ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 講演:「人生はつらいことだらけだけど」(演者:アルボムッレ・スマナサーラ)

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センターにて。

 講師のアルボムッレ・スマナサーラは、スリランカ出身の上座仏教(テーラワーダ)長老である。
 『怒らないこと』(サンガ)、『心がスーッとなるブッダの言葉』(成美文庫)などのベストセラーを含む膨大な数の著書がある。押しも押されもせぬ日本の上座仏教界のリーダー的存在、というか今や日本人の精神的指導者の一人と言ってよいだろう。
 300名定員の会場はほぼ満席であった。

 今なぜスマナサーラ長老がこれだけ人気を集めるのか。今なぜ上座仏教なのか。

 会場に集まった一人一人に、それぞれの理由と求めるものがあるのだろう。
 だが、共通しているのは、既成の仏教教団(いわゆる大乗仏教系)では飽き足らないものを感じていること。かといって、キリスト教やイスラム教は文化基盤があまりに違いすぎる。近代以降の新興宗教は、統一協会やオウム真理教の事件以降、どうしても「うさんくさい」感じをぬぐいきれない。でも一方で、心の拠り所はほしい・・・。
 そこへ颯爽と現れたのが、スマナサーラ長老であった。

 もっとも、上座仏教自体は、明治時代に主要な経典が翻訳され研究されるようになっていたし、母国で上座仏教を信仰する在日のタイやミャンマーの人々を中心として、各地にお寺やサンガが存在してはいた。
 しかし、広く一般の日本人に紹介され、浸透するきっかけとなったのは、やはり、すぐれた語学力と他文化理解のセンスを持ち、スピーチ能力に長け、カリスマ性を宿すスマナサーラ長老の来日(1980年)、そしてその教えを広めるべく、1994年に日本テーラワーダ仏教協会が設立されたことが大きいだろう。

 「1994年」という年は、もしかしたら、第2の仏教伝来の年として、将来の歴史教科書に掲載されるかもしれない。そのくらい、大乗仏教と上座仏教は、別物なのである。

 近代化の進む中、廃仏毀釈して国家神道への道を歩み出した日本人は、敗戦で「神」を喪った。その後、「金」という神様に乗り換え、経済復興を果たしたけれども、バブル崩壊でその信仰も潰えてしまった。そこへ起きたのがオウム真理教事件であった。これで、決定的に宗教は「禍々しいもの」「うさんくさいもの」に堕ちてしまった。
 もはや特定の宗教を信仰していること自体が、他の人には大っぴらには言えないような「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ信者」にされてしまったのである。何を信仰するか、あるいは信仰を持つ持たないの是非は別として、これは国際的には異常なことといっていいだろう。
 そうして、隠れ信者以外の多くの日本人は、確かな宗教的基盤を持たない存在の相対性の不安の中に置かれることになった。鬱や統合失調やパニック障害など、2000年以降の日本人の精神疾患の増加はこれを抜きにしては考えられないと思う。
 そこへ不意打ちしたのが、今回の震災・津波・原発事故である。

 上座仏教は、希望や目標を失い暗い森をさ迷う日本人に、新たな希望の光を、足場とする確かな梯子を与えてくれるのだろうか?

 スマナサーラ長老は言下に否定する。
「夢や希望を持つこと自体が大きな間違い」
「夢や希望という幻想と、現実とのギャップが、不満・落ち込み・怒り・妬み・憎しみ・失望・嘆きの原因」
仏教は信仰ではない。論理的で実践的な心の科学。仏教は理解し、実践するもの」
「生きることに意味はない。存在というのはもとから無価値」

 1500年の歳月を経て、我々日本人がはじめて知った仏教の真髄、お釈迦様の言葉は、想像を遙かに超えたとてつもない言説のオンパレードであった。
 それは、コペルニクスも真っ青の、存在意義の大転換を我々に迫る。
 これだけの哲学(哲学と言っていいのかどうかはわからないが)は、空前絶後だ。19世紀の西洋人が仏教を理解できず、「虚無の信仰」と怖れたのもまったく頷ける。

 果たして、どれだけの日本人が仏の教えを理解し、実践し、納得し得るだろうか?
 正直、まだ自分はその衝撃を受けとめ切れていない。
    

テーラワーダ仏教協会のホームページは
http://www.j-theravada.net/


2012秋の関西旅行 002

● CGを蹴散らすホプキンズの凄さ 映画:「ザ・ライト~エクソシストの真実」(ミカエル・ハフストローム監督)

 2011年アメリカ映画。

 観始めて20カットくらいで、「ああ、これはいい」と思わず声を上げた。

 アメリカ映画であるが、舞台のほとんどはイタリア。バチカンのあるローマである。
 そのせいだろうか、フィルムの感触がアメリカ映画というよりイタリア映画、エットーレ・スコラやヴィットリオ・ストラーロを思わせるような艶やかで上品なタッチと色彩感覚。目立たないけれど、切れ味のいいカメラワークもすばらしい。

 実話を基にしたというストーリー自体はそれほどユニークなものではないが、脚本もセリフも洗練されているし、主役の青年(コリン・オドノヒュー)の演技も的確で、顔も姿も良い。父親役にルドガー・ハウアーを持ってくるという念の入り用。
 この監督、ただものではない。


 アンソニー・ホプキンズについてはもうなにをかいわんや。
 ハンニバル・レクターという映画史上屈指の悪役にして難役を演じきったあとには、悪魔に取り憑かれる神父(エクソシスト)の役など赤子の手をひねるようなもの。(物語で実際にひねったのは自分の手であるが…。) 
 前半の、顔の皺一本一本に信仰生活の垢がこびりついているような、老獪にして、どこか憎めないイタリア親父くさいエクソシストぶりも達者を感じさせるが、後半、ほんの心の隙間から悪魔を呼びいけてしまったあとの凄まじい変貌ぶりは、やはり「サー」(爵位のこと、愛ちゃんの気合ではない)に恥じない名優というほかない。


 クライマックスの青年v.s.悪魔のバトルにおいて、なんとも驚異を覚えるのは、ホプキンズの演技で最も怖いシーンが、この種の悪魔祓いものに欠かせないCGを使った顔の毒々しい変化や有り得ないような体のねじれ、下品で醜怪な言動の炸裂する部分ではなくて、いったん大人しくなった悪魔=神父=ホプキンズが、何もしないで椅子に座ってこちらを睨んでいる、その姿から漂ってくる何とも言えない汚れた気配なのである。ただ椅子に腰掛けているだけで、ここまでの邪悪さ・淫蕩さ・剣呑さ・不気味さを感じさせる演技が可能とはまさに「神がかって」否「悪魔がかって」いる。これに匹敵しうるのは、『シャイニング』のジャック・ニコルソンか、『ガラスの仮面』の月影千草くらいだろう。

 この凄まじい憑依のリアリティがあればこそ、信仰への迷いのあった主人公の青年は悪魔の存在を確信し、ひるがえって神の存在をも確信するに至るのである。
 悪魔は、神の存在と優越性を人間に信じさせるための、なくてはならない神の一部なのである。アメリカと悪の枢軸国みたいな関係だ。


 それにしても、ポプキンズはいつからあんなにイタリア語がペラペラになったのだろう? 何かが取り憑いているとしか思えん。やはり。


評価: B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 本:「介護の現場で何が起きているのか」(生井久美子著、朝日新聞社)

介護の現場で何が起こっているのか 著書は朝日新聞の記者。朝日新聞に連載していた記事をもとに加筆訂正したとある。
 発行は2000年。まさに介護保険導入(2000年4月)にあわせた現場報告である。

 もうすでに導入して11年経つので、介護現場もいろいろと変化しているだろ。この本に書かれている内容も、統計数字はもちろんのこと、部分的には古くなっているだろう。にもかかわらず、今でもこの本は価値をまったく失っていない。
 それは、介護保険導入以前と以後とでの介護現場の変化が、現場での取材と介護を受ける当事者やその家族の声を中心に赤裸々に描かれているからである。今ある介護の「当たり前」や「常識」がもとからあったものではなく、当事者や家族の悲惨な体験の数々と、理解者の少ない現場でそれを変えていこうと孤軍奮闘してきた一握りの医療・介護関係者の熱い思いと行動力、それに行政担当者や政治家らの機敏な動きなどがあってはじめて成り立ったものであることを、この本はまざまざと教えてくれる。
 そのことを知ることは、介護保険導入後に介護に関わった人々やこれから介護に関わる人々―介護を受ける当事者、家族、介護の仕事に携わるもの(自分もその一人)、行政関係者―にとって、非常に役立つだろう。なぜなら、人が年を取るとはどういうことか、介護とは何か、人権とは何か、人間の尊厳とは何か、ということを、この変化の過程を理解することで学ぶことができるからである。
 それは、この本の各章のタイトルを見るだけでも得心がゆく。

第一章 チューブはやめて ~介護とリハビリの現場で
第二章 「縛らない」介護をめざして ~介護保険で原則禁止に
第三章 付き添いは消えたか
第四章 新しい風 ~ここまで変わった家族、支える人々
第五章 介護保険がやってくる
第六章 介護保険がやってきた 

 チューブによる栄養補給から口から食べることへ。
 寝たきり(寝かせきり)から自立歩行へ。
 拘束具を用いた抑制からの解放。
 付き添いさんの廃止。
 家族(特に女性)の仕事から、地域や社会の責任へ(介護の社会化)。

 本当にここ20年で介護をめぐるパラダイムは変わったんだな~と実感する。

 これまで介護を必要とする親族が周囲にいなかった自分の頭の中にも、テレビドラマや小説などでインプットされた昔ながらの介護のイメージが残っている。それを払拭しないといけないと思った。

 付章では介護の先進国であるドイツとデンマークの例を紹介している。
 とりわけ、デンマークは「いたれりつくせり、but自立心を奪わない」が徹底していて、此彼の違いにため息が出る。安心して、歳を取ること、病気になること、愛する人(夫婦や男女間でなくとも)を介護すること、そして看取ることができる社会的な合意と仕組みができている。そこには当然、高い税率に対する国民の納得が背景としてある。教育費、医療費、年金、介護費、失業したときの手当て。こうしたベーシックな部分での行政や国家によるインシュアランス(保障)は、国民に安心感と国への信頼をもたらす。「将来のまさかのために貯金をしなくても良い」という言葉がそれを物語っていよう。
 なんという大人社会であろうか。


 デンマーク、フィンランド、ノルウェー、オランダ・・・。
 北欧国家の多くがなぜ高福祉を実現できたのか、その根底にある歴史性と国民性とはなんなのか。ちょっと調べてみたくなった。


● 魂の殺人 映画: 「白いリボン(Das weiße Band)」 (ミヒャエル・ハネケ監督)

 2009年オーストリア・ドイツ・フランス・イタリア制作。

 ハネケ監督が1997年に撮った『ファニー・ゲーム』ほど、気味が悪く、後味の悪い映画はそうそうない。比肩できるのは、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』くらいか。どちらも若者の常軌を逸した歯止めない暴力を描いているのだが、見終わった後の落ち着かなさの一番の理由は、暴力行為の動機がわからないまま、観る者に示されないままに終わるところにある。
 『ファニー・ゲーム』では、縁もゆかりもない休暇中の家族を無目的に襲う二人の青年が、一見、礼儀正しく、白い上下の清潔感漂う「いいとこのお坊ちゃん」風の美青年であるだけに、その残虐性は一層恐ろしく、観るものの理解を超えた不気味さがあった。未見であるが、ハネケ監督は、同じストーリーを自らリメイクしているくらいだから、このテーマや設定によほど惹かれるものがあるのだろう。
 この二人の美青年の関係性はなんなのか? いったい、ハネケは何を表現したいのか? 
 気にはなったが、あまりの後味の悪さをひきずって、それ以後の作品は追っていなかった。

 『白いリボン』は、その回答編と言えるのかもしれない。


 この映画を観てすぐに頭に浮かんだのは、今や古典とも言える心理学者アリス・ミラーの『魂の殺人』である。
 ミラーは、豊富な臨床経験と研究をもとに、幼児・子供時代に親やその代理者から受けた暴力と、そこから逃れるすべがないために抑圧せざるを得ない屈辱や悲しみが、その子の人格形成に深甚な影響を与え、長じてから、何らかの機会があるとそれが表面化し、他者や社会に対する暴力へとつながる。その際とくに暴力の対象となるのは、抵抗される心配がなく、その行為を「しつけ」として正当化しうる自分の子供である。ということを、生涯にわたって指摘し続けたのである。
 そして、無垢なる子供の人生をその出発時点において徹底的に破壊し尽くしてしまう、大人の暴力を「魂の殺人」と呼んだのであった。

 ウィキペディア「アリス・ミラー」から引用する。

 ミラーは、ヒトラーとその支持者を注意深く観察し、ナチズムが子供への暴力の一つの表現であると考える。というのも、ヒトラーの世代が子供だったころ、シュレーバー教育に代表される非常に厳格で暴力的な教育方法がドイツに広がっており、子供たちは家庭でも学校でも激しい暴力に晒されていた。ヒトラーも父親から日常的な殴打を受けて育っており、彼の政策は自分が受けた暴力を、全人類に対して「やり返す」性質のものであり、ドイツの多くの国民も、そのような政策を自分自身の衝動に一致していると感じて、支持したのではないか、としている。

 まるで、この文章を骨子にして『白いリボン』のシナリオをつくったかのようである。

 あとは、ドイツ映画のルーツ(カリガリ博士、ノスフェラトゥ)を思い起こさせるようなモノトーンの抑圧的な映像、長尺を感じさせない巧みな語り口、確かな人物造型とそれに的確に応えた役者たちの演技(特に、牧師とドクターと助産婦の3人は甲乙つけがたい)、カンヌグランプリもむべなるかな。(獲りに行ったという感じがしてしまうのが、ちょっと減点かな。)
 鑑賞者は、真相の暴露と悲劇的な決着への予感を抱きながら、いつの間にやら、瀑布に向かってゆっくりと流れを運ばれていく船に乗せられてしまう。ひたひたと船底を洗う水の音を聴きながら、破滅のときを固唾を呑んで見守るほかない。その怖さたるや・・・。

 今や、なぜ『ファニー・ゲーム』の青年たちが白い服に白い手袋をはめていたのか明らかである。

 白は、ハネケにとって、無垢と抑圧の象徴なのだ。あの村の子供たちが成長した姿こそ、『ファニー・ゲーム』の青年たちだったのである。牧師の黒いガウンに、これ見よがしに、眩いほどに輝く白い襟こそ、プロテスタンティズムとファシズムをつないだ絆(Band)なのである。

 しかるに、それが判明したからといって、少しも不気味さはなくならない。後味の悪さはいっこうになくならない。
 なぜなら、子供たちの抑圧された感情は、数年後にファシズムとなって表面化し、何百万ものユダヤ人、障害者、同性愛者への迫害となって昇華したのであるから。
 そしてまた日本もまたドイツと同じ穴のムジナであるに違いないのに、このように芸術の域にまで高められる自己省察をついに果たし得なかったという、不可思議な事実を思い起こすからである。

 


評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● この秋おススメ! 水上バスで隅田川散歩

 「東京タワーにのぼったことがない」と言う東京出身者が結構いるように、大阪生まれの人は通天閣に、名古屋生まれの人は名古屋城に、函館の人は五稜郭に、那覇の人は首里城に、網走の人は網走刑務所に、行ったことのない人が多いのであろうか?

 「近いからいつでも行ける」
 「いつも見ている風景なので目新しさを感じない」
 だから、わざわざ行ってみようと思わないのかもしれない。
 以前、仕事で大阪に行ったとき、ぽっかり空き時間ができたので、心斎橋をウロウロしていたら、「とんぼりリバークルーズ」という看板が目に入った。天気も良かったし、水の都と言われた大阪を実感するのも面白いと思って、ビール缶片手に乗り込んだ。同乗者は、見事、地方からの観光客と中国人グループであった。川風は気持ちよく、行く手をさえぎるもののない開放感を味わいながら、道頓堀から見上げる浪花の街はすこぶる面白かった。

 東京では隅田川クルーズが有名である。特に、桜の頃や花火の時期はとても賑わっている。
 しょっちゅう、総武線で渡って眼下に見ている隅田川だが、ここもまた東京タワー同様、わざわざクルーズしてみようとは思わない、都会の遊びの盲点となっていた。

 来月から始まる介護の学校の入校説明会が両国の江戸東京博物館であった。
 会場となったホールの隣りでは「世界遺産ベネツィア展」をやっていた。そのポスターを見ているうちに、20年ほど前に訪れたベニス(と言ったほうがピンと来る)の風景が浮かんできた。それが文字通り「呼び水」となった。説明会が終わり両国駅に向かう途中、「東京水辺ライン」と大きく書かれた看板を目にしたら、ふらふらと乗船場のほうに足が向いていった。時刻表を見ると、ちょうど15分後に本日最後の便が出る。天気も最高。風もない。ついにやってきたか、この機会。
 隅田川デビューとあいなった。
 
 運行ルートは両国を出発して東京湾へと向かう。レインボーブリッジを前方に眺めながら浜離宮で着岸。そこからUターンして今度は流れをさかのぼる。両国をいったん通り過ぎて、浅草まで遊覧して、またUターンして両国に戻ってくる。約1時間の船旅。
 複数のルートが用意されていて、一番長いので乗船時間7~8時間というのもある。船酔いする人にとっては拷問のようなものだな。
 
 自分が乗ったときは、まだ周囲は明るく、秋の空は青く澄み渡り、川面はキラキラと照り輝いていたが、帰路ではビルの谷間に陽は落ちて、西の空はほんのりオレンジに染まり、林立するビルの黒いシルエットを浮き立たせていた。
 なんと、行きの客は自分ひとり、帰りは浜離宮でもう一人乗っただけであった。(公益財団法人が運営。仕切られないといいですね~)
 
 ベニスほどではないにしても、水上から見た夕暮れの東京は一見の価値あり。
 中州に蜃気楼のように、あるいはボウリングのピンのように立ち並ぶビル群の、シュールな姿。
 13もの、色も姿も大きさも材質も異なる橋が、入れかわり立ちかわり目前に迫ってきては、遠ざかって、風景に吸い込まれて行く。
 遊覧船、作業艇、行き違うほかの船たち。
 帰りの乗客を満載し、いままさに鉄橋を渡る総武線。
 陸上で見るのとはまた趣きの異なる両岸の風景。高速道路や企業広告でさえ、なんだか遊園地のアトラクションのように見え、本来の役目とは違った顔を見せてくれる。
 
 気持ちの良い、心躍る、いっときの船旅であった。
 

●橋づくし
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●すれ違う船舶

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●広告たち

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●東京タワーとスカイツリー

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●川岸の風景

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● いのちのダンス、色彩の舞踏 ギャラリー:AKI新作絵画展

aki 001 銀座ギャラリー・ノアで開催中のAKI新作絵画展に行った。

 AKIさんは1987年東京生まれの24歳の青年。軽度の知的障害を持ちながら、自由な感性でアートに挑戦している。海外にも作品を出展し、高い評価を受けているほか、日本全国で個展も開いている。サンマーク出版から絵本も出している。

 AKIさんのおとうさんである木下昭さんは、若者へのエイズ啓発にも関心が高く、オカモトと交渉してAKIさんのイラスト入りコンドームを数万個制作したほど。おとうさんは仲間たちと一緒に、あちこちの行政を訪問してコンドームを配布してくれるよう依頼したが、引き受けてくれたところは本当にわずかだったと言う。
 エイズ教育・性教育に対する行政や学校のおよび腰は今に始まったことではないが、東京では一日4人を超えるペースでHIV感染は広がっているというのに、大人たちは若者を見捨てるのか・・・。
 木下さんとAKI親子とは、このエイズの啓発活動が縁で知り合ったのである。


 AKIさんの絵は、見るたびにビックリする。
 なんといっても色遣いが凄い。こどものお絵かきみたいな可愛いらしい動物や植物や昆虫などが仲良く共生しているキャンバスから、プリズムで分割された色のすべてが放射されているかのように、あらゆる色がひしめきあって、踊っている。100色のクレヨン箱にあるすべてのクレヨンを使おうと楽しんでいる子供のようである。
 でありながら、どの色も決して自己主張していない。どの色も形態を破壊していない。過剰でありながらうるさくない。豊穣というべきか。

 お父さんの話では、AKIさんは3月の震災以後、しばらくパニックに陥っていたのだそうだ。家の中にいられずに、しばらく車の中で生活していたという。いのちに対する共感力、周りの人々の感情に対する共振力が強いのであろう。

 今回の個展では、震災後に描き始めたAKIさんの絵が中心に出ている。震災前に見たときより、色も動きも爆発している、踊っている、と思った。
 いのちのダンス。

 それにしても、どうやってこの色遣いが可能なんだろう? 
 色彩のバランスをどう意識しているのだろう?
 もしかして・・・。
 
 会場にいたAKIさんに訊いてみた。
 「AKIさんの目には、こんなふうに色が見えているんですか?」
 間髪も入れずにAKIさんは答えた。
 「そうです。」

 やっぱり。

 色遣いを考えているのではなく、ただ自分の目に見えた通りを描いているのだ。


aki 002

 AKIさんの作品はホームページでも見ることができる。
 
 http://www.life-aki.com/index.html


● 麗しきニコール 映画:「インベージョン」(オリヴァー・ヒルシュビゲール監督)

 2007年アメリカ映画。

 お気に入りのニコール・キッドマンが主演しているのでレンタルしたはいいが、「もしかしたら前に借りているかも・・・」という一抹の不安。
 最近はこれが多くて困る。途中まで観て気づくことも多い。同じ作品を4回レンタルしたこともある。ブログをはじめたのも、実は記録の必要性を感じたことが大きい。年のせいもあるが、一方で、SFやオカルトやホラーでは、おんなじような趣向の作品が多いってのも事実。
 見始めたら、どうやら未見のようだったので安堵した。(すっかり忘れているだけなのかもしれないが。)

 
 二コールは現在最も美しい女優であるばかりか、演技も上手い。賢いのは確かだが、ジョディ・フォスターのように男勝りの感じはおくびにも出さず、あくまで女らしく、たおやかである。コバルトブルーの切なげな瞳と耳元に甘くささやきかけるような発声に秘密があるのだろう。
 彼女の頭の良さは出演作の選び方を見れば一目瞭然。凡庸な作品、ヒットだけを狙った空疎な作品がない。文芸、オカルト、ミュージカル、コメディ、サスペンス・・・いろいろなジャンルに果敢にチャレンジしている。タッグを組む監督(キューブリック、ラース・フォン・トリア)や男優(ジュード・ロウ、アンソニー・ホプキンズ)も彼女の新しい魅力を引き出す人ばかり。
 彼女の出る作品は、たとえ興行的には失敗しても「なにか光るもの」「なにか新しいもの」がある。『アザーズ』や『白いカラス』など、長く心に余韻を残すものも多い。

 なので、なぜニコールが『インベージョン』に出演したのか、最初不思議な気がした。
 SF小説『盗まれた街』の4度目の映画化(リ・リ・リメイク!)である。同様の設定(人間に寄生し地球人のふりをしながら仲間を増やしていく宇宙人)は、今では掃いて捨てるほどある。ダニエル・クレイグとの共演は確かに魅力的だろうが、いまさらこんな王道の物語をニコールが演らなくても・・・。

 もちろん、原作を現代風にアレンジしているので、宇宙人と言っても人の姿はしていない。飛沫感染で増える未知のウイルスである。感染すると、人間としての外見はそのままで、中身だけ変わってしまう。当人の考え方や記憶や能力や癖はそのまま残り、感情部分だけを喪失する。だから、感染した人間は一様に無表情になる。姿かたちは昨日と同じ家族・友人なのに、どこか変だ。その違和感の広がっていく様子が前半のサスペンスを醸成する。
 ちょっと工夫しているのは、このウイルスは人間のREM睡眠中の分泌物と化学反応を起こすことで発現するところ。前の夫タッカーから感染してしまったキャロル(ニコール)は、『エルム街の悪夢』のナンシーさながら、襲い来る睡魔との闘いに投げ込まれてしまう。(これはつらいよな)
 後半は、スリルとアクションの出番。タッカーに息子オリバーを奪われたキャロルは、同僚で恋人のベン(ダニエル・クレイグ)らと共に追跡捜査をする。キャロルの母性愛全開。実生活でも四児の母(うち二人は養子)であるニコールのリアルな演技も全開である。
 「ああ、ニコールってば母性を演じたかったんだな~」
と、ここで納得する。
 ゾンビのように増殖し、街を占拠する無表情人間。次から次へとキャロルに振りかかるピンチ。やっと愛する息子を取り戻し、ドラッグストアに立て籠もるキャロルの前に救いの神のごとく現れたベン。ほっとしたのもつかの間、ベンは感染・発症し、すでに別人に変貌していたのである。
 ベンは語る。
「我々が何をもたらしたかわかるだろう? 戦争のない世界、そして貧困も殺人もレイプもなく、苦しみのない世界だ。我々の世界は、お互いに傷つけあったり、奪い合ったり、破壊しあったりしない。他人というものがないからだ。それが正しい世界だ。
 一瞬、ためらうキャロル。
 (ベンの言うことが正しいのかもしれない・・・・)
 しかし、そのためにはウイルスに対して免疫力を持つオリバーは殺されなければならない。オリバーの抗体をもとにウイルスを無力化するワクチンが作られてしまうからだ。
 キャロルは拒絶し、死に物狂いの逃走を再開する。
 最終的には、キャロルとオリバーは助かって、ワクチンは出来あがって、人々は回復し、世界は元通りになる・・・。
 めでたしめでたし。

 最後のシーンは、キャロルの家の朝食風景。
 オリバーとベン(結婚した)との平和な日常を取り戻したキャロルの頭に、ふと、いつかパーティーで出会ったロシアの外交官の言葉が甦る。
 「犯罪も戦争もない世界では、人間はもはや人間ではなくなるだろう。」
 食卓からキャロルに微笑みかけるベンの手には、世界のいたるところで連日起きている殺人や戦争を伝える新聞がある。


 4度目のリメイクの肝がここで明らかになる。
 これまでの映画では宇宙人のインベージョン(侵略)を防ぐことは善であり、自明の理であった。結末で元通りの日常がよみがえってハッピーエンドだったのである。
 しかし、今回は必ずしも手放しで喜べない。なぜなら、もし人類すべてがこのウイルスに感染してしまえば、戦争も犯罪もない「理想の」世界が訪れていたかもしれないからだ。環境問題も飢餓も解決し、地球は人類だけでなく、ほかの生命にとっても素晴らしい惑星になっていたかもしれないのだ。その代償として人類が支払うのは、感情の喪失だけで良かったのだ。
 そのことが、人間という種の地球上での存在価値を逆から照射する。
 地球にとって、誰が「侵略者」か。
 「人間が人間である限り、平和も共存もありえない。」という苦い現実を観る者につきつけて、映画は終わる。
 
 やっぱり、ニコールの出る映画は、一筋縄ではいかない。


評価:B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



 

● 「物語」の果てた先にあるもの  オペラ:  ヴェルディ 『リゴッレト』 (東京文化会館) 

 上野中央商店会が主催しているオペラBOX。
 
 全曲ではなくて、ピアノとフルート伴奏によるハイライト上演。歌手は新進気鋭の若手たち。テレビ朝日出身でフリーのアナウンサー朝岡聡がナビゲーター(進行役)をつとめた。(この人を見ると、いつも『チャイルドプレー』のチャッキーを思い出す。)リゴレット 004

リゴレット  : 谷 友博
ジルダ        : 清水 理恵
マントヴァ   : 村上 敏明
ジョヴァンナ/マッダレーナ : 高橋 華子
モンテローネ/スパラフチーレ :龍 進一郎
 
ピアノ   : 服部 容子
フルート : 上野 由恵
演出   : 久垣 秀典

 タイトルロールの谷は調子が良くなかったようだ。途中で何度か声が裏返ってひやひやした。ジルダはそつがない。アリア「慕わしき御名」はよく歌いこんでいるのだろう。見事な出来栄えだった。
 一番の喝采はテナーの村上敏明。声量といい、声質といい、高音域の力強さといい、すばらしい才能だ。日本でここまで「トランペット的に」鳴らすテナーは聴いたことがない。風格もなかなか。表現が一本調子なのが気にかかるが、脳天気なマントヴァ公爵では表現力を示しようがない。別の役で聴きたいものだ。「女心の歌」のクライマックスの最高音は、雪崩を起こさんばかりの威力があった。


 演出での不可解ポイント。
 第2幕。誘拐されたジルダは、好色なマントヴァ公爵のもとに差し出され、操を奪われてしまう。狂乱して娘を捜すリゴレットは、自分の仕える公爵の部屋から飛び出してくるジルダと出会い、事情を知って絶望し、怒りに打ち震える。
 長椅子にもたれ、薄いドレス姿で、泣きしおれるジルダ。
 と、リゴレットは、長椅子にかけてあったマントヴァ公爵の豪華なマントを娘の肩にかける。
 これはありえない。
 影のように公爵に仕えて女の手引きまでしてきたリゴレットが、マントの主を知らないわけがない。なによりそこは公爵の居室なのだ。命より大事な娘を陵辱した憎き相手の衣服を、なんの躊躇もなく、当の娘にかけるなんてあり得ない。
 演者たちは、この演出に何とも思わなかったのだろうか? だとしたら、あまりに鈍感すぎるか、観客を馬鹿にしている。少なくとも、あそこで観客のいくたりかは「えっ?」と思ったはずだ。
 ベタであるが・・・。リゴレットは、長椅子のマントを娘にかけようとする。が、途中でそれが自分の主人のものであることに気づき、床に投げ捨てる。かわりに、自分のフロックコート(なんでフロックコートを着ていたのかわからないが)を脱いで、娘にかける。
 そもそもが現代人にリアリティを感じさせるには困難なストーリーなのだ。だからこそ、心情にかかわるような細かい部分での「本当らしさ」が重要なのである。

 それにしても・・・・・。
 昔のオペラや能や歌舞伎を観ていてよく思うのだが、物語世界に入り込むことが本当に難しくなった。年齢のせいとか、感受性の摩滅というのではない。作品が作られた当時の作家や大衆が持っていた価値観や道徳観が、今ではすんなり理解できない、簡単には共感できないものになってしまっていることが多いからだ。これは、個人的なレベルで言えることでもあるし、世間一般のレベルでも言える。


 たとえば、「道化」というものの宮廷での役割や位置づけ、周囲の人々が道化に対して持つ感情(嘲笑、憐憫、軽視、滑稽)は、シェークスピアを読んでいれば、ある程度は理解できる。そこを踏まえた上での、リゴレットの抑圧された怒り、恨み、卑屈、陰険、恐れ、娘への盲愛なのだ。それを、今日びテレビをつければ必ず出てくる「お笑い芸人」同様に解釈する(人気者、お金持ち、成功者e.t.c)ほか手だてがなかったら、まったく物語世界に入り込めないだろう。そのうえ、「せむし」であることがリゴレットの歪んだ心を解釈する上で重要なポイントなのだが、今回の演出でもそうだったが、現代日本においてそこを強調することはもはや「政治的に」難しい。

 ヴェルディがよく取り上げる「呪い」とか「復讐」というテーマも同様だ。
 リゴレットは、マントヴァ公爵に娘を弄ばれたモンテローネ伯爵に向かって無慈悲な言葉をかける。伯爵は呪いの言葉で返す。それはリゴレットの心に深くつきささる。リゴレットが怯えるのは、自分と娘ジルダにも同じ不幸が起こるという恐れと不吉な予感を抱いたからではあるが、それ以前に何よりもこの作品の時代背景である中世(16世紀)においては、人が全身全霊で「呪い」の言葉を発したとき、浴びせられた当人を強い恐怖と不安のうちに呪縛せざるをえない、一種の魔術信仰、言霊信仰が生きていたからだ。日本文化も然り。呪いとはまさに「咒(じゅ)=真言」なのだ。

 「復讐」という価値観はまだ現代人にも理解しやすいかもしれない。だが、江戸時代の「敵討ち」とか「赤穂浪士討ち入り」とか、昭和時代まではなんとか大衆の共感を得ていたが、今はどうだろう? テレビでも映画でもベストセラーでもいい。復讐をテーマにして人気を博した物語を挙げられるだろうか。法的手段に訴えることに、我々はあまりにも慣れすぎてしまった。

 個人的に最も違和感を覚えるのが「純潔信仰」「処女崇拝」である。
 リゴレットは、嫁入り前の娘の貞操(この言葉自体「死語」だな)を守るために、教会に行く以外のいっさいの外出を禁じる。いったん、娘の純潔が汚されたと知るや絶望のどん底に突き落とされ(「一日で何もかも変わってしまった!」)、激しい憤りは、殺し屋を雇ってまでの敵討ち(それは自身の生計の糧を失うことを意味する)に彼を駆り立てる。
 リゴレットの気持ちと行動を理解し納得するには、同じ「娘を持つ父親である」だけでは足りなかろう。マリア信仰を持つ中世のキリスト教徒としての、強い「純潔信仰」「処女崇拝」を共有していなければなるまい。それあっての騎士道やら初夜権(『フィガロの結婚』)やらなのだ。
 もちろん、今の日本だって処女をありがたがる性文化は存在するし、娘の純潔を願い、娘を弄んだ男に憤る父親の気持ちは健在だろう。しかし、結婚相手の女性に「処女であること」を条件づける男やその家族とか、バージンを捧げたボーイフレンドに結婚を要求する女やその家族なんてのは、どこかの宗教団体に属している場合を除いては、今やギャグかナンセンスだろう。大事な娘を「傷もの」にされたという言い回しを一昔前はよく耳にしたけれど、骨董品にひびが入ったのを怒っているのと同じで、娘の商品としての価値が下落したことを嘆いているわけで、娘への愛情というよりは「お家」の対面や良縁をゲットするための駒の損失を問題にしているのである。その後の生涯を「傷もの」として過ごさなければならなくなる女性こそ哀れである。

 純潔性への信仰は、それと裏腹に、純潔でなくなった女性への蔑視を伴っている。何より切ないのは、周囲だけでなく、当の本人が自身を「汚れてしまった」と思い込んで、その後の人生を失意と投げやりな気持ちで過ごさなくてはならないことだ。公爵の部屋から走り出てきたジルダが父親を見つけて口にする第一声が「おとうさま、私は汚されてしまいました」(字幕でそうなっていた)なのは、なんともやりきれない。そうやって自分で自分を貶めた結果としての最終幕での自己犠牲なのだから、なおさらである。ジルダをレイプしたのはマントヴァだけではない。時代や文化もまた、いわゆるセカンドレイプしたのだ。
 これに関しては、先ごろ亡くなった仙台の賢人・加藤哲夫さんが憤っていたのを思い出す。曰く、
 「男と関係を持った女が‘汚された’というのは、つまり‘男が汚れている’ということを意味するじゃないか! 男は‘汚れた’存在なのか!」

 ともあれ、舞台を見ているうちにも、こうした価値観のギャップやそこに潜む構造が見えてしまい、あれこれ考えてしまうがゆえに、すんなりとリゴレットはじめ登場人物の気持ちに共感して物語世界に入り込むのが難しくなるのである。
 ヴェルディの生きていた時代(19世紀)の観客は、まだ入り込むのに苦労はしなかったであろう。リゴレットの恐れ、怒り、絶望を自分のものとし、ジルダの犠牲的精神に涙し、「傷ものとして残りの人生を生きるより、愛のために死んだほうが、いっそあの娘のために良かった」くらいのことは思うかもしれない。共同幻想が生きていたのだ。
 しかし、21世紀の日本に住む我々は、そうはいかない。破れてしまった多くの共同幻想の廃墟の中に、我々は立っているのである。

 このハンディを超えて我々が物語世界に入り込んで感動するためには、よほどのレベルの音楽と演奏と歌と演技の質が要求される。音楽家にとっては実に困難な時代と言える。(マリア・カラスなら、どんなバリアも超えて行っただろうが。)
 奇抜な演出でもってこの壁を乗り越えようとする試みが散見されるが(特にメトロポリタンでその傾向を感じる)、無駄なあがきだと思う。以前、『アイーダ』の舞台設定を現代のニューヨ-クあたりに移管して、流行のスーツを着た女社長(アムネリス)とそのライバル(アイーダ)と優秀な社員(ラダメス)が最先端のオフィスで三角関係、みたいな演出を見たことがあるが、まったくげんなりした。オペラを見る上でのもう一つの主要な楽しみであるコスチュームや舞台美術まで、このうえ奪うつもりか。舞台を現代に設定すれば、観客も身近に感じてリアリティが増すとでも思っているのだろうか?

 むろん、ヴェルディは天才である。
 今回のオペラBOXも、いろいろな紆余曲折や我ながら気難しいと思う自身の注文をなぎ倒して、最後には物語世界にこの身を引っ張り込み、はからずも涙を浮かべさせたのは、ヴェルディの音楽の偉大さにほかならない。
 そしてまた、「復讐」や「処女崇拝」という幻想(=物語)にすんなり身を任せられない自分も、なんだかんだ言って、「子供の死を悼む親の気持ち」まで幻想として退けられないからだ。

 共同幻想が次々とあばかれ、蛇の抜け殻のように捨て去られていった先に、それでもなお我々に残されるものはいったい何だろう? 
 我々は最終的に何に感動するのだろう?
 結ばれることなく果てた恋愛?(ロミオとジュリエット)
 家族愛?(北の国から)
 ペットの死?(星守る犬) 

 あるいは、「我々」がなくなるのかもしれない。
 個人がそれぞれの幻想のうちに住んで、専ら個人的に感動する世界がすでに始まっているのかもしれない。
 

● イーストウッド、ついに同性愛を撮る! 映画:『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド監督)

 2010年アメリカ映画。


 クリント・イーストウッド監督の最新作『J・エドガー』は今秋アメリカで公開、日本では年明けに封切られるそうだ。FBIの初代長官だったジョン・エドガー・フーヴァーを描いた伝記らしいが、話題の中心となっているのは、どうやらフーヴァー長官は同性愛者(クローゼット)だったらしく、側近のクライド・トルソンとの長年にわたる恋愛関係が映画の中でふれられていることである。(なんだかどこかの大国の大統領と首相の関係を思わせる)

 クリント・イーストウッド、ついに同性愛を撮る!
 
 そのことを知ったとき、「ああ、やっぱりな」と自分は思った。
 「やっぱり」というのは、クリント・イーストウッドが実はゲイだったとか、ゲイになったとか、作品を通して間接的にカミングアウト、とかというのではなくて、「この人、いつかは同性愛をテーマに撮るのではないか。」と以前から思っていたからだ。「それまで生きていられるかな?」とも。
 無事(?)間に合ったわけである。

 クリント・イーストウッドのイメージを一言で表すとしたら、十中八九の人は「男の中の男」と言うだろう。その作品は「男の映画である」と。
 マカロニウエスタンで人気に火がつき、ダーティーハリーで国際的スターになった俳優として、イーストウッドは映画の中でのイメージそのままに、アメリカを代表する男優として、その風貌においても言動においても「男の中の男」像を保ち続けてきた。グレゴリー・ペックやジェームズ・ステュアートのような理想の父親像とはまた違うが、チャールトン・ヘストンやハンフリー・ボガードに並んで古き良きアメリカの「男」を体現する一人と言える。
 監督として彼の描く世界もまた、男の小道具で満ちている。
 敵との戦い、勝利の苦味、敗残者の悲哀、プライド、見栄、野望、意地、連帯、暴力、アウトロー、一匹狼、車、タバコ、酒、拳銃、狩り、ボクシング、仕事への誇り、弱き女を守ること、共和党員・・・。
 西部劇の巨匠ジョン・フォードの正当な継承者と言えるだろう。あるいは、パパ、ヘミングウェイの。
 
 自分は、こういう世界が苦手だし関心もないので、もったいないとは分かっているが、ジョン・フォードはほとんど観ていない。日本でならさしずめ北野武だろか。映画史に残る映画作家であることは間違いないが、どうもあの暴力世界にはついていけない。
 日本とアメリカの理想の「男」像には、もちろん違いがある。
 日本の「男の中の男」というと、任侠の世界にその典型がもとめられてしまうのは不思議なことである。高倉健、菅原文太、本宮ひろ志の漫画を思い起こせば十分だ。ヒーローでも正義の味方でもなく、世間的には日陰者、社会的にはハミダシ者であることが「男」であるとしたら、やくざや暴力団や右翼にあこがれる若者がいてもおかしくはない。
 まあ、道を外さずに、マグロ漁船にでも乗ってほしいものである。この節、演歌歌手になるのも石原軍団に入るのももう難しいだろうから。


 閑話休題。

 ジョン・フォードや北野武はレンタルしてまで観ようとは思わない自分も、どういうわけかクリント・イーストウッドは気になって、すべての作品とは言わないが、時々思い出したように上映館に足を運んでしまう。
 一見、「男の映画」には違いないのだが、妙に文学的とでもいうのか、自らを相対化する深みのようなものが感じられて、惹かれるのである。
 最初に鼓動を感じたのは、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)だった。これは、先進国の白人の「男」(イーストウッドが演じている)と現地の黒人達との相対性の苦味を描いた傑作である。そのとき、このままいけば、「男」である自分自身をやがて相対化していくだろうという予感を持った。
 その予感は『マディソン郡の橋』(1995)で見事に裏切られて、しばらくクリント作品から遠ざかった。
 2003年『ミスティック・リバー』は衝撃的であった。主人公は3人の少年、それぞれの成長を描いた物語だが、うち一人は少年時代に男に誘拐されて、レイプされてしまうのである。
 女をレイプしても「男」でいられる。男をレイプしても「男」でいられる。しかし、男にレイプされたら、もはや「男」ではいられない。その瞬間から一切の男の小道具が彼の手からは奪われてしまう。アメリカのようなマッチョの社会にあっては、社会的な死の宣告に等しい。「男」の崩壊・・・。
 2004年『ミリオンダラー・ベイビー』では、イーストウッドはジェンダーの崩壊というテーマを自らに課した。成功した。
 2008年『チェンジリング』ではまた新たなチャレンジ。母性である。
 続く『グラン・トリノ』は、自身が主役を張って、タイトル通り男の小道具をめいっぱい用意して、一見「男の映画」に逆戻りしているように見えるのだが、登場人物のアジア系の少年~園芸や料理が好きで、気が弱くてやさしい~はおそらくゲイだろう。役中のクリントは、隣家に住むこの少年を「男」に鍛えようと懸命にコーチする。そこがゲイの男がヘテロのふりをしようと努力する映画『イン&アウト』(フランク・オズ監督)を想起させて笑えるところであるが、つまり、「男」というのはこうやって作り上げられていくものだという種明かしを、クリントは描き出しているのである。映画の最後では、ダーティーハリーを髣髴とさせるよう銃撃戦になるかと思えば、さすがにもはやそのリアリティのなさは自身許さなかったのだろう。「男」としてのプライドは保ちながら、捨て身の作戦に打って出る。(観ていない人のために結末は書かない) クリントが自分自身の演技としてできるのはこれが限度であろう。そこを超えたら、培ってきたすべてのイメージが壊れてしまう。
 ここまで来たら、あとはそのものずばり「同性愛」をテーマにするだろう。もちろん、自分でない男優を使って。そう思った。
 なぜなら、同性愛とは、「男」を相対化する装置にほかならないからだ。

 そして、『ヒアアフター』である。

 クリントの作品をどうしてもジェンダーの視点がらみで観てしまう自分にとって(これもジェンダーバイアスか)、この作品の一番の見所は、マット・デイモンが霊媒師を演じているところにある。むろん、ジェンダーがらみで見なくても、この作品は、他のイーストウッド作品同様、とても丁寧に作られていて、しみじみとした感動が広がる佳作である。
 マット・デイモンは、戦争映画で主役を演じるは、ボーンシリーズで不死身のヒーローを演じるは、まさに昔のクリント・イーストウッドになぞらえるような男優である。その意味で、ここでのマットをクリント自身とダブらせることが可能であろう。(実際は、俳優としての二人の資質はずいぶんと異なる。マットは、たとえばベン・アフレックやショーン・ペンにくらべると、「男」を不思議と感じさせない。だから、霊媒師役をやっても大きな違和感がないのだ。演じられる役柄がイーストウッドより断然広いのだ。クリントが霊媒師を演ったらコメディにしかならないだろう。)

 マットが演じる男ジョージは、才能ある霊媒師であり、イタリア料理を習い、毎晩寝る前に詩を聴き、イギリスの生家に見学に行くほどのチャールズ・ディケンズのファンで、朗読会に行けば感動にふるえる。
 どうだろう?
 霊媒師、料理を習う、詩を聴く、ディケンズのファン、朗読会。
 まったく、男の小道具にそぐわないラインナップ。クリントの映画の主役にまったくふさわしくない男である。
 ジョージは、霊媒師という職業に嫌気がさして廃業し、建設現場でヘルメット(男の小道具である)をかぶって働いているのだが、リストラされてしまう。残された道は、霊媒師としての自分を受け入れることだけだ。
 彼はそこで旅に出る。イギリスに。そう、アメリカというマッチョな国からいったん離れることなしには、「男」をおりられないのである。
 イギリスで、彼を追ってきた少年のため仕方なく霊媒したのをきっかけに、ジョージは自らのありのままの資質を受け入れる心の準備を始める。そして、自らの理解者~津波から生きのびた女性、死後の世界(Hereafter)を垣間見て、それを世間の偏見に屈せず伝えることを決意した女性~との運命的な出会いがあって、物語は終わる。
 「男」をおりたからといって、「ゲイ」になるわけでも、「女」になるわけでも、女性と関係がもてなくなるわけでもない。イーストウッドにとっては、その重い鎧を脱ぐのがとてつもなく難しかったのだと思う。高倉健の例を出すまでもないが、出演作によって作られてしまったイメージ(虚像)と、本当のありのままの姿(実像)とのギャップによって生じるプレッシャーは、一般人にははかりしれない。素顔のクリントは実はこのジョージに近いのではなかろうか。 


 男の子が成長するとは、一般に「男」になることであった。
 アメリカやラテン国家などのマッチョ社会では、そのプレッシャーはとても大きい。だから、UNAIDS(国連エイズ合同計画)は、男と性行為を持っていても自らを「ゲイ」と認めることをしない「男」達へのエイズ啓発のために、MSM(Men who have Sex with Men)という造語をわざわざ作ったのである。むろん、ゲイと名指されることは、一直線に「男」から転落することであるからだ。
 「男」をおりること、「男」でなくなることは、とてつもない恐怖を伴っているのだ。

 ほかに迷惑をかけないのなら、いくらでも「男ごっこ」をしていてくれればよいと思う。
 だが、長年プレッシャーにさらされた「男達」は、長じてその抑圧を他者に向けることで鬱憤をはらそうとする。「男」ではない者たちに。別のグループ(文化、組織、派閥、チーム)に属する「男達」に。
 とりわけ、もっとも強いプレッシャーに置かれるのは、「男」を演じざるを得ないクローゼットの同性愛者であろう。彼らが勤勉と忍耐のあげくに組織の頂点に立ち、権力を手にしたとき、どんな抑圧を周囲にもたらすことか。(ロシアの今後が恐ろしい・・・。あくまで勘に過ぎない。念のため。)

 男とは何か。男の成長とは何か。
 クリント・イーストウッドが生涯考え続け、描き続けてきたのは、つまるところ、そこなのだろう。

 そういった意味では、彼の映画はジェンダー映画なのである。 

 ここから先(Hereafter)、どこに行くのか。
 それは、次回作を観るまでなんとも言えない。
 これまでの流れから推測すると、同性愛を否定的に、批判的に描くような野暮はしないであろう。実際、クリント自身、「同性婚」を擁護する発言をしているらしい。共和党員であることを考えると、面白いひねりである。
 何より楽しみなのは、フーヴァー長官の役をレオナルド・ディカプリオが演じているということだ。ディカプリオにとっても、『太陽と月に背いて』以来のソドミーもの(笑)である。もはや美少年とも美青年とも言い難くなったレオ様。どんなラブシーンを見せてくれるのだろうか?


 一つ予言をする。
 これでレオ様は念願のオスカーを手に入れるだろう。

P.S. マット・デイモンの次作『リベラーチェ』もゲイカップルもので、ピアニスト役のマイケル・ダグラス(!)とのラブシーンがあるそうだ。アメリカの「男」は揺れてるな。



評価:B+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!




 

● 映画:風の中のめんどり(小津安二郎監督)

 風の中の雌鳥1948年松竹。

 日本が無条件降伏してから3年後に撮った映画である。
 映画の中の時代背景も舞台も状況設定も、そのまま当時の日本(東京)とみていいだろう。
 その意味では、リアリズム映画と言える。よくあったであろう話。

 出来としては、当時の批評家の評した通り、そして小津監督自身が言った通り、「失敗作」なのだろう。84分という短い上映時間にかかわらず、長く感じてしまったあたりにそれが表れている。

 見るべきは、主役の田中絹代の演技となる。
 この人はぜんぜん美人じゃないけど、存在感は尋常じゃない。この人とからむと、あの京マチコでさえ食われてしまう。(『雨月物語』) 女の情念や愚かさや一途さを演じたら、この人の右に出る女優は昔も今もそうそういないだろう。
 そして、なんとなく小津監督もこの人の演技にひきずられてしまったのではないかという感じがする。
 というのは、小津映画にあっては役者の過剰な演技力は‘余分’であるからだ。それは、もっとも小津映画で輝いたのが、笠智衆と原節子であったことからも知られる。笠も原もなんだかんだいって、決して上手い役者ではない。少なくとも、同様に小津映画の常連であった杉村春子や『東京物語』の東山千栄子のように新劇的な意味で演技できる役者では、全然ない。
 だが、小津が自らのスタイルを確立する上で必要としたものを二人は持っていた。
 立体的で虚ろな顔と、純潔なたたずまい。
 言ってみれば、二人のありようこそが、真っ白なスクリーンかキャンバスみたいなもので、あとは小津マジックで、場面場面で必要な様々な感情や印象を二人の役者に投影して見せることができたのだ。そこで変に演技されると、小津スタイルを壊してしまう。

 病気になった子供の看病をするシーン。布団に横たわっている子供の顔をしゃがんでのぞき込む田中絹代は、スクリーンの中心から左半分にいる。子供の姿はそのまた左側なのでスクリーンに入っていない。凡庸な監督ならば、心配する母親の顔が画面中央に来るようにして、子供の寝姿と共に撮すだろう。
 この不思議な構図で我々の目が惹きつけられるのは、スクリーンの右半分、小卓に置かれたビールかなにかの瓶である。表面の光沢と物体としての重さ。その異様なまでの存在感。
 「物(自然を含む」)と「人」とが等価値で、時には「物」の方が尊重されて、スクリーン上に配置される。語ることなく動じることなく、ただそこにある「物」の世界の中に、ほんの一時、顕れてはドラマを演じ消えていく人間達。  
 「物」と「人」との絶妙なバランスこそが、小津スタイルの刻印である。

 杉村も東山も日本の演劇史に大きな足跡を残す名優ではあるが、微妙なところで、小津スタイルを壊すことなく、むしろ、持ち前の演技力によって逆に小津スタイルを浮きだたせる役割りを担っている。それは、小津の使い方がよかったのか、杉村や東山の呑み込みがよかったのか。きっと、もともとそれほど芝居をさせてもらえるようなテーマや脚本や役柄ではなかったことが大きいのだと思う。(杉村春子主演で小津が監督したら、やっぱり失敗作になると思う。)
 この映画での田中絹代は、小津スタイルにはまりきれていない。容貌ももちろんそうだが、何より本気で芝居している。この脚本と状況設定とでは、そうするよりほかないだろう。そう撮るよりほかないだろう。
 田中絹代は、役者に十分演技させながら独特の美を造形していく溝口スタイルにこそ向いているのだ。(『西鶴一代女』) 


 結論として、テーマ自体が小津スタイルには向いていなかったということである。

 それにしても、この翌年に『晩春』を撮っていることが驚きである。
 なんとなく、60年代くらいの映画と思ってしまうのだが、『晩春』も無条件降伏からたった4年後の話なのだ。




 評価:C+

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





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ソルティはかたへのメッセージ

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