ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『高齢者は暮らしていけない 現場からの報告』(結城康博、嘉山隆司編著、岩波書店)

高齢者は生きていけない 老いることは大変である。

 どうしたって体の機能は衰え、あちこちにガタは来る。容姿は衰え、多かれ少なかれ頭もボケる。若さと有用性を重視する世間からは邪魔者扱いされる。仕事を引退すれば社会との接点も少なくなる。介護が必要となれば家族の重荷となる。連れ合いや知り合いに先立たれ孤独になる。人様やお国の世話にならなければ生きていけない。そういう自分を受け入れなければならない。遠くない先には、100%間違いなく「病」と「死」とが待っている。

 ただでさえ大変なのに、お金がなければ、福祉がなければ、支えてくれる人がなければ、輪をかけて大変なのは火を見るより明らかである。
 いまの日本、このお金がない、福祉や医療も十分に受けられない、支えてくれる人もいない高齢者が増えているのである。何十年とお国のため、家族のため、真面目に頑張って働いてきて、最後に待っていたのがこの仕打ち。
 なんたることだろう!

 この本は、乏しい年金や生活保護だけがたよりの、あるいはそれさえも得られずに路上生活を送っている、貧困高齢者の置かれている現状について、いろいろな立場から高齢者に関わっている専門家たち~ケアマネジャー、福祉事務所のケースワーカー、地方の特別養護老人ホームの施設長、都内の病院のソーシャルワーカー、有料老人ホーム相談所のスタッフ、地方の在宅介護NPO、都内の病院の救急医師~が、それぞれの現場で実際に起こっている困難事例と課題とを具体的に挙げながら、赤裸々に描き出している。
 それはもう‘豊かな先進国・日本’という幻想を叩き壊すに十分な、目も当てられない悲惨さと、政治と人心の荒廃のさまを読む者に突きつけてくれる。

 もちろん、いつの時代だって貧乏人は悲惨な生活を強いられた。口減らしのため捨てられた年寄りもいた。社会や福祉の干渉を拒む偏屈な老人だっているだろう。「昔は良かった」なんてのは幻想である。
 問題は、昔と違って今は、悲惨な状態に追いやられている高齢者の姿がマスメディアにより国民に知れ渡っているのに、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と憲法に謳われているのに、それを可能にするだけの条件が揃っているはずなのに、北欧諸国を見習えばやろうとすればできないはずはないと分かっているのに、それが実現できないでいる現実に直面している点である。

 かく言う自分もほぼ間違いなく、このまま生き長らえば貧困高齢者の一人になるだろう。いつ事故や病気で体が動かなくなるかわからない。認知にならない保証もない。公の世話になることになんら恥も屈辱も遠慮も感じはしないだろうけれど、介護保険制度も年金制度も生活保護も今後数十年の高齢者人口の増加に追いつかないのは目に見えている。

 まだ体が動くうちに、自己決定もできるうちに、適当なところで寿命が尽きるのが一番幸福だという結論に自然導かれるのは、あまりにネガティブだろうか。介護職に就く者として資質に欠ける発言だろうか。

 考えてみたら、この本もまさにそうであるが、老いを巡って専門家の声はあまた聞こえてくるけれど、肝心の当事者の声というものがあまり聞こえてこない。老人ホームにおいても、利用者に向かって「あなたは今後どうしたいです?」という問いかけは一種のタブーである。「がんばって100歳まで生きたい」という答えならよいけれど、「一刻も早く死にたい」などという答えが返ってきたら、職員は対応に困ることになる。
 福祉の本などでは「死にたい」は本音ではなく「イキイキと生きたい」の裏返し、ともっともらしく書かれているけれど、「幸福に死にたい」という思いは誰もが正直に持つ願いではないだろうか?
 自らの「老い」や「死」と向き合うのを恐れている若い現役世代は、病人や高齢者が「死」という言葉を発すると、反射的に否定してしまう傾向がある。だから、ますます高齢者は心を閉ざし本音を語らなくなる。
 老いの当事者の声に何ら解釈を差し挟まずに耳を傾けることが必要であろう。



● 映画:『J・エドガー』(クリント・イーストウッド監督)

 2011年アメリカ映画。

 FBI(アメリカ連邦捜査局)初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーの伝記であり、48年間という異常に長い在任期間中、8代の大統領に仕えた、というより8代の大統領を御した陰の権力者の実像に迫る物語である。

 主演のレオナルド・デカプリオは、往年の美少年イメージを台無しにするグロテスクな老けメイクで力演している。どうせならもっと突き抜けて「怪演」まで行けば良かったのに・・・。


 観る者は、20世紀アメリカの国家レベルの犯罪(たとえば飛行家リンドバーグ夫妻の愛児誘拐殺人事件)に立ち会うスリルを味わいつつ、自らが育てたFBIという牙城と長官の椅子を守るためにスキャンダルの暴露を武器に政敵(時の大統領さえ!)を脅すエドガーの権謀術数のいやらしさに、大物ならではの複雑な人間性を愉しむこともできる。
 しかし、やはり一番の見所は、エドガーの私生活であろう。

 生涯独身を貫き、母親と一緒に暮らし続けたエドガーの謎に包まれた私生活こそ、観る者の好奇心をそそって止まない。野心と支配欲と名声と被害妄想とに満ちた複雑極まりない男の謎を解く鍵でもある。
 イーストウッドはその鍵を見つけて、鍵穴に丁重に差し込み、ゆっくりと回して留め金を外す。そして、家人が気づかぬようにそっと扉を押すのである。
 それは、虚像をあばくといったマスコミめいた青臭い正義感でもなく、正体をさらして貶めるといった世間好みの覗き趣味でもなく、抑圧された欲求(=深層心理)と満たされない家族関係のうちに表の世界のエドガーの無情でエキセントリックな振る舞いの原因を探るといった心理学的な解釈の押し付けでもない。
 あくまでもクリントの目はやさしい。エドガーの抱えざるをえなかった苦しみに対する理解と密やかな共感とに満ちている。
 エドガーが、母親を亡くした直後に、母親の部屋の姿見の前に立ち、母親の首飾りをかけて、母親の洋服を身に着けるシーンの痛切さは、どうだろう?
 異性装、それもかくまでグロテスクな‘親父’の女装は、下手すると観る者に強い拒否感や嘲笑を呼び覚ましかねない。「なんだ、単なる変態か」と。あるいは、いびつな母子関係の犠牲者であるエドガーの姿に、ヒッチコックの『サイコ』に出てきたノーマン・ベイツの姿を重ねてしまう恐れだってある。
 そのリスクをあえて冒して、クリントが姿見に映し出してみせたのは、母親の姿に重ねることでしか「自分」というものを発見できなくなってしまったエドガーの強烈な孤独と自己否定である。

 それはもしかしたら、クリント自身の姿だったのかもしれない。クリントもまた、大衆という巨大な母親の声に応えて「マッチョ」を演じ続けてきた一人であるからだ。(→ブログ記事参照

 マッチョであることを母親に強いられ、母親の期待に応えることではじめてその愛情を獲得できたエドガーは、結局死ぬまで母親という呪縛から逃れることができなかった。本来の自分を偽り続けることが第二の天性となってしまい、その一方で、他人の偽りを収集しあばき続けることに執念を燃やしたのである。
 そんななかで出会った生涯ただ一人のパートナーが副長官クライド。
 このクライドとの関係がもう少し丹念に描かれると良いのだが、そうすると伝記の枠をはみ出してフィクションになってしまうから、まあ仕方ないかな。

 それにしても、アメリカはホモフォビア(同性愛嫌悪)の強い国であるが、奇妙なことに、J・エドガーの例に限らず、アメリカの権力者(特に共和党の)にはクローゼットのゲイが多いと言われる。彼等は一様にゲイの権利を保障する条案の成立を拒んできた。
 さもありなん。
 ホモフォビアとは、自らのうちにあるホモセクシュアリティに対する否認だからだ。人は、自分自身に認めないもの、許さないもの、与えないものを、他人に対して認め、許し、与えることはできない。
 かくして、クローゼットなゲイの権力者によって支配されているホモフォビアの強いマッチョな国アメリカという倒錯が起こる。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 天才の顔 映画:『上海から来た女』(オーソン・ウェルズ監督)

 1947年アメリカ映画。

 この世に典型的な天才の顔というものがあるとしたら、オーソン・ウェルズの顔こそ、それだと思う。
 ハンサムではない。ブ男でもない。一度見たら忘れられない特異な顔立ちというわけでもない。セックスアピールがあるというのでもない。俳優としては決してヒーローにもスターにもなれない平凡な造作である。
 しかし、ひとたびカメラの向こうに捉えられ、画面に映し出されるや、この顔は他の役者をすっかり影に追いやってしまう強烈な磁力を発する。常に次の気の利いた仕掛けを考えているいたずらっ子のような自在な活力と茶目っ気が、観る者を虜にする。


 この作品でも、タイトルからすれば主役であるはずのエルザ(=リタ・ヘイワース)の魅力は物語が進むにつれ背後にかき消えてしまい、エルザに魅入れられ引きずり回され、挙句の果てに殺人の濡れ衣を着せられてしまうマイケル(=オーソン・ウェルズ)の一挙手一投足に観る者は標準を合わせることになる。
 謎の女に振り回される純粋な男に降りかかる災難を描くのは、巻き込まれ型サスペンスとして王道であるけれど、そのためには謎の女の魅力のほどが観る者に十分納得されるような演出が必須である。最初のほうでこそ、水着姿で抜群のプロポーションを披露したり、カッコよく煙草をくわえたりと、往年のセックス・シンボルたるリタ・ヘイワースの持ち味はそれなりに発揮されるけれど、物語が進むにつれ、ミステリアスな風情は失われていき、なぜマイケルがこの平凡な女に執着するのかが理解できなくなってくる。
 これは、リタの演技力の未熟というより、やはり脚本のまずさ、演出の不手際によるものだろう。
 監督として、主演女優であり妻であるリタを魅力的に撮るより、物語をわかりやすく示すより、才気走ったやり方で演出することをオーソンは優先してしまったのである。オーソンが一俳優として出演した『第三の男』(キャロル・リード監督)の共演女優アリダ・ヴァリが最後まで魅力を失わずに鮮やかに去っていく姿と比較すると、この事情は明白である。
 
 そもそもこの物語は筋が相当入り組んでいるのだが、上手に整頓できていない。リタがいったいどういう女で何をしたかったのか、リタの夫でやり手の弁護士であるアーサーの真意は何なのか、肝心の殺人が具体的にどういうトリックで行われたのか、よくわからない。マイケルの罪を問う裁判のシーンも、通常なら事件の秘められた真相を匂わせる、あるいはマイケルの陥った罠の恐ろしさをまざまざと感じさせるサスペンス効果を発揮する格好の場面になるところだが、裁判制度の茶番を描き出すことに主眼が置かれているようで、なんだか焦点が合っていない。
 
 ただ、たとえ脚本が良くて、演出も懲りすぎることなく、わかりやすい物語になったとしても、ヒッチコックのスリラーの2番せんじになってしまうだけかもしれない。
 この手のもので、ヒッチコックを凌駕するのは難しかろう。


 

評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『修羅雪姫』(藤田敏八監督)

 1973年東宝。

 文句なしに滅茶面白い。

 雪の降る寒い晩に、母の命と引き換えに牢獄で生まれた娘。
 その母は殺人犯にして男と見れば相手選ばぬ淫乱女。
 故に父は知らず。
 復讐の為にのみこの世に生み落とされた因果な娘。
 その名は雪。
 負×負×負× ・・・・・

 舞台となるは文明開化華やかなりし明治の日本。
 しかし、親の敵を探して雪のさすらう人生行路に見える景色は、血のにじむような修行の日々、強姦、売春、遊郭、博打、部落、血しぶき、魑魅魍魎の権力者、欺瞞と欲望の象徴たる鹿鳴館(もちろん仮面舞踏会あり)・・・。
 負×負×負× ・・・・

 日本的な「負」の追求の果てに咲いた一輪の花が、雪(=梶芽衣子)である。
 このまさに劇画的に大仰な、メリハリのある、刺激的な舞台設定こそ、映画を輝かせる。
 そう。テレビでは「負」は描けない。
 もちろん、すべての「負」をひっくり返す雪の美貌があっての話である。(これで、雪がブスだったら救いようがないではないか)

 主演の梶芽衣子の美しさ・かっこよさは言うまでもないが、敵役の一人・北浜おこのを憎憎しげに演じる中原早苗のえぐみ、若き宮沢りえを思い出させる若き中田喜子(『渡る世間』の文子)の可憐さも、インパクト大。
 大映テレビドラマにも似た過剰な演出の中に、藤田監督の美学が散りばめられていて、圧倒的な「負の豊饒性」に酔いしれること間違いなし。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 本:『それぞれが幸福な死を迎えるために』(春山満著、扶桑社)

春山満 2001年3月発行の本。

 著者は介護ビジネスの第一線を走り続けている有能な実業家である。と同時に、24歳の時に進行性筋ジストロフィーを発症、首から下の運動機能が全廃、寝返りを打つことさえできない身体障害者である。本人の弁によれば、「首から下は完全に寝たきりの要介護のお年寄り、首から上はバリバリの野心満々の壮年期へ突入した商売人」。
 2人の息子を持つ父親でもある。

 この本は、春山氏が我が国の介護の現場に、ビジネスマンとして、また一人の当事者として、長いこと関わってきて、多くの高齢者の老いと死とを見つめ続けてきた中で募ってきた思い、込み上げてきた感情が爆発している。
 煎じ詰めると、このような叫びとなる。


 日本、豊かだといいます。みんな、いい服着て、いいものを食べて、家にはエアコンがあって、車に乗って、戦後あこがれた豊かな日本になりました。
 ところがいま、多くの人々が、親が死んでホッとする国なんです。
 親が死んで、ホッとする国の、どこが豊かなんですか?
 日本の「老い」ってこれでいいのですか。
 ぼくはいつしか、日本人の老い、ひいては日本人の人生観について、大きな疑問を持つようになりました。

 この疑問、この叫びが、春山氏を駆り立てて、「日本人の老いへのイメージ、老後を変えたい!」という目標に向かって、熱いパッションと奔放不羈なる行動力の両輪を激しく駆動させ、周囲の人々を巻き込む磁力を生み出していく。
 自分の夢を熱く語る人、失敗を恐れない行動力のある人は、人を惹きつける。
 この本もとても面白くて、一気に読んでしまった。

 特に興味深いのは、日本の老いと介護のあり方に疑問といら立ちを覚えた春山氏が、アメリカやヨーロッパの高齢化先進国に出かけて、その国々の高齢者事情を視察・調査するくだりを描いた第三章「海外では生と死のあり方をどう捉えているか」である。

 欧米諸国そしてオーストラリアの高齢化先進国は、それぞれに迷いながらも、強い意志をもって老いに対する施策を行っています。その施策、高齢者に対する介護や医療システムには、それぞれの国が持つ文化が色濃く反映されています。その国が持つ死生観や人生観がいろいろなカタチで表出しているのです。

 春山氏は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、オーストラリアの福祉制度の特徴を紹介しながら、訪問した各国の老人ホームやホスピス事業、シェルタードハウス(介護付アパートメント)、民間の福祉施設などの様子を伝えてくれる。
 それはまさに彼我の文化の違い、価値観の違いをくっきりと映し出していて、比較文化論としても非常に面白く読める。
 例えば、アメリカのある豪華なナーシングホーム(有料老人ホーム)では、最初に3年間分の入居費用さえ払えば、そのあとに資産を食いつぶしたとしても死ぬまでそこにいられるシステムがある。4年目以降は施設がゴルフ・コンペなどの寄付で集めた基金をその居住者の生活費にあてがうのである。春山氏がそこを訪問した際に、資産を食いつぶした老女の元に裕福そうな見舞い客が来ていた。聞くと、それは老女の息子であった。春山氏は施設長であるリンチーさんに尋ねる。 

 「どうしてあの裕福そうな息子さんに費用の請求をしないのですか?」
 するとリンチーさんは、目を丸くして、呆れたようにいいました。
 「何をいってるのですか、春山さん。老いは個人の責任ですよ。息子さんたちには関係ありません。アメリカにはそんな風習はありませんよ。個人がすりつぶした財産を、なぜ息子さんに請求するのですか?息子さんには息子さんの人生があります」


 まさに自己責任の国、アメリカである。
 また、こんな一節も。


 ヨーロッパに限らず、アメリカでもオーストラリアでも、介護というゾーンに入ると、だいたい医療は切断します。風邪薬や頭痛薬は出しても、日本のようにただ生かせることを目的とした高齢者医療というものはやらないのです。その代わり、いかに生きるかということを、つまりお年寄りの心を、最期までしっかりとプロとして支えていきます。
 ぼくはここに、非常に厳しい命の見切りと選択、それを純然と捉える国民の潔さ、その現実を踏まえて高齢者住宅をきちんと運営していくマネジメントのすごさを見た思いがしました。

 このような海外の高齢者事情の見聞をもとに、春山氏は沖縄名護を舞台に一大福祉事業を打ち上げる。それが、日本初のリタイアメントコミュニティ「カヌチャ ヒルト コミュニティ」である。

 

 壮大な自然に囲まれた、豊かなリゾートと合体した、壮年期からのコミュニティです。でもそれは、単なるリゾートではありません。壮年期からの「第三の人生」を輝かせ、充実して過ごすための、まったく新しいタイプのコミュニティです。
 それはおそらく、これから日本全土に広がっていくであろう新しいムーブメント、医療と介護の新時代を告げるコミュニティのモデルとなるはずです。・・・・・・・・・

 ・・・・超高齢化する日本で、これから一番重要になるのは、「誰もが共に調和して暮らすこと」だと思うからです。
 誰が介護しても、誰に介護されても、泣かない日本をつくる。バリアフリーを超えて、共に調和して暮らすヒルト(HILT=Harmony In Living Together)。これからは、ぼくらは皆そのヒルトという感覚を持っていかなければならないと思います。 

 
 その勢いや、良し。
 またたく間にジャーナリストの櫻井よしこをはじめ多くの賛同者、協力者を得、場所も選定され、具体的な構想と計画ができあがり、第一期工事がスタートしたのが、この本の出版直後であった。

 それから11年・・・。


 いま、カヌチャはどうなったのだろうか?
 透き通るような青い海と色濃い緑に囲まれた沖縄の楽園で、リタイアメントした裕福な日本のお年寄り達が、セレブで豪華で陽気で「毎日が日曜日」の生活をエンジョイしているのだろうか?
 春山氏の会社の公式ホームページをのぞいても、カヌチャの「カ」の字も載っていない。
 「カヌチャコミュニティ」で検索をかけてみると、2011年の末に倒産している。理由はよく分からないが、事業はうまくいかなかったみたいである。


 春山氏の問題意識(日本人の老いはこれでいいのか?)が間違っていたわけではあるまい。HILTという理念が見当違いだったわけでもあるまい。欧米で通用する枠組みを日本にそのまま輸入したことで起こるよくある失敗という、それだけでもあるまい。(春山氏は、欧米人と日本人の気質や文化の違いをよく研究した上で、カヌチャを計画したのである)
 しからば、なぜ????

 時期尚早だったのだろうか。
 沖縄があまりに遠すぎたからであろうか。


 なぜ挫折したのかという理由の分析こそが、日本人の老い方を考える上でいまとても必要であると思う。


 ただ一つ言えるのは、春山氏のカヌチャ事業は明らかに「勝ち組御用達」であったということである。
 勝ち組の心理というものも、日本と欧米とでは違うのかもしれない。(大橋巨泉あたりに聞けば分かるのか)





● 渓流の別天地:棒ノ嶺(969メートル、奥武蔵)

20120805棒ノ嶺 0018月5日(日)晴れ

●タイムスケジュール
10:08 飯能駅着
10:20 名栗車庫行きバス乗車(国際興行バス)
11:00 さわらびの湯バス停下車
      歩行開始
      有間ダム~名栗湖~白谷沢
12:40 岩茸石
13:20 山頂到着
      昼食
14:30 下山開始
      岩茸山~湯基入(とうぎり)林道
16:15 名栗温泉大松閣
      歩行終了、温泉入浴
17:35 名栗川バス停より乗車
18:15 飯能駅着

●所要時間 5時間15分(歩行時間3時間45分+休憩時間1時間30分)



20120805棒ノ嶺 008 棒ノ嶺(棒ノ折とも言う)は2度目である。
 白谷沢の渓流の美しさと気持ちよさ、山頂からの抜群の展望、そして下山した後の温泉、と山登りの魅力が揃っていて、これまでに登った山の中でも1、2をあらそう「登ってよかった山」「また登ってみたい山」である。
 都心からも近くて、登山道も整備されている。歩く時間も長すぎず短すぎず、手頃な達成感を味あわせてくれる山である。

 この季節、山登りは一種しごきである。水分補給につとめないと、脱水症状や熱射病になる恐れがある。汗びっしょりになった洋服が肌に吸い付くのをものともせず、ひたすら重い足を前に前にと運ぶとき、自分の前世は苦行僧だったのではないかと思うほどである。
 クーラーの効いた部屋でゴロゴロしていれば楽なのに・・・。
 山登りとは因果な趣味である。

20120805棒ノ嶺 007 とは言え、棒ノ嶺は別格。
 白谷沢の渓谷は、夏こそ行きたいポイントなのである。
 鬱蒼とした森の中、黒々した大小の岩を洗いながら軽快な音を立てて走る白い流れは、クーラーの作り出す人工的な冷気とは桁違いの爽やかなパワーあふれる気を周囲に発している。 部屋にじっとしていたのでは決して味わえない、受けることのできない、新鮮な良質のエネルギーを充填できる。だから、山登りは止められない。
 沢登りの楽しさ、気持ちよさを十分に満喫したいのなら、できるだけ朝早く出かけるのがおすすめである。

 今日はしかし、遅い「出」となった。
 登山口に向かう途中の名栗湖畔で、すでに下山した人々と挨拶を交わす。
 登山口には「白谷の泉」という名の湧き水が吹き出している。しっかり水分補給をして、山道に踏み込む。
20120805棒ノ嶺 004 20120805棒ノ嶺 003

 楽しく気持ちよい渓流登りが終わると、岩茸石という巨岩が山道をふさいでいる場所に出る。風が心地よい。
 尾根の片側に針葉樹林、片側に広葉樹林という、植生の画然たる境目をみながら高度を稼いでいく。最後の木の階段が長くてしんどい。

20120805棒ノ嶺 009  20120805棒ノ嶺 010

 権次入峠(ごんじりとうげ)で右に折れて、埼玉と東京の境になっている尾根をひと登り。
 いきなり洋々たる関東平野が眼下に広がるのに衝撃を受ける。
 白く光る西武球場のドームはもちろん、はるか彼方の新宿副都心の高層ビル群に到るまでの密集した人の暮らしぶりが、一望に納まっている。

 まったく、ゴミゴミした中でクヨクヨつまらんことを考えている日々の暮らしの愚かさよ。

   20120805棒ノ嶺 011

   20120805棒ノ嶺 015

   20120805棒ノ嶺 017

 草の上にシートを敷いて昼食。
 おにぎり2個、サンマの缶詰、枝豆、ゆで卵。ペットボトルに入れて冷凍した麦茶がほどよく溶けて、実にうまい!
 東屋やベンチのある広い山頂には、30名ほどの人やグループがいた。
 仰向けになって、しばらく休む。
 雲がどんどん形を変えていく。
 夏の空だ。

20120805棒ノ嶺 014


 下りは、名栗川橋バス停に出る湯基入林道のコースを取る。同じ様な林道がひたすら続くので、面白くないし、標識が無いので不安になってくる。なんだか歩くほどに、山の奥のほうに入り込んでいるような気がする。
 (この道でいいのだろうか?)

 こういうとき、判断が難しい。
 あと10分歩けば、標識が出てくるかもしれない。麓の景色が見えてくるかもしれない。
 と思う反面、(このまま進み続けるより、早めに標識のあるところまで引き返したほうがいいのかもしれない)とも思う。標識を見落とした可能性もある。
 こういうときに限って、なぜか車も人もまったくすれ違わない。
 不安はパニックの親である。パニックになったら、事態は悪化するばかりだ。
 (とりあえず、あの先に見える橋まで行って、どうするか考えよう)
 橋に着いたら、やっと道標があった。見落としても不思議でない、草むらに半ば隠れた、小さな道標が。
 (やれ、助かった!)

20120805棒ノ嶺 020 林道の終点は、由緒ある温泉旅館「大松閣」。
 鎌倉時代に発見された古湯で、若山牧水も泊まったという。
 1500円払って、最上階にある展望風呂に入る。
 空いていて、ゆったりできる。
 ラジウム鉱泉の冷浴もある。

20120805棒ノ嶺 019 風呂上りに、フロント横の売店で買った缶ビールと加藤牧場のアイスクリームを食べる。
 このアイスクリームが風味さわやか、舌触り絶妙で、すこぶる美味であった。
 さわらびの湯も良いが、森の中の古い温泉旅館の落着いた雰囲気も心和む。

 夏の夕刻の名栗の里は、素晴らしい一日を祝福するかのような、やさしい、平和な光に包まれていた。

20120805棒ノ嶺 021


  
 
 
  

● 映画:『月に囚われた男』(ダンカン・ジョーンズ監督)

 2009年イギリス映画。

 原題はMOON。
 月で発見された新エネルギーを採掘して地球に送る作業を、企業との3年契約で行う男サム・ベルの話。(こんなエネルギーが本当に発見されるといいのに・・・)
 基地ではすべてがコンピュータ制御なので、サムの仕事は採掘車の監視と地上への連絡、そして採掘したエネルギーをロケットに詰めて地球へ転送する作業のみ。簡単な仕事である。
 話す相手はガーティと呼ばれるコンピュータロボットのみ。月に一人で住む孤独と退屈に耐え、地球にいる妻と娘との再会の日々を夢見て、任務の明けるのを指折り数えて待っている。

 この設定から、不思議な物語が始まる。


 驚くのは、基地のモニターに映る企業の上司達やビデオメッセージの中の家族の姿をのぞけば、最初から最後まで登場する人物(=役者)はサム(=サム・ロックウェル)だけなのである。相棒であるガーティとのやり取りはあるものの、ほぼ一人芝居で最後まで行ってしまう。それでいて、まったく飽きることなく、面白く、感動的ですらある。
 舞台劇ならともかく、映画でそんなことが可能なのか。
 それが可能であることを証明したのがこの作品である。
 たった一人の演技者、基地の中という限られた舞台設定、それだけでこれほど不思議な、惹きつけられる、哲学的とも実存的とも言いたいようなテーマを描けるということが、一種の驚異であり、この監督のただものでないセンスの切れを感じさせる。
 その秘密は、この映画の種明かしにからむものなので、うかつに言えないけれど、観る者が主人公サムと共に真相を知ったとき、サムの囚われている状況の何とも言いようのない哀しさに胸の締めつけられる思いがしよう。
 これに近い感覚は、映画にもなったカズオ・イシグロの有名な小説に見つけることができる。
 
 終わったあとに、もう一度初めから観ることをオススメしたい。
 なんという皮肉がそこかしこに散りばめられているか。
 たとえば、冒頭。サムがエクササイズしているシーンで、サムの着ているティーシャツに書かれている文句。サムの目覚まし時計に使われている音楽の歌詞。
 
 月面の美しい映像と合わせて、簡単には忘れられない映画の一つである。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 映画:『宗方姉妹』(小津安二郎監督)

 1950年新東宝。

 日本映画の至宝女優たる田中絹代と、元祖銀幕アイドルたる高峰秀子の共演、撮るは名匠小津安二郎、と来ては期待せずにはいられまい。
 が、どことなくちぐはぐな印象が残る作品である。

 面白くないわけじゃない。むろん、演技や演出が下手なわけでもない。

 古い価値観、倫理観を大切にしながら妻として凜と生きる姉・節子を演じる田中絹代も、新しい時代の風を柔軟に受け入れながら自分に正直に自由に生きようとする妹・満里子を演じる高峰秀子も、ともにすこぶる魅力的で、それぞれの役に生き生きとした個性とリアリティを与えることに成功している。
 加えて、節子の夫・三村を演じる山村聡のうらぶれた、すさんだ、しかし最後まで矜持を捨てない男の造型も見事である。「よくできた、理想的な」妻を持つがゆえにかえって、無職の不甲斐ない家長でいることが桎梏となって心の休まる場所を持たない男の心理を、山村はあますところなく演じ切っている。節子がかつての恋人である田代(上原謙)と実際に不倫していたのであれば、むしろそのほうが楽だったかもしれない。節子を責める口実ができるし、不道徳な妻に対してもはや引け目を感じる必要はないからである。 
 三人の役者の演技合戦は見物である。

 ちぐはぐなのは、暗くドロドロした人間関係の生み出すダイナミズム(活力)と、すでに完成されている小津安二郎のスタティックでユーモラスな演出スタイルとが噛み合わない為と思われる。

 映画冒頭の大学教授(齋藤達雄)のとぼけた感じの講義シーンから始まって、笠智衆のあいもかわらぬ飄々とした趣き、新薬師寺境内の美しいショット、豪華な応接セットの中での田代と満里子のユーモラスなやりとり、真下頼子(高杉早苗)が箱根の旅館の窓から見上げる白い雲・・・・。『晩春』や『東京物語』ですっかり馴染みとなったこれら一連の小津印のついた流れの中で、三村が登場するシーンは息苦しいまでの重さと生真面目さとで流れを堰き止め、澱みをつくっている。三村が飼い猫を抱き上げる本来なら幾分の愛らしさを感じさせるはずのシーンですら、なんだか戦前の肺病持ちの売れない文筆家の生活を描いたリアリズム作品みたいで、貧乏臭さばかりが匂ってくる。
 それは、前者の流れの持つ品のある晴朗感と対比されることで燦然たる効果を発揮するという方向には向かわず、お互いの世界のリアリティを打ち消しあう結果となってしまっている。


 小津監督が自分のスタイルを確立した時、それは何を撮るのかが自ずから限定されてしまった時なのであろう。より正確に言えば、何を撮るべきでないかが決まってしまったのである。
 そのスタイルは、たとえば黒澤監督のスタイルとは違って、さまざまな素材を自由に料理して盛りつけることのできる器ではなかった。黒澤の器が何にでも使える大きな平皿だとしたら、小津のそれは醤油を入れるスペースまで付いた刺身専用の皿みたいなものである。素材が刺身である時は、ほかの誰も真似できない至高の高みまで到達するが、肉料理を盛り込むとどうしてもちぐはぐにならざるをえない。せいぜい馬肉の刺身までが許容範囲である。

 ドロドロした男女関係は肉料理の最たるものであろう。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 本:『患者さんと介護家族のための 心地よい排泄ケア』(西村かおる著、岩波書店)

心地よい排泄ケア 著者は看護師で、イギリスで地域看護、排泄看護を学んだ後、90年に日本で初めてのコンチネンスセンターを開設。日本コンチネンス協会の代表をつとめる。

 コンチネンス(continence)とは聞き慣れない言葉であるが、「失禁(incontinence)」の反対用語である。というより、言葉の成り立ちとしては、先に「コンチネンス」があり、あとから否定の接頭辞「in-」をつけた「インコンチネンス」が生まれたというのが筋であろう。
 コンチネンスとは自分の排泄をコントロールできる状態のことを言う。だから、排泄をコントロールできない状態をインコンチネンス(失禁)と言うわけである。
 日本語には、「失禁」の反対にあたる適切な言葉がないので、あえてそのまま英語を使ったのだそうだ。確かに、continenceを英和辞典で調べると「(大小便の)我慢」とある。「排泄をコントロールできる」という肯定的・自律的なニュアンスと、受け身一方でどちらかと言えば否定的なニュアンスのある「我慢」とでは、かなり違う。
 要するに、著者は排泄に関する新たな概念を日本に導入したのである。

 内容はかなり専門的で、医学用語や症例がバンバン出てくる。看護や介護に関わる専門家向けの本である。
 自分も介護職に就いていて、頻尿や便秘を患う利用者と日常的に関わっているのだが、まだ新米の身。ちょっと、読むに早すぎた・・・かな?
 でも、普段自分が何気なく行っている排泄が、様々な心身の複雑な機能と適切な環境条件との見事な連携のうちに可能となっているのを知って、「有り難い」と思った。
 
① 尿意・便意を感じることができる
② トイレを認識できる
③ 起居・移乗・移動ができる
④ すみやかに衣類の脱衣ができる
⑤ 便器の準備・操作ができる
⑥ 排尿・排便が気持ちよくできる
⑦ 後始末ができる
⑧ 着衣ができる
⑨ 元の場所に移動できる

 この流れの中のどれか一つでも不能になれば、コンチネンス(気持ちのいい)な排泄はできなくなるのである。
 そして、そのことは(失禁することは)一般に、本人にとって、とてもつらく惨めな、自尊心の低下をもたらす、ボケを促進しさえするものなのである。


 ところでー。
 考えてみると、我々はみな赤ちゃんの頃は、失禁の王様である。自分などは、小学校に入るまでたまに便失禁していた記憶がある。
 しかしそれは、自分にとっては妙にコンチネンスなところがあった。出ようとする便が肛門を刺激する時の感覚を楽しんでいて、わざと我慢していた覚えがある。
 また、心理学的に言えば、失禁することで母親の注意を自分に向けたい(それが叱られるというネガティブなものであろうと)という心理が働いていたのかもしれない。
 そう、排泄行為こそ、人間にとって最初の自己主張、自己表現なのかもしれない。
 ということは、それはまた最後の自己主張、自己表現でもあり得るのかもしれない。
 SMの浣腸プレイなんかは、人の見ている前で失禁する本人にとっては、明らかにコンチネンスな自己解放手段である。
 
 なんだか尾籠な話になったが、単純に医学的な見方だけでは排泄という行為は語れないような気もするのである。






● 映画:『アナザープラネット』(マイク・ケイヒル監督)

 2011年アメリカ映画。

 観ている間、ずっとイギリス映画だと思っていた。
 薄暮のブルーといった光線の感じ、画面の質感が、イギリス映画っぽいのである。
 撮影もケイヒル監督によるものだが、この不思議なタッチは魅力的である。
 おそらく、頭のどこかで、エイズで亡くなったゲイのイギリス監督デレク・ジャーマンの作品群、特に『エンジェリック・カンバセーション』(1985年)を想起したのだろう。

 この画面そのものの魅力と、「もう一つの地球に住む、もう一人の自分と出会ったら、何が起こるのか」というSF作品としての「引き」ゆえに、最後まで観てしまったのだけれど、よく考えればこれはSFにする必要はまったくない。実際、「引く」だけ引いて、何も起こらないのである。
 いや、最後のシーンで主人公であるローダ(ブリット・マーリング)は、もう一つの地球に住むもう一人の自分と遭遇するけれど、本来ならそこから始まるべきSFとしての面白さをあえて追求せずに、そこに至るまでのローダの身辺がたんたんと描かれるのである。
 SF部分をなくせば、この作品は「贖罪」の物語であり、男と女の恋愛物語なのである。そして、「もう一つの地球の出現」というSF部分は、別にこの二つのテーマを語るに際して、無くてはならない要素ではない。

 そこで思い出すのは、往年の日本のピンク映画の制作に関する話である。
 どこで聞いたのか覚えていないし、本当かどうかは知らないが、ピンク映画では、一本の作品の中で男女が絡むエッチなシーンを少なくとも3回(3場面)差し挟めば、あとは監督の好きに撮っていいというルールがあるらしい。
 才能豊かで表現意欲あふれる監督たちは、その最低条件をクリアさせながら、何かと制約の多い一般映画の枠では簡単にはできない「自分の語りたい物語を撮りたいように撮る」ができるのである。(もちろん、映画館の観客達の性欲を損ねるような暗い話や真面目なテーマははじめから無理であろうが・・・。)

 つまり、この『アナザープラネット』も、実は訳あってSF映画の体裁を借りただけなんじゃないかという気がするのである。
 「SF映画でないとDVD売れないよ~」とか「本筋のテーマはテーマとして、ちょっとSF的な味付けを入れて、重苦しい文芸映画のイメージを取っ払ってよ~」といったプロデューサーたち外野の声が聞こえてくるような気がするのである。

 もう一つの地球が空に浮かび上がっている風景は、たしかに幻想的で美しいけれど、どう考えても設定としては、背景を飾る以上の意味はない。


評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


  
 
 

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