
 脚本(和田夏十)も素晴らしい。音楽はやはり『砂の器』の芥川也寸志。
 そして、そして、なんと言ってもこの映画を傑作に仕立て上げた最大の立役者は、撮影
の宮川一夫である。

 市川昆の映画というより、宮川一夫の映画と言ってもいいんじゃないかと思うほど、カメラが圧倒的に素晴らしい。この撮影手腕を見るだけでも、この映画は観る価値がある。
 下手に映像が良すぎると物語や演技を食ってしまい、全体としてバランスを欠いた残念なものになってしまうケースがおいおいにしてある。が、この作品の場合、もともとのストーリが強烈である上に、役者達の演技も素晴らしいので、見事に映像と物語が釣り合っている。丑松が生徒たちに自らの出自を告白するシーンなど、白黒のくっきり際立つ教室空間で丑松の背後に見える窓の格子が、まるで十字架のようにせりあがって見え、象徴的表現の深みにまで達しているかのようだ。
 市川昆監督が狙った以上のものを、宮川カメラマンが到達して表現してしまったのではないかという気さえする。


 「丑松思想」の悪名高き原作の結末を、いったいどう処理するのだろうと懸念していたら、やはり大きく変えていた。
 原作では、丑松は自分の教え子の前で出自を隠していたことを土下座し、アメリカに発つ。いわば日本から避げるのである。悪いことをしたわけでもないのに習俗ゆえに厳しい差別を受けてきた人間が、なぜ謝らなければならないのか。なぜ逃げなくてはならないのか。藤村の書いた結末は、当時としては現実的なものだったのかもしれないが、当事者にとってみれば希望の持てるものではない。

 時代は変わった。生徒の前で土下座するシーンこそ残されているが、友人である土屋が自らの偏見を反省し丑松への変わらぬ友情を表明するシーン、東京へ去っていく丑松を生徒たちが変わらぬ敬慕の眼差しで見送るシーン、丑松が猪子蓮太郎の遺志を継ぎ部落開放運動に飛び込む決心をするシーンなど、新たに作られた場面は感動的であると同時に、希望を感じさせる。

 差別する人々、無理解な人々がいかに沢山いようとも、理解し励まし一緒に声を上げてくれる一握りの仲間がいれば、人はどん底からでも這い上がり、前に向かって歩くことができる。
 そのメッセージが心を打つ。 
 



評価: A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 今、もっとも日本人にすすめたい  映画:『みえない雲』(グレゴール・シュニッツラー監督)

 2006年。ドイツ映画。

 原題はDIE WOLKE(雲)。
 原発事故で発生した放射能を含んだ雲のことである。

 西ドイツのある町で原子力発電所の放射能漏れ事故が起こり、周辺に住む人々に避難警報が発令される。
 物語前半は、高校生のハンナと弟のウリーが放射能から逃れようと、家を捨て町を脱出するまでの姿をパニック映画のスタイルで描く。後半は、事態がひとまず落ち着いたものの、病院に収容されたハンナや友人や恋人が次々と発病し、死の恐怖と闘っていくなかでの人間ドラマを描く。

 事故直後は、見えない放射能よりも、見えるパニックのほうが実際には恐ろしい。ウリーは、放射能ではなくて、パニックの中で猛スピードで逃げる自動車に轢かれて死んでしまう。結果論ではあるが、逃げずに家の中に籠もっていたほうが安全だったのだ。
 一方、放射能の恐怖は、直接の被爆でなければ、あとからじわじわとやってくる。髪の毛が抜け、皮膚に腫瘍があらわれ、体は痩せ細り、周囲の人々から恐れられ・・・。ハンナと恋人のエルマは、再会の喜びもつかの間、二人とも発病する。
 時を分けて襲ってくる二段重ねの恐怖の実態がよく描けている。

 主人公ハンナを演じたパウラ・カレンベルクは、チェルノブイリ原発事故のときに胎児であった。外見こそ健常であるが、心臓に穴が開いており、片方の肺がないとのこと。

 いま日本人がもっとも観ておきたい映画である。
 まだ遅くはない。



評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 死をどうデザインするか 映画:『ぼくを葬る』(フランソワ・オゾン監督)

 2005年フランス映画。

 恋も仕事も順風満帆の31歳にして、余命3ヶ月のがん告知。
 そのとき、人はどういう状態に陥り、どういうふうにして自らの死と向き合っていくのか。

 誰に事実を告げるか。
 残された日々をどう過ごすか。
 何を捨てて何を残すか。
 どこでどのように死ぬか。
 自分の気持ちをどうやって整理するか。

 ゲイの写真家であるロマンの選択は、世間一般の選択とはかなり異なる。
 彼は、家族にも恋人にも友人にも伝えない。恋人には別れを告げる。喧嘩していた姉と和解する。たまたま知り合った不妊症のカップルと3Pをして精子を提供し、生まれてくる子供に財産のすべてを遺贈する。
 そして、海水浴客で賑わう夏の砂浜で、ひとり海を眺めながら死んでいく。
 もはや思い残すこともなく、自らの死を超然と受け入れながら。

 百人いれば百通りの死のデザインがあるだろう。
 どれが正しくてどれが間違っているということではない。
 どれが幸せでどれが不幸なのかも傍からはわからない。
 あるALS(筋萎縮性側索硬化症)の男性が、自分をそのような体に生んだ両親を呪いながら、自分の苦しむさまを両親に見せつけながら亡くなっていったという話を聞いたことがある。それは本人にとっても、両親にとっても、周りで看取る者にとっても、悲惨なやりきれない死の選択である。
 だが、それを非難する資格も権利も第三者にはあるまい。

 できれば、最終的には自らの生を肯定できないまでも受け入れて(諦めて)、その終焉を納得し、安らかな気持ちで息を引き取っていきたいものである。
 そのためには、ロマンがやったような自らの死のデザインが重要なのであるが、その前提として絶対に欠かせないものがある。
 己れの怒りや悲しみや絶望や混乱などの感情を吐き出せて、受けとめてもらえる誰かの胸である。

 ある人の場合、それは神なのかもしれない。仏なのかもしれない。両親や恋人や友人やカウンセラーなのかもしれない。あるいは、同じ病気で同じ運命を背負った仲間なのかもしれない。
 ロマンの場合、それは郊外の森の中に独り住む祖母ラウラ(ジャンヌ・モロー)であった。ラウラにすべてを打ち明け、ロマンははじめて泣くことができたのである。
 ジャンヌ・モローは、出番は少ないがとても重要なこの役を彼女自身の持つ存在感だけで演じきっている。演技とは思われないほどの深さとあたたかさは、その顔に刻まれた皺と同様、彼女の波乱に富んだ人生経験、俳優経験を通して自然と涵養されたものであろう。ラウラが寿命としての死を日々見つめながら孤独に毅然と暮らしていることも、ロマンが心を開く相手として選ぶ理由になっているのだろう。
 老人力とは本来このようなものなのかもしれない。

 人の死のデザインをとやかく言うのは無粋なのであるが・・・。

 ロマンが神にたよらなかった点はよく理解できる。
 キリスト教が同性愛を否定する以上、ゲイとしての自分を肯定して社会生活を営んできたロマンが、その死に際して教会や神父や聖書や十字架の支えを必要としなかったのは当然といえば当然である。
 一方、カップルの子作りに協力することで、自らの遺伝子、血統、子孫、子供を残して安堵するというところが、いきなり「種の保存」欲求にでも目覚めたみたいで釈然としない。
 もちろん、ゲイ(♂)が父親になっていけないわけではない。現に結婚して父親になっているゲイなど掃いて捨てるほどいるだろう。女性の腹を借りて血のつながりのある子供を持つゲイカップルだっている。ゲイであることと、父親であることは、必ずしも背反しない。
 しかるに、ロマンの場合、それまで子供にほとんど関心がなかったにも関わらず、死に臨んで急にそういう欲望に目覚め、自分の子供を残すことによって安心を得て自らの死を受け入れる、いわゆる「命のバトン」みたいな常套的展開になってしまうのが、なんだか残念な気はする。ゲイアイデンティティに対する裏切りのような感じ・・・?

 とはいえ。
 実際に死を前にしたときに、自らの築いてきたアイデンティティなんか簡単に崩壊するかもしれない。
 自分がどうなるかわかったものじゃない。

 ある意味では、若くして自分の死をデザインできる機会を得るということは幸せなのではないだろうか。
 通常そういう機会は、老年になってから訪れるものであるが、そのときには老齢ゆえにさまざまな選択肢が失われていることが多いからだ。子供を作るなど、まさにその一つである。デザインしようにも設計できる幅がもうせばまっている。和解したかった相手も、もうとうの昔にあの世に逝っているかもしれない。

 自分の死をどうデザインするか。
 それは結局、「自分の残された生をどうデザインするか」と同義である。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 本:『小さな「悟り」を積み重ねる』(アルボムッレ・スマナサーラ著、集英社新書)

001 よく本を出す人である。

 前に書いたものの改定新版を別にしても、毎月数冊ずつ新著が出ているのではないだろうか? 日々の講話がそのまま本になるからであろう。
 在日30年、日本語の能力も驚くべきものだ。
 母国語とは異なる国に行って、仏教という壮大にして深遠な思想をその国の言葉で大衆に伝えるという、想像するだに難儀な仕事をやって、今のところ成功をおさめているのであるから、フランシスコ・ザビエルや欧米に禅を広めた鈴木大拙に比肩できるような天才と言ってよいのだろう。
 その場合、日本がもともと大乗仏教の国であったということは伝道に際してプラスにも働いただろうが、テーラワーダ(原始仏教)と大乗仏教の齟齬ゆえに逆風もすさまじかった(すさまじい)だろう。日本の伝統仏教を信奉する者にしてみれば、「お前たちの仏教は偽物だ。仏の教えではない」と批判されているようなものだからである。
  
 とはいうものの。
 キリスト教の国、とりわけアメリカやラテン国家でテーラワーダを伝道することに比べれば、まだ日本はやりやすいと思う。それらの国では、国民の有する価値観や人生観が、東アジアの伝統的なそれとは違いすぎるからだ。

 テーラワーダ、というよりブッダの教えは、近代西欧文明の志向するものとはほとんど真逆に位置する。それは、近代西欧文明の出発点が、ルネサンスの人間中心主義やデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にある以上、どうしてもそうならざるをえない。
 なぜなら、ブッダの教えは生命中心主義であり(最終的には生命からの脱却を目指しているが)、自我の否定にあるからだ。

 現代日本に生活する我々の価値観や人生観は、すっかり近代西欧文明に洗脳されている。その中には「平等」や「人権」のように大切な概念もある。が、一方、個人個人の欲望の追求と実現こそが幸福であるとする考え方が、終わりのない戦争と貧富の拡大と環境悪化と人権侵害と深い孤独を生んでいるのも事実である。

 この本で語られる言葉が、我々が通常正しいと思っている概念をすべてひっくり返していくように見えるのは、スマナサーラ長老が稀代の天邪鬼のように思われるのは、戦後日本人がいかにアメリカナイズされてしまったかの証左なのである。
 たとえば、こんなふうだ。

 
・ 人が考えるのはバカだからである。
・ 運命という考え方は間違っている。
・ 人生は尊いものではない。
・ あきらめる力が幸福をもたらす。
・ 自分探しは最後に自分を見失う。
・ 生きることに本来自由はない。
・ ポジティブすぎると人は成長しない。
・ 人間は本来自立できない生き物である。
・ 豊かすぎると人は奴隷の生き方を強いられる。
・ 愛はほんとうは悪いものである。
・ 「何もしない」という刺激こそ求めよ。
・ 過去の経験と記憶は思っているほど役に立たない。
・ 矛盾を当たり前として生きる。

 
 かくのごとし。

 心に留めるべきは、近代西欧文明によって洗脳され条件付けられた「自分」に気づいて、そのプログラムを解除し、新たに仏教というプログラムをダウンロードせよ、と言っているのではないところだ。

 プログラムをダウンロードすべき「自分」などそもそも存在しない、と言うのである。



 

● ガラスの十代 映画:『明日、君がいない』(ムラーリ・K・タルリ監督)

 2006年オーストラリア映画。

 原題の『2:37』は、一人の高校生が校内のトイレで手首を切って自殺した時刻。
 その日の朝から午後2時37分に向かって、学校を舞台に起こる6人の悩める高校生たちのドラマをドキュメンタリータッチで描いていく。
 はたして、その中でいったい誰が命を絶ったのか? その原因は何か?
 「犯人は誰か?」ではなく「死ぬのは誰か?」が最後までわからないミステリー風の構成が観る者の興味を引き付ける。

 撮影当時19歳だったムラーリ監督の実体験がベースになっている。友人の自殺に触発されて、あるいは、そのショックから監督自身がどうにかサバイブするために撮られたものである。
 そのせいか、等身大の生々しい十代の姿が同じ目線で描かれていて、今を生きている高校生たちの心の叫びがびんびん伝わってくる。
 もっとも、どの時代どの国においても、十代を生きることのタイヘンさは変わらなかろう。家族との軋轢、周囲との摩擦、ピアプレッシャー、自己と社会との矛盾、傷つきやすさ、自惚れ、他者からの承認を得るための涙ぐましい闘い。
 大人たちが羨む若さや美しさが、当人にとっては何の救いにもならないという皮肉。
 いや、そのぎりぎりまで張りつめた心の危うさこそが、破滅すれすれの美しさを生んでいるのか。

 「自分はなんとか十代を無事過ごして良かった~」と思わざるを得ない。


 6人の悩みは非常に今日的である。
 ゲイとしての悩み、それを隠すことの苦しみ、身体上のコンプレックス、いじめ、親の期待の重圧、親に愛されないことの孤独、近親姦、妊娠、恋の悩み・・・。
 それぞれが、自ら抱える苦しみを周囲に悟られないように芝居をし続ける。弱みを見せることは「負け」であり、世間から馬鹿にされることであるという競争社会の原理が、学校社会をも家庭をも支配してしまっているのである。
 ありのままの自分でいられる場所がどこにもない。
 この日、6人の苦しみはまさに臨界点を超えようとしていた。


 大方のミステリーの定石どおり、命を絶ったのは、もっとも意外な人物であった。
 その者(Xとする)の背景や内面は、ほかの高校生たちのようには明らかにされない。なぜ自殺したのかがよくわからない。単純にミステリーとしてみた場合、アンフェアであろう。十分な材料を提供されないことには、我々には推理のしようもないのだから。
 しかし、人間ドラマとしては、Xの死はかえって痛烈に観る者の心に響いてくる。
 もっとも自殺しそうにない人物、もっとも心の優しい人物がXだったからだ。


 登場するそれぞれが、それぞれの悩み苦しみにとらわれて、自分のことで精一杯で、とても周りにいる他者の様子や心の中まで想像する余裕がない。
 それは逆に、自分で造った苦しみという殻(シェルター)の中で守られているということでもある。真の意味での他者との関わりを遮断している時には、孤独からの解放はないけれど、一方で自分が決定的に傷つくこともないからである。そのことは、ゲイであることを隠してサラとつきあっているスポーツマンのルークと、ルークの何たるかを知らずに恋に恋しているだけのサラ、互いを利用している二人の関係のうちに象徴的に示されている。
 そんな登場人物たちの中でXだけが、他者を思いやることができ、優しい言葉をかけることができる。他者の苦しみに関心をもつことができる。
 そのXが自殺してしまうという結末は、なんともやりきれない。まるで、優しいことが罪であるかのようだ。


 本当に優しい人間は、自らに降りかかってくる不当さを、一方的に他人や家族や学校や社会のせいにして自らを正当化することができない。すべての苦しみの原因を己の存在に集約させる道の先には、自己破壊しか残らないだろう。さもなくば、自らを一番の悪人とした親鸞聖人のように、何らかの宗教的意味づけを見出すか。
 そこに、ムラーリ監督がXの死に託したもう一つの意味を見ることができよう。

 Xの自殺というショッキングな事件によって、他の若者たちの耐え難い日常がひととき非日常化する。その中で感情的カタルシスを伴いながら、それぞれの苦しみが一時的に棚上げされ相対化され客観視されることで、癒しにつながったり、状況を異なった見方で見るきっかけを生むであろうことを、観る者は予期する。Xの死によって、他の者たちの苦しみの一部も一緒に死んだのであり、他の者たちが今回ばかりは「死」から免れ、大いなる慰藉にあずかったことを、我々は感得する。
 その意味で、Xの死は「自己犠牲」とか「贖罪」という言葉にふさわしいように思われるのである。
 その死に際して、アンドリュー・ロイド・ウェバーの『ピエ・イエズ』がBGMに使われているところにも、ムラーリ監督のそのような意図をうかがうことができよう。


 自らの「問題」が完全に解決することなど有り得ない。(解脱しない限りは)
 だから、それぞれが自らの問題だけにかまけていると、この世でもっとも深い傷を負っている者、最も助けを必要としている者を救える人間が誰もいなくなる。Xのように最も傷つきやすい、やさしい魂の持ち主は、心のセキュリティーネットの網をすり抜けて、命を絶ってしまう。

 現実には、人も社会もXの死の意味に思いを馳せることなどなく、日常は押し寄せて、人々はまたすさまじい競争社会の渦に飲み込まれていく。Xもまた「負け組」の一人に数えられていくのであろう。
IMG_0277[1] これは決して十代だけの話ではない。
 大人となった我々は、面の皮が厚くなって、こうしている今も、どこかで誰かがこの社会の苦しみを一身に引き受け、我々の犯した罪を贖ってくれているということに鈍感になってしまったのだ。



評価:
 A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● コミック:『SWAN(スワン)』(有吉京子作)

swan 1976年~1981年まで週刊マーガレットに連載された大人気漫画。バレーを描いた少女漫画として、山岸涼子の『アラベスク』と双璧である。
 今も続編を連載中らしいが、第2部21巻までを3夜に分けて読了した。
 読み手をぐいぐい引っ張る力は驚異的。

 有吉は1950年(昭和25年)生まれということだから、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子ら、いわゆる「24年組」と同世代である。
 これら団塊の世代の女たちが自己表現の手段として選び、幅広い世代の同性の共感を呼び作家としての成功を収めたのが、少女漫画であったという事実は意味深である。
 おそらく、文学、映画、音楽など、他の伝統的な表現領域が男中心主義に毒されていたことと無縁ではないだろう。いくら才能や伝えたい思いがあっても、そこには女性たちが入り込む余地はまだまだなかったであろうから。
 読者が女性に限定され、世の男たちが馬鹿にしてほっといてくれたおかげで、自由なまったく新しい(衝撃的な)テーマや表現スタイルへの模索や挑戦が許された少女漫画という実験場で、水を得た魚のように、彼女たちはおのれの魂の叫びをGペンの先からほとばしらせたのである。
 その輝きは、仮名文字を手に入れた王朝時代の女流作家たち(紫式部や清少納言)に比肩されよう。

 SWANは、途中までは山本鈴美香の『エースをねらえ』のバレリーナ版の域を出ていない。事実、人物設定やネームなどに、『エース』の強い影響を見ることができる。
 そのままでは、二番煎じでしかなかったろう。

 有吉の真価が発揮されるのは、主人公の聖真澄(名前が良くないなあ)がモダンバレーを習いにニューヨークに飛んでからである。
 そこで、真澄は一人の男を愛し、同棲し、バレーより恋を選び、いったんバレーを離れてしまう。岡ひろみが藤堂との恋の成就よりもテニスを選び、物語の最後まで処女のままでいたのと対照的である。
 このニューヨークエピソードにおいて、SWANは完全にその生みの親である『エース』から離脱し、まごうかたない有吉の作品となった。(おそらく、有吉の実生活・実体験が反映されているのだろう。)
 スポーツである(でしかない)テニスに比べ、バレーはスポーツであると同時に芸術である。バレーで一流になるとは、技術を完璧にマスターした上に、オリジナルな表現を深めてゆくことである。そのためには、真澄は恋を知り、性愛を知り、別れを知る必要があった。(性愛に関しては当然「少女漫画コード」ゆえに描写されていないが。)

 物語前半の真澄のバレーの才能の描写が、コンクールの最終審査に残ったとか、その道の目利きによる引き抜きとか、いささか説明的で無理を感じるのにくらべ、ニューヨーク後の才能の描写は絵そのものによって説得力がある。有吉自身の内的成長が作画力向上に結びついているのだろう。

 『エース』が最終的には、岡ひろみのスポ根テニス漫画を離れて、竜崎麗香(お蝶夫人)という女性の成長物語になったように、SWANも聖真澄という女性の成長物語になったのである。



  
 
 

● 映画:『スターゲイト』(ローランド・エメリッヒ監督)

 1994年アメリカ、フランス制作。

 古代エジプトと未来。砂漠と宇宙。
 相反する二つのものを結びつける輪っか(スターゲイト)というアイデアが秀逸。
 
 スター級の花のある役者が出ていないところもストーリーや演出や映像自体がじっくり楽しめてかえって新鮮。
 主役のジェームズ・スペイダーと恋人役のミリ・アヴィダルのヘテロカップルよりも、脇役のカート・ラッセルとアレクシス・クルスの男男カップルのほうが最後には目立って、深い印象を残すところも面白い。宇宙人=ラーを演じたジェイ・デビッドソンの美青年ぶりといい、総じて女っ気のない映画である。

 と思ったら、ウィキペデアによるとエメリッヒ監督はゲイだという。

 やっぱり・・・。


    
評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 

● 「このあたり、ボケさん多し」 11/13介護のコト体験フェア(有楽町・東京国際フォーラム)

介護フォーラム1 なぜかは知らねど、11/11は「介護の日」。
 
 東京都福祉人材センター主催の上記イベントが、日曜の午後いっぱいかけて開催された。
 介護業界は、働き手不足(というか高齢化に供給が追ッつかないのが実情だろう)なので、介護職で働きたいという人をこの機会に増やしたいという意図も当然ある。会場には、福祉系らしき学生たちのみならず、これから介護にかかわろうという転職組、求職組(自分だ)の働き盛り世代などがあふれていた。


介護フォーラム2 高齢者とは65歳以上を言う。これは国際標準である。
 高齢化率とは、総人口に対する高齢者の割合。
 これが、先進国の中で日本は飛びぬけて高い。
 2010年現在で23.1%、まもなく4人に1人になろうとしている。
 2015年には団塊の世代が高齢者となる。
 平均寿命と少子化がこのままの推移で続けば、2030年時点で3人に1人が、2050年には人口の約4割が高齢者になると予測されている。
 まさに、チョ~超高齢社会である。
 
 介護フォーラム4それだけでない。
 65歳~74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼ぶが、団塊の世代が後期高齢者に達する2025年の時点で、介護が必要となる高齢者の総数は500万人以上(日本人の20人に1人)、そのうち認知症の老人が323万人と予測されている。

 日本の、いや世界の歴史上かつてない、未曽有の状況が、ここ日本に到来しようとしているのである。

 一体、どうなるのだろう?

 介護の人手不足、施設の不足、年金の枯渇、若い世代の負担増。
 チョ~超高齢社会を前に不安要素はいろいろあるけれど、逆に良い点はないものだろうか。

 こんなのはどうだろう?

 高齢者が増えると、

1.生活ペースが全体的にゆっくりとなる。
 切符を買うのに手間取っているお年寄り、階段を一歩一歩確かめるように上り下りするお年寄りにいちいち目くじら立ててもしようがない。みんな、慣れていくだろう。
「前を高齢者の一団が歩いていたので遅刻しました。」
「そうか、仕方ないな。」
という会話が会社でされるようになるかもしれない。

ボケ老人マーク2.車が安全運転するようになる。
 認知症の老人(以下ボケさん)がいつ飛び出してくるかわからない。事故を恐れ、車の運転手は気をつけて走るようになるだろう。「このあたりボケさん多し。徐行」のボケ老人マークが作られるかもしれない。(左イラスト参照)

3.外を歩く人々が、周囲のお年寄りに気を使うようになる。
 ボケさんたちはゾンビのように町に繰り出す。それが当たり前になれば、一人でさまよっているお年寄りを見た人たちは、「あの人の家族はいま捜索中かも・・・」と気を使うようになるだろう。

4.バリアフリーの拡大

5.標識や看板の文字が見やすく大きくなる。

6.他人にも自分にもやさしくなる。(日本人のラテン化)
 社会全体で間違いや失敗が多発するようになるだろう。それは、A型気質完璧主義者の多い日本人にとって、「いい加減」を学ぶ良い機会になるだろう。多少のことは、互いに大目に見るゆとりが生まれてくる。

7.笑いが生まれる。(日本人のラテン化)
 ボケさんの天然ボケにあちこちで笑いの渦が起こり、世の中は明るくなるだろう。

8.見知らぬ者同士の助け合いが当たり前になる。
 
もはや他人ごとではないのだから、「情けは人の為ならず」(元来の意味で)

9.介護することが当たり前の社会になる。
 原則、介護の社会化は維持するにしても、圧倒的な人材不足から、身内の要介護者のちょっとした介護は家族ができるようになる必要がある。あるいは、外出時に困っている人を見かけたときに誰でもさっと手助けできるようになる必要がある。
 すべての人が基礎的な介護技術を身に着けざるを得なくなるだろう。義務教育あるいは高校の授業で必修になるかもしれない。
 それは、民度を高める良い手段である。

10.お年寄りだけでなく、障がい者にとってもよりいっそう暮らしやすくなる。

11.介護の人手不足から、若い外国人ヘルパーを受け入れざるを得なくなる。結果として、多文化共生社会への足掛かりとなる。

12.「老いること」「死ぬこと」が巷にあふれているから、若者にとっては、それが当たり前の風景となる。そこを前提とした新たな価値観、世界観が生まれてくる可能性がある。

 
 考えようによっては、結構面白い世の中になるかもしれない。



 
 

● 本:『笑う介護。』(松本ぷりっつ、岡崎杏里著)

009 20代のOLだった岡崎杏里の父親は、ある日、糖尿病由来の脳出血により認知症に。一人で家業を切り盛りしていた母親も、続いて卵巣ガンで手術入院。仕事のかたわら、介護と看病と家事と、やはり要介護状態になった犬の世話を一人でやらなければならなくなった著者は、心労のあまり心の病に。
 突然、岡崎家を襲った怒涛の日々をエッセイ風につづった介護体験記である。
 漫画家の松本ぷりっつが、ユーモラスなイラストおよび漫画で様々なエピソードを描き添えていて、重くつらい介護の日々が、面白おかしく描かれ、タイトル通り、「大変なことでも明るさを失わず、笑える部分を見つけ出して乗り越えようよ。」という著者の姿勢が伝わってくる。

 介護素人の人間が、いかにして介護と出会い、一人で背負うことの限界を知るか。
 いかにして介護保険と出会い、ケアマネージャーやヘルパーなどの介護職やショートステイなどの介護施設を利用することを知るか。
 いかにして周囲の人間に助けられながら、家族で支えあっていく力をつけていくか。
 認知症の人と生活するとはどういうことか。
 介護する人間はどんな心境に立たされるか。
 介護をめぐるもろもろのことについて、楽しく読みながら理解することができる、介護入門本としてもお薦めできる。

 母親の逞しきオバタリアン(古い!)パワーと、父親の認知症ならではの数々の「笑える」エピソードに引っ張られて、あっという間に読み終えた。
記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文