ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画界のゴッドファザー 映画:『メガロポリス』(フランシス・フォード・コッポラ監督)

2024年アメリカ
138分
メガロポリス

 監督名を見て、目を疑った。
 フランシス・フォード・コッポラ?

 『ゴッドファザー』(1972)、『アメリカングラフティ』(1973)、『地獄の黙示録』(1979)、『アウトサイダー』(1983)、『タッカー』(1988)など、映画史に残る傑作を立て続けに発表したコッポラの最盛期は70~80年代、その後はプロデュース業が中心となり、名前を聞くことが少なくなった。
 代わって、『ヴァージン・スーサイズ』(2003)、『マリー・アントワネット』(2010)、『ビガイルド 欲望のめざめ』(2017)など、ガーリーな作風で知られる娘のソフィア・コッポラの名前のほうが、昨今はよく目にする。
 亡くなっているものと思っていた。

 ウィキによれば、1939年生まれの87歳。
 90歳間近にしてこれだけ前向きなテーマのSF大作を撮るパワーと精神力に感服した。
 残念ながら興行成績は芳しくなく、ゴールデンラズベリー賞で最低監督賞を受賞するなど、世間一般の評価は高くない。
 が、ソルティは個人的に面白く観たし、好きか嫌いかと言えば好きな映画と言える。
 138分の長尺にも飽きることなかった。
 この80年代バブル的大作感。
 やっぱり、痩せても枯れてもコッポラだなあ~。

 コッポラの政治信条は知るところでないが、トランプが先導する今のアメリカの状況に義憤を感じているに違いない。
 本作でコッポラが言わんとしているのは、

 人類には今あるこの世界しか有り得ないのか?
 この世界を受け入れ保守していくしか道はないのか?
 まったく別の世界を夢見てはならないのか?

――ということである。
 その意味で、2021年に刊行された『万物の黎明』(デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウ著)のテーマに重なるところが大きい。

 たしかに、人類は近代になってマルクス主義という理想にかぶれて、道を誤った経緯がある。
 今の中国や北朝鮮で暮らしたいという人は、さすがにいないだろう。
 ベトナム、キューバについてはよく知らないが、自由にものが言えない国という印象は強い。
 日本の場合も、連合赤軍あさま山荘事件の惨劇に終わった戦後左翼運動のトラウマがいまも残っていて、「改革」を口にすると危険視されかねない空気がある。
 大多数を占める民衆が、今とは別の“より良い世界”を夢見なくなって、「現状は変えられない」とあきらめることほど、既得権益をもつ支配者層にとって都合のいい展開はない。

 コッポラは長年患っている心臓の手術を終え、新作の準備にとりかかっているらしい。  
 映画界のゴッドファザーというにふさわしい。
 
P.S. クレジットによると、『真夜中のカーボーイ』(1969)のダスティン・ホフマンとジョン・ボイトが共演している。ソルティはダスティン・ホフマンには気づかなかった。オールドファンはチェックされたし。

真夜中のカーボーイ2


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 若冲・永徳・運慶・隠れキリシタン@トーハク

 皇居三の丸尚蔵館は、皇室で代々受け継がれてきた絵画・書・工芸品・歴史資料などを収蔵する美術館。
 今秋リニューアルオープンする。
 そのプレイベントとして、現在、トーハク(東京国立博物館)表慶館にて、高精細複製された伊藤若冲『動植綵絵』と狩野永徳『唐獅子図屏風』が公開されている。
 いずれも三の丸尚蔵館にあるオリジナルを、(株)キャノン・京都文化協会・文化財活用センターの協力が生んだ最新技術と伝統技術の融合によって、忠実に再現したものである。
 古い映画のデジタルリマスターみたいなものか?
 技術的なことはよく分からないが、本物そっくりの作品を間近でじっくり観られるらしい。
 小雨降る平日、上野駅に降り立った。

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東京国立博物館・表慶館
実はここに入るのははじめて。
京都国立博物館旧本館と同じ片山東熊による設計。

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平常展観覧料(一般1000円)のみで鑑賞できる。
ソルティは顔パス、じゃなくて学生メンバーズパス(年会費1200円)で入館。
(すでに元はじゅうぶん取った)

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4/17~5/17まで開催
『動植綵絵』は全部で30点。
うち15点が展示されていた。
入替後の後期(5/2~)にまた行きたいが、大混雑の予感がする。
ガラスケースがないので、30cmの至近距離で絵を見ることができる。
撮影も可。

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伊藤若冲(1716~1800)と言えば鶏。
色彩と構図がもたらす迫力が凄い!

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近寄ってさらにびっくり!
ほとんど細密画の世界。
若冲はおそらくサヴァン症候群だったろう。

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雌雄でなくオス同士のつがい。
若冲と相国寺禅僧・大典顕常の生涯続いた親密な関係を匂わせる。
そもそも『動植綵絵』は相国寺に寄進する目的で描かれた。

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セルフポートレートで有名な芸術家の森村泰昌が、この絵は男色の隠喩であると言っていた。
たしかに菊の花は古来男色の象徴である。
2つの青い岩が男根sなのだという。

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若冲の「白」はあでやか。
会場には高精細複製技術の概要を伝える映像が流れていた。
高性能カメラによる撮影+コンピュータ解析と目視による色合わせ+世界最高レベルの印刷技術(基底材は絹)、そこに古来よりの金箔・金泥や表装の伝統技術が加わる。
筆使いはもちろん、絵の具だまりすら再現する複製技術に驚嘆した。

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孔雀の羽の模様部分に金泥が塗られている。

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桃とオオルリ

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菊とスズメ

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雪の中のサザンカ

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芍薬にとまるアオスジアゲハ

唐獅子屏風
狩野永徳『唐獅子図屏風』
223.6cm × 451.8cm
信長や秀吉に重用された永徳(1543~90)の代表作。

 国宝2点をたっぷり堪能したあとは本館1Fへ。
 ここで、なんとびっくり!
 足利・光得寺の厨子入り大日如来が展示されていた!
 運慶作と言われる国内の仏像のうち、ソルティが観ていなかった最後の2体のうち1体である。(残り1体は神奈川・称名寺の大威徳明王像)
 保全のため光得寺から東博に移されていることは聞きかじっていたけれど、まさかこんなタイミングでなんら苦労なしに出会えるとは思わなかった。
 トーハクさんってば味なことする。

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北条政子の妹婿であった足利義兼が運慶に依頼したとされる。
樺崎寺に納められた大日如来像(現在半蔵門ミュージアムにある)と同時期につくられ、こちらは義兼が身近に置いて拝んだものと推測されている。
明治期の廃仏毀釈以前に光得寺の所蔵となった。

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言われてみれば(笑)、ハリのある頬の具合や、智拳印に組んだ両腕と胸郭とが生み出す空間の感じが、半蔵門の大日如来とも、奈良・円城寺の大日如来とも、よく似ている。
重要文化財にとどまっているのは、あとから金箔を押したからだろう。
このときソルティの周囲は外国人ばかり。
誰も足を止めないのが珍妙。
「運慶だよ、運慶!」

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和歌山・道成寺の毘沙門天像(平安前期)
どっしりした勇壮感のうちにも軽みを備える見事な造形。
道成寺って、たしか安珍・清姫の物語で有名な・・・・。

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康円作『渡海文殊菩薩群像』
安倍文珠院の快慶作のものとくらべると迫力負けするが、各像の表情は人間っぽくて趣きがある。

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 驚くのはまだ早かった。
 フロアを順路通りに進んでいくと、本館4室で「隠れキリシタン」関係資料の展示をおこなっていた。
 ソルティは最近、『カクレキリシタンの実像』と題する本を読んだばかり。
 なんというタイミング!
 トーハクさん、ソルティの心を見抜いてますね。
 今回展示されているのは、江戸幕府による禁教令が発布されたあとに、長崎奉行所が取締りの際に信徒から押収した品々。
 明治以降、これらは長崎県に引き継がれたが、取り扱いに困った長崎県が国に引き取ってもらい、その後、内務省社寺局を経てトーハクに収蔵された。

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イエス・キリスト像

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聖母子像の踏絵(真鍮製)
目鼻がすっかり摩滅している。
いったい何千回踏まれたことか?

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観音菩薩立像(17世紀中国製)
浦上村の潜伏キリシタンだった吉蔵が所持していた白磁製の観音像。
「ハンタマルヤ(サンタマリア)」と呼ばれ信仰されていた。

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いったいに観音菩薩像をマリア像の代わりに拝んでいたようだ。

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寿星立像(中国、磁製)
寿命をつかさどる寿星の化身。
寿星とは竜骨座のアルファ星カノープスのこと。
日本では七福神の中の「寿老人」として知られている。
天草で押収された寿星像は「丸やさま」と呼ばれていたという。

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守裂(スカプラリオ)と呼ばれる携帯用のお守り。
聖母マリアや聖人などの図柄が刷られた2枚の布を紐でつなぎ、胸と背中に当たるようにして首からかけた。

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聖母像(親指のマリア)
17世紀にイタリアで制作されたもの。
イタリア人宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ(1667~1714)が持参したもの。
宝永5年(1708)、シドッチは屋久島に上陸し、間もなく薩摩藩に捕らえられた。江戸に送られ、新井白石の取り調べを受けたのち、殉教した。
名の由来は、マントから親指だけが覗いているからであろう。

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上野駅そばや
約2時間の鑑賞
上野駅構内で天ぷらそばを食べて、身も心も満足した。

























 

● 理想の相方 映画:『コンパニオン』(ドリュー・ハンコック監督)

2025年アメリカ
97分

コンパニオン

 レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあったので、サスペンスとは分かっていた。
 が、どういった内容か、まったく知らなかった。
 人里離れた湖水の豪華なペンションに友人6人が集まる冒頭から、「13金」的なスプラッタホラーを予想した。
 ただし、惨劇の担い手となるのはジェイソンのような外来の怪物ではなく、6人の中で精神をいささか病んでいるように見える美しきヒロインなのかな?
 つまり、サイコサスペンスかな?と思った。

 この予想は半分当たっていて、半分はまったく違っていた。
 予想もつかない展開が待っており、度肝を抜かれた。
 えっ、そういう映画なの!?
 これまでソルティが観た記憶のない奇抜な設定に、これが長編映画デビューというハンコック監督の才を感じた。
 これだから、事前情報を取り過ぎないで映画を観ることが大切である。

 なので、これ以上の言及は控えたい。
 サスペンスホラーでありながら、どこかコミカルな味を備えているところ、センス抜群。
 色彩設計もクール。
 美貌のコンパニオンを演じるソフィー・サッチャーが上手い。
 今後の活躍が期待される。

 いつの日か、こんな未来が来るのかしらん?
 それまで生きていられるかな?



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『三島由紀夫という存在』(野坂昭如&石原慎太郎著)

2025年中央公論新社

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 三島由紀夫生誕100周年を記念して出版された一冊。
 三島と親交のあった2人の後輩作家によるエッセイ6編と、2つの対談が収録されている。
 いま、それぞれの文章の発表された時期とその時の2人の年齢を時系列で並べると、次のようになる。
  • 1970年12月 石原(38)
  • 1971年1月 野坂(40)
  • 1971年2月 野坂(40)
  • 1972年12月 野坂(42)&石原(40)対談
  • 1995年12月 野坂(65)&石原(63)対談
  • 2000年6月 石原(68)
  • 2000年11月 石原(69)
  • 2001年8月 野坂(71)
 三島由紀夫が自決した1970年11月25日直後のそれぞれの追悼文から始まって、2年後(三回忌)の対談、25年後の対談、30年後のそれぞれの回想文が掲載されている。
 事件から時間が経過するにつれての、また野坂と石原の加齢につれての、語り口の変化がなかなか興趣深い。
 おおむね直後の追悼文は、事件に対する驚きと戸惑いの向きが強い。無理もない。
 事件後2年経過し、三島由紀夫という人物および自らと三島との関係を語る視座を得た1972年12月の対談は、両者ともに思うところを率直に述べている。
 事件後四半世紀が経ち、両人が三島の享年はおろか還暦も越えた1995年の対談以降は、舌鋒が柔らかくなり、過ぎ去った時代や在りし日の三島の姿を偲ぶ懐旧のニュアンスが現れている。
 野坂は2015年に85歳で、石原は2022年に90歳で亡くなった。

 三島由紀夫の死後、数多くの三島論が出版され、それは現在も続いている。(ソルティがよく利用する都心の図書館の棚を見たら、ざっと30冊の三島論が並んでいた)
 また、文学者らによる対談も多い。
 ソルティが読んだのはほんの一部に過ぎないが、総じて言えるのは、一つは男性論者によるものが圧倒的に多いことであり、一つは、数ある三島語りの中でこの石原慎太郎と野坂昭如によるものが最も故人に対して辛辣だということである。
 2人が作家デビューするにあたって、他のどの先輩作家からよりも三島由紀夫から目をかけられ引き立てられたことを重ね合わせると、「恩知らず」と思えるほどである。
 同じ時代に文壇で活躍し三島と親交のあった安部公房と大江健三郎による三島語りにくらべると、その差は歴然としている。
 その差がどこから出てくるのかは新旧の文壇事情に詳しくないソルティには分からない。が、一通りでなく世話になった先輩作家に対する恩を仇で返すような野坂と石原の物言いの裏には、心理学で言うところの防衛機制、いわゆる「否認」に近いものを感じる。

 いったい何を否認しているのか?
 『三回忌に思う』と題された1972年12月の対談より引用する。

野坂 さまざまな虚構を張りめぐらしながらも、彼自身としてはとにかく一生懸命やったわけですよね、ひたむきに、矮小な体にムチ打って。しかし彼のボディビルと同じように、まとった衣装はぜんぜん自分に合っていなかった。ある時期は、その合っていないということをエネルギーにしていたんだろうけれども、そのエネルギーが絶えちゃったとき、今度は自分がまとった衣装の重さに押しひしがれて、最後は悲鳴をあげていたような感じだな。

石原 ほんとにあの人は、自分がかかえる、アンビバレンツなものはアンビバレンツなものとしてかかえてるっていうことに耐えられなかったんでしょうね。

石原 あの人の精神のメカニズムを象徴するものは、結局、肉体にたいするコンプレックスでしょうね。それを是正するために人工的につくった機能性のない肉体というものが、結局、あの人を亡ぼしたんだ。

野坂 あれだけはじめに虚構を描いていたけれども、やがて虚構を生きざるをえなかった。自分自身の生き方、自分の肉体そのものが虚構だったことに気づいたときの三島さんの気持を考えると、物書きのはしくれとしては、ほんとに涙なくしてはいられない気がする。

 三島と同じ流行作家であり、三島と同じようにマスコミに持て囃されたタレントであった2人の分析は、ほぼ同じである。
 すなわち、「肉体上のコンプレックスからボディビルを始めたことに象徴されるように、ある種の欠落を糊塗するために仮面をかぶり、虚構の自分を意識的に演じ続けた。その無理が限界に達して、ああいう悲惨な最期に至った。」
 欠落とはなにか?
 次の野坂の言葉がそれを示唆している。

野坂 ぼくは小学校のときに、虚弱児童だったんです。相撲だけは強かったけど、ものすごく気が弱くて、喧嘩はぜんぜんできなかった。そして、なにぶん戦争中だし、このままじゃ男として世の中に生きていけないと思って、ある時期、喧嘩ばかりしてました。気を強く見せようと・・・・。ぼくはつまり昔に、無理していた覚えがあるから、石原さんより、三島さんの持っていたものについて同情があるというか、それをからかいの対象とするよりも、「いやあ、あなたも大変ですね」って感じでね。(ゴシックはソルティ付す)

 つまり、男としてのコンプレックス。
 男らしさ(マチョイズム)の欠落である。

 昭和時代のマチョイズム、とくに戦前戦中のマチョイズムは、令和の現在とは比べものにならないほど確たる規範として日本社会を覆っていた。
 昭和元年に生まれ、天皇を神と仰ぐ軍国主義教育を受け、国のために死ぬことをなによりヒロイックな雄々しい行為として教えられてきた三島由紀夫すなわち平岡公威少年が、長じて、自らの類まれなる文才とは裏腹に、貧相で脆弱な肉体と運動能力の欠如、そして異性に対する性的能力の空転を知った時、相当な自己否定に襲われたことは想像に難くない。
 20才のときの徴兵検査の(意図的な?)不合格は、深い恥の感覚を植え付けただろう。

 だが、三島の強い自意識とプライド、それに戦後マスコミによって作り上げられ世間に流布された時代のヒーローとしてのイメージは、自らの中の「女性性=弱さ」を受け入れ肯定することを許さなかった。(そもそも、「女性性=弱さ」とみなすところがマチョイズムの誤謬である)
 豪快な高笑い、ボクシング、ボディビル、筋肉誇示、剣道、居合い、自衛隊体験、葉隠れ、軍服をまとってのパレード・・・・e.t.c.
 さまざまな鳥の羽を自らの体にあしらって孔雀ばりに装ったイソップのカラスの物語のように、三島由紀夫は「男らしさ」という羽で、持って生まれた資質を覆い隠した。
 その羽が借りものだとバレる前に、あの行為に及んだのである。

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1tamara2によるPixabayからの画像

 しかし、ここでソルティが指摘しようとしているのは、野坂と石原が容赦なくあぶり出したような“虚構に生き虚構に死んだ”三島由紀夫の欺瞞や悲哀ではない。
 三島由紀夫を侮辱するつもりは毛頭ない。 
 そうではなくて、マチョイズムそのものの虚構性を言いたいのである。

 時代や地域や文化の違いにより、「男らしさ」の定義や内実は異なる。
 たとえば、昭和時代には男の化粧品CMなんてあり得なかった。
 国民的人気と輝かしい実績を誇る大谷翔平のような野球選手が、スキンケア商品のCMに出てお肌ペタペタなんて図は考えられなかった。
 そんなことをした日には、次の打席では球場中の客から笑い者にされ、「おかま」と囃し立てられたであろう。

 多かれ少なかれ、意識的であれ無意識的であれ、世の男達はマチョイズムに支配された社会の中で、周囲から馬鹿にされ見下されないよう「男らしさ」を身につけていく。
 「男」という虚構を演じている。

 野坂昭如や石原慎太郎が、なぜこれほど三島由紀夫という人物について、また最終的に自決につながった政治的行動の意味について一致した見解を示せるのかと言うと、野坂も石原も世のマチョイズムに支配されて生きてきたし、その虚構性にある程度自覚的だったからではなかろうか。
 身近にいて一時は敬愛の対象であった三島由紀夫が、あまりに大っぴらに、あまりに分かりやすく、あまりに身も蓋もないかたちで、「男」の虚構性を暴露してしまったがゆえに、そこと距離を置くために、必要以上にバッシングしたのではなかろうか。
 あたかも、観客に手品の種明かしをするマジシャンに対して、同業者が抱く思いにも似て・・・・。

 三島論を書く人間に男が多いというのも、そこと関係しているような気がする。
 つまり、三島由紀夫は「マチョイズム」という荒野の逆説的なランドマーク、「男らしさ」という天盤の道を誤らせる北極星のようなもので、三島を評する男たちは、自然、おのれと三島との距離を測ってしまうのではないかと思うのである。
 さらに付け加えれば、それはまた、(極右と極左からの)政治的距離でもあるし、文学的才能における距離でもあるし、自らの信念を遂行した行為者としての距離でもあるし、米国追従の戦後民主主義社会からの距離でもあるし、天皇制からの距離でもある。
 三島由紀夫は、戦後の日本社会に生きる者に、自らの立ち位置を顧みさせるさまざまな座標軸を提供した。
 それが「三島由紀夫という存在」の意味であり、三島が読まれ、語り続けられる大きな理由なのではないかと思うのである。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 特攻隊映画の傑作 映画:『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督)

1953年新世紀映画&重宗プロ
101分、白黒

雲流れる果てに

 ベストセラーになった同名の手記をもとに、学徒出陣の特攻隊員たちの最後の日々を描いた戦争映画。
 家城巳代治(いえき みよじ)は、美空ひばり主演『悲しき口笛』でもっとも知られる監督である。

 天皇とお国のためにすべてを犠牲にして戦った特攻隊員を美化するでもなく、消耗品のごと使い捨てられる彼らの生を憐れむでもなく、国や軍隊の非道や非人間性をことさら強調するでもなく、さまざまな個性を持ったありのままの青年たちの姿を描いた青春群像劇の感が強い。
 つまり、右寄りでも左寄りでもない、現実寄りの庶民寄り。
 『きけ、わだつみの声』や『永遠の0』をはじめ、日の丸特攻隊をテーマにした映画はたくさんある。
 ソルティはほとんど観ていないのだが、おそらく、本作に勝るものはないと思う。 
 以降、特攻隊の映画を観るときは、本作にどれだけ届くかどうかで判定されることになろう。
 
 優秀な航空兵であり周囲から人望の篤い大瀧中尉(鶴田浩二)。
 自分たち置かれている理不尽な状況について悩みを深める深見中尉(木村功)。 
 肝はこの学徒2人の友情にある。
 戦艦大和が撃沈され、米軍の本土上陸が迫る中での学徒出陣。
 もはや負け戦であることが誰の眼にも明らかになった――が、誰の口からもそれは言ってはならない――状況下での特攻指令は、「犬死にせよ」という命令に等しい。
 「これはもう戦術じゃない」
 ひとり苛立ち鬱屈する深見を、大瀧は叱責する。
 「戦争は理屈じゃない。生命の燃焼だ。人間の根源的な情熱なんだ。悠久の大義に生きる。個人の生死を超越した民族的な情熱の自己同一なんだ。元来、俺たちの命は天皇陛下からお預かりしているんだ。」
 幼いころから植え付けられ、学校で耳にタコができるほど浴びせられた教訓を、さも真実のように滔々と語る大瀧。
 深見の気持ちは親友にさえ理解されない。

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鶴田浩二と木村功

 その深見が最終的には自ら進んで特攻志願するようになる。
 決断に至るまでの一連のシーンの美しさと悲痛は比類ない。
 映画作家としての家城監督の腕の冴え、鶴田浩二と木村功の演技の素晴らしさ。
 そこに芥川也寸志のマーラー風の玄妙な音楽がかぶさる。
 日本映画史における名シーンの一つと言っていい。

 大瀧と深見らはゼロ戦に乗って沖縄出撃する。
 指令室にいて、部隊からの通信が途絶えたことを確認した上官らは口々に言う。
 「思ったよりいかんな」
 「まだまだ技量未熟だ」
 「なに、特攻隊はいくらでもある」
 カット切り替わって小学校の教室。
 女性教師の弾くオルガンに合わせて『箱根八里』を合唱する子供たち。
 このラストシーンが、家城監督があえて仕込んだ最大のプロテストであろう。

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 惜しむらくはフィルム劣化。
 デジタルリマスターしたバージョンでスクリーンで観たいものだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● フライングブラボーのない午後 : 新交響楽団第273回演奏会

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日時 2026年4月12日(日) 14:00~
会場 東京芸術劇場 コンサートホール
指揮 中田 延亮
曲目
  • J. S. バッハ(ウェーベルン編)/6声のリチェルカーレ
  • シェーンベルク/浄められた夜 弦楽合奏版
  • メンデルスゾーン/交響曲 第5番 ニ短調「宗教改革」
  • J. S. バッハ(シェーンベルク編)/前奏曲とフーガ 変ホ長調
  • (アンコール)J. S. バッハ(レーガー編)/おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け
 今回はバロックの色合いの濃い、落ち着いた音楽会であった。  
 シェーンベルクとメンデルスゾーンはロマン派に分類されているが、『浄められた夜』の甘美な透明感も、『宗教改革』の壮麗なコラールも、PAPAバッハの広く厚い胸のうちに抱かれ、揃って澄み切った天上の碧を指しているかのようであった。
 逆に言えば、シェーンベルクとその弟子ウェーベルンによって編曲されたバッハが、ロマン派の色調を帯びたことで、プログラム全体が統一され、アンコール曲も含め全体で一つの交響曲『浪漫派スピリチュアル』を聴いたかのように感じられた。
 新交響楽団の安定したテクニックによる信頼感のため、客席にいて最初から最後まで緊張の糸が張ることなく、くつろいで音に身をまかせた。
 
 一般的に有名な曲がなかったためか、あるいは、それと分かる派手な終わり方の曲がなかったためか、今回は昨今の演奏会で問題となっているフライング拍手もフライングブラボーもいっさいなかった。
 指揮棒が止まってからの一瞬の沈黙が味わえた。
 そういった意味でも落ち着いた音楽会であった。
 
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東京芸術劇場


 
 

● ろくでもない、すばらしき 映画:『背徳の罠 死者のメッセージ』(ジャド・テイラー監督)

1987年アメリカ
95分

背徳の罠

 トミー・リー・ジョーンズと言っても、ピンとこない人は多いと思う。
 BOSSコーヒーのCMに出てくる宇宙人ジョーンズである。
 彼が39歳のときの作品である。
 
 トミーの役はカトリックの神父ジョセフ。
 治安のあまり良くない下町の教会に配属されて12年、その誠実さと奉仕の精神(とルックスの良さ)とで町民から信頼され慕われている。
 もちろん、独身である。
 そのジョセフに「死者のメッセージ」が寄せられ、「背徳の罠」が迫るというのだから、期待せずにはいられない。

 「メッセージ」とは何か?
 地獄に落ちた信徒からのHELPか?
 亡くなった師匠からの警告か?
 あるいは、悪魔に憑りつかれた少女からの脅しか?

 「背徳の罠」とは何か?
 敵対する組織が仕組んだセクシー美女たちの酒池肉林か?
 新月の夜に行われる魔女たちのサバトか?
 それとも、美少年の誘惑から始まる男色ワールドへの誘いか?

 オカルトとエロスがほどよくミックスされたドミニク・モル監督の『マンク~破戒僧』(2011)のようなものを想像していたのだが、1987年のハリウッドではそこまで冒涜的なものは作れなかった。
 題名倒れ、というか、思わせぶりなタイトルにつられ視聴するソルティのような助平を当て込んだ、誇大広告的邦題なのだった。
 原題は、BROKEN BOWS 「折れた弓」である。
 同じ類いに、クリント・イーストウッド主演の『白い肌の異常な夜』がある。原題は  The Beguiled  「だまされし者」。

 ふたを開ければ、オカルトもエロスもまったく関係ない真面目な映画で、一人の神父の信仰の危機を描いた作品であった。
 教区内で起きた画家殺人事件の謎を追うジョセフ神父が、被害者と付きあっていた美女と知り合い、ふつうに恋に陥り、自らの信仰に疑問を覚え、還俗するという話。
 これを「背徳」とは大げさ過ぎる。
 ポール・シュレイダー監督の『魂のゆくえ』(2017)のトラー牧師の懊悩と比べると、単純で、哲学性・社会性も浅い。
 況んや、2024年公開の『教皇選挙 Conclave』(エドワード・ベルガー監督)においてをや。
 宗教に対する西洋人の意識や態度もここ数十年で大きく変わった。

 とりわけ時代を感じさせたのは、カトリック教会と同性愛との距離感である。
 殺人事件の容疑者は、妻帯しているクローゼットのゲイの男なのだが、彼が少年の頃から抱えてきたセクシュアリティの悩みを、ジョセフ神父すなわちカトリック教会が受け止めることができなかったことが、事件の遠因となった。
 カトリックの教義を内面化し、自らを「邪悪」と決めつけ、「神から見放された」と思い込み、極刑を望む同性愛者の存在は、87年のアメリカでは珍しくなかったであろう。
 よもや、カトリック内部でこれほど神父による少年たちへの性的虐待がはびこっているとは、当時、知られていなかった。

 若きトミー・リー・ジョーンズは、セクシーで暗い眼差しが魅力的。
 還俗後の日本で、これほど長く宇宙人を演じることになるとは思いもよらなかったであろう。

缶コーヒー


 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損











● 本:『棺一基 大道寺将司全句集』

2012年太田出版

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春光や 房壁にある 罅(ひび)二本
差し入れの 甘夏薫る 人屋かな
凍蝶(いてちょう)や 監獄の壁 越えられず

 上の俳句からどんな詠み手を想像するだろうか?
 「房」は独居房、「人屋」は牢獄のこと。
 すなわち、詠み手は囚人である。
 これは、刑務所に収監されている男の詠んだ句集なのである。
 
 そう分かって詠んでいくと、次の句などまことに味わい深いものがある。
 たとえ、自ら牢に入れられた経験がなくとも・・・・。

黒南風(くろはえ)や 髪切りし身の おぼつかな
動き出す 朝の気配や 初氷
余寒なほ 房舎に響く 施錠音

 男の名前は大道寺将司(まさし)。
 1948年北海道釧路生まれ。
 昭和時代の政治活動家で、「東アジア反日武装戦線“狼”」という極左テロ組織のリーダーであった。
 同組織は、1974年8月に、昭和天皇が乗るお召列車を橋ごと爆破する「虹作戦」(未遂に終わった)や、死者8名・負傷者380名を出した三菱重工爆破事件を起こした。
 大道寺ら主要メンバー7名は1975年5月に一斉逮捕され、一部は超法規的措置により釈放・国外脱出した。
 釈放を拒否した大道寺は、1987年3月24日に死刑が確定し、葛飾区小菅にある東京拘置所に収監された。
 そう、囚人は囚人でも、死刑囚による俳句なのである。 
 本書の題名にとられた「棺一基」とは、絞首刑にされた囚人の遺体をおさめた棺のこと。
 大道寺は、いつ自分の番が来るかと思いながら、次々と処刑されていく牢友たちを見送っていた。

己が身を 虫干しに出す 死囚かな
縊られて 世はこともなし 実南天
棺一基 四顧茫々と 霞みけり

 俳句をつくるようになったきっかけは本書に書かれていないので分からないが、もともとアルチュール・ランボーや中原中也の詩を好んで読んでいたという。
 文学青年だったのだろう。
 故郷でアイヌへの差別を目の当たりにしたことがきっかけで日本帝国主義に反感を抱くようになり、その後反日思想を深めていったという経緯からも、虐げられているマイノリティの境遇を想像し共感できる感性と、マジョリティである自らの加害者性を自覚できる知性を備えた、ナイーブな青年像が思い浮かぶ。
 政治活動でなく宗教活動に向かっていれば、親鸞のような宗教家になったかもしれない。
 次のような句をみると、獄中にいて他者の身の上を思いやる大道寺の“やさしさ”が知られる。 

秋海棠 苦海に生きし 女たち
みなしごの また生まれけり 星月夜
帰りゆく あぶれ土工や 冬の雨
福島の 無人の町に 散る桜

 いったい、どんな男が苦海に生きる女(=春を売らざるをえない女)の苦しみを想像し得るだろう? 
 自らは、長く独房にいて、性欲を満たす機会がない一種の飢餓状態にあるというのに。
 どんな男が、日雇い仕事にあぶれた土工の境遇に心を寄せるだろう?
 自らは、処刑されるのを待つことだけが仕事だというのに。
 なんだか鎌倉幕府の将軍にして歌人源実朝の和歌に通じるものを感じた。
 次のような身の回りの風物を詠んだスケッチもまた実朝風である。

天宆の 剥落のごと 春の雪
訪ひくれし 蜘蛛の走りの 速きこと
雨ざんざ 角凛凛と 蝸牛
翅一枚 遺して蝉の 食はれけり

 27歳で逮捕されてから獄中の30年余が過ぎ、大道寺はがん(多発性骨髄腫)を患う。
 最後は壮絶ながんの痛みと闘いながらの句づくりであった。

骨疼き 雨だと知れり 初桜
飛花落花 褥瘡(じょくそう)の夜の 明けにけり
重力を 総身にて受く 梅雨の星

 大道寺将司は、2017年5月24日に処刑を待たずに病死した。
 68歳だった。

死者たちに 如何にして詫ぶ 赤とんぼ
人として あること哀し 梅一枝

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Annette MeyerによるPixabayからの画像





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● なんなら、奈良31(奈良大学通信教育日乗) 祝!卒論提出資格

 3月中旬に受けた「文化財修復学」のスクーリングと「考古学概論」の試験結果が届いた。
 どちらも無事合格、ホッとした。
 とくに、「考古学概論」はなかなか苦労したので、これで手を離れると思うと、胸の土層から遺物が取り除かれる思い(笑)
 なにより重要なのは、これで卒業論文を書く資格が得られたことである。

 大学から送られてきた「ハンドブック」によれば、卒論を提出するためには、最低限、次の単位を修得する必要がある。
  1.  これまでに76単位以上を修得している。(3年次編入生は入学後12単位以上)
  2.  文化財学(or 史学)講読Ⅰを修得している。
  3.  文化財学(or 史学)演習ⅠあるいはⅡを修得している。
  4.  概論5科目のうち、2科目以上を修得している。
 2024年10月1日入学のソルティの場合、3年次が修了した時点(2025年9月30日)で上記それぞれについて、
  1.  80単位修得
    入学時に修得 64単位
    3年次に修得 16単位(7科目)
             計 80単位
  2.  3年次に文化財学購読Ⅰを修得(テキスト科目)
  3.  3年次に文化財学演習Ⅰを修得(スクーリング科目)
  4.  3年次に美術史概論を修得(テキスト科目)
 1~3は3年次終了時点ですでにクリアしたので、今回の「考古学概論」修得により4の条件も満たし、次の履修登録(本年9月)で卒業論文を登録し、合わせて卒業論文計画を提出することに相成ったわけである。
 ソルティは最初から3年計画で卒論を仕上げる心づもりでいたが、3年次編入生で最短2年で卒業したい人は、6400字のレポートが課せられる概論を3年次に2つ以上修得しなければならないのだから、大変である。
 ネットの体験談ブログを読んでいると、仕事をしながら2年間で卒業したという人もいるようで、ほんとに優秀だと思う。

 4年次に入ってからは、ここまでに2つのテキスト科目(「書誌学」、「考古学概論」)と3つのスクーリング科目(「考古学特殊講義」、「文化財学演習Ⅱ」、「文化財修復学」)を修得している。
 つまり、入学してからここまで(4/10現在)で、計28単位(+64単位)を修得。
 卒業に必要な単位は60単位(+64単位)なので、約半分達成ということになる。

 ソルティは、卒論合格後もしばらくは奈良大学に籍を置き、いろいろ学びたいと思っている(万年学生プラン適用)ので、ここからちょっと学科のほうはペースダウンするつもり。
 夏の終わりまでには卒業論文のテーマを決めなければならないし、来年はそれこそ卒論に全力投入することになるだろう。 
 この夏は、いろいろな所に行って、いろいろなイベントに参加して、いろいろな本を読んで、「これだ!」と思うテーマが下りてくるのを待つ。

 道半ばなれど、とりあえずワインでKP!
 
 

● ポーランド暗黒SF 映画:『ゴーレム』(ピョトル・シュルキン監督)

1979年ポーランド
93分、白黒

 イメージフォーラム上映中のポーランド暗黒SF《文明の終焉4部作》。
 『宇宙戦争 次の世紀』(1981)が衝撃的だったので、ふたたび足を運んだ。
 日曜日だったが、数えられるくらいの入りだった。
 ゴーレムとは、ユダヤ教の伝説に登場する動く泥人形のことで、ヘブライ語で「胎児」を意味する。作った主人の命令だけを忠実に実行する怪物である。
 本作では、世界核戦争後の人口減の対策として、政府によって秘密裏に造られたクローン人間をゴーレムに見立てている。
 ある日誕生したゴーレムの男は、彫金の仕事をしていたこと以外、自分がどこの誰だかわからず、記憶もなく、周囲の状況もつかめない。
 いわば、記憶喪失になってアイデンティティが失われた状態。
 もちろん、自分がクローン人間だとは思いもしない。
 殺人容疑で警察の尋問を受けるが、何一つ答えようがない。
 隣人たちの奇態なふるまいに困惑し、理解不能の世界になんとか意味を見つけようと行動するが、謎は深まるばかり。
 そんな彼の動向を監視している者たちがいた。

 あたかもカフカの小説のような不条理の世界である。
 現在では、『トータル・リコール』、『アジャストメント』などフィリップ・K・ディック原作の映画群をはじめ、「アイデンティティ喪失」というテーマは珍しくないが、1979年では画期的だったのではなかろうか。
 そうしたテーマが思いつくような社会(全体主義管理社会)にピョトル・シュルキン監督が生きていたことの証なのかもしれない。

 映画自体は、ストーリーが単調なうえ、説明不足が目立ち、面白味を欠く。
 もうひとひねりほしい。
 途中眠気と戦った。
 




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