ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ハングオーバー!!史上最悪の二日酔い、国境を越える』(トッド・フィリップス監督)

 2011年アメリカ映画。

 前作の大ヒットを受けて予算アップしたのだろう。今回はタイ・バンコクを舞台にしたバチェラーパーティーご一行様の大暴れ。
 だいたいPART2やPART3が出来映えの点で最初の作品を超えることはまれである。続編につきまとうマンネリズム(お約束ごと)と一作目の成功に気をよくした役者達が気合いを入れすぎるがゆえに生じるキャラの誇張化は、固定ファンを喜ばす一方で、作品としては新鮮さの欠如をもたらす。
 が、この作品は一作目と同レベルの面白さに達している。
 監督の才気、脚本の妙もあるが、一番の魅力はやはりアランことザック・ガリフィナーキスの演技にある。彼が登場した瞬間からマンネリズムの空気が消え失せてしまう。2作目でもアランはやっぱり新鮮である。
 アランが出てくるシーンでは、目は自然とアランに行ってしまう。よく演技に関しては「子供と動物にはかなわない」と言われるが、ザック(と脚本家)はアランの精神年齢を10歳くらいで止めているのだろう。風変わりで異常で変態でトラブルメイカーなのに愛らしさを感じざるを得ないのはそのためなのだろう。
 立ち上がったオットセイのような体型ですら愛らしい。




評価:B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
   
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● シェイクスピアと紫式部 映画:『から騒ぎ』(ケネス・ブラナー監督)

 1993年アメリカ・イギリス共同制作。

 原作はシェイクスピアのMuch Ado About Nothing
 まんま「から騒ぎ」である。
 惚れ合っている二組の男女が結ばれるまでのすったもんだをイタリアの片田舎を舞台に陽気に描いたコメディである。

 お互いに惚れ合っているのだから「好きだ」「私も」・・・で結ばれれば簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。二人を引き裂く陰謀があったり、誤解があったり、両人のプライドがあったり、意固地な性格があったりして、当人同士も周囲もヤキモキする。
 また、そうした波乱や障害がなければそもそも「物語」は生まれない。あらゆる「物語」は、まさにMuch Ado About Nothing「意味のない大騒ぎ」である。
 もちろん、「人生」という物語も同じである。シェイクスピアは『マクベス』にこう語らせている。
 

Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.  
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。 
 
 このようなある種の「虚無」の地点から人生や世間や周囲の人間たちの紡ぐドラマを観ていたのがシェイクスピアである。
 凄いとしかいいようがない。
 一方、この「虚無」からこそ、あれだけ豊かな深みのある物語が生まれ得たとも言える。「物語」を超越した地点にいて、冷めた目であらゆる「物語」の機構を読み抜いたのであろう。神の視点から人間を見るように、自在に「物語」を創り得たのであろう。
 先般亡くなった名女優山田五十鈴が、親友が夫を亡くし嘆き悲しんでいるのをじっと観察して演技の参考にしたという話を、中野翠がどこかに書いていたが、才能ある芸術家というのはどこか透徹した目で世を見ているのかもしれない。
 中世から抜けたばかりの産業革命前の時代。まだイギリスが封建的で牧歌的な空気を宿していて人々が陽気で暢気だった時代。そしてまたエリザベス一世の絶対王政で世界の覇者となったイケイケバブリーな時代。そんな時代に一人そんな境地にいたというところが本当に凄いとしかいいようがない。時代の寵児というより、時代の「超」児=異端者だ。
 日本で比肩できる人物を挙げるとすれば紫式部をおいてない。

 シェイクスピア作品の映画化は難しい。
 そもそもが舞台のために書かれた脚本である。それをそのまま使って映像化するのは無理がある。セリフ自体がまた冗長で古めかしくて「芝居がかって」いる(あたりまえだ)。
 閉鎖された非日常空間である舞台の上なら映えるものも、日常生活同様の開放された空間と日常生活を凌駕する視点の自在さを有する映画ではリアリティを欠く危険がある。それでもシェイクスピアに敬意を示してか、たいていの場合、脚本を映画用に書き換えるということをしない。この映画もおそらくセリフはほぼ原作そのままであろう。
 すると、監督の演出手腕が見所となる。
 ケネス・ブラナーは非常に才能豊かな演出家であることを証明している。実に巧く映像化している。舞台用に書かれた本であることを忘れさせるくらい、演出とカメラ回しとテンポの付け方が巧みでダレがない。ドン・ペドロ(デンゼル・ワシントン)が仲間ともども凱旋するのを村中で迎える最初のシーンなどは、まさに映像でなければ表現できないリズムとお色気を生み出して、村人の喜びの爆発する様を描ききっている。この芝居には欠かせない、舞台はイタリアだがこの時代のイギリスにも欠かせないラテン的な明るく陽気で享楽的な雰囲気が横溢している。モーツァルトの『フィガロの結婚』を聴いているかのようだ。
 しかも、ケネス・ブラナー自身が主役の一人、恋する男を演じている。これがまた実に巧い。本当に才能ある人だ。 
 マイケル・キートンの演技もトンでいて笑える。『ビートルジュース』しかり、独特な体の動きと喋り方によって奇天烈な人物を造型するという点で、ジョニー・ディップ(=ジャック・スパロウ)に先んじている。
 ブレイク前のキアヌ・リーブスの暗い眼差しもまた魅力である。

 『から騒ぎ』は2012年にジョス・ウィードン監督により再映画化されている。
 DVD化されると良いのだが・・・。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」      

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」          
        「ボーイズ・ドント・クライ」
          
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 


● 映画:『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』(トッド・フィリップス監督)  

 2009年アメリカ映画。

 アメリカのドラマや映画を観ていると、当然日本文化にないアメリカ人の風習に気づく。その代表的なものの一つが「バチェラーパーティー」である。日本語でこれに相当する言葉(=概念)がない。そして、多くのアメリカの風習をカタカナ語にして輸入してきた日本文化だが、なぜか「バチェラーパーティー」はいまだに浸透していない。他では「プロム」と「ガレージセール」もそうか。

  自由を謳歌した独身(バチェラー)生活ともついにおさらば。結婚を前に仲のいいダチ公とつるんで最後の羽目を外そう。酒だ、女だ、ギャンブルだ、男同士の乱痴気騒ぎだ、無駄遣いだあ~・・・・・・というのがバチェラーパーティーである。
 花婿ダグとその友人らはラスベガスの一流ホテルに泊まり、一夜の狂乱に我を忘れる。これが単なる二日酔い(hangover)でなく、知らずに飲んだ麻薬の影響で本当に我を忘れてしまう。翌朝目覚めると、ホテルの部屋はとんでもない混乱状態に陥っていて、花婿は消えていた。いったい一晩の間に何があったのか? 花婿を見つけて結婚式に間に合うよう無事帰ることができるのか。
 空白の記憶を探り出し消えた花婿を探すという点ではミステリー。理由も分からずなぜか怪しい一味に付けねらわれるという点ではサスペンス。花嫁はじめ親戚一同がイライラして待っている結婚式に間に合うよう帰れるのかという点ではスリラー。全体としては、肩の力を抜いて観るにふさわしいお間抜けなコメディである。
 テンポも良い。脚本も良い。登場人物一人一人のキャラが立っている。特に、花嫁の弟アランを演じたザック・ガリフィアナキスの「変人」演技は際立っている。素か演技か分からないほどである。「超」のつくオタクな変人なのに、どういうわけか愛くるしさを感じさせ、タグの古くからの友人たちの輪に納まって仲間として受け入れられてしまう。観る者も最後はアランというキャラを楽しんでいる自分に気づく。こうしたキャラを創造できる演技力はかなりの質の高さであろう。注目の俳優である。 同じメンバーで続編が見たいものだ。
 と思っていたら、すでに続編があった。ザックも同じ役で出ているらしい。観てみよう。

 バチェラーパーティーが日本に根付かないのは、日本の男は結婚前と結婚後とでアメリカの男ほど失うものがないからであろう。「結婚は人生の墓場」とはよく聞く言葉であるが、日本にはもともとそういう考えはなかった。少なくとも男に限って言えば。
 日本の男は、結婚しても女遊びするし、ギャンブルもするし、酒も飲むし、男同士つるんでバカ騒ぎもする。
 結婚によって一人の女性に縛られる、家族のくびきにつながれるというのは、アメリカ文化の根底を形作っているキリスト教の影響であろう。唯一絶対神の前で誓い合うのであるから縛りは強い。日本の神と来たら、平気で浮気はするし(ヤマトタケル)、酒は飲んで乱暴するし(スサノオ)、子殺しすらする(イザナギ)。神前結婚にはなんの縛りもない。せいぜい「産めよ、増やせよ」くらいだ。
 さて、どっちが幸せなんだろう?
 男にとって。
 女にとって。


評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● インドに行け! 映画『四つのいのち』(ミケランジェロ・フランマルティーノ監督)

 2010年イタリア・ドイツ・フランス共同制作。

 ヨーロッパでかなり評判になった映画らしい。
 南イタリアののどかな田舎町を舞台に、人、ヤギ、木、炭の四つのいのちが循環する様をロングショットを多用して淡々としたタッチで描く。

 会話らしい会話がない。音楽もない。ナレーションもない。説明のための字幕もない。それどころか演技と言えるものもほとんどない。(プロの演技者は老人が飼っている犬だけらしい。)
 絵と自然のサウンドだけでストーリーを進め、観る者にテーマを伝えていくという点では「映画的」と言える。
 実際、南イタリアの牧歌的な風景、古い石造りの町と素朴な住民の紡ぐのどかな日常、静寂を引き立てるヤギの鈴の音や犬の鳴き声など、観ていると何ともくつろいだ平和な気分に満たされる。プロの俳優たちの過剰な演技がないぶん、作品から作為の気配が薄まって「いのちの循環」という大仰な、また説教的になりそうなテーマをさりげなく観る者に気づかせることに成功している。


 好感の持てる映画と言いたいところなのだが、何か引っかかる。どことなくしっくり来ない。
 なんでだろう?
 とつおいつ考えて浮かび上がった言葉は「オーガニック」「スローフード」。
 この作品は、この2つの言葉から自分が抱くイメージに近い。
 原義というか、英語で本来使われている意味合いはよく知らないが、日本に紹介されるとき「オーガニック」も「スローフード」も、欧米で流行の生活様式、それも意識の高い人たちの熱中するファッションみたいなニュアンスがつきまとっている。おそらくは、英語をそのままカタカナ語にして日本文化に取り込むときに必然的に生じる弊害なのだろう。カタカナ語そのものに、外来の、流行の、おしゃれな、底の浅い、軽佻浮薄な、「ええかっこしい」のイメージがつきまとうからである。
 この映画も、なんだか「きれいなところでまとめている」という印象を受ける。
「いのちの循環」ってそんなきれいなものではないだろう。
 たとえば、老いた牧夫の死と同時に生まれた子ヤギが、山中で迷って大きなモミの木の根方に眠るシーンがある。次のシーンは雪をかぶった大地とモミの木である。季節が変わるとモミの木は切り倒されて炭に変わっていく。
 子ヤギが老人の死と共に生まれたのならば、炭がモミの木の伐採と共に生まれたのならば、当然モミの木の成長は子ヤギの死と共にある。死んだ子ヤギの腐った遺体を糧として、モミの木はその根を張り枝を伸ばし葉を広げたのである。
 しかし、ここでは子ヤギの死は映さない。ぼかしている。死体はきれいな白雪に隠されている。
 ヨーロッパに根強い動物愛護の精神のためであろうか。
 だが、実際の死体は映さなくともヤギの死を観る者に分からせる手段はいろいろあるはずである。
 死を語らずに、死のグロテスクと向き合わずに、「いのちの循環」がありえようか。
 そう考えると、わざわざ南イタリアの美しいロケーションを舞台としたのもなんだかこすっからい気がしてくる。都会のゴミための中にだって「いのちの循環」は発見できるはずだ。インドに行けばいくらだって発見できる。


 

評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
       
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 地球の中心 高川山(976m、山梨県都留市)

 高川山は5年前の冬に登っている。

 多くの山に登ってきたので、一度だけ登った特定の山の名を挙げられて、その印象や登山道のわかりやすさや険しさ、山頂からの風景などを聞かれても、もはや答えることができない。少なくともブログを書く以前については。
 だが、高川山だけは違う。
 圧倒的な好印象と共に記憶に刻まれている。あっという間に山頂に立てる手軽さ(90分)とは不釣り合いなほど見事な360度のパノラマゆえに。
 頂上からの視界がこの山ほど利いている山はほかに知らない。
 大抵の山はある方角だけ(中央線沿いの山の場合は富士山のある方角が)開けていて、他は木々や岩で視界が覆われているのが普通である。陣馬山でも300度はないだろう。草木の生い茂る季節などはもっと見える範囲は狭まってしまう。
 高川山は東西南北すべての方角に見通しが利く。北側で20度ばかり、山頂周囲に立つ木に邪魔されて奥多摩方面の山々(三頭山、鷹ノ巣山など)が立ち位置をずらさないことには見えないのだが、ぐるりを空と山とに囲まれた岩場に立っていると、まるで地球の中心にいるみたいな気分になる。山座同定がこれほど楽しい山はない。
 もちろん、山頂から望む富士山も一度見たら忘れられない美しさ。
 風のない晴天を選んで、冬にこそ登りたい山の一つである。

高川山 001●歩いた日  2月21日(木)

●天気    晴

●タイムスケジュール
 9:30 中央本線・初狩駅
      歩行開始
高川山 002 9:50 男坂・女坂登山口
11:00 高川山頂上
      昼食
12:10 下山開始
13:50 富士急行線・田野倉駅
      歩行終了

●所要時間 4時間20分(歩行2時間50分+休憩1時間30分)

●歩数   16000歩


 初狩駅で降りると、目の前にボリュームたっぷりの山塊が構えている。殿平山、鞍吾山、そして中央線沿線で圧倒的な存在感を誇るマツコデラックス・滝子山である。駅の南東にはこれから登る高川山が冬の朝のやさしい光を浴びて、丸まった猫のようにくつろいでいる。
 我の前に行く人の影なし。我の後に続く人もなし。
 空気は冷たいが、身も心もすっきり。

高川山 004


高川山 006


 前回来た時は、ガイドブックに従い寒場沢コースを取ったが、夏はともかく冬の沢は体を冷やすこと間違いない。今日は女坂コースを取ることにする。男坂コースは落石の危険があると看板にあった。
 道はわかりやすい。傾斜もそれほどきつくない。露出した木の根っこがうまいことにちょうど良い足がかりになってくれる。
 木々の間から見えたゴツゴツした裸の岩山こそ目指す山頂に違いない。
 寒場沢コース、男坂コースからの道と順次合流し、一登りで山頂に立つ。

 見事だ。

 ペイルブルーのケープの裳裾を長く引きずった女王様然とした富士山。
 その両脇に重臣の如く控えるは、半月前に登ったばかりの倉見山と、杓子、鹿留、三ツ峠、御巣鷹の山々。
 そこから幾重にも円をなして貴族たちが女王を取り巻く。
 鶴ヶ鳥屋山、お坊山、滝子山、ハマイバ丸、黒岳、雁ヶ原摺山、権現山、扇山、陣馬・景信・高尾の人気三銃士、旭山、大室山、今倉山、御正体山、石割山・・・。
 バルコニーから顔を覗かせている賓客は、甲斐駒ヶ岳、薬師岳など南アルプスのお歴々。しらが頭が貫禄を感じさせる。
 方位盤の周りを何度もぐるぐる周りながら、一つ一つの山の名前を確かめていく作業に時の経つのを忘れる。

高川山 008


高川山 016


高川山 017


高川山 018


高川山 019


高川山 015


 山頂には先客がいた。
 富士山を撮影している60代くらいの男性。
 登頂してしばらくすると、残念ながら女王は雲のベールで顔の一部を隠してしまわれた。それが取り払われるのを、岩に腰掛けじっと待っている。
 一方、自分は弁当を広げられる場所、冷たい風のあたらない日当たりの良い岩陰を求めて山頂をウロウロ。岩だらけで平らな場所がない。土が露出しているところは、霜が解けてぐちゃぐちゃ。到底、座れない。
 やっと場所を決めてランチにする。
 はるか下方にゴルフ場が見える。池とグリーンとバンカーと宮殿のように立派な建物と。双眼鏡を覗くと4人の男性がプレイしていた。彼らも休日か。それとも、定年後の第二の人生を楽しんでいるのか。

高川山 022 下りは富士急行線・禾生(かせい)駅に着くルートを選んだ。
 このコースはあまり使われていないらしく、道がよく踏まれていなくて気をつけないと迷いそうになる。しかも、途中で崖崩れがあって5メートル位にわたって登山道が崩れた木の残骸でふさがれていた。
 いったん、道を外れ、崖を下りて迂回する。

 途中の分岐まで来ると、看板がある。

高川山 020


 結局田野倉駅に着くコースにルート変更。
 
高川山 024 山道を抜けて林道に下りて一安心。
 と思ったら、ここでやってしまった。
 アスファルトの表面が凍っていて、二度も滑って尻餅をついた。
 山道の雪よりアスファルトの氷の方がよっぽど危険と知る。アスファルトは表面が平らだから、凍りつくとスケートリンクみたいになるのだ。アイゼンなしの登山靴ではトリプルアクセルもできない。

 民家を抜けると、九鬼山が目の前に現れる。
 山腹を東西にぶち抜いているのは、リニアモーターカーの実験線。東京・大阪を1時間で結ぶ夢の超特急。山道を何時間も歩くのが好きな種族には、まったく理解できない計画である。
 「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」は、1973年の交通標語。標語というのは実際上の効果はもたらさないという見本である。

 レトロな西洋風建築の旧尾県(おがた)学校校舎、稲村神社を経て、田野倉駅に着く。

高川山 026


高川山 027


高川山 029


 大月行き列車の発車3分前であった。
 途中下車して、高尾ふろっぴいで温泉に浸かる。
 フロント横におおきな雛飾りが置かれていた。
 春、近し。

高川山 030

 

 

● 介護の仕事5 (開始10ヶ月)

 老人ホームで働いて10ヶ月になる。
 日々の仕事にずいぶん慣れた。身体の使い方や業務をこなす段取りが上手くなったと思う。更衣・入浴・オムツ交換など一つ一つの介助を行うスピードも上がってきた。
 業務を円滑に行う上で「慣れてきた」のはいいことであるが、一方で懸念すべきこともある。
 一つは緊張感を失い基本を怠った介助を行った結果、事故につながる可能性。山登りでも峠を越えて一安心した頃が一番危ない。先日も落薬ミスをしたばかり。利用者に薬を投与する際に床に一粒落としてしまい、他の利用者に指摘されるまでそれに気づかなかった。
 もう一つの懸念は、施設で働き始めた当初に感じた「違和感」が薄れてきていることだ。
 施設の外の世界(一般人の生活空間)と施設の中の世界(介護生活空間)とは勝手が違う。外の世界の「あたりまえ」が中の世界では通用しない。中の世界の「常識」が外の世界では「非常識」。当初、そのギャップに強烈な違和感を持った。「これでいいのだろうか?」「これしかないのだろうか?」という疑問を抱いた。が、最近はそれが薄れている。施設の「あたりまえ」がだんだんと自分の「あたりまえ」になってきているのを感じる。
 それは脅威である。
 やっぱり「あたりまえ」にしてはいけない部分があると思う。
 風化しないうちに、それをもう一度洗い出して、検討して、言葉にしておく必要を感じる。


1.「外に出られない」ということ

 いったん入所したら、利用者は自分ひとりではもう外に出ることができなくなる。家族が訪れて本人を連れ出すとき以外は、必ず誰かスタッフが一緒についていくことになる。そもそも一人で生活するのが困難な状態に、終始見守りが必要な状態になったから施設に入れられたわけであるから、当然と言えば当然なのだが・・・。
 ほとんどの利用者は、多かれ少なかれ認知症があるので一人で外出したら行方不明になりかねない。転倒や交通事故にあう危険もある。
 施設では、利用者が勝手に外に出ないようにフロアのすべての扉や窓を三重ロックにしている。スタッフだけが出入りできるようドアの開閉には暗証番号を用いている。
 一方、外出を希望する利用者に対して、その都度希望を叶えてあげる余裕はない。スタッフが圧倒的に足りない。
 利用者は、好きなときに好きなだけ外を散歩することもできない。
 我々の住む「外の世界」では考えられないことである。
 ある意味これは「幽閉」である。「監禁」である。
 介護の世界では「利用者の拘束は虐待にあたります。やってはいけません。」と言う。ベッド柵を閉める、居室に鍵をかけて閉じ込める、車椅子から立ち上がらないよう紐で縛る。そういったことには目くじらを立てるのに、大本のところで自由を奪っていることに呵責を感じていないみたいである。
 毎日夕刻になると、フロアを徘徊する利用者がいる。外に出ようと、あっちの扉、こっちの窓と渡り歩いて鍵を開けようとする。その姿を見ていると「いったい自分たちは何をしているんだろう?」と思うことがある。まるで牢屋の番人のようだとも。

 利用者の安全を守るために、これは仕方ないことだと分かっている。徘徊する利用者の姿にも慣れたし、その対応方法もつかんできた。外に出すわけにはいかない。利用者の家族に介護をまかされている以上、命を守る責任がある。
 かくして、自分の部屋と食堂、その二つをつなぐ廊下。それだけが利用者の生活空間になる。
 働き始めた頃、あまりに覚えることが多いのと緊張とで毎日がストレスフルであった。仕事を終えて帰るときにこう自分に言い聞かせて励みとした。
「それでも自分は帰るところがあるだけマシだ。自由に外に出られるだけ幸せだ。」


2.「好きなものが食べられない」ということ

 長年、自分は、好きな物を好きな時に好きな形態で好きな量だけ食べる(飲む)のをあたりまえとする生活をしてきた。健康やメタボを考えて食べる量を減らしたり、食べる物を制限したりということはあるけれど、それだって結局自分の意志でやっていることである。食べたくないのに無理やり食べさせられる、飲ませられることもない。(学生時代、クラブの先輩に酒を強要されたくらいか・・・)
 施設ではこの自由も奪われる。
 朝昼晩メニューは決まっている。みんなと同じものを食べるほかない。量も決まっている。おかわりもできない。持病によって様々な食事制限がある場合、あらかじめメニューからはずされてしまう。(例えばワファリン服用者は納豆が禁止) 誤嚥による窒息や肺炎を防ぐために食事の形態も決められてしまう。元の食材が何だったか分からないほど、細かく刻まれたり、SF映画に出てくる宇宙食みたいにカラフルなペースト状にされる。酒やタバコも施設内ではダメである。これは健康上の理由もあるが、集団生活であること、防災上の理由もある。
 人間にとって最大の楽しみの一つである食べること。その自由が奪われる。
 一方、現在ホームにいる老人たちは、日本が貧しかった時代を生きてきた。子供の頃のひもじい思い、戦中戦後の食料難を知っている。「食べられる物があれば恩の字」という考えの人も多い。飽食の時代を生きている戦後生まれのような食に対するこだわり(グルメ)やわがままは希薄である。そこは救いかもしれない。
 食べることへの執着を手放していかないと老後は辛い。


3.「始終監視される、あるいはプライバシーがない」ということ

 安全を守るという大義名分のもと利用者は一日中監視下に置かれる。これを介護用語では「見守り」と言う。

 勝手に部屋の扉を開けられる。
 勝手に部屋に入られる。
 知らないうちにセンサーマットを入れられる。(転倒リスクの高い人がベッドから降りるたびに鳴り響く仕組み。)
 勝手にトイレの扉を開けられる。
 勝手にトイレに入ってこられる。
 用を足している間も職員が傍らに立っている。
 一人でゆっくり風呂に浸かれない。

 外の世界では考えられない話である。裁判沙汰になってもおかしくないことばかり。
 たとえ集団生活であっても、自分の部屋やトイレの個室や浴室は、人が独りっきりになってリラックスできる唯一の場所である。その空間が奪われるなんて今の自分には考えられない。
 最初のうちは利用者が用を足している脇で排尿や排便の音を聞きながら突っ立っているのに抵抗があった。逆の立場なら恥ずかしいのと緊張とで出るものも出ないだろう。
 だが今はやっている。一人で姿勢を保って便器に座るのが困難な人の場合、仕方ないからである。それができる人ならば、便器に座ってもらったら基本いったん外に出る。が、再度トイレに入る際にノックはするが返事は待たない。利用者に拒否権はない。
 翌日の入浴準備をするため、利用者が食堂にいる間に利用者の部屋に無断で入って利用者の衣類を引っ掻き回す。最初は戸惑ったことも今ではやっている。女性の下着だからとて容赦しない。外の世界で同じことをやったら、「空き巣」「プライバシー侵害」「準わいせつ罪」である。(無論、自分で準備ができる方には声がけしてやっていただくようにしている。)
 こういった非常識がまかり通るのは、利用者に認知症があって自力ではできないからであり、権利の侵害に無反応になっているからであり、「介護されているんだから仕方ない」という弱み(あきらめ)があるからである。そしてまた、業務があまりに忙しくて、すべてのことについて、いちいち一人一人の利用者の許可を得て介助するのは到底不可能だからである。

 自分のプライバシーについての感覚がずいぶん麻痺していると思う。外の世界の生活に波及しないといいが・・・。)


4.「好きな時に起床できない、横になれない」ということ

 隠居してせっかく丸一日自由な時間が得られたというのに、悠々自適な老後だったはずなのに、施設に入れば一日のスケジュールが否応無く決まってしまう。「今日は昼まで布団の中でゴロゴロしていたい」「どうせ起きても何もすることがなくて退屈だから寝ていたい」と思っても、具合が悪くない限り職員が起こしに来る。日曜・祝日も関係ない。
 規則正しい生活は健康維持には欠かせないし、日中臥床してしまうと夜眠れなくなり、しまいには昼夜逆転してしまう。夜勤スタッフにとって、夜中にフロアをふらつく利用者、トイレ頻回の利用者はごめんこうむりたいところである。それに、寝てばかりいて筋力が落ちるのも、褥瘡ができるのも困る。
 最初はこうしたことが分からなくて、「なんで本人が寝たいと言っているのに寝させてあげないんだろう?」と思っていた。
 大体、自分の基本的な考え方は「もうここまで十分生きてきたのだから、あとは好きにさせてあげたら・・・」なのである。が、それを認めてしまうと、負担は我々職員に跳ね返ってくる。一人一人の利用者の好き勝手を援助していたら、到底手に負えなくなる。
 丸一日時間を好きに使える休日を持てることの贅沢さを、この仕事を始めてから一層強く感じるようになった。


5.リハビリする意味って・・・?

 介護にはリハビリも付きもの。
 体の状態が良くなり、運動機能が上がり、自分でできることが増えることは、基本的に良いことである。トイレだって体を洗うのだって他人の手を借りるより自分でできたほうが良いに決まっている。トランス(移乗)だって柵をつかみながら自力でできれば、職員の手の空くのをじっと待っている必要はない。結果として、職員の負担も減る。
 一方で、首をかしげてしまうケースもある。
 これまで車椅子でしか動けなかった人が、リハビリの成果で杖で歩けるようになった。認知があるのでフロアを行ったり来たり徘徊する。忙しい職員は四六時中見守っていることはできない。それはつまり「転倒リスクを高めた」と言うことでもある。で、転倒して骨折して車椅子に逆戻り。
「いったい何をやっているんだろう?」


 歩けるようになることは若いクララ(『アルプスの少女ハイジ』)にとっては喜ばしいことである。好きなところに自分の足で行くことができる。散歩も買い物も海外旅行もできる。汗水流して働くことだってできる。恋愛の機会だって増える。
 一方、施設の利用者は歩けたところで家に帰れるわけじゃなし、自由に外出できるわけじゃなし、仕事が待っているわけでもない。歩けた先の目的がない。
 リハビリする意味って何だろう???と思うことがたまにある。
 もちろん、本人が自分から望むならばそれをサポートするのが職員の務めである。が、リハビリを拒否する利用者に対し、なんとかその気にさせようとする意味が見えない。言葉が見つからない。
「あなたが自分で立てるようになると、介護する私たちがラクになるんですよ」とでも言うのか。


6.「暇をもてあます」ということ

 一番の違和感というか粛然とさせられたのがこれだ。
 日がな一日、何するでもなくボーッと食堂の椅子に座っている利用者達。「することがない」とはこんなに辛いものかと思う。
 テレビを観るでなし(耳が遠い、目がよく見えない、世間的なことにもう関心がない)、他の利用者と会話するでなし(認知がある、耳が遠い、自分の話を聞いてほしい人ばかりで会話が成り立たない)、何か趣味に没頭するでなし(体の損傷でできなくなった、認知でできなくなった、インドアで一人でできる趣味を持っていない)、インターネットやゲームに興じるでなし・・・。職員が行うレクリエーションに参加するか、おしぼりをたたむのを手伝うか、トイレと食席を往復するか・・・。自発的に何かを楽しむということがない人が多い。
 もちろん、そうでない人もいる。自分の部屋にこもって好きな読書をしている人もいれば、パソコンをいじっている人もいれば、編み物している人もいる。積極的にフロアの手すりを使ってリハビリする人もいる。
 だが、多くの利用者は暇をもてあましている。
 これは世代的な理由もあるのだろうか。仕事や家事だけに生涯を捧げてきて趣味や娯楽に興じる機会の無かった世代の特徴だろうか。それとも年を取ると、様々なことに興味が失われてしまうのか。あるいは認知症のため集中力がキープできないためだろうか。
 日本人の平均寿命がそんなに長くないうちは、老後も短かった。仕事ができなくなってお陀仏、子供を生んで育てて孫の子守してご臨終、という切りの良さがあった。
 いまや職業生活を終えてから、家族の世話係を終えてから先の人生が長い。
 人生の最後の空いた時間に自分は何をするか、何ができるか。それを考えておくことの大切さを思わざるを得ない。


7.「嘘をつくこと」について

 これは個人的にしんどい部分である。
 認知症の利用者に対して「嘘をつく」のは日常茶飯事である。
 夕刻になると帰宅願望が起こる人は多い。「そろそろお暇します」とか「勘定お願いします」とか「家に電話して迎えに来るよう家族に伝えて下さい」とか言って、フロアをウロウロし始める。この状態を「不穏」と言う。
 職員はうまくなだめて落ち着かせなければならない。下手に対応すると感情的になって、職員や他の利用者への暴力行為につながったり、他の利用者にも「不穏」が伝染してフロア全体が収拾つかなくなったりするからである。出口を探して徘徊しているうちに転倒する危険もある。
 そんなときにやってはいけない対応は、「なに言っているんですか。あなたはここに入所しているんですよ。ここがあなたの家ですよ。帰れませんよ。」と、相手の言うことを否定して本当のことを伝えることである。本人が納得しないばかりか、職員との信頼関係が壊れいっそう不穏状態がひどくなる。
 対応の基本は、相手を否定しない。無理に説得しようとしない。
 たとえば、こんなふうに言う。
「今日はもう遅いからここに泊まって、明日お帰りになりませんか」
「わかりました。ご家族に連絡いたしますね。その間、夕食をご用意しましたので、良かったら召し上がって行ってください。」
 むろん、「明日お帰り」も「家族に連絡」も嘘である。当座をしのいで、帰宅願望のピークをやり過ごすのである。「方便」と言えば聞こえはいいが、やはり嘘には変わりない。

 自分が嘘をつきたくないのは、正直者だからではない。
 仏教徒として守るべき五戒の一つを破ってしまうからである。

 一、殺してはならない。
 一、盗んではならない。
 一、淫らな行為をしてはならない。
 一、嘘をついてはならない。
 一、酒や麻薬などを摂取してはならない。


 一番最後の「酒を摂取」がそうそう守れないので、せめてあとの四つくらいは守りたいと思っているのである。
 この仕事をやっている間は難しそうだ。


 こうして違和感を洗い出していくと、介護という行為の性質上、「仕方ないもの、止むを得ないもの」もあれば、スタッフの増員などの条件が整えば「改善できるもの」もある。暇をもて余している利用者への対応など、「何らかの工夫の余地があるもの」もある。そのあたりを見極めていくことがポイントだろう。
 また、こちらの見方・考え方を変えることで、取り組み方を変えられる場合もありそうだ。


 介護という仕事は、人の権利や羞恥心を踏みにじったところに成り立つ「やくざな仕事」である。
 プライドや喜びをもって精を出すのは全然構わないが、決して威張れるものではない。



前段→介護の仕事4

後段→介護の仕事6 

● 本:『反社会学の不埒な研究報告』(パオロ・マッツァリアーノ著、二見書房)

反社会学研究報告 2005年発行。

 前著『反社会学講座』(ちくま文庫)がメチャ面白かったので古本屋で購入。
 前著ほどではないが、やはり痛快で胸のすくような内容となっている。
 胸がすくのは、日本社会で「もっともらしい」顔してのさばっている常識や通念や思想や倫理について、その根拠の不確かさを著者の得意とする社会学的手法によって暴き出して、見る見るうちに「裸の王様」にしてしまうからである。そもそも「もっともらしさ」を作っているのもまた社会学的手法(統計や意識調査の結果)であるのが現代なので、著者のやっていることは畢竟、人の欲望や見栄や劣等感や疎外感を糊塗するために、社会学がいかに都合良く利用されているかの種明かしすることである。
 だから、社会学者による「反社会学講座」なのである。

社会問題として語られる論説の多くは、じつは個人的かつ感情的な意見にすぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために、学者のみなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。注意していただきたいのは、意識調査の結果からなんらかの結論を引き出すのではなく、なんらかの予測を裏づけたいがために、ほとんどの意識調査が実施されている点です。
 

 つまり、はじめに結論ありき、はじめに目的ありき、なのである。各種の調査は、その目的を合法的に円滑に達成すべく、世間や国民を納得させ反対の声を封じ、税金の投入を「仕方ない」と思わせてしまうための手段として(税金を使って)実施されるということである。「科学的なデータが示しています」という学者の鶴の一声に無知で素朴な民は黙ってしまうからである。
 そのような戦略のもと、官僚の天下り先である特殊法人があまた作られて、日本の借金を天文学的な数字に押し上げてしまったわけである。
 おそらく、今ある特殊法人の9割をつぶしても、本当に困るのはそこで働いている人間だけだろう。(適当に言ってみたが、案外当たっている気がする。どなたか社会学的に検証してくれまいか。)

 著者が「王様は裸だ」と指摘するやり方は、糾弾でもなく、馬鹿にして恥をかかせるでもなく、あざけるでもなく、子供のようにあっけらかんと事実を連呼するだけでもない。より高等なテクニック、すなわち「お笑い」なのである。それがこの本の何よりの魅力となっている。著者自身の言葉を借りれば、「アカデミズムとお笑いを融合した、新たなエンターテインメントの創造」となる。

  思わず爆笑した箇所を引用する。

木製の巣箱とコンクリートの巣箱でマウスを飼育する実験が行われました。木製の巣箱では母マウスは熱心に子育てをしましたが、コンクリート巣箱では子育てをしません。結果として子マウスの生存率に大きな差が開き、コンクリート巣箱では九割が死んでしまいましたーーーという実験結果を私がどこで見つけたかといいいますと、木造住宅の建築を請け負う工務店のサイトです。
 
 それにしても、動物実験や動物行動学をすべて人間に応用できると信じている素朴な人が多いのには驚かされます。牛にモーツァルトの曲を聞かせたら乳の出が良くなったという話を聞いて、社内にモーツァルトの曲を流せば社員がたくさん仕事をするようになるはずだ、と考え実行した社長さんがいるそうです。その会社のOLのみなさんは、「なんでこのごろ、乳が張って痛いんだろう?」と悩んでいるかもしれません。

 能力・学力のある人(ソルティ注:大学院卒業者)をわざわざ敬遠し、四年できっちり卒業予定の、毒にも薬にもならない学生ばかりを採用している現実を目にすると、日本企業の「これからは能力主義・実力主義・成果主義の時代だ」という言葉が口先だけであることがはっきりします。そもそも、実力主義というのは矛盾しているのです。実力主義の会社で、自分より能力のある人間を雇ってしまったら、自分が現在の地位を追われてしまいます。おのれの保身のためには、社長も人事担当者も、自分より実力のない人間を雇うしかありません。こうして実力主義の会社は、無能な人間の掃き溜めと化していくのです。
 
 年金制度が危機に瀕していると騒がれるわりには、政府の改革案はどこか及び腰です。私はかねてから、一億円以上の資産を持つ金持ち老人には年金受け取りを放棄してもらうことで、年金制度は存続可能だとする抜本改革案を提示してきました。しかしそれだと、長年払ったのにもらえないのは納得いかん、とケチな老人の反発を食らうのも必至です。そこで、社長などのお金持ちが、のどから手が出るほど欲しい勲章の出番です。
 毎年一万人に勲章・褒賞をあげると、その費用が三十億円かかります。では、仮に一万人の金持ち老人に年金を放棄してもらい、その気高き公共心を称えて勲章を贈るとしましょう。現在、厚生年金受給者は平均すると年間二百万円ほど年金をもらっています。一万人分なら総額二百億円。それが勲章なら、たったの三十億円で済むのです。

 
 本当の社会学は、人間(観察)学でなければならん、と気づかせてくれる研究報告である。
 「A」をあげよう。




● 自立する幽霊 映画:『アウェイクニング』(ニック・マーフィー監督)

 2011年イギリス映画。

 舞台は森と湖に囲まれたイギリスの田舎。
 時はヴィクトリア朝の匂いが残る20世紀初頭。
 頬白き少年たちが共に学び生活する堅牢な寄宿舎。
 そして幽霊譚・・・。


 これだけ揃って食指が動かぬわけがない。
 幽霊譚にはやはりそれなりの雰囲気が必要である。
 現代の都会のオフィスで起こる霊的現象も怖いにゃ怖い。ショートする蛍光灯、勝手に起動したパソコン画面に打ち込まれるメッセージ、突如鳴り出す電話のベル、空中浮遊する書類や文具。数年前上司との不倫がもとでビルから飛び降りた女子社員の座っていた席のあたりに人影が・・・・。
 怖いっ。
 だが、雰囲気に欠ける。
 自分が幽霊譚に望むのは「美しさ」「哀しさ」「時を超える愛惜」なのである。
 おそらく、こうした好みを作っているのは十代の頃に読んだ萩尾望都の『ポーの一族』であろう。もっとも、こちらは幽霊ではなく吸血鬼(ヴァンパネラ)であるが・・・。

 Awakening とは「目覚め、覚醒」という意味である。
 何を目覚めさせるのか。
 それは記憶である。
 意味深なタイトルだ。

 映像は悪くない。物語のプロットも凝っている。演技も手堅い。
 ニコール・キッドマン主演の『アザーズ』やスペインで大ヒットしたオカルトミステリー『永遠の子供たち』を思わせる。とくに、子供たちの寄宿舎という設定、ヒロインの過去が重要な鍵となるところ、そして哀しい結末などは後者に似ている。
 自分が望む3点セットを見事に満たしているので及第点を上げたいのだが、二番煎じ三番煎じなのが減点となる。

 この映画は、一連の「音」から始まる。
 重いドアをバタンと閉める音、厚いカーテンをシャーッと閉める音、石造りの床を打つ靴音、ドアの鍵をカチリと閉める音・・・。
 これらの音の連鎖に耳を傾けているうちに、自分の記憶も甦ったのである。
 それは、はじめて映画館で洋画を見始めた頃の印象である。
 何が驚いたって、西洋の日常生活において生じる様々な「音」の切れ味鋭さにビックリしたのである。日本の(自分の)生活空間にはない音が存在し、それらはこちらの心臓が止まるくらいの音量と鋭さとで自己主張する。
 ドアが閉まる音や鍵を閉める音、靴音などは、もろ生活様式、建築様式の違いから来る。日本の家屋は靴を脱いで上がる。西洋式のドアはもちろんあるけれど、普通それほど重厚なものではない。ふすまや障子やスライド式の扉も多い。室内で大きな物音を立てること自体、日本では一般に良くないとされる。自分の受けた躾の中にも「もっと静かに戸を閉めなさい」というのがあった。
 それまでに家のテレビでも洋画を見ていたけれど、テレビの音声、お茶の間の音量であったし、日本語吹き替えでもあったので、それほど気にならなかった。映画館の大画面、大音量を経験して、まず衝撃を受けることになったのである。

 衝撃の理由は、自分の生活の中にない音を発見したとか、音自体の鋭さ・喧しさに驚いたというだけではない。その「音」が暗に意味する西洋文化における「遮断」「断絶」「孤立」の感覚に畏怖したのである。
 たとえば、重い鉄の扉をバタンと閉める音には、きっぱりとした他者の排斥が聞き取れる。自他のテリトリーの固持または主張が感じられる。すなわち、西洋文化の根幹をなす「個人主義」が潜在している。
 その音は日本人の自分にとって、周囲の他者からの断絶の恐怖であり、自立を強いる社会からの圧力のように響いたのである。
 ひるがえって西洋の子供たちは、物心ついてからずっとこうした音の中で生活しているのだ。「自立」をあたりまえとしていくのも当然であろう。


 個人主義の文化における幽霊の恐怖は、おそらく、命や財産を脅かされることよりも、「他」によって浸蝕される「自我」の恐怖なのではないか。幽霊を最終的には退治したのはいいが、主人公が精神病院に収容されてしまうシーンで幕を閉じる映画を結構たくさん観た気がする。
 それにくらべると、日本の伝統的な(?)幽霊が常に「うらめしや~」と恨みを訴えて出てくるのは実に分かりやすい怖さである。
 「自立」とは、自分の足で立って歩くことである。伝統的な日本の幽霊には足が無くて、西洋の幽霊にはしっかりと足がついているのも面白い符合である。



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」      

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
 

● オクタビウスの謎 映画:『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督)

クレパトラ 1963年アメリカ映画。

 最初に言及すべきは、リズことエリザベス・テイラーの美しさ。
 撮影当時31歳、共演のリチャード・バートンとの始まったばかりの恋に身も心も潤って、匂い立つような女らしい艶やかなオーラーを発散している。リズが出ているシーンでは、リズしか目に入らないほどである。古代エジプト最期の女王、史上随一の美女の役だけあって、どんなに着飾っても、どんなにメイクアップしても、どんなに宝石で身を固めても、どんなに尊大に振る舞っても、やりすぎることはない。その保証を手にしてリズは自らの人生の美しさの頂点をここに焼き付けた。
 自分はブラウン管でしか観たことないが、スクリーンの大画面で見たら、この美は世界遺産ものだろう。

 物語のスケールの大きさ、豪華な衣装やセット、エキストラの多さ、制作会社(20世紀フォックス)を破産寸前まで追い込んだ巨額な制作費、美貌の大スターをめぐるゴシップや逸話の数々。女優を主役とした映画では『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939年)と並び、バビロンの如き栄華を極めた大ハリウッドの威光を伝える作品と言えるであろう。

 とりわけそれが顕著に表れているのが、クレオパトラのローマ入城シーンである。

 クレオパトラがシーザーとの間にできた未来のアレキサンダーたる(とクレオパトラは目している)息子シザリオンを、初めてローマ市民に披露するこのシーンは、物語全体からすればどうってことない一つのエピソードに過ぎない。シーザーの暗殺、アクティウムの海戦、クレオパトラの自殺・・・など、物語的に重要な、絵になるシーンは他にある。
 だが、作品中おそらく最も豪奢を極め、手間も金もかかっていて、エキストラも多く、シーン自体も一番長く、もっとも印象に残るのが、このローマ入城なのである。
 最初に登場のファンファーレがあって門が開かれてから最後にクレオパトラ(とシザリオン←添え物)が登場するまで何分かかっているだろう。延々とアフリカ風の踊りやら、槍を使った戦闘の舞いやら、火を使ったリンボーダンス風な曲芸やら、カラフルな煙幕やら、これでもかとばかりに見せ物が続く。映画では当然それぞれの見せ物は部分的に紹介されカットつなぎで次の見せ物にバトンタッチされるわけだが、おそらく実際の時間にすると軽く2時間はかかるのではないだろうか。
 観ていて連想するのは、昨今のオリンピック開会式である。
 各国の選手入場の直前まで延々と開催国をアピールする催し物が行われるのが定番となっている。その国の成り立ちを伝える神話の再現とか、歴史上の有名な出来事とか、伝統舞踊や伝統工芸や民族衣装とか、果てはその国出身の世界的歌手やスポーツマンが花を添える。オリンピックがなりふり構わぬ商業主義に走ったロス五輪以降、それがどんどんエスカレートして明らかな国力の誇示ショーになっている。
 それはどうでもいいんだが、開会式の演出家たちは、演出家を志した少年時代か青年時代にまず間違いなく、リズの『クレオパトラ』を観ていることだろう。「ローマ入城シーン」に影響されていることだろう。
 で、「ローマ入城シーン」自体は、まず間違いなく、マンキーウィッツ監督がそれまでに観たオペラ『アイーダ』第二幕の「凱旋の場」の演出を意識してつくられたはずだ。
 逆に、この『クレオパトラ』から影響を受けて、その後の『アイーダ』演出家は「凱旋の場」をつくることにもなったであろう。(とりわけフランコ・ゼフィレッリあたり。)
 『アイーダ』と『クレオパトラ』と『オリンピック開会式』は、相互に影響し合って手に手を取ってゴージャスと拝金主義とナショナリズム高揚を推し進めていると言えよう。(昨今はそこにサッカー競技も加わっている。)

 リズにばかりに目がいってしまう『クレオパトラ』であるが、今回改めて面白さを感じたのは、クレオパトラをめぐる3人の男――シーザー、アントニウス、オクタビウスーーのキャラクターの違いである。クレオパトラにとって、シーザーは父のような庇護者的存在、アントニウスは自分をひたすら賛美崇拝してくれるアッシー君(古い!)みたいな存在、そしてオクタビウスは・・・? オクタビウスとの関係が謎である。
 歴史上の権力争いの観点から言えば、次のように比較できるだろう。

 シーザー   =織田信長(最初の国家統一者)
 アントニウス =豊臣秀吉(その跡を継いだ者)
 オクタビウス =徳川家康(最終的に長期政権の基盤をつくった者) 

 ついでに
 ブルータス  =明智光秀(言わずもがな・・・)

 すると、クレオパトラは誰だろう? 
 淀君か、ネネか?

 3人の男のうちクレオパトラが最も(真に)愛したのはアントニウスらしい。自らが大将をつとめる闘いで、逃げる女の後を追って船をも部下をも見捨てるアントニウスは、天下のうつけ者(やっぱ織田信長?)であるが、「私と仕事とどっちが大事なの?」という女の究極の問いに迷わず「お前に決まっている」と答えられる男は、世の女にとってはアレキサンダー以上の英雄なのかもしれない。
 名優リチャード・バートンは、実に人間くさいアントニウスを好演して、リズでなくとも母性本能をくすぐられる。


 オクタビウスはクレオパトラの毒牙にかからなかった(フェロモンに迷わされなかった)。結果として、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなった。
 なぜだろう?
 
1.男色家説


 この説は結構好まれている。 
 この映画でも、当時のハリウッドの規制もあって、はっきりそうとは描かれていないが、オクタビウスが女に興味がないことを示すシーンがところどころ出てくる。


アントニウス 「君も仕事ばかりしないで少し遊んだらいい。あそこにいる女達はどうだ。よりどりみどりだぞ。」
オクタビウス 「無駄なことです。」

 手塚治虫の『クレオパトラ』(1970年)ではもっと顕わである。
 朋友アントニウスを殺されたクレオパトラは、次の手段としてオクタビウス籠絡に取り掛かろうとする。フェロモン100%放射。

 オクタビウス「お前の魅力など私にはまったく効かない。」
 戸惑うクレオパトラ。 
 そこへ、クレオパトラの家臣である力自慢の闘志(グラデュエイター)が現れる。
 とたんに目の色を変え、オカマキャラ丸出しになってしまうオクタビウス。
 「きゃあー。素敵な肉体。あの日あなたを見て以来、この体に抱かれることを夢見ていたのよ。あとで、連絡先教えてね~?」
 すべてを諦めるクレオパトラ。

 男色家説は話としては面白いが、実際にはどうだろう。
 オクタビウス=アウグストゥスは、生涯に何度も結婚して子供も作っている。もちろん、後継者を作るための、あるいは勢力基盤を磐石にするための政略的結婚であったとは思う。病弱であったためかどうか、血を享けた子供は結局一人しかできなかった。それも娘だった。あまり子作りには積極的でなかったようだ。
 生涯の友であったアグリッパとの篤い関係から同性愛の匂いを嗅ぎ取ることもできる。自分の娘ユリアとアグリッパを結婚させて(アグリッパを義理の息子にして)、そこにできた息子に帝位を継がせようとしたところなんか、現代の大物ホモ政治家がやりそうな手口である。
 ともあれ、なんと言ってもキリスト誕生以前(BC)である。この時代のローマ人にとって同性愛はタブーではなかったはず。若きジュリアス・シーザーも「すべての男の妻」と呼ばれていたのである。
 曰く「オクタビウスがゲイでなかったら、世界の歴史は変わっていただろう。」 


2.クレオパトラが本気を出さなかった説


 里中満智子の漫画『クレオパトラ』がそうである。
 シーザーとの世紀の恋に破れ、アントニウスとの運命の恋の成就と死別を経験した女王はもはや政略的な結婚などしたくなかった。人生にも野望にも疲れていた。愛するエジプトを守るためでも、もう奥の手を使う気にはなれなかった。
 リズの『クレオパトラ』もアントニウスとの真実の恋に目覚めたために、後を追って自害するのである。


3.クレオパトラの魅力に翳りが・・・・説


 さて、ここで主要人物の生年没年である。


シーザー  (紀元前100年――紀元44年) 56歳で死去
アントニウス(紀元前83年――紀元30年)  53歳で死去
オクタビウス(紀元前63年――紀元14年)  76歳で死去
そして、
クレオパトラ(紀元前69年――紀元30年)  39歳で死去


 クレオパトラとシーザーの年齢差は31、アントニウスとは14、オクタビウスとは6つでクレオパトラが年上である。
 クレオパトラが3人の男をたらしこもうとした時のそれぞれの年齢を推定する。


 シーザー(52)×クレオ(21)
 アントニウス(41)×クレオ(27)
 オクタビウス(33)×クレオ(39)


リズ シーザーとアントニウスは、クレオから見れば「すっかりおじさん」だったのである。若さと美貌と奸智とエジプトの富とで彼等をたらしこむのは赤子の手をひねるようなものであったろう。また、中年クライシスを感じていたであろう「両おじ」にとって、若く夢に燃えるクレオはまたとないオアシスであり活力源であったろう。
 一方、オクタビウスから見れば、アラフォーのクレオは「もうおばさん」である。とくに、女性の容姿とフェロモンは35を過ぎると急速に衰えていく(by幸田來未)。自身「ローマ一の美少年」と言われ年上の男女からもてはやされたオクタビウスにしてみれば、クレオの美貌なぞ「どうってことない」「なに若作りしてんだか」「首の皺は隠せねえぞ」だったのかもしれない。
 証拠がある。リズがクレオパトラを演じたのは31歳の時である。それからわずか3年後『ヴァージニア・ウルフなんか恐くない』(マイク・ニコルズ監督、1966年)のリズを見よ。もはや美の衰えは隠しようもない。その代わりに演技派女優としての名声を確立していくのだが。(この作品でオスカーを獲っている。)

 子供の頃この映画をテレビで見たとき、リズのアテレコは小川真由美だった。
 これが実に素晴らしかったのである。まろやかで、色っぽくて、品があって、知性を感じさせ、女王としての風格に不足はない。しかも小川真由美は、声で芝居をすることのできる芸達者。
 お蝶夫人やオードリー・ヘップバーンの声が池田昌子で決まりであるように、クレオパトラの声は小川真由美で決まりというのが実感である。
 うれしいことに、DVDの日本語音声は小川真由美である。
 日本でのテレビ放映時の録音テープを使ったためか、テレビ放映の際にカットされたシーン(特にお色気シーン)では突然英語になる、つまりリズの肉声に切り替わるという面白いことになっている。
 ぜひぜひ日本語音声で観て(聞いて)ほしい。
 絶世の美女エリザベス・テイラーも決して声は美しくないんだなあ、喋りに品がないんだなあ、と知ることができる。声や話し方がいかにその人の魅力を引き立てるかをまざまざと知ることができる。
 小川真由美という女優を語る上で、欠かすことのできない作品である。


評価:A-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
     
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




● 富士のお裾分け:倉見山(1256m、山梨県)

倉見山 1月14日に降った大雪(都会では)がまだ残っている可能性を考慮しながら、この時期に日帰りで登れる山を探す。冬は眺望がよいので富士山の見える山。できたら、未踏のところ。
 といった条件を設定し、数冊あるガイドブックをあれこれめくっている瞬間から、すでに山歩きは始まっている。心は山に行っている。

 倉見山は、富士急行線の3駅(東桂駅、三つ峠駅、寿駅)にまたがって線路とほぼ平行に、穏やかなたたずまいを見せて横たわっている。駅からスタートして駅をゴールにできるから、帰りのバスの時刻を気にしなくて良い。富士山との距離は約20キロ、間にはさむ山がない。
 つまり、杓子山や三ツ峠山や石割山と並んで最も富士山に近い山の一つである。眺望は推して知るべし。

倉見山 024●歩いた日  2月3日(日)

●天気    晴

●タイムスケジュール
 8:30 富士急行線・東桂駅
      歩行開始
 8:45 倉見山登山口
11:00 倉見山頂上
11:10 展望台
      昼食
12:00 下山開始
13:10 富士見台
13:40 下山(向原登山口)
14:00 富士急行線・寿駅
      歩行終了

●所要時間 5時間30分(歩行4時間+休憩1時間30分)

●歩数   18500歩


倉見山 001  東桂駅で下車した登山客は自分一人。今日も山独り占めか。
 駅舎は日当たりのいい場所に立つ可愛らしい小屋。日曜早朝ののどかな雰囲気に包まれている。駅前のベンチでは近所に住むらしい老人が朝日を浴びていた。自動販売機で買ったホットコーヒーを飲んで、いざ出発!

 倉見山登山口は長泉院というお寺の墓地の中にある。手を合わせ慈悲の瞑想をしてから敷地に足を踏み入れる。
 東桂からの登山路は山の北斜面にあたる。思った通り、雪がまだ解けずに残っていた。道は雪に埋もれているが、前に登った人の足跡がついているので、それを辿れば迷うことはない。雪に足をとられることもない。ただし、滑らないよう注意する必要がある。一歩一歩足の置き場を確認しながら、ゆっくりと登っていく。大雪後に最初に登った人は大変だったろう。どこが山道だか分からない状態で新雪を踏むのは勇気が要る。
 高度を上げるにつれ、汗ばんできた。途中でノースフェイスのレインウェアを脱ぐ。

     倉見山 003 

     倉見山 005

 
 自分はいつも50分歩いて10分の休憩を取る。このペースだと、疲れを感じる前に体を休め、息を整えることができる。
 休憩する時はザックを下ろし、安定した場所に腰を下ろし、喉を潤し、できるだけ周囲の音に耳を傾ける。風の音、鳥の声、遠くの列車の音、自動車のクラクション、猟銃の発砲音・・・。山の中は意外と喧しいものである。けれど、その喧しさは不快ではない。かえって静謐が引き立つような喧しさである。
 そんなことを考えていたら、どこかからコンコンコンと木を叩くような音がする。
 なんだろう?
akagera5 音のする方に目を凝らしてみると、小鳥が木の幹にとまって嘴で木をつついている。双眼鏡を取り出して焦点を合わせる。
 アカゲラだ!
 官女の袴のごとき下腹の赤い色は間違いない。
 軽快にリズミカルに無我夢中で叩いている。天然の大工さん。
 気がつくと、森のあちらでもこちらでも同じ打音が響いていた。
 それによって静寂が一層高まったのだが、むしろそれは心の静寂なのかもしれない。


 山頂近くの木の間より三つ峠山のゴツゴツした天辺が望まれる。パラボラアンテナが立っているのは御巣鷹山だろう。数年前に見た山頂からの富士を思い出す。

倉見山 007


 頂上までの最後の一登り。
 急な上に、厚い雪が残っていて一苦労。ところどころロープが張ってあるのに助けられる。ロープと木の幹を頼りにどうにか滑らずにすんだ。

 倉見山に登るには、東桂駅下車で北斜面を登るコースと、寿駅下車で南斜面を登るコースの二つが一般である。それぞれ登頂後は、反対の斜面を下りて最初とは別の駅から帰りの列車に乗ることになる。
 今回北斜面を登りに取ったのは、自分の持っているガイドブック(実業之日本社発行『ブルーガイドハイカー中央線沿線の山々』)で紹介されている順路に従ったまでである。
 が、これは大正解であった。
 一つには、先に書いたように、残雪の多い北斜面を登りに取れたからである。同じ雪道ならば下りより登りの方が安全なのは言うまでもない。山頂で出会ったカップルは、寿駅側から登ってきて、自分が登ってきた北斜面を下る計画であると言う。難儀なことだ。思わず「気をつけて」と声がけした。
 もう一つの理由がでかい。
 倉見山は富士山の北にある。だから、北斜面を登りにすると山頂に着くまでまったく富士山が視界に入らないのである。三つ峠や杓子は左右に姿を見せるのに、富士山だけは見えない。
 だから、やっと山頂について、おもむろに目を上げた時に真正面に現れる富士山の圧倒的ないでたちに度肝を抜かれる。
「うわあ~、すごい!!!!」
 叫ぶこと間違いなし。
 山登りの醍醐味まさにここにあり。

倉見山 012


倉見山 009


 これが、南斜面から入ると、最初から富士山が丸見えである。富士山を背にして、あるいは右手にしてずっと登ってくるのだが、途中でいくつもの展望スポットがある。頂上に着く頃には、もう富士山に飽いていることだろう。感動がない。
 倉見山は、絶対東桂から登るべきである。

倉見山 001 山頂でも携帯のアンテナは立つ。
 関西にいる山登り好きの知人に写メで「富士山のお裾分け」する。

 山頂から10分ほど歩いたところに展望台がある。凍りついた残雪に囲まれたテーブルとベンチがいくつか並んでいる。昼食には絶好のスペース。
 目の前に迫る富士山をおかずにしながらの贅沢なランチ。
 空は青々、陽はあたたかい。
 40分ほど独り占めすると、同じく東桂から登ってきた男性が到着した。おそらく、自分の一本後の電車だろう。

 山頂付近で出会ったのは4名。
 下山中は誰とも会わず。
 今日の倉見山は5人のものだった。


 展望台からやや向原方面に下ったところに、山頂や展望台以上の絶景ポイントがある。
 左手前方に聳え立つ富士山から北と西とに流れる長い裾野、右手後方の三つ峠から南へと連なるなだらかな尾根、そして北東側は倉見・杓子・鹿留の山々。その3つの稜線に囲まれた三角形の盆地が富士吉田市。住宅の密集する縁を中央自動車道が蛇のようにのたくっている。
 山に囲まれ、山に見守られ、山と運命を共にせざるをえない人々。
 ここに住む人たちにとって富士山とはどういう存在だろう?
 生まれた時から常に目の片隅にある、あまりに大きい、あまりに美しい、あまりに神々しい山。
 父のような存在だろうか。母のような存在だろうか。神のような存在だろうか。それとも無かったら困るけれど、普段は意識しない空気のような存在だろうか。
 右手の尾根の彼方には南アルプスがまばゆく輝く白頭を覗かせていた。


130203_1201~01130203_1201~02

         倉見山 014

 下山は、目の前に見え隠れする富士山を見ながら、なだらかな道を下る。
 子午線を通過した太陽からの光の反射、大気中の湿度、そして高度の変化によって刻々と姿を変えていく富士山。あとは下るだけという気楽な気分(本当は下りの方が事故りやすのであるが)を満喫しながら、富士山の七変化を楽しむことができるのが、南斜面を下りに取るべき3つめの理由。
 ブルーガイド、さすがだ。

           

倉見山 018



倉見山 016 自分の持っているブルーガイドは2002年発行。そこでは、富士見峠から向原峠を経て向原の集落に下りるルートが紹介されている。それだと、下山してから林道を1時間ばかり歩くことになっている。
 富士見峠から「寿駅→」の道標に従えば、山道をくだった最後に赤い鉄の階段を下りて、車道に降り立つ。すぐそばにシチズンの倉庫が建っている。ここから寿駅までは歩いて20分ほどである。
 このルートが紹介されていないのは、2002年にはまだ整備されていなかったからかもしれない。ガイドブックは新しいのに限る。
 それにしても、シチズン電子の本社がこんなところにあるとは知らなんだ。

      倉見山 019

      倉見山 021

 寿駅は無人駅。
 かつては「暮地(くれち)駅」という名だったのだが、「墓地」と間違われやすいので、改名したのだそうだ。たしかに・・・。

       倉見山 022

       倉見山 023


 中央線藤野駅で途中下車。バスで町営藤野やまなみ温泉に向かう。
 源泉水100%使用、露天あり。大人3時間800円。
 中央線沿線の山登り後によく利用する温泉の一つである。
 日曜の午後だけあって近隣からの家族連れで賑やかであった。
 地場産のそばかりんとうとビールで一日を締める。

倉見山 026





記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文