ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● ONとOFF 本:『ブッダの実践心理学第5巻 業と輪廻の分析』(アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃共著)

2009年サンガ発行

 仏教の三蔵(三つの聖典・・・経蔵・律蔵・論蔵)のうち論蔵にあたるアビダンマを、テーラワーダ仏教の出家僧たるスマナサーラ長老が懇切丁寧に説いた、アビダンマ講義シリーズの一巻である。
 アビダンマはいわば、仏教哲学の集大成である。

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 本巻で取り上げられている「業(カルマ)と輪廻」こそは、仏教の言説の中でもっとも神秘的かつオカルチックで、非科学的・迷信的と断じられやすく、物議をかもす部分であろう。

 業と言えば「自業自得」という言葉がすぐに思い浮かぶが、どこか冷酷で断罪的なイメージが強い。
 元来は「自分で行った行為の結果が自分に返ってくる」というニュートラルな意味合いで、悪い行いだけでなく善い行いについても使われる言葉なのだが、残念ながら、「それみたことか!」、「自己責任!」、「言わんこっちゃない!」、「思い知れ!」といった否定的ニュアンスで使われることが多い。
 使い方を間違うといらぬ誤解を招き、人間関係にひびを入れたり、他人を傷つける結果になりやすい。
 とくに輪廻転生(生まれ変わり)と絡んで使われる場合、「前世で悪いことをしたから障害者として生まれた」とか、「いかなる理由があろうと、生んでくれた親を殺めたからには来世は地獄行き」といったように、本人に責任(の自覚)がないのに一方的に人を裁いて貶めたり、尊属殺人に対する重罰(つい最近まで日本では親を殺したら死刑が普通だった)を正当化する根拠のごとくみなされたりと、合理性と思いやりに満ちた概念とはとうてい言えまい。

 それに現実を見れば、「悪いことをしたら必ず悪い結果が跳ね返ってくる」なんて正義の鉄槌はむしろ少なくて、うまく立ち回る悪人こそが栄え、正直につましく生きている者が不当な仕打ちを受けるのが世の習いではないか。(だからこそ物語では正義の味方が渇望されるのだ)
 それに対する業論の理屈は、「いや、今生では結果が出なくとも来世か、その先のどこかの転生先で報いは必ずあるのだ」とか、「たしかにカルマは正しく働いているが、カルマがすぐに出るのを妨害するカルマというのもあるのだ」とか、結局どう結果が出ても巧みに言い逃れできる占い師のような都合のいい言説を振りかざす。
 ソルティは基本的に業論が嫌いであるし、業論を振り回す人も嫌いである。

 輪廻転生(生まれ変わり)もまた議論百出である。
 「自分の前世はなに?」、「今生での課題はなに?」、「私のソウルメイトは誰?」といったスピリチュアルでファンシーな世迷言を生み出し、それを利用した霊感商法まがいの詐欺も引き起こす。
 また、「生まれ変わりがあるとしたら、一体何が生まれ変わるのか? 永遠の魂か?」、「しかるに仏教では永続するものはないと言っている。無我と輪廻転生はどう両立できるのか?」といった数世紀にわたる難問も立ちはだかっている。
 だいたい今の日本では、社会生活の中で輪廻転生を口にする人間は、「あやしい人」、「オウム系? それともムー系?」と思われるのが関の山だろう。
 
ダライラマ
生まれ変わりと言えばこの人


 アビダンマでは、業と輪廻について緻密な論理でもって詳細に分析している。
 本書でのスマナサーラ長老の説明は非常にわかりやすいし、アビダンマの記述の矛盾や不明点を率直に指摘していて信頼が持てる。
 そして、講義が単なる知的な説明に終わらず、聴き手(読み手)に対する説法になっている。
 つまり、業システムや輪廻転生の“科学的”説明を礎に、そこに豊かにして有益なアドリブを付け加えて、聴き手(読み手)の心の成長に役立つ実践的なノウハウをも授けてくれる。
 そこが本書の最大の価値であり魅力であろう。

 そもそも、業や輪廻転生について思い悩むことはナンセンスである。
 科学的に立証され得ないし、「脅し」によって人心をコントロールし得る危険な(悪用されやすい)言説にもなり得る。
 前世の因業のせいにして今生をあきらめるのも、来世に望みを託して今生を投げやりに生きるのも、とうてい前向きな姿勢とは言えまい。 
 そもそも、来世で「どこに、何に」生まれ変わろうが、記憶がつながっていないかぎり、そこに生まれた「自分」は今生の「自分」とは関係ないのだから、考えても意味がない。
 与えられた生を一回こっきりのものとして、与えられた場で生きるほうが充実感は高かろう。(本書によると、餓鬼道すなわち霊界と地獄においては前世の記憶があるらしい)
 要は、今をしっかりと慈悲と智慧をもって生きることだ。
 業システムや生まれ変わりが本当にあるのならば、そのように生きることで来世の幸福は保証されるし、それらが実在しないとしても少なくとも今生において、「自分は何にも恥じない生き方をしている」と自信をもって明るく生きられる。
 生まれ変わりや業はあってもなくても関係ない。
 こういう考え方を仏教では「アパンナカ(無戯論)」と言っている。

 思うに、輪廻という概念において重要なのは、前世とか来世とか六道廻りとかソウルメイトといったことよりも、輪廻とは変化の謂いであり、諸行無常の様態を表しているという理解であろう。

 仏教が言う「生まれ変わり」とは、「この身体に生まれる最後の瞬間が終わったら、すぐ次に、なんの隙間もなく、同じ感覚で、次の心が生まれる。今も隙間なく心が生滅変化しているのだから、そのときも隙間なく、死んだ。そして次に、生まれた」ということです。

 本当は、死は、いつでもあるものです。いつでも、死ななければ新しいものは生まれないのです。我々が勉強したら、新しい知識が生まれるでしょう。それには、前の心が死ななければ、生まれるわけはないのです。身体が死ななければ、いくら運動しても健康にはならないのです。弱い身体の人が運動すると、その弱い身体がじわじわと死んでいって、強い身体が生まれてくるのです。だから、死ななければ、何も成り立ちません。「瞬間の死」ということが、一番大事なことなのです。
(本書より抜粋)

 瞬間瞬間、我々の心も、身体も、この世界も、生まれては死んでいる。死んでは生まれている。
 コンピュータのように、0(OFF)と1(ON)とを繰り返している。
 それがあまりにも速いので、そして我々は0(OFF)を認識することができないので、連続しているように(常にONばかり)見えるだけなのである。
 諸行無常とは、「桜の花はすぐに散って儚いねえ~」とか「驕る平家は久しからず」といった“もののあはれ”風な感慨とは別物である。

 いったいにONとOFFを繰り返す以外に、物が変化していく方法があるだろうか?
 たとえば、アジサイの花の色の変化をじっと観察する。
 人間の視覚の分解能は1秒の1000分の50~100程度と言われるので、この時間よりも短い変化を認識することはできない。
 思考実験してみる。
 もし視覚の分解能に限りがなくて、どこまでも微分して観察してゆくことができたなら、アジサイの色の変化の瞬間をとらえることができるだろうか?
 最終的にはOFFの瞬間がなければ変化は成り立たないと得心できるはずだ。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 夏の快適アイテム1 いぐさ草履

 いぐさ草履を知ったのは、かれこれ四半世紀も前のこと。
 当時住んでいた仙台の街に『ぐりん・ぴいす』というお店があった。
 自然食品店&雑貨店&出版社&市民活動の拠点というユニークな店だった。
 そこで働いていたスタッフからすすめられたのだ。
「とっても気持ちいいし、歩くたびに草履おもてが足の裏を“ぺったん、ぺったん”叩くから、ツボが刺激されて脳にも健康にもきっといいよ~」
 もちろん天然いぐさを使用、鼻緒はビロード仕立てであった。

 夏のつっかけと言えば、子どもの頃からゴム製ビーチサンダルと相場が決まっていたソルティにしてみれば、決して安くない買い物ではあったけれど、複数のスタッフが口を揃えて履き心地の良さを力説するものだから、試してみる気になった。
 なにより、真新しいいぐさの香りがすがすがしかった。
 それ以来、毎年梅雨が明けると新しいいぐさ草履を買って、ひと夏で履きつぶすのが恒例となった。

 十数年前に東京に帰ってきてからは、近くに扱っているお店がなくて、ふたたびビーチサンダルに戻った。
 あるいは、合成樹脂でできていて爪先から甲の部分まで覆われていて、そこに穴がたくさん空いている、いわゆる「クロックス」サンダル。
 いつの間にか定番になっているが、日本で流行り出したのは2007年からという。
 「あんなヤンキーが履くような、合成着色料でコーティングされたアンパンみたいな靴なんて履けるか!」
 と最初は拒否っていたけれど、なんの拍子か試してみたら、軽くてやわらかく、路面の衝撃を吸収してくれる。
 足指が自由に動かせるので解放感がある。
 バンドの位置によってスリッパ風につっかけにもなるし、かかとに引っかけて簡単に脱げないように固定もできる。
 一昨年、左足のかかとの骨を折った際、ギプスが外れたあとしばらくは足が浮腫んで靴が履けなかった。
 そのときは本当に「クロックス」が役に立った。

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 しかるに・・・・。
 年をとると体質は変わるもので、ソルティは四十を過ぎてから花粉症とゴムアレルギーになってしまった。
 ゴムアレルギーは四十後半になって介護の仕事を始めたときに顕在化した。
 一日の仕事が終わると、なぜか両手の指の第一関節が赤くなって痛痒い。
 入居者からダニでもうつされたのかと思って、施設の看護師に診てもらった。
 「ソルティさん、それ多分グローブのせいだと思うよ」
 グローブ? 手袋?
 天然ゴムを含んだラテックス製の介護用手袋のせいだったのである。
 むろん、グローブを使わないで介護の仕事はできない。
 チーフに訳を話して、ラテックスを含まないタイプのグローブも購入してもらった。
 それを使うと症状は出なくなった。
 
 ゴムNGの身体になってしまった。
 当然、ビーチサンダルはもう履けない。
 滑り止めに使うゴムの指サックも使えない。
 ポリウレタン製でないコンドームを使うと・・・・・悲惨なことになる
 「クロックス」サンダルに天然ゴムは使われていないようだが、素足で履き続けていると、やはり足の甲が赤痒くなってくる。
 天然ゴムだけでなく、ある種のプラスチック素材もNGのようだ。
 また、バナナやアボガドやキウイにはラテックスに類似した構造物が含まれていて、ゴムアレルギーのある人がそれらのフルーツを食べるとアナフィラキシーショック(コロナワクチン接種でおなじみの用語となりましたね)を起こすリスクがあるらしい。
 できるだけ避けた方がいいのかもしれない。
 
 そんなこんなで、ここに来て懐かしの仙台の友・いぐさ草履に白羽の矢が立ったのである。
 近所の靴店をいくつか回ったが置いてなかった。
 ネットで探して取り寄せた。
 
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 綿+ナイロン製の鼻緒の硬さが取れて足指に馴染むまでちょっと時間を要したが、数回履くとジャストフィットした。
 ゴムやプラスチックでは到底感じられない足当たりの心地良さ。
 昭和生まれの日本人ならではの“畳の上で死ねる”安心感。
 汗を吸い取ってくれるので、べたつき感がまったくない。
 そして、歩くたびに交互に足の裏が叩かれる気持ち良さと「ぺったん、ぺったん」という響きの面白さ。
 歩くのが楽しくなる!

 しかも、今回思わぬ利点に気づいた。
 左右の足で「ぺったん」の大きさと響きが違う!
 つまり、左と右とで歩き方(地面への足の付き方、筋肉の使い方、地面の蹴り方)が違っていた。
 骨折から回復して一応普通に歩けるようになってはいたのだが、ケガをした左足の使い方が元のようには(右足と同じようには)戻っていない=変に癖がついてしまっている、ことに気づかされたのである。
 足首全体を覆う普通のシューズだと気づかなかったものが、草履だと足の裏の使い方が実によくわかるのだ。
 自分の場合、左足を地面に付ける時も地面を蹴る時も親指側にしっかり力が入っておらず、小指側に重心をかけて歩いていた。
 だから、長時間歩くといまだに左足の外側の腱に痛みが生じていたのだ。
 その理屈が手に取るように理解できた。

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 左右とも同じ「ぺったん」が出るように意識して歩くことで、自然と正しい歩き方、筋肉の使い方の訓練になる。
 なんといぐさ草履って素晴らしいのだろう!
 気持ちいいうえにリハビリにも役立つとは。
 
 この夏は「ぺったん、ぺったん」だ!
 




● 本:『ロックダウン』(ピーター・メイ著)

2020原著刊行
2021年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

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 ロンドンを舞台とする刑事ミステリー。
 工事現場の穴から発見されたボストンバッグに入っていたのは、死んで間もないアジア系少女の頭蓋骨。
 退職を目前とする刑事マクニールは、少ない手がかりをもとに謎の解明に挑むが、その行く先々で重要参考人が次から次へと変死を遂げて行く。
 頭蓋骨の科学調査から重大な事実を発見し、恐るべき真相に気づいたマクニールの身辺にも危機は及び・・・・・。

 ――といった内容で、これだけなら凡庸な話なのであるが、この小説には大がかりな仕掛けが施されている。
 それこそ、タイトルが示す通り「ロックダウン」されたロンドンが舞台、すなわち死亡率80%の新型ウイルスが猛威を振るい、わずか数ヶ月で死者50万人超え(その中には英国首相も含まれる)、医療は崩壊し、暴徒が店を略奪し、軍が街を警備し、交通機関はストップし、マスクをつけ他人との接触を避ける市民は抗ウイルス薬だけを頼りに家に閉じこもる、という悪夢のごとき非日常世界の中での出来事なのである。

 この小説が書かれたのは2005年。
 「あまりにも非現実的だ」という理由で出版を見送られたそうだ。
 非現実的がまさしく“現実”となったがための緊急出版。
 まったく何が起こるかわからない。
 少女(中国人だった)の死が実は新型ウイルスの発生と関係していて、その背後には血も凍るような組織の陰謀があった・・・・・という真相も“現実”にならないといいが。

ウイルス


 いま世界中で起こっている新型コロナウイルス騒動をあたかも予知したかのような想像力とリアリティある描写は見事。
 読んでいて、同じロンドンを舞台としたドキュメントであるデフォー作『ペスト』を想起したが、元ネタはそこかもしれない。
 ゾンビパニックと本格ミステリーを結合させたのは今村昌弘『屍人荘の殺人』であるが、本作はウイルスパニックと刑事ミステリーを結合させたのである。
 その思いきった発想は買うものの、物語の収束の仕方が弱い。
 真犯人とついに対峙し追跡する場面におけるマクニールの行動はあまりに愚かで、プロらしさに欠けていて、あきれるばかり。
 ゲイのカップルや生意気な鑑識の女子インターンなど、著者が快く思っていないらしい(描き方に毒がある)登場人物が全員殺されてしまうのも、著者の偏向とご都合主義を感じさせる。
 大風呂敷を広げたわりには・・・・・という読後感が残った。
 新型コロナがなければ、たしかに発行されることはなかったろう。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『いつだってやめられる 7人の危ない教授たち』(シドニー・シビリア監督)

2014年イタリア
105分

 イタリア発のドタバタ犯罪コメディ。
 大ヒットして続編が決定、3部作となった。

 不景気で大学を解雇された IQ 抜群の7人の学者先生たちが、起死回生をねらって、合法ドラッグの開発と販売に乗り出す。
 『フル・モンティ』(ストリップ)、『シンクロ・ダンディーズ』(シンクロナイズド・スイミング)など、落ちこぼれの冴えない中年男たちが徒党を組み、新たな分野に挑戦して一発大逆転!
――というストーリーは最近流行りのようだが、本作の肝は同じ落ちこぼれでも、普通ならトップクラスの社会的ステイタスと収入を誇るはずの有能な学者たちが主役になっているところ。

 日本でも少子化と不景気の影響で、多くの大学が経営難に苦しんでいる。
 私立大学の1/3が定員割れになっていると聞く。
 大学側は人件費のかかる正規の職員を雇うよりも、安上がりな外部からの非常勤講師を雇うので、「大学院は出たけれど・・・」みたいな若手研究者がたくさん生み出されている。
 ソルティもかつて介護士の資格を取るために通った研修センターで、有名私大の大学院卒(博士)の女性と会ったことがある。
「ピラミッド型・男尊女卑・年功序列の狭い世界で、将来性もなく安い給料で教授にこきつかわれるよりも、高齢者の世話をして安定収入を得る方がいいと思った」といったことを話していた。
 そう、ツブシの利かない学歴よりも手に職をつけた方がいい時代なのである。

 面白いのは、本作の学者たちが“落ちこぼれ”たるゆえんは、所属大学における派閥闘争や研究費獲得レースに敗北した負け組であるというのみならず、研究生活中心のアカデミックな世界しか知らないため、実社会における経験値が少なく、世渡りが下手という点にある。
 ガリ勉の優等生と遊び上手な不良は、学校内の評価と実社会に出てからの評価とが逆転する傾向にあるってことだ。
 大学を辞めた7人の学者たちは、実社会でなかなか使い物にならず、ガソリンスタンドやレストランの皿洗いなどで上司に怒鳴られながら働き、糊口をしのいでいる。
 本来の才能を発揮する機会とてなく・・・。
 そこから逆転する手段として選んだのが、ストリップでもシンクロでも合唱でもなく、合法ドラッグの開発と販売というのがユニークかつイタリアンなところである。

薬
 
 
おすすめ度 :★★

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● 本:『介護ヘルパーは見た』(藤原るか著)

2012年幻冬舎新書

 市原悦子主演『家政婦は見た!』ばりの家庭内ドロドロミステリーではなく、実際の介護ヘルパーすなわち介護保険の訪問介護員によるリアルな体験記である。
 副題は「世にも奇妙な爆笑!老後の事例集」。

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 著者は東京の某訪問介護事業所に所属する、この道20年以上の現役ヘルパー。
 1000人を超える要介護高齢者と出会ってきた。
 在宅ヘルパーの労働条件の向上を目指し公の場で発言したり、掃除・洗濯・買い物などの生活援助を介護保険から外そうと目論む厚生労働省に抗議の足を運ぶなど、現場と政策を結びつける活動もしている。
 「るか」という名前は、イエス・キリストの生涯を記した『ルカによる福音書』から取られたそうで、著者自身クリスチャンである。
 本書ではそうした出自を匂わすようなスピリチュアルな話は控えられているが、著者の奉仕精神の源に宗教的なバックグラウンドがあるのは間違いなかろう。
 認知症高齢者など個性豊かな利用者とのエピソードが楽しい。
 
 本書が出版されたのは2012年。
 その時点で著者は、上記の“生活援助外し”や“訪問ヘルパーの滞在時間の短縮”などを企む国の方針に対し怒りの声を上げている。
 10年近くが経ったいま、介護保険制度の改正(改悪?)はさらに進み、生活援助こそ制度から外されてはいないものの、比較的介護度の低い要支援者の「訪問介護」と「通所介護」については、もはや国の管轄にはなく、区市町村で行う事業へと移行している(2015年~)。
 区市町村の限られた予算で実施しなければならないわけで、地域格差やサービスの質の低下が問題視されている。
 国はどうやら要介護者の「訪問介護」と「通所介護」についても同様の方針でいるらしい。
 つまり、ホームヘルプとデイサービスを介護保険から外してしまおう、という魂胆である。

 また、介護保険サービスを利用するためにはケアプランを作成する介護支援専門員(いわゆるケアマネ)のいる事業所とマネジメント契約をする必要があるが、現在自己負担なしで利用できるケアマネジメントが今後有料化する気配もある。
 明らかに介護保険の利用者を減らしたいのだ。

 むろんこれは、高齢化が進むにつれ膨らむ一方の介護給付費(令和2年度3兆 3,838 億円)を抑制したいという大義名分からなのではあるが、どうなんだろう?
 公的な介護保険サービスでまかなえないところが、たとえばNPOや企業など地域の民間サービスで同等の価格で代替できるのならよいが、そうでないと結局、要介護者の家族にしわ寄せがくる。(家族の世話を“しわ寄せ”と言ってはいけないが・・・)
 高齢者の一人世帯や核家族世帯が増えている日本では、親の介護のために離職せざるを得ない、いわゆる「介護離職」につながる。
 すでに家族の介護・看護が理由で離職する者は年間約10万人という。
 40~60代の働き盛りの人が社会の一線から退くことは、少なくない経済的損失を招き、日本経済の減速を招く。
 つまり、負のループ=悪循環にはまり込んでしまう。

 介護や医療のサービスは、もはや電気や水道やガスや道路と同様のインフラなんだと思う。
 命や健康や生活の質に直結する分野の予算を削るよりも、もっと先に削減してもいいところがたくさんあるはずだ。

車椅子とステレス機
安倍政権がアメリカから購入した最新鋭ステルス戦闘機・F35
1機116億円を147機(1兆7052億円)爆買い




おすすめ度 :★★★

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● 本:『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一著)

2019年三五館発行、フォレスト出版発売

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 工事現場に立つ交通誘導員こそ、軟弱なソルティには向かない仕事である。

 炎天下の夏も極寒の冬も、日差しや強風をさえぎるものない道の真ん中で、終日ひとつところに立っていなければならない。
 まず体力勝負である。

 交通量の多いところでは、自動車や自転車や歩行者の安全に気を配りながら、適切に誘導しなければならず、足止めや遠回りを指示されて苛立つ人々、工事の騒音や振動やほこりや異臭に眉を顰める近隣住民からのクレーム対応もしなければならない。
 気が疲れることこのうえない。

 逆に交通量の少ないところでは、手持ち無沙汰に苦しむ。
 持ち場を離れることもできず、いすに座ってスマホをいじることも、仲間の誘導員や工事現場の作業員とおしゃべりするわけにもいかない。
 呉服売り場のマネキンと化して、無為や眠気や退屈とたたかわなければならない。
 と言って、気を抜いてボーっとしていると事故の原因になりかねず、いったん事故を起こせばクビは必至である。

 そのうえに、工事現場で働く監督や作業員から仕事中の態度や誘導の上手下手を監視され、理不尽な命令を下され、時にはイジメまがいの悪態を衝かれる。 

 日給はそこそこ貰えるけれど、決して割の合う仕事とは言えまい。

 なのに、工事現場で見かける誘導員のなかには高齢者が多い。
 70歳以上が8割を占めている警備会社もあるという。
 老後資金の乏しい高齢男性がもっとも気軽に就ける仕事なのである。

 働けば日払いもあり家がなければ寮もある。嫌が応でも社会とのつながりもできる。とりあえず残業すれば最低限の社会生活が可能なのが警備員かもしれない。仕事として楽しい楽しくないは別として、決して悪い選択ではないのではないか。
 土壇場に追いつめられた人にとって交通誘導員の仕事は社会との最後の“蜘蛛の糸”かもしれない。

 著者は1946年生まれ。本書執筆時、73歳である。
 もともとの職業である出版関係の仕事をしながら、生活費を補填するため、いまも交通誘導員として現場に立っている。
 夜勤もすれば、日勤・夜勤・日勤の昼夜3連続勤務もこなすというから、相当な体力・気力の主には違いない。
 介護の仕事で夜勤1回したら、“明け”の日はもちろん、その翌日もグダーってなってしまうソルティには到底考えられない。
 そんな状態で交通量の多い現場に立ったら、どれだけ悲惨な事故を巻き起こすことか!


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Gerhard G.によるPixabayからの画像


 ソルティにはもっともできそうにない仕事と書いたが、逆にソルティがやっていた介護の仕事も、「自分には無理! 死んでもやりたくない」という人(とくに男性)は少なくないだろう。
 介護現場でおむつ交換や老人相手の幼稚なレクリエーションするくらいなら、工事現場の案山子のほうがマシという人もいるはずだ。
 つまるところ、まったく楽な仕事はないし、どんな仕事にも向き不向きがあるのだ。

 この「 3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」(ソルティ命名)は、前から気になっていた。
 本書のほかにも、タクシー運転手編、出版翻訳家編、マンション管理人編、メーター点検員編、非正規介護職員編、ケアマネ編などが発刊されている。
 本書にしばしば出てくる「片交」、「立哨」、「トラバー」といった用語のように、どの業界にも身内だけに通じる用語やルールがある。
 そういったのを知るのも面白い。 
 しばらくこのシリーズを追っていきたい。

 今日は雨。誘導員さんも暇だろう。
 


おすすめ度 :★★★

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● 肉食系? 映画:『エクス・マキナ』(アレックス・ガーランド監督)

2015年イギリス
108分

 A I 系 SFスリラー。
 エクス・マキナ Ex Machina とは「機械仕掛け」の意。
 
 有名検索エンジン企業の一社員ケイレブ(=ドーナル・グリーソン)は、抽選に当たって天才プログラマーである社長ネイサン(=オスカー・アイザック)の広大な屋敷に招待される。
 そこにはネイサン自らが制作した人間女性そっくりのA I ロボットたちがメイドとして働いていた。
 ネイサンとの契約により、そのうちの一人エヴァ(=アリシア・ヴィキャンデル)の性能を確かめることを引き受けたケイレブは、交流を通じて次第にエヴァに惹かれるようになる。

 アカデミー賞の視覚効果を受賞しているだけあって、映像が美しい。
 I T 映画(ってジャンルあるのか?)ならではの無機的な美しさに統一されている。
 この文脈の中では、ネイサンの屋敷を囲む山岳や森、屋内に差し込む日光といった自然でさえ、無機的な清潔感をもって感じられる。
 ガーランド監督の映像センスは素晴らしい。
 
 ストーリー自体は、AI たちが次第に知性のみならず感情を身に着けていき、己を造った神たる人間=ネイサンに復讐を遂げるというもので、目新しいものではない。
 ケイレブがロボットと分かっていてもエヴァを恋するようになっていくのが、「無理もないな」と納得させられる。
 テレビのバラエティ番組かなにかで、「ダッチワイフを恋人に持つ男」というのを観たことがある。毎日、服を着替えさせ、髪を梳かしてやり、車の助手席に乗せて一緒にドライブする。優しい笑顔で話しかけながら・・・。
 そのうえに、それが理想の女性(男性)の姿をしていて、会話も成り立ち、家事全般を完璧にこなせて、必要な情報や娯楽を即座に提供してくれて、さらにセックスもできるとしたら、どうだろう?
 めんどくさく不衛生な(どんな細菌やウイルスを持っているか分からない)生身の人間とわざわざ付き合おうという奇特な人がいるだろうか?

 そう遠くない未来に、富裕層では一人一台(あるいは複数台)、そうした“色仕掛け”ならぬ“機械仕掛け”の恋人を所有する時代が来るのかもしれない。
 それとも、あなたは生身派?

ロボット女性

おすすめ度 :★★

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● 君の名前を教えて 本:『朝鮮大学校物語』(ヤン・ヨンヒ著) 

2018年(株)KADOKAWA

 朝鮮学校を舞台とするドキュメンタリー『アイたちの学校』を観ていて生じた疑問、

 朝鮮学校では金主席や北朝鮮という国の体制をどこまで批判できるのか?

 ――を確かめようと、検索していたら本書に当たった。
 著者は1964年大阪生まれの映画監督。在日コリアン2世である。

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 朝鮮大学校は東京都小平市にある。
 武蔵野美術大学(通称「ムサビ」)、創価学園(いわゆる「ガッカイ」)、白梅学園、津田塾大学、都立小平西高校などが集まる文教地区で、玉川上水の緑豊かな遊歩道が続く閑静な住宅地である。
 最寄りは西武国分寺線の鷹の台駅。毎朝、小学生から中・高・大学生まで多くの学生たちが改札を抜けて、それぞれの学校へと向かう。
 ただし、その中に朝鮮大学校の学生の姿はない。
 全寮制だからである。
 ここは民族教育の最高学府であり、全国の朝鮮高校からやって来た在日コリアンの若者たちが、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)を担う幹部となるべく、勉学や民族意識の確立に励んでいる。
 文部科学省から大学としての認可は受けておらず、法律上は各種学校である。

 本書は、80年代前半に大阪の朝鮮高校から朝鮮大学校へ入学した一人の女性、パク・ミヨンを主人公とした学園青春物語である。
 むろん、ミヨンのモデルは若かりし日の著者ヤン・ヨンヒ自身であり、三人称のフィクションという形を取ってはいるが、書かれていることのかなりの部分――朝鮮大学校での授業や寮生活の様子、卒業旅行で訪れた北朝鮮での見聞など――は、著者の体験に基づいた事実と思われる。

 ミヨンが朝鮮大学校に入学した一番の目的は、東京でたくさんの芝居や映画を観ること。将来は演劇の道に進むつもりなのである。
 本書に登場する映画のタイトルや劇場名、劇団名は、同じ80年代の東京で『ぴあ』を片手に青春を過ごしたソルティの耳に懐かしく響くものばかりであった。
 入学早々、六本木の俳優座に芝居を観に行って夜8時の門限破りをしてしまったミヨンは、生活指導員に呼び出され、厳しく注意される。

「ここは日本ではありません! 朝鮮大学校で生活している貴女は、共和国で、すなわち朝鮮民主主義人民共和国で生きているのだと自覚しなさい!」

 比較的自由が享受できた大阪の朝鮮高校とは違って、朝鮮大学校は規則づくめで管理のきびしい、まるで中世のカトリック修道院のような場所であった。
 修道院と違うのは、敬愛と信仰の対象となるのがイエス・キリストや聖母マリアではなくて、北朝鮮の最高指導者たる金日成(キム・イルスン)・金正日(キム・ジョンイル)親子であること。
 朝は、「放送事故のような音量で」流される革命的行進曲と合唱団が歌う戦闘曲で起こされ、毎夜の政治学習の時間には金親子の著作集を読まなければならない。
 そのあとに一日の自分の言動をルームメイトの前で振り返る“総括”が待っている
 抜き打ちの持ち物チェックでは、倭風(日本的)や洋風の物を持っていないか徹底的に調べ上げられ、ミヨンの持っていた外国音楽のカセットや映画雑誌、バタイユの『エロティシズム』などは没収されてしまう。
 外出できるのは週一回日曜日のみ。外出先と目的を書いた許可書を提出し、5人の管理者の印を受けなければならない。
 外部の日本人との交流は制限され、とくに日本人男子との交際などもってのほか。
 つまりは、まったくの洗脳教育機関である。

玉川上水
玉川上水


 映画や演劇を愛するだけあって自由な感性の持ち主であるミヨンは、校風に馴染めず、事あるごとに反抗を重ね、お隣のムサビの男子学生との恋愛騒ぎを巻き起こし、問題児のレッテルを貼られてしまう。
 卒業旅行では、幼い頃に北朝鮮に“帰国した”実の姉との数年ぶりの再会を心待ちにするも、当局の不興を買った姉夫婦は首都ピョンヤンから僻地に追放されていた。
 持ち前の度胸と袖の下を使ってやっと姉のもとを訪れることができたミヨンは、その道中、貧しい祖国の悲惨な現実を知り、監視社会のもと自由が奪われた人々の絶望しきった暗い表情を見る。
 ひたすら姉のことを心配するミヨンに向かって、姉は言う。

「アンタは私の分身やから。私の分も幸せになってくれな困るの! 組織や家族のためとかアホなこと言うたら私が許さへん。後悔せんように。わかった? 朝鮮で生きるのもキツいけど、この国背負わされて日本で生きるのも大変やと思うわ」

 日本への帰国間近、ミヨンたち一行は思いがけずも金日成主席の姿を拝謁する機会を得る。
 アフリカのどこかの国の大統領を迎える金主席を讃えるサクラとなるため、空港に召集されたのである。
 「民族の太陽」のおでましに、号泣しながら「万歳!」を叫ぶ教員や同級生たちの間にあって、ミヨンはひとり冷めている。
 
「これが本物のキム・イルソン・・・・」
 伝説のカリスマを目撃しているという事実よりも、集団心理に感染しない自分を発見した実感の方がスリリングだ。
 この人はこの国をどう思っているのだろう? この国の実情を知っているのか。部下たちはちゃんと報告するのだろうか。この国の現状にどれほど満足しているのだろうか。

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Tomoyuki MizutaによるPixabayからの画像


 本書に描かれているのは、30年以上前の朝鮮大学校の実態であり、いまの金正恩(キム・ジョンウン)主席の祖父にあたる金日成時代の北朝鮮である。
 令和の現在、当時とはいろいろと違っていることだろう。
 まず間違いなく状況は悪化しているに違いない。
 本書の裏表紙に載っている朝鮮大学校の校舎の黒ずんだ外壁の写真を見れば、相当な経営難に陥っていることは推察できるし、入学する生徒も激減していると聞く。
 コロナ禍のいま、北朝鮮の内情に至っては想像するだに怖ろしい。

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 世界中の誰だって、自ら望むことなく前もって定められた条件下に生まれ落ち、歴史に翻弄されながら、各々が属する国や民族や宗教や文化や社会制度や伝統に絡めとられ、かつ、そこにアイデンティティを見出しながら生きている。
 日本人しかり、在日コリアンしかり、台湾人しかり・・・・。  
 アイデンティティとは“条件付け”にほかならない。
 同じ日本に生まれ、同じ空気を吸いながら、在日コリアンの人々と日本人とではいかにバックグラウンドが異なることか。
 見ている景色が違うことか。
 アイデンティティの中味が異なることか・・・・。

 仏教徒のソルティとしては、“条件付け”からの解放こそが最終的な自由への道と思ってはいるけれど、それは今現在自分や他人が大切にしているアイデンティティを軽視していいということには決してならない。
 それは互いに尊重すべき、でき得る限り理解に努めるべきものであろう。
 「自分たちは国籍なんて気にしないよ。君がナニジンだろうが関係ないよ」という、ムサビの恋人をはじめとする周囲の善意の日本人たちの言葉にミヨンが傷つくのは、それが(幸運にも)国籍を気にしなくてすむ立場にいる人間による“上から目線”のセリフだからだ。
 セクシャルマイノリティの一人であるソルティも、「わざわざカミングアウトしなくたって実生活上の問題がなければ別にいいじゃん」という“決して差別者ではない”ヘテロの同僚の発言に、「それはそうだけど・・・・」とふっ切れない思いとともに口をつぐんだことがある。
 その瞬間、自分(を含むセクシャルマイノリティ)という存在が「無きもの」とされたような気持ちがしたのである。
 「多様性を受け入れる」というのは、「君が何であっても関係ないよ。差別しないよ」という表面的なものではなくて、「君が何であるか教えてくれ。自分は黙って聴くから」ということなのだろう。

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cm_dasilvaによるPixabayからの画像


 朝鮮大学校は、ソルティが想像していた通りの、あるいはそれ以上の不自由で窮屈な怖ろしい世界であった。
 しかるに、そこで学ぶ若者たちの皆が皆、洗脳されてしまうわけではないことが本書では証明されている。
 おそらく、完全に洗脳されて金主席を神と仰ぎ、北朝鮮を理想の国と信じ込むのは一握りの“優秀な”学生だけであって、ほとんどの学生は教員や朝鮮総聯に目を付けられないよう外面は従順なふりをしつつ、それなりに楽しみを見つけながら、自己表現の手段を探しながら、したたかに生きているのだろう。

 まあ、難しいことは抜きにしても、本書はとても面白い小説である。
 「一人でも多くの人に読んでほしい」という言い回しは、たいていの場合、評者の誇張か独り善がりに過ぎないので、あまり口にしたくない。
 が、本書に限っては「一人でも多くの日本人に読んでほしい」と素直に思った。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● 羊と亀 本:『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也著)

2012年角川書店

 スプーン曲げの清田くん、恐山のイタコ、オカルト・ハンター、スーパー霊能者の秋山眞人、人気オカルト番組の元プロデューサー、オーラー鑑定士、毎日同じ時間に扉がひとりでに開閉する寿司屋、永田町の陰陽師、UFO観測会、ダウジング、超心理学の権威、臨死体験者、メンタリストのDaiGo・・・・。
 様々な分野のオカルト現象に関するレポートである。
 著者の森達也は、元オウム真理教の信者の日常を描いた『A』シリーズ、『放送禁止歌』、『職業欄はエスパー』などのドキュメンタリー作品で知られる。

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 オカルト現象に共通する特徴として、いざ厳密な科学的調査によって証明しようとすると何故かうまくいかないというのが知られている。
 ホラー映画『リング』の元ネタとなった明治時代の福来友吉博士による千里眼実験(の失敗)などが有名である。
 こういったオカルト特有の振る舞いを「羊・山羊効果」と言うのだそうだ。

 オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを「羊・山羊効果(sheep-goat effect)」と命名した。
 この場合における「羊」は超能力肯定派を、そして「山羊」は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が肯定されたかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が「羊・山羊効果」だ。

 観測者の態度いかんによって現象のありかたが変わるというのは、まるで量子力学の不確定性原理みたいで興味深い。
 信じる者は救われるってことか。
 子供の頃からオカルト番組やつのだじろうの怖い漫画が好きで、長じてはスピリチュアルにはまったソルティは「信じる者(羊)」の一人であるが、自ら不思議な現象を体験したことがあるかと言えば、さっぱり縁がない。
 UFOを見たこともなければ、霊的現象に遭遇したこともない。
 むろん、スプーンを曲げることも馬券を当てることもできない。
 せいぜいが晴れ男である――外出が決まっている日は晴れることが多いなあ~と思う――のが関の山であるが、これはむしろ逆に、山登りで培った長年の勘から、あらかじめ晴れそうな日をねらって外出予定を組んでいるせいかもしれない。

 とはいえ、自分ではそれと気がつかないところで奇跡は生じている可能性はある。
 たとえば、一昨年の12月に最寄り駅の階段から落ちて左足を骨折し、結果として介護現場から離脱せざるを得なくなった。
 高齢者を安全に介護できる自信と保証が持てなくなったからだ。
 その後しばらくして、辞めた介護施設を新型コロナが襲った。
 数名の職員と利用者が感染し、濃厚接触者となった職員は2週間の自宅待機を余儀なくされた。
 幸いなことにコロナで亡くなった人は一人も出なかったけれど、少ないスタッフでシフトを回さなければならず、施設はてんてこまいだったらしい。
 もしソルティがあのまま働き続けていたら感染していたかもしれない。
 同居の両親にうつしていたかもしれない。
 50代の自分はなんとか復活できたとしても、80代の親はどうなっていたか分からない。
 日本でも世界でも、介護や医療の現場で働いてコロナに感染し、そうと知らずに家に持ち帰って家族にうつしてしまい死なせてしまった、という人もいることだろう。(自分を責めないでほしいものだ)
 両親の2回のワクチン接種が完了した今、「なんとかこのたびは乗り切ったな」という安堵感はやはり大きい。
 転落事故は不幸、不運というより一種の天恵だったのではないかとすら思うのである。
 まあ、こういう都合のいい“こじつけ方”のできるところが「羊」たるゆえんなのだろう。 

羊


 天恵と言えば、歴史を学んだり昨今の世界情勢を学んだりすると、2021年の日本に暮らしていることがいかに幸運なのかをつくづく感じる。

 もし太平洋戦争時に二十歳の若者だったら。
 もし日本でなく北朝鮮やミャンマーやジンバブエに生まれていたら。
 もしイスラム教圏に生まれ育ったゲイであったら(国によっては死刑になる)。
 もしインドのスラムの底辺カーストの家に女性として生まれていたら。
 もし・・・・・・・
 
 幸運と幸福は似て非なるものなので、上記のような厳しい条件下に生まれても「幸福である」ことは可能かもしれないし、逆に現代の日本で何不自由なく生活していても「不幸である」ことはあり得よう。
 でも、衣食住と安全、信仰や表現の自由が保障されている国に生まれ暮らしているのは、それだけでかなりの強運の持ち主であり、幸福へのパスポートを手にしていると言っていいのだ。
 ついつい忘れてしまいがちだけれど・・・。

亀


 「盲亀の浮木」というお釈迦様の教えがある。
 いま海底に盲の亀が棲んでいる。
 その亀は百年に一度だけ海面に上がって顔を出す。
 広い海原を小さな穴の開いた浮き木が、波の間に間に漂っている。
 亀が海面に顔を出したちょうどその瞬間、流れてきた浮き木の穴に亀の首がすっぽり入る。 

 その稀なる確率でしか、生命は(仏道修行ができる=悟りの可能な)人間として生まれてはこられないという教えである。
 すなわち、人身受け難し。
 その上に2021年の戦火のない日本に生きている。
 本来なら、それ以上のオカルト(=奇跡)を求める必要はないのだろう。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● タカ v.s. ハト 映画:『エジソンズ・ゲーム』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督)

2017年アメリカ
108分

 原題は The Current War (電流戦争)
 1880年代後半アメリカで起きた電力供給事業における「直流 v.s. 交流」の覇権をめぐる争いを描いている。
 直流側に与するのが発明王トーマス・エジソン一派、対する交流側はエジソンのもとで一時働いていたこともあるニコラ・テスラと実業家ジョージ・ウェスティングハウスである。
 最終的には、より安く、より遠くまで電気を送ることのできる交流システムが勝利するのであるが、本作では自分の敗北を認めたくないエジソンによる卑劣で陰険な妨害工作の数々が暴き出されている。
 どうもエジソンは天才なのは間違いないけれど、人間的にはいけ好かない男だったようだ。

 エジソンを演じるは『SHERLOCK(シャーロック)』、『裏切りのサーカス』、『それでも夜は明ける』のベネディクト・カンバーバッチ。
 対するウェスティングハウスを演じるは、『テイク・シェルター』、『シェイプ・オブ・ウォーター』のマイケル・シャノン。
 どちらもベテランらしい安定した演技で、気負うことなく実在した人物に扮している。
 エジソンの性格付けが今一つはっきりしないが、これは役者の演技というより脚本の甘さによるものだろう。

 ニコラ・テスラを演じているのは、よく似た名前のニコラス・ホルトという美形のイギリス俳優。
 ノーブルで神経質で世間知らずでお洒落なニコラ。
 デビッド・ボウイ演じる二コラといい勝負だ。 
 そう、交流戦争の主役はおそらく、この映画に描かれているとおりエジソンとウェスティングハウスであって、ニコラではなかったのだろう。
 ニコラ・テスラという人は、どこか浮世離れしたところがあって、ビジネスや政治や利権争いのような実際面には疎かったのではないかと思われる。
 晩年はホテル住まいだったが、近くの公園のハトに餌を上げるのが最大の楽しみだったという。
 あくまでハト派なのだ。

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ニコラス・ホルト扮するニコラ・テスラ


おすすめ度 :★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『老いる意味 うつ、勇気、夢』(森村誠一著)

2021年中公新書ラクレ

 森村誠一と言えば、映画にもなった『人間の証明』や『野性の証明』、太平洋戦争時の731部隊の戦慄すべき人体実験の様を暴いたノンフィクション『悪魔の飽食』などのベストセラーで一世を風靡した作家である。
 ソルティも十代の頃、上記の映画を観て人並みに感動したし、大学生のときに『悪魔の飽食』を読んで衝撃を受けたものである。
 だが、作家としての森村誠一が好きかと言えば、残念ながら、肌に合わない作家の一人であった。
 いくつかの小説には手をつけてみたが、途中挫折した。
 
 一番の原因は、この作家、基本マッチョイズムなんである。
 高倉健の娘役でデビューした薬師丸ひろ子が一躍スター入りを果たした『野性の証明』なんか、主題歌からしてもろマッチョであった。
 男はだれもみな孤独な戦士――である。
 どうあがいてもマッチョになれない軟弱なソルティは、こういうドラマに接するとかつてはコンプレックスを抱きがちだった。
 登場する男たちの思考や言動をよく理解できなかったし(なんですぐ暴言を吐き暴力を振るうんだろう?)、主人公であるヒーローの生き方にも共感できなかった。
 ハードボイルドはソルティの鬼門であった。
 横溝正史や松本清張は読めても、森村誠一は読めなかった。

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 どうして本書を手に取ったかと言えば、80歳を過ぎた森村誠一が鬱病を発症し、それを告白しているという触れ込みを広告に見たからである。
 森村誠一と鬱病・・・。
 いや、マッチョだって鬱になる権利はある。
 しかし、鬱病になったことをカミングアウトするのは、マッチョにはなかなかできないところであろう。
 しかも、森村誠一は1933年(昭和8年)生まれ。
 石原慎太郎しかり、この世代の日本の男は他人に“弱さ”を見せることを極端に嫌う。
 実際、本書あとがきによると、「先生の作品には強いヒーローが登場しますが、病気もする、人生に苦悩する人間・森村誠一の老い方の本を作りませんか」という編集者の依頼に対し、森村は、

 読者に夢を与える作家は、弱い一面を見せてはいけない」と一度は断った。

――そうである。
 今の若い人にはなかなか理解できない思考回路であろう。
 世界トップランクのテニスプレイヤーである大坂なおみが最近鬱病を告白して話題になったけれど、それによって「夢が壊れた」、「大坂には失望した」なんて思うテニスファンがいるだろうか?
 むしろ、あんなに強いフィジカルとメンタルを持っているアスリートでさえ、名声もお金も恋人も手に入れたスーパースターでさえ鬱病になるんだと、一般庶民の多くはどこかホッとして、かえって大坂に共感を覚え、より応援していきたいと思ったのではなかろうか。(ソルティはそうである)
 「だって、彼女は女じゃないか!」だって?
 それこそマッチョイズム特有のジェンダーバイアスである。

 令和の現在、鬱病であることは恥でも敗北でもない。
 それを告白することは「弱さの証明」ではない。
 いや、弱くったって別にいいじゃないか!
 こんな複雑で目まぐるしく、人間関係ややこしく、大自然との絆も断たれ、自己肯定しづらい時代に、一生鬱病にならないでいられる人のほうが、むしろ珍しいのではないか?
 鈍感すぎるのではないか?
 鬱病こそ、「人間(らしさ)の証明」である。

 昭和時代、鬱病のスティグマは強かった。
 うかつに患者に近寄れば感染してしまう業病のように、鬱病は忌み嫌われた。
 苦悩の大きさの度合いで感受性と天才性を顕示できる芸術家は別として、大の男が鬱を告白することは社会的な死にも等しかった。
 男は黙って「〇大ハム」(ん? なんか違う?)
 昭和ヒトケタの森村にとって、この告白は、それこそ“清水の舞台から飛び降りる”思いだったはずである。
 マッチョからの転落。
 下手すると長年のファンを失望させ、逃げられてしまうかも・・・。
 それゆえ、鬱病になってそこから生還した森村がどう変化したのか、今回思い切ってカミングアウトしたことでなにか心境の変化はあったのか、そのあたりに興味を持ったのである。

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 その日の朝はいつもと違った。 
 今日も充実した時間を過ごせるだろうと思っていた早朝、いつものようにベランダに出て、爽やかな空気を吸いながら身体を動かそうとしたとき、違和感を覚えた。
 前日までとはまったく違ったように、朝がどんよりと濁っていたのである。

 最初のうちは気のせいだとも思った。
 しかし、仕事部屋で原稿用紙に向かったときに愕然とした。
 原稿を書き進めていこうとすると、これまで書いてきた文章とはまったく違う雑然とした文体になっていたのである。
 言葉が、文章が、汚れきっていたのである。

 病院に診断結果を聞きに行って、わかった。
 老人性うつ病という暗い暗いトンネルに入ってしまっていたのである。

 本書によれば、2015年から3年近く“暗いトンネル”の中にいたようである。
 ちなみに、「老人性うつ病」と言うのは正式な病名ではない。
 単に65歳以上の人がかかる鬱病を便宜的にそう呼ぶだけであって、症状や治療法に65歳未満の鬱病と大きな違いがあるわけではない。
 認知症と間違われやすい、不眠や食欲不振や疲労感など身体症状として表れやすいといったあたりが「老人性」の特徴と言われている。

 森村は、「極端な多忙による疲労によって、そうなった」と自己診断している。
 たしかに人気作家だけに執筆や講演に追われる日々を送っていたのだろう。
 が、鬱病の原因は「よくわからない」というのが今の医学の見解である。
 (ソルティが15年くらい前に鬱を患ったときも、「ある日突然、予兆もなく、自転車を漕ぐのがしんどくなった」という気づきから始まった)

 森村は、体力・気力・集中力の低下、物忘れがひどくなる、食欲不振と体重減少、興味・関心の薄れ、社会からの疎外感、喉の違和感、便秘・・・など、鬱病一般の症状に苦しめられたことを記している。
 とくに、「言葉が出てこない」ことに非常に焦りと恐怖を感じたようで、手元にあった雑紙に頭に浮かび上がる単語をひたすら書きつけていったことが写真付きで語られている。
 言葉を武器とする小説家という職業ならではであろう。
 おそらく本書に書いてあるのはほんの触りで、もっとしんどい症状や簡単には口にできないエピソードがあったのではなかろうか?
 同じ高齢男性の鬱病と引きこもりからの生還を描いた『あなたを自殺させない 命の相談所「蜘蛛の糸」佐藤久男の闘い』(中村智志著、新潮社)に比べると、遠慮がちなものを感じる。
 
 3年たって無事、鬱病を“克服”した森村は、執筆生活に戻ることができた。
 その後はいっそう充実した老いを生きるべく、意気軒昂である。

 たとえ老いても、「人間枯れたらおしまいだ」という執念が必要になる。
 「自分は絶対枯れない」という意志を強固にして、そのための生き方を考える。
 人間は歳を重ねても、欲望を持ち続けていれば、艶がなくならない。
 生涯現役で生きていこうと考えるなら、欲望はビタミンと同じように絶対に必要なものになる。
 
 高齢化社会では、寂しさに耐える覚悟が求められ、自分の死に対しては責任を持たなければならない。それがなければ、無責任な孤立死につながっていく。
 
 仕事はやめても、臨戦態勢のままいることが大切になる。
 「生きていく緊張感」を失ってはいけないということだ。
 生きていく緊張感を失うというのは、人生を放棄したことを意味する。そうなってしまえば、老いるのが早くなる。

 あいかわらずのマッチョぶり。
 鬱を“克服”したことが、さらなる自信につながったかのようだ。(ソルティは、鬱は一度取りつかれたらトンネルを抜けることはあっても生涯付き合っていかざるを得ない背後霊のようなもので、“克服”され得ないと思っている)
 自身の小説に登場するヒーロー同様、死ぬまで戦士でいる心づもり満々。

 「三つ子の魂百まで」なので、そこは無理もないし、人の自由である。
 なによりもその堅忍不抜な精神によって作家として成功したのであるから、生き方を変える必要はさらさらない。
 これからも充実した執筆活動を続けていただきたいと思う。 
 ただ、鬱を患いそれを告白したことによって、もうちょっとマッチョイズムからの退却が見られるかと思ったのだが、その点は肩透かしだった。
 わずかに、あとがきで次のような文章があるのが目を惹いた。

 人間老いれば、病気もするし、悩み苦しむ。老いれば他人にも迷惑をかけることもある。他人に助けてもらわないといけないことだらけだ。それが老いというものなのである。 

作家バリバリ


 それにしても、森村誠一に限らず、五木寛之や上野千鶴子曽野綾子キケロ―など、いろいろな作家が老いについて指南しているのをこれまで読んできたが、正直どれも、非常に参考になったとは言い難い。
 なぜというからに、みんな社会的成功者ばかりで、金も人脈も発言力もある人たちだからである。
 ソルティ含む一介の庶民とは立場的にかけ離れたところにいる。
 とくに老後資金のある無しは大きい。
 貧乏で、無名で、交友関係もさして広くなく、平凡な人生を送ってきた人の中に、老いをありのままに受けとめて、穏やかに、力むことなく、自暴自棄になることもなく、日々を大切に生きている高齢者がいたら、その人の言葉こそ市井の読者の役に立つであろうに・・・・。
 そう思って、ハタと気づいた。

 ブッダの教えこそ、まさに無名の庶民に惜しみなく開かれた最高の老いの指南書じゃないか!

 たとえ巨額の財産があなたのものになっても、世界中の人があなたにひれ伏したとしても、心の平穏がなければ、幸福にはなれません。年をとりたくない、死にたくないと怯えながら生活するのは、とても不幸なことなのです。

 この世が、すべてが変化し続ける無常の世界だと気づけば、何に頼ることも、依存することも、執着することもできません。だって変わってしまうのですから、それに値しないのです。すると心は穏やかに安定して、怒りや憎しみもなくなっていきます。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『老いと死について』、大和書房刊より)

 ついでに言えば、ヴィッパサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)ほど鬱病に効く治療法はないとソルティは思う。
 
  




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ジュリアン』(グザヴィエ・ルグラン監督)

2018年フランス
93分

 フランス発のDV(ドメスチック・バイオレンス)サスペンス。
 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、セザール作品賞を獲得している。

 暴力的で嫉妬深い夫アントワーヌと別れ、18歳の娘と11歳の息子ジュリアンと新居での再出発を始めたミリアム。
 しかし調停により、ジュリアンは隔週末ごとに父親アントワーヌのもとで過ごさなければならない。
 ジュリアンを介してミリアムとよりを戻そうとするアントワーヌは、思い通りにいかぬ苛立ちから次第に偏執的になり、ある晩ついに母子の住むアパートメントに押し掛ける。
 手に猟銃をもって・・・。

 衝撃のラストに向かって、始めのうちはジワリジワリ、途中からゾワゾワ、しまいにはハラハラドキドキと、加速度を上げて高まっていく緊張感がたまらない。
 ストーリーは単純だが、観る者は11歳の少年の目を通して、大の男(=父親)の暴力と愛する母や姉、そして自身に襲い来る恐怖とを味わうことになるので、臨場感もはんぱない。

 DVを受けている被害者が、なぜ声を上げて訴え出ないのか、なぜ相手から逃げないのか、なぜ逃げ切れないのか、この作品を観ると非常によく理解できる。
 たとえ実際に身体的な暴行を受けるのでなくとも、始終追い回されて暴力の予兆が十分にあるというだけでも、つまり暴力の気配だけでも、人は竦んでしまい力を削がれてしまうものなのだ。

 原題 jusqu'à la garde は「完全に、徹底的に」という意味の慣用句だが、直訳すると「当直まで」「警備員まで」といった意味になる。
 一種の掛け詞になっていることが最後まで観ると分かる。
 加害者である父親役、被害者である母親役、息子ジュリアン、3俳優の演技が素晴らしい。

暴力的会話



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 令和のはじまりに 漫画:『昭和史 全8巻』(水木しげる作画)

1988~89年講談社より刊行
1994年文庫化

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 時代区分から言えば、昭和は明治・大正・平成・令和と一緒に「東京時代」という風に、後世の歴史家から括られるんだろうなあと思うが、「大化」から始まった元号の歴史において、64年は最も長い。
 2番目が45年の「明治」、3番目が35年の「応永」(南北朝時代)である。
 1979年に定められた元号法により「一世一元」となったので、おそらくこの先も昭和を超える長さの元号は現れないだろう。
 昭和は長かった。
 
 昭和天皇が亡くなる前後に日本中を覆った自粛モードは、今のコロナ禍以上のものがあった。
 テレビは連日連夜、昭和天皇の在りし日の姿を偲び、昭和時代を総括する番組を流し続けた。
 その際に、ある識者が指摘した言葉で腑に落ちたものがあった。

 「結局、昭和というのは、昭和20年(1945年)8月15日だ」

 戦後生まれで高度経済成長のさ中に育ったソルティでさえ腑に落ちたのだから、戦前・戦中生まれの人間ならまさしく「その通り」と実感したことだろう。
 昭和とは、何より戦争の時代、日本が敗けた時代だったのだ。
 戦後の40年は混乱と復興と成長と爛熟の時代であったけれども、そうした平和で豊かな日常の底には常に暗く重い「戦争」という言葉が響いていたように思う。

原爆ドーム


 水木しげるは大正11年(1922年)生まれで、平成27年(2015年)に亡くなった。
 昭和を丸々生きた人で、二十歳のときに徴兵され南方の激戦地に送られ、片腕を失いながらも奇跡的に生還した。
 戦後は餓死すれすれの極貧生活から出発し、漫画家としてブレイクし、妖怪ブームに乗ってマスコミの寵児となった。
 昭和を語る資格も経験も見識も十分に備えた人と言える。

 もちろん、語り手として、絵描きとしてのテクニックは言うまでもない。
 本作でも、歴史漫画として政治や社会や世相の変遷を正確を期しながら客観的に描くのと並行して、水木しげる自身の個人史として自身や家族や仕事など身の回りの変化をリアルかつ主観的に描いている。
 それが「社会v.s.個人」あるいは「権力v.s.庶民」の構造を浮かび上がらせ、「下から見た昭和史」とでも言うような、非常に読者の共感を呼ぶものになっている。
 昭和を彩る様々な事件の概要も、水木のオリジナル人気キャラであるねずみ男をナレーターとして登場させ顛末を語らせるなど、教科書のような説明調に陥らない工夫がなされている。
 全8巻をぶっ通しで読んで、昭和を旅した気分になった。

ビンテージラジオ


 「あとがき」で水木も述べているが、全8巻のうち6巻の半分くらいまでは戦争(日中戦争~太平洋戦争)一色に染められている。
 戦後の長さを思えば、配分としては不均衡である。
 だが、それだけ戦争は、社会(国)にとっても個人にとっても比重が大きいものなのだ。
 老人ホームで働いていた時、齢九十を超える高齢者がほかのどんなことより戦時中のことを細かく覚えていて生き生きと語るのに接し、「やはり、そういうものなのか・・・」と得心がいったものである。
 
 水木しげるの個人史として読むとき、やはり水木のユニークな個性と運の強さが印象的である。
 のんきでマイペースで楽天的で好奇心旺盛で、周囲に対する忖度というものをまったくしない。(そのため軍隊では上官にビンタされ放題)
 水木自身がある種の妖怪のようで、漫画のキャラとして立っている。
 戦後、売れっ子になっても戦時中に知り合ったラバウルの原住民との交流を続けていたことが表しているように、金や名声や人気に溺れることも奢れることもなく、幼い頃のオリジナルな感性を大切にした。
 オリジナルとはつまり、自然の中で他の生きもの(妖怪含む)と共に生きるヒトとしての当たり前の感性である。
 国や社会や世間というものは、本当にいい加減で無責任で当てにならない。
 それは今回のコロナ騒動や東京オリンピック騒動を見れば一目瞭然であろう。
 そんなものに忖度する必要は全然ないのだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 難しい判断、やさしい判断 映画:『アイたちの学校』(高賛侑監督)

2018年日本
99分

 日本にある朝鮮学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー。
 アイとは朝鮮語で「子ども」のことである。
 監督の高賛侑(コウ・チャニュウ)は1947年生まれのジャーナリスト、ノンフィクション作家。自身、朝鮮大学を卒業している。

 2010年に施行された高校無償化制度から朝鮮学校は除外された。
 それを受けて、地方自治体でも朝鮮学校への補助金の打ち切りが続いた。
 これに象徴されるように、朝鮮学校の歴史とは在日朝鮮人に対する差別の歴史の典型であり、また、当事者及び彼らを支援する市民有志らによって繰り広げられた差別との闘いの歴史である。
 本作は知られざる歴史的資料や当事者の証言をもとに、100年余におよぶ差別との闘いを浮き彫りにしている。

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 ソルティはかつて朝鮮学校の近くに住んでいたことがあり、散歩や買い物の途中、校庭の金網越しに飾り気のない白いコンクリートの校舎を眺め、下校途中の生徒たちの会話を耳にすることがよくあった。
 朝鮮語の中にたまに日本語の単語が混じる彼らの会話はなんだか面白かった。
 学校のたたずまいからも、常にグループで行動する生徒たちからも、外部を拒否するような空気が感じられたものだが、これはソルティの偏見も入っているかもしれない。
 心なしか男子はイケメンが多かった気もするが、これもやっぱりソルティの希望的観測かもしれない。

 学校の脇を通りながら、思ったものである。

「いったいこの校門の向こうで、高い塀の中で、何が教えられているのだろう?」
「授業は何語で教えられるのだろう? 生徒たちは、日本語と朝鮮語とどっちが得意なのだろう?」
「生徒たちは日本という国をどう思っているのだろう? 韓国や朝鮮についてどう思っているのだろう?」
「自らが選ぶことなく置かれている在日朝鮮人という立場をどう思っているのだろう?」
「将来の展望はどんなものだろう? 

 いろいろと疑問は浮かび、勝手な想像はしたけれど、それ以上追及することはなかった。
 無責任な想像のうちで、紋切り型にして最も悪いイメージは次のようなものであった。

 教壇の上の、日本人の学校であれば「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といったクラス目標が掲げられるあたりに、額縁に入った金主席の写真が飾られている。
 朝と帰りの学活の際には、クラス一同、直立して金主席に最敬礼を行ない、朝鮮語で「偉大なる父・金主席の指導に従い、祖国の発展のために精励します」といったような文言を唱和する。
 朝鮮の歴史や文化を学ぶ授業では、朝鮮中央テレビに出てくるチマ・チョゴリを着た女性アナウンサーのような抑揚と迫力とをもって、教師たちがひたすら祖国や金主席の偉大さを讃え、儒教道徳に基づく生活指導を行い、反日教育をほどこしている。

 つまり、日本の戦前・戦中の学校教育のコピーである。
 在日三世、四世の時代となり、意識も嗜好もすっかり日本人化してしまった生徒たちを、あらたに朝鮮人として「洗脳する」場所、それが朝鮮学校――というイメージがあった。

 本作では主として、大阪にある朝鮮学校(小学校、中学校、高校)の様子が紹介されている。
 戦後の日本人のだれもが通った日本の学校とほとんど変わりない、平凡な学校の日常風景がそこにある。
 生徒たちは時間割に沿って数学や音楽や体育を学び、サッカー、ラグビー、演劇、吹奏楽などのクラブ活動に仲間と打ち込み、運動会やバザーでは親御さんも一緒に活躍し、卒業式では神妙な顔で卒業証書をもらい、学校との別れに涙する。
 異なるのは、国語の授業が朝鮮語で、日本語は英語と並んで外国語として学ぶところ。そして、学校内では朝鮮語で話すことが決まりとなっているところ。
 朝鮮学校に通っている生徒たちやOBたちの証言から、朝鮮学校が「日本社会での孤立を防ぎ、自らのアイデンティティを確認し、自己肯定する」のに大いに役立っていることが理解される。
 それゆえ、日本国家のたび重なる朝鮮学校に対する迫害は、少数民族への人権侵害であり、子供たちから教育を受ける権利を奪うものであり、110年以上前の日韓併合によって「在日朝鮮人」という存在を生み出した加害責任の放棄と映る。
 ソルティも基本、朝鮮学校に対する“不当な”差別には反対である。

 ただ、本作では肝心の朝鮮学校の教育内容が語られていない。
 朝鮮文化や歴史を学ぶ授業があることは触れられているが、現在のかの国の体制(=金主席による軍事独裁政権)を踏まえての具体的な政治教育の中味が語られていない。
 つまり、金主席を自由に批判できるような民主主義教育がなされているのか?
 そこのところが伏せられている。
 そのために、かつてソルティが抱いた“悪いイメージ”ほどではないにしても、やっぱり学校関係者は今の金政権や全体主義国家体制を批判できていないのではないかという疑問が残る。
 たとえば高監督は、生徒たちや教師や親御さんに直接マイクを向け、「いまの北朝鮮の体制をどう思っていますか?」といった質問さえ投げかけていない。
 そこを省いて(隠蔽して)、「子どもが教育を受ける権利」とか「少数民族の伝統や文化を守る権利」を主張されても、今一つ腑に落ちないものがあるのが正直なところ。

 (実際の朝鮮学校がどうなのかは知るところでないが)今の北朝鮮の体制を賛美肯定するような教育を行っている学校を、民主主義を標榜する日本国家がどこまで認めて公金で支えるか、そこは難しい判断であろう。

 一方、作中に登場する某右翼団体のような、当事者(しかも子どもたち!)に対するヘイトスピーチや威嚇行為は理由がなんであろうと決して許されるものではないし、それを取り締まらない行政のありようは差別を助長する人権侵害であるのは明らかである。
 その判断は難しくないはずだ。

 
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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 本:『認知バイアス事典』(情報文化研究所著)

2021年フォレスト出版

認知バイアス事典

 一般にバイアス(bias)とは、織り目に対して斜めに切った布の切れ端のことで、そこから「かさ上げ・偏り・歪み」を指すようになった言葉である。
 よく耳にする「バイアスが掛かっている」という言い方は、「偏った見方をしている」ときに使う。
 「認知バイアス(cognitive bias)」とは、偏見や先入観、固執断定や歪んだデータ、一方的な思い込みや誤解などを幅広く指す言葉として使用されるようになったわけである。

 本書には、我々がはまりやすい認知バイアスが3分野に分けて各20個ずつ、計60個紹介されている。 
  1. 論理学系バイアス・・・早まった一般化、希望的観測、「お前だって」論法、信念の保守主義 e.t.c.
  2. 認知科学系バイアス・・・サブリミナル効果、吊り橋効果、デジャビュ、迷信行動 e.t.c.
  3. 社会心理学系バイアス・・・ステレオタイプ、チアリーダー効果、同調バイアス、バンドワゴン効果 e.t.c.
 いずれも、「ああ、言われてみれば確かにそういうことあるよな~」と自らや周囲に当てはまるものばかり。
 人間は良くも悪くも(ほぼ無意識に)自分をだまし、それによって他人をもだます生き物なんだとつくづく思う。

 必ずしもそれは悪いことばかりではなく、進化の過程で、あるいは仲間や社会をつくる(その中で生き残る)上での方便として、必要があったゆえに身についたものでもある。
 たとえば、昨今よく言われる日本人の“悪しき”同調圧力の強さは、集団作業や助け合いが欠かせない稲作文化の長い伝統と関係しているであろう。
 スポーツ選手のジンクスや受験生の合格祈願のお守りなどは、科学的な因果関係は立証できなくても、当人がそれによって精神的安定が図れて良い結果につながるのならば、「効果があった」と言って差し支えないだろう。いわゆるプラシーボ効果である。
 ロバート・ライトが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』の中で述べているように、「脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている」のである。
 
 問題は、バイアスが他人に対する差別やいじめにつながる場合である。
 というより、ほとんどの差別やいじめはバイアスが原因で、あるいは自分がある特定のバイアスにはまっていることに気づかないがゆえに、起こっている。
 
 その人たちは、たくさんのバイアスがあることも、人が無意識にそれに陥ってしまうことも、どのようなメカニズムで発生するかも知らない。そして、自分の中に存在するそのような認知的歪みが、差別につながっていることにも気づいていないのである。
 この場合、自分が差別をする側であるか、される側であるかは関係ない。そもそも「差別」をしている、されているという意識がないことすら少なくないのである。

 偏った考え方をする知人を「嫌なやつだ」と一蹴するのではなく、バイアスに陥っていることに気づいていないかもしれないと考えることが、呪縛を打ち破る第一歩となる。

 誰もが知っているとおり、他人を変えるのは難しい。
 いや、他人を変えようと思うこと自体が不遜なのではないかとすら思う。
 それよりは、自分の中にあるバイアスに気づいて、自分を変えるほうがたやすかろうし、それによって自らが自由にもなり他人に寛容にもなれるのだから、結構なことである。
 ベストセラーとなった『ファクトフルネス』同様、一読に値する本である。

 最後に、わかりやすいバイアスの例。

読売新聞社が5~7日に実施した全国世論調査で、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長が観客を入れた形での開催を目指す考えを示していることについて聞くと、「賛成」が45%、「反対」が48%と拮抗した。
調査によると、海外からのファンの受け入れに賛成している人はわずか18パーセントで、77パーセントが反対だった。
(読売新聞オンライン2021年3月7日記事より、ゴチックはソルティ付す)

 言うまでもなく、読売さんはこの時点で「開催ありき」だったわけである。 


 
おすすめ度 :★★★

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● モダニズム建築小津風 映画:『コロンバス』(コゴナダ監督)

2017年アメリカ
103分

 コロンバスはアメリカのオハイオ州にある小都市。
 モダニズム建築の街として知られている。

モダニズム建築または近代建築は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ。(ウィキペディア「モダニズム建築」より抜粋) 

 有名なところでは、アール・デコ、フランク・ロイド・ライト、シドニーのオペラハウス、国立代々木競技場なんかが入るらしい。

シドニーオペラハウス
シドニーのオペラハウス

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コロンバスのモダニズム建築


 この映画の主役はまさにモダニズム建築である。
 観光ビデオさながらに、コロンバスにある有名な建築物が次から次へと映し出される。
 よって、映像の美しさの半分は被写体の美しさに拠っているわけだが、ズームも引きも移動もほぼない固定ショット限定というスタイルが、残りの半分の因を占めている。
 このスタイルこそ、本作が小津安二郎に対するオマージュと言われるゆえんであろう。
 確かに人がメインのシーンでも、『東京物語』や『晩春』を想起させるショットがいくつかあった。

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主人公の少女が母親との別れに泣く場面

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『東京物語』で義母との別れに泣く紀子(原節子) 
 
 本作がコゴナダ監督の長編デビューとのこと。
 素晴らしい映画的感性の持主であることはこれで証明された。
 これからどんなオリジナルなテーマを打ち出していくのか、自作を待ちたい。
 

おすすめ度 :★★★

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● SFスピリチュアル小説 本:「消滅の光輪」(眉村卓著)

1979年早川書房
2008年創元SF文庫

 眉村卓と言えば、たびたび映像化されている『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』が有名であるが、映像作品はともかく小説は読んだことがなかった。
 生粋の文系ゆえ、あまり良いSF小説の読者でないソルティは、昔から書店や図書館に行ってもSFよりもミステリーにばかり目が行ってしまう。
 科学オンチということもあるが、SF小説はその性質上、最初の数十~数百ページは物語の舞台となる異世界(未来や地球以外の惑星など)の独特の気候風土や社会システムやルールについての説明に費やされてしまうことが多いので、ある程度の忍耐力が要求される。 
 よほど巧みな書き手でないと退屈してしまうのである。
 そこが、派手な殺人場面と謎の提示によって冒頭から読者を惹きつけるミステリーに、SF小説が敵わないところである。

 なので、上下巻970ページを超えるブ厚い本書を借りたのは、“なんとなく”気になったからである。
 手に取って、眉村卓というビッグネームと上巻の裏表紙の紹介文(下記)に惹かれ、「たまにはSFでも読んでみるか」と思った。

植民星ラクザーンでは、人類と瓜二つの温和な先住民と地球人入植者とが平和裡に共存していた。だがその太陽が遠からず新星化する。惑星のすべての住民を、別の星に待避させよ――。空前ともいえるこの任務に、新任司政官マセ・PPKA4・ユキオは、ロボット官僚を率いてとりかかるが・・・・。《司政官》シリーズの最高作にして眉村本格SFの最高峰。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞作。

 もちろん、司政官シリーズなんてのがあるとは知らなかった。
 眉村卓が2019年11月に85歳で亡くなっていたのも知らなかった。
 ましてや、この小説の内容や評判も聞いたことがなかった。

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カバーイラストは加藤直之による


 マセに与えられた期限は惑星の公転周期で5レーン(地球時間の約8年)。
 その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
 住民は家や仕事や財産を捨ててほぼ身一つで行くことになるのだから、新惑星に移住してからの当面の生活資金を政府で用意してやらなければならない。
 そのためにはどうしても税の徴収によって国庫を潤しておく必要がある。
 
 上位の連邦経営機構により緊急指揮権を付与されたマセは、絶大な権力を用いて、自らの立てた待避計画をロボット官僚群を駆使して遂行しようと決意する。
 しかし、そうは問屋が卸さない。
 移住を希望しない者、司政官の独裁を快く思わず反逆する者、逆に司政官の味方につき権力のおこぼれに預かろうとする者、税の徴収に反対し暴動を起こす者、機会に乗じて金儲けを企む者・・・・。
 危機に際してさまざまな人間模様が浮かび上がるのは、このたびのコロナ禍同様である。

 タイムリミットが設けられている点では本書はサスペンスである。
 マセが、既得権益を有する有力団体や住民の中の抵抗勢力を抑えるために、あるいは移住のため少しでも多くの資金を得るために、知略を尽くし、さまざまな策を弄し駆け引きを行なう様は、政治小説のような面白さ。
 暴動を起こした民衆を配下のロボットを使って制圧しようと苦心惨憺する場面は、戦闘パニックさながら。
 移住を希望しない先住民の謎を探っていくくだりは一種のスピリチュアルミステリーの趣き。
 もちろん、マセの頭脳や手足となるロボットの活躍ぶりこそはSF小説の独壇場である。
 いろいろなジャンルの小説の要素がバランスよく盛り込まれた一級のエンターテインメントである。
 40年以上前に書かれたSFなのに、科学性においてもIT的にもまったく古臭い感がなく、令和の今でも十分鑑賞に耐えるし、読み応えがある。
 眉村卓の小説家としての力量に感嘆した。

壊れる惑星


 最初のうち抵抗や不満を露わにしていた地球からの入植組が最終的には宇宙船に分乗し、新しい惑星に飛び立っていくのを傍目に、先住民は誰一人移住を希望しなかった。
 新星化した太陽が焦土を焼き、灼熱地獄と化し、しまいに惑星自体が消失する事実を知ったうえで、ラクザーンに残り続けることを選択したのである。
 先住民も助けたい、あるいは先住民の自殺行為に見える選択を理解できないマセは、説得を試みるが、彼らの意志は固い。
 先住民は、いったい何を考えているのか?
 なぜ自らの命を粗末にするのか?
 温厚で礼儀正しく、あとからやってきた地球人とも共存できる“いい人”ばかりの彼らの本心はどこにあるのか?
 この謎の解明が、本作の最大の鉤(フック)となって読者を引っ張っていく。
 
 読み進めていくうちに次第にゾクゾクしたものを背筋に感じてくるのは、ほかでもない、この先住民がどうにもこうにも仏教徒のあるべき姿――それも大乗ではなく小乗の――を思わせるからである。
 穏やかで感情的にならず、人と争わず、余計なお喋りもせず、「チュン」という敬称を持つ一握りの意識の高い者たちの指導のもと、今あるものに満足して昔ながらの暮らしを静かに送っている。
 チュンの存在はまるで在家信者に対する出家者、あるいは悟りを開いた覚者のようである。
 チュンはまた予知能力を持っていることが明らかにされる。
 つまり先住民は、地球人が入植してラクザーンの支配者となることも、太陽が新星化してラクザーンが消滅することも、大昔から知っていたのである。
 破滅を知りながら従容としてそれを受け入れる姿は運命論者のように見えるが、実は彼らにははるか昔から伝わる伝承があり、それこそがラクザーンからの待避を拒む一番の理由だったのである。(伝承の内容は詳らかにしないでおく)
 
 ラクザーンから人類がどんどん去っていくのに呼応するように、というよりも太陽の新星化が進行するにつれ、先住民は意識の進化を速め、次々と悟りを開き、チュンになってゆく。
 チュンになったのち、肉体から抜け出て、別の生命体となって宇宙意識と合一する。
 このあたりもまた「悟りから解脱へ」の道を説く仏教的である。と同時に「梵我一如」を説くバラモン教的でもある。
 実に先住民とは「精神的・瞑想的な存在として、思惟の世界を持つ者」であり、諦念に達しているがゆえに現世に拘泥することのない種族なのであった。

 むろん、この逆座標に来るのがマセを始めとする人類であるのは言うまでもない。
 人類は「物質的・科学的な力を駆使して空間的に勢力を広げる者」であり、自らの手で運命を変えることができると信じ、現世において夢や野望や欲望を追い求める種族である。
 本作の一番の肝は、人類と先住民との対比を描いたところにある。
 それはちょうど、未曽有の科学力とIT技術を使いこなす神のごとき未来の人類像――ユヴァル・ノア・ハラリ言うところのホモ・デウス――と、自己および自由意志の幻想性を悟り俗世間に見切りをつけた今一つの人類像――ソルティ名付けるところのホモ・ブッダ――との対比のようである。

宇宙空間のブッダ

 
 司政官マセはロボット官僚を自らの手足のごとく自在に動かし、一時は独裁者として君臨する。
 が、最後には、マセ自身もまた連邦経営機構という巨大な官僚組織の交換のきく歯車の一つに過ぎず、経営機構が事前に練り上げた「惑星移住計画」のシナリオ通りに動かされていた操り人形であったことに気づく。
 令和時代の主人公なら、真実を知ってショックを受け、憤りや虚しさに襲われ、己れのこれまでの生き方や価値観を点検し直すところであろう。
 が、何と言っても40年前の作品である。
 日本は未だバブル知らずの昭和元禄真っただ中。
 作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。 
 マセは、会社に命を預けた昭和時代のモーレツ社員さながら、ふたたび組織に戻って司政官の職を続けてゆく決意をする。
 この結末だけが時代遅れを、いや40年の時の流れを感じさせた。

 それにしても、娯楽を求めて“なんとなく”手に取った本が、結局仏教へとつながっていく不思議
 なんだろな、これは?

 
おすすめ度 :★★★★

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● デヴィッド・ボウイのテスラ 映画:『プレステージ』(クリストファー・ノーラン監督)

2006年アメリカ、イギリス
128分

 19世紀末のロンドン。
 マジックショーに人生をかけた二人の男(ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール演ず)の熾烈な闘いを描くミステリードラマ。

 二人が奇術のネタを求めてはるばるアメリカまで渡って出会う人物が、何を隠そう、天才科学者ニコラ・テスラ
 当時、電気を使った派手な公開実験で衆目を集めていたのである。
 このテスラをなんと往年の美形ロックミュージシャン&俳優たるデヴィッド・ボウイが演じている。
 『戦場のメリークリスマス』で世の婦女子を虜にした黄金の美貌こそ、さすがに過去のものではあるが、カリスマ性あるたたずまいは浮世離れした異端の天才科学者にふさわしい。


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テスラに扮するデヴィッド・ボウイ


 ここでのテスラは失意のマッド・サイエンティストとして描かれている。
 奇術師の依頼によりテスラが作成した電磁波を使った装置によって、文字通り一世一代の“人間瞬間移動”マジックが実現したという設定である。
 むろんフィクションであり、テスラはそんな装置を手がけることはなかった。
 アメリカの都市伝説の一つで、テスラが当初関わったと言われるフィラデルフィア計画がこのエピソードのもとになっているのだろう。

  


おすすめ度 :★★

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● 漫画:『諸星大二郎 自選短編集 彼方より』

初出1974~1994年
2001年集英社
2004年集英社文庫

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 諸星大二郎が25歳から45歳に描いた10の短編が収録されている。
 タイトル通り「彼方」という言葉によって統一されうるような異界物ばかりであるが、SFあり怪談ありギャクタッチありシュールあり古代中国あり人類初期のアフリカあり・・・とジャンルもテーマも幅広い。もちろん、それぞれの話に応じて絵のタッチもまったく異なる。
 読みながら、つげ義春と伊藤潤二と赤塚不二夫と永久保貴一を想起したけれど、諸星大二郎は諸星大二郎である。大変ユニークで傑出した才能に恵まれた人。
 
 自選だけのことはあって読みごたえのある傑作が並んでいる。
 いっぺんに読んでしまうのがもったいなくて、一日一編と決めてじっくり味わいながら読んだ。
 また、一つ一つが濃すぎて、続けて読めるものでもない。

 人間が自ら産んだ人工物と融合してしまう不条理世界『生物都市』、わらべ唄「通りゃんせ」に隠された恐るべき秘密『天神さま』、ダリのごとく奇抜で奔放な創造力が冴える『ど次元世界物語』、古代中国の詩人・陶淵明を主人公とするオカルトファンタジー『桃源記』、ジェンダーと性に切り込んだ意欲作『男たちの風景』、恐ろしさと不思議さと懐かしさとがないまぜになった奇妙な味わい『カオカオ様が通る』等々、ソルティの遅すぎる諸星デビューとなった『暗黒神話』同様、作者の天才と日本漫画界の豊穣を知らしめるに十分な一冊である。

 遅すぎはしない。
 諸星大二郎をこれから踏破する幸せが待っている!



おすすめ度 :★★★★

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● ブッキーの無駄遣い 映画:『黒衣の刺客』(ホウ・シャオシェン監督)

2015年中国、台湾、香港
106分
中国語

 『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989)のホウ・シャオシェン(侯孝賢)はソルティの最も好きな映画監督の一人であるが、ここ30年とんと追っていなかった。個人的には『悲情城市』で頂点を極めたという印象がある。
 撮影本数も2000年に入ってからグッと減って、この『黒衣の刺客』は8年ぶりの新作という。(その後は今のところない)
 
 映画史に残る名監督の8年ぶりの新作で、カンフー系のアクション時代劇という触れ込みで、第68回カンヌ国際映画祭の監督賞を獲り、日本からはブッキーこと妻夫木聡が出演しているというのに、話題になったという記憶がない。
 なんでだろう??と思いながら観たのだが、答えは簡単。
「つまらなかった」

 8世紀の群雄割拠の中国が舞台というだけでも歴史をよく知らない者には背景がわかりにくいのに、登場人物の関係性がややこしく、同じような民族衣装をまとった役者の顔も見分けがつかず、筋書きもつかみづらく、登場人物が何を考えどう感じているのか捉えにくい。脚本(監督自身による)が不親切なのだ。
 そこにホウ監督ならではの緩慢で濃密な時の流れを映したカットが続くので、何度か寝落ちするところであった。

 最後まで見続けられたのは、やはり映像の素晴らしさに尽きる。
 中国王宮ドラマの色彩の美しさはもとより、風、火、水、木、煙、光といった自然の揺らぎを敏感に捉えて映し出す手腕は、監督デビューの頃から変わらずに健在であった。
 映画を観る至福が一方にあり、ドラマに入り込めない苛立ちが一方にある。

 独自のスタイルを持つ監督が自他ともに認める巨匠となり、周囲の人間が誰も忠言できなくなる、監督も周囲の助言に耳を傾けなくなると、えてしてこういった独りよがりに陥りがちである。
 このつまらなさは世のカンフー系アクション映画に対する冒瀆であろう。
 芸術映画というならまだ許せる気もするが・・・。


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どういう役柄かいっこうにわからない中国人?の妻夫木聡
(とりえず大監督の作品に出演できて良かったね)



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