1974年刊行。
2012年日本語訳発行。
ドジで抜けてて暢気でお人好し、騎士道精神と友愛精神に満ちた愛すべき英国紳士バーティことバートラム・ウースター青年と、才気煥発にして謹厳実直なる有能な執事ジーヴスの名コンビが、英国有閑階級の日常を舞台に縦横無尽に活躍する、抱腹絶倒なるシリーズの一編である。
93歳という長寿をまっとうしたウッドハウスが最期に書き上げた作品であると同時に、国書刊行会から発行されたジーヴスシリーズ全14巻の最終巻である。もう次がないと思うと残念だけれど、忘れた頃にまた読みかえして爆笑するは必至なので、早く忘れよう。
ウッドハウスの作品、ことにこのジーヴスシリーズを読んでいて誰でも気づくであろうことは、登場する女性達の気の強さである。我らが主人公バーティーはもちろん、バーティーの一癖も二癖もある友人達も、中には2メートルを超える巨体とラグビーでならした馬鹿力を誇る輩も出てくるのであるが、紳士だろうが実業界の大立て者だろうが会社員だろうが登場する男達のいずれもが、苦手とする女性を持っていて、彼女たちにちょっとした偽りやら失態やら旧悪が露見するのを魂が震えるほどに怖がっているのである。それがこのドタバタ喜劇を進める重要な枷の一つになっているのだが、作品世界の中で男達は母親にいたずらがばれて怒られるのに怯える少年達そのものである。
この女性上位はウッドハウス作品の特徴なのか、英国有閑階級の特徴なのか、それとも英国社会の特徴なのか。
自分は英国文化に詳しくないが、どうも英国社会は女性天下という気がする。
何と言ってもイギリスは女王の国という印象が強い。男の王様ももちろんあまたいたけれど、世界に名だたる大英帝国を実現したのはエリザベス1世しかりビクトリア女王しかり、女王が統治する御世だった。男の王たちの印象と言えば、再婚するために宗旨替えしたり(ヘンリー8世)、男色を嗜んだり(ジェームズ1世)、どもりで悩んだり(ジョージ6世)、となんとなくお間抜けな逸話が多い。
また、女性の政治リーダーで最も有名かつ有能なのはサッチャー首相であろう。英国病に苦しみタイタニック同然に沈没せんとするイギリスを、「鉄の女」と言われたその強硬な手腕で再び世界のリーダー格に甦らせた人物である。
女性に仕切らせたほうが物事は上手くいくと英国の男達は分かっているのだろうか。
そして、そのほうが自分たちは好きな趣味に没頭できるということも。
ウッドハウス作品に出てくる男達のマニアックな趣味はまったく「オタク」そのものである。
『強い女とオタクの男の国、イギリス』
日本もいまそうなってきている。
10月9日(火)くもりのち晴れ
●タイムスケジュール
09:50 JR中央線高尾駅着
10:12 小仏行きバス乗車(西東京バス)
10:30 小仏バス停到着
歩行開始
11:20 小仏峠
12:15 景信山頂上
13:30 明王峠
14:20 陣馬山頂上
昼食
15:40 下山開始
人里峠~藤原峠
17:15 陣馬登山口バス停着
歩行終了
17:25 藤野駅到着
●所要時間 6時間45分(歩行時間4時間45分+休憩時間2時間)
高尾山~城山~小仏峠~景信山~明王峠~陣馬山と、東京と神奈川の境を縦走するコースは、東京近辺のハイカーには有名である。紅葉の頃には京王電鉄がスタンプラリーをやっていて、家族連れや熟年のグループなどで賑わう。休日などは巣鴨のとげぬき地蔵通りか原宿の竹下通りかというくらいにハイカーで渋滞するのである。
道も歩きやすく、道標も親切でわかりやすく、どの山も見晴らしが良くて、どの山頂にも茶屋があるので水や食事の心配もいらない。山登り初心者がちょっと自信をつけた頃に挑戦するのにちょうど良い長丁場(7時間くらい)のコースと言える。
自分は全部通して歩いたことはない。制覇することに別段意義は感じないし、日没や帰りのバスの時刻を気にしながら早歩きするのは、かえって山歩きの楽しみを削ぐ結果になるのでつまらない。登れば登るほどに、あるいは年を重ねるほどに、ゆっくりじっくり周囲の景色を愛で、鳥の声、風の肌触り、木や花や虫との出会いを楽しむのが、また自然に心身をゆだねて「我れ」をなるべく空っぽにするのが、山登りの最大の醍醐味と感じるようになった。
そんなわけで、今回は小仏峠から陣馬山までを歩いた。
高尾駅発小仏行きのバスは平日にも関わらず満員であったが、ほとんどの客は小仏から城山や高尾山に向かうらしく、景信山への道は空いていた。
あっという間に景信の山頂に到着。
景信山は、高尾と陣馬の両巨頭に隠れて名前の通り目立たないのであるが、滅多にないほどの優れた眺望を誇る。富士山や相模湖を臨む南西側も見事であるが、都心を臨む東側が息をのむほど素晴らしい。筑波山から江ノ島まで関東平野全景と言ってもいいほどの幅と奥行きでさえぎるものなく都会を丸ごと見下ろしている。双眼鏡で観ると、スカイツリーがひときわ高く地平線に聳えているのが見える。やっぱり高い。


景信山から陣馬山までの尾根歩きが気持ちよくて楽しい。
巻き道をたどればアップダウンはきつくなく、反対側から縦走する人々と挨拶を交わしながらさわやかな森の道を鼻歌気分で歩ける。
明王峠は一服するのに最適な陽当たりの良い山腹である。アザミやコスモスはじめ季節の花々が斜面を飾っている。
急な階段をひと登りすると陣馬山のシンボルたる白馬の像が青空をバックにくっきりと見えてくる。山頂だ。
陣馬山の人気の秘密は、360度の眺望と広々した高原さながらの山頂の開放感にある。弁当を広げるには最高の場所である。中央線で藤野駅まで行って陣馬山から高尾山方面に向かえば帰りのアクセスが便利なのであるが、あえてそうしなかったのはこの山頂をこそ到達点にしたかったからである。汗も疲れも吹き飛ぶ気持ちよさが待っている。




茶屋でなめこ汁を頼んで、山々を眺めながら遅い昼食とする。
山の上を吹く風はすっかり秋のそれで、日陰にいると寒くなってくる。下界では10月とは思えない嘘のような暑さが続いているが、高原の草の色にも遠い空の色にも秋を感じる。
草の上に大の字になって30分ほど仮眠。
3時半を回った山頂は、自分の他に4、5名が残っているばかり。この寂しさも秋っぽい。
清らかな早朝登山もいいけれど、日が西に傾いたものわびしい山の風情も味わい深いものがある。
下山は和田分岐のある一の尾根をとる。途中は誰とも会わなかった。
藤野方面への下山路は途中に3軒の温泉旅館がある栃谷尾根もある。前回はこちらをとって、陣渓園という旅館の日帰り入浴に浸かった。いいお湯であった。
今回一の尾根をとったのは、このコースの山から出るあたりの里山風景を見たかったからである。一昔前の『週刊新潮』の表紙絵のような、山々に抱かれた懐かしい日本の里山が(それも秋の!)まるで「おかえりなさい」と言ってくれているかのようなやさしさで迎えてくれた。
陣馬登山口バス停到着。
時刻表を見たら3分後に藤野駅行きが来る。なんというラッキー! ちょうどいいバスがなかったら藤野駅までの30分弱を歩こうと思っていたのだが、渡りに船、もとい渡りにバスだ。
藤野には駅からバスで行ける温泉が二つあるのだが、今日は高尾駅まで戻って「高尾ふろぴい」に浸かった。山登り客用に2時間半で800円というコースがあるのがいい。ここの露天風呂も良いが、古代檜を贅沢に使った檜風呂が好きである。お湯がやわらかく肌に馴染むし、檜の香りが心をほぐしてくれる。
森林浴二乗。

2012年刊行。
著者の六車由美(むぐるまゆみ)は1970年生まれ。民俗学者として前途有望な大学職員の職を四十目前にしてなげうって、静岡県東部地区の特別養護老人ホームで介護職員として働いている。
もちろん、大学を辞めたからと言って民俗学者を辞める必要はない。新しい職場には、昔の生活や風習や伝承などをよく知っている翁、媼がたくさんいる。正史には残らないような、教科書や市町村など公の編纂物には載らないような、知られざる庶民の暮らしぶりや出来事、「忘れられた日本人」の姿を驚くべき詳細さで正確に記憶している人々がいる。
かくして、介護と民俗学が結合し、著者の提唱する「介護民俗学」が誕生したのである。
著者は、週に数回、時間を決めて、勤めている施設の利用者の昔語りを仕事の一環として聞き書きすることを始める。
まず、これがうらやましいというか、理解のある施設だなあ~と思う。
自分も介護施設に勤めているが、利用者である老人の話をじっくり聴ける機会などないに等しい。
シフト入りしてから上がるまで、息つく暇もなくやることがある。一日の流れは決まっている。すべての利用者を見守りながら、転倒や誤嚥などの事故なく、業務を円滑に遂行していかなければならない。利用者とのコミュニケーションより業務優先になる。
たとえ、たまさか手が空く時間があっても、一人の利用者だけに集中することはできない。フロアのどこで何が起こっているのか、どの利用者がどこで何をしているのか、把握していないとならないからだ。職員の見えない死角で車椅子から立ち上がって歩き出し、転んでいるかもしれない。他人の部屋に入って、そこの床に放尿しているかもしれない。
記録をつける煩雑さも馬鹿にならない。8時間のシフトの内、おそらく1時間近くは記録作成にあてられる。行政の監査や評価、利用者の家族からの問い合わせにいつでも対応できるように、利用者一人一人についてこまかい記録をつけなければならない。バイタル、食事量、水分量、排泄記録、服薬記録、レクリエーションでの様子、入浴時の様子、他の利用者との関わり・・・e.t.c 必死こいて記録をつけている職員の周りで、何か言いたそうな利用者がウロウロしているという光景は日常茶飯事である。
何が起こるのかわからないのが介護である。みんな何かしらの病気を持っているのだが、ちょっとしたことで体調悪化につながる。ついさっきまで元気に動き回りよく喋りよく食べていた利用者が、突然「熱発」し意識朦朧とし救急搬送になることがある。あるいは、廊下で転倒している利用者の存在を他の利用者から教えられることもある。
そうなると業務の流れがストップしてしまう。それによって混乱が生じる。他の利用者も不穏になってしまう。
だから、ほとんどの職員は前倒しに業務を行っていく。手が空けば、次の時間帯の作業でできることを済ませてしまう。突然何か不測の事態が持ち上がっても、業務の流れへの影響が最小限で済むように。
そんなこんなで、利用者と膝つき合わせて、じっくり会話する時間が取れないのである。
利用者とマンツーマンで話をする機会があるのは、入浴介助の時くらいである。それも、こちらは介助の手を休めることなく話を聞かなければならない。せいぜい15分が関の山。
自分は老人から昔の話を聞くのが好きなほうである。
戦争に行った話、疎開した話、大陸からの引き揚げの話、関東大震災の話、昔の田舎の暮らしの話、貧乏の話、バリバリと働いて日本の屋台骨を支えていた頃の話・・・。同世代の人と話すより好きかもしれない。
あるいは、一般の日本人とはちょっと違った経歴をもつ人たち―例えば、在日朝鮮人とか元ホームレスとか天涯孤独であるとかーそういう人達がどのような苦労を重ね、どのような辛さを乗り越え、どのような経緯をたどって今日まで辿り着いたかに興味がある。もちろん、ちょっとやそっとでは当人に聞けることではないけれど。
もっとも、自分の興味は民俗学的なものではない。老人達は長い人生の中で最も印象に残ったいくつかのエピソードを繰り返し語る習性がある。そこから共通して浮かび上がってくるその人の「人生のテーマ」みたいなものを推察するのが面白いのである。いわば、スピリチュアル的興味といったところか。
そういうわけで、老人達の話にじっくり耳を傾けることのできる著者の立場をうらやましく思ったのであるが、やはりそうは甘くはないようである。
職場の配置換えで職員の不足している現場に配属となり、あまりの忙しさのため聞き書きができなくなったのである。
驚けないというより、最初は「驚かない」ようにしていた。業務を滞りなくこなすには、驚いている時間がなかったからである。
さらに、私は驚けなくなってから、一方で、介護の技術的な達成感の喜びは強く感じるようになっていった。たとえば午後の排泄介助の時間、寝たきりの利用者のオムツ交換をするのだが、オムツを開けた時に大量の排便があったりすると、いかにこの便を素早く、しかも丁寧に拭き取り、利用者の臀部をきれいにしてオムツを交換するか、と俄然張り切ったりするのである。
そんな感覚は今まで味わったことがなかった。介護技術が高まったということなのかもしれないが、そこで感じる介護の喜びは、これまでの利用者との関係のなかで感じられるものとは明らかに異なる。極端に言えば、利用者と接しているのに、そこには利用者の存在が希薄となっている。ただ自分の技術に酔っているだけなのだ。驚きのままに聞き書きを進めていたときに、目の前の利用者の背負ってきた歴史が立体的に浮かび上がってきて、利用者の人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。なんだか私は自分が恐くなった。
そう。自分も正直恐い。
介護技術が高まり、他の職員に迷惑かけないよう業務をスムーズにこなせるようになるのと反比例するかのように、利用者との心の距離は離れていくような気がする。
就寝介助中、寝巻きへの着替えを手伝っている間に話しかけてくる利用者を、次に寝かせないといけない別の利用者のことに気が行って、適当にあしらうことを覚えてしまった自分に情けない思いがする。
しかるに、高齢者はどんどん増えていき、施設への入所を待つリストはどんどん長くなる一方で、介護職員は慢性的に不足している。「利用者とのコミュニケーション(傾聴)」が介護保険で利用できるサービスの一つとして算定される可能性などゼロに近い。
知恵と豊かな経験に満ちた老人たちが口をつぐんだままあの世に赴くことは、民俗学的見地から、次世代への生きた歴史と知恵の継承という点からもったいないというばかりでなく、ターミナルケアのあり方としてどうなんだろうか?
業務優先の今の仕事は仕方ないとは思うけれど、「どこか違う」という気がしてならない。利用者の話を聴くのが介護の一番大切な仕事なのではないだろうか。自分の話をきちんと聴いてもらえることは、自分が受け入れられたという実感をもたらす。それが利用者を落ち着かせ、最期の時を安らかに迎えるための何より効き目ある薬なのではないだろうか。
介護に携わる者にとって、一読に値する本である。
2010年公開。
平成の世も20年以上過ぎた今になって、これほど‘純’な、これほど‘ストイックな’これほど面白い映画が出るとは思わなかった。
この数年の日本映画の中のピカイチである。
加えて言えば、主役を演じる峯田和伸にどんなものであれ主演男優賞を、脇を演じるYOUに助演女優賞を与えることのできなかった日本映画界の鈍感さ、不甲斐なさは、日本映画の歴史に泥を塗る破廉恥である。
峯田和伸という俳優(兼ミュージシャン)については何も知らなかったが、役者としての才能はデビュー当時の窪塚洋介や松山ケンイチを凌駕していると思う。これからメキメキと頭角を現してくることだろう。
原作は花沢健吾が「ビッグコミック・スピリッツ」に連載した青年マンガなので、物語そのものは「単純で紋切り型でご都合主義でたわいない」。一言で言うと「馬鹿」ということになる。
だが、その性質は「男」そのものを表す。男とは、「単純で紋切り型でご都合主義でたわいない」馬鹿な生き物だから。
昨今の男は病んでいて、さまざまな関係のしがらみの中で、あるいは「上手く」生きようと立ち回るうちに、原始的な気質を見失ってしまう。いったい、彼女に見せる「標準的な(マニアックでない)」アダルトビデオを友人に借りに行くため、夜中に3時間も自転車をこぐ馬鹿(=男)がいまどこにいようか。しかも、借りたビデオの中味は違っていて「獣姦もの」だったというオチ。
主人公タニシは、29歳にして「男」の純粋な核を体現する存在である。
だから、周囲の男達は、仕事もできない、職場の女ともロクに話せない、ダメ男の典型のような彼を好きにならずにおれない。片思いの女をもてあそんだ男の会社に殴り込みをかけるタニシのために一肌脱がずにはいない。たとえその助力が失敗に終わろうとも。(ビートたけしを思い出すなあ。でも、たけしは独りでなく軍団で行ったところがイヤだ。)
こういう男を「キュート」だと思ってくれる唯一の女が、母親をのぞけばYOU演じるソープランド嬢‘しほ’のような、優性遺伝子(精子)争奪戦から退いた女であるという皮肉も効いている。
生きるとはぶざまに生きることである。
青春とはかっこ悪いものである。
男とは不器用な生き物である。
そんなベタな原点を直球勝負で描き切ったところ、演じきったところに惜しみない喝采を送りたい。
評価:B+
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!
2001年刊行。
「老いに弱い」に男も女もない。
人は老いに弱い。というより、老いとは弱ることである。「老いに弱い」という表現は同語反復である。
男が「老いに弱い」と言うときに意味しているのは、だから、男は女に比べて自らの「老い=弱さ」を受け入れることが難しいということである。
なぜ、男は自らの「弱さ」を受け入れることができないのだろうか?
それはいったん「弱さ」を認めると「男」でなくなってしまう恐怖が付随するからである。「男」とはひたすら「弱さ」を抑圧する生き物なのである。文化的に、社会的に、歴史的に、そのように構築されてきたのだから仕方がない。男はいつだって闘ってきたし、敵に「弱さ」を見せることはイコール「負け(死)」を意味するからだ。
もちろん、「弱さ」と無縁な人間なんていない。
自分の「弱さ」を認められない者(=男)は弱くて、自分の「弱さ」を認めて受け入れられる者(=女)は強い。そういうことだ。
「弱さ」を受け入れられる女たちは、それを素直に表現し、お互いに繋がりあえて、助け合える。無理をしない。一方、「弱さ」を抑圧する男たちは、弱音を吐けず、困ったとき周囲に「助けて」とも言えず、無理をしすぎて、挙句の果てにパンクしてしまう。
生物学的にも、男は女より脆弱に造られている。ヒトの基盤は女であって、Y染色体をもった胎児がある段階まで来ると性ホルモンの影響で男に分化する。つまり、男は女より「成る」のに一個余分な操作を経なければならない分、生物学的に不安定な存在なのである。
男が老いに弱いのは、男が「男」であるから。
―というしょうもない結論になってしまった。
でも、介護のカリスマ三好春樹にいまさら教えを乞うまでもない。
男が自らの老いと上手く付き合っていけるかどうかは、自らの弱さと上手く付き合っていけるかどうかにかかっている。「男」であることのこだわりからどれだけ解放されるかにかかっている。
そんなことしてまで、老いと上手く付き合っていく必要はないという意見だってあってよい。「男らしく」死ぬという選択肢もあってよい。平和な世にはなかなかそれが実現できない点がネックであるが・・・。
その意味では、自殺を「弱さ」の象徴に引きずり落としてしまったことが現代の男達の辛さを生んでいるかもしれない。「自決」や「切腹」や「殉死」や「特攻」ならば、「男」を保って死ねたのに・・・。
さて、著者が言う「老いに適応しやすい条件」は、以下の通り。
①金、地位、名誉と縁がないこと
②進歩主義を信奉していないこと
③「自立した個人」にこだわらないこと
つまり、近代西欧的価値観における成功者ほど老いに適応しづらいことになる。
こうして老人介護を仕事とする私たちは、現代が理想としてもてはやす人間像に違和を感じ、世間と距離を取り始める。
考えてみれば、老いとは人間がヒトという自然に回帰していくことなのだ。老人と毎日関わる介護職は、ちょうど森や海で狩猟する縄文人のように自然と一体化していくのだろう。
自分も介護職のはしくれである。
他人を介護することを通じて、日々、自らの老いを受け入れるレッスンをしているのかもしれない。
1995年。
石井聰亙、イシイソウゴと読む。
改名して今は、石井岳龍(イシイガクリュウ)と名乗っているらしい。
小さい頃、電車に乗るのが好きだった。
座席を確保すると、すぐさま靴を脱いでシートに這い上がり、窓を向いて正座する。そうして、窓外を飛ぶように過ぎてゆく景色を見るのが何よりの歓びであった。目的地に着いて遊ぶことよりも楽しかったかもしれない。(最近、そういう子供を列車の中で見かけなくなった。)
昭和40年代の首都圏は、山の手線沿線駅から私鉄で40分も行けば畑や草ぼうぼうの野原が広がっていて、地平線の向こうには晴れた日には富士山がくっきりと見えていた。子供には固くて重いガラス窓を開けると、プーンと肥やしの匂いが車内に入り込んできて、周囲の乗客の迷惑そうな顔にあわてて母親が窓を閉めたものである。「汽車ぽっぽ」の唄そのままに、畑も家も鉄橋も看板も踏み切りも踏み切り待ちの人も車も、目に映る何もかもが新鮮で、面白く、愉快であった。
とりわけ興奮したのは、都心から来る下り列車とすれ違う瞬間である。
窓ガラスを震わせる風圧と轟音、帯のように縞模様を作ってシュルシュルと眼前をすり抜けていく車体、列車が通り過ぎた瞬間にパッとよみがえる田園風景。まだ物の名前も意味も多くは知らなかった年頃、純粋に音と光と色彩と運動と速度とそのすべての変化を楽しんでいたのである。
自分にとって映画的愉楽とはそのようなものである。
人が「物語」を持つ前に出会ったはずの「世界」との遭遇、その驚き。
分節化され、定義され、価値づけられ、体系化されてしまった「世界」の見方を身につける過程において、見失ってしまった「世界」のありのままの姿、その豊饒。
それは、たとえば好奇心から知らない路地に踏み込んで方向を失い、途方にくれて夕暮れの街をさまよっているときに、突如として、そこが普段自分が仕事で往来している通りであったことに気づき、その瞬間、周囲の事物が脳内で定石通りに組み立てられていく際に感じる惑乱のような感覚である。
映画的愉楽は、しかし、幼子の見る「世界」とは違う。
なぜなら、観る者はすでに「物語」を知り、多かれ少なかれ、それに縛られているからである。
大人になるとは「物語」を持つことである。それがどんな類いのものであれ。
観る者は何らかの「物語」を期待して映画を見る。恋愛物語、冒険物語、戦闘物語、成長物語、プロパガンダ、家族愛、人類愛、動物愛・・・e.t.c.
そうした「物語」なしの映像などはほとんど考えられない。どんな映像美が用意されていようと、それだけでは数分もすれば飽きてしまうだろう。万華鏡を2時間も覗いていられるだろうか。
人は「物語」によるカタルシスを求めて映画を見る。
それは映画芸術のなくてはならない、無視できない一面である。
映画とは、ショットの連鎖により意味を発生させることで「物語」を語る形式である。
しかし、映画芸術は「物語」を語るだけではない。それなら、小説で十分ではないか。テレビドラマで十分ではないか。ラジオドラマで十分ではないか。
ショットの連鎖が「物語」と同時にはからずも産み落とす、光と影と色彩と運動とリズムとそのすべての変化、肌触り。それこそが、他の芸術形式には見られない映画ならではの表現領野である。観る者が、世界をも自分をも覆い尽している「物語」から、ほんの一瞬解放されて、幼子の頃に親しんだナマの「世界」と邂逅する瞬間である。
そのこと自体が目くるめく体験であるが、それによってはじめて「物語」が相対化され、観る者は、人が「物語」を生きることの喜びと哀しみと切なさと愚かさと不自由とを感得するのである。
それは、人が「大人」になってしまった苦さであり、同時に、ボケない限り「大人」を越えられない悲しみである。
文句なく、この作品は映画的愉楽に満ちている。
物語そのものはどうでもいいし、どうってことはない。『時をかける少女』同様、少年少女の淡い恋を描いたSFファンタジーとして見てもいいし、『ほしのこえ』(新海誠監督)など2000年代のセカイ系作品群の登場を予告する映画と見てもいい。
味わってほしいのは、「物語」と関係なく画面に現れ消えていく乗り物たちの運動。バス、オートバイ、飛行機、祭りの山車、遠くの高速を流れる車。「物語」と関係なく差し挟まれるショット。路地、雲、水しぶき、校庭、扇風機。文物の表情と豊饒をこそ愉しんでほしい。
主役の少女・葉月泉を演じる小嶺麗奈は、涼やかなまなざしが印象的である。
友人の美樹役、顔立ちといい抜群のスタイルといい、ずっと若くて元気な頃の宮沢りえかと思って観ていたが、松尾れい子という名の別の女優であった。
惜しむらくは、ちょっと長い。
117分は要らない。90分におさめたら傑作になったであろう。
評価:B-
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!
2008年フランス映画。
アルツハイマーを発症し、精神障害者ばかりの介護施設に収容された元刑事シャルル(アンドレ・デュソリエ)。そこでは、一人また一人と患者が姿を消してゆく。不審に思ったシャルルは長年培った刑事の勘と捜査技術を利用して真相の解明に着手するのだが、周囲の誰もが、施設の仲間はもとより職員も家族も、シャルルの言うことをまったく信じない。
それも仕方ない。だって、シャルルはアルツハイマーなのだから。
はたして、一連の患者の死は単なる偶然なのか。
それとも真犯人がどこかにいるのか。
すべてはシャルルの妄想なのか。
シャルル役の男優の演技が見物である。
アルツハイマーの元刑事という難役を見事にこなしている。相当アルツハイマー患者の研究と観察をしたことだろう。
他の精神障害者たちの演技もリアリティがある。
施設の職員達の風情や業務の様子も妙にリアリティがある。
この妙なリアリティの濃さが他の点ではどうってことのないこの作品を駄作から掬い上げている。
評価:C+
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!
1988年にっかつ。
マルキ・ド・サドの著名な作品の映画化ではあるが、物語をそのままに舞台をフランスから日本に移したというのではない。サド侯爵を気取る不知火(しらぬい)侯爵が主宰する、団員すべてが犯罪者という白縫劇団の演目として『悪徳の栄え』の稽古風景が繰り広げられる。つまり、劇中劇である。
一方で、不知火侯爵と仲間の貴顕達が日夜溺れる悪徳と退廃の数々が、独特の映像美と陰鬱なライティングによって観る者に供される。
舞台と日常。虚構と現実。二つの世界は対比されているのではなく、分かちがたく絡まりあっている。虚構(『悪徳の栄え』の舞台)が現実(不知火侯爵の日常)に影響を及ぼし、現実が虚構にオーバーラップする。
交錯する現実と虚構。グロテスクな映像美。
まさに実相寺ワールドが展開されている。
時代は二二六事件の頃だから1936年。軍国主義が席巻し、国際連盟脱退(33年)→盧溝橋事件(37年)→日中戦争→太平洋戦争と、日本が雪崩式に戦争と大いなる破滅へと進んでいった中途である。
この背景もまたサドが『悪徳の栄え』を書いた背景と重ねてみるべきだろう。
フランス革命前夜。
一つの文化が崩壊し、価値観が転換し、世の中が大きく変わるとき。そのための完膚なきまでの破壊と残虐が目の前に迫っているとき。
そんな時代を予感してか、サド侯爵は出現したのであった。
サド侯爵が目したものは、まさに道徳や法や宗教や伝統や習俗や階級を超越する‘何か’であり、それが現れるまではひたすらに目の前の共同幻想を破壊しつづけなければならなかった。そのためのエンジンとして使われたのが「悪徳」であり、ガソリンとなったのが「情欲」であった。
情欲の前には人は、文字通り、すべてをとっぱらって「裸」になるほかないからである。
サド侯爵はともかく、この映画、大がかりな設定と凝った演出のわりには、つまらなかった。
テーマが今ひとつさばき切れていないためだろう。見終わった後に残るのは、斬新な映像美とアブノーマルな登場人物達とアブノーマルな行為だけである。それだけで何かを訴えるには、平成24年の日本人はもはやイカない。
たとえば、不知火侯爵が自分の若い妻を劇団の若い男にレイプさせ、その一部始終を覗き見るというシーンがある。1988年では何らかの衝撃なり劣情なり反感なりを観る者にもたらしたかもしれないけれど、現在ではどうだろう?
「別に・・・・」
という感じではないだろうか。
貴顕に限らず、今では一般市民がネットを通じてそこらじゅうで同じことをやっているのを、みんな知っている。
結局、悪徳もまた古くなるし、退屈なものに変じてしまうのだ。
いいえ、民衆は道徳に倦きて、貴族の専用だった悪徳を、わがものにしたくなったんですわ。(三島由紀夫『サド侯爵夫人』)
実相寺にしろ、寺山修司にしろ、三島由紀夫のいくつかの戯曲にしろ、前衛的なものほど古くなるのが早い。そんな逆説を感じさせる映画である。
これに比べると、公開当時から古くさかった小津映画は、永遠に古くならないから不思議である。
評価:C-
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
ヒッチコックの作品たち
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
「ボーイズ・ドント・クライ」
チャップリンの作品たち
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!
9月25日(火)西新宿駅にある常圓寺祖師堂にて。
こんな繁華街のど真ん中、新宿駅から目と鼻の先にお寺があるとは知らなんだ。青梅街道をはさんだ向かい側には都庁はじめ高層ビルが林立している。相当な地価だろう。
境内には墓園もあって、お彼岸最終日のこの日、墓参りに訪れた人々の姿がちらほらと見えた。便利なところにお墓があったものである。
常圓寺は日蓮宗のお寺であ
る。
日蓮というと他宗派をいっさい認めない排他的イメージがあるのだが、昨今の日蓮宗はそんなこともないらしい。
それでも、それがどんなに偉くて有名であろうとも、大乗仏教の他宗派のお坊さんを講師に招くことは考えられまい。やはり、小乗仏教すなわち原始仏教(テーラワーダ)の長老だからこそ、スマナサーラ氏は招かれたのだろう。何というか、分家の行事に本家の長男がよばれてご挨拶みたいな感じだろうか。仏教の根本を今一度見直そうという、日本大乗仏教の焦りと反省みたいなものだろうか。
祖師堂というだけあって、お堂の正面には仏像ではなく日蓮上人が祀られている。
参加者は80名くらい、ほぼ満席だった。
法話の前に、全員で法華経を唱える時間が設けられていた。
今日の話のポイントは、真理を知ることで平和が訪れる、というタイトルどおりの内容であった。(とわざわざ書くくらい、その日のタイトルとスマナ長老が実際にする話とはギャップがあることが多いのである。)
以下、概略する。
● 人々が争ったり喧嘩したりするのは、曖昧なこと、はっきりと事実が判明していないことについてである。
例)真の神はエホバかアラーか?
聖書とコーランどちらが正しいか?
尖閣列島は日本のものか中国のものか?
● 私たちは事実については喧嘩をしない。
例)地球は丸い。
ガンになったら病院に行って治療する。
人の死亡率は100%。
● ゆえに、真理を知ったら最早争う必要がない。平和である。安らぎに満たされる。
● 真理を喜ぶ生き方とは、何が真理か自分で調べて確かめてみようとする姿勢のことを言う。
● ブッダの伝えた真理とは、「一切行苦」「諸法無我」「諸行無常」などである。
● 仏教は、しかし、上記の「真理」を押しつけることはない。ブッダの言葉が本当かどうか各自で徹底的に調べてみなさい。挑戦してみなさい。
というような骨子であった。
そうなのだ。キリスト教徒とイスラム教徒とが争うのは、神の正体が曖昧だからである。いつの日か大空から全知全能の神が降りてきて、全人類の前で生命や自然を創り出す奇跡を行い、「私が神です。当然名前はありません。エホバもアラーも神ではなく、私が地ならしに派遣した弟子たちです。」とでも言明すれば、最早宗教戦争はなくなるだろうに。
事実については誰もが納得せざるを得ない。
あるいは、誰もが納得せざるを得ない事実が、真理なのである。
では、我々は真理をどうやって知ることができるのだろうか?
肝心なのはそこである。
「ブッダの言ったことが真理だから、それをよく学んで信じなさい。」と言うのでは、キリスト教やイスラム教と何ら変わりはなくなる。あらかじめ真理(の書)があって、それに従うのは信仰である。それではいっこうに問題が解決しないのは見てきたとおりだ。
そもそも、「私」が「真理」を発見する、という言い方自体に誤謬がある。
受動態にすると分かりやすい。
「真理」は「私」によって発見される。
つまり、この「真理」は、発見された時点ですでに「私」というバイアスがかかっているのである。そこには、「私」の過去の経験、知識、欲望、怒り、コンプレックス、プライド、トラウマ等々が、多かれ少なかれ投影されてしまっているのである。それは、「私」にとっての「真理」であって、他人が見たら「真理」どころか「誇大妄想」「危険思想」「トンデモ本の世界」に過ぎないのかもしれない。
実際、新興宗教の最終解脱したとか言う教祖が語る「真理」を見れば、この構造は手に取るようにわかる。
「真理」が誰もが納得し誰にでも通用する事実の謂いであるのなら、「真理」は断じて「私のもの」「誰それのもの」であってはならないのである。
結論として、「私」は「真理」を知ることはできない。
では、どうやって・・・???
「私」にできるのは、「私」の中味を観察し吟味し、その構造を調べ尽くすこと、そして、これまで「真理」として語られてきたこと、唱えられてきたこと、信じられてきたこと、伝えられてきたことについて否定もしくはペンディングすること、だけである。もちろん、それが仏教だろうとも・・・。
クリシュナムルティはこう述べている。
信ずるな。ただし、諸君自身をも含むいかなるものも。
諸君の不信と共にぎりぎりまで歩め。
そうすれば、疑い得たあらゆるものは虚偽であったことを、そして最も激しい<懐疑の炎>に耐えうるもののみが真理であることを見出すであろう。
なぜなら、そうなってもなおかつ残るものが、懐疑をその自己浄化過程とする<生>にほかならないからである。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)
仏教においては、カーラーマ経の中の10項目の教えが有名である。
大乗仏教と原始仏教の最大の違いは、おそらく、大乗仏教が仏教を「信仰」にしてしまったところにあると思う。
本来の仏教は、信仰とはかけ離れた実証主義の精神そのものなのである。(大乗の中では禅が実証主義だと思うが、禅は「悟り」を信仰にしてしまったように思う。)
仏教の性質は、テーラワーダ仏教を学ぶ者が日常唱える「法の六徳」の中に明確に表されている。
世尊の法は
1. 善く、正しく、説き示された教えです。
2. 実証できる(いつでも誰でも体験できる)教えです。
3. 普遍性があり、時の経過に耐えうる教えです。
4. 何人も試して、確かめてみよ、と言える教えです。
5. 実践者を涅槃に導く教えです。
6. 賢者たちによって各自で悟られるべき(他力救済を説かない)教えです。

2005年発行。
原始仏教を研究する著者が、仏教における福祉及びターミナルケアの概念とはどのようなものかを、ブッダ最後の旅の様子を誌した『大パリニッバーナ経』を手がかりに概観している本である。
と書くと、難解な専門的、学術的な内容を想像してしまうかもしれないが、著者のどこかでの講演録に手を加えたものなので、平明でわかりやすく、さらさらと読める。
逆に言うと、上記のテーマを十分に展開し論じるには、ちょっと(かなり?)紙幅が足りない感がある。(小林元の装幀が素晴らしい。)
・・・・・と思ったのだが、わざわざテーマ立てて論じるまでもなく、仏教は人の幸せのためにあるのであるから、誰が何と言おうと「福祉」である。
また、原始仏教の究極の目的は、解脱すなわち「今生きている生を最後の生とせよ。そうなるような生き方をせよ。」というところにあるわけだから、仏教そのものがずばりターミナルケアなのであった。
過去から数え切れないほど繰り返されてきた輪廻の最終局面、それが仏教を学ぶ者にとっての「今生」であり「今」なのである。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。
ターミナルにあったブッダの遺言は、はじめも真ん中も終わりもなく、仏教が常に『今この瞬間に死ぬ』ことを目するものであることを告げている。
そのことを端的に表している経典が『日々是好日経』であろう。
過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに
現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい
今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし
昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く
仏教にあっては、毎日毎日、瞬間瞬間がターミナルなのである。