老いることは大変である。
どうしたって体の機能は衰え、あちこちにガタは来る。容姿は衰え、多かれ少なかれ頭もボケる。若さと有用性を重視する世間からは邪魔者扱いされる。仕事を引退すれば社会との接点も少なくなる。介護が必要となれば家族の重荷となる。連れ合いや知り合いに先立たれ孤独になる。人様やお国の世話にならなければ生きていけない。そういう自分を受け入れなければならない。遠くない先には、100%間違いなく「病」と「死」とが待っている。
ただでさえ大変なのに、お金がなければ、福祉がなければ、支えてくれる人がなければ、輪をかけて大変なのは火を見るより明らかである。
いまの日本、このお金がない、福祉や医療も十分に受けられない、支えてくれる人もいない高齢者が増えているのである。何十年とお国のため、家族のため、真面目に頑張って働いてきて、最後に待っていたのがこの仕打ち。
なんたることだろう!
この本は、乏しい年金や生活保護だけがたよりの、あるいはそれさえも得られずに路上生活を送っている、貧困高齢者の置かれている現状について、いろいろな立場から高齢者に関わっている専門家たち~ケアマネジャー、福祉事務所のケースワーカー、地方の特別養護老人ホームの施設長、都内の病院のソーシャルワーカー、有料老人ホーム相談所のスタッフ、地方の在宅介護NPO、都内の病院の救急医師~が、それぞれの現場で実際に起こっている困難事例と課題とを具体的に挙げながら、赤裸々に描き出している。
それはもう‘豊かな先進国・日本’という幻想を叩き壊すに十分な、目も当てられない悲惨さと、政治と人心の荒廃のさまを読む者に突きつけてくれる。
もちろん、いつの時代だって貧乏人は悲惨な生活を強いられた。口減らしのため捨てられた年寄りもいた。社会や福祉の干渉を拒む偏屈な老人だっているだろう。「昔は良かった」なんてのは幻想である。
問題は、昔と違って今は、悲惨な状態に追いやられている高齢者の姿がマスメディアにより国民に知れ渡っているのに、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と憲法に謳われているのに、それを可能にするだけの条件が揃っているはずなのに、北欧諸国を見習えばやろうとすればできないはずはないと分かっているのに、それが実現できないでいる現実に直面している点である。
かく言う自分もほぼ間違いなく、このまま生き長らえば貧困高齢者の一人になるだろう。いつ事故や病気で体が動かなくなるかわからない。認知にならない保証もない。公の世話になることになんら恥も屈辱も遠慮も感じはしないだろうけれど、介護保険制度も年金制度も生活保護も今後数十年の高齢者人口の増加に追いつかないのは目に見えている。
まだ体が動くうちに、自己決定もできるうちに、適当なところで寿命が尽きるのが一番幸福だという結論に自然導かれるのは、あまりにネガティブだろうか。介護職に就く者として資質に欠ける発言だろうか。
考えてみたら、この本もまさにそうであるが、老いを巡って専門家の声はあまた聞こえてくるけれど、肝心の当事者の声というものがあまり聞こえてこない。老人ホームにおいても、利用者に向かって「あなたは今後どうしたいです?」という問いかけは一種のタブーである。「がんばって100歳まで生きたい」という答えならよいけれど、「一刻も早く死にたい」などという答えが返ってきたら、職員は対応に困ることになる。
福祉の本などでは「死にたい」は本音ではなく「イキイキと生きたい」の裏返し、ともっともらしく書かれているけれど、「幸福に死にたい」という思いは誰もが正直に持つ願いではないだろうか?
自らの「老い」や「死」と向き合うのを恐れている若い現役世代は、病人や高齢者が「死」という言葉を発すると、反射的に否定してしまう傾向がある。だから、ますます高齢者は心を閉ざし本音を語らなくなる。
老いの当事者の声に何ら解釈を差し挟まずに耳を傾けることが必要であろう。