ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督)

 1998年アメリカ映画。

 ホテルの浴槽の中で目を覚ますと、記憶をすっかり失っていた。
 自分は誰なのか。ここはどこなのか。今はいつなのか。
 部屋の中を見回してギョッとする。全裸の若い女の惨殺死体が横たわっている。
 これは誰なのか。いったい何があったのか、自分がやったのか。
 突如鳴り出す電話のベル。受話器から男の声がする。
「君は追われている。すぐにそこから逃げろ!」

 かくして始まるミステリー風、スリラー風、SFアクション。
 全編、悪夢のような閉塞感と陰鬱感と不安感とに満ち満ちている。
 その要因の一つは、この映画もまた「ディック感覚」、すなわち「自分」というアイデンティティの不確かさをテーマとしているからである。
 自分は何者なのか。指名手配中の娼婦連続殺人犯なのか。 
 過去の記憶を取り戻そうと手がかりを追い求める主人公ジョン(ルーファス・シーウェル)の前に不思議な現象が現れる。時計の針が12時をさすと、街中すべてが凍りついたように「一時停止」してしまうのだ。人も車も微塵とも動かない。その間にまたたく間に相貌を変えていく街の景色。しかも、この街には昼がない。
 いったい何が起きているのか。なぜ自分だけが免れているのか。

 謎は徐々に明らかにされていくのだが、その真相は衝撃的なものである。
 記憶(=アイデンティティ)の欠如に一人焦燥するジョンは、この街のすべての住人の記憶そのものが、12時の「一時停止中」に異星人によって作り変えられていることを知るのである。人々のアイデンティティ(自我)は彼等によって造られたものだったのである。
 そして、太陽の射さないダークシティの秘密が明らかになる。

 こうした「ディック感覚」を刺激する仕掛けはアメリカ映画に多いのだが、それはおそらく、近代個人主義を徹底させた国ほど「個」の崩壊に対する不安と恐怖が強い、サスペンスやホラーの素材になりやすいからなのだろう。日本を含むアジア圏の映画ではまず扱われない設定である。

 人間の「個」を破壊しアイデンティティを自在にコントロールする異星人は、逆に、個性や人格を持たない。一つの意識を共有する「種」として存在している。
 その形態や基地のデザインは、『メトロポリス』や『吸血鬼ノスフェラトゥ』などドイツ表現主義の影響を帯びていて映像的に斬新で興味深いが、一方これは意味深でもある。
 「個人主義の崩壊=個の埋没は、全体主義(ファシズム)への道につながる」という隠されたメッセージが読み取れるからだ。
 この命題が真なのかどうかは自分には分からない。
 ただ、洗脳のされやすさという点では、個人主義の発達したアメリカだろうが、そうではない国(たとえば「赤いクメール」時代のカンボジア)だろうが、関係なさそうだ。

 異星人と匹敵する驚異的な超能力を持っていることに気づいたジョンは、最後には壮絶な超能力対決の末、異星人を駆逐することに成功する。
 そして、闇夜の街に太陽を出現させ、海を作り出し、自分のイメージする新しい世界を創り出していく。
 すなわち、ジョンは神となる。

 人々は、結局、異星人の支配からは逃れたものの、引き続きジョンの支配下に置かれたのである。人類と異星人の先史的な闘いも王権交代も、人々がまったく気づかないうちに起こった。
 これが、ハッピーエンドだろうか?
 ジョンが良い神(=支配者)になる保証はあるのだろうか?


  「個」の崩壊の脅威に対する解決手段が「神」の出現だとしたら、人類は「暗黒時代(dark ages)」と呼ばれた中世に戻るよりないのでは・・・・?
 
 
評価:B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


● 本:『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄著、新潮新書)

痴呆老人は何を見てるか 2008年発行。

 著者は、終末期医療に取り組む医師である。
 痴呆老人、いわゆる認知症の老人たちとの日々のつき合いを通じて得られた様々な洞察や知見が出発点となって、著者の思想はいろいろなテーマへとつながり、発展し、深化していく。

 認知症に対する欧米人と日本人の受け止め方の違い、認知症の人との関わり方のコツ、彼らの見ている世界を理解しようとする著者の試みは認識論へと読者を誘い、それは「私とは何か」という哲学の究極テーマにつながっていく。「私」に対する考察はまた、欧米と日本(アジア)の世界観、人間観の差異をえぐる文明論を惹起し、認知症老人と「ひきこもり」の若者の生き難さを「世界とのつながり感覚の欠如」という命題でもって結びつける。
 200ページたらずの薄い本であるが、示唆するものの多さ、内容の深さは、とどまるところを知らない。熟読玩味すべき本である。

 著者のプロフィールとタイトルからは、認知症の高齢者を理解するポイントが書かれている医学書かと早とちりしてしまうが(むろん、それも書かれている)、全体的には思想書と言っていいだろう。


 認知症高齢者の介護に携わる者として、心に留め置きたい文章。


 「痴呆」になったら延命処置を拒否する理由として、日本では圧倒的多数が「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」と答える、と述べました(日本尊厳死協会のアンケート調査)。しかし、アメリカを中心とした英語の文献からうかがわれる「痴呆を恐れる理由」は、圧倒的に「自己の自立性が失われるから」でした。


 「延命」努力が日本社会でまだ最優先されている情況の底流には、貧しい環境の中で仲間同士がはげましあって生きてきたという倫理意識があるようです。いうなれば、死にゆく者を引きとめようとする周囲の力、つながりの強さの現れでもあります。


 認知能力(特に記憶力)が低下することで、現在の環境へのつながりが失われます。自分はどこにいるのか、なぜここにいるのか、今はいつなのか、つながりを築こうとする努力は報われません。つながりが感じられない世界は心象的によそよそしく、混乱し、理解できない様相を示しています。そこに生じる情動は不安が主たるもので、たやすく恐怖へと成長します。不安、恐怖、怒りなど、いのちが脅かされたときに生ずる情動がコントロールできなくなった瞬間、せん妄状態に移行していくように見えます。


 痴呆状態にある人と「心を通わす」とは、記憶、見当識の低下などの認知能力の低下によって彼らに生ずる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、心おだやかな、できれば楽しい気分を共有することです。そのためには細かい行動学的観察に基づく個別化された接近方法が必要ですが、しかしまず、自分は彼らと連続した存在であり、彼らは、実は「私」であるということを確信しなくてはなりません。


 認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、・・・・・
1. 周囲が年長者への敬意を常に示すこと、
2. ゆったりした時間を共有すること
3. 彼らの認知機能を試したりしないこと
4. 好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと
5. 言語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用すること、
などによって形成されるものと考えられます。



 最後に、「私」とは何かに対する著者の洞察。
 

 今までの「私」や「人格」についての議論を総括すると、「私」「人格」もある現象であって、条件が整っている限り、種々の因子がおたがいに関係しあってその現象を生ぜしめている、ということです。つまり、仏教のいう、すべては「因縁」によって生起しているという法則にまとめることができるように思います。換言すれば、「実体的自我」は、ヒトの発育過程でも、死に近い老いの過程でも観察できないのでした。
 
 そう。認知症の人との関わりの面白さは、構築された「私」の脆弱さを眼前にするところにあると言ったら不謹慎だろうか。


● 初期仏教月例講演会:「正しい自己診断(セルフチェック)~自分で自分をチェックするための方法~ 」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 9月9日(日)夜、新宿区牛込箪笥区民ホール。
 大江戸線の「牛込神楽坂駅」真上にある新しいホールである。
 400名近い席はほぼ満席であった。

コスモス 008 タイトルからすると、仏教的に正しい自己診断の方法を教えてくれるものかと期待するが、スマナ長老はのっけからこれを否定する。

「自分を正しく診断するのは現実的には無理です。」


 なぜならば、
・ 一回の自己診断ですべてがうまくいくというのは誤解である。
・ すべての人はそもそも自分自身を最大に評価している。
・ 完璧な診断リストは存在しない。
・ 診断リストは多数存在し、リストを作った人の能力にも限界がある。
・ 多数のリストの中から一つを選ぶとき、「自我」というバイアスがかかる。(自分にとって都合の良いリストを選びがち)
・ リストを持つ時点で、自分の人生を他人にまかせてしまうことになる。
・ 自分でリストを作る場合でも、結局は世間の考え方を参考にせざるをえない。(すなわち、世間の評価を基準とすることになる) 


 リストとは何のことか?
 生きる上での指針であり、哲学・思想であり、信条であり、主義であり、宗教である。
 どういったリストを選ぼうとも、上記のような理由があるため、人は正しい自己診断には至らないと言うのである。
 だが、生きていく上で自己制御は必要である。自分自身をどのようにコントロールし、どう身を処すればよいのだろうか?

「to do リストも、not to doリストも役に立ちません。」


 と、スマナ長老は言う。
 仏教の五戒やモーゼの十戒のような「~するな」という教えも、カント倫理学のような「~すべし」という定言命令も、根本的な解決にはならない。
 なぜなら、新たな時代の新たな環境のもと、新たに起こってくる事態に対して、新しい命令を次々と追加していかなければならないからである。(国会で一年間に制定される法律の数は50本以上である!)


 「仏教は、心そのものを根本的に改良する方法を伝えます。」


 と、ここからが本日の講演の主眼である。
 いつも前置き部分に時間をかけるのがスマナ長老の話の特徴と言える。もっとも大事なところを時間に追われるようにサラッと流してしまうのである。

 さて、お釈迦様が語る自己診断法には、出家のためのものと、在家信者のためのものがある。
 出家のためのものとして「十項目の経典(DASA DHAMMA SUTTA)」がある。在家信者のためのものとしてスマナ長老が挙げたのは、「カーラーマ経典」であった。

 このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。
 「世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を罵(ののし)り、誹(そし)り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが偽(いつわ)って語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。」


 お釈迦様は答える。

 「カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑(まど)いは起こるものである。あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、
① 人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない。
② 世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない。
③ 古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない。
④ 自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない。
⑤ 経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない。
⑥ 理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない。
⑦ 人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない。
⑧ 自分の見方に合っているからというようなことだけで納得してはいけない。 
⑨ 説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない。
⑩ 説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない。 


 この経典は、「真理か否か他人に頼らず自ら実践して確かめよ」という仏教の基本姿勢を示すものとしてつとに有名なのであるが、上記の対話には続きがあって、そこで自らの心を改良するやり方について説いていると言うのである。 

 その方法とは、「潜在衝動をチェックする」ことである。

1. 貪・瞋・痴のどれか一つが潜在衝動として心の中に表れてきたら、すかさずチェックする。衝動をチェックできると、それが消える。
   例)「いま私の心に上司に対する怒りの感情が出てきたゾ」
2. 貪・瞋・痴に動かされたしまったときに起こる可能性ある行為とその結果を思い浮かべる。
   例)「相手を殴ったらその瞬間は気分がいいけれど、会社をクビになって家族が困るだろう」
3. このように自己診断したあと、慈悲の瞑想で治療する。
    上司が幸せでありますように、
    上司の悩み苦しみがなくなりますように
    上司の願い事が叶えられますように
    上司に悟りの光が現れますように。
4. 四方八方の無量の生命に対して慈悲喜捨を念じる。
    生きとし生けるものが幸せでありますように、
    生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように、
    生きとし生けるものの願い事が叶えられますように、
    生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように。
5. すると、心の闇(=自我)が破れ、平安が訪れる。 

 この方法は、他人に頼ることなく、自分で判断し、自分でチェックできる心の制御法であり、心を根本的に改良する方法である。
 
 と、自分の理解できる範囲で講話をまとめてみた。
 「潜在衝動をチェックする」とは、別の言葉で言えば「気づき」であり「サティ(念を入れる)」であろう。自らの心の中を観察して、浮かび上がってくる衝動(感情)に流されず、その尻尾をつかまえて、その正体(怒りか、欲か、無知か)を暴き出し、すかさず楔(くさび)を打て、ということと理解する。

 別の経典中にずばりそのものを見つけた。

 比丘達よ。まだ大悟していない正覚前の菩薩のとき、思念を二つに分けてはどうだろうかという考えが起こった。欲尋と瞋尋と害尋とを一方に、出離尋と無瞋尋と無害尋と一方においた。
 不放逸に、精進し努力しているとき、欲尋が生じると、私に欲尋が生じたと知った。この欲尋は自分を苦しめるために、他人を苦しめるために、自分と他人を苦しめるためにある。これが慧を消滅させ、涅槃に行くのを抑えるものである、と知った。
 それが自分を苦しめるためにあることを思慮してみていると、欲尋は消滅した。他人を苦しめるため、両者を苦しめるためのもので、慧を消滅させ、抑圧するもので、涅槃にならない、と思慮して見ていると、欲尋は消滅した。私は欲尋を捨て、生じた欲尋を軽くし、すべてをすっかりなくすことができた。(第9巻中部根本19)


 これは面白いことに、有能なカウンセラーがカウンセリングを行う際に行っていることと同じである。
 クライエント(相談者)の語る話の中味や態度について、カウンセラーも人間である以上、肯定的であれ否定的であれ、何らかの感情を抱かざるを得ない。その感情があまりに強くなると、クライエントをありのままに受け止めるのが難しくなる。その感情は自然とカウンセラーの表情やそぶりや話し方に現れて、クライエントに何らかの影響を与えることになる。転移や逆転移を起こすきっかけになる。
 熟練したカウンセラーは、相手の話を聴きながら、自分の心の声も同時に聴いているのである。
「あっ、いまちょっとムカってきた。」「あっ、いまうんざりしている。」「あっ、いまクライエントに欲情している。」e.t.c
 このように気づくことによって、カウンセラーは浮かび上がってきた衝動(感情)に無自覚に身を任せることなく、その衝動をコントロールする位置に立てるのである。


 現代カウンセリングで用いられている技法を2000年以上も前にブッダは説いているのである。
 それどころか、最近はブッダの瞑想法(ヴィパッサナー)をベースにした「マインドフルネス認知療法」というのが世界的に注目されているらしい。

 心に浮かぶ思考や感情に従ったり、価値判断をするのではなく、ただ思考が湧いたと一歩離れて観察するという、マインドフルネスの技法を取り入れ、否定的な考え、行動を繰り返(自動操縦)さないようにすることで、うつ病の再発を防ぐことを目指す。(ウィキペディア「マインドフルネス認知療法」より抜粋)


 やっぱりブッダはすごい。


コスモス 001 ところで、今回会場となった神楽坂は、20年以上前に5年ほど勤めていた職場がある。
 実に、20年ぶりに界隈を散歩した。
 勤めていた会社の建物も、社員がよく利用していた喫茶店やそば屋もちゃんと残っていたけれど、先輩とよく行った飲み屋やたまに独りでランチを食べたカフェなどが無くなっていた。神楽坂全体がすっかりオシャレになり、華やいでいた。
 会社を辞めた時、20年後の自分をまったく想像できなかった。生きているかどうかも確信できなかった。(そんなに長生きしたくないと思っていた。)

 まさか、介護の仕事をやるとは・・・!
 20年前の自分が「もっともやりそうにない」仕事の一つである。

 まさか、仏教の講演を聴くようになるとは・・・!
 20年前の自分は完璧に無宗教であった。


 不思議なものだ。

● へんぼ、へんぼ! 登山:浅間尾根(903m、東京奥多摩)

9月9日(日)晴れ

●タイムスケジュール
06:14 武蔵五日市駅着
06:22 払沢ノ滝行きバス乗車(西東京バス)
20120909浅間嶺 01806:45 払沢ノ滝停留所下車
      歩行開始
      払沢ノ滝(30分滞在)
07:35 浅間嶺登り口
08:30 時坂峠、峠の茶屋
09:40 浅間嶺頂上着
      昼食
10:40 下山開始
      人里峠~藤原峠
20120909浅間嶺 01613:00 仲の平分岐
13:35 仲の平バス停着
13:45 数馬の湯「檜原温泉センター」
      歩行終了
15:02 温泉センターバス停より乗車
16:00 武蔵五日市駅着


●所要時間 7時間(歩行時間5時間+休憩時間2時間)


 数馬は東京の最西端、檜原村に位置する。僻地ではあるが、都民の森、三頭山、奥多摩湖、それに温泉があるので、休日や紅葉時期には山歩き客で賑わう。
 バスで奥へと向かっていくと、僻地ならではの変わった地名(読み方)が出てきて面白い。

 畔荷田(くろにた)
 人里(へんぼり)
 笛吹(うすしき)
 下除毛(しもよけ)


 人里(へんぼり)がとりわけユニークである。
 このあたりは、古墳時代に大陸からの渡来人系の集団が移住したと考えられていて、「人里(へんぼり)」の名前の由来は、「フン」「ボル」(モンゴル語で人間を意味する「フン」と、新羅語で集落を意味する「ボル」)が訛ったものではないかとの説がある。
 なんとなくピンと来ない説である。私見であるが、朝鮮語で「幸せ」のことを「ヘンボ」と言う。ここに住み着いた渡来人たちは、自分たちのつくった村を「しあわせの村(里)」と名づけたのではないだろうか? 「へんぼり」という地名(音)が最初にあって、あとから漢字を当てたと見るのが普通だろう。なぜ、「へんぼ」に「人」を当てたのかが不思議である。ここが人の住む最西端であるということを表したのかもしれない。ここから先は確かに「人里」離れた未開の地だったのだろう。

20120909浅間嶺 001 数馬へと分け入っていく檜原街道の左手に笹尾根、右手に浅間尾根が長々と横たわっている。どちらも峠から峠へとたどる稜線歩きが楽しめる。
 今日の予定は笹尾根であったが、武蔵五日市の駅を降りたら、午前中に檜原街道で自転車レースが開催されるとかで、数馬へ向かう一番バスは途中の払沢ノ滝までの運行となっていた。
 仕方がないので、予定変更し、払沢ノ滝から浅間嶺を目指す浅間尾根コースに行くことにした。3年前に登っているけれど、そのときは曇りで、山の名前の由来となった「浅間」すなわち富士山は望めなかった。今日は快晴、見えるかもしれない。

20120909浅間嶺 002 払沢ノ滝は「日本の滝100選」に選ばれた東京都ではただ一つの滝である。4段の滝で、1段目の落差が26m、全段で全長60m。その形状が僧侶の払子(ほっす)を垂らした様に似ていることから、かつては払子の滝と呼ばれていた。
払子 バス停から滝へと続く沢沿いの小道が、なんとも気持ちよい。とくに今日は朝早いので、大気の新鮮なことこの上ない。人もいない。早起きして来た甲斐があった。途中にある郵便局らしき木造の建物が、周囲の緑と調和してこれまた粋である。
 この流れは、そのまま地域の人の飲み水になっているくらいきれいである。東京にもこんなところがあるのだ。水の旨さと来たら、えも言われない。
 滝壺で深呼吸とヨガ、しばらく瞑想する。
 30分ほどしたら、釣り人がやってきた。

20120909浅間嶺 004


 浅間嶺を目指す。
 かなり高いところまで民家がぽつぽつとある。眺望や静かさはいいけれど、買い物や通院や子供の登下校や通勤(農業ならまだしも)には不便だろうに・・・。
「かくてもあられけるよ。(現代語訳:「人はこういうふうにしても住むことができるものだなあ~)」
 昔習った『徒然草』の中の文句が口をつく。
 時坂峠の「峠の茶屋」のベンチで一服。あとから鈴を鳴らして登ってきた60代くらいの男性と挨拶する。
 沢沿いの木暗い道をゆるやかに登っていく。冷気が心地よい。
 整然と植林された杉の連なるつづら折りをひたすら登る。
 展望台(山頂)に到着!

20120909浅間嶺 007


 おお、富士山が見える!

 3年前のかたきは取った。ざまあみろ。(ってはしゃぐほどのことか)

20120909浅間嶺 011 展望台から少し下りたところに広い休憩所がある。芝の植えられた円形広場を取り囲んで、ベンチや東屋が並んでいる。ここで早い昼食にする。
 ここまで出会ったのは、さきほどの男性とカップル一組。やはり朝早いからか。

 思えば、昨夜は目が冴えて2時間しか眠れていない。30分ほどベンチに寝転がって仮眠する。

 さて、これからが楽しい尾根歩きである。
 浅間嶺から人里峠、一本松、藤原峠、檜原街道へと下る仲の平分岐までの標高900メートル、距離にして5キロほどの尾根歩き。
 と言っても、道は尾根のてっぺんを外して風をよけるようにコブを巻いてうねっている。周囲の杉の木立が高いので、残念ながら眺望はたまに木立が切れる場所でしか得られない。 
20120909浅間嶺 012 でも、そのおかげで9月にしてなお凄まじい日射から身が守られる。5キロめいっぱい直射日光にさらされ続けたら、身が持たないだろう。
 峠のあたりでは木々を抜ける風の気持ちよさに陶然とする。
 時刻は正午。
 真っ昼間は鳥も鳴かない。なぜか蝉も鳴かない。遠くからかすかに響いてくる車の往来と、木々のざわめきと、ぶんぶんと周囲を飛び交う羽虫たち。
 
 平和な時代に平和な日本に生まれて、五体満足で、山登りできるだけの知力と体力と経済力と休日と暇とに恵まれて、「へんぼ」な身の上に感謝せずにはいられない。
 あと何年、登れるだろうか?
 あといくつ、山を歩けるだろうか?

20120909浅間嶺 014 峠道らしく、その昔旅人が道中の安全を願った石仏があちこちに見られる。
 いつだって人々は「へんぼ」を願って生きてきたのだ。

 仲ノ平分岐から一挙に下山する。
 わずか30分で檜原街道に降り立つ、ほぼ直線に近い急降下である。
 ここでステッキが役立つ。
 
 数馬の湯・檜原温泉センターに入って、生ビールを飲んで、檜原特産じゃがいもの味噌づけを食べて、一日の行程を振り返る。

 へんぼ、へんぼ!

20120909浅間嶺 017




 

● 男のすなる介護といふもの 本:『俺に似たひと』(平川克美著、医学書院)

俺に似た人 2012年発行。

 子供が親を介護するとき、ジェンダー的に見れば4つのパターンがある。

① 息子が父親を介護する。(♂対♂)
② 息子が母親を介護する。(♂対♀)
③ 娘が父親を介護する。(♀対♂)
④ 娘が母親を介護する。(♀対♀)


 それぞれのパターンの介護の特質や良い面・悪い面、介護する者と介護される者との関係においてどんな特徴が見られるか、研究してみるときっと面白いだろう。(誰かもうやっているか?)
 もっとも、ジェンダーよりも、個々の家族におけるしきたりや環境、長年築かれた親子関係や個々人の性格と言った個別性のほうが、介護のあり方を決める主要な要素だという意見もあろう。杓子定規に4つの類型に分けて分析する必要など、そもそもないのかもしれない。いずれにせよ、多くの場合、介護する子供は介護する親の性を選べないし、逆もまた同じなのだから。
 それでも、この私小説というか介護記録を読んでいると、ジェンダーについて思いをはせざるを得ないのである。
 これは、上記①のパターン、息子(♂)が父親(♂)を介護し見取る物語である。

 『介護はプロに、家族は愛を』(石川治江著)という本の中に、「男は介護を仕事としてまっとうする」という言葉が出てくるが、まさに著者の平川克美が父親に対して行った介護は、たんたんと、合理的で、事務的で、日増しに悪いほうへと変化していく事態に対して最後まで感情に流されずに冷静に対応している、ように見える。それは、一身上に起こったかなり感情を揺さぶられざるを得ない体験を小説化するときに、あえて取った方法論、すなわち「文体」という戦略でもあろうが、やはり、男であり息子であり、加えて団塊の世代である著者は、「このようにしか書けなかった」=「このようにしか末期の父親と向き合えなかった」のではないかと思われる。
 それは、おそらく介護される男(=父親)のほうでも事情は同じであったろう。
 介護してくれる相手が、異性の妻であったり娘であったり、まったく血のつながりのない女性のヘルパーであったならば、この父親はまた別の顔を見せていたのではないだろうか。
 そういう意味で、「男」が「男」を介護することの戸惑いと限界とある種の潔さ(美学?)を感じさせてくれる。
 「父親」vs「息子」というロール(役割)、「男」というロールを離れて、両者が向かい合うことは最後までついに訪れなかった。
 男という生き物の不器用さに今さらながら胸を搏たれる。

 母親の急逝のあと、実家に一人で住む父親を「通い」でなんとか見守っていた著者は、次第に悪化していく父親の物忘れや歩行障害に同居を決意する。緊急入院、せん妄状態を経て、本格的な在宅介護の生活が始まる。しばらくは、男二人の平穏な日常が続き、著者は仕事と介護との単調な生活をたんたんとこなしていく。
 しかし、老衰は不可逆である。
 誤嚥性肺炎による再度の緊急入院を機に、父親は最後の転轍点を越えてしまう。医師に勧められるままに胃瘻の手術を行うも、二ヵ月後には息を引き取る。

 あっという間に衰弱していく父親の症状とそれに合わせ募っていく介護の負担の模様を客観的にたどりながら、そこを一番内側の円とし、著者の身の回りで起こる様々な変化―甥の結婚式、年若い同僚の死、著書がベストセラーになる、新しく始まった大学院の講義、母親の一周忌―を第二の円に、いわゆる「外界」で起きている大きな変化―アメリカ初の黒人大統領の誕生、民主党への政権交代、中東の春、東日本大震災、福島第一原発事故、高峰秀子の死、東京スカイツリーの完成―を一番外側の円に、「私ごと」と「世界」とを同心円状に描いていく。
 この構成が見事に成功して、もっとも私的で内向きな身内の介護の話が、それとまったく関係ないかのように勝手に動いている「外界」の変化と、奇妙な符牒を示す。「個」と「世界」とが深いところで浸透し合い、響き合っている様相は、橋口亮輔監督の傑作映画『ぐるりのこと』を想起する。橋口監督はこのテーマを意図的に狙ったのだと思うが、著者はどこまで意識的なのだろう?

 父親との介護の一年半、俺のなかで時間は停止していた。いや、正確には外界のニュートラルな時間とは別の、さまざまな感情に支配された濃密な時間のなかにいたというべきかもしれない。
 それは人知れぬ極めて個人的な時間であり、そうであるがゆえに切実な時間でもあった。そこで何が起きようが誰も振り向きもしないし、世界にはどんな影響も与えない。それでも、世界はこういった小さな時間の堆積であるほかないのだ。そのことを理解するまでに、ひとは多くの無駄な時を浪費し、難儀な経験を積み重ねなければならない。

 
 この本の今ひとつの面白味(という言葉は不適切であるが)は、高齢者を介護する誰もが時に襲われる無力感の本質、老いと死とをめぐる最も難解にしてタブーとされる疑問を正直に吐露している点である。

 体調が今以上によくなると見込めないことは、俺も父親も分かっていた。町会長に復帰することも、自分の足で歩いて動き回ることも、何か新しい趣味を始めることもできないのは明白だった。・・・・・
 これから先、何年生きていけるのか分からなかったが、そこに希望というものがほとんど存在しないことだけは、はっきりしていた。俺は、老いて、病んで、なおも生きるということの意味を考えないわけにはいかなかった。

 食事と入浴以外に、楽しみも興味もなくなって、ただ繰り返すだけの生活というものに積極的な意味を見出すことは、誰にとっても容易なことではない。

 いったい何のために、(胃瘻の)手術なんかしたのだろうと思う。
 俺もドクターも、何か重大なことを見落としているのではなかろうか。
 今の父親に対してすべきことは、もっと別のことであったはずではなかったのか。
 病を治すという行為に意味があるのは、あくまでも病の先に普段の生活が待っていることが前提である。あるいは、とりあえず緊急の危機から脱出するということ。しかし、このときの父親にとっての誤燕性肺炎や歩行困難やせん妄は、果たして「病」だったのだろうか。


 著者が感じたこの疑問は、しかし、奥底がある。
 それは、つまるところ、高齢者に限らず、ひとが生きることの根底には「生きることの無意味、無価値」が横たわっているという、峻厳たる事実である。ひとが生き甲斐や希望を必要とすることは、とりもなおさず、元来の「生」とは、「甲斐」も「希望」も存在しない、きわめてニュートラルな性質なものであることを如実に物語っている。
 個々のひとに限らない。人類や生き物が地上に存在することにも、意味も甲斐も価値もない。(意味や甲斐や価値を求めるのは、そもそも人類だけであるが・・・。)


 この小説は、また、人が人を理解することの難しさ、「男」が「男」を理解することの難しさを描いていて秀逸である。

 俺と父親との間には、何十年にもわたるわだかまりがあった。別にこれといった事件があったわけではないのだが、話をすると決まって最後は大きな声を上げ、やがてふたりとも黙ってしまう。俺は、政治信条も、思想も、宗教も、生活習慣も違うこの父親とは和解することができないのではないかと、どこかで諦めていたのだろう。
 しかし、一年半一緒に父親と暮らすなかで、以前は相容れなかったかに思えたことが、実は取るに足りないものであったこと、ものの考え方も性格もよく似ているということを思い知らされた気がした。


 結局、著者は父親と「和解」はしたけれど「理解」はできずじまいであった。
 その点で一つ気になるのは、この感動的な物語においてまったく主観的な経験としては触れられていない、著者と父親との間でまったく一言も会話が交わされていない大切な事柄が存在するということだ。
 それは何か。
 言うまでもない。妻の死、著者にとっては母親の死についてである。
 伴侶の突然の予期せぬ死のあと、たった一年半のうちに、父親は衰弱し亡くなったのである。傍から見たらどう考えたって、妻の死が呼び水になったとしか思えない。
 父親の最期を理解しようと思うのなら、なによりもまず、一足先に亡くなった妻との関係、妻の死をどう受け止めているのか、人生の伴侶を喪った心の空隙をどう感じているのか、が想像されなければなるまい。著者と父親との間で対話されなければなるまい。
 しかし、そこの記述がまったく見られないのである。
 意図的であろうか?
 いやいや、意図的に割愛するにはこのトピックは重要すぎる。

 思うに、著者自身が無意識に母親の死を封じ込めていたのではないかと思うのである。そうでもしなければ、続く父親の難儀な介護生活に立ち向かえるだけの気力が起きなかったのではなかろうか。
 2人の男、夫と息子が、二人して、もっとも大切なもの(妻と母親)の喪失に向き合うことを暗黙の内に避けていたとしたら、それこそが2人の男が最後に果たした共謀(共同作業)だったのかもしれない。

  
 この小説中、もっとも心がどよめいたくだり。
 危篤の知らせを受けて、著者は病院に向かって車を走らせる。

 これまで毎日のように病院へ見舞いに通っていたが、父親に会いたいと思ったことはほとんどなかった。息子としての義務を果たすように、あるいはそこに苦しむ父親がいたので、とにかく病院へ行く必要があるのだというくらいの気持ちであった。(太字:ソルティ)


 相手が母親だったらどうだろう?
 やっぱり、ジェンダーの影響力について思いをはせざるをえない。


● 映画:『イベント・ホライゾン』(ポール・W・S・アンダーソン監督)

 1997年アメリカ映画。

 SF(宇宙船もの)とオカルトが結合した異色作。
 こういう手があったか。

 7年前に処女航海で消息を絶った宇宙船イベント・ホライゾン号が、突如海王星近くに現れた。乗組員の救助と謎の解明に向かうルイス・アンド・クラーク号のクルー達は、同乗するウェア博士(サム・ニール)から驚くべき事実を聞かされる。
 イベント・ホライゾンは空間移動装置「コア」を搭載しており、宇宙空間を瞬時にワープすることが可能な船だった。だが、ワープは失敗し、船は別次元に入り込んでしまったのである。
 いったい、そこはどこか?
 そして、乗組員達はどうなったのか?

 いまや無人となったイベント・ホライゾン号に足を踏み入れるクラーク号のクルー達。
 自分たちが「地獄」から帰還した船の次なる餌食になるとはつゆも知らずに・・・。

 セットも特撮も水準以上。
 役者達も派手ではないが手堅い演技を見せてくれる。
 人間の秘められた欲望や弱みにつけこみ魂を乗っ取るというアイデアは、『惑星ソラリス』が元ネタであろう。それをオカルト風に脚色したところがユニークである。

 イベント・ホライゾン号の乗組員の最期が記録装置に残されていて、それをクラーク号のクルーが見るシーンがある。一番グロくて、恐ろしい、目を背けたくなるシーンである。
 ある意味、エイリアンよりずっと恐いかもしれない。エイリアンは外から来る敵だけど、こっちは人の心に潜む獣性だから。

 「地獄から自分自身を救え!」

 場所が宇宙だろうと、時が未来だろうと、オカルト映画にもっとも合う言語はラテン語である。
 悪魔もまた神をののしるのに、バチカンの公用語を使う。


評価:C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!






 

● 本:『沈まぬ太陽』(山崎豊子著、新潮文庫)

沈まぬ太陽 2001年刊行。

 久しぶりの長編小説にして、はじめての山崎豊子。

 う~ん、さすが七百万部を超えるベストセラーだけあって、息もつかせぬ面白さ。一気呵成に読み上げてしまった。
 面白さの主因は、虚実皮膜というか、「どこまでが事実で、どこからがフィクションなんだろう?」と、好奇心をそそられるところにある。
 文庫本の但し書きにはこうある。

 この作品は、多数の関係者を取材したもので、登場人物、各機関・組織なども事実に基づき、小説的に再構築したものである。

 と来れば、多くの登場人物にモデルとなった実際の人物の存在を想定するし、エピソードのかなりの部分が実際にあったことなんだろうなあと思うのが道理である。悪く書かれているキャラクターや組織のモデルとなった人物・団体は黙っていないだろうなあ~、とか思うわけである。
 実際、この小説を連載していた『週刊新潮』を、日本航空は機内に置かなかったという。


 何と言っても白眉は第三巻の「御巣鷹山篇」。

 1985年8月12日に遭った日航ジャンボ機123便墜落事故の一部始終が、迫真の筆致と、胸をえぐられるような慟哭の基音をもって描き出されている。嗚咽せずに読むのが難しかった。
 乗員乗客524名のうち死亡者520名という、未曾有にして最悪の航空機事故を起こした背景に潜むのが、親方日の丸に依存していた日本航空(作中では「国民航空」)の腐りきった企業体質、いびつすぎる労務管理、政財界との癒着によって甘い汁を吸うことばかりに汲々とし利益追求の旗の下「安全」を二の次にした幹部のつける薬もない無能さ、こうした企業風土の中で疲弊し低下していく社員の士気、であったことをこの作品は暴き出していく。
 中小企業ならこれを機に会社がつぶれても仕方ないほどの、大きな、社会的インパクトのあるこの悲惨極まる事故を起こしたあとですら、日本航空(作中では「国民航空」)は自浄能力を発揮することができなかった。
 登場人物の一人が、その有様を「末期ガン」と表現しているけれど、利権と既得権と賄賂と便宜と天下りと政治的駆け引きと権謀術数と嫉妬と裏切りとが渦巻く、まさに魑魅魍魎の世界がそこには広がっていたのである。
 ううっ、気持ち悪い。

 世の中きれいごとだけでは通じない、清き流れに魚澄まず、というのはいっぱしの社会人なら誰でも理解しているけれど、巨悪のやることはほんとうに常軌を逸している。
 食欲、性欲、物欲・・・・欲にもいろいろあるけれど、権力欲に勝る危険なものはあるまい。他の欲は個人のレベルでおさまるけれど、権力欲は社会を滅ぼしかねない。 とりわけ、それが国(政治家)と結びついた時は自浄能力が期待できないだけに恐ろしい結果となりうる。

 JALと東電は双子のようだ。
 2012年の「沈まぬ太陽」とは原子炉のことである。


 くわばら、くわばら。



● 映画:『唇を閉ざせ』(ギョーム・カネ監督)

 2006年フランス映画。

 8年前の満月の夜、湖畔で殺されたはずの妻が生きている!?
 
 その謎を解き、今なお忘れがたい妻マルゴ(マリ=ジョゼ・クローズ)との再会を夢見て、アレックス(フランソワ・クリュゼ)は過去の事件の再調査を始める。
 しかし、それを阻むかのように事態は様々な人を巻き込んで錯綜化し、関連した人物が殺害され、アレックスは容疑者として警察に追われることになる。
 一体、8年前の晩に何が起きたのか? 真犯人は誰なのか? マルゴは生きているのか? そして事件の真相は?

 骨太のよくできたミステリーである。
 130分という長尺であるが、ストーリーに緩急あって、飽きることなく最後の意外な結末まで観る者を運んでくれる。
 役者もみな魅力的。
 アレックスの姉の一人がレズビアンで、恋人との仲睦まじげなシーンが出てくるが、それがまったく自然である。家族の誰一人とて、そんなこと問題にしていない。さすが個人主義の国フランス。日本のドラマはいつになったら、ゲイやレズビアンを色物扱いせず、隣に住む市井の人として登場させることができるのだろう? 現状を反映しているのだとしたら、当事者のカミングアウトが足りないからなのか?

 地方の名士の息子役として、監督自身も出演している。若くてハンサムである。


 この映画が気に入った人には、『瞳の奥の秘密』(ファン・ホセ・カンパネラ監督、2009年、アルゼンチン)もオススメしたい。




評価:B-



A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

● 映画:『サイレント・ランニング』(ダグラス・トランブル監督)

 1972年アメリカ映画。

 なんだか英語教材のようなタイトルであるが、サイレント・ランニングとは「潜水艦が攻撃を避けるためにソナーで所在をつかまれないよう、音を立てないで行動すること」を言うらしい。
 映画に出てくるのは潜水艦でなく宇宙船であるが、このタイトルが果たしてストーリーにふさわしいのかどうか疑わしい。
 ぶっちゃけてB級である。

 『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『スタートレック』、『ブレードランナー』という錚々たるSF傑作群の特撮を手がけたトランブル監督だけに、特撮技術は見事なものである。(ただし船体内のセットはちゃちさが目立つ。)
 宇宙空間にあたかもエデンの園の如く浮かぶ花と緑と泉の楽園というアイデアも秀逸である。この童話的な感覚と色彩はどこかで経験したと思ったが、調べてみたら、この監督の父親ドン・トランブルは『オズの魔法使い』(ヴィクター・フレミング監督、1939)の特撮スタッフだったと言う。とすると、主役フリーマン・ローウェル(=ブルース・ダーン)は、故郷に帰れなくなったドロシーか・・・。なるほど、ジョーン・バエズの挿入歌Rejoice In The Sunは、名曲Over The Rainbowを歌うジュディ・ガーランドの夢見るような、どことなく切ない歌声に重なる。この映画は、ダグラス・トランブルが父親へ捧げるトリュビュートなのかもしれない。
 宇宙船での生活において、なくてはならない人間のパートナーとして「ドローン」と呼ばれるランドセル型ロボットが出てくるが、その不格好なさまとぎくしゃくした動きがかえって愛らしく、微笑ましい。『スターウォーズ』のR2D2の先駆けであろう。
 ロボットをのぞけば、登場人物たった4人で、うち3人を残る一人が殺してしまうので、途中からブルース・ダーンの一人芝居となる。とりたててハンサムでも魅力的でもないが、存在感のある役者である。自身が創造した花園でベージュのローブをまとって、鷹だか鳶だか鷲だかを腕に留める立ち姿は、モーゼかノアを連想させる。

 魅力的な要素がたくさん詰まった作品であるが、脚本が今ひとつ面白くない。地上では消滅した緑と生態系を、仲間の命を奪ってまでも守り抜きたいというフリーマンという人物を、性格異常者として描きたいのか、人間性の最後の光として宇宙空間に放ちたいのか、描き方があいまいである。
 うがった見方をすれば、There is no place like home.(我が家にまさるところなし)がキーワードであった『オズの魔法使い』の30年代から、ベトナム戦争を経て、帰りたい心の拠り所としてのhomeを見失った70年代への変遷が隠れたテーマなのかも知れない。


評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 
 

● 本:『新ホスピス宣言 スピリチュアルケアをめぐって』(山崎章郎、米沢慧対談)

新ホスピス宣言 著者の山崎章郎(ふみお)は、ホスピス医としてターミナル(末期)の患者が自宅で療養できるように訪問診療している医師である。
 と同時に、特定非営利活動法人コミュニティケアリンク東京の理事長として、東京都小平市に、「広く一般市民を対象とし、がんなどの終末期にある方や高齢者の方など地域社会で様々な困難に直面している人々を支援し、医療、福祉、教育等の事業を通して安心して住み続けることの出来る地域社会づくりに寄与すること」を目的に、訪問看護ステーション、ヘルパーステーション、宅介護支援事業所、デイサービス、賃貸住宅、クリニック等が集合したケアタウン小平を開設、運営している。
 日本のホスピスケアのあり方を模索し、提言し、行動し続けるパイオニア的存在である。


 そもそもホスピスケア(緩和ケア)とは何か。
 日本ホスピス緩和ケア協会によると、「治療不可能な疾患の終末期にある患者および家族のQOL(Quality Of Life=生活の質)の向上のために、様々な専門家が協力して作ったチームによって行われるケア」である。あまり具体的でない。というかぶっちゃけ、まったく中味のない定義である。「死にそうな人をチームで支える」なんて、なんの目新しいこともない、当たり前の話ではないか。
 これに対し、山崎はこう定義する。
「様々な専門家やボランティアがチームを組み、自力だけでは自立(自律)することや、自分の尊厳を守ることが難しくなってしまった人々の、自立(自律)を支え、尊厳を守り、共に生きること。」
 自立(自律)、尊厳、共生―この3つのキーワードがホスピスケアにとって重要だと山崎は主張しているのである。

 では、上記のキーワードに基づいて展開されるホスピスケアとは具体的にどのようなものなのか。
 山崎はまず「痛みをコントロールすること」の重要性を声を大にして訴える。
 

 緩和ケアの領域では、がん性疼痛の除痛率は90%なのに、一般の病院や大学病院では痛みを取る割合が、まだ50%以下なんです。(山崎)
 
 がんの痛みで、方法はあるのに取れていないのなら、それは取らないほうが悪いんだということを明確にしていく。それはもう犯罪と同じことなので、たとえば患者さんたちに「痛みがとれなかったとしたら、医師を訴えてください」と言っていく。法廷の場で争っていくなら、私が原告側の証人になってもいいと思っています。(山崎)


 身体上の痛みをコントロールできて初めて、末期にいる患者はスピリチュアルな痛み(ペイン)を訴えることができる。スピリチュアルペインに対して行うスピリチュアルなケア、それこそがキリスト教圏で発達したホスピスケアの面目躍如たるところなのである。
 では、スピリチュアルペインとは何か。

 

 スピリチュアルペインは、身体的、社会的、精神心理的な痛みはみんなはぎ落とされてしまって、存在自体がスピリチュアリティそのものとしてむき出しになってしまった段階ということになります。(米沢)


 患者さんたちがスピリチュアルペインを感じるのは、死が近いことだけではなく、むしろ衰弱した結果として、自律した尊厳ある存在としての自分の日常生活が破綻したことに起因することが多いのです。・・・・
 決定的だなと思うのは、自力でトイレまで行けなくて、途中で失禁してしまったりすることです。(山崎)



 一言で言うならば、「アイデンティティの危機」ということになろうか。
 これまで何十年とかけて築き上げてきた「自分」という存在が、意味を失い始める局面である。
 そして、この局面にいたって初めて、人はスピリチュアリティに目覚めるという。
 関西学院大学神学部の窪寺俊之氏によると、「スピリチュアルペインに至るのは、スピリチュアリティという人間の持っているもう一つの機能が目覚めるから」「スピリチュアリティは、いろいろな困難に直面してしまってどう生きていいか分からないときの意味づけについて、たとえば神や自然などの自分以外の大きなものにそれを見つける機能であり、自分の内面の中にそれを求めていって、この状況で生きる意味を自分なりに見つけていく機能」だそうである。
 であるから、患者の持っているスピリチュアリティが適切に機能するようにサポートすることが、スピリチュアルケアということになる。

 では、ホスピスの現場で具体的なスピリチュアルケアとはなんなのだろう?

 

 身体衰弱の結果、自立した生活が破綻してきたときに、意味を見つけられなければ、「早く死にたい」と言うことになります。しかし、日常の具体的なケアを誠実におこなっていくことで、かつ並行しておこなわれる傾聴を中心としたケアを継続していくことで、もう死にたいとは言わなくなってくる人が多いんです。状況が悪化しているにもかかわらず、「早く死にたい、生きる意味が感じられない」という表現が消える。(山崎)
 
 「傾聴」の大切さは誰にでも分かる。カウンセリングの基本は「傾聴・共感・受容」である。それが、クライアント(患者)のスピリチュアルペインを癒す手助けとなることは理解できる。もっとも、本当に傾聴できる人は滅多にいないものだが・・・。
 一方、「日常の具体的なケア」とは、排泄・入浴・食事・移動・更衣などの一つ一つの介助のことを指す。それを誠実に行うこともまたスピリチュアルケアの重要な一部だと言っている。
 これは、介護職に就いている自分にとって目から鱗であった。
 もちろん、普段から丁寧な、かつ利用者に負担を感じさせない介護をしようと心がけてはいるが、それは利用者のQOLを高める為、あるいはADL(Activities of Daily Living=日常生活動作)の幅を広げる為という意味合いが強かった。こちらが誠実な介護をすること自体が、利用者のスピリチュアルケアにつながる可能性を持っているとは!
 実を言えば、介護の仕事を始めたはいいが、あまりの業務の忙しさで利用者の話を聴く時間さえ取れないという本末転倒ぶりに幻滅していた矢先であった。上記のことが本当であるならば、できる限り丁寧な介護をしていきたいと思うのである。

 死が近かろうが近くなかろうが、いまの現実のこの自分を受け入れられる人は、その大事な状況を受け止められるようになるんです。つまり、それまでの自分から考えると、とても耐え難いような惨めな状況になっても、いまを生きる意味を見つけられるステージに立てると思うわけです。・・・・・
 その人にとっていまを生きていることに意味を感じられれば、いつ死ぬかはあまり問題でなくなってきます。(山崎)


 スピリチュアルペインを脱した患者の多くは、死後について語り始めると言う。スピリチュアルケアはまた、患者が自由に死生観を語れる雰囲気をつくることである。
 死んだらどうなるのか。天国や地獄はあるのか。一足先に亡くなった愛する人々と再会できるのか。生まれ変わりはあるのか。・・・・・
 死ぬことを受け入れた患者が抱くいろいろな疑問や希望に付き添っていくのである。
 この部分は、日本のホスピスケア(緩和ケア)に決定的に不足している部分であろう。
 欧米のホスピスには必ずチャプレン(牧師、神父、司祭、僧侶などの聖職者)がいる。固い信仰を持ち、苦しんでいる人の話を聴く訓練を受けたチャプレンは、患者達の死への不安や恐怖を受けとめ、患者の死生観・死後観に付き添い、安らかな気持ちで最期を迎えることをサポートする。
 ここは医療が宗教にバトンタッチされる場面、あるいは医療と宗教が共生する場面なのだ。
 医療と宗教との共生がこれからの日本の緩和ケアの最も大きな課題であろう。
(→ブログ記事医療と宗教のかかわり参照)

 

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