ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● アメリカ映画に見る成熟の証 映画:『リトル・チルドレン』(トッド・フィールド監督)

 2006年アメリカ映画。

 国の成熟度というのは、その国で作られた映画の質にもっとも敏感にあらわれるのではないか。
 実際は文学の質なのかもしれないが、小説はほとんど読まないので何とも言えない。
 ただ一般に、映画の方が文学より大衆的=興業的であることが期待されるので、ヒットした映画を見れば、その国の大衆が達している心境のようなものを探ることができる。大衆的ならテレビこそとも思うが、テレビはどの国においても一様に下劣である。
 もっとも、なにを持って「成熟」というかは、意見の分かれるところであるが・・・。

 アメリカ人というのは、基本的に単純でわかりやすい世界観を持っている。一言で言うなら、「二項対立。自分は正しい。」
 善と悪、正義と不正、光と闇、勝者と敗者という二項対立の世界の中で、自分は常に「善であり、正義であり、光の側に組し、勝者である」という根拠なしの確信を持っている。否、持っているだけでは足りない。その確信をバネに、異なる価値観を持つ他の国の人々を教導し、洗脳し、改宗させる使命があると思っている。それに歯向かう敵を攻撃し、支配する権利があると思っている。まことにお目出度い国民である。
 敵と目されるのは、時代によって替わる。インディアンであったり、ソビエトであったり、共産主義者であったり、テロリストであったり、悪の枢軸であったり・・・。それはまるで「自分は正しい」というアイデンティティを保つために、二項対立の相手、つまり敵を必要としているかのようである。
 この国民性の根底にあるのは、むろん、キリスト教であろう。すなわち、神と悪魔、天国と地獄。そして、伝道することを使命とするメシアニズム。

 キリスト教を信仰する国々の中で、なぜアメリカだけがこのように単純な世界観を21世紀まで保ち続け得たのであろうか。
 それはアメリカが対外戦争に負けたことがなく、アメリカ本土が戦場になったことがないことによるのかもしれない。
 喧嘩に負けたことのないお山の大将。

 伝統的にアメリカ映画(ハリウッド映画)もその世界観を反映し、基本的に、明るく、前向きで、単純で、わかりやすい。「ダークサイド」なんて言葉を臆面もなく使っちゃうのは、アメリカ映画だけである。

 1999年公開の『アメリカン・ビューティ』と『マグノリア』を観たとき、「あっ、アメリカ人も変わってきたなあ~」と思った。これまでのアメリカ映画、オスカー作品にはない深さ、複雑さ、苦さが感じられた。これらの作品は、より複雑で神意のはかりがたい世界の様相というものに触れている。そこでは、自分のいる位置こそが世界の中心であるという自信も驕りも錯覚もない。

 2001年の貿易センタービルの倒壊以降、アメリカ国民はブッシュに先導されて、本来の「二項対立。自分は正しい」をほとんど強迫症的執拗さで主張し、聖戦へと突入した。
 ゆくりもなくそれは、大義なき戦いとなり、政治的かけひきとなり、非人道的な侵略に墜したが、がむしゃらな攻撃に傾斜していくアメリカ人の有様を見ていると、本当に恐れているのは敵ではなく、「自分は正しい」というアイデンティティの崩壊なのではないかと思われた。

 一方、映画人たちはより冷静に事態を見つめていた。
 もはや、現代では、二項対立のわかりやすい世界観など無用である。というよりむしろ、それこそが世界にとって有害である。
 『クラッシュ』(2004)、『バベル』(2006)、そして『ダークナイト』(2008)。
 これらの作品は、明らかに伝統的なアメリカ人の世界観に楔を打ち込むものであった。

 『リトル・チルドレン』もまた、この系列に連なる良作である。
 登場人物の誰も、善人でもなく、悪人でもなく、ただ欲と弱さを抱える人間であるに過ぎない。
 そんな大人たちが、なんてことのない日常生活の中で、ふれあい、すれ違い、愛し合い、憎み合い、現実のやりきれなさに懊悩し、ひとときの夢を見る。 
 複数の人物のリアリティのある心理と行動が、お互いの知らぬところで連関し合って、表にあらわれない因果の網を紡いでいく。そして、これ以上なく緊張の高まった最後の瞬間に、その網がつと人々の頭上に降りてきて、それぞれが落ち着くべきところに落ち着いていく。そのカタルシスが心地よい。

 現象を深く見たとき、世界は複雑で多様性に満ちており、遠く離れて見える事象同士の符合、連関、響き合いがもたらす物事のなりゆきは、人の浅はかな思惑をはるかに超越している。それを「神の見えざる手(配剤)」とか「神意はかりがたし」と呟いてもいいのだが、いくつもの系で同時多発的に起こる原因と結果の連鎖の空隙に、不意に訪れる癒しの一瞬を「恩寵」と呼んでもいいのだが、やはり二項対立の一方である神の名は出したくない。

 縁起と因縁、そして慈悲。
 『リトル・チルドレン』で観る者が感得するのは、これである。
 
 


評価: B-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」 
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」 
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 
   


 
 

● 本:『くじけないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ著、角川SSC新書)

くじけないこと こういうタイトルの本を書店で手に取り買ってしまったのは、自分が今まさに「くじけ」そうになっているからである。
 「何に?」と言えば、現在通っているホームヘルパー2級を取るための介護の学校というかカリキュラムにである。


 初めの頃は、何十年ぶりかの学校生活にワクワクし、はじめて知る介護の世界にも、世代の異なる様々なバックグラウンドを持つクラスメートにも新鮮な思いを感じ、そこそこ張り切って通っていたのだが、だんだんしんどくなってきた。


 原因の一つは、体力・気力の低下である。
 6時間同じ教室に閉じ込められて机に座っていること(もちろん休み時間はある)が、これほどしんどいとは思わなかった。よく中学・高校時代は来る日も来る日もこれをやっていたなあと感心する。その上、放課後には部活動なんかもやっていたのだから、元気がありあまっていたのだろう。
 当初は、授業がすんだら週二回はジムとプールに通って体力づくりを、週一回はボランティアを、などと目論んでいたのだが、ひと月もせずに挫折してしまった。
 とにかく、疲れるのである。
 頭はぼうっとして授業がなかなか吸収できないは、目は老眼入ってきてしょぼしょぼするは、肩は凝るは、腰は痛むは、風邪はひくは、満身創痍である。夜になると、両足にびっしょり汗をかいて夜中に起きてしまう。朝目覚めてもすっきりしない。どころか寝る前より疲れを感じている。更年期障害なのかもしれない。
 年を取ることのしんどさをまさに自分の体で学んでいる。

 もう一つは、集団生活の息苦しさ、うざったさである。
 もともと集団生活は苦手だったのだが、どうも忘れていたらしい(苦笑)。
 自分と同年代が半分、自分より若いのが半分くらいのクラスであるが、若者のノリについていけない。ついていきたいとも思わないし、ついていかなければいけないわけでもないが、授業中の私語はあたりまえ、実技でのおふざけはあたりまえ(ふざけすぎて設備の一部を壊したりする)、まるで中学校からそのままやって来たような感じなのである。「男っていつまでたっても子供?」なんて目を細めているレベルじゃない。
 見ているとどうも、今の30代あたりを境目に授業態度が変化しているような気がする。確かに40代の自分の学生時代はまだ先生の力が効いていて、授業中は簡単に私語できない空気があった。今の先生は本当にたいへんだろうなあ~と思う。
 小中学校とは違って、誰に強制されたではなく、自分から望んで介護を学びに来ているのだから(就職につながる死活問題なのだから)ちょっとは真面目に学べばいいのに・・・というのは通用しない。真面目とか真剣であることが「カッコ悪い」という風潮があるようだ。
 おそらく、彼らが生まれた頃から「お笑い」ばかりになってしまったテレビの影響が強いのだろう。何かにつけ冗談を言わなければならない、ウケなければならない、沈黙に耐えられないというある種の強迫観念に支配されているかのように思われる。
 一方で、いわゆる「空気を読む(KY)力」はなるほどたいしたものである。周囲の状況や雰囲気をとっさに読んで、そこに自分を合わせていくのがうまい。孤立しないように、浮かないように気を使う。

 こういった力学が作用している教室の中では、本当に重い悩みを抱えている人やマイノリティは生きづらいだろうなあ~と推測できる。いや、実際には、誰もが何らかの悩みや不安を持っているはずなのだが、そうした他人の暗さや重さや弱さと向き合うスキルというか根性というか耐性を欠いているような気がする。それは、逆に言うと、運命のいたずらで自分がもしそういう立場になったとき、非常に弱いということだ。自分自身の重さや暗さと向き合うことができないし、周囲を信じ助けを求めることもできないからだ。
 そう言えば、ちょっと前にNHK教育テレビで「一番の親友には自分の悩みを打ち明けられない」という十代の声を聴いた。むしろ、顔も名前も知らないネット上の相手のほうが安心して何でも相談できるのだという。
 老人介護なんて、つまるところ人の弱さ・暗さ・重さと向き合う仕事だと思うが、大丈夫なんだろうか?

 とは言うものの、そうした息苦しさ、うざったさを感じてしまうのは、自分もその力学の中に埋没している証拠である。私語を注意するでもなく、おふざけをたしなめるでもなく、クラスの中で「どこまで自分を出すか」考えている自分がいる。
 やれやれ・・・。 


 くじけることは、自分の考えたこと、あるいは思い込みにしがみついた瞬間に起こります。なぜなら、物事はもともと思い通りにいかないものだからです。
 では、自分の思考から、どのように離れればいいのでしょう。
 思いつめて出した結論ではなく、客観的に自分の立場や考え方を捉えてみることです。そうすると、今まで見えていなかった解決策が見つかったりするものです。

 この世で何が完璧ですか。変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。
 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。これが、くじけない方法です。


 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。


 すべてが無常であることを知り、楽しみがその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。


 キーワードはやはり「無常」。
 固定的なものは一つもなく、すべてが変化する。
 うまく成し遂げたところで、それもまた崩れる。
 失敗したところで、それもまた過ぎ去る。
 人との出会いも然り。

 考えすぎるからくじけそうになるのだろう。
 結果にこだわるから不安になるのだろう。
 自我を張るから疲れるのだろう。
 目の前のことをできる範囲で、結果に頓着せず、できれば楽しんで、片付けていくよりない。

 

● 世界よ、驚け!浮世絵:『歌川国芳展』(六本木、森アーツセンター)

120126_2328~01 国芳の没後150年にあたって開催された記念展。
 
 とにかく「凄い!」
 「凄い!」の一言に尽きる。

 ゴーギャンもびっくりの色彩感覚。
 ミケランジェロものけぞる大胆な構図。
 ジョットーも嫉妬する愛敬のある表情や仕草の数々。
 ダ・ヴィンチもおののく緻密で正確なデッサン力。
 レンブラントも真っ青の多作ぶり。

 江戸時代にこれほどの画家が本邦にいたことを誇りに思う。
 西洋絵画に伍して遜色ない。どころか、迫力(生命力)ではキリスト教圏の画家を凌駕している。

 魚や動物の絵がどれも見事なのだが、国芳が好きだったという猫の絵が実によく生態を観察していて、猫のとぼけた感じを描き出していて微笑ましい。

 1500円払って、絶対に損はない。

 

●  映画:『ヴェネツィア・コード』(ティム・ディスニー監督)

 2004年ルクセンブルク・オランダ・スペイン・イギリス・アメリカ・イタリア制作。

giorgione_tempesta01 原題は『TEMPESTA(嵐)』。
 ルネッサンスの巨匠ジョルジョーネの代表作にして、ヴェネツィア(ベニス)はアカデミア美術館所蔵の西洋絵画史上最も議論かまびすしい作品。
 この作品の盗難をめぐって、水の都ベニスを舞台に繰り広げられる連続殺人と贋作事件と運命的な恋とをミステリー仕立てで描いた映画である。

 まず、画面の美しさを讃えなければなるまい。
 それもそのはず。ベニス&世界的名画、である。美しくなければウソである。美しくなければ撮る意味がない。
 しかも、美しいだけでなく、ベニスという古都が持つ類いまれなる魅力―張り巡らされた水路、迷路のように入り組んだ街路、靴音の響く石畳、噴水のある広場、そこかしこに息づく暗がり、いくつもの瀟洒な橋、ゴンドラ、海に浮かぶ蜃気楼のごとき鐘楼、そして、マントと仮面の彩りとが旅人を中世にタイムスリップさせるカーニバル。こうした道具立てを上手に使って、ミステリーと恋という二つの物語をからませながら盛り上げていく。たいした手腕と感心する。
 そう、真の主役はベニスと言えるかもしれない。

 となると、やはり持ち出したくなるのは、ヴィスコンティ『ベニスに死す』である。
 世界的に有名な作曲家が旅先のベニスで出会った美少年タジオの虜となり、街を襲うコレラもものともせず少年の追っかけを敢行。ついには罹患し、浜辺で少年を眺めながら息絶えていく。テーマは、自然の「美」の前に屈する芸術、「愛」の前に投げ出す人生。

 『ヴェネツィア・コード』もまた、腕のいい絵画鑑定士(元画家)が出張先のベニスで出会った美女の虜となり、殺人犯の濡れ衣を着せられながらも危ない橋を渡り続け、女のためにまっとうな人生から転落し、最後には命を落としてしまう。彼が選んだのも芸術より人生より「愛」であった。『ベニスに死す』の高踏的な文学性(原作がトーマス・マンだから当然だが)とくらべると、センセーショナルで俗っぽくはあるが、狙うところは一緒であろう。

 人生の成功者となるよりも破滅的な愛を、平凡な日常の気の遠くなるような繰り返しよりもつかの間の甘美なる陶酔を。そんな選択を人にさせてしまう、そんな心の奥の願望を表に引っ張り出してしまう力が、ベニスという街にはある。
 それこそがベニス最大の謎であろう。

 ミステリーとしては底が割れていて、最後に明かされる真犯人に驚きもしなければ、盗まれた絵画をめぐる謎に『ダヴィンチ・コード』のような奇想天外な解釈が用意されているわけではない。
 そこはいいのだが・・・・。

 人生が破滅しても悔いはないと主役の鑑定士に思わせるほどの「運命の女」とやらが、ジョルジョーネの『嵐』に描かれている女はもとより、『ベニスに死す』のタジオの魅力にもまったく及んでいないのが、残念至極である。



評価: C+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」  
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!


 

●  三国連太郎、礼讃! 映画:『飢餓海峡』(内田吐夢監督)

 1964年東映作品。

 昭和30年代生まれの自分は、三国連太郎と言えばTBSドラマ『赤い運命』の島崎を思い出す。
 当時人気絶頂の山口百恵の父親役(実際には血はつながっていないことがあとから判明する)で前科のある殺人犯を、三国連太郎は素か芝居か分からないほどの入魂の演技で表現し、自分のような百恵ちゃん目当ての視聴者をさえ毎回惹きつけてくれた。
 三国の演じる島崎は、どう見てもうさんくさい日陰者で、カッとしたら何をするかわからないような暴力性と、常に周囲に怯えている小動物のような神経質な一面と、人を絶対に信用しない疑り深さと、自分が得することにおいては俊敏に器用に立ち回るずるがしこさとを兼ね備えた、複雑なキャラクターであった。そのうえ三国は、ドラマ内では説明されることのなかった島崎の悲惨な生い立ちを暗い冷めた目つきと粗暴なふるまいとで十二分に感じさせ、百恵ちゃん演じる娘・直子の献身的な愛情によって次第に心が揺れ動き、自らも愛に目覚めていく過程を全く不自然なく演じきった。
 おそらく日本のテレビドラマ史上、最高の犯罪者役だと思う。三国の数多い出演作の中でも代表作と言っていいのではないだろうか。

 今、『飢餓海峡』の三国を見てはじめて、「ああ、島崎の原型はこの映画の犬養太吉だったんだなあ。『赤い運命』を観ていた大人の視聴者の多くは、きっと島崎の影に三国連太郎を媒介として犬養の姿を見ていたのだろうなあ」と納得する。
 犬養もまた想像を絶する悲惨な過去の犠牲者であり、殺人事件の加害者であり、遅れてやってきた愛を素直に信じ受けとることのできない不器用な男である。
 ただし、役の完成度から言えば、島崎の方が上を行くと思う。

 犬養役は、脚本のせいもあろうが、行動の背景にある動機がいまいち理解できない部分がある。そもそも行動そのもの(犬養が結局何をしたのか)が謎のまま終了してしまうのだから、無理もないのだが・・・。 
 犬養が一緒に逃亡した仲間二人を海の上で殺害したのかどうかは重要なポイントである。そこが郷里の母親に仕送りを欠かさない孝行息子である彼が、悪に手を染めるか否かの分かれ目だったのだから。
 もし、捕まった犬養(=樽見)が自供したとおり、仲間殺しが正当防衛であったのならば、次のポイントは残された金を持って船から逃げるところになる。犬養という主人公が、もはや引き返せない道を選んでいく、その心理の変化を見せるドラマ的に最も重要な「おいしい」箇所を、あえて謎のままにして観る者に示さないのは、どうなのだろう?
 すでに一度意図的に殺人を犯している手で後年家を訪ねてきた八重を殺めたのか。それとも、盗みこそはしたけれど故意に人を殺めたことはなく、八重を殺したのが犬養の初めての殺人なのか。その違いは大きいと思う。
 演じる三国の解釈もどちらともとれるような演じ方であった。
 観る者の想像におまかせしますってことか?
 犬養太吉という主人公のキャラクター設定がもともとあいまいで、三国も後年の島崎を演じた時ほどの自由な表現を監督からまかされなかったのかもしれない。

 その点をのぞけば、良くできた面白い映画である。
 伴淳三郎、高倉健、藤田進、左幸子、加藤嘉。どの役者も渋くて、存在感が抜群で素晴らしい。
 良い役者には「暗さ」が必須であるとつくづく思う。



評価: B-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 
 
  
 

● 講演:「気づき」の迷宮 ~サティの実践とは何か?(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 会場は代々木にあるオリンピック記念青少年総合センター。

 スマナ長老の話を聞き始めて丸3年になるが、最近話の内容が高度と言うか、濃いと言うか、あけすけと言うか、いよいよもって仏教の核心にずばり踏み込んでいくような大胆さと迫力とを感じる。どうも3.11以来、その感じが強まっているような気がしてならない。ひとりひとりが悟ること、変容することの重要性、緊急性が増しているとでも言うかのように。やはりマヤの予言は実現するのか?(笑)
 それとも、常連の多い聴衆者のレベルがそれだけ上がってきているのだろうか。
 いずれにせよ、聞くたびに焦燥感にかられる。

 今回の話も実に深い、実に鋭い、実にシビれるものであった。
 サティ(気づき)の重要性を説明するのに、スマナ長老がとっかかりとして持ち出したのは、なんと「この世の仕組み」「認識の仕組み」「生命の仕組み」という大がかりなテーマであった。
 考えてみたら、すごいことだ。開口一番、「はい、これからこの世の仕組みについて話します」なんて、誰にでもできることではない。(スマナ長老が実際にそう言ったわけではない。念のため。)

 
○ すべての生命の認識(知覚)システムは、幻覚をつくる(捏造する)ようにできている。

○ 存在(世界)とは、認識システムによってとらえた情報を主観で組み合わせて作り出したもの(=幻覚)である。

○ 認識システムは、動物・植物・昆虫・人間の別をとらず、一つ一つの生命によって異なるので、「私」の世界と「他人」の世界とが異なるのが当然である。「私」の世界を「他人」が知ることも、またその逆も、不可能である。

○ 「私」は、幻覚を事実と錯覚してしまい、それにとらわれてしまう。それによって「苦」が起こる。

○ 幻覚(捏造)が起こるのは、六門(眼・耳・鼻・舌・身・意)に絶えず入ってくる、色・声・香・味・触・法という情報(データ)を処理する仕方が間違っているため。

○すなわち、
 六つの門に情報が触れる
       ↓
 「感じた者」が概念(想)をつくる
       ↓
 概念ができたら思考する
       ↓
 この思考が捏造する
       ↓
 過去・現在・未来にわたって捏造された概念を適用する。

○ アジタ行者とブッダの問答
 アジタ: 世は何に覆われている?
 ブッダ: 無明によって覆われています。
      (六門からの情報により捏造された幻覚が事物の本然の姿を覆い隠している)
 アジタ: 人はなぜそのことが分からない?
 ブッダ: 疑いと放逸とがあるからです。
 アジタ: この無明の状態を固定してしまうものは何か?
 ブッダ: 妄想の回転です。
 アジタ: その結果起こる危険とは?
 ブッダ: 苦が起こることです。
 アジタ: あらゆる方向から、絶えず流れ(=情報)が入り込む。どうすれば止められる?
 ブッダ: サティ(気づき)がこの流れに対する堤防です。智慧によって無明がなくなります。


 と、やっとここでサティが出てくる。
 仏教におけるサティとは、「(情報の流入→捏造)という大いなる津波に対して堤防として働くものであり、サティは生命そのものの問題である」と長老は言う。「生きるとは知ることであり、知るとは捏造することです。」

 つまり、我々(生命)が生きるとは、それぞれの認識システムを使って捏造した世界(幻覚)を瞬間瞬間作り出していることであり、幻覚の世界に「私」をもって生きるとき、絶え間のない「苦しみ」が生じるのである。
 「苦しみ」から離脱するには捏造をやめること。六門から入ってくる情報を、次の段階(概念を作る、あるいは思考が始まる)にまで持っていかずに、即座に楔を打つ。
 その楔こそサティなのであろう。 

 こうしたことを「頭で理解する」ことと、実際に「体験する」こととは違う。体験してこそ納得し確信が持てるのだから。心が裏返るのだから。体験するためには、やはり修行=瞑想が不可欠である。
 自分は、頭では理解しているつもりなのだが、なかなか悟れない。

 やっぱり、精進が足りないのだろう。
 

● 若尾文子が怖すぎる! 映画:『妻は告白する』(増村保造監督)

 1961年大映作品。

 しとどに雨の降る午後のオフィス。
 机を並べる同僚たちとの会話。
 と、女子社員の声がする。
 「幸田さん、お客様です」
 部屋の入り口に目をやると、そこには喪服と見まがう黒ずくめの着物に身を包み、ずぶぬれになった髪を振り乱し、ドアの影から上目づかいにひたと男を見つめる女の姿。
 床にポタポタとしずくが垂れて・・・。

 この若尾文子の鬼気迫る演技に背筋がぞっとしない男に幸いあれ。
 職場に突如ヤクザか妖怪が現れたとて、これほど心肝を寒からしめるものではない。
 それくらい恐い。

 明らかに増村監督にはこのような女につかまって振り回された経験があるのだろう。
 ちょっと前なら中森明菜、今ならさしずめ沢尻エリカか・・・。いわゆる魔性の女。
 美しく魅力的でどこかあぶなっかしい。少女のように純粋なふうでもあり、老獪で計算高いふうでもあり。言ってることは本当のようでもあり、ウソのようでもあり。
 平成の精神科医ならば、まずこう診断を下すであろう。
 境界性人格障害。

 登山中の良人殺しの罪を問う裁判という謎とサスペンスをはらむ舞台装置を用いて、一人の真面目な心やさしい青年・幸田修(川口浩)が、被告にして魔性の女・滝川彩子(若尾文子)との切るに切れない関係にはまって破滅していく様を描き出す。
 愛に飢えている女が若い男の愛をもとめて「鬼にも蛇にも」なっていく過程を巧みに描ききった増村監督もすごいが、それに応えた若尾の演技も申し分ない。本当に若尾文子は美しいだけの女優じゃないんだと、この一作を見れば十二分に納得できる。着物の襟から覗く白いうなじも官能的ったらありゃしない。
 
 物語の最後で、幸田は、滝川に出会う前からの婚約者である理恵(馬渕晴子)にも捨てられる。理恵は言う。
 「本当に人を愛したのは奥さん(滝川)だけよ。私もあなたも誰も愛してなんかいない。」
 この言葉によって、幸田との関係の破綻に絶望し薬を飲んで自殺した滝川彩子の愛の強さ、純粋さが賞揚されるような錯覚、幸田の臆病さと冷たさとが非難されているような印象を観る者は持たされるけれど、本当のところどうなのだろう?

 滝川彩子の死に方を見てみよう。
 傘も差さずに(なぜ?)突然訪ねていった幸田の会社のトイレで、持ち歩いていた青酸カリを飲んで自殺。夫の死でおりた生命保険500万円の証書とともに、しっかりと「幸田宛ての」遺書をしたため。その内容は「保険金は、あなた(幸田)と婚約者の理恵さんとの幸せのために使ってください。」

 だれがそのような気色の悪いお金に手をつけられようか。
 彩子と二人での新生活のためにさえ、彩子の元の亭主の保険金を使うのを拒絶した幸田なのだ。(それが二人の仲違いの原因となったのである。) まして、幸田のほとんど目の前であてつけるように自殺した(私は幸田に殺されましたと社内中に広めているようなものではないか!)彩子からのたっぷりの罪悪感付きのプレゼントを、幸田が受け取れるわけがない。
 そんなことくらい想像できない彩子の想像力の欠如こそ恐ろしい。自分を拒否した幸田に対する復讐だろうか? いや、そうではあるまい。自分に都合のいいようにしか人の心を解釈しない(できない)彩子の徹底した自己中心性のなせるわざなのだ。
 それこそ実におぞましい。(実に哀れだ!)

 彩子の亭主がなかなか離婚に応じようとしなかったのも、幸田(と我々観る者)が彩子の口から知った以上の何かしらの理由があるのではと勘ぐってしまう。ちょうど、沢尻エリカとなかなか別れようとしない高城某のように・・・。

 このような女に魅入られてしまったら、男はどうすればよいのだろうか?

 最初から関わらないのが得策には違いないが、危険を見抜けるほど目が肥えるにはそもそも痛い目にあうことが必要だ。美しく魅力的で、そのうえ不幸な結婚をして夫に虐げられているときたら、どんな男が同情せずにいられようか! ちょっと優しく振舞って女の気をひいたが最後、あとは、女の手管にかかってなすがままである。気づいたときには引くに引けないところまではまりこんでいる。
 やっと危険を察知して下手に「NO!」を言うと、女は命というネタを使ってこちらに脅しをかけてくる。つまり、自殺をほのめかす。ちらつかす。これが狂言かというとそうでもなく、今回のように冗談ですまなくなることもあるので実に厄介である。だいたい、自分の命を担保に相手をコントロールするくらいタチの悪いものはない。
 この無間地獄からのがれるには、どこかではっきりと女に「自分にはできない!」を突きつけるしかないのだが、これこそ男が一番苦手とするセリフなんである。

 結局、女に振り回されて心身とも消耗して「もう無理だ、ごめん」と相手に伝えるか(マッチバージョン?)、今までの優しさをかなぐり捨て逆上して相手と同レベルで醜い闘いを続けるか(高城バージョン?)、あるいは、死ねばもろとも世間も仕事も捨てて相手と行けるところまで行く決意を固めるほかない(石田吉蔵バージョン=阿部定の情死の相手)。
 三番目の男は、女から見たら最高に「いい男」なのかもしれないけれど、愛にそこまでエネルギーを(自分を)投資できる男が少ないのは確かである。
 というより、それができる男は、女と釣り合うくらいの深い心の闇(病み)を抱えているような気がする。

 とは言え。
 このような人間がいてくれるからこそ、退屈でつまらない日常がつかの間輝くのかもしれない。保守化し固定化する一方の自我が、巻き込まれることで破壊され、新たに生まれ変わることができるのかもしれない。
 その意味で、自分はこの種の人をこう呼ぶことを提案したい。

 トリックスター症候群。


 
評価: B+
 
 
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 映画:『チェックメイト』(エリック・テシエ監督)

 2009年フランス映画。

 希望の映画学校への入学が決まり、ルンルン気分で(いつの流行語だ!)自転車で走っているところ、目の前を黒猫が横切る。急ブレーキで転倒。ケガした手を洗うためにたまたま入った最寄りの家で、監禁されている瀕死の男を発見。
 結果、ヤニックもまたその家の主人ジャックに捕らわれることになる。
 だから、「他人の家に勝手に入ってはいけない」ってあれほど言ったのに。(聞こえてないか・・・。)

 よくある展開である。
 定石通りならば、この主人はこれまでにすでに何十人も拉致監禁殺害している異常性格者にして残虐な殺人鬼であり、家の地下にはこれまで殺した男や女の死体や骸骨がゴロゴロと塁をなしている。捕らえられた獲物は、必死に逃げだそうとあの手この手を使って奮闘するが、いいところまで行っては捕食者に見つかっておじゃんになる。そのうち、肉体だけでなく精神的にも衰弱し、幻覚が見えたり幻聴が聞こえたり・・・。
 というところであるが、実際まさにその通りに展開するのだから、マンネリズムに通常なら退屈しそうなものである。
 
 定石の退屈さ、凡庸さからこの作品を切り離しているのは、フランスならではの軽妙なエスプリがところどころ効いていて、思わず吹き出すとまではいかないけれど、日本やハリウッドの同種の作品ならば主人公の陥った状況の過酷さにこっちも緊張して固唾を呑んで観てしまうところ、なんだかサンドイッチマンのコントでも聞いているような不条理な笑いに口元が緩むのである。

コント1 
 監禁されたヤニックをジャックが夕食に誘う。一緒に階下に降りていくと、そこにはジャックの妻モードと娘二人がくつろいでいる。絵に書いたようなありきたりの家族の日常風景。隙を見て逃げようとしたヤニックを、ジャックが止めようと殴りつける。それを見たモードのセリフ。
「あなた、子供たちの前ではしない約束よ」

コント2
 2階から飛び降り逃げようとするヤニックを、娘のミッシェルが庭で待ち伏せしていて、バッドでヤニックの足を何度も殴りつける。それを見て怒るジャックのセリフ。
「無用な暴力はいかんと言ったろ。部屋に行ってろ。今夜はテレビはなしだ」

コント3
 翌朝、甲斐甲斐しくヤニックの足の手当てをするジャック。ミシェルを連れてきて、ヤニックに詫びを入れさせる。
「許してくれ。娘に悪気はないんだ」

 と、こんな調子である。
 人を平気で殺す殺人鬼でありながら、妻や娘に尊敬される父親で、平凡なタクシードライバーで、親切なんだか残酷なんだか、異常なんだかまともなんだかよくわからない、というジャックの不条理な性格が、こうした不条理な笑いを生んでいるのであり、ヤニック同様、観ている我々も混乱の極みに置かれる。

 が、この不可解さには理由がある。
 ジャックには、神の命のもと自分が正義を行っているという確固たる信念があり、悪人を見つけ出して退治することを自分の使命と信じているのである。であればこそ、彼には彼なりのルールがある。
「無用な暴力、無用な残酷さは罪である。殺すときは一気にとどめを刺すべし。」
 家族も共有しているこの信仰をのぞけば、あとはまったく普通の家庭なのである。拉致監禁中のジャックがまるで客人であるかのように同じテーブルで夕食をとり、一家団欒し、食後は父と娘はチェスを行い・・・。
 このへんてこなギャップがこの作品の一番の見所であろう。

 チェスの達人であるジャックは、ヤニックに告げる。
 「一回でも私に勝ったら、君は自由だ」
 そうして、二人は毎晩チェスをするようになる。
 負け続けるヤニック。監禁されて他に気を紛らすものがないことも手伝って、ヤニックは次第に勝負にのめり込んでいく。
(絶対にジャックに勝ってやる!)
 しまいに、それは妄執となる。せっかく逃げだす機会をモードがつくってくれたのに、ヤニックはそれを拒絶し、ジャックとの勝敗をつけるために家にとどまる。

 ヤニックがどうしてもジャックに勝ちたいと思うのは、単にチェスの魔力に引き込まれたとか、負けず嫌いであるとか、男の意地とか、ジャックを打ち負かしてジャックの信仰の間違いを正したいとかいうのではなく、ジャックの後ろに自分の支配的な父親の姿を見るからである。ジャックに勝つことは、ヤニックが個人として自立するための通過儀礼なのである。
 なるほどなあ~、やっぱり欧米人のエディプス・コンプレックスって強いんだなあ~。
 
 かくも父親像が確固として強く立ちはだかるのは、キリスト教徒の欧米人は、父親の後ろに「神」を見るからなのだろう。
 近代的自我の確立が神を倒すことから始まったことを思えば、この構造は手に取るようにわかりやすい。
 
 最後のゲームでは、ヤニックがいいところまで行ってジャックを破れるかと思いきや、邪魔が入って結局決着がつかないまま終わってしまう。事件は警察に知られるところとなり、ジャックは捕まり、ヤニックは自由の身となる。
 しかし、精神的にはヤニックはなお捕らえられたままである。
 倒すべき神がいないモラトリアムの牢獄にー。
 
 思ったより深い作品である。



評価: C+


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!





● 映画:『天国と地獄』(黒澤明監督)

日本映画150 1963年東宝。

 手元にある文藝春秋編『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年発行)によると、『天国と地獄』は22位にランクされている。黒沢の作品では、
『七人の侍』(1位)
『生きる』(3位)
『羅生門』(4位)
『用心棒』(17位)
『酔いどれ天使』(18位)
に継いで6番目である。
 100位までになんと13本がランクインしているのだから、いかに黒澤作品が日本人に愛されているのかがわかる。ちなみに、同時代に活躍した巨匠達を見てみると、溝口健二7本、木下恵介6本、小津安二郎5本である。
 このアンケートの回答者は、文春が選定した映画好きを自認するマスコミ関連の業界人372名であるから、それなりのバイアスはかかっていよう。が、黒澤明こそが日本映画史上最大の監督であり、それを超える者はいまだに(永久に)現れていないという評価が動かし難いところなのであろう。 


 『天国と地獄』も実際文句のつけようがない。
 このレベルの作品を生涯に1本撮っただけでも、その監督の名前は永く映画史に刻まれることだろう。脚本、演出、撮影、演技、どれをとっても標準をはるかに凌駕し、第一級の娯楽作品に仕上がっている。本当に巧い。本当に面白い。
 前半の家の中の一室だけでドラマが進行する演劇的な手法は、ヒッチコックの『ロープ』(1948年)を思い出させる。おそらく、あれが黒澤の頭の中にはあっただろう。言葉の応酬と役者の演技、そしてカメラワークだけで緊迫感を生み出していく手腕には舌を巻く。三船敏郎の重厚な骨のある演技には惚れ惚れする。
 一転して、捜査陣の推理と犯人の追跡を描いていく後半では、ミステリーの醍醐味を十分に味わうことができる。警部役の仲代達矢もいいが、たたきあげの刑事らしい無骨さと逞しさと愛敬とをふりまく「ボースン刑事」こと石山健二郎が光っている。
 トーンの対照的な前半と後半とをつなぐ文字通り「橋」における身代金引き渡しのシーンこそ、日本映画いや世界映画における鉄橋シーンの白眉と言える。鉄橋周辺の空間の広がり、列車の走るスピード感をいっさい殺すことなく、何台ものカメラの使用によって角度を変えつつ切り替わっていくショットの生み出す緊張感は、登場人物(警察側)の心理状態とからんで、絶大な効果をもたらす。息を詰めて観るほかない。
 実際、その後の日本のすべての推理・刑事ドラマの原型は、映画・テレビ問わず、この一作にあると言っていいだろう。


 瑕瑾の見あたらない作品であるけれど、あえて難を言えば、エンドシーンがちょっと肩すかしな感じがした。
 誘拐犯である竹内(山崎努)と、脅迫され身代金を払った権藤(三船)との刑務所での対面シーンにおいて、物語はクライマックスに達する。見ている我々は、何らかの両者の対決あるいは犯人側の真情の吐露を期待する。なぜなら、そこに至るまでのドラマの中で、なぜ竹内が犯行を行ったのかがはっきりとは示されないからである。
 もちろん、「貧困=金」が動機ではある。
 地獄(スラムまがいの地区にある竹内のアパート)から天国(丘の上の瀟洒な権藤の邸宅)を来る日も来る日も眺め続けていた竹内が、権藤に対して嫉妬し、劣等意識をかき立てられ、やがて憎むようになるのはわからなくもない。金持ちに対する憎悪や貧富の差を生む社会に対する憤りが、いかにも金持ち然とした権藤に集約されることも不自然ではない。
 しかし、竹内も病院で働くインターンであるからには医者の卵、エリートである。いまは安い給料でこき使われているかもしれないが、末はドクター、前途有望である。しかも、どこかの院長の娘あたりをたらし込むことだってできそうなほどハンサムだ。
 そうした輝かしい将来を棒に振って、失敗するリスクの大きい誘拐脅迫のみならず、死刑になりかねない殺人にまで手を染める必要がなぜあるのか?
 竹内には、語られていない悲惨な過去、強烈な何らかのコンプレックスがあるに違いない。左手の深い傷はそれを暗示しているに違いない。それが最後には何らかの形で明らかにされることを期待していたのである。
 が、結局、竹内は刑執行を前にして自ら面会を希望したにもかかわらず、権藤を前に虚勢を張り続ける。内面は見せない。来たるべきものに怯え、身を震わせ、最後には絶叫して看守に連れ去られていく。また、警察署内の会議の席でも、竹内の生い立ちとか家族関係とかが語られるくだりはない。
 一体、竹内とはどういう人物だったのだろう?
 山崎努は、どういう解釈を持って竹内を演じたのだろう?

 同じ推理ドラマの傑作『砂の器』(1974年松竹、上記アンケートでは13位)と比較したとき、犯人の動機についての描写の浅さは歴然である。
 もっとも、黒澤が撮りたかったのは、純粋に推理&サスペンス娯楽作品だったのであり、山崎努(=竹内)に求められていたのは普通に「悪」役なのだ、と言われればそれまでだが・・・。
 それとも、リアルタイム(63年)でこの映画を観た世代は、あえて説明してもらう必要もないほどに、竹内の置かれている状況の悲惨さ、己のキャリアや将来を棒にふってまで金持ちを憎み犯罪行動に走らざるを得ない苦悩に対する、暗黙の共通理解のようなものを持っていたのであろうか。

 今は「天国」の側にいる権藤の前歴が靴職人であったことが何らかの暗示になっていると読むのは、いささか考え過ぎか?




評価:
 A-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった


「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『おひとりさま介護』(村田くみ著、河出書房新社)

おひとりさま介護 001 上野千鶴子のヒット本にあやかった二匹目のドジョウならぬ三匹目、四匹目のドジョウではあるが、中味はいたって真面目で、つぼを押さえており、個性的。文章も読みやすく、介護に関する様々な情報が得られる点でも有益である。さすが『サンデー毎日』の記者。
 「個性的」というのは、著者の正直さに由来する。
 突然自宅で倒れ嘔吐を始めた母親(74歳)を救急車で病院に搬送し、医師に「ここ1日がヤマ」と宣告されたあとの著者の弁。

 しかし、「ここ1日がヤマ」と言われていたのに、2日経っても3日経っても「ヤマ」はきませんでした。
 そう、私は「ヤマがくる」ことをどこかで願っていたのです。
 父が死んで母が扶養家族になってから、2人の力関係は逆転してしまいました。まだ、母の身の回りの世話まではしていませんでしたが、目に見えてやつれていく母を見ていて、これからの生活はかなり負担が増えることを、なんとなく恐れていたのです。「助かってほしい」という気持ちとは裏腹に、「これで母の面倒を看なくてすむ」という気持ちを私は抱えていました。助からないことに安堵しているもうひとりの自分がいたのです。

 
 長い眠りから覚めた母はというと、私たちが「お母さん」と呼びかけても、「どなた様ですか」。娘の顔がわからないのです。目を開けても視点が定まらず、「キョトン」とした表情で意味不明な言葉を発するのです。
 その様相を見て、私は母が死の淵から生き返ったと喜ぶと同時に、「これはエライことになる」と血の気が引いてしまいました。

 
 著者をエゴイスティックというのはたやすい。
 けれど、いつまで続くか分からない介護地獄を予感した、30代働き盛り&まだまだ遊び盛りの娘の率直な感想ではないだろうか。

 かくして、食べ歩きと海外旅行とを謳歌していた「おひとりさま」の青春の日々が一瞬にして消え去り、何もかもが未知である介護の世界に、多忙な記者の仕事をしながら、足を突っ込まざるを得なくなる。


 そこで知った厳しい現実の数々に驚き怒り落胆しあきれかえりながら、また、軽度の認知症を発病した母親のこれまで想像もしなかった奇矯なふるまいやヒステリーに振り回されて介護ウツに陥りながら、介護保険はじめ様々な制度や裏技を活用することを覚え、最終的に母親をケアハウスに入居させることに成功(?)する。

 このあたり、別記事で紹介した松本ぷりっつ『笑う介護。』(→http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/5338578.html)と似たような展開である。(あちらは父親を介護する娘の奮闘ストーリだが。)
 松本が最終的には介護を前向きにとらえようと意欲し読者にも勧めるのに対し、この著者は自ら言うように「マイナス思考な人間」なので、なかなかハッピーな気分にはなれない。

 介護の本を読むと、「介護をするとあなたの世界がひろがります」「誰かに感謝をすると良い気持ちになります」と書かれています。
 私はいまだに介護をして良かったと思ったことがありません。
「自分の人生は終わったも同然」
「なんで自分ばかりが親の面倒を看なければならないのか」
「生まれ変わったら人間だけはイヤだ」・・・・。
 介護を始めた当初は、1日24時間そんな気持ちでした。最近はそこまで思い詰めていませんが、その気持ちがすっかりなくなったわけではないのです。


 正直でよろしいなあ~。
 この文章を、同じような気持ちを抱きながらも表面上は懸命にとりつくろって現在進行形で家族の介護をしている人が読んだら、「ああ、こんな非情なことを思うのは自分だけではないんだ」と安堵して、自分自身を責めたり罰したりする手をゆるめるかもしれない。
 ポジティブ思考もいいが、「そう思わないといけない」と努力目標になってしまうと、かえってマイナスな影響を生み出す。と言ってネガティブ思考もそのままではつらい。ネガティブ思考の自分をたまには笑うくらいのゆとりがあるのが、ちょうどよいのかもしない。


 一回きりの人生が、自分が選んでつくった「子供のために」犠牲になるのならともかく、「親のために」犠牲になるというのは、なかなか受け入れられるものではない。それも、ある程度自分が人並みのこと(結婚、出産、育児、仕事上の成功、財産の形成、家を建てる、後進を育てるe.t.c)をやり終えたあと、例えば定年退職したあとにそれがやって来るのならまだしも、30代40代というのは、まさにいま自分の人生を作り上げている最中である。そこで、親の介護のために仕事を辞めざるを得なくなりキャリアがストップしてしまったら、結婚や出産する機会を逃してしまったら、今度は自分が年老いたときにニッチもサッチも行かなくなる可能性がある。悪循環である。
 仕事と介護、結婚と介護、子育てと介護の両立が可能なところまで、介護の社会化を持っていかなければ、次世代が育たない。

 しかし、著者が介護を負担だと思う気持ちが抜けないのは、決して著者の「マイナス思考」でも、恩知らずからでも、若者気分が抜けきらない未熟さのせいでも、自分の老後を心配するからでも、老親との関係の難しさのためでもない。
 この本の中で一番見事に真実を突いているな、さすがプロの記者の目だなと思った文章がこれだ。
 

    介護が負担だと思う原因は、金銭的な不安がつきまとっているからです。
 

 介護の社会化が叫ばれて介護保険が導入されたはいいが、まだまだやっぱり介護にはお金がかかる。介護される者が長く生きれば生きるほど、お金がかかる。
 軽くない負担を背負った子供が「一体いつまで続くのだろう(生き続けるのだろう)」とこっそり思ってしまったり、これ以上子供に負担をかけさせたくないと思う親が「一刻も早く死にたい」と願ったりするのも無理のない話である。その状況下で「自立支援でいい介護」なんてできるわけがない。

 もし消費税率を上げるのであれば、ぜひ介護に関する経済的不安を軽減する方向に税金を投入してほしいものである。すべからく人は老い、死ぬのだから、これは正真正銘、誰もが平等に恩恵を受ける公平な税の使い方であろう。


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