ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 平林寺――武蔵野の匂い

6月9日(日)
 あまりに天気がうるわしいので、弁当をこさえてサイクリングと洒落てみた。
 行き先は埼玉県新座市にある臨済宗の名刹、13万坪の広大な境内を有する平林寺である。ちなみに、13万坪というのは東京ドーム9個分、皇居37%分である。外周を歩くと1時間以上もかかる!

平林寺 001


平林寺 002


 その名の通り「平」野にある「林」で、田山花袋が「武蔵野の昔の匂いを嗅ごうとするには野火止の平林寺付近がいい」と言ったように、コナラ、クヌギ、モミジ、松、杉、ヒノキが生い茂り、野火止用水が走り、30種類以上の野鳥が生息する自然豊かなお寺である。
 川越街道と関越自動車道にはさまれ、新座市役所が隣にあるような喧噪な一画に、こんな美しく静かな森があるということに驚嘆する。わざわざ郊外の山に行かなくても十分リフレッシュできる。
 また、禅寺の持つ静寂な雰囲気が散策者の心を落ち着かせる。思索にふけるもよし、思索しないにふけるもよし。こんな自然の中で坐禅を組めば進歩も早いことだろう。ウグイスの声がひときわ目立っていた。

 ただ、紅葉の頃はかなり混雑するらしい。モミジがたくさんあるからむべなるかな。

平林寺 009

平林寺 012


 平林寺は南北朝時代(1375年)にさいたま市岩槻に建てられ、その後松平家の霊廟となり、江戸時代(1663年)松平輝綱によって現在の地に移されたとある。
 境内の一等地に松平家代々のお墓がデンと構えている。
 松平家で一番有名なのは、三代将軍徳川家光に仕えた松平信綱であろう。「知恵伊豆(知恵出づ)」と言われたほど頭の切れる男で、幕藩体制の確立に貢献したほかにも、島原の乱を鎮圧したり、野火止用水や玉川上水を作ったり、川越を城下町として発展させたりと、いろいろな功績が残っている。(下の写真は信綱の墓と平和観音)
 境内には島原の乱で殺された人々を弔う供養塔があった。松平信綱は、言ってみれば美輪明宏(=天草四郎時貞の生まれ変わり)の天敵である。さしもの美輪様もここに来たら逆上するかも。

平林寺 010


平林寺 007


 閉門(4時半)間際の境内に人影は少なく、静かな散策と瞑想が楽しめた。

平林寺 006




● 因果の海、または脱「宇宙」暴論 本:『宇宙の果てのレストラン』(ダグラス・アダムス著、河出文庫)

6月の菜園2013 008 1980年刊行。
 2005年河出書房新社より発行。

 傑作SFコメディ小説『銀河ヒッチハイクガイド』の続編。
 今回は宇宙創世の謎を解く、人類誕生の真実に迫る、というまったくもって大がかりなテーマを軸に、元銀河大統領ゼイフォード、ペテルギウス星人フォード・プリーフェクト、元地球人トリリアン♀とアーサー・デント♂、鬱型ロボットマーヴィンの4人と1体が、気の遠くなるほど広大な宇宙を何百万年という時を越えて縦横無尽に駆けめぐる一大活劇。
 冴えたブラックジョークとナンセンスでシュールな展開は前作同様。
 著者アダムスの希有な才能を堪能することができる。
 とりわけ人類誕生の背景をめぐるエピソードが秀逸。
 アダムスが人類をどのように評価していたか伺うことができる。
 「糞の役にも立たないノータリン」
 残念なのは、それがブラックジョークではなくて真実であることだ。

 ところで、別記事「認識と存在のあいだ」で書いたように、「認識=存在」である。
 人類誕生以前の地上の風景を我々は知ることができない。古生物学がやっていることは、「現在の人類がタイムマシーンで人類誕生以前の世界に行ったとしたら、世界はどう見えるか」というアプローチに過ぎない。それは、犯行現場にいなかった人間の証言をもとに実際の犯行を再現するようなものであるから、客観的事実なんてものとはほど遠い。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目は如何に?」というのがある。「両親が誕生する前、お前はどこにいた?」という意味らしいが、これと通ずるところがある。
 人類が今持っているような認識システム(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考える)を手にして初めて、この「世界」は生まれたのである。それまで(人類誕生以前)そこにあったのは、「恐竜が認識する世界」であり「鳥類が認識する世界」であり「魚類が認識する世界」である。
 我々人類が見ているこの「世界」は、まさに人類の、人類による、人類のために存在する「世界」なのである。
 
 これを敷衍すると、こうも言える。
 「宇宙の誕生は人類の誕生と同時であり、その終焉は人類の終焉と同時である」
 いま我々が認識している宇宙の姿は、人類にだけ「このように」見えている。「このように」現れている。他の生命体は人類が「宇宙」として認識しているもの(空間、物体、現象)を、まったく違う色彩、形状、運動で認識しているかもしれない。そのどちらが正しいのか、決める手立てはまったくない。
 人類中心主義から脱すれば、すべては相対的である。この「宇宙」もまた、人類の、人類による、人類のための「宇宙」なのである。
 
 では、我々人類が認識している、あるいは他の無数の生命体が各々のやり方で認識している「世界」「宇宙」の素になっているものはあるのだろうか?
 
 ある、と思う。
 たとえば、物理法則などは地球上に棲むどの生命体も無視できないであろう。宇宙でもある程度通用するであろう。
 何らかのルールというか法則は最低限あるはずだ。
 自分はそれが「因果法則」なのではないかと思う。
 
 はじめに「因果の海」ありき。

 広大無辺のその海の一隅に、それぞれの生命が「認識」という名の光を投げかける。スポットされて浮かび上がった部分が、その生命の「宇宙」「世界」として立ち現れる。
 そんなイメージだ。
 
 「宇宙」or「世界」⊂「因果の海」
 
 だから、我々は因果をくまなく知ることはできない。
 ブッダが、「因果法則なんて簡単に理解できます」と口走った弟子のアナンダ尊者を、「そんな簡単なものではありません」とたしなめたように。
 一方、我々の「宇宙」「世界」で瞬間瞬間起こっていることで「因果の海」から漏れる事象はたった一滴すらもない。
 そんなイメージだ。


 

● 「家族」という名のストックホルム症候群 映画:『スノータウン』(ジャスティン・カーゼル監督)

 2011年オーストラリア映画。

 1992年から1999年にかけてオーストラリア南部で実際に起きた男女11人連続殺人事件をもとに作られた映画である。
 なにより印象に残るのは、犯人たちの残虐性と殺害行為のエグさである。見ているこちらの体の一部まで痛くなるような拷問シーンはR指定も当然だろう。それでも映画として一般公開できるほどには表現は抑えられているわけだ。実際にあった行為は作品を上回るむごたらしさであったらしい。
 鬼畜という言葉こそ犯人達にふさわしい。

  こういう映画を観ると、いや、こういう猟奇的な殺人事件に接すると、自分の死刑廃止論もぐらつく思いがする。この事件の主犯ジョン・バンティングなぞ「何度死刑にしても殺し足りない」ような気がしてくる。被害者の中にはジョンが憎悪する小児性愛者や同性愛者もいたようであるが、そのどちらでもない者も含まれていた。いや、小児性愛者や同性愛者だからと言って個人が個人を裁いて暴力で罰していいわけがない。それもただ命を奪うというだけではない。簡単には殺さずに、拷問の苦痛や死の恐怖を極限まで味あわせたのである。実際の事件記事をあたると、ジョンらは生きている被害者のペニスや睾丸をつぶしたりしていたらしい。男なら、聞くだけで金玉が縮む怖さである。(映画ではさすがにそのものズバリのシーンはない。)

  ジョン役の俳優ダニエル・ヘンシュオールが童顔で柔和な顔立ちをしていて、一見とても凶悪犯には見えないところが、かえって恐ろしさを増す。「あの声で蜥蜴食らうかほととぎす」という俳句が浮かんでくるようなギャップに不気味さが募る。
 映画では触れられていないし、実際の事件の背景も調べてはいないが、おそらくジョンは幼少時に親族からの性的虐待を受けていることだろう。それが長じてこのような犯罪を起こす要因になっていると推測がつく。いかにも凶悪犯らしい容貌の役者を選ばずに、「子供の頃可愛いかったろうなあ」と思わせる役者をわざわざキャスティングしたのは、そんな因果を観る者に思い至らせるためであろうか。(読み過ぎか)

 しかしこの映画の主役はジョンでなく、ジョンの義理の息子ジェイミーである。
 心優しく気の弱いジェイミーは、隣人から性的虐待を受けていた。それがアクの強い義理の父親の登場で次第に感化されていく。ジョンに気に入られるため、ジョンに認められるために、ジョンの狂信的とも言えるペドフォビア(小児性愛者嫌悪)に同調し、凄まじさを増していく暴力行為に荷担していく。
 この‘洗脳’過程をリアリティをもって描いている。

 精神医学用語の一つに「ストックホルム症候群」というのがある。
「犯罪被害者が犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。」(ウィキペディアより抜粋)
 ジェイミーのジョンに対する関係もそれに近いものがある。というより、すべての子供は両親に対して大なり小なり「ストックホルム症候群」の被害者と言える。そこには圧倒的な力関係の差があり、かつその関係から逃れられないのだから。親に依存する、過度に同情するのは無理からぬことだ。そうした関係の中で、親が徹底的に利己的で子供を己の利用手段以上に考えていなかったとしたら悲惨である。子供は親の好意を得るためにどんなことだってやるだろう。(例えば、当たり屋。)
 父親のいない、気の弱いジェイミーにとって、押しの強い気性の荒いジョンは畏怖の対象であると同時に、憧れでもあったろう。犬を撃ち殺すことができなかったジェイミーが、最後には友人をだまして監禁して殺害する首謀者にまでなっていく過程を見ると、思春期の可塑性という以上に、洗脳されやすい性格の持ち主であるところに因が潜んでいるように思う。

 そのようにして凶悪犯になってしまったジェイミーに対して、観る者は怒りや恐怖や憎しみよりは、憐れみを持つのではないだろうか。ジェイミーの置かれていた境遇に、たまたまジョンという男と縁を持ってしまった不幸に同情するのではないだろうか。
 そこに情状酌量の余地はないものだろうか。
 そして、ジョンもまたかつては一人の「ジェイミー」であったと想像する余地はないものだろうか。


評価:B- 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」 

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『幸福の罪』(ヤン・フジェベイク監督)

 2011年チェコ映画。

 良くできたサスペンス&ミステリー。
 監督の確かな演出の腕が光っている。映像も良い。
 終わりまで観て、もう一度始めから繰り返し観たくなる映画である。登場人物の一人のその場その場の表情を確認するために・・・・。すると、二度目はその役者の上手さが光って見える。
 テーマは何というか、因果応報というか自業自得というか。人倫にもとる行為をした人物たちが最後には揃って罰を受けることになる。
 チェコの国民性は知らないが、意外と倫理観の強いお国柄なのだろうか。
 外務省のホームページを見ると、こうあった。 

チェコの宗教は、人口の約58%が無宗教、約26%がローマ・カトリックを信仰しています。公用語はチェコ語で、英語は観光地や大都市ではある程度通じます。
 チェコ人の国民性は、概して穏和かつ理性的で暴力を嫌うと言われています。http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=163)  

 そう言えば、映画の中で宗教的な匂いのするシーンは一つもなかった。「穏和かつ理性的で暴力(破綻)を嫌う」というところは、この映画の主人公トマシュ医師そのものである。その性格があだになって、トマシュは罪のぬかるみにはまりこんでしまうのだ。
 トマシュの児童性虐待疑惑の捜査を担当することになった刑事ラダもまた同様だ。
 ラダは、15年前自分を裏切ってトマシュに走った前妻ミラダに未練たらたら。そのミラダに面と向かって罵倒されるシーンがある。普通にプライドある男なら当然カッとなるような侮辱のされようである。アメリカ人や韓国人なら殴っているだろう。ラテン系の男ならその場で首を絞めているかもしれない。日本人でさえ、相手に唾を履きつけるか、追い返すかするだろう。
 ラダは冷静に対応し、その場を離れて、なんと泣くのである。 
 これが刑事役として通るのなら、チェコの男は少なくともマッチョではないらしい。
 
 本筋とは関係ないが、一番の驚きシーンであった。



評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」     

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
    
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『少年と自転車』(ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督)

 2012年ベルギー、フランス、イタリア制作。

 父親に捨てられた少年の話である。
 養護施設から抜け出した少年シリルが、父親と住んでいた家に自分の自転車を取り戻しに行くところから物語は始まる。
 自転車は・・・・・父親によって売られていた。

 父、息子、自転車の三題噺と来れば、どうしたってヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948年)を想起せずにはいられない。実際、ネオレアリズモ(新写実主義)のかの名作と合わせ観ることによって、この作品はより深い感慨をもたらす。単品として観ても素晴らしいものではあるが・・・。

 『自転車泥棒』で盗まれた自転車は父親のものであった。
 仕事を得るためになくてはならない自転車を取り返すために、父と息子は必至に街を走り回る。自転車も盗人もなかなか見つからず、親子は途方に暮れる。絶望の淵に追いやられた父は、ふと魔が差して、放置してあった他人の自転車を盗み、息子の目の前で捕まってしまう。
 第二次大戦後のイタリアを舞台に、貧困にあえぐ庶民を活写したこの作品は、社会の厳しさをリアルに映し出す一方で、父と子の強い絆を描き出し、その対比が涙を誘うのである。父親は貧しくとも一家の長としての責任と誇りを担い、息子に対して毅然たる態度で接しつつ、強い愛情を持っている。息子は父親を尊敬し、自転車泥棒を捜すのに進んで協力する。目の前で大衆に捕らえられた父親の姿にショックを受けるが、それでもなお父親を愛することに躊躇しない。
 社会は厳しい。世間は厳しい。
 けれど、親子の絆は生きていた。

 60年以上経った現在、家族をめぐる事情はどれほど変わってしまったことか。
 『少年と自転車』では、少年の自転車を盗む(勝手に売ってしまう)のは父親である。それを知ってもなお父親と一緒に暮らすことを願うシリルは、週末だけの里親となったサマンサと共に父親を探しに行く。面会の約束さえ守らない父親。やっと居所を探し当てて会ってみれば、「連絡するな。もう二度とここには来るな」と息子を切り捨てる。
 もはや社会や世間の厳しさが問題なのではない。親子の絆は完全に断ち切れている。責任も誇りも愛情もない父親の姿には、観る者も、里親のサマンサ同様、怒りを通りこしてあきれるばかり。
 現代の子供たちの生きる環境はかくも過酷なのである。

 様々に揺れ動くシリルの心情が、役者の演技ではなく、シリルの乗り回す自転車の軌跡やスピード、そのハンドル操作によって見事に表現されている。画面を縦横無尽に引っ掻く自転車の運動は、少年の心のもがきそのままである。
 少年の着ている赤いジャケットも印象的である。あたかも、対象物の位置を示すレーダーの赤い点を見ているかのように、観る者は少年の居所を追尾している気になる。肉親に捨てられ自暴自棄となったシリルの、どこにも落ち着くことのできない心の行方を、ハラハラしながら見守ることになる。

 シリルは最後にはサマンサの元に落ち着く。
 新しい家族の誕生である。
 里親制度というのはフランスではありふれているのだろうか。
 サマンサは、普段は養護施設で過ごすシリルを週末だけ預かり、親代わりをする。別に、親戚でも何でもないのだが。
 このサマンサの関わり、というか忍耐がすごい。自分勝手で礼儀知らずで言うことを聞かない強情なシリルに振り回され、「自分の時間」を奪われ、恋人と別れることになり、取っ組み合いの挙げ句に腕を傷付けられる。それでもシリルを見捨てない。シリルがケガをさせた親子の賠償金を肩代わりすることも厭わない。
 なぜ、ここまで・・・? と思うのである。

 おそらく、サマンサにもシリルのような少年を見守りたいという欲望というかカルマ(業)があるのだろう。恋人よりもシリルを選ぶのだから。単なる善意だけではできない話である。
 だが、サマンサがその関係に依存している(例えば、自分の母性本能を満たすためにシリルを利用している)かと言えば、そういうふうでもない。あくまでサマンサは「大人」である。
 サマンサの姿を見ていると、人が人に「関わる」ことの大変さを思う。一過性の、その場限りの関係ではない。自分の気が向いた時だけ可愛がればいい愛玩動物を飼うのとも違う。
 それは互いに対して「愛情」だけでなく、「責任」を持つということなのである。
 言葉を換えて言えば、互いの成長を願うということである。

 それこそこれからの「家族」の定義なのかもしれない。



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 認識と存在のあいだ、または2300円の真理 本:『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ/藤本晃共著)

ブッダの実践心理学 最近、自分の読書傾向が限定されている。
 一つは仕事に関するもので、介護や老いや死をテーマにしたもの。面白くはあるが、いわば必要にかられて読んでいる本たち。
 もう一つは仏教に関するものである。

 もともと自分の読書範囲は広くない。社会問題系の新書、ミステリー、スピリチュアル本、ごくたまに小説くらい。それらが今やすっかりお見限りである。例外は、故ナンシー関のエッセイと漫画くらいか。
 特に、あれほど手当たり次第に渉猟したスピリチュアル本に関心がなくなった。江原啓之、山川紘矢・亜希子夫妻、シャーリー・マクレーン、『聖なる予言』、『神との対話』、プレアデス、ラザリス、ラムサ、シルバーバーチ、ロバート・モンロー、ラマナ・マハリシ、サイババ、グルジェフ、エックハルト・トール、和尚(ラジニーシ)、様々な冥想の本・・・・。クリシュナムルティでさえ、もはや進んで手に取ろうとは思わない。それらの本が並ぶ書店のコーナーに行っても、立ち読み以上のことはしない。

 スピリチュアルショッピングに終息をつけたのは、テーラワーダ仏教およびヴィパッサナー瞑想との出会いである。
 仏教の本質に触れて、「これ以上の思想はない」と思った。
 否、思想という言葉は正しくない。
 哲学? それも違う。
 やっぱり、“真理”という言葉がふさわしい。
「これ以上の真理はきっとないな」と思ったので、他をあたる必要を感じなくなったのである。仏教は「信仰でなくて確信」とスマナサーラ長老が言うとおりである。


 この確信の中味は何かというと、自分の場合、瞑想によって「認識」と「存在」との関係を悟ったことにある。「自分」と「世界」と言い換えてもよい。
 それまで自分はこう思っていた。
「周囲にまず確固たる‘世界(存在)’があって、それを‘自分’が認識している。すなわち、自分(人間)は世界のオブザーバー(観察者)である。」
 しかし、瞑想で気づいた事実はそうではなかった。

「‘認識’が、‘有’から‘世界(存在)’を切り出している。」
「目の前にある‘世界’は、‘自分(人間)’にとってのみ、このような色彩と形状と運動とをもって現れている。」


 この事実に気づいたときに、十代の頃からずっと抱えていた疑問が氷解した。
 それは次のような疑問だった。

「誰もいない夜のジャングルはどんな姿をしているのだろう?」

 たいてい次のような答えが返ってこよう。
「そんなのカメラを設置して撮影しておけば分かるじゃん」
 しかし、それは(自分にとって)正解ではなかった。
 なぜなら、カメラで撮影された映像をあとから見る瞬間、それは人間の目によって見られている(変換されている)からである。あくまでも、人間によって見られたジャングルの姿でしかない。自分が知りたいのは「人間が見ていないときのジャングルはどんな姿なのだろう?」というものであった。
 当然ながら、正解は「決して、人はその姿を知ることができない」である。
 この疑問(ジャングル・クエスチョン)が浮かび上がるたび、常にこの結論に達していながらも、その問いの奥に隠れている驚くべき事実に自分は思い至らなかった。頭の配線がつながっていなかった。

 もう一つの問い(ジュラシック・クエスチョン)。

「人類が登場する前の地上の風景を描きなさい」

 紙と鉛筆を渡された大方の人は次のような絵を描くだろう。
 ソテツのような樹木の間をティラノサウルス以下数匹の恐竜が闊歩している。草陰には哺乳類が身を潜めている。空にはプテラノドンが飛び交い、背景では火山が火を噴いている。
 子供の頃に見た科学系の絵本や『ジュラシック・パーク』をはじめとする恐竜映画の映像記憶がこうした景色を作り上げる。

ジュラ紀の世界


 そこで、次の問い。

「この風景を見ているのは誰ですか?」

答1 「原始人です」
 ・・・・「ブー。人類が登場する前、と言いましたね」

答2 「草陰のハリモグラ(哺乳類)です」
 ・・・・「なるほど。だけど、ハリモグラはこのように世界を見ているでしょうか?」

 ハリモグラの視覚も聴覚も決して人間のそれと同じではない。人間が見るようには、世界を見ていない。(たとえば、犬は色彩を峻別できないと言われる)
 恐竜が見る風景、鳥類が見る風景、ハリモグラが見る風景・・・みんな違うのである。あとから出現した人類が見る風景が唯一「正解(真実)」であるというのは人間中心主義という誤りである。
 と言うより、上に掲げた絵(ネットから適当に拾ったものだが)のような光景なぞ、この地上にかつて存在した試しなど決してないのである。なぜなら、そのように認識できる生命(=人間)がそこにはいなかったからである。 
 逆に、人類が絶滅したあとの世界を想像するのも同様のことが言える。そこには、人間より精緻な認識システムを持った生命体が出現しているかもしれない。彼らが見る「世界」は、人間の想像する「世界」とはまったく様相が異なるであろう。


正解 「我々人類は決してその風景を知ることができない」

 あるいは、こうも言える。   
「誰が見ているか(主体)をあらかじめ設定することによってのみ、はじめて風景(客体)を描くことが可能となる」 (「可能となる」であって「できる」ではない。人間が他の生命がどう世界を認識しているかを知ることはできないから) 

 そのあたりの事情を、本書ではこう述べている。 

それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。
 知る能力は、すべての生命に同じではありません。チャンネルが五つも付いていない生命もいます。例えばミミズは目も耳もありません。一方、ワシの目の力、犬の鼻の力、コウモリの耳の力などは、人間よりはるかに鋭いのです。
 生命は知った情報を「意」というチャンネルで認識・概念にするのです。認識・概念は生命すべてに共通するものではなく、それぞれの生命に個別な主観なのです。(標題書より引用)


 人間の認識している「世界」が唯一絶対的なものとして客観的に存在しているのでは、ない。
 おそらく、唯一絶対的な世界は存在しない。それぞれの生命(人間、動物、魚類、鳥類、昆虫、植物、菌類、微生物、宇宙人、幽霊e.t.c.)に一対一対応で固有の「世界」が現れている。(厳密に言えば、同じ種の中でも個体間で異なった「世界」に生きている)
 自分の推測ではこうだ。
 何か「世界(存在)」を生み出すもとになる要素は「有る」のだろう。それは、電磁波のようなものかもしれない。暗黒物質なのかもしれない。ありとあらゆるところに満ちているその「有」から、あたかも複数の彫刻家が同じ石膏からそれぞれの裸婦像を彫り出すように、それぞれの「生命=認識」が「世界=存在」を切り出している。
 「世界」は生命の数だけある相対的なものである。どれか一つが「真実の」世界というのではない。
 端的に言えば、「認識」=「存在」なのだ。

 このことを悟ると自動的に次の結論に達する。


 科学がやっていることはすべて、つまるところ人間の認識能力を量的に拡大しているにすぎない。望遠鏡の機能が高まれば、より遠くの星雲が発見できる。顕微鏡の精度が高まれば、より小さい粒子を発見できる。だが、それは結局人間の認識システムそのものを超えることは絶対にない。人間である以上、質的変換はあり得ない。どこまで行っても、「この目で見る」「この耳で聞く」「この鼻で嗅ぐ」「この舌で味わう」「この身体で感じる」以上のことはできない。人間が「世界」を知るための窓口は基本的にそれしかないからである。

∴このやり方では真理を知ることはできない。
 
 ここまで来れば、量子物理学の第一定理とも言うべき不確定性原理はごくごく当然の話だと納得できる。

● 観測または測定されるまでは、量子は特定の性質を持たず、同時に複数の状態で存在する。これらの状態は、「実際の」ものではなく、「潜在的な」ものであり、観測や測定を受けたときに量子がとりうる状態である(これは、観測者または測定器が、可能性の海から量子を釣り上げるようなものである。一つの量子が海から釣り上げられると、それは仮想的な存在ではなくなり、現実の存在となる。)
● ある量子が一組のパラメータからなる実際の状態をとっているときでも、私たちはこれらのパラメータのすべてを同時に観測したり測定したりすることはできない。あるパラメータ(たとえば位置やエネルギー)を測定すると、他のパラメータ(速度や観測時間など)はあいまいになる。
 (『叡智の海・宇宙』(アーヴィン・ラズロ著、日本教文社)

 これは、「認識システムそのものが物質の存在のあり方に関わっている」ことの科学的証明である。
 現代科学が到達した結論を、ブッダは2000年以上も前に披瀝しているのである。西洋科学も哲学も、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空に過ぎなかったのだ。


 なぜ、西洋がそんな誤謬を犯してきたかと言うと、「私」という主体があり、それに対して「環境」という客体がある、という二元論を前提として進歩(退歩?)してきたからである。この「環境」という言葉を「世界」「神」「自然」「宇宙」「物質」と変えてもよい。
 「私」がある、がそもそもの元凶だ。 

人間はどのように考えているのでしょうか。人間はだいたい「私がいる」という前提で考えています。しかし、「私がいる」という概念を証明しようとしない。前提ですから、証明する必要もないと思うでしょう。しかし、この前提がもし間違っているならば、人類が築き上げてきたすべての哲学・宗教などは的はずれになってしまうでしょう。根拠のないものになってしまうでしょう。
「ブッダが革命を起こした」と言う由縁がここにあります。ブッダは「私がいる」という前提に、挑戦したのです。なぜ自我意識が生まれるのか、そのからくりは何なのか、本当に実体として変わらない自我というものはあるのかを観察してみたのです。そこで発見した事実が仏教なのです。(標題書より引用)


 第二巻心の分析では、「心とは何か」を定義し、解脱に向かって心の成長していく段階を瞑想との絡みでつぶさに説明している。
 2300円は文庫としては破格の高値であろう。
 しかし、真理の値段と考えれば、破格の投げ売りである。


 
 サードゥ サードゥ サードゥ




● 壊れゆくバチカン2 映画:『ローマ法王の休日』(ナンニ・モレッティ監督)

 2011年、イタリア映画。

 タイトルと、「コメディ」というジャンル表示と、DVDパッケージのあらすじとから自分が思い描いていたストーリーは↓


心ならずもコンクラーヴェで法王に選出されてしまったメルヴィル枢機卿(ミシェル・ピッコリ)は、巨大なプレッシャーに耐えきれずバチカンからローマの街に逃げ出してしまう。
 そこで出会った市井の人々との交流の数々。民衆の悩みや喜びや苦しみや素朴な信仰心に触れるなかで自らの信仰のきっかけを思い出し、使命を自覚し、バチカンに帰還。晴れて法王の座に着く。

 途中までは確かにこの通り進むのだが、最後の最後に裏切られた。
 メルヴィルはバチカンに帰還する。が、サン・ピエトロ広場に集まった大観衆の前で、いやメディアを通じ一連の騒動に注目していた世界じゅうの人々の前で、法王になることを拒絶するのである。
 メルヴィルは言う。
「神が間違うわけがない」
「私が神によって選ばれたのも間違いない」
 ならば、結論はどうしたってこうなるはずだ。
「私が法王になるのは正しい」
 で、ありながら、メルヴィルは睨座を拒否するのである。 
 これは究極の謙虚なのか。自己卑下なのか。
 メルヴィルの真意はよく分からない。監督の意図はよく分からない。
 けれど、「えっ?」と驚く結末であった。
 この意外性は、しかし、予想していた展開が見事に裏切られたことからくる「痛快さ」「一本とられた!」にはつながらない。すっきりはしないのである。コメディと思って観ていたものが、最後の最後で何だか哲学的様相を帯びて、戸惑うのである。
 メルヴィルの爆弾宣言でバチカンは揺れる。帰還に安堵していた枢機卿たちはショックで顔を引きつらせる。
 それでジ・エンド。
 なんだろうな、この結末は?


 『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ監督なら、おそらく最初に自分が掲げた予想通りの物語を、笑いと涙とスピリチュアル的感動とで十全に描き出すであろう。実はそれを期待していた。たまにはそんなベタな物語に酔いたいという気持ちもあってレンタルしたのである。

 ナンニ・モレッティ監督は食わせ者だ。

 メルヴィルは法王の座を拒否し、世界の期待を裏切って、カトリックの長としての役割を放棄した。
 それは法王としてはもちろん失格以前の話である。
 しかし、逆説的だが、型どおりの「物語」を崩壊させてはじめて、バチカンを「外に向かって開いた」と言えるのかもしれない。
 メルヴィルの行為は、世界中に議論を巻き起こし、キリスト者をはじめ宗教を信じる者たちに問いを突きつけることになるだろう。
「信仰とは何か?」
「バチカンや法王の存在意義は?」
「コンクラーヴェの意義は?」
 そして、前法王の崩御が自動的に新法王の選出&誕生をもたらすという伝統に、あたかもそれが一大エンターテインメントであるかのごとく慣れきってしまい(だれが法王になるかの賭のオッズまで新聞に掲載される)、思考停止に陥っている大衆の無知蒙昧ぶり。
 その意味で、メルヴィルは、法王になることでよりも、法王になることを拒否したことで、結果的にはより「信仰」「伝統」という問題について人々が自らを省みるきっかけを作ったと言えるかもしれない。
 それも神の意図か?



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



● 壊れゆくバチカン1 映画:『宇宙人王(ワン)さんとの遭遇』(アントニオ・マネッティ、マルコ・マネッティ監督)

 2011年イタリア映画。

 ブログを書いていると、因縁の仕組みを感じる。

 このブログで取り上げる映画はそのときそのときの自分の感覚でチョイスしたもので、偶然TUTAYAの棚で見かけて「面白そう」と思って手に取ったものである。「どういうテーマの映画を観よう」とか「次はこの監督(俳優)の作品を観よう」という意図はほとんどの場合働いていない。映画の内容についても、借りる前にそれほど詳しくチェックしているわけではない。せいぜい簡単なあらすじくらい。見終わったあとで評価を下したら、自分の中では「完了」である。
 ブログで感想を書き始めてみて気づいたのは、自分では「面白そう」優先で行き当たりばったり選んでいるつもりの映画のリストを、あとから時系列で辿ってみると、作品から作品へ何らかの繋がり(関連)が連想ゲームのように浮かび上がって見えて来ることである。コメディ、シリアス、オカルト、SF、恋愛、文芸もの、伝記もの・・・。作品のジャンルや舞台背景、映画の制作年や制作国はさまざまなれど、一連の流れが存在するのだ。まるで、自分の意識(意図)とは別のところで無意識が働いて、それが勝手に棚の前に立つ自分の手を作品に導いているかのようである。
 と言って何も神秘化する必要はない。
 単に、自らの内面を流れる意識や思考や感情の流れ(連鎖反応)にきちんと気づけていないだけなのである。前の(過去の)選択結果が因となって、次の(未来の)選択を生む。自分で認識していないだけで、実はちゃんと因果は働いているのだ。
 より深いところで「自分」を動かしているもの、それが因縁である。

 アッシジの聖者『神の道化師フランチェスコ』を観たあとに、2本つづけて同じイタリア映画を借りてしまったのは、偶然でもシンクロニシティでもなく、どこかでイタリアに対する執着があるのだろう。その2本(SFとヒューマンコメディ)が、蓋を開けてみたら、どちらもはからずも「バチカン崩壊」に関わるテーマであったことも偶然ではあるまい。


 『宇宙人王(ワン)さんとの遭遇』は、一見月並みな映画である。
 地球(ローマ)に飛来し、家宅侵入で黒人女性に捕らえられ、当局から拷問まがいの尋問を受ける宇宙人。
 「地球に来た目的はなにか?」
 「お前が持ち歩いているこのへんてこな機械の使途はなにか?」
 宇宙人は答える。
 「地球人との交流、相互理解が目的です」
 「これは母船への連絡ツールです」
 まったく信用しない尋問官。
 激しさを増す拷問。
 その容赦無さに、宇宙人との通訳のために雇われた若き女性は、人道主義に訴える。
 だが、警備厳重な地下室で行われている長引く尋問は、宇宙人にとってはただの時間稼ぎに過ぎなかった。
 地上では宇宙人による空からの攻撃が開始される。
 壊れゆくバチカン。消えてゆくローマの街。

 それだけの話なのである。目新しい展開、意外な結末はここにはない。
 もっとストーリーの凝った、意表をつく展開はいくらでもあるだろう。地下室のセットも安っぽいし、当の宇宙人もその昔ウルトラマンに出てきたような前時代的風貌(=着ぐるみ)である。
 だが、この作品には目を離させない磁力がある。
 それを作っているのは、当の宇宙人が自らを「王(ワン)」と名乗り、中国語を流暢に喋る紳士キャラ、というところである。
 それによって、作品自体が、中国という欧米人から見たら得体の知れない国、今や経済戦争の頂点に立って世界を脅かす強大な国、欧米流のルールが通用しない唯物主義の国、に対する一種の風刺になっているのである。 
 一昔前であれば、この宇宙人は日本語を喋っていたであろう。

 宇宙人との通訳のために雇われた中国語通訳のイタリア女性は、破壊されていくバチカンのドームを窓越しに見つめながら、自らの人道主義の幼稚さを知る。
 だが自分を責めることはない。
 大宇宙を旅して地球に来ることができる時点で、その科学力はもはや地球人の比ではないのだから。闘うだけ無駄だ。



評価:C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
      
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 「無い幸福」より「有る不幸」 B.E.2557年釈尊祝祭日ウェーサーカ法要に行く

KC3Z0001 5月12日(土)渋谷区立文化総合センター大和田さくらホールにて。

 この施設は渋谷駅から徒歩5分。天文台のドームの目立つ新しい建物である。さくらホールの収容人数は729名。6割方埋まっていたから450名ほどの参加か。

 ウェーサーカはお釈迦様の「誕生」「成道(悟達)」「般涅槃(死)」の3つのできごとを一度にお祝いする記念日で、5月の満月の日に行われる。(満月は25日)
 日本テーラーワーダ仏教協会が主催する年に一度のこのイベントが、自分にとって一年でもっとも重要な日になりつつある。出席するため、職場にしっかりと希望休を出しておいた。
 と言って、ブッダの誕生日や悟った日や亡くなった日を記念する意図は自分にはない。
 誕生日も含めて何かの記念日というのは基本的にナンセンスだと思っている。季節はめぐり暦は一年で一周するので、我々は時間が循環するものとどこかで思っている。だから、誕生日とか「○○の日」などというものをお祝いするのである。
 だが、時間は循環などしない。一方向に流れていくだけだ。同じ日など一日たりともない。昨年の5月12日と今年の5月12日には何の関係もない。月や星の位置関係ですらまったく同じと言うことはありえない。昨年庭に咲いたポピーと今年のポピーはまったく別物である。年齢という概念ですら本当は意味のないものだ。人の成長の度合いは個々人によって違うのだから。

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 自分がウェーサーカを大切にするのは、修行のための動機付けになるからである。たまに人為的にでもこういった区切りを設定して、スマナサーラ長老の話を聞き、渇を入れてもらわないことには、怠け心を払拭できないからである。

 最近、仕事のハードさを言い訳として、酒は飲むわ、瞑想はさぼるわ、と自分を甘やかしている。瞑想してもサティ(念)が続かず、知らぬ間に妄想に入り込んでいることが多い。
 現在進行中の片思いのせいもある。実際、恋愛ほど妄想の膨らむものはない。妄想から成り立っていると言っても過言ではない。相手が自分に示したささいな言動をもとに、それを客観的な事実として冷静に捉えるかわりに、自分にとって都合のよい物語をまたたく間に作り上げてしまう。満たされない思いは「苦」であるが、それすらも「喜」と感じてしまうほど、頭はバカになる。
 その意味で、恋愛ほど妄想の性質、自我の罠を観察(ヴィパッサナー)できる絶好の機会はない。それをネタに瞑想しようとチャレンジするのだが、やっぱりいつでも負けてしまう。相手の魅力がそれほど強いのだ。(ってバカじゃん)

 そんなたるみがちな自分を見通すかのように、今日のスマナ長老の話は、「釈尊の教えの基本」という、瞑想を習った頃の初心に自分を帰らせ、「お前少し頭冷やせよ」とのぼせや浮つきを取り除くような、心に今一度仏教という確固たる杭を打たれたかのような、力強く破壊的で叡智に満ちたものであった。
 そうだ。これが「本当の」仏教だった・・・・。


●講演の骨子
釈尊の教えの基本 ~信仰のかわりに確信~
1.生きることは苦である。
2.私たちは自分自身が作った鎖(煩悩)で束縛されて、自由はない。
3.私たちは幸福を目指して不幸の方へと進む。
4.他に頼って、助けられること、救われることを望んでいる。
5.自分が作った束縛を絶つことで自由を得る。智慧が生じる。
6.智慧こそが唯一の財産である。
7.智慧によって執着をなくすことにより、究極の幸福に達する。
8.究極の幸福は、「あの世」でなく「今」この世で体験するもの。 


130512_1557~01 一番最初の「生きることは苦」という仏教の根本命題を、我々はなかなか理解できない。理解したがらない。「だって楽しいこと、嬉しいこともあるじゃん」と思う。「生=苦」と認めてしまうと、よけい生きるのがつらくなるだけだと思う。希望がないと思う。鬱にでもなりかねないと思う。
 だから、なかなかその先に行けない。
 生まれつきハンディキャップをもっているとか、事故にあってカタワになったとか、愛する家族を誰かに皆殺しにされたとか、そんな心理療法や趣味娯楽では変えることのできない、時間が癒やすことのできない重荷を背負った人なら、「生きることは苦」はかえって受け入れやすいかもしれない。仏道へ入りやすいかもしれない。
 だが、若くて健康でエネルギーが有り余っていて、家族や友人にも恵まれ、将来が輝いて見える時に、「生きることは苦」は歯牙にもかからない空言だ。
 自分も若い頃はそうであった。20代の時、ブッダがどういうことを言っているか知ろうと思い、岩波文庫の『ブッダのことば』を手に取ったが、とても最後まで読めなかった。究極の悲観主義だと思った。「昔のインド人は本当に苦しみばかりの人生だったのだなあ」と思った。
 今はどうか。青春もとうに過ぎて、体のあちこちにガタが来て次第に老いが見えてきた現在、そして数々の希望がくじかれ、夢が破れ、活力も損なわれつつある現在、「生きることは苦」はずいぶんと受け入れやすい。
 老人ホームで働くようになって、一層その言葉は身に沁みる。これまでどんな境遇にあろうが、金持ちだろうが、地位が高かろうが、かつては美しかろうが、子供や孫に恵まれていようが、その生涯が様々な素晴らしい思い出に彩られていようが、今現在、日々心身を責めさいなむ「老い」と「病」と、遠からずやってくる「死」とに、誰もが囚われている。どんなに楽しい思い出も、誉れ高い業績も、認知症になれば意味はない。

 「生きることが苦」という事実は、もっと簡単に確認できる。
 我々は、「楽」をなくすには何もしなくてもよい。ベッドで寝ているのは楽だ。だが、そのまま寝続ければ、体は痛んでくる、心は退屈してくる。何もしなくても楽は消えていく。
 一方、「苦」をなくすには何かしなければならない。寝ているのが苦痛になったら、起きあがらなくてはならない。腹が痛くて苦しいのなら、薬を飲まなければならない。
 つまり、人間の基本設計は、常に「苦」を感じるようにできているということだ。「苦」にせっつかれて我々は「何か」をし続ける。それが生きるということなのである。
 であるから、スマナ長老が言うように、幸福の定義は「楽がたくさんあること」ではない。楽は必ず苦に転じるからだ。「何かを得ること」でもない。得た物は必ず失われるからだ。
 

幸福を正しく定義するなら、「苦しみがない状態」ということになります。 

 
 世間には、「有る幸福」と「有る不幸」、「無い幸福」と「無い不幸」の4つがある。
 人が一番求めるのは「有る幸福」である。何もかも手に入れた成功者を羨むのはそのためだ。一方、人が一番忌み嫌うのは「無い不幸」である。ホームレスが社会で一番貶められるのはそのためだ。
 「有る不幸」は、「不幸」という点では「無い不幸」とまったく変わりはないのであるが、どういうわけか人は「無い不幸」より「有る不幸」を選ぶ。「有る」=所有する、ということはそれだけ魅力的なのであろう。少なくとも他人と比較して優越感に浸ることができる。我々は「有ること=幸福」という観念――それは多分長い原始時代に培われたのだろう――に強く洗脳されている。だから、反射的に「無い=不幸」と思ってしまうのである。
 人が最も理解できないもの、到達しがたいものが「無い幸福」である。
 多くの人は、そんなもの負け犬の遠吠えくらいにしか思っていない。
 それがどんな状態か想像することすらできないので、「無い幸福」を選ぶくらいなら、むしろ「有る不幸」を進んで選ぶのが世間一般である。アル中でDVの夫と別れられない妻なんてその典型だ。
 「無い不幸」と「無い幸福」は、実は表裏一体である。外側から見た状況は、ほとんど一緒であろう。ホームレスは和訳すれば「出家」である。清貧をこよなく愛した聖フランチェスコと、隅田川周辺のブルーテントの住人は同じくらい「何も持っていない」。(実際にはブルーテント派の方がいろいろ所有している。)

 仏教は「無い幸福」を目指す道なのだと思う。

 しかるに、この恋は捨てがたい。
 どういった因縁が陰で働いているものやら。
 お釈迦様、どうか因縁を見極めるための執行猶予をください。(笑)



● アッシジ追想 映画:『神の道化師、フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督)

 1950年イタリア映画。

 聖フランチェスコと言えばアッシジ、アッシジと言えば聖フランチェスコである。

 かれこれ20年になるだろうか。数ヶ月のイタリア旅行の最中に訪れたアッシジの平和で美しい田園風景は今も折に触れて思い出す。
 ローマ(バチカン)、ナポリ(ボンベイ)、シチリア、レッジョ・カラブリア、バーリ、アンコーナと列車で回り、若さに恃んで毎日朝から晩まで重いリュックを背に街を歩き回っては、『地球の歩き方』に載っている観光名所を巡り、有名な教会や美術館や博物館をしらみつぶしに訪ねた。身体の疲れと見知らぬ土地を歩く緊張感とで、南イタリアを脱したときは身も心もクタクタであった。アッシジに向かう列車の中ではグロッキー状態、同じコンパートメントの地元の人に話しかけられても、もはや返事する気力も、イタリア旅行するには欠かせないsimpaticoな(親しみやすい)笑みをつくる余裕すら失われていた。
アッシジ アッシジ駅からオリーブ畑の彼方にこんもりと盛り上がって見えるアッシジの街は、他のイタリアの街とは違う不思議な穏やかさに包まれていた。

 一週間ほど滞在しただろうか。春の喜びをさえずる小鳥たちに囲まれて、城砦のてっぺんの丘に仰向けになり、柔らかな陽光を浴びながら、大理石の家々と教会の塔と周囲に広がるもやに霞む田野を眺めていると、旅の疲れが癒されていくのを実感した。

 この感覚ははじめてではなかった。
 同じような経験を数年前のインド旅行で、ある町に滞在していたときにも感じたのである。
 そう。アッシジはブッダガヤに似ていた。

 アッシジは聖フランチェスコが生まれ育ち、回心し、伝導をはじめた土地である。ブッダガヤは釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた土地である。どちらも聖人が誕生した土地で、どちらも喧騒を離れた田舎であり、世界中から巡礼が訪れる信仰の地である。雰囲気が似てくるのは不思議ではないのかもしれない。
 しかし、アッシジの持つ雰囲気は、カトリックの中心たるバチカンや、ミラノの大聖堂をはじめとするイタリアの有名な教会で感じた雰囲気とは質が違っていた。そこには、旅の間、自分を精神的に疲れさせたキリスト教の持つ厳格で他罰的で父性的な空気がなかった。あらゆるものを優しく受け入れるような母性的雰囲気、あえて言うならば「慈悲」の気に満ちていたのである。
 伝記に見る聖フランチェスコもそのような人であったらしい。動物たちと会話するなど、キリストよりブッダに近いような気がする。

 もう一つ。聖フランチェスコと言えば、映画『ブラザーサン、シスタームーン』(フランコ・ゼフィレッリ監督、1972年)である。
 裕福な家に生まれ放蕩三昧の生活を送っていた青年フランチェスコは、戦争で負傷したのをきっかけに回心する。家も財産も家族も世間も捨てて乞食同然の修道生活に入る。理解者は少しずつ増えていくものの、既存の教会組織からの様々な妨害にあう。疑問を抱いたフランチェスコは自らの信仰の正しさを確かめるため、ローマ法王に会いに行く。
 バチカンでローマ法王に謁見する場面は最大のクライマックスである。インノケンティウス3世を演じるアレック・ギネス(『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービ)の抑えた演技が実に素晴らしい。
 ほぼ史実に沿った筋書きだと思うが、ゼフィレッリ監督の男色趣味横溢でフランチェスコ役のイケメン俳優を衆人環視のもと丸裸にしたり、あちこちで端役の美青年をショットで抜いたり、なにかと‘ルネサンス’チックである。
 また、映画が撮られた時代の香りが全編から漂っている。体制への反抗、伝統・権威の否定、腐った大人社会に対する嫌悪と怒り、自然回帰を目指す原始共同体・・・・すなわちヒッピー文化である。
 そういうカラーはあるが、『ブラザーサン、シスタームーン』は心が乾いたときに自分が見る映画の一つで、DVDを所有している数少ない映画である。


 ネオレアリズモの巨匠ロッセリーニは、ローマ法王との謁見によって正式に伝道を認可されたフランチェスコが、故郷に帰ってきたシーンから撮っている。
 つまり、凡人が聖人となるドラマチックな過程ではなく、すでに聖人となったフランチェスコとその仲間たちの貧しくも敬虔な信仰生活の様子をいくつかのエピソード仕立てで描いている。ゼフィレッリとくらべると、実に淡々と、あおらずに、誠実に、ときにユーモラスに。フランチェスコ自身よりも、むしろ弟子たち(「兄弟」というのだろうか)のほうが目立ってさえいる。
 アッシジの草原をみすぼらしい修道服姿で走り回る兄弟たちの姿は、はしゃいでいる子供のように無垢なる喜びに満ち溢れ、軽やかである。

 人が為しうるもっとも美しい生活とはこのようなものかもしれない・・・・と思う。



評価:B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!



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