ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(アン・リー監督)

 2012年アメリカ映画。

 動物園を経営していた一家は生まれ故郷のインドを離れ、動物と共に日本の貨物船でカナダに向かう。その途中で嵐に巻き込まれ船は沈没。救命ボートで脱出し生き残ったのは、主人公の青年パイと4匹の動物たち。シマウマ、オランウータン、ハイエナ、ベンガルトラの壮絶なバトルの挙句、当然トラが勝ち残る。パイはトラと共存しながら救いを求めて大洋を漂流する。

 勇気と知恵と根性と信心とによって苦難を乗り越えた青年のサバイバルストーリーであると同時に成長物語でもある。と同時に、海上や海中の自然が織り成す美しいシーンと、牙を剥く猛獣や大自然の猛威など迫力あるシーンが次から次へと繰り広げられる海洋冒険ファンタジーである。これはぜひ映画館で3Dで観たかった。
 子供が見ても絶対に楽しめる面白い映画であるが、最後の最後にただのファンタジーや冒険物語ではないかも・・・と思わせるひねりが待っている。
 トラと漂流した青年の奇跡を描いたこの物語をファンタジーととるか、寓意ととるか。選択は見る者にまかされている。大人になったパイが取材に来た記者に語るように、「そこから先はあなたの物語」である。


 防ぎようのない運命の仕掛けによって途方もないトラウマを持たされてしまった人が、前向きに生きることを否定する過去の事実の記憶よりは、ポジティブな生をもたらしてくれる夢物語(ファンタジー)を主体的に選ぶのは、自己欺瞞ではなくて賢さなのかもしれない。


評価:B+ (3Dで観たらA-かも)



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 本:『袋小路の向こうは青空~認知症と生きていくためのヒント』(鷹野和美著、法研)

治りませんようにほか 001 2008年刊行。

 著者は1957年生まれ。『がんばらない』で有名な鎌田實医師のもと諏訪中央病院の医療ソーシャルワーカーとして日本初の「老人デイケア」を企画運営。その後は大学(研究)と病院(実践)を行き来しながら、病院コンサルタント、自治体コンサルタント、講演活動、海外医療援助などを行ってきた。2008年より京都創生大学学長に就任。地域ケアを主眼とした高齢者福祉の研究者にして、開拓者にして、実践者にして、教育者にして、唱道者。
 アイデア(頭)とハート(心)とパッション(胸)とフットワーク(足)と気力(肝)とが見事に揃った才能豊かな人である。はじめてその存在を知ったが、こういう人がいるのなら日本の高齢者ケアも先行き暗くはないぞ~、と思う。

 地域ケアのコンサルタントとして著者自身が関わったいくつかの自治体の例が紹介されている。これが面白い。

① 北海道の本別町で2002年に始まった「やすらぎ支援事業」は、認知症介護の基礎的な研修を受けた「やすらぎ支援員」を町民の中から養成し、町内の認知症高齢者の家を訪問、話し相手になるサービス。介護保険の中では時間と仕事が規定されているホームヘルパーのできないところ、しかも認知症患者にとって最も大切なケアとも言える見守りとコミュニケーションをもっぱらとする。今で言う「傾聴ボランティア」のはしりであろう。
 認知症患者を持つ家族のレスパイト(息抜き)を狙って始まった事業であるが、それだけに終わらず、認知症の本人がどんどん清明になってきてしまったという。
 効果を知った厚生労働省がこの「やすらぎ支援員」を介護保険の制度として盛り込もうと打診したが、本別町の人たちは断ったらしい。賢明である。

 また、本別町では2007年に「徘徊SOSネットワーク」を作った。
 認知症高齢者の顔写真と特徴をあらかじめ町役場に登録しておいて、当人が行方不明になったときなどにその情報を公開し、地域全体が協力して探し出すシステムである。行政区域の境界線がしっかりしていて、人口も多くない地域だからできる良策である。
 一方、個人情報保護法の点でなかなか難しい面もあるらしい。著者の言うように、この場合、個人情報より「いのち」だろう。

② 長野県の泰阜(やすおか)村は「老人は死ぬ義務がある」を哲学に、医療・福祉政策を進めている。「口からものを食べられなくなったら生物としては最後だ、そこから先は何もしない」という方針で延命治療をしないから、老人医療費は日本屈指の低さになっている。その代わり(と言う訳でもないだろが)、村は一人に月100万円以上かけて在宅ケアを支援している。

 普通の町では介護施設に入ると月に50万円、在宅だと介護保険で36万円。ところが、泰阜村ではこの36万円ですむところを100万円かけて、在宅生活をぎりぎりまで保障している。本来、介護保険では36万円の限度額を超えた分は全額負担になるけれど、利用者に負担させるのは無理なので、その分を村が全額出しているのだ。しかも介護保険の分も、普通なら利用者が10パーセント負担するところを、4パーセントに軽減している。

③ 同じ長野県の栄村では、診療所長の次の一言、

 「莫大な資金をかけて、役に立たない健康診断をやるくらいなら、村の健康診断を全部やめてしまえ。そのやめた費用で、村人全員をヘルパー教室に通わせろ」
 その結果、村人のほとんどがホームヘルパーになってしまった。・・・・何かあったら、いちばん近い人が下駄履きで駆けつけることができるという意味で、俗に「下駄履きヘルパー」と呼ばれている。

 ヘルパーの資格を取ったからといって即良い介護ができるとは限らないけれど、「何かあったら隣近所で助け合おう」という心構えを醸成するのに良いアイデアだと思う。認知症の人への対応のコツなど(特にNG対応)は、知っていると知らないとでは結果が全然違ってくる。そのような隣人に囲まれている認知症患者は落ち着いて住み慣れた村を散歩できることだろう。


 このような地方でのユニークな取り組みをみると、こと福祉分野に限っては「井の中の蛙」は地方人ではなくて都会人なのかもしれないと思う。人口が少なくて、行政組織が小さい結果として政策の決定・施行までのスピードが速くて、高齢者の割合が高い(悠長に待っていられない)地方のほうが、柔軟な発想、思い切った先進的取り組み、住民の合意形成が安易なのかもしれない。


 また、著者は福祉国家デンマークの認知症ケアの様子を紹介している。
 欧米諸国の老人介護現場の様子を視察してきた日本人の誰もが感じたのと同様の感想を著者もまた述べている。
 すなわち、欧米諸国のケアの理念の中心を成すのは「自立」と「合理性」である。
 そのことはもう彼我の国民性の違い、民族としてのアイデンティティの相違であろう。日本人がこの2つを身につけるのは猫に犬芸を教え込むようなものである。なにも日本人が欧米人に比べて劣等だとか優秀だとか言うのではなく、ただ単に脳の構造に差があるのではないかと最近考えている。(たとえば、日本人が「風流」に感じる虫の声を、欧米人は雑音としてか聞けないというような・・・)
 ここで役に立つなあと思ったのが、著者が紹介するデンマークでの認知症ケアのコミュニケーション・メッソードである。
○ 名前で呼びかける
○ そばに立つ
○ 話すときはからだにさわりながら
○ 目線を合わせて話す
○ 目をそらさない
○ 一度に話す内容はひとつだけ
○ 話はていねいにする
○ はっきりした声で明瞭に話す
○ 命令調にならないように留意する
○ 身振り手振りを上手に使う
○ 高齢者よりゆっくり歩く(追い越さない)
○ 高齢者を急がせない

 日本では大汗をかいて、大声で話して、忙しそうにしていると、いい職員だと言われる。
 ところが、デンマークでもドイツでもスウェーデンでも、この三つをやっている職員は「仕事ができない人」と思われてしまう。

  う~ん。反省しきり・・・。
 
  最後に著者は、専門である認知症の地域ケアについてこうまとめる。 
 認知症は、アルツハイマー病や脳血管性疾患のように頭蓋内に病的変化があったり、身体的な廃用が原因であったりするから、その治療に医療が不可欠なのは事実である。しかし、認知症をひとり医学的治療の対象としたところから、現在の認知症の人に対するケアのあり方に多くの問題が生まれたとも考えられないだろうか。・・・・・少なくとも認知症ケアに関しては、認知症の人をとりまく家族や近隣の人々、周囲の環境まで含めたもっと大きな視点が必要であろう。
 ・・・・・・・
 認知症の人とその家族を支えるには、「生活丸ごとモデル」で考えるしかない。医療も介護も看護も福祉も隣組もなんでもかんでもひっくるめてひとつになって「地域をあげて看る」。つきつめれば、これがぼくの認知症ケアの結論だ。

 そう。
 考えてみると、地域(地縁・血縁・社縁)の崩壊と呼応するかのように、認知症老人が巷に現れてきたのであった。


追記:著者プロフィールによると、鷹野和美は㈱ワタミの介護のアドバイザーをしているそうである。(2008年現在) こればかりは不可解である。信じがたいような介護事故を連発するブラック企業にいったい何をアドバイスしているのだろう?
 そんなワタミを国会議員にしてしまった日本人。
  日本人総「認知症」化なのか。

 

● 映画:『ビジター』(トッド・レヴィン監督)

 2012年アメリカ映画。

 原題はSTATIC。
 そのタイトルどおり、美しくSTATIC(静的な)映像と共にゆっくりと描き出されるのは、トラウマを抱えた夫婦の姿。数年前、家の近くの沼に落ちて亡くなった一人息子の死を受け止められない作家とその美しき妻。
「あれ?これはトラウマ家族の再生ドラマだったのか」と、一瞬肩透かしを食らうが、ドアをノックする真夜中のビジター(訪問者)の登場と共に、雰囲気は一転してミステリー&ホラー色を強める。
 国家やCIAやマフィアが絡む陰謀ものなのか?
 宇宙人の侵略ものなのか?(SF)
 猟奇殺人をめぐるクライムサスペンスなのか?
 一人息子の死には何か大きな謎が隠されているのか?
 先の見えない展開にグイグイと引き込まれる。


 が、自分は途中でトリックがわかってしまった。
 『シックスセンス』(ブルース・ウィリス)や『アザーズ』(ニコール・キッドマン)や『パッセンジャー』(アン・ハサウェイ)を通過した目には、もはやこの結末は意外ではない。一人称もののミステリーを読むときに、『アクロイド殺し』(byアガサ・クリスティ)のトリックの可能性を頭に入れながら読み進めるクセがついてしまったように。
 やっぱり先鞭をつけてこその大トリックである。

 囚われた(STATIC)時間や場所から解放されるには、感情を吐き出し、自分も他人も受け入れ、許し、手放すことが必要なのである。生者も死者も。




評価:C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 

● ガルボの‘異邦人’性 映画:『クリスチナ女王』(ルーベン・マムーリアン監督)

 クリスチナ女王 0021933年アメリカ映画。

 実在したレズビアンの女王の話である。
 “レズビアンの女王”と言えば、普通は古代ギリシアの詩人サッフォー(@レスボス島)であるが、こちらは正真正銘のスウェーデンの女王陛下(1626-1689)。処女王と呼ばれた英国エリザベス一世同様、生涯結婚しなかった。(エリザベス一世はレズビアンでも処女でもなかったらしいが。)
 6歳で王位を継いだクリスチナ女王が28歳にして退位するまでの半生を恋愛ドラマを主軸に描いている。
 と言っても、そこは30年代ハリウッド。臣下の女性たちとのダイキーな恋愛模様が描き出されるべくもない。往年の二枚目俳優ジョン・ギルバート演じるスペインの貴族アントニオとの運命的な悲恋が創造されている。

 脚本も演出もカメラワークも素晴らしいが、魅力の第一は何と言っても主役を演じるグレタ・ガルボである。
 クリスチナ女王とガルボには共通点が多い。
 スウェーデン人であること。独身を貫いたこと(ガルボはレズビアンorバイセクシュアルの噂があった)。ガルボはハリウッドの女王として、あるいは「神聖ガルボ帝国」の女王として常に孤高に輝いていた。若くして引退したところも似ている(ガルボは36歳で銀幕から姿を消した)。
 それだからなのか、クリスチナ女王のセリフがそのままガルボの本心の吐露のように聞こえる箇所がある。
 ガルボにとって最高のはまり役だったのではないだろうか。
 ただし、美貌の点では二人は似ていない。肖像画に見るクリスチナ女王はおせじでも美人とは言い難い。
 一方のガルボと来たら・・・。

 神の手による創造物のうち最も完璧な美。
 北欧のフィヨルドを想わせる近寄りがたい壮麗さ。
 整形手術のない時代にこれほど整った顔立ちがこの世に存在し得るとは!
 残念なことに我々は白黒の映画や写真でしかガルボを見ることができない。作家のトルーマン・カポーティが「ガルボの美しさの秘密はその顔色の素晴らしさにある」とどこかに書いていた。カラー映画で観たかった一人である。

 美貌に酔わされて忘れられがちなのだが、ガルボは演技もめっぽう巧い。
 舞台の演技と映画の演技は別物であるが、ここでガルボは映画的演技の模範とも言える見事な演技を披露している。瞳の動きやまぶたの伏せ方、唇の端のちょっとした上げ下げ、微妙な顎の角度といった、アップでこそ冴える感情表現を巧みに使って、女王であり女である主役の心の動きを十全に表現し切っている。
 窮屈な政務から逃亡したクリスチナは、正体を隠し、旅先で偶然出会ったアントニオと宿屋で結ばれる。一人の女として愛し愛され、束の間のランデブーを満喫したクリスチナが、二人で過ごした部屋をただ歩き回るシーンがある。なんてことないシーンなのだが、ガルボがあちこちの家具を愛おしそうに触りながら典雅な風情で部屋を歩き回るとき、我々の目はアントニオ同様、彼女の動きに釘付けになってしまう。こんなふうにただ歩くだけで多彩で豊穣なニュアンスを画面にもたらしてしまう女優なぞ、滅多にいまい。

 ガルボの美には独特の個性がある。
クリスチナ女王 001 ハンガリア出身の作家、映画理論家のベラ・バラージュ(1884-1949)はこう語っている。

   ガルボの美しさはたんに線の調和ではなく、たんに顔の道具立てでもない。ガルボの美しさのなかには、或る特定の心の状態をあらわす相貌が表現されているのだ。
 ・・・・・・・
 われわれはグレタ・ガルボの美しさを、より高貴なもの、より優雅なものとして受け取る。それはじつに、そのなかにあの異邦人のもつ哀愁、孤独者の哀愁があらわれているからにほかならない。何の屈託もなく、楽しげに、いかにも幸福そうに笑っている顔の線が、どんなに美しく整っていようと、そのような笑い顔が、今日の、この社会のなかで、いかにも楽しく幸福そうに見えるとすれば、それはその人間が精神的にきわめて幼稚な人間であることを示すだけであろう。今日では、政治意識を全然もたぬ小市民でさえ、この汚れた世界に触れることにおぞ毛をふるかのようなジェスチュアや、もの悲しい苦悩の美は、その人間がより高級な、魂のより純潔な、精神的により高貴な人間であることを示すものだと感じている。ガルボの美は今日のブルジョア社会に敵対する美である。
(ベラ・バラージュ『映画の理論』、學藝書林)

 ガルボの「異邦人」性。
 それは、ハリウッドの中のスウェーデン人というところにあったのではなかろう。
 ヘテロ社会の中のマイノリティであったところに由来するように思う。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 
 
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 映画:『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督)

イタリア3大巨匠 1945年イタリア映画。

 「映像と音の友社」(http://eizo-oto.jp)というところから出ている「イタリア映画3大巨匠名作集」(DVD10枚組)を購入した。
 3大巨匠の10作品とは、
 ヴィットリオ・デ・シーカ
  自転車泥棒
  靴みがき 
  終着駅
  ウンベルトD
 ルキノ・ヴィスコンティ
  郵便配達は二度ベルを鳴らす
  ベリッシマ
 ロベルト・ロッセリーニ
  無防備都市
  ドイツ零年 
  戦火のかなた
  神の道化師、フランチェスコ  
 
 パッケージの謳い文句のまま「戦後社会の現実を描いたネオレアリズモの傑作」ぞろいである。(『神の道化師』は異質だが・・・)
 この10本がなんと1,980円で観られるというのだから、お買い得である。
 万歳、著作権の消滅!

 名前と評判だけは知っていたがこれまで観る機会のなかった作品が結構ある。
 この『無防備都市』もそうであった。

 第二次大戦の末期、ドイツ軍によって占領されたローマでレジスタンスの活動に従事する人々の姿が、ドキュメンタリーフィルムを見るような緊迫感のうちに描き出される。実際にローマが解放されたのは、この映画が公開される前年(1944)の6月なのだから、なまなましい記憶がローマの街にも製作陣にも役者にも張り付いていたに違いない。

 数々のシーンが印象に残るが、自分が見ていて一番つらいのはドイツ軍による拷問シーンである。
 捕らえたイタリア人の指導者を、ゲシュタポがレジスタンス組織の詳細を吐かせようと拷問する。裸の上半身に鞭をふるい、眼を潰し、爪をはがし、ガスバーナーで火責めする・・・・。
 拷問を受けている当人の姿を、隣室から仲間である神父にも見せて、神父の口も割ろうと画策する。
 二人とも仲間を売るより死を選ぶ。

 こういう場に自分が置かれたらどうするだろう?
 自分は痛みに弱い。歯医者では、ちょっとした処置にも麻酔をお願いしてしまう。
 拷問道具を前にしたら、あることないことベラベラ喋ってしまいそうな気がする。(Mの人は拷問に強いのだろうか?)
 自分がレジスタンス組織に所属するようなことがあったら、「重要なことはいっさい知らせないでくれ」と仲間に頼むだろう。知らなければ、裏切ることもない。

 それにしても、拷問できる精神とはどういうものなのだろう?
 徹底したサディストか。
 
 SMだけは苦手である。




評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● ソープの帝王鈴木正雄伝 本:『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』(木谷恭介著、光文社)

鈴木正雄伝 2012年発刊。

 『死にたい老人』の著者木谷恭介が人生の最後に上梓した本である。
 自分自身と日本社会に絶望し、断食安楽死を決行しようと幾度か試みて断念した著者が、持病の心不全の発作による突然死を予期しながら最後に取り組んだのが、ソープランドの帝王と呼ばれる鈴木正雄の伝記であったのは、なんとも面白い。
 「死」の淵にいる人を最後に引き止めるものは「性」だというのは本当なのか。

 鈴木正雄は、首都圏一円に32店舗のソープランドを展開し、3人の世界チャンピオンを輩出した角海老宝石ボクシングジム、角海老宝石などのグループ企業を経営者として率いてきた角海老グループの元総帥である。
 生年は昭和7(1932)年だから、現在81歳。すでに第一線は退いて、悠々自適の余生を送っているらしい。
 高校生のときに芸者のいる置屋と料亭とを往復する人力車の車夫を始めたのをきっかけに、男性客に女性を世話する、いわゆる売春の仕事に乗り出し、24歳のときに吉原の女郎屋の経営者となる。当時売春は違法ではなかった。売春防止法の施行(1957年)を受けて女郎屋からトルコ(現ソープランド)経営に鞍替えし、またたく間にチェーン店を増やし、業界の雄となっていく。


 鈴木正雄の話を同世代の木谷恭介(昭和2年生)がまとめたところにミソがある。
 敗戦後の焼け跡の東京の風景をよく知り、次第に復興していく中で雨後の筍のごとく生いてくる怪しげな風俗をリアルタイムで経験し、高度経済成長による繁栄を謳歌し、法律による管理と飽食による欲望の停滞のうちにエネルギーを喪失していく現代日本を憂う。
 同じ場所で同じ時代を生き、同じ空気を吸った者同士だからこそ通じ合うものがある。
 しかも、木谷恭介は若いころ風俗ライターとして日本中のトルコ=ソープランドを取材した経験を持つ。まさにツーカーの関係である。
 マスコミ嫌いの鈴木正雄が胸襟を開くとしたら、この人を置いてほかにない。

 ぼくが知るかぎり、赤線時代から現在まで、性風俗のなかに身を置き、成功しつづけてきた人物は鈴木さん以外にただのひとりもいません。
 鈴木さんこそ、戦後性風俗界の第一人者であり、風俗史の生きた証人なのです。

 規制と世間やマスコミの小姑根性とでがんじがらめになっている現代日本の逼塞した常識では考えられないような、戦後の「なんでもあり」の風俗事情が語られていて興味深い。
 惜しむらくは、これが鈴木と木谷の対談形式になっていればもっといろいろな話が引き出せたのではないか。残念なことに、最初の取材の後に木谷は体調が悪化し、実際の聞き役は30歳も若い知人に交代している。
 
 「ソープランドの帝王」と聞くと、やはりイメージは良くない。
 鈴木はマスコミから「女子の血をすする闇の帝王」とか「搾取人生で生んだ巨万の富」といった書かれ方をしてきた。
 自分は業界のことはほとんど知らないが、ソープランドの経営は裏社会とつながりがある、働いている女性の多くは借金を抱えている、稼ぎをひものヤクザやチンピラに貢いでいる女もいる、オーナーはたいてい脱税している・・・といったイメージがある。
 しかし、鈴木の言によると、「東京周辺で暴力団が経営している店はほとんどありません」。鈴木自身もヤクザとの関係を否定しているし、嫌がらせをするヤクザと断固として闘ってもいる。(逆に、滋賀県の雄琴などは80%の店が暴力団経営だと言う。)
 働いている女性も借金の返済のため仕方なく、という従来のタイプだけでなく、「セックスが好きだから」「簡単に儲かるバイト感覚」「お店を開く資金をためるため」とドライな理由が増えてきたという。さもありなん。 
 鈴木は何回も逮捕されているが、脱税で起訴されたことは一度もない。所得申告をきちんとして莫大な税金を払ってきた。店の女の子にも税務申告させるという。
 語りから浮かび上がるのは、「筋の通った律儀な商人」の姿である。 

 自慢ではないですが、わたしはソープランド業界ではまじめに、良心的にやっていると思います。
 従業員たちの労働環境の整備、社会保険、厚生年金加入、もちろん納税と、世間並みとはいえないまでも、肩を並べられるよう努力してきたつもりです。
 もちろん、本人が語る自画像は、周囲から見た肖像より美しいに決まっている。
 いくら友人でもある木谷が「誠のひと」と褒め上げようが、これだけの大人物、「光」だけではすまされまい。光が強いほど影も濃い。「一筋縄で行かない」からこその大物であろう。
 
 

● 宮之原警部の挑戦 本:『死にたい老人』(木谷恭介著、幻冬舎新書)

大山0716 026 2011年発刊。

 ぼくは満83歳になります。
 もう、充分に生きた。それも、漫然とではなく、かなり真剣に。
 自分でいうのは恥ずかしいですが、一生懸命に生きて来ました。
 やるべきことはやったと思っています。思いのこすことはありません。これ以上、生きることに執着すると、のこるひとにどんな迷惑をかけることになるかもしれません。
 幸いなことに、ぼくはひとり暮らしです。
 断食で全身からエネルギーを落とし、枯れるように死んで行こう。
 そう、『断食安楽死』をしよう。

 と決意し、実行した小説家の記録である。
 が、ご安心あれ。四度にわたる挑戦にも関わらず、この試みは成功しなかったのである。
 一度目は、断食に入る仕度をしている最中に持病の心不全の発作が起こって病院に運ばれて中止。二度目は、断食38日目にしてやはり持病の胃潰瘍が悪化し、我慢できない痛みのため中止。三度目は9日目で胃の痛みに耐え切れず食べ物を口にしてしまう。
 死ぬことの難しさをしきりに嘆く著者だが、読んでいて「本気で死ぬ気があるのか?」と思わず突っ込まずにはいられない格好悪さ。
 一度目の心不全では、ほうっておけばそのまま誰もいない自宅で死ねたのに自ら知人に電話してSOSを発している。二度目の断食では、手持ちの胃の薬では抑えきれなくなった痛みに、受診するかどうか悩んだ末の挫折。三度目はあらかじめ牛乳(飼い猫のためという言い訳あり)と食パンを用意しておいての挑戦である。
 そして、四度目の挑戦に入る直前に「死ぬのが怖く」なって断念。
 「周囲の人に迷惑をかけないよう」ひっそりと静かに死にたいと願う著者であるが、主治医にも息子にも愛読者にも(ご丁寧なことに自著のあとがきで断食死を予告している)十分迷惑をかけている。一言で言って「ハタ迷惑な老人」そのものである。
 そんなに死にたいのであれば、首を吊るなり、崖から身を投じるなり、列車に飛び込むなり、浴槽で手首を切るなり、いくらでも方法があるではないか。
 が、著者は言う。


 ただ、首吊り、飛び込み、練炭火鉢、刃物による失血死。
 そういう毎年、3万人ものひとたちがおこなっている自殺はしたくない。
『消えるように』この世から去っていきたい。

 著者がなぜ死にたいのか、なぜ‘普通の’自殺ではなく断食安楽死を望むのか、が本書からは今一つはっきりしない。おそらく、著者の中でもはっきりしていないのだろう。伝わってくるのは「老い」と「死」に対する著者の混乱と混沌ともがきと否認である。
 これでは成功するわけがない。

 安楽断食死を望む理由として著者はこう語る。


 理由は、冒頭にも書いたように、老いて自分自身に絶望したためである。だが、その絶望の根本には、A級のひとが“たとえ誤っていても”優遇されてしまう歪んだ社会に対する無力感がある。だから、断食安楽死は、ずっとC級で生きてきたぼくの、最後の決闘状なのだ。

 「A級のひと」とは、高級官僚や一部政治家のような‘甘い汁を吸う’エリートのことである。少年兵として戦争にとられた体験を持つ著者にとって、戦後戦争責任をうまく免れ、政治家や企業のトップになってのし上がっていったエリート達は断然許せない。その怒りと絶望は、このたびの福島原発事故にも関わらず、なお‘原子力村’の権益を守ろうと汲々とする企業(電力会社)、官庁(経済産業省)、御用学者たちの老獪な立ち回りと責任逃れ、それを許してしまう日本国民の愚かさを見て沸点に達する。
 この怒りと絶望は自分にもある。まったく同感である。著者が述べている‘国民を裏切った民主党への絶望’や‘ひたすら延命を目的とする終末期医療への不信’も大いに共感する。
 だが、断食安楽死を決行することがなぜA級のひとに対する決闘状になるのかが分からない。自分の死に方は自分で選ぶ、死だけは国家(官僚や企業)の思い通りにはさせない、という気概なのかもしれないが、断食死であろうと首吊りであろうと自殺には変わりない。むしろ、介護や医療を必要とする老人たちが著者にならって次々と適当なところで断食死を含む自殺をはかってくれることは、福祉予算の削減をはかりたい「A級のひと」にとって願ったりかなったりだろう。思う壺である。

 首吊りや飛込みなどの‘普通の’自殺に抵抗ある著者は、要は「負け犬」になりたくないのではないか。
「死にたいけれど痛いのはごめんだ。苦しむのはいやだ」
「ありふれた自殺っぽく見えるのはいやだ」(自分は3万人の1人ではない)
「できるだけ他人に迷惑をかけたくない」(ぶざまな死はいやだ)
「あくまでも自分の積極的な意思で死にたい」(理性的な死)
「死を最後の切り札(カード)として活用し、社会や世間に一石を投じたい」
 こうした独白の背後にあるのは、見栄と体裁を気にする物書きのナルシシズムではないだろうか。


 著者の「死にたい理由」の根幹にあるものは、次の一節に集約されているような気がする。 

 83歳になっても、小説を書けという注文はひっきりなしにあるが、からだがいうことを聞いてくれない。10年まえのような集中力がなくなってしまったのだ。
 しかも、ぼくが書くのは娯楽ミステリーで、世のため人のためといった高級なものではない。ぼく自身の生活を維持するために書くのだ。
 家族がいたとき、生活を維持することは、それなりに意義があった。だが、ひとりになったいま、生活を維持するために仕事をするのは、意味がないのではないか。
 ぼくの命を維持するため、命を振り絞って小説を書く。無駄なことをするために、無駄な努力をするようなものだ。
 それなら、最初から仕事などしなければいいのではないか。
 10年まえ、20年まえ、仕事と生活と楽しみが噛み合っていた。それらをひっくるめたものが『人生』で、迷いなどまったくなかった。
 80歳になると、人生といえるものがなくなってしまった。

 この文章は見事だと思う。
 さすがはプロの小説家である。自分など逆立ちしたってこんなうまいこと書けやしない。
 単純に言えば、何の為に生きているか、何の為に書いているのか、分からなくなったということだ。自殺願望の理由としてオリジナリティあるものではない。
 いわゆる、生き甲斐を見失ったのだ。
 あるいはこうも言える。
「断食安楽死」への挑戦が著者の新しい生き甲斐になった。 


 戦前生まれで、バイタリティあふれる風来坊で、生来の楽天家で、演劇や風俗ルポライターや小説家として破天荒な人生を生きてきて、旅情ミステリーの人気作家として多くのファンを持つ著者は「生きるのは何の為?」なんて疑問はおそらく持ったことがなかったに違いない。ただただしゃかりきに、面白おかしく生きてきたのであろう。
 家族が去り(20年連れ添った伴侶と別れている)、性的機能も衰え(かつて日本中のトルコ=ソープランドを体験取材している)、老化のため小説を書くのも困難になってきてはじめて、存在の奥に潜んでいた問いが浮上してきたのではなかろうか。
  
 ウィキによれば、木谷恭介は2012年12月9日、掛川市内の病院で心不全のため死去している。最後の著作は『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し ソープの帝王・鈴木正雄伝』(光文社)だそうである。「死にたい」から一転して「性」へ。ぜひ読んでみたい。






● 映画:『プレイ―獲物―』(エリック・ヴァレット監督)

 2011年フランス映画。

 質の良い犯罪サスペンス&アクション。
 スピーディーな、だが無理のない展開と、オーソドックスだがショットの巧さによって魅せるアクションシーンによって、最後までダレなく楽しめる。
 刑務所を脱走したB・ウィリス並みの‘不死身’の主人公が、警察の追跡をかわしながら、さらわれた娘を救うための孤独な闘いを繰り広げる。
 妻を殺された男の執念。障害を持つ可愛い娘を命がけで救おうとする父親の愛。観る者はどうしたってこの主人公フランク(=アルベール・デュポンテル)に共感して応援したくなる。
 けれど、ちょっと待て。
 こいつは銀行強盗で収監されていた立派な犯罪者なのである。この腕っ節の強さからすれば、一人や二人、殺しているかもしれない。
 こんな見当違いな共感が可能となってしまうのは、フランクの娘をさらった憎き敵が、羊の皮を被った狼、連続少女強姦殺人魔だからである。
 刑務所の中では、子供への性犯罪者が一番仲間から疎まれ虐められると、何かで読んだ。それにくらべれば、銀行強盗なんか善人ってことか。
 無事娘を助け出し、モロッコに生きのびたらしいフランク。このラストはなんとなく『ダイ・ハード』のように続編を期待させてしまう。
 アメリカならやりそうだが。
 やるかな、フランスは?



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 登山:大山(神奈川県、1,252m)

●歩いた日  7月19日(金)
●天気    晴れ時々くもり
●タイムスケジュール
11:00 小田急線伊勢原駅発「大山ケーブル」行きバス乗車(神奈川中央交通)
11:25 「大山ケーブル」停留所着
大山0716 025      歩行開始
11:40 大山ケーブル乗車
11:46 ケーブル下車
11:50 阿夫利神社下社
12:30 見晴台
13:50 大山頂上
      昼食休憩
15:00 下山開始
16:20 大山ケーブル乗車
16:26 ケーブル下車
16:40 「大山ケーブル」停留所
      歩行終了
16:55 神奈川中央交通バス乗車
17:20 伊勢原駅着
● 所要時間 5時間15分(歩行3時間15分+休憩2時間)

大山0716 003 丹沢の一番人気、大山見参。
 家を出るのが遅かったことと猛暑を言い訳にケーブルカーを利用する。これで約300mをエスケープ。実際に登るのは500m強となる。
 なんとなくこういうのは狡いような気がしてしまうのがハイカー魂である。
 が、しかし、どんな山にしろ標高0メートル(海抜)の地点から登ることはまずない。
 たとえば、高尾山(599m)は標高200mの地点を出発点としているし、富士山(3776m)は五合目(約2000m)から登るのが普通である。
 どの地点から登るかは気にする必要はない。山登りを楽しんだかどうかが重要であろう。(とは言え、山頂ぎりぎりまで車で行って、ハイヒールで最後の階段を上って「登頂!」ってのは、さすがに気持ち的に山登りのうちに入れたくないが・・・)

 大山は江戸時代から続く修験道の聖地であり、「あふり山」という別名が表すように、雨降り信仰で庶民の祈りを集めてきた山である。山の上には、阿夫利神社の立派な社があって参拝者が絶えない。都心に近く、アクセスも良い。ケーブルカーに見るように登山者の便が十分はかられている。相模湾や富士山を見渡す展望も抜群だ。
 そんなわけで、東京都民のオアシス高尾山とくらべてしまうのである。

大山0716 006 で、中央線沿いに住む者の身びいきなのか、この日の体調がいま一つシャキッとしてなかったせいなのか、高尾山ほどの神聖さを感じとることができなかった。落石や滑落事故の多いことが山道に立ててある看板から知られるが、地盤がゆるいというか山全体がなんだか荒れている感じがした。地滑りや崩落している箇所が目立つし、肝心の森も鬱蒼というより疎らな感じがした。(ところどころ見事な杉の大木はあるのだが・・・)
 神社もまた建物こそ立派だが、型どおり2礼2拍手1礼しても‘気’が感じられなかった。祭神は、大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)、高おかみ神(たかおかみのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)の3柱であるが、自分と相性が悪いのかもしれない。

 夏休み直前の平日の午後、登山客は思った以上に少なく、静かな山歩きができたのは良かったけれど、下山後に感じる心地よい疲れーー体は疲れているが、気は充実しているという感覚ーーが今回は感じられなかった。

大山0716 011


大山0716 021


大山0716 022



大山0716 007


 まあ、こういう日もある。  
 

● ファンタジーよりファジー 映画:『ブンミおじさんの森』(アピチャートポン・ウィーラセータークン監督)

 2010年タイ映画。

 生者と使者と精霊とが同居するタイ東北部の日常。
 不思議な映画である。
 が、我ら日本人には実は理解できないテーマではない。日本人も一昔前は、このような日常を生きていたはずだからである。生者と、物の怪(=死者)と、精霊(=妖怪)とが同居する日常を。
 
 カンヌでパルム・ドール(最高賞)を獲得したときの受賞理由の中に「ファンタジー要素」が挙げられていた。
 西洋人から見ると、この作品はファンタジーとしか言いようがないのだろう。
 しかし、東洋人である我々にしてみれば、「ファンタジー」という定義はちょっと違う気がする。
 白黒はっきりさせる二元論者である西洋人は、「現実(日常)」に対するものとして「ファンタジー(非日常)」を位置づけている。たとえば、西洋のオカルトホラー映画は、まさに「日常」を襲い、打ち壊し、侵蝕する「非日常」の怖さを描いている。そこには究極的には、というか根源的には、「神」対「悪魔」の闘いが暗喩されている。「神・光・善・愛・正しさ」に敵対するものとして「悪魔・闇・悪・憎悪・邪さ」が布陣を組んでいて、その間には深く、険しい谷が切り立っている。
 ファンタジーの傑作『オズの魔法使い』では、主人公ドロシーはファンタジー世界(オズ)に踏み込むために、生まれ育ったカンザスを離れなければならなかった。夢と現実は明確な境界を持っている。
 日本を含む東洋では、夢と現実、非日常と日常は、さほどはっきりと分かたれてはこなかった。お盆(死者を迎える風習)なんてのは、西洋人にとって見たら「オー、マイ、ガッー!」であろう。しかも、死者と一緒に踊るなんて!(そう言えば、昔『死霊の盆踊り』というC級映画があった。あれはどう解釈すべきか?)
 
 だから、この映画を評するとすれば「ファンタジー」は適当でない。「ファジー映画」というべきである。

 「大きなスクリーンで見たかったな」と思わせる、タイの田舎の事物を映すフィルムの生々しい肌触りは、本当の映画だけに許された愉悦の印。これだけは東も西も関係ない。

 

評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」    

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
 

 

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