ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『完璧な家』(B・A・ハリス著)

2016年原著刊行
2017年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

 原題は Behind Closed Doors 
 イギリス生まれフランス在住の女性作家。
 デビュー作である本書は、英国で100万部を超えるベストセラーになったそうだ。


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 負け知らずの有能な弁護士でハリウッドスター並みのルックスを持ち、富と名声と知性と優雅さを兼ね備えた「完璧な」男、ジャック・エンジェル。
 彼に熱く口説かれ、求婚され、夢見た通りの豪邸に住むことになった主人公グレース。
 だれもが羨む幸せいっぱいの新婚生活が始まると思いきや、蓋を開けてみたら、夫の正体は血も凍るようなサイコパスであった。
 外面を「完璧に」取り繕うことができるジャックに骨の髄まで支配され、障害を持つ妹ミリーの安全という人質をとられたグレースは、ジャックの命じるとおりに幸せいっぱいの「完璧な」人妻を演じなければならない。
 地獄の日々はいつか終わるのか?
 
 過去と現在を交互に語る構成が効を奏して、読み始めたら止まらなくなる強烈なサスペンスが全編みなぎっている。
 女性作家ならではの日常生活の細やかな描写もリアリティを生んでいる。
 ジャック・エンジェルがドメスティック・バイオレンスを専門とする弁護士で、虐待された女性のヒーロー(文字通り「天使」)であるという皮肉な設定も、グレースの絶望を一層高める。

 自粛生活続きで退屈しきった人におすすめである。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 行為は意志に先立つ? 本:『マインド・タイム 脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット著)

2004年原著刊行
2005年岩波書店より邦訳発行
2021年岩波現代文庫(訳・下條信輔、安納令奈)

 ベンジャミン・リベット(1916-2007)はアメリカの生理学者、医師。
 彼の主著である本書には、パラダイムを一新し、我々の世界観・人間観を根底から覆すような衝撃の科学的発見が記されている。
 邦訳発行からしばらくの間は、彼の名前やその発見内容がメディアに取り上げられ、かなり話題になったのを覚えているが、ここ最近はあまり見聞きしなくなった。
 といって、彼の発見が事実として世間に認められ、常識として定着したからではあるまい。
 いまだにリベットの名は科学や哲学に関心ある人の間ではともかく、世間的には知られていないと思うし、その発見の意味するところを他人に語れる人も多くないと思われる。

 察するに、リベットの発見した内容があまりに突飛すぎて、我々の実感とそぐわないものであることが一因としてあるのだろう。

「単なる仮説だろう?」
「トンデモ科学者の発言なんじゃないの?」
「実験そのものにおかしなところがあるに決まっている!」

 そしてまた、その発見内容が人類にとって好ましくないもの・聞きたくないもの(いわゆる「不都合な真実」)であり、まかり間違えば倫理を破壊しかねないものであるところも、話題に乗りにくい原因なのではあるまいか。
 実際、リベットが本書で記している発見とそれが引き出す究極の結論を鵜呑みにした人は「モラルに反する行動をとりやすい」――ということを示した実験結果もあるそうだ。

 究極の結論とは、我々の自由意志の全否定であり、運命決定論である。


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 この本でリベットは、大きく分けて三つの画期的なことを述べています。
 その第一は、感覚が脳で「知覚」されるのに時間がかかるということ、にもかかわらずその遅れを遡り、補うメカニズムを脳が備えているということです。
 第二は、自由で自発的な意志決定といえども、それに先立つ脳神経活動があるということ。このことは一見決定論に加担し人間の自由を奪うようにみえます。そこでリベットは、みずからの発見から自由意志を救い出すためにかなりの紙幅を割いています。
 そして最後が、脳神経活動の空間的な場(リベットがCMFと呼ぶもの)が意識を紡ぎ出しているという仮説でした。(「訳者あとがき」より引用)


 我々が何かに「気づく(アウェアネスがある)」とは、四六時中無意識に受けている膨大な情報の中から特定のものが意識に上がることを言うわけだが、意識に上がるためにはある条件があって、それは「脳内で一定の条件を満たした神経活動が約0.5秒間続かなければならない」――というのが第一の発見である。
 つまり、感覚で何らかの情報を受け取った時点からそれを自覚するまで、少なくとも0.5秒の遅延が生じる。

 自覚したものごとは、それに先立つおよそ0.5秒前にすでに起きたことなのです。私たち人間は、実際の今、この瞬間を意識していません。いつも、少しだけ遅れるのです。

 精神世界でよく「今、ここ」に意識を置いて生きることの大切さが唱えられるけれど、実を言えば、意識のある限り、我々は「今」に生きることができない、常に0.5秒後の世界を生きているのだ。

 でもまあ、これは今さら驚くほどのことではない。
 たとえば、「今」夜空に見えている星が地球から8億光年離れているとしたら、我々が実際に見ているのはその星が8億年前に発した光である。
 もしかしたら、その星は4億年前に消滅して、「今」はないのかもしれない。
 それと同じ類いの話である。


星の爆発

 
 重要なのは二つ目の発見である。
 S・M・コスリンによる「序文」から引用する。

 リベットは人々に、彼らが選んだ任意の時間に手首を動かすことを求めた。実験の参加者は、時間を動かす点をみて、手首を曲げようとした正確な瞬間(に点がどこにあったか)を心に留めておくように求められた。彼らは実際に運動を始める約200ミリ秒前に意図を持ったと報告した。リベットはまた、脳内の「準備電位」を計測している。これは(運動の制御にかかわる)補足運動野からの活動記録によって明らかにされた。この準備電位は実際の行為の開始におよそ550ミリ秒も先立って生じる。したがって、運動を生み出す脳内現象は、実験の参加者当人が決定を下したことに気づくよりも約330ミリ秒前には起こっているということになる。

 すなわち、ふつう我々は、「①まず意志決定があって、②それから行為につながる脳内の段取りがいろいろあって、③最後に脳からの指令によって行為が現れる」と何の疑いもなく思っているけれど、実験結果が示したのはそれとは違って、「①脳内の段取りがスタートし、②その次に意志決定し、③最後に行為が現れる」というものであったのだ。
 行為は意志に先立つ。
 別の言い方をすれば、我々は無意識が決定した行為を、「自分の意志で行った」と勘違いしながら生きている。

 本書には、実験の詳細な方法や過程、結果とそれについての評価、結果から引き出されるリベット自身の解釈、そしてリベットの発表に対して湧き起こった様々な反論についての反駁が記されている。(このあたりの記述は文系のソルティには正直理解が難しかった)
 リベットは言う。

 自発的に活動しようとする意図または願望に被験者自身が気づくよりもずっと前に、脳は自発的なプロセスを無意識に始動します。この結果は、自由意志の性質をどのように考えるかについてと、個人が追う責任と罪にまつわる問題に、まぎれもなく深い影響を与えます。

 すべての行為が無意識の決定によるというのなら、我々は事前にプラグラミングされた通りに動くロボットのようなものである。
 生まれたときから運命はすでに決まっている。
 であるのなら、この世で罪を犯すことも事前にプログラムに書かれているのだから、それについて責任を問われるのは理不尽ということになる。
 これが、この発見が倫理上の問題を引き起こしかねないという意味合いである。


ロボット



 リベットの発見は、運命決定論者や「心的現象はすべて脳神経の問題に還元できる」という決定論的唯物主義者にとって力強い論拠となり、その持論や研究を後押しする流れを作ったことが、訳者の下條信輔による解説で触れられている。(当ブログでも取り上げた前野隆司の受動意識仮説はその流れの一つであろう)
 世間的には一見忘れ去られているように見えても、脳科学や意識研究の先端においては今や本流となっている知見(作業仮設)なのであった。
 生物学、生物工学を専門とする下條自身もまた、こう言っている。

 私自身の立場は「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。


 ただし、本家本元たるリベット自身は最初の引用に見るように、「みずからの発見から自由意志を救い出す」方向性を選び取った。
 究極の運命決定論に与さなかったのである。

 意識を伴う自由意志は、人間の自由で自発的な行為を起動しません。ですが、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御できます。行為を(実行に至るまで)推し進めることもできるし、行為が起こらないよう拒否もできます。

 すなわち、「①脳内の段取りがスタートし(0.5秒前)、②その次に意志決定し(0.2秒前)、③最後に行為が現れる(0秒時点)」という流れにおいて、無意識の領分である①の段階には介入できないが、意識の領分である②の段階において「拒否権」を発動できる。
 無意識が決定したことにNOを言うのが、我々の自由意志の主たる役割という。
 究極の運命決定論との違いは、プログラムは事前に決定されてはいるものの、それに従わないことを選択できる0.5秒内の自由裁量が与えられているってことだろう。
 そこを逃したら、我々はロボットのように自動的に生きるほかない。

 ただし、リベットの“良心的な”救い出しの理論は、不整合が指摘されている。
 無意識が決定したことにNOを言う、すなわち「拒否する」という意志自体もまた、先行する無意識の決定に0.5秒遅れて発動されている可能性があるではないか?――というものだ。
 つまり、「拒否する」こと自体を0.7秒前に無意識が決めているのではないか?
 であれば、結局、決定論と変わりない。
 リベットは、「意識を伴う拒否には、先行する無意識プロセスは必要ないし、あるいはその直接的な結果でもない」と言っているが、それは実験による検証を経た事実ではなく、希望的観測に近いとみなされている。

脳みそ


 
 ソルティのなによりの関心は、リベットの発見と見解が原始仏教の言説と重なるところである。
 無意識による行為の決定と運命支配の様相は、あたかも業(カルマ)や因縁について語っているように思われる。
 つまり、原因と条件があって結果が生じる。私の意志もまた原因と条件があって勝手に生じている。すべては起こるべくして起こっている
 また、リベットがここで言う自由意志とは原始仏教の五蘊(色・受・想・行・識)の中の「行」(サンカーラ)に相当すると思うのだが、ブッダはまさに五蘊は無常であり無我であり、自由意志は幻想(イリュージョン)に過ぎないと説いたのであった。
 無明から始まる十二因縁がただ連続して生起消滅し、果てしない過去から果てしない未来へと苦の連鎖すなわち輪廻転生が続いているのが我々の生(と死)であって、その流れのどこにも「私」と言えるものは実体として存在しない。
 そこに気づかないから輪廻転生は終わらない、欲望と衝動に突き動かされてありのままの真実を見ないから無明から抜けられない、そう説いたのである。
 そして、輪廻の苦しみから抜け出る唯一の方法は、「気づき(念)」すなわちアウェアネスを育てて輪廻の輪に楔を打ち込むことであり、それがヴィパッサナ瞑想である。
 気づきによって無意識の罠(=プログラミングされた生)から抜けること、それが解脱であろう。


知恵の輪


 最終章でリベットは、ルネ・デカルトとの架空対談を設定している。
 デカルトは言うまでもなく、「心と体は別物」という二元論説の生みの親にして、「我思う、ゆえに我あり」の近代的自我の発見者と目されている。
 この対談によって、リベットの発見や見解が近代哲学においてどう位置づけられるかが措定されるとともに、「自己や魂や自由意志のいかなる感情もイリュージョンである」とする決定論的唯物主義者とは微妙に距離を置くリベット自身の世界観(あるいは宗教観)も明らかにされる。
 面白い趣向である。

 だが、リベットはここでブッダとこそ対談すべきであった。
 おそらくリベットは原始仏教を知らなかったのだろう。知っていたらデカルトでなくブッダを対談相手に選んだはずである。
 さすれば、おのれが発見し辿りついた見解が、2000年以上も前にすでにブッダによって明らかにされ理路整然と説かれていることに驚愕し、即座に三宝帰依したに違いない。

 現代の脳科学者や意識研究者たる者、原始仏教の経典を紐解かずに研究し発言することは、恥をかきたくないのならば、控えたいところである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 〽なのにこの同じ空のし~た~ TVドラマ:『犬神家の一族』(演出・工藤栄一)

放映年月 1977年4月
放映局  TBS系
放映時間 225分(45分×5回) 

 最高視聴率45%を超えた古谷一行主演「金田一耕助シリーズ」の第一作にして記念碑的作品である。
 茶木みやこがねっとりと唄ったテーマ曲「まぼろしの人」(第1シリーズ)、「あざみの如く棘あれば」(第2シリーズ)の禍々しいメロディが、凄惨にして忌まわしいドラマ内容と増幅し合って、金曜夜の放映後の寝つきを不穏なものにしたことを覚えている。

 演出の工藤栄一は、『その後の仁義なき戦い』ほか東映ヤクザ映画で鳴らし、朝日放送「必殺シリーズ」では研ぎ澄まされた美的感覚によるスタイリッシュな映像(陰影と色彩と構図の妙)で視聴者を魅了した名演出家。
 当時中学生だったソルティは工藤栄一の名を知らず映画も観ていなかったけれど、数十年たった今あらためてこうして見直してみると、「なんて質の高い作品だったのか!」と驚くほかない。
 演出といい、撮影といい、美術といい、役者の風格や演技といい、平成令和のテレビドラマが失ってしまったものの大きさに慨嘆するばかり。

 とくに本作は、市川崑&石坂浩二による映画『犬神家の一族』が前年大ヒットして、その影響冷めやらぬなか企画された横溝正史シリーズのトップバッターであることもあって、制作陣の気合の入れ方が半端ではない。
 犬神三姉妹(京マチ子、月丘夢路、小山明子)をはじめとする豪華出演陣、信州の素封家・犬神家の豪邸内の凝ったセット(テレビなので広さは割愛せざるを得ないが)、全編に行き渡る工藤監督の美的センス、そして、「助清の白いゴムマスクを能面に変更する」、「三姉妹の母親たちと犬神佐兵衛の異常な関係を描く」など原作や市川映画との相違部分も見事に効果を放って、225分ノンストップの極上の人間ミステリードラマに仕上がっている。
 『犬神家の一族』はこれまで3度映画化され7回TVドラマ化されているのだが、やはり市川崑による最初の映画と工藤監督による本作が双璧といってよかろう。


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京マチ子と古谷一行


 個人的には映画より本作のほうに軍配を上げたい。
 なんといっても真犯人犬神松子役の京マチ子が素晴らしい。
 大女優の貫禄や風格は言わずもがな、日本髪に着物姿の艶やかな美しさ、切れ長の目の茶が勝った瞳に宿る妖しさと狂気、母親を虐待した身勝手な父親(犬神佐兵衛)への怒りと憎しみを孕みつつ、自らもまた息子(助清)を溺愛するあまり犬神家の忌まわしい因縁に囚われて、その手を血で染めていく。


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助清役の田村亮と京マチ子
白い能面が照明と角度により様々な表情と心理を映し出していく


 京マチ子と言えば、一般にはグランプリ女優の異名をとった『羅生門』、『雨月物語』、『地獄門』あたりが代表作なのだろうが、長年の役者としての経験と一人の女としての成熟が深い演技を引き出している本作こそが、彼女の“ベスト”なのではないだろうか。
 ソルティは京マチ子の映画を10本くらいしか観ていないので断言するのは乱暴に過ぎるのだが・・・・。

 愛する息子の幸せのために人倫を踏み越えていく業の深い母親。
 母を愛するがゆえにその罪をかぶり追い込まれていくパラリーガル復員兵の息子。
 その母子に遺恨を抱く覆面の男。 
 息子をひたすら愛し待ち続けることを誓う大相続人の娘。
 
 なんとなくどこかで聞いたことのあるような物語である。

 
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犬神松子、最期の一服



おすすめ度 :★★★★

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● ロマンチックが止まらない 映画:『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)

2016年アメリカ

 記事のタイトルは、1985年1月にリリースされたC-C-Bのシングル曲。
 中山美穂と木村一八主演のちょっとエッチな性春ドラマ『毎度お騒がせします』(TBS系列)のテーマソングであった。
 ドラマの内容から言えば、「妄想が止まらない」に近かったが・・・。
 
 『ラ・ラ・ランド』こそ、まさにロマンチックそのものである。
 このITとスピードの殺伐とした時代に、かくもロマンチックで純粋なミュージカル映画が作られ、それが大ヒットし、数々の賞を受賞するとは意外であった。
 いや、この夢も希望も恋も語りづらい時代だからこそ、受けたのだろうか?
 
 主演の恋人たち、ライアン・ゴズリングは『ブレードランナー2049』ではじめて観て、トム・クルーズやブラピ系列の“イケメンだけれど演技は今一つ”の男優かと思っていたが、本作で認識を改めた。
 非情に繊細な演技ができる本格派であった。
 オスカーも近いのではなかろうか。
 一方のエマ・ストーン。
 演技は申し分ないが、歌がまずい。
 わざと下手に歌っているのかと思うほど。
 昔のハリウッドだったら吹き替えを使うところではなかろうか?
 二人の相性はぴったりである。

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ライアン・ゴズリングとエマ・ストーン
 

 色彩豊かでカメラ回しも面白く、『雨に唄えば』など50年代のミュージカル映画を思わせるレトロでポップな雰囲気と、ゲイ受けしそうな陽気でキャンピーなノリと、CGを使った魔術的なタッチとがうまい具合に調合されている。
 そのうえに抜群の音楽センス。
 チャゼル監督の紛うことない才能が証明されている。
 
 コロナ禍のいま、ショービズ関係で働く人たちが困窮している。  
 生活面の困難はもとより、舞台や音楽や芸能が「不用不急」の烙印を押されてしまうことは、そこで生きる人たちの誇りを傷つけ生きがいを奪うだけでなく、社会から夢を見る力を剥奪しかねない。  
 そんなことを気づかせてくれる映画である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 春の秩父リトリート 後編

 今回のリトリートの目的の一つに、秩父美術館があった。
 ここは個人(故人)の収集品をもとに作られた私立美術館なのだが、中で興味深いのは仏教資料館が併設されている点である。
 日本のみならずアジア各地の珍しい仏像や仏具、古い経典などが展示されていて、ソルティの素人目にはその真偽のほどや歴史的あるいは美術的価値のほどは分からぬが、面白い展示ばかりであるのは間違いない。秘宝館とでも言いたいような・・・・。

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秩父鉄道・秩父駅から徒歩20分

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2階に仏教資料館がある

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種々雑多な仏教資料が所狭しと並んでいる

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桃山時代の厨子入りキリシタン仏(大日如来像)
十字架は取り外しできる

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マリア観音
ご光背の裏に十字架が刻まれている

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江戸時代の踏み絵
踏まれた部分が白い

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インドで見つかった貝葉(ばいよう)経の原典
樹木の葉っぱに鳥の骨などでサンスクリット文字を刻んだもの
世界最初の経文と言われるが、はたして・・・・・?


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カラフルな延命地蔵(室町時代)

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ヒンズー教の神ブラフマー

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秘仏中の秘仏と言われる聖天様
二頭の象神(ガネーシャ)が抱き合っている

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江戸時代の産泰神(さんたいしん)
「さんたいさま」「こやすさま」「うぶがみさま」と呼ばれ、
産婦と新生児の守護神


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チベットの金剛杵
密教の秘具である

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庭に飾れた石像の神様

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昔懐かし民俗資料館も併設されている

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秩父事件の際に柱に切り付けられた刀傷とか・・・


 実に面白い収蔵品の数々。
 もちろん、幕末の水墨画や現代絵画も多く展示されている。
 別館に骨董掘り出し長屋もあり、収蔵品のバラエティに驚かされる。
 仏像および骨董品に関心ある人はぜひ一度足を運ばれたし。


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こちらは秩父の街の某所に見つけた弘法大師像
よく見ると・・・・

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なんとお化粧をしている!
お女装大師だ
 

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風にはためく仏教旗


 ところで、リトリートの主目的たる肝心の瞑想について。
 ちょっと腑に落ちたことがあった。
 ソルティはこれまで瞑想することによって、苦しみや迷いを消して精神的な安定を図りたいとか、「悟り」のような何らかの境地に達したいとか、日常を突破する何らかの神秘現象を体験してみたいとか、何らかの智慧を獲得したいとか、心身の状態を良くしてなるべくハッピーに浮世を暮らしたいとか・・・・まぁ、いろいろな動機に突き動かされていたわけである。
 しかるにここ最近、瞑想の目的とは「今ここにいること」であって、「今ここにいること」が瞑想そのものであると思うようになった。それ以上に期待する必要などない。
 なぜなら、どんな境地に達しようが、仙人だろうが阿羅漢だろうが聖者だろうが、「今ここにいること」以上のまっとうな生き方はこの世ではできないからである。
 瞑想することによって何か特別なものを獲得しようと心のうちに抱くこと、そのベクトルが「今ここ」から意識を反らし、すでに瞑想から外れている。
 「今ここにいる」を時々刻々更新していくこと、それが瞑想の出発点にしてゴールなのだ。
 

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 リトリートのお開きは、お隣の横瀬町にある武甲温泉。
 ちょうど名物の「横瀬川鯉のぼり祭り」が開催中で、温泉の前の河原には180匹のカラフルな鯉たちが薫風に泳いでいた。

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武甲温泉
西武秩父鉄道・横瀬駅から徒歩15分

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● 春の秩父リトリート 前編

 三泊四日の秩父リトリートを行なった。
 一日のスケジュールはおおむね前回通り。9時間の瞑想、4時間のウォーキングである。

 ウォーキングは気晴らし&骨折した足のリハビリが主目的であるが、長時間の瞑想の余波を受けて、ウォーキングの最中も自然と瞑想モードな意識状態が続くようになる。
 すなわち、「今、ここ」に注意が向けられ、過去や未来へと意識が勝手にさまよう傾向がほとんどなくなる。
 すると、春たけなわの秩父を完全に味わうことができる。
 うららかに良く晴れて、暑くも寒くもなく、行き交う人も車も少なく、素晴らしいウォーキングが楽しめた。


★百花繚乱

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山躑躅

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水仙

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鈴蘭

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染井吉野

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枝垂れ桜

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寒緋桜?

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花桃?

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秩父札所20番岩之上堂より武甲山を望む


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お堂の屋根、新緑、色とりどりの花の配合が実に美しい!

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紅白の桃の向こうに武甲山

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秩父名物・芝桜

 
★盆地展望

 秩父は四方を山に囲まれた盆地であるが、それがかえって広々とした空間を感じさせるから不思議である。
 とくに、いまや街のシンボルたる秩父公園橋の巨大な三角ケーブルをくぐって、荒川の上から街を振り返ると、気宇壮大という表現がぴったりな風景に胸が広がる思いがする。


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秩父公園橋の三角ケーブル
形状から秩父ハープ橋とも呼ばれている

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荒川の向こうの山上に見えるモニュメントがずっと気になっていた

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秩父公園橋を渡って山登り

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荒川

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秩父公園橋から見る武甲山と秩父市街

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到着!
樹海から天に向かってこぎだす船をイメージしているとのこと。
ステージを船首、塔をマストに見立てている。

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ステージ側 

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展望は言わんかたない

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秩父公園橋が目立つ


秩父盆地展望
秩父盆地全景










● 本:『シャーロック・ホームズのドキュメント』(ジューン・トムスン著)

1997年原著刊行
2000年創元推理文庫(押田由起・訳)

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 ジューン・トムスン(1930- )は、イギリスの推理作家。
 ジャック・フィンチ主席警部シリーズが代表作だが、邦訳されているのはいまのところ2作品だけ。
 むしろ、筋金入りのシャーロキアンを証明してあまりあるシャーロック・ホームズの贋作(パスティーシュ)短編シリーズが有名である。
 邦訳は1991年に出版された『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』を皮切りに、『シャーロック・ホームズのクロニクル』、『シャーロック・ホームズのジャーナル』と続き、本作が4作目である。
 いまや、贋作ホームズものの第一人者と言ってもいいのではなかろうか。

 ソルティは本作がはじめてであるが、実は読了後に解説を読むまで、男性作家とばかり思っていた。
 言われてみればジューンはたしかに女性名なのだけれど、名字のトムスンが男性っぽい響きなので、男だと勘違いしていたのである。
 それに、本シリーズのような、コナン・ドイルの“聖典”を彷彿とさせる正統な形式――時代設定は原作そのまんまで助手のワトスン博士の語りによる一人称体――の短編集は、どちらかと言えば男性作家のほうが得意なのではないかと思っていた。語り手は男で、主として男同士(ホームズ&ワトスン)の日常が描かれるからだ。
 ジューン・ワトスンが女性作家と知って意外でもあったし、読んでいる間は女性の手によるものとは感じさせない自然さがあったので、筆力に感心した。

 “聖典”と比べるのは酷というものだが、むろん、犯罪トリックの奇抜さやホームズの推理の鋭さは到底かなわない。
 が、時代考証がしっかりしていて19世紀英国の雰囲気が味わえるし、ジューンの緻密で熱心な研究により“聖典”との整合性も見事にとれている。
 ストーリーもなかなか面白い。とくに、女性が犯人である作品群に、“聖典”とは違った微妙なニュアンス(たとえば同性ならではの容赦なさ)がたくし込まれている。
 前言と矛盾するようだが、そこはやはり女性作家ならではの視点を感じる。

 しばらく楽しめそう。



● 映画:『盲目のメロディ ~インド式殺人狂騒曲~』(シュリラーム・ラガヴァン監督)

2018年インド
138分、ヒンディー語

 いつものごとく長~いインド映画であるが、本作については長さをまったく感じなかった。
 発想が面白く、脚本に優れ、役者陣も魅力的、インド歌謡とピアノをミックスさせた音楽もいい。
 第一級のスリラー&ブラックコメディに仕上がっている。

 盲目のピアニストが殺人現場を2度も“目撃”してしまう――というくらいなら他にも似たような先行作品はあろうが、このピアニストが実は盲目を騙っていたというところが秀逸。
 「犯人を知っている。現場を見た」と証言すれば、「見えていない」と言ってこれまで恋人や周囲をだましていたことがバレてしまう。
 それでも良心にしたがって警察に出向いたピアニストを待っていたのは、衝撃の事実!
 「見えていない」と思われたから殺人犯に見逃されていた命が、「実は見えている」と分かって一転窮地に陥っていく。
 あとは息つくヒマないどんでん返しの連続で、最後に待っている衝撃の伏線回収まで一気呵成。
 
 インドの底知れないパワーと暗部、インド人のバイタリティと現実主義、インド映画(ボリウッド)の質の高さと幅の広さを伝えてくれる映画である。


ウサギ
ウサちゃんが一つのポイント



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 50歳以上お気の毒さま 本:『白い病』(カール・チャペック著)

1937年原著刊行
1992年邦訳初出
2020年岩波文庫(阿部賢一訳)

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 3幕の戯曲。
 カール・チャペック(1890-1938)は、今は無きチェコスロバキア共和国のジャーナリスト&作家。
 チェコスロバキアは1918年オーストリア=ハンガリー帝国から独立して建国、1960年以降は共産党独裁による社会主義国家となりソ連の支配下にあった。1992年のビロード革命で共産党政権が崩壊、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離して今に至っている。

 白い病とはチャペックが創造した伝染病である。50歳以上の人間だけが罹患、皮膚に白い斑点が現れたのち身体内部で腐敗が進行し、数週間後に死亡する。感染力は非常に強く、握手でもうつる。中国が発生源という噂がある。
 新型コロナウイルスとの類似を思うところだが、本書はまさに2020年4月~5月の緊急事態宣言中に訳し出されてウェブ公開されたのが文庫化のきっかけとなった。
 カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』同様、タイムリーな企画出版というわけだ。

 白い病はコロナ同様、世代間の分離と対立を引き起こす。
 作中に登場するある家族の会話。

父 ばかげてる! 今日の学問や文明はいったいどうなってるんだ、ありえん話だ――伝染病がこんなに流行しているってことは、今は中世だとでも言うのか? しかもどうして五十歳なんだ。職場でも一人が病気になったが、ちょうど四十五だった。五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
 なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうならなければ、行き場がないんだから。

娘 今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとだめなの!


 世界じゅうに広がり打つ手がないように思われた白い病の特効薬を、ある町医者が開発した。ガーレン医師だ。
 お国の大学病院を借りておこなった臨床試験でも抜群の成績を上げた。
 大学病院の責任者はじめ財界や政界のお偉方は、ガーレン医師に治療法の公開を求める。
 それに対してガーレンが要求した引換え条件は、あまりにまっとう過ぎるがゆえに、かえって実現困難なものであった。

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 本作のテーマは、平和を求める者と戦争・権力・富を求める者との対峙を描くところにある。それはまた「持たざる者」と「持つ者」との闘いであり、一人の平和主義者が国家主義者に挑んだ一種のテロリズムである。武器は白い病の治療法だ。

 発表当時はもちろん、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったナチスドイツ、つまり国家主義&全体主義に対する風刺であり、プロテストだったのだろう。登場人物の一人、国軍の最高指導者たる元帥は、ヒトラーを連想させる。
 本作がタイムリーなのは白い病がコロナウイルスと似ているからだけではない。
 平和をひたすら求め貧しい患者を助けるガーレンと、「国のため」と言いつつ栄誉や威信や私利私欲に執着する権力者との対比に、香港や台湾の市民 v.s. 中国共産党を、あるいは民主化を求めるミャンマーの大衆 v.s. 国軍を、重ね合わせてしまうからである。
 時代を超越するところが名作たるゆえん、岩波文庫にふさわしい。

 最後には元帥自身も白い病に感染してしまう。
 さて、どんな結末が用意されているか・・・・。

 140ページの薄さなので、小一時間あれば読める。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 8

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像




● 大映ドラマの原型 映画:『セックス・チェック 第二の性』(増村保造監督)

1968年大映
89分

 増村監督は70年代後半にお茶の間の人気をさらったTBS「赤いシリーズ」の演出や、堀ちえみ&片平なぎさの『スチュワーデス物語』、小泉今日子&石立鉄男の『少女に何が起ったか』の脚本などを手掛け、いわゆる大映ドラマの基盤をつくり上げた人である。
 その特徴は、目まぐるしく荒唐無稽なストーリー、大げさな感情表現と棒読みゼリフ、えぐいほどのリアリティといったあたりにあった。
 片平なぎさが風間杜夫の目の前で歯を使って手袋をはずす場面や、石立鉄男が当時人気アイドルだった小泉今日子に向かって「薄汚ねえシンデレラ!」とののしる場面など、強く印象に刻まれている。
 
 増村節はしかし、彼が60年代に撮った映画の中ですでに炸裂していた。
 若尾文子主演の『赤い天使』や『刺青』、そしてこの安田道代(現:大楠道代)&緒形拳の『セックス・チェック 第二の性』に、その後の大映ドラマのエッセンスがしっかり盛り込まれているのを確認できる。
 ただし、若尾文子は名女優なので、堀ちえみや小泉今日子や能勢慶子のような棒読み感はさすがにないが・・・・。

 元短距離走者の宮路司郎(=緒形拳)は、自分が果たせなかったオリンピック出場の夢を叶えるため、若く才能ある女子スプリンター南雲ひろ子(=安田道代)を見出し、女断ちまでするストイックさでコーチを務め、徹底的に鍛え上げる。
 甲斐あって素晴らしい100mタイムをマークするようになったひろ子であったが、日本スポーツ連盟の指示で受けたセックス・チェックで「女でない」と診断されてしまう。ひろ子は半陰陽(インターセックス)だったのだ。
 夢をあきらめきれない宮路は、ひろ子と二人で伊豆合宿し、昼は猛練習をほどこし、夜はひろ子を“女にする”ための訓練に打ち込む。

 いやはや、凄い物語である。
 最初のうちは『エースをねらえ!』のような男性コーチと女性選手の疑似恋愛&スポ根ドラマを想像していたら、あれよあれよとトンデモない方向に物語は走っていく。
 緒形拳がこんな“ゲテモノ”映画に出演していたとは! 
 しかも、鬼気迫る熱演ぶり!
 名優と言われるほどの人は、どんな役を与えられても精魂込めて演じるものなのだ。
 ちなみに、“ゲテモノ”映画と言ったのは、半陰陽がテーマだからではもとよりない。
 話の筋書きや細かい演出が、観る者の予測を上回る突飛さ・エログロさ・えげつなさ・テンションの高さで、あっけにとられてしまうレベルにあるからだ。
 たとえば、伊豆合宿の最中に体調を悪くして崖から転落したひろ子に、宮路は駆け寄る。
 すると、気絶しているひろ子の股の間から血が流れている。
 それはひろ子にとって人生初めての経血であった。
 「ひろ子、起きろ! ついにお前、女になったぞ!」
 涙を流して喜び抱き合う二人・・・・・。


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特訓中の緒形拳と安田道代


 緒形拳とは『鬼畜』、『復讐するは我にあり』で共演している小川真由美が、宮路の親友峰重の妻・彰子の役で出演している。上品な着物姿に白い肌が映えて美しい。
 これもまた、夫にはかまってもらえず、宮路に犯され、自殺未遂を繰り返し、しまいには気が狂ってしまうという異常な役柄なのだが、不自然を感じさせず演じきる小川の芸の幅を感じる。
 はっきりとは描かれていないが、おそらく峰重はゲイで昔から宮地が好きなのだ。彰子の欲求不満はそのへんが原因なのだ。
 そう解釈して観ると、より深い人間心理の綾が見えてこよう。

 このDVDはレンタルショップのアダルトコーナーに置かれていた。
 タイトルから勘違いされたのだろう。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ソ連消滅30周年 本:『ソヴィエト旅行記』(アンドレ・ジッド著)

1936、1937年原著刊行
1937年邦訳初出
2019年光文社古典新訳文庫

 ソヴィエト、ソ連という国が地上から消えてすでに30年経つ。
 あんなに大きな、あれだけ威勢を誇った、あれほどアメリカはじめ西側諸国を脅威に陥れた国が一夜にして無くなるとは、まさに晴天の霹靂であった。
 猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・・
 当時(1991年)、第一報に接したとき思わず朗誦したくなったのを覚えている。


赤の広場
モスクワ:赤の広場


 住井すゑ著『橋のない川』を読むと、1917年にロシア革命が起こって史上初の社会主義国家であるソヴィエトが誕生したことが、日本全国の被差別部落の住人や貧苦にあえぐ農民や労働者らにとって大いなる希望と勇気をもたらしたことがありありと知られる。1922年に早くも日本共産党が生まれている。
 世界でもそれは同じで、1921年に中国共産党が誕生しているし、ヨーロッパでも芸術家や知識人をはじめ共産主義に共鳴し新生ロシアに期待する人は多かった。皇帝専制政治を廃し、人民(プロレタリア)主体の自由と平等と平和を掲げた国の出現は、人類が永年夢見たユートピアの到来を思わせたのである。
 フランスのノーベル文学賞作家であるアンドレ・ジッド(1869-1951)もまたその一人であった。

 ソ連が私たちにとって何であったか、誰か言える者があるだろうか。望んで選んだ第二の祖国というだけでは足りない。一つの規範、一つの指針だったのだ。私たちが夢見ていたもの、高望みと知りつつも、それでも私たちの意志が全力を挙げてそこへ向かおうとしていたもの、それがかの地では実現されていたのだ。ユートピアがまさに現実のものになろうとしていた土地、それがかの国だったのだ。

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 本書は、ジッドが1936年の6月から8月にかけてソヴィエトを旅行した際の見聞録『ソヴィエト旅行記』と、それが故国で発表されるやいなや巻き起こった左派からの激しい非難や罵倒に対して反論した『ソヴィエト旅行記修正』の2編から成っている。 
 つまり、共産シンパであった一人の作家が、革命20年後のロシアを訪れ、その最も良い部分を経費あちら持ちの大名旅行で見物し、にもかかわらず、ロシアの惨憺たる現実と革命の失敗に気づき、帰国後共産主義ときっぱり決別することになった、いわゆる「転向」の一幕が描き出されている。
 スターリン独裁下のロシアの、まるでジョージ・オーウェル『1984』そのままの全体主義的管理社会の風貌を伺うのも興味深いが、やはり一番の魅力は、多大な影響力をもつ西側の共産シンパの著名人をだますために体よくお膳立てされた見学ツアーにあって、虚飾の下の真実を見抜くジッドの観察力と洞察力、そしてしばしば「転向者」に向けられる罵倒や蔑みをものともせずに、率直に自らの誤りを認め、事実をありのままに伝えんとするジッドの芸術家としての誠実さと使命感である。

 今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、他のどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた党から離れる。

 國分俊宏による新訳は非常に読みやすく、注も解説も充実している。
 とくに、日本共産党の委員長だった宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子が、本書が最初に邦訳された(1937年)ときに発表した書評についての記述が非常に面白い。
 当然、宮本はジッドと本書をクソミソにこき下ろした。曰く、ブルジョア育ちの芸術家で世間知らずのジッドは、大局的な現実を、歴史の本質を見ていない云々・・・。
 國分はこう書いている。

 いずれにせよ、歴史を見ればすでに決着はついている。宮本の文章は、常に絶対にイデオロギーに忠実であろうとして党派性にのみ固執すれば、どんな歪んだ理屈で人を批判するかという民族誌的標本として貴重な例を提供していると言うべきだろう。

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 ソ連はなくなったが、取って代わるように同じ共産主義国家である中国が世界を席巻している。北朝鮮は鉄のカーテンどころか「タングステンのシャッター」の向こうにあり、中で何が起こっているのか計り知れない。中国やロシアとの関係を深める軍事政権下のミャンマーの今後も気がかりである。
 社会主義や共産主義が危険なのは、それが好んで標榜する「自由・平等・民主・人権・進歩」といった概念そのものが過ちであるからではなく、抑圧され苦しんでいる大衆を惹きつけて莫大なパワーを結集させるこの“魔法の言葉”が、権力への飽くなき野望をもつレーニンやスターリンや毛沢東のような狂人たちにとって、野望実現のための恰好な隠れ蓑になるからではなかろうか。
 右にも左にも関係なく権力と支配が大好きな輩はどこにでもいて、イデオロギーさえ彼らのいいように利用されるってことだ。

 
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ジッドと年下の愛人マルク・アルグレ

 

おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『猫と庄造と二人のをんな』(豊田四郎監督)

1956年東京映画
103分、モノクロ

 東京映画なんてレーベルがあったことを知らなかった。
 1952年~1983年に存在した東宝系の制作会社だったらしい。
 森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺の三人が主演の「喜劇駅前シリーズ」が最大のヒット作とか・・・。(ソルティ未見)

 原作は谷崎潤一郎の同名小説であるが、これまた未読。
 だが、“いかにも”な谷崎文学の刻印が見られる。
 強く美しい女の尻に敷かれる優柔不断な男とか、その男が若い女の脚フェチであるとか。
 つまり、マゾヒズムの匂いがそこここに漂っている。
 タイトル通り、猫を溺愛する男の話なのであるが、言われてみれば、躾けるのが好きなサディストは犬好き、振り回されるのが好きなマゾヒストは猫好き、といった傾向はあるかもしれない。
 とはいえ、同じ谷崎原作の『刺青』や『瘋癲老人日記』や『』のようなあからさまな変態映画ではなくて、関西の海辺の田舎町を舞台にした人情喜劇である。

 タイトルの「二人の女」は、実際には「三人の女」が正しかろう。
 ぐうたらを絵にかいたような甲斐性なしの庄造(=森繁久彌)をめぐる三人の女、すなわち、母親(=浪花千栄子)、前妻(=山田五十鈴)、後妻(=香川京子)の愛憎や嫉妬や意地や欲得の入り混じった壮絶バトルが見どころである。
 三者とも甲乙つけがたい名演で、役の上での闘いとともに、女優としての火花もバチバチ散っている。

 おちょやんは本当に、名作と言われるほどの映画なら必ず顔を出しているなあと感心する。喜劇センスは言うまでもない。鶏小屋に隠れるシーンなど爆笑もの。
 山田五十鈴は、未練・嫉妬・意地・驕慢・可愛さ・怒りなど、女の様々な感情を表情豊かに描き出して見事の一言に尽きる。
 香川京子はいつもの清楚で従順な女性といったイメージを覆すアプレ女(今で言うならギャル)になりきって、伸びやかな裸の足を惜しげもなく庄造役の森繁の前に差し出している。
 この三女優それぞれの熱演をしっかり受けとめて、なおかつ主役としての存在感と個性と色気を失わない森繁はやはり一級の役者である。
 
 ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞す。

 

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congerdesignによるPixabayからの画像


おすすめ度 :★★★

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● ユダヤのフェミニズム 映画:『ザ・ゴーレム』(ドロン&ヨアブ・パズ監督)

2018年イスラエル
95分

 イスラエル(ユダヤ教圏)のホラー映画を観るのは初めて。
 舞台は17世紀中期のユダヤ系コミュニティ。
 いまだ迷信がはびこる時代である。

 『アンダー・ザ・シャドウ』(ババク・アンバリ監督、2018)に見るように、イスラム教圏の代表的なモンスターと言えば精霊ジンであるが、ユダヤ教でそれに相当するのがゴーレムである。
 ウィキによるとゴーレムは、「ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形」で「ヘブライ語で胎児を意味する」。また、「作った主人の命令だけを忠実に実行する」という。
 なんとなく既視感があるのだが、それはドラクエに登場するキャラの一つだからではなく(ソルティはドラクエをやったことがない)、子供の頃に好んで観た大映の『大魔神』を思い出すからなのだ。
 それもそのはず、大魔神は、チェコスロバキア映画の『巨人ゴーレム』(1936年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)をヒントに制作されたのであった。
 『ハクション大魔王』のランプの精と言い、『バビル二世』のポセイドンと言い、スフィンクスデザインの『ジャイアント・ロボ』と言い、結構幼い頃に夢中になって見たテレビ漫画や映画の中に、国際的なエッセンスがたくし込まれていたのを思い知る。


ゴーレム
ゴーレム


 この映画のミソは、ゴーレムと言う言葉から想像される巨大な泥人形が出てくるかわりに、可愛らしい少年がその正体であるところ。
 しかも、その少年ゴーレムをカバラの秘術によって創造したのは、幼い息子を水難事故で亡くした女、ハンナなのである。 
 少年ゴーレムはハンナと一心同体で、ハンナの思いを感じて行動し、ハンナの言うことだけを素直に聞く。

 そのせいか、この作品はユダヤ教文化圏の家父長的で男尊女卑の社会に対する一種のアンチテーゼのようにも読める。
 「女の使命は子供を産むことだ。それをしない奴は神に反している」なんて、どっかの国の国会議員が地方講演でポロリと口にしてあとからネット炎上しそうなセリフが出てくる。
 そんな言葉で夫や義父に日々責め立てられているハンナが、泥から少年ゴーレムを造り上げ、村を責めてくる外敵を追い払い、男たちを見返すのである。
 女子供の勝利だ。

 しかるに最後は、外敵を全滅させた少年ゴーレムはコントロールが効かなくなって、村人たちもまた手に掛けてしまう。
 ハンナは泣く泣く少年ゴーレムの口から呪文の書かれた羊皮紙を取り出し、少年をあとかたもなく砂に返し、生き残った夫と共に灰燼と化した村をあとにする。

 ラストシーン。
 捨てられた羊皮紙を拾ったのは、やはり生き残った少女。
 女から女へ、意志が継承される。
 このフェミニズムっぽさ、やはり現代映画である。



おすすめ度 :★★★

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● ズームイン仏教 本:『脳と瞑想』(プラユキ・ナラテボー&篠浦伸禎著)

2014年(株)サンガ
2016年サンガ新書

 副題が長い。
 「最先端脳外科医とタイの瞑想指導者が解き明かす苦しみをなくす脳と心の科学」

 脳外科医とあるのが1958年生まれで都立駒込病院脳神経外科部長をつとめる篠浦伸禎で、一方、瞑想指導者とあるのが1962年生まれで88年タイで出家したテーラワーダ僧侶のプラユキ・ナラテボー師である。

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 第一部では、プラユキ師によるタイで実践されている代表的な三つの瞑想法の伝授と、篠浦が現場で実践している脳の覚醒下手術の説明とそこから判明した脳の部位による働きの違いに関する知見が記されている。
 第二部は二人の対談である。

 最先端脳科学と仏教あるいは瞑想との関係を説いた本はいまなおブームであり、当ブログでもいくつか取り上げてきた。
 中でも、『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)、『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)などはお勧めである。
 また一冊、脳の覚醒下手術による知見という新たなアプローチがここに加わったわけである。

 脳の腫瘍摘出などで開頭手術を行う場合、これまでは全身麻酔が普通であった。
 が、近年、これに変わって実施されるようになり治療効果の高さや副作用の少なさから注目を浴びているのが、覚醒下手術である。
 篠浦によると、

 全身麻酔の手術では、患者さんののどに管を入れて、麻酔薬で患者さんを完全に眠らせ、最後まで意識のない状態で手術を行います。一方、覚醒下手術は、基本的には、局所麻酔と静脈からの麻酔薬で痛みを取り、腫瘍を摘出するところでは完全に麻酔薬を切って行います。つまり、手術中に患者さんに起きていただき、症状が悪化しないかチェックしながら手術ができるため、全身麻酔の手術に比べて極めて安全な手術になります。

 一瞬びっくりするような話であるが、こういったことが可能なのは、脳自体にはもともと痛みを感じる神経がないことと、局所麻酔による痛み止めの技術が近年格段に進歩したゆえである。(ソルティも足の骨折手術時にお世話になった)
 覚醒下手術だと、脳の術部周辺に電極を当て刺激を与えつつ、手術台の上の患者さんの意識や認知機能の変化を本人に直接確認することで、安全に手術続行できるかどうかチェックできるわけである。これが全身麻酔だと、摘出手術が終わり患者さんが覚醒したときに言語障害や麻痺や認知機能の損壊といった思わぬ副作用が見つかったとしても、もはや取り返しがつかない。
 医学の進歩はすごいもんだ。

 覚醒下手術はまた副次効果が興味深い。
 てんかん患者を対象にした覚醒下手術&実験をもとに作られたペンフィールドのホムンクルス(下図)は、脳の運動野と感覚野が体のどの部位と対応しているかをマッピングしたものとして有名だが、患者が自らの意識経験をリアルタイムで証言できる覚醒下手術だと、脳のどの部位が、特定の意識や認知といった知的・精神機能と関与しているかが見えてくる。
 たとえば、ある部位に刺激を与えたら他人の恐怖の表情が読めなくなったとか、ある部位の腫瘍を摘出したら急に難しい数字の逆唱ができるようになったとか、人の脳の機能の解明と言う点で極めて意義深く、新たな地平を開くものがある。
 いずれ、認知症の原因解明と治療などに役立つ日が来るやもしれない。 
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 第一部の最後には、篠浦がこれまで何百回と行った覚醒下手術から得た脳の働きに関する知見をもとに作った「脳のタイプチェック」が紹介されている。
 大まかに、4タイプに分かれている。
 脳優位スタイル検査というサイトでチェックテストをすれば、自分がどのタイプにもっとも当てはまるか知ることができる。
 本書のカバー裏には脳テストを受けるために必要な個別の ID とパスワードが貼ってあり、本書を購入した者はこの脳テストに参加し、自身のタイプを知り、アドバイスを受けられる仕組みになっている。
 面白い試みである。(ソルティは本書をブックオフで購入したので、IDとパスワードはすでに使用済みだった・・・・残念)
 
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 メインとなる第二部の対談では、やはり現役のテーラワーダ僧侶であり、日本での講演や瞑想指導でも人気を博しているプラユキ師の言葉が奥深い。
 ソルティはこれまで彼の法話に接したことがなく、本を読むのも初めてであるが、智慧と慈悲、仏法理解と実践とのバランスの取れた、柔和な性格の人という印象を受けた。

 以下、本書よりプラユキ師の言葉を紹介。

 瞑想の目的は智慧を得て、苦しみから自由になっていくことと、一切衆生への深い慈悲を育てていくことです。瞬間瞬間に気づいていくことはその手段です。もちろん瞑想によって心の安らぎや落ち着きが生じたり、あるいは歓喜の体験や三昧体験などさまざまな変容意識体験も生じてきますが、そういった境地を得ることが瞑想の最終目的ではありません。・・・・・智慧を得ていくためには、特定の心の境地へのとらわれからも自由になって、心をコントロールすることをやめ、あるがままの洞察に進んでいくことが大事です。

 まず、自分の意見や気持ちを相手に押しつけようとするのが自我的。それに対して、相手の意見も自分の意見も平等に尊重した視点から発言できるのが瞑想的
 それから、相手の表面に現れる言葉にすぐに反応しちゃうのが自我的。それに対して、相手の言葉をいったん受けとめて、その言葉の奥にある相手の思いや願いにまで思いを馳せられるのが瞑想的
 そして、問題が生じてきたとき、すぐに白黒をつけようとするのが自我的。それに対して、その問題を通していろいろ学んだりしながら、相手との関係をより良くしていこう、より良い解決法を見つけていこうと前向きに取り組むのが瞑想的な対応法です。

 悩み苦しみとは、よるべを失い、恣(ほしいまま)にさまよう心の作りだす空想物語の数々です。こうした理解を経て、思考やイメージの主になりえたとき、今度は逆に、今、目の前の困難な状態にある相手にまみえても、自由にイマジネーションの翼を広げて、その人の来し方、行く末のより良く変容した姿も思い描け、いたずらに相手の今の姿に落胆や狼狽することがなくなります。そして、思いやりと希望を持って、相手の良き縁とならせてもらうために、今ここで自分が何をさせてもらったらいいかなど、冷静に対応を吟味できるようになるのです。

 コロナが落ち着いたら、法話を聞きに・・・・いや、師のツイッターによれば、ZOOMで今も瞑想指導や個人面談をやっているらしい。
 時代はZOOMか・・・・。 



おすすめ度 :★★★

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● 映画:『河内山宗俊』(山中貞雄監督)

1936年日活
87分、白黒

 河内山宗俊(宗春とも)は実在した江戸時代後期の茶坊主にして侠客。

茶坊主とは、将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため「坊主」と呼ばれているが僧ではなく、武士階級に属する。(ウィキペディア「茶坊主」より)

 実際はかなりの悪党だったらしいが、講談や歌舞伎の世界では庶民のヒーロー的存在に祭り上げられた。
 この役を河原崎長十郎が、妻・お静を山岸しづ江が演じている。
 この二人は溝口健二監督『元禄忠臣蔵』でも夫婦役だったが、実生活でもパートナーであった。
 ちなみに、山岸しづ江は岩下志麻の叔母にあたる。

 河内山宗俊に助けられる町娘・お浪を16歳の原節子が演じている。
 映画デビュー間もない原の初々しくも凛とした美貌が光る。
 口舌も可愛らしくて品がある。
 この撮影現場を見学に来たことが、アーノルド・ファンクが原を日独合作映画『新しき土』のヒロインに抜擢するきっかけとなったと言われる。
 「さもあらん」と頷ける原の万国共通のオヤジ殺しの魅力である。

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 音楽は西悟郎という人が担当している。
 驚いたことに、クライマックスのチャンバラ場面でチャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』を用いている。
 なんとキッチュな!

 もう一つの驚きは、お浪を吉原遊郭に売ろうと謀る女衒役で加東大介が出ている。
 当時(25歳頃)は市川莚司という芸名だったようだ。
 実に息長く活躍した役者と感嘆した。
 特徴的な顔立ちと演技の巧さは後年のそれと変わりない。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 漫画:『てるてる坊主食堂 末期すい臓がんからの復活』(のりぽきーと・作画)

2019年風濤社

 若くして夫を亡くした女将と、パリで国際結婚のち離婚した娘(のりぽきーと)。
 母娘二人で切り回す地域密着の美味しい「てるてる坊主食堂」(埼玉県が舞台らしい)。
 地元民に愛され、儲かりはしなくとも楽しく充実した日々を送っていた母娘に、悲劇は突然訪れた。
 胃の不調で検査を受けた女将が受けた診断結果、それは「すい臓がんで余命2ヶ月」だった。
 本作は、四コマ漫画とエッセイで綴られた母と娘の闘病記である。

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 まず、立派な体裁に感心する。
 全頁オールカラーなのだ。漫画の一コマ一コマはもちろん、あとがきに載っている母娘や料理の写真も。
 紙質も厚くて、白けざやかで上等。
 ふと、昔サンリオが出していたオールカラーの月刊誌『リリカ』を思い出した。
 手塚治虫(『ユニコ』)、水野英子、山岸凉子、ちばてつや、石ノ森章太郎、樹村みのり、竹宮恵子、萩尾望都、永島慎二など、豪華絢爛たる顔触れの執筆陣だった。

 出版不況のいま、なぜこのような贅沢が可能なの?・・・と思ったら、奥付ページに答えがあった。
 ネットのクラウドファンディングCAMPFIREを通じて出版資金を募ったのだ。
 もともとは、のりぽきーとさん主宰の四コマ漫画ブログだったらしい。
 
 女将は、すい臓摘出の大手術とその後の抗がん剤による副作用を乗り越えて、毎日インスリン投与しつつ、無事お店に復帰する。
 そこに至るまでの母と娘の悲喜こもごもが、二人を支える様々な人々――中学生のハーフの孫娘、常連客、女将の仕事仲間や友人、ブログを通じて知り合ったがんの闘病者、娘がパリで作った異国人脈、病院のイケメン担当医など――との触れ合いとともに描かれる。
 女将を復帰させ、2か月と言われた余命を5年近く延ばしたのは、これら周囲の人々の支えと、料理屋の女将という仕事に対する熱い思いであったことが伝わってくる。
 むろん、しっかり者の娘の愛情と――。
 
 美味しい卵焼きが食べたくなった。

卵料理



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 大川小学校の悲劇 本:『津波の霊たち 3.11死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー著)

2017年原著 Ghosts of the Tsunami 刊行
2018年早川書房
2021年ハヤカワ・ノンフィクション文庫

 著者は1969年生まれの英国人ジャーナリスト。
 『ザ・タイムズ』東京支局長として1995年より日本に住む。
 2000年に神奈川県逗子で起きた英国女性ルーシ・ブラックマンさん殺害事件の真相に迫ったノンフィクション『黒い迷宮』(早川書房)を著している。(この事件は映画化されるらしい)
 2011年3月11日の東日本大震災直後より被災地を回って取材に当たった。本書はそこから生まれたものである。

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 この震災で起きた数多の出来事はきわめて複層的で、その影響や意味が及ぶ範囲ははかり知れないものだった。そのため、私は物語の本質を確実にとらえたと感じたことは一度もなかった。それはまるで、角や取っ手のない不自然な形の巨大な荷物だった。どんな方法を試してみても、荷物を地面から持ち上げることはできなかった。震災から数週のあいだ、哀れみ、戸惑い、悲しみに私は苛まれていた。しかし、それ以外のほとんどのあいだに感じたのは、無感覚な冷静さだった。そして、焦点を見失っているというやっかいな感覚だった。(本書プロローグより)

 このように“厄介な”状態にいた著者リチャードは、震災から数ヵ月たった夏、宮城県石巻市の小さな集落で起きたある事件を知るところとなる。
 その地・釜谷に何度も足を運び、被災した人や家族を失った人に話を聞き、取材を続けているうちに、「やがて私は想像することができるようになった」、すなわち正常な感覚がよみがえり、焦点を取り戻したのである。
 その事件こそ、裁判となって日本中知られるところとなった大川小学校事件である。

 本書では、タイトルが示す通り、震災後にあちこちで生じた霊的現象とその意味に関する考察が語られる。別記事で取り上げた『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』同様、オカルチックな要素がふんだんにある。
 また、千年に一度という大津波の凄まじい破壊力と地獄の様相、その中で亡くなった人と生き延びた人の様子もリアリティもって描かれる。まさに九死に一生を得た石巻市職員の体験談などは、エドガ・アラン・ポーの小説『メールシュトロームに呑まれて (A Descent into the Maelstrom)』さながらで、津波の恐ろしさ、および生と死とが紙一重であることをまざまざと教えてくれる。
 被災地をめぐって死者の霊を慰め、生き残った人々に寄り添い、場合によっては除霊もする宮城県栗原市通大寺の住職・金田諦慶に関する記述は、読む者に畏敬の念を抱かせる。金田住職の例が示すように、宗教や信仰の価値、出家者の存在意義が改めて問われたのも震災の一つの側面であった。外国人リチャードの目を通して、深いところで息づいている日本人の神仏や祖先に対する信仰が描き出されているのもまた、読みどころである。

 しかしながら、本書のメインはあくまで大川小学校で起きたことだ。

東日本大震災に伴う津波が、本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある学校を襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。その他、学校に避難してきた地域住民や保護者、ほかスクールバスの運転手も死亡している。

2014年(平成26年)3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し、総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こした。
(ウィキペディア「石巻市立大川小学校」より抜粋)

大川小学校
震災前の大川小学校全景


 一番の問題は、本震発生後に児童を校庭に集合させてから津波が到達するまで50分もの猶予があったのに、なぜ教師は学校のすぐ裏手にある里山に児童を避難させなかったのか、あるいはなぜスクールバスに分乗させピストン輸送で高台に運ばなかったのか――という点である。それさえできていれば、当時校庭にいた児童や教員、地域住民の命は助かっていた。同じような条件下で、同じ石巻市内にある門脇小学校では在校児童全員をすぐ高台に避難させ、一人の死者も出さなかった。

 この運命の50分間にいったい何があったのか?
 責任者たる校長は、教頭は、そのとき何をしていたのか?
 「津波が来るぞ~!逃げろ!」という他の町民や市の広報車の警告があったのに、なぜそれが無視され続けたのか?

 リチャードは子供を失った親たち、高台に逃げて無事助かった地域の住民、学校からいち早く車で子供を連れ出して津波をからくも避けることができた親たちを取材しながら、事件の真相に迫っていく。
 さらに、子供を失った親たちの一部が、家や仕事や家族や友人を失い悲しみのどん底にいる他の町民の心をさらに惑わせ、平和だった町を分断するリスクがあると知りながら、あえて石巻市と宮城県を相手に訴え出なければならなかった背景を探り出していく。

 そこにリチャードが見たのは、「古き良き日本」――礼儀正しく“和”を尊ぶ忍耐強い人々がつくる固い絆と習わしとで結ばれた共同体――のもう一つの姿、すなわち、事に当たってだれも責任を取りたがらず、その場しのぎの泥縄式の対応を繰り返し、“世間の目”により個人が自律的に行動することを妨げ、真実や良心より組織を守ることに汲々とし、お上に対して楯突いたり逆らったりすることを恥と感じ、大乗仏教仕込みの“無常”観で闘う前にすべてをあきらめ受け入れてしまう、日本人の姿であった。
 日本人の宿痾、笠井潔言うところのニッポン・イデオロギーに直面したのである。
 リチャードは吠える。
 
 私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた。おそらく人間の域を超越したあるレベルでは、大川小学校の児童の死は、宇宙の本質に新たな洞察をもたらすものなのだろう。ところが、そのレベルよりもずっと前の地点――生物が呼吸し、生活する世界では――児童たちの死はほかの何かを象徴するものでもあった。人間や組織の失敗、臆病な心、油断、優柔不断を表すものだった。宇宙についての真理を認識し、そのなかに人間のための小さな場所を見いだすのは重要なことにちがいない。しかし問題は、この国を長いあいだ抑圧してきた“静寂主義の崇拝”に屈することなく、それをどう成し遂げるかということだった。

 ここに至って、リチャードが追究し問い糺しているのが、我々日本人のアイデンティティであり、日本と言う国のありようであることが明らかになる。
 本書は外国人ジャーナリストによる日本論、日本人論でもあるのだ。

銭壷山合宿 030

 地震は天災であり、防げない。
 津波も天災であり、防げない。
 地震の被害も津波の被害も、あるレベルを超えると人の力の及ばぬ域にあり、そこは粛然と受け入れるほかない。想像を絶する破壊と被害に対し、それを不承不承ながら自然の掟と受け入れ、天に向かって泣き喚き地を叩いて怒りながら、復興や治療や追悼や支え合いしながら前に進んでいくよりない。「仕方ない」と呟きながら・・・・。
 古来災害の多い風土に住む日本人ほど、天災に対する免疫と耐性を有し、逆境を乗り越える力と技と団結力を持っている国民は世界にいないかもしれない。

 しかし、大川小学校事件は人災であった。
 福島原発事故も人災であった。
 人災を、あたかも天災のようにみなして、「仕方ない」と許し受け入れ、責任の所在をはっきりさせないのは過ちである。
 なぜなら、問題が問題と指摘され、原因が科学的に究明され改善策がとられない限り、再びみたび、同じ過ちが繰り返されることになりかねないからだ。
 本事件に関してソルティが何より「むごい」と思ったのは、校庭に避難した児童たちの中に、「ここにいては危ないから裏山に逃げよう!」と訴え出て率先して走り出した子らがいたのに、それを教員が叱りつけ押しとどめ、大人たちが善後策を口論している待機の列に連れ戻したという一件である。
 こういうときは、世間に汚されていない子供の動物のような直観のほうが、えてして正しい。
 教員がいなければ、大人がいなければ、子らが助かっていた可能性は高い。

 リチャードが悲惨極まりない津波被害の取材を通してはからずも身に着けてしまった“無感覚な冷静さ”を脱し、「想像することができるようになった」のは、天災と人災とを分かつこの地点であり、それは十数年来日本に住み日本と日本人を取材してきた一外国人ジャーナリストが、まさに書くべき論点を発見した瞬間だったのである。

 大川小学校事件の裁判は、2019年10月10日付で最高裁が被告側の上告を棄却し、原告側(親たち)の勝利が確定した。
 震災10周年にあたり、亡くなられた方々の冥福を祈ります。


23番への道(南海地震の碑)
1946年発生南海地震の津浪記念塔
(徳島県美波町由岐港)


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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     読み損、観て損、聴き損



● 唐田えりかを推す 映画:『寝ても覚めても』(濱口竜介監督)

2018年日本、フランス
119分

 先日、第71回ベルリン国際映画祭の審査員グランプリを『偶然と想像』で受賞した濱口竜介監督の商業映画デビュー作であり、蓮實重彦が『見るレッスン 映画史特別講義』で称賛していた監督&映画であり、そして何と言っても、不倫で一躍時の人となった東出昌大と唐田えりかが恋人役で共演し、つき合うきっかけを作ってしまった罪深い(笑)映画である。

 不倫騒動についてはこれと言った関心も感想も持たないソルティであるが、本作を見て、東出が唐田に夢中になるのも無理ないなあと率直に思った。
 それくらい唐田は女優として素晴らしい素材である。
 撮影中に生まれた東出に対する恋心が、ここでの唐田のリアリティある演技と表情を引き出した可能性はあると思うが、このままフェイドアウトさせてしまうのは日本映画界の大損失――と言っても過言ではない魅力を感じた。声もすごくいい。
 この人の駒子@『雪国』は観たいかも・・・・。

 対する東出も難しい一人二役(麦と亮平)を無難にこなして、ただのイケメン俳優ではないところを証明している。こちらも頑張ってほしい。
 この役は若い時のオダギリジョーにやってほしかった。


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どことなく真子様に似ている唐田


 濱口監督の力量と才能は最初の数カットで分かった。
 まさに映画そのもの、蓮實が持ち上げるのも無理はない。
 画面を構成する生来の感覚が備わっている。後半、朝子が亮平を追っかけながら土手の上を走るところを上方からの超ロングショットで押さえたシーンなど、身の内を愉悦が沸き起こった。
 物語としての緩急のつけ方も巧みで、どうってことない日常シーンに波風立ててサスペンス仕立てにしてしまう。亮平と朝子が互いの友人合わせて4人で一緒に食事するシーンで、いきなり演劇論バトルが始まるところなど、思わず手に汗握ってしまった。濱口がジョン・カサベテスを好きだというのも頷ける。
 東日本大震災が出てくるので2000年以降の話と分かるが、画面の質感から80年代の映画を観ているような気になった。森崎東監督『夢見通りの人々』、相米慎二監督『台風クラブ』、周防正行監督の『ファンシーダンス』、あるいは一連の日活ロマンポルノ・・・・、そのあたりの匂いをふと思い出した。
  
 ちなみに本作の最優秀演技賞は、間違いなく猫である。 

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 汝、だまされるなかれ 本:『十日間の不思議』(エラリー・クイーン著)

1948年刊行
2021年早川書房(越前敏弥・訳)

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 新訳である。
 高校時代に旧訳版を読んだはずなのだが、どんな話で、どんなトリックで、誰が犯人か、すっかり忘れていた。
 途中、エラリーが、恐喝された友人を助けるために泥棒の片棒をかつぐという愚かしい真似をして、どんどん言い逃れできない苦境に自ら陥っていく。
「エラリーったら、なんて愚かなんだ!」
と心の中で叫んだ瞬間、同じ叫びを以前にも発したことを思い出した。 

 前回読んだ時も、国名シリーズで示されたように頭が良くてクールなエラリーの“らしくない”行動に、不自然さと苛立ちを感じたのだった。
 が、それもまた全体のトリックに欠かせない重要な要素であることに、前回同様、気がつかなかった。
 ゆえに、最後にはかなりの衝撃が待っていた。
 が、トリックそのものの衝撃でも、意外な真犯人の衝撃でもない。
 一連の主人公エラリーの探偵としてのアイデンティティを揺るがす真相ゆえの衝撃である。
 アガサ・クリスティの『カーテン』やバロネス・オルツィの『隅の老人』に匹敵するような探偵小説究極のどんでん返し。
「えっ、こんな結末だったっけ!?」
 『カーテン』や『隅の老人』の結末は覚えているのに、なぜこの『十日間の不思議』をすっかり忘れていられたのやら?

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 思うに、トリックそのものがかなり実現性の乏しい不自然なものという気がする。
 ネタばらしすれば、真犯人が複数の人(その中にエラリーも含まれる)の心理を巧みに操り、各人に狙いとする行動をとらせ、泥棒や殺人を生じせしめ、狙いとする推理をエラリーをして語らせしめ、最終的に復讐を成就するというもの。
 同じことを京極夏彦が『絡新婦の理』でチャレンジしているが、着想としては面白いが、偶然に任せる要素が多くて合理性に欠く。
 上記のエラリーの“らしくない”行動はまさにその一つで、トリックの実現のために登場人物の本来のキャラクターを変えるという、不自然な操作をしているのだ。
 ここがおそらく、最初読んだ時に「なんだかなあ~」と不満に思い、失望したところだろう。
 結果、記憶に残らなかったのだ。

 とはいえ、一度読み始めたら止められないストリーテリングの巧みさは、やっぱり本格ミステリー黄金期の巨頭の一人である。
 創元推理文庫に収録された初期の国名シリーズや『X・Y・Zの悲劇』も面白いが、後期のライツヴィルものをはじめとする早川書房の青い背表紙シリーズは人間ドラマの要素が多分にあり、大人の鑑賞に耐える。
 思春期のソルティは、1970年発表の『最後の女』に衝撃を受けた。(邦訳は76年)
 思えば、同性愛を扱った小説を読んだのはあれが初めてであった。(漫画はその限りにあらず) 
 同性愛=ホモ=おかま(女装)と思われていた時代の話である。
 こちらは忘れることはない。 




おすすめ度 :★★★

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