ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● ファントムはどこにいる? ミュージカル:『オペラ座の怪人』(ロイヤル・アルバート・ホールinロンドン)

オペラの怪人 001 アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル『オペラ座の怪人』の25周年記念公演が、昨年10月にロンドンで行われた。そのときの記録映像を吉祥寺バウスシアターでスクリーン上映するというので、風邪をおして出かけた。

 ガストン・ルルー原作『オペラ座の怪人』は、ブライアン・デ・パルマ『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)のような翻案作品も含めると、なんとこれまでに10回も映画化されている。これほどリメイクされている作品は他にないだろう。舞台のほうは、ロンドンでは『レ・ミゼラブル』に次ぐミュージカル史上第2位の22年、ニューヨークでは21年の史上最長ロングラン公演記録を現在も更新しているという。
 史上最強、もっとも人々から愛されているミュージカルであることは間違いない。ルルーも『黄色い部屋の謎』よりも有名な作品になろうとは、よもや推測していなかっただろう。推理作家ルルー最大のどんでん返しかもしれない。

 そんな文字通りの「モンスター」ミュージカルの記念公演に、イギリス演劇界&音楽界が威信をかけないはずがない。歌い手といい、踊り手といい、オケといい、舞台装置といい、美術といい、特殊効果を駆使した演出といい、あらゆる要素が最高度に揃えられて、スクリーンを通してからでもその質の高さ、豪華絢爛さ、目も眩むようなイリュージョンの魔術的効果、圧倒的な迫力が伝わってくる。劇場でライブで観たら、腰が抜けるほど衝撃を受け、感動するに違いない。一般に感情をあらわに出さないと言われるイギリス観客たちが、熱狂し、総立ちで惜しみない拍手と「ブラヴォー」を贈っている様子からも、それが十分にうかがえる。
 幕が下りた後は、恒例のようにカーテンコールが続くが、さすが25周年、制作スタッフの紹介から始まって、作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェバーが出てきて挨拶するわ、歴代のファントム5名が出てきてサラ・ブライトンと一緒にテーマ曲を熱唱するわ、最後は紅白歌合戦ばりに舞台袖から仕掛け花火が発射されるわ、まあゴージャス極まりない。
 観劇の余韻など一気に吹っ飛んでしまった。
 ・・・・。

 ストーリー展開も見どころ聴きどころも結末も知っていて、ところどころ退屈な部分もあるこの作品に、今さら涙するだろうかと思いながら観ていたのだが、やっぱりていもなくやられてしまった。ファントムの苦悩が吐露される最初のシーンで。

 産みの母親にすら疎まれた醜い顔を仮面で隠し、世間の水準をはるかに凌駕する学識と音楽の才能と器用さとを持ち合わせながら見世物小屋で糧を得ざるをえなかったファントムの半生は、苦悩の凝縮と言っていいだろう。エレファントマンですら、実の母親の愛を受けることができたのに・・・。
 人間にとって最初の関係性の作り相手である母親(父親あるいは養父母でもいいが)から愛を拒まれたとき、人は後年いかに才能やお金に恵まれようとも自分自身を肯定することができなくなる。自分で自分を愛することができないとき、周囲からの愛を受け入れることもできない。「こんな自分を愛するなんて、こいつはおかしい。嘘をついているに違いない。なにか下心があるに違いない。」と解釈するからである。
 だから、ファントムのクリスティーヌに対する愛もまた、その裏返しで、「音楽の美にともに身をささげる」という大義名分に隠された条件付きの愛である。ファントムに怯え、幼馴染のラウルの手を取ろうとするクリスティーヌに対して、ファントムが「歌を教えてあげたのに、なぜ自分を裏切る?」と怒り嘆く真意は、「歌を教えてあげるかわりに、自分を愛してくれ」ということである。
 ファントムの苦悩は、第一義にはその醜い容貌のためであるけれど、二義的には無条件に彼を受け入れ愛してくれる胸に抱かれたことがないことに起因する。ただ音楽だけが、彼の容貌に関係なく、彼を受け入れ、支え、慰め、力づけ、夢見させる力を持っていたのであろう。

 人々は、そうした彼の苦悩を観る(聴く)ために、わざわざ安くない金を払って劇場に、映画館に足を運ぶ。DVDを購入する。
 なぜだろう?
 人の不幸は蜜の味というように、他人の苦しむ姿を見て自らが優越感にひたるためか、自らの幸運を確認し安堵するためか、身内にかきたてられた同情や憐れみをもって己が優しさに酔うためか・・・。
 それもあるかもしれない。
 しかし、この作品が25年間というもの、これだけ多くの観客を魅了し、今もロングランを続けていることを思うとき、次のように結論せざるを得ない。

 苦悩こそが人間の魂の奥底を領する主人であり、苦悩こそがすべての人が理解し共感しうる最たる感情であり、それゆえ苦悩こそが芸術家が表現すべき第一のものである。

 もちろん、他人の幸福にも人は共感できる。人が喜びにあふれている姿を見ることは、嫉妬に駆られていない限り、一般に気持ちのいいものである。
 ただ、それは周りの者の心を深く揺り動かすだけの力は持っていない。人はどこかで幸福はつかのまのものだと知っているし、幸福な人は「ほっておけばいい」ので、人と人とを結びつける働きも弱い。
 一方、他人の苦しみは人を動かし、人と人とを結びつける働きをする。一つの同じ苦しみを通して人と人とが出会った時、人はお互いが「大いなる苦しみの生」という同じ条件下に投げ出されている同じ人間であることを知る。
 その悟りが、どういうわけか芸術家を使嗾(しそう)し、芸術表現を生み出させる衝動をよぶのである。

 クリスティーヌの無償の愛を受けて苦悩の癒されたファントムは、お得意の手品で持って、舞台から、我々の前から消え去る。
 否、我々ひとりひとりの胸の奥に還って、次なる蘇生の日まで眠りにつくのである。



● 映画:『レイク・マンゴー』(ジョエル・アンダーソン監督)

 2008年オーストラリア映画。

 家族と出かけた湖で行方不明となり、数ヵ月後に水死体で見つかった少女の死の謎をたどる物語。
 全編が記録による回想という体裁を取り、過去の出来事がすべてが終結した現在の視点から、さまざまな記録媒体を駆使して語られていく。テレビ、カメラ、カセットテープ、ホームビデオ、VHSテープ、携帯電話の動画・・・。録画や録音を通して、少女の謎はだんだんと明らかにされていくのだが、一方、記録することで生み出されていく「魔」がある。少女の霊が撮影されたテープに取り込まれていくのである。
 オーストラリアの美しい自然を写し取ったインサートショットを差し挟みながら、思春期の少女の心の脆さ、はかり知れなさをオカルティズムと融合しつつ、客観的に(記録ゆえに当然そうなる)淡々と描いていて好感は持てるのだが、肝心の少女の胸のうちが曖昧なままに終わっていて、いささか拍子抜けの感を否めない。少女が霊となって現れるのは、「家族に本当の自分の姿を知ってもらいたかったから」というドラマ内の説明がそのとおりであるなら、もう少し、少女の心が明かされる必要があろう。つまり、彼女に「何があったか」ではなくて、彼女が起こったことをどう感じ、どう思っていたかを。
 でないと、やっぱり「犬死に」という印象しか残らない。
 それとも、明かされなかった、家族に十分に理解されなかったがゆえに、最後のシーンに見るように、少女の霊は成仏することなく、屋敷に残ったということなのか。

 

評価: C-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

●  白鳥(レダ)の歌 本:『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著)

神話の力 アメリカの著名ジャーナリストであるビル・モイヤーズが、神話学の大家ジョーゼフ・キャンベルに、神話をめぐる様々なテーマについてインタビューする。裏表紙の解説に「驚異と感動の名著」とあるが、まさにその通り。人生でぜひとも読んでおきたい本の一冊と言っていい。しかも、読みやすく、面白い
 それだけのパワーを宿しているのは、なんといってもキャンベルの人間性が十全に引き出されているからであり、その点で聞き手としてのビル・モイヤーズの卓抜さ、そして二人の間にある信頼と親愛の深さを称え上げなければなるまい。この対談の翌年に83歳でキャンベルが亡くなっていることを思えば、これはまさに白鳥の歌なのである。


 神話とは何か。神とは何か。世界中にある神話の共通基盤は何か。神話によく出てくるテーマとは? 男の神と女の神との違いは? 神話の意義は? これからの神話の行方は? 
 神話学への興味から、こういった問いを抱えてぺーじをめくることもできる。むろん、キャンベルから適切な答えを得られるだろう。
 しかし、この本の類いまれなる意義は別のところにある。
 それは、「神話とは何か云々」とは別に、キャンベルという一人の人間が神話と人生とから何を学んだかが、驚くほどの率直さで語られていること。
 そう、キャンベルという人間こそが、キャンベルという個性において種を宿し、花開き、熟し、見事に結実した思想とその言葉のきらめきこそが、読み手を惹きつける。

 思わず線を引いたキャンベルの言葉。(赤字はソルティのコメント)


○ 人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは<いま生きているという経験>だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
 
 たしかに、<いま生きているという経験>の最中には、人は決して「生きる意味」なぞ問わない。たとえば、震災や戦火に見舞われているようなとき。たとえば、恋愛の真っ直中にいるとき。


○ あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。それからそれは他の神話と衝突し、相互関係を持ち、やがて合体して、より複雑な神話になるのです。でも、現代は境界がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは万物に仏性があると見ています。

 「万物に仏性」は大乗仏教の謂いだ。仏教が人間だけでなく「生きとし生けるものすべて」に対して慈悲喜捨を持つよう説いているのは確かである。

○ 個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界の宇宙(コスモス)との関わり方。それをすべての神話は語ってきたし、この新しい神話もそれを語らなくてはなりません。

 「大人とは何か、成熟とは何か」―そこが曖昧で不透明になってしまったのが、いまの日本社会である。成長についての新しい神話(物語)が必要なのかもしれない。


○ 生はその本質そのものと、その性格において、恐るべき神秘です。殺して食うことによって生きるという、この生きざまのすべてが。しかし、多くの苦痛を伴った生に対して「ノー」と言うこと、「そんなものはないほうがよかった」と言うのは、子供っぽい態度です。

 ブッダが喝破したように「生きることは苦であり、すべては無常」である。その認識の次に、「では、どう生きていくか」が来る。ナチスのユダヤ人強制収容所を生き延びたヴィクトール・V・フランクルの著作『それでも人生に「イエス」と言う』を思い起こす。


○ もし自分の至福を追求するならば、以前からそこにあって私を待っていた一種の軌道に乗ることができる。そして、いまの自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ・・・・・。そのことがわかると、自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。


 これぞ精神世界の黄金律。


○ 英雄はなにかのために自分を犠牲にするーこれがその倫理性です。一方、別の見方からすれば、その英雄が自らを捧げた思想が許し難いものだということだって、もちろんあります。相手側の立場から判断すればそういうことになる。が、だからといって、なされた行為に本来備わっているヒロイズムは損なわれません。

 伊藤博文は日本人にとって英雄だが、韓国人にとっては極悪人。彼を暗殺した安重根(アン・ ジュン・グン)は抗日運動の英雄である。


○ 私たちの意識は、自分こそ万事を取りしきっていると思っていますね。しかし、そうじゃない。意識は人間全体の中では二次的な器官であって、それが主人になってはいけないんです。意識は肉体を備えた人間性に従属し、それに仕えなければ。もし意識が支配者になってごらんなさい、意識して政治的意図だけで生きるダース・ベーダーみたいな人間になりますよ。

 ここでいう意識とは、「自我」または「思考」のことだろう。前野隆司『脳はなぜ心をつくったのか』を想起した。(→ブログ記事。http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4973785.html )

○ いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。

 「生きた世界ならば、どんな世界でもまっとう」
 これはすごい文句だ。近代的進歩主義価値観をひっくり返す。我々は、つまり、どんな瞬間でもすでに完全な世界に生きているし、生きることができる。自分がいきいきと生きさえすれば。


○ 最終的には人生は偶然で成り立っている。例えば、あなたの両親が出会ったことも! 偶然、あるいは偶然のように見えるものを通して、はじめて人生は理解できる。そこでの課題は、責任を追及したり説明したりすることではなくて、立ち現れてきた人生をどう扱うかということです。


○ 西洋の伝統の最善の部分には、生きた実体としての個人を認め、それを尊重することが含まれています。社会の役割は個人を啓発することです。逆に、社会を支えるのが個人の役割だという考えは間違っています。 


 「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」(1961年ジョン・F・ケネディの大統領就任演説)


私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多く  のプロトプラズムにほかなりません。(モイヤーズ:まさか・・・・・まさか、そんな。) ちょっと待ってください。純粋な生は、ひとつの目的を持っているとは言えません。まあ見てごらんなさい。生は至るところで無数の違った目的を持っているんです。しかし、あらゆる生命体(incarnation)は、ある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。そのためにはどうすればいいか。私の答えは、「あなたの至福を追求しなさい」です。あなたの無上の喜びに従うこと。あなたのなかには、自分が中心にいることを知る能力があります。

 プロトプラズムとは、細胞の中の原形質のこと。「生きることに目的はない」というキャンベルの衝撃的な言葉に、ビルが一瞬絶句するところが面白い。そのあとに、「生には使命がある」と続く。これまた、下記のフランクルの言葉と相通ずる。

 「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」からです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳、春秋社)


 これ以上、何も言うことはない。
 あたかも、インドのグルか、禅の師か、『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービーのような含蓄ある言葉の数々。
 折に触れ、繰り返し手にとって、再読したい本である。








● 本:『男おひとりさま道』(上野千鶴子著、法研)

男おひとりさま道 男も女も年を取ったら同じ。肉体も頭脳も衰えるし、社会的な役割も失っていく。孤独も死の不安も同様にある。ようやっと、訪れた男女平等。
 と言いたいところだが、やはりジェンダー差が歴然とある。

 姉妹書(兄妹書?)の『おひとりさまの老後』と比べて読むと、つくづく「男」がひとりきりで年を取るのは難しいと感じる。
 経済的な面では、一般に現役時代から収入の多い男のほうが有利かもしれないが、それ以外の面で、男が女に勝てるものはほぼない。勝つとか負けるとか言っている時点で、己が男たるゆえんか(笑)。

 しかし、冗談ではない。
 現役時代、仕事ひとすじで来て家庭のことはすべて妻にまかせてきた男が、定年退職したあと、妻に離婚あるいは死別されたら、どうなるか。
① 家庭のことができない。掃除も料理も洗濯もままならない。
② 人間関係を失う。仕事以外の人間関係を築いてこなかったツケが回ってくる。今から友達を作ろうにも作り方がわからない。続かない。
③ やることがない。仕事一筋で趣味もなければ、「毎日が日曜日」は、日々退屈地獄となる。
 
  その上、娘や息子らとも疎遠になっていたら、病気に冒されたら、下手すると「ゴミ屋敷で孤独死」もあり得る。
 そうならないようにするにはどうしたらいいか。
 痒いところに手の届くように、具体的に懇切丁寧に指南してくれるのが、この本である。


 いまどき離婚するカップルは珍しくないし、どんなに仲の良い夫婦でも同時に死ねるわけではない。妻のほうが先立つこともざらだ。再婚という手もあるけれど、それ相応の財産と人間的魅力とがなければ、男やもめに来てくれる女性を見つけるのは難しいだろう。そうなると、「年老いて男ひとり」は避けられない。でなくとも、自分みたいに非婚シングルのまま年を取る男もこの先どんどん増えるだろう。
 男が「おひとりさま」で生きていく、生きられる技術を身につけておくのは必須と言えよう。


 著者の提唱するメニューの中で、面白いと思ったもの。


1.「おひとり力」をつける。

 これは、ひとりでいることがちっとも苦にならず、むしろ至福を感じることができる能力。そのためには、一人きりでも楽しめる趣味や娯楽やライフワークを持つことが鍵である。
(自分の場合、おひとり力はかなりのポイントだと思う。一人でできる趣味ばっかり持っている)


2.弱さの情報公開

 本文から。

 男が女とちがうのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだ。弱さを認めることができない弱さ、といおうか。これが男性の足をひっぱることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。 

 そう。自分の弱さを認められなければ、他人に「ヘルプ」と言うことができない。いざというときに助けてもらえない。「強い」男を演じ続けるのも大概にしなければなるまい。

3.友人を作るなら「選択縁」


 選択縁とは、血縁でもなく、地縁でもなく、社縁でもない、自ら選べる縁。

 (選択縁は)志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準などで、あらかじめスクリーニングされているから、打率が高い。よりすぐりの釣り堀のなかで、気の合う相手を選べばよい。 

 
 要は、趣味の友達であったり、ボランティア仲間であったり、同じ宗教の徒であったり。
 言うまでもなく、そうした縁につながるよすがをある程度若いうちから持っていることが有利となろだろう。五十の手習いはものになるが、七十の手習いはなかなか厳しそうだ。
 そして、選択縁づきあいに成功するための「七戒」というのが白眉である。

 その1 自分と相手の前歴は言わない、聞かない
 その2 家族のことは言わない、聞かない
 その3 自分と相手の学歴は言わない、聞かない
 その4 おカネの貸し借りはしない
 その5 お互いに「先生」や「役職名」で呼び合わない
 その6 上から目線でものを言わない、その場を仕切ろうとしない
 その7 特技やノウハウは相手から要求があったときだけ発揮する

 なんだかまるで「オタク」の交流ルールみたいである。オタク男には結構楽しい老後が待っているのかもしれないな~。
 この七戒がわざわざ披瀝されるのは、「男」が他人とのつきあいにおいて思わずやってしまう過ちが、この七つの反対の行動ということだ。
 ご同輩よ、気をつけよう!

 
 著者にとって、男が良いおひとりさまの老後を過ごそうと思うのなら「男」の鎧を脱ぎ捨てなさい、つまり「男を下りる」に限る、ということになろう。
 確かに、「下りた」ところで、金玉がついている以上、男は男にかわらないのだ。それがもはや役に立たないものであったとしても・・・。
 筋金入りのフェミニストの面目躍如たる結論だとは思う。男の幸福を願う著者の愛も感じる。

 けれど、バカは死ななきゃ治らないっていうからな。

 バカのまま死ぬのも「おひとりさま道」と覚悟するのもありだろう。


● 「男」という綱渡り 映画:『王の男』(イ・ジュンイク監督)

王の男 2005年韓国映画。

 16世紀の李氏朝鮮の宮廷が舞台のいわゆるコスチュームプレイ(歴史劇)。
 壮麗にして広壮な宮殿、豪華絢爛な調度の数々、目もあやなる衣裳。
 そこにうずまく嫉妬と陰謀と秘密。
 しかも、なにやらボーイズラブ的な、ジュネ的な、薔薇族的な、「組合」的な匂いが立ち込めて・・・。
 と来たら、おのずから期待せざるを得ない。

 一刻も早く観たいと思いながら、こんなにも見逃し続けたのは、昨今の韓流ブームのせいである。ドラマも歌もフィギアスケートも「韓国、かんこく、カンコク」の嵐なので、正直辟易しているのである。昨年の紅白の出場歌手もやたら韓国グループが目立っていた。在日出身の日本人歌手を含めたら、相当数の出場者が朝鮮系だったのではないだろうか。
 芸は韓国なのか?

 さて、この映画、韓国で大ヒットという評判を裏切らず、非常に面白かった。
 役者の魅力、キャラクターの魅力、舞台背景の魅力、映像の魅力、ストーリーの魅力があいまって、物語世界にすっかり入り込むことができた。
 映画というのは、莫大な金のかかる、無くてもいいような娯楽の最たるものだから、それにこれだけの人的・物的・精神的投資ができる現在の韓国のパワー、勢いを感じざるを得ない。

 この映画の最大の魅力は、コンギル(イ・ジュンギ)というキャラクター設定にある。
 美しく、やさしく、芸達者で、一見弱々しく、周囲の、とりわけ男達の庇護欲をそそる女形芸人。若かりし美輪明宏か玉三郎か。マツコデラックスってことは間違ってもない。
 コンギルをめぐる二人の男、幼馴染で芸の相方のチャンセン(カム・ウソン)と、第10代朝鮮王朝国王のヨンサングン(チョン・ジニョン)の「恋のさやあて」こそが見ものである。
 と言っても、そこに肉体上の同性愛はない。コンギルは、食べるためか、快楽のためかは問わず、男と寝ることができる男である。真性の同性愛者と言っていいだろう。(性同一性障害かもしれんが・・・・)
 しかるに、チャンセンもヨンサングンも同性愛者ではない。二人の男ともコンギルと添い寝こそするけれど、男と女のようにして愛し合うシーンはない。これは何も韓国の映倫コードのためではないだろう。二人がコンギルに求めているものは、男が「女」に求めているものとは違うのである。
 肉体的な関係を介在しない、プラトニック(文字通りプラトン的)なものだからこそ、それぞれの男のコンギルへの恋慕は、それぞれにとって他と代えがたい貴重なものとなり、互いの嫉妬は大っぴらに口に出せない性質のものであるがゆえに厄介なものとなる。
 この複雑な様相は、コンギルの位置に普通の「女」を持ってくると明白になる。
 コンギル(役の設定)がチャンセンの妻だったら、妹だったら、恋人だったら、物語はもっと単純に理解され、二人の男の心理も手に取るように観る者に読み取られるだろう。
 ただ、その場合、映画自体は感動的かもしれないが、ありきたりなものとして、たいした印象は残さないであろう。夫婦愛、兄妹愛、男女の愛、そこには何も新しいものがない。男は「男」としてふるまい、女は「女」としてふるまい、一人の女をめぐる二人の男の攻防があるだけ。

 コンギルが「男」であることによって、この物語は「恋愛もの」から「男を問う物語」へと変貌している。
 狂うほど慕う相手が「女」だったら、「男」はあたりまえに伝統的な「男」のままである。相手が女形とは言え、まぎれない「男」であるがゆえに、チャンセンとヨンサングンのそれぞれの「男」が問いかけられ、揺さぶられ、あばかれる。コンギルは、「男」という固い砦に投げ込まれた時限爆弾みたいなものなのである。
 その結果、ヨンサングンは自らの孤独と悲しみと内に押し殺した怒りとに向き合い、それを発散せざるを得なくなった。暴君の誕生である。
 一方、チャンセンはコンギルとの間に長年育みつづけ、王によって引き裂かれたことで初めて認識が迫られることになった名状しがたい感情を、「芸」という共通する生きがいによって昇華させる。
 クライマックスシーンで「生まれ変わっても芸人になりたい」と絶叫する二人の真意は、「生まれ変わってもお前と一緒になりたい」にほかならない。

 三人の「男」が微妙なバランスを保ちながら、ぎりぎりのところで「男」を演じていく。その緊迫感と怖いもの見たさとが、強烈な磁力を生んで観る者を呪縛する。あたかも、映画の最初と最後に出てくる綱渡りのシーンのように。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

 

● 怒りと欲 本:『怒らないこと2』(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ発行)

 怒らないこと2012年最初に読んだ本。

 自分もかなりのスマナファン、もといブッダファンであるのは認めるにやぶさかでない。

 この本はベストセラーとなった『怒らないこと』の続編であり、この本自体もベストセラーとなった。
 そのことにちょっと驚いた。
 スマナ長老のいずれかの著書が遅かれ早かれベストセラーリストに載るであろうことは予想していたが、それが『怒らないこと』であるとは思わなかった。
 世の中の人は、それほど日々「怒って」いるのであり、怒る自分を「どうにかしたい」と思っているがゆえのベストセラーなのであろうが、周囲がそんなふうであるとは思っていなかったのである。
 一昔前は、路上でも電車内でも飲み屋でも顔を真っ赤にして怒っている人、声を荒げて喧嘩している人を頻繁に見かけたものであるが、ここ最近目にすることがほとんどなくなったし、職場を含む自分の周囲で感情をむき出しにして怒る人も少ない。引きこもりがちな自分の生活のせいもあろうが、日本人はよく言えば「冷静に、我慢強く、おとなしく」、悪く言えば「無感情に、内向的に、臆病に」なっているように思われる。
 なによりも自分自身、最近ほとんど「怒った」という記憶がない。

 愚痴を言う、ケチをつける、皮肉を言う、批判する、イライラする、ムッとする、あきれる、ということは多々ある。これらも、もちろん「怒り」には変わりない。が、自分の中で抱えきれなくなるほどの感情には肥大しない。直接的にその原因となった対象に向かって、感情的なふるまいとなって跳ね返ることもない。暖炉に花瓶を投げつけたスカーレット・オハラや、ちゃぶ台をひっくり返した星一徹がよほど新鮮である。
 自分の中に怒りをため込んで、便秘状態になっているのに、そのことにすら気づいていないのかもしれない。いや、もっと悪いことに、行き場のない怒りのエネルギーが自己破壊に向かっている可能性だってある。
 くわばら、くわばら。

 大体、昔から他の人が「怒り」を感じるような場面で「哀しみ」を感じることの方が多かった。
 また、怒ってもそれが長続きしない。怒りの感情を自分の中に持ち続けている気分の悪さに自分自身が参ってしまうからだ。復讐や敵討ちは自分には向かない。愛する家族を殺害された遺族が、犯人の死刑を求めて、何もかも投げ打って残りの人生をかけて闘いに身を投じる姿は、無理もないと思うし、事件の真相と犯人への適切な処遇を求めることには大いに同感するけれど、怒りという原動力でそれをやり続けることは自分にはおそらくできないだろう。
 怒るのにも才能があるのかもしれない。

 自分にとって問題の多いのは、いつでも「怒り」よりも「欲」であった。
 欲に振り回されて、ずいぶん人生を棒に振ってきたと思う。まあ、「人生とは結局、欲に振り回されることである」と言えないこともないが・・・。

 であるから、この本の中で、スマナサーラ長老がこう述べているのにヒヤっとさせられた。

 「怒り」のバージョン違いに「欲」というものがあります。「苦」を感じると「怒り」が起こりますが、そのとき、「これがなくなってほしい、こうなってほしい」と希望します。この「ほしい」に焦点のあたった感情が「欲」です。
 たとえば、お金がない状態でいるとします。「なんでお金がないんだ」と思っているあいだは怒りの感情です。それが、「大金持ちになりたい」というふうに先を意識すると「欲」になります。今の状況・現実に焦点をあてると「怒り」です。その現実がなくなった状況を妄想すると「欲」です。現在を見るか、将来に期待するかという差で、怒りか、欲が生じるのです。

 つまり、自分には「怒り」が少ないのではなくて、「怒り」が「欲」に変じているだけということだ。しかも、現実を見ていないというおまけまでつく。
 う~む。とすると、「怒り」を長く抱えていられない性分が、かえって「欲」を強めているのかもしれん。

 新年早々のショック。




● 映画:『戸田家の兄妹』(小津安二郎監督)

 0121941年松竹映画。

 まずは音の悪さにがっかり。
 古いフィルムだから仕方ないのだが、こうしてみると、映画という表現形式は文学や音楽にくらべると、非常に脆いものであることが知られる。
 文字や楽譜は新たに書き写して、作品を元通りに再現することができる。作品そのものが失われる心配はまずない。絵画や彫刻や建築物も時の浸食を受けやすいけれど、フィルムの方が脆弱性では勝っていよう。500年前の絵画は今も残っていて鑑賞することができるけれど、わずか60年目のフィルムでさえ、途中で観るのを止めようかと思うほどの劣化ぶりである。
 もちろん、現在では作品をきれいなままデジタル化して保存もコピーもできるようになった。けれど、DVDは電気がなくなれば単なる円盤に過ぎなくなる。

 とは言え、やはり小津映画。観る価値は十分にある。
 構図の見事さ、日本家屋や女性の着物姿の美しさ(それをもっとも感得させるのが葬儀のシーンであることは奇妙である)、人の消えたショットの含蓄ぶり、セリフ回しの品の良さ、家族内で起こるちょっとしたすれ違いにドラマを生み出す冴えた演出(高峰三枝子演じる三女が、義姉に夜ピアノを弾くのを止めるよう頼みに行くシーンなど、凡百のサスペンス映画が吹っ飛ぶほどのドキドキ感がある)。8年後の『晩春』から始まる小津絶頂期の序章をここでは確認することができる。

 あらすじから言っても、この作品は『東京物語』(1951年)の雛型であろう。
 名士であった夫の急死と共に屋敷を失った後、肩身の狭い思いをしながら娘や息子の家を転々とする年老いた妻(葛城文子)と三女(高峰三枝子)。その不憫な姿は、『東京物語』の上京した老夫婦(笠智衆と東山千栄子)の姿に重なる。
 長男の家でも長女の家でも厄介者扱いされて、行き場を失った二人は、『東京』では熱海の旅館に、『戸田家』では鵠沼の荒れた別荘に追いやられる。二人に親切にする唯一の人間として、『東京』では原節子演じる義理の娘の紀子、『戸田家』では佐分利信演じる次男昌次郎とが配される。
 『戸田家』では、母と娘は、昌次郎と共に大陸で暮らすことに決まり、ハッピーエンドとなるが、それだけにそこに至るまでの他の兄妹の邪険な仕打ちは無情に描き出される。父親の一周忌に集まる兄妹の面々を非難する昌次郎の矛先も容赦ない。親の恩を忘れ、年老いた親を大切にしない身勝手な子供たちに対する小津監督自身の怒りが爆発している感がある。戸田家の兄妹たちが名門を鼻にかけていることも怒りを増幅する効果がある。
 一方、『東京』はどうだろう?
 設定こそ似ているが、ここでは最早、身勝手な娘や息子に対する怒りはほとんど感じられない。『戸田家』と違い、一族が日々の生活に追われる庶民であることにもよるが、子供には子供の生活があり、家庭があり、仕事があり、日々の雑事がある。そんな中、親の居場所はつくりたくてもつくれないのである。決して恩知らずなわけではない。老夫婦に親切な紀子が、戦争で夫を亡くした寡婦であり、子供の持たない身であることは、偶然ではあるまい。新しい自分の家族を持つことは、生まれ育った古い家族を捨てることなのだ。

 すべて動物は我が子の面倒を見るようプログラミングされている。それは種の保存に関わる本能である。
 しかし、自分を生み育ててくれた親を死ぬまで面倒を見る動物はいない。それはそもそも本能に書き込まれていない行為なのである。
 唯一、人間だけがその行為をやることができる。本能でなく、文化として位置づけたことによって。(もちろん、愛も感謝も恩も義理も文化である)

 『戸田家』ではこうした一つの文化が時代と共に失われていくことを嘆き憤った小津が、『東京』ではある種の諦観と受容において映画を撮っているように思える。
 それとともに、『戸田家』ではほとんどない自然描写が、『東京』では頻繁に取り入れられる。生いること、老いること、別れること、死ぬこと。あたかも、人間も自然も同じ宿命のうちにあると達観しているかのように。

 文化が壊れていくことの焦りと憤りは、わずか12年の歳月を経て、哀しみと諦念に変わった。
 1941年から1953年。
 その間に小津監督自身に何があったかは知るよしもない。
 何が日本にあったかは言うまでもない。



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 子供には勧めたくない:岩殿山(634m)から稚児落し

岩殿山 006●12月23日(金)晴れ

●ルートとタイムスケジュール
09:30 JR中央線・大月駅着
      歩行開始
10:40 岩殿山頂上着
      休憩
11:10 岩殿山出発
12:50 稚児落し着
      昼食
13:30 下山開始
14:10 富士急都留中央バス乗車
      歩行終了
14:15 大月駅着

●所要時間 4時間40分(=歩行3時間30分+休憩1時間10分)


 大月駅の近くにいかめしく構える異様な岩山。
 山頂からの富士山がすばらしいというので、一度は登ってみたいと思いながら、容易に人を寄せつけないオーラーを発している岩殿山。さすが、戦国時代に要塞堅固な城として名を馳せただけある。 
 
 前回は通常のルートとは逆からせめてみて、途中山道に迷ってさんざんな目にあった上、結局岩殿山まで辿り着けなかった。今回は、正攻法、岩殿山から稚児落しのコースをとった。

 岩殿山は階段が整備されているし、木々も少ないので、山登りという感じはしない。大月市街を見下ろしながら、ひたすら段を上り、高度を上げていく。

岩殿山 001 山頂からの景色は評判通り。
 ほぼ360度、山々が大月市を囲んでいる様が確認できる。平野が帯のように細くなって遠のいていく先には、山々を従えた富士山がひときわ高く空中に浮かんでいる。
 雲が多く、壮麗にして高貴なお姿をなかなか見せてくれなかったが、待っていたら、一瞬、幻のように全容が垣間見られた。

 富士山をかくまで貴くしているのは、どんなに近いところからでさえ、いつも必ず姿が見えるわけではないというところにある。
 前に、富士山の裾野にある公営施設で研修をしたときのこと。前日の午後に宿舎に入ったとき、霧でまったく周囲の景色が見えなかった。翌朝、起きて窓の外を見たら、真ん前に完璧な富士山が視界に入りきらぬサイズで出現していた。

         岩殿山 002


 山頂は陽がよく当たりポカポカして気持ちいい。ここで昼食にしたいところだが、我慢我慢。
 ここから稚児落しに向かう道がわかりにくい。表示が目立たず、最初は反対方向に歩いてしまった。
 前回も感じたが、どうも稚児落しへの道標が不親切である。大月市はなんとなく稚児落しへの登山者・観光客の入山を抑えたいと考えているのではないか、と思ってしまう。(その気持ち、わからなくもない)

岩殿山 003 やっと道を見つけて、築坂峠を経て、鎧岩に。
 ここの岩場は、手に汗握るスリルが味わえる。
 手すりやロープや鎖などがちゃんと張り巡らされており、登るのには苦労しないよう整備されてはいるが、足下は切り立った崖である。気を抜いて足を滑らせると、岩壁からまっさかさまに転落する危険がある。
 マジこわい。ここでのおふざけは禁物である。

 鎧岩から延々と尾根を歩く。
 片側(左手)は遮るもののすくない素晴らしい景色が続く。
 いい加減に休憩がほしくなった頃に、一登りで、いきなり稚児落しの大絶壁が現れる。
 面白いことに、稚児落しの大絶壁は、稚児落しに至るまでは視界に入らない。そして、稚児落しを離れるとすぐに視界から消えてしまう。稚児落しにいるときだけ、その驚くべき凄絶な景観が現れるのだ。
 おそらく、大月市のどこかの平地からこの大絶壁が口を開けているのが見えるはずである。(大月駅周辺からは見えない。) 下から見たらどう見えるのか、いつか確認したいものである。 
 
岩殿山 005 大月市に向かい西から南へ、垂直に切り立ったL字型の凄絶な岩壁。
 上からのぞくのにも勇気がいる。
 しかも、崖の突端には手すりも安全ロープも防護柵もない。足を滑らせたら、間違いなく一巻の終わりである。
 ここなら飛び降り自殺も容易だろう。

 「よく、こんなところが、こんな状態のままで、さらしてあるなあ~」

 驚きとも感心ともつかない感嘆の念が上がる。
 普通、転落防止のため、景色を妨げるいろいろな手すりだの、柵だの、安全ロープだの、警告板だのが、置かれてしまいそうなものである。それがいっさいないところが気持ちいい。
 その意味でも、あまり小学生や中学生などに来てほしくない。
 子供が来るようになったら、PTAが騒ぎ出し、この無防備な景観が瞬く間に工事現場みたいに殺風景になってしまうだろうから。
 稚児落とし子供(稚児)は来ないで(落し)。

 このまま知る人ぞ知る絶景のままであってほしいものだ。  
 

●  映画:『帰らない日々(Reservation Road)』(テリー・ジョージ監督)

 2007年アメリカ映画。

 目の前で息子を轢き逃げされた父親と、轢いた父親。
 被害者と加害者をめぐる物語である。
 加害者を目撃した者はおらず、車のナンバープレートも読まれず、現場には確たる物証も残っていない。
 このままなら、この二者が出会うのは難しかったであろう。

 運命のいたずらか、警察の犯人捜しに失望した被害者イーサン(ホアキン・フェニックス)は、弁護士に事件の捜査を依頼する。
 その弁護士こそが、加害者ドワイト(マーク・ラファロ)であるとも知らずに・・・。

 こうした異様な設定の中で、鏡のように向かい合う二人の父親(被害者と加害者)の心理が丁寧に描き出され、事故後のそれぞれの家族とのやりとりや関係の変容する様がドラマを深めてゆく。
 どの演技者も達者であり、登場人物のそれぞれの行動には説得力があり、全体に見ごたえのあるドラマとなっている。
 心の綾を丁寧に描くだけで、十分いい映画になりうるという見本である。
 濃密な時間が過ごせた。

 ひとつだけ気になるのは、画面が暗すぎること。
 夜のシーンが多いのだが、画面が暗すぎて目を凝らさなければならないので、疲れてしまう。
 「夜は暗いのが当たり前」ではなくて、暗さが必要なシーンと、そうでないシーンとで、もっと工夫して明るさにメリハリをつけてくれれば、まだ我慢のしようもあるのだが・・。
 なんだか全体的に暗い。
 話の暗さを、画面の暗さによって保障する必要はないだろうに。


 「光が強いほどに影も濃い」って、月影先生も言ってたぞ。(from『ガラスの仮面』)



評価: B-

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

●  枝に座ってその枝を伐採することはできない 講演:『嫉妬しないこと 誰かの美徳を喜ぶこと』(講師:アルボムッレ・スマナサ-ラ)

代々木からの富士山 12/18開催、テーラワーダ仏教協会の月例講演会。
 最近は満席続きで、予約必須になっている盛況ぶり。
 代々木のオリンピックセンターの窓から見える夕映えの富士山がきれいであった。

 いくつか心に残った言葉を羅列する。
 
○ 嫉妬は怒りのあまたある顔の一つ。自分の無能に対する怒りが「嫉妬」。一方、自分の失敗に対する反抗が「後悔」。

「枝に座って、その枝を伐採することはできない」
 貪瞋痴(どんじんちー欲、怒り、無知)も煩悩も心の本能(土台、精神的基礎)なので、そもそも「自我」がそれらを無くすことは無理な話。「自分」で「自分」を治そうとすることは誤り。

○ 貪瞋痴は心の本能であっても、常にいっぺんに機能するわけではない。状況によって悪い面が表れる。しかし、繰り返し同じ感情が起こると、心はそれに慣れてしまい、「性格」となる。

○ 欲や怒りが成長や発展の起爆剤となるというのは邪見。

○ 嫉妬の解毒剤は「喜び(ムディター)」
 他人を観察して自分の中に「喜び」が生じるように、敢えて、おのれの見方にバイアスをつけるのがコツ。これは「常に喜びや楽しみを求めている」という生命の法則にかなっているので、「正思惟」である。

○ 嫉妬を解毒する「美徳発見の探検」のやり方
1. 自分が気に入っている相手を何人か選ぶ。(性欲や愛着を起こすような相手は避けること)
2. その生命の善いところ(美徳、長所)を思い浮かべ、心の中で微笑んでみる。
3. その相手がもっと幸せになったらいいなあと思う。
4. 短所は無視する。長所を拡大する。相手が喜びを感じることを調べて共感する。


 いつもながら、明快で、歯切れ良く、ユーモアに縁取られた講演であった。
 不思議なことには、いつも、自分がまさに今抱えている問題や疑問に対する答えが示されるような気がするのである。まるでスマナ長老が自分の状況を透視しているかのように・・・。

 ところで、「生きることは苦」「すべては無常」という鉄壁の法則をとことん悟るためにテーラワーダ仏教徒は修行しているわけであるが、これと上記の「生命は常に喜びや楽しみを求めている」という法則は一見矛盾する。

 この矛盾を解く鍵こそ、「無知」であろう。
 生きることは本来「苦」にほかならないのに、そのことに気づかない、そのことを認めたがらない。それゆえに、生命は喜びや楽しみを求める。そもそも、喜びや楽しみを求めるということ自体が、「生=苦」のまぎれもない証拠であるのだが・・・。

 無知により仮りの喜びや楽しみを求める人々に、あえて共感し、その喜びの成就を願う。自分自身はそれが「苦」であり「無常」であると認識していても・・・。


 それが「慈悲」なのだろうか。 


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