ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 山と迷信:軍刀利神社、三国山(960m)、生藤山(990m)

生藤山&三国山 001●歩いた日  11月20日(火)

●天気    快晴

●タイムスケジュール
08:28 JR中央線上野原駅「井戸」行バス乗車(富士急山梨バス)
08:50 「井戸」バス停着
09:00 歩行開始
09:20 軍刀利神社本殿
09:30 奥ノ院
10:20 元社生藤山&三国山 003
10:55 三国山頂上
11:00 生藤山頂上
11:05 三国山頂上
      昼食
12:00 下山開始
14:00 「佐野川」バス停着
      歩行終了
14:16 上野原駅行バス乗車

●所要時間 5時間(歩行3時間30分+休憩1時間30分)



 三国山の名前の由来は、文字通り三つの国(東京・神奈川・山梨)の県境に位置するため。生藤山(しょうとうさん)は昔「キット山」と言い、その音に対して「生藤」という字をあてたのが由来と言う。「キット」とは、境界をはっきりさせるために木を伐採せずに「切り止め」することで、それが転訛したらしい。


 JR中央線上野原駅からバスで20分というアクセスの良さ、抜群の展望、歩行時間も長すぎず短すぎず、ルートもしっかりしている。と、いいとこばかりの山なのであるが、なかなか登る気にならなかった。周囲の山でガイドブックに載っているようなところはほとんど登っているのに、この山だけは後回しになっていた。
 なぜか。
 それは登り口にある軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ)のイメージが靖国神社と重なって、どことなく好戦的でウヨッキーな、陰惨な感じがして近寄りがたかったからである。「自分は呼ばれていない」という印象を持っていた。

 登る山を選定する際には、意外とそういう直観は重視した方が良いと思っている。こちらも山を選ぶけれど、山もまた登り手を選ぶという気がするのである。とりわけ今もちゃんと祀られている神社のある山は、その祭神との相性を無視できない。

 軍刀利神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。
 戦いの神=軍神である。
 その由来は三国山頂上の近くにある元社の石碑に刻まれている。
 

第十二代景行天皇の御代、「東方の十二道の荒ぶる神、服従しない人達を平らげて来い」との詔による御東征を成し遂げられた日本武尊が、帰国の途中、率いる兵士を整え草薙剣を神宝として御親祭された処です。その後原始祭礼の祭場とし、又永承三年五月、社が創建され、天文七年七月北條氏康の軍卒の狼藉により社殿が破却されたため、今の奥の院の処に御還宮されるまで祭典が続けられた処です。現在此の地は軍刀利神社神奈備の中枢であり、東京神奈川山梨のまほろばであります。
生藤山&三国山 012


 「明日は休みで快晴!」となったとき、「さあ、山に行かなきゃ損々」と家に何冊かあるガイドブックをペラペラめくっていたら、ふと生藤山のページに行き当たった。
 「そう言えばこの山、まだ登っていなかったなあ~」
 案内文を読んでみると、前に感じた違和感、拒絶感が無くなっていた。すんなりと活字が頭に入ってくる。
 「あ、どうやらお許しが出たらしい」
 映画『日本誕生』を観てこのブログでヤマトタケルを持ち上げたのが効いたのかもしれない。あるいは高千穂詣が日本神話の力ある神々の気を惹いたか。
 神だって、おだてられたり感謝されたりすれば、うれしいに違いない。 


 「井戸」バス停で降りると、晩秋の里山ののどかな風景が広がっている。その背景にすくっと勇ましく聳えるは富士の山。雲一つない秋の澄んだ青空に真白く輝き渡る様は、実に神々しい。
 軍刀利神社は山裾から順に本殿、奥ノ院、元社と連なる。もっとも、上に書いたように元社には社はなく、鳥居と小さな石の祠と石碑が残っているのみである。
 
生藤山&三国山 004 バス停から車道を10分ほど歩くと、背後に木立を随えた赤銅色の鳥居が現れる。鳥居とは本来「ここから先は禁足地=異界である」と告げるものであることを改めて教えてくれるに十分な存在感である。
 高い木々と清流に沿った参道は、厳しさと清らかさとを合わせ持った男らしい「気」に満ちている。自然、背筋が伸びる。

 本殿は、「こんな田舎に」と驚くほど見事な造り。神社建築には詳しくないが、ここの木組みと彫りの大胆さは、たいしたものではないだろうか。
 本殿の裏のあたりに白い光が浮かんでいた。カメラを向けても光が強すぎてどうも暈けてしまう。(あとから知ったがこの神社はパワースポットとして有名なのだそうだ。)


生藤山&三国山 005

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 本殿の脇から続く道を奥ノ院へと向かう。
 清流のすがすがしい気持ちのよい参道である。
 奥ノ院の社殿の前に県の天然記念物である大桂の木が聳えている。今はすっかり落葉し、いかつい裸の枝が空に突き刺さっている。
 このあたりの空気は、長野県の戸隠神社に近いものを感じた。

生藤山&三国山 008

 
 さて、ここからいよいよ本格的な登りとなる。
 三国山に向かう女坂(右手)と、元社に向かう男坂(左手)との分かれ道がある。
 女坂の方が正規の登山ルートらしいが、すぐ先のところに倒木があって道がふさがれている。通り抜けられないこともないが、なんとなく通せんぼされているような気がして男坂を取る。
 これが大変であった。
 伐採地のような殺風景な急な斜面につけられたジグザグの道をただひたすら高度を稼いでいく。積もった落ち葉が道を分かりにくくさせていて、木に巻かれた赤いビニールテープの標しがなければ迷ってしまいそう。
 なかなか先が見えない。
 後ろを振り返っても、高い木々にはばまれ、景色は見えない。
 ようやっと周囲の木々が低くなって、日射しが暑く感じられてきたところで、ポンと頂上に飛び出た。目の前にベンチと元社の鳥居と石の祠が見える。
 おもむろに振り返って、思わず叫び声が出た。


 なんという絶景・・・・・。


 左(東)から右(西)まで180度の展望が何にも遮られることなく横たわっていた。正面に来るのは、出発点となった上野原町の簡素な山村風景、そして中央線沿いの山々、道志の山々を中空に挟んで、まさに王者の風格と麗しさですべてを睥睨している富士山。
 疲れが一気に吹き飛んだ。

 これだけの絶景はそうそうにない。
 おそらく、これまで登った100近い山の中でもトップ3に入るだろう。
 ここに社を建てたのも頷ける。ヤマトタケルがまさに一服しそうな場所である。

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生藤山&三国山 015 三国山の山頂はしかし、ここではない。
 元社に向かって右側の道をいったん下ってまた登る20分ほどのところである。
 山頂からの風景も確かに素晴らしいが、元社での絶景を味わったあとではいささか肩透かしの感を否定できない。
 多くの登山者は三国山・生藤山登頂をもって事足りとするだろう。
 もったいない。元社に足を向けるべきである。
 自分も男坂を取らずに女坂を取っていたら、三国山&生藤山ゴールで満足していただろう。やはり、今回は「呼ばれ」ていたのだろう。

 生藤山の山頂は、三国山から5分ほど離れたところにある。それほど広くないし、四方を木々に囲まれている。
 三国山に戻って昼食とする。


 登りはじめてから登頂まで会ったのはオバさま2人。山頂で会ったのは5人。下山途中に会ったのは2人。この日の生藤山は10人くらいが許されたようである。


 下りは別ルートを取る。
 ヤマトタケルが、鉾で岩を打ったら水が湧いてきたという伝説がある甘草水を経て、佐野川峠を越えて、熊野神社で一呼吸。

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 日本人には普通の光景だが、日本の山を登る欧米人にとってみたら、山中に突如として出現する鳥居や社殿は不思議なものだろう。彼等にとって山とは中世までは悪魔が棲んでいる恐ろしい場所であり、近代になってからはアルピニズムの、あるいは開発の対象として、克服すべき木と岩の壁でしかない。

 

 中世、とりわけ十二世紀ぐらいまで「風景を美的に楽しむ者など稀」であり、自然とはまず「原生林や熊の形をした人間の敵」にほかならない(アルノ・ボルスト『中世の巷にて』)。ダンテの『神曲』第一曲においてすら、森は人間の罪深さの象徴である。カタリ派とまったく関係のないところでも、「人間の住まない森や山は悪魔の棲家であり。近寄ってはならない不浄な土地であった」(湯浅泰雄『ユングとヨーロッパ精神』)。 
(原田武著『異端カタリ派と転生』、人文書院より)


 一方、日本人を含むアジア人にとって、森や山は神や妖怪が棲んでいる聖地なのであった。国民総幸福(GNH)で有名となったブータンでは、開発は愚か、山登りですら禁止されている。 

 ブータン人は、森にも、川にも、湖にも、その他いたる所に精霊が宿っていると信じている。そして、その精霊の気を害すると祟りがあると信じているので、湖を汚したり、森の木を伐採したり、時としては大声を出したりすることを極力控えている。それは、自然環境保護という意識からではなく、全くの「迷信」に近いものであるが、国民はそう信じることで安らぎを得ているし、無意識的に自然保護に積極的に貢献している。
(ブータン第四代国王の言葉:今枝由郎著『ブータンに魅せられて』岩波新書より)

 昔の日本人もブータン人と同じであったろうが、「迷信」を喪失してしまって久しい。
 
生藤山&三国山 020 山登りは自分にとって、自分の中にある「迷信」を再確認、再発見する機会なのだと思う。ヤマトタケル伝説も神社の力も「フィクション」「非科学的」と分かっているが、どこか否定しきれない、馬鹿にして無視できない自分がいる。
 「迷信」を盲信することはそのまま無明である。
 一方で、そのような「迷信」によって枠を作っておかないと、環境破壊に象徴されるような無鉄砲・無軌道(それは結局自らの首を絞めるものなのだが)を平気で冒すようになってしまう。そんな人間の(自分の)愚かさ、傲慢、欲深さに対する警戒心が、自分の中の「迷信」を存続させているのかもしれない。


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● 本:『病んだ家族、散乱した室内』(春日武彦著、医学書院)

病んだ家族 散乱した室内 003 2001年発行。

 医学書院の「ケアをひらく」シリーズの一冊である。
 いままで迂闊にも知らなかった不明を恥じるほかないが、このシリーズは素晴らしい。これまでに読んだのは『介護民俗学』『逝かない身体~ALS的日常を生きる』『不動の身体と息する機械』そして精神科医である春日武彦の著したこの本の四冊だけであるが、どれも期待以上の面白さかつ有益さで新しい発見があった。巻末の紹介に見る限りでは他のラインナップも常識的なケア論とは一風変わった視点を感じさせるものばかりで興味深い。
 医学書院の白石正明という編集者が担当しているらしいが、どうやらこの人がキーパーソンのようだ。医療関係者向けの価格の高い、こむずしい専門書を出していれば社として安泰だし、高い給料も約束されるであろうに、ケアの新しい地平を果敢に拓こうとする姿勢は見上げた編集者魂である。

 この本もとても面白く、老人介護というケアに関わる者として役に立つ知識もたくさん盛り込まれていて、刺激的であった。

 一番の特色は、日々現場で精神病患者と向かい合う著者が、建前でなく本音を、きれいごとでなく現実を、汎用マニュアルや机上の空論ではなく現場で生きる具体的な技術を、誠実に臆するところなく語っているところである。(この姿勢こそが「ケアをひらく」シリーズに一貫するものであろう。)
 それが可能なのは、著者がまさしく「ゴミ屋敷」に象徴されるような、精神病患者とその家族の棲む修羅の現場にどっぷり身をおいて、性根を据えて、覚悟を決めて、自分なりに理論武装をして、日々闘っているからであろう。事なかれ主義、「様子を見ましょう」式の行政マンでも、マニュアルや理論を振りかざす学者や評論家でも、背後に分裂病患者に立たれた怖さを知らぬ人権派でもない。(と言って著者が患者の人権を軽視しているという意味ではない。)
 このように自分の仕事に一身を投じているあり方に凄みすら感じる。多くの人は善意と技術はそれなりにあっても性根と覚悟と持久力とに不足している。それと、周囲の目を気にせずに信念を貫く独立不羈の精神に・・・。


 その意味で、内容そのものの面白さ有益さとは別に興味を掻き立てられたのは、春日武彦という人物のひととなりである。本人に会ったことも話したこともないが、文章から察する限りにおいて、かなり「偏屈」な人という気がする。
 むろん、悪口ではない。
 行間から立ち上がってくる印象は、『ムーミン』に出てきた「無駄じゃ、無駄じゃ」が口癖のジャコウネズミ、あるいは古代ギリシャで樽の中で暮らし公衆の前でマスターベーションをしたディオゲネス。いずれも偏屈な哲学者である。(断じて悪口ではない)

 で、思うのは、春日の「偏屈ぶり」と春日が相対する精神病患者の「奇矯ぶり」とが凹凸のようにうまく合致しているのではないか、ということである。
 「ゴミ屋敷」に暮らすような人物、自分の母親を何年間も自宅軟禁するような人物には、平均的な人間の精神は太刀打ちできない。だから、多くの人は「関わらない」ようにするのである。保健師や福祉担当者だってその点では同じである。常識的な人間(「小市民」と言ってもよいが)は「非常識」には弱いのである。
 こういった突飛な、常軌を逸した人間たちと伍していくには、それなりの「常識的世間」からの逸脱が必要なのではないだろうか。
 「偏屈」とはそういう意味である。
 そして、春日が精神病患者と接するうちにそのような性格や才覚を身につけたというよりも、もともとのパーソナリティのうちにそれは存在するのではないだろうか。
 つまり、「天職」「適職」ということである。

 春日と患者たちは「常識的世間」という線分を挟んだ等距離の位置で向き合っている。両者の違いはおそらく、患者たちが自分と中心線との距離を自覚していないのにくらべ、春日がしっかりと認識しているというところにあるのではないだろうか。

 そんな憶測をする楽しみを供してくれた名編集者白石氏に感謝。



 以下、引用。

●仕事の動機について


 人間というものはなかなか自分の言動を客観的に眺められない、そんな宿命を負っているのである。ましてやその言動に個人的な必然性が加われば、なおさらである。だからこそ、仕事に一途になり、脇目もふらず懸命に取り組むことが必ずしも「善」とはなり得ないことを肝に命じておくべきだろう。
 換言すれば、我々の仕事には心の余裕が必要であり、あまりに悲壮な気持ちに囚われたり、使命感に燃えすぎてしまうと、かえって押しつけがましいことしかできなくなってしまう。

 好奇心には、ある程度の距離をおいて対象を眺める姿勢が含まれている。なるほど好奇心といった言葉には、相手を笑いものにしたり弱点を暴きだしたがる心性や、デリカシーの欠如といったニュアンスがともなうかもしれないけれど、必ずしもそうしたネガティブな要素ばかりではあるまい。あえてネガティブな面を自覚する限りにおいて、好奇心を持ち続けて仕事に臨むことは不謹慎でないばかりか、我々の目を見開かせてくれ、心に瑞々しさを与えてくれ、苦しい仕事を支えてくれる大きな柱となり得るように思われるのである。


●多少の不幸より「今のまま」

 わたし個人の臨床経験からすると、人間は基本的に驚くほど現状維持と排他的傾向へのこだわりが強く、状況の変化を望むよりは、けっきょくは「今のまま」を選びたがり、多少の不幸には平気で甘んじてしまうものである。 

●専門家は「選択肢」を用意する 
 そして我々が専門家という立場でいられることの証明とは、十分に訓練されたがゆえの知識と経験とを裏打ちとして、直面する事態に対して様々な選択肢を想定し、そのなかでベストのものを選び取るだけの能力と覚悟をもつことにほかならない。気まぐれな親切心だとかチープな感傷、腹の据わらぬ使命感、見せかけだけの論理的整合性、盲目的なマニュアル信奉に支配された人びとが、けっして真の専門家とはなれない理由もそこにある。

●迎合か、押しつけか
 
 わたしの考えとしては、どれほど孤高の生活を営んでいたとしても、やはり人間とは社会的な生き物であり、他者との関係性を抜きにして理解することなどできない。そういった発想の延長として、もし周囲に幅広い視野と豊富な経験と誠意とを持ち合わせた者がいてその人物が患者の判断に異を唱え、それどころか本気で患者の身を案じ心配していたとしたら、患者が自分の判断を押し通すことはけっきょく相手に深い悲しみと「寝覚めの悪い思い」をさせることにつながる。それは人間としての「エチケットに反すること」だろう。
 人間同士のつながりにおいて、相手に目覚めの悪い思いをさせ、無力感と無念さの入り混じった気分に陥らせる権利など誰にもないのではないか。そして援助者とは必ずしも患者の言いなりに振る舞う人物のことではなく、必要ならば患者の意に沿わないこともあえておこなわなければならない者を指すのではないだろうか。
 

 
最後の引用にはちょっと異がある。というか補足をしたい。
 例えば、戦時下にあって「兵役拒否」を押し通そうとする個人がいたとする。周囲の「幅広い視野と豊富な経験と誠意とを持ち合わせた」人々は、それが本人の為にならない(なぜなら投獄や拷問を受ける可能性が大だから)と思って入隊を勧める。だが、本人は強く拒否し行方をくらます。周囲は深い悲しみと「寝覚めの悪い思い」に包まれる。
 果たして彼等は良い「援助者」だろうか。
 
 自分の持っている「幅広い視野と豊富な経験と誠意」が、どこまで特定の社会や時代や世間の価値観によって洗脳された「偏った」ものであるかどうか。それを自らに問いかけ続けることも良い援助者の条件であろう。 




● 映画:『スティクス~冥界の扉~』(ショーン・ギャリティ監督)

 2005年カナダ映画。

 原題はLUCID
 「わかりやすい、明快な」という意味であるが、諧謔か冗談のつもりなのだろうか。内容的には最後の最後まで「わかり」にくく、「明快」ではない。
 邦題のスティクスとはギリシャ神話に出てくる冥界を流れる川のことである。「明快」と「冥界」とをかけたのか(笑)。
 この邦題からオカルト&ホラー映画を期待すると肩透かしを食らう。が、結末に至って、あながち見当違いなタイトルでもないな、と納得する。

 昨今流行の「ディック感覚」すなわち主人公のアイデンティティ(=現実感)の揺らぎと崩壊を物語の根幹の仕掛けとした「虚実転覆型ミステリー」である。
 「虚実転覆型ミステリー」という言葉は今自分が作ったものであるが、思いつく限りに挙げてみると、
 マトリックス、アザーズ、ネクスト、オープン・ユア・アイズ、バニラスカイ、ダークシティ、アヴァロン、13階段、ニルヴァーナ、アイデンティティ、シックスセンス、ナイン、そして本作『スティクス』と制作年が同じでなければどちらかがどちらかを剽窃したのではないかと言ってもいいくらい設定がよく似ているアメリカ映画『ステイ』(ユアン・マクレガー出演)・・・。

 先鞭をつけたのはなんだろう?
 『未来世紀ブラジル』あたりだろうか。
 自分はこの種の映画が結構好きなのであるが、それは「自我の崩壊」というテーマに「諸法無我」の仏教的世界観を見る思いがするからであろう。西洋映画にこういったテーマが頻繁に扱われるようになってきたのは、キリスト教的デカルト的世界観に対する懐疑が西洋社会および西洋人に蔓延してきていることの徴のような気がする。

 この手の映画の最たる特徴の一つとして、すべてを観終わったあとでもう一度始めから観たくなる、細部を確かめたくなる、というのがある。
 この映画もその通りで、ラストクレジットが出てから「メニュー」に戻って、再び最初から2倍速で全編を観るハメになった。そして、「なるほど、よくできているなあ」と感心した。

 考えてみたら、映画館でこれはできない話である。
 もちろん、映画館で同じ映画を二度観ることはできるが、一回目と同じだけの時間がかかってしまう。倍速はDVDだからこそ可能な操作なのだ。
 一粒で二度おいしい「虚実転覆型ミステリー」の流行は、ビデオデッキやDVDプレイヤーの普及と深い連関を持っているのだろう。日本発の映像機器が、西洋人の伝統的世界観を変えつつあると考えたら痛快である。
 
 この映画の教訓。
 「浮気はするな。居眠り運転はするな。」
 

 
評価:C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」       

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
   
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃいが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






● 本:『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム著、NHK出版)

モリーとの火曜日 1997年原著刊行。

 70代でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した元大学教師のモリー・シュワルツと、かつての教え子であり全米で最も著名なスポーツコラムニスト、ミッチ・アルボムとの交流の記録(ノンフィクション)である。
 墓碑銘に「死するまで教師たりき」という言葉を望んだ(実際にそう刻まれたかどうかは知らない)通り、モリー先生は最期の最期まで愛弟子ミッチに人生において大切ないろいろなことを教える。例えば、「世界について」「自分をあわれむこと」「後悔」「死」「家族」「感情」「老いの恐怖」「金」「結婚」「今日の文化」「許し」・・・。授業が行われるのは毎週火曜日、モリーの家の書斎で、最後は寝室で。文字通り、呼吸が続く限り。
 刻々と迫る自らの死を見つめるユーモアあふれる老哲の、世界に対するラブレターである。


 モリー先生は人工呼吸器をつけなかった。
 延命を望まなかったのである。
 その理由についてこう描かれている。

 ALSを患っている人がほかにもいることは、モリーも心得ている。有名人では、たとえば宇宙物理学の逸材スティーヴン・ホーキングがそうだ。彼はのどに穴を開けて生活している。コンピューター・シンセサイザーを使って話をし、目の動きをセンサーに感知させてタイプまで打つ。
 これはこれですばらしいことだけれども、モリーが望むような生き方ではない。モリーはコッペルに、さよならを言うべき時はわかっていると語る。
「テッド、私にとって生きるっていうのは、相手の気持ちに反応できることなんだな。つまり、こっちの感情、気持ちを示せるっていうこと。その人たちに話しかける、その人たちとともに感ずる・・・・・それがなくなったら、モリーも終わり」
(注:テッド・コッペルはモリーを取材したテレビの人気司会者)


 モリーの周りの家族もそれを理解し、彼の意志を尊重した。
 これもまた一つの生き方=死に方なのであろう。
 ただ、モリー先生がまだ40代だったら話は違ってくるかもしれない。
 愛する人と結婚し、家を持ち、思いやりのある子供を持ち、多くの生徒を育て、ミッチのように社会に巣立った多くの教え子に愛され、人々との交流を楽しみ、ダンスをし、最期は世界に向けて自らのメッセージを発信する。
 ここまで十分に生きることができたのだからこそ、敢然として死を受け入れる気持ちになれたのかもしれない。

 「死にたくない」という気持ちの核心は、死に対する恐怖や愛する人々との別れよりも、生の不燃感=「自分の人生に満足していない」というところにあるのだろう。
 いったいどういう生を送れば満足するのか。
 モリー先生の授業は、それに対する答えなのである。

 おぼえているかな、いかにして意義ある人生を見出すかについてしゃべったこと。私は書きとめておいたけれども、そらで言えるよ。人を愛することにみずから捧げよ、周囲の社会にみずからを捧げよ、目的と意味を与えてくれるものを創りだすことにみずからを捧げよ。




● 介護の仕事4(開始半年)

 老人ホームで働き始めて半年が過ぎた。

 慣れてきた、と言っていいだろう。
 日々の業務は頭に入った、というより体に染みこんだ。職場の雰囲気にも馴染んだ。一つ一つの基本的な介助もまずまずこなせるようになった。利用者ひとりひとりのADL(日常生活動作)や性格や好みやこだわりも見えてきて、その人に合わせた対応の仕方、話題の選び方、声がけのタイミング、介助のコツに注意が払えるようになってきた。
 たとえば、Aさんの入浴介助は頭でなく身体から先に洗うこと、Bさんを喜ばせるテッパンの話題は警察官だった父親の話、Cさんの機嫌が悪いときは下手に声かけせずにしばらく放っておくこと・・・というふうに。
 仕事に行くのが気が重い日ばかりだったけれど、暑さも盛りを過ぎ、朝晩涼しさを感じるようになると、体もラクになり、さほどの憂鬱や不安も感じずに職員用入口の扉を開けている自分がいる。もっとも、「さあ、今日も頑張るぞ~」とか「今日はどんな楽しいことがあるだろう」という前向きな気分にはまだなれないでいるが・・・。
 新人職員としての緊張は消えかかっているけれど、別の意味の緊張感だけは持続している。どんなに馴染んでも緊張だけは取れない。また、取ってはならないのが人の命を預かっているこの仕事の宿命かもしれない。
 半年あまりで数名の利用者が亡くなっている。


1. 介護の仕事は回転が速い 
 利用者も亡くなるが、職員もいなくなる。
 辞める人が多いとは聞いていたが、これほどバタバタ辞めるとは思わなかった。一ヶ月に一人は辞めている。それも知らないうちに。新しい職員もやってきて各フロアに挨拶回りしていくのだが、数日したら姿を見かけない。定着率も驚くほど低い。
 これが当たり前になっているのだろう。辞める理由について誰もそれほど詮索しないし、新しく入ってきた人に過大な期待はしない。いつかは別れると分かっているからか、深く知り合うこともない。
 自分のような介護新人の場合、定着率の悪さは、施設の環境や人間関係がどうのこうのというよりは、介護の仕事そのものに対する「向き不向き」が大きいだろう。向いているかどうかは一ヶ月あれば自覚できる。いや、「向いていない」ことは一ヶ月で自覚できる。半年たって続いている自分は、「向いていない」ことはないのだろう。
 ベテランの場合の退職理由は、他の職業同様さまざまであろう。給料が悪い、人間関係が悪い、体調(特に腰)を崩した、施設の方針に納得がいかない、家の事情、他の介護施設で働きたくなった・・・等々。
 だが、退職者の多い一番の理由はおそらく、介護職はいったん技術と経験を身に着けてしまえば(特に「介護福祉士」という資格を手に入れてしまえば)、今のところ売り手市場の業種であるところにあると思う。看護師同様、自分にとって最も快適な職場環境を求めて渡り歩くことが可能なのである。「包丁一本、さらしに巻いて~」の世界である。自分も早くそうなりたいものだ。(って、辞める気でいるじゃん)
 補充される人数より流出する人数の方が多いのだから、現場は常に人手不足となる。シフトの埋まらないところをフリーの立場にいる上司が入ってなんとか回して行くのだが、それでも当日になって誰かが病欠するとシフトに穴が開く。その穴を埋めるために、他のフロアに入っている職員たちが協力して時間を作り出して、病欠者の出たフロアの手伝いに回る。毎回なんとかしのいでしまうのだから驚く。長く残っている職員はやはりベテラン揃いで、よく気が回る人が多いというのも事実である。

2.介護の仕事はその人が「ムキ出し」にされる
 「回転が速い」からか、職場の人間関係は思った以上に淡白である。良く言えば、それぞれのプライバシーに必要以上踏み込まない。仕事さえきちっとやっていれば文句は言われない。 
 何十人の同僚はいても、日々一緒に仕事をするのは、同じ日に同じフロアに重なる時間枠でシフト入りするたかだか3~4名に過ぎない。その相手とも次に一緒に入るのは一週間後だったりする。下手すると半月近く顔を合わさないこともある。
 一緒にシフト入りしても、仕事中は利用者に注意を集中していないとならないから気軽に雑談している暇はない。利用者の情報を交わすのがメインとなる。
 他の施設は知らないが、飲み会も半年にいっぺんくらい。
 そういうわけで、半年たつのに不思議なくらい同僚のことを知らない。結婚しているのか、子供はいるのか、何年介護の仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、この仕事に何を期待しているのか・・・。自分もまたあえて聞かれない限り自己開示しない。
 こういう人間関係をつまらなく淋しく思う人もいるだろう。気楽で心地よいと思う人もいるだろう。自分はどちらかと言えば後者である。
 だが、面白いのは一緒にシフト入りして仕事をすれば、特段話さなくとも相手がどんな人間かいっぺんに分かってしまうのである。それは、この仕事が高齢者いわゆる「弱者」相手の仕事であり、利用者に対する対応の仕方(特に声かけ)で、介護者の性格が「ムキ出し」になってしまうからである。
 利用者を幼児のように扱い子供言葉で声がけする人、自分の言うことを聞かない利用者を叱りつける人、常に敬語を用い利用者に作業(例えば、おしぼりたたみ)を手伝ってもらったあと感謝を忘れない人、学生時代の延長のようにタメ口で話す人、利用者の昔話をほとんど聞き流しテキパキと介助する人、ちょっとした用事で別のフロアに行った時もそこのフロアの利用者に必ず顔を見せて挨拶する人・・・・・。いろいろである。
 自分の対応の仕方も他の職員に観察され、評価され、正体が見定められていることだろう。
 こわい職業だ。

3.介護の仕事は「急がば回れ」
 高齢者はすべてにおいてペースがゆったりしている。そして、自分のペースを守りたがる。そのペースを無視して介護者都合で業務を行おうとすると、かえって余計な仕事が増えることが多い。三好春樹の言葉にもあったが「効率的にやろうとすればするほど非効率になる」のだ。最近になってようやくそれが分かってきた。
 食べるのが遅いKさんがいる。他の利用者すべてが食べ終えて、口腔ケアや排泄も済んで、寝巻きに着替えて、それぞれの部屋のベッドに横たわっても、まだ一人食堂で悠然と夕食を食べている。下手すると2時間近くかかるのだ。
 介護者としては、早いところ食事終了にして、歯磨きさせて、寝かせつけてしまいたい。これから日誌もつけなければならない。トイレのゴミ(パット類)も収集しなければならない。排泄や水分の集計もしなければならない。各利用者のケースも入力しなければならない。その間にも、いったん就寝した利用者が起き出してトイレに行きたがるのだ。夜勤の職員にバトンタッチし定刻に上がるためには、Kさんに「とっとと寝てもらいたい」のが本音である。
 ある日、Kさんをせかして食事を途中で切り上げ(一応90分で切っていいことにはなっている)、車椅子を洗面台までダッシュさせ、ほうっておいたら20分はかかる歯磨きを付きっきりで10分でやってもらい、トイレに連れて行き、便座に座らせた。
(やった~。これで40分は稼いだぞ)
 と思ったら、そのとたんあちこちの居室からナースコールが鳴り響き、目を覚ました利用者の排泄介助に追われるハメになった。その間、Kさんはトイレに座りっぱなし。やっと、手が空いてKさんの元に戻り、トイレから出ると、「まだ、歯磨きしていない」と言い張る。「さっき、一緒にしましたよ」「いや、まだしていない」「お口の中きれいですよ」「もう一度したいから連れて行って」
 結局、二度手間になってしまった。その上、すべてを終えて就寝してもらったあと、しばらくするとコールが鳴り「お腹が空いた」とおっしゃる。その対応に苦慮しているうちに、他の部屋からまたしてもコールが・・・。
 結局、定刻通りには終わらなかったのである。
 それぞれの利用者が持っているペースを無視すると、そのぶり返しがあとで必ずやってくる。本人の中に「ちゃんと食べていない」「ちゃんと歯磨きしていない」「ちゃんと薬を呑んでいない」という不全感が生じてしまうのである。
 また、一緒に暮らしている利用者同士には見えない不思議な連携が存在するように思うことがしばしばある。誰か一人のペースが乱されると、それ以外の利用者もいっせいにいつもと違う反応を示すのである。まるで「和」が乱されたことに不安を覚え、いっせいに異を唱えるかのように。
 あたかも互いが今どんな状態にあるのかを熟知し助け合うかのように、一人が救急状態に陥った時など、他の人々は~普段どんなに頻繁にコールを鳴らす人でさえ~その時に限って落ち着いて寝ていたりする。
 この利用者間のテレパシーのような「互助反応」は、まことに不思議なものである。
 それが分かってからというもの、できるだけ利用者のペースで介助を行い、待っている時間に他のできる雑用(ゴミ収集、洗い物、記録付け)を片づけるようにしている。


4.介護の仕事は「日々是好日」
 一日が無事に終わるとホッとする。同時に充実感に満たされる。
 この感覚はどこかで味わった覚えがある。そう、ヤマパンの工場で日雇いのバイトをしていた時の感覚である。その日の仕事はその日で終わり、という日雇い労働だけが持つ「完了感」である。
 むろん、介護の仕事は日雇いではない。利用者は今日も明日も明後日も(確率100%とは言えないけれど)そこにいて介護の継続を願っているし、職員も利用者の変化をある程度のスパンで見守りながら介護する。いきなりクビになることもそうそうない。持続性は保たれている。
 だが、その日その日が勝負だという感覚がある。
 加えて、だんだんと自分の先行きが気にならなくなってくる。この仕事がいつまで続くか、腰を痛めて続けられなくなったらそのあとはどうするか、自分の老後はどうするか、いくら貯金があればいいか。そういうことが気にならなくなってくる。
 これはどういうことだろう?
 自分だけに限ったことか?
 思うに、仕事に入る前にいつも願う「今日一日がとりあえず無事でありますように」という思いが、そのように(無事に)終わったとき、祈りが聞き届けられたような至福感につながるのだろう。それが「今日も無事終わった」という完了感となり、その繰り返しが「明日のことは明日心配すればいい。明日祈ればいい」という思い癖になっていくのだろう。
 この「無事」というのは「今日は利用者の転倒も誤嚥も救急搬送も死亡もなかった」という意味ではない。そういうことは避けられないし、実際自分のシフト中に救急搬送になったこともある。そうではなくて、自分の何らかの落ち度で利用者の命に関わるような事態にならなくて良かった、という意味である。
 介護職の退職理由の中には、そういう失敗をして以後高齢者に関わるのが怖くなったというのもある。この仕事で一番つらいのは、肉体労働のきつさでも、感情労働のしんどさでも、休みが取れないことでも、賃金が低いことでも、糞尿を扱うことでもなくて、自分のミスで利用者に致命的な害をもたらしてしまうことである。
 祈らずにシフト入りする日は一日たりともない。


前段→介護の仕事3
続き→介護の仕事5





 

● 山歩き:奥多摩むかし道(610m)

奥多摩むかし道 003 「奥多摩むかし道」は旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川(奥多摩駅)から小河内(奥多摩湖沿岸)を結ぶ全長約9㎞、徒歩4時間のコースである。

 道はくねくねと蛇行する多摩川に沿った崖の上につくられている。今はもちろん歩きやすく整備されているが、昔は旅人が馬ともども谷底に滑り落ちるような難所もある険しい道だったようだ。そんな昔を偲びながら、川のせせらぎと時折現れる壮麗な渓谷美を楽しみ、愛らしいお地蔵さまにほっと癒され、遠くの奥多摩の山並みに心ひらかれ、最初から最後まで快適な森林浴を味わうことができる。
 単独行でも、山登り初心者でもまったく心配ない。

奥多摩むかし道 035 目に映る景色は単調なものではない。杉木立の爽やかな道あり、昔懐かしい集落あり、谷間を見下ろす高台あり、渓谷にかかる結構揺れる吊り橋あり、遠望豊かな日当たりの良い林道あり、沢音軽やかなひんやりした木陰あり、結構あなどれない息の切れる登りあり、そしてゴールには山々に抱かれた「眠れる美女」奥多摩湖が待っている。
 4時間まったく飽きることない、歩きがいのある道程。

奥多摩むかし道 001
●歩いた日  11月6日(火)

●天気    晴れ

●タイムスケジュール
09:15 JR青梅線・奥多摩駅到着
      歩行スタート
09:30 むかし道入口
10:40 白髭神社(天然記念物石灰岩大壁)
11:10 しだくら吊り橋
12:10 西久保の切り替えし
13:05 青目不動尊(ほぼ最高地点)
13:45 奥多摩湖
      歩行終了

●所要時間 4時間30分(歩行4時間+休憩30分)


 朝の青梅線下りはいつものごとく登山客だらけであった。終点の奥多摩駅で降りる人は多いが、ほとんどはそこからバスに乗ってそれぞれの目的の山へと散ってしまう。「むかし道」派はほんの数名であった。
 氷川大橋のたもとにある氷川神社で、今日の安全を祈願する。境内の三本杉は樹齢650年とのこと。
 むかし道入口から登りが続く。左手の山肌に「おくたま」の文字が植え込まれているのが見える。

奥多摩むかし道 002 奥多摩むかし道 004

 ダム建設当時に使用された引き込み線の跡を過ぎると、集落に入る。
 こんな辺鄙なところ、しかも崖っぷちによくもまあ家を建てて住んでいるなあという思いと、こんな素晴らしい環境で暮らしてみたいなという思いとが、交錯する。夜の星空はきっと素晴らしだろう。家の外にたくさん積まれた薪が冬の近いことを告げている。

奥多摩むかし道 008

奥多摩むかし道 010


 白髭神社の石灰岩大壁(高さ30m×幅40m)を見上げながら一休み。御祭神は塩土翁神(しおつちのおきなのかみ)。潮流を司る神、航海の神である。『記紀』神話においては、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を担う神である。

奥多摩むかし道 012


 しだくらの吊り橋から見る景色こそは、このむかし道の最初の絶景ポイント。紅葉の渓谷の底を清らかな多摩川が岩を洗いながら滑り去っていくのを恐々覗く。
 吊り橋を渡ったところに謎の祠がある。その背後から不意に猫が現れた。ノラネコにしてはつややかなきれいな毛並みと品のある顔をしている。捨てられたばかりか・・・。
 ほんの数分で仲良しになる。体中を撫でてやると気持ちよさそうに地面に身を横たえた。こちらの足に体を擦りつけて、行く手を邪魔する可愛さを振り切って山道に入る。

奥多摩むかし道 018


奥多摩むかし道 017


奥多摩むかし道 019



 しばらくすると、伐採地となる。コンクリートの倉が建ち並ぶ不思議な光景が目に入る。いったいあの倉はなんなのだろう?

         奥多摩むかし道 022 

 道が細く不明瞭になってきて、しまいには沢にぶつかってしまった。
(この沢を渡るのかな?)
 大岩、小岩が点々と沢から顔を覗かせているので、渡ろうと思えば渡れないこともない。だけど、向こう岸を見てもどうも道らしいものが見えない。道標も、迷いやすい地点で正しいコースを示すのによく枝に巻かれている赤リボンもない。
 奥多摩駅前の観光案内所でもらったマップを開く。

 ・・・・・間違えた。


 吊り橋を渡らずに道なりに進むのであった。危ない、危ない・・・。
 あの猫はどうやら「道が違う」ということを、体を挺して教えようとしていたらしい。
 なんと利口な猫だろう!
 感謝しなければと思い、吊り橋まで戻るが影も形もない。猫の鳴きマネで誘ってみても返事がない。
 幻だったのか???
 そう言えば、まるで祠から現れたような唐突な出現の仕方であった。


 紅葉は奥に向かうほど、高さを増すほど、あでやかになる。楓がまだ赤く染まっていない。ピークは10日後くらいだろう。それでも今も十分に美しい。
 このコースには途中2カ所、湧き水を汲める地点がある。空のペットボトルを用意して、奥多摩の水を持ち帰ることができる。

奥多摩むかし道 029



奥多摩むかし道 023


 眺めの素晴らしい西久保の切り返しから、ややきつい登りとなる。登り道にはびびらないが、そこに立ててあった看板にはちょっと恐くなる。

奥多摩むかし道 031


 11月5日、昨日ではないか。
 こちとらラジオも鈴も持っていない。
 仕方ないので、歌を歌いながら歩く。熊も逃げ出す音痴ぶりで。

 登り切ったところに集落がある。
 庭先の晩秋の花が美しい。
 こんなところに暮らすようになるいきさつにはどんなものがあるのだろう?
 もちろん煩わしい人間関係から逃れ自然に囲まれて静かに暮らしたいというヘンリー・デイヴィッド・ソローのようなナチュラリスト、このコースに歌碑がのこっている画家の川合玉堂のように奥多摩の自然に惹かれてわざわざ都会から移り住んだ人もいるだろう。
 でも、昔から住んでいる人々には、はかりしれない事情があるのだろうなあ。

 
 青目立不動尊で第二の絶景ポイントに到達する。
 眼下に広がる、光あふれる穏やかな奥多摩湖。
 4時間の歩きが報われる瞬間である。
 やはり、到達の充実感といった意味からも、このコースは奥多摩湖を起点とするより、奥多摩駅を起点としたほうが良い。

奥多摩むかし道 041


 青目立不動尊は修験道の験者である奥平家に祀られているが、他にも味噌蔵や昔の家屋の模型や山仕事や家事に使った様々な器具などが展示され、昔の山里の暮らしぶりを垣間見ることができて興味深い。味噌蔵に入ると、いまも味噌の香りが残っていた。

病んだ家族 散乱した室内 002



 ゆるやかな下りを遠回りしながら、奥多摩湖に到着する。
 ベンチで昼食をとり、しばし午睡。


 バスで出発点まで戻る。
 もえぎの湯であたたまって、生ビール。

奥多摩むかし道 049




 

● 本:『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(川口有美子著、医学書院)

逝かない身体 2009年刊行。

 60歳目前にしてALS(筋萎縮性側索硬化症)になった母親を介護し、最期まで看取った娘の手記である。
 「歩きにくくて、しゃべりにくい」という異変を来たした母親は、病名告知を受けるや、主治医も驚くほどの速さで病状が進行していった。歩行、食事、排泄、入浴と自分でできることがどんどん失われていき、寝たきりになってしまう。本人も家族も納得ゆくまで存分に話し合う余裕もなく1年も経たないうちに気管切開して人工呼吸器を装着、同時に胃瘻による経管栄養が始まる。家族とイギリスでの生活を楽しんでいた著者は、二人の子供を連れ、夫と離れて実家に戻って来ざるを得なくなる。
 それから10年以上に及ぶ365日24時間休みなしの在宅介護が始まった。


 まず思うのは「身体ってのはなんと面倒くさい、わずらわしいものなのか」ということである。ALSは身体こそ動かなくなるが感覚はそのまま残る。「かゆい」「痛い」「重い」という感覚を感じながらも自分ではどうすることもできないのである。周囲の人に体位交換してもらい、体を掻いてもらい、眠りに入る際の最適な体位を決めるための数センチの微調整にこだわらざるをえない。

 動かぬ身体の彼らは常に、身体と身体、身体と物品、そして身体と身体の拡張性を保障する機械のインターフェースに気を配って生きている。しかしそれを実行するのは本人ではなく別の人であることから、面倒な作業、すなわち介護の必要性が生じるのである。


 いっそ麻痺になって感覚すら失われたほうが、本人も介護者もラクなのではないかと思われるほどだ。普段、健常者がどれほど無意識に身体の微調整を行い、身体に次々と生まれる苦から「自分」を逃がしているかに思い至る。ブッダが看破したように「一切行苦」であり、「快」や「楽」は、「苦」という常態から解放された瞬間にだけ現れるのである。
  
 介護の大変さは想像を絶する。著者は、意気消沈しほとんど役に立たなくなった父親(患者の夫)への期待を捨てて、会社を辞めた妹と代わる代わる付き添いを行う。

 病人がいちばんつらいだろうけれど、自分の人生をなかば放棄してまで親につきあわねばならない子どもには、それなりの言い分も悔しさもあった。でもストレスを発散する方法もない。介護で外出がめっぽう制限されるから、仕事もできないし友人にも会えない。私は介護を契機に夫と別居するはめになってしまったし、妹は長年勤めてきた出版社を退社してしまった。余裕がなくなると自分たちに起きる悪いことはみな母のせいになってしまった。


 お願いだから介護に協力してほしいと何度本人に訴えたかわからない。しかし、こちらの提案はめったに受け入れてはもらえない。まったく協力しないのだ。こうしたら母のためになるだろうといろいろ工夫して実行しても、とたんにダメと却下されてしまう。毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。この先長くALSと仲良くやっていくために。

 まだ動く筋肉を使ってナースコールを鳴らし、透明文字盤と瞳の動きによって意思表示をしていた母親だが、呼吸器を装着してわずか3年で、瞼が開閉できないところまで進んでしまう。いわゆるTLS(Totally Rocked-in Syndrome、完全閉じ込め症候群)である。
 耳は聞こえる、これまで通り身体の感覚もある。しかし、いっさい発信ができない。自分の意志や感情や欲求を伝えることができない。患者が何を思い、何を考えているか、それを周囲が知る手立てがない。
 いや、正確には顔色や血圧や脈拍を通して患者の気分を想像するほかない。
 ここに至って、これまで懸命に介護してきた著者は「安楽死」を考える。安楽死法について調べ、片っ端から見ず知らずの学者に意見を問うメールを出す。 
 

 肉親に迫り来る意思伝達不可能な状態を想ったとき、殺したくなるのは私だけではないはずだ。そんな患者は生きているよりも死んだほうがQOL(生活の質)が高いという医学論文もある。
 そのころ、母の心情を察すると、決まって脳裏に浮かぶ映像があった。
 東山魁夷の絵にあるような深い雪に埋もれた青い森。そのなかをさまよい、いつしか小さな湖の畔に私はたどり着く。そして今にも沈没しそうな一平米ほどの小さな浮き島に母の姿を発見するのである。
 母は腰にエプロンをかけた姿で、小さな木製いすに腰を掛けて寒そうに膝を撫でながら泣いていた。
 
 母親のために何もできない、見捨てざるを得ないという罪悪感に苦しめられ、答えを求めていた著者は、社会学者の立岩真也に出会う。このブログでも取り上げた『ALSー不動の身体と息する機械』の著者である。
 
 ・・・京都に帰る先生を東京駅で見送るまで八時間近くもしゃべり続けたが、先生は迷惑な顔ひとつ見せず、私の話した内容を整理してくれた。そして、社会学者が皆そう言うとは限らないが、私の抱えている問題の多くは病気そのものではなく、社会の仕組みでどうにかできることもあるだろうということになった。 
 その結果、といってはあまりにも予定調和的な展開かもしれないが、私は母に対して、たしかに一生懸命に介護してきたつもりだったけれども、悲惨に考えすぎていたのかもしれないと思い出していた。立岩先生の楽観的な考え方にいつの間にか癒されて、余分な力が抜けていくのがわかった。


 脳は人間の臓器のなかでもっとも重要で特別な臓器と思われているが、母は脳だけでなく心臓も胃腸も肝臓も膀胱も同じように萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしている。そして不思議なほどに体調の安定した生活が長く続いたのだが、これはよく解釈すれば、余計な思考や運動を止めて省エネルギーで安定した状態を保ち、長く生きられるようにしていたということだろう。
 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
 このように考えていくと、私にはALSの別の姿が見えてきた。脳死とか植物状態といわれる人の幸福も認めないわけにはいかなくなった。この時点での私の最大の関心事は、どちらの考え方を採用するかということだった。暗いほうか明るいほうかー。

 
 TLSにある患者、植物状態にある患者の精神状態や気持ちについては、当人以外の誰にもわからない。
 だけど、どういうわけか健常者はそれを「苦しみの極地」「生き地獄」と推測してしまう。自分もまたそうであった。なぜそう思ったのか。
 それは自らの身体を自らの意思で動かすことができる(実はほんの一部分に過ぎないのだが)現在と比較するからである。好きなときに好きなところへ行けて、好きなことができ、好きな物を食べられて、自己表現し、他人と様々なレベルで交流する楽しみを享受している現在と比較するからである。
 つまり、「喪失の恐怖」に耐えられまいと予想するのである。
 だが、ボケが「老い」の苦しみを緩和する働きを持つのと同様、脳はそのときどきの身体が置かれている状況に合わせて、「幸福感」に向けて心を最適化するシステムを持っているのかもしれない。TLS状態にある患者の脳波を調べると瞑想のときに出てくるアルファ波が見られるという研究もある。
 そしてまた、「今ここ」において自分の身体に起こる感覚と、呼吸器の発する規則正しい音と、心に浮かぶ思考だけを随時認識し観察しているALS患者は、仏教におけるヴィパッサナー瞑想の達人と言えるかもしれない。としたら、「悟り」の境地に至る可能性も否定できない。
 TLS状態や「植物」状態にある患者本人が不幸を感じているかどうかは、他人にはどうしたって分からないのである。少なくとも、患者の血圧や脈拍が静穏であることはストレスがかかっていないことを示しているわけである。


 安楽死や尊厳死の問題に正解を求めるのは無意味であろう。正誤も是非も善悪も正邪もない。植物人間に生きる価値がないと断じることが見当違いであるように(なぜなら「植物」には生きる価値がないなどと我々は普段思わないのだから)、いかなる状態になっても生きるべきであると苦しんでいる患者本人に強要するのも、介護する家族の犠牲を当然視するのも、無責任でむごい仕打ちであろう。
 でも、明らかにやるべきことはある。
 障害や難病を抱えても安心して生きていける環境をつくることである。介護疲れで家族がALS患者の呼吸器を止めたりしないよう、介護のために仕事を辞めて精神的または経済的に苦しくなって心中などしないよう、本当は生き続けたい患者が家族や社会の負担を心苦しく感じ自死を選ばないですむよう、社会の仕組みを変えていくことである。
 死を選ぶか否かの問題は、本来ならその先に現れて然るべきテーマである。生きられる現実が保障されていない段階で「生か死か自己決定せよ」と言われたら、死に傾くのは目に見えている。それは強者の論理である。


 もし自分や家族がALSになったら、脳死状態になったら、どんな道を選ぶだろうか。
 そのときになってみないと分からない、というのが本当のところである。
 だが、知らないうちに張り巡らされて、人々を洗脳しようとしている「強者の論理」にたぶらかされて死ぬのだけはゴメンだ。
 そう今は思う。




 

● METライブビューイング:『愛の妙薬』(ドニゼッティ作曲)

  東銀座の松竹東劇にて鑑賞する。

 オペラの殿堂メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)で今年の10月13日に上演されたばかりのオペラのライブ映像である。世界のトップ歌手達の舞台が日本に居ながら低価格(3500円)で大スクリーンで観ることができ、その輝かしい歌唱を迫力の音響で聴くことができる。本当にお得な嬉しい企画である。(ホームページは→http://www.shochiku.co.jp/met/
 もちろん、ライブには適わない。
 ライブの感動の20分の1くらいだろう。
 生の声や音が持つバイブレーションを同じ空間で体感することに勝るものはない。

 『愛の妙薬』はドニゼッティ作の喜劇である。
 のどかな田舎に住む一組の男女のたわいない恋のさやあてと成就。いまどき少女マンガにすらならない馬鹿馬鹿しいストーリーである。むろん、オペラに複雑で高遠な物語を期待する者など、はなからいまい。
 演出はオーソドックスで奇を衒ったところがないが、そこは好感持てる。奇を衒った、才気走った演出は往々にしてストーリーの馬鹿馬鹿しさをかえって目立たせてしまう結果になるので、しらけることが多い。どうせならゴージャスを極めたほうがまだましである。往年のフランコ・ゼフィレッリの金ピカ演出のように。

 オペラの要は歌である。
 とりわけ、ドニゼッティやベッリーニのようなベルカントオペラは歌の出来こそすべて、管弦楽は二の次である。
 主役の二人、アンナ・ネトレプコ(アディーナ役)とマシュー・ポレンザーニ(ネモリーノ役)はさすがに上手い。二人とも朗々たる声で、高い音から低い音までしっかりコントロールされていた。演技も達者で安心して観ていられる。とくに、ポレンザーニはちょっと愚かでドンくさくて正直者のネモリーノを、本来はそれとはまったく反対の知的で神経細やかなノーブルなルックスであるにもかかわらず、観る者に好感を抱かせるに十分な巧みさで演じている。この歌手はきっとテノールのどんな役でも立派にこなせるだろう。
 ネトレプコは現在世界一のソプラノの一人である。美貌も実力も兼ね備えていて文句のつけようがない。だけど、どうもつまらない。ソツがなさすぎるからであろうか。
 サザランドやカバリエやジェシー・ノーマンのような、何らかの点で規格を逸脱した「怪物風の」ソプラノ達が犇めいていた時代が懐かしい。


METライブビューイング


●  本:『仏の発見』(五木寛之、梅原猛対談、学研M文庫)

仏の発見 「ここまで語った対話があっただろうか。仏教の常識が根底から覆る!」と帯にある。
 過大広告もいいところ。そんな大層な本ではない。

 どちらの話者も博覧強記にして仏教に関する造詣の深さでは日本有数の人である。学者や僧侶とは違った自由自在な発想も楽しい。
 中国からやってきた仏教が日本古来の神道=アニミズムと出会った時、自ずから変貌して「山川草木悉皆成仏」思想が生まれたという見解などは「なるほど」と頷けるところである。宗教は伝播する時にその土地の土着の信仰と大なり小なり融合して住民に受け入れられていく。一神教が砂漠に生まれたように、その土地の神の形態や性質は風土や気候と切り離せないものだからである。もし大乗仏教ではなく、小乗仏教が日本に直接入ってきたとしても、それはやはり日本風に変質していたことであろう。いや、禅こそがその姿なのかもしれない。

 この対談は話題が広く豊富で、「聖徳太子は両性具有ではないか」などに見られる発想の自在さもあって面白くはあるけれど、とりたててエキサイティングなものではなかった。 
 それは二人の話者とも、孫悟空が釈迦如来の手のひらの中から抜け出せなかったように、大乗仏教の中から一歩も出ていないからである。
 二人がそれぞれの出自や生い立ち、子供の頃の悲惨な経験を語っている部分がある。二人とも「苦」「心の闇」を味わい、それが後年仏教に引き寄せられるきっかけとなったことが分かる。
 だが、二人が必要としている仏教は、あくまでも大乗仏教それも親鸞や蓮如や空海なのだ。

梅原 釈迦の仏教には、共感できないところがあるんです。輪廻を脱するというが、親鸞の仏教なんかとはちがっているんですよ。釈迦の仏教は「人生は苦である」という、それが基本ですね。
五木 そうなんですね。
梅原 その苦の原因も、愛欲で、愛欲から争いが起こっていく。争いのもっとも酷いのは人殺しだと。結局、そういう人間の運命を克服しないといけない。
五木 はい。
梅原 それには愛欲を滅することが必要だ。戒律を守り瞑想をし、知恵を磨くことによって、愛欲を滅ぼす。完全に愛欲を滅した状態に達するのがニルヴァーナ、涅槃だ。ニルヴァーナに入るのは、生きているときは難しい。だから、生きているときに、そういう状態に達したのを「有余涅槃」といい、死んでからを「無余涅槃」という。そういう思想が釈迦仏教ですね。
五木 ええ。
梅原 「人生は苦であるか」という釈迦仏教に、疑問を提出したのが、大乗仏教ではないでしょうか。
五木 なるほど。

 
 親鸞の仏教という言い方は矛盾している。「親鸞教」と言うのが本当だろう。

 思うに、幼い頃に飢餓や戦争や親の死などの現実の「苦」を経験してしまった者は、かえって「人生=苦」というブッダの教えを理解しがたいのではないだろうか。というのも、ブッダのいう「苦」とは現実の苦しみよりもむしろ「虚しさ」「実存的不安」に近いように思うからだ。
 ブッダは釈迦国の王子として、生まれながらにすべてをー金も地位も権力も女も容姿も立派な両親もー手にしていた。普通の人が味わうような人生の「苦しみ」からもっとも遠いところにいたのである。そんなブッダの「苦しみ」とは現実的なものではなかったろう。
 出家後の荒行で、ブッダは肉体的・世間的・社会的な現実の「苦しみ」も十二分に味わうことになったけれど、それでも彼は悟りを追い続けた。現実の「苦しみ」では覆い隠せない、質の異なる「苦しみ」を感じていたと見るべきだろう。

 日本で生き続けてきた大乗仏教は、現実の「苦しみ」に対処するための心の薬だった。貧しさ、差別、病や死の恐怖、愛する者との別れ、嫌な者との出会い、戦争、自然災害・・・。避けることのできない事態を受け入れるべく、「仏という物語」が心を整えてくれたのである。
 現代日本人、五木や梅原などの世代ではなく戦後生まれの豊かさを享受しながら育った世代の抱える「苦しみ」は、出家前のブッダの感じていた苦しみにより近いのではないだろうか。それは伝統的な大乗仏教では癒されないのではなかろうか。
 テーラワーダ(原始仏教)が若い人を中心に急速に広がりつつある背景には、そのあたりの事情があるような気がする。



 

● スプラッタ浮世絵師:『月岡芳年展』(太田記念美術館)

太田美術館 太田記念美術館は、実業家の太田清蔵(1893-1977)が収集したコレクションをもとに1980年に設立された浮世絵専門の美術館である。原宿駅から徒歩5分、表参道の晴れやかさからも、竹下通りの賑々しさからも、明治通りの騒々しさからも、等しく離れた静かな空間にそれはある。

 月岡芳年(1839-1892)は、歌川国芳の門弟であり、幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師である。今年は没後120年にあたる。歌舞伎や戦記物などの惨殺シーンを題材に多くの無惨絵を描いたことから「血まみれ芳年」という通称を持つ。実際、膠を含ませ血糊らしさを出した朱色の毒々しさは、スプラッタ映画を思わせる出血大サービスぶりである。
 そのせいか当時はともかく、昭和に入ってからは大衆的な人気は得られなかったようだが、マニアックな愛好者を生んでいる。芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩、横尾忠則、京極夏彦・・・。この顔ぶれを見れば、怪奇と耽美、幻想とエログロこそが、芳年の特徴であり魅力であったと自ずと知られる。(三島は腹を割いて自決したとき芳年を思い出しただろうか?)

 師匠の国芳と比べると、その画風は「動と静」「陽と陰」「生と死」「楽と哀」と正反対である。国芳が「太陽」だとすると、芳年はまさにその名の通り「月」である。ここまで対照的なのも面白い。しかも、国芳は早咲きの天才だったのに比して、芳年は遅咲きであった。
 いや、もちろん、初期からそのデッサン力、構成力、色彩感覚は優れたものではある。絵も売れていた。だけど、どことなく凡庸である。上手いけれどもつまらない。国芳の作品が終生放ち続けたような力強い個性、躍動感、諧謔味に匹敵する才が見られない。注文に応じて器用に作品を仕上げるテキスタイル作家みたいな感じである。
 絵そのものにオリジナリティを欠いている。そのことを当人も自覚していたがゆえに、内容(題材)で目立つことで勝負したのだろうか。
 というのも、今回ナマで見て感じたのだが、芳年のスプラッタ絵画にはエロチックな匂い、秘められた変態性の狂おしさのようなものが希薄なのである。作家の抑圧された欲望を昇華するために描かざるを得なかったという熱さが感じられないのである。その点、ビアズリーや伊藤晴雨とは違う。

 芳年は晩年になって西洋画と出会い、開花する。
 西洋画(特に宗教画)の伝統的な様々なテクニックを模倣し、取り入れ、しまいには自家薬籠中のものとして、和洋折衷の自分のスタイルを確立する。もはや、人を惹きつけるために残虐を必要とする位置にはいない。彼の持っていた個性「静、陰、死、哀」は、残虐でなく宗教(信仰)と結びつくことでオリジナルな美を獲得し得たのである。
 この展覧会の面白さは、芳年の作品を時系列に見ることで画家としての成長ぶりを辿ることができるところにある。最後に行くほど見事になる。

 国芳がダ・ヴィンチだとしたら、芳年はラファエロなのだろう。
 52歳という若さで亡くなったのが惜しまれる。 

月岡芳年







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