ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● ハリウッドが秘したもの 映画:『緑色の髪の少年』(ジョセフ・ロージー監督)

緑色の神の少年 001 1948年アメリカ映画。

 「映画って本当にいいもんですね~。」の水野晴郎氏が選んだ「DVDで観る世界名作映画」シリーズの一本。

 ある朝目覚めたら、髪の毛がすっかり緑色になっていた戦災孤児のピーターは、周囲の好奇の目や差別、学校仲間からのいじめにも負けず、それを戦争の悲惨さを世界に伝えるために自分に課せられた使命ととらえ直し、誇りをもって明るく生きようとする。
 しかし、育ての親はじめ周囲の大人たちの「髪を切れ」という圧力は強く、衆人環視の中、丸坊主にさせられてしまう。


 すでに評価が定まっている通り、戦闘シーンのない反戦映画である。それで誤りはないのだろうが、それだけではない。
 というのは、ジョセフ・ロージー監督は、この作品を取った数年後に「赤狩り」でアメリカを追われ、イギリスに亡命するからだ。世間から危険視され、迫害を受ける緑色の髪の少年の姿に、当時のアメリカ社会における共産主義者(と目された人々)、そしてロージー監督自身を重ね見ることは自然であろう。
 そして、この作品は、「緑色の髪」という寓意的表現を用いることにより、共産主義者に限らず、あらゆる少数者、異端者に対する差別と迫害のありようを描き出すことに成功している。

 少年が床屋の椅子の上で涙を流しながら丸坊主にされるシーンの残酷さは比類ないものである。
 それは、社会の側から見れば、教育であり、矯正であり、脱洗脳であり、受容のための儀式であるが、個人の側から見れば、自由の剥奪であり、自己の放棄であり、魂の崩壊である。
 長い目で見れば、個人の受けた損傷は、結局、その社会自体の損傷にほかならない。なぜなら、他人に許さないものを、人はおのれに与えることはできないからだ。
 赤狩りの過去を持つアメリカが、新自由主義の行き過ぎを止めることができないのはそのせいだろう。

 ジョセフ・ロージーの作品は、日本未公開のものが多く、レンタルショップでもほとんど見かけることがない。自分もオペラ映画である『ドン・ジョバンニ』くらいしか見ていない。(と思う)
 なので、断言はできないのだけれど、どうもこの『緑色の髪の少年』には、同性愛者差別に対するプロテストが潜んでいるような気がする。髪が緑色になった原因を大人たちが追究するシーン(「牛乳のせいか、水のせいか」)や、少年が「自分がなりたくてなったんじゃない!」と叫ぶシーンなど、妙にブライアン・シンガー監督の『X-MEN』(明らかなゲイ映画)と呼応するようなダブルミーニングがある。
 ほかの作品でも、ゲイという噂のあった男優ダーク・ボガートやヴィスコンティお気に入りのヘルムート・バーガーを使っているところ、リズ・テーラー主演の『夕なぎ』の原作はカミングアウトしていたゲイの戯曲家テネシー・ウィリアムズであること、未見であるが『召使』や『秘密の儀式』の同性愛的匂いのする筋書き、などから想像するに、どうもジョセフ・ロージーはゲイセクシュアリティを持っていたのではないだろうか?

 だとすると、この『緑色の髪の少年』は、ヒッチコックの『ロープ』同様、もう一つ深い意味を持った、当時としてはかなり挑戦的な作品と言えるのかもしれない。それは、反戦思想よりも共産主義よりも反米的であったはずだ。両作品が同じ年に撮られているのは、どういう星のめぐり合わせか。

 水野晴郎が選んだ「DVDで観る世界名作映画」シリーズの一本として販売されていた。

 


評価: B+


参考: 





A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!

● 本:『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』(三好春樹著、新潮文庫)

じいさんばあさんの愛し方 介護関係の本を読んでいると必ず出てくる名前が「三好春樹」である。
 どこの業界でも「この人の名前を知らないのはモグリ」みたいな人がいるものだが、どうやら今の日本の介護業界のキーパーソン、カリスマであるらしい。
 新潮文庫に著書が2冊(もう1冊は『老人介護 常識の誤り』)入っていることからも、それは知られる。

 面白いのはこの人のプロフィール。
 中卒なのである。高校中退して、数々の職業を経た後に特別な思いもなく老人ホームに就職。そこで介護の面白さに目覚めて、31才で理学療法士の資格を取得。35才で独立し、「生活とリハビリ研究所」設立。今では全国を回って講演に研修に引っ張りだこである。
 介護の世界は、学歴も性別も資格も(加えて年齢も)関係ないということを、身をもって教えてくれる人だ。
 本の中でも「資格より脂質」(変換ミス)「資格より資質」と言っている。
 この資質っていうのが曲者である。

 一体、介護職に向いている資質とはなんだろう?
 老人と仲良くなれること。
 では、老人と仲良くなるとはどういうことか?
 老いと、死と、仲良くなれること。

 人は誰でも老いる。そして、死ぬ。
 これだけはどんな人にも平等にやって来る。頑張ってはいるけれど吉永小百合も老いる。森光子や黒柳徹子もホリエモンもイチローもビル・ゲイツも芦田愛菜も、老いて死ぬ。こればかりはお金ではどうしようもできない。(多少引き延ばすことは可能だが)
 だから、「老い」と「死」と上手につきあえる人ほど、人生の最期は幸福と言えよう。
 そして、自分自身の老いや死と上手くつきあえない人間が、他人のそれとつきあえるはずがない。


 この本の中には、思わずメモしたくなるような老いや介護に関する名文句が散見する。
 それらの多くが、一見、逆説や常識の裏返しのような形を取るのは、この社会の一般常識、健常者の世間的価値が、老いの文化を全く含んでいないところに成立しているからにほかならない。
 いくつか紹介する。(以下、本より引用)


・年を取ると個性が煮詰まる。
 人間が丸くなるどころか、人格が完成するどころか、年を取ると個性が煮つまるのだ。真面目な人はますます真面目に、頑固はますます頑固に、そしてスケベはますますスケベに。


・臭いのは三日で慣れる。 
 初めてオムツ交換を体験すると、昼食は口に入らないに違いない。しかし、人間というものの適応力はすばらしいもので、本当に三日目には、カレーライスを食べながら「○○さんの便、ちょうどこんなふうだったわよ」なんて言ってるのである。


・人が元気を出すには仲間が必要
 なにしろ、家族も、やってきてくれる人たちも、老人から見ればみんな自分より若くて元気な人ばかりである。となると“世界で一番不幸なのは自分だ”という気持ちになっても不思議ではない。人が元気を出すには仲間が必要なのだ。自分と同じように年をとっており、同じように障害を持っている人との、横の人間関係が必要なのである。


・ボケていない人のケアの方が大変
 「ボケの人はちゃんと関わればちゃんと落ち着いてくれる。ボケてない人は変なプライドがあったりして、けっこうストレスなのよね」(宅老所スタッフのセリフ)


・人物誤認も関係のうち
 デイサービスにはスタッフも利用者もいろんな人がいる。そのうちの誰かとウマが合えば、つまり無意識的コミュニケーションが成立すれば、なんとか落ち着いていられるのである、もちろん次の日にはもう忘れているが、いうまでもなく記憶なんてのは意識的世界のものである。無意識の世界で何かが蓄積され豊かになっていくにつれて、ボケ老人はちゃんと落ち着き、笑顔が出てくるようになるのだ。

・「正しさ」と「明るさ」の違和感
 正しくなくてはならないのなら、多くの老人たちの人生は過ちだらけだった。私のこれまでの人生ももちろん過ちだらけだ。明るくなければならないのなら、老人の多くが抱え込んだ暗さはどうなるのか。明るい光の世界からはその影の部分は見えないのではないだろうか。それじゃ老人と付き合えないだろう。


 現場で当事者と向き合って来た人の言葉には説得力がある。


● 映画:「テッセラクト」(オキサイド・パン監督)

 2003年タイ・イギリス・日本共同制作。

 アレックス・ガーランドのベストセラー小説『The Tesseract(四次元立方体)』を原作とするサスペンス。
 シネマトピックスオンライン(http://www.cinematopics.com/cinema/aboutus.php)の解説によると、

  これからあなたが見ることになるのは、三次元の断片(ピース)である。そして、その断片を組み立てることによって、そこに四次元が現れるー。『テッセラクト』は、映像のパズル。かつてない大胆なコンセプトの映像体験。進化を続ける映画の最終形態ともいうべき、インテリジェントな傑作

だそうだ。

 バンコクのホテルを舞台に、いくつかの並行して起こるストーリーがそれぞれの主人公の視点で描出される。それぞれのストーリーが、ある時は近づき、ある時は遠ざかり、ある時は絡み合い、ある時はすれ違う様子を、映画を見る我々は時間軸を行きつ戻りつしながら、「神の視点で」見て取ることができるという仕掛け。
 興味深い試みではあるけれど、「四次元」とか「パズル」とか「インテリジェント」とか騒ぎ立てるほどではない。
 むしろ、そういった形容は、ナチョ・ビガロンゴ監督の『タイムクライムス』(2008年)にこそふさわしい。本当に頭をひねる不思議な映画。未見の人は必見。

 ともあれ。
 凝った作品である。
 映像が凝っている。(バン監督が長年CM制作をしていた関係だろう)
 脚本構成が凝っている。
 編集が凝っている。(コマ落としの多用や同じシーンの繰り返し)
 バン監督の才気とテクニックの冴えが全編に横溢している。
 凄い映像センスの持ち主であることは間違いない。
 
 しかしながら、今回はそのことが裏目に出てしまっているようだ。
 一体、何のためにそこまで凝ったのかがわからないのである。
 物語を効果的に表現するため、テーマをより深く観る者に伝えるためにこそ、テクニックはある。ドラマあってのテクニックであって、その逆ではない。
 この作品は、テクニックのためのテクニックになってしまっているのだ。

 一例を挙げると、クライマックスの車の廃棄場のシーン。
 主人公のショーン(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は、後を追ってきたマフィアの男に背中を撃たれて地面に倒れる。次にマフィアは、逃げようとする少年ウィット(アレクサンダー・レンデル)を殺そうと狙いを定める。それを何とか阻止しようと、最期の力を振り絞って、ショーンは落ちていた拳銃をつかみ取り、マフィアに向かって発砲する。
 命中し、倒れるマフィア。
 ここでなぜか監督は、マフィアが地面に倒れる瞬間を、二重写しするのだ。専門用語で何というのか分からないが、スローモーションではなく、撃たれたばかりの直立している体と、倒れていく途中の斜めの体との両方を同時に映し出す。まるでマフィアが幽体離脱しているかのように。  
 一体、なぜ?
 昔から、アクション映画の主要人物が撃たれたり刺されたりするシーンでスローモーションを用いるのはよくある手だ。すでにそれなりの思い入れのある人物が時間をかけて死んでいくのを見守らせることで、観客の心の内に様々な感情をかき立てることができる。そして、物語の局面が変わる決定的瞬間を強調することができる。
 個人的には、こういう場面でのスローモーションは好きでない。死ぬときは、サッサと倒れていった方がかっこよいと思う。が、少なくともそれは、感動を高めるためという目的を持った特殊効果である。
  しかるに、このマフィアには人格がない。性格を感得させる描写もまったくない。単なる、マフィアの一員で、殺し屋としての、ゲームのコマとしての役割しか持たされていない。この男が物語にキャラとしての「顔」を持って登場するのは、終わりの部分のみなのだ。
 そいつが死んだところで、観る者は「別に・・・」なのだ。なんで、死ぬときだけ、高等テクニックを使って映像処理してあげるのだろうか?
 意味がない。
 (それとも、生まれ変わりを信じるタイの観客のために、幽体離脱して霊魂が抜けるところを見せたのか?)

 テクニックが空回りしている。

 原作については、読んでいないので何とも判断できないが、この映画に関してだけ言えば、時間軸を行ったり来たりしながら複数のストーリーを語っていくという根本のテクニック(=四次元立方体)自体が、効果的に機能しているとは言い難い。そのテクニックの利用により本来生じることが期待されるドラマの奥行きの深さ、「因果の輪」というテーマの真髄が全然響いて来ないのである。
 これは致命的である。 
 
 ホテルのベルボーイを演じたアレクサンダー・レンデルは驚くほど演技達者なうえ愛くるしいし、イギリス人心理学者を演じたサスキア・リーヴスは、品格のある演技で存在感が光っている。
 いい役者が揃って、いい演技をしているだけに残念と言うほか無い。



評価: C-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 

「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。

「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」 「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」 「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。

「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。

「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」 「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)

「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。

「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった

「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!




 


 

● 生みの親、育ての親より・・・ 映画:ディープエンド・オブ・オーシャン(ウール・グロスバード監督)

 1999年アメリカ。

 映画は宝庫だ。
 観ていない過去の膨大なストックの中に、まだまだいい作品が埋もれているものだな、老後もきっと退屈しないですむな、と嬉しがらせてくれた一品。

 公開時、あるいはDVD(99年はまだビデオか?)レンタル開始時に、観ようと思わなかった理由はよく思い出せない。
 たぶんタイトルが良くないってのがあるだろう。
 最近は、わざわざ日本語のタイトルをつけずに、原題をそのままカタカナ表記するってのが多いけれど、ちょっと考え直してもらいたいものだ。
 『エイリアン』とか『アバター』とか『ダイハード』みたいに短いインパクトあるタイトルや、『トゥルーマン・カポーティ』とか『ムーランルージュ』みたいに人や場所の名前は、カタカナ変換でも仕方ないと思う。が、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』とか『ヴァージン・スーザイズ』とか、ちょっと何とか内容を鑑みて日本語訳しろよ、と言いたくなる。
 いったい何の映画なのかわかりゃしない、ってのもあるが、昔の洋画の邦題名のセンスの良さ(たとえばショーン・コネリーの007シリーズ)を知る者からすると、配給会社の手抜きや作品への愛情のなさを感じてしまうので、「たいした映画じゃないんだな」と誤って思ってしまうのだ。これは看過できない。
 『ディープエンド・オブ・オーシャン』もまたしかり。
 『ディープ・ブルー』と同ジャンルの海洋ドキュメントものかと思いきや、家族愛ものなのだ。意味そのもの(「大洋の深き果て」とでもいったところか)は映画の内容とまったく関係ない。ジャクリーン・ミチャードの書いた原作タイトルそのままである。まさか原作者に敬意を表してとか、原作者との契約上仕方なく、ってわけではあるまい。(ちなみに、新潮文庫から出ている邦訳タイトルは『青く深く沈んで』)

 もう一つ観なかった理由は、ミッシェル・ファイファーが男の子を抱きしめる姿が使用されているDVDパッケージの表紙からは、どうしたってこれが「母子もの」に分類される作品としか思えなかったからである。
 「母子もの」はたとえ陳腐な内容であろうと、どうしたって感動するし、泣かせる(泣く)と分かっている。「母の子に対する愛情は何にも代えがたく貴い」という結論で終わることは十中八九間違いないので、いまさら見る必要は感じなかったのだと思う。

 偏見はいけない。

 ベス(ミッシェル・ファイファー)は、9年前同窓会会場で行方不明になった当時3歳の息子ベンが、その後引っ越した町の近所に、「サム」という名前となって別の家族と一緒に住んでいるのを知る。警察の捜査の結果、指紋が一致。間違いなく「ベン」だ。
 ベンは、9年前ベスの同窓生セシルに誘拐されたのだが、その記憶も刻まれないままに、遠い土地に連れて行かれ、セシルが再婚してできた新しい父親ジョージと3人で暮らしていたのであった。ジョージはまったく事情を知らず、セシルが自殺して亡くなった後も、義理の息子であるサムをわが子同然に可愛がり、親子水入らずで暮らしていた。
 法にのっとって、サムは実の両親の家に連れ戻され、一緒に暮らすことになる。
 人格形成にもっとも影響を与える幼少年期を別の家庭で育ったベン=サム。  
 果たして、彼は新しい生活に馴染み、新しい家族(父パット、母ベス、兄ヴィンセント)に心開いて、幸せになれるのだろうか?
 果たして、パットとベスとヴィンセントは、サムを家族として受け入れ、昔のように愛することができるのだろうか?

 「血は水より濃し」か。それとも、「生みの親より育ての親」か。
 
 予想通り、サムは自らの記憶にない新しい家族との生活に居心地の悪さを感じ、夜中に家出を繰り返しては、馴染んだ昔の家に、同じ文化を共有する育ての親ジョージの元に逃げ帰る。パットやベスのけなげな配慮や努力の甲斐なく、結局サムはベンになることができず、精神的に不安定に陥ってしまう。
 苦しむ息子の姿を見る忍び難さに、ついにベスはパットに宣言する。
 「ベンをジョージのところに戻しましょう。」

 ここまではまったく「母子もの」。ドラマは母親の姿を中心に描きながら進む。ミッシェル・ファイファーの一人舞台である。
 自分の不注意から息子を行方知れずにしてしまった母親の狂乱ぶり、慟哭、自責の念、胸えぐる悲しみ。
 息子を失った落ち込みとその後の人生に影を落とさざるをえない絶望と鬱。
 あきらめていた息子が近所にいることを知った時の驚き、混乱、期待、事実を知りたい焦燥感。
 再度ベンを腕に抱くことのできた、えもいわれぬ喜び。
 ベンとの絆を取り戻そうとする信念と忍耐。
 二つの家庭のはざ間で悩み苦しむベンを見かね、自らの母としてのエゴよりベンの幸せを選択する、身を切られるような辛さと深い母性愛。(ここのところは、ソロモン王と二人の母親の物語を思い起こさせる。)
 ミッシェル・ファイファーの演技はすばらしい。派手な演技ではないが、母親の複雑な心情の移り変わりを、まったく違和感なく表現し、観る者に共感を呼び起こす。この役でオスカーにノミネートされていないのが不思議なくらいだ。
 彼女の演技のせいで、ほかの役者(父親役、兄役)の影が薄れるほどである。ただし、刑事役のウーピー・ゴールドバーグだけは別。彼女は決して「食われる」ことのない役者だ。
 
 どう決着するのであろうか?
 このまま、ベンは「サム」のまま、育ての親と幸せに暮らしながら、生みの親たちとは適当な距離を見つけてつきあうことを学ぶのであろうか?
 それとも、何かどんでん返しがあるのだろうか?
 ベンの幸せを第一に考えたベスの深い母性愛が神様に通じて、何かしらの奇跡が起こるのであろうか?


 奇跡は思いもかけぬ方角からやってくる。


 ここでは詳らかにはすまい。
 が、それが起こる瞬間、この物語の構造がすっかり変わってしまうのだ。
 「母子もの」と思っていたストーリーが、不意に別のものに変貌する。それもストーリー上、まったく不自然な展開なしに。
 よくできたミステリーさながら、気にとめなかった伏線があるシーンをきっかけに浮かび上がる。
 その、不意打ち感。
 
 そして、母性愛という、男の子にとって温かく、なくてはならないものではあるが、一方その重さがうっとうしくもある綿布団が見事にすかされて、寝室の窓から飛び出た少年は、大人には見えない翼をつけて別の世界に飛翔する。9年間待っていた仲間と共に。
 その瞬間、予期することもなかった解放感とさわやかな感動が身のうちに生じるのを感じる。と同時に、ミッシェル・ファイファーからオスカーが遠ざかったのを見るのである。

 ジョナサン・ジャクソン。
 その名を銘記しておこう。  



評価: B+


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 映画: タイムマイン(ジョナサン・フレイクス監督)

 2002年アメリカ。原題CLOCK STOPPERS

 日本未公開のB級映画にはたまに拾い物がある。というか、最近は日本で公開したかどうか分からない作品ばかりである。公開しても上映期間は短いし上映館も限られるので、知らないうちに封切られて、知らないうちに終わっている。
 昔は毎週(隔週だったか?)「ぴあ」を買って、映画欄にくまなく目を通し、観たい映画にマーカーを引いて、手帳に予定を入れて・・・・・とやっていたが、今はとてもその気力はない。
 そもそも、今でも「ぴあ」は、たとえば都内の上映作品のすべてを網羅できているのだろうか? 
 
 この『タイムマイン』は、TUTAYAの旧作コーナーに置かれていたのだが、本当は隣にあった『タイムライン』(2003年アメリカ)を借りるつもりだった。『タイムライン』は、明らかに日本で公開されたメジャーな作品である。自分もテレビで予告編を繰り返し見たのを覚えている。それと間違って手にとってしまい、ケースの裏の紹介文を読んだら、なんだかこっちのほうが面白そうだったので借りてしまったのである。
 う~ん。今思うと、邦訳タイトルをつけた奴の戦略にまんまとはめられたな。じゃなければ、こんなダサいわけのわからないタイトルはつけないもんな。
 タイムマイン? 「時間は私のもの」ってことか?
 あるいは 「米国風タイムボカンのようなものですよ」ってことか? ・・・・当たっているかも。
 原題を生かして、『時を止める少年』でもいいのではないか? と思ったけれど、タイムマイン。
 このゆるさ、手抜き加減がB級らしくていいのかもしれない。

 時を止める(自らの体細胞が加速化することによって周囲が止まって見えるーそうです)ことのできる腕時計をひょんなことから手にしてしまった少年が、腕時計を奪おうとする悪の一味に追われる、という典型的な巻き込まれ型アクション映画である。
 相対性理論を応用して(!)時を止める腕時計を発明したという物語の仕掛けとなる部分ではSFであり、時の止まった世界をCGによって魔術的に描き出すところはファンタジーであり、その力をいたずらに使う部分はコメディであり、タイムボカンのキャラ達ほどではなくとも、どことなく迫力の欠ける悪人たちからの逃走という点ではアドベンチャーであり、父親との確執(ってほどでもない。要は車を買うのを許可してくれるかどうかの攻防)という点では家族ものであり、車と一緒に理想の彼女もゲットという点では恋愛・青春ものである。
 要はいろいろな具を放り込んだ寄せ鍋か闇鍋みたいな。いろいろ詰め込みすぎると、普通は失敗することが多いのであるが、四方八方うまくおさまっている。
 それは、作り手のセンスが良いのだろう。
 主人公の高校生を演じるジェシー・ブラッドフォードの脳天気な準イケメンぶりもB級映画にふさわしい。
 
 これは拾い物と言っていいだろう。



評価: B-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 若尾文子礼讃! 映画:赤線地帯(溝口健二監督)

 1956年大映作品。

 いや、これは面白い映画である。
 一級のエンターテインメントと言っていい。
 さすが世界の溝口。


 タイトルからして社会派映画っぽいものを想像していた。
 なにせ「赤線地帯」である。
  1956年と言えば、「売春防止法」が公布され、赤線(公娼制度)が消えていく端緒となった年である。となると、赤線で働く女性たちの悲惨さや、売春や防止法をめぐる是非をテーマにした重苦しい映画を想像してしまうのも無理からぬではないか。しょっぱなに流れる黛敏郎によるテーマ曲も、「ゲゲゲの鬼太郎」に使ってもいいような、おどろおどろしいムンク風の曲なので、見終わった後に暗い気分になるのを覚悟していた。
 ところがどっこい。
 見終わった後の不思議な昂揚感。すっきり感。

 確かに赤線で働く女性たちの悲惨さはたっぷりと描かれている。
 吉原の「夢の里」で働く6人の娼婦たちの、そこで働くように追いやられたそれぞれの事情や、家族やお客とのやりとりをめぐる顛末を、ひとつひとつ丁寧に描き出しながら、一方で売春防止法制定前夜の国会での論議や吉原の雰囲気をからませて、物語はすすんでいく。86分という短い時間でそれをさばき切った脚本がすばらしい。
 しかしながら、後に残るのは、娼婦たちへの同情や、売春の是非や、理不尽な世の中に対する苛立ちなどではなく、女の強さ、たくましさ、したたかさ、愚かさ、一途さ、哀れさ、そして女同士の連帯の強さである。
 「やっぱり女性は強い」と恐れ入って、讃嘆して、DVDを取り出すことになる。

 溝口監督が描きたかったのもそこであろう。映画人生の最後の最後まで(これが遺作である)女性をこそ描きたかったのだ。
 そして、素の女性、ナマの女性、ありのままの女性の姿が一番出ているのが、娼婦であり、赤線地帯なのである。 「捨てるものなんか何もない、見栄も体裁もかまっていられるかい」という状況において、女性は本来の女性性をあらわし、自分にとって一番大切なものを浮き彫りにする。それは、ある女にとっては病気の夫と赤ん坊であり、ある女にとっては故郷にいる息子であり、ある女にとっては享楽であり、別の女にとってはお金である。それがある限り女性は生きられる。男なら、とっくのとうに自尊心を失って破滅しているであろう一線をはるかに超えて。
 自殺未遂をした結核持ちの夫と赤ん坊を一人で食わしているハナエ(木暮実千代)の啖呵が耳に残る。
 「私は絶対生きてやるんだ。赤線を廃止して、私らから仕事を奪って、そのあとの私がどうなるか。どんな風に生きてみるか、自分の目で確かめてやる。」

 つ・つよい・・・・・・・。
 
 『西鶴一代女』は、運のない女が転落していく様を描いた作品であった。
 田中絹代演じる主人公は、御所づとめの身分から始まって、大名の側室、遊郭の人気太夫、三味線弾きの乞食と身を落としていき、最後はやはり娼婦(夜鷹)となって夜の街で客を引く。仲間の夜鷹たちと冗談めかして交わすセリフがふるってる。
 「人間どう生きたって結局おんなじだもんね~。」


 ここなのだ。
 この心境に至れるところに彼女たちの強さの秘密があるように思う。
 それは一種の開き直りなのか、諦念なのか、負け惜しみなのか、自暴自棄なのか。それとも、現実を見切った末に達した生活哲学なのか。
 男は捨てられないものを多く持っている。その最たるものがプライドである。昔から男たちはプライドを無くすよりは、自死を選んできた。
 女にもプライドはあろう。だが、プライドでは「食えない」という当たり前の事実を無視しない。女はもっと大切な具体的なものを優先させる。愛する男であったり、子供であったり、食べ物であったり、いのちであったり・・・。そして、女は連帯することができる。

 どうあがいても男に勝ち目はない。


 自分が潔く認めた負けの分だけ、この作品は暗さ・重さから救われるのだろう。


 それにしても、若尾文子は当時23才。
 本当に美しい。
 いまどきの23才とは比較にならない品と落ち着きとあだっぽさがある。豪華で練達な共演女優陣に伍して、したたかな女を演じてヒケを取るところまったくなし。すばらしい。
 55年後のいま。
 愛されまくりの「バロック」の夫(黒川紀章)が亡くなったあと、どうなるかと思ったけれど、前にも増して自由に活躍しているのは知ってのとおり。ソフトバンクのCMでは白戸家の一員として、孫ほどの男と再婚し家族を驚かせ、ロックバンドではノリノリでサックス吹いて・・・。これが、CMでなく実生活であっても驚くに値しない。
 今まで演じてきた何百もの女~しとやかにして、したたかな~の仮面が素に張りついて、もはや仮面でも素顔でもなくなっている、そんな境地にいるかのように思える。

 溝口監督、増村監督もきっとご満悦だろう。




評価: A-


参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!



● 聖父子 映画:父ありき(小津安二郎監督)

父ありき 1942年松竹作品。


 この映画を見るのは何回目だろう?
 観るたびに、すでに完成の域に入りつつある小津ワールドの独特なリズムと時間の流れ(それは慣れないうちは眠くなるが、はまるとその心地よさに病みつきになってしまう麻薬である)に酔い、父と子が渓流釣りするシーン、城郭(上田城址?)で対話するシーンの圧倒的な美しさに心震える。
 状態の良いフィルム、くっきりとした音声で、観たい聴きたいと、これほど思わせられる映画はない。
 一方、観るたびに、ある種の居心地のわるさ、妙に落ち着かない気分を味わうことにもなる。
 それは、この父親と息子の関係性に起因している。


 戦前の日本の理想的な父親と、親思いの真面目な孝行息子。
 なんの文句もないのであるが、この二人の関係、親子というより、なんだか恋人同士か夫婦みたいなのである。
 成人後、秋田で学校教師をしている息子の良平(佐野周二)は、舎監の仕事の合間にふと手を止めて、ポートレートを取り出し、写真に微笑みかける。その相手は大学時代に知り合った恋人、ではなく、東京で働く父親の周平(笠智衆)である。彼の切なる願いは父親と一緒に暮らすこと。
 宴会に行った父親の帰りを一人布団の上で待つ良平、帰宅した父親をうきうきと迎える姿は、夫の帰りを待つ新妻そのもの。父親と会話するときのうれしそうな表情からは色気さえ漂っている。
 結婚相手を世話しようとする父親に、頬を赤らめ、はじらいながら、「おとうさんにおまかせします」と言うシーンなどは、畳の上に「のの字」でも書いているかと思うほど妙にかわいい、というか妙。
 なんか見てはいけないものを見てしまったという感じがする。
 父親もまんざらでない。息子と一緒に風呂に入ったり(そんなに広い風呂場がありそうな家には見えないのだが)、仏壇に向かい亡くなった母親に徴兵検査合格を報告する息子の姿を、口元をほころばせながら飽かず眺めている。

 同性愛(近親相姦)のニュアンスがあるというのではない。それは小津映画にはありえない。
 この父と息子のいっぺんの翳りもない愛情に満ちあふれた関係は、世間一般の普通の父子関係ではないと言いたいのである。

 父と息子の関係は、ややこしいものである。
 自分の場合を見てもそう思うが、世間的にも決して「互いへの尊敬と愛情に満ちた、いつもそばにいたい良好な関係」などではない。
 母と息子ならそれは可能だろう。父と娘でもあり得よう。『晩春』の笠智衆と原節子はまさにそうだった。
 だが、父と息子はそうはいかない。 
 西欧なら、父親を殺したオイディプスがいる。エデンの東、スターウォーズ。日本なら、巨人の星、美味しんぼ、エヴァンゲリオン、宮崎吾郎の『ゲド戦記』・・・。父親と息子は理解し合うことも愛情を示し合うこともなく、いつも闘っている。それが、あたかも父親と息子の宿命であるかのように。
 息子にとって父親は、人生の先輩であり、見本であり、前に立ちはだかる岩壁であり、到達し乗り越えるべき山である。それは、常に自分にプレッシャーを与える存在である。
 父親はまた社会の象徴でもある。個人として目覚め、個人として生きたいといきり立つ息子に対峙し、その気持ちを潰し、行動を束縛し、自尊心を打ち砕く社会というものが、人間の姿をして身近にあらわれたのが父親である。古今東西、父親の役割は息子を社会化させることにあった。(ここ過去形にしました。)
 
 映画の中でも、周平は、「一緒に住みたい」という良平の希望を常に裏切り続けることで息子に忍耐と我慢を教え、いつかは出て行くことになる社会の厳しさに対し準備させている。父親としての役割をきちんと果たしている。決して、親子関係のとり方が間違っているわけではない。(息子に対する父親の役割について描いた映画に『父、帰る』がある。これは、つよい衝撃と深い考察を呼び起こす傑作。)
 でありながら、あまりにうるわしすぎる父と息子の関係。
 なぜそれが可能なのか?
 そこにはいくつかの条件が前提としてある。
 
1. 母親がいない。父親が母親代わりもつとめていた。
2. 父親は再婚しなかった。
3. 息子は一人っ子である。
4. 息子の中学・高校・大学時代(いわゆる反抗期・疾風怒濤期)に、二人は離ればなれでいた。
5. 息子は結婚していない。晩生である。
6. 父親の人格が高潔である。
7. 息子の結婚が決まったとたん、父親は亡くなってしまう。


 この条件のどれか一つ欠けただけで、二人の関係は微妙に変化し、うるわしい関係は崩れてしまう。
 たとえば・・・。
 周平が女房を亡くしたあとすぐに再婚して別の子供を作っていたら?
 周平に良平のほかにも子供がいたら? とくにそれが娘だったら?
 良平が思春期を周平と共に暮らしていたら?
 良平の結婚後も父親が生きていて、ずっと同居するとしたら?
 周平がアルコール中毒だったら? 女癖が悪かったら?
 
 すべてが変わってくることが見えてくる。

 いくつもの条件の稀なる積み重ねの結果として、あのような天上的な父子関係が一時的限定的に成り立ったのである。それはまるで、この世ではあり難い父子の姿をスクリーンに永遠にとどめんが為に、条件を考え出して、逆算して設定を作ったかのようである。
 
 いくつもの困難を乗り越えた先に一瞬立ち現れた幻こそ「聖なるもの」の刻印が押されるにふさわしい。
 

 
評価: B+
「A-」をつけるつもりだったが、やはり一部フィルムの見にくさと音声の悪さは無視できない。

参考: 

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
         「東京物語」 「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
         「風と共に去りぬ」 「未来世紀ブラジル」 「シャイニング」 「未知との遭遇」 
         「父、帰る」 「フィールド・オブ・ドリームス」 「ベニスに死す」 「ザ・セル」
         「スティング」 「フライング・ハイ」 「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
         「フィアレス」 ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
         「アザーズ」 「ポルターガイスト」 「コンタクト」 「ギャラクシークエスト」 「白いカラス」 
         「アメリカン・ビューティー」 「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
         「グラディエーター」 「ハムナプトラ」 「マトリックス」 「アウトブレイク」
         「タイタニック」 「アイデンティティ」 「CUBU」 「ボーイズ・ドント・クライ」 
         チャップリンの作品たち   


C+ ・・・・・ 退屈しのぎにはちょうどよい。レンタルで十分。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
         「アルマゲドン」 「ニューシネマパラダイス」 「アナコンダ」 「ロッキー・シリーズ」

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ~。不満が残る。 「お葬式」 「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
         「レオン」 「パッション」 「マディソン郡の橋」 「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。もう二度とこの監督にはつかまらない。金返せ~!!





● 人はなぜ山に登るのか 奥多摩・御前山(ごぜんやま)1405m

 久しぶりの山登り。

 昨年8月に会津駒ケ岳で滑落し、右膝の靭帯を負傷して以来である。
 今年の初めにはすっかり良くなって、「さあ、春山シーズンで取り戻すぞ」と思っていたところに、
震災。
 しばらくハイキング気分ではなかった。

 めっきり涼しくなって山が呼んでいるので再開しようと思うけれど、なにしろ一年以上のブランク。最近は水泳やジムで鍛えてはいるけれど、いきなりヘビーな山は避けたほうが無難だろう。何が起こるかわからないのが山。
 御前山は、奥多摩三山に数えられる人気ある山で、ルートもしっかりしているし、登山客も多い。ガイドブックによると、歩行時間5時間40分、最高標高差1045mとある。結構登って歩くことになるが、難易度は高くないようだ。
 再デビューには手ごろな山と判断した。

●10月26日(木)晴れときどき曇り、風なし、肌寒し

●ルートとタイムスケジュール
奥多摩・御前山 01608:40 JR青梅線・奥多摩駅で西東京バス乗車
08:50 「境橋」停留所着
      歩行開始
12:15 登頂
      昼食
12:45 下山開始
15:30 奥多摩湖到着
      歩行終了
15:32 「奥多摩湖」停留所で西東京バス乗車
15:45 奥多摩駅着

●所要時間 6時間40分(=歩行5時間30分+休憩70分)



奥多摩・御前山 001境橋~栃寄大滝
 停留所は山の中の橋の上にある。見下ろすと深い渓谷の底に多摩川の清流。ここも東京なのだ。
 一緒にバスを降りたもう一人の男性は、すたすたと早足で先に行ってしまった。
 結局、それ以後、山の8分目くらいで後ろから来た3人に抜かれるまで誰とも会わなかった。下山時も8分目までは反対側から登ってきた5~6名とすれ違った(「こんにちは~」)が、そこから奥多摩湖に下りるまで誰とも会わなかった。
 奥多摩・御前山 002この日、御前山に登ったのはせいぜい20名くらいか。

 林道から登山道に入ると、すぐに沢登りが始まる。
 早起きした甲斐があった。
朝の新鮮な大気。樹々の発する霊気。清冽な流れが岩にぶつかってはじけるときに放出するマイナスイオン。すばらしい気が満ちあふれている。
 歩いていると、徐々に周りの気が体内に浸透してきて、頭がぼうっとなり、意識が気に取り込まれそうになる。
  体の中に帯電していた有害な電磁波がすべて抜けていった。
  栃寄大滝は「大滝」というほどではないが、気持ちのいい休憩場所であった。


奥多摩・御前山 005栃寄大滝~山頂
 ここからが結構長くてきつかった。やはりブランクを感じた。足の疲れもあるが、息が続かない。何度も休憩を取りつつ、ゆっくりと歩いた。
 若い頃のように、たったかたったか登ることはもう無理。
 とはいえ、早く登頂したところで何の意味もない。一歩一歩踏みしめながら、時に立ち止まって周囲の自然を観察しながら、ゆっくりと歩く。
 山は登るものではなく、味わうものとようやくわかってきた。


奥多摩・御前山 007山頂
 最後の急な階段を登りきったところに山頂が現れた。
 山登りで4番目にうれしい瞬間。
 
 山頂は広々として、日当たり良く、気持ちのいいところだが、木々にさえぎられて眺望はいまひとつ。北側に石尾根、奥秩父の山々。南側に丹沢、中央線沿いの山々、三ツ峠が見える。条件がよければ富士山も見えるはずなのだが、ちょうどそのあたりに雲が立ち込めていた。
 山頂付近では紅葉と落葉が始まっていた。
奥多摩・御前山 009
昼食
 眺めのいいベンチを見つけて、ようやく昼食。
 山登りで3番目にうれしい瞬間。

 おにぎり2個、ゆで卵、魚の缶詰、漬物が定番。今日はホウレンソウをゆでてきた。
 山頂で景色を眺めながら頬張るおにぎりは、なんでこんなにも旨いのか。
 これにくらべると三ツ星レストランのどんなメニューも色褪せる。


奥多摩・御前山 008


下山路
 ガイドブックに書いてあったので覚悟はしていたが、下りの急なこと半端でない。
 直滑降の急斜面がほぼ平地に降り立つまで延々と続く。もっとも凄い箇所では斜面に沿ってロープが張ってあった。それをたよりに後ろ向きに降りていくと、マンハッタンの高層ビルの屋上から命綱を伝って外壁を蹴りながら降りていくブルース・ウィリスのような気分になってくる。こちらのルートをあえて(?)登りに取ったすれ違った人々への慰労の念がふくらんだ。
 ここでアクシデント発生。
 ひ、膝が痛い。
 昨年怪我した右膝ではなく、左膝の皿の下あたり。数年前から長い急斜面の下りが続くと、警告するかのように現れていた痛みであったが、ちょっと現れるのが早くないか? 年のせいか。
 いったん、この痛みが現れるともうどうしようもない。なるべく負担をかけないように、痛みが悪化しないように、体勢をとりながら、だましだまし歩くしかない。
 杖を持ってくれば良かった。

 と、突然、目の前の木立が開けて、息を呑むような美しい景色が飛び込んできた。
「おおっ!」
 

奥多摩・御前山 011


 崖のはるか下方に、山々に抱かれた奥多摩湖の全景が神秘的なたたずまいを見せて、自分を待っていたのである。
 層なす雲の切れ間から差し込む秋のやわらかい陽光が、遠近法の教科書のように黒から青へと微妙なグラデーションを見せながら折り重なる山々の、そこここの斜面をハイライトしている。東京都民一千万の喉を潤おす水がめの湖面は、翡翠色(あるいは浅田飴グリーン)に染まって、謎めいた静かさのうちに湖岸の家々や道路を領している。
 どこかで見たことある風景と思ったが、今ふと気がついた。
 ダヴィンチのモナリザの背景だ。あれが描かれた当時のように復元されたら、こんな感じなのではないか。
 すっかり、膝の痛みを忘れてしばし立ちつくしていた。

 ガイドブックに書かれていない思いもかけぬ感動にぶつかることがあるから、山登りは楽しい。
 それもたくさん登って、たくさん下って、身も心も疲れたあとの衝撃。
 やはり、このルートが正解である。
 この風景との出会いで、御前山は忘れられない山となった。


奥多摩・御前山 014奥多摩湖~奥多摩駅
 静かな湖畔に降り立つ。
 湖面に映った白い雲はまさしく秋のそれである。
 無事登り終えたことのしみじみした感動にひたる。
 バス停に到着したのが15時30分。次のバスの発車時刻が32分。
 なんというタイミング!
 向こう岸から、もはや他人ではなくなった御前山がやさしく見送ってくれていた。


もえぎの湯
奥多摩・御前山 017 山登りのあとは近場の温泉に浸かるのがお約束である。
 奥多摩駅から徒歩12分の「もえぎの湯」に行く。
 行楽シーズンの休日は芋を洗うような混雑だが、今日は空いていてゆっくりできた。
 2時間750円のところ、午後4時までに入るとプラス1時間のサービスを実施中。自分が受付したのは午後3時58分。
 なんというタイミング!!
 多摩川沿いにある露天風呂がなんとも気持ちよい。
 やわらかく、ちょっとぬめっとした湯に浸かりながら、今日一日のルートを思い返し、疲れた足を揉みほぐしながら、露天の周りの木々のこずえの間からのぞく暮れなずむ空を見上げる。
 山登りで2番目にうれしい瞬間。


 そして、湯上りは休憩所へ。

 今日一日、早朝からの活動のすべて、苦しさも、疲れも、痛みも、コリも、汗も、泥汚れも、喉の乾きも、長湯によるのぼせも、すべてはこの一杯のためにある。

 山登りで1番うれしい瞬間



 人はなぜヤマに登るのか。

 そこにナマがあるから。

奥多摩・御前山 018





 

● 本:「記憶喪失になったぼくが見た世界」(坪倉優介著、朝日文庫)

記憶喪失になったぼく 記憶喪失になってみたいと思うことがある。

 過去にあったいろんな嫌なこと、恥ずかしいこと、つらいこと、取り返しのつかないことの記憶が、今の自分を苦しめるとき。過去の自分が今の自分を縛り、制約し、頑固にし、臆病にさせているなあと思うとき。過去の重さにつぶされそうなとき。
 そんなとき、いっそ記憶喪失になって、ここ数十年間の記憶がなくなれば、どんなにか自由で楽チンでハッピーだろう、と思ったりする。
 「今ここ」にだけ生きることができたら、過去にとらわれず自由に未来を描くことができたら、きっと子供のように自由闊達に、軽やかに、日々笑って暮らせるだろう。なんて、想像したりする。
 もちろん、良かったことも大切な思い出も同時に消えてしまうことになるけれど、良い思い出より嫌な記憶の方が、深く現在に影響しているような気がする。
 性格のせいか?
 
 この本は、実際に記憶喪失になった青年の体験談。テレビのドキュメンタリー番組にもなったので見た人も多いだろう。(自分も見て、泣いた)

 18歳のときに、乗っていたスクーターがトラックに衝突。意識不明の重体に陥る。集中治療室に入って10日後、奇跡的に目覚めるが、両親のことも、友人のことも、自分自身のことも、何もかもすべてを忘れてしまった。
 
 テレビドラマや小説でも事故で記憶喪失という話はよくあるけれど、過去の数年間だけ空白というパターンが多い。言葉も生活の基本習慣も忘れてしまったら、その先のドラマが続かなくなってしまうからだろう。自分が妄想するのも、このパターンである。トイレのしかたまで忘れるのはちょっと・・・(まだ早い)。
 この著者の忘れ方は、半端でない。エピソード記憶はもちろんのこと、言葉や文字や家族の顔も、周囲にある事物(たとえば信号や植物や鏡や食べ物やお金)の名前や定義や働きも、母、父、死、女、友人といった概念も、顔を洗う、ひもを結ぶ、自転車に乗るといった基本的な生活習慣や技能も忘れてしまう。
 いわば、これまでの人生をチャラにして、赤ん坊からやり直すようなものだ。
 
 五感は正常に働いているから、いろいろな情報は次々と入ってくるのだが、その中で意味のわかるものが一つとしてないという、文字通り言語を絶した世界。
 むろん、我々は誰もみなその状況からスタートし、学習過程を経て、乳児から幼児、幼児から子供へと成長してきたわけだが、それと連動して脳の神経網や自意識や感情も相伴って徐々に豊かに複雑になっていくので、個体の意識や感情にとって耐えられない量や質の情報入力がいきなりあるわけではない。たとえば、「怖い」という感情が育っていない赤ん坊に野犬を近づけたところで、赤ん坊のストレスにはならない。
 しかし、この著者の場合、感情や自意識はほとんど以前のまま残っているので、周囲で見聞きするものすべてが、幼児が世界をはじめて見るのとまったく同じように、新鮮で面白くワクワクするものばかりである一方で、感情や自意識を脅かす多大なストレッサーにもなる。
 著者には悪いが、正直読んでいて面白いエピソードの宝庫である。
 

 興味深いのは、青年にとって、記憶を失った当初から、何より恐れ、気を使っているのが周囲の人間の視線や言動であり、周囲の人間との関係であるという点である。
 文字や言語や物の名前や機能は、脳が正常である限り、時間がたてば再び覚えていくことができる。ある意味、それは機械的作業、コンピュータにデータを入力するようなものである。
 一方、人間との関係は、一回一回その場その場で状況が異なる。同じ相手に対しても、一度うまくいったふるまいが、次にもうまくいくとは限らない。ましてや、相手が変われば別のふるまいが必要となる。しかも、人間関係は自分から相手への一方向ではなく、双方向であるので、相手から何が返ってくるのか予測がつかない。
 相手の顔色を見る、相手の言葉の裏を読む、相手の気持ちを斟酌する、空気を読む、こういうことは試行錯誤を通じて学び、融通のきくマニュアルを蓄積・記憶していくものである。社会生活を送るのに取り戻すべき必要な記憶の中で、もっとも獲得するのが難しいものなのかもしれない。 
  人間はかってに動いて、かってに話しかけてくる。それを目のまえでされたら、なにをするのもこわくなる。だから自分の部屋が好きだった。
 いつものように、あいつ(観葉植物のこと)のまえにすわっていた。すると、まるい物がおいてあるのに気がついた。これはなんだ。こちこち音がするのはなぜだ。形もゆっくりだけどかわっていく。
 ずっと見ていたら、とつぜんすごい音がして、手の中でびりびりゆれた。立ち上がって、もって歩いた。すると、きゅうにしずかになった。これはいったいなんなんだ。人間が作ったものなのか。
 ずっとこいつを見ていると、外がだんだん明るくなってきた。
 人間の声が聞こえてくる。どうしてだろう。ぼくも人間と話したくなってきた。それでかいだんを、おりていった。

 人間が怖いと思いながら、人間と話したいと思う不思議。
 しばらくして青年は大学に復学するが、周囲の学生に時に無視され、時にからかわれ、時にうざったがられながらも、一生懸命周囲に合わせ、溶け込もうとする。
 人間は社会的動物であるという言葉が浮かんでくる。
 
 青年は記憶を取り戻せないもどかしさや、周囲との関係がなかなかうまくいかないことに自暴自棄となって、家出を繰り返す。
 彼を献身的に支え見守った母親の手記。

 記憶を失くすということは、単に過去を忘れて今を生きるということではないのです。過去を失った人間は、こんなにもろいものかと、優介を見てつくづく思いました。

 優介は、本当に過去18年間の記憶を取り戻したくて仕方がありませんでした。誰だって365日、すべての記憶があるわけではありません。だから私は、昔にこだわるよりも、今日から何かを始めればいいと言いました。でも優介は、「今まで何をしようとしていたのか知らなければ、前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」と言うのです。

 ・・・・ぬあるほど。
 「今ある自分」というのは、過去そのものなのだ。過去をなくすということは「自分」をなくすということなのだ。そして、未来は過去の投影なので、過去をなくすと同時に未来もなくしてしまうのだ。過去の経験をもとに未来をつくっていく。人間が時間の中を生きるというのは、そういうことなのだろう。
 記憶喪失って、そんなに甘いもんじゃないのである。

 実は、自分の記憶喪失願望もナンセンスなのである。
 たとえ望み通りに過去の記憶を失ったとしても、そのときには「チャラにしたい」と思ったその過去の出来事と一緒に、そのとき受けた負の印象や感情の記憶さえも消えてしまっているわけだから、結局、失われた記憶があるという事実に不安といらだちを覚えることになり、何とか取り戻せないものかと必死になるだろうからだ。
 これを「記憶喪失のパラドックス」と言う。(言わないか)

 青年の記憶はついに戻らなかった。部分的に、瞬間的に戻ることはあっても、アイデンティティとしての過去の「自分」を取り戻すことはできなかった。
 どうなったか。
 結局、事故に遭ってからの日々を自らの過去として、そこを土台に新しい人生を築いていったのである。青年は、大学で絵や染色を学び、今は自ら設立した工房で草木染めをしている。その作品は、生命の力強さを感じさせる見事なものである。 

 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、新しい過去に励まされながら生きている。

 人間って不思議だなあ~って思わせてくれる一冊である。


● 講演:「人生はつらいことだらけだけど」(演者:アルボムッレ・スマナサーラ)

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センターにて。

 講師のアルボムッレ・スマナサーラは、スリランカ出身の上座仏教(テーラワーダ)長老である。
 『怒らないこと』(サンガ)、『心がスーッとなるブッダの言葉』(成美文庫)などのベストセラーを含む膨大な数の著書がある。押しも押されもせぬ日本の上座仏教界のリーダー的存在、というか今や日本人の精神的指導者の一人と言ってよいだろう。
 300名定員の会場はほぼ満席であった。

 今なぜスマナサーラ長老がこれだけ人気を集めるのか。今なぜ上座仏教なのか。

 会場に集まった一人一人に、それぞれの理由と求めるものがあるのだろう。
 だが、共通しているのは、既成の仏教教団(いわゆる大乗仏教系)では飽き足らないものを感じていること。かといって、キリスト教やイスラム教は文化基盤があまりに違いすぎる。近代以降の新興宗教は、統一協会やオウム真理教の事件以降、どうしても「うさんくさい」感じをぬぐいきれない。でも一方で、心の拠り所はほしい・・・。
 そこへ颯爽と現れたのが、スマナサーラ長老であった。

 もっとも、上座仏教自体は、明治時代に主要な経典が翻訳され研究されるようになっていたし、母国で上座仏教を信仰する在日のタイやミャンマーの人々を中心として、各地にお寺やサンガが存在してはいた。
 しかし、広く一般の日本人に紹介され、浸透するきっかけとなったのは、やはり、すぐれた語学力と他文化理解のセンスを持ち、スピーチ能力に長け、カリスマ性を宿すスマナサーラ長老の来日(1980年)、そしてその教えを広めるべく、1994年に日本テーラワーダ仏教協会が設立されたことが大きいだろう。

 「1994年」という年は、もしかしたら、第2の仏教伝来の年として、将来の歴史教科書に掲載されるかもしれない。そのくらい、大乗仏教と上座仏教は、別物なのである。

 近代化の進む中、廃仏毀釈して国家神道への道を歩み出した日本人は、敗戦で「神」を喪った。その後、「金」という神様に乗り換え、経済復興を果たしたけれども、バブル崩壊でその信仰も潰えてしまった。そこへ起きたのがオウム真理教事件であった。これで、決定的に宗教は「禍々しいもの」「うさんくさいもの」に堕ちてしまった。
 もはや特定の宗教を信仰していること自体が、他の人には大っぴらには言えないような「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ信者」にされてしまったのである。何を信仰するか、あるいは信仰を持つ持たないの是非は別として、これは国際的には異常なことといっていいだろう。
 そうして、隠れ信者以外の多くの日本人は、確かな宗教的基盤を持たない存在の相対性の不安の中に置かれることになった。鬱や統合失調やパニック障害など、2000年以降の日本人の精神疾患の増加はこれを抜きにしては考えられないと思う。
 そこへ不意打ちしたのが、今回の震災・津波・原発事故である。

 上座仏教は、希望や目標を失い暗い森をさ迷う日本人に、新たな希望の光を、足場とする確かな梯子を与えてくれるのだろうか?

 スマナサーラ長老は言下に否定する。
「夢や希望を持つこと自体が大きな間違い」
「夢や希望という幻想と、現実とのギャップが、不満・落ち込み・怒り・妬み・憎しみ・失望・嘆きの原因」
仏教は信仰ではない。論理的で実践的な心の科学。仏教は理解し、実践するもの」
「生きることに意味はない。存在というのはもとから無価値」

 1500年の歳月を経て、我々日本人がはじめて知った仏教の真髄、お釈迦様の言葉は、想像を遙かに超えたとてつもない言説のオンパレードであった。
 それは、コペルニクスも真っ青の、存在意義の大転換を我々に迫る。
 これだけの哲学(哲学と言っていいのかどうかはわからないが)は、空前絶後だ。19世紀の西洋人が仏教を理解できず、「虚無の信仰」と怖れたのもまったく頷ける。

 果たして、どれだけの日本人が仏の教えを理解し、実践し、納得し得るだろうか?
 正直、まだ自分はその衝撃を受けとめ切れていない。
    

テーラワーダ仏教協会のホームページは
http://www.j-theravada.net/


2012秋の関西旅行 002
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ソルティはかたへのメッセージ

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