ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『老いと死について さわやかに生きる智慧』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

老いと死について 「老い」と「死」について語らせたら、ブッダの右に出る者はいない。仏教の独壇場である。
 もちろん、ここで言う仏教とは、大乗仏教ではなく、ブッダの教えをそのままに今に伝えるテーラワーダ仏教のことである。
 その意味では、このスマナサーラ長老の新著は、「無常」や「無我」についての著書と並んで、まことの仏教の何たるかを端的に伺い知ることができる恰好の本であり、また、高齢化社会を突き進んでいく我々日本人にとって「待ちに待った」本と言うことができよう。

 正直のところ、仏教思想の中にしか、人類が「老い」や「病」や「死」と敢然と向き合い、従容として受け入れ、なおかつ幸福でいられるための秘訣は他に見つかるまいと思っている。再生医療やクローン技術にいくら期待をかけても、それがいくら進歩しようとも、光の壁を突破できないのと同様、「老病死」の壁は乗り越えられまい。技術の進歩は決して幸福にはつながるまい。そのことが未だに分からない有様を「無明」と言うのだろう。
 この本を、各市町村の役所は、地域に住むお年寄り達に敬老の日のプレゼントとして贈呈したらどうだろうか。あるいは、介護保険の被保険者(65歳)となった記念に・・・。
 それは冗談だが、自分は、次に帰省した際、年老いた両親に読んでもらうべく、置いて帰るつもりである。
 
 以下、引用。

 お釈迦さまはこう言っています。
 「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
 
 幸福とは、凪いだように穏やかな心のことです。何を映しても動揺しない鏡のように、波一つない水面のように、平穏な心を育てることが、人にとって真の幸福なのです。
 
 親のために子供ができる最大の孝行は、「道徳的で清らかな執着のない心を持って最期を迎えられるように親をサポートする」ことに尽きます。


 「悟った人は、執着もないまま何のために生きているのか」と聞いてくる人がいます。そんなとき、私はこう答えます。
目的があって生きているのではなく、ただ死ぬのを待っているだけです


 あなたは、自分の老いや死について考えたいと思い、本書を手にとってくださったのでしょう。もしそうなら、あなたが本当に考えるべきは、やがてやってくるであろう死にどのように備えたらいいのかということではありません。
 
目の前にある「今」を力強く生きる。
 それが最も大切なことです。


 仏教では、どんなとき、どんな相手に対しても、事実をありのままに話すことが大切とされています。自分の意志や感情、主張はいっさい挟みません。
 本人にはがんの告知をせず、家族がその事実をひた隠しにするようなケースが今でもありますが、それは大変に思い上がった行為であり、本人にとってとんでもない不幸です。
 確実にまもなく死ぬ時期がわかっている病気の場合は、なおさら本人に伝えるべきです。残された日々をどのように過ごしていくかを本人の自由に決めさせるのは、まわりの人たちがやらなくてはならない仕事です。


 どの言葉も確信に満ちている。日本人が好むあいまいさやぼかしや婉曲的なところがまったくない。まことの仏教とは、切り立った岩壁の如く、かくも激烈なる、毅然たる、劃然たる思想なのである。日本人が仏教にイメージしがちな、「まんまるい、ほんわかした、癒し系の、菩薩風の」ものとは違う。
 
 ところで、老いを語るのに欠かせない要素の一つは「孤独」であろう。
 老いて子供は独立し、仕事も辞めて、連れ合いに先立たれ、孤独が道連れとなる日が来る。
 これまで孤独と付き合う準備をしてこなかったツケが回ってくるのである。
 ふと見ると、無縁社会の「孤独死」がポッカリと口を開けている。
 スマナ長老、処方箋はないものでしょうか。

 存在とは、天涯孤独です。よいでもなく悪いでもなく、それが命の自然な姿なのです。孤独をなくすのではなく、孤独に慣れることが賢い生き方になるのです。
 人生は孤独なものであり、厳しいけれどそれが現実です。現実である以上、生きていくためには、人は孤独に対する「免疫」をつけなければなりません。

 孤独を、いかに楽しいものにできるかが、その人の人生を決め、さらには次の人生も決めます。自分がひとりになったとき、どうするか。
 ひとりになるまいとするのではなく、ひとりになることを大前提にして、人生をプログラムしてください。それは、子育てをどうするか、マイホームの購入をどうするか、出世をどうするかについてプログラムするよりも、ずっと重視すべきことなのです。

 仏教では、「気の合う友だちは、ひとりでもいれば十分です」と教えます。それを孤独というのなら、そうでしょう。孤独とは結果的に、必要のないものや余分なものを手放すことだからです。


 孤独、恐るるに足らず。
 今から「孤独力」を磨いておこう。


● 小乗って誰が言った? 映画:『ビルマVJ~消された革命』(アンダース・オステルガルド監督)

 2008年デンマーク映画。

 VJとはビデオジャーナリストの意である。
 軍事政権の圧政に抵抗するビルマ国民たちの闘いの様子をハンディカメラで撮り続け、撮った映像を国外メディアに流す「ビルマ民主の声」のジャーナリスト達。苛烈な情報統制が敷かれる中、撮影現場を見つかったら、投獄は疎か、拷問や処刑も覚悟しなければならない。
 彼等が命を張って撮り続けた膨大な映像を素材としてオステルガルド監督が再構築した、2008年当時のビルマの現状を伝えるドキュメンタリーである。
 全編、事実のもたらす重みに圧倒される。
 これが世界で起こっていることなのである。

 ビルマの現状・・・・。

 アウンサンスーチーが自宅軟禁を解除され国会議員に当選し、ヨーロッパ諸国を訪問したことに象徴されるように、ビルマは今、ようやく民主化への道を歩もうとしている・・・・かに見える。
 これが本物ならば喜ばしいことであるけれど、「議席の4分の1は軍人が占めなければならず、重要な法案は全議員の4分の3以上の賛成がなければ否決される」という、民主国家の常識からすれば噴飯ものの法律に見られるように、今でもしっかりと実権を握っているのは軍である。
 一度握った権力をそう簡単に手離すとも思えないし、完全な民主化が成し遂げられた暁には、これまで軍が国民達に対して行ってきた様々な極悪非道を断罪する声が上がるのは必至である。(その時には、この映画は世界が認める貴重な証拠となるであろう。)
 軍としては、これまでの政策や行為については個人的にも組織的にもいっさい責任を問われることはないという確証を得ない限り、雪崩式の民主化を阻むことだろう。

 さて、国民は許すのか、許さないのか。

 西欧諸国なら当然許さないだろう。
 イスラム諸国も許さないだろう。「目には目を、歯には歯を」である。
 だが、ビルマは筋金入りの仏教国である。

 この映画でも分かるとおり、国民達の僧侶に対する尊敬の念は日本とはまったく比べものにならないくらいに篤い。VJの一人でかつて投獄された経験を持つ海千山千のデモの英雄でさえ、寝る前にはブッダを描いた掛け軸の前で礼拝するのが日課となっている。

 この映画を見た欧米人は、ビルマ国民のデモのやり方にびっくりしたことだろう。デモ隊はまったく攻撃しない、木片一つの武器も手にしない、軍に攻撃されてもやり返さない、デモの最中に相手のために祈りさえする。
 それは仏教徒ならではのデモ行進である。
 
 この映画の功績は、ほんの少し前のビルマの悲惨な現状を世界に伝えた点ばかりではない。
 仏教国とは何なのか、仏教の僧侶とは大衆にとってどういう存在なのか、仏教を信仰する国民とはどういうものなのかを、キリスト教国の人々にあからさまに知らしめたのである。 
 世俗の楽しみ・喜びを擲って、生きとし生けるものへの慈悲喜捨を願い、托鉢をし、修行をし、在家の心の面倒を見、いざというときは命を捨てて在家のために立ち上がる僧侶たち。その存在がいかに大きなものか。

 寺から街に繰り出すえんじ色の袈裟を着た裸足の僧侶達の列を見るにつけ、これをして「小さな乗り物」と馬鹿にするのなら、「大きな乗り物」を標榜する日本の仏教の坊様達は、よっぽど庶民のために尽くしてくださっているのだろう、と思うのであった。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 



 

 
 


● ディック感覚、あるいは「私」という名のSF 映画:『アジャストメント』(ジョージ・ノルフィ監督)

 2011年アメリカ映画。

 SF恋愛サスペンス映画。原作はSF作家フィリップ・K・ディックの短編『調整班』。

 『ブレードランナー』(1983)の成功以降、フィリップ・K・ディック(以後FKD)の作品は次々と映画化されている。主な物を挙げると、

 トータル・リコール(1990) 主演アーノルド・シュワルツネッガー
 マイノリティ・リポート(2002) 主演トム・クルーズ
 ペイチェック消された記憶(2003) 主演ベン・アフレック
 NEXT―ネクスト(2007) 主演ニコラス・ケイジ

 現在もいくつかの作品の映画化が予定されているらしい。まさに「今が旬」の作家なのである。
 しかし、FKDは『ブレードランナー』の公開直前に53才の若さで亡くなっている。生前は本が売れず貧乏であったという。一面識もなかった同じSF作家のロバート・ハインラインに援助されたというから面白い。
 ヴァン・ゴッホ同様、彼の書いた物は時代に早すぎたのである。著作権を有する遺族にとっては、まことにラッキーな展開であろう。

 FKDの早すぎたテーマとは何か。
 ウィキペディア「フィリップ・K・ディック」から引用する。

 何らかの強力な外部の存在によって、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている。

 この『アジャストメント』もまさに「ディック感覚」そのものである。
 主人公デヴィッド(マット・デイモン)はある日、この世界が「運命調整局」と名乗る謎の集団によってコントロールされていて、世界の時空も一人一人の人間の運命も彼等によって自在に調整・操作されている、という驚愕の事実を知ることになる。人類は外部の手によって操られており、人間に選択の自由など始めからないのである。
 この事実を知ることは、足元の大地が突如として消失するくらいのショックをもたらすであろう。(自分ならまず精神科に行くがな・・・)
 そこからデッヴィドがどう生きていくかというところに、観る者は付き合わされることになる。

 小説にしろ映画にしろ、SFというものは荒唐無稽の大ボラが前提としてある。
 大ボラを、科学的(客観的)な装いと細かなリアリティの積み重ねによって、いかにして読者(観る者)に受け入れさせるか、作者がこしらえた虚構世界とその世界にのみ通用する恣意的な法則の中で、いかにして人間ドラマを活気づけ、感動に結びつけていくかが、SFの基本スタイルである。
 過去の有名なSF映画を並べると、この基本スタイルは明瞭である。
『猿の惑星』『エイリアン』『スター・ウォーズ』『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』『アルマゲドン』・・・・・。
 どれも人間の通常の生活世界とは(時間的あるいは空間的に)離れたところに、まったく様相の異なる違った世界が存在し、何の因果か後者に入り込んでしまった主人公達が、新しい世界の驚異や脅威に(観る者と共に)直面し、新しい世界での法則を痛い思いをしながら学びつつ、通常の生活世界においてはあまりに当たり前でありすぎるが故にその大切さを忘れてしまいがちな人間ドラマ(家族愛、恋愛、友情、命の大切さe.t.c.)を甦らせるのである。
 その意味では、人間ドラマをより深く、より強く、より新鮮に描くためのシチュエーションとして、SFという仕掛けはあると言えなくもない。非日常の空間においてこそ日常的なことの有り難さが痛感されるのは、誰もがよく知っている。

 問題はこの仕掛けである。

 先に掲げた過去の有名なSF映画と、FKDの作品、あるいは昨今よく作られる時空操作系のSF映画とでは、この仕掛けの仕掛けられる場所に違いがある。
 過去の作品では、仕掛けは外側に作られていた。『猿の惑星』や『エイリアン』や『アルマゲドン』では地球の外(宇宙)であったし、『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』では現在という時間の外(過去や未来)であった。主人公達の通常の生活世界とは時空が違うのである。
 仕掛けが外側に作られるということは、別の観点で言うと、主人公達は別世界に行っても、自らのアイデンティティを保っていられるのである。「自分」はそのままで、自分を取り巻く「環境」が変化するのだ。
 『猿の惑星』のラストシーンがかくも衝撃的なのは、主人公(チャールトン・ヘストン)が人間としてのアイデンティティ(自我)と誇りとを最後まで高く保ったまま、猿が支配する異世界を生き抜いたからである。

 一方、FKDの作品らは、仕掛けが内側にある。
 つまり、「日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に」気づいていくところが、一番の見所となる。この系統の一番わかりやすい代表的な例は、FKD作品に影響を受けたウォシャウスキー兄弟(姉弟と言うべきか)が撮った『マトリックス』(1999)である。「虚構」は外にあるのではない。「私」が虚構なのだ。
 主人公の生活空間、意識、存在そのものが虚構であると曝かれた時、信じられる確かなものは何一つなくなる。自分の意志の存在を疑わざるを得ない主人公にとっても、物語を観る我々にとっても。
 ある意味、これはクリスティが『アクロイド殺し』で仕掛けたトリックに通じるところがある。かのトリックはフェアかアンフェアかで議論が巻き起こったけれども、少なくともアクロイド殺しの犯人は誠実な、客観的なタイプの人間であった。あれがもし、生来の嘘つきというキャラクターであったら、フェアもアンフェアもないだろう。その時点で、読者はクリスティを見放しただろう。それでは、推理小説という物語が成り立たないからである。
 何が言いたいかというと、主人公のアイデンティティ(自我)が完全に崩壊した時点で、彼の主観を軸とする物語は成り立たないはずなのである。たとえは悪いが、強度の認知症の老人のラブストーリーを想像してみてほしい。
 そしてまた、「『私』を含み、すべてが幻想だ」と知り尽くした人間は、もはや既存の物語に没入して楽しむことなどできない。

 「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「自我」の芽生えと「物語」の誕生は、おそらく、人類史的にも、個人史的にも、同時であろう。体験をエピソードとして記憶に残すために「自我」が生まれたという説もある。(→ブログ記事参照『受動意識仮説の衝撃』http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html )
 ならば、「自我」の終焉と「物語」の終焉も、同時であろう。
 
 『マトリックス』もこの作品も、アイデンティティ崩壊後に、主人公が「人間の尊厳をかけて」外部組織にあらがう様が描かれていくが、時空をコントロールし運命を司る存在(神でも宇宙人でも銀河委員会でもなににせよ)に対して、いったい何ができよう。「あらがう」という意欲や行動でさえ、すでに自らの意志ではないではないか。
 『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、人工知能による文字通りの「洗脳」から目覚めて、仮想現実から脱出し、人工知能との闘いを開始する。その様子は、血も涙もない(当たり前だ)コンピュータに対する人間の尊厳を誇らかに謳っているように見えて、観る者はネオとその仲間達を熱狂的に応援することになるけれど、3部作に至ったストーリーすべてが、いまだカプセルにいるネオの脳内における仮想現実ではないという保証を、我々はどこに求めたらいいのだろうか。


 物語が成立しない領域に、無理して物語を生もうとしている。
 その無理強いが、この映画をアンバランスなものにし、未消化な、調整を誤った(ミスアジャストメントな)感じだけが観賞後に残される。

 FKDの作品の映画化は扱いに気をつけないと、同じ失敗に陥るであろう。




評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督)

 2008年フランス映画。

 世の中で一番大変な仕事ってなんだろう?
 と考えた時、最初に上がってくるのは「学校の先生」である。

 他にも大変な仕事はたくさんある。
 例えば、自分が今やっている「介護の仕事」も4K(きつい、きたない、危険、給料が安い)などと言われ、「介護やってます」と人に言うと、たいてい「大変ですねえ」と同情されるか、「偉いですねえ」と変に感心される。
 ノルマを課せられる営業マンも大変だ。はじめて会う人と話すのが苦手で、自分自身が必要としてない物を他人に売りつけることのできない自分は、営業マンだけは続かないと思う。
 警視庁捜査一課(いわゆる殺人課)の仕事も大変だろう。実体はよく知らないが、家族との触れ合いもままならぬほど多忙で、死の危険と隣り合わせの仕事というイメージがある。
 人気稼業で、明日の我が身も知れない芸能や芸術の仕事も大変だ。安定性に欠けるという点では最たるものだろう。この分野の苦労人としてすぐに頭に浮かぶのは、トシちゃんこと田原俊彦である。頂点から真っ逆さまに転落した軌跡は、小室哲哉をのぞいて誰の追随も許さない。でも、今もしっかり芸能界に生き残っているわけだから、一度名が売れてしまえば、なんとかしのげるのがこの世界かもしれない。

 と、いろいろ大変な仕事はあるけれど、現代日本において言えば、学校の先生ほど心労の多い職業はないと思う。
 「でもしか教師」などと言われた昔、教師はそこそこ教育を受けた誰でもできるラクな稼業の代表であった。「でもしか」とは、他にできる仕事がないから、「教師でもやるか」「教師しかできない」という意味である。
 「先生」が無条件に偉くて、体罰も当たり前で、生徒や父兄が学校や先生に頭が上がらなかった時代は、教師ほど肩の凝らない仕事はなかったと思う。教え子のたくさんいる地域で威張っていられ、お中元やお歳暮は貰い放題、しかも有給の長期休暇がついている。進学より就職が多かった時代は、進路指導や学力アップに頭を悩ます必要もなかった。


 時代は変わった。 

 以前、ボランティアで、ある県の小学校にエイズの話をしに行ったことがある。
 その日は授業参観にあたっていて、教室の後ろには自分より一回りほど若い父兄が並んでいた。
 普段どんなに騒がしい教室でも、授業参観日ともなれば静かな張りつめた空気が支配し、生徒達は猫をかぶったように大人しくなるのが、自分のティーン時代の記憶である。
 まったくそんな記憶は裏切られた。
 生徒達は、授業が始まっても私語を止めない、自分の席から離れて室内を歩き回る者もいる。教室というより動物園に近い。これが授業参観日の風景ならば、普段はどんなだろう? 
(なるほど、これが学級崩壊か・・・)
と、納得したものである。
 だが、驚いたのは生徒のことではなかった。
 教室の後ろにいる父兄の様子である。
 ヒョウ柄のジャージ姿の親がいる。知り合いを見つけたのかその場でおしゃべりする親がいる。教室から勝手にベランダに出て横の窓から自分の子供に話しかける親がいる。挙げ句の果てに、机と机の間を前に進み出て自分の子供を写メで撮る親がいる。
 この親あっての、この子か・・・。
 これじゃ、学校の先生が心を病むのも無理ないよな~、と呼んでくれた先生に同情しつつ学校をあとにしたのであった。

 この映画に出てくるフランスの中学校の風景も日本と変わらない。基本的な礼儀も言葉遣いも身についていない、口ばかり達者な幼稚園児のようなティーン達。勉強を教えるはるか手前のところで、教師は立ち往生する。
 (いずこも同じか・・・)
 しかも、フランスは移民の国である。パリでは6人に1人が移民だという。クラス内には、アラブ系、アフリカ系、アジア系、ラテン系、と様々な出自と風采を持つ子供たちが机を並べている。まさに、人種のるつぼ。文法を教えるための例文一つ板書するにも、「なぜ先生はいつも白人の名前ばかり例文に使うのですか?」とアフリカ系の生徒から突っこみが入る。
 担任教師フランソワの後頭部が禿げるのも無理はない。(演じるフランソワ・ベゴドーは、原作者にして元教師である。)


 一つの伝統、一つの文化背景、一つの宗教、一つの価値観を共有する一つの民族において、世代から世代へものを伝えるのは簡単である。例えば、北朝鮮を見ればよい。日本も国際的に見ればこちらに近いだろう。
 しかし、様々な伝統、様々な文化背景、様々な宗教、様々な価値観を有する様々な民族からなる集団において、いったい大人は子供に何を伝えればいいのだろうか? そこでもっとも力のある、一つの主流の価値観(この映画で言えばフランス流の)を伝えるべきか。すなわち移民の子をフランス人として「洗脳する」のが良いのだろうか?
 確かに、フランスで生きていく以上、社会でそれなりに快適に暮らしたいのであれば、万事フランス流を身につけるのが得策である。
 しかし、自由と平等と人権を誇りにする国で、それは強要できるものではない。

 24人の生徒と1人の教師が生活するこの教室に見られるジレンマは、近代の個人主義的民主主義国家において、多様な価値観や文化を持つ他者同士が、いかなるルールの下で「共に生きていく」かを模索する、興味深い、今まさに継続中の実験なのである。

 フランソワが一年を通して生徒達に課したのは、「自分の言葉で、自分を他者に紹介すること」であった。
 なるほど、それが最初の一歩なのかもしれない。
 
 常に教室は社会の縮図である。
 いかなる政治家よりも、「学校の先生」は現象を先取りしている。

 この作品は2008年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(大賞)を獲っている。




評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 

● チャイ子にブラボー! 映画:『オーケストラ!』(ラデュ・ミヘイレアニュ監督)

 2009年フランス映画。

 この映画は最後の12分間のためにある。
 チャイコフスキー作曲「ヴァイオリン協奏曲」の演奏シーンのために。

 そのラスト12分に向かって、物語がじょじょにクレシェンドしながら、海に向かって赤い街を流れてゆくモスクワ河のごとく、華やかなパリの街を流れていくセーヌのように、いくつもの支流が合わせ重なって、最後は感動の海へと観る者(聴く者)を運んでゆく。

 ご都合主義たっぷりの分かりやすいストーリーといささか紋切り型の民族描写に、鼻白むよりもなんだか懐かしくなるくらい、昔ながらの直球勝負の映画である。最近の映画は設定もストーリーもテーマも登場人物達の心理も、こむずかしいからなあ~。
 久しぶりに、明るい前向きな、気持ちのいい映画を観た。

 気持ちの良さの理由の一つは、一人一人のキャラクターに注がれる愛情のためである。端役に至るまで魅力的な人物造形がなされていて、それぞれに見せ所が用意されている。役者としては冥利に尽きるだろう。
 楽団のユダヤ人の親子、パリの劇場の支配人♂とその秘書♂(この二人、最後にはチャイ子のオネエ的な音楽にほだされて結ばれてしまう)、第一ヴァイオリンのロマ(ジプシー)、熱烈な共産党員の楽団マネジャー・・・・。紋切り型であるからこそ、様々な国籍、人種、文化、愛の形が、それぞれのモチーフ(動機)を分かりやすく奏でながら、入れ替わり立ち替わり観る者に提示され、違うからこそ美しい多様性という名のハーモニーを編み出していく。
 まさに人間讃歌の協奏曲である。

 音楽の力で物語を収斂させつつコンサートシーンで幕を閉じるという意味では、本邦の名作『砂の器』を思い出すけれど、人の世の不寛容と哀しみと絶望を描いたあの作品とは、正反対の座標にある。

 見終わった後、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」のCDを買いに行きたくなること必定である。(今日仕事帰りにタワーレコードに寄ろうっと




評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● これでいいのだ! 本:『大統領をつくった男はゲイだった』(マーヴィン・リーブマン著、現代書館)

大統領をつくったゲイ アメリカでの発行が1992年だから、もう20年も前の本である。

 原題はComing Out Conservative「カミングアウトする保守主義者」。
 まんまである。

 自分は政治に詳しくない。ましてやアメリカの政治や政党に関しては、現役の高校生ほどの知識もないと思うが、共和党と民主党の二大政党の争いであることくらいは知っている。
 そして、共和党は保守主義であり中絶反対・反同性愛の立場を取ること、一方の民主党は中道からリベラルで人種的マイノリティや低所得者層に支持者が多いこと。このくらいのイメージは持っている。
 であるから、自らの幸福を求めるアメリカの同性愛者は基本的には民主党支持、少なくとも無党派であるはずだ、と考えるのが普通だろう。共和党員の同性愛者という存在は、自家撞着している。
 だが、著者のリーブマンは長いこと共和党支持の保守主義者だったのである。それどころか、政権の中枢近くで反共産主義及び保守主義の推進の為に、様々な運動を精力的に展開してきた立役者だったのである。
 
 彼の中では保守主義と自らのセクシュアリティは、何ら矛盾することなく両立できるものであった。というのは、彼の準ずる保守主義の理念とは、「個人の自由と権利が国家の利益に優先する」というものであったからだ。
 アメリカの保守主義にそういう一面があった(ある?)とは驚きであるけれど、建国の理念に立ち戻ることを保守というのならば、なるほどその通りである。日本の保守(例えば儒教道徳的な)とアメリカの保守とでは違って当然なのだ。
 しかし、同時に、アメリカの保守とはまた強いキリスト教への信仰とそこから生じる道徳に裏打ちされたものである。何と言っても、最初のアメリカ人は、英国において迫害された宗教難民(ピューリタン)だったのだから。
 リーブマンはここでも自らのセクシュアリティと信仰とに矛盾を感じることがない。実際50歳を過ぎてから洗礼を受けてクリスチャンになるのである。もちろん、キリスト教徒であることと、同性愛者であることは、自分の存在を否定し自分を罰する方向でしか両立しない。 

 己のセクシュアリティ、ひいては己の存在を否定するものに、こうまで依存し献身するリーブマンの自己分裂的人生は、読んでいてはがゆいと同時に胸が痛くなる。彼が、極めて有能なアクティビストで、あちこちから引っ張りだこの資金調達の天才であり、有名人も含めた豊富な人脈を持ち、映画や演劇のプロデューサーもする多才な人間であることが、かえって彼の本当の望みを彼自身に対して覆い隠していたのだろうか。
 
 リーブマンがカミングアウトを決意したのは、67歳の時であった。

 自分が築き上げてきた人生をそのままにしておきたい、そして残された日々を平穏に生きて、死亡欄に人びとの敬意を集めるような業績を残したいという誘惑は非常に大きかった。それなのになぜいま? そうした思いが繰り返し心に押し寄せた。
  しかしあるとき私は、一体なぜ自分は長い間何かを探し求め、変節を繰り返してきたのだろうと考えた。私は、分裂した自己を統合できない状態に置かれていた。だからこそ自分自身に戻りたいという欲求を抱いた。そしてこれこそが私を衝き動かしていた動機なのだということを悟った。長年にわたり、私は世界から、そして自分自身から逃避していたのだ。そしてこれが、私が物理的に、また知的にもさまよい歩いた理由なのだった。
 

 すでに公人となっていた彼は、親友が編集していた全国的に有名な保守主義の雑誌『ナショナル・レビュー』に、親友への手紙という形でカミングアウトを決行する。

 
 この本は、そこに至るまでのリーブマンの半生を描いた自伝であると同時に、アメリカの政治の舞台裏や、アメリカの一般市民と政治との密接な距離感の様態を知ることができる、面白い読み物となっている。

 最後に、ウィキペディアの記事「マーヴィン・リーブマン」から引用する。
 
 Although he initially labeled himself a moderate Republican and worked to support gay-friendly conservative groups, including Log Cabin Republicans, he eventually concluded that he could no longer self-identify as a fund raiser for or supporter of any conservative group because of the increasingly anti-gay rhetoric of the political right. Liebman also later renounced his ties to Catholicism. In the final years of his life, he chose to describe himself as an "independent"

 He died of heart failure on March 31, 1997.


 最初のうち、リーブマンは自分自身を「穏健な共和党主義者」と称しており、『ログ・キャビン・リパブリカン』をはじめとするゲイフレンドリーな伝統的グループのために働いていた。しかし、最終的には、いかなる伝統的グループの資金調達者としても、あるいは支持者としても、自分自身を位置づけることはもはやできなくなった。なぜなら、そこでは次第に反同性愛的言説が多くなってきたからである。リーブマンはまた後年、カトリックとの絆も絶ってしまった。亡くなる数年前から彼は、自分自身を「無党派(independent)」と表現することを好んだ。

 リーブマンは1997年3月31日に心臓疾患で亡くなった。

 

● 映画:『世界で一番美しい夜』(天願大介監督)

 2008年ファントム・フィルム配給。

 はじめて名前を聞く監督だが、タイトルの良さとDVDパッケージから漂う神話的なエロティックな香りに惹かれて借りてみた。

 驚くべき才能である。
 全編、映画的時間と映画的空間とで充溢している。
 一癖も二癖もある俳優ばかり(田口トモロヲ、石橋凌、佐野史郎、三上寛など)なのに、見事に使いこなしている。
 いったいこの監督は何者?

 見終わった後、ウィキで調べて合点がいった。
 今村昌平の息子なのである。
 映画的才能が果たして遺伝するかどうかはともかく、父親に付いてじっくりと学んだのだろう。
 ベテラン俳優たちの力演も、各々が生前世話になった今村昌平監督に対する恩返しの意味もあるのかもしれない。

 だが、いくら偉大な父親を持とうと、学ぶことのできないものもある。
 世界をどう見るかは、己自身のオリジナリティで勝負しなければならない。
 父親には見られない点は、たぶんヴォネガット風のユーモアのセンスと見た。

 まぎれもなく、現代日本のもっとも傑出した映画監督の一人と言い切ってよい。


 他の作品も観てみよう。


評価: B+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






● 本:『「ゆりかごから墓場まで」の夢醒めて』(マークス寿子著、中央公論社)

マークス寿子 10か月の無職状態を経て就職して2か月経つが、いまだに失業中の自由気儘な日々が懐かしく思われる。
 好きな時に起きて、一日中誰にも何にも縛られずに好きなことをして、好きな時に眠る。世間があくせくと働いている時に、人のいない静かな山道を歩いたり、空いているプールでコースを独り占めしたり、暑さ寒さから避難して行きつけの喫茶店で何時間も本を読み、物を書く日々。本当に幸せだった。
 それができたのも、失業保険をもらっていたからである。
 もともとの給料が低かったので、月々もらえる額はたいしたことなかったが、勤続年数と年齢との関係で8か月間+延長1か月間受給できた。
 その間、介護の学校に、これもハローワークの制度を利用して受講料無料、交通費支給で通い、ヘルパー2級を取ることができ、それが今の老人ホームの仕事につながった。
 これらすべて実費でまかなうとしたら、月13万円の生活保護レベルの生活費計算でも150万円はかかるだろう。下手すると就職前に破産していたかもしれない。
 社会福祉というのは誠にありがたいものである。

 もっとも、失業するまでの数年間、自分は雇用保険を払い続けてきたし、失業中もきちんとハローワークに通って求職活動をしていたので、失業保険を受給することに何ら後ろめたい思いはなかった。しっかりと有意義に利用させていただいた。

 10か月という長期にわたって公的扶助を受けていると、それが当たり前になってしまい、「働かないでこの生活が続けられたらラクチンだなあ~」と思うようになる。人は本来怠惰な動物で、ほうっておくと安きに流れる。
 自分の場合、期限付きの失業保険だからイヤでも自活の道に復帰せざるを得なかったからいいようなものの、これが期限の確定されていない生活保護だとか障害年金だったらどうだろう? 公的扶助におんぶして、たとえ働けるような状態になったとしても、なかなか復帰できないかもしれない。社会(職業生活)からの離脱期間が長引けば長引くほど、当人の年齢が高ければ高いほど、復帰へのバリアが険しくなることは想像に難くない。「なんとか今もらっている扶助を引き延ばす方法はないものか」とあれこれ算段してしまう気持ちも正直分からないではない。
 そうやって、いつのまにか自立心(自活心)を失い、公的扶助に依存するいわゆる「福祉ゴロ」になってしまうのであろう。

 
 この本でマークス寿子が、過剰な福祉政策の弊害として、繰り返し警鐘を鳴らしているのも、この点である。

 今でこそ、北欧諸国やオランダに王座は譲ってしまったけれども、世界一の福祉大国の名声を最初に獲得したのは60年代の英国であった。「ゆりかごから墓場まで(from the cradle to the grave)」という有名なスローガンのもと、医療・教育・老人福祉・障害者福祉・失業者対策・受刑者施策・住宅政策など、さまざまな領域で手厚い福祉政策が進められていったのである。

 1960年代の終わりまでに、英国社会の福祉制度の基礎は完成したと考えられるが、それは弱い者も貧しい者も。強者や金持と同様に、いや、むしろそれ以上に、社会の一員として大切である、という考え方に基づいていた。恵まれない人々の生活を守り、権利を尊重するのは、社会のメンバー全員が人間として当然なすべき義務である、という理想主義が熱狂的に受け入れられていた時代であった。

 英国の福祉の凄さを語るうえで、一等最初に来るべきはやはりNHS(国民保健制度)であろう。簡単に言えば、すべての医者は公務員として位置づけられ、医療費はすべて国庫負担(無料)というものである。
 これは今でも存続しているが、普通の日本人の感覚からすれば凄いことである。
 病気になっても医療費について心配せずに治療が受けられるのは大した安心である。と同時に次のことが予測つく。有料なら我慢するか家で養生して治してしまうようなちょっとした体調の変化でも、無料なら簡単に病院にかかるであろうと。
 病院に通って待合室でおしゃべりすることが楽しみとなっている老人の存在はよく冗談のネタになるが、英国でも同様な問題が発生したのである。

 この素晴らしい制度にも大きな問題があった。その第一は、医療制度に必要な費用は増大する一方で、どんどん国庫赤字がふくれていったこと、第二は、医者にとって経済的なインセンティブ(励み)がなかったことである。
 国民保健制度において色濃く表れたような、福祉全般に見られたこの種の問題を「英国病」と言う。

 英国病(The British disease)またはイギリス病とは、1960年代以降のイギリスにおいて、経済が停滞する中、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって、国民が高福祉に依存する体質となったり、勤労意欲が低下したり、既得権益にしがみついたりすることによって、さらに経済と社会の停滞を招くという現象を病理的に例えた言葉である。(ウィキペディア「英国病」より)

 この背景があってはじめて、80年代の「鉄の女」マーガッレト・サッチャー及び新保守主義の登場が理解されるのである。


 さて、著者は「英国病患者」に手厳しい。


 働かなくても食べていけて、勉強しなくても就職できる世の中ならば問題はないのだが、そんな世の中は存在しそうもない。
 現在の福祉国家の最大の問題は、福祉政策の普遍化に伴って、このような心理問題が浮かび上がってきたことである。これを依存症(dependency)と呼ぶ。「中毒(addict)」と呼ぶ人さえいる。
 自分では何もできない人、自立しようとしない人のことである。それならば、こういう人は、頂くものを頂くだけで満足しているかというと、決してそうではない。自分の能力にふさわしい仕事をくれない社会が悪い、と開き直ったり、仕事に就いても、ちょっとしたことで不満を持って辞めてしまう。その挙句に、反社会的、反抗的態度をとったり、反政府キャンペーンを起こしたりする。

 英国に顕在した上のような現象は、福祉国家に必ずついて回るものであり、日本でも昨今、生活保護費不正受給のニュースがやたらに喧伝されている。著者が言うように、「福祉国家が人間を成長させ、豊かにさせるものであるためには、もう一度、福祉と人間性の問題を考えるところから始めなければならない」のは事実であろう。

 しかし、いまわが国で本当に憂えなければならないのは、「福祉ゴロ」の増加そのものよりも、真面目に働いて税金を納めている人々を憤慨させて、政府や経済界にとって都合の良い福祉予算の削減を可能にさせてしまうような世論形成を企む「情報操作ゴロ」の存在ではなかろうか。
 なんといっても、わが国の社会福祉状況は、王座を奪われた英国の現状にすらほど遠いのである。それも、単に政治レベルの話ではない。国民の社会福祉に対する意識レベルの話である。

 英国には元来キリスト教を基盤としたチャリティ(慈善)の精神が生き続けている。その延長上に発達したNPOやNGOの活動も盛んであり、自分が共鳴する活動に対して寄付したり自分のできることでボランティア活動をすることが日常生活の一コマになっている。たとえ、国家が福祉政策を後退させても、英国民の中に深く根付いているチャリティ精神を後退させることはできない。むしろ、「助け合い」の精神はいっそう高まるであろう。この点は、本書の中で著者が書いている通りである。
 一方、日本では地域社会が壊れて互助の精神が失われて久しいが、それに代わるべき新たなコミュニティとして期待されているNPOやNGOの活躍は始まったばかりである。どの団体も資金集め、人集めには苦労している。
 そんな状況で、行政が福祉政策を後退させるのは、弱者の切り捨て以外の何物でもなかろう。


 それはまさに「墓場から墓場へ」である。

 


● 介護の仕事2 (開始二ヶ月)

 家の近くの老人ホームに勤め始めて2ヶ月が過ぎた。

 数日前にやっと‘一人立ち’(先輩職員に就かずに、一人のスタッフとしてフロアを回すこと)した。
 はあ~、長かった。
 先生役の職員のしごきや罵倒に耐え、数々の失敗にもめげず、思いのままにならない利用者の対応に時にうんざりしながら、どうにかここまで来た。自分を褒めてやりたい。
 ちょっとずつ、それぞれの介助技術は身に付いてきている気がする。業務の流れも大方覚えた。体力的には依然としてしんどいが、休日には山登りできるくらいになったのだから、慣れてきているのだろう。糞尿はとくに問題なかった。というより、多忙と緊張とで糞尿がどうこうとか考えている余裕もなかったのが実際のところである。
 これからが正念場である。一人でフロアを回すことに自信が持てるようにならなければならない。
 なんだかんだ言って、やっぱり試用期間が3ヶ月というのは正解なんだなと思う。
 今は業務をそつなく(事故なく)こなすのにいっぱいいっぱいであるが、3ヶ月を超えればちょっと余裕が出てきて、もっと利用者一人一人をじっくり見て、必要なときに必要なこと(声がけ、介助、生活上のリハビリ、傾聴など)ができるような気がする。


1.介護の仕事は喉が渇く

 毎日仕事が終わると、帰り道にあるコンビニに寄ってアイスキャンデーを買うのが日課となった。62円の「ガリガリ君」である。店にあるのはソーダ味と人気の梨味。カジカジしながら、駅へと向かうのである。いい大人が、と思わないでもないけれど、渇いた喉はクールな刺激を求め、疲れた体は甘みを欲する。
 一日中空気が乾燥している施設の中にいて、フロアを動き回り、利用者の移乗などで体力を使い、レクリエーションで声を出して盛り上げ、入浴介助で汗を流す。しかも、常に転倒などの事故が起こらないように緊張している。喉が渇かないわけがない。
 スタッフの中には1リットルの水筒を欠かさず持ってくる人もいる。
 こんなにアイスキャンデーを食べたのは、高校時代の部活動(テニス部だった)の終わったあとの買い食い以来である。
 先日はガリガリ君に当たりが出た。


2.介護の仕事は痩せる! 


 上記の様なハードワークで体重がぐんぐん落ちると共に、介護に必要な部分(上腕や太もも)に筋肉が着いて体が引き締まってきた。仕事を始める前から4キロ減った。
 ウエストも細くなり、ベルトの穴も知らぬ間に一つずつ内側の穴へと移行し、いま一番内側の穴で止めてもまだ緩い状態である。これは実に20代以来の快挙。
 鏡で見る顔もあごのラインがすっきりして、顔全体が小さくなったようだ。
 中年太りからの離脱は、間違いなく健康によい。寿命も伸びたかもしれない。
 一方、職員の中には一年で5キロ太ったという人もいる。
 慣れてくると太るのかもしれない。気をつけよう。


3.介護の仕事は「ぎったんばっこん」、でも平常心が大切

 ある日は、特段何事もなく、穏やかに、利用者も落ち着いていて、安楽に仕事を終える。「自分はこの仕事続けられそうだ」と前向きに考える。
 ある日は、失敗をしでかして、落ち込み、不穏な状態の利用者に振り回されて、疲れ果てて仕事を終える。「やっぱり、自分にはこの仕事向いてないな」と捨て鉢な気分になる。
 介護の仕事は、気持ちが上がったり下がったりの「ぎったんばっこん」である。
 面白いのは、こちらの気分を読み取るかのように、利用者の状態も変化することである。これは認知症の人でも変わりない。いや、認知症の人ほどそうかもしれない。
 こちらが落ち着いていて穏やかな明るい気分でいれば、利用者も落ち着いていることが多い。こちらがパニクって焦っていたり、イライラしたりしている時は、利用者もまた不穏な状態になり、ますます事態は混乱し、悪循環に陥ってしまう。
 利用者の状態は、こちらの心の状態を映す鏡のようなものなのだ。
 何があっても平常心を保つこと。
 これがどうやら極意のようだ。


4.介護の仕事は「さ・し・す・せ・そ」

 しょっちゅう失敗し、先生役の職員に叱られた最たるものは、利用者の部屋のセンサーのスイッチの付け忘れと車椅子のストッパー(ブレーキ)のかけ忘れだった。
 これはどちらも利用者の転倒という文字通り「致命的な」事態を招くミスである。

 例えば、部屋のベッドから起きあがった利用者は、自分の歩行能力を過信して、あるいは失念して、ベッドから下りて自力で歩こうとする。ベッド脇にある車椅子に乗ろうとする。
 そのとき、ベッドの下に敷かれたコールマットのセンサーが入っていれば、フロアにコールが鳴り響いて、職員はすぐに駆けつけて介助することができる。(間に合わない場合もあるのだが・・・) センサーがオフになっていたら、誰にも気づかれないうちに、利用者はベッドから立ち上がって転倒する危険がある。また、自分で車椅子に乗ろうとして、車椅子のストッパー(ブレーキ)がかかってなければ、車椅子が勝手に動いてしまい、支えを失った利用者はやはり転倒する危険がある。
 この二つのミスは絶対やってはいけないミスなのである。
 もし、利用者が転倒し怪我をしたり、命を落としたりした場合、この二つのミスが要因としてあったら施設は申し開きできない。賠償問題となり得る。職員も目覚めが悪いことだろう。
 先生役の職員が何度も口を酸っぱくして叱ってくれたのは、だから、自分の為を思ってくれてのことなのである。
 だが、たとえば、一人の利用者を部屋で介助をしているときに、別の利用者のコールが鳴ったら、あとの利用者の方が転倒リスクの高い人だったら、「すぐに駆けつけなくては」という気持ちが働く。その結果、まえの利用者の部屋を急ぎ足で出てしまうことが多い。そのときに、センサーと車椅子の確認を怠ってしまいがちなのである。

 これは何か忘れないためのいい方法がないものかと思案して、部屋を出る時の「指さし確認・声出し確認」を考えた。それが「さ・し・す・せ・そ」である。


さ=柵       →ベッドの柵の開閉具合は、利用者の状況に合った通りになっているか。
し=下       →ベッドの高さは一番下になっているか。
す=ストッパー ベッドと車椅子のストッパーはかけてあるか。
せ=センサー  センサーはオンになっているか。
そ=装具     →利用者の装具類(手足の補助具、包帯、弾性ストッキング、クッションなど)は適切な状態になっているか。


 窮ずれば通ず。
 いいアイデアが浮かぶものである。


前段 →介護の仕事1
続き →介護の仕事3



 

● 本:『平穏死のすすめ~口から食べられなくなったらどうしますか』(石飛幸三著、講談社)

本:平穏死のすすめ 著者は、東京世田谷区にある特別養護老人ホーム「芦花ホーム」に常勤の医師として勤めるベテラン外科医である。
 
 いま日本人の8割は病院で亡くなっている。事故や手術の結果、病院で亡くなるのは仕方ないとしても、老衰で亡くなる場合も病院がほとんどである。自宅から‘終の棲家’として入居したはずの老人ホームでは死ねないのである。

 なぜか。

 それは、老人ホームには医師がいないからである。
 たいていの老人ホームには常勤の看護師はいても常勤の医師はいない。別の医療機関に所属している医師が週に1回とか派遣されて往診に来るのが一般なのである。
 死ぬには死亡診断書が必要であり、死亡診断書は医師か歯科医師だけが作成できる。
 もちろん、医師や歯科医師の手を借りずに死ぬことはできるけれど、その場合は警察医が入って検死が行われ、解剖が必要となることもある。面倒くさいのである。
 老人ホームなど施設管理側は、できるならホームの中では死んでほしくない。施設内に警察が入ってくるのは外聞悪いし、そうでなくとも忙しい業務が煩雑な手続きや調査によって逼迫されるのは避けたいところである。
 だから、施設の利用者に急変があった場合、たとえば誤燕とか意識喪失とかで生命が危ぶまれる場合、何は置いても救急車を呼ぶのである。なんとか病院に着くまでは、いや少なくとも救急車に乗せるまでは生きていてほしい、というところであろう。

 では、著者のような常勤の医師がいれば万事解決かと言えば、これもまた違う。
 常勤の医師には保険診療の請求ができない決まりになっているからである。これではせっかく医師がいても、利用者に医療行為が行えない。施設側も、わざわざ高い給料を払って専属の医師を置こうとは思わないだろう。
 実に愚かなシステムである。


 著者は、これまで何名もの利用者をホームで看取ってきた体験をもとに、老人ホームでの看取りの意義を訴える。
 それ、すなわち「平穏死」なのだ。
 苦しまないで、安らかに死ぬ、ということである。

 その最たる例として挙げられているのは、もう口から物が食べられなくなっている終末期の高齢者のケースである。
 栄養学が言うように、一日何カロリーの摂取が必要だからと、無理に食べさせれば誤燕のリスクが高まる。それは誤燕性肺炎を誘発し、苦しみながらの死に至ることも多い。
 病院で胃瘻(いろう)を付けて経管栄養をほどこせば、栄養失調は回避され、老人ホームや自宅に戻って、とりあえず生きられる。
 しかし・・・・・と著者は語る。

 もはや物事を考えること、喜怒哀楽を感じることさえできなくなった人に対して、強制的に栄養を補給することは本当に必要なことなのでしょうか。
 我々はとかく、栄養補給や水分補給は、人間として最低限必要な処置だと反射的に考えますが、それはまだ体の細胞が生きていくための分裂を続ける場合の話です。老衰の終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としません。無理に与えることは負担をかけるだけです。苦しめるだけです。・・・・・・・ 
 我々にとって、家族にとって、何もしないことは心理的負担を伴います。口から食べられなくなった人に、胃瘻という方法があるのに、それを付けないことは餓死させることになる、見殺しだと考えます。栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、それを差し控えるのは非人道的だと思ってしまうのです。しかしよく考えてみて下さい。自然死なのです。死なせる決断はすでに自然界がしているのです。

 もちろん、これは当人にしっかり意識があって、胃瘻の造設を自己選択できる場合は除外される。本人が「生きたい」のであれば、それをサポートするのは医療の役目である。
 本人がすでに意思表示できない場合、あるいは、本人が意思表示できて「もう延命はしないで」と頼んできた場合、家族が決断を迫られることになる。
 ここで家族は迷うのである。
 
 本書の中でも、96歳の末期の母親を看取る覚悟ができない子供たち(と言っても60歳は超えているはずだ!)と、著者をはじめとする施設関係者との壮絶なたたかいの模様が語られている。
 その背景にあるのは、戦後日本人が看取りに象徴される「死の文化」を失ってしまったことにあろう。自宅での死が激減したということは、新しい世代もまた身近な人を看取った経験がないままに成人しているということである。

 これと対比して興味深いエピソードが語られている。

 ある特養の施設長が、オランダのホームを見学した時の話です。認知症の老人の口を開けてスプーンを入れようとしたところ、現地のワーカーから「あなたは何て恐ろしいことをするのか。この人は食べたくないのに。あなたは老人の自己決定を侵している」と怒鳴りつけられたそうです。さらに、この施設長は帰国後にも、追いかけるようにそのワーカーから、「私たちは、食事は並べるが、無理に食べさせたり、チューブを入れたりしない。そのままでも安らかに死ねる」と手紙を送られたそうです。

 キリスト教圏の死生観と、仏教圏の死生観は異なる。前者のそれは、より個人の尊厳とか自己決定を重視する傾向がある。
 日本人の問題は、しかし、仏教的な死生観さえ、もはや宿していないところにある。
 死生観がないのだ

 
 むろん、自分は延命処置を望まない。
 自分が恐れるのは「死ぬこと」そのものよりも「苦しんで死ぬこと」である。
 肉体的な苦しみだけではない。精神的な苦しみこそ辛かろう。「いっそ殺してほしい」と思いながら、そのことを周囲に告げる手立てもいっさい持たずに「生かされ続けている」のは、生き地獄としか思われない。
 そしてまた、命の終わりは自然に任せたいとも思う。
 自然とは、あらゆる動物は食べられなくなったら死ぬ、という宿命である。


 親にもまた最期は安らかに往ってほしいと思う。
 だが、すでに後期高齢者(75歳~)となった両親と、これまでにこういったことを話し合ったことがない。
 いざというときのために、話し合っておくべきだろう。




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