ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ペイチェック 消された記憶』(ジョン・ウー監督)

 2003年アメリカ映画。

 これもまた原作はフィリップ・K・ディック(FKD)。
 「ディック感覚」に酔うことができる。(→ブログ記事参照http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/6379736.html

 すんなりとはわかりづらい設定の、すんなりとはわかりにくいストーリーを、見事な脚本とテンポの良さとでゲームのように面白く仕上げている。
 さすがジョン・ウーだ。

 大企業の極秘開発の仕事を請け負うジェニングス(ベン・アフレック)は、仕事が済んだら雇用期間のすべての記憶を消去されるのが決まりとなっている。
 この記憶の消去作業が、脳の中の特定の記憶(メモリー)の詰まった特定の細胞を、あたかも「検索してファイル選択して削除する」みたいな仕組みになっているのが面白い。
 一定期間の記憶喪失という仕掛けだけでも興味深い物語を作れそうだが、FKDはそれだけじゃすまさない。
 3年間契約の意図的・自覚的な記憶喪失中にジェニングスが携わって成功させた研究の中味は、なんと未来を見ることのできる装置の開発だったのである。
 かくして、ジェニングスは、任務終了と共に、過去3年のいっさいの記憶と一緒に、垣間見た未来の記憶をも失うことになる。
 この未来の記憶、未来の地球を見てしまった衝撃故に、ジェニングスはこの装置の存在を疎み、いずれ研究施設に舞い戻って破壊する決心をする。そして、記憶の消されぬうちに、いろいろそのための準備をするのである。
 さて、社によって記憶が消され3年前の自分に戻ってみると、当然自分自身で仕掛けた準備の意味が判らない。手元に届いたのは、封筒に入った意味不明の20個のアイテム(ライター、サングラス、整髪剤、ルーペ、腕時計、煙草、どこかの鍵・・・・・e.t.c.) 送り主は自分である。
 この20個のアイテムの意味はなんなのか?
 どこで、どう使えばいいのか?
 自分は一体、何を意図していたのだろう?

 ほかならぬ自分の仕掛けた謎を、自分で一つ一つ解いていくというところにゲーム的な面白さがある。それぞれのアイテムがどう使われ、どう役に立つかを見守る楽しさがある。


 ところで・・・。
 20個のアイテムはその役目を十分に果たし、結果的にジェニングスを暗殺の危機から救ってくれた。装置も破壊され、ジェニングスは恋人と結ばれ大金持ちになる。
 めでたしめでたし・・・・。
 しかし、それが可能となったのは、ジェニングスが未来を垣間見て、任務終了後に身の上に降りかかる事態をあらかじめ知っていたからである。
 つまり、「未来を変えようと行動する自分」という未来を見たことになる。

 なんか矛盾してないか?????

 ・・・・・・・・・。

 こういうタイムワープものは深く考えたらダメである。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

 
 
 

● 登山:大霧山(767m)~奥武蔵

120715_1243~01●7月15日(日)曇り、時々雨

●ルートとタイムスケジュール
08:11 西武線・西武秩父駅着
08:32 西武観光バス乗車
09:00 定峰バス停着
      歩行開始 
      定岳寺~旧定峰峠~檜平
11:15 大霧山頂上着
      昼ごはん
11:50 下山開始
13:00 橋場バス停着
      歩行終了
13:10 イーグルバス乗車
13:40 小川町駅着~おがわ温泉「花和楽の湯」

●所要時間 4時間(=歩行3時間+休憩1時間)


 朝起きたとき喉に痛みを感じ体は重かった。リュックの準備は整っているが、行くべきか行かざるべきか? 天気は曇り、午後から晴れると言っている。
 「体を休めろ」というささやきを振り払って、出かけることにする。寝ているより山に行ったほうが、むしろ良くなることもある。第一、目覚ましもかけずに6時前に自然と起きたのは、無意識が許可している証拠であろう。

 西武秩父行きの列車は登山客でいっぱい。どの駅で降りるかでどの山に登るか推測がつく。
 思えば、自分の山歩きも趣味と言えるようになってから7年目を迎え、中央線の大月駅までと青梅線沿い、西武線秩父線沿いのガイドブックに載っているような山々はほとんど踏破した。これからは富士急行大月線沿いか、はたまた丹沢か・・・。良かった山々をもう一巡するのも良いかもしれない。
 健康と健脚と休日に感謝。

オオギリ山2 定峰バス停からの登山口がわかりにくい。バス停から来た道を少し戻ったところに、定峰神社への登り口があるらしいのだが、わからずに定峰川沿いの車道をゆっくり登る遠回りのコースをとる。まあ、足を慣らすにはちょうど良い。
オオギリ山 定岳寺を経て、里山ののどかな風景を楽しみながら、山道に入る。
 雨がパラパラと降ってくるが、木々が蔽いになり、体には届かない。その木々も広葉樹から、いつの間にか針葉樹に変わる。雨に湿った杉の樹皮の香りが鼻腔をくすぐる。
 道は歩きやすい。

 ダイダラ坊の標識がある旧定峰峠で、周囲は開けて明るくなってくる。
 
120715_1023~01 ダイダラ坊と言えば、ダイダラボッチ。宮崎駿監督の『もののけ姫』に出てきた心やさしい巨人である。
 全国各地にこの大男の伝承が残されている。
 ここ大霧山の伝承では、「腹が減ってお粥を煮たのが粥仁田峠(かいにたとうげ)、使った釜を伏せたのが釜伏山(かまぶせやま)、箸を地面に刺したのが二本木峠(にほんぎとうげ)、荒川の水を口に含んで吹いたのが大霧山」とある。

 休んでいた60代くらいの地元の男性としばし会話する。トレーニングでこのあたりの山をよく歩き回るのだそうだ。大霧山は「夏も涼しくて、気持ちがよい」と言っていた。


 登りで出会ったのは、この男性と若いカップル一組のみであった。他に山頂で10名、下りで12名だから、この日大霧山に登ったのは30名弱になる。

120715_1100~01 檜平を経て、最後の登り。右手に牧場が広がっている。
 山の上の牧場とはなんとも気持ちいい。なんだかアルプスのようではないか。
 と思っていたら遠くからヨーデルが・・・。
 『アルプスの少女ハイジ』のテーマ曲が聞こえてきた。
 牧場で流しているらしい。
 ただ、牛の姿は見えなかった。

 山頂に到達


120715_1115~01 残念ながら、雲でまったく景色は見えない。
 晴れていたら抜群の展望が開けているはずなのだが。
 「大霧山」という名だけのことはある。
 次回、また来よう。

 ここで昼食。
 おにぎり2個(シャケ、こんぶ)、サンマの缶詰、お新香盛り合わせ。
 次々と人が到着し、あっという間に山頂のベンチは満員となる。
 と同時に、霧が山頂にうっすらと漂い始めた。まさに霧の山。雰囲気があって良い。

120715_1157~01 霧にけぶる森の中を下山する。ちょっと幻想的。
 
 山道が終わり、車道に出てから「橋場バス停」までが意外と遠い。標識に従って行ったら、途中でまた山道に入り込む。だまされているんじゃないかとちょっと不安を感じつつ、ようやく車道に舞い戻る。(どうやら車道と車道をつなぐ近道だったらしい。)
 発車10分前にバス停に着いた。
 汗ぐっしょり・・・・


120715_1628~01 小川町駅から歩いて8分のおがわ温泉「花和楽(かわら)の湯」へ。
 ここはもともと瓦工場があったらしい。今の社長(5代目)が一大決心して平成15年に開業したとのこと。古民家風の落ち着いたデザインが湯上りのリラックス度を高めてくれる。使われている瓦は、伝統と誇りの表れであろう。
 露天あり、炭酸泉あり、蒸し風呂あり、地元の特産を使った食べ物も充実、家族で半日楽しめる贅沢な施設である。
(ホームページ→http://www.kawarano-yu.com/index.html) 
 いくつかある駐車場が満車の大賑わいであった。

120715_1536~01 もちろん、自分の目的は湯上り後のビールにある。

 やっぱり来てよかった~!

 山登り+温泉+生ビール=ストレス完全解消

 の方程式は鉄板である。

 小川町駅への道の途中にあった居酒屋のポスターが面白かった。
 ダイダラボッチの「でいだら棒」?
 この色、この形。
 女性に大人気って、あなた、涎まで出して(笑)。
                   

120715_1644~01


 


 


 
 
 
 
 
 



 


 



 

● 映画:『永遠のこどもたち』(J・A・パヨナ監督)

 2007年スペイン・メキシコ映画。

 美しくも切なく、恐ろしいダークファンタジー。
 この手のものは好きである。
 が、なかなか傑作にお目にかかれない。
 思いつくものをあげても、キャサリン・ロス主演の『レガシー』(1978)、ニコール・キッドマン主演の『アザーズ』(2001)くらいしか出てこない。
 どうしてもホラー(スプラッタ)に傾いてしまうか、主人公と霊との対決がメインになってしまうために最後にはアクション化してしまう。美しさと切なさが犠牲になるのである。

 日本でこの手のものが撮れるのは、大林宣彦くらいだろう。
 『異人たちとの夏』は見るも無惨な出来(評価D+)であったが、怪談しかなかったそれまでの日本のホラー映画とは一線を画した『HOUSE ハウス』(1977)や、テレビ用に作られた『麗猫伝説』(1983)は、まさに「美しくも切なく、恐ろしい」作品であった。前者は、南田洋子、池上季実子、大場久美子など女性ばかりの出演陣のきらびやかさと、恐怖とコミカルなタッチの混ぜ具合が絶妙であった。後者は、日本映画史上随一の美貌を誇りながら化け猫女優として名を残さざるをえなかった入江たか子とその娘・入江若葉の親子共演が見物であった・・・。

 これらの映画の共通点は、この世では報われなかった愛や願いを死んで霊となっても抱き続ける女性の情念、である。その情念が強すぎると、貞子やお岩さんのような「うらめしや~」のおっかない悪霊になってしまい、「美しさと切なさ」が吹き飛んでしまう。
 あくまでも恨みや復讐ではなく、純粋な愛によって魂が生き続けることがポイントである。
 その時、観る者は恐怖の対象であるはずの霊に共感を抱き、彼女たちの視点から「この世」と「男達」の非道を見つめ、霊のために涙するのである。
 この映画でも、深まる謎と襲い来る恐怖と募りゆくサスペンスの果てに、思いがけぬ感動の結末が待っている。その落差の衝撃が、涙腺を緩ませ、ホラー映画ではあり得ないような、どこか爽やかな、しみじみとした印象が長く引き続くのである。
 

 ところで、日本で有名な女の霊と言えば、『源氏物語』の六条御息所であるが、彼女は不当に扱われすぎていると思う。
 恨みがましい、おっかない女の代表格の様に、能でも源氏解釈でもレッテル貼りされている。それは、明らかに世の男の見方に合わせて、浮気をする男達の都合の良い見方にそって解釈されているのだ。

 だれか六条御息所をいい加減解放してあげてくれないものだろうか。
 「男の為に生きる女」という物語からー。



評価: B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
  
 
 

  

●  がんばれ、宮崎吾郎! 映画:『デンデラ』(天願大介監督)

 2011年東映作品。

 「デンデラ」とは「蓮台(れんだい)」のなまったもので、墓地または死者を葬送するところの意である。
 『遠野物語』の舞台となった岩手県遠野市には、この名前のついた丘があり、その昔、60歳を超えた老人はここに遺棄されたと言われている。いわゆる「姥捨て伝説」である。

 60歳で捨てられるとは今の感覚からすれば、あまりに若すぎる。この作品では、70歳になった老女(浅丘ルリ子)が息子によって雪山に置き去りにされるシーンから始まる。
 まず、浅丘ルリ子が捨てられる老婆の役をやるということにビックリする。
 確かに実年齢でも撮影当時71歳(1940生まれ)である。どんな役でもそれなりにこなせる感性と演技力とを備えている女優だから、役不足というわけでは全然無い。
 ただ、自らを美しく見せることへのこだわりとプライドの高さゆえに、こんな老け役にして汚れ役を引き受けたことにビックリしたのである。
 タイトルは忘れたが、しばらく前にやったテレビドラマの中で、往年の人気女優の役を演じる浅丘が、ライバル女優と張り合って役者根性を示すために鏡の前でメークを拭い去るというシーンがあった。浅丘は本当にメークを拭き取り、すっぴんをテレビカメラ(視聴者)にさらしたのである。そのとき、「この人、変わったな」と思ったものである。石坂浩二との離婚が変化のきっかけになったのであろうか。(どうでもいいことだが・・・)

 実際のところ、昔話の70歳にしては浅丘は若すぎるし、美しすぎるし、バタ臭すぎる(瞳にブルーコンタクト入ってないか?)。『楢山節考』の主演女優達(田中絹代、飯田蝶子、坂本スミ子)に比べると、「リアリティにかなり欠ける」と思うのであるが、それでもノーメークで顔の皺も隠さず、方言にも果敢にチャレンジしている。同じ日活映画のヒロインだった吉永小百合を、これで完全に追い抜いたな、と思う。

 出だしで感じたこのリアリティの欠如は、しかし、話が進んでくると気にならなくなってくる。それは、これまでに村の男達に捨てられた老婆達は、なんとか生き残って女だけの共同体(「デンデラ」と名づけている)を村人の来ない山向こうに築き、自給自足の暮らしを30年も続けていて、そこでは、新参者の浅丘ルリ子はたかが70歳の小娘に過ぎないのである。
 相対性のもたらす不思議というやつで、山のふもとの村の感覚では「70歳にしては若すぎる」浅丘の不自然な老婆姿も、最高齢100歳(草笛光子)のデンデラの中では「まだ70歳だから若く見えて当たり前」に映るのである。映画の終盤に向かうにつれ、浅丘はどんどん若くなっていくように見えるのであるが、100分近く老婆達の姿に付き合わされた視線には、もはやそんなこと気にならないのである。

 これはマジな話で、自分は老人ホームに勤めるようになって、これまで列車の中で見かけていた老人達が相対的に「若く」見えるようになった。
 老人ホームの住人の平均年齢は90歳以上なので、80歳で「やっと一人前」、70歳はまだ「青二才」、60歳なんか「ションベン臭い小娘」って感じである。40代の自分なんか彼等から見たら、「ケツの青い赤ん坊、人間未満」なのかもしれない。
 いやはや・・・。
 
 デンデラに住んでいる老婆達を、豪華女優陣が演じているのも見所である。
 共同体の創設者にしてリーダーの草笛光子の貫禄、それと張り合う片眼の倍賞美津子のいつもながら味のあるカッコイイ演技。若々しさと美貌とで売っていた点では、浅丘に勝るとも劣らない山本陽子も重要な役どころで出ているのだが、なんと自分は終わりのクレジットを見るまで「山本陽子」が出ていたことに気づかなかった。それくらい、普通の老婆になりきっているのである。

 『世界で一番美しい夜』でもそうだが、キャスティングの妙と役者の活かし方がすこぶる上手いのが、天願監督の第一の才能であろう。これは父親譲りの吸引力ゆえなのかもしれない。役者冥利に尽きる芝居をさせてくれるのである。

 あえて、偉大な父の代表作(カンヌグランプリ『楢山節考』)と同じテーマにチャンレジし、女だけの村という空間を撮ることでフェミニズム的視線も説教臭くなく取り入れ(逆に男だけの老人共同体を想像してほしい。しまいには権力闘争の揚げ句に全滅することだろう)、理想郷と見えたデンデラにも熊や雪崩といった自然の脅威は情け容赦なく襲い来る、人が生きることはどうにもこうにも「苦しみ」である、という仏教的視点を匂わせ、それでも「生きたい」という人間(生命)の性(さが)、あるいは業?を描く。
 志の高さと、現代の状況に対する鋭敏な視点と、深い洞察と、安易な結論の提示を拒否するテーマとの好ましい距離感の保持において、自分の中ではすでに今村昌平を超えた。

 本当に見事な才能である。
 代表作を撮る日も近いであろう。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


  
 
 
 
 
 


● 本:『老いと死について さわやかに生きる智慧』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

老いと死について 「老い」と「死」について語らせたら、ブッダの右に出る者はいない。仏教の独壇場である。
 もちろん、ここで言う仏教とは、大乗仏教ではなく、ブッダの教えをそのままに今に伝えるテーラワーダ仏教のことである。
 その意味では、このスマナサーラ長老の新著は、「無常」や「無我」についての著書と並んで、まことの仏教の何たるかを端的に伺い知ることができる恰好の本であり、また、高齢化社会を突き進んでいく我々日本人にとって「待ちに待った」本と言うことができよう。

 正直のところ、仏教思想の中にしか、人類が「老い」や「病」や「死」と敢然と向き合い、従容として受け入れ、なおかつ幸福でいられるための秘訣は他に見つかるまいと思っている。再生医療やクローン技術にいくら期待をかけても、それがいくら進歩しようとも、光の壁を突破できないのと同様、「老病死」の壁は乗り越えられまい。技術の進歩は決して幸福にはつながるまい。そのことが未だに分からない有様を「無明」と言うのだろう。
 この本を、各市町村の役所は、地域に住むお年寄り達に敬老の日のプレゼントとして贈呈したらどうだろうか。あるいは、介護保険の被保険者(65歳)となった記念に・・・。
 それは冗談だが、自分は、次に帰省した際、年老いた両親に読んでもらうべく、置いて帰るつもりである。
 
 以下、引用。

 お釈迦さまはこう言っています。
 「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
 
 幸福とは、凪いだように穏やかな心のことです。何を映しても動揺しない鏡のように、波一つない水面のように、平穏な心を育てることが、人にとって真の幸福なのです。
 
 親のために子供ができる最大の孝行は、「道徳的で清らかな執着のない心を持って最期を迎えられるように親をサポートする」ことに尽きます。


 「悟った人は、執着もないまま何のために生きているのか」と聞いてくる人がいます。そんなとき、私はこう答えます。
目的があって生きているのではなく、ただ死ぬのを待っているだけです


 あなたは、自分の老いや死について考えたいと思い、本書を手にとってくださったのでしょう。もしそうなら、あなたが本当に考えるべきは、やがてやってくるであろう死にどのように備えたらいいのかということではありません。
 
目の前にある「今」を力強く生きる。
 それが最も大切なことです。


 仏教では、どんなとき、どんな相手に対しても、事実をありのままに話すことが大切とされています。自分の意志や感情、主張はいっさい挟みません。
 本人にはがんの告知をせず、家族がその事実をひた隠しにするようなケースが今でもありますが、それは大変に思い上がった行為であり、本人にとってとんでもない不幸です。
 確実にまもなく死ぬ時期がわかっている病気の場合は、なおさら本人に伝えるべきです。残された日々をどのように過ごしていくかを本人の自由に決めさせるのは、まわりの人たちがやらなくてはならない仕事です。


 どの言葉も確信に満ちている。日本人が好むあいまいさやぼかしや婉曲的なところがまったくない。まことの仏教とは、切り立った岩壁の如く、かくも激烈なる、毅然たる、劃然たる思想なのである。日本人が仏教にイメージしがちな、「まんまるい、ほんわかした、癒し系の、菩薩風の」ものとは違う。
 
 ところで、老いを語るのに欠かせない要素の一つは「孤独」であろう。
 老いて子供は独立し、仕事も辞めて、連れ合いに先立たれ、孤独が道連れとなる日が来る。
 これまで孤独と付き合う準備をしてこなかったツケが回ってくるのである。
 ふと見ると、無縁社会の「孤独死」がポッカリと口を開けている。
 スマナ長老、処方箋はないものでしょうか。

 存在とは、天涯孤独です。よいでもなく悪いでもなく、それが命の自然な姿なのです。孤独をなくすのではなく、孤独に慣れることが賢い生き方になるのです。
 人生は孤独なものであり、厳しいけれどそれが現実です。現実である以上、生きていくためには、人は孤独に対する「免疫」をつけなければなりません。

 孤独を、いかに楽しいものにできるかが、その人の人生を決め、さらには次の人生も決めます。自分がひとりになったとき、どうするか。
 ひとりになるまいとするのではなく、ひとりになることを大前提にして、人生をプログラムしてください。それは、子育てをどうするか、マイホームの購入をどうするか、出世をどうするかについてプログラムするよりも、ずっと重視すべきことなのです。

 仏教では、「気の合う友だちは、ひとりでもいれば十分です」と教えます。それを孤独というのなら、そうでしょう。孤独とは結果的に、必要のないものや余分なものを手放すことだからです。


 孤独、恐るるに足らず。
 今から「孤独力」を磨いておこう。


● 小乗って誰が言った? 映画:『ビルマVJ~消された革命』(アンダース・オステルガルド監督)

 2008年デンマーク映画。

 VJとはビデオジャーナリストの意である。
 軍事政権の圧政に抵抗するビルマ国民たちの闘いの様子をハンディカメラで撮り続け、撮った映像を国外メディアに流す「ビルマ民主の声」のジャーナリスト達。苛烈な情報統制が敷かれる中、撮影現場を見つかったら、投獄は疎か、拷問や処刑も覚悟しなければならない。
 彼等が命を張って撮り続けた膨大な映像を素材としてオステルガルド監督が再構築した、2008年当時のビルマの現状を伝えるドキュメンタリーである。
 全編、事実のもたらす重みに圧倒される。
 これが世界で起こっていることなのである。

 ビルマの現状・・・・。

 アウンサンスーチーが自宅軟禁を解除され国会議員に当選し、ヨーロッパ諸国を訪問したことに象徴されるように、ビルマは今、ようやく民主化への道を歩もうとしている・・・・かに見える。
 これが本物ならば喜ばしいことであるけれど、「議席の4分の1は軍人が占めなければならず、重要な法案は全議員の4分の3以上の賛成がなければ否決される」という、民主国家の常識からすれば噴飯ものの法律に見られるように、今でもしっかりと実権を握っているのは軍である。
 一度握った権力をそう簡単に手離すとも思えないし、完全な民主化が成し遂げられた暁には、これまで軍が国民達に対して行ってきた様々な極悪非道を断罪する声が上がるのは必至である。(その時には、この映画は世界が認める貴重な証拠となるであろう。)
 軍としては、これまでの政策や行為については個人的にも組織的にもいっさい責任を問われることはないという確証を得ない限り、雪崩式の民主化を阻むことだろう。

 さて、国民は許すのか、許さないのか。

 西欧諸国なら当然許さないだろう。
 イスラム諸国も許さないだろう。「目には目を、歯には歯を」である。
 だが、ビルマは筋金入りの仏教国である。

 この映画でも分かるとおり、国民達の僧侶に対する尊敬の念は日本とはまったく比べものにならないくらいに篤い。VJの一人でかつて投獄された経験を持つ海千山千のデモの英雄でさえ、寝る前にはブッダを描いた掛け軸の前で礼拝するのが日課となっている。

 この映画を見た欧米人は、ビルマ国民のデモのやり方にびっくりしたことだろう。デモ隊はまったく攻撃しない、木片一つの武器も手にしない、軍に攻撃されてもやり返さない、デモの最中に相手のために祈りさえする。
 それは仏教徒ならではのデモ行進である。
 
 この映画の功績は、ほんの少し前のビルマの悲惨な現状を世界に伝えた点ばかりではない。
 仏教国とは何なのか、仏教の僧侶とは大衆にとってどういう存在なのか、仏教を信仰する国民とはどういうものなのかを、キリスト教国の人々にあからさまに知らしめたのである。 
 世俗の楽しみ・喜びを擲って、生きとし生けるものへの慈悲喜捨を願い、托鉢をし、修行をし、在家の心の面倒を見、いざというときは命を捨てて在家のために立ち上がる僧侶たち。その存在がいかに大きなものか。

 寺から街に繰り出すえんじ色の袈裟を着た裸足の僧侶達の列を見るにつけ、これをして「小さな乗り物」と馬鹿にするのなら、「大きな乗り物」を標榜する日本の仏教の坊様達は、よっぽど庶民のために尽くしてくださっているのだろう、と思うのであった。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 



 

 
 


● ディック感覚、あるいは「私」という名のSF 映画:『アジャストメント』(ジョージ・ノルフィ監督)

 2011年アメリカ映画。

 SF恋愛サスペンス映画。原作はSF作家フィリップ・K・ディックの短編『調整班』。

 『ブレードランナー』(1983)の成功以降、フィリップ・K・ディック(以後FKD)の作品は次々と映画化されている。主な物を挙げると、

 トータル・リコール(1990) 主演アーノルド・シュワルツネッガー
 マイノリティ・リポート(2002) 主演トム・クルーズ
 ペイチェック消された記憶(2003) 主演ベン・アフレック
 NEXT―ネクスト(2007) 主演ニコラス・ケイジ

 現在もいくつかの作品の映画化が予定されているらしい。まさに「今が旬」の作家なのである。
 しかし、FKDは『ブレードランナー』の公開直前に53才の若さで亡くなっている。生前は本が売れず貧乏であったという。一面識もなかった同じSF作家のロバート・ハインラインに援助されたというから面白い。
 ヴァン・ゴッホ同様、彼の書いた物は時代に早すぎたのである。著作権を有する遺族にとっては、まことにラッキーな展開であろう。

 FKDの早すぎたテーマとは何か。
 ウィキペディア「フィリップ・K・ディック」から引用する。

 何らかの強力な外部の存在によって、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている。

 この『アジャストメント』もまさに「ディック感覚」そのものである。
 主人公デヴィッド(マット・デイモン)はある日、この世界が「運命調整局」と名乗る謎の集団によってコントロールされていて、世界の時空も一人一人の人間の運命も彼等によって自在に調整・操作されている、という驚愕の事実を知ることになる。人類は外部の手によって操られており、人間に選択の自由など始めからないのである。
 この事実を知ることは、足元の大地が突如として消失するくらいのショックをもたらすであろう。(自分ならまず精神科に行くがな・・・)
 そこからデッヴィドがどう生きていくかというところに、観る者は付き合わされることになる。

 小説にしろ映画にしろ、SFというものは荒唐無稽の大ボラが前提としてある。
 大ボラを、科学的(客観的)な装いと細かなリアリティの積み重ねによって、いかにして読者(観る者)に受け入れさせるか、作者がこしらえた虚構世界とその世界にのみ通用する恣意的な法則の中で、いかにして人間ドラマを活気づけ、感動に結びつけていくかが、SFの基本スタイルである。
 過去の有名なSF映画を並べると、この基本スタイルは明瞭である。
『猿の惑星』『エイリアン』『スター・ウォーズ』『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』『アルマゲドン』・・・・・。
 どれも人間の通常の生活世界とは(時間的あるいは空間的に)離れたところに、まったく様相の異なる違った世界が存在し、何の因果か後者に入り込んでしまった主人公達が、新しい世界の驚異や脅威に(観る者と共に)直面し、新しい世界での法則を痛い思いをしながら学びつつ、通常の生活世界においてはあまりに当たり前でありすぎるが故にその大切さを忘れてしまいがちな人間ドラマ(家族愛、恋愛、友情、命の大切さe.t.c.)を甦らせるのである。
 その意味では、人間ドラマをより深く、より強く、より新鮮に描くためのシチュエーションとして、SFという仕掛けはあると言えなくもない。非日常の空間においてこそ日常的なことの有り難さが痛感されるのは、誰もがよく知っている。

 問題はこの仕掛けである。

 先に掲げた過去の有名なSF映画と、FKDの作品、あるいは昨今よく作られる時空操作系のSF映画とでは、この仕掛けの仕掛けられる場所に違いがある。
 過去の作品では、仕掛けは外側に作られていた。『猿の惑星』や『エイリアン』や『アルマゲドン』では地球の外(宇宙)であったし、『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』では現在という時間の外(過去や未来)であった。主人公達の通常の生活世界とは時空が違うのである。
 仕掛けが外側に作られるということは、別の観点で言うと、主人公達は別世界に行っても、自らのアイデンティティを保っていられるのである。「自分」はそのままで、自分を取り巻く「環境」が変化するのだ。
 『猿の惑星』のラストシーンがかくも衝撃的なのは、主人公(チャールトン・ヘストン)が人間としてのアイデンティティ(自我)と誇りとを最後まで高く保ったまま、猿が支配する異世界を生き抜いたからである。

 一方、FKDの作品らは、仕掛けが内側にある。
 つまり、「日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に」気づいていくところが、一番の見所となる。この系統の一番わかりやすい代表的な例は、FKD作品に影響を受けたウォシャウスキー兄弟(姉弟と言うべきか)が撮った『マトリックス』(1999)である。「虚構」は外にあるのではない。「私」が虚構なのだ。
 主人公の生活空間、意識、存在そのものが虚構であると曝かれた時、信じられる確かなものは何一つなくなる。自分の意志の存在を疑わざるを得ない主人公にとっても、物語を観る我々にとっても。
 ある意味、これはクリスティが『アクロイド殺し』で仕掛けたトリックに通じるところがある。かのトリックはフェアかアンフェアかで議論が巻き起こったけれども、少なくともアクロイド殺しの犯人は誠実な、客観的なタイプの人間であった。あれがもし、生来の嘘つきというキャラクターであったら、フェアもアンフェアもないだろう。その時点で、読者はクリスティを見放しただろう。それでは、推理小説という物語が成り立たないからである。
 何が言いたいかというと、主人公のアイデンティティ(自我)が完全に崩壊した時点で、彼の主観を軸とする物語は成り立たないはずなのである。たとえは悪いが、強度の認知症の老人のラブストーリーを想像してみてほしい。
 そしてまた、「『私』を含み、すべてが幻想だ」と知り尽くした人間は、もはや既存の物語に没入して楽しむことなどできない。

 「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「自我」の芽生えと「物語」の誕生は、おそらく、人類史的にも、個人史的にも、同時であろう。体験をエピソードとして記憶に残すために「自我」が生まれたという説もある。(→ブログ記事参照『受動意識仮説の衝撃』http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html )
 ならば、「自我」の終焉と「物語」の終焉も、同時であろう。
 
 『マトリックス』もこの作品も、アイデンティティ崩壊後に、主人公が「人間の尊厳をかけて」外部組織にあらがう様が描かれていくが、時空をコントロールし運命を司る存在(神でも宇宙人でも銀河委員会でもなににせよ)に対して、いったい何ができよう。「あらがう」という意欲や行動でさえ、すでに自らの意志ではないではないか。
 『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、人工知能による文字通りの「洗脳」から目覚めて、仮想現実から脱出し、人工知能との闘いを開始する。その様子は、血も涙もない(当たり前だ)コンピュータに対する人間の尊厳を誇らかに謳っているように見えて、観る者はネオとその仲間達を熱狂的に応援することになるけれど、3部作に至ったストーリーすべてが、いまだカプセルにいるネオの脳内における仮想現実ではないという保証を、我々はどこに求めたらいいのだろうか。


 物語が成立しない領域に、無理して物語を生もうとしている。
 その無理強いが、この映画をアンバランスなものにし、未消化な、調整を誤った(ミスアジャストメントな)感じだけが観賞後に残される。

 FKDの作品の映画化は扱いに気をつけないと、同じ失敗に陥るであろう。




評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督)

 2008年フランス映画。

 世の中で一番大変な仕事ってなんだろう?
 と考えた時、最初に上がってくるのは「学校の先生」である。

 他にも大変な仕事はたくさんある。
 例えば、自分が今やっている「介護の仕事」も4K(きつい、きたない、危険、給料が安い)などと言われ、「介護やってます」と人に言うと、たいてい「大変ですねえ」と同情されるか、「偉いですねえ」と変に感心される。
 ノルマを課せられる営業マンも大変だ。はじめて会う人と話すのが苦手で、自分自身が必要としてない物を他人に売りつけることのできない自分は、営業マンだけは続かないと思う。
 警視庁捜査一課(いわゆる殺人課)の仕事も大変だろう。実体はよく知らないが、家族との触れ合いもままならぬほど多忙で、死の危険と隣り合わせの仕事というイメージがある。
 人気稼業で、明日の我が身も知れない芸能や芸術の仕事も大変だ。安定性に欠けるという点では最たるものだろう。この分野の苦労人としてすぐに頭に浮かぶのは、トシちゃんこと田原俊彦である。頂点から真っ逆さまに転落した軌跡は、小室哲哉をのぞいて誰の追随も許さない。でも、今もしっかり芸能界に生き残っているわけだから、一度名が売れてしまえば、なんとかしのげるのがこの世界かもしれない。

 と、いろいろ大変な仕事はあるけれど、現代日本において言えば、学校の先生ほど心労の多い職業はないと思う。
 「でもしか教師」などと言われた昔、教師はそこそこ教育を受けた誰でもできるラクな稼業の代表であった。「でもしか」とは、他にできる仕事がないから、「教師でもやるか」「教師しかできない」という意味である。
 「先生」が無条件に偉くて、体罰も当たり前で、生徒や父兄が学校や先生に頭が上がらなかった時代は、教師ほど肩の凝らない仕事はなかったと思う。教え子のたくさんいる地域で威張っていられ、お中元やお歳暮は貰い放題、しかも有給の長期休暇がついている。進学より就職が多かった時代は、進路指導や学力アップに頭を悩ます必要もなかった。


 時代は変わった。 

 以前、ボランティアで、ある県の小学校にエイズの話をしに行ったことがある。
 その日は授業参観にあたっていて、教室の後ろには自分より一回りほど若い父兄が並んでいた。
 普段どんなに騒がしい教室でも、授業参観日ともなれば静かな張りつめた空気が支配し、生徒達は猫をかぶったように大人しくなるのが、自分のティーン時代の記憶である。
 まったくそんな記憶は裏切られた。
 生徒達は、授業が始まっても私語を止めない、自分の席から離れて室内を歩き回る者もいる。教室というより動物園に近い。これが授業参観日の風景ならば、普段はどんなだろう? 
(なるほど、これが学級崩壊か・・・)
と、納得したものである。
 だが、驚いたのは生徒のことではなかった。
 教室の後ろにいる父兄の様子である。
 ヒョウ柄のジャージ姿の親がいる。知り合いを見つけたのかその場でおしゃべりする親がいる。教室から勝手にベランダに出て横の窓から自分の子供に話しかける親がいる。挙げ句の果てに、机と机の間を前に進み出て自分の子供を写メで撮る親がいる。
 この親あっての、この子か・・・。
 これじゃ、学校の先生が心を病むのも無理ないよな~、と呼んでくれた先生に同情しつつ学校をあとにしたのであった。

 この映画に出てくるフランスの中学校の風景も日本と変わらない。基本的な礼儀も言葉遣いも身についていない、口ばかり達者な幼稚園児のようなティーン達。勉強を教えるはるか手前のところで、教師は立ち往生する。
 (いずこも同じか・・・)
 しかも、フランスは移民の国である。パリでは6人に1人が移民だという。クラス内には、アラブ系、アフリカ系、アジア系、ラテン系、と様々な出自と風采を持つ子供たちが机を並べている。まさに、人種のるつぼ。文法を教えるための例文一つ板書するにも、「なぜ先生はいつも白人の名前ばかり例文に使うのですか?」とアフリカ系の生徒から突っこみが入る。
 担任教師フランソワの後頭部が禿げるのも無理はない。(演じるフランソワ・ベゴドーは、原作者にして元教師である。)


 一つの伝統、一つの文化背景、一つの宗教、一つの価値観を共有する一つの民族において、世代から世代へものを伝えるのは簡単である。例えば、北朝鮮を見ればよい。日本も国際的に見ればこちらに近いだろう。
 しかし、様々な伝統、様々な文化背景、様々な宗教、様々な価値観を有する様々な民族からなる集団において、いったい大人は子供に何を伝えればいいのだろうか? そこでもっとも力のある、一つの主流の価値観(この映画で言えばフランス流の)を伝えるべきか。すなわち移民の子をフランス人として「洗脳する」のが良いのだろうか?
 確かに、フランスで生きていく以上、社会でそれなりに快適に暮らしたいのであれば、万事フランス流を身につけるのが得策である。
 しかし、自由と平等と人権を誇りにする国で、それは強要できるものではない。

 24人の生徒と1人の教師が生活するこの教室に見られるジレンマは、近代の個人主義的民主主義国家において、多様な価値観や文化を持つ他者同士が、いかなるルールの下で「共に生きていく」かを模索する、興味深い、今まさに継続中の実験なのである。

 フランソワが一年を通して生徒達に課したのは、「自分の言葉で、自分を他者に紹介すること」であった。
 なるほど、それが最初の一歩なのかもしれない。
 
 常に教室は社会の縮図である。
 いかなる政治家よりも、「学校の先生」は現象を先取りしている。

 この作品は2008年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(大賞)を獲っている。




評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 

● チャイ子にブラボー! 映画:『オーケストラ!』(ラデュ・ミヘイレアニュ監督)

 2009年フランス映画。

 この映画は最後の12分間のためにある。
 チャイコフスキー作曲「ヴァイオリン協奏曲」の演奏シーンのために。

 そのラスト12分に向かって、物語がじょじょにクレシェンドしながら、海に向かって赤い街を流れてゆくモスクワ河のごとく、華やかなパリの街を流れていくセーヌのように、いくつもの支流が合わせ重なって、最後は感動の海へと観る者(聴く者)を運んでゆく。

 ご都合主義たっぷりの分かりやすいストーリーといささか紋切り型の民族描写に、鼻白むよりもなんだか懐かしくなるくらい、昔ながらの直球勝負の映画である。最近の映画は設定もストーリーもテーマも登場人物達の心理も、こむずかしいからなあ~。
 久しぶりに、明るい前向きな、気持ちのいい映画を観た。

 気持ちの良さの理由の一つは、一人一人のキャラクターに注がれる愛情のためである。端役に至るまで魅力的な人物造形がなされていて、それぞれに見せ所が用意されている。役者としては冥利に尽きるだろう。
 楽団のユダヤ人の親子、パリの劇場の支配人♂とその秘書♂(この二人、最後にはチャイ子のオネエ的な音楽にほだされて結ばれてしまう)、第一ヴァイオリンのロマ(ジプシー)、熱烈な共産党員の楽団マネジャー・・・・。紋切り型であるからこそ、様々な国籍、人種、文化、愛の形が、それぞれのモチーフ(動機)を分かりやすく奏でながら、入れ替わり立ち替わり観る者に提示され、違うからこそ美しい多様性という名のハーモニーを編み出していく。
 まさに人間讃歌の協奏曲である。

 音楽の力で物語を収斂させつつコンサートシーンで幕を閉じるという意味では、本邦の名作『砂の器』を思い出すけれど、人の世の不寛容と哀しみと絶望を描いたあの作品とは、正反対の座標にある。

 見終わった後、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」のCDを買いに行きたくなること必定である。(今日仕事帰りにタワーレコードに寄ろうっと




評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● これでいいのだ! 本:『大統領をつくった男はゲイだった』(マーヴィン・リーブマン著、現代書館)

大統領をつくったゲイ アメリカでの発行が1992年だから、もう20年も前の本である。

 原題はComing Out Conservative「カミングアウトする保守主義者」。
 まんまである。

 自分は政治に詳しくない。ましてやアメリカの政治や政党に関しては、現役の高校生ほどの知識もないと思うが、共和党と民主党の二大政党の争いであることくらいは知っている。
 そして、共和党は保守主義であり中絶反対・反同性愛の立場を取ること、一方の民主党は中道からリベラルで人種的マイノリティや低所得者層に支持者が多いこと。このくらいのイメージは持っている。
 であるから、自らの幸福を求めるアメリカの同性愛者は基本的には民主党支持、少なくとも無党派であるはずだ、と考えるのが普通だろう。共和党員の同性愛者という存在は、自家撞着している。
 だが、著者のリーブマンは長いこと共和党支持の保守主義者だったのである。それどころか、政権の中枢近くで反共産主義及び保守主義の推進の為に、様々な運動を精力的に展開してきた立役者だったのである。
 
 彼の中では保守主義と自らのセクシュアリティは、何ら矛盾することなく両立できるものであった。というのは、彼の準ずる保守主義の理念とは、「個人の自由と権利が国家の利益に優先する」というものであったからだ。
 アメリカの保守主義にそういう一面があった(ある?)とは驚きであるけれど、建国の理念に立ち戻ることを保守というのならば、なるほどその通りである。日本の保守(例えば儒教道徳的な)とアメリカの保守とでは違って当然なのだ。
 しかし、同時に、アメリカの保守とはまた強いキリスト教への信仰とそこから生じる道徳に裏打ちされたものである。何と言っても、最初のアメリカ人は、英国において迫害された宗教難民(ピューリタン)だったのだから。
 リーブマンはここでも自らのセクシュアリティと信仰とに矛盾を感じることがない。実際50歳を過ぎてから洗礼を受けてクリスチャンになるのである。もちろん、キリスト教徒であることと、同性愛者であることは、自分の存在を否定し自分を罰する方向でしか両立しない。 

 己のセクシュアリティ、ひいては己の存在を否定するものに、こうまで依存し献身するリーブマンの自己分裂的人生は、読んでいてはがゆいと同時に胸が痛くなる。彼が、極めて有能なアクティビストで、あちこちから引っ張りだこの資金調達の天才であり、有名人も含めた豊富な人脈を持ち、映画や演劇のプロデューサーもする多才な人間であることが、かえって彼の本当の望みを彼自身に対して覆い隠していたのだろうか。
 
 リーブマンがカミングアウトを決意したのは、67歳の時であった。

 自分が築き上げてきた人生をそのままにしておきたい、そして残された日々を平穏に生きて、死亡欄に人びとの敬意を集めるような業績を残したいという誘惑は非常に大きかった。それなのになぜいま? そうした思いが繰り返し心に押し寄せた。
  しかしあるとき私は、一体なぜ自分は長い間何かを探し求め、変節を繰り返してきたのだろうと考えた。私は、分裂した自己を統合できない状態に置かれていた。だからこそ自分自身に戻りたいという欲求を抱いた。そしてこれこそが私を衝き動かしていた動機なのだということを悟った。長年にわたり、私は世界から、そして自分自身から逃避していたのだ。そしてこれが、私が物理的に、また知的にもさまよい歩いた理由なのだった。
 

 すでに公人となっていた彼は、親友が編集していた全国的に有名な保守主義の雑誌『ナショナル・レビュー』に、親友への手紙という形でカミングアウトを決行する。

 
 この本は、そこに至るまでのリーブマンの半生を描いた自伝であると同時に、アメリカの政治の舞台裏や、アメリカの一般市民と政治との密接な距離感の様態を知ることができる、面白い読み物となっている。

 最後に、ウィキペディアの記事「マーヴィン・リーブマン」から引用する。
 
 Although he initially labeled himself a moderate Republican and worked to support gay-friendly conservative groups, including Log Cabin Republicans, he eventually concluded that he could no longer self-identify as a fund raiser for or supporter of any conservative group because of the increasingly anti-gay rhetoric of the political right. Liebman also later renounced his ties to Catholicism. In the final years of his life, he chose to describe himself as an "independent"

 He died of heart failure on March 31, 1997.


 最初のうち、リーブマンは自分自身を「穏健な共和党主義者」と称しており、『ログ・キャビン・リパブリカン』をはじめとするゲイフレンドリーな伝統的グループのために働いていた。しかし、最終的には、いかなる伝統的グループの資金調達者としても、あるいは支持者としても、自分自身を位置づけることはもはやできなくなった。なぜなら、そこでは次第に反同性愛的言説が多くなってきたからである。リーブマンはまた後年、カトリックとの絆も絶ってしまった。亡くなる数年前から彼は、自分自身を「無党派(independent)」と表現することを好んだ。

 リーブマンは1997年3月31日に心臓疾患で亡くなった。

 
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